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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(Ⅱコリント12:9-10)

以上の御言葉は、現在の筆者にとってはまさに音楽のように響く。

私たちの弱さの中で、神の強さがどれほど大胆に働くか。私たちの取るに足りない力が、どのようにして、信仰によって強められ、百倍、千倍もの実を結ぶものとなるか。

筆者はこの不思議な現象を、日々、現実として体験している。この法則を学び、収穫を得ることは、我々キリスト者にとって死活的重要性を帯びた課題である。
 
ところで、一つ前の記事で、筆者はここ最近、連続して文書作成の仕事を行ったために、もはや誤字のチェックをするのも億劫なほどの状態になったと書いた。今もまだその疲労状態が残っているが、その文書は、暗闇の勢力に対する宣告文として筆者が作成したものであり、書いている筆者自身にとっても、容易ではない仕事であった。

だが、何よりも容易でなかったのは、時間が十分に確保できなかったことにある。文書を作成する作業は、決して他の仕事と両立するようなものではない。十分に考える時間の余裕がなければ、決して納得のいく内容を作り出すことはできない。

それにも関わらず、筆者はこのような文書を作り続ける仕事が、自らの天命のような仕事であって、決して途中で投げ出すわけにいかない重要な作業であると確信している。

そこで、改めて、主の御前に、自分の本分と思われる仕事のために、十分な時間を確保したい旨を申し上げたところ、主はただちに休息の時間を与えて下さった。もちろん、そのためには、大きな戦いと、勝利が必要であったが、主はこれを達成させて下さった。

ところで、筆者は先に書いた消化不良に終わった文書についても、持ち前の責任感から、訂正が必要ならば、そうするつもりだと申し出たが、その必要はないと皆に断られた。

おそらく、この文書を受け取ったすべての人々は、今後、この文書が一枚たりとも増えることを願っていなかったのであろう。そこで、筆者の作成した文書に、訂正が必要だと認める者は一人もなく、むしろ、内容は十分に理解できたので、訂正しようなどと決して考える必要はないと、かえって誰もが援護射撃に回り、説得された。敵対勢力でさえ、訂正してくれるなと言わんばかりの様子であった。

こうして、筆者自身が不満足と考える出来栄えの文書が、まるで非の打ち所のない完成された作品であるかのように、すべての人々に承認された一方で、筆者がメールだけで、暗闇の勢力と格闘して解決を目指した案件については、彼らが専門家の正式なチェックを経て送り届けたはずの文書に重大な誤りが見つかり、筆者はこれをフィードバックして、彼らにやり直しを求めた。

暗闇の勢力は、筆者の作った文書に訂正を要求しなかったのに、筆者は、暗闇の勢力が専門家に命じて作らせた文書に訂正を求めたのである。

こうした出来事を見るにつけても、筆者は、筆者の弱さを、神がどれほどご自分の強さによってしっかりと守り、覆って下さっているかがよく理解できる。

聖書を読む限り、神の目には、筆者はキリストご自身と同じように、完全な人間と映っている。それだけでなく、神は筆者のなすことすべてに「完全」という検査済みの証印をすでに押して下さっている。

それは、この世で人の目に映る、不器用かつ不完全な筆者の姿とは全く異なる霊的現実である。だが、この霊的現実が、地上で肉眼に映る現実を上回る圧倒的な事実であるがゆえに、筆者の仕事に異議を唱えられる人は、誰もいないのである。

このような現実がある限り、筆者の間違いは、常に神の完全さで覆われ、筆者の足りなさは、常に神の余りある命の豊かさで覆われ、筆者の弱さは、神の強さで覆われる。
 
何かミスを犯したと思う時であっても、キリスト者には、かえって自分の間違いによって助けられるという、逆説的な現象が起きる。前の記事に書いた通り、神を信じる者たちには、すべてのことが働いて益となるのである。

神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」(ローマ8:28-30)

ちなみに、筆者はこれまで、ごく些細な紛争から、大きな紛争に至るまで、自分の訴えを文書にして提起したことが幾度かあるが、筆者はどんなトラブルでも、訴訟にできるとは思っておらず、訴訟にする価値のあるものと、そうでないものが確かに存在すると考えている。

多くの人は、どれくらいの金額を請求できるかをまず念頭に置いて、訴訟を起こすかどうかを検討するのであろうし、弁護士は特に利益のない訴えに関わりたくないので、そのように考えることであろうが、筆者はそういう観点からは、訴訟というものを全くとらえていない。

筆者の目から見て、訴訟にする価値があるかどうかの分かれ目は、その訴訟が、それを提起することによって、世の中を少しでも変えるリーディングケースとなりうるだけの内容を備えているかどうかにある。

学術研究においても、研究成果が認められるためには、先行研究のカバーしていない未踏の領域に着手せねばならない。それと同じように、ありふれ過ぎた訴えは、請求金額がいかに大きかろうと、どれほど勝算があろうと、訴訟にするだけの価値がなく、むしろ、訴訟以外の方法で、いくらでも解決が可能であると筆者は確信している。
 
実際に、筆者が訴える価値がないとみなしたトラブルは、どれもこれも深刻化する前に無事に終結して終わって来た。
 
そこで、社会の前に自らの訴えを持ち出すからには、その訴えの内容は、単なる個人の利害を超えた、より大きな普遍的テーマと、先見性のある内容を含んでいなければならないと、(他人の考えはどうあれ)筆者は考えている。

これまで多くの人々が苦しんで来たにも関わらず、一度も、本来あるべき形で提起されたことのない問題に、未だかつて誰も取ったことのない新しい方法でアプローチし、光を当てるからこそ、その勝負は、非常にやりがいのある、面白いものとなるのである。

しかも、その過程で、隠されていた真実が明らかにされねばならない。

多くの人々は、訴訟における被害は、これを訴える側に立証責任があるため、証拠が全て揃っていないのに、訴訟を提起することは、無謀な行為でしかないと考えるだろう。しかし、筆者は必ずしも、そうは考えない。

なぜなら、以下の御言葉にある通り、我々キリスト者の場合は、世の光としての役目があり、光に照らされた存在は、闇の中を逃げ隠れすることができないためである。私たちの役割は、暗闇の中に隠されていた事実を明るみに出すことにあり、私たちの存在そのものに、そうした機能が託され、備わっているのだと言える。

従って、闇の中に隠れている事柄を明らかにするために、しなければならないことは、必ずしも、そう多くはない。私立探偵のような調査をせずとも、ただ光を上に掲げるだけで、下にあるものは照らされる。最初から全ての証拠が揃っている必要はなく、対話の中で、真実が明らかにされていくからこそ、面白いのである。

「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ5:13-16)

ちょうど、新約聖書に、イエスが道を通りかかられた際、悪霊がその姿を見ただけでひれ伏して命乞いをしたくだりがあるように、光の子らが、暗闇の勢力と対峙すると、闇の子らは、ついに最後には、彼らが占領していた領域を明け渡さざるを得なくなる。

闇の子らは、どんなに卑劣な嘘をついていても、結局のところ、光の子らの「職務質問」を無視するわけに行かないのである。問われれば、支離滅裂な返答であっても、答えないわけに行かず、立ち退きを要求されれば、最終的には、立ち退かないわけに行かない。

