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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

「宗教トラブル相談センター」村上密による移送申立が、横浜地方裁判所より却下される

久々に裁判に関する進捗報告を一つ。

カルト被害者を名乗る人々はよくよく見ておいて欲しい。 もしもキリスト教会であなたが何かの事件に遭遇したとして、受けた被害の相談をあなたは誰かに行いたいと考える。むろん、それを禁じる法はなく、誰かに話せば胸の内がすっきりすると思うのも当然だろう。

だが、そこで誰を相手に相談すべきかは、よくよく考えて検討することをお勧めする。特に、宗教トラブル相談センターに赴くことが妥当かどうかは、よくよく熟慮することをお勧めする。

なぜなら、相談と引き換えに、あなたは個人情報を収集され、その後、もしも相談した相手に何かの不審や疑問を感じても、いざ批判の言葉を口にすれば、たちまちネット上ですさまじい制裁を加えられるだけかも知れないからだ。

あなたは相談内容をことごとく公表されて、個人情報を暴かれ、人生の道を踏み誤り、カルト宗教の洗脳を受けた信者と呼ばれ、プライバシー権を侵害された上、そうした事件の解決を目的に、相手を調停や訴訟の場に呼び出し、公に議論しようとしても、その相手は、決して裁判所からの呼び出しに応じて速やかに出頭しようともせず、色々な理屈をつけては、逃げ回るだけかも知れないからである。

あなたは教会で遭遇したごくごく些細なトラブルをきっかけに、それとは比べものにもならないほどの巨大な重荷を背負い込まされることになるかも知れないからだ。

以下は、アッセンリーズ・オブ・ゴッド教団京都七條基督教会、宗教トラブル相談センターの村上密牧師が、当ブログ執筆者を原告として提起された訴訟の第一回口頭弁論期日について、「バングラデシュへの出張」を理由に、事件の京都の裁判所への移送を申し立て、それが裁判所により却下された通知である。

かつて被告A(杉本徳久)は、自らのブログで、被告が申し立てさえすれば、事件を被告の住所の管轄裁判所に移送できるかのように主張していたが、そのような主張が虚偽でしかないことが、この決定によっても証明された。

原告が知っている限り、一般に、原告の住所地の所轄裁判所で提起された損害賠償請求事件に、被告の希望に基づいて、移送の申立が認められるための条件は、かなり厳しい。被告が、仮に次回、別な理由を持ち出して移送を希望したとしても、同じように却下となる可能性は極めて高い。

それにしても、自分が正義の味方のように、カルトをやっつける側に回る時には、意気揚々と法廷闘争を呼びかけ、他の牧師を法廷に引きずり出すことをいとわない人間が、いざ自分が被告として法廷に呼び出されると、何かと理由をつけては出頭をしぶるというのは、感心できる態度ではない。

公に名を名乗り、TVにも出演しながら、全国をカルト被害者への支援のために飛び回っていることをアピールしている牧師ならば、誰からどんな訴えがなされたとしても、正々堂々とそれを受けて立ち、持論を展開して公の場で反駁すれば良いだけであり、自分にとって不利な訴えにも、根気強く、透明性のある形で、公に反論している姿が、信頼を呼ぶのである。それをしようとしないのは、自分にとって不都合なことには向き合うつもりがなく、そもそもやましい思いがあるから出頭したくないのだろう、などと憶測されても仕方がない。
 
しかも、海外出張という一過性の出来事を理由に、移送の申立が認められる見込みがほとんどないのは、誰にでも事前に予想できることである。そこで、この移送の申立は、自分が出頭を拒むための口実であるだけでなく、事件の解決を何とかして先延ばしにし、自分に不利な判決を先送りするための苦肉の策だと思われても仕方がないだろう。

それにしても、海外宣教師でもない牧師が、この時期にわざわざ出張というのは・・・。一般信徒から提起された訴訟に向き合うことが、そんなにも怖くて、バングラデシュまで逃亡せねばならないのか、という憶測を呼ぶのも仕方がない。

断っておけば、第一回目の口頭弁論には、被告は出頭しないこともできる。しかし、出頭しなければ、自分の口から主張を説明できないので、誤解が生じ、不利な判決が下される恐れが増し加わるだけだ。そして、二回目以降の期日には、出頭しないことはできない。

審理が長引けば長引くほど、被告として呼び出される回数が増え、答弁する苦労や、交通費が増し加わるだけのことである。それくらいなら、一度ですっきりとカタをつけるために、全力で準備した方が、よほど重荷が減るだろうに。
 
さて、被告らの答弁書が提出されたので、原告も準備書面を作成したが、村上密の答弁書は2頁、杉本徳久の答弁書は6頁と、相も変わらず、真面目に答弁しようという意気込みが全く感じられない。

原告が提起した訴状は約200頁。それに対し、この分量の反駁では、訴状の冒頭部分にさえ反駁したことにならず、自分の主張の正当性を広く世に訴えて、自分の権利を守るつもりが初めから全くない、とみなされても仕方がないことであろう。

具体的な根拠も伴わない一方的な「言いっぱなし」のスタイルが認められるのは、ネット上だけのことである。それ以外の文書では、すべての主張に具体的かつ客観性のある論拠を示すことなしには、どんな主張も正当と認められることはない。
 
神に対しても、人に対しても、原則は同じだが、自分がどのような権利を持っているのか、きちんと根拠を示して、他者に訴え、公然と自らの願いを正当なものであると主張することをしないのに、その人の言い分が認められることは、決してない。

主張しないということは、最初から、自分の権利を放棄し、自分に有利な判決をあきらめているのと同じことである。

被告らの主張には、依然として、いかなる信憑性のある具体的な根拠も示されておらず、仮に二回目、三回目の期日を開いたとしても、そこで新たな証拠等が提出されて、今以上に有意義な議論が行われる見込みがほとんどない様子は誰にでも分かる。

そこで、彼らの答弁書の分量・内容の薄さが、今後の審理の進行に甚大な影響を与えることはほぼ間違いないと予想される。



 


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村上密と「随想 吉祥寺の森から」の杉本徳久に見るグノーシス主義者の空虚な自己の本質

さて、民事調停ではいかなる妥協も歩み寄りも示さず、当ブログの主張を「棄却する」などと豪語していた杉本徳久が、調停の期日後に、当ブログに新たなメールを送りつけて来たので、ここに掲載しておく。

 杉本徳久が3月28日に送りつけて来た新たな迷惑メール

杉本は、わざわざ公の開かれた場所で、自分の主張を具体的に提示して、和解を探るために交渉するチャンスが与えられているにも関わらず、そこでは自分の非を一切認めず、一歩たりとも譲歩せず、自分の主張内容を客観的に論証することも、具体内容さえ明らかにすることもなく、誰にも理解できない要求をただ一方的に突きつけただけで、合意にも至っていない。

にも関わらず、早速、そこで提示した自分の一方的な要求を、あたかも当ブログが履行する義務でも負ったかのように、人目につかない場所で、他人の人生に不当に干渉し続けようとする杉本の行為には、呆れ果てるほかない。

正当な手段では決して問題解決をはかることができず、真実に向き合う勇気もなく、正々堂々と他人に向き合えない臆病で卑怯な性格を見ることができる。

杉本は自分が今まで他人にして来たように、自分自身が標的とされて記事を書かれたことが、よほど身に堪えたのだと見られるが、以上のメールの中で、何とかして筆者の非難の矛先を、自分から他人へと逸らそうとしている。

だが、証拠もないのに、他人の悪口を第三者へ宛てたメールの中に書き連ねていれば、さらなる名誉棄損や侮辱罪で訴えられる可能性が高まるだけだ。
 
村上密はおそらく今までと同様、自分は決して矢面に立つことなく、杉本と筆者をぶつけ、戦わせることにより、自分は手を下すことなく、当ブログを駆逐し、自分はネット上のキリスト教界批判の分野において、ナンバーワンの座を得ようと考えているものと思われる。

それと同様のことを、おそらく唐沢治も考えていたであろうことはすでに述べた。唐沢から見れば、杉本も筆者も、KFCを批判しているため、どちらが勝利をおさめようと、一定の利益が得られることになる。

これが牧師というものの実態である。信徒同士を争わせ、戦わせ、自分はそれを高みの見物しながら、自分自身の地位の安泰をはかる。唐沢であろうと、村上であろうと、坂井であろうと、結局、彼らは牧師階級を守るという、全く同じ利益のもとに結託して、ほとんど同じ働きをなしているのだ。つまり、彼らは、キリスト教界内のカースト制度を温存する目的で、信徒を踏み台にし、互いに戦わせながら、それによって自分の利益を得ているのである。
 
だが、すでに見て来た通り、唐沢は、本気で杉本や村上と対立する気は全くないため、Dr.Lukeは彼らの競争相手ではない。残るは筆者一人である。

そこで、杉本は村上の代弁者として、村上の意向を忠実に「忖度」して、自分自身を捨て駒・当て馬とすることによって、必死に当ブログの更新を中断させ、相打ちに持ち込もうと試みているのだと考えられる。

そのことは、以上の杉本のメールの内容からも理解できるし、さらに、村上密が他ならぬ3月23日に自らのブログに以下のごとく大量の投稿をしているという異常現象を通しても伺える。村上は、民事調停への出席を蹴ったこの日に、なんと29本もの記事をブログに投稿しているのである。

ちなみに、さわやか読者らは、大抵、当ブログの更新が途絶えて何時間も経ってから騒ぎ出すのが常であるが、筆者が本日、村上のブログを訪問して、当ブログの欄外のコメント欄で、この異常な投稿数について書き記した途端、早速、ほとんど時間を置かずに、フェイスブックから、以下の読者が当ブログに押し寄せて来た。

p399088-ipngn5401souka.saitama.ocn.ne.jp
(↑古参のさわやか読者、どれだけの工作がこの特定のIPアドレスから行われているかを間もなく発表予定。いつかは必ず人物が特定される。)
pl960.ag1111.nttpc.ne.jp
69.171.240.21
66.220.151.210
31.13.114.55
66.220.151.182
pl6728.ag5354.nttpc.ne.jp
p3b935fcf.hyognt01.ap.so-net.ne.jp
fs76eee8bc.tkyc210.ap.nuro.jp

(追記:3.31)
pl14651.ag1212.nttpc.ne.jp
p399088-ipngn5401souka.saitama.ocn.ne.jp
(↑この日も朝一で来ている。ほとんど主犯格と言えよう。) 

(4.1)
softbank219209223053.bbtec.net 
   
調停が行われた当日にも、フェイスブックを利用して当ブログを訪れたのは以下の面々である。

55.10.134.27.ap.yournet.ne.jp
185.89.219.166
pw126199005109.18.panda-world.ne.jp
16.199.183.58.megaegg.ne.jp
p701203-ipngn1802sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp
ool-2f16ab0a.static.optonline.net
softbank126209003004.bbtec.net
sp49-98-53-109.mse.spmode.ne.jp
 
しかし、フェイスブックは最も個人が特定されやすい危険な媒体である。匿名の2ちゃんねるが不評であり信頼低下が著しいため、彼らは別な媒体に移動しつつあるのかも知れないが、そういうことを繰り返しているうちに、彼らはやがて自ら身元を明かす時が来る。杉本がメールで画像を添付して来たように、それを見ている人々が身元を特定して通報することが十分にあり得るからだ。

当ブログのさわやか読者はほとんどが毎回、そのようにして徐々に自分自身の存在を明かすというパターンを辿っている。悪霊に導かれる人々には、自己顕示欲という捨てがたい欲望があるため、危険を承知で自分たちの存在を誇示しないわけに行かないのである。

いずれにしても、今回の記事のテーマはさわやか読者ではない。杉本もさわやか読者も自分たちに注目を集めることによって、記事の本題を逸らそうとする人々である。そこで、今回は、杉本がどれほど当ブログで批判されても、それだけではほとんど反応しない人々が、村上に関わる話題が持ち上がると、これほど素早く反応を起こすことに注目されたい。
 
以上とはまた別に、連日、Yahoo!、Google、Bing などの検索サイトで工作を繰り返し、当ブログの順位を下落させ、検索結果から駆逐するために活動している部隊がある(重複している部分もある)。だが、村上に関する話題が出ない限り、決して起きることのない騒ぎがある。
 
さわやか読者らは、検索結果を操作し、話題をかく乱し、印象操作を行うことによって、「本命」の村上密をかばおうとしているのである。だが、彼らのすべてが村上密をかばうという目的だけのために活動しているとは言わない。杉本徳久を含め、彼らは牧師階級そのものを温存するために、牧師階級の手先となって活動している勢力であると言った方が良い。

さて、村上密が自分に関する評判にどれほど敏感に目を光らせているかについては、かつて何年も前に、杉本徳久が、自らのブログに、村上密という牧師を「全く信用していない」と記し、村上の記事内容を批判した際、その直後に、村上からクレームをつけられ、反省文のような記事を書かされている様子からもよく分かる。

その当時、水面下でどんな圧力があったのか知らないが、その出来事や、当ブログ執筆者が村上から受けた人格攻撃を通しても分かることは、村上密という人物は、少しでも自分に対して批判的な言動があれば、決してそれを放置せず、ただちにクレームをつけ、さらにそれで効果がなければ報復措置に出る人間だということである。

村上密に関する記述を巡っては、当ブログに関しても、連日、工作員部隊が、隅から隅まで発言に目を光らせており、少しでも批判的な言動がなされれば、すぐに飛んで来る。そして、批判を行った者を揶揄したり、嘲笑したりするコメントを別の場所に投稿することによって、批判者を追い込み、批判的な言説が広まらないように印象操作を続けているのである。

こうした工作員部隊の活動は、アベンジャーズとも呼ばれている自民党ネットサポーターズクラブの動きを彷彿とさせる。アベ様を身を呈して守ろうとしている人たちと、密様を守ろうとしている部隊の動きは、筆者から見れば、瓜二つに見える。「誤報」などという言葉を使って、論敵を貶めようとする言葉の遣い方もよく似ているが、やはり統一教会がらみだからであろうか、こうして批判者を封じ込めようとする手口までそっくりなのだ。

自民党ネトサポに関しては、彼らのネット上の書き込みが金で行われていた事実が判明している。そこで、牧師という階級制度を温存するために、捨て身の作戦に出ているこれらの者たちの書き込みも、印象操作のためのシナリオに基づき、世論の誘導のために行われているのであって、決して自発的なものではない可能性を我々は十分に疑ってみなければならない。
 
以前から何度も書いて来たように、我々は、統一教会がキリスト教界にスパイを送ることなど決してないなどと安心している場合ではない。キリスト教の中に、キリスト教とは無縁かつ異質な勢力を送り込み、彼らの圧力によって神に忠実に従うクリスチャンを駆逐して行くということは、異端の勢力が必ず取る方法である。ペンテコステ・カリスマ運動もそのようにして既存の教会を破壊して来た歴史がある。

村上密が全くクリスチャンの利益のために行動していないことは、村上の言動から一目瞭然であり、村上が仕えているのは、聖書とは「別の福音」であることは何度も述べて来たが、それならば、村上は一体、どこの宗教、誰の利益に仕えているということになるのであろうか。

しかし、それにしても、村上密が3月23日に開かれた調停の場に出て来ることもなく、自らのブログに引きこもろうとするかのように、記事を大量に投稿した行為は、どこから見ても異常でしかない。引きこもりの患者ならば、他にすることもないので、一日に10本以上の記事を投稿するようなこともあるかも知れないが、29本の投稿は行き過ぎである。何のためになされた行為なのか、必然性もなく、牧師にも関わらず、ここまでブログに入れ込んでいる姿はもはや異常と言われても仕方がない。

このことは、当ブログが、村上のブログを引きこもり老人のモノローグ的回顧録も同然であると評したことの腹いせに、筆者が期日に出かけ、ブログを更新できなかった日に、大量投稿を繰り返すことにより、遅れを挽回しようとしたと考えられないわけでもないが、あまりにも異常な行動なので、そういう動機では単純に片づけられないものがある。

