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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやたことは、屋根の上で言い広められる。」(ルカによる福音書12:2-3)

「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。
 神のメシアの権威が現れた。
 我々の兄弟たちを告発する者、
 昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、
 投げ落とされたからである。
 兄弟たちは、小羊の血と自分たちの証しの言葉とで、
 彼に打ち勝った。
 彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。
 このゆえに、もろもろの天と、
 その中に住む者たちよ、喜べ。
 地と海とは不幸である。
 悪魔は怒りに燃えて
 お前たちのところへ降って行った。
 残された時が少ないのを知ったからである。」(黙示12:10-12)
 
もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができるでしょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。

わたしたちは、あなたのために
 一日中死にさらされ、
 屠られる羊のように見られている
 と書いてあるとおりです。

 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:31-39)

* * *

去る11月12日、控訴審の和解協議のために東京高裁を訪れた。前回とは違って、二方向に大きな窓があって、大きなスクリーンやラウンドテーブルの置いてある、青空の見渡せる広々とした部屋に案内された。

東京高裁全体の陰気な雰囲気と異なり、横浜地裁を思い起こさせる、明るい、開けた部屋であった。筆者は自分が横浜へ瞬時に場所を移動して、電話会議が行われていた部屋に戻り、裁判官が来るのを待機しているような錯覚を覚えた。
 
待機時間はたっぷりあったので、筆者は自分も裁判所の職員の一人になったような感覚で、誰もいない部屋の中を幾度か歩いてみた。部屋の雰囲気が、解放的で、霞が関のビル群の中にいることを完全に忘れさせてくれるものだったので、筆者は目の前で起きている出来事をすべて忘れ、安堵しながら、懐かしい人々を思い出しつつ、自分の番が来るのを待った。

ラウンドテーブルの他に、立会人たちが座れるソファも置いてあるこの部屋に、大勢の人々がやって来て、和解調書に調印する光景が心に思い浮かんだ。また、ある時は、誰もいないこの部屋を、法衣を着た裁判官と書記官が慌ただしく行き来し、本を片手に研修を行ったり、セミナーなどを開いて、スクリーンを指し示しながら、何かを説明をする様子が見えて来るような気がした。
 
以前から書いている通り、裁判所は、筆者にとってもはや家同然であり、それ自体が大きな要塞であり、砦である。どんなに予想外の事態が持ち上がっても、最後にはその安心感へと戻って来る。

それは、筆者と裁判所との間で交わされた、秘密の約束のようなものである。その日も、夜になるまで用事があり、疲れを覚えつつ、筆者は暗い廊下のパイプ椅子に待機していたが、そのときにも、何とかして、もっと裁判所の近くに来られないか(これは決して物理的な距離のことでなく)、ここで目にする人々の喜怒哀楽のすべてに、もっと深く接近し、入り込むことはできないかと考えを巡らした。

不思議なことであった。どんなに気が滅入る慣れない不案内な手続きを進めている時でも、あるいは失望を覚えるような出来事の最中でも、筆者は心の中で、ここは家同然であるから、最も安全な場所であり、離れたくない…という感覚を覚えるようになっていたのである。

* * *

さて、杉本徳久は、裁判所が秘匿の措置を認めないことが分かってから、和解協議の場を最大限、自分に都合よく利用し、毎回、毎回、脅しめいた条件を提示しては、解決金の支払いを遅らせて来るようになった。

前回は、何と筆者に向かって、訴えそのものを取り下げろと要求し、命にも等しい判決を手放すよう求めた。

そして、それを阻止するために、筆者が記事の修正を申し出ると、今度は、分厚い苦情の手紙を裁判所に送りつけ、筆者が杉本の名を出していない記事を指し示して、筆者が示談をしてもその約束が守ると思えないから、和解協議を蹴る、などと言って来たのであった。

裁判官と書記官は、杉本を説得したとみられ、長い時間、筆者は部屋の中で待たされ、様子を見守った。

ようやく筆者の番が来て話し合いが行われたとき、裁判官はあくまで非常に落ち着いて、和解協議を成功裏に導ける確信を捨てていなかったが、書記官はいささか青ざめた表情であった。おそらく、杉本の筆者を赦せないという思いや、筆者を提訴したいとの願望がどれほど強いものであるかを、本人の言を聞いて理解し、初めて杉本の真の性格を理解したのではないかと思われた。

杉本は、一見すると、権威に忠実で、他者に食ってかかったり、論争をしかけたりすることのない、穏やかな性格のように見える。電話会議でも、はっきりした発音で、静かに裁判官に返答しており、苦情を述べている時でさえ、声を荒らげて論争することはなく、その声や話し方だけに注目するならば、決して悪印象を持つことはなかった。

だが、それだからこそ、杉本がどれほど筆者に対して深い恨みを持っており、それがもはや合理的なレベルを超えて、一生、筆者に報復しなければ気が済まないほどのレベルに達しているか、その執念の深さは、人々には分かりにくいのである。

だが、筆者は前から杉本のことを知っているし、彼から送りつけられたメールの数々もこのブログにはまだ公開してある。その論調、話し方、要求の内容などを考えると、杉本が控訴審で自らに有利な判決が出る見込みが薄い中でも、あくまでこの先も、筆者を提訴するなどして対決を続け、筆者を罪に問うて何とかして人生を滅ぼしたいという願いを述べ続けていることは、筆者にとっては、何ら不思議ではない。

さらに、村上密も、控訴審になってから、筆者を法廷に引きずり出したかったのに、それができなかったことの悔しさをにじませる記事をブログに投稿している。

筆者は、10年以上前から、村上密の真の願いは、カルト化を防止するという名目で、自前の異端審問所を開設し、そこで無実の一般クリスチャンを魔女狩り・見世物裁判に引きずり出して辱めることにあると指摘して来た。

筆者は2009年に、村上密がかつて提唱していた「カルト監視機構」の構想に、真っ向から異議を唱え、このような機構が設立されれば、キリスト教会には「カルト化を防止する」という口実で、密告が溢れ、やがて魔女狩り裁判が横行し、無実のキリスト教徒が異端者の濡れ衣を着せられて迫害されることになるだけで、カルト監視機構は、まるで秘密警察のように、何の権限も与えられていないのに各教会を調査するなどして、教会に対して君臨するようになるだろうと予告した。

その頃から、村上はカルト監視機構を設立しなかったが、その代わりとなる組織として、宗教トラブル相談センターを設置していた。そして、筆者がカルト監視機構に抱いた危惧は、ことごとく宗教トラブル相談センターの中で実現することとなったのである。

クリスチャンたちは、宗教トラブル相談センターに関わった信者がその後、どうなったのか、筆者の例を見て、よくよく学習しておくことだろう。

村上密は、今年、一審が終わってから、「唐沢治の陳述書」と題する4つの記事をブログに投稿した。そして、記事の中で、筆者のかつての牧師でもあった唐沢の陳述書を公開するに当たり、唐沢から全く了承を得ていないことを自ら明かした。

村上は、自分は唐沢治とは何の関係もない、提携もない、協力関係があるというのは、筆者の思い込みだ、などと嘲笑気味に記事に書き記しており、答弁書でも同じことを述べている。

だが、これは非常に恐ろしい発言である。要するに、村上密は、唐沢治の陳述書やその他の書証を、本人からの承諾も、依頼も全くないのに、勝手に独自のルートで調べ上げて、ネット上に公開したということなのだ。

さらに、村上の公表した四つの記事には、筆者が唐沢に宛てた親書メールも含まれているため、陳述書の内容もさることながら、こうした他者のメールを承諾なく公表する行為が、プライバシー権の侵害に該当することはまず間違いがない。

しかも、村上自身は、唐沢治の陳述書とその他の書証を、裁判所に出向いて自ら記録閲覧・謄写したわけでなく、それを行ったのは杉本徳久だけなのである。そして、村上は、誰からどのようにして陳述書と書証を入手したのか明らかにしておらず、杉本しかこれを閲覧・謄写した人間もいない以上、杉本が村上に情報提供したと考えるのが自然な流れである。

第一審では、杉本との協力関係はない、提携はない、と言って、筆者から受けた嫌疑を否定していた村上であるが、村上は、唐沢の陳述書を杉本から入手していないとは一切発言していない。

しかも、村上がそのように入手の経路を明かさず、相談者でもない唐沢の陳述書を勝手に公開した先は、宗教トラブル相談センターの公式ブログなのである。

村上は、このブログの仕様を今日、ようやく変えて、とうに期限切れとなった10年以上前に撮影した写真をようやくトップ画面から一掃したようだが、初めは極めて陰気な背景画像にしており、それを変えた後も、依然、ブログのレイアウトは崩れたままである。筆者の見解としては、前のままの方がはるかに良い。

それはともかく、村上密は、どこから、誰から、どのように、何の権利に基づいて、唐沢治の陳述書や、その他の書証や、唐沢と筆者の交わしたメールを入手したのか、どんな正当な理由があって、これを本人の了承なく無断でブログに公開したのか、情報源も、理由も、全く明かしていない。

繰り返すが、これは非常に恐ろしいことである。宗教トラブル相談センターは、少なくとも、今までは一応、形ばかりは、誰かからの被害相談を受け、村上がその相談者の代理人となって、紛争解決のために動くという名目を保って来た。それだからこそ、被害者の救済という大義名分が保たれ、センターの活動への理解が成り立って来たのである。

しかしながら、その後、村上密は、誰の代理人にもなっていないのに、宗教トラブル相談センターを使って、自分の一存だけで、唐沢治と筆者との間で係争中の事件の記録を調べ上げ、両者の個人情報に当たる記録を、本人の了承なく公開してしまったのであり、これは明らかに両者に対する人権侵害に相当する。

村上がブログ記事に引用している書証は、非公開の保全事件の記録であり、村上は牧師としての守秘義務も負っている以上、勝手に信者の身辺調査を行い、その情報を本人の了承なくネットに投稿したりすれば、当然ながら、罪に問われる。また、唐沢の陳述書には多くの嘘の記述もあるため、それを一方的に鵜呑みにして引用する行為も、筆者に対する名誉毀損行為になり得る。

村上は、答弁書の中で筆者の名前も無断で公表した事実を認めているため、こうした事実はすべて、筆者が主張すれば、筆者に対する不法行為として認定される可能性の極めて高いものである。

こうして、宗教トラブル相談センターは、まるで戦前の特高などの秘密警察のごとく、正当な理由もないのに、ただ自分たちの活動に批判的な信者をターゲットとして、秘密裏に身辺調査を行い、信者に制裁を加えるために、信者本人にとって望ましくない、あるいは不利となりそうな個人情報を集めては、ネット上に次々と曝し始めたのである。

その上、その信者を一方的に刑事告訴までし、提訴したいという願望をも言い表しているのだから、これは筆者が前々から予告して来た通り、宗教トラブル相談センターが、魔女狩り的な異端審問に走ったことの何よりの証左である。

村上密のブログ記事からは、筆者が控訴審に出席しなかったことを不満に思い、自分が提訴されたことが許せないから、その報復に、何とかして筆者を公開裁判に引きずり出したいという思惑が透けて見えるし、さらに、村上は、牧師であるにも関わらず、相談者であり信徒でもあった筆者を右京署に刑事告訴したと、はっきりと答弁書で主張している。

筆者は神社に油を蒔いたこともなければ、カルト宗教に入信したこともなく、村上に対しては危害を加えたことも一度もないし、控訴審さえまだ開かれている途中で、民事訴訟の終結もまだである。それにも関わらず、一審判決では不法行為に問われなかったのを良いことに、それだけでは満足せず、むしろ、それを皮切りに、筆者に対する人権侵害を堂々と開始し、さらに筆者のとことん人生を破滅させなければ気が済まないという執念を持って、筆者を告訴したというのである。

筆者は10年以上前に村上のもとへ相談に赴き、解決も得られず、失意のうちに村上の教会を離れ、その後も、何か月間も村上の教会で受けた心無い言葉に泣き暮らしつつ、それでも自分を責めていた頃のことをよく覚えている。その上、この仕打ちであるから、一体、こんなセンターが、カルトを防止するための何の役に立つというのか。それ以前から、村上の義理の父が牧会する教会で、何が起きたかもすべて公開している通りである。

この人々は、ただカルトを防止することを名目に、無実の一般信徒を標的にして、中世の魔女狩り裁判、クリスチャンの迫害を再現しようとしているだけのことである。

筆者は2009年からそのように予測して来たのであり、それだからこそ、このような活動に従事する人たちは、いつか必ず、筆者を見世物裁判に引きずり出して辱めたいという願望を赤裸々に表明する時が来るだろうと、ずっと考え続け、また、その通り主張して来た。

実際にこれまで、幾度となく、筆者を提訴・告訴したいという台詞を、筆者は杉本徳久・村上密の双方から聞かされて来たので、正直なところ、それこそが、彼らの悲願だと初めから思っている筆者は、今、再び同じ台詞を聞いても、驚きはしない。

そこで、杉本が和解協議の場においても、改めて裁判官の勧める和解案を蹴って、自分に敗訴判決が下されることも覚悟で、その後、筆者を提訴したいとの願望を言い表し、村上も準備書面に全く同じ内容を書き記して、こうして二人ともが、声をそろえて、生きている限り、筆者を赦すつもりはなく、何とかして報復として筆者を被告として裁判に引きずり出し、刑罰を受けさせることが人生の悲願であると主張しても、筆者は別に驚かない。

だが、一般の人々は、それを聞いて青ざめるだろう。答弁書や準備書面に書いていることは、あくまで法廷闘争のための文字上の主張であって、現実には、それとは違ったもっと柔軟な行動を取る人々は数多くいるし、そうなるものと人々は考えている。村上も杉本も準備書面では色々言うであろうが、それはあくまで法廷闘争のテクニックであって、本気ではないと人々は考えたい。だが、実はそうではないと分かると、人々は衝撃を受ける。

筆者が2009年に、村上密が秘密警察を作ろうとしている、魔女狩り裁判をしようとしている、と述べたとき、その言葉を、あまりに大袈裟な誇張だと思って一笑に付した人は少なくなかったろう。ところが、実際にその通りの願望が彼らの口から発せられ、彼らがその通りの行動を取り、信者の身辺調査を行ってそれを無断で公開したり、信者を刑事告訴したり、提訴して法廷に引きずり出そうとし、それを表向きには協力関係にないはずの人間が傍聴しようとしたり、協力関係にないはずの人間が裁判所で閲覧・謄写した記録が、村上のブログから公開されたり、その人間が、和解協議の場で脅しめいた要求を突きつけ、これを相手を震え上がらせるための場として利用し、紛争を可能な限り長引かせることで、生涯に渡って相手を苦しめ続け、報復を果たしたいという欲望を言い表しているのを見たとき、人々はその度を超えた残酷さと復讐心に色を失い、恐れをなして逃げ出すに違いない。

