忍者ブログ

私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(7)―唐沢治と杉本徳久のメール文通―彼らのために真理の道はそしられるのです。

5.唐沢治が杉本徳久と交わしたメール(牧師としての秘密漏示)
 
「かつて、民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも偽預言者が現れるにちがいありません。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否しました。自分の身に速やかな滅びを招いており、しかも、多くの人が彼らのみだらな楽しみを見倣っています。彼らのために真理の道はそしられるのです。
彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にします。このような者たちに対する裁きは、昔から怠りなくなされていて、彼らの滅びも滞ることはありません。」(ペテロニ2:1-3)


彼らは、厚かましく、わがままで、栄光ある者たちをそしってはばかりません。天使たちは、力も権能もはるかにまさっているにもかかわらず、主の御前で彼らをそしったり訴え出たりはしません。この者たちは、捕えられ、殺されるために生まれてきた理性のない動物と同じで、知りもしないことをそしるのです。そういった動物が滅びるように、彼らも滅んでしまいます。」(ペテロニ2:10-12)

当ブログ執筆者を日夜誹謗している掲示板には、多くの「杉本用語」「村上用語」「唐沢用語」が登場する。本人が書き込んでいるかどうかまではまだ不明だが、以下のコメントで使われている「脳内空転」という言葉も、唐沢治のお気に入りの用語である。



口汚い言葉で筆者を罵っているこのコメントに登場するこの言葉は、以下に示す通り、唐沢が杉本に宛てて書き送った、当ブログ執筆者を罵倒するメールにも登場している。

だが、今は掲示板について話す前に、まずは唐沢治がどのように杉本徳久の圧力に屈し、牧師としての守秘義務を破って、当ブログ執筆者の個人情報を杉本に売り渡し、筆者を陥れて、杉本を筆者に対立させるよう仕向けて行ったか、唐沢治が用いた巧妙な策略について、今回の裁判において新たに判明した事実を提示しながら、振り返っておきたい。

* * *

➀ 唐沢治が杉本徳久に2010年に民事提訴を予告した経緯

唐沢治は、KFCの元信徒が、杉本が2009年に当ブログをバッシングするために発表した記事のコメント欄に、「唐沢から密室で呪いの予言を受けた」という趣旨のコメントを書き連ねたことをきっかけに、2010年にこの元信徒を刑事告訴した上、その事件を自分に有利に解決するために、筆者に警察での証言を頼んで来た経緯がある。

さらに、唐沢治はこれと前後して、筆者に対するバッシング記事を取り下げさせることにより、都合よくKFCの元信徒の書き込みも削除させようという名目で、杉本に宛ててメールを送り、そこで筆者に(はおろか他の誰にも)何の断りもなく、一方的に杉本に民事提訴を予告するという暴挙とも言える行動に出た。

唐沢が杉本に提訴を予告した目的は、KFCの元信者の書き込みについて、杉本による幇助の責任を追及するためであったことは、杉本ブログに2010年8月23日付で投稿された記事「唐沢治からの民事提訴の通告」に、以下の通り、唐沢自身のメールとして公開されている通りである。



 

「また杉本さまにつきましては、メールや私に関する書き込みなどを当局に提出し、一応幇助罪の適用の可能性を検討していただき(あまり高くはないかと思いますが、掲示板管理人が書類送検された事案がありましたね)、また民事提訴させていただきます。法的構成は2ちゃんねるの西村氏と同じ立場になるかと思いますが、後ほど弁護士からご連絡させていただきます。

「容疑者検挙や事実関係の詳細などにつきましては、おいおい私のブログで公表してまいります。なお、私からの直接のご連絡はこれを最後とし、今後は弁護士経由でご連絡させていただきます。

ここに書かれている通り、唐沢はこの当時、杉本に対し、KFCの元信徒による書き込みについて、幇助の可能性を問うため、民事提訴を予告し、以後、杉本への個人的な連絡は一切控え、弁護士を通じて連絡する、と通告したのである。

繰り返すが、この提訴予告は、唐沢があくまで自らの権利を擁護する目的で、杉本に通告したものである。

それにも関わらず、唐沢は、誰にも何の説明もないまま、自ら行った提訴予告を実行に移さなかった。それゆえ、唐沢の提訴予告に激怒した杉本は、唐沢をブログで激しく中傷したのみならず、筆者や、エシュコル氏など、当時のKFC信者に宛てて、幾度となく、唐沢の提訴予告のことで、事の次第を明らかにせよと、信者をなじるメールやコメントを書き送った。

筆者は当時、このような杉本の行為に当惑させられていたが、唐沢はどこ吹く風といった態度であった。

なぜ唐沢は、誰にも何の説明もなく、杉本への民事提訴の予告を実行に移さなかったのか。その理由として考えられるのは、唐沢は勇み足で杉本に提訴を予告したものの、その後、調べてみると、杉本ブログに投稿されたKFCの元信者のコメントについて、ブログ管理者としての杉本に幇助の責任を問うことは、ほぼ不可能であることが分かったのではないかということである。

ちなみに、本訴訟でも、コメント投稿欄に投稿された内容について、ブログ管理者は責任を負わないという判断が出ている。

つまり、唐沢は、杉本に提訴予告した後になって、先に通告した理由では、訴訟を提起しても、勝ち目がないことを悟ったのではないかと見られる。だが、そのことを、唐沢はプライドゆえに、決して誰にも明かしたくなかった。提訴を取りやめたと言うことさえ恥であると考えたのではないか。

それゆえ、なぜ提訴を実行に移さないのか、誰にも説明しないまま、唐沢は沈黙を決め込み、時間を稼いだのではないかと見られる。

だが、もしも唐沢が誠実な人間であったとすれば、先に通告した理由で提訴が困難と判明しても、別な手段で杉本に立ち向かう道が残されていた。それは、唐沢が自分自身への誹謗中傷を理由に、杉本を訴えることである。

なぜなら、提訴を予告されて激怒した杉本は、上記の記事で、唐沢治を「精神家きどりのやぶ医者ごっこ」をしているだけの「預言者気取りでエセ精神病理学の専門家」と呼び、「ある種の痛々しさ」は唐沢の病的な心理に潜んでいるものであろう。」とか、「こういう洗脳、心理操作の台詞をいともあっさり他人に対して次々に放って恐怖心を射貫き、心理的に相手を圧して支配していく手法。」などと記し、唐沢は、心理操作の手段として、杉本に提訴を予告したのであって、これはスラップ訴訟であると決めつけ、「これが独裁カルトの新興宗教、誇大妄想信仰の恐ろしさである。」などと、あらん限りの非難・中傷の言葉を唐沢に浴びせた上で、ついには「唐沢治のキングダムフェローシップチャーチ(KFC)は、見まごう事なき異様な独裁カルトである。」とまで結論づけていたからである。

杉本が唐沢の実名に対して向けた以上のすさまじいまでの記述は、当時、十分に名誉毀損に相当する不法行為となり得たのであり、もしここで唐沢が杉本を民事提訴していれば、杉本は一巻の終わりとなっていたものと見られる。

ちなみに、杉本がこのように誰かから非難を受ける度に、より深刻な権利侵害を行っては、罪に罪を増し加えて行った様子は、筆者と杉本との間に起きた紛争においても、共通して見られた現象である。

たとえば、2017年に筆者が杉本に脅しメールやバッシング記事について反省と謝罪を促し、念書を差し入れた時点では、杉本による不法行為は成立し得たかどうか分からなかった。脅しメールは過去のものであり、バッシング記事では実名も出ておらず、権利侵害が成立したかどうかが分からないためである。

ところが、杉本は和解を断っただけで終わらず、それを機に、筆者のメール等を無断で公開しながら、筆者に対する人格権の侵害、名誉毀損・侮辱に及んだ。この時点で、杉本による明白な不法行為が成立したのである。

さらに、筆者が杉本の不法行為の存在を知って、2018年2月に、杉本を刑事告訴の上、民事調停を提起した時点でも、まだ杉本による明白な不法行為は、2、3本の記事にとどまっていた。ところが、筆者が調停を提起した後で、杉本はさらに20本ほどのおびただしい数の名誉毀損に相当する記事を投稿し、自ら賠償を重くして行ったのである。それゆえ、杉本の不法行為は、まさしく訴訟にふさわしいインパクトを持つものとなった。

杉本が唐沢に対して2010年に行ったことは、それととてもよく似ている。当時、唐沢が杉本にぶつかって行ったことにより、杉本の内側に隠れていた罪深い内面が、思い切り外にぶちまけられたのである。

このことは、神の子供たちには、霊的な視力によって、自分に害を加えようとしている敵の不法行為を、それが実際に成し遂げられるよりも前に、察知し、彼らの本質を見抜き、これを明らかにする役割が備わっていることを示している。

我々が暗闇の勢力と接触する時、我々の宣言によって、暗闇の勢力の内実が明らかにされる。村上密の場合も、同様であった。筆者が村上を訴えた時点では、村上の不法行為の証拠は固まっていなかった。しかし、第一審が終結した時点で、村上は無罪放免されたにも関わらず、自ら不法行為に及んで、自分を不利に陥れたのであり、そうなったのは、筆者が村上と接触し、村上を糾弾したことにより、村上の内面が外に現れたのだと言える。

話を戻せば、仮に唐沢が杉本に提訴を予告した時点で、杉本の明白な不法行為が成立する要件が十分に整っていなかったとしても、だからと言って、唐沢は敗北すると決まっていたわけではなく、その提訴予告に激怒した杉本が、ブログで唐沢を誹謗中傷し始めた時点で、杉本には不法行為が成立する要件が十分に揃っていたのである。従って、その機に乗じて、唐沢が杉本に対して断固たる措置に出てさえいれば、杉本にまつわるすべての問題は、それ以上拡大することなく、終了していた可能性が高い。

ところが、KFCの元信徒を訴えることにはためらいがなかった唐沢が、自分自身の名誉と人権を守るために、また、自分の率いる集会KFCの正統性を守るために、杉本の主張に毅然と立ち向かうことをしなかった。

このようなことは、唐沢が当時から真理に生きていなかったからこそ、起き得たことであると筆者はみなしている。

唐沢が、自分に盾突いたKFCの元信徒には容赦のない措置を取りながらも、杉本を訴えることを躊躇したのは、唐沢の心の中に、杉本を「延命させておきたい」という願いがあったからだではないかと考えられる。

つまり、唐沢は、真のクリスチャンを抑圧するための手段として、杉本を残しておくことに価値を見いだしたのではなかと考えらえるのだ。少なくとも、唐沢があの当時、本気で杉本に立ち向かっていれば、杉本は簡単に倒されたことであろうが、そうなることは、唐沢にとっても、まずい事態だったからこそ、唐沢はそれを実行しなかったのである。

このようなことは、唐沢が真のクリスチャンであれば、起き得ない事態であり、むしろ、その逆であったからこそ、唐沢は杉本を上手く使えば、クリスチャンたちを弾圧する手段として利用できることを知っていたのではないかと予想できる。

また、筆者から見れば、唐沢は、自分が傷つけられたときに、正当な方法で、自らを擁護することができない性格であった。杉本も、村上も、唐沢も、みなこの点で共通している。彼らは、自分を脅かした敵に対して、いつまでも執念深く報復措置を加えることはあっても、どういうわけか、正当かつ合法的な手段を用いて、紛争を早期に終わらせ、自己の正当な権利を取り戻すために戦うことができない。

だから、彼らはどんなに戦っても、戦えば戦うほど、その成果が薄れて行き、何も成果が残らないのである。このようなことは、自己を非常に深いレベルで傷つけられて、自分を防御できなくなっている人々に共通する。
 
いずれにせよ、唐沢が杉本の主張に毅然と立ち向かうことをせず、その口を封じる行為に及ばなかったがゆえに、杉本が発した呪いのような言葉が、唐沢の身の上に徐々に成就して行くことになったものと筆者は見ている。


* * *

② 唐沢治自身が認めている2013年にKFCで鵜川貴範が起こした「クーデター」

筆者は2012年にKFCを去ったが、そうなるまでの間に、KFCは杉本が述べた通り、「見まごう事なき異様な独裁カルト」と呼ばれても、致し方ないのではないかというほどの惨状に陥っていた。

(とはいえ、2012年が来るまで、KFCには複数のメッセンジャーがいたため、独裁という言葉は当てはまらない。しかし、2013年にKFCが解体されて、2015年に唐沢がフルタイムの牧師になった頃には、まさに以上のような状況が生まれた。)

筆者は、2011年から2012年頃にかけて、KFCで起きたクーデター事件について、「アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団信徒による他教会(KFC)乗っ取り事件」にまとめている。

この事件を要約すると、当時、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の現役信徒であった鵜川貴範が、Br.Takaという名で、身元を隠してKFCに潜入、2011年頃にはKFCの中核的なメッセンジャーとなり、唐沢の信用を得た。

この頃、筆者は、他教団の信徒であるにも関わらず、身元を隠してKFCに入り浸る鵜川夫妻に多大なる疑問を持つようになり、唐沢にこの夫婦は何を目的にKFCに来ているのか分からないので、注意した方が良いと、クーデターの可能性を告げて警告したが、鵜川夫妻に心酔していた唐沢は、2012年になって、危険を警告した筆者を、夫妻と一緒になって非難、呪った挙句、KFCから追放した。

彼らは筆者を仕事の後で呼び出し、「悪霊に憑りつかれている」だの「そのままでは滅びる」だの、まさしく陳腐な呪いの予言としか言えない言葉を三人でかわるがわる浴びせて、筆者にKFCに来ないように求めたのであった。

この事件が起きたことにより、筆者は初めて、唐沢が「人を呪うような人間ではない」と考えていた以前の見解を改め、唐沢がKFCの元信徒を刑事告訴した事件でも、唐沢が嘘をついている可能性があると疑うようになった。

なお、鵜川のクーデター事件については、唐沢自身が2014年4月30日のブログ記事「お知らせとご注意」で、KFCで当時、確かに「クーデター」が起き、自分が一時、メッセンジャーを降格させられていたこと、鵜川の策略によって、KFCの会堂契約が無効になり、さらに偽サイトが開設されたままになっている事実を自分で記している。

この記事で、唐沢がクリスチャン・トゥデイに掲載された鵜川貴範に関する記事にリンクを貼っていることを見ても、この事件をおこしたのが、まさしくアッセンブリー教団所属の鵜川貴範であったことは明白である。

「*1:端的に言えば、2013年1月初旬、クーデターが起き、Dr.Lukeが一切の働きを封じられて追放された次第。
*2:チャペルに関してはそのまま彼らが使用したいとのことで、2013年9月末に私の契約解除を申し入れ、12月に彼らが契約することになっており、不動産屋との交渉も開始されておりましたが、12月になり彼らは突如チャペルから逃亡しました。こちらからと不動産屋の連絡に対しても一切の応答はなく(携帯もメールも遮断)、よって契約の意思なしとして、チャペルは契約解除され、もちろん彼らの契約下にはありません。よって「公式サイト」の記載は偽りですので、私宛の来訪者が一部おられるようですが、ご注意ください。」





以下は、唐沢が、KFCでクーデターを起こした「メッセンジャー」という文字に、リンクを貼っている鵜川貴範に関するクリスチャントゥデイの記事



このように、鵜川貴範によるKFCのクーデター(乗っ取り)事件は、唐沢治自身が、その存在を認めたものであった。

この事件のために、KFCは会堂を失い、一時は閉鎖に追い込まれていたが、KFCの残党がその後、結集して、また新たに唐沢治を担ぎ上げ、まるでエリコの町を再建するように、会堂がないまま、現在のKFCを作り上げたのである。

こうして再建されたKFCは、前よりも一層ひどいものとなり、唐沢は以前からサンダー・シングなどのオカルトに影響を受けていたことに加え、新しくリニューアルしたホームページの中では、ニューエイジ、禅など、ありとあらゆる非キリスト教的教えから無分別に影響を取り込んだことを隠し立てもしていない。

そして、唐沢自身も、以前は女学生から人気があると自慢するために続けていたような大学講師の職を、2015年に「神の啓示を受けた」として、KFCの牧師業に専念するため、自ら辞した。それによって、アカデミズムを去り、学術研究者としてのキャリアも捨てて、公に心理学の専門家を名乗ることのできた根拠をも自ら捨て去ったのである。

唐沢が大学講師の職を自ら辞したことは、KFCホームページに掲載されたプロフィール欄でも確かめられる。

 

* * *

③ 唐沢治が当ブログ執筆者の個人情報を杉本徳久に漏洩した経緯

・唐沢治が坂井―杉本裁判に当ブログ執筆者のメールを無断で提出(2013年)


筆者は、2012年にKFCを去って以後、唐沢とは何の関係もなくなっていたが、唐沢の方では、うわべは一切の関わりがなくなったように見せかけながら、水面下では、色々と筆者を争いに巻き込むために画策していたようである。

まず、唐沢は、杉本が2013年に坂井能大を民事提訴した際、坂井を支援するという名目で、筆者の了承を得ないまま、筆者の個人情報を含むメールを無断で坂井に書証として提出させた。

このメールは杉本の手に渡り、それが、杉本が筆者の個人情報を特定する根拠の一つとなったと、杉本は筆者との訴訟において認めている。

唐沢は、筆者があたかもメールの提出を許可したかのように述べ、また、筆者と坂井との間で、何らかの「協力関係」が構築されていたかのように弁明を重ねているが、それはすべて事実に反する。

筆者が、唐沢に坂井の裁判にまでメールの提出を許可したことは一度もなく、筆者は坂井とはいかなる協力関係にもあったことがなく、面識すらなく、連絡を交わしたことも一度もない。

しかも、杉本―坂井裁判が行われていた時、唐沢は筆者を呪った挙句、KFCから追放したのであって、筆者はすでにKFCを完全に離れ、唐沢の影響下にもなく、ブログも閉鎖しており、裁判のことも知らなかった。

それにも関わらず、唐沢は筆者の同意を得ないまま、あたかも筆者を遠隔操作で杉本との対立に引き込むかのように、筆者のメールを裁判に提出し、まるで筆者がこの裁判を支援しているかのように「演出」したのである。

この裁判で、坂井は杉本に敗れ(杉本の言葉によると、杉本の勝訴的和解に終わったという)、それによって、坂井と杉本だけでなく、坂井を支援していた唐沢と杉本との対立関係にも、終止符が打たれた。

唐沢は、こうしてもはや杉本の記事を、自分への名誉毀損だと主張する根拠さえ、自分から手放したのだと言えよう。

だが、唐沢は杉本に降伏したことで、KFCが杉本の予告の通り、「見まごう事なき異様な独裁カルト」へと転じる最後の歯止めを自ら外したのだとも言える。


・唐沢治が杉本徳久と交わしたメール文通(2016年―2018年)

その後も、唐沢は2010年に、杉本に対する個人的な連絡はこれを最後とし、以後、弁護士を通じてしか連絡を取ることはないと通告したことなど、全く忘れたかのように、杉本とのメール文通を重ね、そこで牧師としての守秘義務を破って、筆者の個人情報を次々とメールで杉本に提供するようになった。

その結果、唐沢が次々と筆者をいわれなく不利に陥れるような情報を杉本に伝え、杉本がそれを受けて、その情報を筆者を誹謗中傷する材料として使用するという「連携プレー」がなされた。

そのようにして、唐沢が信徒の個人情報を杉本に漏洩していた事実は、杉本が第一審で筆者に書証として提供した一連のメールを通して明らかになった。

杉本はおそらく唐沢に筆者を裏切らせたことが、よほど嬉しかったのであろうと思う。筆者を悔しがらせようと、あえてこの恐るべき悪事の証拠を自ら書証として公の場に持ち出して来たのである。

唐沢が2016年に筆者を指して「脳内空転」と罵った次のメールも、杉本が書証として出して来たものである。

 
1.唐沢が杉本と2016年に交わしたメール。この時点では、唐沢は筆者を「脳内空転」と罵っていたが、まだ秘密漏示には及んでいなかった。

ここで唐沢は、依然として杉本ブログには、唐沢を中傷する記事が掲載されているにも関わらず、杉本と対立する大義はもうなくなったなどと、杉本に対する事実上の和解宣言をしている。

さらに、このメールは、唐沢が、杉本を批判するために書いた記事の削除を、杉本から求められ、それに返信したものであるが、唐沢は杉本の怒りが自分に向かないように、巧妙に筆者の話に話題をすり替え、筆者を「脳内空転が強い」などという言葉で罵ることによって、杉本の注意を筆者に引きつけている。

杉本は、この悪口にも早速、飛びついたと見られ、あたかも筆者が精神異常に陥っているかのような根拠のない自説の裏づけとして利用して行った。

さらに、唐沢はまだこの時点では、秘密漏示には及んでいなかったが、その後も、杉本とのメール文通を重ねるうちに、ますます事実に基づかない、もしくは極度に誇張された情報を盛んに杉本に漏洩しては、杉本が筆者を中傷する行為を助長・容認するようになった。

唐沢はその過程で、杉本の怒りを自分から逸らすために、自分が過去に杉本に行った提訴予告すらも、まるで初めから唐沢の権利を擁護するためのものではなく、あたかも筆者の権利を守るために、筆者から促されて仕方がなく行ったものであるかのように、巧妙に主張をすり替え、その嘘を杉本に信じ込ませた。

そのことは、以前に書いた記事でも示した通りであるが、以下にも唐沢のメールを再掲載する。


2.2017年1月のメールでは、唐沢は杉本に対して虚偽の情報を提供しては、筆者を不利に陥れようと画策していたことが分かる。

唐沢は2017年1月に杉本に宛てたこのメールで、自分が無責任にも実行に移さなかった提訴予告のことで、責任を棚上げしようと、「彼女から提訴を何度も求められましたが、実名が出ておりませんので、彼女の件では動けなかったわけです。」などとうそぶき、2010年に自分が杉本に行った提訴予告が、あたかも筆者の権利を守るために、筆者が唐沢に杉本を訴えるよう促したものであったかのように話をすり替え、虚偽の事実を杉本に伝えた。

