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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

御霊に導かれて生きる~悪魔のディスカウントの鏡を否み、神の新しい完全な人であるキリストを着る~

さて、いつの間にやら当ブログと筆者は「聖霊によって歩むクリスチャン」という極めて名誉ある称号を頂戴していたようである。
 
そのことは厳粛な喜びと感動のような感慨を筆者にもたらす。これは冗談や皮肉で言うのではない。なぜなら、この称号の意味は非常に重く、責任が伴い、それだけに、それが暗闇の軍勢から発せられたことは極めて予表的な出来事だと思うためである。

ちょうどイエスの十字架の上に「ユダヤ人の王」と書かれた札が掲げられていたことを彷彿とさせる。そういう意味で、この表現は筆者の予想を超えて、霊的に栄誉ある称号であり、改めて神に従うキリスト者が誰しも辿らねばならない十字架の道を思わせる。それを理解した上で、心を新たに、主の御前で、御霊に従って生きさせて下さい、あなたに従う道を教えて下さいと厳粛な決意を表明させられるのである。

筆者はかねてより、クリスチャンはみな殉教の覚悟を固めるべきと述べて来たが、「御霊によって歩む」ことには、大きな解放も伴うと同時に、十字架も伴う。それは決して人間にとって好ましい偉大な側面だけを意味しない。代償を払い続ける覚悟がなければ、神に従うことは誰にもできない相談であり、その告白をますます生きて実践的に問われる時代が来ていることを感じる。
 
折しも、ちょうどここしばらくの間、「善悪の路線ではなく、命の御霊の路線によって生きる」というテーマに戻らなければならないと考えていたところだ。

今は地上に「御霊によって歩むクリスチャン」がどのくらいいるのかさえも疑わしい危機的な時代だが、それでも、そのような状況には一切関係なく、もしも個人が心の中で主を見上げ、決して目に目るものによらずに神だけを頼りにして歩むなら、「御霊によって歩く」ことは十分に今日も可能であると確信する。

人には人生で時間をかけて取り組む価値のあることはたくさんあるように見えるかも知れないが、御霊によって、キリストと一つとされて彼の中を歩むことは、他のすべてにまさって価値あることである。そのようにして過ごす短い数日に知る事柄は、人が何十年間かかっても到達することができないほどの深い真理の知識を与える。

聖書の真理は聖霊によってのみ知ることができるものである。真理の啓示には客観的な証明手段が必要とならない。人間が正しい知識を得る際には、必ず、それが正しいものであることを論理的または物的証拠によって証明するための膨大な裏づけが必要となるが、真理に関しては、そのようにして客観的な証拠の積み上げによって、それが真理である(らしい)と証明されるのではなく、神ご自身がそれが正しいことを人の霊の内に直接、啓示して下さるのである。とはいえ、人は霊の内側で知ったことを、魂で再解釈する必要があるので、ただ啓示を受けたというだけでは、たとえそれが神から来たと疑いの余地なく分かっていたとしても、あえてそれを鵜呑みにするのではなく、受けた啓示が正しいものであることを、やはり魂によって吟味し、証明しなければならない。もしそれが真に神から来た啓示であれば、魂による検証作業の過程で、聖書の御言葉との齟齬が出て来ることはない。そうして霊的な事柄を御言葉に照らし合わせて再検証することはどんな場合にも有益である。

御霊の中を歩み続けるならば、絶えず真理を知らされることができるであろうが、残念ながら、クリスチャンは必ず様々な攻撃を受けてそこから逸らされたり、転落させられたりして、御霊によって歩むことの意味を、数々の失敗を通して学ばされるしかない。御霊によって歩むことの学びは一朝一夕では終わらず、まずは、何が自分のアダムの古き命に属するもので、何を十字架において否まなければならないのか、それを知るためだけにも、長い学びの年月がある。

否むべきものが何であるのかが分からなければ、御霊による歩みはほんの一瞬程度しか続かない。神の霊に属するものと、肉に属するものは決して両立しないからだ。人間が天然の魂に従って生きている間は、御霊による歩みは決して続かない。むろん、契約の箱に触れたウザが死んだように、御霊によって歩むことに失敗したからと言って、信者が罰を受けるようなことはないにせよ、信者の命が著しい損傷を受けることは確かである。そして、その損傷の度合いは、信者が御霊の導きを知らなかったときに犯した誤りとは比べものにもならないほどの深刻かつ広範な影響力を及ぼす。ひとたび、神の聖霊と悪魔と暗闇の軍勢との恐るべき戦いの世界に足を踏み入れたならば、霊の世界に生きることが、通常の天然の域をどれほど著しく超えているか、信者は理解しないわけにいかなくなる。それを学ぶためだけにでも、月日がかかるものと思う。
 
だが、今は、天的な領域における霊的戦いについて語るのではなく、一人の人間が自分の思いの中でどうやって天然の衝動を拒んで、御霊に従うことを選択して行くかという話に限りたい。御霊によって歩むとは、キリストの完全の中を歩むことであるが、信者は、キリストの霊によって新しく生まれることを理解して、御霊の導きを見極めようとした瞬間から、思いの中で、激しい戦いが始まる。自分自身の中にある旧創造の命と新創造の命との戦いである。

その戦いに打ち勝つためには、信者が「思いを新しくする」ことが不可欠となる。これは私たちが古いアイデンティティに立って生きるのか、それとも、新しいアイデンティティに立って生きるのか、心の中で起きる激しい戦いのことを示している。

悪魔は新生されたクリスチャンの「思い」に対して攻撃を仕かける。その攻撃の最たるものは「ディスカウント」である。悪魔は別名を「中傷する者(ディアボロス)」と呼ばれ、嘘や、ごまかしや、トリックや、あらゆる禁じ手を使って、何とかして人間の価値を貶めようとする。その方法は、人の思いの中で、その人のイメージを汚すことによる。
 
すでに書いたように、創世記において、悪魔は人類に、神の創造は間違っており、人類は神によって不当に貶められ、制限だらけの劣った存在として造られたかのように嘘を吹き込んだ。

ある意味では、悪魔はその時、自分の手鏡を持って人類の目の前に現れ、その鏡に人類の姿を映し出して見せたのだと言えよう。「ほら、これがあなたの姿ですよ」と、人類の前に、醜く、劣った、傷だらけの、不完全な人類の姿を映し出して見せた。そして、「神はあなたを信用していないから、あなたに対する優位を誇ろうと、わざとあなたを制限の下に置いて、あなたをこんなにも劣って、醜い、弱く、惨めな姿に創造されたのですよ。あなたは自分自身のこんな姿に本当に満足しているんですか。神の決定は不当だと思いませんか。」と問いかけたのである。

悪魔は、このようにして、人類の思いの中で、人類のイメージを汚し、人類が決して神の創造された自分自身の姿に満足できなくなって、その姿を自分で変えなければならいと思い込むように仕向けた。それによって、人類が神に不満を持ち、神を恨むようにそそのかしたのである。人類に神を憎ませ、自分自身を憎ませるためである。

だが、そうして悪魔が映し出して見せた人類のイメージは、悪魔の眼差しという歪んだ鏡に映った映像であったので、人類の真実な姿ではなかった。人間は、神の目に自分がどう映っているかを気にかけるべきであり、悪魔が思い描いた人類の虚偽のイメージに気を取られるべきではなかったのである。

悪魔はこうして人類が創造されたその瞬間から、すでに神と人類とをディスカウントしていたのであって、神を「信用ならない傲慢不遜な存在」とみなした上、人類をも「愚かな神による出来損ないの産物」と見ていた。そして、神と人類との間を引き裂いて、両者の間に不信のくさびを打ち込み、両者を戦わせて相撃ちにさせれば、自分が漁夫の利を得られると考えつつ、人類に近づいたのである。

人類はそのように不当にディスカウントされた像が虚偽であり、悪魔の語りかけは、自分を罠に陥れるための策略であることを理解し、悪魔が提示して来た人類の姿を、自分自身の本当の像として受け入れることを断固、拒否せねばならなかった。しかし、人類がそれを嘘と見抜けず、受け入れてしまった瞬間に、悪魔の嘘はリアリティとなって人類の上に結実し、実際に、アダムの命は限界と弱さの象徴、もっと言えば、死の象徴となってしまった。つまり、堕落が現実に起きる前に、人類は自分は神の御前で何者であるかという認識を、すでに悪魔に奪い取られてしまっていたのである。