宗教トラブル相談センターにはそもそも何人の協力者がいて、どのような方法で情報を集め、いかなる法的根拠に基づき、収集した個人情報を管理しているのか、最低限度のガイドラインさえ、全く公開されていない。

村上は、ブログには勝手に筆者の個人情報を掲載し、自分に関わりのない紛争に、代理人でも相談役でもないのに、何の資格も権限もなく介入し、他者のプライバシーを暴いておきながら、自分は被害者だと自称して、告訴まで遂げたというのであるから、筆者には実に呆れる話である。

なお、村上密は、第一審の最中、杉本徳久が20本以上の記事を書いて筆者を中傷していた時にも、一切、杉本をいさめず、むしろ、杉本と一緒になって筆者に反訴を予告し、しかも、反訴を実行しなかった経緯があるので、筆者はそうした村上の行動を通して、いかに彼が残酷で容赦のない人間であるかを見ることができた。

さらに、村上は、第一審において、筆者が削除を要求した記事を自ら削除すると途中まで約束していたにも関わらず、前言を翻したのであり、筆者の村上に対する反論が手薄になったのも、村上が自ら記事を削除すると約束していたことを、筆者が審理の途中までは信じてしまっていたせいでもある。

牧師として公の場で約束したことを簡単に翻す、これだけでも、非常に信頼を損なう行為である。しかも、村上が筆者にしたことと、杉本が筆者にしたことは同条件ではなかったのに、村上は、杉本と一緒になって、筆者が両者に対して一切の賠償なしで和解するよう要求し、その条件に筆者が応じない限り、筆者に反訴すると予告し、これを実行しなかったのである。

そして、今また杉本徳久が、賠償金を支払わないまま、控訴審の和解協議の場で、前々回は、筆者に対して訴えを取り下げろと要求し、前回は、和解協議を一方的に蹴ると通告し、協議をいたずらに引きのばし、筆者を苦しめ、目の前でひざまずかせるための要求だけをひたすら突きつけている。

第一審が終わったのが3月、それから今までもはや半年以上が過ぎた。杉本はこの間、自分からは賠償金を一銭も支払わず、筆者の取立行為を「恐喝」と呼んで非難し、筆者が取立を続けるなら刑事告訴すると息巻き、通話が成立もしていないのに、恐喝の電話を受けたなどと「被害」を主張し、筆者が郵便物を送ってもいない人々に、郵便物を送りつけたと主張、今もただいたずらに紛争を長引かせるためだけに、和解協議を続け、要求の内容も、エスカレートしている。

最初は、筆者の口座番号が分からないから金を払えない、と自己正当化をはかっていたが、控訴審の席上で払うことを提案されても、まだ理由をつけて支払わず、口を開けば、訴えを取り下げろとか、筆者を提訴・告訴してやりたいと、脅しめいた要求ばかりである。

このようなものが、和解を目的にする協議とはとても思えないのであり、筆者は勤務も休んで協議に出席しているため、こうした損害も、別訴の提起があったときには、損害賠償請求の対象となり得るものと考えている。

さらに、杉本は書面の中で、筆者が告訴したこともない人物の名を複数名挙げて、彼らを筆者が告訴したと断言したり、明らかに誤った、事実に反する告訴罪名で、筆者が杉本を虚偽提訴したなどと主張して、筆者を非難しているため、これらはあまりにも行き過ぎた事実無根の主張として、訴訟における名誉毀損を構成する可能性が十分にあると筆者は考えている。

杉本は、この先、和解協議を蹴っても、それで彼にとって色の良い判決が出ることはまずないであろうと予測されるし、それどころか、それによって、彼は刑事事件でも、温情を受ける余地を徹底的に失ってしまうことになるにも関わらず、それでも、未だ筆者を提訴したいと述べ続け、判決に従うことを拒み、先延ばしにしている様子には、合理性が全く感じられず、筆者をとことん追い詰めて人生を破滅させたいという尽きせぬ執念以外には感じるものもない。

筆者は今回、裁判官の勧めも考慮して、杉本に対する最大限の譲歩を示し、杉本の個人情報をすべてブログ記事から削除し、杉本のブログ名や、「Sさん」などの個人情報に当たらない記述もすべて削除することに同意して良いとまで提案した。

従って、この提案を受ければ、これまで杉本が要求して来たことは、ほぼかなえられる上、別訴を提起する権利も、杉本から取り上げられない。それにも関わらず、筆者自身の提案であるその約束を、信用できないとして拒み、たった一つの個人情報さえ本当に削除できるかどうか分からない不毛な訴訟を今後、提起して、筆者にリベンジする願望が捨てられないから判決を求めるなどと主張することには、報復目的以外に見いだせるものはないのであって、そのような態度で示談を拒んで判決に進んでも、その結果、今後の訴訟の展開が、杉本にとって有利となることはないであろうと筆者は確信する。

そんな風に、合理的な理由もなく、判決を軽んじ、裁判官の勧告をも、相手方の譲歩をも、一切、かえりみず、いたずらに和解協議を長引かせた結果、これを蹴るという態度を取る人のために、今後、真面目に審理を進めてくれる裁判所が、この世に一つでもあるとは、筆者は思わない。

しかも、杉本は当初、自分から解決金を支払うと述べたのであり、筆者がブログ記事を修正するなら、多少、解決金を上乗せすることができるかも知れないとまで提案していたらしい。なのに、その言葉を途中ですべて翻し、筆者に対する脅しめいた不満を並べ続けた挙句、ついに自ら協議を蹴ったとなれば、彼の言う和解協議とは、ただ相手にいたずらに期待を持たせ、いつまでも苦しめ続けるための機会でしかなかったこととなる。

裁判所は、そもそも報復目的以外に必然性のない無駄な提訴によって、余計な仕事を増やされることを非常に嫌っている上、判決では、筆者にはブログ記事を修正せねばならない義務は全く課されておらず、和解協議はすでに複数回、開かれているため、この間に示談締結をしておけば、筆者はもはや杉本に対する記事を書けない状況になっていたのである。しかし、それをあえて先延ばしにしているのは、杉本自身であり、それゆえ、現時点でも、筆者は杉本のことを記事に書いてはならないという義務を全く負っておらず、なおかつ、杉本は、筆者がブログ記事を修正するために時間が必要であることを分かりつつ、どんどんその時間がなくなるように仕向けているので、このままだと修正さえも不可能となり、期限が延ばされない限り、その条項を外す以外には方策がなくなる。

通常、和解協議の席で、相手を提訴したいという願望など述べる者はまずいないから、今回のことは、裁判所にとっても、一つの教訓となるのではないかと筆者は思っている。さすがに今までは杉本の言い分にも少しは理があると考え、彼をなだめようとしていた人々も、次第に、杉本の目指している目的が、決して合理的な解決ではなく、ただ筆者を永遠に苦しめ続けることにあると気づき始め、それゆえ、彼の望みを助けることから手を引き始めたのではないかと感じられる。
 
そのようなわけで、筆者は示談が結ばれて、互いに個人情報を書かないという約束が成立したならば、それを機に、訴訟に関する記事を書くこともやめ、記事を修正するという約束が結ばれれば、この記事も含め、その約束を忠実に果たす用意はあるが、未だ掲示板での筆者に対する誹謗中傷その他の権利侵害が今も止まらない様子を見るにつけても、個人情報をブログに書くことをやめられないのは、筆者ではなく、「彼ら」自身ではないかと思われてならない。

示談の締結を引き延ばしているのは、それを締結してしまうと、もはや筆者の個人情報を弄び、これを無断で好き勝手に投稿・公開できなくなることに躊躇しているからではないのか。

筆者から見ると、杉本や村上本人も、彼らの支持者たちも、他人の秘密を調べ上げ、個人情報を暴露したくてたまらない願望を持っているように見える。その抑えきれない欲望を、示談書の締結によって終わらせることができないからこそ、杉本本人も、何かと理由をつけてはその締結を先延ばしにしているのではないのかと思われてならないのだ。

もしもこの予測が的中しているとすれば、今回の協議の落としどころは、杉本自身が最初に約束した通り、ただ賠償を支払って終わりとするにとどまるのであって、それ以上でもそれ以下でもないことになろう。

その最低限度の事項すらも拒めば、今まで以上に厳しいものになると思われる判決が、彼を待ち受けているだけであり、その先には、もう一度、法廷に被告として呼び出される運命が待っているだけである。筆者は、判決が出たとしても、全く恐れはしない。なぜなら、筆者の側からの反撃の材料はすでに多く集まっており、おそらく、判決とほぼ同時に、筆者自身が、村上・杉本に対して別訴を提起するという運びになるだけだからである。

控訴審では、原審の枠組みから出られないので、以上のような主張を全く提起できなかっただけで、別訴ではそれが可能となる。一審では自由に主張を追加できるからだ。杉本も村上も、未だ筆者を提訴したいと息巻いている以上、筆者が十分な反訴の材料を蓄えておくのも当然である。

ちなみに、筆者は裁判を提起する前に警察に行って色々と調べてもらうことにしている。警察の判断は、裁判所の判断とそれほど大きく違わないと見えるため、警察が事件を受理するかどうか、どのような罪名で受理するか、といった点は、今後、反訴や別訴を提起したとき、どのような判決が得られるかを予測する大きな参考材料となる。

だから、筆者もこれまでの教訓に学び、勝ち目のない主張で訴訟の提起は行うつもりもないのであって、提訴するとなれば、ほぼ確実に不法行為が認定される証拠のある話に限られることであろう。

* * *

とはいえ、矛盾するようだが、筆者の真の願いは、今後、別訴を提起することにはなく、むしろ、この訴訟の判決を書いてくれた原審の裁判官の判決によって、この紛争を終わらせることにある。

筆者が誰に判決を委ねるかは、筆者自身の個人的な願望によっても決まることであり、筆者は、第一審判決を書いてくれた裁判官が、筆者にとって、筆者のために最終的な確定判決を書いてくれた最初で最後の裁判官となることを願っている。

たとえその判決が、筆者にとって完全な勝利でなくとも、筆者は構わない気持ちでいる。

また、村上が唐沢の陳述書を無断で公開したことも含め、ネット上では、筆者と唐沢治を何とかして訴訟対決させたいと考えて、陰から紛争を煽り、唐沢の個人情報までも、次々と本人の了承なく公開している者たちがいるが、そうした連中を喜ばせても意味がないため、筆者は、唐沢に対する訴訟それ自体を再考することとした。

唐沢はたった一つしか筆者に対する記事を書いていないし、それも「ヴィオロン」に対するものにとどまっている(組み合わせによって著作者人格権の侵害が成立しうることは措いておく)。

筆者は、唐沢の個人情報を無断で公表したことなどないし、当ブログとホームページ以外の場所に投稿をしたこともない。
 
そこで、出回っている陳述書と書証のコピーを見るときには、よく注意されたい。

当事者が裁判所から送達を受けた書証には、事件簿を綴るための黒紐が写っていない。だが、当事者でない者が、記録を閲覧・謄写し、勝手に公開した書証には、裁判所の事件簿の紐までが写っている。裁判所で記録をコピーする際には、紐を緩めることができるだけで、外すことができないからだ。だから、紐が写っている記録は、当事者に送達された記録ではなく、何者かが裁判所で事件簿を閲覧・謄写した記録であると見て良い。

ちなみに、裁判所で唐沢治の陳述書と書証の閲覧・謄写を行った人間は、何度も言うように、本年10月28日時点になっても、杉本徳久一人しかいないのである。

このようなわけで、筆者の個人情報の漏洩、また、筆者の事件に関わった人々の個人情報の漏洩には、あらゆるところで、杉本の影がちらついているのであり、そうした状況で、杉本が個人情報を収集・開示しないという条件の示談の成立に乗り気でない理由は、考えれば誰にでも分かるのではないだろうかと思う。

この状況で、筆者は、様々な点で意見が対立したままの唐沢に対しても、かつては兄弟姉妹と呼び合っていた仲として、対応を考え直すこととした。

不思議なことに、唐沢は、筆者が彼を信頼して書き送っていた頃の最も意義深いメールを、一つも裁判所に提出していない。

唐沢が裁判所に提出したのは、最も無価値かつ無用な内容のないメールでしかなく、それ以外に、筆者が当時、率直に彼を信頼して色々と相談したり、書き送っていたメールがあるはずだが、唐沢はそれらを悪事の記録であるかのごとく裁判所に提出することを控えた。

この点は、唐沢を見直す点である。それは彼自身が、自分が信頼されていた頃に送られた手紙の内容を、自ら衆目にさらすことで、否定し、穢すには忍びないと考え、公開しなかったからである。

このように、唐沢と筆者とのメールのやり取りには多くの「聖域」が保たれたままであり、唐沢自身が裁判所に提出したのは、杉本に関わる部分だけである。そして、村上が、T第1号証から6号証までの書証を入手したとしながらも、杉本が筆者の個人情報を無断で公開すると予告するために筆者に送りつけた脅しのようなメールを、唐沢が転送メールとして提出したT第2号証、T第3号証の記録には、言及すらもしていないことも、注目に値する。

このように、唐沢も信徒を告訴した過去があるとはいえ、村上密とは性格が全く異なるのであって、村上がこの度、誰の代理人でもないのに、自分に無関係な牧師や信徒の身辺調査を行って、唐沢治の陳述書を本人の了承もないのに公開し、無関係な他者の争いの火をつけようとした行為については、明らかに、筆者だけでなく、唐沢も被害者なのである。

これは、明らかに、村上が牧師としての一線を超えたものであり、十字架の装甲から外に出た行為だと筆者は考えている。

これまでにも書いたように、もともと村上がこれまで使って来た「代理人」とか「相談役」などという呼び名は、村上が巧妙に他者の悩みに寄り添うように見せながら、他者の意思を絡め取って行き、クリスチャン同士の対立が修復不可能になって教会が分裂するよう、兄弟同士を争わせ、紛争の傷口を押し広げるための口実に過ぎなかったものと筆者は見ている。

鳴尾教会の伝道師夫妻と津村牧師との対立、鳴尾教会の離脱反対派の信者の裁判、Y牧師とT牧師との紛争など、村上が関わって来た紛争は、一つ一つを振り返ると、どれもこれも、紛争当事者が憎み合い、ほとんど永久的に和解不可能となったものばかりである。カルト被害を受けた信者の裁判でも、犯人が逃亡したりして和解が成立しなかったケースもあり、平和裏に紛争が解決したと言えるようなものは、ほとんど見当たらない。

このようなことでは、村上の仲裁者としての力量が根本的に問われるだけであって、ただでさえ「代理人」などの法的な位置づけがよく分からない名称を勝手に名乗って、紛争を激化させてきた村上が、この度、「代理人」という最後の仮面さえもかなぐり捨てて、自分の本音をむきだしにして、ただ筆者を追い詰めるためだけに、自分には無関係の事件記録を不明な方法で調べ上げ、筆者のみならず、筆者に関わる人々(兄弟姉妹)の個人情報にまで手を出し始めたことには、空恐ろしさを感じるのみである。