そこで、私たちキリスト者の発するすべての言葉は、彼らにとって、宣告であり、命令である。だから、私たちは飽くことなく、真の責任者に向かって罪を宣告し、償いを要求することをやめてはならない。むろん、悪事についての真の最終責任者は、悪魔なのであるが、私たちは、様々な訴えを通して、悪魔と暗闇の勢力に対して打撃をもたらす宣告を突きつけ続けることで、闇を後退させることができることを忘れてはならず、彼らは我々キリスト者が執拗に訴え続ければ、どこかの時点で、必ず我々から手を引き、領土を明け渡して引き上げざるを得なくなるのである。

こうして、暗闇の勢力が後退したことによって、真実が明らかにされること自体が、どんな金銭的補償にも匹敵しうるほどに大きな戦利品だと言えよう。

人々は、訴訟の勝敗を分けるのは、賠償金のような分捕りものの大きさだと思っているかも知れないが、実のところ、事実が認定されることにより、責任を負うべき者が誰であるかが明らかにされ、その者の信用が揺るがされる以上に、大きなインパクトはない、と筆者は考えている。社会は、金銭だけでは動いておらず、信用によって左右されているからである。

だからこそ、筆者は、訴訟においては、最新かつ真実な情報が争われるべきだと考えている。裁判官は、ただ職務として書面を読んでいるだけで、そこに記された情報がどれほど価値を持つかという点には着目しないかも知れないが、筆者は、新聞記者が新たなニュースを求め、学者が新しい発見を探し求めるように、訴訟の場においても、ただ当事者の利害が争われるだけでなく、これまで決して客観的に明らかにされることのなかった、闇の中に隠されていた事の真相が、社会の前に明らかに提示され、その是非が論じられることにこそ、訴訟が提起されることの価値があると考えている。

あらゆる文書には、記録としての価値があるが、裁判所に保管される記録にも、歴史文書や学術研究と同じほどの価値がある。それゆえ、記録されるに値する価値あるテーマだけを、訴訟にして残すべきだと考えずにいられない。

もちろん、裁判所に保管される文書は、学術論文でもなければ、芸術作品でもないので、そのような観点から、完成度を問われるものではないにせよ、それでも、訴訟として社会全体の前に提起する価値のない争いは、すべて他の方法で解決すべきだという考えを、筆者はこの先も捨てることはないだろうと思う(ただし、裁判を受ける権利は誰にでもあるため、これはあくまで筆者の個人的見解である)。
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時をよく用いなさい。折が良くても悪くても励みなさい。今は悪い時代なのです。

「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。」 (エフェソ5:15-17)

「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」(Ⅱテモテ4:2)

「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」(ローマ12:18)

我が国には「帯に短し襷に長し」などという言い回しがあるが、キリスト者の人生は、これとは正反対であって、すべてに「ちょうど良し」というものであるか、もっと言えば、「必要を満たして余りがある」というものである。

時間についても、同様のことが言える。キリスト者は、神の御心をとらえようと、目を覚まして歩んでさえいるならば、不注意でタイミングを逸したと思うような時でさえ、まるで時間軸を逆走するようにして、失った時間を追うことができる。

このようなことを言えば、「あなたは気でも違ったのですか、何をおっしゃられているのか全く分かりません」という答えが返って来そうだが、これは本当のことなのである。

これをたとえるならば、あなたが予め時刻表を調べて、ある電車に乗車するはずだったところ、駅に到着が遅れて電車に乗り遅れたとしよう。その電車を乗り過ごすと、時間通りに目的地に着けなくなり、あなたの予定は台無しになる。そう思ってあなたが悔やんでいると、どういうわけか、乗り過ごした電車よりも、もっと早く目的地に着く電車が、少しばかり予定時刻に遅れて駅に到着した。あなたは運よくそれに乗車でき、結果的に、遅れを完全に取り戻したどころか、予定時刻よりもはるか前に目的地に着いてしまった、といった具合である。

主にあって、贖われている者は、何事についても、足りないとか、間に合わないということがなく、決して手遅れだと悔やむ必要がない。むしろ、決して手遅れだと自分で認めてはいけないのであって、遅れているように見える時でも、御心を掴むために走り続けていると、多くの場合、遅れたと思ったその時間さえ、取り返すことができる。

そもそもアダムとエバがエデンの園で神に従うことに失敗してから、人類史においては、気の遠くなるような途方もない回り道と遅れだけが続いている。初代教会においては目覚ましい信仰が見られたかも知れないが、今はどうだろう。現代教会史もまた遅れそのものに見える。

この無意味な回り道、終わりのない堂々巡り、延々と続く遅刻状態から、どうやって輝かしい目的の達成などが生まれて来ようか、と人は思うだろう。ところが、神は人類の堕落や、信仰の先人たちや、教会史に溢れるおびただしい失敗といった回り道のことなど、全く意に介しておられない。

今日という極めて悪い時代にも、堂々巡りと回り道と失敗の連続にしか見えない歴史の只中から、神はいつでも熱心に御心を求める者たちのために、完全な御業をなして下さることがおできになるのであって、それは今日の私たちにもまさに当てはまることを、私たちは心に留め、かつ信じる必要がある。

私たちは、どんなに機会を逸したと感じるような時でも、決して後悔することなく、御心を熱心に追い求めることをやめるべきではない。どんな時にも、何が正しいことであって、神が喜ばれることであり、何が機会を有効活用することに当たるのか、考え続け、実行し続ける必要がある。そうする時に、まるで時を遡るようにして、見失ったと思ったものにも、追いつくことができるのだ。

あるいは、これは自分の力量が、果たさねばならない仕事に追いつかないと思われるときにも、同じように当てはまる。

たとえば、比較的最近、筆者は何週間にも渡り、山のような文書作成という仕事と取っ組み合った挙句、あまりにも疲れ切って、ついに自分が何を書いているのかさえ分からないほどの状態になった。自分の書いた文書を読み返すことはおろか、文字さえも見たくないという状態に陥ったのである。

筆者にとって、文章を書くことは、呼吸をするのと同じほど自然な作業で、何ら苦痛ではない。ところが、そんな筆者も、さすがに連日連夜、ぶっ通しで大量の文書作成を行った後では、消化不良状態に陥ったのであった。

それが一つだけのテーマに関わる論文などであったなら、まだ興味も力も尽きなかったかも知れないが、いくつもの仕事を同時に抱え、次々と取り組んでいるうちに、ついに文章を見るのも考えるのも嫌になったのである。もはや自分が何を書いているのか、自信もないが、推敲など考えたくもない、どんなにひどい誤字脱字が発見されようとも、知ったことではない、意味内容に錯綜が見られ、議論が紛糾したとしても、どうでもいい、というほどの心境に至ったのである。
 
しかし、何とかして最低限度のハードルだけはクリアするよう仕上げて手離したと思った直後、またもや頭痛をきたらせるような複雑な案件を、メールだけで解決しなければならなくなった。

その案件もまた、意味が伝わりさえすれば良いと気楽に構えていられるような内容ではなく、交渉事を有利に進めなければならない真剣勝負であった。格闘技にたとえれば、にらみ合っている対戦相手に、最初のわざをしかける瞬間だろうか。威勢のいい啖呵を切って、率先してイニシアティブを取り、相手を威嚇し、後退させねばならないような場面なのに、にらみを利かせるどころか、意味さえ通じるかどうか不明な文章を書き送るのが精一杯だったのである。

