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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至る



遅ればせながらニュース動画を記念に挙げておきます。
【報道ステーション】2016年3月18日放送 
ワイマール憲法の”教訓” なぜ独裁がうまれたのか? 


 
罪と罰 カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反するのか。」を再掲しましたが、この記事は未完のため、まだまだ多くのことを書き足さなければなりません。

この記事を掲載した当時、記事は大きな反響を呼び、杉本氏サイドからも巨大な反発がありましたが、それはクリスチャンを決して「命の御霊の路線」に至らせず、再び「善悪の路線」へと引きずりおろそうとする彼らの目的が暴かれては困るためであったと私は見ています。

KFCとドクター・ルークの活動とは私は現在、無関係ですし、KFCの理念の誤りについても、詳細な分析をせねばなりませんが、それにしても、当時、ルーク氏の述べていた主張の中には、今日も見落とすことのできない極めて重要な内容がありました。それは主に次の二つの原則に集約されます。
 
➀キリスト教界をエクソダスせよ
②善悪の路線ではなく、命の御霊の路線に生きよ
 

➀については、約20年ほど前から、村上密氏のように、キリスト教界の諸教会のカルト化という問題にしきりに訴えては警鐘を鳴らす人々が現れました。こうした人々は、カルト化した教会やその牧師などを告発・非難することにより、キリスト教界のカルト化問題を解決したり、被害を食い止めることができるとしていたのです。

しかしながら、こうした人々の活動が恐ろしい方向へ暴走していくだろうとの予想を私が述べ、実際に、そうなったことについてはすでに何度も述べてきた通りです。当時、キリスト教界のカルト化という問題について、これとは全く別の見解が存在していました。それは、キリスト教界全体に救いがないこと、この教界は存立の時点からすでに聖書に反しており、フェイクであり、改善の見込みがないため、エクソダス(脱出)するしか信者が正しい信仰を保つ道はない、ということが提唱されていたのです。

実は、カルト被害者なる人々の出現は、この点で、非常に画期的な意味を持っていたのではないかと私は見ています。
 
カルト被害者については、これまで良い印象がほとんど語られてきませんでした。村上密氏や杉本徳久氏の率いるカルト被害者救済活動の異常な暴走がそれに追い打ちをかけ、カルト被害者という言葉すら、最近は、あまり聞かれなくなったようです。

おそらく、当のカルト被害者も、自分たちの存在に何か重要な意義があるとは思っていないでしょう。むしろ、自分たちは弱く無知であったために犠牲にされ、人生の敗者になったのだと考えて自分を恥じ、二度と犠牲者にならなくて済むように、弱さと無知の克服に取り組んでいるかも知れません。

しかし、私はこうしたこの世の観点とは全く別に、カルト被害者の存在には、極めて重要な霊的意義があったと考えているのです。それはまず、彼らがキリスト教界から離脱した点にあります。

人が悪事の被害を受け、犠牲になることは、この世では、何ら良いこととはみなされませんが、カルト被害者の存在について、それを単なるマイナスの出来事と決めつけることができないのは、キリスト教界につまずくという出来事があったために、彼らはキリスト教界の偽りに気づくきっかけを得た点です。そして、何より、その出来事があったおかげで、そこを出て純粋な信仰生活を探求しようとする人々が現れた点です。

もし何らかの出来事をきっかけに従来の組織に絶望するということがなければ、信者がキリスト教界を離れることはありません。

何かの被害が発生して初めて、信者は自分の属していた教会に対する根本的な疑いを持つ可能性が出て来るわけであり、その組織の中では本当の信仰を持てないことを知り、これを離れ、まことの神を探求する可能性が生まれるのです。その際、多くの信者が、たまたま自分の属している教会にだけ重大な問題があったのではなく、キリスト教界そのものに根本的な矛盾があることに気づく可能性があるのです。

神の御前で極めて重要なのは、神を求める人々の心の真剣さ、純粋さではないかと私は思います。そこで、キリスト教界につまずいたことをきっかけに、キリスト教界を告発して報復を果たそうとするのではなく、まことの神ご自身を純粋に知りたいと心から願う人々が出現したことに、はかりしれない価値があったものと私は考えています。   
 
こうして、キリスト教界の虚偽性から離れ去り、聖書のまことの神を真実に知りたいと願う信者の一群が現れたことにより、初めて、組織としてのキリスト教界とは関係のない、これとは全く異なる、聖書だけに立脚した信仰生活が生まれる可能性が生じたのです。

この点で、カルト被害者なる人々の存在は重大な意義を持っていましたが、それゆえ、その後、彼らがどこへ向かって行くのか、彼らが従来の教会生活を離れて、どのような形で信仰生活を維持し、まことの神に仕えるのかという問題もまた、ある意味、全宇宙的と言っても差し支えないほどに、測り知れない重要性を持っていたのではないかと私は考えています。

だからこそ、カルト被害者を含め、キリスト教界を離れた信者らの行方を巡って、実に激しい争奪戦が今日に至るまで繰り広げられて来たのです。それはひとことで言えば、「組織から脱出した人々を、絶対に組織から逃がさず、再び人間の奴隷とすること」を至上命題とする暗闇の勢力が、モーセとイスラエルの民の脱出を妨げようと、彼らを追ったエジプト軍のように、全力を挙げて激しい欺きと妨害によって、キリスト教界を脱出した信者らの前進を妨げて来たためです。

もし信者がキリスト教界にとどまっていたならば、こうした妨害はなかったでしょう。キリスト教界にいる限り、信者は、人間の教えや言い伝えにがんじがらめにされて、自由がなく、まことの神に出会う可能性もほとんどありません。

キリスト教界には、牧師や教職者といった目に見える人間の指導者に信者を従わせるべく、何重ものヒエラルキーや規則が定められており、その伝統的なしきたりや序列を守り、偉い指導者の言うことに聞き従い、彼らの面子を傷つけないことが、あたかも正しい信仰生活であるかのように説かれています。

しかし、これらはすべて人間の言い伝えであり、人を神ではなく人間に従わせる教えであって、このキリスト教界を出ない限り、信者はこの偶像崇拝の体系から、つまり、人間の作り出したこの世の思想に基づいて地上の目に見えるヒエラルキーに人間を従わせようとする偽りの体系から、一歩たりとも外に出ることはできません。

信者が人間の作り出した地上の組織の囲いに閉じ込められて、人間の指導者の顔色を第一に伺って生きている限り、彼は決して真にキリストだけを主と仰いで生きることはなく、キリストの命に基づいて天的な生活を送る可能性もありません。ですから、信者がキリスト教界に所属している限り、悪魔にとって、彼は何ら脅威とはならないのです。

しかし、もしも信者がこの壮大なフェイクであるキリスト教界を離れ、人間の指導者に帰依することを拒み、見えないキリストだけに頼ることを宣言して新たに出発すれば、その信者の行動は、暗闇の軍勢には大変な脅威と映ります。

こうした信者の一人でも、真にキリストと共なる十字架の死を経て、キリストの復活の命に到達すると、そこから、全宇宙を左右するほどの測り知れない天的な歩みが始まります。

そこには、復活、自由、真理が生まれ、悪魔の獄屋が打ち破られて、その虚偽がことごとく明るみだされ、とりこにされていた人々が解放されるきっかけにもつながりかねません。

そこで、信者たちがキリストにあって真に自由で正常な信仰生活を送ろうとしてキリスト教界をエクソダスして、人間の作った組織の囲いから出て行くことは、暗闇の勢力にとっては、極めて重大な脅威なのです。

ですから、こうした人々を組織から逃さず、再び、人間の前に跪かせ、人間を恐れさせ、人間の奴隷とするために、暗闇の勢力は全力を挙げて彼らの妨害に回ったのです。

その目的を遂げるために、彼らは、一方では、カルト被害者を優しくかばい、助けてやる「救済者」を装う偽善的な指導者を立て、彼らの甘言により、被害者を欺いて、彼らが自主的に人間の指導者に従うよう仕向けました。それがかなわないと、今度は、暴民のような自称「信徒ら」を送っては恫喝し、恐怖によって、信者らを再び人間に従わせようとしました。

この点では、KFCも、カルト被害者救済活も、どちらも人間の作った組織の囲いの一つであり、キリスト教界を脱出した信者らが、決してキリストだけに頼る真実で自立した信仰生活に到達しないように、神と信者との中間に立ちはだかる障壁、目くらましとしての機能を果たしたと言えるでしょう。

しかし、それでも、ドクター・ルークの主張の中には、若干、カルト被害者救済活動の指導者らよりも前進していた点がありました。それが、上に述べた二つの原則なのです。

二つの原則のうち、後者の「命の御霊の路線」について考えてみましょう。

「善悪の路線」とは何か、ひとことで言えば、それはクリスチャンが罪の自覚と決して手を切ることのできない生活です。

キリスト教界に所属していると、信者は自分がいかに罪人であるかという自覚だけが深まっていき、決してその罪意識から解放されることができません。キリスト教界でよく見られる風景は、信者が、神を知る前の自分がどれほどひどい生活を送っている罪人であったかという懺悔のような赤裸々な告白の証を、繰り返し、繰り返し、語らせられている風景です。

このような「かつての悪い自分」についての告白を続けることで、信者は余計にその負の記憶から抜け出られなくなり、罪の意識から解放されるどころか、教会を離れるとかつてと同じような罪人に戻ってしまうという恐怖にがんじがらめにされていくことになります。

こうした罪意識は、信者は神を信じているつもりでも、根本的に自分は全く変わっておらず、教会の助けがなければ、更生不可能であるという自覚から生じています。つまり、信者の「救い」が、宗教組織に質に取られていることによるのです。

信者は自分ではあたかも自主的に神を信じて生きているつもりでいても、実際には、彼は地上の宗教組織に属さずには、信仰生活は送れないのだと思い込まされています。

このような思い込みに陥っている限り、信者は、地上の宗教組織を離れることに恐怖を抱き、その組織の人間の指導者から見放されたり、良い評価を得られなくなることが、「不信仰」であると考え、人間の指導者の顔色を第一に伺う生き方から抜け出られません。

ですから、そのような場合、信者は神を信じているつもりでも、実際には、地上の組織、目に見える人間の指導者に従い、人の思惑に基づいて生きていることになります。そして、組織を離れると、救いが失われるかのように思い込まされているのです。

このように、信者にとっての「救い」が組織の所有である限り、組織から承認を得られなくなり、追放されれば、自分は救いを失うのだという恐怖や罪意識から、信者が自由になることはできません。

つまり、信者にとっての「救い」が、本当に自分に属するものではなく、組織から貸与されるものに過ぎない限り、彼には完全な救いの自覚が生まれないのです。キリストの血潮が永遠に自分を救うことができることの意味を知らず、根本的に自分は罪人だが、教会のおかげで何とか普通に生きられているだけだと思い込んでおり、教会からの承認という「応急処置」がなくなれば、自分は恐ろしい罪人に逆戻りするだけなのだという罪悪感から決して抜け出すことができないのです。このような考え方では、真の救いも、罪からの解放も、自由も、決して信者は味わうことができません。

さらに、信仰を持たずとも、複雑怪奇なこの世の仕組みに適合し、そこで人々の評価を十分に得て成功して生きるのは、誰にとっても、かなり難しいことですが、宗教団体に入ると、信者はさらに厳しい道徳的基準を守るよう求められるようになるため、まさにがんじがらめの生活が始まります。

この世においても、社会にうまく適合する術を知らない人々が宗教組織に入ると、そこで救いを得られるどころか、今度は宗教組織の中で、この世よりももっと厳しい基準に適合するよう求められ、それができない信者は、罪の自覚が恐ろしく増し加わり、下手をすると、その重圧のために精神まで破壊されるということが起きます。

このように組織や指導者の意向や都合にがんじがらめにされて、罪意識から一歩も抜け出せない生活こそ、人が自分で自分を義としようとする「善悪路線」に基づく生活であって、これはキリストの血潮に悪質に逆らう偽りなのですが、そこから出て、信者がただ聖書だけに基づいて、見えない神を仰いで生きるようになる時、信者はようやくキリストが十字架において流された血潮が、無条件に信じる者を義としてくれることの意味が分かるようになります。

そして、自分の救いは「組織」にあるのではなく、信仰を通して、他ならぬ自分自身に与えられているのであり、他人の思惑によって奪われたり、取り上げられたりするような不確かなものではないことが分かります。

キリストの流された血潮によって、神の目に自分が永遠に義とされていることが分かった信者は、ようやく従来の罪意識から解放されて、世からの評価を失うことを恐れて汲々とし、絶えず自分を責めながら生きる必要がなくなります。

こうして信者は、罪に定められることへの恐怖からあれやこれやの規則を厳格に守って生きようとする恐れに満ちた生活から抜け出て、その代わりに、自分の心からの願いに従って生きることが可能となります。自らの願いをキリストと分かち合い、信仰によって、それを実現しながら生きるという別の生活が開けるのです。

こうして、キリスト教界を出たことにより、信者の人生の目的は完全に変わるのです。以前は、人の目に罪に定められたくないという恐れから、自分を何とか人の目に正しく落ち度なく見せようと、各種の「べき論」にがんじがらめにされて生きていた信者が、今や、絶え間ない罪の意識から解放され、そういう応急処置のようなやり方で自己改善を目指すことがなくなり、キリストの内なる義に従って、自分が何をしたいのかという願いに基づいて良くなるわけです。

罪意識は常に恐怖と、強迫観念を生み、信者から自由を奪いますが、罪意識から解き放たれたところでは、人は何を「せねばならないか」ではなく、何を「したいか」を中心に人生を生きることができるようになります。これは放縦な生活を意味するのではなく、人が神に自分の願いを知っていただき、神と共同で自らの人生を治める生き方を意味します。

さて、話を戻せば、カルト被害者救済活動の支持者サイドからの攻撃は、このように、キリスト教界の罪定めから自由となって、「いのちの御霊の路線」に生き始めたクリスチャンを、再び「善悪の路線」に引きずりおろすことで、罪意識の奴隷にすることを目的としてなされたものでした。

今はっきり言えることは、一旦、キリストだけを頼りに、神だけに従って生きると決めたのならば、信者は、二度と人間の顔色を伺う生活に戻ってはいけないということです。

人間の歓心を失わないことを第一に生きる(つまり、世間の評価を気にしながら、世間と調子を合わせて、世と折り合いをつけて生きる)ことを目指し始めると、信者はたちまち「善悪の路線」に落ちて、キリストにある自由を失ってしまいます。

なぜ聖書に次のような御言葉があるのか、その意味を考えてみましょう。

たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方とすべきです。それは、
「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、
 さばかれるときに勝利を得るため。」
 と書いてあるとおりです。」(ローマ3:4)

つまり、この世(と世に属する人々)の評価を失うことを恐れながら、同時に、神だけの評価を求め、神だけに従って生きるというのは、不可能であり、世の評価を絶え間なく気にする生き方と訣別しなければ、信者はキリストにある良心の潔白と、自由を保つことはできないのです。

これは、ある人々にとっては、極めて理解しがたいことに映るでしょう。なぜなら、多くの信者は、この世の常識やら、伝統やら、世間体やら、しきたりやら、空気やらを、極めて重要なものとみなしており、こうした世の考え方を気にせず生きるなど、あまりにも大胆不敵で傲岸不遜な、人としてあるまじき放縦な生活だと誤解しているからです。

多くの信者は、道徳的で品行方正な生き方を目指すあまり、それこそが、信仰生活だと誤解しています。あるいは、弱者救済などの慈善事業を評価するあまり、それこそが、信仰生活だと誤解しています。

しかし、ぞれらはいずれも、人間の目に道徳的と見える生き方に過ぎず、こういった生き方を「信仰生活」だと誤解している人々は、この世の最も優れた道徳でさえ、神の義には遠く及ばないどころか、神の義に悪質に対抗するものであることが分かりません。人の目に善と見えるものが、必ずしも、神の目にも善ではないということが分からないのです。

むしろ、神の義とは、恵みとして与えられるものであり、人間が自らの努力によって達成しようと目指す義とは全く無関係なところにあるのです。だからこそ、キリストにある命の御霊の法則は、この世の善悪の法則とは全く異なるものなのです。

私は何度もマザー・テレサのことを書いて来ましたが、彼女のように、この世において立派で優れた生き方をしているように賞賛されている人が、必ずしも、神を親しく知っているわけでないどころか、むしろ、神から見放されたという絶望的な思いに苛まれているがゆえに、この世において立派な生き方を続けないわけにいかないという逆説(強迫観念)に陥っている場合が往々にしてあります。