ヨブ記では、悪魔はアダムとエバに対して使ったのと似た策略を用いて、義人ヨブをも堕落させようと試みた。悪魔はまずヨブから大事な子供たちを奪い去った上、ヨブにひどい腫れ物をもたらして、彼の外観を別人とみまごうほどに損い、不快な感覚で悩ました。ここでは、悪魔はヨブのイメージをただ彼の心の中だけで傷つけようとしたのではなく、実際に彼の外観を傷つけることで、ヨブが自分は不幸だと嘆いて自己憐憫に沈むよう仕向け、神に対する彼の「思い」を変えようとしたのである。
 
病は悪魔がヨブにもたらした災いのまだ最初の部分であったが、ヨブの妻は、ヨブがそれほど惨めな姿になっても、まだ神を恨んで死のうとしないのを見て、夫を侮蔑した。自分ならば、そんな試練をもたらされれば、とうに神を呪って死んでいただろう、その方が、これほどの屈辱を甘んじて耐え忍ぶよりも、よほど潔いと思ったのだ。

ここに天然の人間特有のものの考え方がある。ヨブの妻の目には、これほど苦しめられても、まだ神の誠実な御心を疑わずにすがっているヨブは、あまりにも愚直すぎ、侮蔑と嘲りの対象でしかなかった。信仰のない生まれながらの人類は、プライドを傷つけられることや、自分が脅かされることに耐えられない。神を信じることよりも、自分の美的イメージを保つことの方がはるかに重要であり、自分のイメージが傷つけ、人前に恥を晒すくらいならば、死を選ぶという人々も少なくない。災いが起これば、早速、「神の祟り」にかこつけ、神に対して自分を被害者とみなし、自らを哀れむばかりか、神を悪罵して死ぬのも当然の権利と考える。彼らの目には、どこまでも正しいのは、自分であって、神ではないのである。

だが、義人ヨブは、天然の人のものの考え方を拒否し、神に対して被害者意識を持つことを強く拒んだ。彼は自分の美的イメージが根こそぎ傷つけられても、神を恨むことはなく、信仰を捨てることもなかった。ある意味で、ヨブは、古き人の中にありながら、信仰によって、すでに「新しき人」であるキリストを見つめていたのである。本当の自分自身は、現実の目に見える古い自分にはなく、神がヨブのために新しい人を用意しておられ、それを上から着ることができると信じていたのである。
 
「 ある日、また神の子たちが来て、主の前に立った。サタンもまたその中に来て、主の前に立った。 主はサタンに言われた、「あなたはどこから来たか」。サタンは主に答えて言った、「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」。
主はサタンに言われた、「あなたは、わたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか。あなたは、わたしを勧めて、ゆえなく彼を滅ぼそうとしたが、彼はなお堅く保って、おのれを全うした」。

サタンは主に答えて言った、「皮には皮をもってします。人は自分の命のために、その持っているすべての物をも与えます。 しかしいま、あなたの手を伸べて、彼の骨と肉とを撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。

主はサタンに言われた、「見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」。 サタンは主の前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂まで、いやな腫物をもって彼を悩ました。
ヨブは陶器の破片を取り、それで自分の身をかき、灰の中にすわった。 時にその妻は彼に言った、「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」。

しかしヨブは彼女に言った、「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった
。」(ヨブ記2:1-10)


その後、今度は、友人たちがやって来た。彼らは最初はヨブに同情していたが、ヨブが一向に神を恨まないのを見て、今度はヨブ自身を責め始めた。彼が罪を犯したから当然の罰として災いが降りかかったのではないかというわけだ。その言葉で、友人たちの同情が本物でなかったことが判明した。

ここにも天然の人特有のものの考え方がある。普通の人間は、何かとてつもない災いが、自分以外の誰かに降りかかるのを見ると、必ず「原因探し」をしようとする。まずは神を悪者にした上、人間は弱い者同士として、被害者意識で連帯し、災いに見舞われた人に自分も同じような経験に見舞われる可能性のある人間として同情しようとする。

しかし、彼らは災いの当事者に自分を被害者と考えて神を恨ませることができないと分かれば、今度は災いに舞われた人自身を「タブー」とみなして、その者に原因をなすりつけようとする。彼には何か隠れた問題があって、神に見捨てられたせいでそうなったに違いないと考えて、今度は人間を悪者にして済まそうとする。

結局は、そのどちらの行為も、人間に被害者意識を持たせるために行われていることだ。災いを「神の祟り」とみなして神を恨ませようとすることも、「もし神が原因でないというなら、あなた自身が原因だと認めるんですか」と返答を迫ることも、根本的には同じなのである。どちらを選んでも、しょせん理不尽な答えしか導き出せない、間違った問いの立て方である。実のところ、そこには「サタンが悪い」という選択肢だけが巧妙に抜け落ちているのである。

ヨブは神と人とのどちらの側にも原因を認めなかった。その姿勢の中には神の御思いが反映している。ヨブが見ていたのは、責められるところのない、傷のない、完全な人のイメージである。ヨブは自分の義に固執していたわけではなく、そのずっと先に、キリストを見ていた。神は人間を弱く、劣った、罪深い存在として、理不尽に罰して滅ぼすために創造されたのではない。神はご自分の目にかなう、傷のない被造物として、人間を造られた、そして、人間が罪によって神に離反しても、なお罪から贖うことで、ご自分から離れて行った被造物を取り戻そうとしておられる…、その神の御思いをヨブは一心に見つめてそこから目をそらさなかったのである。

ヨブは自分の姿がどうあるかに関係なく、信仰によって神の御心の中心を掴んでいたのである。むろん、ヨブは最後には神に向かって自分は塵と灰の中で悔い改めますと叫ぶが、それは、ヨブの友人たちが彼を責めたように、自分に非があるために一連の災いがもたらされたと認めるという意味ではない。人間は罪深く、弱く、劣った存在であるがゆえに、神に罰せられても仕方がないと認めるという意味では決してないのだ。

ヨブは義人であったから、責められる理由がなかった。それでも、彼は被造物として創造主の前に頭を下げ、自分の処遇のすべてを神に委ねたのである。それは、彼がたとえどのような目に遭わされ、何が自分に降りかかっても、決して神を加害者とはみなさず、自分を被害者とも思わないという信仰告白の総仕上げであった。むろん、ヨブのこの行為は、罪なくして罰せられた十字架上のイエスの父なる神への従順を予表する。

神の御前で(注意:人の前ではない!)自分の義を捨てるという、神への最後の明け渡しの段階を超えた後で、ヨブには失ったもののすべてが新しくされて取り戻される。それは彼が十字架の死を経て、復活のステージに入ったことを意味する。

今はまだ旧創造が贖われつつある時代なので、聖書では、この復活の領域についてあまり多くのことは明らかになっていない。十字架で死に、よみがえられた後のイエスは、復活の体を持って人々の前に現れられた。その体は、それまでの体とは異なっていた。巨大な墓石をどけてしまったり、大勢の人々の前に一度に現れたりすることのできる、天然の世界を超えたよみがえりの体であった。何よりその体にはすべての古い体を縛っている罪と死の法則が全く働いていなかった。

イエス自身は復活の前も後も変わらない同じ人格を持っておられたが、弟子たちはイエスの姿を見ても、それがイエスであることがすぐに分からないこともあった。イエスは十字架で死なれる前にも、数多くの奇跡を行われたが、死を経てよみがえられた時には、以前とは異なる意味で、この世を完全に超越していた。霊・魂・体のすべてが以前とは異なり、全く新しくされていたのである。
 
私たちは神を信じる者がいずれイエスが復活された時と同じように、新しい贖われた体でよみがえることを知っている。だが、それがどのように栄光ある体であったとしても、おそらく、それが私たちの中心的な関心事にはなるまい。この恵みの時代が通り過ぎた後も、聖書が一貫して中心に据えているのは、依然として「弱さのゆえに十字架につけられた」キリストのままである。すなわち、人としての弱さ、限界、痛み苦しみのすべてを背負いながら、最後まで神に従順であったキリストの偉大な達成の御業のままであろう。「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられたましたが、神の力によって生きているのです。」(Ⅱコリント13:4)