筆者としてはそのメールの内容は無念の出来栄えであり、まるで千鳥足で歩くような隙だらけと言ってよい主張だったにも関わらず、その案件は、こじれることもなく、誤解を生むこともなく、まさに筆者が願った通りの効果を生んで、決着が着いたのであった。これはとても不思議なことであった。

おそらく、消化不良状態で作成した文書にも、これと同じことが当てはまるはずだと考えられる。売り物の文学作品でない以上、もともと完璧が要求されているわけではないのだが、そのことをさて置いても、文書の価値は、文字だけにあるのではなく、内面に込められた力にあり、その力のもたらす効果は、文字を超えるのだと言えよう。

だから、その文書には、内面的な力の裏づけがある以上、たとえ未完成であったとしても、この先、十分な効果をもたらすはずだと筆者は確信している。(むろん、ここで言う内面的な力とは、人間の生まれながらの文才や、文章が呼び起こす情感や、あるいは法的根拠のことではなく、地上のすべての法体系を超えた、信仰による御言葉の正しい霊的秩序の裏づけのことである。)
  
私たちが、聖書の御言葉をすべての物事に対して徹底して貫き通す時、対立や紛争が広がる前に打ち砕かれて、早期に平和が到来するということもしばしば起きる。なぜなら、私たちは、信仰によって、暗闇の勢力がしかける罠を、彼らが実際に行動に移すよりも前に見抜くことができ、事前にこれを無効化できるからである。この問題についてはいつか別に書き記すことにしたい。
    
さらに、別な事例もある。以前の記事にも書いた通り、本年が始まってすぐ、筆者は危うく寝たきりになるかという危険にも遭遇したが、筆者が寝込みそうになっていた時、かねてより取引のあった人から、ある買い物をした。すると、今までにはなかなか望んでも手に入らなかった商品が、破格の値段で、山積みとなって提案されただけでなく、通常であれば、東京方面まで出向いて受け渡しをせねばならないところ、売主がとても熱心に購買を勧め、筆者の住んでいる近くまで受け渡しに来てくれたのである。時間も体力もない時であったから筆者は大助かりであったが、そんなことはこれまで一度も起きたことがなかった。

これらはみなすべて、キリスト者には「万策尽きた」という状態が来ない、ということを証明する事例である。キリスト者には、常に必要のすべてが信仰によって、恵みによって与えられ、「足りない」とか「及ばない」ということが決してない。だから、自分の今持っているものを見て、それがとても少ないからと言って、願いをあきらめてはならない。もしその願いが、御心に反しない、正しいものであるならば、それを達成する手段を、神は必ず与えて下さる。筆者の力が尽きても、それで事が終わりとならず、筆者が身動きの取れない時には、筆者の代わりに、他の人が動いてまで事が達成されるのである。

だが、このことは、決して、私たちが他人の目から見て、偉大な人間になることを意味しない。私たちの持っている「かめの粉」も「びんの油」も、決して溢れるほどにはならず、人の目から見て、我々の持っている知性や富や力は、ごくごく限られた貧弱なものに過ぎないかも知れない。

それにも関わらず、この貧弱な土の器を元手として、それを信仰によって何倍にも増強して、勝利をおさめることが実際に可能なのであり、私たちはそのように収穫を来たらせるような達成を続けて歩むべきなのである。

冒頭に挙げた、時をよく用いなさい、という御言葉は、以上に説明した通り、私たちが自分たちの生まれながらの微小な力を、御心を実現するために、信仰によって行使するとき、それが何倍にも増し加えられ、思いもかけない収穫を生むこと、そこで私たちは、たゆみなくそのような収穫を目指して進み続けなければいけないという意味を持つ。

多くの信者は、ただ何もしないで祈り、ぼんやりと空を見上げて待っていれば、千倍、百倍の祝福が空から降って来るなどと考えているようであるが、そのようなことは決して起きないと言えよう。

もしも心から祝福を得たいと願うならば、祝福を願うだけでなく、それを勝ち取らなければならない。それは目的地にたどり着きたいなら、たどり着きたいと願うだけでなく、実際に目的地に向かわなければならないのと同じである。

私たちは、永遠に至る収穫を得たいと願うならば、まず自分が持っているなけなしのものを、神のために捧げ、次に、御心を実現するために、具体的な行動に出なければならない。収穫はそれに続いてやって来る。肝心なことは、主にあって、真に正しい目的のために、御心を満足させると確信する目的のために、自分のなけなしのものを捧げることである。

そうすれば、自分の力がいかに限られたものであろうと、その限界に制約されることなく、いかなる行き詰まりにも達することなく、「勝ち得て余りがある」と言える人生を送ることができる。

だから、人の目に「足りない」とか「及ばない」ように見える有様に、決して心を留めてはいけない。決して、自分自身の限界に目を留めて、正しい願いを実行に移す前に諦めるべきではない。私たちが自分から諦めて退却することさえなければ、神は私たちが持っている取るに足りない力を使って、十分にご自分の栄光を表す大胆な御業をなして下さる。その結果、私たちは神を信じることが、決して失望に終わらないという御言葉の正しさを知り、主と共に喜びに溢れるだろう。そうして、この地上においても、永遠の領域においても、巨大な収穫を得るチャンスを逸さないで生きることは実際に可能なのである。


わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるからである。

「しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。」

「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(Ⅱコリント12:5,9)

新年から取り組んでいた課題は無事に果たされ、提出が終わった。今また新たな書面作りの作業に取り組んでいる。ブログを書いている時間がないのはそのせいであるが、この上なく充実した時間である。この書面作りこそ、筆者の真の仕事だという気がしてならない。

しかし、これまでを振り返ってみると、毎年2月は筆者にとって一年の中でも最も困難で憂鬱な時期であった。越冬のための力が、1月後半頃からじわじわと尽きて来て、2月に入る頃には、もうすすっかり活動エネルギーがなくなってしまっている。

そこで、2月から3月の頭に差しかかる頃が、一年の中で最も困難な時期となる。この頃になると、身も心も冬眠状態に入り、毎年、3月にたどり着く頃には、まるで発芽を待っている種のごとく、春を待つのがやっとという状態になる。

だが、今年は冬に重要な仕事が山積しており、ここからが正念場である。寒さになどやられているわけには行かない。

そういうわけで、今年は2月を元気に無事に乗り越えることを、昨年末からの課題にしていた。が、あいにく、精神論だけでは乗り越えられない。1月末になる頃には、早くも大きな壁にぶつかった。寒さの中で、分厚い書類を作り続けていたために、体にしわよせが来て、ここ何年間も発症してなかった持病が現れて来たのである。

とはいえ、持病と言っても、筆者には特に病気があるわけでもなく、ただ寒さが身に堪えると、体に負担がかかるだけだ。だが、これが本格的に発症すると、二週間ほどは寝たきりになりかねず、そんなわけには絶対に行かない。

ここはもう物理法則を打ち破る復活の命の力による上からのエネルギーによって強められるしかないと、筆者は祈った。筆者自身の人間的な限界では、とてもではないが、これほど大きな課題を、このような困難な時期に果たすことはできない。