村上はそうまでして、かつて仲の良い兄弟姉妹のように見えたクリスチャン同士を、何としても引き裂き、分裂させ、さらに法廷でまで対決させて、兄弟同士の罵り合いを世間の見世物にしたいとの願望を捨てきれないのだろうか。そうまでして、教会を分裂に導き、兄弟姉妹を憎み合わせたいのか。

だが、筆者はその作戦には乗らない。そのようなわけで、村上の件では、唐沢も紛れもなく被害者なのであって、それが分かるだけに、筆者は唐沢に対する訴訟は見合わせ、すでに措置を講じた他の方法で紛争解決を目指すこととした。

筆者が目指すのは、法廷闘争ではなく、判決でもなく、あくまで個人の意思を重視した和解である。そのことが、裁判所に関われば関わるほど、ますますよく理解できるようになった。だからこそ、筆者は、このブログを巡る訴訟の第一審判決が、筆者の人生で、最初で最後の確定判決となることを願っているのである。

一審判決では、筆者の村上に対する勝利はない。とはいえ、村上は一応、筆者の牧師であった時期もあるわけだから、筆者はそれでも構わないのである。すでに書いた通り、別訴を提起すれば、村上を不法行為に問える可能性は十分にある。だが、信徒と牧師が法廷で対決する必要はないのであって、責任の追及の方法は、民事訴訟以外にも存在する。前から述べている通り、村上の犯した罪を裁かれるのは、誰よりも神ご自身なのである。
 
結論に戻るが、こうして、カルト化したキリスト教会による人権侵害を許さない、と一方では言いながら、他方では、ただ自分たちの活動が批判されたというだけで、人権侵害を犯してまで報復行為を続け、魔女狩り裁判に及ぶ宗教トラブル相談センターを、皆さんどう思われるだろうか。

特に、誰からの相談も依頼もないのに、信者の身辺調査を行って個人情報を無断で公開するようなセンターを、皆さんどう思われるだろうか。
 
筆者は、村上の告訴状を入手した暁には、これを全文公開したいと思っている。牧師が信徒を刑事告訴した際の告訴状が公開されたことなど、これまで一度もないから、これは世界初の現代社会の魔女狩り裁判の貴重な事例となって残ることであろう。むろん、そこにどんな虚偽が含まれているかも、明らかになる。

それに先立ち、筆者が結論として言えることは、どんなにひどいカルト化した教会でも、牧師は信徒を告訴しないし、10年以上に渡って、個人情報を無断で公開して信者への弾劾を続けることもないので、このような恐るべきセンターに比べれば、カルト化教会ははるかにましな場所だということである。

だから、些細なトラブルをきっかけに、このセンターに足を向け、自己の正義を貫き通して戦い続ける道を選ぶよりは、受けた被害のことで、自分にも神の御前に罪があったのではないかと、真摯に悔い改めることを勧めるのみである。

* * *

終わりに、以上は、訴訟シリーズの総まとめとして書いたものであり、このシリーズの再開とはいえ、最後の記事になるかも知れない。

というのは、筆者は最近、とても忙しく、魔女狩り裁判にも興味はないし、無意味な訴訟にこれ以上の時間を割いている暇はなく、宗教論争をしている暇もないのが現状だからである。

特に、筆者は最近になって、いかなる状況でも信頼し、助け合うことのできる人物に出会い、自分の正義を投げ捨てて、人々と協力して生きることの価値を知った。

そして、理不尽な出来事が起きても、権威に忠実であることの意味を知らされ、自分の上に立てられた指導者に服して生きる道を選んでいる。今や宗教団体にも一切関わっておらず、宗教紛争などに巻き込まれるのも御免と考えている。

そこで、カルト被害を防止したいがゆえに、裁判をやりたいという人がいるなら、好きにすれば良いことであり、それに対してとやかく言うつもりもない。

この先、掲示板の権利侵害を追及するためには、訴訟における言語の壁を超える必要があり、申立書の英訳なども必要になると言われており、それも、やろうと思えばできるだろうと疑わないが、正直に言って、今、筆者の最もやりたいこと、やるべきことが、それだとは思えないものがある。

最後に和解協議のために裁判所を訪れてから、筆者の心にひたすら湧き起こるのは、裁判所のもっとそば近くで生きる方法はないか、さらにもっと裁判所の近くに筆者の生きるフィールドを定められないかという願いだけである。

だが、それは決して、法廷闘争を糧に生きたいという願いではないのだ。ただ、真に人々の痛み苦しみを引き受け、これを適切に解決することを、日々自らの責務としている裁判所の仕事と似たような仕事をしながら、筆者は自分の残りの生涯を、紛争処理に携わって生きたいという願いを、改めて確認するのみである。

筆者は、裁判所で起きる出来事に煩わされたり、失望を覚えることがないとは言わないが、それでも、裁判官一人一人が、こじれた紛争を丁寧に解きほぐしながら、感情に流されることなく、これを穏やかな解決に導こうとしている努力と手腕には、いつも敬服している。そこには、やはり、仲裁者としての確かな力量、そして、それができるだけの人間的な度量と経験の蓄積があると思っているし、それを女房役として助けている書記官たちのきめ細やかな配慮と、裁判官との見事な連係プレーにも感心させられている。

裁判所はそれ自体、筆者にとって非常に近しい、身内のような存在であって、そこで、どんなに困難な事件が取り扱われていても、それによって、筆者が裁判所全体に感じている畏敬の念や、親近感が取り去られることは今後も決してないと思う。
 
判決によって、筆者は裁判所に結ばれたのだが、筆者は、裁判所とのさらなる一致を目指しているのであって、それは法廷闘争を通して達成されるものでもなければ、目に見える建物としての裁判所との一致でもない。ただ筆者の心の中にある「干潟」としての裁判所との、心の完全な一致なのである。

その目的のために、必要な時間を考えると、無意味な係争のために割いている暇などほとんど残りはしない。だから、色々と書いてはいるが、結局のところ、筆者は、今後、すべての裁判手続きから遠ざかりたいという思いを述べているに過ぎない。それは訴訟の提起を恐れているためではなく、たとえ勝てると思う訴訟があっても、これ以上の判決をもらいたいという願いが積極的に湧いて来ないからだ。

これからは特に、紛争当事者としてではない立場から、改めて裁判所の門をくぐる方法を模索することになろう。その前進のために必要であると判断し、あえて今回の記事を書いたが、これも、紛争を激化させるために書いたものではなく、魔女狩り裁判のような執念とは、関係のないところで生きたいという筆者の意見表明に過ぎない。
 
今回、明確な収穫があるとすれば、それは何となくではあるが、筆者なりに、この紛争の「落とし所」がどこにあるか、分かったような気がしたことである。今後、筆者の気が変わらないとの保証はないが、唐沢も村上の被害者であることを考慮し、唐沢への訴訟は見合わせることとし、村上には勝訴を確定判決として贈っておき、杉本には個人情報を書かないという約束を抜きに、筆者を提訴・告訴する可能性をあえて残したまま、示談するという選択肢も悪くない。

そして、第一審判決の内容は、永久に人の目から隠され、訴訟記録も隠されたまま、筆者は魔女狩り裁判には永久的にさようならを告げることになる。

杉本に対するブログ記事の削除は実現しないかも知れないが、当分の間、筆者に対する記事もそのままになる。筆者は、今後、筆者に対する告訴や、提訴が成立すると全く思わないが、そういうことをあえてやりたいと思う人が、筆者を提訴してやりたいとの願望を何が何でも表明したいというなら、それを止めるつもりもない。書きたい人は、自ら法的責任を負う覚悟で、書けば良いことである。

筆者に言えるのは、どんな中傷を浴びせられようとも、筆者は自分の信じるところに従って進んでいくのみであり、その目的のためならば、自分の命を惜しまないことだ。その覚悟は、信仰の交わりにおいても、それ以外のフィールドにおいても、全く同じである。

今は昔となったが、かつて苦難の日々の最中、ただ御言葉だけを頼りに、か細い御霊の声を聞き、何とかしてすべての地上の重荷を脱するために、正しい信仰を求めて、夜行バスで11時間以上もかけて横浜にたどり着き、その後、唐沢の車で、さらに5時間以上かけて、福島の兄弟のもとへ送り届けられたときを思い出す。当時と、筆者の覚悟と決意は今も何ら変わらない。

神の御心を真に満足させる正しい目的のためならば、そして、筆者自身が真実な価値を見つけるためならば、筆者はどれほどの距離をも、代償をも乗り越えて、探求を続けても構わないと、その当時も願ったし、今も願っている。

当時、筆者が夜行バスの中にいる間に、地震が起き、バスは渋滞に加えて、さらに到着が遅れ、携帯電話も持っていなかった筆者は、兄弟たちにいつ到着するのか、連絡さえ取れず、車中で不安な時を過ごした。福島の兄弟は、唐沢に向かって、筆者を置いていけと指示したらしいが、唐沢は待った。彼にはそうしたところで、妙に義理堅く人情に篤いところがあった・・・。

そうした連携プレーのおかげで、筆者はその頃、初めて、信仰によって生きて働く御言葉の意味を知ったのであり、その経験を後悔することは決してないが、それが終着点でもなかったことが分かる。筆者は過去を否定しているわけでなく、過去を乗り越えて、自分の代価を払いつつ、前に向かって進んでいるだけであり、今後も、代価を払うことなしに、筆者の信仰に真実に応えて下さる神の御業を生きて知ることはないと思っている。

だから、その過程で、誰かから提訴されたり、告訴されたり、反訴されたりすることが、どうしても必要だというならば、それを拒むつもりは筆者には全くない。筆者の目指すところは、「私ではなくキリスト」であるから、自分の栄光、自分の身の安全、自分の個人的幸福が、筆者の守りたいすべてではないのである。

とはいえ、筆者の見立てによると、おそらく、筆者は、法廷闘争には向かないタイプであり、それが筆者の生きるフィールドでもなく、魔女狩り裁判に引き出されることが、筆者の運命でもないから、冒頭に挙げた御言葉に照らし合わせても、そういうことは起きないであろうと言っておきたい。すでになされた告訴に対しては、筆者の側からの幾重にも渡る告訴が、これを相殺する手段になるだろうと前々から述べている。

ただ、法廷闘争はともかく、この度、筆者が裁判所と出会ったことだけは、非常に運命的な出会いであり、絆であったと言える。これは筆者の人生の宝であり、判決を通して成就したこの不思議な「干潟」と筆者との「結合」、「一致」は、これからも、おそらく生涯に渡り、続いて行くはずである。

筆者は、判決を通して、裁判所の仕事に結び合わされたのであり、今や裁判所の飛び地のような「家」もでき、そこで筆者の「帰宅」を待っている人たちも現れた。離れから母屋に行くときが、この先も、あるかも知れないし、ないかも知れないが、筆者がどこにいようと、母屋はいつも筆者の心の中にあって、どんなに遠く、顔を合わせることがなくとも、そこに暮らしている「家族」は、筆者といつもつながっている・・・。

このようにして、筆者には新たな「家族」が出来たのであり、裁判所それ自体が筆者の「家」である以上、筆者はこの先、わざわざ訴訟を起こしたり、訴訟を提起されることによって、裁判所の中に入れてもらおうと門戸を叩く必要もないのである。

干潟は今や筆者と一つになり、筆者の心の内側から、命の水が流れ出すようになった。筆者はその水を求めて門戸を叩く側に立っているのでなく、かえってその生ける水を人々に分与して、慰めを与える立場になっている。魔女狩り裁判に関わっている暇はもうない。今後は新たな使命を全うして行くために、残りの時間を費やすだけである。

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わたしを信じる者は、その人の内から生きた水が川となって流れるようになる。(2)

渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れるようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。」(ヨハネ7:37-39)

「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。


死は勝利にのみ込まれた。
 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
 死よ、お前のとげはどこにあるのか。

死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」(一コリント15:54-58)

* * *

「求めよ、さらば、与えられん」「叩け、そうすれば開かれる」
信仰を持たない一般人の間でも、ことわざのように使われるこの言葉は、実は聖書から来ている。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」(マタイ7章7-12)

ある時、一つの大きな問題をどう解決したものか、考えあぐねていた時、ふとしたことから、裁判官を通じて貴重な助言を受けた。民事訴訟法においても、民法上でも、信義則というものが存在する。これは伝家の宝刀のような規則であり、私たちが普段、法に縛られていることを認識していないようなことがらを裁くときに使える法である。

たとえば、行政法の多くには罰則規定がない。そして、罰則規定があったとしても、行政法は個人の権利義務を定めたものではないので、行政法に違反しただけでは、個人の権利が侵害されたとはただちには言えない。そういう時に、民法上で権利侵害を主張するために利用することができるのが、この法である。

その他、たとえば、訴訟の相手方が、特段の理由もないのに答弁書を送ることを先延ばしにして、訴訟をいたずらに長引かせる行為に及んだとか、何一つ相応の根拠もないのに、準備書面に虚偽の事実を書き記して、相手方への誹謗中傷を書き連ねるなどした場合にも、訴訟における信義則違反を主張できる。

あまりにもひどい内容が訴状や準備書面に書かれており、どのように制止されても、警告を受けても、紛争当事者がそれを聞き入れることもなく、いつまでもただ相手方を中傷するためだけの相応のない主張をだらだらと続けるようであれば、訴訟においても、信義則違反、また、名誉毀損等に問うことを考えた方がよかろう。

裁判官とはどんなに短くとも、話すことがとても有益であると言えるのは、ほんの短い助言から、実に多くのことが分かるからである。

思いもかけない時に受けた助言であったが、それを受けたおかげで、当時、どうしても理不尽なので黙って通り過ぎることはできないと思った問題を、解決する糸口が見え、途中であきらめなくて本当に良かったと思った。

このように、あきらめず根気強く主張を提示し、助言を探し求めることは、決して無駄にはならない。それは警察官との間でも同じであった。今はまだ何も起きていないように見えるため、どれだけ多くの人たちが筆者を支えてくれているのかも、外側からは全く見えないことであろうが、筆者を迫害している人々についても、すべての情報は共有されている。

これまで多くの困難を乗り越えながら、根気強く関わりを続けることで、互いに信頼できる関係が時間をかけて築かれて来たのである。
  
昨今は、そのように不思議な協力関係を生む出来事が続いている。

一つ前の記事にも書いた通り、人々に罪を告げるというのは、とても嫌な役目を果たすことである。 何かを理不尽だと主張したり、他者を告発することは、告発された相手が、それを不快に思い、信頼関係が崩れたり、報復を受けるきっかけとなりかねない怖さをはらんでいる。

筆者はそれでも、悪者にされることを覚悟でものを言うし、どんな相手に対してもひるまない。それを無防備だと考える人も、あるいは蛮勇だと思う人もあるかも知れないが、ところが最近、筆者の周りでは、どういうわけか、そんな筆者の無防備さを、さらに力強い防衛の力によって覆い、どこまでも味方になって追いかけて来る人々が出現し始めた。