生涯、弱者救済にいそしむ慈善家のような人々にはこのようなタイプが非常に多いのです。つまり、彼らは、自分が神によって完全に救われているという確信がないがゆえに、絶え間なく外面的に立派な行動をすることによって自己を取り繕わないわけにはいかず、その慈善は真実な愛から出て来たものではなく、むしろ、内心の絶望や恐怖に裏付けられた善行だということです。
 
この世の顔色をどんなに伺って、どんなにこの世に対する義務を果たし、人から賞賛されたとしても、それによっては、人は永久に義とされることはありません。ただ苦労と内心の絶望だけが果てしなく増し加わって行くだけです。

この世は人がどんなに努力しても、人を義とすることができないからです。しかし、御言葉に基づいて、キリストの血潮によって義とされる道を選び、人の思惑に従うのではなく、神のみに従って生きるならば、信者は自分の一切の行ないによらず、いつでもただちにイエスの血潮によって義とされることができるのです。

しかし、信者自身にとっても、このキリストの新しい命に基づく道を歩むことは、極めて大きな発想の転換を意味します。

真にキリストの復活の命に生き始めた時、初めて、信者は、自分がこの目に見える世界全体、生まれながらの人類全体と、その道徳体系にとって、大変な脅威、敵とみなされるようになったことを知ります。

信者は、この世の霊的体系を脱して、キリストの霊的体系を生きるようになって初めて、自分がもはやこの世の所属でなくなり、キリストがこの世から受けられたのと同じ理由なき憎しみを自分も向けられていることが分かります。

それは、彼がこの世ではなく、キリストだけの所有となったことによるのですが、信者は、今まで慣れ親しんで生きて来たこの世全体が、もはや自分の仲間ではなくなり、敵となったことに、しばらくは当惑するでしょう。

さらに、この世の法則は、信者がキリストと共なる十字架で世に対して死んだ後も、全力で彼を再び世の奴隷として取り戻すべく、あとを追って来るでしょう。

こうして、信者は、キリストの命にある自由を失わず、復活の領域を歩み続けるためには、この世とそれを支配する暗闇の軍勢から来るあらゆる敵意と妨害を潜り抜けて戦わなくてはならないことが分かります。

その戦いの過程で、信者はどんな妨害があっても、この世と世に属する人々の圧迫を恐れてはいけないという事実と、たとえ世からどんな妨害があろうと、キリストの命にある力がそのすべての圧迫に勝る勝利を与える、という事実を理解するようになります。

この世が信者に向けて来る憎しみは、人の予想をはるかに超えて、悪質であるにも関わらず、信者はそれにたじろいではならず、圧迫されて後退してもならず、これに対していかなる時にも勝利する秘訣が、キリストの命の中にあり、その命なる方が信仰を通して自分自身の中に宿って下さっていることを理解するのです。

もし信者が、暗闇の勢力からの圧迫を恐れるゆえに、人の言い分に耳を傾け、人に憎まれないことを第一目的として生き始めるならば、彼は再びこの世の奴隷となって敗北するしかなくなり、キリストの天的な命に基づく生活は維持できなくなります。

ですから、たとえ突然、何万人の反対者が現れようと、どんなに親しい兄弟姉妹に裏切られようと、どんな予想を超える出来事が起きようとも、信者は、世と世に属する人々を恐れずに、ただ聖書の御言葉に立脚して、神の義に頼り、これを証し続け、キリストの命だけによってすべてを切り抜ける秘訣を学んで行かねばならないのです。

そうこうしているうちに、こうした戦いの過程で、どんなに心細さを覚える瞬間にも、神以外のいかなるものにも頼らないこと、神の中に全ての問題の解決の秘訣が実際にあることを信者は学ばされて行くのです。

自分を見るならば、信者は自分には何もなく、外からの助けなしには、到底、あらゆる困難を切り抜ける力がないように感じられるかも知れませんが、その天然の無力さにも関わらず、内なるキリストの命が全てを供給するのです。

文字通り、キリストがすべてを供給するのです。救いはすでに一生分、いや、永遠に至る分まで、信者に与えられています。ですから、信者は世にあれやこれやの助けを求める必要がないのです。ただ神だけに頼って前進するならば、信者は信仰によって実際にあらゆる困難が打ち破られること知らされるのです。困難が打ち破られるのみならず、神が願いを成し遂げて下さるのです。ですから、これは途方もない道です。

生まれながらの人類は、この終わりの時代、自己の「道徳」を掲げては、自分たちの存在を美化し、生まれながらの人間の威信を築き上げるために、独自のしきたりを作り、これに一人でも多くの人を取り込むために、あらゆる規則を掲げ、強大な組織を作るでしょう。そして、それにそぐわない人間を容赦なく罪に定めるでしょう。

終わりの時代、生まれながらの人類の全精力が、人間の威信を強化するために注ぎ込まれるでしょう。宗教とは、神の名を用いながら、その実、神によらずに、人間が己のプライドや威信を建て上げるために作りだす壮大な嘘の体系に過ぎません。

キリスト教界の教えは、全体として、信者が神ではなく、目に見える人間に従うべきというもので、そこには、牧師を筆頭として、信者が従うべき無数の重層的ヒエラルキーがあり、人間の序列に反することが、「罪」とされているのです。

神に従わないことが罪なのではなく、人間の定めた教えに従わず、人間の威信を傷つけることが、「罪」とみなされているのです。早い話、そこでは人間が神となっているのです。

いかに人間の目に麗しく、人間に優しく、上品で、道徳的に見え、そつなく、あたりさわりないものであっても、こうして、聖書の基本から逸れて、神への愛と従順を失い、むしろ、神を退けて、生まれながらの人間を義とするために作られた体系には、何の価値もありません。

だからこそ、このような偽りの体系からはエクソダスが必要なのです。

人間の作り上げた偽りの体系は、どこまでも信者を奴隷にしようと、後を追って来るでしょう。しかし、信者が第一に心を砕き、従うべきは神の御心であって、人間の思惑ではありません。

「たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方とすべきです。」との言葉は決して誇張ではなく、行き過ぎでもないのです。神を愛することと、この世を愛することは決して両立しません。

神に従うとは、場合によっては、この世の全ての人々の思惑の全てに反してでも、ただ神の御言葉のみに従うという決断と行動を意味します。これには代償が伴います。

以前にも挙げましたが、旧約聖書の列王記Ⅰ第13章には、人間の言葉を優先して、神の戒めを破った預言者が、野の獣に食い殺された場面があります。この結末を残酷すぎると私たちは異議を申し立てることができるでしょうか?

この世的な見栄えの良さを保とうとする生き方と、真理に従う道は、ほとんどの場合、両立しません。もし信者が、世の評価や人の歓心を失わないことを第一に生きるならば、遅かれ早かれ、彼は真実を売り払って、無難な善人を装いながら、沈黙を守って生きるしかなくなります。それは偽善者の道です。

もし信者がこの世に配慮し、世の人々に同調して生きるならば、同胞が見殺しにされることに沈黙するくらいのことでは飽き足らず、かつてキリストが十字架につけられた時と同じように、今日も、罪なき神の御子を見捨て、裏切り、代わりに人類の代表である罪人のバラバを赦して、キリストを再び十字架につけよと叫ぶ羽目になるでしょう。

世を愛する道は、いつも変わりない結論に至りつきます。それは、罪なき神の御子を再び十字架につけて罪に定めてでも、生まれながらの人類を義とし、名誉回復したいという願望なのです。

そして、逆説的に、神を抜きにした人類の名誉回復という偽りの願望は、決して人類を解放に導くことなく、今まで以上の恐ろしい裁きと罪定めの中に人類を落ち込ませるだけなのです。

主に従う道は、人類が己の義とプライドを強引に押し通す道ではありません。主に従う道は、人が神を退けてでも、己の命を保とうとする道ではなく、むしろ、キリストのために人が自分の命を憎む道であり、キリストのために自分の命を捨てる者がそれを得ると聖書にあります。

戦いは戦いぬけば、必ず、勝敗がつきます。たとえ、この世から憎しみや妨害がやって来たとしても、恐れるには足りません、信者には「世に勝った」方が共におられるからです。

信者が自分の命を惜しまずに、死に至るまで真理を証し、神の義に徹底して立ち続けるならば、悪者は恥をこうむって逃げ去り、代価を払った者が神の御前に良しとされるでしょう。

黙示録によると、臆病者は罪に定められ、火の池に投げ込まれることになっています。ですから、主にあって、臆することなく、勇敢でありましょう。悪魔の罪定めは、その言い分を真に受けて、恐れを感じた人にとってだけ効力を持ちます。イエスの血潮に立脚する信者に対しては、悪魔の言い分は効力を持たないのです。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かに実を結びます。

自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたし仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」(ヨハネ12:24-26)

「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。
 私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。
兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」(黙示12:10-12)

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カルト被害者救済活動の暴走―杉本徳久氏からの恫喝メール➀ー

これは東洋からの風の便りIIIの2012年3月9日の記事「杉本徳久氏への公開書簡」の転載である。 当時、杉本徳久氏から筆者に送られて来た恫喝メールは複数あるため、以下に一つ一つ公開して行く。まずは次のものから。
   
2010年10月5日付   杉本氏が唐沢氏に提訴の報告を求めヴィオロンの記事を罵倒したメール
2010年10月17日付 杉本氏が唐沢氏の提訴予告について進行状況を報告せよと恫喝したメール
2010年11月20日付 杉本徳久氏が唐沢氏の提訴予告について謝罪を要求した恫喝メール
2010年12月8日付   杉本徳久氏がヴィオロン、唐沢氏、山谷少佐に提訴を催促した恫喝メール
2010年12月15日付 杉本氏がヴィオロン、唐沢氏、山谷少佐に記事削除を求めた恫喝メール
2011年12月6日付   杉本氏がヴィオロンの個人情報を特定して恫喝して来たメール
2011年11月28日付   杉本徳久氏が、唐沢氏とヴィオロンに送りつけた恫喝メール
2012年1月1日付    杉本徳久氏がヴィオロンの個人情報を晒すブログ記事を示した恫喝メール
2012年1月22日付 杉本徳久氏がヴィオロンに実力行使に出ると恫喝したメール
2012年3月8日付  杉本徳久氏がヴィオロンに期限を切ってブログ削除を要求した恫喝メール
2012年3月9日付  杉本徳久氏からヴィオロンの返答に対する罵倒と恫喝のメール
2012年3月10日付   杉本徳久氏がヴィオロンに自分を提訴せよと恫喝して来たメール

2016年4月25日付 杉本徳久氏がメールフォームから投稿した恫喝メール
2016年4月30日付 杉本徳久氏がヴィオロンへの提訴をほのめかした恫喝メール
2016年5月2日付   杉本徳久氏がヴィオロンを提訴してやると恫喝したメール

     
なお、杉本氏のメール本文は紫字、ヴィオロンの注釈は黒字、個人名は〇〇に変えてある。メールの文面からは、いずれも杉本徳久氏という人の思考パターンやその主張の特徴がよく理解できる。

以下の記事は、2012年3月8日付の杉本徳久氏の恫喝メールに対するヴィオロンの回答。
本記事に対する杉本徳久氏の応答は以下の通り。
 2012年3月9日付 杉本徳久氏からヴィオロンの返答に対する罵倒と恫喝のメール



杉本徳久氏へ

本日、「明日、金曜いっぱいまでに削除されない場合」と題するあなたからのメールを拝受いたしましたので、この場を借りてご返答申し上げます。

杉本さん、あなたはメールの中で、私の書いた三つの記事を、本日、3月9日(金曜日)いっぱいに削除するよう要求し、もしも私があなたの指定した期日内にこれらを削除しなかった場合、次の犯行に及ぶ用意があると記しておられます。

「十分、機会はご用意しましたし、十分な期間もとりましたが、なお、お考えが変わらないようならば、あなたの実名を公開し、あなたの住所、あなたの実家の住所などを調べて内容証明、書留郵便を送るべく準備にはいります。」

「その後のあなたに降りかかる不利益は全て自ら招いたこととしてあなた自身が引き受けることになります。」

これらの文章は、もしも私が記事を削除しなかった場合、あなたは無断で私の個人情報を公表するという違法行為に及ぶだけでなく、私の関係者に対しても迷惑 行為を行い、それ以外にも、さらに私に不利益をもたらすような犯罪行為に及ぶつもりであるという意図を明確に示していると受け取れます。

杉本さんは、これまで幾度にも渡り、私の実名を無断で公表するとの脅迫のメールを送って来られました。そこで、あなたは、ご自分の指定された期日内に私が記事を削除しなければ、「私もあなたの実名を記し、卒業したあなたの大学などに問い合わせするなど、可能な対応をとらなければなりません。」などと書いておられます。

このような犯行予告と言っても差し支えない、他人への害意を記したメールを送ることが、脅迫という罪に当たることをあなたはご存じないのでしょうか。

もしもあなたが私の実名を無断でネット上に公開されるならば、あなたは法的に罪に問われることになるでしょう。それにより、今まであなたやあなたのブログのコメント者が私に向けて書き記したいわれのない非難が全て実名による名誉毀損として罪に問われることになるからです。もしもあなたが私の関係者にまで迷惑を及ぼさ れるようなことがあれば、他にもさまざまな犯罪が成立することになりましょう。

なお、杉本さんが削除するよう要求しておられる私のブログやホームページは、サムライファクトリーの正式な認可を得た上で私が掲載しているものです。

杉本さんはこれまで二度に渡り、私の記事についてサムライファクトリーに送信防止措置の要請を行われました。一度目は私の回答が期日を過ぎたため、一旦、 ブログとホームページが削除されるという結果になりましたが、その後、私はあなたの二度目の掲載削除の要請を受けて、二度に渡るあなたの訴えが双方とも事実に基づかないものであり、掲載削除の必要性を裏づけるだけの正当な根拠が存在しないことを、サムライファクトリーに宛てて正式に通知いたしました。

私の申立内容の真実性がサムライファクトリーに認められたため、上記のブログやホームページは今も掲載を許可されています。それにも関わらず、杉本さんがサムライファクトリーの判断を尊重せず、メールによる個人的な脅迫という方法を用いて、これらの記事を削除するよう未だ私に圧力をかけておられることは重大な違法行為に相当します。

杉本さんがブログやメールを通して私に対して行って来られた違法な嫌がらせは長きに渡っており、深刻かつ悪質なものであることから、今後、本件には主として警察を通じて対応いたしますこと、ご承知おき下さい。

(なお、あなたが私に対する権利侵害を行うことを予告しておられる今回のメールは、あなたがブログを掲載している管理会社へも送付させていただきます。)
  

神と教会に敵対するクーデターとしてのアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による「弱者救済活動」の危険性~

神と教会に敵対するクーデターとしての「弱者救済」の思想の危険性 
~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による
「弱者救済活動」はなぜ危険なのか~


「しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。

 というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが、前に受けたことのない異なった福音を受けたりするときも、あなたがたはみごとにこらえているからです。」(Ⅱコリント11:3-4)

 



1.社会的弱者を無条件に美化することは、人の原罪を否定することにつながる
 ~平和な信仰生活を弱者救済という社会事業と政治闘争と置き換える危険~


ペンテコステ運動は、聖霊による超自然的な奇跡や癒しを強調することにより、社会から打ち捨てられた弱者を対象に、彼らへの早急な具体的支援を謳って、積極的に伝道を繰り広げて来たことで知られる。

アッセンブリーズ•オブ•ゴッド教団もこの点では例外ではなく、同教団は、病者、障害者、元ヤクザ、元統一教会員など、社会で最も憂慮すべき状態にある社会的弱者を積極的に勧誘して信者に取り込み、彼らが神を信じる以前の「負の過去」をも、積極的に宣伝材料として伝道に利用して来た。たとえば、元ヤクザで形成される伝道団体ミッション・バラバの活動を積極的に後押しして来たことなども知られる。
 
だが、キリスト教は本来、社会的マイノリティの救済のための慈善事業ではなく、教会が福音伝道という本来的な目的から逸れて、こうした社会事業に没入することは、教会の本来のあり方を見失わせる危険がつきものである。さらに、弱者や被害者を名乗る人たちをよく確かめもせず同情や救済の対象とし、彼らを美化するのは極めて危険な行為である。