しかも、その後の記事において、村上はまたもや信徒の恥を晒すような相談内容を漏洩している。以前と何も変わってはいない。人間関係などを仔細に描写するだけで、相談者が明らかになってしまう危険もかえりみず、いつまで経っても、信徒の個人情報を守ろうとする姿勢がないことに呆れるしかない。 

さて、一日に29本の記事の投稿という異常行動は、調停の期日当日の村上の不安心理をよく示していると考えられる。やはり、この日、村上は杉本一人をスケープゴートとするかのように矢面に立たせ、自分は公の場に姿さえ現さなかったことに、内心ではよほどの罪悪感や、忸怩たる思いがあり、居ても経ってもいられない心境だったのだろうと感じさせる。

以下を見れば、これがただ不安心理の表れとしか見えないのは当然である。光のもとへ出る勇気がないために、藪の中に隠れて石を投げることしかできない幼稚な生き方しかできない人間が、一体、誰であったのかは、読者の前に明々白々である。
  

3月23日の村上密の記事投稿数(全29本)

権威について [ 2018-03 -23 23:37] 
権威2018-03 -23 23:28 ] 
宗教的権威に対して [ 2018-03 -23 23:20 ]
政治的権威に対して [ 2018-03 -23 23:14 ]
司法的権威に対して [ 2018-03 -23 23:07 ]
司法的権威を持つ者への注意事項
 [ 2018-03 -23 23:03 ]
政治的権威を持つ者への注意事項 [ 2018-03 -23 22:58 ]
権威について 21
 [ 2018-03 -23 22:50 ]
権威について 20
2018-03 -23 22:25 ]
権威について 192018-03 -23 22:23 ]
権威について 182018-03 -23 22:20 ]
権威について 17
2018-03 -23 22:18 ]
権威について 162018-03 -23 22:15 ]
権威について 152018-03 -23 22:12 ]
権威について 142018-03 -23 22:00 ]
権威について 13
2018-03 -23 21:56 ]
権威について 122018-03 -23 21:54 ]
権威について 112018-03 -23 21:51 ]
権威について 102018-03 -23 21:47 ]
権威について 92018-03 -23 21:45 ]
権威について 82018-03 -23 21:42 ]
権威について 72018-03 -23 21:40 ]
権威について 62018-03 -23 21:33 ]
権威について 52018-03 -23 21:32 ]
権威について 42018-03 -23 21:29 ]
権威について 32018-03 -23 21:26 ]
権威について 22018-03 -23 21:19 ]
赦し2018-03 -23 20:39 ]
権威について 12018-03 -23 10:10 ] 
  


 
 だが、断っておくが、人間は、それほどまでに単純な生き物ではない。うわべでは自らの非を認めなくとも、良心においては、自分がどんなに卑劣な行為に及んでいるかはちゃんと分かっている。そこで、この先、杉本をスケープゴートにすればするほど、村上は罪悪感の重さに耐え切れなくなるだろうと筆者は予想している。

しかも、上記メールに見るように、杉本がこの期に及んでもまだいじらしく村上をかばっているだけに、村上が自分一人、ブログに引きこもって、モノローグ的回想を延々と綴っている行為は、誰から見ても納得できるものではない。神と人の前で、こうして信者を利用して破滅させた村上の罪ははかりしれないほど重いものとなろう。

だが、だからと言って、筆者は決してそのことで杉本を犠牲者として擁護するつもりはない。我々は、以上に挙げた杉本のメールの文面を通して、杉本という人物がどれほど深くグノーシス主義に汚染されてしまっているか、また、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信者でもないにも関わらず、村上密にどれほど深く心酔し、まるで運命共同体のように、この牧師の意向を「忖度」し、身を呈してこの牧師をかばおうとするほどまでに、深くマインドコントロールされてしまっているかをはっきりと見ることができる。

そのようにまで自分を見失って他人の欲望の奴隷となって行動したことの罪は、全て本人に跳ね返る。聖書は、キリストにあって自由とされた信者は、二度と人間の奴隷となってはいけないと教えている。しかも、あれほどカルトの危険性を訴えていた本人がこうなったことには、誰も同情しないだろう。

杉本と村上の例を通して、我々は、互いに面識があるかないかとか、同じ教団に所属しているとかいないとか言ったことに関わらず、離れたところにいても、これほどまでに深い精神的絆(癒着)が生まれることがあり得ると分かる。村上密による遠隔操作、重症のマインドコントロールを思わせる行動である。
 
杉本が当ブログに対していわれのないバッシングをしかけ続けた行為も、やはり杉本が村上の意向を忖度して、村上密の利益のためになされたのだろうと筆者は改めて思う。杉本はこれまで常に村上密の「影」として、村上の心を「忖度」しているつもりになって、村上の利益をおもんばかって行動して来た。そして、村上密にはそういう杉本の行動を止めようとした形跡が全くない。
 
杉本は、村上密のために、村上をキリスト教批判の分野においてナンバーワンとして担ぐためならば、自分自身は捨て駒となって、罪を問われても構わないという姿勢で、当ブログに体当たりしているのであるから、もはやこういう人間関係は、カルトの教組と信者との結びつきにも近く、教祖を守るためならば、どんな罪に問われても構わず、死んでも良いとする信者の姿を彷彿とさせる。

かつて杉本は、筆者を妄想教組に従うカルト信者のように形容していたが、蓋を開けてみれば、それは他ならぬ杉本自身だったことがこうして明らかになっているのである。

 だが、彼らがどれだけそのように所属教団や所属教会をも無視した異常な連帯を用いて、当ブログを圧迫したとしても、この先、誰の主張が駆逐されるのかは明らかである。

以前にも書いた通り、クリスチャンは、試金石である。本物のクリスチャンであれば、誰かがその人間にぶつかればぶつかるほど、かえってぶつかった人間の本質が見えて来る。

石とダイヤモンドでは勝負にならず、高速でダイヤモンドにぶつけられた石は、粉々に砕け散るしかないように、霊的法則性についても同様のことが言える。人間の主張対主張の争いにおいては、もしもどちらかが聖書の真理に堅く立っている場合には、虚偽の主張は根こそぎ粉砕されるしかない。

キリストご自身が生ける「石」となって、偽善者たちの上に落ちかかり、その教えを粉砕してしまったように、今日も、クリスチャンたちは、神の神殿を構成する「生ける石」として、嘘を粉々に打ち砕いてしまう役割を担っている。

それは、私たちが願おうと願うまいと、避けられない結果として起きて来る。このリトマス試験紙としての役割は、「地の塩」としての役割であり、自分の意志で取り除くことができるものではなく、その役目を果たせなくなれば、外に捨てられて踏みつけられるだけで、クリスチャンとしての意味もない。

そして、杉本も村上も、自分たちの主張に正当な論拠がなく、公の場所に提示すれば、それが否定され、粉砕される運命にあることを知っていればこそ、可能な限り、公の場で、当ブログの主張と直接、対峙することを避け、暗闇から非合法な方法で言いがかりをつけることで、意見表明を断念させようとしているのである。

以上のような事情があるため、当ブログでは、あえてこの先も、杉本から送りつけられる全ての迷惑メールや、さわやか読者らの動向を、逐一、仔細な注釈や分析を加えた上で、すべて公開して行くつもりである。
 
さて、筆者は、この先、杉本に一つだけ期待していることがある。それは杉本がこれから訴訟等を通して、公の場で、どれほど多くの情報を証拠として提示して来るかということである。

ソ連が崩壊する前には、ペレストロイカとグラースノスチがあり、その過程で、あまりにも多くの体制の腐敗・不正に関する闇の事件の情報が明るみに出て来たことが、この体制の決定的な信頼の失墜と崩壊を導いた。

このように、悪しき体制の崩壊には、まず信頼の失墜が先立つ。杉本はこれまでクリスチャンに関する情報を暗闇で密かに収集しては、クリスチャンを脅しつける材料として利用して来たが、当ブログではこの度、その「鏡」をくるりと反転して、逆に杉本からの情報収集を始めた。

まずは杉本が調停で証拠として出して来た唐沢治のメールを公開したが、それによって、当ブログがDr.LukeとKFCに関して述べて来た主張にも、かなりの裏づけが取れたと言える。

しかしながら、こんな程度では済まない大量の情報が、杉本徳久という「要塞」の中に、まだ数多く眠っているものと見られる。そして、当ブログでは、その情報に多大なる関心を寄せている。それだからこそ、前々から、杉本は、一人の人間でありながら、同時に、反聖書的な思想の体現者であり、霊的要塞なのだと述べて来たのである。

訴訟になれば、彼らは今まで以上に多くの証拠を出して具体的に反駁せねばならないが、その過程で、どれだけの情報が明らかになるのかが、最も注目するところである。

杉本徳久という人物は、うわべだけは敬虔そうな態度を装う”自称”クリスチャンたちが、密かなところで隠れて行って来た悪事、嘘、密告、裏切り、中傷、讒言、監視、陰謀、分裂工作などに関する様々な情報を嫌というほど握っている証人であると見られ、そうした情報を出させることにより、事の真相を明らかにすることには、とてつもなく大きな意義があると考えられる。

しかも、通常であれば、犯罪事件で訴えられたことが分かっている被疑者は、自分に捜査が及ぶ前に、証拠隠滅を図るであろうが、杉本という人物にだけはその原則が当てはまらない。未だに刑事事件となった事実さえ認めようとしない杉本は、まるで現実感覚がないがゆえに、逆に自分が難を逃れるために、この先、開き直って自分の握っている情報をとことんまで吐き出して来る可能性がある。

杉本が、ブログに記したコメントの一つさえ、削除を要求しても、応じない人間であったことを考えれば、杉本が自称クリスチャンたちに関して握っている不利な情報を隠滅するとは考えにくい。クリスチャンを貶めることが最初から彼らの目的であったにも関わらず、その材料を自ら手放すとは思えないからである。

そして、当ブログでは、杉本の存在を通して、うわべだけ敬虔を装う”信者”が、暗闇の中で、どれほど陰湿かつ卑劣な陰謀に加担し、神の子供たちを貶める行為に手を染めて来たかという情報が明らかになることは、大いに結構であり、望ましい展開だと考えている。
 
現在になっても、当ブログがまだ、人に優しく、耳に心地よい信仰告白を行う場だと考えている読者がいるとすれば、その人には、大変、残念なことであるが、当ブログにはそのような目的は初めからないので、人間の弱さを根こそぎ明るみに出すような話題を不快に感じられるならば、読まないことをお勧めするしかない。

なぜなら、聖書は言う、

人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい

二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父がお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」(マタイ10:26-31)

「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」(ルカ8:16-18)

ある人は言うかも知れない、「ヴィオロンさん、あなたは杉本が、カルト監視機構の設立を訴えていた村上密の活動に共感して、教会の不祥事をブログで発表し続けたことを、キリスト教の信用を失墜させる行為であると非難しています。それならば、あなた自身が、クリスチャンの堕落を明らかにすることは、同じようにキリスト教の信用を失墜させる結果になるだけだと思いませんか?」

筆者はそれに答えて、決してそうは思わないと言おう。なぜなら、たとえば「私たちはエロヒム(神々)だ!」と臆面もなく集会で宣言しているDr.Lukeこと唐沢治が、真にクリスチャンであって、聖書の御言葉に基づくキリスト教を布教しているなどと、どうしてあなたは思うことができようか。

だとすれば、KFCのメッセージが反聖書的であることを具体的な根拠と共に明らかにしたからと言って、それがキリスト教の信用を低下させる行為であるとは言えないであろう。むしろ、逆である。

ペンテコステ・カリスマ運動についても同様のことが言える。キリスト教の中にこっそりと滅びに至る異端を混ぜ込む「疑似キリスト教」の骨子を明らかにし、なぜペンテコステ・カリスマ運動がこれほどまでの混乱をキリスト教界に引き起こして来たのか、それをこの教えの本質を明らかにすることによって理論的に証明し、このような偽りを聖書の御言葉から公然と分離し、取り除いて行くことこそ、キリスト教の信頼の回復のために欠かせない過程ではないだろうか。
 
さらに、牧師制度の根本的な誤りを明らかにすることの重要性がある。村上密のような牧師が、いかにカルト化教会の牧師が自らの権威を絶対化していると批判したとしても、その村上自身が牧師である以上、そのような主張は大いなる自己矛盾でしかない。

唐沢治であろうと、村上密であろうと、彼らの論理破綻はまさに同じ点にある。他の牧師を批判する前に、自分自身が牧師の職を辞さなければならない。なぜなら、牧師が自らの権威を絶対化することが誤りなのではなく、牧師制度そのものが、必ず、権力の絶対化を引き起こす誤った制度なのであり、それを認めず、一部の牧師だけを批判する彼らの主張は、甚だしく合理性を欠いており、さらに自分自身を絶対化している彼らの行動とも相矛盾盾するものでしかないからだ。

このことは、かつてあれほど牧師制度を批判し、キリスト教界を批判していたDr.Lukeが、結局、自分のミニストリーに反対した信者について、虚偽の情報を言い広めて印象操作を行うまでに身を落とした様子からもよく分かる。まさにカルト化である。自分の活動の批判者を誰彼弾圧せずにいられない村上は言わずもがなである。
 
しかし、そうしたカルト化現象も、もしも村上や唐沢が、人々の目にヒーローのように映るフィクションの自分自身の姿を作り出し、それを見つめさせることによってしか、自己肯定、自己安堵を得られず、自己認識ができないという精神的弱さを克服することさえできていれば、起きなかったであろう。
 
だが、彼らには後戻りの道はなく、おそらくこの先も、最後まで虚構の自己像を演じ続けることで、真の自分自身から逃避するしか道はあるまい。
 
我々は、臆病さや卑怯さのために、彼らと同様に、ありもしない幻想の自己に逃げ込むことはせず、恐れることなく、真実な自分の姿を見つめたい。そして、真実な自分の姿とは、聖書に書いてある通り、アダムに属する人間はすべて堕落しており、弁明の余地なく、すべて十字架で廃棄されなければならないという事実である。

キリスト教の信用を失墜させないとは、決して人間に媚び、人間の機嫌を損なわず、人間の威光を傷つけないために、人間に関して楽観的で、美化された虚偽の幻想を流布することを意味しない。

キリスト教が唯一正しい方であるとしているのは、聖書の父なる神、独り子なるキリストだけであって、人間については徹底的に悲観的で絶望的な結論しか提示していない。

キリスト教は人間を賛美したり、神を信じているクリスチャンを美化し、誉め讃えるための教えではない。
 
聖書が教える人間の本質とは以下の通りである。

心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。
「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである」。 」(エレミヤ17:9-10)

聖書はすべての人間が、義人ではなく、堕落・腐敗しており、信用ならないことを教えている。だからこそ、被造物はすべて死を通らねばならないのであって、キリストの十字架以外にはいかなる救いも存在しない。

にも関わらず、あまりに大勢のクリスチャンが、キリスト教を自分のうわべを飾り、人前で自分を義と見せかけるための手段として用いている。彼らはうわべだけは敬虔そうに振る舞い、数々の儀式には精通しており、熱心かも知れないが、神を知らず、神に近づくことも考えておらず、聖書の御言葉への従順さも、神の御前での心の清さも求めない。何よりも、彼らは偽善的で、誠実さ、真実、御言葉への従順が欠けているのである。

彼らはアダムに属する人間の自己が、キリストと共なる十字架で死に渡されねばならないことを認めず、神を信じていると言いながら、自分が受ける恵みのことばかりを強調し、こっそりと、神を自分の魂の情愛や欲望を満たす手段へと変えてしまう。ない。そして、古い命に基づく情愛を賛美し、その情に基づく関係を兄弟姉妹の交わりと呼び、堕落した魂の情愛によって、神の教会を築き上げようとして失敗し、結局、異端に逸れて行くのである。