筆者が何かを言ったことによって、信頼関係が壊れるのではなく、むしろ、壊れたと思う信頼関係までが、回復することが続いている。そして、それは筆者の力ではなく、上からの力である。

それが始まったのは、昨年の当ブログを巡る訴訟の最中であった。筆者は裁判所以外には主張を訴える場所もなく、他に助言者も協力者もいないような状況で、自ら助けを求めて裁判所に駆け込んだのだが、その際、前にも書いた通り、原告となった筆者は、法廷ではないところで、裁判官と直接、対面して弁論準備手続きを進めることのできる「役得」にあずかった。

そのため、被告と電話がつながっていない時に、裁判官と打ち合わせをすることもできたのである。これは本当に大きな恩恵であったと今も感じている。

ある時、審理が大荒れになり、裁判官が議論を制止して、被告との電話会議が終わった。すでに何度も言及した通り、その時には、被告らから反訴の予告があり、もはや当事者の心はバラバラとなり、原告と裁判官との信頼関係も壊れたかに思われた。

だが、筆者は発言を遮られたその後の打ち合わせの時に、忌憚なく裁判官に心中を打ち明け、激論を戦わせたのであった。

「お願いです、発言を遮らないでください、最後まで言わせて下さい。」

というリクエストから始まり、筆者がこの訴訟にかけている思いの丈を裁判官に伝えたのであった。どんな結果が出ようと、裁判官のせいにするつもりはないと告げ、それでも、明らかにせねばならないことがたくさん残っている以上、筆者はそのために犠牲を惜しむつもりはなく、まだまだ労苦せねばならないこと、そして、筆者が求めているのは、真に正しい判決であり、ただ早く紛争が終わって解決されることではないのだという思いを伝えた。

率直に思っているところを伝えているうちに、裁判官はしまいには事情をすっかり理解してくれたのであった(そのように見えた)。

ちなみに、断っておくと、激論を戦わせたというのは言葉の綾で、裁判官はほとんど心中を述べないので、実際には議論があったわけではない。

それでも、話の最後に、裁判官が、「今、分かったことがある」と、決然とした表情で言ったとき、筆者は、思いが通じた、という気がして、一瞬、表情を緩めた。

だが、裁判官はその瞬間、立ち上がって深々と礼をして、原告と書記官だけを残して、一人部屋を立ち去って行った。

どんな印象を受けたか、どんな結論に至り着いたか、決して当事者の前で自らの判断を口にしてはいけない裁判官の鉄則を守ったのである。

だが、筆者は、まるで返答の代わりに、深々とお辞儀をすることで、「よく言ってくれた。ありがとう」と、言外に言い表されたように感じ、ちょっと面食らい、照れくさくなった。

もちろん、その時、裁判官が筆者の言葉から、実際に何を受けたのかは知らない。だが、当事者の切なる痛み苦しみを、真正面から受け止めてくれた裁判官は、信頼に値するだけでなく、男らしく、頼もしいと感じた。

筆者は、決して安易な慰めの言葉や、自分にとって有利な決定が欲しくて、発言したわけではない。そこには、何の約束も、取り引きもなく、ただ筆者の苦悩があっただけかも知れない。

反訴を予告されるなど、全くもって誰にも望ましくない混乱としか言いようのない状況であったが、筆者は、それでも自分のことを気遣う前に、裁判官に恐怖を覚えてもらいたくなかったし、ただ物事が紛糾して欲しくないという思いから、紛争が手に負えなくなったという印象を持って終わってもらいたくなかった。何よりも、そんなつまらないことで、互いの信頼関係が断ち切れるのが嫌だったのである。

その時初めて、筆者は、どんなことをしても敵に渡しくないと願う人に出会った。というより、自分自身がどんなに追い詰められても、自分をかばうのではなく、自分と共に協力して働いてくれている人をかばわねばならないという心境になったのである。

裁判官の思いは、筆者の思いであり、彼の行動は、筆者の行動であり、その判断は、筆者の人生を左右するものであり、決してこの人を敵に渡すわけにいかないから、信頼を壊すものを排除せねばならないと覚悟して、発言したのである。

だが、その時、筆者が予想していたよりももっと、裁判官には、人の苦しみを深く理解し、受け止める力があり、その用意がある、ということが、言外に伝わって来た。

筆者が語ったことを、決して迷惑だとも、鬱陶しいとも思わない裁判官の態度があった。それは、書面においても同じであった。審理の行く末に影響を与えることがらだけでなく、そうでない内容も、たくさん書いていたが、それを鬱陶しいとか、時間の無駄だから、事実関係に関することだけに的を絞ってもらいたい、などといった忠告を一切受けたことがなかった。

その頃から、裁判所というところは、筆者にとって「干潟」と感じられるようになったのである。誰も取り扱うことができないようなこじれた紛争、誰が本当のことを言っているかも分からないような錯綜した紛争、もつれた人間関係と当事者のおさまらない思い、誰一人受け止めることもできないような深い苦悩の伴う紛争をも、丹念に解きほぐし、事実を究明していく力を持った人々がそこにおり、何よりも、人の深い苦悩を受け止める力を持った人たちがいる。
 
もちろん、裁判所で出されるすべての決定や判決が何もかも正しいというつもりは毛頭ない。証拠がなければ、真実な訴えも、認められないのが裁判なのである。だが、それでも、人々の切なる思いを汲み上げ、真実な裁きを下すことが、裁判所の使命であることに変わりはない。

そして、裁判官の中には、それができるだけの包容力や、理解力も備わっている人たちが、ちゃんといることを筆者は信じている。そして、事実、それを確かめて来たのである。

その上、筆者が不利な立場に立たされても、その時には、また別の人たちが現れて、助けの手を差し伸べてくれるようになった。どういうわけか、後から、後から、助言者や、助け手が現れるようになったのである。

「ヴィオロンさん、こんなにもはっきりと、ものが言えるのはあなただけです。他の人にはできません。私たちは、あなたが自分勝手な思いから発言しているのではないことを知っています。だから、私たちはあなたにバトンを託します。負けないで下さい。」

まるでそう言われているかのように、援護射撃がどこからともなくやって来る。
 
不思議なことに、当ブログを巡る訴訟とは関係のないところで、争いや混乱が起きたり、あるいは起きそうになって、信頼関係が壊れそうになるときにも、昨今は、 聖書に、兄弟から訴えられたらすぐに和解しなさいと書いてある通り、この世の信仰を持たない人たちが、あたかも筆者の兄弟のごとく行動して、和解の手を差し伸べて来るようになった。

「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クォドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」(マタイ5:23-26)

信仰を持たないはずの人々が、信仰者を標榜している人たちよりも、もっと真摯に悔い改めて、筆者に和解を呼びかけるのである。

筆者は自分をかえりみない。良く思われようとうわべを飾ることもなく、ご機嫌取りもしないし、誤解されても、弁明しようとも思わないが、どこからともなく、そんな筆者のために、誤解を解こうとしたり、駆け寄って自ら和解しようとしたりする人が現れるようになった。

筆者がどうしても理不尽だと思うことについて、身を挺して本気で主張すると、どういうわけか、すぐに駆け戻って来て、心をなだめ、和解のために手を差し伸べる人たちが現れるのである。

それも、深刻な争いになることを恐れているためでは決してない。その行動の背後に、筆者に対する、もちろん、それ以外の人々に対してもだが、深い愛情や、信頼のようなものが感じられる。

要するに、筆者を惜しみ、筆者との関わりが断ち切れてはならないと惜しみ、そして、筆者の主張の中に込められた真実を見失ってはならないと思うがゆえに、筆者の非難の言葉を聞くや否や、たちまち駆け戻って来て、和解の手を差し伸べるのである。

そういうことが、最近、どういうわけか、連続して起きるようになった。

そんなわけで、これまでのように、意を決して憎まれ役に徹しようと思っても、それができない時がやって来たのである。

つい最近も、当ブログを巡る訴訟に携わってくれた裁判官によく似た経歴を持つ人が、しばらくぶりに筆者の前に現れて、争いが起きるよりも前に、友のように手を差し伸べてくれた。

長い別離の期間中に、誤解はうず高く積み重なり、当初の信頼はすっかり薄れ、互いにそっぽを向いて、関わりも悪化して終わるだけのように思われた。
 
「ごめんなさい。もうきっと遅い(手遅れだ)と思います」

と、筆者は当初、すげなく言ってみたが、相手は全くひるむことなく、しかも卑屈ではない態度で首を横に振った。

「そんなことは決してありません。あなたの主張を私は止めるつもりはありませんが、今ここで話し合っているのに、問題が起きることはありません。あなたが望んでいることを率直に言って下さい。応じられる限度があるとはいえ、できることは応じましょう」

筆者は驚いた。この人には、筆者のような立場のない年下の者からもの申されて、腹を立てたり、プライドを傷つけられたと感じる心はないのだろうかと。そんな人間に自ら譲歩するなど正気だろうか。そこで言ってみる。

「私のような人間から、何かを言われれば、それだけで、信頼関係が壊れた、と腹を立てる人もあると思います。たとえ正論であっても、これ以上、何も言われたくないから、耳を塞ぎ、関係を断ち切る、という人もいると思いますが?」

「確かにそういう人もいるでしょう。でも、私はそうしません。あなたの言っていることが正しいのであれば、それは実行しなければいけないと思います」

筆者は、その相手から、何か反撃らしき言葉が投げかけられるのを待った。怒りだけでなく、蔑みや、嘲笑や、悪意でも良い。だが、その人は筆者を責めない。言いたいことは山ほどあると思われるし、材料にできるものもあるかも知れないのに、決して責めず、攻撃の言葉を使わない。権威を持って威圧しようと思えば、それもできるのに、そうせず、その代わりに、言った。

「でも、あなたも最初に約束してくれたことを守ってくれなくてはいけませんよ?」

拍子抜けするほど、争うつもりのないその姿勢を見て、筆者は、ただ頷かざるを得なかった。当ブログを巡る訴訟を担当してくれた裁判官、そして、筆者に助言をくれた裁判官を思い出すのだが、彼らと同じように、その人にも、筆者のすべての負の思いを吸収し切ってしまうくらいの包容力と理解力があった。

いわば、筆者の側で感じている悲嘆、悩み、苦しみなどは、すべてお見通しだと言えるほど、言葉にしなくとも伝わる人間力のようなものがあったのである。

それだけの理解を受けていることが分かると、どんなに立腹する瞬間があっても、この人の言い分には決して逆らえない、この人を傷つけることはできない、この人と争うこととはできない、と思わされてしまう。

そして、絶対にこのような人を敵陣に渡すことはできないから、何としても信頼関係を失うことはできず、問題が大きくなるよりも前に、関わりを修復しよう、と思わされる。

前から書いている通り、キリスト者はみなそうであるが、筆者にも、人々に対する試金石としての役目がある。確かに、筆者にも未熟なところはあり、それゆえ、誤解が生まれることもあるのだが、その未熟さや誤解もすべて含めて、筆者に対して、人々がどういう態度を取るのかが、その人たちのその後の命運を分けてしまうのである。

もしも筆者が若輩者だから、未熟だから、力がないからと、あるいは性別により、筆者を見下げ、その主張を退け、筆者を踏みにじってしまうと、その後、決定的にその人々は暗闇の軍勢に引き渡されて、その後の人生を狂わされてしまう。

それも、並大抵の狂わされ方ではなく、誰が見てもおかしな人生を送り始めることになってしまうのである。それが、彼らが暗闇の勢力に引き渡されたことの証左である。

ある時は、団体まるごと、暗闇の勢力に引き渡されることもある。そうなると、その団体はもはや栄えることもできず、四、五年もする頃には、何かのスキャンダルに見舞われて不正が明らかになるだけである。

だから、筆者は、愛する人々を、決して敵に渡したくないという願いを持つようになった。人々が筆者に対する恨みに燃えて、自分は裏切られた、見捨てられた、罪に定められた、プライドを傷つけられた、信頼されなかった、という思いだけを抱えて、生涯を地獄の業火で焼かれて、憎しみと復讐心だけを糧に過ごすようなことには決してなってもらいたくはないし、もしも人々の心を取り戻せるなら、何としても取り戻したい。

昨今、筆者に和解の手を差し伸べた人は、筆者の非難の言葉をことごとく吸収してしまい、筆者の新たな要望をかなえる代わりに、筆者にも新たな約束をさせた。

敵かも知れないと身構えていたその人は、筆者に向かって、頼もしい友になれと、有力な助言者になれ、参謀になれ、カウンセラーになれ、といったニュアンスのことを言ったのである。

筆者はまたしても驚いてしまった。筆者よりも強い立場にある者が、筆者に助言を求めるなど、あって良いものだろうか。しかも、あわや敵対関係に陥るかというときにである。

だが、そのへりくだりに、筆者はすっかり戦闘意欲を失い、むしろ、懐柔されてしまったのである。争い事としては、これでは徹底抗戦ができないので、敗北なのかも知れないが、人間関係としては、そうではない。

むろん、これは最終的な和解というよりも、むしろ、おそらくこれから提携して大きな困難を乗り越えなければならない奮闘の始まりとなる可能性があるが、それが分かっていても、やはり人は孤軍奮闘するのではなく、協力することでしか立ち向かえない困難があることを思わされる。

筆者は、これまで自分の持っているエネルギーの使い道がよく分からず、悩んで来た。職場などでも、博士号を持っているか、博士課程で学んだような人たちを何人か身近に見かけたが、その人たちはいずれも、常人を上回る非凡で圧倒的なエネルギーを持っていた。

それと同じように、司法試験を受けて裁判官や弁護士になったりする人々にも、常人の及ばない巨大なエネルギーがあると思われる。それは生まれ持った人間としての器の大きさ、力量の大きさである。

しかし、これまで筆者は、そういう人たちに関わることも非常に少なかったので、自分の持っているエネルギーを上回る力を持つ人に出会うこともなく、筆者の主張や思いを真正面から受け止める力量のある人もおらず、それだけの知識や、経験を持つ人もおらず、助言を受ける機会も、理解を示してもらう機会もほとんどなかった。

むしろ、弱い犬ほどよく吠える、といった具合に、力の弱い人は、自分が攻撃を受けていると少しでも感じると、もうそれに耐えられず、ものすごい勢いで吠えかかってきたりもする。

悪意などなくとも、ほんのちょっと誰かから何かを言われただけで、生涯、恨みに燃えて、復讐しようなどと考えるほど、器の小さい人も、世にはいないわけではない。

だが、大きな犬は、小型犬から吠えられても、びくともしないし、ゆったり構えている。それどころか、遠くから小型犬の姿を見かけただけで、威圧せずに、敵対心を和らげることもできる。

大きな犬と小さな犬が、仲良く互いの面倒を見ていたり、犬と小鳥が友達になったりしているのを見るのは、とても快い、慰めに満ちた光景である。

そういうことが、人間としての器の大きい人には簡単にできてしまう。敵対者さえ魅了し、自分に対するすべての不利な訴えを、何の策略も打算もなしに、到達前に空中で打ち砕いてしまうことができる。