だが、唐沢は以上で述べた通り、そもそもの初めから、KFCの元信者による書き込み幇助の責任を問うという、自分の権利を擁護するために杉本に提訴を予告したのであって、筆者が唐沢に杉本を提訴してくれ、などと頼んだ事実はない。また、唐沢は筆者の代理人でもないのだから、仮に筆者の権利が侵害されたとしても、それを理由に唐沢が杉本を訴えることなどもとより不可能である。

それにも関わらず、唐沢治がこのように虚偽の事実を杉本に伝えたのは、自分から杉本に(勝ち目のない理由で)提訴を予告したにも関わらず、これを実行しなかった自らの責任を、巧みに筆者に転嫁することで、杉本の怒りを筆者に集中させて、矛先を逸らし、さらに筆者を杉本との争いに全面的に巻き込んで行くための巧みな心理操作であったとしか言いようがない。

さらに、唐沢はこのメールで、2012年に筆者をKFCから自ら追放しておきながら、2013年になって、唐沢とは何の関わりもなくなっていた筆者が、あたかも坂井の裁判を「応援したい」と述べた事実が存在するかのように、虚偽の事実を杉本に伝えている。そして、あたかも、筆者の許可を受けて、筆者のメールを坂井に書証として提出させたかのように自己弁明している。

だが、筆者は坂井とは現在に至るまで、いかなる面識もないだけでなく、その当時、ネットから遠ざかっていたため、坂井と杉本の二人の間で、そのような裁判が行われていた事実さえも知らず、唐沢は筆者に坂井の裁判について伝えるメールを送ったと主張するが、そのメールを筆者は読んだ記憶もなければ、返信した事実もない。むろん、見ず知らずの坂井の裁判へのメールの提出を許可した事実などあるはずもない。

だが、杉本はこのような唐沢の巧みな心理操作に乗せられ、2013年に坂井を訴えた裁判で、筆者があたかも坂井+唐沢の援護射撃に回っていたかのように信じ込んだだけでなく、さらには、坂井の裁判までが、筆者が陰で糸を引いて、坂井を巧妙に焚き付けて杉本と衝突させたものであるかのようにまで信じ、そうした虚偽を、後にまことしやかにブログで吹聴しては、筆者を断罪し、名誉を傷つけたのである。

いずれにせよ、唐沢にとって、そうした嘘を杉本に信じさせるのは、全く困難ではなかったと見られ、こうして唐沢は、筆者について嘘を吹き込むことで、筆者を杉本との全面的な対立に至らせるきっかけを作って行ったのである。

唐沢が、常日頃から、「自分には人の気持ちが読める。人を操るなど簡単だ」と豪語していたことを思い出しても、このメールで、唐沢が「杉本さんが彼女を告訴する/しないは、もはや私が関与することではありません。」と、あえて杉本が筆者を告訴することを認めるような発言を行っていることも見逃せない。

この言葉から、唐沢が、できれば、杉本がヴィオロンを訴えてくれれば、非常に都合が良いのに、と考えていた様子がひしひしと伝わって来るように感じられる。
 
この他にも、唐沢は杉本に対し、秘密漏示に当たるメールを送信している。

 
3.2017年5月に唐沢が杉本に書き送ったメール。このメールで、唐沢はいくつもの信徒の個人情報を杉本に漏洩し、秘密漏示に及んでいる。

このメールで、唐沢は以前よりもさらに積極的に、杉本が筆者を中傷する材料を得られるよう、筆者に関する情報を捏造・歪曲する形で、杉本に伝えている。

唐沢が杉本に漏示した情報は次の通りである。
1.家庭の事情(何かしら深刻重大な事情があるかのような思わせぶりなニュアンス)
2.信徒の人間関係(兄弟姉妹と「総当たりでトラブルを起こしている」という虚偽の情報)
3.実家の所在地
4.家族構成
5.家族との人間関係(家族と対立しているかのようなニュアンスを含む歪曲された情報)
6.生活状況(生活苦に落ちっているかのようなニュアンスを込めた書きぶり)

こうした情報を伝えられた杉本が、それに飛びつき、これを利用して筆者を名誉毀損する記事を書き始めたのは周知の通りであるが、その直接的なきっかけを作ったのは、唐沢治なのである。

むろん、筆者はKFCにいた時、「兄弟姉妹と総当たりでトラブルを起こした」事実もなければ、実家と対立した事実があるわけでもない。実際に、この年、筆者は700km以上の距離を走行して実家へ旅していることからも、それは明らかである。

だが、唐沢から歪曲された情報を提供された杉本は、これを鵜呑みにして、2017年から2018年にかけて、筆者が至るところで対立を引き起こし、実家とも対立して絶縁状態にある、などとする中傷を書き記して行くことになる。

その後も、唐沢と杉本は親しくメール文通を続け、二人を批判する筆者に対する「対策」を共に練っていたようである。


 
4.2018年5月、筆者が杉本と村上に対して提起した民事調停が決裂に終わる直前に唐沢が杉本に送信したメール。

以上のメールで、唐沢は、筆者の書いた記事が虚偽であるかのように述べるだけでなく、訴訟のアドバイスまで丁寧に杉本に書き送っている。

「この種の人物は些細な兆候や事実を膨らませます。杉本さんと村上さんが連携して彼女を追い詰め、さらに私が寝返って関わっていると言うわけですよね。ですから、その兆候のヒントを与えると彼女がますます増長し、彼女を利するわけです。

ゆえに杉本さんの態度としてはあくまでも「不知」がベストなのです。こうして私とメールをやり取りしていることも彼女には利益となるでしょう。」

こうして、次々と筆者を不利に陥れるような歪曲された情報を杉本に与えて、個人情報まで漏洩し、杉本が筆者を中傷・攻撃するきっかけを作っておきながら、よくも以上のように主張できるものだと呆れるばかりだ。

唐沢はこの当時、まさかこのメールを杉本が訴訟に提出することになるとは予想していなかったであろうし、それを願っていなかったと考えられるが(だからこそ、唐沢は杉本に「不知」で通すよう、余計なことを話さないよう勧めている)、それでも、独特の直観で、このメール文通の存在が、筆者の目に隠しおおせず、必ず、彼らにとって不利な証拠として利用され、いつか白日の下に晒される日が来ることを予見していたようである。

杉本はこのメールの中で、「ヴィオロンから民事調停を申し立てられていますが、卑怯なことに住所を秘しているため、こちらから反訴ができない状況です。」と述べている。筆者の情報をどこまでも集めたいがために、手あたり次第、筆者のかつての知人にメールを送りつけ、情報を聞き回っていたわけであるが、唐沢の反応を見る限り、唐沢は筆者を陥れるために、知ってさえいれば、どんな情報であれ、喜んで杉本に伝えたのではないかと疑われてならない。

筆者の目から見て、唐沢が杉本に嘘を信じ込ませることで、杉本の筆者に対する対立感情を煽った手法は、極めて狡猾なものである。下手に心理学などを学ぶと、このように他者の愚かさや弱さに付け込んで、他人の心を操り、手玉に取る術ばかりを、常人以上に身に着けてしまうのであろうか?

杉本に情報を提供してやることで、杉本を思い通りに動かし、筆者に対立させることなど、唐沢にとっては全く問題ではなかったであろう。だが、唐沢の誤算は、筆者が(信仰ゆえに)杉本よりも強く、杉本が筆者に打ち破られて終わると予測できなかったことにあった。

いや、筆者は、内におられる方のゆえに、杉本だけでなく、唐沢にも打ち破られるとは思っていない。唐沢が聖書の御言葉に立たないならば、真実なクリスチャンの前に立ちおおせる根拠は何もないのである。

* * *

④ 唐沢治の嘘とまことの混在した整合性のない矛盾だらけの主張

現在、唐沢は、筆者がKFCで起きたクーデター事件について、自らのブログ記事とは裏腹に、U(鵜川)夫妻がKFCを乗っ取った事実はないと否定し、さらに、筆者とは「牧師と信徒の関係にはなかった」などという荒唐無稽な嘘を主張している。

唐沢の巧妙な印象操作と詭弁に満ちた主張は、以下の陳述書でも如実に見て取れる。




これは筆者が昨年に申し立てた仮処分の申立に対する陳述書であるが(仮処分は訴訟に転じる予定で一旦、取り下げている)、唐沢はここで筆者が「神の啓示を受けた」などとして、あてもなく突然、横浜に尋ねて来ては、自分の孤独を切々と訴え、唐沢に面倒を見てもらおうとし、それを唐沢は親切にもケアしてやっていたかのように、虚偽の情報を記している。

しかしながら、事実は全くこのようではなかった。筆者は、2009年10月に横浜へ移住した際、確かに神が奇跡的に筆者の祈りに応えて、大きな恵みを与えて下さったことに喜んでいたが、「神の啓示」により、移住したと述べたことは一度もない。むろん、それ以後、生活について、いかなる形でも、唐沢から支援を受けたこともない。

むしろ、筆者が横浜に移住してわずか数日後に、唐沢の20年来の知己であり、ローカルチャーチ時代からの親友であったMr.Sugarを名乗る年長の兄弟が、「唐沢は非常に危険な男であるから、近寄るべきではない」と筆者に向かって真摯に忠告したため、筆者はそれ以後、杉本によるバッシング事件が起きて、年末から年明け頃になるまで、KFCには近寄らなかった。

従って、筆者が唐沢に孤独な心中を打ち明けたとか、親切に面倒を見てもらったなどという事実はない。むしろ、杉本事件が起きてから、筆者が途方に暮れて唐沢のもとに相談に行っても、それに対して、唐沢が行ったことは、KFCの元信徒の事件を自分に有利に解決するために、筆者に唐沢に有利な証言を警察で行うよう求めることだけであった。

唐沢はその後、独断で杉本に提訴を予告して杉本を激怒させた上、その提訴を実行に移さず、さらにそうした理由さえも、いわれなく筆者にかこつけ、筆者をKFCから追放した上、筆者を中傷する情報を杉本に提供したことはすでに述べた通りであり、それを考えれば、唐沢が筆者のためになした良いことなど、ほとんど何も見当たらないと言えよう。

筆者は、唐沢の信仰的見解を非常に危ぶんでいたので、唐沢に助言や忠告めいた内容を伝えたことが、幾度となくあり、何とかして唐沢に正統な聖書的見解を取り戻せないかと試行錯誤し、話し合いの機会をもうける口実として、「横浜を案内して欲しい」と頼んだことがあった。

しかし、それに対しても、唐沢はただホームレス伝道が行われている教会へ筆者を連れて行っただけであり、筆者はその伝道風景を見て、あまりにも人工的であると感じて、気分が悪くなっただけであった。もちろん、筆者がそれ以外に唐沢から横浜案内を受けたことはない。信仰についてKFC以外の場所で話し合ったことはあるが、観光などの信仰とは関係のない事柄を共に行ったことはない。

筆者は杉本のバッシング事件において、唐沢からほとんど助力を得られなかったが、それとは別に、2012年にKFCを去るまで、唐沢が「セレブレーション」と呼んでいた礼拝に通っており、それゆえ、筆者とは「牧師と信徒の関係になかった」という唐沢の主張が荒唐無稽であることは言うまでもない。

唐沢が筆者の「カウンセラー」でなかったという事実は、何ら牧師と信徒の関係に影響を与えるものではない。

むろん、筆者が2012年に鵜川夫妻に口論をしかけた事実もなければ、鵜川夫妻が土下座したといった芝居じみた話も、事実ではない。大体、キリスト教徒が土下座などすると考える方がどうかしているが、鵜川夫妻は、当時、筆者が夫妻に疑問を感じていることを鋭く感じ取っており、2012年のある日の礼拝後、筆者が鵜川のメッセージを素直に聴かないと言って、他の信徒が見ている前で、筆者をすごい剣幕でなじった。そして、夫妻は、筆者が彼らに心を開かないことを責め立てたのであった。

唐沢は、その頃から、鵜川夫妻に入れ込んでいたので、彼らの肩を持って、その話を聞いていたのであろう。それからほんのわずかしか経たないうちに、3人で筆者を断罪し、KFCから追放したのである。

同じ頃、筆者がKFCを去る少し前に、エシュコルがKFCに対してブログで決別宣言を出し、集会を去った。だが、それについても、唐沢は「ヴィオロンがエシュコルを唆したに違いない。あんな人間に自分で物事の判断ができるはずがない」などという理由で、鵜川夫妻と一緒になって筆者を断罪し、さらに、礼拝後、信徒たちの目の前で、「彼は血潮を踏みにじり、赦されない罪を犯した。これから先、己が罪を生涯背負って、無意味な自己弁明を重ねながら生きて行くしかないだろう。」などと宣告していた。

こうした事件を目の当たりにした結果、筆者はKFCの元信徒が、唐沢から「密室で呪いの予言を受けた」と主張していたことを、全く嘘とは思えない心境に至ったのである。

その確信は、唐沢が現在、この信徒だけでなく、筆者をも事実に基づかない理由で断罪する以下の記事を公然とホームページに掲載しているところを見ても、さらに深まるばかりである。

 



この記事で、唐沢はすでに10年ほども前に、不起訴に至ったKFCの元信徒に対して、未だに尽きせぬ恨み節を向けながら、彼の家庭・精神が崩壊に至ったことを喜び、嘲笑するかのような言葉を浴びせている。

このような断罪記事には、唐沢の精神が余すところなく表れているのであって、このように信者を断罪できる唐沢が、この信徒に「密室で呪いの予言を浴びせる」ことなど、平気だっただろうという推測が生じるのは当然である。

唐沢はここで筆者についても、誇張・歪曲された事実をいくつも並べて、あたかも筆者がアッセンブリー教団で「挫折」したかのように述べたり、筆者が「現実と幻想の混濁した独自の世界観」の持ち主であるかのように、必死に印象操作をしようとしている。こうした記事が、杉本にどれほど好都合な材料となったか、あえて述べなくとも明らかであろう。

こうした唐沢の主張は、村上密が筆者に向けている非難にほぼ重なるものである。かつて唐沢は、自分から村上密を嘲笑する記事を投稿していた事実などすっかり忘れたように、ここでは筆者が村上を「憎悪」しているかのように、都合よく村上を擁護する側に回っている。

唐沢はかつてはアッセンブリー教団をも批判していたのである。しかし、2012年にアッセンブリー教団所属の鵜川夫妻がKFCでクーデターを起こして以来、唐沢はアッセンブリー教団を非難することができなくなった。唐沢が鵜川夫妻を公然と批判できないのは、鵜川夫妻と親しく交わりを重ねているうちに、夫妻に弱みを握られたためなのかどうかまでは、筆者は知らない。

いずれにしても、唐沢がこうして杉本徳久が筆者を名誉毀損することを促すかのように、格好の材料を次々と提供して行ったのは事実である。

こうした事実から、読者は唐沢という人間の極端なまでの利己主義、サイコパスのごとき冷淡さを見て取れるのではないだろうか。

とはいえ、筆者は、唐沢が筆者を呪ったり、杉本が誹謗中傷したとしても、全くその言葉には効果がないと確信している。なぜなら、私たちのためには、すでに木にかけられて呪いとなって下さった方が存在しているためであり、誰からの呪いも、十字架によって無効にされているからである。

ただし、それでも、唐沢は自らの行動の責任を取らなければならないことは確かである。

* * *

④ 偽預言者を待ち受ける破滅 異端的教説にはまることの恐ろしさ

最後に、以上のような事態が、唐沢治の内側で進行したのは、その間、唐沢治が、ニューエイジ、オカルト、東洋思想などの非キリスト教的思想をいくつも渡り歩いて、それに深く影響を受けたために他ならないと、筆者は考えている。

筆者はまだKFCにいた頃、こうした教えがどれほど危険なものであるか、再三、唐沢に忠告し、議論したこともあった。その当時、筆者は何とかして唐沢の心を変えて、正常な信仰を取り戻せるのではないかという甘い期待を持っていたのである。

しかし、唐沢はどれほど忠告しても、己が考えにしか従わず、聖書と異なる教えを捨てようとはしなかった。唐沢は自分にあまりにも自信を持ち過ぎていたため、むしろ、筆者がそれらについて警告すればするほど、筆者に対する嫌悪を深めて行ったのである。

当ブログでは、前々から述べている通り、東洋思想の基礎は、グノーシス主義にあり、グノーシス主義の本髄は、「対極にあるものを融合する」こと、すなわち、嘘とまこと、「然り」と「否」を統合し、究極的には「神」と「人」を一つにすることにこそある。

唐沢治がかつて属していたローカルチャーチでは「神と人とが混ざり合う」という異端的教説が教えられているが、唐沢はこの教えをかつては糾弾していたにも関わらず、結局のところ、自分自身がそこへ戻って行ったのだと言えよう。

唐沢治が現在、KFCにおいて、自分たちは「エロヒム(神々)だ」と主張し、「キリスト教からのエクソダス」を唱えていることは、彼らが、自ら神(々)になっていることを意味する。

生まれながらの人が、十字架の死を経ることなく、自力で神に到達すること――これは、あらゆる異端が目指している最終目的であり、神秘主義の極意である。

筆者は、目に見える教会組織や、目に見える指導者からの「エクソダス」を唱えたことはあっても、唐沢のように「キリスト教からのエクソダス」を唱えたことは一度もない。

しかしながら、禅とキリスト教の融合を唱えたり、「白いキリスト教の呪縛から解かれよ」などと唱える唐沢は、もはや自分をキリスト教徒であるとは認識していないことがよく分かる。

筆者は2010年当時から、KFCが世間からどのように見られているかを観察して来たが、もしも自分の職を捨てることがなければ、唐沢の言い分は、今でも心理学の専門家として、世間で通用したかも知れないものと思う。

しかし、今はその根拠もなくなっている。唐沢は筆者を指して「脳内空転」と嘲るが、その用語も、心理学の専門用語ではなく、唐沢が考え出した時前の罵倒語に過ぎない。そして、「脳内空転」では、告訴状は受理されず、民事での賠償命令も出ない。

年上の男性宗教指導者および信徒に対し、何の肩書もない年下で無名の女性の筆者の告訴状が受理されること自体、真に驚くべきことであるが、そのようなことが起きるほど、彼らの信用は失墜していると言うこともできよう。

実際には、キリスト教の信仰に「挫折」、「現実と幻想が混濁した独自の意味不明の世界観」を生きているのは、唐沢自身である、と筆者は断言する。さらに、唐沢はキリスト教を憎悪し、教会をも憎悪している。かねてより、キリスト教は人間に狂気をもたらすなどと述べて来たのも周知の事実である。

これまで繰り返し述べて来た通り、村上・杉本・唐沢が、筆者を陥れようとしたり、権利侵害を行ったりした背景には、彼らの聖書の御言葉に対する憎悪が存在する。ここには、単なる個人的な対立を超えた、霊的争いが存在し、彼らが滅ぼそうとしたのは、聖書に忠実な信仰であり、神の国の権益であって、個人としての筆者ではないのである。

*ちなみに、この記事を書いている最中、上記でリンクを貼った記事を、杉本は削除した模様だ。しかしながら、はっきりと物事の決着をつけておくためには、記事が削除されても、控訴審で改めてこうした一連の記事の削除を求めることは、続けて行かねばならない。また、記事を削除させるための別の強制手続きも続行中である。

だが、いみじくも、今回、断固として敵の嘘に立ち向かいさえすれば、正しい主張は通るのだという結論が出た。すべての信者には、暗闇の勢力による脅しに屈さず、毅然と立ち向かうことをやめないでもらいたい。そして、敵の要塞を打ち破ることは可能なのだと勇気を奮い起こしてもらいたい。

キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。

あなたがたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。

聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。」(テモテ二3:12-17)

PR

霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

さて、キリストとの合一というテーマがいかに重要なものであるかを示すために、オースチンスパークスの論説を改めて引用しておく。

キリストとの合一」第二章 彼の地位――御父の愛によって(7)

 この合一は役職的なものではありませんし、法的・形式的なものでもありません。それは愛情によります。ここで支配的なのは強制ではありません。強制しても愛は決して止まることはなく、常に進み続けて究極的可能性に至ります。

 キリストとの合一はこのような性格のものです。なぜなら、それは神の愛の中心だからです。もちろん、あなたはこれらすべてに関して静かな黙想を大いにしなければなりませんし、私たちがキリストに関して述べていることをすべてクリスチャン生活と関係づけなければなりません。

 「彼が愛する御子の王国の中に移して下さいました」(コロ一・一三)。この側面――「彼の愛する御子」――だけでも驚くほど素晴らしいですし豊かです。キリストとの合一は私たちをこの立場に、この領域の中にもたらします。

 ああ、まるで神の愛は彼が見い出される善の程度や悪の程度によって等級が分かれているかのように、この愛を等級付けして考えないようにしましょう。あなたや私に対する彼の愛は、彼が御子に対して抱いておられる愛です。これがその啓示です。キリストに結ばれることは、御父の愛する御子として彼が持っておられる御父との関係の完全な寸法の中に包まれることです。「まさに神として彼が持っておられる御父との関係の完全な寸法の中に」と私は述べていません。人として、御子イエス・キリストとしての彼について述べているのです。


   さて、牧師を介さずにキリストとの霊的合一に達するというテーマは、暗闇の勢力にとって、よほど致命的なウィークポイントのようである。

 なぜなら、この話題になると、とりわけ激しく入念な誹謗中傷が当ブログに向けられて来るからだ。かえってそのことにより、このテーマが神と悪魔との両方から見て、極めて見逃せない重要性を帯びた喫急の課題となっていることが分かる。