そこで筆者は、もう何年間も、経験していないような上からの力を、主に乞うたのである。はっきりと声に出して主に助けを求めた。

キリストの復活の命の中を生きるとき、人は自分の生来の命の力ではとても成し遂げられないような大作業を軽々とこなすことが出来るようになる。山のように恐ろしい課題が目の前に山積しているときでも、未だかつて取り組んだことのない困難な事業に取りかかろうとしているときにも、しかも、誰一人その負担を理解する者もなく、共に負う者もないような時でも、圧倒的な平安が心を包み、勝利の歌が心の中で聞こえるのである。

それはまるで恵みの御座のそば近くで、命の川からじかに水を汲んで飲んでいるような具合である。

親猫が子猫の背中をくわえ、ひょいと上に持ち上げるように、あるいは、大きな鷲が、自分のヒナを足でがっしりと掴んで、高く天まで舞い上がるように、まるで自分のものではない大きな力で、何もかもを下へ下へと引き下げようとするこの世の重力に逆らって、上へ上へと高く持ち上げられるような具合なのだ。

この世の全ての重荷、自分自身の重さが、感じられなくなり、自力ですべてを成し遂げようとしていた時の苦しみに比べ、すべてのことが、軽やかに、鮮やかに、そして、喜びと平安の中で成し遂げられるようになる。

とはいえ、それは人の霊の内、心の内で起きることがらであって、外見的には何の変化も見られない。気温が変わるわけでもなければ、自分の周囲の環境が見違えるように変化するわけでもない。目の前に広がっている光景は相も変わらず、凡庸に見え、そして自分自身の生来の弱さも変わらず、物理的な世界は何も変わらない。

変わっているのは、その人の内側だけなのである。ところが、その内側から、この世の目に見える世界を覆すような圧倒的な力が外にあふれ出して来る。凡庸で何一つ心を揺さぶることなく、むしろ、厳しい限界を突きつけるだけの現実の只中に、すべてが完全であり、美しく、調和の取れて、制限されることのない、もう一つの「現実」が、上からかぶせられるがごとくに、二重に重なるのである。

その結果、この滅びゆく世界を眺めていてさえ、そこにまぶしく、輝くような真新しい喜びに満ちた「現実」が、満ち溢れていることが見えて来るのである。

これは本当に不思議なことである。滅びゆくこの世の秩序体系の上に、永遠に滅びることのないもう一つの天的な法則性が「上から着せられる」のである。
 
たとえは悪いかも知れないが、それは事故を起こして放射能漏れを起こす原子力発電所に、これ以上、世界に害をまき散らさないようにと、石棺をかぶせる作業にも似ているかも知れない。石棺は必ず劣化して、いつしか修復が必要になるが、天的な秩序は、この世のすべてを覆い、劣化することなく、決してこの世の物理法則によって触れられることがない。

しかも、石棺は、何らその下に覆われているものを修復することができず、生かす力もなく、ただ滅びゆく物質の醜さ、恐ろしさ、有害性を束の間、覆い隠すだけであるが、キリストの復活の命に基づく天的秩序は、その中に覆われ、くるまれた滅びゆくものに、朽ちない新たなエネルギーを供給し、全く新たに完全に生かすことができる。滅びゆくものの醜さや害悪を覆い隠し、これを殺し、汚れのない新しい命により生かし、完成されて調和の取れた美へと変えて行くのである。

筆者は、キリストの復活の命を通して、そのような新たな力が、自分自身だけでなく、筆者を通して、周りの環境にまで及んでいることが分かった。二つの現実が筆者の前に見える。一つは、今まで通りの不完全な朽ちゆく世界の秩序であり、その上に、それと非常によく似ているが、贖われて完成された、喜びに満ちたもう一つの秩序が重なっている。まことに、被造物が贖われるときを待ち望んで呻いているというのは、こういうことかも知れない。
 
私たちは贖われた世界をまだ肉眼で見ていないにも関わらず、その秩序が「すでに到来している」ことを霊の内で知っている。

このように、キリストによって新たに生かされた人は、その内側に、はかりしれない神の永遠の命を持っており、そこから、この世のすべての物理法則の限界、人間自身の有限なる命の限界を打ち破って、この世の被造物の限界を軽やかに乗り越えながら、すべてを新たに生かし、生み出す力が、外へ流れ出て来る。

これは無から有を生み出すことのできるエネルギーである。だが、この新しい命のエネルギーは、決してその命を持っている人を超人にすることはないし、そのエネルギーによって周囲を圧倒することもない。

これはとても自然でさりげない隠された命で、主を喜ぶことと一つにつながっている。この命は、十字架上ですべてを成し遂げて下さったキリストへの賛美と一つにつながっている。パウロとシラスが投獄されていた時に、獄屋を震わせたあの力は、主がカルバリで取られた勝利の命に基づいている。

しかし、その力は、決して見る者を圧倒し、なぎ倒すような非人間的なエネルギーではない。その力は、私たちの弱く脆い天然の命や、限界ある自己存在を圧倒したり、脅かすことがなく、これと優しく同居し、これを包むことができる。

この新たな命は、御霊の油となって、私たちのひび割れて劣化して隙間だらけとなった自己存在の只中から、芳しい香油のように、外へ外へと溢れ流れ出て来るのである。

筆者はこの命のエネルギーを何にたとえるべきか分からないが、その力が行使されるには、私たちの心からの神への賛美が必要であることを知っている。この力が内側からあふれ出て来るためには、私たちの心が、神と争いがなく、透明で、真っすぐである必要がある。そのような心の状態をキープする時、まさに主は敵前で私たちのために宴をもうけ、私たちの頭に油を注いで下さるという、あの詩編の御言葉が成就するのである。

また、その油は、私たちの心からの神への愛と賛美に基づいている。それはすべての逆らうものを包み込んで行くような愛である。洪水のような愛と言っても良いだろうか。洪水は常に恐ろしいものであるが、愛が洪水のように流れるならば、それは人間にとって決して恐ろしいものとはならないはずである。

私たちがキリストの復活の命の中を生き生きと歩むとき、目に見えない洪水が起きる。世の中は相も変わらず、私たちの限界も相も変わらないが、その限界の只中から、新しい生き生きとした命のエネルギーが、目に見えない洪水のように外に流れ、溢れ出し、すべてのものを新たに生かし、私たちの魂は喜びに満ちる。

私たちの心は、まるで雲間が晴れて、遮るものがなくなった青空のように、神との間に妨げがなく、「すべては終わった」という勝利に立つことができる。

その時、すべてのこの世の喧騒は、はるか足の下にある。問題はなくなっていない。未だ目の前に山積している。それにも関わらず、すべては終わった、勝利は取られた、という確信が心の中に揺るぎなくあり、私たちは大胆に勝利の歌を歌うことができるようになる。

これまで筆者は、様々な個人的問題に直面した際に、一つ一つ、信仰によって勝利をおさめる術を学んだ。だんだんその戦いのスケールが大きくなっているのを感じる。現在、筆者が直面する課題は、もはや筆者個人の利益を回復するためだけにあるものではなくなり、個人を超えたもっと大きなスケールで、この世に対する衝撃力をもたらすための戦いへと変わりつつあるのだ。