だが、それには、人間としての力の大きさがものを言うだけでなく、やはりへりくだりのためであろうと思わずにいられない。

人々が、自分よりも弱く、無力な者の訴えの前に、率直にへりくだり、悔い改めや、和解や、譲歩や、償いによって、新たな関係を結ぶことを申し出るのを見るとき、何かしら得も言われぬ感動を覚え、彼らが立ち帰ったことが、我がことのように嬉しく、筆者はそういう人たちに対して全く闘う意欲がなくなってしまうのである。

以前には、筆者は主張を受け止められず、むなしい奮闘しかしていなかったかも知れないが、今は、筆者よりも強くて、心ある善良な人たちが、筆者の悲しみも、痛みも、苦しみも、怒りも、悩みも、ためらいも、小骨を取り除くように、丹念に取り去って行ってしまうので、筆者は議論の途中で、むしろ、彼らのファンか、心強い味方か、友のようにさせられてしまう。

これは明らかに筆者よりも強い者が現れたことを意味する。筆者にはない力を持ち、そして、筆者の弱い所を覆い、欠けた所を満たし、痛みを和らげることのできる共感能力と権威を持った人たちが、一人ならず現れ始めたのである。

そういう状況に、筆者は深い慰めを覚えている。

動かない壁に向かって、何かを訴え続けるのは、とても骨の折れる作業であり、それが耳の痛い苦言を他者に向かって呈するような内容であれば、嫌われたり、憎まれ者になることも覚悟せねばならず、非常につらいことである。そういう風にしてまで、何かを言わねばならない立場は、孤独かつ痛みに満ちたものである。

しかし、それを聞き入れて謝罪と償いと和解のできる人たちが次々と現れるとき、その言葉の意味は全く違ったものとなる。

筆者が、他人に悔い改めを迫るなど、全くおこがましい作業に思われるかも知れない。だが、筆者は、指導者や、権威者としてそんなことを他者に向かって命じているのではなく、人を辱めるために言うのでもなく、ただ自分自身のやむにやまれぬ思いを、そして、正しいと信じることがらを打ち明けているだけである。
 
筆者自身も、筆者の言葉も、未熟で不正確な部分があることであろう。それにも関わらず、人々が筆者の呼びかけの前に、へりくだってひざを折り、対立を乗り越えて、自分の歩む道を変えて行くのを見させられるとき、何かそこに筆者を超えた力が及んでいることを思わないわけにいかない。

筆者の忠告を無用なものとして退け、憤りに満ちて立ち向かったり、無視して通り過ぎるのは、実に容易である。それなのに、取るに足りない筆者の忠告の前に、自らひざを折り、へりくだり、あなたには何が必要なのかと問うて来る人々の姿を見るとき、また、彼ら自身にも、筆者の力が必要だという言葉を聞かされるとき、何か今までとは全く違った関係性が出来つつあるのを感じる。

筆者がどんな人間であれ、真実を訴えたことで、壊れない関係が現れたのである。うわべだけを取り繕い、互いの耳に心地よい言葉ばかりをささやきあっているから、関わりが続くというのではなく、本当のことを言っても壊れない、これまでとは異なる関係が、次第に、姿を現し始めたのである。

こうして、決裂し、壊れるはずだった関係が、修復され、告発されていた人が、罪赦されて歩き出すのを見、裁判所へ向かう道すがら、訴えたはずの相手が追いかけて来て、和解を呼びかけ、償いを申し出、途中まで書いていた訴えを、筆者が自ら破り捨てることとなり、判決によって不法行為の認定を受けて当然の相手が、潔白となり、それを見て、筆者自身が、まるで自分が解放されたかのように、大いに喜ぶ・・・。

そんな具合に、悔い改めと、罪の赦しと、償いと、和解が、これでもかというほど連続して起き、人々が解放されるのを見ることで、筆者は、本当に喜びと感動を覚えるようになった。
 
しかも、それによって筆者が傲慢になったり、栄光を受けたりすることもないのである。相変わらず、筆者は見栄えのしない干潟そのものであり、権威を持って命令する立場にはなく、むしろ、うわべは、筆者が罪に定められているようにしか見えないので、何かが筆者の功績だとたたえられるようなことは決してない。

筆者にとって大切なのは、自分自身ではなく、人々が正しい道に引き戻されて、自分を縛っていた罪による告発の力から解放されることである。

病も、死も、根本的には、何もかも人を縛る罪の力から来る。

その力を源から断ち切ってしまうことにより、人々は解放される。だが、そのためには、誰かが彼らに対して真の意味での和解勧告をなし、人との和解だけでなく、神との和解の可能性があることを告げなければならない。

知らずに罪によって浸食されている部分に対し、十字架の切り分けの力がどうしても必要なのである。

筆者は、そういう意味で、筆者自身の中に、何か非常に不思議な解放的な力があって、それをこれまで周囲の人々が、何としても引き出そうと、筆者に殺到して来たのを知っている。だが、それを引き出す秘訣を知っている人たちは非常に少なかったため、多くの人々は、それを得られないまま、むしろ、筆者の不倶戴天の敵のようになって去って行った。

だが、そうした決裂が何度起きても、今なお、筆者は自分の中に「干潟」が存在していることを知っている。そして、これが機能するための設備を建設し続け、その可能性を開発し続けている。

そうしていたところ、その設備が間もなくフル稼働するというときに、真っ先に、その水が欲しいと名乗り出る人たちが現れるようになった。筆者が常に追い詰められて、生きるだけで精一杯となり、その上、争ったり、戦ったりしているだけのように見える中、どうして彼らは、それでも、筆者の中に、彼らのための慰めや解放や平安が用意されていることを知っているのか。

なぜ筆者から甘い言葉を聞かされるのではなく、耳の痛いことを言われている最中に、筆者の中に、彼らのための慰めがあることを、この人々は察知するのだろうか。
 
だが、他ならぬ筆者自身が、それが確かにあることを知っている。そして、それが現れるために、筆者自身が、打ち砕かれねばならないことも知っている。そのために、一時的に、誤解を受けたり、憎まれたり、悲しみを負うことも避けられないのであり、栄光ではなく、痛みや、恥や、蔑みを負わねばならない時もある。

だが、たとえそのようにしてでも良いから、何とかして、罪の力から、死の力から、人々が解放されて、自由になって欲しいというのが、筆者の切なる願いであり、そのためにこそ、筆者は天の秩序を地に引き下ろそうとして奮闘しているのであって、そのためにこそ、すべてを主張している。

それは、告発のための告発ではなく、人々が告発から解放されて、自由になるための第一歩である。

なぜそんな苦労を背負わねばならないのか、知らないが、それでも、ただ心の命じるままに進んで行くのみである。何があっても、その奮闘を恥じるつもりもなければ、自ら退却するつもりもない。

だが、本当に不思議なことに、わざわざ決意のほどを語らなくとも、以上に記した通り、人々が筆者の敵になるどころか、自ら謝罪と償いと和解を求めて、駆け寄って来るようになった。しかも、それがすべて信仰を持たない世人ばかりであることに、筆者は改めて意義深いものを感じている。

今、救いをもたらす福音は、もしかしたら、神の家から取り上げられて、その他の人々に向いているのかも知れない。
 
これらの人々は、筆者の人生において、出会うべくして出会わされているのであって、多分、これからもかけがえのない役目を果たしてくれるだろうと思わずにいられない。

いずれにしても、それはすべて主のなさる解放のわざであって、筆者の手柄ではない。

当ブログの題名の通り、高く掲げられるのは「私」ではなく「キリスト」ただお一人なのである。彼は栄え、筆者は衰える。それが命の水が流し出されるための唯一の原則である。

私ではなくキリスト―どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために取り成してくださるのです。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。

「わたしたちは、あなたのために、
 一日中死にさらされ、
 屠られる羊のように見られている」

と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にあるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:31-19)

さて、今回は、人の心から恐れの暗がりを取り払うことの必要性について書きたい。

当ブログでは、毎回、裁判の話題に熱中している。書いても書いてもテーマが尽きないほどに、訴訟を提起したことにより学んだ内容が多かったためである。

たとえば、物事を光の下に晒すことの重要性に改めて気づされたのも、訴訟の最中である。

人の記憶の中には、しばしば、自分でも光の下に持ち出すことがためらわれる多くの事柄が存在する。誰にでも、できれば語りたくない、人の目にさらしたくないと思う様々な出来事が存在するだろう。だが、そうした出来事も、かえって公然と光の下に持ち出すことで「解毒」できる場合がある。
 
裁判で取り沙汰されるほぼすべての事件は、それ自体、誰にも明るみに出すことがためらわれるような出来事ばかりである。

だが、事件をあえて人の目の前に持ち出し、裁きに委ねることで、悪しき影響力が焼き尽くされるようにして消失し、無効化される場合がある。
   
こうして人前に持ち出されなくとも、人の心には、誰しも、自分で気づいていない暗がりが存在する。それはちょうど部屋の中で、照明が行き届いていない、埃っぽく暗い片隅のようなものだ。暗がりの度合いも様々で、真っ暗闇のこともあれば、薄暗がりの場合もある。

この暗がりは、人の心の恐れと直結している。外からやって来る様々な良からぬ思念や影響力がこの一角に吹き寄せられる。思いがけない不安、良からぬ想像、悪い予感、悲嘆、失意、落胆、様々なネガティブな思念が、この一角に吹き溜まりのように寄せ集められるのだ。
 
だが、どんな暗がりであろうと、心の中に暗闇を残しておくことは望ましくない。そこで、心の大掃除をして、自分でも気づいていない恐れを払拭・克服することは重要である。

筆者が最近気づいたことは、人生に起きる様々な出来事は、それが良いものであろうと、悪いものであろうと、(特にクリスチャンの場合)、その人自身の意識的・無意識な許しのもとでしか起きないということである。

それはごく些細な事柄から大きな事件に至るまで、すべて同様である。特に、信仰者の場合にはそれが当てはまる。なぜなら、クリスチャンはすでにサタンの支配下から連れ出され、愛する御子の支配下に入れられているため、クリスチャンの人生に起きる一つ一つの出来事は、信仰によってコントロールが可能であり、決して、この世の人々のように、不可抗力に翻弄されることはないためである。

たとえば、筆者はペットと田舎道を散歩している時に、危険な大型ダンプカーがそばを通り過ぎることに危機感を募らせていた時期があった。

しかし、何度も散歩しているうちに、いつどんな車とすれ違うかまで、自分の無意識的なコントロールを及ぼせることがだんだん分かって来たのである。

むしろ、いつ危険な車とすれ違うかと、常にびくびく警戒しながら散歩していることで、かえって散歩の時間を無益な心配に浪費してしまう。そういう恐れを克服し、安全な散歩時間を「自ら創造する」ことが実際に可能なのだということが分かり始めたのである。

一体、ヴィオロンは何を言っているのか、気でも狂ったのだろうかと、信じない人々は信じなければ良いが、いずれにしても、人は自分の人生に起きる出来事の多くを、自分自身の心に恐れによって自ら招いている部分がある。
   
多くの人々は、自分の人生の未来について、ああなると困る、こういう出来事が起きるといけない、などといった様々な悪しき想像を巡らし、これを常に心の負担としながら、自分自身が人生の主人として、堂々と道の真ん中を歩いて行く権利を自ら失っているのである。
 
堂々と安全に散歩するために、まず排除しなければならないのは、こうした様々な悪しき思念である。

これはもちろん比喩である。筆者は、人の人生におきるすべての出来事が自業自得だと言って、不運な事件に遭遇した誰かを責めたいがために、このようなことを書いているわけではない。
 
たとえそうした出来事が起きても、人は必ず自分の心の中で、その出来事と取っ組み合って、これを昇華せねばならないのであって、さらにもっと言えば、そのような出来事に見舞われるよりも前に、まずは自分で自分の心の恐れの暗がりを取り払い、悪しき思念を、それが実現するよりも前に、道の脇に退避させなくてはならない必要性があることを説いているだけである。

退避せねばならないのは、私たちではなく、ダンプカーの方なのである。いや、もっと正確に言えば、ダンプカーに遭ってしまうかも知れないという恐れや思念自体に、道の脇に退避してもらわなくてはいけないのである。

こうして、心に不安を抱かせる思念、無意識に沸き起こる不安などを征服し、これを自分で道からどける作業が必要となる。

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」 (箴言4:23) 
  
初めのうちは、方法論が分からないので、不安を交わすだけで精一杯であろうが、そのうち、散歩中の対向車を「未然に」撃退する秘訣が分かって来る。

この方法論は、すべてに当てはまる。たとえば、当ブログで前々から書いて来た通り、訴訟などにおける被告の行動は読めないし、反訴や、提訴、控訴の可能性などを、予めコントロールするなど誰にも不可能に思われるだろう。

しかしながら、これも道を通りかかるダンプカーと同じで、すれ違いを未然に阻止した上で、道の真ん中を堂々と歩いて行くことは可能なのである。
 
つまり、敵の攻撃をどこまで許すか、許さないかといった問題も、実はすべて私たち自身の心にかかっているのである。

もちろん、すべての戦いを最初から何もかも避けて通ることができるわけではない。むしろ、真正面からぶつかり、戦いに挑むことで、初めて心の恐れを克服、征服、撃退することが可能となる場合もある。

初回からすべての悪しき不運なすれ違いを完全に避けて通れるなどとは考えない方が良いであろう。
 
だが、そうこうしているうちに、戦いは目に見える形となって現れるよりも前に、「もし・・・したら」という悪しき思念の形ですでに自分の心で起きていることが分かって来る。

相手がダンプカーであろうと、人間の集団であろうと、方法論は変わらない。すれ違う相手が誰であれ、あなたが窮屈に道の端に幅寄せされることもなく、かと言って彼らと真正面からぶつかって事故になることもなく、自分の散歩時間を安全に守り抜いて、彼らに全く心乱されずに堂々と安全にすれ違うことは可能なのである。

あなたがそうして自分の人生の主人として、堂々と道の真ん中を歩ける日が来るまで、何度も、何度も、あなたは奇妙なすれ違いに遭遇し、それが自分の心のシミュレーションであることに気づいて恐れを征服する方法を学ぶまで、訓練を続けさせられるだろう。

人の人生の主人は、自分自身なのであって、あなたはその主導権を守り抜く術を学ばなければならない。そうでなければ、いつまで経っても、あなたは自分の人生において脇役にしかなれない。招かれざる客や、思いがけない不運な訪問者や、好ましくないすれ違いが、常にあなたの人生の主役であるかのように王座を占めて良いものであろうか。

しかし、人生の主導権を他人に奪われないためには、あなた自身が、自分の心をコントロールする秘訣を学ばねばならない。その秘訣とは、目に見える物事と取っ組み合うよりも前に、まずは、自分自身の心の目に見えない恐れを把握して、これを征服する秘訣を学ぶことである。
 