私はこのブログにおいて、弱者救済という活動の美名の背後に潜む非聖書的な理念の危険性を一貫して訴えて来た。以下で映画" Mishima A Life In Four Chapters The Criterion Collection] [1985] Paul Schrader "を紹介したのもそうした理由からである。

この映画からも理解できるように、社会的弱者だからと言って、必ずしも善良な人々であるとは限らない。それどころか、人の強さと同様に、弱さもまた、人が自分よりも強い人間を騙し、巧みに利用して、己の欲望を叶えるための武器になりうるのである。弱さを持った人間が、自分の本当の動機を隠し、自分の弱さを巧みに利用して人の同情や罪悪感を引き出すことにより、自分よりも強い者を騙し、搾取し、支配するということがありうる。こうして、社会的な弱者が、弱者であることをバネに、強者との関係を覆し、強者に君臨し、自らのコンプレックスの憂さ晴らしをして、強者に復讐を果たすということが事実上、ありうるのである。

このような方法は古来から利用されて来たし、思想としても存在して来た。たとえば、マルクス主義も、弱者の復讐願望を理論化したものであると言える。経済的・社会的弱者であるがゆえに、プロレタリアートは善なる人々であるとし、彼らを搾取するブルジョアジーを悪人として描くことにより、マルクス主義思想は、プロレタリアートの救済という大義名分の下、弱者が決起して強者を打ち倒すことにより、強者を抑圧し、復讐を遂げることを肯定したのである。

確かに、強い者が自らの力により頼んでおごり高ぶり、弱者を蔑み、騙し、虐げる罪は重い。だが、それと同時に、弱者が弱者であることを理由に自分を聖なる存在のようにみなし、その弱さを武器にして、復讐心から強者を騙し、搾取し、抑圧して、支配関係を逆転しようとする思想も、前者と同じほど重大な危険をはらむ、恐ろしい思想であると言える。

聖書は人間はみな生まれながらに堕落した罪人であると教えており、その点で、いかなる例外も存在しない。社会的弱者だから、マイノリティだからと言って、心の清い人間は一人もいないのである。社会的弱者が、社会的強者に比べ、優先的に救いに値する心の清い人々だとは、聖書は教えていない。

たとえ社会的弱者であっても、その人に信仰がなければ、人は救われることができない。罪を逃れることもできないし、神の聖にたどり着くこともない。社会的な弱者であるその立場が、信仰なしに魂の救済につながることは絶対にあり得ない。

にも関わらず、社会的弱者であるという点をことさらに強調することによって、まるで彼らが特別に優れて心の清い、神に近い聖なる存在で、最も救済に近い人々であるかのように美化して描くことは、聖書に悪質に逆らう大変、危険な思想であると言える。
 
人はみな生まれながらに罪人であるという聖書の事実を否定して、社会的弱者も社会的強者と全く同じように罪人であるという点を見ず、社会的弱者だから無条件に救済に値すると考えて、弱者を無条件に美化し、弱者救済活動を行うと、結局、人間の原罪そのものを否定し、キリストの十字架を抜きに、人類が自力で自己義認し、神へ反逆するという、最も福音からほど遠い、恐ろしい思想につながりかねない。



2.「異なる福音」~聖書に基づく「救済」の概念を歪曲し、この世的な生活改善を「救済」とみなす異端~

   
かつて記事「疎外されし者たちの復讐の哲学~抑圧された社会的弱者や被害者の内に神を見いだす危険②~」の中で述べたように、キリスト教界において行われて来た弱者救済活動の中には、多くの信仰に基づかない非聖書的な活動があった。というより、弱者救済活動に励むキリスト教徒の指導者は、往々にして、自らが神を見いだせないという絶望に悩み苦しんでいた。上記の記事で挙げたマザー・テレサや、奥田牧師といった人々もそうである。

マザー・テレサは、死んだように形骸化して人への憐れみを失った冷たいキリスト教界の教会生活の中で神を見いだすことができず、神が実在しているのかどうか分からず、神に見捨てられているという絶望感に苛まれていたことを告白している。マザーは、教会にいる信仰者の中にキリストを見いだせず、絶望しか感じられなかったからこそ、路上生活者のもとへ赴き、「イエス=キリストは路上で 生活する貧しい人々に遍在している」と考えて、信仰を持たない貧しい人々の中にキリストを見いだそうと、弱者「救済」に励んだのである。

奥田牧師も同様に、釜ヶ崎のホームレスの置かれている悲惨な状況を目撃し、神はどこにおられるのか分からないという絶望感に苛まれ、自らの絶望をアウシュヴィッツを経験したユダヤ教徒のエリ・ヴィーゼルの告白に重ねながら、虐げられたホームレスの人々の中に神を見い出そうと、路上生活者のもとを訪れた。

形骸化して死んだように生気に欠け、人間への愛や憐れみを見失った従来のキリスト教界とクリスチャンの交わりの中で、神を見いだすことができず、むしろ、自分は神に見捨てられているという絶望しか感じることができなかったからこそ、その絶望感を癒すために、彼らはあえて教会から見捨てられた社会的弱者を対象に、救済活動を始めたのだと見られる。

従って、彼らの活動は、ただ社会的弱者のためだけに行われたというよりも、彼ら自身が、神に見捨てられたという自らの内なる絶望感を解消するために行われた自己救済の試みであった。

つまり、彼らは社会的弱者の哀れな境遇に自分自身を投影し、弱者に優しく手を差し伸べ、その生活の状態を改善することにより、神に見捨てられた絶望感から自分自身を救おうと試みていたのである。

マザー・テレサや奥田牧師は、キリスト教徒であったので、彼らの「救済活動」も、ともすれば、聖書に基づくものだと考えられがちであるが、実際には、彼らの唱える「救済」は、魂の救いという、キリスト教における聖書に基づく従来の「救済」とは全く異なるものであった。
 
だが、彼らの救済活動は、決して聖書に基づいて福音宣教の範囲を拡大することにより、従来のキリスト教界の手の届かないところを補い、宣教の範囲を広げることで、より多くの人々をキリストへ導くことを目的にはするものではなかった。

むしろ、従来の教会の宣教では、決して救いの対象とならないであろう見捨てられた人々を積極的に集め、彼らのために、教会の提示する従来の福音とは異なる福音を作りだすことによって、この人々を救いの対象外に打ち捨てて来た憐れみのないキリスト教界(ひいては神ご自身)に、深刻な疑念を提示し、抗議することを根本的な目的としていたのだと見られる。
 
たとえば、マザー・テレサは、キリスト教を押しつけないという理由で、インドの人々にキリスト教への改宗を促さなかったことが知られている。これを通しても、マザーの「救済」活動は、滅びゆく人々の魂をキリストへの信仰に導く福音伝道を第一目的としていなかったことが分かる。

正常なクリスチャンであれば誰しも、たとえ社会的弱者がどんなに手厚い支援を受けて、人として尊厳ある死に方をしたとしても、もし信仰を持たず、魂の救いに至っていなければ、罪や死後の裁きから逃れる道はなく、永遠の命もないということを否定しないであろう。

さらに、ホームレス伝道の場合も含めて、上記のように弱者救済に励む人々が、たとえ福音伝道をその活動の一部に含めていたとしても、彼らはほとんどの場合、社会的弱者への物質的・精神的支援の必要性を強調して、弱者を支援者である彼ら自身に依存させてしまうだけで、キリストの命にこそすべてがあって、キリストだけを頼り生きることによって、弱者が目に見える人間の支援者に頼ることなく、完全な自立に至ることが可能であることを決して教えない。そこで、ホームレスはホームレス生活からは抜け出られたとしても、今度は支援者につかまってしまい、教会の助けなしには決して自立できないような依存した状態にとどまってしまうのである。
 
困窮する社会的弱者が、弱さや困難から抜け出る秘訣は、本当は、人間の支援者による助けにあるのではなく、キリストの復活の命にこそある。悩める人に必要なのは、人間の与える一時的で不完全な物質的・精神的支援ではなく、神の御子の十字架における贖いの完全性を信じ、永遠の命に至り、この命に立脚して自立して生きることである。

この世の物質的・精神的支援は、それ自体、無意味ではないにせよ、すぐに尽きてしまう束の間の延命治療のようなものに過ぎない。それは人を死から救うこともできないし、人の抱えるあらゆる必要を不思議な天的方法で満たすこともできない。

だが、キリストの十字架の贖いによる救いは、永遠に至るものであり、信者がこの世においても、来るべき世においても、直接、神から助けをいただいて、目に見える誰にも依存せずに、自立して生きる解放を約束するものである。

だから、社会的弱者へどんなに手厚い支援を行なったとしても、もし人々にキリストの十字架の贖いを信じて魂の救済を受けとるように導かず、さらにキリストを信じさせたとしても、ただキリストだけに頼り、キリストの命だけによってすべての必要を供給していただくことが実際に可能であることを教えず、かえって人間の支援者らによる物質的・精神的支援へと依存させていき、彼らの救済活動の枠組みから決して外へ出そうとしないならば、それは偽りの救済活動であり、その対象とされてしまった人々には、目に見える支援者から自立して生きる道が半永久的に閉ざされてしまう。

そのため、こうした活動においては、「支援する側」と「支援される側」に、永久に埋まらない溝(区別)ができ、その格差の分だけ、支援者だけが、弱者の救済の美名を利用して輝き、弱者を土台にして、賞賛され、栄光を受けるのである。

従って、こうした神によらない弱者救済活動は、一見、弱者を解放するように見えても、決して弱者を真の解放へは導かない。むしろ、弱者をまことの神への信仰から遠ざけ、前よりももっと巧妙で気づきにくい新たな支配と搾取の構図の中にからめとって行くだけなのである。ただ、利用されている側の弱者は、前よりも生活が良くなったのは支援者のおかげだと思わされているため、その新たな搾取の忌まわしさが分からないだけである。
 
こうした弱者救済活動にいそしむキリスト教の指導者は、「救い」の概念そのものを歪曲し、すり替えてしまう。彼らの提示する「救い」とは、社会的弱者が、彼らの提供するこの世の物質的・精神的支援を受けて、生活状態が改善することを意味しているのであり、彼らが見えないまことの神を信じて永遠の命を受け取り、その命に基づいて自立して生きることでを「救済」とはしていないのである。

こうして、「救済」の概念をすり替えることにより、こうした指導者は、聖書の提示する救いとは全く異なる別の救済の概念を作り出し、聖書とは「異なる福音」を宣べ伝えているのである。

こうしたことを考えるならば、たとえ世間でどんなにマザー・テレサの「偉業」が誉めたたえられたとしても、彼女の活動は、聖書の信仰を土台とせず、この世的な支援だけを行い、人々の生活状態の改善を「救済」とみなすことにより、むしろ、最も大切な聖書の真理を、滅びゆく人々の目から覆い隠し、彼らがまことの神を信じて魂の救いを受けとる機会を奪ったのだと言える。そうした文脈で見ると、これはキリスト教的な救済事業ではあり得ないどころか、神の福音に本質的に敵対する活動であったということになる。ほぼ同じことが、キリスト教指導者によって行われるホームレス伝道についてもあてはまるのである。



3.「異なるイエス」~キリストは信仰者の内におられるのではなく、信仰を持たない社会的弱者のうちにおられるとする異端~

すでに述べた通り、上記のような弱者救済活動は、救済事業に関わるキリスト教の指導者自身が、神を見いだせないという絶望感から発生していた。

つまり、教会の従来の宣教活動によっては、決して福音伝道の対象とはみなされず、従って、救いの対象外となるしかないような人々が存在していた。献金を払う余裕もなく、教会活動に何ら有益な貢献ができそうにないという理由で、初めから伝道の対象から除外されて、教会から見放され、悲惨な滅びと死へと向かわされている人々がいた。――彼らは地上で苦しんでいるばかりではなく、伝道の対象外であるために、従来のキリスト教の教義によれば、来るべき世でも苦しみしか待ち受けているもののない人々である。――もし、彼らが教会の不作為により、福音を伝えられず、キリストを信じることなく死んでしまった場合、彼らの魂が永遠に救済されないというならば、一体、これらの人々は何のために生まれて来るのか、誰が彼らの存在に対して責任を負うのか、神と教会はなぜこれらの人々を見捨てているのかーー。

自分自身が教会で味わった絶望とあいまって、見捨てられた弱者への痛みに満ちた共感が生まれ、それが彼らを見捨てて来た神と教会とクリスチャンに対する深い絶望感と憤りとなって、上記のような活動へと、キリスト教指導者を追いやったものと考えられる。

そこで、彼らは教会からは暗黙のうちに「救いの対象外」とみなされているような貧しい路上生活者のもとへ赴き、意図的に彼らを対象にして、今まで彼らを疎外することしかできなかった教会の提示する「狭い救い」の代わりに、この世的な手厚い支援を救済とする「広い救い」を作り出して、教会とは全く別のやり方で、これらの人々を「救済」しようとした。

それだけでなく、こうした指導者らは、「神」の概念をもすり替え、キリストは、冷淡で愛を失い生気なく死んだような教会の、死んだようなクリスチャンの只中におられるのではなく、むしろ、教会から見捨てられているように見えるこれらの社会的弱者の中にこそおられるのだと主張した。

そうすることで、彼らは、実は、神から見捨てられた自分自身と、教会から見捨てられた社会的弱者とで、共同のリベンジを果たしていたのだと考えられる。つまり、彼らの論理によれば、神が本当におられるのは、信仰を持っていると自称して自己安堵しながら他者への憐れみを失い弱者を容赦なく教会の外に見捨てているクリスチャンの只中ではなく、信仰を知ることもないまま打ち捨てられている貧しい路上生活者の只中にこそ、神がおられるのであり、従って、その論理を推し進めると、神に本当に見捨てられているのは路上生活者ではなく、むしろ彼らを容赦なく見捨てて来た教会の方だということになる。

こうして、弱者救済活動の支援者らは、自らが教会の中で見いだせなかった救いを、路上生活者のもとに見いだそうとする。彼らは路上生活者に生活の支援を与えることにより、彼らを「救済」してやる代わりに、路上生活者の中に「キリスト」を見いだし、それによって自分自身が「救い」を得るのである。

従って、彼らの活動は、このような観点から見ると、聖書をさかさまにしたものであり、たとえキリスト教界を公に糾弾したり、これと敵対したりすることがなかったとしても、本質的には、この活動は、社会的弱者を容赦なく打ち捨てて来た従来のキリスト教界と、彼らを救いの対象としえなかった従来の福音に対する異議申し立て、告発、強烈なアンチテーゼの意味合いを持っているのだと言える。
  
だが、もちろん、そのような活動は、人の耳には優しく聞こえるかも知れないが、聖書に基づかないものである以上、虚偽であり、まやかしでしかない。

こうした活動では、本来、神の救いを宣べ伝える側に立っているはずキリスト教の伝道者が、宣べ伝えられる側の人々の方に救いを求めているという点で、本末転倒であるだけではない。信仰なくして社会的弱者のうちに「神」が宿っているとする思想は、人の原罪を否定して、生まれながらの人を神に等しいものとしている点で、聖書に真っ向から対立する異端思想である。
  
そこで、こうした「弱者救済」の思想は、マルクス主義と同じく、本質的には、グノーシス主義に分類されるのだと言える。グノーシス主義思想においては、人は生まれながらに神聖な要素を内に宿しているため、その神聖に覚醒して目覚めさえすれば、自らを抑圧から解き放って神の聖に達することができるとされる。

グノーシス主義思想においては、生まれながらの人の原罪は否定されており、人は罪深い存在であるどころか、むしろ「神聖な要素」を内に宿しているのであって、ただこれが抑圧されているために、転倒した状態にあるだけだとされる。そこで、この思想においては、人は己のうちに抑圧されている神聖な要素を解き放ち、自分自身の中で秩序転覆を成し遂げ、神聖な要素を全体に押し広げさえすれば、自ら神のように聖なる存在に到達できるとされる。そのような秩序転覆は、一人の人の内側において可能であるだけでなく、社会全体にもあてはめられる。その際、社会全体の秩序転覆のために利用されるのが、「抑圧された(聖なる要素としての)社会的弱者」の存在である。

つまり、こうした思想においては、社会において「抑圧されている弱者」が「神聖な」要素とみなされているのであり、この「聖なる」人々を抑圧から解き放つことにより、社会全体が「聖化」され、弱者のユートピアという地上天国に至るというのである。