だが、そうした腐敗は、すべてもとを辿れば、グノーシス主義が生む現人神崇拝としての牧師制度へと行き着く。まずは牧師制度が、キリスト教を人間が栄光を受けるための手段に変え、被造物中心の教えに変えてしまうのである。神を信じることにより、堕落した人間に過ぎない牧師が、あたかも神の代理人のように高められ、しかも、他の信徒にまさって、「神の御言葉を取り継ぐ」資格を得たかのように振る舞い、神と人との唯一の仲保者であるキリストになり代わって信徒の心を支配し、金銭的にも肉体的にも、搾取し、自ら栄光を受けるのである。

このような牧師制度は、教会内に偽りのヒエラルキーを作り出し、教会を人間の欲望を叶える手段とし、奴隷としてしまうだけである。

それはちょうど、地上の会社組織が、人間の欲望に仕える団体であるがゆえに、人々に尊ばれているのと同じである。ある企業の社長が人前に敬われ、栄光を受けるとすれば、それは、その会社が人々の欲望を満たす手段だからである。人々は、ある会社の社長を尊ぶとき、本当は、その会社の社名や、社長の人物を尊んでいるのではなく、その社長の背後に存在しており、自分の欲望を都合よくかなえてくれる手段としての会社を尊んでいるのである。つまるところ、社長を尊んでいるというよりも、自分の欲望を尊んでいるのだと言って良い。

これと全く同じ原則が、牧師という制度や職業にも当てはまる。

主イエスは言われた、「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたがたの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われる。」(ルカ16:15)

なぜ人に尊ばれるものが、神に忌み嫌われるのか。それは、人が尊ぶものは、自分の欲望を都合よくかなえてくれそうなものばかりだからである。この世において、人が尊ぶものはすべて人々の欲望の化身なのであって、人はそれを尊ぶことによって、結局、自分自身の欲望を重んじているのである。

今日の教会においても、信徒らは、牧師という目に見える「象徴」の中に、自分の一切の願望を投影する。神の御心にかない、人々の救いのために自分の命を惜しまず注ぎだす、御言葉に忠実で従順かつ理想的な神の僕の姿を見ようとする。

しかし、神の御心にかなう従順で忠実な僕は、キリストお一人しかいないのであるから、目に見える人間の中に、神の忠実な僕を見たいとする信徒らの欲望は、裏切られて終わるだけである。

あれやこれやの牧師が特別な例外として誤りに陥るのではない。牧師制度そのものが、神と人との唯一の仲保者であるキリストの地位を奪い、キリストになり代わろうとするフィクションの制度であって、牧師という職は、それ自体が、人々の心の欲望から作り出された偶像、神話なのである。
 
そこで、信徒が、牧師という目に見える存在に、美化された人間の幻想を重ね合わせ、それを自らの欲望の化身として拝むことをやめなければ、信徒らがこの「フィクション」である牧師を手本に、福音を自分の御を飾る手段として利用して、幻想の自分を作り出しては、それに耽溺し、虚構の「聖化」や「栄化」の概念に溺れて行くことも終わらないであろう。

私たちは、そもそも人間という存在を欺瞞に満ちた幻想の美しい花輪で飾り立てることをやめ、聖書の突きつける厳しい現実を決して目を背けることなく直視せねばならない。

そこで、話を戻せば、当ブログでは、杉本を含め、カルト被害者救済活動の陣営がこの先、出して来る情報を通して、いかにも敬虔そうに振る舞う「信者」たちが、隠れたところで行って来た悪事が明らかになることは、全く問題ではないと考えている。むしろ、そうした情報が明るみに出されることにより、うわべの外見だけで人を判断し、無意味に人を美化しようとする偽りの幻想が打ち砕かれて恥をかかされ、退散して行くことは、まことに望ましい結果だと考えている。

私たちは、クリスチャンになったからと言って、人間というものの堕落した本質から決して目を背けるべきではない。誰にも嫌われたくないからという理由で、人の耳に心地よい言葉を語り、人間に過ぎない者を賛美したり、自分自身を美化したりして、神を自分の欲望をかなえ、自分が栄光を受ける道具として利用することは、聖書の福音に対する裏切り行為でしかない。

そんなことをしていれば、結局、神の御前で真理を否定して、救いから除外されるだけだ。

クリスチャンは、神が預言者エゼキエルに語られた内容を知らないわけではないと思う。

「彼はわたしに言われた、「人の子よ、立ちあがれ、わたしはあなたに語ろう」。
 そして彼がわたしに語られた時、霊がわたしのうちに入り、わたしを立ちあがらせた。そして彼のわたしに語られるのを聞いた。
 彼はわたしに言われた、「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの民、すなわちわたしにそむいた反逆の民につかわす。彼らもその先祖も、わたしにそむいて今日に及んでいる。
彼らは厚顔で強情な者たちである。わたしはあなたを彼らにつかわす。あなたは彼らに『主なる神はこう言われる』と言いなさい。
彼らは聞いても、拒んでも、(彼らは反逆の家だから)彼らの中に預言者がいたことを知るだろう。
人の子よ、彼らを恐れてはならない。彼らの言葉をも恐れてはならない。たといあざみといばらがあなたと一緒にあっても、またあなたが、さそりの中に住んでも、彼らの言葉を恐れてはならない。彼らの顔をはばかってはならない。彼らは反逆の家である。
彼らが聞いても、拒んでも、あなたはただわたしの言葉を彼らに語らなければならない。彼らは反逆の家だから。
人の子よ、わたしがあなたに語るところを聞きなさい。反逆の家のようにそむいてはならない。あなたの口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい」。
この時わたしが見ると、見よ、わたしの方に伸べた手があった。また見よ、手の中に巻物があった。
彼がわたしの前にこれを開くと、その表にも裏にも文字が書いてあった。その書かれていることは悲しみと、嘆きと、災の言葉であった。」(エゼキエル書第2章)
 
旧約聖書において、神が人に語られる時、その内容が、人間の耳にとって心地よいものだったことはほとんどない。特に、自分たちは神に仕えていると自負する民にとって、それは厳しすぎる宣告と思われるほどに、彼らの罪を暴き出すものであり、耳を背けたくなるほど、受け入れがたい内容ばかりだった。その原則は、新約になっても変わらない。主イエスは、地上に来られた当時、律法学者やパリサイ人たちが、自分こそは神の代理人だと考えて、自分を聖なる存在のようにみなして思い上がり、民に誉めそやされ、民に君臨し、民を収奪していることの罪を指摘し、彼らの面目を失わせたのである。

だとすれば、現代だけは例外などということがどうしてあるだろうか。さばきは神の家から始まる、と書いてある通り、今日も、自分たちこそ敬虔な信者であって、御言葉の教師であると自認している人々こそ、最も厳しい裁きを受けねばならないのである。

このようなわけで、筆者は、万民祭司のこの時代、キリスト教界に秩序が回復されることがもしあるとすれば、それは一人一人のクリスチャンが、牧師制度を離れ、直接、キリストに従うようになる時だけであると考えている。

少なくとも、筆者が知っている限り、2008~2009年当時には、牧師制度と訣別し、キリスト教界を出て、信徒たちが真に対等な兄弟姉妹として交わることのできる場を追い求め、直接、御霊から御言葉から教わり、キリストに連なろうとする信仰者たちが存在した。そういう議論がタブー視されることもなく公然と展開されていた。

それから随分、状況は変わったが、その時に明らかにされた結論が、後になって変わることは決してない。当ブログの出発点は、牧師制度を離れなければ、正しいキリスト教の信仰は決して得られないというものであり、筆者が神を知ったのも、一切の地上的な組織や団体を離れ、いかなる宗教指導者からも離れた後のことである。

そこで、我々は一度得られた確信を決して捨てることなく、汚れた一切のものとの分離を保ち続け、前進して行かねばならない。我々の側から、心を清め、神に近づくためには、それが必要であり、神に忌み嫌われるものを一切捨てる覚悟なしには、誰も神に近づくことはできず、神が近づいて下さることも決してない。



★本来の正しい教義

正しい教義 キリストだけが神と人との仲保者

★今日広まっている異端の教義


牧師がイエス・キリストに成り代わっている


「イゼベルの霊」(異教的母性崇拝)に支配される「神の家の乗っ取り運動」としてのペンテコステ・カリスマ運動(2)

・国家レベルで広がるグノーシス主義~人間を神とする現人神崇拝からのエクソダスの必要性~
  

本題に入る前に、再び、政局について書いておきたい。やはり、佐川前国税庁長官の国会における証人喚問は、予想した通り、単なる見世物であり、安倍夫妻が逃げ切るための出来レース、ガス抜きだったという印象を受ける。しかも、これをインターネットでリアルタイムで実況中継しようとしていた菅野完氏のツイッターが直前に凍結されるなど、この国の暗黒状態をよくよく物語る出来事が進行中である。

当ブログが、何年も前から、暗闇の勢力からいわれのない攻撃を受けて来たことも、我が国が統一教会や日本会議などのオカルト勢力に占拠されている現状と無関係であるとは思えず、もはや安倍政権になってから何でもありとなったこの国には、言論の自由もなくなりつつある上、巷でささやかれているように、公文書の改ざんも、明らかになっていないだけで、他にも数えきれないほど横行しているものと思われる。

公文書が改ざんされたということは、ただ公務員の仕事に信頼が持てなくなったなどという次元の問題ではなく、国の存立基盤が根本から揺るがされていることを意味する。今やこの国そのものが、オカルト・ヤクザ勢力に乗っ取られ、どんどん書き換えられ、「フィクション」になりつつあるのが現状なのである。

我が国は、すでに何年も前から、全体主義社会と化しており、表面的に平和に無事に生きようと願う人々は、悪魔に魂を売るしかない状況だ。そのことは、官僚の世界でトップクラスに至るまで腐敗が進行し、誰もが粉飾に手を染めている事実からもよく分かる。こうした腐敗と癒着が、官僚の世界だけにとどまるはずがなく、当然、民間にも深く浸透しているはずである。
 
筆者はこうした世の腐敗の中に、牧師を神のように崇めるキリスト教界の堕落を見る思いがする。以下でも詳しく論じるが、牧師制度は、決してキリスト教に由来するものではなく、その起源は被造物を神とするグノーシス主義に由来するのである。

多くの信仰の先人たちが、目に見える人間をリーダーとして、それを頂点にいただく地上の組織や団体を作ることは、キリスト教と本質的に相容れないことに気づき、聖書に忠実なエクレシアを求め、そうした団体をエクソダスして行った。

今や信仰とは関係ない地上社会においても、バビロン化が極度に進んだ結果、誰かをボスとして、その人物に雇用され、生殺与奪を握られて生きることが、結局、教会に籍を置くことにより、救いを教会に質に取られてしまっている信者の状態とほとんど変わらなくなっているものと思う。

独裁国家では、独裁者に異議を唱えた人物に、平和な暮らしはない。投獄されるか、殺されるか、国外追放されるなどして、厳しい迫害が待っているだけである。牧師制度に異議を唱えた信徒も、同様に、教会から悪魔扱いされて追放されるということが多々起きている現状であるが、国ごとグノーシス主義に乗っ取られた我が国では、国家レベルでカルト化が進行中なのである。

首相夫妻が、事実上の現人神となり、「真の父母」となって国民に君臨しており、オカルト信仰によってこの国を動かしている。彼らおよび彼らの作った体制を拝むことを拒否した人々は、「人民の敵」のごとくネガキャンにさらされ、社会的な抹殺へと追いやられているのである。

だが、至る所からほころびが出ている現在、こんなにも腐敗し切った愚かな体制が長く続くことはあり得ない。

筆者は、ペンテコステ運動が米国から持ち込まれたものであるように、日本会議も米国発(源流はイスラエル)から輸入されたものではないかと考える。米国ではロシアの悪魔化のプロパガンダが一層、進んでいるようだが、巨悪から目を逸らすために、「巨大な悪役の像」を作り上げては、自ら犯した悪事のすべての責任をその悪役に転嫁するというのは、彼らの常套手段である。

米国がイスラエル及び他の国々と組んでこれまで行って来たすべての悪事を、ロシアを巨大な悪役に仕立てることでオールリセットしようとしていることは、もはや人々の共通認識となりつつあるように思う。ロシアという国もそれなりに相当に厄介な「フィクション」であるとはいえ、こんなお手軽かつ馬鹿馬鹿しい卑劣な手段によりすべての悪事を帳消しにできるはずがないことは明白である。

こうしたすべてのことには、決して偶然ではない霊的影響があり、筆者は自分が様々な意味で、古い時代と新しい時代の歴史の交差点に立っていることを感じる。結論から言えば、信仰の世界は、この世と合わせ鏡であるから、筆者があるべき場所に確固として立つことにより、こうした支離滅裂な国際情勢や、この国の悲惨な現状にも幾分か変化が訪れる可能性があると考える。

さて、筆者は、これまでの記事にも書いて来たように、暗闇の勢力に真実を語らせるためには、訴訟を通して答弁を公開させるしか残された手段はないと確信している。筆者はこれまで自分から訴訟を提起したことは一度もなく、また、村上徳久や杉本密の行って来た行為を、キリスト教界の内側の問題としてとらえていた頃には、教会の問題を世に持ち出すべきではないという聖書の御言葉に基づき、訴訟という手段を使って彼らの引き起こした争いを解決することを回避して来た。

だが、今や杉本徳久や村上密という人物はキリスト教徒ではなく、彼らには信仰の片鱗もなく、彼らを信者と同様に扱う理由はどこにもない上、筆者が個人的な思惑により彼らと対立しているわけではなく、この争いは彼らの側からしかけられたものであることを明白にするためにも、ネット上の議論を出て、きちんと実社会において公にしかるべき形で決着をつけることがぜひとも必要であると考える。

その作業を通して、これまで杉本や村上のような人物が、自分の側から率先してクリスチャンに訴訟をふっかけることにより、自分たちがあたかも悪を退治する正義の味方であるかのようなポーズを取り続けて来たことの欺瞞性が、より一層、公衆の面前で明らかになるであろうと思う。
 
また、それを通して、聖書の御言葉に反逆する者たちは、どんなにこの世の常識を振りかざしているように見えても、結局は、この世の常識や法制度をも平然と踏みにじり、すべての善悪の基準をあざけり、踏みにじりながら、自分が何者にも服する必要のない神であるかのような思い上がりに陥り、己が欲望を高く掲げるのだという事実が明らかになるだろうと思う。

彼らがこの世の法廷において敗訴したという記録を作ることは、非常に重要である。訴訟は、ヤクザ者の専売特許ではなく、そんな者たちのために作られた制度でもない。クリスチャンはそうしたこの世の手続きにあまりにも無知であるべきではない。

本当のことを言えば、筆者にとっては、個人情報を収集されるとか、実名を開示されるとか、名誉を毀損されるとかいった問題は、本質的に重要ではなく、実に些末な問題でしかないのだ。実名を公表してブログを書いている人々は、世に数多く存在し、そうした人々は厳しい批判にも時にさらされている。筆者が実名を公開しないのは、杉本や村上のようにさかんに自分の名を売りながら、宗教指導者や改革者をきどる気がないためで、自分の名を冠したミニストリーのようなものを作って、人前に栄光を受けたくないからである。

さらに、筆者の実名が特定されないことによって、筆者に関わる人々のプライバシーも保たれる。当ブログでは、牧師や指導者として自分を公にし、自ら自分の情報を明かした人々以外については、たとえ敵のように行動する信者があったとしても、実名を公開したり、彼らを特定できる個人情報を開示したりはしていない。