さて、悪魔は、すべての物事を「加害者と被害者」というフィルターを通して見つめさせようとする。特に、人間に自分は神の被害者だという思いを吹き込むことが、サタンの主要な仕事である。サタンが人を傷つける方法はたくさんある。その中には、ヨブにもたらされたような災いもあれば、その他の試練や、誘惑や、中傷や、裏切りもある。

だが、サタンの人を傷つける方法がどんなものであれ、それらの目的はただ一つ――人間を思いの中でディスカウントすること――人の思いを攻撃して、自尊心を傷つけ、自分自身を恥じさせ、神を憎ませ、自分を憎ませ、人生を苦にして自ら死を選ぶよう仕向けることである。

私たちは、ペンテコステ・カリスマ運動の中から始まったカルト被害者救済活動の中に、この悪魔的な思考の罠を如実に見ることができよう。すなわち、被害者性と加害者性とはまさに一体であり、本質的に同質のものなのである。自分は被害者だと言っている人たちが、ひとたび状況が変われば、自分たちの心の傷やトラウマを、自分よりも弱そうな誰かをターゲットとして残酷に注ぎ込み、新たな被害者を延々と作り出していく。被害者が被害者で終わらず、その心の傷ある限り、彼らはいつでもどんなにでも恐ろしい加害者になりうることを、この運動ははっきりと物語っている。

つまり、自分を被害者だとみなすことは、悪魔のディスカウントを受け入れることと同じなのであり、さらに言えば、悪魔自身と一体化することをさえ意味する。その被害者意識を通して、神への不満と恨みが人間の思いの中に侵入し、それが傷つけられた自尊心を生み、自分を愛せない心を生み、他者を愛せない心を生んで行く。何よりも、自分と同じような境遇から脱して自由になろうとする人々に対する尽きせぬ妬みが生まれる。自分が被害者意識に縛られているのに、他人だけは自由になるなど許せないという妬みである。

だが、キリスト者は、そんな悪しき思いにとりつかれるよりも前に、まずは自分が見ている自分の像が本物なのかどうかを問わなければならない。自分を何者だとみなすかが、人の人生において決定的に重要な意味を帯びているのであって、何が理由であれ、ディスカウントされた像を自ら受け入れることは、その人の人生を決定的に損なう。

正義はれっきとして神にあり、悪人に対する神の裁きは確かに存在する。剣を取る者は剣で滅び、誰かに対する加害行為に及べば、その人は罰せられる。だが、罪人がふさわしい裁きを受けることと、誰かの不当な行為によって傷つけられた人が、値引きされた自分のイメージを自己の像として受け入れるかどうかは別問題である。ここに「思い」の中での戦いがある。

戦いは難しければ難しいほど面白いと当ブログでは以前に書いた。それは、人には立ち向かうことのできない弱さがあればあるほど、そこに信仰によって神の力が現れる余地が存在するからだ。

サタンは、常日頃から、病や、その他の弱さにひしがれて被害者意識に溺れ、ただ同情を乞うためだけに人々の間を巡り歩いているような信者たちは、とりたててターゲットにもしない。そういう人々は、サタンにとって何の脅威にもならないので、いつまでも弱さの中に閉じ込めておく以外にさしたる攻撃も行わない。

だが、真に束縛から抜け出て自由になって、完全な人間性を取り戻そうとする人々を、悪魔は本気で攻撃の対象とする。特に、人間の作った宗教組織の「和」によるディスカウントの束縛の中から抜け出て自由になることを、悪魔は何としても阻止しようとし、キリストの十字架の死と復活に同形化されて、復活の領域を歩むようになったクリスチャンを、死にもの狂いでターゲットとする。

しかし、その攻撃の際に悪魔が用いる方法は、古来から同じである。その人の価値をディスカウントし、中傷を真実であるかのように思わせることによって、神に対する人間の思いを汚そうとするのである。問題は、人々が悪魔の中傷にどの程度影響されるかや、世間が何を真実だと思うかではない。重要なのは、人が自分自身について何を真実だと信じるかである。

ところで、かつて世界的に高名なチェリストのロストロポーヴィチがソビエト体制崩壊後に我が国の記者のインタビューに答えてテレビで語っていた内容を思い出す。そこで記者は、ソビエト体制は芸術家の育成に類を見ないほどの力を入れていたことを指摘し、ロストロポーヴィチに向かって、彼がソビエト体制に生まれ、この体制の中で教育を受けたことは、彼の音楽家としての形成に不可欠な要素となっており、彼にはこの体制から受けた恩恵があるのではないか、ソビエトの教育をどう振り返り、どう評価するか、といった趣旨の質問を向けていた。

チェリストはそれに答えて言った、確かに、ソビエト体制は芸術家の育成に心血を注いでいた、だが、その教育には明らかな限界があった。その限界とは、ちょうど庭の芝刈りと同じで、ひとたび芸術家が体制の望む以上に成長を見せ始めると、その芝はたちまち刈られてしまうのだと。要するに、それは管理された教育であって、ある程度までの成長は許されるが、体制が許した限度を超えて成長することは決して許されないのである。

ロストロポーヴィチ夫妻がソビエト体制から迫害を受け、事実上、国外に追放された明らかな原因の一つは、国外で『収容所群島』を発表するなどしてソビエト体制の暗部を告発したために、体制から抑圧されていた作家ソルジェニーツィンを彼ら夫妻が助けていたことであった。1969年頃からロストロポーヴィチ夫妻はソルジェニーツィンをモスクワ近郊の自分たちの別荘に住まわせて経済的に支援し、作家のためにブレジネフに嘆願書を書いたりもしている。そうした振る舞いが原因となって、すでに音楽家として高い名声を獲得していたロストロポーヴィチはソビエト国内でコンサート活動や録音の機会を奪われて行く。

ロストロポーヴィチ一家は1974年にソビエト文化省から公式の許可を受けて長期の海外滞在に赴いたが、彼らが海外に滞在中の1978年、ソビエト国内では『イズベスチヤ』紙に3月16日付で大々的にロストロポーヴィチの反ソ的活動を非難し、彼らのソビエト市民権が剥奪されたと報道する記事が掲載される。(以下の記事断片は Wikipediaから抜粋)

 

M.L.ロストロポーヴィチとG.P.ヴィシネフスカヤ(*妻)は国外に出発した後、ソビエト連邦に帰国したいとの願いを表明せず、反愛国主義的活動を行い、ソビエト社会の秩序とソビエト市民としての名誉を傷つけた。彼らは反ソ的地下組織や、その他のソビエト連邦に敵対する外国の組織を組織的に支援した。1976-77年には、亡命した白系ロシア人(**ソビエト革命を避けて国外亡命したロシア人)の組織を支援するためにコンサートで募金を募るなどしていた。<略>
ロストロポーヴィチとヴィシネフスカヤが、ソヴィエト連邦の威信を損なう、ソビエト市民としてあるまじき活動を組織的に継続していることに鑑み、ソビエト連邦最高会議は1938年8月19日付のソビエト連邦市民権に関する連邦法第7条に基づき、M.L.ロストロポーヴィチとG.P.ヴィシネフスカヤの市民権を剥奪することを決定した。
1978年3月16日付の『イズベスチヤ』紙(NO.63(18823),p.4


 ソビエト体制も、「和の精神」に基づく「大日本帝国」と同じように、神と人類が同一であるというフィクションに基づくグノーシス主義国であった。グノーシス主義とは、聖書の霊なる見えない神を創造主とせず、物質世界の被造物を神とする教えであるから、本質的に唯物論である。ソビエト体制は、グノーシス主義的唯物論に基づき、人類の欲望をあらゆる制約から取り払って、無限に解放することを人類にとっての幸福社会と考え、欲望が無制限に解放される社会の実現を目的に、革命を起こして旧体制を追放し、グノーシス主義理論に基づく国家を建立したのである。ここでは、ちょうどマルクス主義的唯物論が「グノーシス」の役割を果たしている。グノーシス主義思想の中に見られる終わりなき秩序転覆は、マルクス主義を含めたあらゆる弁証法の起源なのである。

グノーシス主義理論に基づいて成立する国家や社会はいずれも、人類を抑圧から解放して自由と幸福を実現するという名目とは裏腹に、必ず恐るべき抑圧を人間にもたらすことになるのだが、むろん、ソビエト体制もその点で全く例外ではない。