このような文脈における「弱者救済」の思想は、ただ単に個人としての社会的弱者を抑圧された生活状態から救うことを目的として目指しているのみならず、それは社会事業としての意味を持っており、すなわち、弱者の集団を社会全体において抑圧から解き放ち、強者と弱者の関係を覆すことにより、弱者のユートピアを築き、社会全体を浄化しようとする意味を自ずから含んでいるのである。
   
むろん、このような思想には、人の原罪という概念もなければ、人類の罪の贖いのためのキリストの十字架もなく、従って、これがキリスト教に悪質に敵対する異端的な思想であることは明白である。このようなグノーシス主義思想は、早い話が、弱者による秩序転覆のクーデターを容認するものであり、これを正当化する根拠として、社会的弱者をあたかも聖なる存在のように祀り上げているのである。



4.己を疎外した神と教会とクリスチャンに対する復讐としての「弱者救済活動」

  
すでに見て来たように、マザー・テレサや奥田牧師のような「弱者救済活動」に励むキリスト教指導者は、自ら信仰者を名乗っているので、彼らの活動がグノーシス主義思想に基づいているのだとはなかなか外からは見えにくい。

だが、 彼らが「信仰を持たない貧しい人々の中にキリストを見いだしていた」という事実を考えれば、これがまことの神を否定するグノーシス主義思想に沿った考え方であり、彼らが聖書の示す「神」や「救い」の概念をひっくり返して、本来、聖書によれば、罪に定められるべき集団を「聖」とみなし、救われていないはずの者たちを「救われている」とみなし、神に属しているはずのない人々を「神である」と唱え、それによって、最終的には、見捨てられた社会的弱者と共に、神に見捨てられた自分自身を、神に等しい者として祀り上げようとしていたのだと言うことができる。

つまり、彼らは、たとえ公言してはいないにせよ、社会的弱者を「キリスト」と同じ高さにまで祀り上げることにより、彼らだけでなく本当は神から見捨てられた自分自身を「神」としていたのだと言える。すなわち、本当に「キリスト」がおられるのは、神への信仰を持っていると言いながら、死んだ教会の死んだクリスチャンの只中ではなく、むしろ、彼らから疎外され、見捨てられた社会的弱者と自分自身の只中であると言うのである。そう主張することによって、彼らは、神に見捨てられているという絶望感を払拭できるだけでなく、自分を神の愛から疎外した冷たい教会とクリスチャンに復讐を果たし、ひいては、そのような方法で、人類のごく限られた人々しか救いの対象としていない聖書の神の「狭い福音」そのものに異議を唱えているのだと見ることができる。
  
同様のことが、カルト被害者救済活動にあてはまる。すでに述べて来た通り、この活動も、弱者救済という美名を隠れ蓑にしてはいるが、それ自体が、キリスト教界に対する強烈なアンチテーゼであり、告発であった。この活動は、あえてキリスト教界で信仰につまずき、教界から見捨てられて、教界に根強い不満や恨みを持つ分子を集めて来ては、彼らの存在を利用して、キリスト教界に闘いをしかけ、教界を告発して攻撃し、秩序転覆をはかって来た。

つまり、カルト被害者救済活動の支持者から見れば、正しい生き方をしているのは不当に虐げられたカルト被害者であって、彼らを見捨てて来た冷たい教会と冷たいクリスチャンではない。さらに、「救済」に値するのも、虐げられたカルト被害者であって、教会の中にいて彼らを見捨てて来たクリスチャンではないのである。
  
こうして、キリスト教界から見捨てられた「弱者」や「被害者」の存在を口実に、彼らを見捨てたキリスト教界と冷たいクリスチャンを告発し、ひいては神ご自身を非難して、救いの概念を歪曲し、聖書の福音そのものに異議を唱えようとする活動が、カルト被害者救済活動なのである。たとえ彼らがあからさまに神を呪ったり、罵ったりすることがないとしても、彼らにとっての「神」の概念は、正常なクリスチャンと同じものではない。この活動が聖書から著しく逸れたものであることは、すでに幾度も指摘した通りである。
  
こうして、キリスト教徒を名乗っている人々によって行われる「弱者救済活動」は、必ずしも、聖書に基づかないどころか、こうした活動の指導者らには共通して、キリスト教界から見捨てられた社会的弱者・被害者こそ「救済」にふさわしい対象であるとして、弱者のために特別に、従来の聖書の福音とは異なる「救済」を提示することによって、弱者を苦しみの中に容赦なく見捨てて来たキリスト教界の「狭い救い」を否定し、ひいては聖書の提示する福音そのものを否定するという側面があることは否めない。彼らの唱える「救済」は、弱者の生活を改善するという地上のパンを第一の目的としてはいても、見えない霊のパンである聖書の御言葉に基づかないのである。
  
そのため、こうした聖書に基づかない、信仰を抜きにした弱者救済の思想は、それ自体が、神と教会とクリスチャンに対する異議申し立てであり、抵抗運動であり、復讐であると言える。
   
ここで思い出されるのが、ドストエフスキーの大審問官や、サンダー・シングなどの存在である。ドストエフスキーの大審問官は、聖書的な方法では人類のほんの一部しか救われないため、自分はこのような残酷で狭量な救いの代わりに、人類の圧倒的大多数を救うことのできる寛大で広い救いを作ってやるのだと述べて、教会の提示する方法では救われない圧倒的大多数のための新たな福音を提唱する。

サンダー・シングもまた、ヨーロッパのキリスト教界に接触した際、形骸化した教会生活と高慢なクリスチャンに深い絶望を覚え、こうした「自称クリスチャン」の中に神はおられないという結論に至り、それをきっかけとして、「ヨーロッパの地の塵を足から払い落とし」「貧苦に喘ぎながらも真剣に神を求めている東洋の人々へと」関心を移した。(「聖なる導き インド永遠の書」林陽訳、徳間書店、p.19。)
 
マザー・テレサや奥田牧師の場合と同様、こうしてクリスチャンを名乗りながらも、教会から打ち捨てられた人々を積極的に救いの対象とする「弱者救済活動」を行う指導者は、往々にして、従来のキリスト教界と従来のクリスチャンに対する深い絶望感、嫌悪感を心の底に秘めている。

彼らの「救済活動」は、神と教会とクリスチャンに対する絶望をきっかけとして始まっており、彼ら自身の自己救済のためであると言える。その出発から見て、必然的に、そのゴールは、神と教会とクリスチャンの「横暴」によって虐げられた者たちを、神と教会とクリスチャンの手から救うという性質を持つものとならざるを得ない。その結果、彼らは信仰による解決を退け、信仰によっては救われない圧倒的大多数のために、別の福音を作り上げるのである。
    
こうした人々の弱者救済活動は、ただ単に形骸化したキリスト教界に対するアンチテーゼであるばかりではなく、本質的に、聖書の提示する狭き門として「狭い福音」そのものに対する抵抗であり、抗議なのである。

彼らはその活動を通して、神自身の「横暴」と「偏狭な救い」から人々を救おうとしているのだと言えるかも知れない。だから、こうした弱者救済活動は、本質的には神を仮想敵としているのだと言えるのである。すなわち、神に疎外され見捨てられた「クリスチャン」が、同じように、教会に見捨てられた人々に自己投影し、この哀れな人々を「救済」することによって、自己救済を成し遂げ、さらには自分たちこそ神に等しい者であると主張することによって、自分を見捨て来た神と教会とクリスチャンに復讐を果たし、彼らを見返そうとする心理がその根底に横たわっているのだと考えられる。
 
従って、こうした弱者救済活動は、いかにうわべはキリスト教的な装いをまとっていたとしても、聖書に基づくものではなく、その支援者らもクリスチャンとは言えない。彼らの救済活動は、本質的には「神と教会とクリスチャンの唱える偏狭な救いに対する抵抗運動」なのであり、彼らが真に糾弾している相手は、彼らを理不尽な苦しみに遭わせ、見捨てて来た神ご自身なのである。
  
従って、神を隠れた仮想敵としているこうした活動に関わると、たとえクリスチャンであっても、結果として救いを失うことは避けられない。どんなに人の耳に優しく響いたとしても、聖書の福音そのものに対して異議を唱えるこの活動に関わることは全く勧られない
  
  



5. アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による危険な「弱者救済活動」
~弱さに居直り、被害者意識と自己正当化に溺れ、欲望に歯止めが利かなくなる信者~

  
さて、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、すでに述べたように、社会的弱者やマイノリティに接近しては、これを積極的に信者に取り込んで来たため、今や教団内には、社会的弱者が溢れるようになった。

さらに、同教団は、こうした社会的弱者やマイノリティの「負の過去」を積極的に伝道の材料として利用して来たので、今や教団内では、元統一教会員や、元ヤクザであることは、何ら恥ずべきこととはみなされず、むしろ、普通の信徒らには欠けている稀有な経験や希少な価値であるかのようにみなされ、歓迎されるようになった。

同教団は、このように社会的弱者やマイノリティを美化して盛んに受け入れるだけでなく、大規模な「カルト被害者救済活動」を推し進め、平和な信仰生活を、弱者救済のための手段に変えて来た。その過程で、キリスト教界につまずいて、キリスト教界に根強い恨みや不満を持つ信徒らを積極的に集め、カルト被害者を「救済」するという口実で、彼らの憎しみや怨念を利用して、既存の教会に争いをしかけて来たのである。

その結果、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、社会的弱者とマイノリティとキリスト教界に不満や憎しみを持つ者たちの「天国」のようにまでなった。
 
同教団では、平和的な信仰生活を送ることよりも、弱者救済を口実に、キリスト教界を絶え間なく非難して、教会やクリスチャンを相手に恒常的に争いに生きることこそ、信仰生活であるかのようにみなされ、争いが第一義的課題のようにまでなったのである。
 
だが、同教団の推進する「カルトとの闘い」は、当初から予想された通り、内ゲバや外ゲバのような泥沼の闘争へと発展し、あらゆる教会や信徒に対する無差別な迫害へと様変わりした。その活動はキリスト教とキリスト教界そのものに対する破壊運動のような様相を帯びて行ったのである。
 
こうした状況を考慮すれば、もはやアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団そのものが、聖書の神と教会とクリスチャンに敵対する者たちの要塞となり、キリスト教界全体に戦いを挑むことを第一目的とする極めて危険な集団になっていることが分かるであろう。
  
教団の誤った非聖書的な教えのために、教団の信徒らも、深刻な悪影響を受けた。 同教団からは、一方では、被害者意識に溺れ、弱さを武器にヤクザのようにクリスチャンを恫喝しては、身勝手な利益をほしいままに引き出す「信者」が生まれたかと思えば、他方では、怪しい非聖書的な霊的ムーブメントに欺かれた結果、偽りのメッセージを盛んに述べ立てては信徒を惑わせ、最終的には呪いや滅びの予告を捨て台詞に立ち去って行く破壊工作型の「信者」も生まれた。(Br.Takaなどは後者の顕著な例である。)いずれの場合も、彼らの真の目的は、信徒らの交わりを私物化して破壊し、兄弟姉妹に深刻な害を与えることにある。

私が関わっただけでも、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に深い関わりのある信者たちは、例外なく深刻なトラブルメーカーであった。デリラがサムソンに誘惑をしかけたように、彼らは自らの弱さを武器に、、自分よりも強い者を脅し、非難しては、罪意識を抱かせ、自分の前にひれ伏させ、謝罪させることに、至上の喜びを見いだしているようであった。
 
統一教会を脱会してアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団へ転籍するというカルト被害者救済活動のお決まりのコースを辿ったある信者は、兄弟姉妹の交わりを求めているように主張していたが、途中から、自らの切迫した生活状況を赤裸々に告白し、交わりを自分の個人的な必要を訴える場へと変えてしまった。そして、兄弟姉妹に具体的支援を求めて懇願を重ね、同情を勝ち得て、身内や信者から総額何百万円にも及ぶ借金を重ねることに成功した。だが、それほどまでに手厚い支援を受けながらも、彼はそれを有効に生かすことができず、次々と事業に失敗した挙句、最後には、自分に十分な同情を示してくれないクリスチャンを冷酷だと非難し、非クリスチャンの方がよほど同情的で信頼できると捨て台詞を吐いて立ち去るのであった。それなりの年齢で、家庭もきちんとありながら、常にクリスチャンに自分の生活改善などの必要のために利用することしかできず、幾度にも渡り手厚い支援を兄弟姉妹からむしりとったその後に、クリスチャンは信用ならないと捨て台詞を吐いて立ち去るのだから、始末に負えないとしか言いようがなかった。
 
こうした信者らを観察した結果として言えることは、彼らは従来の教会とクリスチャンに対する根深い恨みと被害者意識を心に抱えており、それゆえに、たとえ表面的には真の信仰や交わりを求めているように見えても、実際には、兄弟姉妹を自分に都合よく利用したり、身勝手な理由で非難しては懺悔させたり、精神的・物質的に搾取して損害を与えるような有害な形でしか関われないということであった。
 
どのように説得しても、彼らは自分たちの抱える問題を解決できるお方は神であり、ただ神だけに頼って自らの必要を供給してもらうことの方が、人に頼ることに比べ、はるかに安全な方法であることを信じようとはしなかった。また、兄弟姉妹がどれほど彼らに同情を注ぎ、支援を行なっても、彼らを教会やクリスチャンに対する被害者意識から逃れさせるのは、人の力では無理だという事実が判明するのである。

そこで、結論として言えるのは、このような「信者」を相手にしても、クリスチャンには損失以外、何も得られるものはないということである。彼らを被害者意識から立ち直らせるのは神の仕事であって、人の仕事ではない。同情はかえって恨みを増長させるだけで、あだにしかならない。そもそも兄弟姉妹の交わりを第一目的にしておらず、教会を自分の必要を訴える場と誤解している人々をクリスチャンが受け入れても、信仰的に結ばれる実は皆無に等しい。
 
さらに悪いことには、彼らは弱者に偽装しているだけで、本当の意味で手を差し伸べられるべき弱者ではなかった。よく観察してみれば、彼らが本当に困窮している人々に比べて、実に多くの富を手にしていることが分かる。だから、彼らは単に自分の弱さを巧みにアピールの材料として利用し、都合の良い利益を得るために、クリスチャンに接近しているだけだと分かるのである。 
  
しかし、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信者にはあまりにもこの手の信者が多かった。 
このようなことが起きる背景には、すでに述べて来た通り、同教団が推し進めて来た誤った人類(弱者)救済思想が深く影響していることは否めない。同教団は、教会と信仰生活を、人が神に従う場ではなく、人が神を利用して自分の欲望をかなえる場所へと変えてしまったのである。

その結果、同教団の誤った教えに影響された「信者」らも、信仰生活とは、信者が聖書の御言葉に服し、見えない神に従い、見えない神を喜ばせるために送るものではなく、目に見える人間である自分自身を喜ばせ、己の欲望を満たす場であり、堂々と自分の必要を声高に主張して、兄弟姉妹をその欲望をかなえる手段として利用しても構わないという誤解に陥って行ったのである。しかも、彼らにとっての「神」とは、どうやら、聖書の見えないまことの神ではなく、社会的弱者である自分自身を指しているらしい。

このようにして「社会的弱者」であるがゆえに、自分自身を正当化し、被害者意識と、自己陶酔に陥り、自分を「神」のようにまでみなしてしまった人々は、もはや恥も外聞も罪の意識もなく、途方もない厚かましさで、兄弟姉妹の交わりを自分の欲望をかなえるための手段として利用する。その挙句、自分の願いに沿わない兄弟姉妹を容赦なく罪定めして退け、最終的には、信仰を持たない人々のうちに神がおられると言って、教会とクリスチャンに背を向けて、信仰者の目の前から立ち去って行くのである。
 
余計なお世話ではあるとはいえ、こうした人々が、たとえ教会とクリスチャンの冷酷さを非難して、教会に背を向けて、信仰を持たない人々のもとへ逃走したとしても、常に他人を利用して同情と支援を乞うばかりで、自分の人生に対して何ら自分で責任を負うことのできない無責任で甘えに満ちた態度では、その後も、正常な人生を送ることはできないであろうと思う。最初は気前よく同情し、支援を与えてくれた人々も、何度も同じことが繰り返されるうちに、本質的な原因がどこにあるのか見抜いて行く。

本質的な原因は、その人自身の信仰の欠落にある。神ご自身に頼って生きる秘訣を学ばない限り、彼らは人の助けや理解をどれほど得たとしても、結局、それを有効に生かすことができず、同じ問題が延々と繰り返されるだけに終わるのである。
 
