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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。

「神の言葉は生きていて、活動しており、どんな両刃の剣よりも鋭く、
  魂と霊、関節と骨髄を切り離すまでに刺し通して、
  心の思いと意図を素早く識別します。
 (ヘブル人への手紙4:12、改訂訳)

「はじめに神は天と地とを創造された。
 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。 」(創世記1:1-4 口語訳)

それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。

 汚れたものに触れないようにせよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 わたしはあなたがたの父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる、
 と全能の主が言われる。」(Ⅱコリント6:17-18 新改訳)

わたしの民がわたしに聞き従い、
 イスラエルがわたしの道に歩む者であったなら
 わたしはたちどころに彼らの敵を屈服させ
 彼らを苦しめる者の上に手を返すであろうに。

 主を憎む者が主に屈服し
 この運命が永劫に続くように。
 主は民を最良の小麦で養ってくださる。

 「わたしは岩から蜜を滴らせて
 あなたがたを飽かせるだろう。」(詩編81:14-17)

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)


* * *

今から何年も前のことだ。ある職場に勤め始めたとき、上司が「チサイに行ってくるね」と声をかけた。その頃、勤め始めたばかりだった筆者は、ぽかんとした顔で上司を見上げた。

「ああ、あなたはまだ入ったばかりだから分からないよね。チサイって、地裁のこと。東京地方裁判所のこと。」

地裁は職場から歩いて行けるところにあり、上司たちは連れ立って何度も訴訟に出かけていたのであった。筆者自身は、主に事務所の留守番をつとめ、一度も彼らと共に外出することはなかったが、その頃から、少しずつ、裁判所は筆者の人生に近づいて来ていたような気がする。

自分自身が裁判に臨んで、学んだことは無限にあった。汲み出しても、汲み出しても、まだ汲み尽くせないほど、そこには無限の学習があった。筆者はそこに、命の水の流れがあることを感じた。誰も見向きもしない、味気ない紛争のフィールドは、隠された命の宝庫のようであった。ここに、筆者だけでなく、多くの人たちを解放する秘訣があると、筆者は直観で悟ったのである。

筆者はその確信を胸に、二度とそのフィールドを離れないことに決めた。二度と生涯、専門家を名乗ることはないだろう。ただの無名の市民として、この泉のほとりにとどまり、これを自分の生きるフィールドと定め、可能な限りの命を汲み出してみようと決意したのである。

筆者は、プロテスタントと資本主義を離れることに決めたと幾度も書いた。詐欺と、搾取と、弱肉強食の横行する、人間を骨までしゃぶり尽くす過酷な競争の場と化した貪欲な金儲けの世界を永遠に離れ、自分の専門を離れ去り、今後は自分の満足のためでなく、真に人々の益になるよう生涯を捧げようと決意した。

すると、あれよあれよという間に、まるで天がずっと前からあなたをここで待っていたのだと言ってくれたような具合に、すべてが開けたのであった。

これまで、あれほど生きるために苦労していた心配は、何だったのであろうか。今までを振り返っても、これほどすべてが首尾よく運んだことなど一度もないというほど、すべてがビジョンの通りに運んだ。

ああ、これで本当に良かったんだなと思った。どうやら、筆者は運命的な出会いを見つけたらしい。この道は、これまでのように、筆者の片思いではないし、悲劇へと続く道でもない。相思相愛の道、豊かな報いが約束されている道だ。

どんよりとした陰気な曇り空の下、不安の中で踏み出した一歩だったが、物事は見た目ではなかった。紛争とよく似ている。見た目は非常に好ましくない、がっかりさせられるような味気ない外観の中に、永遠にまで至る、尽きせぬ喜びと感動が隠されている。

それは謙虚さや、低められることの意味を知っている人にしか、たどり着けない命の泉である。

さて、このところ、筆者が主に回答を委ねていた複数の問題があった。

この世には、妥協もできず、和解してはならない相手というものが存在する。人間的な思いでは、私たちは誰とも離反したくはないし、誰をも罪に定めたくないと思うだろう。しかし、DVを繰り返す人間が、許せば許すほど、ますます増長して行くだけであるように、許すことが有害な相手、和解してはならない相手というものも、この世には存在する。