初めからすべてがコントロールし切れるわけではないので、失敗と見えることも多々、起きて来るかも知れないが、人間的な観点からは間違いと見えることさえも、キリスト者にあっては、安全の中で修正される。

カーナビが運転手がどれほど道を間違えても、目的地を指し示すことをやめることなく、運転手を叱りつけることもないように、私たちの主イエス・キリストは、根気強く私たちの行く先を示し続けて下さるからだ。

クリスチャンの人生は、ナビゲーターである御霊の導きのもとに、変わらない目的へ向かって進んでいる。そこに損失と言える出来事はない。どんなに損失や、回り道や、遅延や、停滞のように見えることがあっても、それも信仰ある限り、キリストの無尽蔵の命によって修正され、覆われて行く。

むしろ、遅延や損失だと考えていた事柄が、逆に後になってから、目的地までにかかる時間を大幅に節約する秘訣に変わっていたりもする。だから、失敗を恐れる必要はなく、停滞や、遅延や、損失や、回り道を恐れることはない。

筆者は、当ブログを巡る訴訟や掲示板に対する取り組みの中で、どれほどひどい迫害や中傷が起きようとも、これを心の中で完全に征服する術を学んだ。

これらはすべて散歩中に道ですれ違うダンプカーのようなものである。何一つその問題と本質的に変わるところはない。従って、それらはすべて起きるよりも前にコントロールすることが可能なのであり、ダンプカーが到来するよりも前に、これを阻止する方法が存在するのだと分かれば、目に見える現象に振り回されることはもはやなくなる。

そういう意味で、筆者は、当ブログを巡る訴訟の第二審が始まるよりも前から、すでにこの訴訟がほとんど決着してしまっていることを感じている。理論的には、これから提示しなければならない内容は数多くあるし、書面を作成するのは相当な時間と手間がかかり、かなり面倒にも感じられるが、霊的には、もはや戦いのほとんどの部分がすでに終了してしまっていることが分かるのだ。

それは、自分の心に沸き起こるすべての葛藤と恐れを克服するという、最も厳しい戦いがすでに終了しているためである。残るは緻密に理論を構築し、争点を漏らさず提示して行くことだけである。

これは昨年の今頃、第一審を提起した時とよく似ている。実は、その当時の最も重要な目に見えない争点は、第一審の最中に争われたような事柄ではなく、筆者がそもそも訴訟を提起するかどうかというアクションにかかっていた。

筆者の側から、訴訟が提起されることを恐れたからこそ、暗闇の勢力からはその当時、とりわけ激しい妨害が起来て来たのである。正直な話、暗闇の勢力は、ネット上でどちらが本当のことを言っているか分からないような中途半端な論争が行われている限り、誰から何を言われたところで、痛くも痒くもない。

だが、訴訟となれば、社会的影響力が及ぶ、はっきりした決着がつくことになる。

だからこそ、妨害が起きて来たのであり、同様のことは、クリスチャンが何か一つの決定的なアクションを起こそうとする前には必ず起きて来る。

たとえば、訴訟を提起すれば、判決を得るかどうかが次なる決定的なアクションとなるだろう。勝訴の見込みがあるならば、当然ながら、判決に至り着かせまいとする様々な妨害が起きて来るのは必至だ。

敵はささやくだろう。あなたの理屈には弱いところがあるのではないか。前例のない争いで、冒険をするのは危険ではないのか。裁判官は本当に味方か。当事者の誰かが控訴すれば、争いが長期化するのではないか。賠償が認められても、支払われなければ意味がないではないか。そんなリスクを負ってまで、戦い抜いて白黒決着をつけることに、本当に合理性があるのか、云々・・・。
 
こうしたささやきは、すべて「心のダンプカー」である。あなたは一体、何を望むのか。どんな目的にたどり着きたいのか。目的地を思い浮かべるより前に、すれ違うかも知れない様々なダンプカーを恐れて散歩を取りやめるのがあなたの第一目的なのか。

むしろ、実際に目に見える出来事が起きる前に、このダンプカーに道を通らせないことが重要である。もしもそれでもダンプカーが通ったら? 意に介さないことだ。二回目、三回目に、同様のことが起きそうになっても、二度と通らせない秘訣を一度目のすれ違いの時にしっかり学んでおくことだ。

その道は、あなたの道であって、ダンプカーのための道ではないのである。

そして、その道は、キリストがその命を投げ打って、あなたのために切り開いて下さった道なのだ。あなたはこれを邪魔者に譲ってはいけないし、誰にも塞がれてもいけない。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6).

いずれにしても、私たちが人生で遭遇するすべての戦いに共通することは、敵はあれやこれやの目に見える人間ではなく、もしくは、目に見える様々な悪しき出来事でもなく、私たちの心に暗闇の勢力から直接もたらされる各種の恐怖にあるということだ。
 
恐怖や悪しき思念が、心の中に吹き寄せられる一角を作らないように、私たちが自分の心を点検し、これを光の下に持って行き、すべての暗がりを取り払って、恐れを無効化する必要性がある。
 
暗闇の勢力の用いる最も主要な武器は、死と恐怖である。そこで、私たちが自分の心を見張り、恐れを征服する秘訣を学ぶことこそ、人生において様々な戦いや困難に勝利するために、第一義的に重要な課題なのである。

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(19)―わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。

さて、神はこの世の時空間の制約や、私たちの思いの限界の只中から、人知を超えた、偉大な解放のわざをなして下さると筆者は信じて疑わない。

筆者はジョージ・ミュラーの「椅子」の話がとても好きである。孫引きになってしまうが、「祈りの小部屋 -バウンズ著、「祈祷の目的」から-」(「同労者」第23号(2001年8月)から引用したい。
 

  D・W・ホイットル少佐はブリストンのジョージ・ミュラーについて祈りの不思議に関する序文で次のようにいっている。

 「私はケベック(カナダ)からリバプール(イギリス)に航行とする朝、急行列車中でミュラー氏に会った。小船が旅客を載せて本船に行く三十分前に、彼は係の者に、ニューヨークから甲板用の椅子がとどいているかどうかをたずねた。だがまだ来ていないばかりか、とても汽船の間に合わないだろうと答えられた。

私はミュラー氏に向かって、自分は今、一つの椅子をすぐそば の店で買ったところである、時間までにはまだ数分あるから一つ買ったらよかろうとすすめた。すると彼は『いや、兄弟よ、天の父はニューヨークから椅子を送って下さる。それは家内の使いなれたものです。私は一人の兄弟に手紙を出して、先週のうちにここに到着するよう依頼してやったのです。彼は私が期待したように早くやってくれなかったけれども、神様はあの椅子を送って下さるに相違ありません。家内は船に弱いのでどうしてもその椅子がほしいのです。それで私は昨日から天の父にそれを送って下さるように願っておりました。ですから父はそれを送って下さることと信じます。』と答えた。

この愛すべき神の人は数ドル出せばミュラー夫人に危険な旅行をさせずにすむものを、あまり極端に信仰の原則を応用しすぎると私はおそれた。ュラー氏が小荷物室を去ってから十分もそこに居たが丁度私が急いではとばに行く時に、一台の馬車が道を走って行った。その荷物の上に、ニューヨークからとどいたミュラー夫人の甲板椅子があった。それは直ちに世話人の手に渡された。(これは主が私に与えたもうた教訓であった)ミュラー氏はにこにこした子供のような態度で深くそれを喜び、うやうやしく帽子をとって手をその上におき、椅子を送りたもうたことを天の父に感謝した。」・・後略(バウンズ、「祈祷の目的」、東宣社、1957、p.31)


 
現在、筆者が直面している多くの困難を見て、人々はこのような試練に女性が一人で耐え抜くことは無理であろうと考えるかも知れない。ましてや、そこで勝利を勝ち取るなど、あり得ないと・・・。

だが、筆者は少しも恐れておらず、落胆もしていない。現在、筆者が抱えているすべての困難に、神は必ず、御名にふさわしい形で、解決を与えて下さるものと信じている。だから、筆者は、車を運転する時のように、障害物を見ないで、進路だけを見つめて進んで行く。

 神を待ち望むことには希望がある。主は信じる者の呼び声に必ず応えて下さり、私たちが待ち望んでいる答えを必ず与えて下さると分かっているからだ。この方は、私たちの栄光をお受けになるにふさわしい方。私たちの信頼を決して裏切ることなく、すべての問題に対する勝利に満ちた解答となって下さる方である。
 
* * *
 
さて、村上密は5月2日の記事で、まるで筆者が提起した民事訴訟がすでに終わったがごとく、筆者が完全敗訴したと叫んでいる。

サイバーカルト監視機構は虚構  
 
 ヴィオロンは私に対する民事訴訟に完全敗訴してから、攻撃をインターネット上に移している。記事の一つ一つは、頭の上に燃える炭火を積み上げているようだ。相変わらず、事実と想像を交えて記事を書き続けている。これは事実、これは私の想像であると区別をしてくれれば、読者は混同しなくて済むはずであるが、混同することを目的としている可能性があるので、そのような丁寧さはない。サイバーカルト監視機構を想像ではなく事実と思っている限り、常識のある読者は混同することはないと思われる。 」

まるで掲示板の投稿のような短い文章に驚かされる。相変わらず、具体的根拠の裏づけがなく、筆者がサイバーカルト監視機構の実在性を訴えているかのように決めつけて非難しているだけである(筆者はそのような機関が実在しているとは一度も述べていない。)

筆者は前回の記事で、村上とその周囲にいる「側近」のような信者たちが、まるで念仏のように、「監視はなかった」、「マインドコントロールはなかった」、「人権侵害はなかった」と自分に言い聞かせることで、自分たちがカルトから強制脱会を遂げた際に負った深い心の傷を覆い隠し、また、他者に対して行っている行為の残酷さからも目を背けようとしていると書いたが、この記事もまさにそうした「念仏」の類にしか見えない。

やはり、村上の支持者たちが、一人の女性信徒を寄ってたかって、数千件のコメントと共に掲示板で口汚い言葉で罵り続けたことが、よほど深い罪悪感となっているのではないかと見られる。だからこそ、自分は掲示板の騒ぎとは無関係だと強調するために、こうした記述を繰り返し行わないわけにいかないのではないだろうか。

村上の記事では、いつも白黒反転論法が使われている。筆者は少し前の記事で、村上がカルトに入信した青年をアメリカまで捜索に行ったと書いている記事を指して、この記事には、事件の発生年月日が記されていないため、これを読んだ読者が、最近起きた出来事だと誤認する可能性があり、そして、村上はその危険があることを十分に知った上で、あえて読者の誤認を誘う曖昧な書き方をしている可能性があると指摘した。

その非難を、村上は根拠も示さずに、筆者に置き換え、あたかも筆者が読者の誤認を誘う内容の記事を書いているかのように非難しているのだ。

杉本もそうであったが、村上も、誰かから批判を受けると、その批判を常に裏返しにして自分を批判した者に投げ返すことで、事実から目を逸らそうとすることをやめられないらしい。「悪いのは私ではない。私を非難しているあいつこそ、悪事を犯しているのだ」というわけで、延々と他人を非難するばかりで、いつまで経っても自分の過ちを認識することもない。

だが、そのようにして、人が己が罪悪感から目を背けるために様々な形で現実認識を歪め、自己正当化をはかっていると、それがついにはやがて深刻な認知の歪みへ結びつき、最終的には正常な意識を失わせる危険がある。

これまで幾度となく繰り返し強調して来た通り、「主を畏れることは知恵の始め。」(箴言1:7)であり神を畏れないことは精神崩壊の始まりである。「無知な者は知恵をも諭しをも侮る。」’結果として、自分の罪を認めないためのごまかしを重ね、ついには事実を事実と認識する力さえも失って行くことになる。

さらに、村上は、筆者が村上を批判する記事を書くことで、あたかも燃える炭火を頭上に積み上げているかのように書くが、自分に刃向う信者に対して、このような台詞を使うのは、まさにカルト牧師のすることではないだろうか?
 
村上は、自分は善人であり、筆者は悪人であって、筆者は村上を批判することで、罪に罪を重ねているだけだと言いたいのである。だが、「燃える炭火」という言葉が使われている該当の聖書箇所は以下の通りである。

愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12:19-21)

これは悪人が悪事を重ねることで、自分に降りかかる報いを増し加えているという意味ではない。そもそも燃える炭火を頭上に積むとは、悔い改めの儀式を指しているらしいから、この文章は、誰かに悪さをされても、悪に悪で報いないで、かえって善で報いることによって、敵の良心の呵責を引き出しなさい、といった意味に受けとるのが通常であろう。

従って、村上の言葉は、聖書の御言葉の理解を根本的にはき違えたものと言えるが、その点をさて措いても、村上が自分を善人であるとみなし、筆者が悪人であるとみなす根拠はどこにあるのか?

筆者は前の記事で、預言者ダニエルが獅子の穴に投げ込まれて無事であったことについて書いた。そして、その後、かえってダニエルを讒言した者が、この穴に投げ込まれて滅びる結果になったというくだりに触れたが、その時にも、裁きをなして下さる方は神であるということを強調している。

ダニエルの敵は、ダニエルに刃向ったから滅びたのではなく、まことの神により頼まなかったから滅びたのである。私たちは、小羊の血潮に隠れるからこそ、贖いにあずかることができるのであって、私たちが神の裁きに耐えうる根拠は、私たちの自己の正当性にはなく、カルバリの十字架にある。

だが、村上の記事には、何故、村上は正しく、村上を批判する記事を筆者が書くことが、「頭の上に燃える炭火を積み上げている」ことになるのか、根拠が何も記されていない。

いや、村上が筆者を断罪する唯一の根拠とは、筆者がありもしないサイバーカルト監視機構の話を記事にして、村上を批判したから、という以外にはない。
 
要するに、村上の記述は、彼が自分を現人神のように考えており、自分に逆らう人々は皆罪人、とみなしている様子を読者に感じさせるだけである。これぞカルト的思考と言わずして何と言うのだろうか?