だが、こうした無責任で甘えに満ちた信徒を大量に生んだ責任はアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団にある。同教団は、社会的弱者をさかんに美化することにより、彼らを自己陶酔に陥らせて、罪の悔い改めの機会を失わせた。そして、信者が自らの弱さゆえに、自分は清いと考えて己を神に等しいものとみなして自己の欲望を正当化し、他の教会やクリスチャンを見下しては、被害者意識をバネに、彼らを自分の利益を引き出す道具とすることを積極的に奨励して来たのである。
 
聖書がすべての人間は生まれながらの罪人であると教えている以上、たとえ社会的弱者であっても、神の御前に己の罪を否定し、御言葉に服さず、御手の下にへりくだることをしないならば、その人の末路は悲惨なものとなることは避けられない。

たとえ理不尽な苦しみを通されることがあったとしても、すべての人は神の御手の下にへりくだらなければならない。神こそ、人の弱さと苦しみをすべて理解し、人に必要な支援を与えて下さる方である。どれほど兄弟姉妹に失望することがあっても、性急な復讐に走らず、人に助けを求めるのではなく、忍耐強く神だけを待ち続ける態度がクリスチャンに求められている。
  
もし神を畏れることが知恵の初めならば、神を否定することは精神崩壊の始まりである。神は信者の内側には住んで下さっても、信仰を持たない社会的弱者のうちにはおられない。にも関わらず、社会的弱者を「神」のように美化し、人が己の欲望を成し遂げることを「救済」とみなし、福音からほど遠い非聖書的な活動を推し進めるアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団には、決して関わらないことをお勧めする。

「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、
多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。
かれらの 思いは地上のことだけです。

けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
キリストは、万物をご自分に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のかたらだと同じに変えてくださるのです。」(ピリピ3:18-21)


正義の仮面を被り、無実の教会とキリスト教徒を迫害する村上密氏の活動の危険 まとめ

~異端の教えを無批判に取り入れ、無実の教会を迫害し、
正義の仮面を被りながら、カルト被害者救済活動を暴走させる
アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団と村上密牧師の危険~


 さて、筆者はブログ記事において、2001-2002年にかけて鳴尾教会で起きた混乱に関して、教団が公に配布した資料を公表した。この資料は以下でも示しているが、この発表により、鳴尾教会を巡り教団が長年に渡り、流布して来た数々のデマの暗闇が大きく打破されたものと信じる。

これまで鳴尾教会に関しては、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団及び村上密サイドが、彼らに都合の良い偏った虚偽の情報ばかりをさかんにネット上に流布して来た。 そして、事件の当事者でもなく、当時の教会の様子を知りもしない者たちが、その虚偽の情報に見境なく飛びついては、関係者を中傷し、事件を膨らませながら事実と全く異なる空想物語を言い広めて来た。
 
しかしながら、以下で示す内容は、村上密氏がこれまで鳴尾教会について言い広めて来た情報が、完全に嘘であることを証明している。この主張の信憑性を証拠立てる点としては以下が挙げられる。

1. 以下で示している内容は、当時の教会の実情をよく知る当事者の証言に基づいており、なおかつ、教団側によって公に認められて信徒に配布された資料を根拠としているため、当事者でない者が、確たる証拠もなしに、この事実関係を否定するのは不可能である。
 
2.教団から配布された資料を通して、改めて明らかになるのは、鳴尾教会を混乱に陥れた原因は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に属する指導者ら(津村昭二郎氏、村上密氏)による不当な教会内人事の私物化にあったという事実である。

鳴尾教会の事件を振り返るとき、何よりも明白となるのは、同教会に混乱を引き起こした何よりの原因が、当時の鳴尾教会の主監者であった津村昭二郎氏の義理の息子としての立場を利用して、教団や教会に定められた正式な手続きに則らず、本来は同教会において何の権限を有していなかったにも関わらず、信徒の了承も得ずに、密室の暗闇で教会に不当な介入を繰り返した村上密牧師の不誠実で信用ならない行動にあったという点である。

また、同教会に尋常ならぬこだわりを抱いて引退を拒み、そのために自らの後継として派遣された伝道師を、過酷な労働条件で酷使した挙句、不当な汚名を着せていわれなく追放した当時の鳴尾教会の主監者であり村上密氏の義理の父である津村昭二郎牧師の行動の責任が問われるべきである。

3.にも関わらず、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、鳴尾教会に混乱が起きた2001-2002年当初から、村上氏と津村氏らによって教団内・教会内手続きに従わずに行われた鳴尾教会内人事の私物化という問題点を何ら追究しないまま、こうした指導者らの無責任な対応をかばい立てし、ごまかすために、ただ津村氏の引退により、事件をうやむやなままに幕引きをはかった。

4.さらに、これに終わらず、教団側はその後も、鳴尾教会に起きた混乱の責任が、あたかも教団自らが派遣した後任の山田牧師夫妻や、信徒の側にあるかのように見せかける虚偽の情報を拡散することで、長年に渡り、自らの責任をごまかそうとして来た。

その嘘を正当化するために、教団側は、かつて津村氏が鳴尾の後継者として派遣された伝道師夫妻に濡れ衣を着せて、鳴尾教会から追放をはかったのと同様に、鳴尾の後任である山田牧師牧師夫妻に「異端者」の濡れ衣を着せることで、鳴尾教会に起きた混乱を後任の牧師に責任転嫁することを正当化しようとはかったのである。

5.しかも、このような虚偽の情報を流布するにあたり、村上密氏は、教団のホームページ等、教団の正式なツールを通じて物事を公にして議論を進めようとはせず、むしろ、自身の私的なブログや、アッセンブリー教団とは何の関係もない私人である杉本徳久氏のブログ「随想 吉祥寺の森から」に代表されるような、教団には何ら関係なく、従って、本来、当然、教会内人事に口をさしはさむ権限も持っていない部外者を積極的に活用して、鳴尾教会を貶めるためのネガティヴ・キャンペーンを行った。

村上氏がこれまで、自らにとって不都合とみなした政敵を貶め、印象を操作して貶めるためのネガティブ・キャンペーン(人物破壊工作)の多くを、教団とは何の関係もない部外者の口から発表させて来たことは周知の事実である。

杉本徳久氏のブログについては、当初から、同氏が「疑わしい」とみなしたクリスチャンを次々と根拠もなくネット上で一方的に吊し上げては私的に制裁を加えるというものであったため、暴走の危険が指摘されていたが、案の上、同氏のブログはキリスト教に恨みを持つ者たちが集まっては、昼夜を問わず、キリスト教徒に対する見境のないリンチを繰り広げるだけの場となって行ったことは、「罪と罰 カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反するのか」ですでに指摘したことである。

村上氏はこのように教団と無関係の部外者を積極利用して、インターネットを中心に、自らの意見を代弁させたわけだが、そうした行為に及んだ理由としては、万一、村上氏や教団側の投げかけた疑惑に十分な根拠がないことが明らかにされて、後日、相手方から名誉棄損の訴訟が提起されるなどして責任を問われた際に、同氏や教団関係者らが直接、矢面に立たされることなく、責任を逃れる目的があったものと見られる。

村上氏はカルト化の疑いを投げかけた教会には幾度も自分から裁判をしかけておきながら、自分自身は責任を追及されたくないばかりに、教団とは何の関係もない個人に全責任を身代わりにかぶらせる形で、一般人に自分の意見を代弁させて、教団側にとって都合の良い捏造された情報を言い広めて来たのである。

こうして、自らの見解を公式に発表して自分の述べた言葉の責任を取ろうとはせず、教団と無関係な個人や支持者を身代わりに矢面に立たせることで、相手に公に反論する機会も与えずに、公の審議にはかることもないまま、何の裏付けも取れていない不確かな虚偽の情報を一方的に次々と流布しては、政敵を貶め、クリスチャン同士の疑心暗鬼と対立を煽り、それによって「カルト問題の専門家」として脚光を浴びて来た村上氏が、いかに信用ならない人物であり、同氏の唱える「カルトとの闘い」が、信憑性のない荒唐無稽な嘘っぱちであるかは、今や誰の目にも明白である。

6.こうした一連の事件を振り返るとき、村上氏の唱える「カルトとの闘い」とは、村上氏が不都合な政敵を追い落とすための口実に過ぎなかったことが分かる。鳴尾の事件を見ても分かるように、同氏はすでに十年以上の長きに渡り、自らにとって都合の悪い信徒に対して、「異端者」の濡れ衣をでっちあげては、繰り返し相手を誹謗中傷することで、信用の失墜をはかり、追放を試みて来たのである。つまり、魔女狩りのような「異端疑惑」は、村上氏が自らに不都合な政敵を追放するために用いる常套手段だったのである。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、こうした村上氏や津村氏の身勝手な行動をいさめることもなく、むしろ、その言いなりとなって、彼らと一緒に危険な活動に従事し、卑劣かつ無責任に自らの不適切な対応をごまかし、弱い立場にある牧師や信徒、ひいては教会にまで身代わりに罪を着せながら、責任転嫁をはかって来た。
 
同教団は、本来ならば、鳴尾教会に起きた混乱を収拾すべき立場であったが、それをするどころか、混乱の責任を一方的に教会に転嫁することにより、自分たちは知らぬふりを決め込み、事態をより悪化させて来たのである。

恐ろしいのは、今やアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団全体が、津村氏や村上氏の私物のように動かされている事実である。
 
記事「「カルト監視機構」という名の秘密警察の設立について」の中でも指摘した通り、こうして他教会の人事に不法に介入しては教会を私物化し、不都合な人間にはでっちあげの嫌疑をかけて追放し、自らに不利な情報は隠蔽し、捏造された情報を支持者を使って大量に流布することによって、自らの責任をごまかし続けて来た村上氏が、まるで正義の味方のような仮面を被って、「弱者救済」の美名の下、「カルト被害者救済活動」を推進し、教団全体を「カルトとの闘い」に巻き込んで来ただけでなく、果ては「カルト監視機構」の設立を訴えて、教団の枠組みを超えて、プロテスタントの全教団教派に属する諸教会の人事にまで介入しようと試みていることは、恐ろしい事態である。
  
このように全く信頼できない行動を繰り返す指導者がリーダーとなって、全プロテスタント教界の教会に干渉することのできる機関が設立されることが、どれほどキリスト教界全体にとって重大かつ恐ろしい危険を意味するか、改めて指摘するまでもないであろう。
 
ちなみに、村上密氏の活動については、カルト被害者の側からも早くから疑念の声が上がっていた。ORCを守る有志の会からは、同氏に対して、すでに2009年の時点で「本当に専門家なのだろうか?」との深刻な疑念が投げかける声明が発表されている。 

 



カルト被害者の側からも村上密氏の活動には疑念の声が上がっている。
ORCを守る有志の会のホームページから)


     
また、筆者が「偽預言者をゲストに招く教会」の記事でも指摘した通り、村上密氏自身が、カルト化の疑いがあると知っていた指導者を堂々と自らの教会へ招き、被害を受けた信徒の目の前でメッセージをさせるという行為に及んでいたことを、被害者自身が証言している。もともと怪しい霊的ムーブメントを率先して無分別に取り入れて来たアッセンブリー教団が、他教会の活動だけを「カルト化の疑いがある」と批判すること自体がおかしいのだが、それをさて置いても、これは悪質な二重性のある行動だと言わざるを得ない。

7.鳴尾教会は、このような恐るべき腐敗・無法状態・無責任状態に陥った教団から、正式に離脱を決定したが、その際、教団側(村上氏+津村氏サイド)は、教会の決定に復讐心を燃やし、あたかもそれが山田牧師夫妻による不法な「教会の乗っ取り」であったかのように主張して、鳴尾教会の教団からの離脱の決定を撤回させようと、教会に恫喝訴訟をしかけるなどして、執拗に制裁を加えた。

8.しかしながら、村上サイドの主張は裁判によっても認められることはなく、教団側はこれらの争いにことごとく敗れ、鳴尾教会は無事に教団から離脱して新たな出発を遂げた

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団側からの長年に及ぶ執念深く陰湿な言いがかりに対して、無実の小さな教会が勇気をもって戦い抜いた経緯は、「鳴尾キリスト福音教会から皆様へ」のブログに詳しい。

こうして、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団と関係を断ち、単立教会として晴れて新たな出発を遂げた鳴尾キリスト福音教会の安堵と喜び溢れる様子は、同教会の新しいホームページからもよく伝わって来る。



 
アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団からのスラップ訴訟に負けず、
礼拝堂も見違えるように美しくなった鳴尾キリスト福音教会


  
9.アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、裁判においても全面敗北しているにも関わらず、今日に至るまで、なお鳴尾教会への対応に過ちを認めることなく、あらぬ疑いをかけて誹謗した鳴尾教会関係者への謝罪も行っていない。それどころか、村上密牧師は未だにブログ等で、同教会とその牧師に対する事実無根の非難を続けている有様である。
 
このように、すでに事実を事実として認めることさえできなくなって、現実から乖離した空想の物語を延々と築き上げては自分を正義のヒーローだと勘違いして「カルトとの闘い」に没頭し、自分に敵対するすべての信徒を「悪者」と決めつけて、虚偽を言い広めて恥じることもなく、他の信徒の平和な信仰生活を執拗に妨害してやまない恐るべき教団とのその指導者が、本当にクリスチャンを名乗る資格があるのか、聖書に基づくキリストの平和な福音に根差しているのか、まして牧師として活動するにふさわしい人物であるか、信仰を持たない人の目にも、明白であろう。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、フランスではすでに準カルトと認定されているが、同教団が暗闇で行って来た一連の信用できない活動を見れば、我が国でも、正式にカルト団体との認定を受けるのがふさわしいと言うべきであろう。

アッセンブリー教団からは、随分前から、信徒の深刻な離脱が起きていると聞く。過激な霊的ムーブメントを無分別に取り入れて来たために、もともとプロテスタント内では評判が芳しくなかった教団であるが、村上密牧師の登場以後、同氏が率先して全プロテスタントの教会を敵に回しながら今日に至るまで推し進めて来たカルト被害者救済活動の暴走の様子を見て、良心的な信徒の心はさらに離れたのだと思われる。

たとえキリスト教界が幾多の問題を抱え、カルト化という現象が実際に起きているにせよ、これを是正する方法は、当ブログで幾度も述べて来たように、クリスチャンが聖書に立ち戻ることにしかない。人間的な思惑に基づいて、聖書に従わずに、どんなに人間の正義を振りかざしても、それは泥沼の闘争にしか至らないのであり、かえって残酷で不公平な私刑を助長し、神と教会とクリスチャンに敵対する危険な運動に変わって行くだけである。

信仰によらず、御言葉によらず、人間の思惑だけに基づいて行われる弱者救済活動は、人の目にどんなに良さそうに見えても、神に敵対する人類の自己救済の運動として、失敗に終わることを運命づけられている。

聖書をきちんと理解するならば、弱者救済といううわべだけの美名に欺かれて村上密氏やアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の活動を支持することがどれほど大きな危険であるかが分かるはずである。
 
聖書の神と、聖書の御言葉への忠実な信仰を捨て、神と教会とクリスチャンに敵対してまで、己のプライドと欲望を満たそうとする教団に所属していることが、クリスチャンの平和な信仰生活に有利に働くことはない。もし聖書に忠実に生きたいと願うならば、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団とその信者らには、何があっても関わらないことが得策である。      
  
10.村上密氏は、「宗教トラブルセンター」や「カルト被害者救済活動」などの看板を掲げて、他教会のカルト化だけを監視し、糾弾し、取り締まる前に、まずは自教団の深刻なカルト化という現実に目を向け、自分というカルトをこそ監視し、取り締まるべきである。
    
  


 ~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による鳴尾教会に対する不当な介入と
 村上密牧師率いる「カルト被害者救済活動」の危険性に関するまとめ~

(随時追加予定)
 

 ★アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の指導者が鳴尾教会に引き起こした混乱について
(村上密氏による鳴尾教会人事への不当な介入と津村氏による鳴尾後継者の不当な追放)
   
正義の仮面を被り、無実の教会とクリスチャンを迫害する村上密牧師の危険な活動➀
 
正義の仮面を被り、無実の教会とクリスチャンを迫害する村上密牧師の危険な活動② 

正義の仮面を被り、無実の教会とクリスチャンを迫害する村上密牧師の危険な活動③

正義の仮面を被り、無実の教会とクリスチャンを迫害する村上密牧師の危険な活動④ 
 

★上記の事件に関して教団から鳴尾信徒に公に配布された資料
(津村昭二郎牧師と村上密牧師によって密室でいわれなき嫌疑をかけられて鳴尾を不当に追われた伝道師が教団に宛てた苦情の書簡と津村氏による弁明 ※一部個人情報を伏せ、筆者による注釈を赤字で余白に加えた。)