もしも私たちがエジプトを真に去ったのならば、後ろを決して振り返ってはいけない。二度と元いた場所に戻ろうと思ってはいけない。だが、そのためには、エジプトと私たちとの間には、紅海という不可逆的な断絶が横たわらなくてはならない。

エクソダスである。御言葉による切り分けである。

そういう意味で、判決とは、相容れないものを永遠に断絶させて、物事の是非を切り分けるための宣言であることが分かった。

原告となって自ら訴訟を起こした多くの人たちは、判決を得ても、賠償が支払われないかも知れない恐れなどから、和解を選択する。判決を取れば、罪に定められた相手が反発し、賠償金を踏み倒すかも知れない。その上、控訴してくるかも知れないと恐れる。だが、和解ならば、きっと双方が自主的に選択した解決だから、誰もこれを踏みにじることはあるまいと考えるのだ。

彼らは思う、判決によって物事を永遠に切り分けるような「残酷な」措置を取るくらいなら、人の面目を潰さず、金銭的和解にとどめておいた方が「穏便な」解決であると。

ところが、筆者は考えてみればみるほど、実はそうではないことが分かって来る。

筆者の心の中で、判決に対して沸き起こる尽きせぬ畏敬の念、憧れのような感情は、一体、どこから来るのだろうか。なぜ筆者はこれほど正しい裁きを切望するのか。

この曲がった世の中で、どうしても、誰かが上から力強く裁きを宣言し、争いに終止符を打ってくれなくてはならない。誰の過失によって、このような事態が起きたのか、はっきりと白黒つけて、宣言してくれなければならない。誰かが力強い腕で、死にかかっている我々を泥沼から救い出し、引き上げてくれなくてはならない。

当事者同士の終わりなき話し合いでは、私たちは闇の中をさまよい続けることしかできず、決して光にたどり着くことができないのだ。

それは神なくして生きる被造物の真っ暗闇の世界に似ている。どれほど主張書面をうず高く積み上げようと、これを認定してくれる存在がなければ、私たちの訴えはむなしい。

もしも一度で正しい裁きが得られないなら、二度でも、三度でも、挑戦して構わない。自分の都合だけを認めてくれと叫ぶのではなく、とにかく光へ向かって、私たちを照らし出してくれる正しい光へ向かって、全力で走って行って、命を獲得しなくてはならないのである。

判決を得ることは、和解することに比べ、多大なる困難がつきものである。しかし、判決の最も大きな効力は、隔てられるべきものを永遠に隔てると宣言することにある。
 
もしも私たちがエジプトを真に去って来たならば、もはやエジプト軍との和解はあり得ないはずだ。追っ手を恐れてはならない。紅海で溺れ死ぬのはエジプト軍であって、我々ではない。

筆者は思う。神は私たちの心から、断ち切られるべきものが断ち切られることを、望んでおられるに違いないと。和解ではない。必要なのは隔てである。

神は十字架を通して、私たちを罪から永遠に断絶させ、永遠の隔てを置こうとなさっておられる・・・。

これまで一度も記したことがなかったが、当ブログを巡る訴訟では、筆者は遮蔽の措置というものを願い出た。

これは法廷で被告と対面しなくて良いための措置である。このような措置が認められるのかどうかは、大きな賭けであった。もしも認められなければ、我々は法廷で一同に会することになる。面識ができることになる。面識が出来るということは、知り合うということであり、関係性がより深まって行くことである。

訴訟が始まるまでの間、一体、この問題はどうなるのかと、筆者は不安に駆られていた。幸い、裁判官はこれを許可したが、被告は憤慨した。被告は筆者が彼らを過度に警戒し、危険人物扱いし、侮辱しているかのように主張していただけでなく、その後、裁判官がこの措置を認めたことまでも、裁判所の不法行為だと言い立てていたくらいである。