しかも、事件は控訴中である。それにも関わらず、村上の記事では、そのことが書かれていないことも、極めておかしな現象である。村上は、まるで民事訴訟が一審で終わって、村上の完全勝訴が確定判決となり、その後、筆者が仕方がなく「攻撃をインターネット上に移している」かのような印象を読者に持たせる書き方をしている。

むろん、こうした文章が、あえて読者の誤読を誘うための誘導(虚偽のプロパガンダ)であることは言うまでもない。だが、それ以前に、筆者は、村上の事実認識が、根本的に狂い始めているのではないかという気がしてならない。

なぜなら、杉本にも同様のことが起きたからである。杉本ブログに集まる人々は、様々な中傷や罵倒の言葉を用いて筆者を口汚く非難しているうちに、自分たちが用いている非難の言葉が、大袈裟な作り話であることを忘れ、次第に自分たちの発言を事実であるかのように思い込むようになっていったのである。自分で自分の嘘にとらわれ、現実認識そのものが狂って行ったのである。

以前に筆者が控訴したことを、筆者に先んじて発表したのは村上自身である。にも関わらず、筆者の側から控訴がなされたことを書かずに、事件が終わったかのような印象を振りまいている様子を見れば、 村上の意識は大丈夫だろうか、という疑問が生まれて来るのは当然だ。きっと彼は、よほど控訴審のことを考えたくないのだろう。村上はすでに筆者に対する権利侵害の事実を積み重ねているため、二審は一審のようにならないことを、内心では十分に理解しているのではないかと見られる。

* * *

さて、それに続く村上の最新記事も、相当な危うさを感じさせるものである。

教会の暴走  
 
 教会のカルト化は教会の規模に関係がない。カルト化していくときは、教会が閉鎖的になる。牧師は、教会を閉鎖的にしていくことによって自分の権威を確立しようとする。牧師は牧師におもねる人を役員にする。そして権威主義を共有する関係となる。側近はけっして牧師を公の場では非難しない。個人的にはなおさらである。持ち上げることで、牧師から引き上げられる。牧師を持ち上げれば、実は自分の教会内における地位や名誉が上がっていくと思っている。持ち上げる人が権威主義の体質を持っているのである。同じ体質の人が集まりだすと、教会はカルト化へ勢いがつく。それは暴走の始まりである。 」

この記事には、具体的な日時、場所、教会名の特定がない。まるで一般論か、他人事のような書き方である。だが、筆者はこれまで、村上の教会こそ、まさに暴走を遂げている教会であることを再三再四、指摘して来た。

村上はまず、後継牧師になるはずであった長澤牧師を不明な理由で主任牧師の地位から退け、自分の妻を主任牧師に据えた。村上はその当時、自分は60歳ではなかったとか(60歳を迎える直前であった)、牧師を引退したわけではないなどと、些細な訂正事項をあげつらっては、筆者の論に噛みついている。

だが、問題はそういう些細な事柄にはなく、村上が正式な手続きを経て選出された後継者を、正式な手続きによらずに退けたことにこそある。長澤氏には「あなたには(主任牧師としての)神様の召しはありません」という内容の牧師たちの連名による通達が届けられたそうで、その後、村上は自分の身内を主任牧師に据えることで、半永久的に教会内で自分たちファミリーの権威を保とうとしたのである。

普通の教会では、こんな不明な人事の私物化が見逃されることはない。これは教会の分裂騒ぎに発展してもおかしくない出来事である。にも関わらず、京都七條基督教会では、この人事に対して、大々的な抵抗も起こらなかったばかりか、その話が外へ漏れ聞こえることさえなかった事実を考えると、村上がいかに常日頃から、教会内で、自分が統一教会から強制脱会させた信者たちを役員に据えるなどして、自分の意見に反対する者がいなくなるようなイエスマンばかりの体制を築き上げて来たかがよく分かる。

おそらくは、反対者・批判者が現れると、今、村上が筆者に対してそうしているように、早速、「名誉毀損だ!」などという言葉で、誰も公然と批判の声を上げられないように圧力をかけて来たのであろう。

このように、七條基督教会では、村上の権威主義を信者たちが共有する体制が出来上がっていればこそ、村上の行った行為の理不尽さを明るみに出す声が上がらず、村上に対する否定的な評価も、外へ持ち出されないのである。

筆者は、村上の身内の間で、不幸な事件が相次いでいることも書いた。通常の教会ならば、牧師家庭で子供たちに不幸な事件が起きたりすれば、そもそも自分の家庭も治められない人間が、牧師としてふさわしいのか、などという非難が、信徒から湧き起こって来るのが当然である。

ところが、村上ファミリーに関しては、そうした噂すらも、これまで外に出て来ることがなかった。それも異常な現象であり、さらにこの問題を指摘した筆者が、早速、掲示板で袋叩きに遭わされたことも、異常現象に輪をかけている。
 
こうした現象を見れば、読者は、村上の支持者たちがどれほど必死になって、村上に関する否定的な噂や、批判や、反対を抑え込んで来たかが分かると共に、京都七條基督教会の信徒たちが、事実上の恐怖政治下で、言論・思想統制を受けているにも等しい状態にあり、村上に不利な事実について、頑なに沈黙を守らざるを得ない深刻な理由が存在することを、如実に理解できよう。
  
遠方から筆者がそのことを指摘しただけで、掲示板での騒ぎ(人権侵害)が起きて来るわけだから、暴走している教会とは、まさしく村上自身が所属している教会の他ならない、という結論が生じるのは当然である。

村上のブログは、彼の運動の傘下に立てこもっている人々に向けて書かれたプロパガンダであって、要するに、「ヴィオロンみたいに好き勝手な発言を重ねていると、おまえたちもいずれこうなるぞ」という見せしめのために、筆者に対する記事が発表されているだけである。そうした事実を読者は見抜かなければならない。

* * *

最後の記事も同じだ。

連休はカルト研修の時期 2  
  
  「連休はカルトの研修の期間」の記事をブログに掲載した。その後はどうなるかと質問があった。夏にさらに研修がある。大学出の学びが再開すると、今度は勧誘する側になる。研修のテキストがあり、段階的に学習して、その後は実践となる。その実践が会員を増やすことである。5月の連休も帰らない。夏休みも帰らない。どんな理由があろうが、家に帰らないことを自立していると思い込んではならない。カルトに勧誘された子供は親に嘘をつくように指導される。親よりもカルトの指導者の言うことを聞くようにコントロールされている。友達と旅に出るとか言っても安心できない。 」

こういう短い記事は、具体的な根拠も示されておらず、日時も団体も特定されておらず、些細な出来事を普遍的な一般論のように見せかけるのに役立つ。統一教会などの一部の団体にしか通用しない話が、すべてのカルト団体に当てはまる話であるかのように拡大されていること、個々具体的な事例の違いを無視して、一つの事例があらゆる家族に当てはまる危険であるかのように話が拡大されていることにも、読者は注意しなければならない。

村上は、子が親に嘘をついてカルトに入信する行動だけを疑問視している。相変わらず、子どもの言い分を疑えと言いたげな記事である。だが、幾度も述べて来た通り、子がカルトに走るのには、必ず、それなりの理由がある。ほとんどの場合は、子どもの頃から育って来た家庭環境が重大な精神的重荷となって、そこからの逃避の手段として、子供はカルトに走ることになる。

そこで、子どもがカルトに入信することだけを危ぶみ、子どもの行動だけを疑問視しているのでは、何らの問題解決にもならないのだ。大人たちが、そうなった深い動機を探り、親自身が、子どもを追い詰めていることを認識し、家庭にとどまらず、大人たちの作って来た社会の歪みを深く認識することなくして、根本的な問題解決に至ることはできない。

だが、村上の論では、村上を含め、自分たち大人自身が、子どもたちの前に犯して来た罪を自己反省するという視点は、徹底的に欠けている。自分たちは常に正しく、不可解な行動を取る子供たちが誤っているという以外の切り口はない。

そのことは、引いては、村上が常に強い大人たちの味方となってしか、物事を認識できず、弱い者の心の本当の叫びに耳を傾けることなく、自分自身の罪を認識できないまま、弱い者たちだけを断罪して来たという盲点を如実に示している。

それだからこそ、村上の「救出活動」には救いがないのである。聖神中央教会の被害者など、村上が手を差し伸べようとした多くの被害者たちが、この問題を見抜いて離反して行った。それは、村上の活動が、弱い者たちに心から寄り添うのではなく、彼らの弱さにつけこんで、彼らの尊厳を踏みにじり、強い者である村上が、彼らの上に立って君臨し、自己の正当性を誇り、自己の力と勝利を見せびらかすための活動になっているためである。

村上は今、筆者を「完全敗訴」したと決めつけ、筆者を嘲っているが、それと同じように、カルト被害者に対しても勝ち誇って来た。そうこうしているうちに、高慢さのうちに、己の罪が全く見えなくなって、キリストの贖いの血潮の外に出たがゆえに、村上は防御の盾を失って、終わりの時が近づいているのである。
  
* * *

さて、筆者は一審のすべての行程を通して、自分は勝訴したと誇っている村上よりも、はるかに貴重な学びと教訓、深い満足を得たと思っている。

村上は一審で不法行為を認定されなかっただけのことであって、心の中では、平安と喜びを失っている。そして、そうなった時点で、すでに勝負に負けているに等しいと筆者は思う。これから先、その事実は、より鮮明に、よりはっきりと具体的な形を取って、外に現れて来るだろう。

さて、調べてみると、一審を担当してくれた裁判官は、西日本に異動しており(*)、さらに、この裁判官が、筆者とほぼ同じ世代に属していることも分かった。ああ、それであのような不思議な親近感を覚えたのだなと、初めて納得がいった。

追記:4月1日付でこの裁判官は福岡へ異動、村上密が主任牧師を降格させた長澤牧師も同日付で博多に異動していることが発覚した。

地裁の裁判官が、サラリーマンのような多忙状況に置かれているというのは、本当のことだ。それは筆者の事件の判決言い渡し日に、同じ裁判官が、4つほどの事件の判決言い渡しを同時に抱えていた様子からも十分に伺えた。

こうした多忙状況が、非人間的なものであって、いかに一つ一つの事件の精度を落として行くものであるかは言うまでもない。

筆者は、裁判官が書いた移送申立の却下通知を読んで、この人が並々ならぬ知性と深い理解力の持ち主であることを感じ、ぜひとも判決を書いてもらいたいものだと願った。しかし、その裁判官でさえ、事件の終わりが近づくに連れて、時間的制約に追われ、書面を十分に読む時間的余裕さえなくなって行ったのである。

50頁以上に及ぶ判決文を読めば、これがどれほどの厳しい時間的制約の中で書かれたものであるかはすぐに分かる。

だから、一審判決で及ばない部分があっても、筆者はそれを誰の非として責めるつもりにもならない。それはこれから控訴審で解決して行く課題であり、関係者一同は、筆者のリクエストに応えて、なすべきことをしっかりやってくれた。そのことに筆者は深い満足を覚えている。
 
筆者は一審判決と戦うのではなく、これを土台として、さらに完全なものとするため、先へ進んで行くのである。

さて、今回の一審で、筆者が得た教訓とは、信仰によって、自分自身の制約と、他者の制約という、大きな制約の只中にあっても、その限界に押し潰されることなく、望む成果を勝ち取る秘訣を理解したことであった。

筆者は、紛争を開始したばかりの頃は、自分の心のままに振る舞うことしか知らず、被告から送りつけられる書面を、常に限りない厭わしさを持って受け止めていた。ただでさえ不愉快な、まるで怪文書のような中傷の文書が、ほとんどと言って良いほど、締め切りを超えて送りつけられることに、限りない不快感を覚えずにいられなかったのである。

だが、ある時、筆者は自分が感じている動揺や厭わしさが、関係者一同に、我が事のように伝わり、非常なマイナスの影響を及ぼしていることを知った。そして、初めて当事者感情を克服することの重要性を理解したのである。

それはある時、筆者が民事部に書面を出しに行ったときのことであった。筆者が自分の書面を提出すると同時に、被告の書面が届いていることを書記官から告げられ、これをついでに受け取らないかと尋ねられた。

だが、筆者はその時、またしても被告が締め切りを破ったことに、憤りを覚え、被告の切手代を浮かせるために、筆者はここへ来たのではないと言って、被告の書面を受領することを拒んだ。そして、書面を郵送してもらいたいと願い出ると同時に、被告に締め切りを守るよう、今一度、注意してもらいたいと書記官に伝えた。

実は、こうした会話は、その時が初めてではなく、筆者はそれ以前にも、同じことを書記官に伝えていた。そして、書記官はこの点について十分に理解し、被告に注意を促してくれていた。そこで、筆者は彼を責めたいがゆえに、こうした話を持ち出したわけではなかった。

だが、書記官がどんなに注意を促してくれても、被告の行動は変わらず、被告の書面が届けられる度に、筆者の心に沸き起こる厭わしさも、隠すことはできなかった。

思いがけないことに、ちょうどそのやり取りが行われていた最中、裁判官が偶然、そばを通りかかった。そういう出来事が起きたのは、後にも先にも一回きりのことであった。彼は顔色一つ変えず、全く見ず知らずの人物を見るように、筆者のそばを通り過ぎて行った。

裁判官が何も言わずに通り過ぎたので、筆者は書記官との会話を続けたが、しかし、裁判官の後ろ姿を見たとき、筆者は、彼がそ知らぬふりをしているのはうわべだけのことであって、実際には、筆者が心に感じている動揺は、すべて我が事のように伝わっていることが、はっきりと理解できた。

そして実際に、筆者の心の動揺は、裁判官の心中にも、非常にネガティブな効果をもたらした。その次に開かれた口頭弁論では、我々は最初から心がバラバラで、裁判官は筆者と視線を合わせずに語り、その上、一つ前の記事にも記したように、被告らの反訴の予告があったせいで、議論は大荒れとなった。

しかし、そこで筆者は、議論を制止した裁判官が、まるで筆者の身代わりのように、被告らの反訴の予告に圧迫され、これに非常な嫌悪を示しながら、受け答えしている姿を見、まるで鏡に映した自分を見せられるように、その苦しみに深い同情と共感を抱くと同時に、初めてこのままではいけないという危機感をはっきりと感じたのである。
 
気を確かに持たなければならない。すべては筆者自身の心の平穏にかかっている。これ以上、我々が、被告らの非常識な振る舞いの一つ一つに影響を受け、逐一、それに振り回されて、足並みを乱されているようではいけない。

筆者が、被告の様々な心理作戦に巻き込まれてこの先も動揺していれば、その動揺や苦しみは、周囲のすべての人々に伝わる。そして、多分、信仰者でない以上、誰一人、そのプレッシャーに耐えうる人はいないだろうから、彼らはやがて事件を持て余すようになり、筆者を救い得ない無力感にさいなまれ、それに耐えられなくなって、そのうちいずれ敵に降伏して行くだけである。

そうして私たちに分裂を来たらせ、足並みを乱し、互いに憎み合わせ、争わせ、敵対させて、決して信頼も協力も打ち立てられないようにすることが、敵の狙いなのである。そうして疑心暗鬼をもたらすためにこそ、被告は常識外れな行動を繰り返し、心の揺さぶりをかけているのである。

そこで、以上のような事態の発生を防ぐためには、まずは筆者が自分をしっかりと持って、全力で自分の心を敵の攻撃から守り、周囲の人々の心をも、守ることができなければならないと分かった。それができて初めて、円滑な協力関係が打ち立てられ、人々と心を合わせて一つの目的へ向かって行くことが可能になる。

筆者はそれまで、筆者が心の中でどれほど苦しもうと、それは他者にはまるで関係のないことだと考えていた。また、自分の苦しみは、取るに足りない問題であって、筆者の心の状態が、他者にそれほどまでに深刻重大な影響を及ぼすことはないと考えていた。だが、この時から、そうでないことがはっきり分かり始めたのである。