これらのグノーシス主義国という抑圧的な体制は、それ自体が、人間をディスカウントする悪魔の「鏡」にたとえられる。

ロストロポーヴィチは国外滞在中に突然、ソビエト体制から事実上の「破門・追放宣言」を受けて、自分たちはもはや人間として生きるに値しない人々になったという宣告を、祖国の新聞雑誌という「鏡」を通して突きつけられた。彼らには母国に帰国する道はもはや絶たれた。だが、国外に旅立つ前から、国内には居場所がなくなっていたことから、やがてはそうなるであろうことを、夫妻は心の中でうすうす予期していたであろう。ソビエト政権は、彼らがあまりにも有名すぎて、ソルジェニーツィン同様、国内で処罰することができないために、このような形で厄介払いしたのである。

ソビエト政権は、ロストロポーヴィチがこの体制の限界と誤りに気づくまでの間は、彼を育成していたかも知れないが、いざ夫妻がこの国の体制が、根本的に人間性に反していることを悟り、政権の許容範囲を超えて活動し始めると、たちまち迫害に転じた。ロストロポーヴィチは、人間とは箱庭に植えられた芝ではないので、自分に備わった自然な命に従って、他の一般的な芝の高さを超えてでも、どんどん成長していくのが当然と考えたが、労働者と農民の国という形を取ったグノーシス主義国は、人間とは箱庭に植えられた芝であって、許された限度以上には決して成長してはならないとみなしていたのである。

一体、どちらの主張する人間の姿が本当なのだろうか? むろん、答えは明らかであろう。刈られた芝草は、ちょうどグノーシス主義のディスカウントの鏡に映し出された人間の姿を示す。ソビエト社会の秩序だとか、市民としての名誉だとかいったものは、みな「和の精神」というフィクションによって生み出される幻想であり、いわば芝草の背丈を示す、草刈機が作動する口実である。「和」を乱す活動は、すべて「罪」であって許されない活動として、草刈機によって排除される。この排除は、グノーシス主義理論に基づく国家や社会であれば、どこでも同じように起きる。

だが、現実の人間は、鏡に映った歪んだ映像とは異なり、未知数の可能性を秘めており、誰かが勝手に定めた芝草の背丈などにおさまりきらない成長を見せる。人間が箱庭の芝草なのではなく、そもそも人間のために庭があるのだ。その人間をどうして芝草同然に扱うことなどできようか。限界ある普通の人間でさえこうなのだから、まして信仰者はなおさらである。こうした国家は現実に逆らい、現実の人間自身を否定して、虚構の上に成り立っているのである。
 
人間は、神に比べれば確かに劣った存在であり、多くの限界と制約を受ける弱い存在である。創造主と被造物との関係は、人間がどんなに偉大に成長したとしても覆せないものであり、人間はどんな方法を使っても神と等しくなることは決してない。しかしながら、そのことは、神の側からの被造物への侮蔑や軽視を示す事実では全くなく、むしろ、事実は正反対である。
 
聖書に話を戻せば、神が人をどれほど重んじておられるかは至る所で分かる。神は人を滅ぼそうと思われる時にも、その計画を決して人に知らせず、突如として実行されることはなかった。ソドムとゴモラの悪を確かめ、これらの町々を滅ぼそうと決められた時にも、神はアブラハムにその旨を告げられた。

「時に主は言われた、「わたしのしようとする事をアブラハムに隠してよいであろうか。 アブラハムは必ず大きな強い国民となって、地のすべての民がみな、彼によって祝福を受けるのではないか。 わたしは彼が後の子らと家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公道とを行わせるために彼を知ったのである。これは主がかつてアブラハムについて言った事を彼の上に臨ませるためである」(創世記18:17-19)

神はイスラエルの民が偶像崇拝に陥り、神に背を向けた時にも、幾人もの預言者を遣わし、民に警告された。また、イエスは弟子たちに言われた、わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」(ヨハネ15:14-15)

これらの事実は、神がどれほど人類を重んじて、ご自分の御思いを打ち明け、その実現を人が手伝うことを望んでおられるかということをはっきりと物語っている。神はこの目に見える世界を正しく統治させるために人間を創造されたのである。創造主と被造物との関係は覆せないとはいえ、決して神はご自分の優位性を誇り、人間を自分よりもはるかに劣った存在として貶め、無知にとどめおくために、不当に人間を弱く創造されて、制限をもうけられたわけではない。

しかし、悪魔は、人間に自分の限界だけに目を向けさせ、これを恥じさせることによって、神の御心を見失わせようとした。悪魔は、神は人間を不当に弱く、醜く、劣った存在にとどめおいているのであり、神には人間を信頼するつもりがなく、人間を侮蔑しているからこそ、そうしだのだと人に思わせようとした。人間がそれを真に受ければ、人の内側で神への信頼が失われ、両者の絆が断ち切れることを悪魔は知っていたのである。

それを信じたことは、人間の側のたとえようのない愚かさであったが、それでも、神は人間の犯した罪を人間自身に負わせることを是としなかったがゆえに、キリストを地上に送って贖いの十字架を負わされた。それによって、人類にはキリストによって新しく生まれ、旧創造としての限界を打ち破る可能性が開かれた。悪魔の嘘によって汚されたり、ディスカウントされていない、全く新しい聖なる天と地へ至る道が開けたのである。神はこうして人類を新しい世界へ脱出させることにより、悪魔の嘘によって汚された世界から人類を守り、その本来的な使命を全うさせようと考えられたのである。

キリストの贖いの犠牲によって、悪魔の言い分がどれほど卑劣な嘘であったかが、完膚なきまでに証明された。

にも関わらず、悪魔は今日になってもまだ同じ嘘をつき続けている。悪魔はまずは人間をディスカウントして精神的に抹殺を試み、それでも効き目がない場合には、カインがアベルを殺したように、肉体的抹殺という手段に及ぶ。悪魔の願望が、ただ人間をディスカウントすることにはなく、最終的には殺人にあることは、ここで改めて説明する必要もなかろう。
 
ただし、ディスカウントはそれ自体が精神的殺人であると言える。もしも人が悪魔の吹き込む思いを心の中で受けれれば、必ず、その人は死ぬことになる。殺されずとも、死がその人間の思いの中で働き、その人自身を内側から壊し、いずれ死に赴かせるであろう。

それだからこそ、カルト被害者救済活動は、自殺を罪とみなしていないのである。このことは、彼らが初めから、最終的には、自分たちの陣営に閉じ込めたすべての「被害者」たちを、あからさまに死に至らしめようと積極的に望んでいることをはっきりと物語っている。被害者救済活動という羊頭狗肉の看板は、結局、彼らが被害者として名乗り出て来たすべての人間を永遠に被害者のままにとどめ、ディスカウントの中に隔離して閉じ込めた結果、功を奏することのないむなしい自己改良に延々と取り組ませた結果、絶望して死に至らしめることを目的としていることを物語っている。

神が人類を不当な制約の下に置いたのではなく、悪魔こそ、人類を不当な制約の中に隔離してディスカウントした挙句、死へ追い込むことを願っていた張本人なのである。

だが、大きく見れば、ペンテコステ・カリスマ運動であろうと、キリスト教界であろうと、もしくは以上に挙げた「和の精神」に基づくすべての組織や国家や企業であろうと、あるいはソビエト体制のようなグノーシス主義国であろうと、その悪魔的性質はほとんど変わらない。宗教組織は、人生で様々な悩みや、弱さや苦しみを抱え、人の同情を求めてやって来た人々を、組織の中に束縛し、いつかはその弱さから脱出できるというあらぬ望みと引き換えに、ひたすら献金や奉仕を吸い上げる道具として扱い、彼らが搾取から抜け出せないよう、永久に弱みがなくならないよう、弱さの中に閉じ込める。その構造は、いつかは共産主義ユートピアがやって来るという嘘と引き換えに、国民に赤貧の苦労を耐え忍ばせたソビエト体制と何ら変わらない。

人がその体制の虚偽性に気づいていないうちは、そのような組織の枠組みの中でも、人にはまだ平穏に生きられる道があるかも知れないが、ひとたび、人がその社会が、偽りの希望によって成り立っている死に至るまでの絶望的な隔離病棟も同然であって、その中にいる限り、決して自由は得られず、弱さの克服もなく、絶望と、死が待っているだけであることに気づくと、その瞬間から、「鏡」による残酷な迫害が始まる。激しいネガティブ・キャンペーンが繰り広げられ、中傷によっても抹殺できない人々については、肉体的な迫害も繰り広げられる。