一審の最中、筆者は、この遮蔽の措置とは、神と人とを隔てる十字架の象徴であり、人の意思では決して取り除くことのできない、救われた者とそうでない者、聖なるものとそうでないものとを隔てる区別なのだと、準備書面に書いた。

被告がもし信仰によって結ばれた兄弟姉妹として、罪を認めて謝罪と償いができるならば、こんな隔ての壁は要らない。和解も可能なのに違いない。だが、もしも罪を認めないならば――それはただ筆者に犯して来た罪を認めないことを意味するだけでなく、人としての原罪までも否定する行為を意味し、神の救いに逆らっているのであって、彼は兄弟ではない。私たちは対面することができず、知り合うこともできず、神の怒りという遮蔽の措置によって、永遠に隔てられたままに終わるだろう。

こうして、我々は最初から最後まで、対面することがなかった。そして、判決が我々をさらに遠く永遠に隔てた。もう一人の被告は、一度たりとも法廷に出向くことはなかった。

ところが、こうして永遠の隔てが置かれているにも関わらず、それでも一審判決後、筆者は賠償金の取立のために、自らの意志で被告に会いに行こうとしていた。筆者は当初、それが自分の責務であるかのように考えていたのである。

ところが、それも成らなかった。被告は筆者が出向こうとしていることを憤怒して非難し、筆者も忠告を受けて計画を中止した。やはり、我々には、目に見えない霊的な領域において、どうしても乗り越えることのできない隔てがあるらしい。筆者がどう考えようと、会うことが「禁じられている」のだ。

それだけではない。賠償金の取立のための接触さえも、行ってはならないことが、だんだん分かって来た。筆者と被告とは、一切、無関係であり、ただ被告が筆者に対して負い目を負っているだけで、筆者の側から、被告に対してなすべきことはない。

訴訟における判決とは、人間の造り出した法的拘束力を伴う言葉である以上に、霊的な領域においても、隔てられるべきものを永遠に隔てる宣言であり、それ自体が、原告と被告との間に横たわる永遠の「遮蔽の措置」としての十字架だったのである。

二審では、それがもう一人の被告に対しても宣言されねばならない。それによって、呪いが完全に断ち切られるであろう。

これは考えるだに厳しい、峻厳な霊的原則であって、人間的な感情に基づいたものではなかった。

筆者が飽くことなく判決を求める願いはどこから来るのか、少し分かったような気がした。それは、事を荒立てたいという願いから来るのでもなく、誰かを罪に定めたいという願望からでもない。何が正しい事柄であり、何がそうでないのか、何が神に喜ばれる尊い事柄であって、何がそうでないのか、何が清い、聖なるものであって、何がそうでないのか、何が真実であって、何が偽りであるのか、何が正義であり、何が不法であるのか、筆者自身が、可能な限り、その区別を明らかにして、正しい裁きをなして欲しいという切なる心の叫び求めから来るのだと分かった。

たとえ筆者自身が罪人の一人として焼き尽くされ、無とされても良いから、神の喜ばれる正義が何であるか、真実が何であるかが明らかになって欲しい。もうこれ以上の嘘と不法はたくさんだという切なる願い求めがあった。

だが、キリストの十字架ある限り、筆者は、罪から救い出され、死から救われて生きるであろう。

「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。 「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、 雪のように白くなる。 たとい、紅のように赤くても、 羊の毛のようになる。」(イザ1:18)

これは言葉に言い尽くせない峻厳な「切り分け」である。私たちの罪が赦されるすべての根拠はキリストの十字架にある。これが私たちの唯一の防御の盾であり、装甲である。

だから、汚れたものと分離しなさい、と主は言われる。この点について、主の命令は厳しく、妥協なく、絶対的である。中途半端な分離というものはない。彼らを断ち切りなさい! 心の中からも、生活の中からも、一切を断ち切りなさい! 十字架の装甲の中に隠れなさい! 二度と彼らを振り返ってはいけないし、関わってもならない。対話してもいけないし、和解する余地は二度とない。