 しかし、それも当然である。なぜなら、神の眼差しは、キリストとエクレシアとの結婚、小羊の婚礼にこそ、注がれているからだ。だから、神の御思いの中心にあるテーマが、暗闇の勢力にとって衝撃とならないはずがない。

 ちなみに、当ブログに誹謗中傷を繰り返している人々(犯罪行為のため捜査中)の様子を見れば、どんなにキリスト教のことを知らない世間の人々でも、教会に所属している信者が、教団教派に属さない信者を、これほどまでに徹底的に攻撃・中傷している様子を見て、プロテスタントがいかに危機的状況に陥っているかを察知し、絶対にこのような人々が集まっている教会になど足を向けたくないと考えるようになるものと思う。

 この人々は、当ブログの内容に同意できないならば、読まずに放置していれば良いだけなのであるが、同じ教会に属している訳でもなく、顔を合わせたこともない人間の執筆するこのブログに対して、これほど執拗に権利侵害を繰り返さざるを得ないのは、彼らがどうしても、キリスト教信者を、牧師や司祭といった目に見える宗教指導者に隷従させて自由を与えず、そこから出ようとする人間に徹底的な妨害を加えずにはおかないカルトと化しているためである。
 
 筆者は訴訟を通して、今日のプロテスンタントの諸教会が、いかにカルト被害者救済活動の側から多数の訴訟をしかけられて、制圧され、陥落されて行ったかという過程に詳しく触れた。もはや公然と抵抗しているのは、当ブログだけとなりつつあることも述べた。その後、実際に、プロテスタントは恫喝されて完全に陥落されたも同然の陥っている。

 しかし、こうして当ブログが最後まで信仰の証しを持ち続けている以上、カルト被害者救済活動という反キリスト的勢力が、どのような方法を用いて、プロテスタントの諸教会や信者を恫喝し、彼らの証しを地上から取り去り、自らの支配下に置いて制圧して来たかという証拠は、公然と記録として残され、白日の下に晒されることになる。

 掲示板においても、当ブログに関する中傷を広めているのは、間違いなく、この勢力である。彼らはまさに黙示録に登場する「獣」の霊に導かれた人々であると言えよう。彼らは、本質的に人殺しである。今までにも、多くの人々を助けると見せかけながら、精神的殺人を繰り返し、死へ追いやって来たのであろうが、何とかして当ブログに対しても、信仰の証しを取り去るきっかけ掴みたいと欲望と執念を燃やし、執拗な言いがかりを繰り返しているのである。

 だが、神は竜に追いかけられた女を荒野へ逃がされたように、汚れた霊の持ち主どもによる迫害から、筆者を助け出されるであろう。

 さて、キリスト教以外の宗教にも、巫女などを含め、神に仕えることだけを職業とする人々が存在する。また、昔の仏教では、多くの僧侶に妻帯が禁じられていた。もちろん、キリスト教でも、昔の宣教師の多くは、神に身を捧げて奉仕に専念して生きるために、あえて伴侶をもうけず、自分の家庭を持たなかった。
 
 ところが、今日、キリスト教の目に見える教団教派では、教会は牧師一家(妻だけでなく子供や孫に至るまで!)を金銭的に支えるための手段と化し、信者らは牧師一家を養うために重い献金を課されてあえいでいる。

 そして、当ブログのような場所で、既存の教団教派に属さず、宗教指導者に頼らず、ただ見えない神にのみ仕えて生きると宣言すると、正体不明の信者らが、そんな考えは絶対に許せない、トラウマの産物だ、精神病だと叫び、憎しみに燃えて、既存の教団教派とその指導者を擁護すべく、引きずりおろそうと押し寄せて来るのである。

 こういう現象が起きているのは、キリスト教の既存の教団教派が、目に見える宗教指導者に信者を縛りつける危険なカルトと化しているためで、これまでは、思想面から、そのことを詳しく論じて来たが、現実に起きている出来事を見れば、それ以上に説得力のある材料はないことであろう。
 
 それはかつて天皇皇后を現人神とみなし、これを拝まない人々を、国民同士で攻撃し合って排除していたのと構図は同じである。庶民はその当時、天皇など見たこともなく、全く関わりのないところで暮らしていたにも関わらず、「天皇は神である」と思い込むことによって、自分自身も「神々の子孫」であると己惚れ、己を誇ることができたのである。

 そこで、天皇崇拝に陥った人々は、高慢になって、天皇を拝まない人を見ると、自分が否定されているかのように怒りを燃やし、密告したり、特高警察に売ったりして、率先して集団的に弾圧・排除した。その直接の動機は、「神国日本」のルーツを否定する者は、神聖なる臣民の一人である「俺様」を否定しているのだから許せない、という、自分が面子を潰され、プライドを否定されたことへの憎しみと怒りであったろう。

 これと同じように、今日のプロテスタントおよびカトリックでは、聖職者(司祭や牧師)が、信者のルーツを神聖に見せかけるための偶像と化している現状がある。かねてより、「牧師先生と呼ばれないと怒り出す牧師がいる」と言って呆れていた人がいたが、今やインターネットが普及して、牧師を拝まない「不届きな信者」は、牧師の下手人である無数の信者たちが、掲示板で匿名で集団リンチして葬り去ってくれる便利な時代となった。牧師はこうして気に入らない信徒を自分の手を汚さずに葬り去れるのだから、何と楽な時代だろうか。

 こういうわけで、宗教指導者という偶像に頼らず、真に聖書を自分で紐解いて理解し、なおかつ、キリストとの真実な霊的な交わりに入れられ、神を知りたいと熱心に願い、そのために、自分の身をフルタイムで捧げ、生涯を投じようとする信者が現れると、サタンにとっては耐えられない脅威となるようで、猛攻撃をせねば居ても立っても居られなくなるようなのだ。

 おそらく、筆者が神学校に行くと宣言しても、誰一人バッシングするものはないであろうが、宗教指導者に頼らずに信仰に生きようと宣言すると、それによって傷つけられる人間など、誰一人いないのに、何の利害関係にもない人々から、考えられないようなバッシングが起きて来るわけなのである。

 それはなぜかと言えば、まず第一に、一人一人の信者が、直接、キリストに連なり、真理を知るようになると、聖職者だけが真理を知って、これを信者に正しく伝えることができるという彼らが築いて来た幻想が崩れてしまうからだ。さらに、この指導者たちが、実は神を知らないのに、知っているかのように偽って、信仰に生きていないのに、篤い信仰を持っているかのように見せかけて来た実態が明らかになってしまう。
 
 もちろん、信者が誰でも直接、御霊に教えられて、神の御言葉を学ぶようになると、当然ながら、聖職者と呼ばれる人々は、献金を払ってくれる信者たちに去られて、失業することも免れられない。何よりも、彼らの権威が否定される。

 だが、指導者たちが失業すること以上に、悪魔にとって脅威なのは、目に見える人間を拝むことは、人類が、霊的割礼を受けたことのない、自分の生まれながらの肉的なパワーを拝んでいるのと同じなのだということを、多くの信者たちが知ってしまうことである。

 今日のプロテスタントのほとんどの教会では、十字架はただ人類の罪の悔い改めのためとしか教えられず、人間の生まれながらの肉の堕落については、語られることもない。肉に対する十字架の死の必要性などまず教えられない。

 数多くの異教では、人類の堕落した生まれながらの肉的な力を、子孫繁栄をもたらす力だと言って、美化し、誉め讃えている。しかし、他方では、この力が、制御できない粗野で荒々しい自己保存・自己拡大の欲望として、終わりなき戦争、殺戮、暴力、虐待に利用され、弱い者たちが踏みにじられて、言い知れない苦悩をこうむっている。

 聖書の神は、人類が堕落した肉的な生まれながらのパワーに生きているままでは、罪と死の法則に支配されているだけで、決して神に受け入れられ、神に喜ばれる聖なる子供たちとはなれないことを知っておられた。

 そこで、神はご自分の選ばれた人々に、堕落した人間の肉なるパワーに対する霊的死の宣告として、割礼を命じられたのである。それは、人類が、己の誇り、頼みとしている力が、汚れた悪しき力であって、彼らがその堕落した生まれながらの力に死んで、神によって上から与えられた清い力によって生かされることにより、神の民とされるためであった。

 主イエスが地上に来られて、十字架にかかられて死なれたことにより、肉に対する霊的死は完成に達した。そこで、もはやキリスト教信者は今日、割礼を受ける必要はないが、その代わりに、絶えず主と共なる十字架の死に自分を同形化し、自分自身の古き肉の情欲を十字架で死に渡す必要がある。その霊的死を帯びた時、初めて十字架の復活の命が、その信者の中に働くのである。

 このように、聖書の原則は、まずは信者が己が肉的な力に対して、霊的死を帯びるところから始まる。男であれ、女であれ、自分の生まれながらのセルフに対して死なねば、復活の命にあずかることはできない。

 しかし、目に見える指導者を立てている教会は、信者に見えないキリストを礼拝しているように見せかけながら、こっそりと目に見えるものを拝ませることで、本質的には、キリストの十字架を否定して、生まれながらの肉的な力、十字架の霊的死を経ていない、滅びゆく目に見える被造物の堕落したパワーを、あたかもそのまま神聖なものであるかのように、誉め讃えさせ、拝ませているのである。

 プロテスタントの諸教会が、カルト被害者救済活動に屈してしまったのは、結局、諸教会の目に見える指導者が、この運動の支持者らと同じように、堕落したアダムの命から来る自己保存願望を究極の目的とし、十字架の死を経由しておらず、霊的割礼を受けておらず、目に見える生来の自己の力により頼んで、神の聖に達しようとしていたからなのである。

 このように、今日、目に見える指導者に信者を依存させ、それに緊縛するプロテスタントの制度(牧師制度、教会籍)は、見えないキリストの支配に悪質に敵対するものとなってしまった。当ブログは十年ほど前からそのことを指摘しているが、この十年間の間に、これらの制度にしがみつく人々の堕落は、あまりにも目に余るものとなっていることが誰の目にも明白である。
 
 だが、新約聖書の原則は、一人一人の信者が直接、キリストに連なり、御霊から教わるというものであるから、信者が宗教指導者に属さないで信仰生活を送ることは、奇妙でないどころか、むしろ、当然である。

 そこで、読者には、カトリックであろうと、プロテスタントであろうと、目に見える指導者のいる教会に、これから先、決して所属しないことを勧める。当ブログに起きていることを、目を開いてよく見てみることだ。そうすれば、当ブログにバッシングを加えている人々が、絶対に敬虔な信仰を持つ主の民ではあり得ないことが分かり、このような人々が占めている目に見える建物の中で、まことの神を礼拝できるなどという考えは消え去るであろう。

 彼らが拝んでいるものは、聖書の神ではなく、むしろ、悪魔であり、彼らの指導者は、先生というより、獣と呼ばれる方がふさわしい。そこで、もちろんのこと、カルト問題を扱っている様々な「専門家」を名乗る宗教指導者にも、悩み相談など、絶対にしないことを勧める。なぜなら、そこであなたが話した内容は、あなたがその団体を去ろうとする時に、当ブログが受けたのと同じような形で、陰湿なバッシングのために徹底利用されるからだ。

 ちょうど派遣会社が外国人技能実習生を劣悪な環境と考えられないほどの低賃金で働かせるために、パスポートをあずかって逃げられないようにするのと同じく、情報は信者を人質にするための手段なのである。

 さて、もう話してしまったという人もいるかも知れない。すでに所属している信者はどうすれば良いのかという問いもあろう。これに対する聖書の答えは、後ろを振り返るな、上着を取りに戻ろうとするな、というものだ。

 もしも、イエスの次の御言葉を、現代にも通じるものとして受け取るならば、「荒らす憎むべき者が聖なる場所に立っている」今、このように汚れた者どもに占領された神殿に、自分の荷物を取りに戻ろうとすることは、百害あって一利ない。

 彼らの元から出て行き、一切の関わりを断つことである。その上で、主だけを仰いで生きることである。

 すなわち、反キリストに属する不法の子らが占領した目に見える礼拝堂になど、いかなる未練も持たず、エジプトに置いて来た宝になど一切目もくれず、一目散に、前へ向かって走ることだ。ひたすら、上にあるものを求め、目に見える都ではなく、天の都を目指して走ることである。

 キリストに受け入れられるための方法は、主と共なる十字架を経て、心に割礼を受け、この世と自分自身と悪魔に対して死んで、らくだが針の穴を通るように、御言葉への信仰以外には何も持たずに、貧しいやもめのように、主の辱めを身に負って、宿所の外に出て、彼のみもとへ行くことである。この世に未練を持てば、待っているのは、ロトの妻の運命だけである。

わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:19-20)

「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。

 しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っていおいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。

 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」(ガラテヤ5:16-25)

「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」(ガラテヤ6:14)


祝福あれ、主の御名によって来る人に。私たちは主の家からあなたたちを祝福する。

思った通り、働かせ方改悪法案が強引に押し通されようとしており、これが通れば、まさに我が国は24時間働かせ放題のディストピアへと転じることになる。

筆者がこれまでずっと述べて来た通り、労働がまさに罪のゆえの終わりなき懲罰と化す時代が到来しているのだ。アウシュヴィッツ行きの列車が人々を満杯に乗せて、汽笛をあげて発車しようとしている。

この列車に乗ってはいけない。今は勤労の精神を説く時代ではない。プロテスタントの始まりと共にヨーロッパ諸国で勤労の精神が取り入れられたが、プロテスタントも、労働市場も、徹底的に腐敗堕落し、もはや終焉にさしかかっているのだ。

「私たちは安定的な雇用を得て、定期的な収入と、高い職業的な地位を得て、まっとうな市民としてのつとめを果たしているから大丈夫・・・」などと思っていると、行き先は飢えと死の支配する強制収容所となろう。

それはキリスト教界も同じで、宗教組織に所属し、宗教指導者に従うことで、それを神の救いの目に見える形の代替物のように思って握りしめていると、行き先は地獄でしかない。
 
この国は、もはやすべてにおいてタガが外れており、善と悪が逆転し、すべてのことがひっくり返っている。善良な人々が悪人とみなされ、悪人が善人面して跋扈している。
 
だが、そうなったのには、深い理由がある。これは我が国が経済成長だけを第一として、金儲けを至上の価値として歩んできたことの手痛いツケであり、必然的な結果なのである。

戦前もそうであったが、戦争は、政府や皇族や大企業の金儲けのために起こされるものであって、口実など何でも良いのである。要するに、儲かりさえすれば、どんな手段を取っても構わないという精神が、戦争へとつながって行くのだ。

人権軽視の憲法改悪と、武器の製造と輸出(軍需産業の育成)、国公立大学における人文科学の縮小、人間を過労死させるまで働かせて使い捨てることを厭わない働かせ方改悪法案などは、すべて根底では一つにつながっている。要するに、これらは金の力の前に人権および人命が徹底的に軽視され続けたことの結果、起きたことである。
 
最近、辛淑玉さんが事実上の国外亡命を果たしたというニュースを知って驚いた。以下のニュースは「読む・書く・考える」のブログから転載したものである。
 

東京新聞(3/14):

 「ニュース女子」問題で辛淑玉さん
 ヘイト標的 拠点ドイツに 

 沖縄県の米軍基地反対運動を扱った東京MXテレビの番組「ニュース女子」で、名誉を毅損されたと認められた団体代表の辛淑玉さん(59)が昨年11月からドイツに生活拠点を移した。本紙の取材に対し、昨年1月に番組が放送されてから民族差別に基づくヘイトクライム(憎悪犯罪)の標的にされかねない不安が高まったとして、「事実上の亡命です」と明かした。(辻渕智之)

 辛さんによると、番組放送後、注文していない物が自宅に届いた。近所で見知らぬ人が親指を下に向け批判するポーズをしたり、罵声を浴びたりもした。これまでも仕事先などへの脅迫や嫌がらせはあったが「私の身近な生活圏に踏込んできた」という。(略)
(略)
 最近は「スリーパーセル」(潜伏工作員)との中傷もある。先月、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)中央本部が銃撃されたことに触れ、「私が狙われてもおかしくなかった。国のリーダーは北朝鮮と敵対しても、『日本の中にいる朝鮮人たちは一緒に生きていく隣人です』と宣言してほしい」と訴える。


 この出来事についてブログの著者は呼びかけている、
 

「辛淑玉さんは、日米両政府から差別・迫害されるマイノリティ(沖縄)に連帯し、その自己解放運動を支援してきた。そんなマイノリティ(在日コリアン)女性の自宅を特定し、嫌がらせを繰り返して、ついには国内で生活できなくなるまで追い詰める。これが「愛国」だの「美しい国」だのを標榜している連中の正体なのだ。

一刻も早く、そんな不良日本人どもからこの国を取り返さなければならない。それは、間違いなく、この国のマジョリティである我々の責務である。


まったく同感である。だが、それにしても、ここまで事態が深刻化していたと知って筆者は驚いた。単なるテレビ番組だけの問題ではなくなり、実生活にまで被害が及び、もはや日本にいられないというまでの事態になっていたのだ。

「ニュース女子」とは、化粧品会社DHCの傘下のグループ企業が制作しているテレビ番組である。このDHCは、澤藤統一郎弁護士のブログの文章を理由に、弁護士に高額スラップ訴訟を起こしたことで知られる。DHCが起こした高額スラップ訴訟については、「澤藤統一郎の憲法日記」に詳しく、弁護士はDHCと勇敢に戦って勝訴し、今やDHCが被告となっている。

「ニュース女子」では最近、沖縄の高江・ヘリパット基地建設に関連して、事実として裏づけの取れていない、基地反対派の活動を一方的に敵視して貶める内容の放送を行ったとして、ネットでも数多くの批判を浴びていた。DHCのグループ会社が制作するこのTV番組は、まさにDHCという企業の意向を強く受けて制作されていたと見られる。
 

朝日新聞デジタル 「ニュース女子」打ち切りへ MXと制作会社に隔たり 
田玉恵美 2018年3月1日03時21分 から抜粋
 
 ニュース女子は、化粧品大手ディーエイチシーのグループ会社「DHCテレビジョン」が取材・制作し、MXが完成版の納品を受けて放送している。問題になった昨年1月2日の放送回については、放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会が昨年12月、MXが番組内容を適正にチェックせず、中核となった事実についても裏付けがないとして「重大な放送倫理違反があった」とする意見を公表していた。

 関係者によると、批判を受け、MXは自ら番組の制作に関与したいと申し入れて交渉していたが、DHC側から断られたという。このため、今春の番組改編に合わせて番組の放送をやめることを決めた。

 
しかし、BPOから放送倫理違反との結論が出されたことに対し、DHC会長は、かえって「BPOは正気か」とする反論を発表し、そこでBPOは委員のほとんどが「反日、左翼」に占められており、正常な判断など下せるはずがないと、偏見としか言いようのない衝撃的な見解を述べている。そして、「ニュース女子」はうちきりになったわけではない、これからも放映を続行すると強弁して、BPOに対決宣言と見える姿勢を打ち出している。
 

【DHC会長独占手記】「ニュース女子」騒動、BPOは正気か 
「ニュース女子」DHC会長、衝撃の反論手記 
から抜粋
「田嘉明(DHC会長)


 今、問題になっている放送倫理・番組向上機構(BPO)についてですが、まずこの倫理という言葉を辞書で調べてみると「善悪・正邪の判断において普遍的な基準となるもの」(「大辞泉」)ということになっています。そもそも委員のほとんどが反日、左翼という極端に偏った組織に「善悪・正邪」の判断などできるのでしょうか。

 沖縄問題に関わっている在日コリアンを中心にした活動家に、彼らが肩入れするのは恐らく同胞愛に起因しているものと思われます。私どもは同じように、わが同胞、沖縄県民の惨状を見て、止むに止まれぬ気持ちから放映に踏み切ったのです。これこそが善意ある正義の行動ではないでしょうか。

 先日、情報バラエティー番組『ニュース女子』の問題に関して、朝日新聞が「放送の打ち切り決定」というニュースを大々的に流したようですが、『ニュース女子』の放映は今も打ち切ってはいません。これからも全国17社の地上波放送局で放映は続行します。」
 


 だが、以上のような見解を見ても、すぐに分かることは、DHC側が、沖縄の基地問題を、日本と米国の外交問題、政治問題、また、日本本土と沖縄との偏って不公平な関係といった観点からとらえるのではなく、これを日本人対在日コリアンという民族対立のヘイト問題にすりかえることで、人々の目を問題の本当の核心から目をそらそうとしていることである。

もしも民族的対立という観点からとらえるのであれば、沖縄の基地問題は、何よりも、日本人から琉球人への差別という観点から論じられねばならない。今でも続行している日本本土による沖縄への基地の押しつけという不公平にこそ、まずは目を向けなければならない。

ところが、本土と沖縄という問題を、それとは全く異なる日本人と在日コリアンの対立という問題にすり替え、「在日コリアン側からの日本人への敵視」が行われているという、一種の被害妄想めいた話を作り出すことによって、沖縄を差別してきた加害者であるはずの日本人が、かえって被害者であるかのような問題のすり替えが行われようとしている。

そうした原因すり替え論の結果として、辛淑玉さんが国外亡命さざるを得ないような状況さえ起きて来ている。本来は、企業が政治活動に携わること自体が、望ましいことではないと筆者は考えるのだが、最近は、企業にもあからさまな右傾化が起きており、DHCのみならず、巨大企業がブランド力と動員力を使って、テレビだけにとどまらない政治的影響力を行使するようになっている様子が伺える。