もしも自分のミニストリーを作って有名になろうと願ったならば、筆者にもそのチャンスは十分にあったであろうと思う。ブログを金もうけの手段とし、何かの新しい教えを宣べる教祖となって、人々に君臨しようと考えたなら、そのための才覚がゼロだったとは思わない。そういう悪しき目的のために、筆者がこれまで地上で積み上げて来た様々な経験や肩書を存分に利用することも可能だったろう。今から先も、様々な戦いに勝利をおさめれば、筆者の名を使って、筆者を担ぎ上げようとする人々が出て来ないとも限らない。

だが、筆者はそういうことを全く願っていないので、無名氏のままであり続け、自分の名を売るまいと考えているのである。地上で栄光を受ければ、天での栄光はもうないからだ。

当ブログに対して引き起こされている様々な戦いは、神の国の権益に関わる問題であって、個人の諸権利に関わる問題ではない。ここで本質的に重要なのは、ヴィオロン何某といった地上の人間の諸権利が侵害されているといった個人的なレベルの問題ではなく、聖書の神の御言葉が否定され、キリスト教が歪められ、聖書の神と神の教会が冒涜され、神の国の権益が侵され、真実と正義が曲げられているという問題なのである。

個人の諸権利を主張することは、聖書の御言葉に基づく信仰を公然と守り、神の国の権益を守るために必要な現実的措置として行っているだけのことであり、それが本質的に重要な問題なのでは全くないのである。

ちなみに、3月23日という日は、本当にいわくつきな日だったらしく、札幌では、元朝日新聞記者で慰安婦報道に関わった植村隆氏と、日本会議の強力な代弁者の一人であると見られ、筋金入りの改憲派でもある櫻井よしこ氏との間で本人尋問が行われた日であったらしい。
 

【慰安婦記事訴訟】植村隆氏、櫻井よしこ氏双方の本人尋問 札幌地裁で7月6日に結審
03/23 19:50 産経新聞

 元朝日新聞記者で慰安婦報道に関わった植村隆氏(59)が、記事を「捏造」と書かれ名誉を傷つけられたとして、ジャーナリストの櫻井よしこ氏や出版社3社に損害賠償などを求めた訴訟で、植村氏と櫻井氏双方の本人尋問が23日、札幌地裁(岡山忠広裁判長)であった。7月6日に結審する。
  植村氏は朝日新聞記者だった平成3年8月、元慰安婦が「『女子挺身隊』の名で連行された」とした大阪本社発行の記事について、「連れていかれた所で監禁され意に反して慰安婦にさせられた。だまされて戦場に連れて行かれた。一連の行為で『連行』と書いた」とした。また、「当時の韓国では慰安婦が『挺身隊』を意味していた」と証言し、意図的に慰安婦と挺身隊を結びつけたのではないと主張した。
  一方、櫻井氏は、後に作り話と判明した吉田清治氏の「女子挺身隊の名のもとで強制連行された」に呼応する形で植村氏の記事が書かれたと主張。「植村氏は(吉田氏の)作り話の被害者が実際にいると書いた」とその影響力の大きさを指摘した上で「植村氏は公開討論の呼びかけにも応じてこなかった」と批判した。  


   この裁判については、植村隆氏を支える市民団体が以下の記事を発表している。

櫻井よしこ氏が自身のウソを認める! 「捏造決めつけ」記述にも重大な誤り
札幌第11回■詳報  次回7月6日に結審、判決は秋以降に

札幌訴訟の第11回口頭弁論が3月23日、札幌地裁で開かれ、原告植村隆氏、被告櫻井よしこ氏に対する長時間の本人尋問があった。

この尋問で、櫻井氏は、いくつかの記述に誤りがあることを認めた。この記述は捏造決めつけの根拠となるものであるため、植村氏に対する誹謗中傷が根も葉もないものであることがはっきりした。櫻井氏本人がウソを認めたことにより、櫻井氏の根拠は大きく揺らぎ、崩れた。櫻井氏はその一部については、訂正を約束した。
<続きは本文参照。>

 
当ブログは、これまでこの訴訟を追って来ていないため、内容について深く立ち入ることはできないが、大筋を見る限り、この裁判は、「大日本帝国」の復活を願い、戦前の軍国主義路線の誤りを認めず、従軍慰安婦などの問題はすべてなかったこととして闇に葬りたい日本会議を支持する櫻井よしこ氏が、慰安婦問題を掘り下げる報道を不当にバッシングし、そのようなテーマを追求するジャーナリストに不当な打撃を加えて、このテーマ自体を葬り去ろうとする趣旨の記事を発表したため、記者がバッシングから身を守り、自分が行った報道の正しさを立証するために起こさざるを得なくなった訴訟であるという印象を受ける。

市民団体の報道によれば、櫻井氏は徐々に誤りを認め、自分の主張が捏造であったことを認めざるを得ない立場に追い込まれているようだ。 

植村氏が起こした裁判は、名誉毀損の被害を取り返すという、ただ自分の権利を守ることだけが目的ではなく、自分が報道した内容が真実であることを論証して、慰安婦問題が闇に葬り去られて社会の利益が損なわれることのないよう必要なアクションを取ったものだと考えらえる。

報道関係者でなくとも、自分が述べた言葉が真実であることを証明するためならば、それを公に論証する機会として、裁判を用いることは、時には必要であろう。そのようにして自分の言葉の真実性を主張するためには、自分の権利が侵害されたという訴えの形を取るしか今のところ方法がないのが実状である。

日本会議サイドは、櫻井よしこ氏を大いに利用して、慰安婦問題を報道した植村氏を個人攻撃させることで、慰安婦問題に触れると、誰でもこういう結果になるので、慰安婦問題など掘り下げない方が良いですよ、という見せしめ事例にしようとしたのではないかと考えられる。

筆者や当ブログに対して行われて来た攻撃もそれと同じで、牧師制度を批判したり、ペンテコステ・カリスマ運動の偽りを証明したり、カルト被害者救済活動を批判したりすれば、徹底的な報復を受け、人生に害を及ぼされるので、そのような厄介なテーマを、クリスチャンは扱わず、決して言及しない方が良いですよ、という見せしめのためになされたと思われる。

このように、あるテーマそのものをタブーとするために、個人攻撃が行われるということはままある。だが、筆者が書いている内容は真実であり、杉本や村上が書いていることは虚偽である以上、どちらが消し去られなければならないのかは明白だ。しかも、これはこの世のみならず、来るべき世にまで及ぶほどの永遠性を持つ普遍的テーマを巡る論争なのである。

虚偽の情報によって真実が駆逐されねばならない理由はなく、ましてそれが永遠性を持つテーマに関するものならば、なおさらだ。そこで筆者は、杉本が当ブログを誹謗するために書いた虚偽と人権侵害に満ち溢れる記事を一刻も早く削除してもらいたいがために、そのための取引材料として、当ブログ記事を差し出したりするつもりはさらさらない。そのようなことをすれば、敵の脅しに屈したことにしかならない。

だが、誰が真実を述べているのかということを証明するにふさわしい場が、判定者のいないインターネット上の議論や匿名の掲示板の無責任なコメント投稿欄ということはあるまい。そこで、より公共性・社会性のある形で決着をつけなければならないのである。

さて、筆者が個人的にキリストの十字架の死と復活のより深い意味を知って、関東へ来た2009年8月に政権交代があった。おそらく、その頃、関東へ来た筆者に求められていたのは、人間の指導者につき従わず、神にのみ従って歩むことであり、決して、人間の指導者を頂点とする組織に所属することではなかったものと思う。

その点で、KFCは偽りであり、その他の人間のリーダーを担ぐすべての交わりや集会も虚偽であった。牧師制度と手を切りながらも、それと類似するすべての人間による支配を断ち切り、その偽りなることを証明できなかったことが、筆者の霊的停滞の原因なのであり、今から考えると、そのようにしてリーダーを担ぐ団体の虚偽なることを証明することこそ、筆者に当初から求められていた課題だったのであろうと考える。

筆者は、その当時、聖書に基づくエクレシアを探し求めていたとはいえ、それはKFCや、誰かをリーダーとし、その人間を事実上の神とする集会に受け入れられたり、その集会にいる信者らと仲良くして、そこに定着することとは全く無関係であった。そのようなことを目的に、筆者はこの地へ召されてやって来たわけではない。神が筆者を召し出されたのは、人間的な思いや欲望に基づいて、人間の作ったヒエラルキーに依存する自己満足的な共同体を作って、それをエクレシアと呼ぶことでは全くなかった。そのような悪しき目的とは全く異なる目的が、当初から存在していたのである。

人間を中心に作り出された団体は、すべて過ぎ行くアンシャン・レジームに過ぎず、万民祭司とされているこの時代、いい加減に、現人神なる人間のリーダーに従うという腐敗とは一切無縁の、新しいエクレシアの姿が出現しなければならず、新しい時代が来なければならないのである。筆者はその新しい時代の新しい思想の担い手としてこの地へやって来た。その後、長く続く停滞が訪れたように見えるが、それでも、筆者が召された当初の目的が変わらないならば、遅かれ早かれ、その目的は姿を現すのであり、それは筆者が人間の生まれながらの情愛に基づく肉なる絆を根こそぎ断ち切り、神の国の権益にのみに立つ者として行動するときに初めて可能となるのだろうと思う。

筆者はアダムに属する「人類」を離れる覚悟を固めねばならないわけで、今その時が来ているように思う。筆者は、筆者が杉本や村上に対して訴訟を起こすことが、地上のアダムとしての出自を完全に断ち切ることとどこかで霊的につながっていると考えている。これまでの筆者は、人間的な感情を優先しすぎるがゆえに、してはならない妥協をし続けて来たのである。その人間的な感情こそ、牧師制度に類するすべての制度を偽りであるとして、毅然と退けることをしなかった筆者の甘さなのである。(今、そうした呪われた団体が、どれほど筆者の足手まといとなっているかを考えればそのことは明白である。)

そこで、筆者は人間的な情愛を優先するがゆえに、物事を曖昧にしたまま決着をつけずに終わりにしようとする甘さを根こそぎ払拭せねばならないと考えている。

一部の人々は、筆者が訴訟を提起しようとしていることを、あたかも筆者の個人感情に基づく残酷な報復措置であるかのように主張するかも知れないが、その考え方は転倒しているとはっきり言う。

物事にきちんと決着をつけないまま、無責任なネット上だけで、当事者でもない者が、野次馬のごとく対立を煽りつつ、責任の所在も分からない匿名のコメントを延々と半永久的に書き連ね続けることの方が、訴訟を起こすことに比べ、はるかに残酷で無責任で有害な行動であり、かつ限度を超えて行き過ぎた報復措置、私的制裁であると言えよう。そのような無責任な行動に比べ、この世の法に従い、きちんとルールを守って論敵と対峙することは、はるかに公正かつ公平な措置であり、それにかかる時間も限られているし、それによって下されるペナルティの度合いも限られている。
 
筆者がもしも自分の個人の利益を優先したいだけの人間であれば、これほどの手間暇を裂いて、ペンテコステ・カリスマ運動の異端性や、カルト被害者救済活動の誤りや、グノーシス主義の分析など行う必要もなく、早々に取引に応じて、不都合な記事を削除してもらう代わりに、手間のかかる当ブログにおける議論もさっさとやめてしまえば良いだけである。

だが、問題は、筆者個人の利益などではなく、聖書の御言葉の真実性という永遠のテーマなのである。聖書の神が否定され、神の御言葉が曲げられ、キリスト教が歪められ、神の教会が蹂躙され、正義が曲げられ、真実が葬り去られようとしている時に、筆者が、自分の利益が最優先だからと、悪魔との取引に応じて沈黙したりすれば、来るべき日に、神は筆者に向かって「わたしはあなたを知らない」と言われ、筆者は恥ずべきクリスチャンとして見捨てられるだけである。

繰り返すが、ここで問題となっているのは、個人の利益などではなく、神の国の権益である。自分の個人的・地上的な利益よりも、神の国の権益を優先し、主と共なる十字架において古き人としての自己を完全に死に渡すクリスチャンが現れないことには、神の国の地上における前進もない。

代価をいとわず、主と共なる十字架において自己を徹底的に死に渡すという過程を、信仰によって貫き通す個人が現れることによって初めて、神の国の前進が地上にもたらされるのであって、誰一人としてそのように代価を払って主に従う者も現れないならば、そんな社会を神が守らねばならない義務はない。そのような社会は、教会も含めて、ますますバビロン化が進み、ソドムとゴモラ同様、地獄のようなところになって滅びるしかないであろう。

日々代価を払って主に従うクリスチャンの信仰を通して、初めて神の国が地上に引き下ろされるのであり、そのようにして神に従う一群が現れる時、初めて、教会だけでなく、この世の地上の政治体制にも影響が及び、変化が訪れるのである。
 

キリスト教が信仰によって「神を知る」ことが可能であるとしているのに対し、「神は不可知である」とするグノーシス主義が人類にもたらす悲劇

さて、筆者が当ブログを始めたのは2008年頃であるが、その頃から、当ブログでは、キリスト教界に誤った教理が満ち溢れていることを検証し、牧師制度の誤りを主張し、聖書に基づく真実なキリスト教とは何なのか探求して来た。

当初は「何が誤った教えであるか」ということに重点的に目を向けていたが、「何が真実であるか」に注意を払わねば、偽りを明るみに出すこともできないと気づき、途中から、当ブログでは、改めて聖書の御言葉に立ち戻り、神ご自身を真剣に尋ね求め始めた。

その過程で、聖霊派の教団の中などにいたのでは、決して知る機会もなかったであろう聖書の真理(キリストと共なる十字架の死と復活という十字架のより深い働き)を知らされ、筆者は、初めて以下のエレミヤ書にあるように、聖書に書かれている「主を知る」ということの意味を知ったのである。
  
「しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。
すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。
わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。
人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。 」(エレミヤ31:33-34)
 
前の記事で、贋作は、オリジナルと対比されて初めて、贋作であることが証明されうると書いたが、その原則は、何が正しいキリスト教であり、何が誤ったキリスト教であるか、という問題を解く際にも、同じように適用される。

我々自身が、真実なキリスト教の信仰に立ち、神によって選び出され、神の子供とされた、主を知るクリスチャンとして生きないことには、どれほど偽りのキリスト教を分析し、非難したとしても、それを当事者として「神の国の権益に関わる被害」として訴えることができないのである。
 
クリスチャンとは、文字通りの意味では、「キリストに属する者」、「キリストの復活の証人」であるが、現実には、クリスチャンを名乗っているすべての者が、必ずしもキリストのものとされた、キリストの証人であるわけではない。

今日、クリスチャンを名乗っている人々の中には、数えきれないほど、神を知らず、キリストのものとされておらず、神を知ろうともしていない人々が存在する。毎週日曜、どこかの教会で開かれる礼拝に出席し、讃美歌を歌い、聖書を読み、うわべだけ敬虔そうに見える生活を送ることによって、神を知ることはできない。そういう形式を通して神に近づくことはできない。

「イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝するときが来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。
しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:21-24)

このように、神を礼拝するとは、日曜ごとにどこかの団体へ出かけて行き、人間に過ぎない誰かの語るメッセージに耳を傾けることとは何の関係もないことである。「神を知る」ことは、聖書の御言葉に立つ信仰によって、人の霊の内側で起きることであり、神によって与えられる啓示であるため、形式によってそのような啓示を得ることは誰にもできず、それを外側から見て分かるように客観的に立証することもできない。

そこで、誰がキリストに属する本当のクリスチャンであって、誰がそうでないのか、我々が、それを区別するために与えられている唯一の方法は、外見的要素によってそれを区別しようとすることではなく、ただその人物が述べた言葉や行動を、聖書に照らし合わせて検証することだけである。その人間が述べている証の言葉とその人物の行動を検証することだけである。

そのような検証作業によって初めて、クリスチャンを名乗るある人物が、本当に神に知られているクリスチャンであるのか、そうでないのか、その人物を導く霊の性質を確かめることができる。