これまでに筆者は、自分個人のために、たくさん戦って来た。だが、その戦いが一定量に達したとき、これまで積み上げて来た経験を、もはや自分個人のためにではなく、筆者の知らない大勢の人々のために、社会のために、あるいは教会のために、あるいは神を知らない人々のために、筆者とは縁もゆかりもないように見える人々のために、用いなければならないと考えるようになった。

とはいえ、このことは決して筆者が何かしらの社会事業に乗り出すことを意味しない。新たに慈善団体を立ち上げたり、社会改革の旗を掲げて、組織を作ったり、人を集めることも意味しない。そのようなことではなく、筆者の生き様そのもの、存在そのものが、もはや個人のレベルを離れて、筆者が見たこともなく、知ってもいない大勢の人たちに、そして筆者の知らない未来にまで影響を及ぼすために、捧げられたと分かるのである。

もちろん、筆者は神に仕えて生きることを第一としているため、社会のために身を捧げるなどと言うつもりはないが、それにしても、神への愛の中に、すべての被造物への愛が内包されている。神を第一として生きることは、神が造られた被造物を愛することと決して矛盾しない。そこで、この道を行くならば、どこかの時点で、人は必ず、自分自身のために生きることを離れ、自分の存在を、神に捧げるのみならず、人々のためにも喜んで捧げられるようになるだろう。
 
繰り返すが、そのことは、決してその信者が、この世に迎合し、人間の欲望の奴隷として生きることを意味しない。人々に仕えると言っても、それはあくまで十字架の死を通してである。あくまでこの世に対してはりつけにされて死んでいる者の立場からである。

だから、筆者は多分、自分のしていることが、この世の誰にどのように利益をもたらすのか、きっと最後までわからずじまいであろうと思う。筆者が成し遂げたことが、筆者が生きているうちに、筆者自身の栄光となって帰って来ることは、まずないであろうと思う。それで全く構わないし、それで良いのだ。
 
この世の評価などとは全く関係なく、筆者には、神との間で争いがなく、愛を持って、互いに頷き合うことのできる関係があることの方が、はるかに重要である。神に受け入れられているという喜びに満ちた確信、そして、筆者自身も、自分を贖って下さった神に従いたいという願いを持って、互いに承認し合う関係があることが、何より重要である。

神との間に何一つ隔てとなるものがなく、筆者のために必要なことをすべて神がキリストの十字架の上ですでに成し遂げて下さっという、この喜びに満ちた勝利の確信を、常に心に保ち続けることこそ、信仰生活を最後まで勇敢に力強く歩み通すための最たる秘訣である。

私たちは、この限界ある世に、信仰によって、神の完全を引き下ろすために生きている。神の国は、私たちの存在を通して、すでにこの世に来ている。神はご自分が完全であられるように、ご自分の子供たちにも、完全であって欲しいと願っておられる。そのことを、私たちは改めて思い出す必要がある。

そこで、私たちは大胆に御名によって権威を行使して、神が我々のために用意して下さった完全を地に引き下ろすべきである。その時、すべての痛んだ箇所、ひび割れた箇所、すべての隙間、弱さに、御霊の油が染み透り、ひび割れを覆い尽くして流れるであろう。

神の完全が地に現されるために必要なすべてを、主は予め天に備えて下さっている。主の御名は誉むべきかな。 
 
「信仰の薄い者たちよ。あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。

ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの者は加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。

自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」(ルカ12:28‐34)


わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、 わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。

わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、 わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」(Ⅱコリント12:9)

「体は一つでも、多くの部分から成り、 体のすべての部分は数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。

身体は一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。

そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。

それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも格好が悪いと思われる部分を覆って、もっと格好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。

神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

あなたがたはキリストの体であり、また一人一人はその部分です。」(Ⅰコリント12:1-26)

休暇中の時間は筆者にとって黄金の時だ。この時間をぜひとも活用して、忙しいときにはできない正しい仕事を果たさなければならない。

今年の新年は警察との連絡で幕を開けた。新年早々の仕事が、告訴状の文面の練り直しとは。しかし、思い起こせば、ここ何年間も、年末年始をゆっくり過ごした記憶がない。大勢で観光地を訪れたり、家でくつろいで料理を作ったり、TVでスポーツ観戦することもなく、常に何か波乱の出来事に見舞われて、日常生活が中断していたような気がする。

そんな年が続いた挙句、今年はもはや普通の正月を過ごすことに未練がなくなった。人生はそんなにも長くはない。大切な仕事を果たすには、時間が限られている。どうせ同じ時間を使うならば、束の間で消えて行く個人としての地上の幸福を享受することよりも、むしろ、御国に到達してから神に褒められ、永遠の収穫として残る仕事を果たしたい。

これは2017~2018年に激しい戦いを乗り越えた後で、筆者が心に確信することだ。とはいえ、年末年始をくつろいで過ごせない職業の人々は、筆者の他に多数、存在しており、警察官もその一人である。

年末年始に警察は当直体制となり、少ない人数で管轄の全域を担当する。筆者の事件を担当してくれている警察官も、奇跡的に当直していたが、呼び出しても、呼び出しても、全くつかまらない。ようやく連絡が入って来たのは、当直明けのこと。つまり、勤務中ではなく、勤務外で、要するに、筆者の順番は、区内で一番最後なのだ。
  
とはいえ、勤務が終わったから、ようやく電話できるのだと言われるのは、勤務中だから時間がないと言われることに比べてかなり嬉しい。一番最後の順番とはいえ、最もほっとできる瞬間に電話がつながったのだと思える黄金の時。まさにボアズがルツのためにわざわざ畑に残しておけと命じた落穂を拾うルツの心境である。

当ブログに対する様々な権利侵害を事件化することを決めてから、こういうコミュニケーションを関係者との間で取れるようになるまで、何カ月もの歳月を要した。警察官は、下手をすると、一日、二日どころか、一週間以上もつかまらない。黙って電話を待ち続けることには未だに慣れられず、当初はそのことでどれほど巨大な不安に陥れられたか分からない。

しかし、担当者は、ない時間をひねり出すようにして、時には休日出勤して対応してくれたり(つまり、通常の勤務時間にはこの事件に向き合う暇がない)、近くの交番まで書類を届けてくれたりし、それを見ているうちに、筆者は考えが変わり、長い時間、待たされても、それが怠慢や悪意によるものではないことを理解し、やがて彼らの誠意を尊重しないわけにいかなくなった。

それは裁判所の人々との関わりも同じであった。不愉快な事件をきっかけに人々と関わるのは、誰にとっても気が進むことではなく、それだけで関係者一同に大きなストレスとなりかねない。しかし、この事件に関わってくれるすべての人々も生きた感情を持つ人間であることを理解し、筆者はついに自分の感情を乗り越えて、事件の影響を乗り越えて、互いをよく知って、理解・尊重し、信頼関係を築くことが最後には可能となった。

そうなるまでには、多くの時間がかかった。何度、取っ組み合ったことであろう。その間に、彼らにも、筆者の心の弱点などは、きっとお見通しになったはずである。だが、筆者は、どんな時にも、心から正直であり、目指している高い目標から決して目を逸らさなかった。だから、人々は筆者の心の弱さや限界を見ても、それが悪意によるものでも、怠慢によるものでもないことを理解してくれ、筆者の弱さを彼らの強さで補い、覆い隠してくれるようになったのである。