とはいえ、日本人もTV番組や巨大企業の宣伝だからと裏づけの取れない情報を完全に鵜呑みにするほどまで愚かではないため、こうした動きに対しては、強い反発も起きており、DHC製品の不買運動もじわじわ広がっているようであり、上記の弁護士などもDHCの不買運動を呼びかけて広く反響を得ている様子である。

東京MXテレビとDHCの開き直りに反感、デモや不買運動もー『ニュース女子』沖縄ヘイト放送
志葉玲  | フリージャーナリスト(環境、人権、戦争と平和)  2017/1/27(金) 8:59


だが、今のままだと、まもなく不買運動など呼びかけずとも、化粧品のことなど誰も考えていられないような恐るべき時代がやって来ることになるだろう・・・。しかも、まるでロシア革命時に大勢のロシア人が国外に亡命したように、辛淑玉さんのみならず、我が国で「非国民」のレッテルを貼られた人々が、続々とこの国を捨てて国外亡命を果たすような時代が、もうすぐそこまで来ていると感じられてならないのである。

こうした一連の出来事を見つつ、筆者も色々と考えさせられる。

筆者は最近、ヴァイオリンを弾きながら、辛淑玉さんのように、将来、ドイツへ行ってみるのも悪くないなあ・・・、などと思いめぐらしている。国外亡命のためではない。何しろ、ドイツは教育が無償だそうだから、改めて音楽を学び直す良い機会ともなろう。

音楽には国境もなければ言語の壁もないため、いざとなれば、日本国内外を問わず、そこから何か開けてくるものがあるだろうと思うのだ。筆者はこの試みが、深いところで、筆者自身の自由とも密接につながっていることを強く確信している。

筆者は以前から、この国はソドムとゴモラ化していると書いており、まさしくその通りの展開となっていることを感じている。そして、このような腐敗した領域からは出るべきだと述べている。だが、筆者が述べている「エクソダス」とは、あからさまな国外亡命のような、物理的な移動を指しているわけではないのだ。時には、そういうことが不可欠な場合もないわけではないと思うが、はるかに重要なのは、霊的エクソダスである。

これから先、どれだけ早く真実に気づいて「エクソダス」を成し遂げるかが、一人一人の生死を分けることであろう。

筆者は、働かせ方改悪法案に賛同しておらず、事実上の24時間労働制・国家総動員体制などに賛成票を投じるつもりも全くないが、それでも、残念ながら、我が国に国家総動員体制のようなものが敷かれるのはほとんど避けられない結果だと考えている。

それはこの国がこれまで敷いて来たヒエラルキー、競争原理が必然的にもたらす結果なのであり、一旦、とことん行き着くところまで行き着かない限り、この残酷な競争の激化は止められないのではないかと考えている。

だから、私たちはそうした先行きのない世界から目を逸らし、新しい地境を見るべきなのである。もし船の左側に網を降ろして何も魚が取れなかったなら、右側に網を降ろしてみれば良いのだ。左側は、人間の努力によってすべてを達成する道、右側は、神の約束によってすべてが達成される道である。

話が変わるように思われるかも知れないが、経済界および労働市場の絶望的なることを示すために、あるエピソードを述べておきたい。

それはかつて筆者が何年も前に、アルバイトのような仕事をして、とある故障・修理受付のセンターで働いていた時のことであった。

筆者がその職場に入ったとき、その職場は、開けた都会の駅からすぐの大型ショッピングモールのビル街の只中の、きれいでピカピカのオフィスにあった。まだ立ち上がったばかりで、大勢の同僚たちが雇用され、活気があり、窓から見える景色はきれいで、食べ物屋にも困らず、まことに良い雰囲気であった。

ところが、それがとことん異常になり果てて行くまで、3ヶ月もかからなかった。そのセンターの仕事には最初から前線部門と技術部門の二つの区分があり、最初、これらの部門の間に差別はなかった。だが、最初から給与が違っており、技術部門の方がわずかに高かった。前線部門は修理の受付をして技術部門へ渡すための一次対応であった。

センター始まってしばらくすると、いつの間にか、前線部門と技術部門との間にヒエラルキーのような格差が出来てきた。前線部門は、技術部門に接続する前段階の苦情受付のための捨て駒のような役目を押しつけられ、技術部門との間に、だんだん給与面だけでなく心理的にも大きな格差ができ、技術部門は特権的な地位のようにみなされるようになって行ったのである。

職場の中にヒエラルキーがあるということは心理的にも非常によくない。職場内にあからさまな無気力感が漂い、同僚同士が妬み合ったり、足を引っ張り合ったりして、何一つ良いことは起きない。

だが、そのセンターには、筆者が働き始めて3か月頃した頃から、今度は、いきなり現場の仕事には全く携わることのない庶務部門や、社員の仕事をチェックしてはダメ出しするだけの品質管理部門といった新たな部門が導入されて、さらに新たな重層的ヒエラルキーが出来上がり、事務仕事に携わる連中が、前線部門、技術部門を問わず、センター全体の仕事を見張り、難癖をつけては、大きな顔をするようになったのである。

いきなり導入された庶務部が、シフト管理などにうるさく口出しをし、全従業員に君臨して大きな顔をし始め、一つの職場内で、事実上の官僚集団のようになって行った。一つのセンターの中に完全な「お役所」が出来上がり、筆者は開いた口がふさがらなかった。

そのような事態になるまでの間に、仕事の質もどんどん落ちて行った。最初は活気があったセンターが、連日の苦情のために、どんどん疲弊して行った。さらに、従業員は、あくどい形で、顧客から金をとるために、修理しなくても良い箇所まで、修理させるようにとの業務指示を下されたりと、納得のできないことの連続で、顧客が可哀想だと思われることしきりであった。

何より、連日のように顧客から異常と思われる終わりのない苦情が入って来るようになり、それにみなが苦しめられていた。むろん、そんな苦情が発生したこと自体、企業の経営方針、倫理の欠如が深刻に問われる。そうした希望の見えない仕事の中で、職場では身びいきがはびこり、幹部の覚えめでたい連中だけが、見る間に出世して管理職に登用されて行き、管理者ばかりがゴロゴロいるようになったのであった。

筆者はより高い給与とましな仕事内容を求めて技術部門への転身を試みたが、あいにく実現しなかった。(そして、筆者の人生では、この仕事が本業とは関係のない最後のアルバイトとなった。)
 
以上のような変化の中で、筆者はこの職場には将来の希望が全く見いだせないため、早く転職せねばならないと思うようになった。品質管理部門が、皆の仕事に目を光らせて、あれやこれやとうるさく難癖をつけているため、思うように仕事もできなくなり、筆者はこの職場を一刻も早く出るべきと確信した。
 
ほんのわずかな期間に、入ったばかりの頃のわきあいあいとした雰囲気、同僚たちとのあけっぴろげな談笑、これから何かが始まるぞという活気は、急速に萎み、見る影もなくなっていた。

筆者が仕事に愛想を尽かしかかっている気配を察知して、それまで同僚だった人が、それを上部に密告し、友達の顔をして、筆者の動向を調べ上げ、中枢部に報告するようになった、筆者はうすうす同僚の裏切りを感じてはいたが、それでも、それを全く意に介さず、その同僚の説得を振り切って、センターを去った。

その同僚は、筆者の退職後、筆者を裏切り者のように言いふらしていたらしい。(だが、自己弁明しておけば、そのように悪しざまに言われていた人々の中には、筆者のみならず、この職場を脱出しようとしたすべての同僚たちがを含まれていたのである。)
 
そして、密告までして上部に媚を売り、その仕事にしがみつき、センターに残った人たちが、その後、どのような末路を辿ったのかは、センターにいた仲の良かった別な同僚が仔細に至るまで教えてくれた。

筆者がそこを出た後、なんとごくわずかな間で、本社からリストラ精鋭部隊なるものが送り込まれて、大規模リストラを決行し、そのセンターが事実上、崩壊したというのである。

筆者はその話を聞くまで、追い出し部屋だとかの話を耳にしても、半信半疑で、リストラ部隊などといったものは、あるはずのない話だと思っていた。まさかそれなりに名の通った大企業に、自社の社員たちをリストラすることだけを専門にしている社員が雇われているなど、考えてみたこともなかったのである。一体、何のために?

ところが、それは本当のことらしかった。本部から四人の凄腕のリストラ精鋭部隊が送り込まれて来て、センターに残っていた同僚たちをことごとく片っ端からクビにして行ったというのだ。

仕事のできる優秀な人々がまず真っ先にターゲットとされ、仕事に難癖をつけられては、何度も、何度も、訂正を求められ、それにうんざりして自分から辞めた人も多かったという。数か国語を扱える優秀な社員も同じようにターゲットとされて追い払われた。

次に、管理職、平を問わず、大規模なリストラが決行されて、センターの人員が半数近くもいなくなった。その後は、事実上の恐怖政治が敷かれ、最後までクビにならずに残った人たちは、シフトも自由に申告できなくなり、休みも思うように取れず、恐怖で辞めることもままならず、会社への密告を恐れて同僚と口を利くことさえできなくなり、職場に出勤しても、恐怖のあまり手が震えてパソコンを打てないほどだったという。

センター自体はなくならなかったはずだが、筆者が見知っていた同僚の8割がたは解雇されて入れ替えられた。筆者がいた頃に、身びいきで出世していった人々も、みなすげ替えられたのである。

筆者はこの他にも、職場の腐敗や、崩壊に近い現象をそれなりに見て来たが、短期間でこれほどまでにダイナミックな崩壊(自滅?)を遂げた事例は他に聞いたことがなかった。立ち上げ当初の活気ある雰囲気を知っていただけに、まさかという思いが今でも込み上げて来るが、やはり、自分の中の直観は正しかったのだと思う。

リストラ部隊は、筆者には、抜き身の剣を持った御使いたちの姿を思い起こさせる。コネや身びいきがはびこり、不平等なヒエラルキーが敷かれ、お友達ばかりが管理職になって出世し、誠実な人々はひたすら苦情処理のような味気ない仕事を押しつけられ、昇進の道も閉ざされ、将来の希望もなく、不公平、不正義、堕落、腐敗の代名詞のようになったセンターには、こうして目に見えない剣が投げ込まれて、誰の手にもよらず、職場が自壊して行ったのである。

そうした話を同僚から克明に聞かされた時、職場がそんなひどい状態に陥るよりも前に、筆者がそこを去ったのは、まことに正しい決断だったと、改めて心の中で頷いたものであった。たとえ裏切り者のように罵られたりしたとしても構わない、残っていれば、もっとはるかにひどい事態が待ち受けていたことは明らかなのである。

可哀想なことに、優秀でまじめで仕事好きだった同僚は、精神的に追い詰められて、疲弊した様子だった。決して誰とも対立したり、会社の悪口を言ったりするようなタイプではなく、思いやり深く、働き者の同僚であったが、結局、無理がたたって怪我をして、その仕事を続けることはかなわなくなったようであった。

筆者が何を言いたいかは、しまいまで言い切らずとも、分かってもらえるのではないかと思う。

これまで我が国は、「国と企業のために役立つ優秀な人材」を求めて、ひたすら偏差値教育やら、就職戦線やら、国家公務員試験制度やらを通して、国民同士を競争させ、国民の間にヒエラルキーを敷いて、差別的な階層を作り出した。仕事を得る上でも、新卒・既卒の差別や、正規雇用と非正規雇用の身分差別、圧倒的な賃金格差を作り出し、とことん不公平な体制を敷いて、国民同士を「勝ち組・負け組」に分断して、戦わせて来たのである。

そのような悪しき分断作戦に、国民は気づいて立ち向かうべきであったのに、競争原理に踊らされ、自分を「勝ち組」として、地位にしがみつくことに必死の人々は、隣人に起こっていることに無関心で、自分が優位にあるうちは、自分だけが大丈夫であれば良いと考え、他人を見殺しにした。自分自身が徹底的にターゲットとされるまで、搾取や、リストラや、過労死や、ハラスメントなどは、自分には関係のないことだと高をくくっていた。

そのような愚かさ、無関心さ、無慈悲さ、利己主義がもたらす最後の当然の結末として、我が国では、今や国家や企業の無限大の搾取の願望が、ついに24時間働かせ放題のディストピアという形で押し通されようとしているのだ。

もうこうなると、国の崩壊そのものが近いと言えよう。今や抜き身の剣を持った御使いたちが、天から派遣されて、目に見えない死の剣を、我が国の国民全体の頭上に振りかざしている最中なのである。

それなのに、人々は殺されるまで物言わぬ羊として、上からの覚えめでたい人間として生きるため、地位にしがみつくため、殺人的な政策にも黙って従い、屠殺場に黙って引いて行かれるつもりなのであろうか? 

残念ながら、こうした現象は、経済界だけに限ったことではなく、むろん、国の組織も、学術研究機関も同じであり、およそ地上の組織という組織が、腐敗して、頼りにならない、人間を苦しめ、圧迫し、閉じ込めるものとなっているのである。

それは、宗教指導者の利益を第一とし、宗教指導者から評価されることを信者の「救い」と取り替えた腐敗した宗教組織にも共通することである。

「囲いの呪縛から出よ!」と、筆者はもう一度、言いたい。私たちは「和の精神」の呪縛から自分を解放すべきなのである。

カルト団体では、宗教指導者が信者に死ぬ寸前まで奉仕を要求するが、今の経済界で起こっていることは、それと本質的に同じ現象である。合理的な結果を出すために働かせるのではなく、人間を完全に奴隷化して支配するために、限度を超えた労働を要求しているのである。

このような死の世界には触れてはいけない。問題は、過労死をいかに防ぐかとか、企業や団体に労基法をどうやって守らせるかとか、正規と非正規の格差をどうやって埋めるかと言ったところにはもはやないのだ。

この果てしない地獄のような搾取の願望、人命を何とも思わずに犠牲とする金儲け第一主義の腐敗した理念から、どうやって一人一人が身を引きはがし、身を守り、これにNOを突きつけ、これとは全く異なる価値観に従って生きて行くかという選択の問題なのである。

筆者はクリスチャンとして言うが、今やまさに一人一人の信者が、信仰によって神ご自身との直接のつながりを得て、人間の指導者を介さず、組織を介さず、神のまことの命からすべての供給を受けて生きて行かねばならない時代が来ている。
 
それはハドソン・テイラーやジョージ・ミュラーを含め、幾多のキリスト教の先人が生涯に渡って成し遂げて来た方法であるから、何も不可思議な方法論ではないし、恐れることでもない。

イエスは十字架にかかられる前にこう言われた。

「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。

わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(ヨハネ12:23-26)

この御言葉は、隣人愛のために自分を捧げるという文脈で誤解される向きが強いが、実際にはそうではない。この御言葉は、クリスチャンが、この世で得られるすべてのかりそめの栄誉、地位、財産など、人間の間で作り出される虚栄に対して死ぬという意味を強く持っている。

これは、人の目に立派な人間と認められ、この世でひとかどの者と認められて地位を築き上げようとすることをやめて、ただお一人の神だけに評価され、神の御心を満足させることだけを求めて生きよという神の命令なのである。そして、主イエスは、その実現のために、十字架の死に向かわれたのであり、ご自分の死を指して、ご自分の「栄光」だと言われたのである。

イエスが地上に来られた時代、地上には立派なエルサレムの都と神殿があった。多数の宗教指導者がいて、人々に敬われていた。だが、イエスはそうした人々から全く栄光をお受けにならなかった。むしろ、主イエスは彼らを偽善者と呼び、「白く塗った墓」にたとえ、「外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている」(マタイ23:27)と非難されたのである。

イエスは彼らにこう言われた、

「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。こうして、自分が預言者を殺した者の子孫であることを、自ら証明している。

先祖のが始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。蛇よ。蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。

こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。」(マタイ23:29-36)

今日の時代もこれと全く同じではないだろうか。地上には荘厳で立派な教会がいくつも建てられ、立派な服を着た宗教指導者たちが講壇から重々しく説教し、うやうやしく荘厳な儀式が行われている。そして、彼らのもとに集まる信者は、自分たちは正しい宗教指導者を拝む正しい信者であると自負している。

あたかも、そこには完成に近い素晴らしい礼拝があり、素晴らしい敬虔な指導者や信者たちがいるように見えることであろう。

ところが、そうした人々は、神が遣わされた「預言者、知者、学者」を決して認めようとはせず、その中の「ある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する」。そして、その血の責任を、自分自身の身に負っているのである。

イエスが、エルサレムの都と神殿の崩壊を予告して言われたことを思い出したい。

「「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ。めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。

見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。
言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。

イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指した。そこで、イエスは言われた。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石ここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」」(マタイ23:37-39.,24:1-2)

このような宣告が一切、我が国とは関係がないと、私たちは言えるだろうか? 義人を罪に定め、真実を闇に葬り、不法と虐げを見て見ぬふりをし、寄る辺ない弱い者たちを嘲笑して死に追いやり、神に従う信者を迫害し、神が遣わされた預言者を殺そうとする国や街が、この先、無傷で立ちおおせることなどあるだろうか?

だが、私たちは、地上のエルサレムではなく、天のエルサレムを目指して歩んでいる。地上の目に見える都、宗教組織、目に見える礼拝、目に見える宗教指導者に帰属するのではなく、天の都に根差して生きている。だから、私たちは常に見えない新しい地に目を注ぎ、地上の目に見える有様に足を取られることは決してない。上にあるものを求めるために、崩壊しかかっている地上の有様からは目を離すのである。

今日、私たちがこの身に負っている「イエスの死」は、現実の死ではなく、十字架における霊的死である。私たちは絶えず自分の心に問われている、あなたは何を第一として生きるのかと。この地上における栄誉、人からの賞賛や理解、高い地位などと言ったものを求め、それを第一として生きるのか、それとも、見えない神からの賞賛や評価だけを求めて生きるのか。神を愛し、神に従って生きることと、地上での栄誉を求めることは決して両立しない。

筆者は何も持たずにこの地へやって来たときと同じように、手ぶらかつ気楽に、しかし心から、神に向かって祈る、主イエスよ、私はあなたに従います。何があろうとも、私はあなたに従います。私は、キリストがそうであったように、完全な人となり、あなたに従いたいと心から願っている僕の一人です。私の行くべき道を教えて下さい。私を教え、導いて下さい。私の人生は、あなたの御手の中にあり、私は人生最後の瞬間まで、あなたの僕です。

私たち自身の努力や決意は不完全であっても、神は私たちの信仰に必ず応えて下さる。何しろ、私たちが神を選んだのではなく、主が私たちを選んで下さったのであり、それは私たちが出て行って、実を結び、その実が永遠に残るためなのである。

そこで、地上の有様がますます悲惨に、混乱に満ちて行ったとしても、私たちの心の中には、常に新しい尽きない感謝の歌がある。それは、私たちの永遠になくなることのない希望である、まことの神への尽きない賛美と感謝の歌である。

だから、私たちは確信を持って大胆にこう言う、「主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。人間がわたしに何をなし得よう」と。イエスはすでに十字架で私たちのために勝利を取られたのであり、生涯の終わりまで、完全に私たちの味方でいて下さるのである。

「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。
 イスラエルは言え。  慈しみはとこしえに。
 アロンの家は言え。  慈しみはとこしえに。
 主を畏れる人は言え。 慈しみはとこしえに。

 苦難のはざまから主を呼び求めると

 主は答えてわたしを解き放たれた。
 主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。
 人間がわたしに何をなしえよう。
 
 主はわたしの味方、助けとなって
 わたしを憎む者らを支配させてくださる。
 人間に頼らず、主を避けどころとしよう。
 君侯に頼らず、主を避けどころとしよう。
 
 国々はこぞってわたしを包囲するが
 主の御名によってわたしは必ず彼らを滅ぼす。
 蜂のようにわたしを包囲するが
 茨が燃えるように彼らは燃え尽きる。
 主の御名によってわたしは必ず彼らを滅ぼす。

 激しく攻められて倒れそうになったわたしを
 主は助けてくださった。
 主はわたしの砦、わたしの歌。
 主はわたしの救いとなってくださった。

 御救いを喜び謳う声が主に従う人の天幕に響く。
 主の右の手は御力を示す。
 主の右の手は高く上がり
 主の道の手は御力を示す。

 死ぬことなく、生き長らえて
 主の御業を語り伝えよう。
 主はわたしを厳しく懲らしめられたが
 死に渡すことはなさらなかった。

 正義の城門を開け
 わたしは入って主に感謝しよう。
 これは主の城門
 主に従う人はここを入る。
 わたしはあなたに感謝をささげる
 あなたは、答え、救いを与えてくださった。

 家を建てる者の退けた石が
 隅の親石となった。
 これは主の御業
 わたしたちの目には驚くべきこと。
 
 今日こそ主の御業の日。
 今日を喜び祝い、喜び踊ろう。

 どうか主よ、わたしたちに救いを。
 どうか主よ、わたしたちに栄えを。
 
 祝福あれ、主の御名によって来る人に。
 わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。
 主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。
 祭壇の角のところこまで
 祭りのいけにえを綱でひいて行け。
 あなたはわたしの神、あなたに感謝をささげる。
 わたしの神よ、あなたをあがめる。

 恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。」(詩編118:5-29) 


御霊に導かれて生きる~イエスを公に証しない霊はすべて神から出ていない反キリストの霊である~

「「人は皆、草のようで、
 その華やかさはすべて、草の花のようだ。
 草は枯れ、
 花は散る。
 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。
 これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。」(Ⅰペテロ1:24-25)

草は枯れ、花は散る。

以上の御言葉の前半部分は、まさに東洋的世界観にも通じるこの世の物質世界の無常をよく表している。しかし、聖書の御言葉は無常観を表すものでは全くないから、それに続く御言葉は、前半とは全く異なる永遠の世界があることをはっきりと告げる。

「しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」

この最後の部分を認めるか認めないかによって、人の世界観、人の運命は真逆のものとなる。

さて、悪魔の歪んだディスカウントの鏡に映っている人間の像は、いつも嘘だらけで、信じるに値しない。当ブログについてディスカウントを続けている「鏡」があるが、その人々と彼らの言い分をこれから「彼岸」と呼ぶことにしたい。なぜなら、彼らはグノーシス(=般若)にたどり着いた面々だから、その名称がよく似合っているはずだ。

以前にグノーシス主義とは、母体となる宗教や思想の枠組みを持たない悲観的な哲学・世界観であって、どのような宗教、どのような思想の中にでも入り込み、その宗教の神話などを自在に利用して、自身に都合よく変えてしまうのだと書いた。

それゆえ、「彼岸」のグノーシス主義的世界では、筆者についても、これを一人の登場人物として、一聞しただけで、思わず笑いがこみあげて来るような、完全に妄想に満ちた虚偽の荒唐無稽なストーリーが出来上がっている。たとえば、筆者には甥など一人もいないにも関わらず、存在しないはずの甥が、筆者の家族の成員に加えられ、筆者の家庭は、クリスチャンホームでもなかったにも関わらず、筆者の「両親」は共に教会に通う敬虔な(?)クリスチャンに仕立て上げられ、その他にも、あるはずもない数々の虚偽が作り出されて、笑い出したくなるような非現実的なストーリーが出来上がっている。

そこでは、筆者に数々の栄誉ある称号も色々と取り揃えられており、筆者は極めて優秀な「御霊によって歩む」クリスチャンとなっているばかりか、ドストエフスキーやトルストイの研究者とも呼ばれ、当無料ブログのおかげで、評論家という称号まで受けている。一体、ドストエフスキーとトルストイの両方の研究者を名乗ることの困難さを、彼らは知らないのだろうか。こうなっては、まさにもう何でもありの世界だが、さわやか読者が押しかけて日夜検索結果の操作にいそしんでいるこのブログを理由に、ネット評論家を名乗るなどのことも、筆者自身は考えたこともなかった。

偉大な称号と、呆れるような中傷がミックスされて、大いに結構づくめのディストピアが出来上がっているようだが、そのデタラメぶり、根拠のなさがあまりにも可笑しく、断片を見ただけで、思わずふき出してしまう。足りないのは「ユダヤ人の王」の称号くらいか、いや、欠けているのは、聖書と、真実な信仰である。

聖書の神に忠実に従って生きるクリスチャンは、誰しもリトマス試験紙の役割を担っていると当ブログでは以前に書いた。様々な霊たちが、クリスチャンの周りで論争を繰り広げるが、クリスチャンは自覚していようといまいと、これらの霊の正体を人前ではっきり明らかにする役割を担っている。
 
当ブログにぶつかってきた霊たちは、いよいよはっきりとその正体と本音を明るみに出し始めたようだ。驚くべきことに、彼らはあからさまに聖書を否定し始めたのである。聖書に基づく純粋な信仰に生きることを、カルト扱いして、聖書の真実性を否定し、退け始めたのである。

このことは、彼らが今までうわべだけはクリスチャンを装って来たことから考えると、驚くべき事実であり、彼らが重大な分岐点を通過したことをよく物語っていると言えよう。

カルト被害者救済活動には、以前に説明した通り、当初は統一教会やその他のカルトと名指しされている宗教に入信した信者らを、暴力によって強制的に拉致監禁して、密室で聖書を使って延々と説得工作を行い、元カルト信者らの思想の誤りを暴き、彼らの誤った信仰を打ち砕いて、カルトへの信仰を棄教させた上で、キリスト教に入信させて来たという残酷な過去がある。

そんなにまでして、聖書を聖典として振りかざし、カルト信者に強制的な脱会・説得工作を行って来たカルト被害者救済活動の陣営が、ついに自ら振りかざしていた聖書の真実性を否定し始めたのである。

まさに本音が出たなという印象を受ける。筆者は以前から、拉致監禁までして他宗教から信者を奪うようなことは、決してキリスト教の信仰に基づく正しい行動ではないと指摘して来た。なぜなら、聖書の神は決して人に信仰を強制するようなことはなさらないからだ。
 
この人々は、聖書はすべてがすべて真に受けるべきものでなく、ほどほどの理解で良いなどと言っているようだが、もしそんなことを本気で考えているのなら、彼らが元カルト信者を強制的に脱会させた過去はどのように正当化されるのであろうか。そんなにもいい加減で無責任な認識で良いならば、多くのカルト宗教では、改ざんされているとはいえ、聖書も伝道に利用されているわけだから、多少、クリスチャンと認識がずれているくらいのことで、目くじら立てず、黙って放っておけばよかったのだということにしかならないであろう。身勝手極まりない理屈である。

聖書は、彼らにとってうわべを飾り、他宗教に対して優位を誇り、自己正当化をはかるためだけのどうでも良いツールだったことが、この告白によって明らかになった。彼らは本気で聖書の御言葉を信じ、従うつもりなどさらさらなかったのに、カルト信者に対して己の優位を振りかざすためだけに聖書を都合よく利用したのである。脱会工作は、おそらく、牧師たちが、カルトに入信した信者らの親から、泣く泣く頼み込まれ、しかも親たちから報酬としての謝礼金をもらって実行したことに過ぎないのだろう。それが決して信仰に基づく行動ではなかったことがますます裏づけられているのである。
 
「彼岸」では、日曜礼拝その他の各種の儀式の重要性ばかりが語られているようだが、それらの儀式をどんなに形式的に遵守しても、聖書の御言葉の真実性さえ信じようとしない、信仰のない人々の独りよがりな礼拝などは、罪人カインの礼拝として、神に受け入れられることも、喜ばれることも決してあるまい。

さて、これまで当ブログで大きなテーマを勢力的に扱おうとすると、「彼岸」では必ずこの種のネガティブ・キャンペーンが張り巡らされて来た。いつものパターンの繰り返しである。今や言いたいことがあるならば、裁判所や警察を通して、きちんと公に自分の言い分を主張する道が開かれているのに、こうした卑劣な方法しか使えないのは、よほど自分たちの主張を出るべきところに出て主張することに自信がないせいであり、かつ、よほど当ブログにおける主張が、暗闇の勢力にとって身に堪えているせいであろう。

グノーシス主義の理論の共通の骨子が暴露されることは、悪魔と暗闇の勢力にとって何としても耐えがたいことなのであろう。

彼らは筆者を狂人扱いした挙句、このままでは破滅するなどと言っているが、よくよく自分を振り返って観察してみることだ、一体、破滅の淵に立っているのは誰なのか。
  
この人々には、今までにも、決して自分の所属先の宗教団体を名乗らないという明白な特徴があった。勤務先はもちろんだが、どの宗教団体の人間なのかさえ、全くはっきりしない連中ばかりなのである。このような人々の述べる信仰論は、それだけで、最初から耳を傾けるに値しないことが明白である。他人には身元を明かせと要求し、暴力的に個人情報を暴いて、プライバシーを侵害する行為に出ておきながら、自分自身は所属教会さえ明らかにしないとは、まさに笑止千万な行動である。それでどうやって信仰を語る資格があるというのか。

このように、信仰があると自称しているにも関わらず、自分がどの宗教の信者であるかさえ明らかにしないような人々の言い分に、真面目に耳を傾けるのは愚か者のすることである。彼らは、クリスチャンであるのかどうかという最低限度の事実さえはっきりさせずに、他者の信仰告白の内容について云々できる資格などないのは当然である。

だからこそ、もとより信仰のないこの人々は、週刊誌のように他人の人間模様やスキャンダルを暴くことにばかりに熱中し、それ以外にできることがないのである。それは、彼らにはもともと聖書的な知識も信仰もなく、あるのはこの世的な関心だけかだらである。

だが、ついに彼らが最も好んで来た人間模様の中にさえ、フィクションの登場人物が作り出され、話がどんどん現実離れした方向へ向かっている様子を見ると、彼らがすでに重度の妄想に陥っていることがよく分かり、ただただ可笑しくなるだけである。

このような人々にはまさに「彼岸」という言葉がふさわしい。彼らはすでにこの世をすら去って、自ら「他界」し始めているのである。むろん、以下の御言葉の「悟りの道」がグノーシス主義のグノーシスと同じものでないことは、説明せずとも良いと思うが、死者の霊の集会に出席する者は、例外なく黄泉に誘われて行く。以上の人々はまさに「棺桶に片足を突っ込んでいる」のだと言えよう。

「悟りの道から迷い出る者は、死者の霊たちの集会の中で休む。 」(箴言21:16)
 
さて、以上のような人々の愚劣な行為がこの先、しかるべき罰を受け、そのデタラメな記述が必ず削除されることは変わらない事実だが、ただし、この先、彼らの「彼岸」の世界で、ありもしない創作物語が、どこまで大きく膨らんで行くのか、また、そのような話に騙される人々が、どの程度、この国にいるのか、それは面白い観察材料であるものと思う。

ある意味で、この手の話は、日本人の民度の高さを試す良いバロメーターになると言えよう。何の根拠もない中傷を真に受ける程度の判断能力しか持たない人々には、関わってもろくなことは起きない。良識的な人々は決してそのようなものに惑わされず、振り回されることもない。だから、このようなものは、自動的に良いフィルターの役目を果たしてくれる。

すでに多くの人々が気づき始めているように、この国は、だいぶ前からのグノーシス主義国であり、何もかもがさかさまにされているのである。安倍政権のもとで、以前からあった傾向が極度に強められ、今やこの国で良識的に生きる人々は、みな前回の記事で触れたロストロポーヴィチ夫妻のように、ソヴィエト政権から追放されたり、処罰された人々と同じく、あらぬスキャンダルの疑いをかけられ、「狂人」のレッテルを貼られ、社会から排斥されている現状がある。何しろ、グノーシス主義国だから、真実と虚偽が裏返しにされ、良識的な人々が「狂人」とされ、狂人が「健常者」の仮面をかぶって巷を跋扈しているのである。

それにしても、論拠のない稚拙な決めつけの記事もさることながら、他人のブログに便乗して二、三行の無責任なコメントを投稿するだけで、何か言ったような気分になるとは、信じがたいほどの独りよがりだと言う他ない。

筆者は、できる限り、ツイッターやフェイスブックや掲示板や他者のブログ等へのコメントの投稿を控えるよう心がけている。それは、あのように短い文章の中で、十分な論拠を示して物事を主張することは、決してできない相談であり、そういうツールを使い始めると、人はとことん怠惰になって、決めつけや、思い込みだけで、まことしやかにものを言う癖が身についてしまうと考えるからだ。

断片的な文章しか書かないでいると、思考力と文章力も、当然ながら著しく低下する。しかも、そういったコメント内容のほとんどは、他者の書いた論評に対する印象批評でしかないため、自分自身では何も生み出していないのだ。

論文で最も重要になるのは論拠である。なぜあなたはそのように考えるのかという具体的な証明プロセスのない、結論だけが決めつけのように提示されている文章は、決して誰にも相手にされない。緻密な論証過程を飛ばして、結論だけ提示して、何か言ったような気になるという無精な発言の仕方に慣れてしまうと、いざ何かを論証せねばならなくなった時、全くその要求に対応する力が自分の内に見いだせないとであろう。「彼岸」の著者の一人が、博士論文を書き上げることができなかったのは決してゆえなきことではあるまいと思う。

さらに、論証過程を飛ばしてコメントすることに慣れてしまうと、自分が無精な方法でしか発言していないため、他者が作り上げた作品にも、どれほどの苦労が込められているかが全く分からなくなってしまう。何を見ても、上から目線で傲慢な態度で、一方的な印象批評を書き記すだけの空っぽな人間が出来上がる。痴呆化と高慢さへの最短コースである。

そこで、当ブログの内容について反論がある人々は、一人一人自分でブログを開設して、引用箇所をはっきりさせた上で、ルールを守って、自分の文章を論理的に書いて反証してみれば良いのだ。多分、どんなにそれが恐ろしく手間のかかる作業であるかがすぐに分かり、ほとんどの人々が面倒になって途中で放り出すことであろう。むろん、所属先の宗教団体も当然、明かすべきであろう。その上で、しかるべき諸手続きを最後まできちんと遂行して主張を提示できる人々がいたならば、それは傾聴に値する意見であるため、ネット上で議論をする価値もそれなりに出て来よう。

だが、ブログというものは、そもそも他者への反論だけではどうやっても続かない。自分の信念に基づく確固たる意見が出せなければ、文章を書き続けること自体が無意味である。コピペだとか、ネットのニュースの転載だとか、どこかで起きた事件を、ただ右から左に報道しているだけで、自分が一体、それについて何を訴えたいのか、自分自身はその出来事にどう関与しているのか、それさえ明らかにできないブログは、読者の共感も得られず、決して続かない。

人を貶め、中傷するためだけの「鏡」は、完全に独創性を失っているため、そこまで内容が希薄になれば、この先、放っておいても、長くは持ちこたえられないのは明白である。脅せば誰でも人は言いなりになると考えているのだとすれば、それは完全な誤りである。

主張というものは、内容が勝負所なのであって、主張と主張のぶつかり合いで勝利をおさめたければ、相手の主張を超える強度を持った主張を自ら提示せねばならない。相手の主張がダイヤモンドならば、それを超える強度が必要となる。それができなかった場合、弱い方の主張が粉々にされてしまうだけである。
 
時に、粉砕されなくても、淘汰という現象も起きる。筆者が知っているだけで、ここ5年ほどで匿名掲示板とその投稿が相当な分量、淘汰されて消え去った。当ブログに悪質なコメントを残していた掲示板があったので、その投稿の記録を保存してあったが、ここ数年の間に、掲示板ごと消失しているものが、相当数あったのである。2ちゃんねるなどは一時は広がりを見せ、人目には隆盛を極めていると見えた時期があったかも知れないが、今となっては、あまりにも悪評高いせいで、良識的な読者に見捨てられ、消滅の危機に晒されている。日本年金機構への内部告発に利用された際、消えかけた線香花火のような存在意義を見せたくらいであろうか。

匿名掲示板には訴訟沙汰なども多発しているため、人々が安心感を持てなくなり、関心が薄れつつあるだけでなく、ツイッターやフェイスブックなどで身元を明かして、同じくらいに短いコメントを発信するスタイルが今や主流になったため、そのことが匿名掲示板の衰退に拍車をかけている。

やはり、責任の所在を明らかにしない文章は、影響力を持たないのであり、その上、きちんとした論拠を示さず、とりともないおしゃべりを続けるだけとあれば、内容の希薄さゆえに、淘汰されて行くのは当然である。おそらくあと10年から長くとも15年のうちに、匿名掲示板は消え去るか、今とは全く違った形式に移行する必要に迫られるのではないかと予想する。

花が散り、草が枯れるように、聖書の永遠の御言葉に立脚しないむなしい議論は、一時は盛り上がっているように見えたとしても、時と共にすべて初めから無かったも同然に、胡散霧消して行くのである。

さて、聖書にはこんな文句もある。空中に散じて行くだけの無意味なおしゃべりのせいで、永遠に有罪を宣告される者たちが出て来るというのである。

言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」(マタイ12:36)

「彼岸」から他者をディスカウントする発言ばかりに熱中している悪霊に導かれる者たちは、いざ神の御前で申し開きを求められたとき、その言葉のゆえに、どれほど重い罪を負わされるのであろうか。しかも、その幾分かは、この世でもリハーサルがあるのだ。すべての言葉には責任が伴い、必ずそれが追及される日が来るのである。

しかし、きちんとルールや手順を守って価値ある内容の文章を書いていれば、その記事は、三十年、四十年先になっても、いや百年先であっても、必ず、残るだろう。そのことは、ソビエト体制のような厳しい思想的統制下で秘密裏に書かれた文学作品でさえ、あらゆる方法で保存され、何十年もの時を経て、今日まで残されている事実を見ても分かる。それはこの世の文学作品の話であるが、永遠に変わらない神の御言葉に立つ信仰告白が、この世の文学作品よりも早く消え去ることは絶対にない。

悪魔の妄想でしかないフィクションの「鏡」は短期間で消え去るであろうが、真のリアリティである神ご自身という「本体」に属するものは必ず残る。筆者が自信を持って、この先、何が起こるかを見てもらいたいと言うのは、キリストとの霊的な結びつきの中を歩んでいるキリスト者の証が地上から取り去られて、悪魔の「鏡」だけが残るということは絶対にないと分かっているためである。

筆者はまだ信仰の歩みの途上にあるため、パウロと同じように、自分が学ぶべきことを学び終えてすでに完璧なクリスチャンになったなどと自己宣伝するつもりはさらさらないが、それでも、当ブログは、筆者の真実な信仰告白であるから、その内容に対しては、神が責任を負って下さると分かっている。

なぜなら、聖書に書かれていることが真実であることを証明されるのは、神ご自身だからである。だから、たとえ誰かが筆者を狂人扱いしたりしても、それによって、その人が神の御言葉までも消し去り、否定することは絶対にできないのである。

筆者は、この度、「般若=グノーシス」を根こそぎ断罪して、彼岸に投げ捨てた。うわべだけは敬虔な信者を名乗っている多くの人々が、筆者に対して、般若の顔をして、筆者を中傷したり、呪ったり、断罪したりしたが、そのようにして彼らが筆者になすりつけようとしたすべての呪いを、みなキリストの十字架を経て彼岸へと渡し、黄泉の世界に追い返したのである。

興味深いのは、「彼岸」から未だ中傷を続けている人々の言い分が、だんだん筆者個人への非難や中傷の域を超えて、ついに聖書全体への中傷、神ご自身への冒涜にシフトしつつあることだ。

ある意味で、筆者がずっと待っていた回答がやっと提示され始めたのである。いよいよこれからが本番中の本番である。彼らは自分たちはグノーシス主義者ではないと言っているが、彼らの言い分を聞いて、誰が本当にそうだと信じるだろうか? 彼らはこれまで自分たちがあたかもクリスチャンであるかのように振る舞ってきたが、ついにそのかりそめの信仰も自ら捨てつつあるのだ。聖書など初めから全く敬っておらず、御言葉の真実性を信じていなかったことを彼らは自ら告白している。

おそらく、この先、クリスチャンの仮面をかぶり続けて来た彼らの内心が、とことん明るみに出され、その本心に溢れ返っているものは、神への恨み、憎悪、聖書の御言葉への憎しみ、否定であることが、この上なくはっきりする時が来るものと思う。

先に当ブログでは、彼らは必ず警察の忠告を振り切り、この世のすべての秩序を侮るだろうと予告したが、現にそうなっている。このまま見守り続ければ、いずれ彼らは必ず、聖書の神ご自身への憎しみと中傷をまき散らし、憤りを爆発させて、自分たちが神の敵であることをはっきりと万人の前で告白する時が来るであろう。それがまさに彼らの心の本質なのである。

そして、それは必ず多くの人々が目撃する形でなされるであろうから、そうなるまで、しばらくこのまま観察しておきたい。

筆者が殉教などという言葉を口にしたからと言って、まさか自ら死に支度をしているなどと勝手に考えてもらっては困る。今はまだ戦いの初歩の初歩の段階であって、およそ殉教などというレベルの話が具体的に出て来る余地はない。仮にそういう時代が来るとしても、それはまだまだかなり先のことである。

筆者がいかなる人間であろうと、聖書の御言葉で武装し、神の懐に隠れている人間を攻撃することのできる人々はいない。今起きていることは、我々はまずこの地上で、小羊の血潮と証しの言葉によって悪魔に立ち向かうことをきちんと学ばねばならない、ということを示しているだけである。

さらに、「彼岸」にいる人々がブログを失い、人生を失って破滅すれば、自暴自棄な行動に出る可能性があると思い、憂慮する人もあるかも知れないが、しかし、それすらも、全く心配の必要がないと言うのは、彼らの行動はすべて衆人環視の中で行われ、以下の御言葉にもはっきりと示されている通り、彼らが抜いた剣は、彼ら自身の胸を刺し通すだけだからだ。考えても見てもらいたいが、今まで行われた彼らの行動のすべてが、大勢の証人のいるところで行われたのだ。この人々の運命は全世界に対して指示されねばならないので、その終わりも、当然ながら、衆人環視の中となるであろう。

これまでも、彼らはただ脅すだけで、決して何事も筆者に強制することはできなかった。それは、筆者が何を信じるのか、誰からの強制によらずに、自分自身で選択し、告白することを神に求められているためである。神はすべてのことを、信者自身の意志で選ばせたいと考えておられる。強制されて行われた告白は、自由の中で自ら選んだものと言えない。よって本当にその人自身の選択なのかどうかも分からない。神は、筆者が人生における最後の選択の一つに至るまで、すべてを自らの意志で決定することを望んでおられるのである。それが神の御心であるがゆえに、筆者に対して何一つ強制できる人はいないのである。

筆者は「彼岸」のブログに自殺者の遺族のフォーラムの話題が掲載された時点で、それは彼らがすでに死者の集会の中に身を置いていることを明白に示す証拠だと受け止めている。彼らの心は絶えず死とその周辺の黄泉とをさまよっている。今後、どういう形でそれが具体的に彼らの身の上に実現するのか、今はまだ分からないが、すでに述べたように、彼らが神を公然と人前で呪う段階が訪れた後、ヨブの妻がヨブに投げつけた言葉が、おそらく、彼らの身の上に成就するであろうと思う。「神を呪って死になさい!」という彼女の言葉は、神を呪うことと、人が自死することが、分かちがたく一つであることを示している。