カルト被害者救済活動についても同じである。一体、これまでどれだけの人々が、この活動によって精神的にまた肉体的に追い込まれて殺されて来たことであろう。その人数ははかり知れないことであろう。

現在は皇帝ネロが繰り広げたようなクリスチャンの大規模な抹殺がまかり通るような時代ではないが、戦いは巧妙化しており、今もこれからの時代も、一人一人のクリスチャンに、極めて個人的に厳しい戦いを強いることで、悪魔はクリスチャンへの迫害を強化するであろう。
 
そこで、私たちば常に選択を迫られている。ちょうど我が国で「和の精神」などというものが公に説かれていた時代に、多くの宗教家や思想家が、天皇の前に跪くのか、それとも自分の信仰を貫くのかを問われ、身に危険が及ぶことを恐れて転向するのか、それとも、「非国民」とみなされて迫害の上、獄死する覚悟を固めても信念を貫くのか選択を迫られたように、今日も様々な形でキリスト者は「踏み絵」を迫られているのである。

私たちは、一人一人、いずれ神の御前に出て申し開きをせねばならない。その時に、どれくらい悪魔の策略に対して勝利をおさめ、神の御心を実行して生きたか、成果を問われることであろう。悪魔の「鏡」が突きつける嘘を信じて、自分はディスカウントされていると思い込み、それゆえ、神を恨んで被害者意識の中を生きたのか、それとも、神が人間に与えようと思っておられる自由を固く信じてこれを手放さないで生きたのか――。必ずその信仰を御前で評価される時が来るゆえ、私たちは固く立って、二度と人の奴隷にされないように気をつけなければならない。

勝利を勝ち取るために有益な方法として提示できることの一つが、悪魔の嘘の理論としてのグノーシス主義の基本構造を明らかにすることである。悪魔はオレオレ詐欺のように、人類の不意を狙って、様々な方法で人間に語りかけては、ディスカウントされた像を突きつけて来るであろうが、そのすべての目的は、人間に神に対する被害者意識を持たせるという一点に集約される。

だから、その鏡が嘘であることを見抜いてこれを拒否せねばならないのである。そのために悪魔の嘘である偽りの理論の基本構造を明らかにすることは有益である。

それ同時に、心のすべてを傾けて、神を知ろうとすることであろう。本物を知らずして、偽物を暴くことは難しい。もし信者が一度でもキリストと霊的に一つとなって信仰の中を歩むことについて、生きて実際に知ることがなければ、人は御霊によって心が新しくされるとは何か、キリストの復活の命とは何か、その意味が全く分からず、悪魔によって心が汚されるとはどういう意味なのかも分からないままだろう。

旧創造の傷ついて病んだ状態、罪に縛られ、不完全な自分しか知らない人間が、それ以外のあり方が存在すると、想像することさえできないのは当然だ。だから、キリストの復活の命の中に、人としてのすべての完全さが備わっていることを、私たちは生きて実際に信仰によって知らなければならない。そのために、まずは神がキリストのうちにすべての備えをして下さっていることを信じなければならない。人としての完全さだけではない。物質的な完全さもそこには備わっている。

筆者ははっきりと言っておきたい。ノアが箱舟を建設していた時、ノアの家族以外の人々は、どういう態度を取ってこれを見ていたことであろか。エレミヤが神の宣告を受け、民に罪を告げて悔い改めるよう迫ったとき、民はどういう態度を取ったであろうか。

今日、御霊に従って生きるクリスチャンを、悪魔の手下どもがあらん限りの力を込めて中傷・迫害している風景など、今に始まったことではない。それは旧約聖書時代から果てしなく繰り返されて来た光景であり、我々の主であるイエス自身が、誰よりも経験されたことである。僕は主人にまさるものではなく、主人がこの世でどういう扱いを受けたかを考えれば、何もかも全く不思議ではない。

だが、神はそれらすべてに対して勝利して余りある備えを、私たち一人一人のために天に準備して下さっている。だから、この先起きることをよく見ておいてもらいたい。神はご自分を信じ、従う者を、決して失望で終わらせることのない方である。
 
そこで、筆者は悪魔がまき散らす嘘と、神がキリストにあって約束して下さっている事柄のどちらが真実であるかは、キリスト者自身が、公然と世に証明する責務を負っており、またその証明が可能であることを確信してやまない。そのために、あえて「鏡」をそのままにしておくことにも意味があるものと思う。(むろん、中傷する者は、罰を受けることになり、かつ、その中傷が述べた者自身に跳ね返ることは言うまでもないが。)

悪魔は有史以来、ずっと人類を中傷し続けている。だが、それにも関わらず、キリスト者は主の復活の証人であるから、すべての試練と苦難の中で、神がどんなにご自分の一人一人の子供たちを愛され、重んじ、はかりしれない栄光に満ちた約束を与えて下さっているか、どれほどご自分の子供たちを気にかけて、助けの手を差し伸べ、期待をかけて下さっているか、その愛と、御助けの大きさを証明し、主が十字架上ですでに世に打ち勝たれた勝利を、自分自身のものとして地に引き下ろし、主と共に栄光にあずかる権限と責務を与えられているのである。


T. オースチン・スパークス 「「御霊による生活」 第二章 内なるキリスト (1)

人の子の完成


 主イエスは数々の苦難により、人の子として完成されました。彼は完全であり、罪がありませんでしたが、それでも「彼は数々の苦難によって完成された」と私たちは告げられています。彼の場合、罪の問題はなく、この問題は人の子の完成とは無関係です。人の子の完成は次の事実と関係しています。すなわち、彼には罪がなく、彼は自発的に御自身をささげて、神に頼る生活を送られた、という事実です。彼は決して自分に頼らず、自分自身の人間的願望を行わず、自分自身の人間的判断にしたがって生きず、自分自身の人間的欲望や感覚に従いませんでした。生活・行動・言葉といったいかなる事柄においてもそうであり、彼は御父から離れようとはしませんでした。この基礎に基づいて彼は、あらゆる種類の試みや試練――それは誰もが受ける可能性のあるものです――を受ける束の間の時のあいだ、服従されました。

誘惑や試練に関して彼が何を耐え忍ばれたのか、どちらかというと私たちは何も知りません。彼の生涯の記録は幾つかの試練・誘惑・苦難を見せていますが、それでも、あなたも私も彼の苦しみの深さや厳しさは決して分かりません。レビ記の最初の六つの章の数々の供え物は真にキリストの型ですが、実際上、どの供え物も何らかの形で火にさらされます。こういうわけで、全焼の供え物である彼の十字架においてだけでなく、同じように穀物の供え物という意味においても、彼の純粋で、聖なる、罪のない人間生活は火によって試されたのです。これらの火によって、生きるときも死ぬときも、彼は試されました。御父への信頼、御父への従順、御父から離れて少しでも行動することを拒否すること、御父の時や御旨から出ているものは何でも受け入れること、という基礎について試されたのです。


 ゲッセマネの園と十字架における最後の恐るべき試練は、彼を打ちのめす――もし彼が打ちのめされえればの話ですが――のに十分なものでした。そしてこのような方法で彼は完成されました――完全だったのですが、完成されたのです。

 この人性、この命を彼は生きました。それは完全に神を満足させ、完全に地獄のすべての力と試みを打ち破りました。この人性とこの命は栄光へ、神の右手に上げられました。その神の右手で彼は完成された人として示されています。この人は罪がないだけでなく、試練を通して完全な度量・完全な能力にまで成長しました。これに関して、御霊は聖書を通して私たちに、「あなたたちは新生により、また信仰を通して御霊を持っていることにより、今やまさにこの命に与る者たちなのです」と告げておられます。

この人性は物質的なものにすぎない、と考えないようにしましょう。それは完全な人、完全な性質に属するものであり、完全に神を満足させました。そして聖霊によって私たちに与えられ、私たちの命の最も真実で、最も内奥にある現実となっています。それは私たちに与えられたキリストであり、私たちがそのパンを取る時、私たちは次の事実を証ししているのです。すなわち、今や私たちの天然的存在という基礎ではなく、栄光の中におられるイエス御自身という基礎に基づいて、私たちは自分の生活を営んでいるのであり、自分の生活を選択しているのである、という事実です。次に、今度は私たちが試みられ、試されます。それは、キリスト、神の完全な人という基礎に基づいて生きるのか、それとも、その立場を捨てて自分自身の立場に戻り、何らかの方法で自己の立場に基づいて生きるのか、ということに関してです。