その人物が真にキリストの証人であれば、その人の言動には、聖書との齟齬がないはずである。だがもし、その人の言動に、嘘やごまかし、自己矛盾、トリック、歪曲、捏造などが見られ、聖書との齟齬、不透明さが見つかれば、その人は見せかけだけの信者で、内的では、キリストを全く知らず、キリストの御霊に導かれてもおらず、神の子供とされてもいない、非クリスチャンである可能性が極めて高い。

主を知らずとも、様々な教義を身にまとい、うわべだけはあたかも神を知っているかのように、敬虔そうに振る舞うことは可能である。しかし、それがその人の内側の本質から出て来るものでない外側の演技のようなものに過ぎなければ、必ず、その人の言動は偽善的なものとして、あちこちにほころびをきたすことになる。
 
だからこそ、聖書は愛する者たちよ。 すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。 多くのにせ預言者が世に出てきているからである。 」(Ⅰヨハネ4:1)と言うのである。

さて、ようやく話を本題へ戻すが、当ブログでは、今日、あたかも正統なキリスト教であるかのように、プロテスタントの一部を占めているペンテコステ・カリスマ運動は、「偽物のキリスト教」であって、もとを辿ればグノーシス主義に行き着くことを再三、述べて来た。

グノーシス主義とは、一言で言えば、創造主ではなく被造物を崇める「被造物崇拝」の教えである。 筆者が幾度となく強調して来た、異教的な母性崇拝の原理(「イゼベルの霊」)も、被造物崇拝を指すのである。

異教的な女性原理の崇拝における「女性」とは、文字通りの女性ではなく、神の助け手となるべく、霊的な女性として神によって創造された人類を指す。

「イゼベルの霊」の教えとは、要するに、人類を神以上に高く掲げて神として賛美する教えなのである。

この世には、表面的に見れば、様々に異なる思想が存在しているように感じられるかも知れないが、根本的には、大きく分けて、たった二つの思想しか存在しない。キリスト教とグノーシス主義である。

異端はすべてグノーシス主義に由来するものであり、究極的には「被造物崇拝」の教え、人類の自己崇拝である。

だからこそ、異端や異端化されたキリスト教には、必ずと言って良いほど、目に見える人間を指導者として担ぎ上げ、その人間をキリスト以上の存在として絶対化するという特徴が現れるのである。

そして、それに基づいてこそ、筆者は、牧師制度とは、グノーシス主義にルーツを持つ、聖書に根本から抵触する制度であり、牧師制度を取り入れた教会は絶対的に腐敗すると述べて来たのである。

さて、キリスト教とグノーシス主義という、真っ向から対立する二つの思想には、数えきれない違いが挙げられようが、根本的な違いは一つであり、それは「人間には神を知る道があるのか、ないのか」という問いに対して、両者が正反対の答えを出している点にある。

結論から言えば、聖書が「父なる神」は「わたしは有る」(出エジプト3:14)という方であって、れっきとしたリアリティであり、信仰を通じて、人は神を知ることができるとしているのに対し、グノーシス主義は、「父なる神」をフィクション同然の概念とする。

聖書の記述はすべて「父なる神」の計画を中心に「父なる神」の観点から書かれたものであるのに対し、グノーシス主義の神話的プロットは、すべて「父なる神」に創造された被造物の側から、被造物の都合に従って書かれた物語であると言える。

聖書の記述が、「父なる神」の御思いを中心に展開される物語であるのに対し、グノーシス主義の物語における主役は、「父なる神」(真の至高者)ではなく、「父なる神」に創造された被造物なのである。

グノーシス主義における「父なる神」(真の至高者)は、人格もなく、意志もなく、存在すらも、あるかないか分からない「虚無の深淵」であり、いわば、被造物の存在に口実や意義を与えるための添え物のような、名ばかりの存在に過ぎず、物語の最後まで、確固たる登場人物として自分自身を現して舞台に登場することのない不可知的存在である。

こうして、グノーシス主義の本質が、父なる神の概念を「フィクション」とするところにこそ、この偽りの神話とそれに導かれる人々の悲劇の根本原因があるのだと言える。

当ブログでは、以前から、グノーシス主義とは、「母の過ち」によって生まれた「父なし子」としての人類が、確たる証拠もないのに、「父なる神(真の至高者)」の子孫であると一方的に名乗り出て、神の家への復帰を企てるという、実にナンセンスな「神の家の乗っ取り」物語であると主張して来たが、大田俊寛著『グノーシス主義の思想<父>というフィクション』(春秋社、2009年)は、この考えに驚くほど多くの裏づけを与えてくれる。

この文献は決してグノーシス主義を批判するために書かれたものではないが、それにも関わらず、グノーシス主義における「父」とは何かというテーマだけでなく、「父」を喪失した人類が、完全な自己や、健全な「自己愛」を探し求めて、精神分析やカウンセリングやインターネットといった「鏡」を通しての自己認識に病的に明け暮れるようになることの危険性など、まさにペンテコステ・カリスマ運動の支持者らが陥っているいくつもの「病理現象」についても、実に多くの示唆を与えてくれる。

この文献を参照しつつ改めて思うことは、ペンテコステ・カリスマ運動の本質はまさにグノーシス主義であり、グノーシス主義とは何かを理解することによってしか、この運動の誤った本質を明らかにすることは決してできないということである。

ペンテコステ・カリスマ運動があたかもキリスト教であるかのように理解して、聖書だけを用いて、この運動の間違いを分析しようとしているうちには、決して解けなかった実に多くの謎が、この運動がグノーシス主義を手本に出来上がったものであると仮定すれば、驚くほどあっさりと解けるのである。

今日、グノーシス主義の研究なくして、キリスト教に流入し、襲いかかっている異端の本質を掴むことが、どれほど困難であるかを思わされる。初代教会があれほどの労力を費やしてグノーシス主義と格闘し、対決したのは、決してゆえなきことではない。現代にも、グノーシス主義という異端がゾンビのようによみがえり、見えないところで教会に襲いかかり、キリスト教を骨抜きにしている事実に、クリスチャンは決して無知であってはならないと筆者は確信する。


「随想 吉祥寺の森から」の杉本徳久の答弁書を通して見るグノーシス主義者の空虚な自己の本質

~「父なる神」をフィクションとし、人類をもフィクションとするグノーシス主義を信じる人間の自己の内面の空虚化と荒廃の実例~

さて、このところ、政局が目まぐるしく変化しているので最初に一言述べておきたい。昨年、7月末から大阪拘置所に長期拘留され、家族との面会すらも断られ続けて来た籠池泰典氏に野党がようやく接見を果たしたという。

裁判もなく詐欺罪の容疑だけでこれほど長期拘留する法的根拠は疑わしく、ただこれ以上安倍政権に不利な証言を行わないよう、口封じのためだけに、勾留されているのは明らかである。今や安倍政権にたてつく「政治犯」を収容する監獄のようになりつつある大阪拘置所が「バスティーユ監獄」にたとえられ、首相夫人(安倍昭恵)が「マリー・アントワネット」になぞらえられるのはまことに無理もない。

「私人」と言いながら、歴代の首相夫人と比べても、破格の特権的な待遇で警護され、公務員の付き人を5人もつけていたこともあるという昭恵夫人は、夫である首相が国会で厳しい追及を受けている最中にも、全国各地での公演活動をやめず、野党を罵倒したり侮辱するような書き込みに、軽率に「いいね!」ボタンを押してはひんしゅくと買っている。このように状況をわきまえない奔放な行動を繰り返すお騒がせ者で、その上、森友事案に深く関与したことが明白となり、国有地の不当な売却や、公文書改ざんという重大な犯罪に関与した疑いが濃厚であるのに、国会への招致も拒み、権限もないのに国政を陰から操る「私人」に、公金を大量につぎこむ意味がどこにあるのかと、国民に怒りがおさまらないのは当然だ。そうした総理夫人の姿が、民衆が飢えている時に「パンがないなら、お菓子を食べれば良いじゃない」と言い放ったとされるマリー・アントワネットの姿を彷彿とさせるのは仕方がない。

さらに、安倍首相の八方美人的な外交も行き詰りに達し、トランプ大統領からも「人を出し抜こうとして薄ら笑いを浮かべている」かのように勘ぐられて疑いの眼差しを向けられ、ロシアからも北方領土を返せる見込みなど全くないとの宣告を突きつけられて共同開発も進まず、国際的に、もはや相手にする者もなくなりつつある状況を見ていると、国内にも国外にも逃げ場のなくなりつつある安倍夫妻は、やがて本当にルイ16世とマリー・アントワネットのような終わりを辿るかも知れないと感じられて来る。

筆者は、これを機に、我が国に新たな革命勢力が台頭すれば良いと言いたいわけではない。この政権が転覆した後に、どういう時代が来るのか、それは一つの懸念事項である。だが、いずれにせよ、安倍政権が終わらないことには、この国にはいかなる希望ある未来もないことだけは確かであろう。そのことはもはや国民の共通認識に近くなって来ているように感じる。

安倍政権に盾突いた人々が、官僚であれ、民間人であれ、執拗に人格攻撃を受けては、社会的に抹殺され、ブラック企業や裁量労働制などが実質的に広がり、国民の貧窮化が進み、国力が低下している中、国家総動員体制のような無理な苦労が国民に要求され、税は重くなる一方で、軍備が拡張され、最後には、政権が誤った政策を自ら認めて撤回することができないプライドのゆえに、再び、軍事力に頼って無謀な戦争を起こしてすべてを都合よくオールリセットしようとするしか残された道がなくなるという、一度すでに辿り、結論が初めから見え透いている破滅へ転げ落ちるだけのこの暗黒時代が早く終わらないことには、この国には何一つ進歩もなく、希望ある未来もなく、未来が向こうから愛想を尽かして立ち去るであろう。
 
さて、筆者は政治家ではないので、政治運動に参加することを通して政局を変えようとはしないが、クリスチャンとして、霊的な戦いを勇敢に戦い通すことによって闇を払うことに貢献できると考えている。それが当ブログの役割なのである。

当ブログが聖書に基づく真実な信仰を求めて探求を始めたのが2008年、それから一年近くで、筆者自身が神と出会うという実りある収穫を得て、2009年8月末に戦後、初めて政権交代がなされたが、こうしたことが偶然に起きたようには思われない。
 
また、この度、籠池氏に野党が接見を果たしたのが、ちょうど筆者が当ブログに執拗に根拠のない言いがかりをつけては記事の削除を要求し続けて来たブログ「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および、杉本に筆者の個人情報を提供して誹謗中傷を幇助した疑いが濃厚であるアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密を民事調停に呼び出した日に当たることも、とても偶然とは思われない。


・ブログ「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久が民事調停で出した空疎な答弁書とグノーシス主義の関連性について

ちなみに、杉本徳久と村上密に対して当ブログが起こした民事調停は、予想の通り、まるでお子様のようなレベルでしかなく、筆者が出した100枚近くの答弁書は、十分に訴訟に対応できる内容であり、民事調停のレベルをはるかに超えていたため、一刻も早く訴訟に移行すべきものと思う。

だが、お子様のレベルの「話し合い」とはいえ、叩けばそれなりに埃は出るもので、今回、収穫がゼロだったわけではない。

村上密は予想通り、具体的な反駁も寄越さず、調停に姿を見せることもなかった。その一方、杉本徳久は当日になって時間ぎりぎりに現れ、たった2枚しかない人を馬鹿にした内容の答弁書を提出した。

今回の二人の対応から、これまでクリスチャンや教会に次々と言いがかりをつけては、裁判に及んできた村上密と杉本徳久の正体が、さらにはっきりしたと言えよう。

村上は、自分に不利な訴えには極力、耳を貸したくないという狡い性格の持ち主であり、杉本も、とてもではないが、訴訟に対応できるような人物ではない。クリスチャンをこれまで訴訟によって恫喝して来たこの二人が、実際には、自ら訴訟を受けて立つような力量が全くない人間であることは、今回のことではっきりと証明されたと言えよう。

以下で記す通り、杉本の答弁書における反駁を読めば、それがまるでお話にならないほどに幼稚なレベルのものであることは、誰にでも分かる。

むろん、杉本には弁護士などいなかった。あれほど筆者に向かって、再三、弁護士を通じて連絡せよと要求し、弁護士相手でなければ、話にもならないという態度を見せていたにも関わらず、結局、杉本には、自分が訴えられた際、弁護士をつける経済的余裕が全くなかった様子が、今回のことで明らかになったのである。

ちなみに、杉本徳久は、株式会社メディアテラスの代表を名乗っている人物であるから、単なる一般人としての「私人」ではない。杉本の行為は、すべてこの会社の代表としての振る舞いであると世間に受け止められることになる。

それが、期日当日の時間ぎりぎりになって、ようやく裁判所に答弁書を出すというのは、まるでブラック企業に雇用された悪徳弁護士が使うような汚い手口である。そういうことをすると、参加者全員が、事前に答弁書をきちんと読んで協議に備える時間がなくなるため、審理に悪影響を及ぼす。いたずらに協議を長引かせて結論を先送りすることだけを目的とする、非常に印象の悪い、人を馬鹿にした利己的な行動である。

さらに、杉本が出して来た答弁書は以下の通りであるが、その内容を見ると、基本的な言葉遣いさえなっておらず、証拠書類の番号の振り方さえ間違っており、弁護士が一度も目を通していないことが明白であるだけでなく、大の大人が書いた文章とも思えず、小学生程度の算数さえできるのかどうか危ぶまれる内容である。

  
(図1、2 杉本徳久が民事調停の期日当日に提出した「とんちんかんでお話にならない」ほど幼稚な答弁書)

杉本は答弁書の冒頭において、筆者の主張を「棄却する」などと書いているが、正しい表現は、「否認する」である。訴えを棄却するのは裁判所にも関わらず、まるで自分に誰かの訴えを「棄却する」権限があるかのように考えているこの言葉からも、杉本の傲慢さが透けて見える。
 
 杉本はこのたった2枚しかないあまりにも手抜き作業であることが明白な答弁書によって、筆者の訴えを一方的に「棄却」したつもりになっている上、調停を起こす費用もすべて筆者に負担させた上で、自分は一銭の賠償金も支払うことなく、勝手に「3日以内」と根拠も不明な期日を一方的に指定して、自分のブログ記事を削除する代わりに、筆者のブログからも、都合の悪い記事を削除せよと叫んでいるのである。

きちんとした弁護士であれば、申立書に記された一つ一つの項目ごとに、きちんとその内容を踏まえた上で、否認する旨とその具体理由をちゃんと書き記すものであるが、杉本の答弁書には一切、具体的な反駁がなく、反論している内容さえ、申立書には書かれていない内容ばかりである。

筆者の申立書には、段落ごとに番号もふってあり、無数の段落がある。それがたった2枚の答弁書の数行だけの文章で、筆者の全ての主張に反駁したつもりになり、これを「棄却する」とまで宣言しているとは。厚かましさ・愚かさに呆れ果てることを通り越して、もはやただ苦笑するのみである。

小学生でももう少しましな文章を書くであろう。しかも、杉本が出した証拠の大半も、筆者のブログをただ印刷しただけのもので、答弁書の本文と照らし合わせても、必然性が全く感じられない添付書類であった。その上、証拠書類の番号のふり方さえ間違って、番号が飛んでいるのだから、夏休みの終わりになって宿題を片づける小学生のように、期日当日になって慌てて作成したのだろうと笑うだけだ。

杉本が弁護士に相談を行った実績がないことが、この答弁書の内容からはよく分かる。無料相談くらいなら、利用したかも知れないが。

要するに、杉本の答弁は、杉本自身の言葉を使えば、完全に「とんちんかんでお話しにならない」レベルのものであり、とことんまでの手抜き作業であり、さらに、杉本が筆者に投げつけて来た言葉を使えば、この答弁書こそ、「思い上がった上に、市井の常識をわきまえない、あまりにも自己中心な内容」と非難されてしかるべき内容であったと言えよう。