これが、神を知る知識を自分で退け、捨てたすべての人に働く霊的法則性なのである。それは決して誰かの意志次第で変えられるような軽い運命ではない。だから、聖書に対してどのような態度を取るか、各人は極めて慎重でなければならない。全世界の人々が見ている前で、聖書の真実性に異議をさしはさむような者は、必ずその次には神を呪ったり、冒涜・否定する段階へと進み、誰もに取って見せしめや教訓となるような最期を遂げることになるであろう。

「人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、”霊”に対する冒瀆は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」(マタイ12:31-32)

人を罵倒する罪は、悔い改めれば赦されるし、償うこともできよう。しかし、聖霊を冒涜する罪は赦されないと、前々から幾度も述べているように、人はクリスチャンや神の教会を罵倒しているうちに、いつしか取り返しのつかないところまで深く罪を犯してしまうことがありうる。さらに、聖書の真実性を否定することは、御霊によって書かれた書物を虚偽であるとみなすことと同義であり、それは、ひいては神ご自身を偽り者とみなすことを意味する。

そして、人が創造主を偽り者(=フィクション)とみなせば、その人の存在そのものがフィクションとして消えるのである。これは霊的法則性である。自分が創造主に対して吐いた言葉が、自分の運命をそのまま決することになるのである。
 
だが、いかに人を侮辱することが永遠の罪にならないと言っても、彼らはこの先、筆者を攻撃すればするほど、自分で自分の心を傷つけ、人としての尊厳を失い、罪悪感と、後ろめたさと、社会からの蔑みの目線と、孤立により、居たたまれなくなって行くだけである。

さらに、筆者はこの十年間というもの、どうやっていわれのない迫害に立ち向かうべきか、一つ一つ必要な手順を学んできたが、彼らは一度たりとも一人で神に向き合ったことがなく、迫害や圧迫に立ち向かう術をも学んでいない。

だから、彼らが孤立状態に置かれれば、その心は、それがごくごくわずかな期間であっても、大変な打撃を受け、正常には保たれるまい。彼らの言い分の内容の希薄さを見ても、彼らの終焉が近いことはすぐに分かるが、彼らに残された月日自体がそう多くはない。人を馬鹿にすることはまだ償いが可能であるとしても、神を侮り、冒涜し、自ら神になり代わろうとすることはそれとは異なるからだ。
  
肉のものは霊のものより早熟である。それは肉の性急で忍耐できない性質に由来する。それゆえ、肉のものは霊のものよりも先に絶頂に達し、先に繁栄を謳歌する。その繁栄は、ぱっと見には長く続くように見えるかも知れないが、実際には、花が散り、草が枯れるように、たちまちにして消えて行くものである。悪人は気づけばもう跡形もなく、いなくなっている。栄枯盛衰、諸行無常、聖書の御言葉を信じない悪人にあるのは、ただ滅びゆく世界の無常観だけである。その定めに抗う術は彼らにはない。だが、御言葉に立つ者は、悪人が消え去った後も、末永く平和と繁栄を享受する。

人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。
 「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、
 裁きを受けるとき、勝利を得られる。」と書いてある通りです。」(ローマ3:4)

「悪事を謀る者のことでいら立つな。
 不正を行う者をうらやむな。
 彼らは草のように瞬く間に枯れる。
 青草のようにすぐにしおれる。

 主に信頼し、善を行え。
 この地に住み着き、信仰を糧とせよ。
 主に自らをゆだねよ。
 主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
 あなたの道を主にまかせよ。
 信頼せよ、主は計らい、
 あなたの正しさを光のように
 あなたのための裁きを
 真昼の光のように輝かせてくださる。

 沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。
 繁栄の道を行く者や
 悪だくみをする者のことでいら立つな。
 怒りを解き、憤りを捨てよ。
 自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはいならない。
 悪事を謀る者は断たれ
 主に望みをおく人は、地を継ぐ。

 しばらくすれば、主に逆らう者は消え去る。
 彼のいたところを調べてみよ、彼は消え去っている。
 貧しい人は地を継ぎ
 豊かな平和に自らをゆだねるであろう。

 主に従う人に向かって
 主に逆らう者はたくらみ、牙をむくが
 主は彼を笑われる。
 彼に定めの日が来るのを見ておられるから。
 主に逆らう者は剣を抜き、弓を引き絞り
 貧しい人、乏しい人を倒そうとし
 まっすぐに歩む人を屠ろうとするが
 その剣はかえって自分の胸を貫き
 弓は折れるであろう。

 主に従う人が持っているものは僅かでも
 主に逆らう者、権力ある者の富にまさる。
 主はご自分に逆らう者の腕を折り
 従う人を支えてくださる。
 無垢な人の生涯を
 主は知っていてくださる。」(詩編37:1-18)

聖書の御言葉と、フィクションの世界はどこまで行ってもなじまない。筆者はまだ信仰に生きるようになる前、学生時代に長編小説を書こうと試みたことがあるが、完成に至らないまま放棄した。筆者はその当時、架空の世界を舞台として、冒険物語を書こうと思い、構想を練り、登場人物を揃え、プロットがほぼできあがった。だが、いくつかの章ができ、あとは細部を書き上げてつなぎ合わせるだけとなった時点で、別な用事のために、その作品は未完のまま放置された。それから、何年も月日が過ぎて、当ブログを始めた少し後で、改めてその小説を開いてみたところ、聖書とは無関係の架空の世界を舞台にして小説を書き続けることは筆者にはもうできないという結論に至った。

筆者は、キリスト者として生きることが何を意味するのかを理解するようになってから、それ以前とは大いに自分の感覚が変わってしまったと思うことがたくさんある。ここで言う「キリスト者として生きるようになってから」という言葉は、教会に通うようになってからとか、洗礼を受けてからという意味ではない。キリストご自身を実際に生きて知ってから、という意味である。

世にはクリスチャン作家が存在することは知っているが、その人たちの考えがどうあれ、筆者自身は、現実に存在しない架空の舞台で、キリスト教の神について語ることは無理であると考えている。なぜなら、神の御業を生きて知ることは、常にそれに関わる人々に現実的な代価を要求するため、人としての痛み苦しみも実際には味わうことなく、この世の時空間の中にまるで存在しない架空の登場人物に、神の貴い御業を信仰の代価なしに体験させることなど無理だからだ。どうやってそんな設定に説得力を持たせることができようか。
 
もしフィクションの物語で描ける内容があるとすれば、それは神のいない、人間だけの世界で起きる絶望的なストーリー展開だけであろう。その悲しい描写によって、人々の心にこんなにもむなしい世界は嫌だという思いを起こさせ、そのフィクションの世界を抜け出て、真実な神へ向かいたいという願いを呼び起こすことは可能かも知れない。

フィクションの世界では、このように、まことの神ご自身を物語のプロットに介入させることができないため、描けるのはどこまでも人間だけである。だが、キリスト教の神を扱えないからと言って、そこに聖書の神とは異なる別の神を作り出し、フィクションの宗教を作ったりすることは、もっと忌むべき試みであるものと思う。

そのようなわけで、架空の物語には、その物語の世界観の基礎となるべき思想がなく、それゆえ、どんなにプロットに重みを持たせようとしても、中心となる柱が欠けているため、最も主張したい重要な事実に、裏づけがなくなり、主張が消し飛んでしまうと分かり、それ以後、筆者は小説を書くことを放棄した。

この他にも、以前にはそれなりに本を読んでいたが、興味もなくなり、読めなくなってしまったという変化も起きた。感情や感覚をいたずらに刺激する文学的修辞が、物事の本質からいかにかけ離れているかが分かり、受けつけられなくなったのである。

人間の感情や感覚を刺激する描写や表現は、たとえそれが文字で書かれた文章であったとしても、ある種の悪魔的な性質としての肉の働きを含んでおり、それに没入するならば、本人を全く意図していない方向へと導く。文学的修辞は、堕落した魂の世界に属するものであり、それを通して、様々な悪しき思いが人間の心へ入り込むきっかけを作り出す。

聖書には、霊的な文脈はあるが、文学的修辞はない。聖書は人間の使う言語を用いて書かれているとはいえ、文学的修辞のような、魂に働きかける言語によって書かれたものではないのである。

以前に、筆者は、当ブログにも度々引用しているオリーブ園クリスチャン古典ライブラリーに掲載されている記事の中で、クリストフ・ブルームハルトや、セス・リースのような、ペンテコステ系の指導者の記事だけは、どうにもいただけないと疑問符を投げかけたことがあった。その理由は、こうしたペンテコステ・カリスマ運動の指導者らの記事の文章が、霊的文脈でなく、まさに通常の小説などと同じ、文学的手法を用いて書かれているためである。(それゆえ筆者自身はこれらの記事を一部を除いてほとんど読んでいない。)
 
文学的修辞は、人間の感情や感覚を揺さぶる力を持っているが、それはあくまで人間の天然の魂に働きかける力であって、霊的文脈ではない。人間の道徳観も同じである。どんなに正しい主張のように聞こえても、魂から生まれる道徳論は、神の霊的な事実とは一致しない。それゆえ、ペンテコステ・カリスマ運動の指導者の書いた記事は、どんなに霊的内容を装っていても、オースチン-スパークスやペン-ルイスなどの文章とは全く異質な別の動機によって書かれたものであると、筆者は判断せざるを得なかったのである。(このことは、オリーブ園の著者が行っている膨大な手間暇をかけた翻訳作業を筆者が評価しないという意味では全くないため、誤解しないようにしてもらいたい。いかなる人の発表したいかなる内容であれ、読者は自分自身で識別しなければならないことを述べているだけである。)
 
そうした判断に基づき、オースチン-スパークスのような霊的先人たちの主張と、ペンテコステ・カリスマ運動のような「霊的ムーブメント」とが、どのように異なるのかを追っていくと、両者は、全く源流を異にする別の霊的運動だという事実が見えて来る。そして、一体、ペンテコステ・カリスマ運動の起源は何かということを調べて行くと、これは聖書とは全く異なる東洋思想をキリスト教と合体させて出来た異端で、その本質はグノーシス主義だということが分かるのである。

「霊的」と言われているからと言って、すべてが御霊から来たものではなく、グノーシス主義のように、「肉のものを御霊のものに見せかける」トリックが存在するため、この点を見分けることができなければ、熱心なクリスチャンほど欺かれる危険がある。なぜなら、熱心なクリスチャンには、霊的な信者になりたいという真剣な熱意があるので、真理への渇望、探究という点で、怠惰なクリスチャンとは比較にならないからだ。そして、そのような熱心さにつけこんで、「あなたはかれこれの教えを受ければ、もっと霊的になって、神に近付けますよ」という甘い誘い文句で、信者を欺くのがグノーシス主義の特徴であるため、注意しなければならない。その偽りを見分けるためには、霊の偽物が存在することを理解した上で、異端の基礎構造を把握して備えておく必要がある。ちなみに、霊を識別することは、聖書が信者たちにはっきりと信者に呼びかけている事柄である。

「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。」(Ⅰヨハネ4:1-3)

以上の短い御言葉を読んだだけでも、イエス・キリストを証せず、人間を証し、聖書を軽んじるカルト被害者救済活動が、神の霊から来た活動でないことは明白である。だとすれば、その運動はどこから来たのか。悪魔から以外にはあり得ないだろう。ではなぜ彼らは自分たちはグノーシス主義者ではないと言っているのか? ただ嘘をついているだけである。

我々には、ある人の主張の背後に存在する霊の性質を見分けるに当たり、その人の書いた文章以外に手がかりとなるものはない。そこで、ある主張が、本当に神の聖霊から来たものであるかどうかを確かめる有力な手がかりは、聖書の御言葉と対比することである。だが、もっと簡単に見分けるポイントをあげるなら、それは前々から書いているように、「キリストに栄光を帰しているのか、それとも、人間に栄光を帰しているのか」という違いに注目することだ。御霊はイエスを証しし、イエスに栄光を帰する。それをせず、人間を証し、人間に栄光を帰する霊は、キリストの御霊ではない。

イエスは言われた、「もし、わたしが自分自身について証しするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証は真実であることを、わたしは知っている。」(ヨハネ5:31-32)

「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」(ヨハネ15:26)

「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。」(ヨハネ16:13-15)


ペンテコステ・カリスマ運動がいかがわしい偽物の霊的運動だとはっきり言えるのも、この点によるのであり、この運動は必ずと言っていいほど、人間の指導者に栄光を帰する。彼らは人間に過ぎない指導者を、偉大な霊の器として誉めたたえ、いかにその指導者が数々の奇跡的な偉業を成し遂げたかという話に夢中になる。この類の話は、イエスを人間が栄光を受けるための手段に変えてしまっており、その「証」の内容も、ほとんどがサンダー・シングと全く変わらない奇跡物語である。それゆえ、どこからの時点で、死者の霊との語らいというテーマも出て来るであろう。なぜなら、悪魔的な思想は、死、黄泉、墓、死者の霊などに異常なほどの愛着を持っているためである。

繰り返すが、キリストから来た御霊は、キリストを証する。そしてキリストに栄光を帰する。しかし、堕落した被造物としての人間(悪魔)から来る霊は、人間自身を証し、人間に栄光を与えようとする。前者がキリスト教の正しいあり方で、後者は被造物を神とするグノーシス主義の特徴である。そこで、以上の御言葉のリトマス試験紙により、9割程度の主張の出所が明らかになる。それでも分からないものがあれば、さらなる検証が必要である。

さて、自分たちはグノーシス主義者ではないと言って、筆者の論に反対しているカルト被害者救済活動の支持者らが、イエス・キリストを証しせず、聖書の完全な真実性を認めず、クリスチャンや神の教会を迫害し、嘘とデタラメを終わりなく並べ、筆者のようなクリスチャンが聖書を捨てるべきだとまで主張していることは、思わず笑ってしまうほどの自己矛盾であり、荒唐無稽かつ愚劣な主張である。こうも支離滅裂な主張になって来ると、もはや精神の異常さえ疑われるレベルに達していると言われるのも当然であろう。

偽りの霊性がその醜い本性を赤裸々に表すのは、彼らの思想の展開が最後の段階になってからのことである。悪魔が光の天使を装うように、般若(グノーシス)は、最初は涅槃の姿をして近づいて来るのであって、その真の顔が、般若の(鬼の)面であることは、最初から示されるわけではない。現に三島もそうであった。三島が肉体を鍛え、明るい太陽の下で、人々と楽しく交流し、人生を謳歌していたように見えた時、彼は人々から見れば、涅槃に生きているようにしか見えず、まさか彼がまっしぐらに死へ向かっているのだとは、皆に思いもかけなかったであろう。彼には妻もあれば、子供たちもいたのである。その上、才能もあった。死ななければならない理由は、彼の思想に着目する以外には、どこにも見いだせなかった。

今日も、同じように、何の問題もなく人生を謳歌して安楽に生きているように見える人々の心に、御言葉という見えない霊的法則性の物差しを当てはめるなら、まるで数学の方程式を解くように、彼らの向かう先がどこであるか、その目的地をほとんど狂いなく正確に導き出すことができる。

ノアが嘲りの只中で箱舟建設の作業を進めていた時、人々は飲んだり、食べたり、娶ったり、嫁いだりして、己の欲望に邁進していた。人々は、ノアがそうした事柄に関わろうとせず、人々の振る舞いに賛同も賞賛もしないのを見て、最初はいぶかしみ、次に忠告し、彼を何とかして世に引き戻そうと試み、それがかなわないと見るや、何という変人かと呆れ、ノアはきっと偏屈なカルト信者に違いないと決めつけて、嘲りと妨害に転じたことであろう。箱舟建設に妨害は起きなかったと思う方が安易すぎる。

ロトの時代もやはりそれと同じであった。ソドムの住人は己の欲のゆえに途方もなく凶暴化しており、ロトの家に滞在した御使いたちの引き渡しを求めて、ロトの家に群衆となって殺到し、押し入ろうとさえした。だが、神はロトの家族を守ることを決めておられ、実際に彼らを守られたのである。ただロトの妻だけが、ソドムの欲に引かれ、脱出の途上で後ろを振り返って帰らぬ人となった。ソドムの凶暴化した住人たちは、当然ながら、一人残らず滅ぼされた。そこには加害者も被害者もなかった。ロトの家族を除いて、全員が滅ぼされたのである。

今、見えない箱舟建設の作業は着々と進んでいる最中であり、これを嘲っている人々は、ただ自分たちに差し迫っている滅びが見えないだけである。彼らは自分が何からエクソダスせねばならないかも分かっておらず、神と聖霊に執拗に言い逆らって、自分たちが二度と後戻りできないように、信仰の道を自ら閉鎖している。まもなく、彼らは、御使いたちを憎悪して引き渡しを求めたソドムの住人たちのように、自らの憎悪を、被造物ではなく、創造主に直接、向けるようになるだろう。通常の常識のあるクリスチャンが、彼らの境遇に置かれれば、自分たちを待ち受けている滅びの運命が、あまりに恐ろしいことに気づき、とうに嘲りとディスカウントの鏡を捨て去って、真心から悔い改めて神に立ち戻っていたことだろう。神が彼らの心をこれほど頑なにされたのである。恐るべき霊的盲目性と言うほかない。それは彼らが悔い改めて神に立ち返る道が閉ざされるためである。神はご自分が憐れもうとする者を憐れみ、心頑なにしようと思う者を頑なにされるからである。

「ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。人の子が現れる日にも、同じことが起こる。<略>自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。」(ルカ17:26-33)

「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。」(マタイ24:36-39)

牧師や教職者を特権階級とする制度は教会を絶対的に腐敗させる~バアルにひざをかがめない七千人の登場を待つ~

さて、いよいよグノーシス主義に関する最後のテーマに近づいて来たが、そのテーマに入る前に、もう一度、牧師制度が根本から誤っていることについて書いておきたい。

牧師制度の根本的な誤りについて書くと読者が激減する。今は当ブログを訪れる読者の数多くが検索結果の操作のための工作員という有様なので、さわやか読者が減っているならば、良いことである。

不思議なことに、アクセス履歴がどうあれ、ここで論じた話題は電撃のごとく伝わって行く。まるで閉塞した全体主義社会のようなキリスト教界において、はっきりものを言う人は極めて少ないため、影響力は少なからずあると見られる。

さて、ネットにブログを開設したり、コメントの投稿を行っている人々は読者のうちのほんの一部で、残りの8~9割はネット上ではほとんど発言しない人々である。だが、筆者が読者とみなしているのは、もの言わぬ人たちである。

日本のクリスチャン人口は1%を横這いしていると言われるが、それは統計が取られた時点で、どこかの教会に所属している人たちを指し、実際にはその何倍、何十倍もの、教会に属さない”隠れキリシタン”のような人たちが存在すると思われる。1%は入れ替わりの結果だからだ。

選挙では、無党派層が動けば、政権交代など簡単だと言われているのと同じように、以上のように教会から打ち捨てられて、統計にも挙がらず、ひっそりと個人的に信仰を守る”ドロップアウト組”のクリスチャンが動くことがあれば、キリスト教界をめぐる状況はあっさりと変わるだろうと思う。

牧師制度の前に跪拝しない、「バアルにひざをかがめない七千人」が必ず残されていることを筆者は信じる。
 
さて、「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久なる人物の誤りは、プロテスタントの諸教会の誤りを現象面だけで取り沙汰し、教義面で深く考察することをほとんどしなかったがために、ペンテコステ・カリスマ運動の根本的な誤りに気づくことなく、これと訣別もしなかったことである。さらに、それに加えて、数々の牧師を批判しながらも、牧師制度そのものが根本的に誤っていることに気づかず、牧師制度こそ、諸教会に様々なスキャンダルが引き起こされる最たる原因であるということを見失ったまま、教会バッシングに走った点にある。
 
だが、以前にも書いたように、杉本は当初はプロテスタントのあらゆる牧師に対して否定的な態度を取っており、村上密についても「全く信用していない」と断言し、活動を支援しない立場を取っていた。筆者から見れば、そのままの立場を貫けば良かったのである。

ところが、杉本は村上密から、早速、自分が村上について書いた否定的な見解にクレームをつけられた際、おそらく、水面下で、「あなたは思い込みだけで私を非難している。私(村上)は命がけでカルトと戦い、被害者を救済しようとしているのに、あなたは私の働きを否定して、被害者を見殺しにするつもりか」と責められたのだろう(そう考えるのは、村上が当ブログにクレームをつけた際に、まさにそういう理屈を用いているからである)。それを機に、杉本はあっさりと立場を翻し、前言を撤回して、ほとんど謝罪文のような文章をブログに記して、村上陣営に下って行った。

だが、杉本は過去にアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の教会を見放して、そこを去った経緯があったわけだから、その時に得た自分の個人的な直観を尊重すべきであった。おそらく、それまでの杉本の心の中には、何らかの体験を基に、聖霊派の教団は一切信用できず、そこにいる牧師も信用できないという直観があったのではないかと思われる。

それにも関わらず、杉本は「自分が他人にどう見られているか」という体裁にこだわるあまり、自分が体験を通して得た貴重な教訓を尊重せず、自分がかねてよりプロテスタントの教会(特に聖霊派)に対して持っていた不信感を捨て、世間からの評価を失うことを恐れて、村上のクレームに屈してしまったのである。

杉本は、村上の人物が信用できずとも、とにかくカルト被害者だけは支援しなければならないという義務感に駆られて、村上に降伏宣言をし、それを機に、自分の見解をどんどん失って行ったものと考えられる。
 
そのようなことになったのは、杉本がもともとブログにおいて、自分自身の心の問題と真正面から向き合っていなかったためでもある。杉本は、自分が一体、なぜカルト問題に関心を寄せており、カルト被害者に同情しているのか、自分自身が聖霊派の教会で受けた負の体験や心の傷と、真正面から向き合いながら、その問題を解くことを避け、自分自身の問題はすうかり脇に置いて、他のカルト被害者のことだけを論じており、そのようにして自分自身の問題を軽んじるうちに、以上のように、自分が個人的な人生で体得して来た教訓や直観すらも軽んじるようになったのである。