こうして、二度と後戻りできない断絶が宣言される、それが判決なのだということが、だんだん分かって来た。いや、それが訴訟というものなのである。

和解の問題を考える度に、心に沸き起こってくる厭わしさは、そのためだったのかと分かった。暗闇の余地を残してはならないし、グレーなままで終わりたくない。負うべきでない負い目を、これ以上、恐怖のために負わされたたくない。どんなにリスクが伴っても、正しい裁きへと至り着き、命に到達したいという願いをあきらめられないのだ。

これがエクソダスの原則なのである。エクソダスしたならば、二度と後ろを振り向いてはいけない。堕落したものとの分離において、中途半端な態度ではいけない。山頂に達した人が、そこに自分の旗を立てるように、私たち自身が自分の心に宣言しなければならないのだ。

脱出は完了した。裁きはカルバリにおいて下された。我々はこの十字架を通して、この世に対してはりつけにされ、この世も私たちに対してはりつけにされて死んだ。生きているのはもはや「わたし」ではない。世は私たちに触れることはできないし、重荷を負わせることもできない。

「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。」(ヘブライ12:1-3)

「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて」、私たちはどこへ向かって走るのか? もちろん、自由へ向かって、解放へ向かって、約束された天の都に向かって、復活の命の領域に向かってだ。後ろを振り返ってはいけない、ただ真直ぐに前だけを見なさい。真直ぐに天だけを見つめ、目的に向かって走り抜けなさい!

まるで霊的な目が開けたように、これは人情でどうにかできる世界ではない、と分かった。鳥肌が立つような厳粛さがそこにあった。もしも後ろを振り返るなら、不信者と共につりあわないくびきを負わされ、ソドムを振り返ったロトの妻のような運命が待ち受けているだけである。

訴訟というのは、分岐路である。もはやそこに来た以上、後戻りはできないのだ。あなたは一体、何を選ぶのか、何を望むのか、問われている。

筆者が慕い求めるべきは、エジプトでもなく、ソドムでもない。御言葉によって与えられた、まだ見ぬ約束である。それがまだ成就しておらずとも、いや、成就していないからこそ、私たちはこの約束を価値あるものとして握りしめ、これを慕い求め、その約束が成就する日を信じて待ち続け、忍耐しながら目的へ向かって走るのである。

その約束の真の意味は、キリストが私たちを迎えに来られることである。そして、私たちの完全な救い、完全な贖いが成就することである。その日のために、私たちはもう一度、自分自身を聖別し、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、自分が何者であり、誰のために捧げられた者であるのか、片時も忘れないように心を決める必要がある。

教会はただ一人の男子キリストのために捧げられた聖なる花嫁である。汚れた者はこれに触れることができない。もう一度、冒頭にも挙げた御言葉を引用しておこう。

あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。

「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。
 そして、彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 だから、あの者どもの中から出て行き、
 遠ざかるように』と主は仰せになる。

 『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる。
 全能の主はこう仰せられる。」

 愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」(Ⅱコリント6:14-18,7:1)

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村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(20)―悪人や詐欺師たちは、だましたりだまされたりしながら、ますます悪に落ちて行くのです。

・自分に不都合な信者の言動はすべて「被害妄想」として片付ける牧師たち

➀ 村上密の一家によるアッセンブリー京都教会の私物化と教会のカルト化

  
アッセンブリー京都教会(京都七條基督教会)は、事実上、村上ファミリーによって私物化され、カルト化してまっている様子が見受けられる。

一つ前の記事で筆者は、当ブログを巡る事件の一審を担当してくれた裁判官が、4月1日付で福岡へ異動になったのと同時期に、村上密のいる京都七條基督教会で短期間で主任牧師から退けられた長澤聖志牧師が、博多へ異動になったことを追記した。

この人事については、長澤牧師自身が長年執筆していた「元気です! ながさわです!!」の中で発表している。博多へ転任後は、ブログも移転した様子である。



さて、村上密が主任牧師を引退したのは2015年3月末頃のことである。村上は当時のブログ記事「残りの人生」の中で、「40代の牧師が主管者になれば、教会は20年以上は安定した教会運営ができると判断した。」と明言し、40代の長澤氏に主任牧師の地位を譲り、20年以上の長期的な視野に立った安定した教会運営を目指すとしていた。