こうして、最後には互いが互いの限界を理解した上で、相手を尊重する術を学んだ。筆者はこのような体験を通して、絶望的な状況下で、どれほど様々な波風が起きても、目的を見失いさえしなければ、最後にはその波乱をすべて乗り越えることができると言える。

たとえ一時的にものすごい痛み苦しみを味わうことになったとしても、その犠牲があって初めて、新しい関係が生まれて来る。何が生まれて来るのかは、苦しんでいる当初には分からない。だが、信仰のあるなしに関わらず、人が命をかけて訴えていることを、無碍に扱うことができる人はそう多くはない。あきらめないで前進していれば、少しずつかも知れないが、理解者は増えて行く。そして、それがついにはやがて固いチームワークのような結束になって行くのである。

かつてあるクリスチャンが、「ヴィオロンさんには、関節と関節をつなぐ能力がある」と言ったことを思い出す。ここで言う「関節」とは、私たち一人一人、エクレシアの構成員のことである。キリストのからだなる教会の成長は、節々がしっかりと組み合わされ、補い合うことによると聖書にある。

「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」(エフェソ4:16)

その信者は、筆者には必要な関節と関節を出合わせ、互いに結束させる働きがあると述べたのであった。今、筆者は、いわゆる教会と呼ばれる建物の外で、その頃と同じような働きをしているのかも知れないと思う。

なぜそうなったのか。それは教会と呼ばれる団体があまりにも神の働きから逸れてしまったことによるものと筆者は思う。そこで、初めはユダヤ人に福音を宣べ伝えたパウロが、異邦人に向かねばならなかったように、筆者はいわゆる教会と呼ばれる信仰を持った人々の外に、関節や節を見つけるはめになったのである。

そうして、筆者が一人で始めた信仰を守るための戦いという目に見えない事業に、今や数多くの人たちが関係するようになった。そして、その人々は、嫌々ながらではなく、自らの意志で、自発的に積極的に事態に関与しており、筆者は彼らに大いに助けられている。

信仰者と呼ばれていないこの人々から、どれほど多くのことを筆者は学んだであろうか。彼らとの関わりは、本当に切実なメッセージを筆者の心に伝えてくれる。

この事件を進めるうちに、筆者は、人々から助けられることを学んだ。これまでの筆者はほとんどの作業をただ自分一人だけで成し遂げ、他者の力を借りることがなく、他者の知恵によって自分の知恵の不足を補われることもなく、そのような可能性があるという期待すらも持っていなかった。あまりにもすべてを自力で背負い、自力で処理することに慣れており、人を信頼する必要性にさえ見舞われなかったのである(それは裏切りや離反が横行していたためでもある)。

だが、今、筆者は、そうした離反を克服する方法を学び始め、自分の弱さを他人の強さによって補われる術を学び始めた。しかも、筆者が途中まで書きかけた歌の、見事な続きを書く人々が現れた。筆者が一人だけで行って来た途方もない気の長い作業が、他の人々の手に委ねられ、他の人々がこの作業に参加し始めたのである。

筆者はこのことに非常に驚いている。筆者は自分の肩から重荷が取り去られるのを感じ、初めて自分の知恵を超える知恵が存在すること(これは神の知恵のことではなく、神が地上のもろもろの人々を通して筆者に表して下さる知恵のことである)、その知恵に信頼して自分を委ねることを知った。人々を信頼して自分の仕事を託すことの意味を知った。こうして自分の知恵が限られていることを思い知らされ、他者によってそれを補われるのは、非常に嬉しく楽しいことである。

こうして、新たな関係性が生まれ、筆者が一人で編んでいた歌に、多くの人が参加するようになり、共同作業が生まれた。やがてはそれが大きな流れになり、合唱のようにまで至るのではないかとさえ思う。

これは実に不思議な関係性である。この世のほとんどの人たちの人間関係は、どんなに広いように見えても、地上的な絆の中に束縛され、そこから出ることがない。その人間関係は、自分の家庭、自分の職場、勤務上で生じた関係、所属団体の枠組みなどにとらわれている。

しかし、筆者が他者に関わるのは、そういう地上的な枠組みによるものではなく、信念に基づくものであり、信仰に基づく関係性である。そして、その関係性が、今や信仰を持たない人々にまで波及しているのである。

これまでもそうであったが、信仰のために必要なことならば、筆者は地上的な絆の束縛を超えて、どこまででも出かけて行く。そして、これまで知らなかった新しい人たちを見つけ出し、これらの人々を、一つの信念によって結びつける。

そうして彼らを目に見えないチームのように結束させるまで、根気強く説得する。だが、筆者は目に見えるチームを作っているわけでなく、そのリーダーでもないし、筆者が計画的にそのようなことを行って人々を感化しているわけでもないので、以上のような現象が起きているとは、はた目には分からない。

だが、筆者が命がけで人々に関わり、命がけで信念を訴えているうちに、いつの間にか、それまで敵対していたような人々にさえ影響が及び、協力してくれる人々や、筆者が目指しているのと同じ目的に向かう人々が増えて行くのだ。

このように、筆者の場合、人間関係を築く土台となる要素が、通常の場合とは全く異なる。それは個人としての筆者の利害に立脚するものでなく、それにとらわれるものでもない。それよりももっと広く、もっと高く、もっと大きな目的のために、筆者は人々に関わっている。そして、そうであるがゆえに、人々はその中で筆者の限界を見ても、それを寛容に扱ってくれ、筆者が目指している目的は、互いに立場の全く異なる人々を、個人的な限界を超えて、一つに結びつける原動力となりうるのだ。

このような人間関係が生まれるためには、やはり筆者自身はどこまでも十字架の死に身を委ねるしかない。一粒の麦として絶えず死に続け、自己を放棄する以外に手立てがない。

このことを指して、以上の信者は、「ヴィオロンさんには、関節と関節をつなぐ能力がある」と言ったのである。

そういうわけで、またも書面の練り直しである。世の人々は告訴状と聞いて眉をしかめるかも知れないが、これも公益のためであって、筆者個人の利益のためだけではない。この他にも大量の書面作りの作業が残っている。そして、筆者に関する事件の後処理が終われば、次に筆者と同じような被害を受けた人々の権利の回復を手伝う作業が待っている。それに着手できるのは、今年の春以降であろうか。気の長い仕事である。

味気ない新年であるが、自己の信念に基づく作業であるから、これで良しとせねばならない。こうして、筆者の心は地上を離れ、御国へと階段を上って行く。

だが、最後に一つ述べておきたい。聖書は、神のためにどんなに巨大な犠牲を払っても、愛がなければ一切は無意味だと述べている。ただ関節と関節をつないで、建物を作るだけでは不十分であり、そこに最後の総仕上げとして、上から神の愛が注がれなければならない。それはちょうど美味しそうな焼きたてのパンケーキに特上の甘いメープルシロップを注ぎかけるような具合で、エクレシアには上から下まで滴り落ちるほどに神の愛が溢れていなければならないのだ。
 
その愛は、私たち人間から生じるものではなく、まさに上から、神が注いで下さる愛である。ちょうど預言者エリヤが、死んだ子供を生き返らせた時のように、全焼のいけにえとなっている筆者の上に、新たに上から御霊によって吹きかけられる復活の息による。