杉本は、神の御前で、自分が教会に対して持っている恨みや憎しみはどこから来るのか、その負の感情を正直に告白して、自分自身の心の癒しを求め、さらに、神の望まれる真実な教会の姿を求めることで、真理に立ち返る作業をしなかったのである。そうして自分自身が不在のまま、他者の問題にばかり没入して行った結果、村上密のような人間が現れた際、「カルト被害者を見捨てるのか」という問いをきっかけに、自分をあっさりまるごと村上に奪われてしまったのである。
  
ご存知の通り、それ以降の杉本の歩みは、すっかり村上密にマインドコントロールされたものとなり、聖書の御言葉の真実性を追求することや、神が満足される教会の姿を追求することなど二の次となり、ただカルト被害者の面目が傷つけられないことだけを優先するものとなった。

その後の杉本ブログは、牧師制度を批判することもなく、村上の親族である津村牧師の不祥事などは一切、取り上げることもせず、ただ村上サイドに取ってのみ都合の良い、偏った情報を延々と流し続けて、村上の活動を礼賛し、村上の政敵を貶めるための情報を発表してバッシングを加えるだけの、公平性のかけらもないメディアになり下がってしまった。自分自身の主体的考察も失い、事実上、村上密の活動のための宣伝広報係になってしまったのである。

その挙句、今となっては、杉本は村上が吹き込んだ嘘の情報を次々と公に発表し続けて来たことの責任を、一身に押しつけられ、罪にまで問われている。

だが、前々から当ブログで書いている通り、こうして自ら他人の奴隷となって、自分の考察や見解を放棄した杉本の責任は重く、また、彼がいかにクリスチャンを名乗っていても、信仰を持つ神の民でないことも確かであり、杉本ブログが嘘の温床になったことは確かであるとはいえ、だからと言って、杉本の言うことが、何から何まで100%嘘というわけではない。

敵の欺きの方法は常に真実の中に嘘を混ぜ込むというものであるから、我々は、何が真実であり、何が虚偽であるのかを鋭く切り分け、決して枝葉末節に注意を逸らされることなく、真に重要なテーマを見分けねばならない。
 
ここで最も重要なことは、教会関係者へのバッシングや、スキャンダルの細部に関する論争に明け暮れることによって、本質的な敵を見誤らないことである。

すなわち、プロテスタントの牧師制度が根本的に誤っていること、牧師制度は人間の欲望が生み出した反聖書的な制度であり、教会に生じたすべての忌むべきスキャンダルの発生源はこの悪しき制度と密接につながっているという事実を見逃さないことである。

(*筆者はここで、牧師だけが特別に悪い人種だとか、牧師制度を撤廃すれば、教会は天国になるなどと言っているのではない。ただ、牧師制度はグノーシス主義的被造物崇拝の教えであり、要するに、信徒らが自分の欲望を宗教指導者に投影した結果として生まれるものであるから、牧師は信徒らの欲望の化身であり、そのようなものを尊んでいる限り、教会の腐敗は終わらないと述べているのである。

牧師制度という悪しき制度については、牧師と信徒の双方に責任があり、牧師が罪深いだけでなく、牧師を担ぎ上げた信徒の罪も同様に重いの言うまでもない。人間の悪しき欲望がこうした現人神崇拝を作り出しているのであるから、牧師だけを非難して終われるような問題ではないのである。)
 
杉本ブログが出現した時点で、牧師制度はその悪しき本質を露わにし、すでに終焉を迎えつつあったと言えよう。その上、その後、当ブログが出現し、「カルト化教会の牧師をやっつける正義の味方」として活動していた村上密や、キリスト教界を公然と批判していたDr.Lukeの主張の欺瞞性を明らかにしたことにより、「牧師が牧師をやっつけることで、キリスト教界を浄化する」という活動も、プロレスごっこと呼んで差し支えない茶番劇であり、完全な欺瞞であることが明らかとなり、こうして、一部の牧師だけを悪者として排除することによって、牧師制度そのものは温存できるとする見解が誤っていることが明るみに出されたのである。

結局、自らが牧師でありながら、他の牧師の悪事だけを非難している人々は、自分自身が非難している対象と、同じ穴の貉であるか、より一層の深い闇でしかない。もちろん、それは村上密やDr.Lukeについて当てはまるだけでなく、「キリスト教界から出なさい、牧師制度は間違っています」と教えながら、どの牧師よりもさらに強力な「牧師」のような統率者となって集会全体をコントロールしているゴットホルト・ベックという人物にも当てはまる。

ところで、もしも機会があるならば、吉祥寺キリスト集会を見学してみるのは興味深いことである。なぜなら、聖霊派のどの教団も及ばないほどの広がりがこの集会にはあるためだ。しかも、それが組織化されずに全国各地に地方集会として拡散し、機能している様子を見るのは驚くべきことである。

御代田のセンターに行き、どれほどの数の信徒が費用の負担も惜しまず、嬉々として全国から自然に集まって来るか、すべての催しがどれほど自主的な協力のもとに構成され、平和裡に遂行されるか、一度でも見物すれば、驚きにとらわれるであろう。これは聖霊派の牧師などが見れば、さぞかし悔しがるに違いない光景である。そこには一見すると、強制された、人工的な要素がなく、これほどの規模で集会を動かしていたリーダーを、筆者は他に見たことがない。動かされる献金額も全く考えられないほどの規模に達しているはずである。

しかも、この集会では、信徒らの学歴と社会層が高いために、聖霊派の教団で起こるような低レベルの混乱は起きない。もともと平和的な性格で、争いを嫌う団体のため、筆者がここでこの集会に対する批判的な意見を書き記したからと言って、早速、目くじらを立てて、筆者を引きずりおろしてやろうなどと敵愾心を燃やし、検索結果の操作にいそしんだり、2ちゃんねるに投稿を繰り返すような信者は一人もいない。前にも書いた通り、戦後の開拓期を思わせる、純朴な羊のような信徒の群れである。

それは体験としては非常に興味深いものであった。(むろん、当時の話であるが。)だが、だからと言って、そのように一人の強力なリーダーの意志のもとに推進される集会が、正しいものであるとは、筆者は一切考えていない。そして、やはりいかに自主的に運営されているように見えたとしても、その集会には、目に見えないヒエラルキーがれっきとして存在し、年功序列などの、聖書に照らし合わせて、決して正しいと認めることのできない序列があった。

彼らが「権威と服従」として受け入れているそのヒエラルキーが、決して聖書に基づく正しい考えであるとはみなせないことは、すでにこれまでの記事で解説して来た通りである。我々はただ羊のように従順であるだけではいけない。宗教指導者に盲信的に従ってさえいれば安全だということは決してなく、何が正しく何が間違った教えであるかを自分自身で吟味することを、信徒は決してやめてはいけない。

しかし、筆者はその団体で、あたかも兄弟たちと対立して、挫折して去ったかのように虚偽の情報を言いふらされることを嫌ったため、集会を離れる前、最後にわざわざベック氏のもとへ行き、「ベック兄は、毎週、日曜日に必ず礼拝に来なければ、クリスチャン生活を維持できないなどとは決しておっしゃいませんよね?」と質問して、肯定的な返事を得て、いわば指導者本人から、言質を取るようにして、集会を離れ去ることの許可を得たのであった。

ベック氏は、筆者の質問に対し、毎日曜、集会に参加することは決して義務として信徒に強制されるべきことではなく、集会に来なかったからと言って、信仰がなくなることは決してないので安心して良いと返答した(それが証拠に、吉祥寺集会のホームページには「出入り自由」と書いてある)。

ちなみに、筆者はこの集会において一度もベック氏と対立したことはない。ベック氏の本質については、以下に記すように、この集会を離れた後で、大勢の人々から話を聞いたが、筆者自身が相手の正体を暴露するような行動に出てたり、挑戦的な行動を取ったことは一度もない。ベック氏は筆者に対して常に温和であった。確かに「理想的な父」のように振る舞っていた。

だが、だからこそ、その優しい外見が真実であったとは、筆者は少しも考えていないのである。別にわざわざ正体を暴露しようなどと考えて挑戦的に振る舞わなくとも、こうして信徒らの心を支配する数々の美談や「神話」が作り出されている様子を見ただけで、それが嘘であることは十分に分かる。
  
そうした「神話」が本当であったらどれほど良いだろうかという思いが、筆者に全く起きなかったわけではない。特に、その集会において、両親ほどの年齢の兄弟姉妹に厚遇され、彼らが両脇から筆者を挟んで席に着き、筆者を家族の一員のようにもてなし、様々な場所へ案内し、一緒に寝泊りし、祈り、讃美歌を歌ったりしていた瞬間には、もしも筆者がクリスチャンホームに生まれてさえいたならば、こういう体験がきっと幼い頃から日常的にあったに違いないと、感慨深い思いがした。

筆者の家庭は、すでに書いたように、筆者が生まれた時から、父はクリスチャンでなく、教会とも信仰とも無縁であり、それゆえ、筆者の一家は一度たりとも家族が揃って教会に通ったことはなく、両親の間でも、常に宗教観が異なるために思想的対立があり、それゆえ、子供時代から、筆者は、相当な寂しさや孤独を味わって来たものである。
 
神を信じたことと引き換えに、いわば、筆者は両親からの愛を失ってしまったと言っても過言ではない状態に置かれ、信仰をめぐって家庭内で絶えざる対立が引き起こされていたために、苦しい思いをしたものである。(だからこそ、杉本が、筆者の両親が共に教会へ通ったかのように書いている偽りは、特に許し難いと言えるのである。)

だが、どんなにベック集会の兄弟姉妹が、両親を思わせるような人々であって、筆者が子供時代に家庭内で味わった孤独感を埋め合わせるかのように行動したとしても、彼らは決して筆者の実際の両親でないだけに、そのような「理想的クリスチャンホームの像」とでも呼ぶべき関係は、やはり「フィクション」でしかないことが痛感された。そのような「美しい幻」を維持するためには厳しいコストが必要となり、それを現実であるかのように信じれば、苦い結末が待っている。

何よりも、筆者は神を信じることにより、キリストの十字架を通して、肉による絆から解放されたのである。十字架を通して、生まれながらの肉によるすべての関係に対して死に、生まれ落ちた家庭に対しても死んだのであるから、筆者のなすべきことは、自分が召されて出て来た家庭を振り返ることでもなければ、それと類似した「疑似家族」を打ち立てることによって、幼い頃に得られなかった満足を追い求めることでもない。

そして、実際に、肉による家族関係が、そのまま神の家族関係になることは決してない。にも関わらず、その集会が、肉による家族関係を集会に取り込むことで、それがあたかも神の家族となりうるかのように強調していることには、大きな問題があった。

そこで、以下に書くような事件をきっかけに、「麗しい幻想」が壊されたことは、筆者にとって、まことに良いことだったのである。

現在、筆者があたかもゴットホルト・ベック氏の集会で、他の兄弟姉妹と対立したがゆえに、そこを去ったかのように虚偽を言いふらしている情報源は、唐沢治ではあっても、ベック集会の兄弟姉妹ではない。(杉本は唐沢の言い分を真に受けて受け売りしているだけである。)

唐沢治はこの集会について何も知らない。よって初めからこのことについて証言などできる立場になく、ただ身勝手な推測に基づく虚偽を言いふらしているだけである。

さて、筆者がその集会を離れる最大のきっかけとなったのは、筆者がMr.Sugarをその集会に案内したことであった。Mr.Sugarとは、ローカルチャーチ時代からの唐沢治の長年の知己であり、兄貴分と言って良い存在である。

そのMr.Sugarが、ウォッチマン・ニーに造詣の深い上記の集会において、ウォッチマン・ニーの権威であるように振る舞い、ニーに傾倒している他の信者たちの間で信用を得た上、筆者の悪口を広め始め、兄弟姉妹との仲を引き裂いたことが、筆者が集会を離れる直接的な原因となったのであった。

おそらくMr.Sugarは、そのようなつもりは一切なかったと弁明するであろうが、実際には、筆者が知っている限り、Mr.Sugarには、どんな集会に行っても、自分がそこで中心人物として指導的立場に立って、他の兄弟姉妹たちに説教を始めてしまうという欠点があった。

長年、ローカルチャーチで長老的な存在をつとめたことの結果、そうした態度が身に着いたのであろう。Mr.Sugarはどのような集会においても、他の兄弟姉妹と対等な立場に立つことはなく、教職者然と人を教えるリーダーになってしまうのである。これはDr.Lukeと極めてよく似た欠点であると言えよう。

さらに、Mr.Sugarには、温厚で優しいカウンセラーのような役割を演じつつ(むろん、それが演技であるという認識は本人にはない)、様々な信徒の相談に乗って、心の弱みを探り出した挙句、それを簡単に言いふらしてしまうという欠点があった。

Mr.Sugarはおそらく自分は他の信者らの弱点をよく知っており、それを克服するために手助けをしているという文脈で、信徒らの弱点に言及していたのであろうが、いずれにしても、あまりにも簡単に信者らの失敗談や欠点を、他の人々に向かって赤裸々に語ってしまうのである(病的な噂好きと口の軽さという点では、村上密ともよく似ているだろう)。
 
筆者がMr.Sugarを以上の集会に案内したにも関わらず、筆者に関する否定的な見解をMr.Sugarが他の兄弟姉妹に広めていることを、筆者は兄弟姉妹から聞かされ、しかも、兄弟姉妹がSugar氏に心酔するあまり、その言い分を信じ始めていることが分かった際、筆者はそれを機に、その集会をすっかり離れ去る決意を固めた。だが、集会を離れることで誰かから断罪されたりいわれのない誤解を受けることがないよう、ベック氏のもとへ行き、指導者自身から許可と言える言葉をもらった。

筆者はそうしてその集会を去った後、何が起きるのか観察して見ることにした。もしもMr.Sugarが正しいのであれば、彼は集会に残り、他の兄弟姉妹とうまくやって行けるであろう。だが、いつも自分がリーダーにならずにいられないMr.Sugarが、果たして、ベック氏を頂点とする集会に定着できるとはとても思えなかった。そこで、Mr.Sugarは必ず、どこかの時点で、ベック氏を崇拝することの誤りを兄弟たちに向かって説き、兄弟たちをこの集会から引きはがして、自分の影響力の下に置こうとして、それを機に、他の兄弟姉妹から関わりを絶たれるだろうと筆者は考えた。そして事実、そうなったのである。

だが、筆者とMr.Sugarとの縁はそれで終わりにはならなかった。次にしばらく年月が経ってから、コンタクトを取った際、Mr.Sugarは反ベック集会(ベック氏を批判して分裂した群れ)の只中にいた。そして、Mr.Sugarは「ベック集会がどんな風に誤っているか、この人々から詳しく聞いたので、あなたにも確かめてもらいたい」と筆者に向かって述べたので、筆者は今度はMr.Sugarの案内で、反ベック集会を訪れ、ゴットホルト・ベック氏について何が言われているのかを直接、彼らの口から聞いた。

Mr.Sugarは、ベック集会以上の正しい集会を見つけ、筆者をそこに導いたと考えていたのかも知れないが、筆者は、その集会に連続して通おうという気にはならなかった。なぜなら、その集会は、吉祥寺キリスト集会の影のようなものでしかなかったからである。

さらに、Mr.Sugarがその集会でメッセンジャーとなって人前で説教していることを知って、筆者は心の底から呆れた。なぜなら、Mr.Sugarこそ、筆者の前で、メッセンジャー(御言葉を取り継ぐ教師)となって、キリストになり代わって他の兄弟姉妹の心を支配し、人前に栄光を受けることの忌まわしさを、嫌というほど語った本人だったからである。

そこで、筆者はMr.Sugarに向かって、彼のしていることは自己矛盾であると述べ、Mr.Sugarがメッセージを語っている集会に行くつもりもない旨を告げた。だが、筆者はこの集会の人々がベック氏について述べたことは、本当であると考えている。そもそもベック氏について作り上げられている美談は、もはや「神話」と呼んで良い類のものであり、額面通りに信ずべき内容ではなかった。

Mr.Sugarは相変わらず、自分がこの集会に残ってメッセージを語り続ければ、人々の目を開かせることができると考え、そうすることに関心があったようだが、筆者は決して、そのようなことが人助けであるとは考えていない。
 
筆者から見れば、Mr.Sugarのしていることは、ペンテコステ・カリスマ運動の信者と同じなのである。すでに出来上がった土台を有する他の集会に入り込み、もしくはその群れから脱落しかかっている信徒を探し出し、彼らを「さらなる真理に目を開かせる」という口実でスカウトしては、自分自身の支配下・影響下に置こうとしていく。

Mr.Sugarは離散している信徒らの群れに特別な関心があり、彼らが個人的に開いている家庭集会を見つけては、交わりの中で信任を得て、定期的に集会を持つようになる。それだけならば、それは離散している群れなので、信者の強奪にも当たらず、非難されるべきことはないだろう。しかし、一度でも、そうした集会の中で、Mr.Sugarに対して何かしらの批判的な言葉を発すれば、その結果、一斉に集会全体が拒否反応を示すことになるので、それが完全にMr.Sugarの意志でコントロールされていることが分かる。

筆者が言えることは、「あなたが知っているよりも、さらに深い真理を私は知っており、私はそれをあなたに教えることで、あなたを色々な問題から助けてあげたい」と述べて、親切心を装いながら近づいて来て、信徒らの心をキリストから奪い去り、自分自身に向けさせる人々は要注意だということである。

そうしたやり方は、まさに悪魔が人間を「啓蒙」しようとして近づいて来たやり方にそっくりであり、そのささやきに耳を貸せば、真理を追求しているつもりでも、途中から人間に関心を逸らされ、依存して行くことは避けられない。
 
筆者はMr.Sugarから学んだことが数多くあったことは否定しない。KFCを出たときにも、あるいは2009年に横浜に来た時点でも、Dr.Lukeの危険性を、筆者に誰よりも説いて聞かせたのは、Mr.Sugarであった。
 
Mr.Sugarは2009年に筆者が横浜へ来た当初から「KFCはバビロンである」と断言しており、この集会のいかに危険であるかを切々と説き、Dr.Lukeの二重性を帯びた人柄について深く憂慮していた。だが、筆者から見たMr.Sugarの心理的弱点は、人と直接ぶつかることを恐れる余り、決して自分の本心を直接相手に告げて、耳の痛い忠告をしないことであった。喧嘩や対立を恐れるあまり、本人に向かって直接言うべきことを、第三者に語るので、それはただの悪口になってしまうのである。

当時、Mr.SugarもDr.Lukeと同じように「リーダーのいない兄弟姉妹の群れ」を追求していたが、それにも関わらず、自分自身がリーダーになってしまうところに、二人のどうしようもない自己矛盾があったと言える。

Mr.Sugarは牧師を名乗ったことは一度もないが、結局、自分が教師となって他の信徒らの心を自分自身に向けさせ、説教者となって信徒らの心を支配してしまう時点で、牧師も同然の存在であった。また、他の群れから信者をスカウトすることによって、自分の群れを形成しようとするところにも、非常に大きな問題点があったと言えよう。

筆者は、ローカルチャーチを出たこの二人の人物から、聖霊派では決して知ることのできなかった真理についての証言を聞かされ、そこに神の采配があったことを疑わないが、ローカルチャーチを経由しているがゆえに、この二人のふるまいには、決して油断できない二重性があったことも確かであるものと思う。

我々は、ある日、誰かから、これまでに聞いたことのないような、御言葉に関する優れた解釈を聞かされたり、ある交わりの中で、大きな真理が開かれるのを見ることがあるかも知れない。だが、そのような奇跡的な出来事が起きたからと言って、決してその集会を賛美したり、特定の人間を師のように仰いだりすべきではない。

仮にどんなに優れた兄弟姉妹と出会ったと感じることがあったとしても、真理については、ただキリストご自身から学ぶという立場を貫き通すべきであり、人間から教えを受けたかのような態度を取るべきではない。聖書の御言葉について重要な真理を学ぶきっかけを得たというだけの理由で、目に見える人間につき従って行って、彼らの人間的な弱さに巻き込まれたりすべきでもない。

そこで、真理に関する知識を、あたかも自分たちが独占的に握っているかのように振る舞うことで、福音を手段として人の心を支配し、人前に栄光を受けようとしている人たちには、よくよく注意しなければならない。
  
さて、話を戻せば、今や牧師制度が信頼失墜し、新たな時代の到来が待ち望まれているのは明白である。にも関わらず、未だそうした事実を見ずして、牧師を批判する信徒が現れると、その信者だけにすべての問題があってそうなったかのように決めつけ、信徒に対するネガティブ・キャンペーンにいそしんでいる人々がいる。

彼らは牧師制度を維持したいがために、プロパガンダをしているのである。そういうことをしている面々は、決まって宗教指導者であるか、もしくは特定の牧師の手先のように行動している信者だけである。

先の記事で挙げた杉本のメールでは、ベルシープ伝道所の牧師を名乗っている坂井能大とKFCのDr.Lukeについての記述があった。むろん、先に指摘した通り、他人へ宛てたメールの中で、第三者に対する証拠のない悪口を書き記すことは(悪口だけでなく虚偽の情報であっても)、罪に問われてもかしくない違法行為であるから、杉本はそのような行為をやめるべきである。

だが、そこで杉本が言わんとしていることの中には、見逃せない事実もある。なぜなら、そこで示唆されているのは、「坂井は唐沢から事実を知らされておらず、唐沢に騙されて焚き付けられただけだ」とする筆者の見解は甘く、坂井と唐沢は初めから確信犯的なグルであって、坂井は唐沢の正体を十分に知りながら、唐沢の罪にはそしらぬ顔をして、筆者の名を無断で使用することにより、大いに空騒ぎを起こして、筆者に害を及ぼしているだけで、そこにはいかなる善意もありはしないということだからである。