これが、「私はキリストと共に十字架に付けられました……」というパウロの偉大な言葉の最も内奥にある真理です。これが意味するのは、「私」が象徴するものはみな取り除かれ、もはや私ではなくキリストである、ということです。

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十字架の死と復活の原則―聖なる都、新しいエルサレムとしての教会より、小羊の血潮と証の言葉により、悪魔の言いがかりを退ける―

「義人の道は、あけぼのの光のようだ。 いよいよ輝きを増して真昼となる。」(箴言4:18)

何年も前から、当ブログがカルト被害者救済活動の支持者たちから被害を受けて来たことは、すでに幾度も書いて来たことであるが、この件で、警察が具体的に動き出したので報告しておきたい。

以後、加害者らに対しては、彼らが再三、強調して来た「市民社会の掟」に基づき、責任追及がなされることになる。反省のための猶予も、和解のためのチャンスも、十分に与えたが、それを再三に渡り、拒否したのは向こう側であり、これから起きることは、彼らが自分自身で招いた結果である。約9年間もの間、深刻な被害をこうむって来た筆者に、憐れみを求めるのは無駄なことである。

こうして、キリスト者は一歩、一歩、地歩を固め、陣地を取り返して行く。これは霊的支配権の激しい争奪戦であり、退くことのできない戦いである。

悪魔の策略は、キリスト者に「この世のすべてが当てにならず、誰一人頼りにならず、神もなければ、正義も真実もなく、絶望するしかない」という錯覚を吹き込み、他者の犯した罪をいわれなく背負わせた上、望みを放棄させて死へ追い込むことにある。

だが、実際に行動してみれば分かるが、世の中には神も正義も真実も存在するのだ。特に、キリスト者にあっては、確実に存在するのだ。欺かれてはいけない。いかにこの世が堕落した悪魔の支配下にあるとはいえ、キリストの復活の命は、この世の秩序を超越してすべてを支配する。愛する御子の王国へ移し出された我々には、悪魔の支配下に置かれなければならない筋合いはない。なぜなら、キリストは十字架において、悪魔をすでに打ち破られたからだ。

そういう意味で、我々に関する取り扱いはこの世の一般人と同じではない。この世の一般人であれば、正義も真実もないと考えざるを得ないような状況でも、我々のためには、神ご自身が生きて働いて下さる。従って、孤立無援の状況に置かれているのは、キリスト者ではなく、暗闇の勢力なのである。

筆者はここで、教会から被害を受けたとする元信徒らを募っては、彼らの怨念を煽り立て、牧師でもなく教職者でもない一般の元信徒を矢面に立たせる形で、教会に対立させ、筆者のような、地上の教団教派とは一切無関係のクリスチャンに対してまで、いわれのない迫害に及ばせたアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密氏の責任は限りなく重いということを、改めて強調せざるを得ない。

村上密氏の思想と活動の影響がなければ、カルト被害者救済活動の支持者らがこのような行為にまで至ることは決してなかっただろうと言える。

津村昭二郎氏と言い、村上密氏と言い、(筆者は牧師制度そのものに反対だが、その誤った牧師制度の中でもことさらに)牧師の道に外れた人々ばかりが登場して来る異常なアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を、筆者が子供時代に去ったのは、今から考えても、まことに正しい決断であったと思わざるを得ない。

筆者は信仰こそ捨てず、むろん、これからも捨てるつもりは一切ないが、聖書の真理とは別に、地上の組織がどんなに誤りに満ちたものであるかは、この教団で初めて思い知ったと言えよう。

村上密氏の活動の本質は、幾度も述べて来たように、神の教会の破壊にこそある。別な言い方で言えば、キリストの花嫁たる神の教会を断罪し、冒涜し、蹂躙し、呪うことにある。同氏の思想に突き動かされた人々が、教会に対する怨念を募らせ、一線を超えて、筆者のように教会の不祥事とは何の関係もない無名のクリスチャンに対してまでいわれなき迫害に及び、結果として自ら人生を滅ぼしたのである。

筆者は彼らの活動の偽りに立ち向かいながら改めて思う、彼らが筆者に浴びせて来た言葉は、誹謗中傷というより、まさに「呪い」であると。彼らは筆者を呪い、死へ追いやることを願って、数々の汚し言を浴びせて来たのである。しかし、その圧迫は、御子の血潮によって断ち切られ、呪いはこれを口にした本人に跳ね返る。

彼らにはダビデの祈りである詩編109編をお返ししよう。1編まるごとお返ししておくので、きちんと聖書を開いて、何が書いてあるのか、全文目を通し、声に出して朗読されたい。忍耐強いダビデも、どんなに愛や憐れみを持って接しても、憎しみと偽りを持ってしか答えようとしない霊的な敵に対しては、ついに次のようにまで厳しい宣告を告げざるを得なかったのだ。

「わたしの賛美する神よ。
 どうか、黙していないでください。
 神に逆らう者の口が
 欺いて語る口が、わたしにむかって 開き
 偽りを言う舌がわたしに語りかけます。

 憎しみの言葉はわたしを取り囲み
 理由もなく戦いを挑んで来ます。
 愛しても敵意を返し
 わたしが祈りをささげても
 その善意に対して悪意を返します。
 愛しても、憎みます。

 彼に対して逆らう者を置き
 彼の右には敵対者を立たせてください。
 裁かれて、神に逆らう者とされますように。
 祈っても、罪に定められますように。

  彼の生涯は短くされ
  地位は他人に取り上げられ
  子らはみなしごとなり
  妻はやもめとなるがよい。
  子らは放浪して物乞いをするがよい。
  廃墟となったその家を離れ
  助けを求め歩くがよい。
  彼のものは一切、債権者に奪われ
  働きの実りは他国人に略奪されるように。
  慈しみを示し続ける者もいなくなり
  みなしごとなった彼の子らを
  憐れむ者もいなくなるように。
  子孫は絶たれ
  次の代には彼らの名も消されるように。
  主が彼の父祖の悪をお忘れにならぬように。
  母の罪も消されることのないように。
  その悪と罪は常に主の御前にとどめられ
  その名は地上から断たれるように。

 彼は慈しみの業を行うことに心を留めず、

 貧しく乏しい人々
 心の挫けた人々を死に追いやった。

 彼は呪うことを好んだのだから
 呪いは彼自身に返るように。
 祝福することを望まなかったのだから
 祝福は彼を遠ざかるように。
 呪いを衣として身にまとうがよい。

 呪いが水のように彼のはらわたに
 油のように彼の骨に染み通るように。
 呪いが彼のまとう衣となり
 常に締める帯となるように。

 わたしに敵意を抱く者に対して
 わたしの魂をさいなもうと迫る者に対して
 主はこのように報いられる。

 主よ、私の神よ
 御名のために、わたしに計らい
 恵み深く、慈しみによって
   わたしを助けてください。

 私は貧しく乏しいのです。
 胸の奥で心は貫かれています。
 移ろい行く影のようにわたしは去ります。
 いなごのように払い落されます。
 断食してひざは弱くなり
 からだは脂肪を失い、衰えて行きます。

 わたしは人間の恥。
 彼らはわたしを見て頭を振ります。
 わたしの神、主よ、わたしを助けてください。
 慈しみによってお救いください。
 それが御手によることを、御計らいであることを
 主よ、わたしを助けてください。
 慈しみによってお救いください。
 
 それが御手によることを、御計らいであることを
 主よ、人々は知るでしょう。
 彼らは呪いますが
 あなたは祝福してくださいます。

 彼らは反逆し、恥に落とされますが
 あなたの僕は喜び祝います。
 わたしに敵意を抱く者は辱めを衣とし
 恥を上着としてまとうでしょう。

 わたしはこの口をもって
  主に尽きぬ感謝をささげ
 多くの人の中で主を賛美します。
 主は乏しい人の右に立ち
 死に定める裁きから救って下さいます。
(詩編109)


カルト被害者救済活動の支持者らは、未だに心ない牧師や教会が、被害者の信徒を死に追いやったかのように主張して、牧師に謝罪や反省を求めている。しかし、筆者はここではっきりと言っておきたい、カルト被害者救済活動に携わる者こそ、その元信徒から信仰を根こそぎ奪い去り、死に追いやった最大原因であると。