このように、京都教会では、20年も先を見据えて主任牧師の交替が行われたはずが、なぜ、それからわずかたった数年で、長澤牧師が主任の地位から外され、村上の妻である恵子が主任牧師に就任する運びとなったのか、さらに、それで終わらず、なぜこの4月に、長年、村上の下で働いて来た長澤牧師が博多へ異動になったのか、村上のブログでは一切、その説明がないことは極めて奇妙に感じられる。

だが、村上の息子である渡伝道師が同教会で奉職していることを考えれば、これは要するに、ファミリー経営の企業のごとく、村上が同教会でゆくゆくは息子を主任牧師に据えて、教会を世襲制にしたいという私物化の願望が強く働いていると見られておかしくない。いずれにしても、それ以外に何らの理由も示されていないのだから、不信感を誘う人事であることは言うまでもない。
 
京都教会で起きた、村上の後継者を巡る不審な人事の動きについて、当ブログでは、繰り返し言及して来たが、それに対しては、村上本人から、筆者に対して、実に些細な問題を取り上げては揚げ足取りをするような非難の記事が発表されただけでなく、掲示板にも、村上の支持者と見られる人物が、次のような投稿をして、筆者をいわれなく非難している。

こうした投稿を見ても、事実上、この教会はカルト化の道をひた走っていると見るのが自然ではないだろうか。



ちなみに、「法人に対する殺人行為」などといった言葉は、聞いたこともない用語であるが、このような根拠も不明な用語を用いて、村上の教会を擁護するために、筆者に対する非難が行われていることに、筆者は、この教会の深いカルト化の現実を思わないわけにいかない。
 
これは「国体の変革」を試みる行為を、死罪に相当するとみなした戦前・戦中の国体思想とほとんど変わらないものと見える。要するに、牧師夫妻(一家)を神格化し、法人(教会)というものを、牧師夫妻という「現人神」を祀るための「神聖な入れ物」とみなし、京都教会をメシアを受け入れる神聖不可侵な入れ物とみなせばこそ、生まれて来る発想なのだと言えよう。

こうした記述を通して、京都教会は、牧師一家を現人神のごとく信奉し、教会全体が牧師のファミリーによって私物化されることを当然視するという重度のカルト化状態に陥っている様子が見受けられる。
 
だが、長澤牧師の転任に伴い、早速、こうした問題は、掲示板でも指摘されるようになり、当ブログで過去に指摘した、鳴尾教会において、村上の義理の父である津村昭二郎牧師と、村上密が協力して起こした、津村氏の後継牧師夫妻の事実上の追放という忌まわしい事件との類似性も指摘されている。


 
鳴尾教会で村上密と義理の父である津村昭二郎牧師がどのような形で、密室の話し合いだけで、鳴尾の後継牧師と目されていた夫妻に異動を迫ったかという事実の経緯については、「正義の仮面を被り、教会とクリスチャンを迫害する村上密牧師の危険な活動➀」にまとめているため参照されたい。





 なお、掲示板でも指摘されている通り、村上は2017年4月1日付のブログ記事「京阪中央教会 異常な役員構成」 では、「民主的な教会運営を心がけしている教会は、は(ママ)三親等以内が3分の1を超えないようにしている。」と指摘している。

しかし、村上の教会では、津村昭二郎、村上密、村上恵子、村上渡と(津村かほる氏を除いたとしても)村上ファミリーだけですでに4名もの教職者がいることになり、その他、同教会に常時、奉職している牧師たちが全員で何名いるのか、ホームページには公表もされていないため、不明である。

そんな中で起きた長澤牧師夫妻の転任である。これでは、京都七條基督教会は到底、「民主的な教会運営」をしているとは言えないのは当然である。

  
 
* * *

② 一体、あなたは誰を「被害妄想」としたいんですか、村上密さん?