筆者は近々、このようにお子様レベルの不毛な民事調停を打ち切って、訴訟に移行するつもりである。訴訟となれば、こんな人を馬鹿にした無内容の答弁書など提出している余裕などは全くない。信憑性のある反駁ができなければ、敗訴に終わるだけである。また、村上密も反駁を寄越さないわけには行かなくなる。さらに申立内容によっては、申立人の住所地で裁判を行う道が開けるため、わざわざ被告の住所地へ足を運ぶ手間も省ける。移送を申し立てても、被告の希望が認められる見込みはほぼなくなるであろう。

以上のような経緯から察するに、杉本と坂井氏が対決したという裁判も、しょせん、民事調停以下のレベルだったのだろうと想像されてならない。つまり、杉本は、きちんとした訴訟が提起されれば、およそ勝ち目のない人間であり、これまでただ自分の方から先に訴訟をふっかけることにより、心の準備のできていないクリスチャンを恫喝して黙らせて来ただけなのである。

かつて杉本徳久は2009年頃に、2ちゃんねるの書き込み内容が名誉毀損であるとして、2ちゃんねるに削除要請を行おうとした様子が、掲示板「株式会社メディアテラス(杉本徳久)」に残っている。

確かに2ちゃんねるは悪質な掲示板であり、しかも、杉本がこの当時から2ちゃんねるに、コメント番号を指定することさえも不可能なほどに大量の書き込みをされて、ほぼストーカーのごとく追いかけられていたことを考えれば、多少、彼の言い分にも、同情の余地があると言えないわけではない。

だが、それでも、そのような事態となったのは、杉本自身が自らのブログであまりにも多くのクリスチャンに自ら喧嘩を売って、実名で誹謗中傷を重ねて来た結果であることや、また、削除を要請するに当たっては、どんな掲示板であろうと、どれほど書き込み数が多かろうと、杉本自身が、どの部分をどんな理由で削除依頼するのか、手間がかかっても、やはりそれだけは最低限度、明らかに指定しておかねばならないことを考えれば、一方的な同情の余地は残らない。

その当然の形式を整える手間を怠ったがゆえに、杉本は2ちゃんねるに削除依頼を出しても、依頼として扱ってももらえないまま、門前払いされた経緯がよく分かるのである。

こうしたことからも分かるのは、杉本徳久は、常に自分が主張している内容の正当性を、他者にも客観的に分かるように具体的に根拠を示して証明するという作業をしないということである。今回の民事調停の答弁書もそうなのであるが、杉本はいつも「自分が迷惑を受けて嫌な思いをしていることは、あなた方にも当然、分かるはずだ!」という理屈で、自分の要求を何一つ客観的に証明することなく、相手がそれを理解して飲むのが当然であるとして、一方的に押し通そうと突きつけて来るのである。

しかも、杉本は、そうして客観的な手間を省いた分だけ、常に刑事告訴やら、民事提訴やらといった脅し文句を凶器のように振り回して、相手に要求を飲めと脅すばかりなのである。

杉本はこうした手抜きな要求の結果として、以上の掲示板でも、自分の出した削除依頼を、必要条件を全く満たしていないため審査にも考慮にも値しないと言われて「棄却」され、「門前払い」された上、削除を求めた書き込みや、そこで引用した誹謗中傷のコメントの転載も含めて、それをさらに半永久的にさらしものとされる材料として増し加えてしまい、削除依頼をもあきらめざるを得ない結果に追い込まれたのである。

2ちゃんねるはこのように悪質な掲示板であるとはいえ、それでも、2ちゃんねるで事件に巻き込まれた人々の中には、努力に努力を重ねて、刑事事件にこぎつけたり、その他の方法で、第三者機関を通して、削除にこぎつけている例もある。

彼らはおそらく膨大な手間暇をかけては証拠書類を集め、読みたくもないコメントを一つ一つ丹念に探し出してコピーし、番号を指定して、そこでどんな人権侵害が行われているのか、何が事実であってそうでないのか、自分の主張を精魂込めて練り上げた上、しかるべき場所に書類を持参し、何度も何度も様々な公的機関に足を運んで話を重ねつつ、あきらめることなく、自分の主張が認められて実現にこぎつけるまで、手続きを重ねて来たのである。

ところが、杉本は、そうした努力を一切払わず、ただ「私が言いたいことはあなたにも分かるはずだ」という子供のような理屈で、常に周囲の者たちが、自分の意向を「忖度」してくれるよう当然のごとく求め、「忖度」してくれない他人は、告訴したり、個人情報を暴露するなどと脅して言うことを聞かせようとし、筆者のような形で事件を解決しようとする他人が現れると、その他人の努力に便乗して、調停や裁判を自分のリクエストを提示する場として都合よく利用しようとするのである。

しかも、訴えを起こされても、自分の非を一切認めず、何の譲歩も行なわずに、ただ他人だけに一方的な代価を払わせて、自分の願いを実現しようとするのである。そこに、杉本徳久という人間のどうしようもない卑怯さ、利己主義、怠慢が見て取れる。

杉本は、筆者に送りつけて来た恫喝メールの内容からも分かるように、おそらく、これまで自分の願いを実現するために必要となる苦労をして来たことがないのであろう。周りの者たちが、常に自分の意向を尊重してくれて、面倒な作業を何もしなくても、願いが叶うのが当然という環境で、甘やかされて育って来たのではないかと想像される。

自分よりも強い者には媚びておとなしく従うが、そうして自分をひっこめて願いをあきらめた分だけ、自分よりも弱い者を恫喝し、八つ当たりすることでしか、自分の弱さ、卑怯さ、臆病さをごまかそうとするしかないのだろう。

杉本が勝訴した裁判がこれまでにいくつかあるそうだが、こんな風に自分の主張を客観的に論証する手間さえ省く無精者に敗訴するなど、あまりにも恥ずかしくみっともなく馬鹿げたことである。多分、訴訟に及ばれた側が、あまりにも不慣れで、心の準備ができておらず、弁護士を雇ったりして、十分に対策を打つ手間暇がなかったせいでそうなっただけであろう。クリスチャンの中には、そういう風に世の事柄に格別疎い人々も多い。

この度、杉本が出して来た答弁書を見るにつけても、このような手抜き作業では、訴訟には絶対に勝てないことは明白である。弁護士がついているかどうかといった問題ですらない。たとえ弁護士がついていたとしても、依頼人自身が、自分が何を言いたいのかさえ分からず、自分の主張を明確にして相手に反駁することさえできない状況で、当事者でもない弁護士が、それを補って完璧な主張を作り上げてやることは無理である。

まあ、とてつもない大金を積めば、そういう面倒な作業をも代行してくれる弁護士がいないわけではないだろうが、企業であればそういうことができても、個人のレベルではまず無理である。だから、この答弁書を見ただけで、いざ訴訟になった時の結果は初めから明らかだと言えよう。

繰り返すが、これが今まで数々のクリスチャンを訴訟の脅しで黙らせて来た男のみっともない答弁なのである。まだ分析は以下でも続くが、まずはよくよくご覧になられたい。

さて、このようにお子様レベルの民事調停であるとはいえども、それでも、杉本が今回、出して来た証拠の中にも、それなりに収穫と言えるものが、二つだけあった。

それは、杉本の生年月日を記した社会福祉士登録証と、唐沢治が杉本に送信したというメールである。


(図3 杉本が出して来た社会福祉士の資格者証 社会福祉士にあるまじき社会的弱者への侮蔑・嘲笑をブログで公然と行っておきながら、こうして資格を誇示しようとする態度に呆れる。しかも、資格取得から2年しか経っていないのに、自分は駆け出しに過ぎないという認識が全く欠けている様子にも呆れ果てるのみ。)

杉本徳久は、大学院修士課程まで出ており、博士号の取得は諦めたようであるが、修士でも、研究者として生きるのでなければ、一般人の学歴としては十分であろう。にも関わらず、杉本は博士号を取得しなかったことが、それほど自信喪失やトラウマにつながったのであろうか。大学院卒の肩書では満足できなかったようである。

杉本はこの度、社会福祉士の国家資格を取得したことが、よほど自慢の種だったらしく、唐沢のメールの文面からも、杉本がソーシャルワーカーの資格を取得したことを唐沢に向かって大いに自慢していたらしい様子が読み取れる。


(図4 唐沢治が杉本徳久に送ったメール。唐沢の信用ならない嘘つきな性格がよく分かる内容であり、唐沢が水面下でどれほどこれまで事態を常にこじらせてきたか、その様子も見て取れるが、それでも、杉本が坂井氏と唐沢を裁判で破ったにも関わらず、2017年になってもまだこうして唐沢にも筆者と同様に因縁をつけては絡み続け、嫌がらせメールを送りつけていた様子にも、唖然とし、恐れ入ると苦笑するほかない。杉本は、こうして明らかになっている人々の他にも、一体、どれだけの人物にこうして隠れたところで言いがかりをつけては嫌がらせメールの送信を繰り返して来たのであろうか。)

だが、このタイミングで、杉本が自分が何より大切にしている国家資格者証を、筆者に向かって出して来た気が知れない。

特に、杉本が今までクリスチャンに対して裁判をしかけては個人情報を収集し、その情報をダシにして、クリスチャンを貶め、中傷して来たことを思うと、まさにそれは自滅行為であるとしか言えない。

杉本徳久や、村上密が、これまでクリスチャンに対して取って来た行動は、古代社会における、シャーマンの呪詛の祈祷をも思わせるものである。

古代社会や、今でも文明の行き届いていない社会では、シャーマンのような呪術師が、誰かから金をもらって、ターゲットとする人を呪い殺すための祈祷を捧げる依頼を受けるなどのことが、おそらく日常的に行われていると思われる。

その際に、シャーマンは、依頼者に、ターゲットとなる人物の髪の毛など、身の回りの品を持って来させ、それをもとに藁人形などを作っては、その人形を本人に見立てて、連日、呪いの祈祷を捧げるのである。

筆者は、村上密や杉本徳久のして来た行為は、シャーマンによる「呪い」や「冒涜」とほとんど変わりないものだと考えている。彼らは自分たちが憎んでいる相手(クリスチャン)の個人情報を何らかの方法で入手しては、それを不当な形で利用して、その情報を土台に、まるで「藁人形」でも作るように、本人の歪んだ「像」を作り出し、その像を侮辱・嘲笑することで、ターゲットとなる人間の人生に危害を加えようとして来たのである。

杉本は自分がこれまでそのようにクリスチャンをターゲットとして呪詛のような行為に及んできた事実を少しでも考えれば、自分が宝としている情報を、敵方のサイドに提供することが、どれほどの自滅行為であるか、分からなかったとは思えない。

しかも、当ブログでは、杉本の行った行為は、ソーシャルワーカーの信用を著しく傷つけるもので、国家資格の剥奪に値すると何度も書いているのである。

にも関わらず、杉本が危険もかえりみずに以上のように国家資格者証を誇示したことは、筆者から見れば、杉本を破滅に導こうとしている悪霊のなせるわざであるとしか言えないのである。

これまで書いて来たように、社会福祉士の仕事内容は、社会的弱者を助けることにあり、社会的弱者を嘲笑したり、罵倒することにはない。精神障害者も、社会的弱者に含まれるのは明らかだ。にも関わらず、杉本は、筆者のような健康な人間を、何の根拠もなく精神異常、人格障害と決めつけて罵倒・嘲笑した上、さらに、精神障害者が一般的に就労困難であったり、社会に適応困難な状態にあるなどの苦しい状況をあげつらいながら、これを罵倒・嘲笑したのだ。

自分が助けねばならない社会的弱者全般をターゲットとして侮辱するようなソーシャルワーカーが全国のどこにいるだろうか。こうした記述内容を通して、杉本がおよそソーシャルワーカーにふさわしくない人格の持ち主であることがよく分かるのである。

杉本が資格を取得したのは、決して社会的弱者を助けるためではなく、ただ自分よりも弱く困っている人間を上から目線で見下げ、彼らを「助けてやっている」という優越感を味わうためでしなかったのではないかと強く疑われる。

さらに、この証書を通して、杉本が国家資格を取得したのは、平成28年3月であり(交付は4月)、取得からまだたった2年しか経っていない事実も分かる。これでは、社会福祉士として、まだほんの駆け出しではないか。

現場で10年くらい実践を積み、プロと言えるような実績がそれなりに出来上がってから、人前で資格を自慢するならばともかくとして、よくもこんなにも短期間で、ただ資格を取ったという表面的な事実だけを理由に、これほど他者に対して傲岸不遜な態度に出られるものだと呆れざるを得ない。

筆者は、まだ唐沢治と親交があった頃、杉本が福祉関係の仕事を始めたという情報を入手した唐沢が「杉本にそんな仕事が続くはずがない」と述べて苦笑していたことを思い出す。

それでも、しばらくの間は続いたのであろう。だが、その努力すらも、今回のような行動を取ることによって、杉本は自分で台無しにしてしまっているのである。

杉本は、以前には、株式会社メディアテラスの代表であるという身分をしきりに強調していた。今やそれをあまり口にしなくなり、かえって、ソーシャルワーカーであることを誇示している様子を見ても、メディアテラスという会社は、ネットで幽霊会社と言われていることは事実無根でなく、極めて厳しい経営実態にあると懸念されてならない。

杉本は会社の事業として、音楽スタジオやら、他にも様々な事業を手がけようとしていたようであるが、あまりに手を広げすぎて、趣味と実益が結び付かなかったのであろうし、仮にそうした事業が先見性のあるものだったとしても、「随想 吉祥寺の森から」のようなブログで、あれほど数多くの人々の実名を出して誹謗中傷し、自分からクリスチャンを訴えるための争いを起こし、さらにそれを手柄のように吹聴していたのでは、会社の代表としては、およそ世間の理解や信頼を得られない。事業が成功する見込みを自ら潰しているも同然である。

杉本は筆者のように、杉本とは一切面識のなかった無関係な人間をも、ただインターネットで一つのコメントの削除依頼を受けたというだけの理由で、これほど長きに渡って執拗に脅しつけ、嫌がらせを重ねて来たのであるから、そんな人物と、ビジネスで金銭の絡む取引をしたいと願う人が現れるはずもないことは明白である。

しかも、以上の民事調停の答弁書を見ても、杉本が自分にとって不利な訴えは何一つ認めず、一銭の賠償金さえも払わず、他人の労に便乗して、自分の望む結果を得ようとしているケチさ、無精さ、利己主義がよく伝わって来る。そこから察するに、およそメディアテラスという会社が、自社の評判を大切にして、人との調和を重んじる会社だと考える根拠は何一つ存在しない。

昨今、中小零細企業の社長は、他人に向かって威張りちらしているわけにいかず、大変な苦労を背負っているものだ。旅行業やサービス業の社長は、社長と言っても、名ばかりで、実際には、顧客のクレームのために、社員が負わない苦情を一身に背負って、絶えず駆け回らねばならない。どれほど顧客から会社に言いがかりのようなクレームをつけられても、言い返さず、謙虚に頭を下げて誤解を解く努力を続けながら、人々の理解と賛同を勝ち得て、事業展開をせねばならないのだ。

それが、杉本のように、他人の些細な言動に腹を立てては、それを理由に、根拠もない言いがかりをつけ、記事を削除せよと一方的な要求を突きつけ、果ては告訴をふりかざして脅したりしながら、力づくで人に言うことを聞かせようと試み、果ては訴えられてもデタラメな答弁書ばかり出して身勝手な要求を繰り返すだけであれば、そういう人間をビジネスパートナーとして選ぶ人はいなくなるのが当然である。

どういう経緯があって事業展開が難しくなったのかは知らないが、杉本は会社代表という身分を誇示することが難しくなった次には、今度は、ソーシャルワーカーの資格に飛びつき、国からのお墨付きをもらい、弱者救済をライフワークとすることで、新たな活路と自信の源を見いだそうとしたのだと思われる。