カルト被害者救済活動の支持者らは、決して自称被害者の立ち直りに貢献しない。彼らの仕事は、被害者を永久に被害者のままにして置くことである。そして、あわよくば、その者が受けた被害を苦にして自ら死を選ぶよう仕向けることである。

彼らが決して自分のもとへやって来たどんな信徒の解放も願っていないことは、一度でも彼らのもとを訪れた筆者を逃がすまいとして、彼らが行って来た数々の行為を見れば明白であろう。

弁護士が、紛争が長引けば長引くほど儲けになるのと同じように、この人々は、カルト被害者の被害がいつまでも永遠に長引き、被害者の立ち直りが永遠に不可能となり、教会を断罪する材料がより一層増え、それが自らの手柄となることを願っているのであり、そのために、相談にやって来た人々の打ち明けた些細な被害を、針小棒大につつき回し、どんどん膨らませて、死に至るほどまでに苦しみを増し加え、負担を重くして行くのだ。

元信徒が自殺でもすれば、彼らにとってはまことに好都合で、また一つ、牧師や教会を責め立てる材料が増える。そんな状況で、どうして彼らが被害者の元信徒の心の回復になど真に注意を払おうか。

従って、筆者ははっきりと言っておく、被害者信徒を殺したのは牧師でも教会でもない。その者の死の責任は、カルト被害者救済活動の支持者にこそあり、また、そうした人々の言い分にまんまと欺かれて、聖書の神への信仰を捨てた者自身にあると。

村上氏は、自殺者を擁護して、自殺者は天国に行けないとか、自殺を罪とするキリスト教の考え方は誤っていると記事で語る。

「法律では自殺を罪としていない。聖書の中でも自殺を罪としていない。自殺を罪とするのは、習慣的な考え方である。この習慣が自殺をした人の遺族を苦しめる原因になっている。作られた罪意識が、人を苦しめるなら、私たちはそれを変えていかなければならない。鬱の回復期の自殺を罪と見做すのは酷である。自死を選択するほどに追い詰められた状況、原因にも目を向けるべきだ。よって、私は自殺を罪とするキリスト教的な教えを聖書の教えと違うものと見做している。」

要するに、村上氏が言いたいのは、追い詰められて死を選んだ自殺者を責めるのは酷であり、また、自殺者の遺族がいつまでも罪悪感に苦しめられるのも可哀想だから、キリスト教の伝統に従って、自殺を罪とする考えは、残酷で間違った考え方だと思うということなのである。どこからどう見ても聖書に基づかない全くとんでもない話である。

これは要するに、罪意識が人を苦しめるから、罪意識自体があるべきでないと言っているのと同じで、もっと言えば、罪という概念そのものが、人を残酷に苦しめるものだから、なくしましょうと言っているのと同じで、滅茶苦茶な理屈だ。

別なたとえで言えば、痛みの感覚が人を苦しめるから、人から神経そのものを取り去って、痛みを全く感じないようにしましょうと言っているのも同然で、痛みの感覚がなくなれば、人はますます鈍感になり、身の危険を察知することもできなくなり、重症の被害を受けても、全く分からず、死に至るだけだ。

罪意識は、痛みとよく似て、人が逸脱していることに気づくための重要なサインである。それがあればこそ、人は罪を犯さないように自制することができるし、過去を振り返って反省もできる。にも関わらず、罪意識が人を苦しめるからと言って、これを否定すれば、人はどんなに恐ろしい罪を犯しても、鈍感で、無感覚になり、ますます人間性を失って、獣のようになり果てて行くだけである。

もし自殺について、非難すべき対象があるとすれば、自殺を罪と見なすキリスト教を非難するのではなく、人を死においやる悪魔をこそ非難すべきであるのに、村上氏は転倒した理屈で、悪魔を非難せず、かえってクリスチャンを非難するのである。

村上氏がこのようにして、常にキリスト教を罪に定め、キリスト教が、この世の不信者に持たせる罪意識を、あるまじきことのように訴え、不信者を擁護しながら、かえって、信仰を持つキリスト者に、巧みに罪悪感を持たせようとしているトリックに注意する必要がある。

村上氏の理屈は、常にこのように、聖書とはさかさまである。要するに、その主張は、神がキリストの十字架を通して罪赦されたクリスチャンに再び罪悪感を持たせ、罪に定めようとする一方で、信仰を持たず、神の目に罪赦されているはずのない世人の罪悪感をやわらげ、世人の罪を免罪しようとするものだ。

こんな支離滅裂な主張に長い時間をかけて反駁する必要はない。聖書は言う、

肉の思いは死であり、霊の思いは命と平安であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。」(ローマ8:6-7)

「肉の思い」である「死」を擁護する村上氏が、「神に敵対しており、神の律法に従っていない」ことは明白である。村上氏は「私は自殺を罪とするキリスト教的な教えを聖書の教えと違うものと見做している。」と言いながら、聖書が自殺を奨励したり容認したりしているとする具体的な根拠を何一つ挙げない。それも当然だ。そんな聖句があるはずもないのだから。

従って、このような考えの人物のもとに身を寄せた被害者たちが、村上氏の考えに触発されて、次々と信仰を捨てて、自殺を選んで行くとしてもそれは当然である。

このような反聖書的な思想に触れれば、人は自殺を罪とも思わなくなって、死に抵抗感がなくなり、周りの人々をどんなに苦しめることになるのかにも思いが至らず、ただ自分が楽になりたいという思いだけで、率先して死を選ぶようになるだろう。あらゆる苦難に信仰を持って勇敢に立ち向かい、キリストの勝利を生きて味わおうとする望みを捨てて、すすんで死に至るのはまさに当然である。

だから、クリスチャンは、こうした信仰のかけらもない人々による断罪を決して真に受けて懺悔させられてはいけない。被害者の元信徒が自殺を選んだとしても、それは自己責任である。また、自殺を選ぶように唆した人々に罪がある。責められるべきは悪魔と暗闇の勢力とカルト被害者救済活動の支持者であって、クリスチャンではない。

カルト被害者救済活動の支持者らが、このように、元信徒に生きる力を失わせるような反聖書的思想を自ら吹き込んでおきながら、その罪をクリスチャンに転嫁して、「キリスト教が自殺者を罪として責めるのは残酷だし、遺族が可哀想」などと、同情を装いながらうそぶていること自体、笑止千万としか言いようがない。

神を知らない世人が自ら死を選ぶなら、まだ情状酌量の余地も残るかも知れないが、キリスト教徒となって信仰を持ち、聖書の御言葉を知って、神に従うことを選んだにも関わらず、自ら死を選んだとなれば、世人よりももっと重い責任に問われるのは避けられないだろう。

どんなに追い詰められた状況であっても、ごくわずかな信仰でも残っていれば、神はその信者を救うことがおできになる。多くの霊的先人は、信仰を守り通すためにも、究極的に追い詰められた状況を何度もくぐった。あらゆる状況で、神の助けを信じるか、信じないかは、あくまで本人の決断なのである。

にも関わらず、追い詰められた人々に、信仰によって立ち上がるよう促すどころか、最後のなけなしの信仰までも失わせるような偽りを吹き込み、容赦なく心傷つけ、「貧しく乏しい人々心の挫けた人々を死に追いやった」罪は、クリスチャンではなく、カルト被害者救済活動の支持者たちにこそある。 

そこで、筆者はあらゆるクリスチャンに、村上氏の主張のトリックを見抜き、罪悪感を持たされないように注意するよう呼びかけたいと同時に、村上氏のブログで深刻な人権侵害を受けた大勢のクリスチャンらに向かって言いたい。同氏と直接の話し合いで物事を解決しようとするのをやめて、第三者を介入させて、早期に具体的に手を打つようにと。わざわざ弁護士などつける必要はない。市民としてのアクションで十分である。

信徒には信徒のレベルで向き合えば十分だが、牧師には牧師のレベルで向き合う必要がある。おそらく、村上氏の牧師としての逸脱行為を主張するに最もふさわしいのは、同氏から最も深刻な被害を受けた同僚の牧師たちであり、また、鳴尾教会に他ならないのではないかと筆者は考えている。