人々は、死んでいたも同然の筆者が、生き生きとよみ返らせられるさまを見て、初めて神が今日も生きておられること、信じる者をあらゆる窮地から大胆に助け起こす力を持つ方であることを知る。

その御業は神のものであって、筆者の力によるものではない。だが、地上では極めて弱く限界ある存在に過ぎない筆者の神への信仰による愛と従順、そして、筆者に注がれる神の愛の深さを見ることにより、筆者の周りにいる人々も、神が生きておられること、そして、筆者のみならず、神を呼び求めるすべての人々に力強く応えて下さること、神が愛であり、すべての人間に対して、どれほど深い配慮を持っておられるかを知らされるのである。

筆者が行っていることはすべてそのためである。

そういうわけで、もう一度、以下の御言葉を引用しておく。

「「わたしたちは、あなたのために
一日中死にさらされ、
屠られる羊のようにみなされている」
と書いてある通りです。

しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:36-39) 


神の国とその義を第一として生きるならば、地上の必要をはるかに超えて、願うものはすべて添えて与えられる。(2)

さて、今月の終わり頃までに、事件が一つの山場を迎えることになる。今また大量の書類に埋もれ、準備作業の最中であるが、この正念場を超えれば、事件はしかるべき経過を辿り、終結へ向かう。悪人はふさわしい裁きを待つことになる。

今年も約半分ほどが過ぎてから、様々な手続きが以前の何倍もスムーズに進むようになった。そのおかげで、今、筆者の中では、日本の男たちに対する信頼が、随分と回復している。

この事件を通して、筆者はこれまでの人生で関わったことのない様々な職業の人たちに関わり、その中で、信念を貫き通すことの価値を学んだ。かつ、信念を持って仕事をしている誠意ある人たちに出会い、大いに助けられた。

たとえば、昼食も取らずに、事件のために電話を受け続けてくれた検察官、休日出勤までして捜査している警察官、答えに窮する質問が向けられたときに、とっさに答えてくれた裁判官、何度も裁判所に足を運ぶ中で、配慮を示してくれた書記官、それから、融通をきかせてくれた民間企業の人々・・・。一つ一つは実に些細な事柄でしかないが、それらが絶妙に相合わさって、事件の進展を大いに助けている。
 
民主党政権が自壊して、安倍自民党政権に戻って以来、日本は理念においても、経済においても、落ちぶれるばかりで、世界の四流国へと沈没しつつあるように見受けられるが、それでも、その中にあって、弱い立場にある者をかばい、正義を曲げず、真実を曲げない人間が、確かに存在していることが分かった。

そのような人々の仕事ぶりは、男であれ、女であれ、すがすがしいものであると感じずにいられない。そして、彼らの仕事を見るにつけても、やはり、筆者は筆者として、自分の信念を貫かねばならないと思う。

筆者はこれまで、何事であれ、命の息吹の感じられる方向性をひたすら探し求めて進んで来た。砂漠の中で貴重なオアシスを探し出すように、真実と誠実さの感じられる、清い命の流れが見いだせる方向だけに向かって進み、人々と接する時にも、嘘や不正がなく、真実性の感じられる主張を行う人々を探し当てて来た。そして、そういう人々に、この世の重要な用事を託し、彼らと一緒に進んできた。そうして真実、公正、正義を探し求めて生きることこそ、無駄な害を受けずに平安に生きるために死活的重要性を持つものであることを今も疑わない。

だが、そうして行く中で、かつて筆者が交わりを持ちたいと望んでいたキリスト教の信仰を持つ人々は、徹底的に筆者の周りから退けられた。これは実に逆説的な現象である。

筆者は今でも、聖書に基づくキリスト教の信仰を何より第一として生きているが、その筆者を助け、支えてくれたほとんどすべての人々は、信仰とは関係のない、この世の人々だったのである。

しかし、彼らは良識ある人々で、筆者の信仰をとてもよく理解してくれた。あるいは、理解しようと努めてくれた。たとえば、筆者は、裁判が始まるまで、裁判所とは、庶民には縁遠い場所で、裁判官というものは、ただ原告と被告の主張を見比べて、どちらに分があるかを、冷徹な科学者のようにはかり、無味乾燥で機械的な判決文を書くものと思っていたが、事実は全くそうではなかった。

むろん、すべての裁判官が良心的な人間であるわけではない。しかし、裁判官の職務の基本は、法的概念に基づいて弱者を救済することにあり、人々の訴えに真摯に耳を傾け、訴えられた被害を、自分自身の内面を通過させてその重さを理解した上で、それに対してどのような補償が望ましいかを考えることにある。

従って、裁判官は、宗教や信仰を背景にした訴えであっても、その思想的背景を無視して進むわけにはいかないのだ。自分とは異なる信仰を持つ人々の世界観をも理解し、人としての理解力、洞察力、共感能力、バランスの取れたものの見方をフル活用して、事件の真相をとらえねばならない。

それは検察、警察であれ同じである。信仰がないからと言って、信仰者の訴えを無碍に扱うことはできない。むしろ、世人は、立場は違えど、信仰を持つ人々に対して、一種の尊敬のような気持ちを持っていると言えよう。そのことが、膨大な分量の書面をもって方々に働きかけているうちに、はっきりと分かって来たのである。
 
さて、この10月に筆者は170頁に上る準備書面を用意したが、これが事件の流れを大きく変える一つのきっかけであったとみなしている。そもそもこの反駁を書き上げること自体、まさに天の采配がなければできないことだったからである。

このことの大きさを理解してもらうために、ある質問を読者に向けてみよう。

仮にあなたのもとに、弁護士が大きな文字で書いた12頁の訴状や準備書面が届いたとしよう。あなたが被告として、これに応じるとすれば、この書面に反駁するのに、どのくらいの時間を要すると思うか? 本人訴訟で応じる場合を想定しての質問である。

筆者の答えは、12頁の文書に反駁するために、最低でも1週間以上の作業が必要になるというものだ。しかも、これはただ反駁の書面を準備するためだけにかかる時間を指すのであって、事実の確認や、調査の時間は含まれない。

1週間、毎日、朝から晩までパソコンに向かい、ぶっ通しで反論を書き、ようやく12頁の書面に対する相応の反駁ができ上がるのである。その分量は、軽く30頁を超え、場合によっては、50頁以上に及ぶ。なぜなら、その文書の約半分は、相手方が記した内容の単なる引用であって、あなた自身の反論ではないからである。

つまり、誰かの主張に反駁するためには、その主張の倍以上の分量の書面が必要になるということだ。しかも、送られて来るのは、紙媒体であって、電子データではない。引用部分はすべて手打ちでデータ化する必要がある。その中には、日本語の文章だけでなく、URLや、複雑な記号、図形、あるいは外国語でえさえ、含まれているかも知れない。興味のない、読みたくない文章も、飛ばすわけにいかない。どんなに下らない愚かしい主張にも、きめ細やかに目を通し、きちんと反駁せねばならない。

多くの場合、訴訟においては、次回期日までに与えられる時間は1ヶ月以内である。先送りできるとしても、せいぜい1回か2回程度だ。だが、一般市民であるあなたには、弁護士のように、朝から晩までパソコンに向かう余裕があるはずもない。従って、弁護士に依頼するだけの資金がなければ、仕事を終えて帰宅してから、眠い目をこすりつつ、自分でその作業をするしかない。

こうした環境において、仮にあなたのもとに170頁にのぼる訴状や準備書面が届いたら、それに反駁するためにかかる時間は、一体、どれほどであろうか?