 村上密牧師と津村昭二郎牧師による鳴尾教会人事の私物化問題について(教団配布文書PDF)


★村上密氏によるカルト監視機構の発案の基盤となっている非聖書的思想の危険性について

カルト監視機構」という名の秘密警察の設立について

悪魔の見果てぬ夢としての「カルト監視機構~村上密牧師の危険な活動

村上密牧師による自己流の「異端審問」
 

★村上密牧師が教団と無関係の個人である杉本徳久氏と結託して暗闇でネット工作員を動員し、当ブログに対して長年に渡り加えて来た妨害工作について

村上密牧師と杉本徳久氏によるクリスチャンへのいわれなき迫害➀

村上密牧師と杉本徳久氏によるクリスチャンへのいわれなき迫害②

村上密牧師と杉本徳久氏によるクリスチャンへのいわれなき迫害③
   

★村上密氏と杉本徳久氏の活動が、信者ではなく、この世の不信者らの目線に立っており、聖書に基づかないこの世の思想を無罪放免しながら、キリスト教を貶め、クリスチャンだけを断罪する構図となっていることの危険性について

この世を無罪放免しながらキリスト教徒を断罪する村上密氏と杉本徳久氏の活動の危険➀

この世を無罪放免しながらキリスト教徒を断罪する村上密氏と杉本徳久氏の活動の危険②


★杉本徳久氏が同氏にとって不都合な記事を削除しない限り、違法な報復行為に及ぶと当ブログ管理人を脅迫して来たメール

2010年10月5日付   杉本氏が唐沢氏に提訴の報告を求めヴィオロンの記事を罵倒したメール
2010年10月17日付 杉本氏が唐沢氏の提訴予告について進行状況を報告せよと恫喝したメール
2010年11月20日付 杉本徳久氏が唐沢氏の提訴予告について謝罪を要求した恫喝メール
2010年12月8日付   杉本徳久氏がヴィオロン、唐沢氏、山谷少佐に提訴を催促した恫喝メール
2010年12月15日付 杉本氏がヴィオロン、唐沢氏、山谷少佐に記事削除を求めた恫喝メール
2011年12月6日付   杉本氏がヴィオロンの個人情報を特定して恫喝して来たメール
2011年11月28日付   杉本徳久氏が、唐沢氏とヴィオロンに送りつけた恫喝メール
2012年1月1日付    杉本徳久氏がヴィオロンの個人情報を晒すブログ記事を示した恫喝メール
2012年1月22日付 杉本徳久氏がヴィオロンに実力行使に出ると恫喝したメール
2012年3月8日付  杉本徳久氏がヴィオロンに期限を切ってブログ削除を要求した恫喝メール
2012年3月9日付  杉本徳久氏からヴィオロンの返答に対する罵倒と恫喝のメール
2012年3月10日付   杉本徳久氏がヴィオロンに自分を提訴せよと恫喝して来たメール

2016年4月25日付 杉本徳久氏がメールフォームから投稿した恫喝メール
2016年4月30日付 杉本徳久氏がヴィオロンへの提訴をほのめかした恫喝メール
2016年5月2日付   杉本徳久氏がヴィオロンを提訴してやると恫喝したメール
    
      
★鳴尾教会が正当な手続きによってアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団から離脱した際、教団が、これを「牧師による教会の乗っ取り」であるかのように主張して、鳴尾教会に加えた恫喝訴訟を含む制裁について(同教団はこの争いに全面的に敗北した)

文化庁第160回宗教法人審議会議事録 ~日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による鳴尾キリスト福音教会の教団離脱手続きに対する異議申し立て棄却の記録~
 
文化庁第163回宗教法人審議会議事録 ~「日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団」による「鳴尾キリスト福音教会」の単立化手続きに対する異議申し立て棄却の記録~

宗務時報No.115 ~日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による鳴尾キリスト福音教会の教団離脱手続きに対する異議申し立て棄却の記録~
  

★アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信徒が、身元を隠して他教会に潜入し、他教会を乗っ取った事件について

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による魔女狩りとしての鳴尾教会への恫喝訴訟とAG信徒による他教会の乗っ取り


 ★アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団及び村上密氏の推進して来たカルト被害者救済活動の非聖書性とこの活動の暴走について

 罪と罰 カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反するのか。
――杉本徳久氏によるクリスチャンへの聖書と法に基づかない虚偽の告発と
 カルト被害者救済活動が持つ反聖書的な意義についての考察――


 
カルト被害者救済活動はなぜ誤っているのか① 
カルト被害者救済活動はなぜ誤っているのか② 
カルト被害者救済活動はなぜ誤っているのか③ 
カルト被害者救済活動はなぜ誤っているのか④ 

  
★弱者救済の思想はなぜ危険なのか 
 
神と教会に敵対するクーデターとしての「弱者救済」の思想の危険性 ~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による「弱者救済活動」はなぜ危険なのか~


正義の仮面を被り、無実の教会とキリスト教徒を迫害する村上密氏の活動の危険③

<伝道師の書簡 後半>

 今回の騒ぎに関する今までの経緯は以上ですが、派遣されて1年半ほど我々が経験して来たことを思いつくままに挙げますので何かの参考になさって下さい。

 先ず、生活環境に関してですが一番驚いたのは風呂がないという事でした。一年目は教会員に銭湯を経営しておられる方がおられましたので、その方の好意により、無料で入らせていただいておりました。ところが、昨年末にこの銭湯は廃業になり、我々は急遽、他の銭湯に行くことになりました。教会員のところではありませんので、⑭勿論自腹です。毎日ということになると正直、経済的に苦しいですので週に二三回になります。しかし冬場などはそれでいいのですが、夏場はそういうわけにはいきません。毎日入らないと大変ですので経済的には大変です。夫婦二人ですからそれでも我慢します。⑮しかし、子供が与えられたらどうすればいいのでしょうか。新生児を連れて銭湯に行くのは困難と思われます。

 勿論、伝道者ですから経済的な戦いも覚悟の上ですし、「あらゆる境遇に処する秘訣」も訓練される必要もあるのは分かります。今の伝道者は苦労が足りないと言われればその通りかもしれません。ただ、せめてお風呂くらいは自由に入りたいと願うのは贅沢でしょうか。

⑭ 私は「教会牧師館の風呂を使いませんか」と進めると、B師は「銭湯に行きます」と答えた。教会員の銭湯はその年の1月4日頃閉めた。A師への教会からの総収入を上げた。(月15万円から18万円に)

 
  (津村氏のこの反論には答える言葉を失う。これは津村氏の内心の冷淡さ、薄情さ、思いやりのなさ、想像力の欠如が極めてよく理解できる文章である。

 まず、牧師館の風呂を使うという問題は、極めてデリケートな問題であることに津村氏は想像も及んでいない。

 当時、牧師館には津村夫妻が住んでおり、伝道師は同じ教会の離れ(臨時の来客の宿泊のためのような狭い別室)を使っていた。牧師館に立ち入ること自体、伝道師夫妻にとっては津村夫婦の生活圏内に足を踏み入れることを意味し、それだけで気が重かったろう。さらに身内でもない他人同士が風呂を共有するということになると、どれほどの気兼ねがあるか分からない。

 また、不況とはいえ、今よりも給与水準はいくらか高かった当時のことであり、鳴尾教会は開拓伝道所ではなく、それなりに安定した規模の大きい教会だった。そこから見ても、伝道師の薄給には驚かされる。(B氏にA氏とは別の給与が支給されていたという事はないと考えられる。そこでこれは二人分の給与であろう。)このような中から日々の銭湯代を捻出するのは並大抵のことではないと誰にでも分かる。

⑮ まだ、この時点で子どもが与えられていないのに、想像で物を言うのは困る。もちろん役員会はそれなりに処遇していくことを考える。
 
  (ここでも、津村氏の冷淡な発言には驚かざるを得ない。「子供が与えられたらどうすればいいのでしょうか」という伝道師の言葉は、若い夫婦が子供を持ちたいと願うのは当然であるが、風呂もなく、夫婦二人でさえ狭い部屋で毎日をやり過ごすのがやっとの先の見えない暮らしの中では、その夢さえ躊躇せざるを得ないという苦しい心境を記したものである。
 二人は津村氏より若かったとはいえ、もし子供を持つとなれば、人生設計を急がねばならない年齢にあった。さらに、以下に示されている通り、B氏の妊娠という出来事もあり、子供の誕生は「想像」ではなく、極めて現実的な可能性だった。

 そのような伝道師夫妻の心境や立場を一切理解せず、子供の誕生のために準備したいという彼らの夢をただ「想像で物を言われても困る」と一蹴することしかできなかった津村氏の内心の冷淡さには、呆れるよりも、絶句するしかない。同氏がいかに伝道師夫妻の家庭が祝福されることを願っておらず、二人を人間として扱わず、単なる労働力のようにしかみなしていなかったかがよく表れている。)
 

 それから、私達が入った時、部屋のクーラーは完全に壊れていて使えない状態でした。建物の構造上の問題と西陽が差し込む関係で夏場は蒸し風呂のようになります。しかし、津村師は「先生方は〇〇(海外)におられたのだから、暑さは気にならないでしょう」ということで何の改善もされないままでした。誤解のないように付け加えますとこれは⑰昨年の話で今年クーラーは新しいものに交換されています

⑰ これは信者から「A先生はクーラーを修理してもらうんだと言っていた」と言うことを私が聞いたので、A師に尋ねた。「あのクーラーは駄目なんですか」A師が「はい」と言ったので私は会計に相談して、すぐに新しいクーラーに取り替えました。

(生活状況について伝道師は牧師に不満を言いにくい立場にある。だが、おそらく、それ以前の問題として、この時までに津村氏と伝道師との間では、日常のコミュニケーションさえ満足に取れない状態となり、伝道師は高額なクーラーの修理代のことなど津村氏にはとてもではないが言い出せない心境にあったのだろうと想像される。鳴尾の信徒は津村氏の性格をよく知っていたため、信徒の方で津村氏の配慮のなさを補おうと、橋渡し役となって伝道師の必要を探り出し、津村氏に伝えたのかも知れない。こうして信徒を介さなければコミュニケーションも取れないほどに、両者の間に溝が出来ていたことをよく物語っている。津村氏のワンマンで他人に理解のない冷淡な性格を考えると、このコミュニケーションの失敗を一方的に伝道師夫妻の側だけの責任として片づけるのは相当に無理があろう。)


 もう一つ、気になるのが郵便物のことです。私達の専用のポストはありません。従って、教会に来るすべての郵便物は津村師がとることになります。それは構わないのですが、よく私達に来たものも間違って持っていかれることがあります。時には封を開けられてしまうことも頻繁です勿論、悪気はないのは分かりますし、わざとではないことですから仕方のないことなのですが、それでもいい気はしません。プライベートな手紙もありますし。一度我々の玄関にポストをつけてもいいだろうかとご相談しましたが、断られました。理由は分かりません。

⑱ 私は2~3回開封してからA師の物であることに気づき、返すときに謝った。

(これも津村氏サイドからの相当に配慮を欠く対応である。他人宛ての郵便物を誤って開封すれば、謝るのは当然である。もし、故意に開封したならば、犯罪になりうる。津村氏が誤って伝道師宛ての郵便物を開封してしまったと気づいたときに、ポストを別々に分けておかなかったことや、その提案がなされたのに断ったという出来事を通して感じられるのは、津村氏が伝道師夫妻をまるで自分の子供か、私物や、小間使いのようにみなしており、二人のプライバシーを確保する必要性を全く感じていなかったということである。)


 結局のところ、これらの一番の問題は、教会の建物の中に二世帯が住んでいるということです。普通でも親子で同じ家に住むのは大変なことで問題が生じますが、他人と一緒に住むことはもっと大変なことと思われます。設備がそれなりに整っているならいざ知らず、⑲単に経済的にもったいないという理由のみで住まわせられているのが実情です

⑲ AB両師が赴任したとき、私は「少し狭くて悪いね」と言ったら、「私たちは学校の寮に住んでいたので大丈夫です」と答えた。私はそれを聞いて安心していた。ところが実はそうではなかったのがこの文章で分かった。

(津村氏のこの反論は、赴任直後の伝道師の発言を言い訳にしているに過ぎない。その後の二人の生活状況を一度でもきちんと自分の目で確認していれば、そのようなことが言えたかは分からない。同氏は部屋の狭さを予め知っていたのだから、それを耐え忍ぶよう要求するのでなく、状態改善の努力をすべきだった。ちなみに、この手紙では、風呂とクーラーのことしか触れられていないが、設備の不備はそんな程度にはとどまらなかったと思われる。十分な料理のできる台所や食事場所の欠如を考えれば、二人の生活の苦労は並大抵ではなかっただろうと想像される。)

 あと働きの面で気になることも幾つかあります。さきにも書きましたが、月に一二度打ち合わせのときがあります。津村師はその際、我々に「毎日の予定を朝・昼・晩書いて提出しろ」と言われます。私達もおっしゃられる通りに提出してきましたしかし、こちらの予定や、都合も考慮には入れてくれることもなく、途中で急な仕事が入ることがしばしばで予定表の提出は余り意味がありません勿論、予定は未定ですし、臨機応変に動くのも当然ですから急な用事に当たるのは構いません。しかし、あまりにも朝令暮改な事が多く正直振り回されます。これでは予定表をわざわざ提出する意味があるのでしょうか。一生懸命、集会の為にメッセージを用意していたら、㉑当日になって何の予告もなく急に津村師が奉仕されることもありました

⑳ A師に何か頼むときに、先生のスケジュールを知っていないと困るので書いてもらっていた。何かを頼むときは「A先生、都合はいいでしょうか」と尋ねて奉仕を依頼した。

(津村師はこの反論でも話をすり替えて答えている。ここでは津村氏の仕事の依頼の仕方の表現が問題になっているのではなく、同氏による伝道師への過剰なスケジュール管理と、朝令暮改なスケジュール変更が問題にされているのである。朝・昼・晩と日に三度も予定表を提出させることが自体が、ブラック企業やカルト団体を思わせる行き過ぎた管理であり、人の自由を過度に縛り、拘束しようとする行為だと言われても仕方がない。

 しかも、そのようにまで相手の行動の予定を綿密に報告させ、把握しておきながら、相手の予定に十分に配慮せず、一方的な変更を迫ることを繰り返すわけだから、予定表の提出の要求自体が嫌がらせと受け取られたとしても不思議ではない。)


㉑ 私は自分の奉仕だと思い込んでいたが、A師の当番であったのを忘れてメッセージをしてしまった。申し訳なかった。後で謝った。

(ここでも津村氏の反論は的を外れている。伝道師には日に3度も予定表を提出させておきながら、自分は説教の担当という最も基本的な予定の確認作業さえ十分でなかったのである。まずはその不公平をかえりみて恥じるべきであり、謝罪するしないの問題ではないのである。)

  また、休みに関してですが、一応打ち合わせでは月曜が基本的には休みということでした。しかし、月曜日は教区会は勿論のこと、地域の超教派の会議やイベントなどで休めないことが多いのです。月に一度、休めればいいほうで実際は㉒休みが全くない月のほうが多いくらいです。正直、疲れとストレスがたまり限界の状態です。何とか改善できないものでしょうか。

㉒ 月曜日が4週とも仕事になったのはそう多くはない。

(この津村氏の反論にも呆れるばかりである。まるで休みが取れないのは当然であり、休日を全部返上させたわけでもないのに、大げさに騒ぎすぎだ、とでも言いたげである。
 
 津村氏には、返上させた休日の代わりに代休を取らせるという考えもなかったのだろうか。月に1日程度の休日さえままならないとなれば、もはや過労死の危険さえある。この状況を異常と考えなかった津村氏には絶句する他ない。

 日に3度の予定表の提出と言い、週休1日さえ成り立っていない点と言い、ブラック企業顔負けの統制ぶり、酷使の実態が浮かび上がる。カルト団体とのそしりを受けても弁明はできないであろう。)