さて、繰り返すが、村上密氏の活動は初めから反聖書的な特徴を持つものであった。もともと「教会のカルト化を防ぐ」とする村上氏の活動は、同僚の牧師や、信徒らの恥や欠点を容赦なく暴き出しては、世間の前で断罪することでしか評価を得られないという欠陥を持っていた。しかも、この活動は、最初から、クリスチャンではない、信仰を持たない世間に、クリスチャンの非を見せつけて、この世の観点から、クリスチャンの行動の是非を裁き、それによって、信仰を持たない世間から評価を得ようとするものであった。

そのようにして、兄弟姉妹の恥を容赦なく不信者の前で暴露し、不信者の観点に立って信者を罪に定めようとする活動が、どうして、聖書に合致するものとなり得よう。また、どうして聖書の説く信仰による兄弟姉妹への愛や憐れみに基づく活動となり、同僚や信徒のプライバシーを尊重せねばならない牧師の職業倫理と両立し得ようか。

だから、村上氏がライフワークとしている、カルト化問題をきっかけとした諸教会への介入は、初めから、牧師としての職務を逸脱しており、反聖書的で、悪魔的な活動に終わることが明白な活動であったと言える。牧師がなさなければならないのは、福音伝道であって、被害者を募っては、自分が所属もしていない教会を訴えることではない。

そんな活動は、牧師の職務の範疇には全く含まれていない。この世の人々でも、牧師が牧師を訴え、信者が信者を訴えるような活動には疑問を感じ、共感も理解も示さないだろう。そのような活動は、ただ同士討ちを奨励するものでしかない。

カルト被害者救済活動の支持者らは、もともとクリスチャンではなかったと筆者は考えている。周知の通り、筆者は何度も「兄弟」として彼らに和解を呼びかけたが、彼らは最後までその提案をことごとく踏みにじり、嘲るだけであった。そうした彼らの行動からも、彼らには信仰によって結ばれた(はずの)兄弟姉妹に対する、いかなる愛情も、思いやりもないことがよく分かる。従って、彼らは信仰を持っておらず、我々の同胞でもないのである。そうであれば、当然、我々も彼らを同胞として扱う必要がなく、教会の方法で向き合う必要もなく、この世の方法で向き合えば十分であり、同胞としての情けは無用である。

繰り返すが、牧師であるにも関わらず、諸教会に敵対し、同僚を訴え、信徒を訴え、信者のプライバシーを暴き、中傷するような活動は、牧師の活動とは呼べないだけでなく、神と教会に敵対する極めて恐ろしい行為であると筆者は思う。彼らが相手にしているのは、この世の罪人ではなく、神が贖われたクリスチャンなのだ。従って、その活動には、神ご自身を敵に回すも同然の言い知れない恐ろしさがあり、どんなに厳しい裁きが待ち受けているであろうか。
 
カトリックのような統一的なヒエラルキーのないプロテスタントの教会には、それぞれの教会の自治があり、規則がある。それは尊重されなければならない各教会の「聖域」である。牧師や信徒は、諸教会にそれぞれ定められた規則を尊重すべきであって、自分が所属してもいない教会に、各教会の規則を踏み越えてまで、介入することは許されない。そのことは、宗教法人が不当に優遇されているという話とはまるでわけが違う。巧妙に話をすり替えられてはならない。
 
自分がその教会で被害を受けたならばともかく、当事者でもない人間が、自分が所属していない教会の内情に干渉して行くことは、法的にいかなる根拠も持たない。

このことは、信者の内心にも当てはまる。憲法は信教の自由を保障しており、これを侵害する行為は悪であり、違法行為である。

従って、筆者と面識もないカルト被害者救済活動の支持者が、筆者の内心を取り締まろうとして言いがかりをつけて来ることにも何の根拠もなく、また、筆者のようにアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を去って久しい信者に、村上氏が何年間にも渡り、個人情報を暴くような形で中傷を言いふらしていることにも、何一つ正当な根拠がない。
 
自ら宗教トラブル相談センターを開設しておきながら、そこへ相談にやって来た信徒が、自分にとって目障りな存在になったからと言って、信徒のプライバシーに触れるような虚偽の情報を公然と流布し、信徒の信用を貶めるなどは、誰が聞いても呆れ返るような話でしかない。そういう事例がすでに生まれていると分かっているのに、誰がこの先、そんな恐ろしいセンターに、自分の個人情報を携えて相談に訪れる気になるであろうか。

このように、彼らのしていることは、聖書の倫理とは全くさかさまであり、聖書のみならず、この世の常識にも、法律にも、全くそぐわない行為である。彼らにはクリスチャンを断罪する資格など初めから全くなく、むしろ、クリスチャンの方にこそ、彼らを断罪する資格がある。このことをクリスチャンは自覚せねばならない。

教会がこうした人々に恥を暴かれ、圧迫されている立場から抜け出て、教会こそが、カルト被害者救済活動を断罪し、これを退けなければならないのである。
 
さて、不当な言いがかりを受けた際、キリスト者が何も主張しないでいるのは、悪魔に罪を着せられることに自ら同意するに等しい。私たちは、人間的には色々な弱さを抱えているとしても、神と人との前で、キリストの流された血潮を根拠に、自らの潔白を公然と主張せねばならない立場にある。

なぜなら、私たちは、自分の義に立っているのではなく、神の義に立っているからだ。キリストが十字架で流された血潮が、この世においても、来るべき世においても、私たちに何の非もないことを主張する根拠である。

血潮が、私たちを、神の目に、何一つ欠点のない、しみもしわもない、キリストの完全な花嫁として立たせる根拠となのる。この点で、私たちは神から受けた義認を軽んじてはいけないし、悪魔の訴えに一歩たりとも譲歩してはいけない。
 
悪魔の前で、圧迫に負けて、犯してもいない一つの罪を認めることは、百も千もの犯していない罪を認めることと同じである。たった一つの罪でも認めれば、身の潔白はもう成り立たない。そこで、信者であった人間が、村上氏のような、カルト被害者救済活動の支持者の側から、クリスチャンに対して発せられる断罪と非難の言葉に負けて、一度でも屈服させられて、懺悔すれば、それを皮切りに、その人間は、その後、百も千も万も、犯していない罪をあげつらった供述調書にサインを迫られるだけである。そして、サインを拒む根拠は彼らにはもうない。

クリスチャンは一度でも血潮を退ければ、もう二度と自分自身を擁護する根拠をどこからも得られない。そんなことになれば、世人以上に厳しい裁きに晒されるだけである。地上の組織としての教会に対するあれやこれやの不満を表明することと、真理そのものを退けることを、絶対に混同してはならない所以である。

しかし、何という馬鹿げた事態であろうか。キリスト教会で「被害」を受けたと主張している人たちが、正式に「加害者」になってしまったのだから。

いつまでも人を赦さない心、特に、神の教会を憎み、信徒と和解しない心が、どんなに危険で恐ろしい運命へと人を導くかをよく物語る出来事だろう。

結局、神が義とされたクリススチャンを罪に定めようとする活動に手を染めるなら、その者は誰であれ、自分自身が罪に定められて終わるだけである。とげのついた棒を蹴っていれば自分が痛いだけである。

筆者は、地上の教団教派としての教会には属しておらず、地上の教会を擁護するつもりはないが、それでも、キリストの花嫁たる天的なエクレシアが存在することを確信している。

どの教団教派に属していようと、どんな誤謬の最中にあろうと、それに関係なく、一人一人の兄弟姉妹の信仰を通して、目には見えない霊的共同体としてのエクレシアが存在し、機能しているのである。

カルト被害者救済活動の支持者らの罪深さは、彼らはただ自分自身の心の痛みと向き合い、自分が所属した教会とのトラブルに目を向け、これを解決することだけに専念すれば良かったにも関わらず、自分の心の傷や問題と向き合おうとせず、これを他者の問題に置き換え、他者を助けるという口実で、一つや二つの教会ではなく、教会全体を否定して敵に回し、全教会とクリスチャンの恥を暴くような活動に熱中することで、キリストの花嫁たる天的なエクレシアそのものを冒涜したことにある。

その罪は、地上の滅びゆくものを毀損する罪とは比べものにならないほど重い。その罰は、この地上だけでなく、永遠に至るまで続いて行くだろう。

さて、次回からは、こうした事件に関連して、「エクレシアを冒涜する罪」について考えてみたい。その過程で、三島由紀夫なども引き合いに出すことになろうが、このテーマは、これまで、何度も書きかけ、書きたいと思いながら、