だが、こうして、大学院、会社経営、社会福祉士と、次々と自分のよりどころとする立場や肩書を変え、自分の手がけた一つ一つの試みを、何一つ、時間をかけて苦労を耐え忍びながら成功へと導くこともできないままに、熱中の対象を次々と取り替え、うわべだけの資格によって身を飾ろうと試みても、そんな試みが成功へとつながる見込みは極めて薄い。だからこそ、今回のような藪蛇な展開になっているのである。

杉本は、今回、社会福祉士の資格者証を出せば、自分の身分保証や、信頼を得る材料となると考えたかったのかも知れないが、刑事事件で有罪が確定すれば、当然、国家資格を剥奪されるだけであると、当ブログでは再三、予告している。筆者から見れば、杉本はただ厚労省に資格取消を求めて通報される際の手間を自ら省いているだけなのである。

最後に、杉本は答弁書において、自分の身にまだ捜査が及んでおらず、逮捕令状も出ておらず、身柄拘束も、取り調べも行なわれていないことを理由に挙げて、自分が刑事告訴されたという事実そのものを否定し、今回の訴えは事件にならないなどと一方的に決めつけ、迷惑行為防止条例にて警告を受けた事実をも否定しようとしている。

杉本が、自分が告訴された事実を何とかして嘘であると考え、否定したい様子がひしひしと伝わって来る。いつものように、筆者の「狂言」と決めつけたいのだろう。

こうして、自分が名誉毀損で訴えられているにも関わらず、都合の悪い事実を否定するばかりで、事態を収拾する努力もせず、自分の人権侵害のブログをまるで取引材料のように振りかざし、筆者の起こした調停の場を自分に都合よく利用して、筆者のブログから気に入らない記事を削除させるための機会に変えようと、「喧嘩両成敗」に持ち込もうとしている態度に、どこまで常識がないのかと心底、呆れる。

しかも、杉本は例によってどの記事の削除を要求しているのか、自分の要求の内容さえも具体的に明らかにしていないのであるから、こんな主張は、最初から通る見込みがなく、なかったも同然に空中に散じ、胡散霧消していくだけである。

要するに、杉本の取っている行動は、自分の書いた犯罪的な誹謗中傷の記事をダシにして、依然、筆者を脅し、その記事を一刻も早く削除して欲しいと願うなら、筆者が刑事告訴を取り下げ、事件自体をなかったことにし、筆者のブログからも、杉本の気に入らない記事を即刻、削除して、杉本の犯罪行為をすべてなかったことにして水に流せと、筆者を脅しているのと同じである。

どこまで限りなく卑怯な人間なのだろうかと呆れるばかりだが、しかしながら、こうした杉本の主張が、この先、杉本に非常に不利な結果を生む材料となるのは避けられないだろう。

杉本は答弁書において警察から連絡を受けた事実を否定していないが、もしも杉本が名誉毀損で告訴されておらず、迷惑行為防止条例にも違反していないというならば、一体、何のために、刑事が杉本に連絡せねばならない理由があるのだろうか。

刑事は実際に杉本にブログの削除を要求しており、ブログを更新しないようにとも警告し、二度と筆者に関する誹謗中傷の記事を書いたり、嫌がらせメールを送信しないようにと警告し、この度、名誉毀損で告訴状が受理された旨も伝えている。警察が介入した結果として、杉本のブログの一つ「神々の風景 religsious scene」が実際に削除されたのである。

にも関わらず、杉本はこうした事実をすべて否定することが、この先、自分にどれほど不利な結果をもたらすかを予想していない。杉本の主張は、警察に向かって、「本当に事件になっているというなら、その証拠にちゃんと捜査令状、逮捕令状を出して、取り調べをしろ!」と言っているのと同じなのだが、警察とて、そうまで言われれば、事件になっていることを自ら証明せざるを得ない立場に追い込まれる。(警察も捜査義務を怠ったとして追及されることは望ましくないためである。)

杉本のこうした発言は、かえって敵方のアクションにきっかけを与えているだけであり、警察が民事調停で杉本が反省を示し、自主的に記事を削除するかも知れないことを最後の望みとして行動を留保して来ただけであるとは思いも至らないのである。

杉本はこれまでにも、自分の吐いた容赦のない言葉の報いとして、数々の災難を身に招いて来た。完全に自分自身の言葉で罠にはまってしまっているのである。

たとえば、杉本が根拠もないのに、当ブログで自分が「サタン呼ばわりされている」と主張したり、「自分が冒涜された」などと主張して、次々と当ブログへのバッシング記事を書かなければ、当ブログでも、反論のために杉本の名を記して記事を書き記す必要もなかったであろう。

さらに、もしも杉本からの当ブログへの一方的な刑事告訴の脅しがなければ、杉本自身が刑事告訴されるという展開にもならなかったろう。この他にも、杉本は「一度口から出した言葉は取消できない」と述べたり、「民事で巨額の賠償金を支払っても、刑事事件の捜査は続く」などと、自分で自分の情状酌量の余地をなくすような、容赦のない非難の言葉をブログで他者に向かって吐き続けている。

「人に憐れみをかけない者には、憐れみのないさばきが下されます。」(ヤコブ2:13)と聖書にある通り、他人に対して容赦のない態度を取った人間が、自分だけは憐れみを受けることはできない相談である。こうして他人に向かって吐いた憐れみのない言葉の数々が、すべて杉本自身に跳ね返ることになると、杉本は考えてもみない。これは悪霊が彼に言わせている言葉の数々であろうと思うが、大変に恐ろしいことである。

このように、自分の取った行為の責任ときちんと向き合うこともできない空疎な人間が、どんなにうわべだけ、様々な立派な肩書や資格を振りかざして身を飾ったとしても、しょせんクジャクの羽をつけたカラスでしかなく、決してそれによって内面の空疎さを埋めることはできない。

そして、内面が空虚であればこそ、こうした人々は、その空虚さを突かれ、自分を他者に奪われ続けるのである。

次回以降の記事でも詳しく論じるが、筆者の目から見れば、村上密も、杉本徳久も、唐沢治も、「自分がない」という点では、共通しており、内面の空虚さとコンプレックスを埋め合わせるために、常に他者の眼差しの中に、自分への承認や賛同を見つけようとし、それを通して、自己を取り戻そうと、「弱者を救済するヒーロー」のような虚構の自己を演じ続けているのである。

彼らにとっては、他者の眼差しこそ、自分自身を映し出す「鏡」であり、インターネットも、そのような「鏡」の一つである。彼らはこれまで、そうした「鏡」としての他人の眼差しの中に、他人が喜ぶような「理想的な自己像」を投影し、他者からの賞賛や賛同を得ることで、自分を確認しようとして来たのであるが、そういうありもしないヒーローのような自己像の演出を重ねているうちに、「鏡」を通してしか自己を認識できないという心理的弱点があだとなり、結局、「鏡」の方が「本体」以上のリアリティとなり、「鏡」に人生を乗っ取られてしまったのである。

彼らがブログ等において演出している「理想的な存在としての自己像」も虚構であると同様、その他の無数の歪んだ「鏡」が映し出す彼らの自己像も誤りであり、もはや彼ら自身が、どれが彼らの本当の自己像であるのかさえ、すっかり分からなくなっているのである。
 
「鏡」はしょせん「鏡」に過ぎず、そこに真実が映し出されることなど永久にない。鏡の表面には、凸凹があったり、光が乱反射したりして、「本体」を正しく反映することさえ、至難の業である。

にも関わらず、確固たる自分がない人々は、絶えず、他人の眼差しという「鏡」に映る自己像を確かめることでしか、自分を認識できず、自信を得ることもできないため、その弱さのせいで、どんどん虚構の「鏡」の世界に取り込まれ、他人に自己像を奪われ続け、ついに「鏡」の世界で「本体」を喪失したまま、帰らぬ人となってしまうのである。

これは大変に恐ろしい事態である。杉本は、すでに2ちゃんねるによって、長年に渡り、「自己像」を侵害されて、奪い取られ、上書きされ続けて来たが、今やその上に、唐沢のブログの指摘があり、当ブログの指摘もあり、多数の「鏡」によって、杉本の像は根本から書き変えられ続けているのである。

杉本はそれに抵抗するために走り回っているが、その主張があまりにもお粗末であるために、どこへ行っても相手にされず、それどころか、ついに杉本自身のブログが名誉毀損であり人権侵害であるとして削除され、消滅しかかっているのであり、さらにこの先、杉本の訴えが裁判においても「棄却」されるなどした日には、杉本にはもはや「自分自身とは何か」ということを、自らの口で主張する手段がなくなる。

こうして、ついに「本体」が消え去って「鏡」だけが残るのである。杉本が主張した内容はすべて無かったこととされて消え失せ、他者が杉本に向かって述べた様々な言葉や印象批評だけが、「杉本の像」として定着し、残って行くのである。

これが、他人からの「お墨付き」を得ることによってしか、自己を確かめられない空疎な人間が決まって辿る悲劇の結末である。

ところで、「剽窃」だとか、「乗っ取り」だとかいう主張が成立するのは、あくまで「本体」がれっきとして存在し、誰かがこれを証明しうる場合のみである。たとえば、無断複製を違法であると主張するためには、オリジナルの所有者が出て来て、オリジナルとは何かを提示した上で、問題となる内容がオリジナルから違法にコピーされたものであることを証明しなければならない。

オリジナルが存在しないか、誰もそれを証明できない事柄については、コピーという概念も存在せず、「贋作」や「無断複製」や「違法な改変」や「剽窃」という主張自体が成立しない。「本体」が確かに存在していないものについては、どんなにたくさんの歪んだ「鏡」が作り出されても、誰一人として、それを権利侵害だと主張できないのである。

杉本が、これまで自分自身に確かなよりどころとなる自己がないことを埋め合わせるために、会社の代表や、国家資格といったうわべだけのステータスで身を飾り、あるいは、苦しんでいる他者を助けることで、自分の内面の空虚さを補えるかのように考えたことは、錯覚でしかない。

そうしたものはすべて「鏡」なのである。そして、杉本ブログそれ自体も「鏡」である。そのような「鏡」に人が自分を映し出し、その像に熱中すればするほど、その人間は、確かなリアリティを失って、「鏡」の世界に自分を吸い取られて行くだけである。

そして、ついに最後には「本体」が「鏡」に吸収されて消失し、フィクションとなり、神話となり、その代わりに、ただ歪んだ「コピー」だけが、リアリティであるかのように残ることのである。

結論から言えば、グノーシス主義の本質とは、もともとオリジナルとしての「本体」が存在しない、無数のフィクションの物語である。

次回以降に論ずるが、グノーシス主義が「父なる神」をフィクションとしていることは、つまるところ、グノーシス主義が「父なる神」に創造された人類も、結局は「フィクションである」と主張しているに等しい。

ペンテコステ・カリスマ運動も、その本質は、グノーシス主義であり、こうして、人類の自己の本質がもともと「フィクション」であるという教えを信じた人々の内側には、確かな自己がなくなる。

彼らは、心の内に空虚な深淵を抱え、人々の眼差しという「鏡」に映る不正確な映像を手がかりにする以外には、自己存在を証明するための手立てが何もなくなり、それゆえ、「鏡」を通して、自分の見たくない欠点を暴露されることを病的なまでに恐れ、気に入らない「鏡」を根こそぎ破壊しようとの行為に出たりするのである。

だが、もし「本体」がリアリティとして存在しなければ、「鏡」によってどんな権利侵害を受けたと感じても、それを権利侵害だと主張する根拠もまたないのである。

彼らに出来ることは、ただ一つ、一つの「鏡」に映った気に入らない自己像を否定するために、別な「鏡」を持って来て、これが自分だと宣言することでしかないのだが、もともとその鏡は、どれもこれも不正確なもので、そこに映った像も乱れ、影のようなものでしかないため、その人物が「鏡」を基にして行う証言は、あらゆる面で辻褄の合わない、嘘で埋め尽くされた、整合性の取れないものとなって行く。

結局、自分がないからこそ、そのようなデタラメなつぎはぎの証言が生まれるのであって、そのような人間には、デタラメな証言を行う以外に、自分が何者であるかを客観的に証明する手段もない。そのため、そのデタラメな証言のゆえに、その人間が何者であり、何を言いたかったのかは、結局、最後まで誰にも分からないまま、その人間そのものが不明な塊となって消え去って終わる。

こうして、確固たる自己を持たない人間の内部には、自己の代わりに、ただ虚無の深淵が横たわっているだけなので、そのブラックホールのような虚無性の隙をついて、そこには、何でもありとばかりに、あらゆる種類のゴミが投棄され、贋作やコピーなどのありとあらゆる偽の創作物語が詰め込まれ、虚偽によって埋め尽くされて行くのである。

それが、グノーシス主義の本質なのである。グノーシス主義は、人間の自己存在をフィクションとして消し去るものであり、そんな教えを信じている限り、その人物には、自分が失われて、デタラメな創作物語によって自分がどんどん書き換えられて行くことに抵抗する術もない。
 
繰り返すが、どんなにそれを「デタラメな創作物語」だと声高に非難しようとしても、もともとオリジナルが存在しない以上、コピーも存在せず、人権侵害も存在せず、名誉毀損もないのである。虚無の深淵が仮にサタン呼ばわりされたところで、誰もそれを虚無の深淵に対する権利侵害であるとして虚無の深淵の代理人となってこれを是正できないのと同様である。

それに引き換え、「わたしはある」という方を信じ、聖書のまことの父なる神を知っているクリスチャンは、グノーシス主義者のように虚無の深淵を信じているわけではなく、キリストの復活の命にあって再生された確かな自己を持ち、神に対して生きる人々であるから、こうして再生されたクリスチャンの主張も、確固たるリアリティであり、誰かが勝手に書き換えたりすることはできず、そのようなことを試みた人間は、当然ながら、人権侵害のかどで罰せられる。

武蔵野簡裁の付近は、横浜のように海風が吹くこともなく、起伏もない平地の開けた都会で、桜が咲き、人々は穏やかに行き交い、街はのどかで平和であった。確かに、ここに住む住民にとっては、この都会に生きていることが、ステータスに感じられているのかも知れない。民事調停では、相手方と顔を合わせることはないため、杉本徳久なる人物の印象は分からなかったが、四捨五入すれば50歳にもなろうという男に会いたいという願いは筆者には全くない。一体どういう理由で、こんなにも平和そうに見える街から、こんなにも常軌を逸した人物が生まれて来るのか、ただただ理解に苦しみ、首をかしげるばかりである。

改めて杉本のような人物を生んだペンテコステ・カリスマ運動とグノーシス主義を心の底から非難しないわけには行かないと感じるのみである。


賢い花嫁と愚かな花嫁の区別―キリストの十字架に敵対する者の最期は滅びである

オリーブ園に連載されている記事は、あまりにもタイムリーかつ霊的に深い示唆に富んだ内容なので、そのまま以下に転載しておきたい。

ここには、エクレシアがバビロン化することの危険性が如実に表されているが、それは筆者がこれまで見聞きして来た教会に関わるすべての腐敗現象に当てはまる。

今日も、エクレシアは、教理面での腐敗、そして、生活面における腐敗という両面から、敵の攻撃にさらされている。どれほど多くの交わりがそうして敵の罠によって堕落させられたことであろうか。

私たちが聖書の御言葉に照らし合わせて、何かの事項について、神と人の前で曖昧な態度を取る時、敵につけこませる隙を与えてしまい、そうして入り込んだ腐敗が、やがてその人自身だけでなく、他の兄弟姉妹にまで及び、集会全体を堕落・変質させてしまう。

異端の教えと分かっているものを拒否することもなく集会に持ち込めば、その集会が神の御心にかなうエクレシアであり続けることができるはずがない。汚れたものと分離もせずに、聖さを保つことはできない相談である。
 