 説教に関しましても、文句がつけられるのはB師だけではありません。㉓私の説教も打ち合わせのたびに何回か批判されています勿論、ベテランの津村師からすれば私の説教に至らない点があるのは当然でしょうし、分校で「説教学」を教えられている程の先生ですので未熟な点は認めますし、ご批判は甘んじて受けます。しかし、こうすればもっとよくなるなどの具体的アドバイスがあるならともかくただの批判だけなら気が重くなるのも事実です。月に一度でも私に講壇を譲るのもかなりの抵抗がおありなのでしょうか。私の説教の後はいつもお機嫌が悪いのはこちらも分かります。

㉓ 私の記憶では1~2回指摘したことがある。

(これも津村氏がいかに伝道師夫妻を同労者として、また自分の後継として尊重していなかったかがよく分かる出来事である。同氏はB氏の説教の際には初回から「異端疑惑」を持ち出して厳しく叱責し、A氏の説教にも上から目線でケチをつけるばかりで、二人の説教に温かい励ましや、率直で謙虚な応援の感想を送ることがなかった。
 
 それどころか、津村氏は、まるでA伝道師が説教することによって、自分が出番を奪われ、存在を脅かされるかのように、苛立ちと焦燥感を募らせていた。男性の伝道者に対してもこうした反応しか示せないのだから、まして女性伝道師の説教を謙虚に聞くことが同氏にはどれほど耐えがたかったかは想像に余りある。

 津村氏には、自分が講壇に立って会衆を教えたいという欲求はあっても、自分も会衆や信徒の一人として、同僚の説教に謙虚に耳を傾け、そこから何かを学ぶべきだという考えは全くなかったのだろう。そもそも同氏には、自分が人を教えることはあっても、自分が謙って人から何かを教わるなど考えられないことであり、人に教えられること自体、我慢がならなかったのだろうと思う。

 まるで初代教会時代の律法学者やパリサイ人を思わせる高慢である。このような人には、「なぜ、人を教えて自分を教えないのか。」(ローマ2:21)というパウロの言葉が最もふさわしい忠告であろう。)


 今から申し上げることは理事会がどこまで把握しておられるのか分からないことなのですが、㉔今年の教会総会において急に教会主導で大阪市内の阪神沿線に開拓伝道を始めたいという話が出てきました。全くの寝耳に水で私たちにも役員にも聞かされていないことでした。そこには老夫婦と一姉妹の家族が住んでいるのですがまだまだ群れが形成できるような状態ではありません。一度は物件が見つからないのと、信徒の理解不足?ということで開拓も諦められたようでした。ところが最近、またも開拓のために物件を探しておられるようなのです。㉕私達としては何故、この時期に開拓なのかと理解しがたいところです。勿論、開拓の働きは大いに奨励されるべきですし、信仰的ともいえます。ただ何故、この時期なのかと言う点で疑問が残るのです。現在、鳴尾教会にそこまでの財政的裏づけがあるとも思えません。津村師への退職金、新しく会堂建築するための財源の確保等を考えると余りにも時期尚早な感じがします。もし、㉗津村師夫妻が開拓伝道という名目で引退後の住居を教会の財源から捻出しようとしておられるならばこれは明らかに教会会計の私物化と批判されても仕方のないところです。私達の取り越し苦労ならよいのですが。〇〇教会の前例もありますし、気になります。もし津村師が役員会の反対を無視して開拓に乗り出そうとした場合、教会秩序上、我々はどうすればいいのでしょうか?

㉔開拓伝道については、まず役員会で提案して決めた。役員記録に残っているので、A師の指摘は間違っている。

(ここでの津村氏の反論は事実としては正しいかも知れないが、その役員会さえも形骸化していたことを考えると、開拓伝道の話は十分に議論されて決まったとは言えない。津村氏はたとえ役員相手であっても、物事を十分に説明して、同意を得てから事を進めるということがなかったため、いつものように十分な議論がないまま、津村氏の鶴の一声だけで話が進んでいった可能性が十分にある。)


㉕ 千舟の家庭集会の責任を持っている姉妹かが、「千舟に教会がないので教会が欲しい」と言うので、私は建物などについて検討した。ある時、A師に開拓伝道のことを尋ねたら、「私は出来ません」と断った。私は同労者(A師)が反対するので開拓伝道推進が消極的になった。

(ここでは、津村氏が自ら提案した開拓伝道の実行を伝道者任せにしようとしていた姿勢が浮き彫りになる。もし信念を持って提案したことならば、津村氏には伝道師に反対されても一人で実行するほどの決意があってもおかしくなかった。ところが、伝道師が賛成しないと早々に諦めてしまうところを見ても、この提案は、どちらかと言えば、津村氏が信徒の要望に流されて行っただけのものであり、深い信念の裏付けを持って発せられたのでないことが分かる。)

㉖ 何の財政的根拠を持ってこの発言をするのか示して欲しい。私は財政的根拠があって考えていた。

(この津村氏の反論から推測されるのは、千舟に教会が建てられるなら、建設資金を提供しても良いなどの提案が信徒の側から行われたかも知れない等のことである。

 だが、仮にそのような話があったとしても、財源の問題は極めて重大であるから、津村氏は自分が把握している「財政的根拠」とは一体、何なのか、具体的な詳細を伝道師によく伝えて、予め教会内できちんと議論すべきだったろう。

 しかし、いつものごとく、津村氏はこうした具体的な詳細を自分の方からは何も明かそうとしないまま、周囲の人々が不安や憶測の中で行動するしかない状況を作り出し、そうしておきながら、人々が憶測でものを言っているだけだと非難するのである。)

㉗ 何の根拠があってA師はこういう事を言うのか判断に苦しむ。

(ここでの伝道師の発言も、津村氏の無責任であいまいな言動が引き金となって起きている。津村氏自身が自分の引退について何ら明確な発言をしないために、津村氏の引退後の住居等の確保の方法について、教会内で公にきちんと話し合うことがはばかられる状況(そもそも津村師の引退について話し合うこと自体がタブーであるような教会の雰囲気)が作られ、この問題については誰もが憶測でしかものを言えない状態となっていた。

 ちなみに、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団では、ひと昔前、牧師たちは教会に定住せず、一定期間が過ぎると、別の教会へ移動しなければならない決まりになっていたという。そこで、一つの教会にずっと同じ牧師家族が住み続けて、教会が牧師の「終の棲家」になることはなかった。さらに、その当時は教会の規模もそう大きくはなかったので、牧師が信徒からの献金だけに依存して暮らすのは困難で、副業によって生計を成り立たせる例は珍しくなかった。

 ところが、同教団ではそのような制度がいつの頃からかなし崩しになり、牧師たちは教会から移動することを拒むようになり、さらには教会が一定の規模に達すると、牧師家族全員の生活費が、教会会計から捻出されるのが当然の習慣となった。その頃から、教会はあたかも主任牧師の私物や財産のようにみなされるようになって行ったのである。

 だから、「教会会計の私物化」という問題は、津村氏に限ったことではなかったのだが、まだこの当時は、そのようなことを恥ずべき習慣とみなして忌避する空気も少しは教団内に残っていたと見える。

 こうして、教会が牧師のための「終の棲家」とみなされるようになり、牧師の引退後も、教会が一生彼を支えなければならないという暗黙の慣習の圧力に加え、津村氏自身がどのような引退後の生活プランを思い描いているのか、自分からは何も明かさないという不透明さから、開拓伝道という名目で新たな教会を作ることは、津村氏の引退後の生活の確保の一環なのではないかという憶測が生まれるのは不思議ではなかった。新しい教会が生まれることは、その教会にはどの牧師が住むのかという問題と直結していた。

 実際、鳴尾教会にはスペースの問題だけを取っても、いつまでも牧師と伝道師の二世帯がそこに住み続けるのは無理であることは明白であった。そこで、伝道師には、突然、降って湧いたような開拓伝道の提案は、「開拓伝道を成功させて私たちの引退後の住居を確保してくれれば、鳴尾教会はあなたたちに譲って私たちは移動してもいい」という津村氏からの暗黙の提案のようにも受け取られたのだろう。

 だが、そうなると、問題になるのは、新たな教会にはただ会堂(土地と建物)だけでなく、牧師家族の生計を支えるための財源が必要だということである。十分な信徒数が確保されていない開拓伝道からの出発だと、その財源を捻出できるとは言い難い。

そうすると、津村氏への退職金に加え、同氏の引退後の生計を支えられる財源は、鳴尾教会の会計しかない。伝道師はそのように教会にとって半永久的に重い負担となりかねない不確かな提案を実行に移すわけには行かないと判断したのである。)

㉘ 私は役員会の反対を押しきって進めたことは一度もない。そんな事が出来ると思っているのか。私は退職金のことを一度も役員会に相談したことがない。こんな事実でないことを想像して牧師を批判するとは、伝道師のすることだろうか。大きな問題である。

(ここでの津村氏の反論も当たらない。何度も述べて来たように、津村氏の圧倒的な説明不足がいつも原因となって、周囲はその説明のなさを「想像」で補いながら行動するしかない状況に追い込まれたのである。役員会は、津村氏のワンマンぶりに引きずられて、ものが言えず、機能不全に陥っていた。そもそも津村氏が全く議論のできない人だったので、同氏とは誰も複雑な要件についてきちんと話をすることができず、十分に物事を審議するための土台そのものが存在していなかったのだと言える。

「退職金のことを一度も役員会に相談したことがない」と津村氏は反論しているが、それこそが、極めて深刻な問題なのである。牧師が自分の退職金や、引退後の生活プランについて、自分は何を望んでいるのか、何ら意見表明もせず、教会全体にとって極めて重要なこの問題に何の明確な指針も示さないからこそ、信徒の側は常に不安な状態に置かれ、憶測でしか行動できなくなっているのだということに津村氏は考えが全く至っていない。

 役員の方では、このようなデリケートな問題を自分から提起して牧師に返答を迫るわけにはいかず、さりとて四十年近く牧会した牧者に退職金を払えず引退後の住居の世話もできないと断るわけにも行かず、退職金の問題を持ち出すこと自体が、あたかも牧師に引退を迫っているかのような印象も与えかねないという恐れもあり、何よりも、津村氏自身は一体何を願っているのか全く分からない中、何を解決として持ち出すべきかも分からず、ただこの問題を心の重荷として抱え続けていたのである。

 つまり、牧師が自ら引退と退職金について全く口にしないことが、逆に、彼の意を忖度して行動せよという暗黙の要求のように周囲には映っていたが、その暗黙の要求を完全に察知して応えうる人間は誰もいなかったので、この問題は、教会全体の重荷となっていたのである。)


もう既にお聞き及びのことと思いますが、B師は昨年、流産しました。結婚六年目にして諦めていた頃に初めて与えられた赤ちゃんでした。全ては神様の御手の中にあることですが、〇〇歳を目前にした女性としてはかなりショックだったようです。それが環境からくるストレスによるものかどうか、その因果関係は分かりません。最近になって立ち直りつつありますが、退院してすぐ医師から「少なくとも一カ月は安静にしているように」というお達しを頂いているにもかかわらず、㉙津村師は退院したその日に「B先生はいつから働けますか」と本人に尋ねられるような環境では落ち着いて静養もできません。㉚静養中も因みにクーラーのない蒸し風呂の中でした。

㉙ 私は「先生、奉仕が出来るようになったら教えてね」と尋ねたのである。主管者としては当然である。

(津村氏のこの冷淡極まる反論について多くの言葉は必要ないだろう。そもそも狭い部屋で、風呂もクーラーもない蒸し風呂のような暮らし、さらに月に1日の休みさえ満足に取れない過酷な労働条件、説教を担当してもひどく叱責され、日々の行動も厳しく管理され、自由もなく温かい励ましもない生活が、妊婦にとってどれほどの負担であったかは指摘するまでもない。

 さらに子供を失った直後の女性を目の前にしても、慰めと励ましの言葉を述べるより前に、「奉仕について尋ねるのは、主監者として当然である」とする津村氏の態度には、彼の冷淡で無感覚で無慈悲な人柄がよく表れている。同氏には自分が指導者である以前に、人として他人に接している自覚がまるでない。人間的な血の通った温かい感受性が麻痺しているのみならず、普段から、B氏に対しては憎しみにも近い感情を抱いていたのではないかと推測される。

 私の記憶では、津村夫妻も子供を失った経験があり、その体験を礼拝説教で語っていたこともあったように思う。もしそうであれば、本来は、同じ苦しみを経験した者として、他人の痛みに対する同情や、温かい励ましの言葉を豊かに持っていたとしても不思議ではない。

 
 もし津村氏が普段から人としての思いやりに満ちた態度を取っていれば、B氏の退院後、同氏が奉仕について投げかけた質問が、心無い仕打ちと受け止められることもなかったであろう。

 だが、津村氏は自らの冷淡さを指摘されても自己正当化に終始するだけで、相手の痛みに気づいてやれなかった自分の心無さを悔やむ気持ちは皆無である。
 
 そんな同氏が、B師の流産をきっかけに、自ら伝道師夫妻に強いた過酷な生活、伝道師に与えた過度なストレスなどに思いを馳せて反省するはずがないことは明らかであった。

 津村氏は伝道師夫妻を人として扱わず、単なる労働力、下働きとしかみなしていなかった。彼らの人間としての幸福のことなど、どうでも良かったのである。)

㉚ なぜ、クーラーが故障していることを牧師に言わなかったのか。これは被害者意識の強い文章ではないか。

(ここでも、津村氏は、伝道師とうまくコミュニケーションが取れなかった責任を伝道師だけに押しつけている。だが、たとえ伝道師が自ら言い出さなかったとしても、もし一度でも、津村夫妻が、静養中のB氏を見舞うために彼らの居室を訪問していたならば、クーラーの故障に気づかなかったはずがない。つまり、津村師夫妻は、同じ教会に住んでいながら、AB氏の生活の場を一度も訪れたことがなかったと見られる。これも津村氏夫妻の他人への極度の冷淡さ•無関心さをよく表す事実であると言えよう。

 にも関わらず、「被害者意識の強い文章だ」という津村氏の弁明には呆れて笑ってしまう。しかも、これはプロテスタントのキリスト教界の牧師たちの不祥事を告発し、教会のカルト化を憂い、被害者となった信徒らを「救済する」という名目で、「カルト被害者救済活動」を繰り広げている村上密氏の義理の父の言葉なのである。

 これが、カルト被害者を救済すると言っている人たちにふさわしい言葉なのであろうか。他の牧師たちの悪事だけは厳しく告発しておきながら、いざ自分たちの冷淡さが咎められる段階になると、たちまちそれを他人の被害妄想だと言い訳して、無責任に逃げを決め込むつもりだろうか。そんな彼らがどうやって被害者を理解し、助け、「カルト被害者救済活動」など行えるのだろう。他人の被害者意識を否定するならば、信徒の被害者意識を利用して自らの儲けの手段とするなどナンセンスである。そんな活動はさっさとやめればいいことである。)


  私も昨年の赴任してすぐの五月以来、痛風にかかっています。今でも時々足の指に激痛が走ります。医者の話ではアルコールを飲まない人が痛風にかかるケースで、しかも若い人の場合は十中八九、ストレスが原因だろうとの診断でした。しかし、㉛津村師は事ある度に「病気にかかるのは健康管理がなっていないせいだ」とか「不信仰だ」とか申されます

㉛ 私は「健康管理は自分でしないといけないですよ」と強調したのである。「不信仰」などと言った覚えはない。信徒に対してもそういった事は一度もない。

(津村氏が「病は不信仰の産物だ」とする考えを持っていたかどうかまでは記憶にないが、少なくとも、はっきり言えることは、週に1日の休みさえ十分に取れない過酷な労働条件を押しつけておきながら、「健康管理は自分でしないといけないですよ」などと言って、健康状態の悪化をただ労働者側の自己責任にして終わらせようとするのは、カルト団体やブラック企業の屁理屈だということである。

 若い人が痛風などという病気になった時点で、労働・生活環境から来るストレスを津村氏は疑うべきであったが、そうなってもまだ環境の改善について全く思いを馳せなかったことは、同氏の呆れ果てるほどの冷淡さ・残酷で無慈悲な性格をよく表している。)


   私達二人の共通の感想としては長年、伝道牧会で苦労しておられる方であるはずなのに何と温かみがなく、人の痛みの分からない先生なのだろうかと嘆かわしく思います。

(全く同感である。長年、津村氏を知っている者であっても、反論の言葉がない。ちなみに、このことは、津村氏の娘である恵子氏にも同様にあてはまる。津村夫妻は、人として様々な痛みを経験して来ているはずなのに、驚くほど思いやりや、感受性や、愛情に欠け、他人の痛み苦しみに対する基本的な共感能力、自分とは異なる立場に置かれている人々の心中や境遇を理解する配慮や想像力が決定的に欠けているのである。

 その結果として、彼らには何かしら恐ろしい感情の硬化、感情の抑圧が起きており、特に、他者の痛みに対しては、全くと言っていいほど冷淡・無慈悲・無感覚な態度を示すのである。
 ただ人の痛みに無感覚であるだけでなく、さらに進んで、一旦、自分の配下に置かれた人間であれば、永久に痛めつけて苦しめようとするサディスティックな願望さえ見られると言って差し支えなかった。)


  以上のような話から理解いただけますように津村師と我々の関係は消して良好とはいえません。思うに津村師が我々をやめさせたい二つの理由も具体的な理由というよりはむしろ、津村師自身の感情的な部分が大きいと思っております

  勿論、我々が未熟な点、人間関係での歩み寄りが足りなかった点などはあると思います。努力が足りないと言われればその通りかも知れません。しかし、これが私達の体験してきた偽らざるところです。今後における、教団の継承問題について、何かの参考にしていただければ幸いです。

 
㉜ 決して根拠のない感情的な理由からではない。私は私個人の問題としてではなく、今後の教会のことを考えて、A師を後継者と判断できなかった。

(津村氏はここでAB伝道師を「後継にふさわしくない」と判断したことは「決して根拠のない感情的な理由からではない」と述べているが、その割には、津村氏の反論全体を読んでも、同氏の主張の正当性を裏付けるだけの具体的で信憑性のある「根拠」は何も示されていないのである。

 さらに「今後の教会のことを考えて」そう判断したと津村氏は述べているが、事実は逆で、同氏がこのような判断を下したためにこそ、津村氏自身も引退へ追い込まれる羽目になり、鳴尾教会はその後も長年に渡り続く混乱に突き落とされたのである。それでも、津村氏はこの決断が「今後の教会のことを考えて」行われた正しいものであったとあくまで主張し続けるつもりなのであろうか?