もしも筆者が、一審の期日が開かれていた間に、この問題の重要性を理解できなかったならば、その後、掲示板で行われた嵐のような集団的な誹謗中傷の前に、筆者は全く立ちおおせる力を持たなかっただろうと思う。

だが、筆者は先に教訓を得ていたからこそ、掲示板の投稿に振り回されることなく、自分の心をしっかりと防御し、また、誰一人その問題に巻き込まずに済んだのである。

もしも筆者が自分の心を守る術を知らず、中傷の書き込みを真に受け、これを苦にして、自殺でも遂げようものなら、筆者の周りにいる人たちは、間違いなく全員が、生涯に渡って、癒えない心の傷を負うことになる。

筆者は、そんな結論に至ることは、真っ平御免だと固く心に決意していた。もうこれ以上、一人も敵に渡したくない。しかも、こんな下らない事件のために、これ以上の苦しみが、誰に必要だというのだ。重荷は、筆者一人分だけで十分である。いや、筆者一人分であっても、もうこれ以上のお荷物は御免だ。筆者をも、他の誰をも、二度と絶対に彼らに渡しはしない・・・。

自分のためだけならば、立ち上がれたかどうか分からないが、筆者以外の人間までが、人質に取られるように、敵の攻撃にさらされているのを見たとき、筆者は自分の内心で起きていることを客観視するチャンスを与えられ、そのおかげで、自分の心の中で起きていた当事者感情を克服して、事件全体を俯瞰し、自分のみならず、関係者一同の心の状態に注意を向けて、人々を守るために策を講じることができるようになったのである。
 
これ以上、彼らの策略によって動かされていては駄目だ、こんな心理的な圧迫は、即座に振り払い、二度と許すわけにはいかないという心境に、ようやく達したのである。

私たちは協力関係にあるのだから、それを決して奪われてはいけない。互いにいがみ合ったり、争ったりしている場合ではない。苦しむべき人間は、別にいるはずだ。

圧迫は、しかるべき人間にお返しせねばならない。心の動揺や、悲しみや、圧迫や、やるせなさや、分裂や、敵対や、憎み合い、裏切り合いは、すべて敵にお返しし、私たちは、敵の策略を、敵自身の頭上に注ぎ返し、自分の心の平穏を失わせるすべての策略に毅然と立ち向かって、疑心暗鬼に陥ることなく、自分たちの間に生まれた協力と信頼を最後まで守り抜かねばならないと分かったのである。
 
 * * *

さて、もう一つのエピソードをここに付け足しておきたい。

それは2008年頃、筆者がまだ横浜に来る前、遠方の地で唐沢と電話で会話していた時のことであった。

その頃、筆者は唐沢も兄弟の一人であることを疑わず、エクレシアの兄弟姉妹との交わりを探し求めながら、今後のことを考えていたが、ある時の会話の中で、唐沢がとても奇妙な発言をしたのを覚えている。彼はこう言った。

「私はどんなクリスチャンを見ても、ほとんど恐れることはありませんが、一つだけ怖いと思うものがあります。完全な平安の中にいて、揺るがされることのない人を見ると、私は怖いと思いますね・・・」

それを聞いたとき、筆者は、とても奇妙な発言だと思った。完全な平安の中にいる信者を、羨ましいと思うとか、見倣わなければならないと思う、と言うなら分かるが、「怖いと思う」とはどういうことなのだろうか。

その理由はずっと後になってから分かった。唐沢は、自分のマインドコントロールの効かない相手を恐れていたのである。

神への完全な愛と、全き平安に座す信者は、何者のどんな策略によっても、決して揺るがされることがない。誰かがその信者を安っぽい誘惑や、各種の欲望、あるいは恐怖心で釣ろうとしても、彼はその策略に負けることはない。神の全き充足の中を生きているので、一切のマインドコントロールが通用しないのである。

偽預言者たちは、そういう信者を恐れる。彼らの策略がすべて見抜かれて、打ち壊されるからだ。私たちは、そういう風に、決して動かされることなく、確固たる信仰に立って、自分自身の心を守れる信者にならなければならない。神にあって、自分の心をも、周囲の人々の心をも、敵の攻撃から守り抜ける人にならねばならないし、そのための具体的な防御の方法を知らねばならない。

何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。 」(箴言4:23)

* * *
 
さて、筆者は今、一審によって得られた小さな種を地に蒔いて、発芽を待っているところだ。

夫人のお気に入りの椅子が、出発に遅れずに届けられることを心に信じて待ち続けたミュラーのように、今、神のさらに完全な解決が、必ず遅れることなく確かに届けられることを心に信じてそれを受ける準備をしている。

「それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。
 たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。

 見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。
 しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」(ハバクク2:3-4)
 
私たちが待っているのは、主ご自身であり、私たちが着くべきは、主と共なる天の御座。そこはすべてのものを足の下に従える、御名の圧倒的な権威が支配しているところである。

私たちはキリストの御名で呼ばれる民として、神ご自身のこの世に対する圧倒的な超越性・優位性を実際に生きて証明することができ、それをするためにこそ、この地に置かれている。

この先も、試練はあるだろう。だが、そのすべてに勝利する秘訣が、すでに十字架上で与えられている。そうである以上、私たち自身だけでなく、私たちに属するすべての人々を守り抜くための知恵と力をも、神はきっと教えて下さるはずである。

勇気を奮い起こしなさい。あなたの心の平安を、誰にも奪われないように守りなさい。神への完全な愛と、全き平安に座し、何によっても、心を揺るがされることがないように、あなた自身の心と、あなたの愛するすべての人たちの心をしっかり守りなさい。

生ける命の水の川々は、あなた自身の心の中から流れ出す。あなたはこれを絶やさないよう、自分の心を見張って、これを守らなければならない。
 
「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。
 遅れられることはない。
 わたしの正しい者は信仰によって生きる。
 もしひるむようなことがあれば、
 その者はわたしの心に適わない。

 しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、
 信仰によって命を確保する者です。」(ヘブライ10:37-39)

* * *

「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。

このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右に尾諏訪地になったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。

わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。

 主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。
 なぜなら、主は愛する者を鍛え、
 子として受け入れる者を皆、
 鞭打たれるからである。

あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。<略>

およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。

だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。」(ヘブライ12:1-13)
 
<続く>


生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。

わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。

わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」(ガラテヤ2:19-21)

さて、判決を思うと言い知れない喜びが込みあげてくる。あまりにも嬉しくて、同じ言葉しか書けない。おそらく、判決を受け取った後も、生涯に渡り、この喜びは続き、忘れ得ぬ出来事として心に刻まれるであろう。予め関係者に幾度も深く感謝を述べておきたい。

このようにすがすがしい気持ちで、決着を迎えられることは、本当に神の恵みである。

筆者はこの戦いを立派に戦い抜いて、すべての責務を果たした。必要な努力はすべて払った。協力してくれたある人は、「そんな素敵な裁判があるんだね」と、顛末を聞いて感心していた。

だが、今回の戦いにおいて真に問われたのは、当ブログが標題に掲げている通り、筆者が「私」に立つのか、それとも「キリスト」に立つのか、という事実であった。

当ブログは2008年に始まり、2009年に暗闇の勢力から激しい争いをしかけられ、それ以来、ずっと戦いの最中にある。その間、暗闇の勢力は、筆者の名誉を傷つけ、筆者の様々な個人的権利を侵害し、かつ、侵害すると脅すことで、筆者が自分自身を惜しみ、「私」の利益を守るために、この信仰の戦いを途中で投げ出して退却するよう、再三に渡り促して来た。

もしもこのブログがただ筆者の趣味の披露が目的で開設されたものであれば、筆者が「私」を擁護して立ったところで、それは罪にはならなかったであろうし、このような迫害に立ち向かってまで続行する意味もなかったはずだ。

だが、当ブログは聖書の御言葉の正しさを公然と世に証しし、神の国の権益を擁護するために存在しているわけであるから、人の生まれながらの肉なる要素に頼るわけにはいかない。

自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(ヨハネ12:25-26)

もしも筆者が自分の命を愛するのであれば、様々な脅しや権利侵害に立ち向かって、信仰の証しを続けることなど、到底、不可能であり、困難や、迫害が起きれば、早々に退却するしかない。だが、そうして途中で退却して、神を捨てるくらいならば、初めから何もしない方が良いと筆者は確信している。

今、筆者がどんなことよりも望むことは、父なる神のおられる聖所で、主と共に過ごし、神を礼拝する幸いな人生を送ることである。この世の人々からの頼りなくはかない賞賛や栄誉と引き換えにそれを捨てることなど、断じてできない。

そこで、筆者は肉を頼みとすることを徹底的に拒み、バアルの預言者の前に立ったエリヤと同じく、今でも祭壇に何度も水をかけ、「あえて事を難しく」している。

筆者は人前に、聖人のような人間としてではなく、罪人の代表格として立ち、かつ、神の御前にも、敗れ口に立って執り成す者として進み出たいのだ。

そして、イエスが門の外で辱めを受けられたように、今日の背信の教会が向けられるべき非難と蔑みの言葉を身に背負い、営所の外で苦しみを受けつつ、見えない都へ向かって進んでいく。

これは義人ヨブが神の御前で、「私は塵灰の中で悔い改めます」と述べたのと同じ姿勢である。ヨブに悔い改めねばならない罪があったわけではない。だが、神はヨブに人類の代表として、信仰者の代表として、神の御前にへりくだり、全被造物が塵に過ぎないことをあえて告白し、ただ神にのみ栄光が帰されるよう、己の義を完全に投げ捨てるよう求められた。

アブラハムとサラが百歳になってからようやく与えられた約束の子イサクも、一度、燔祭の犠牲として、霊的に屠られ、死をくぐらなければならなかった。

信仰の先人たちはみなこの十字架の死と復活という同じ過程を辿ったのである。

だから、筆者も、祭壇に自分を横たえ、通常人が誇りとし、頼みとするすべてのものが無価値とされ、死に渡されることに同意し、「私」にまつわるすべての利益を、完全に主と共なる十字架で投げ捨てる。

その結果として、そこに死と復活の原則が働き、失われた「私」の代わりに、「キリスト」が生きて下さる。この方は義なる方であって、決して罪に定められることがない。

神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられた良い香りです。

滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。

わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。」(Ⅱコリント2:14-17)

神は、私たちをいつもキリストの勝利の行進に加えて下さり、私たちを通じて、至るところに、キリストを知る知識の香りを漂わせて下さる――この霊的事実は、今回の争いの決着にも現れるだろう。

表向きには、司法の争いは、すべて個人の人権を擁護するために起こされるものであるが、筆者は己の命を擁護するために、この争いを起こしたわけではなく、神の御前に己を完全に投げ捨てることによって、逆説的に、再び命を得て、勝利を勝ち取ろうとしている。

今回、こうした信仰的な議論を深く理解できる裁判官が、この事件を担当してくれたことにも、神の大きな采配が働いている。以前にも書いたように、市民は訴えを出すに当たり、裁判官を選ぶことはできない。だが、神は、人の知恵や思惑を超えたところで、この事件に最もふさわしい人を采配して下さったと信じている。

これまで当ブログには、裁判官の書いたものとして、被告からの移送申立が却下された書面を掲載しているが、それを読んでも、この裁判官が、この世の人でありながら、いかにこの事件の核心部分を的確にとらえているかが読者にもよく分かるはずだ。

筆者はこの文章を読み、そして、口頭弁論の進め方などを見て、この裁判官ならば、間違いなくこの紛争を正しい結論に導くことができるという確信を、かなり早い段階で心に得ていた。その確信があればこそ、あらゆる困難に立ち向かい、また、反訴や控訴の脅しに屈さず、不本意な和解を退けて、判決にたどり着くまで、根気強く戦い通すことができたのである。

ただし、掲示板に対する捜査や、その他の刑事事件は今回の裁判結果には反映していないため、こうした事件の解決はまだまだこれからである。
 
読者も知っている通り、元来、当ブログでは、信仰に関する議論を、信仰のない人々の前に持ち出すことには反対であったので、それにも関わらず、このような争いを起こさねばならなくなったことは、それ自体が極めて不本意であると言う他ない。

だが、今回の裁判では、筆者は予想だにしていなかった大きな喜びに満ちた収穫を得ることができた。この紛争は、繰り返し述べて来たように、最初から最後まで、すべてが信仰の証しに満ちており、関わる人々の心に、神が直接、働きかけて、ご自分の偉大さを現して下さったからである。

そこでは、筆者の生まれながらの人としての誇りではなく、ただ神の栄光だけが証しされた。このことに筆者は本当に満足している。

なぜなら、私たちは、自分自身を証ししているのではないからだ。この方だけが――この見えないお方だけが、我々の希望であって、栄光を受けられるべき唯一の方であり、私たちはこの方の栄光、この方の利益のために、世から召し出され、贖い出された民なのである。

だから、筆者はキリストと共に喜んで十字架で自分を死に渡し、もはや生きているのは私ではない、と宣言する――。

こうして、世の人々の前で、聖書の御言葉の正しさを証明し、そして、神が筆者を愛して下さった、その愛の大きさを、証明することができたことは、他のどんなことにも代えられない恵みである。

今、筆者はこの訴えを出したがために、以前にもまして様々な権利侵害と中傷をこうむっているが、そのことに一切、筆者は落胆しておらず、読者もまた落胆などする必要がないことを述べておきたい。

神はすべての事柄を見ておられ、ご自分の子供たちを擁護するために必要な措置をなして下さる。神は間もなく、ヨブのために失われたすべてを回復して下さったと同様に、筆者の失われた利益をも余すところなく回復し、花嫁の帯の飾りのように、以前にもまして多くの宝で飾って下さるであろう。

従って、筆者を蔑んだ人々は、裁判結果もさることながら、そうした事態の成り行きを見て、唖然とすることであろうと予想する。それによって、また改めて私たちの主イエス・キリストの偉大さと、愛の深さが証明されることになる。

この紛争を通して、もう一つ明らかにされたことは、今日の目に見える教会というところが、いかに信仰を持たない人々の危険な運動によって占拠され、聖書の正しい信仰に立脚しなくなり、この世の人々から見ても、近寄ることが危険な場所になりつつあるかということである。

筆者はキリスト教徒であり、聖書の教えが正しいことを、揺るぎない確信と共に、公然と証しており、これからもその証を続けるつもりであるが、読者には、当ブログに降りかかった数々の出来事をよく見て、目に見える教会や、目に見える宗教指導者には、これからも決して近づかないように改めて警告したい。

そして、改めて、目に見えるものでなく、見えないお方に目を注いで歩むよう読者に勧める。また、私たちがこうむっている艱難を見て、落胆などしないでもらいたい。それは非常に一時的で軽いものでしかなく、私たちには、これを耐え忍んだことの報いとして、比べものにならない重い永遠の栄光がすでに用意されているからである。

だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほどの重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。

わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(Ⅱコリント4:16-18)