筆者の答えは、何カ月かかっても、一人で反論するのは無理だというものである。これは勇気とか決意とか覚悟の問題ではない。

170頁の文書に反駁するためには、300頁以上の分量が必要となる。しかし、文系の学術論文を例に取るならば、300頁の学術論文を書き上げるためには、昼夜を問わず、半年以上、ぶっ通しで作業する必要がある。大抵は、調査のために1~2年以上の月日が投入される。博士論文の場合は、6年程度の月日をかけて完成することも稀でない。半年で書き上げられれば、天才の領域と言えるかも知れない。

訴訟は論文ではないが、命と生活がかかっており、そもそも心理的に向き合いたくない問題がテーマとなっている点で、論文とはまた違った困難さと切迫性がある。その上、公開されている裁判ならば、傍聴も許されるため、あなた自身が、被告として一般市民の前に見世物とされる可能性がある。その上、あなたの書いた書面も、いついつまでも記録として保存され、あなたの死後になっても、まだ市民に閲覧請求され、内容が知れ渡る可能性もある。

あなたがこの裁判に臨むに当たり、どんなに仕事に追われ、書面を書く暇がなく、心理的に追い詰められていたと弁明したくても、その時には、誰もそんな弁明は聞いてくれない。あなた自身の代わりに、ただ書面だけが残り、要するに、こんな愚かしい主張しか出せない人間だったのか、それなのになぜ身の程知らずな挑発行為に及んだのかと、死後になって指摘されることが、果たして望ましいことであろうか。

そのような危険をも考慮した上で、あなたは膨大な分量の資料をデータ化し、内容を把握しながら、信憑性のある反駁を練り上げて行かねばならない。さらに、自分の主張を肉付けするために、有利な証拠を新たに探して来るのも、あなたの仕事である。

多分、そういう作業には、大半の人々が耐えられないことと思う。つまり、170頁もの文書で訴えられたとき、これにきちんとした根拠を示して自分一人の力だけで反論できるような人は、一般市民の中には、ほとんどいないのだ。

それでは、大金を積んで弁護士に依頼すれば、作業が簡略化できるかと言えば、それもあまりない。そもそも弁護士は当事者でないので、事件の詳しい事情を知らず、弁護士の作る書面には、必ずどこかに穴があると言って良い。
 
弁護士は、体裁だけは反論するであろうが、事の真相を知らないため、ほとんどの場合、正義などどうでも良く、詭弁を弄してでも良いから、形式だけを整えることが主要な仕事である。そこで、弁護士が書いた内容は、格好だけはついているかも知れないが、それで本当に勝てるかどうかは全く分からない。

勝つためには、あなた自身が、相手の主張の弱点をよく理解し、それに対する有効な反論の仕方を弁護士に伝えなければならないが、それができるくらいなら、初めから弁護士になど依頼する必要がないであろう。

そういうわけで、知的・経済的に、さしたる力を持たない一般市民が、インターネットで、軽はずみな短いコメントで他者を誹謗中傷したりしていれば、膨大な証拠資料と共に訴訟で訴えられ、それだけで一貫の終わりとなる危険がある。余命ブログの事件が良い例であるが、他者のヘイトスピーチに煽られて、分不相応な思い上がりに陥り、何の落度もない知識人らに、いわれなき憎悪と攻撃を向ければ、厳しい報いが待ち受けているだけである。

世間は、スラップ訴訟とは高額訴訟のことだと思っているようだが、請求金額だけが訴訟のインパクトなのではない。文書の内容、量もまた、非常に大きな衝撃力となりうる武器なのである。

もちろん、スラップ訴訟に限らず、あらゆる訴訟において、限られた時間内に、相手方よりも圧倒的に優位に立つ力がなければ、勝ち目はない。だが、原告であれ、被告であれ、一体、どうして一般市民がそんな巨大な負担に耐えられようか?

しかし、神が味方して下さるならば、それが可能となるのである。あなたは圧倒的な優位に置かれ、ダイナマイトのような武器を手にすることになる。神は、ご自分の権益にとって真に重要な戦いが起きれば、必ず、戦いに耐えうるすべての条件を用意して下さる。

その時、あなたは自分一人ではとてもこなせないような、とてつもない作業量を遂行することができる。ただ勝利するだけでなく、「勝ち得て余りがある」と言えるだけの作業をこなせるのである。

このように、筆者の遭遇した事件では、信仰の戦いを、信念を持って戦い通していると、ある時点で、狭い通路を抜け出し、広い場所に立たされる時がやって来た。天高く引き上げられて、余計な重荷から解放されて、広々と物事全体を俯瞰できる場所に置かれたと言って良いかもしれない。

このように、激しい戦いの中をも、勇気と信念を持って進んで行くとき、追い詰められるどころか、逆に心に余裕が生まれる。そして、自分の心の決意にふさわしい協力者たちにも、巡り合うことができる。それは、自分が信じて歩んできた道にふさわしい同志たちを見つけたという満足感の伴う貴重な出会いである。

このように、良い人たちに巡り合うためには、自分自身が生長せねばならない。日々、必要な代価を払って、自分の十字架を負い、掲げている旗を降ろすことなく、勇気を持って進んで行かねばならない。

そのとき、初めて、その歩みを喜んでサポートしてくれる人たちが現れる。女性だから、自分の主張をしてはいけないとか、男性の面子を立てるために、男性だけを優位に置いて、その下で仕えねばならないなどのことは決してない。むしろ、女性であろうと、男性であろうと、信念のために自分の命のすべてをかけて勇敢に進むならば、その時、周りの人々は自然と、その主張を理解し、助けてくれるようになる。もしもあなたが女性ならば、屈強で頼もしい男性たちが周りを取り囲み、ちゃんと目的地に着けるようにガードしてくれるだろう。

このように、自分の信念にどれだけ忠実に生きるかが、人の人生の価値だけでなく、人間関係をも決めると筆者はみなしている。人が自分のしかるべき立ち位置に立つ時、初めて、価値ある協力者が得られ、人間関係がことごとく正常化されて行く。

そういうわけで、真に魅力的な人々に巡り合い、そういう人々に取り囲まれて生きたいならば、そのためにも、私たちは、高い望みを持たなければならない。何よりも、神の国とその義を第一として生きるべきである。そうすれば、物質的な必要にも、人間的な支援にも、仕事にも、人との出会いにも、物事の巡り合わせや、経済にも、何一つ欠けることなく、すべてが天から供給されて満たされるだろう。
 
その時、初めて、どんなに困難な戦いが起ころうとも、神が味方して下さることによって、勝利をおさめる秘訣が分かる。そうして多くの勝利を勝ち取った後で、世を去る時にも、胸を張って、これで良かったと言える悔いのない人生を歩めることだろう。,主の御名は誉むべきかな。

(ちなみに、フィナーレとして用意されている書面は、民事訴訟に関するものではない。もちろん、裁判資料も追加するが、それとは別に、新たに大きなお土産が用意されている。クリスマスに向けて、苺やホイップクリームをふんだんにちりばめた巨大なケーキを作り上げているところだと言って良いかも知れない。)