杉本のこうした指摘に対して、坂井が今後、どう反応するかは、一つの試金石になると言えよう。何しろ、唐沢と坂井は筆者のメールを無断で裁判に提出したくらいなので、他人のメールを裁判の証拠にすることにはためらいがないはずだ。当ブログで公開している杉本のメールなどは証拠として使用しても、違法行為にも該当せず、罪にも問われはしない。

そこで、この先、坂井が個人的に杉本の主張に論拠を示して抗議し、杉本を訴えるようなことがあれば、杉本の言うことは嘘だったと公然と立証される。だが、それがなければ、結局、杉本の言い分が結果として残るのである。

しかしながら、我々は、坂井が杉本を訴えるかどうかをわざわざ時間をかけて観察せずとも、坂井の本当の敵が、初めから杉本ではなく、そこには、唐沢の場合と全く同様の、信徒を貶めようとする意図しかなかったであろうことを十分に察知できる。

坂井が杉本に対立しているかのように振る舞って来たのは、唐沢と同様に、全くうわべだけのポーズなのであり、その挑発行為の真の目的は、杉本を焚き付けて、自分たちに不都合な信徒を攻撃させて、信徒を争いの中に引きずり込み、破滅させることにあったのだと十分に推測できるのである。

坂井は、杉本を憤激させて筆者を攻撃させるためにこそ、筆者の名を全面に押し出して、杉本を挑発した可能性が限りなく高い。そもそも、坂井が筆者とは一面識もないのに、筆者がブログを閉じていた間にも、筆者のブログの記述を大いに利用して、杉本に対する挑戦的な騒ぎを拡大していたこと自体が、「簒奪の模倣」に該当する。

つまり、ここにも、ペンテコステ・カリスマ運動に影響を受けた人々が常に、自分以外の信者の意志や許可をよそにして、本人に無断で本人の名を騙ってなりすましたり、まるで自分こそ、その人間の代弁者であるかのように勝手に名乗り出て、ターゲットとする人物の存在をことごとく「流出」させて、信者の弱点を言いふらして印象操作を行ったり、人間関係を分裂させて壊したりして、神に属する民を傷つけ、冒涜し、害を加えることをやめられないという悪しき性癖を見ることが出来るのである。

何のために彼らはそんなことをするのだろうか? それは第一に信徒を辱める目的と、第二に、牧師階級を守る目的のためである。坂井や唐沢は、ただ気に入らない信徒をおもちゃにして害を加えて楽しんでいるだけでなく、牧師制度の罪を告発し、この制度の撤廃を訴え、自分たちが特権階級として属しているヒエラルキーを否定するような信徒に集団で制裁を加え、破滅させて口を封じようとしているだけである。

現在、まさにそうした筋書きが進行中で、坂井は自らの主張の正当性を、裁判でも立証できずに杉本に敗れ、その馬鹿馬鹿しい挑発行為のとばっちりが、無関係な筆者に不当に呼んでいる。

筆者は2ちゃんねるにコメント投稿したこともなく、坂井を焚き付けた過去もなく、坂井とメールの一通すらも交わしたことなく、裁判が行われた事実も知らなかったのであるから、坂井の言動が筆者の差し金によるはずもなく、かえってどれほど筆者の方が、坂井と唐沢の無責任な挑発行為によって迷惑を及ぼされているかはかりしれない。

だが、そうしたことも、彼らには織り込み済みであり、彼らはもともと杉本の思い込みの強さを知っていたために、杉本なら簡単に騙せると考えて、筆者の名を存分に利用して杉本を挑発し続け、自分たちの背後にあたかも筆者が存在しており、すべてが筆者の策略であるかのように思わせようとしたのである。

それに成功しさえすれば、結果として、彼ら自身は悪しき挑発行為の責任を追及されることなく、すべての責任を筆者にかぶせることができ、杉本をして筆者を攻撃させることにより、筆者を苦しめ、葬り去ることができると計算したのであろう。もちろん、それは最終的に、牧師制度を守り、この制度を非難する者の存在をネットから消し去るために行われているのである。

こうして、唐沢と坂井がこれまで一体、何のためにタグを組んで、さんざん杉本を挑発し、むなしい騒ぎを起こし続けて来たのか、その理由は読者に十分に明らかになったと言えよう。

そこで言っておきたい。もしもこの先、唐沢や坂井のような人間が現れて、勝手に「ヴィオロンさんがいじめられている」とか「ヴィオロンさんから応援したいと言われた」などと述べて、筆者の名を使って、杉本や村上のような誰かを非難し、ネット上で「戦争」を始めたとしても、それは筆者とは何の関係もない事柄である。

村上や杉本を含め、筆者が誰かに対立して、論争をしかけたいと考える場合は、可能な限り、オープンな場で、きちんと証拠の残る、合法的なやり方を用いるつもりであり、当ブログとは異なる掲示板などの場所を利用して、責任の所在が分からない発言を行うことはない。

さらに、前々から述べている通り、筆者は誰とも協力しておらず、牧師との協力関係などは、金輪際、お断りである。そこで、杉本の嘘の主張に反駁するためであろうと、他のどんな問題解決のためであろうと、誰にも協力を仰いだりせず、代弁者を立てて行動することもない。

むろん、これまで何度も書いて来たように、唐沢が杉本に民事提訴を予告したことも、唐沢の単独行動であって、そこに筆者の依頼はない。よく考えれば誰にでもすぐに分かるはずだが、仮に筆者が依頼してみたところで、唐沢が筆者に代わって、筆者の受けた「被害」を理由に、杉本を訴えることなど、もとより不可能なのである。グレゴリウスを名誉毀損で訴えた唐沢がそのことを知らなかったはずはなく、大人なら誰でも分かるはずの常識的かつ初歩的な事実である。

そこで、唐沢が、筆者があたかも唐沢に向かって杉本に対して裁判を起こすよう焚き付けたとか、それにも関わらず、筆者の実名が表に出ていないために提訴ができなかったとか、幼稚園児の綴るおとぎ話のような、筋の通らない空想話を用いて、自分にはまるで杉本と対立する意志など毛頭なく、筆者から要求されたので仕方がなくそのような行動を取らざるを得なかったかのように、後になってすべてをごまかそうとしていることは、まさに笑止千万な作り話であり、とてもではないが、立派な学歴もあり、高い職業的地位に就いていた、大の大人の発言とは思えない。そして、そんな馬鹿げた幼稚な筋書きに騙され、振り回される方もどうかしており、両者ともにとてつもなく暗愚であるとしか言いようがない。

ただし、筆者は、唐沢は当時、杉本から実名で名誉毀損を受けていたのであるから、それに抗議するために、自分自身の名において、杉本を提訴することは、十分に可能であり、許される行為だったと考えている。また、民事提訴を取りやめたのであれば、その旨をきちんと周囲に分かるよう、説明すべきであった。にも関わらず、唐沢が筆者から説明を求められたにも関わらず、それをしなかったことは、結局、唐沢という人物の闇を証明するだけである。結局、唐沢は杉本の中傷が真実であると認めているに等しく、いたずらに騒ぎを拡大して筆者に害を及ぼすためだけに事件に関わったと自ら白状しているも同然なのである。

坂井の裁判に関しても、前から書いている通り、もしも筆者が本当にその裁判が起きたことを知っており、これを応援するつもりがあったなら、当然ながら、過去のメールを裁判資料として提出したりせず、その時点で、陳述書を書いて、自らの口で証言していたはずである。なぜなら、それが当事者以外の人々が裁判で証言するための常識的なやり方だからである。

従って、唐沢が、筆者から陳述書を取ろうともせずに、筆者が坂井の裁判を「応援したい」と述べたとか、そのために自分のメールを資料として提出することに「同意した」とか、嘘八百を述べていること自体、常識をわきまえている人間から見れば、理屈に遭わず、筋書きが破綻していることが明白なのである。

結局、こうした事実から見えて来るのは、唐沢や坂井が、常に筆者本人の意志を無視して、許可もなく、筆者の名を騙って、杉本を挑発し、ひたすら騒ぎだけが大きくなるように行動し、そうした自分たちの無責任で幼稚な行動が、あたかも筆者の差し金によるものであるかのように見せかけることで、自分たちはちゃっかりと責任を逃れた上、筆者に不当な形で害を及ぼそうと企んで来たという事実だけである。

そうした彼らの恥知らずな行動を通して、我々は、彼らの本当の目的が、杉本と対立することになど初めからなく、ただ杉本を挑発して、自分たちの気に入らない信徒に害を及ぼすことにあったと知ることができる。繰り返すが、彼らは二人とも牧師であって、筆者よりも年上であり、大の男たちが、これほど幼稚で非常識な行動を取ることは、通常では考えられない。しかし、牧師だからこそ、彼らはこういう行動に及んでいるのであり、牧師階級を批判する人間を葬り去るためならば、どんな卑劣な手段をも厭わないのである。

こうして、我々は、村上密の投げつける非難に屈し、これを受け入れた人々が、結果的には、ことごとく、村上密が描いた通りの人物像になって行った様子を見ることができる。杉本は村上に「思い込みが強い」と非難され、村上のクレームを受け入れたことで、まさにその通りになり、唐沢もまた、「非常識な主張になれあいで悪のりのコメントをしているだけの無責任なコメント投稿者」、「藪の中から石を投げて喜ぶだけの非常識で幼稚な生き方」などと非難され、その村上の非難を反駁もせずに受け入れたことで、まさにその通りの人物像になって行ったのである。

だが、筆者は上記の二人のように、村上密による根拠もない呪詛のような言葉を受け入れることは、断固拒否させていただく。
 
これまでもそうだが、この先も、誰かが筆者の名を勝手に使って、筆者の味方を装い、あるいは筆者の代弁者を装い、筆者の許可もなく、掲示板やブログなどに書き込みをしたり、裁判資料などと称して筆者のメールを流出させたとしても、そのようなことは、その人物が勝手にやっていることであるから、筆者は、その行為に一切責任を負うつもりはないし、筆者が責任を負わされねばならない理由もない。そのような騒ぎを引き起こした責任は、すべてその当人に帰する。場合によっては、関係者全員から訴えられることをも覚悟してもらわねばならない。

読者は、目を開いてよくご覧になりたい。これが、牧師というものの本質なのである。つまり、一旦、牧師となった人間は、二度と信徒の利益のために動くことはなく、彼らが信徒のために動いているように見える時にも、それはすべて自分自身の利益のための行動なのである。

牧師たちには、それぞれの主張の違いがあって、相互に対立しているように見えることもあるかも知れないが、牧師階級を守るという一点においては、彼らは完全に結託して、自分たちに刃向う信徒を敵として行動する。

だが、それにしても笑止なのは、その牧師が、信徒に過ぎない杉本に裁判で敗れたことである。筆者はかねてより、杉本に敗れるなど恥でしかなく、愚の骨頂だと主張している。杉本の主張のレベルがいかなるものであるかは、読者にも2枚の答弁書から明らかになっている通りだが、このような程度の主張も覆せない人間のレベルは、もっとお粗末で、お里が知れようというものだ。およそ論理などと呼べるものは、そこには毛筋ほどもなかったに違いない。神が味方しておられるなら、なぜそんな結末になる理由があろうか。

さらに笑止なのは、敗訴に終わったこの裁判を、かつては立派な大学講師であり、博士号まで取得した人間が支援していたという事実だ。

唐沢はかつて2009-2010年には大学講師という、社会的にもそれなりに尊重される地位にありながら、自分が杉本に実名で名誉毀損をされた際、杉本を訴えることもせず、かえって元KFCの信者を告訴し、杉本ブログの権利侵害の記事を削除させるために必要な具体的な措置を何一つ講じなかった。

そして、今になっても、「杉本と遺恨を残すことは本意ではない」などと述べて、自分は杉本によっていかなる人権侵害も受けていないという立場を貫いている。そうした行動に、唐沢という人物の本心が如実に表れていると言えよう。

唐沢はおそらく当時から、杉本が村上密を支援することを通して、牧師制度の前に跪いており、牧師階級全体を敵に回すつもりがない意図をはっきり見ていればこそ、杉本を敵とみなさず、裁判を起こして徹底的に攻撃し、打ち負かすことを控えたのだと考えられる。

むしろ、牧師の手先となった杉本をうまく利用すれば、かえって自分の地位の安泰をはかることができると考え、不都合な信徒を「消す」ために、杉本の手を存分に借りられると踏んで、わざわざ杉本を「延命」させた上で、気に食わない信徒の名をさんざん騙りながら、杉本への挑発行為に心血を注いで来たのである。

その唐沢とタグを組んでいる坂井が、自分だけ唐沢と違った考え方を持っていることなどはまずありえない。そこで、彼らの真の目的は、杉本を倒すことになど初めからなく、むろん、クリスチャンとして、自分の信仰告白の確かさを、神と人との前で証明することにもなく、ただ杉本を存分に利用して、牧師階級の利益の確保のために、牧師の利益に逆らう信徒を破滅に追い込み、抹殺することだけであったと見るのが適当である。

村上密、坂井能大、唐沢治、鵜川貴範・直子夫妻、等々、筆者を糾弾している人物は、みな牧師やメッセンジャーであるか、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団や村上密を擁護する人々だけである。
 
もちろん、何度も述べて来たように、村上密が「カルト化した」教会の牧師らに対する裁判を助長し、戦いをしかけているように見えるのも、単なるうわべだけのポーズでしかなく、それも牧師階級そのものを存続させるための目くらましのプロレスごっこなのである。

村上が真に攻撃をしかけている相手は、牧師ではなく、牧師の前に跪こうとしない信徒である。(だからこそ、被害者の個人情報を加害者の牧師に転送したり、信徒の相談内容を公開することによって信徒に恥をもたらしている。)

しかし、恐ろしいことに、そのようにして霊的な敵に妥協し続けると、人間は当初、持っていたはずの優れた知性もどんどん失って行き、最終的には敵(悪魔)と一体化してしまう。悪魔は、悪知恵だけはふんだんに持っているように見えても、本性はたとえようもなく愚かであるため、自分の手下となった人間をも、どんどん自分と同じように愚かにしてしまう。

村上、唐沢、坂井、杉本の全員を例に取って、彼らの文章力、思考力が、2009年から現在に至るまで、どれほど著しく衰退したかを目を開いてご覧になりたい。

グノーシス主義の恐ろしさは、「情」という名の思考停止にある。この思想は、その虜となった人間に、すべてのことを「快・不快」という赤ん坊レベルの感情に基づいて決断させ、自分の感情が誘われる、自分にとって心地よく、好ましく感じられるものだけが「善」であると思い込ませるため、そのように盲目とされた人間の中では、感情による決めつけや思い込みだけが肥大化して行き、論理的な思考力が徹底的に破壊されるのである。その結果として、思考力、判断力の著しい衰退が起こり、人格の著しい幼児化という精神的退行現象が起きるのである。
 
グノーシス主義の教えは、このように、まさに人間の正常な脳を破壊する麻薬のごときものなのである。この教えが人々にもたらす致命的な害に不平等はなく、この教えを有害なものと見抜いて退けない限り、博士号があっても、何の助けにもならない。どんなに優れた知性を持つ人間であっても、自らの思考力を全く使わなければ、衰えるだけであるが、思考停止の教えは、思考力そのものを奪い去る。

さらに、信仰の世界で起きる現象は、世間で起きることよりも一層、厳しい結末をもたらす。かつては何百ページもの学術論文を書くことができ、圧倒的な読書量を誇り、記憶した情報を自在に引き出して語る知性を持っていたような人間であっても、一旦、グノーシス主義の怠慢な思考停止にとりつかれれば、幼稚園児並みに思考力が低下し、最後には2ちゃんねるの投稿以下の文章しか書けなくなり、デタラメな答弁書しか書けない人間に敗訴して終わるのである。もちろん、思考力・文章力のみならず、判断力も低下するので、誰一人として騙されるはずがない低レベルの詐欺師の言い分にまんまとひっかかって集会を乗っ取られたり、異端の書への識別力がなくなるのは当然である。
 
さて、話を戻そう。このように、牧師とは、信徒を物質的にも精神的にも金銭的にも搾取の対象としか見ておらず、自分が救済者や助言者をきどって人前に栄光を受けるためならば、信徒の弱みをとことんまで利用し尽くすのであり、そのチャンスを逃すまいと、手ぐすね引いて信者の弱みを握る機会を常日頃から伺い、さらに、自分たちに刃向う不都合な信徒の口を封じ、抹殺するためならば、どんな卑劣な手段でも厭わない連中である。

むろん、牧師は信徒の立てた功績はすべて我がものとして横領するが、同時に、信徒の弱みも利用する。少しでも信徒が心の弱みを打ち明ければ、助けてやるふりを装って、病原菌のように一斉に傷口にたかり、信徒の内側に侵入して食い尽くす。そして、まるごと食い尽くした後で、その悪事がバレないように、信徒に罪を着せて悪魔呼ばわりした上、教会の外にポイ捨てするのである。
 
彼ら牧師たちは、自分たちだけは選民であり、信徒は被差別階級だと考えているため、信徒をとことん利用した上、自分の身代わりに罪を着せて使い捨てることに何のためらいも恥の意識もない。言うなれば、彼らの目に映る信徒とは、どんなに騙して巻き上げても、決して罪にならない「ゴイム」でしかないのだ。

つまり、牧師階級全体が、信徒の弱みを握って恥をかかせることで、自分の優位性を誇示し、信徒を搾取してその上に君臨することで己を養う特権階級でしかなく、ひとかけらの誠実さや真実性や正義も期待できる相手ではないのである。
 
この事実は、司祭であろうと牧師であろうと、教職者制度の中に位置する人間には、宗派を超えて当てはまる。「いや、そんなのは極論ですよ、ヴィオロンさん。あなたはたまたま遭遇した人々が悪すぎただけです。まさかすべての牧師や司祭が、そんなに悪い人々のはずがないでしょう。どこかに良い牧師もきっといるはずです。私はあきらめません」などと、(杉本の言い分のように)安易な考えを抱いて、教会から教会へと渡り歩こうとは決して思わないことだ。この業界では、そのような信徒は「ジプシー・クリスチャン」と陰口を叩かれ、さらに、教会に属さず、信仰を守っている信徒も、「お一人様クリスチャン」などと呼ばれて揶揄されるだけだからだ。

これが、牧師から見る信徒の日常風景なのであり、彼らから見る信徒とは、まさに狼やハイエナから見る羊でしかない。彼らの目には、牧師制度の前に忠実に跪くクリスチャンだけが正しく、それ以外の信徒は、みな「挫折者」や「落伍者」としか見えていないのである。

こうしたことを聞くと、プロテスタントに絶望してカトリックに去れば、そういう残酷な階級闘争とは無縁に生きられると考える人々が現れるが、その考えも、幻想でしかない。かつて筆者の前にやって来て、プロテスタントの牧師たちの幼稚さには辟易したので、カトリックに去ると宣言した信徒がいたが、それも霊的後退でしかない。不祥事はカトリックの方がより深く大規模であり、カトリックにおけるヒエラルキーの束縛はプロテスタントの比ではない。

何より、それは歴史を逆行する行為でしかないため、信徒に霊的前進をもたらさない。プロテスタントは、カトリックの陥った腐敗と訣別し、これを改革することによって生まれた運動であるから、その改革の良い部分を全て捨て去り、カトリックに戻ったからと言って、それでいかなる前進が得られるわけでもない。

むしろ、我々がせねばならないことは、プロテスタントがカトリックから分離して守ろうとした正しい内容を継承し、さらに、プロテスタントの中からも不要なものを投げ捨てて分離した上、さらに先へ進むことである。

万民祭司の原則に基づく、宗教指導者のいない対等な信徒の交わりが必要とされているのである。宗派を問わず、教職者という特権階級制度を一旦、認めてしまえば、その時点で、その教会は必ず腐敗で終わることを運命づけられている。

こう書いても、日曜になれば、多くの信徒らが牧師の説教を聞きに教会へ向かうのであろう。だが、安易に「牧師」と名乗っている連中に関わると、どういう悲惨な結果が起きるかは、以上の警告から読者には明らかである。

はっきり言っておくが、牧師制度は忌むべき人間崇拝、偶像崇拝であるから、これときっぱり手を切らなければ、その信徒は神ご自身を知ることは決してできない。人生を食い尽くされ、悪魔の餌食となるだけである。だが、たとえそうなったとしても、その罪は、信徒自身にある。なぜなら、この世を愛すること(被造物の栄光を愛すること、人間社会で受けられる栄誉を愛すること)と、神を愛することはどこまで行っても決して両立することはないからだ。

目に見えないキリストを退けて、目に見える牧師を信用してつき従い、害を受けた結果、自分はカルト被害者であるから同情に値するなどと、どんなに人前で主張しても、その主張はかえりみられない。自分から判断を誤って人間崇拝の罠に落ち、神を裏切ったことを認めない信徒の言い分は、神の御前ではむなしいだけである。

だが、そうはいえども、牧師という連中が、どれほどまでに狡猾で陰険で卑劣であって、信者を陥れる計画を、四六時中、信者の頭越しに考え続けているかは、以上で述べた通りなので、注意されたい。特に、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団のような、ペンテコステ・カリスマ運動を支持する盗人の団体とその指導者には決して何があっても近寄らないことである。

信者は、目に見えない神ご自身を最優先するのか、それとも、目に見える被造物を最優先するのか、生涯、常に神の御前で問われて続ける。狭き門から入る者は幸いである。
 
「たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、
「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、
 さばかれるときには勝利を得るため。」
と書いてあるからです。」(ローマ2:4)