 おそらく、ここで津村氏の言う「教会」とは、信徒らのことではなく、津村氏自身のことを指しているのに違いない。

 津村氏の言う「今後の教会のことを思って」とは、「今後の自分のためを思って」と同じ意味なのである。津村氏はおそらく、自分自身を鳴尾教会と同一視していたのではないか。彼にとって教会とは信徒の総意によって作られるものではなく、ただ同氏の意志だけによって成り立つべきものと見えていたのではないだろうか?

 「今後の教会のことを考えて」津村氏は、AB伝道師を鳴尾から追放した。「今後の教会のことを考えて」、津村氏と村上氏サイドは、後任の山田牧師夫妻も鳴尾の後継者にふさわしくないと判断し、異端者の疑惑をかけて中傷し、追放を試みた。「今後の教会のことを考えて」、彼らは鳴尾教会がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団から離脱を決めた際、これを全力で阻止し、裁判までしかけ、教会をとことん弱体化させてでも、自分たちの手中に取り戻そうとしたのである。

 このような津村氏+村上氏サイドの鳴尾教会への異常で偏執的なこだわりは、津村氏が永久に鳴尾の牧者でい続けたいと願っていたために生まれたものだしか思えない。同氏はこの教会を誰にも譲り渡すつもりがなく、鳴尾教会と自分自身を同一視していればこそ、引退後でさえ、同教会が自分を離れて他人の牧会に委ねられることが我慢できず、こうした一連の事件を引き起こしてでも、手元に引き止めようとしたのではないかと思われるのだ。もし、それでも教会が彼のもとに戻って来ないというならば、いっそ消滅させてやりたい。村上密氏はそんな津村氏の心中を理解し、彼の意向を受けてそれを暗闇で忠実に実行に移せばこそ、鳴尾教会に今日に至るまであらゆる卑劣な方法で打撃を与え続けて来たのである。

 ここには何かしら理屈を超えた空恐ろしい執念、まるで霊的「呪縛」にも等しいしがみつきが感じられる。一体、もし地獄からの影響力でないなら、そんな執念がどこから生まれて来るだろうか。)



  以上のことを踏まえて今後の教団の後継問題に関して個人的な提案をさせて頂きたいと思います。勿論、個々の事例はケースが違うでしょうしどこまで適用できるか分かりませんが。

 先ず、前任者がいつ引退なさるのか定かではない場合は、簡単に後継者を派遣しない方がよいのではないかと考えます。というのは若い伝道者を入れることで牧師はますます仕事が楽になり、自分はまだまだやれるという気持ちを起こさせ引退の意志をにぶらせます。㉝(私たちの派遣以来、津村夫妻はセミナーだ大会だ海外だと教会を留守にすることが多くなりました)下手な派遣は無用な延命措置にもなりかねません。それならば、気力と体力が続く限り納得の行くまで、ご自分一人でなされた方がよろしいのではないでしょうか。勿論、その結果、教会の教勢が下降線をたどることは十分考えられますが、それくらいのリスクはご自分の責任ですからやむなしとするべきです。それでも大教会は底力がありますから、牧師が変わった時点で教勢を盛り上げるだけのエネルギーはあると信じます。

㉝ 私はA師が赴任するずっと以前から、セミナーや大会に出席していた。また、海外旅行をしている。

(この津村氏の反論も的を外れている。伝道師夫妻に月1日の休みも満足に取らせずに、自分たちだけセミナーや海外出張に行っていたことが問題なのである。そんな暇があるならば、教会内奉仕を手伝うべきであった。さらに津村氏がこうして出席していた大会やセミナーも、当時、教団が積極的に後押ししていた「ベニー・ヒン ミラクルクルセード」のような怪しい非聖書的なムーブメントだったのだから、それは教会に益をもたらすはずもない、無意味でむなしい活動であった。)

㉞ 大変非礼な発言である。

(伝道師の主張は、確かに思い切った発言ではあるが、彼らが当初は津村氏の引退を条件に鳴尾に招かれたのに、津村氏によって使い捨て雑巾のように粗末に扱われ、約束を裏切られた上、密室で異端の嫌疑までかけられて悪者扱いされて追放されようとしている心境を思えば無理もないことである。
 
 残念ながら、鳴尾信徒の方でも、津村氏の引退に関しては、伝道師と同じように感じていた。すでに述べた通り、信徒らにとっても、津村氏が一向に引退する意志を示さないことが、相当な重荷になっていたのである。鳴尾には若い後継者の育成が必要であり、そのために、津村牧師の適宜引退が望まれていたのに、津村氏だけが、その要求に耳を貸そうとせず、いつまでも自分は講壇に立ち続けたいと願い、それが可能だと信じ切っていた。

 高齢になっても自分の限界を自覚することもなく、信徒らの要望には全く耳を貸そうともせず、全ての課題は自分以外の者に押しつけ、ただ周囲に一方的に自分に従うように求め、後学が来ても潰し、誰にも道を譲ろうとしない。そのような牧師に対しては、どうぞ気が済むまでお一人でやって下さい、という言葉の他に、かける言葉はない。

 非礼なのは、津村氏の方である。常に村上密氏を利用しては、重要な約束を証拠も残らない密室で相手に伝え、その約束さえ裏切って、教会に派遣されて来た伝道師を自分の雑用係のように使役し、気に入らなくなったからと言って、一方的な疑惑をふっかけて悪者にして追放し、信徒らに対しても何の説明もなく、ただ自分の一存だけで行ったことを、あたかも伝道師の自主的な決断のように見せかけ、自分の本当の行いと動機をずっと隠したまま、いつまでも教会を私物化し続けようとした津村氏こそ責められるべきだということに、同氏は全く気づいていないのである。)


  第二に四人の伝道者、牧師をいつまでも雇うことは日本の教会の規模では教会の経済負担が余りにも大きすぎます。勿論、その分、伝道に力を入れて教勢をあげればいいと言うのは正論ですが、長年の伝統がある中で手かせ足かせをされ、㊱経済的裏づけもないまま青年伝道をしろ、日曜学校をしろと言われても実際は困難です。㊲出すアイデアをことごとく否定されるのではどうすればいいでしょうか

㉟ A師は何を手かせ、足かせと考えているのか分からない。

(当時の鳴尾では、誰よりも指導者である津村氏自身が、自分の作り出した旧来のスタイルを守り抜くことに最も重きを置く超保守的な態度だったので、新しい発想を柔軟に受け入れられるような素地は、教会内に形成されていなかった。信徒も高齢者が多く、新しいイベントを起こそうにも、必ず反対が起きた。このように改革を阻む伝統的で保守的な雰囲気を打破して、後から来た者が率先して組織に新しい空気を吹き込んで行くのは並大抵の苦労ではない。)

㊱ 青年伝道会計と日曜学校会計で予算を取っている。青年伝道会計はA師が預かっていた。毎月10000円の収入、SSは15000とっている。必要ならば役員会で検討して増額は可能である。このように経済的裏づけがあるのに、A師がこう発言するのはおかしい。

(上記の予算は、伝道師の一存で使い道を決められるようなものでなく、記憶によれば、青年伝道と日曜学校の現場にいる信徒らで常に話し合って使途を決めていた。そこで、これらは最終的にはA氏の監督下にあったとはいえ、それは名目だけのことであって、A伝道師の自由裁量に任された財源ではなかった。新しいイベントを起こすためには、従来の予算では足りないことが明白であるが、それ以前の問題として、津村氏は青年伝道や日曜学校の今後の展望の問題を、まるで他人事のように現場に丸投げしていたため、教会全体としてこれらをどう変えて行くのかという展望がなかった。さらに改革を拒む雰囲気もあった。このように、具体的なプランがなく実行以前の段階のものについて、予算請求できるはずがなかった。)

㊲ どういうアイデアを出したのか。「こんなん駄目だ」とこごとごく否定した覚えはない。方法を変える必要があることはのべた。

(津村氏自身、伝道師からどういうアイディアが出されたのか記憶にないのであろう。下からアイディアをあげさせてはダメ出しするばかりで、自分自身には具体的展望もなく他人任せだったことをよく表している。)


  第三に、もし後継者を入れるのであるならば、その前に牧師と役員の話し合いの場に理事も入って戴いて牧師は何年後に引退するという確約をはっきりといただくべきだと考えます。その場合も後継の先生のプライベートを確保するためには最低、㊳別にアパートかマンションを借りる配慮がほしいと思います。夫婦者ならばなおさらのことです。そうでないと精神的ストレスがお互いに余りにも大きすぎます。

㊳〇〇伝道師のとき(注:AB両師以前に鳴尾に赴任した伝道師のこと)、信徒のマンションを紹介したが、師は教会で良いと言われた。

(これも反論になっていない。◯◯伝道師は鳴尾への派遣当時、独身であったのだから、当然、妻帯者と同列に論じるべきではない。

 後継問題については、開かれた公の話し合いの場で、具体的条件提示がなされるべきであり、村上密氏が密室で介入すべきでなかったのは繰り返すまでもない。)


  第四に後継と言っても実際、㊴我々は今のところ具体的なことは何一つ教えられておりません。信徒との人間関係が強くなった点では意味がありました。しかし、その程度のことなら何年もかけて引き継ぐ必要はないように思います。大教会というのは役員がしっかりしています。牧師が急に変わっても順調に機能していくのではないでしょうか。いずれにせよ、何年間かのスパンをおいて後継を潤滑にするという考えはいかがなものでしょうか。

㊴ A師が正教師を取った後、来年は主管者にという希望を持っていることを個人的に話したが、その後、いろいろな問題点が判明し後継を断念せざるを得なかった。

(このことについても繰り返す必要がない。津村氏には最初から引退する意志がなかったのである。)

 第五に引退に際して、一番の問題となるのは、㊵退職金のことです。不況が続き、教会内も高齢化が進んで、年金暮らしの人が多い中、退職金の話は非常にデリケートな問題です。やはり理事会に中に入っていただいた方が無難ではないかと思います。

㊵ 私は退職金については一度も役員会に言ってはいない。転任する者の役員会に対する干渉である。

(「転任する者の役員会に対する干渉」という津村氏の言葉には、村上密氏を通した策略が功を奏して、伝道師らに異動届を自主的に出させたことを、まるで鬼の首でも取ったように勝ち誇っている様子が見受けられる。不都合な後継は追い払ったので、鳴尾は自分の好きにさせろというわけである。

 「役員会に対する干渉」という言葉も、事実上、津村氏が役員会を私物化していた状況をよく表しているように思う。津村氏はあえて退職金について明確な希望を述べないことにより、役員会を同氏の意向を忖度して動く機関へと変えてしまっていたのである。

 津村氏のこのやり方は、村上密氏と同様である。重要な問題について、あえて明言しないことによって、自分から何かを要求したという形跡を残さず、あたかも信徒らの方から自主的に提案がなされたような形に持っていく。故意に重要な話をあいまいなままにしておくことによって、周囲の者を不安な心境に陥れ、結果として、自主性を装いながら、自分たちの意向を忖度して行動するよう仕向けることが、彼らのマインドコントロールのテクニックなのである。)


  幸い、私は牧師師弟ですので〇〇(家族)に相談できました。しかし、何の相談相手もない場合、あとから派遣された伝道者は泣き寝入りするしかないのでしょうか主管から一方的に悪者扱いされ、闇に葬られてしまわないとも限りません。今後、こういう事態が起こらないように継承問題には細心の注意を払ってご配慮いただきますように提案させていただきたいと思います。それを避けるためには、理事者とザックバランに本音を語れる場があるといいと思われます。

(残念ながら、教団はすでに当時、このような良心的な忠告に耳を傾けるには手遅れな状態にあった。津村氏と村上密氏の結託、村上氏の暗躍により、鳴尾教会のみならず、教団自体が彼らの思うがままに操られる危機的状態に至っていたのである。

 AB両氏が津村氏に睨まれながらも教団を追放されずに済んだのは、ただ彼らが村上サイドからの取引に応じて自主的に異動届を出して鳴尾を去ったためだけでなく、彼らには村上密氏と関わりのない別の牧師師弟のネットワークがあったためと思われる。もしそれがなければ、A氏の述べている通り、彼らは間違いなく津村氏と村上氏により「一方的に悪者扱いされ」、汚名を着せられて「闇に葬られていた」ことであろう。)


 尚、ここに書いたことの一部はB師が以前一度、㊶理事長に直接電話で相談したことがあります。理事長は誰にも他言しないということで聞いてくださいました

㊶ 理事長が「誰にも他言しない」ような内容の文章が、なぜA師から鳴尾の信徒に渡っているのか理解に苦しむ。

(津村氏は、まるで伝道師が信徒らを「扇動する」ために、この手紙を故意に信徒らに配布したとでも言いたげである。

 しかし、理事長が「他言しない」と約束したのは、B氏の電話相談の内容についてであり、それも伝道師夫妻のプライバシーに配慮しての約束であったと考えられる。津村氏の評判をおもんばかって、相談内容を「内密にしておくよう」理事長が伝道師夫妻に忠告したわけではないのである。

 また、この書簡は総務局長に宛てられたものであり、この書簡の内容について、「他言しない」との約束を負っている者は誰もいない。

 確かにこの書簡は、教団側から配布される前にすでに信徒らに存在が知れていた。だが、そうなったのも、津村氏が信徒らの頭越しに、教会内できちんと物事を議論せず、信徒らの同意もないまま、不明な理由でAB伝道師を追放しようとしたことがきっかけとなって起きたことである。

 いかに表向きは伝道師らが自主的に異動届を出した形になっていても、鳴尾信徒らは誰もそれが伝道師の本意だとは思っていなかった。そこで、この決定に納得できないものを感じ、その背後には、津村氏の暗黙の意向が強く働いていることや、深い暗闇があることを察知して、真相を追求しようと試みたのである。伝道師の方でも、弁明の機会も与えられず密室で悪者とされたまま、信徒らに釈明もなく無責任な態度で鳴尾を去るわけに行かなかったのは当然である。

 こうした事態は、津村氏がきちんと物事を教会内で公に議論した上で、信徒らの納得を得てから進めていれば、決して起きなかった。従って、同氏は、自らの独善的な牧会が原因で引き起こされた事態について、伝道師や信徒らを一方的に責められる筋合いにはないのである。)

  <略>

 よろしくお願いいたします。2001年10月20日
 
 伝道師A・B

<書簡 終わり 次回に続く>