だが、差し迫った堕落の危険がないときでも、信者がただぼんやりと曖昧な思考の中で漫然と日々を過ごすことにより、神の御前での心の透明性、真実性が曇らされ、失われることがある。
 
信者が何一つそのような落ち度を犯していない時でさえ、敵は「あなたは間違っている」という思念を信者に植えつけようとする。

クリスチャンは、自分が誤っているせいで起きた霊的な停滞であれ、何も誤っていないのに、敵の思念を取り込んで自信喪失状態に陥ったせいで起きた霊的な停滞であれ、何らかの霊的停滞が起きる時には、ただちに力を失ってしまう。

その結果、教会の証しが曇らされ、力を失い、最後には取り去られ、その防衛力の低下に乗じて、霊的な敵が教会に攻め込み、教会が占拠されてしまうことさえ起きるのである。
 
エクレシアを腐敗させないための最大の秘訣は、一人一人の信者が、神に対する心の純粋さ、貞潔さを完全に保つことである。

筆者はブログを書いていなかった時期も長いが、記事を書くことにより、常に自分自身の信仰の姿勢を正すよう迫られている。

自分の立場がはっきりしていないのに、人前で何かを表明することはできない。だが、多くの場合、書いているうちに、次第に自分の心の奥底まで照らされて、初めはぼんやりとしか理解していなかった事柄が明瞭になり、神と人との前で、信仰の姿勢を正させられる。

記事に向かうときに、自分の関心を地上のものから意識的に引き離し、「上にあるもの」に向けることが可能となるのである。

その作業をしないと、いつの間にか自分の思考が曖昧になり、気づくと神に関する事柄にすっかり鈍感となり、地的な関心だけで心が占領されたりする。にも関わらず、その状態が危険であることさえ分からなくなってしまうのである。

今、筆者は、キリストの花嫁たるエクレシアが、その高貴さを失わないためには、一人一人のクリスチャンが、神の御前で純粋であること、嘘偽りなく、神との間で争いがないこと、真に神に心を注ぎだし、心の一途さ、透明さ、必死なまでの真剣さを取り戻すことがどれほど不可欠であるかを思う。

時に、どんなことがきっかけであれ、エクレシアが神に対する切迫した真実性を取り戻し、教会の証しが回復されることを願って、神は教会に対する敵の激しい攻撃をあえて許されることがあるのかも知れないと思う。

精金を曇らせること

 すでに見たように、これは第一に教理によってなされてきました。誤った教理に関する何らかの示唆を持ち込むことができるとき、誤謬を僅かでも潜り込ませられるとき、敵はそれを邪悪なパン種のように働かせます。そして遂には、その類のものが発達して、聖霊を退ける契機となり、それが存在する所では主は進み続けられなくなります。そして、妥協、麻痺、弱さの状況が確立されます。純金、精金が曇らされてしまいます。

 教理の路線に沿ってこれがなされてきただけでなく、生活の路線に沿ってもなされてきました。同じ方法、同じ目的が敵の活動を支配しています。教理に関して絶対的に正統的なものの上にとても強く立っていたとしても、あなた自身の生活、あなた自身の霊的生活、あなた自身の道徳的生活においてはとても疑わしい状況にあるおそれがあります。神の御言葉の文字にはとても忠実でも、それでもあなた自身の生活と証しにおいては妥協しているおそれがあります。仕事の取引や、他の諸々の関係や、神の御前におけるあなた自身の生活において、そうであるかもしれません。

透明でないもの、純粋でないもの、清くないもの、まっすぐでないもの、疑わしいもの、おそらくは秘密の習慣があるかもしれません。ああ、もしかすると多くの事柄の中の一つによって、生活の中からあの堅固さ、あの明確さ、あの積極性、あの透明性が取り去られ、時には無意識のうちに当事者の中に、何かに直面しているという恐れ、見つかったものを白状しなければならないという恐れが生じます。

停滞させるものが生活の背後にあります。そのせいで証しから真の活力が、生活の中から真の衝撃力が、交わりの中から真の実り豊かさと価値が奪われています。往々にして形はありませんが、何かがそこにあります。その上に手を乗せることはできませんが、正しくないもの、透明ではないものが、その生活の中にあることがわかります。

そして次に隠し事、ごまかし、分離が生じます。あるいは、他の多くの種類の悪の兆候が生じるかもしれません。それはすべて、神の御前で絶対的に透明ではない何かがあるせいです。敵が一つの要素を植え付けました。その要素が純粋な光を損なって、その生活に影、もやを生じさせたのです。敵の狙いは神にある命の完全な水晶のような透明性を損なって、それにより命全体を麻痺させることです。外形は依然として同じであり、信仰告白はそれまでと全く同じかもしれませんが、停滞してしまうのです。


 これを述べたのは非難するためではありません。御自身の民、エルサレムに対する神の御旨を損なうために敵がそれに沿って好んで働く諸々の路線の一つを指摘するためです。神の御旨とはすなわち、エルサレムが最終的に天から出て、神の栄光を持ち、その明かりが高価な宝石のように、碧玉のようになることです。そして、それに関するすべてのものが、ガラスのように透明で、水晶のように透明な純金となることです。ああ、このような言葉や句には、何という霊的価値と重みがあることか!

 これはみな議論の余地のない明確なことです。私たちは次のことを理解しなければなりません。すなわち、敵は絶えず、私たちを知らないうちに「自分は雲の下にある」と感じる地点にもたらそうとしているのです。時として敵は誤った立場を設けて、「自分は誤っている」と私たちに感じさせます。私たちは誤っていないかもしれませんが、敵は「自分は誤っている」と私たちに感じさせて、私たちが自信、確信、堅固さ、立場、地位を失うあの領域にもたらそうとします。その領域で私たちは潜り込んだ何らかの要素によって弱められてしまいます。敵は公然と神の民を雲の下に、疑いの下にもたらして、彼ら自身の心を疑いや疑問の下にもたらします。それは、透明性、確実性、力を損なうためであり、そして、彼らが万人に対して、彼ら自身に対してさえ、大きな問題となるようにするためです。

さて、これから先の記事では、しばらく、ペンコステ・カリスマ運動の起源がグノーシス主義にあることについて、この運動が根本的に誤っていることについて、今まで以上に詳しく記して行きたいと考えている。
 
その過程で、霊的な敵は、これまで通り、筆者の信仰の証しを地上から取り去ろうとして働くであろう。筆者が以上の論稿をこれから執筆すると予告してから、まだ何一つ記事をアップしていないのに、もうさわやか読者が当ブログに押し寄せてきている有様である。

読者にはっきりと断っておきたい。これまで当ブログが受けて来た攻撃は、すべては霊的な敵に由来するものであり、筆者の信仰の証しを損なうことを目的としてなされたものであると。

だが、彼らは、自らの悪事の厳しい責任を取らされて終わるだけである。

この度、当ブログに多年に渡り、嫌がらせを続けて来た杉本徳久なる人物が執筆しているブログ「神々の風景 -religious scene」は削除されたが、「随想 吉祥寺の森から」も遠からず、削除されることになる。

削除されるまでの間に、杉本ブログのコメント投稿者が、杉本をさらなる破滅に追い込もうと、杉本を争いに焚きつけるだろう。要するに、罪に定められ、滅びることはもう分かっているにも関わらず、最後の期間を使って、杉本ブログを当ブログにぶつけ、どちらが生き残るか競争させ、筆者に可能な限りの害を与えようという見世物を提供しているのである。

だが、はっきりと言っておく。必ず、嘘は真実の前に敗れると。

杉本ブログは、もう何年も前から、完全に信頼性を失った嘘の温床と化しており、自作自演の場となり果てている。

筆者自身は、ブログを書く中で、コメント投稿を重んじることの危険に気づき、無責任なコメントが管理者の意志に反して、どれほどブログの趣旨を歪め、真摯な考察を妨げるか分かったので、ある時点から、コメントを受けつけなくなった。無責任なコメントを掲載し続けていると、そのとばっちりはすべて管理者に降りかかることになるだけである。

杉本ブログは、コメント投稿者の手前、終わるに終われなくなっているのであり、さらに、コメント投稿者のせいで、このブログは杉本自身の意図をさえ離れて、より一層ひどく罪を増し加えながら、破滅へと転げ落ちているのである。
 
杉本ブログに筆者が書きこんだコメントは、2009年に投稿したただ一件だけであり、その他のいかなるコメントにも、筆者は全く関与していない。杉本ブログのみならず、2ちゃんねるなどの掲示板にも、筆者は人生で一度たりとも投稿したことはなく、するつもりもない。(そのようなものを見つければ、それはなりすましと断定してもらって構わない。)

杉本は、筆者が2009年に杉本のブログに書き込んだ、その一件のコメントを、筆者が削除して欲しいと要請したことをきっかけに、当ブログに対する執拗な嫌がらせ行為に及んで来たのであるが、おそらく、そういうことが起きたのは、杉本がその当時から、筆者のために、ゆくゆくは自分のブログ全体を削除させられる羽目になることを、内心で知っていたためではないかと思われる。

筆者はその当時、そんな結末に至るとは予想だにしていなかったが、杉本に常に虚偽ばかりを教え導いて来た悪霊は、最初からそうなると知っていて、その事態を恐れるがゆえに、杉本を利用して筆者を徹底して攻撃させたのであろう。

杉本ブログで行われていることは、今や何から何まで「自作自演劇」の「やらせ」であるが、杉本が初めに当ブログをバッシングする目的で、2009年に投稿した記事も、やはり「やらせ」であったものと筆者は確信する。そのバッシング記事には、1千件のコメントがついて、杉本ブログが炎上に至ったが、それも99%工作員による作戦だったのであろう。

杉本ブログの悲惨な状態は昔も今も全く変わらない。杉本ブログに投稿している人間はほぼ雇われた工作員であり、その他にほんの少しの「悪のり」の投稿があるだけである。

筆者が当ブログに、杉本が刑事告訴されたことを記す記事を投稿してから、さわやか読者が当ブログを絶えず監視しているが、その顔触れを見ると、嫌になるほど以前と変わらず、結局、こうした異常な読者らも、みな雇われ工作員である様子がよく分かる。

杉本は自分の犯している罪を直視する勇気がなく、それを常に他のクリスチャンになすりつけようとしているだけである。

だが、こうして、杉本徳久の内心が次々と明らかにされることは、非常に神の御心にかなった、喜ばしい事態であると、筆者は考えている。筆者は、まずは杉本の心の底の底までが明らかにされねばならず、彼の運命の救いようがないことが、公然と世に明らかにされなければならないと考えている。

そのために、筆者は彼を試しているのであり、悔い改めるならば、今のうちだと呼びかけているのである。そして、彼がその一つ一つの呼びかけを、ことごとく踏みにじり、嘲り、退けるだけに終わることを、分かった上で、一つ一つ、あえて証明させているのである。それによって、彼の頭上には、燃え盛る炭火がまた新たに一つ一つと加わって行くことになる。

かなり面倒な過程ではあるが、このような行程を一つ一つ経ない限り、戦いは決して最後のステージまで進むことはない。

なぜなら、筆者自身は、この事件の結末がどうなるか予め知っているが、多くの人々はそれを前もって予知できず、説明されたとしても、理解できないからだ。従って、人々の心の準備が、筆者と同じくらいに整えられるためには、まずは踏まれるべき行程がすべて踏まれ、結論の動かしようのないことが、万人の前で明らかにされる必要があるのだ。
 
良識ある人々の中には、最初から誰かに対して手荒な措置に出たいと願うような人間は、一人もいない。他に道がないのかと、誰もがまずは情けをかけようとするだろう。筆者自身とてそういう人間である。だが、事件がエスカレートすればするほど、結局、憐れみをかける余地がないことに、最後には誰もが同意せざるを得なくなる。物事はそのようなレベルまで進んでから、初めて厳しい対処がなされるのである。

そのために必要な行程に、筆者は協力を惜しまないつもりであり、自分の名誉や安寧を惜しむがゆえに、霊的な戦いを中途で終わらせるつもりは全くない。

そこで、この事件がこの先、どう進んで行くか、杉本がどのように反応するのか(村上もだが)、読者はよくよく観察されたい。果たして、見栄だけがすべてとなり、大本営発表のような嘘ばかりを垂れ流し、「嘲りの霊」に支配されているこの人々に、クリスチャンとの和解に応じたり、悔い改めて神に立ち返る可能性がわずかでも残されているのかどうか、徹底的に観察されたい。

筆者自身は、神は彼らの罪を決してお赦しにならないだろうと考えている。彼らはあまりにも罪を犯しすぎたので、後戻りの余地がなく、行きつくところまで行き着いて破滅して終わることしかできないだろうと考える。
 
だが、それが筆者の考えに過ぎないのか、それとも、神の御心がそこにあり、それが動かせない現実なのかは、これからはっきり証明されねばならない。

そのために、この事件については、必ず、神の御心がどこにあるのか、人間的な感情を超えたレベルではっきりと証明されるだろうと筆者は確信している。
 
おそらく、神の裁きは確かに存在するのだということが、公然と動かせない形で世に示されて終わることになるだろうと予測する。

ペンテコステ運動の支持者の中には、「神は愛だから、人を裁いたり、罰したりはなさらない。」とか、「罪を犯しても罰はない」といった寝言のような嘘の教説を未だに信じている人々がいるようだが、それは人を破滅へ導く異端であるから、そのように、自分を救ってくれる贖い主を否定する虚偽を信じてしまった信者の人生は、必ず悲惨な破滅で終わる。

そのための見せしめ事例となるであろうと筆者は予想するのである。

前々からずっと筆者はそう警告し続けているのだが、ペンテコステ運動の信者らはそれを信じようとしない。そして、筆者の警告はおろか、神の福音さえもあざけりながら、それでも、自分たちは正しい道に立っており、キリストの花嫁なのだと豪語している。

そこで、筆者は、花嫁と言っても、すべての花嫁が神の御心にかなうわけではないとあえて言うのである。

美しいウェディングドレスを着て、鏡の前でうっとりと自分の姿に見惚れ、自分はあれやこれやの他人に比べ、格段に美しく優れて賢いと自画自賛するのが、花嫁にふさわしい態度ではないだろう。なぜこの人々は、花婿がまだ到着してもいないうちから、そんなにまで慢心して、自分自身を主役に据えることができるのであろうかと首をかしげるのみである。
 
この先、誰がキリストの花嫁にふさわしいかは、神ご自身が証明される。福音に従わず、十字架を退け、血潮を嘲り、御言葉をないがしろにしながら、自分たちをキリストの花嫁に見せかける「嘲る者たち」に対しては、容赦のない厳しい結末が待ち構えているだけである。

キリストの十字架に敵対する者の最期は滅びであり、主と共なる十字架の死を経ない者は、己を罪から救うこともできず、旧創造として、ただ神の御怒りと、裁きと、滅びに定められているだけなのである。どんなに被害者意識を盾にとって、感情論を振りかざし、自分を弁護しようとしても、小羊の贖いの血潮を退けた者は、決して罪の判決から逃れることはできず、裁きに定められて終わる。

そのことが、クリスチャンのみならず、この世の人々でさえ、否定できない形で、はっきりと証明されるであろうと筆者は考えており、それだからこそ、この出来事の進展を、よくよくご覧になりたいと言うのだ。このようにまで、確信犯的に悪魔に魂を売ってしまった人々に、もはや後戻りの道はなく、彼らは最後まで、神と聖徒らの憐れみや情けを嘲り、侮りながら、残酷なまでに厳しい教訓的な結末へと自ら転げ落ちて行くだけであることを、よくよく目を開いて見ていただきたいと思わずにいられない。

そして、私たちはそのような事例に倣うことなく、あくまで賢い花嫁として、キリストが来られる時に神に喜ばれるべく、この地上にいる間に、より徹底して神の御前で自分の心を調べてもらい、不純物をろ過されることに同意するのである。