ちなみに、掲示板でこうした指摘がなされるようになると、当ブログには、村上支持者が不都合な記事のランキングを押し下げることを目的としての行為と見られるが、不明なアクセスが集中しただけでなく、村上自身のブログに、早速、5月6日に「被害妄想」という記事が投稿された。

ちなみに、この記事には、日時、人物、状況の特定はない。従って、この記事が何を目的として投稿されたのかは、読者に明らかではない。
 
だが、この記事に「最近、被害妄想について聞かれることが多くなった。」などと書かれていることは、あまりにも唐突でしらじらしく不自然な出だしである上、「被害妄想」や「妄想性障害」などの言葉は、村上のブログの過去記事を検索しても、過去に一度も使われたことがない事実を見ても、これが「村上用語」ではないことがすぐに分かる。

そこで、筆者は、心理学を専門に学んだわけでもない村上が、いきなりこんな心理学者めいた用語を振り回し始めたのには、必ず、他者からの影響があるはずだと推察した。そこで、この問題を解明するために、村上は唐沢治とは異なり、精神医学や心理学を学んだ学者でもないのに、なぜ一牧師としてこんな記事を投稿するのだろうという疑問を、故意に当ブログのひとこと欄に残しておいた。

そうしたところ、以下にも記す通り、その後まもなく、村上のブログには唐沢の陳述書に関する一連の記事が投稿され、村上が唐沢と水面下でやり取りしていた事実が判明したのである(唐沢からの許可がないのに、村上が唐沢の陳述書の公表に及ぶことはあり得ないと考えられるため、両者の間にやり取りがあったと理解される)。

そこで、筆者は、以上の「被害妄想」の記事は、村上が唐沢の影響を受けた上で、筆者への当てつけの意味を込めて投稿したものなのだろうと推察する。

なぜなら、筆者は一つ前の記事で、次のように書いたからである、「以前に筆者が控訴したことを、筆者に先んじて発表したのは村上自身である。にも関わらず、筆者の側から控訴がなされたことを書かずに、事件が終わったかのような印象を振りまいている様子を見れば、 村上の意識は大丈夫だろうか、という疑問が生まれて来るのは当然だ。

筆者はそこで、己の罪から目を背けたい人々は、往々にして自分の目から真実をごまかすために、事実認識そのものを歪め、現実ではないことを、現実であるかのように、あからさまに信じ込むことがあり、村上も、自己の罪から目を背けてごまかしに満ちた弁明を重ねているうちに、いずれそうなる可能性がある、ということを書いた。

なぜなら、杉本徳久にも、同様のことが起きたからである。筆者は2009年から、杉本の行為をクリスチャンにあるまじきものと主張し、2010年頃からは権利侵害であると主張して来たが、己が不法行為を認めたくなかった杉本は、常に筆者を「精神異常」と決めつけることで、筆者による罪の指摘から逃れようとして来た。
 
杉本がこれをあくまで言い逃れのための嘘と分かった上で主張していたのであれば、まだしも事態は軽く済んだかも知れないが、一審で杉本が提出した準備書面のすべてを読む限り、杉本は本気でそのように思い込んでいたと確信できる。
 
筆者はこれまで幾度も、「主を畏れることは知恵の始め。」(箴言1:7)という御言葉を引用しつつ、聖書のまことの神への信仰を保つことこそ、人の精神の健康の秘訣であると述べて来た。

人が己の罪を認めたくないがゆえに、嘘に嘘を重ねて自己弁明していると、そのうちいずれ、事実認識そのものが根本から歪んで、正常な判断を保てなくなって行くのである。

村上のブログ記事には、村上が自分にとって不都合な現実を見ないで済ますための多くのトリックや、ごまかしが見られるこを、筆者は、再三再四、過去の記事で指摘して来た。そのようなごまかしを重ねていれば、やがて精神にも異常をきたす可能性があるというのは当然である。

従って、村上が発表した以上の記事は、このような指摘がなされたという文脈の中で、投稿されたものであることを考えると、村上がここでまたもや白黒反転論法に陥り、「精神に異常をきたしているのは、おまえだ、ヴィオロン」との皮肉を込めてこの記事を投稿したと考えたとしても、さほど不自然ではないと言えよう。

しかし、心理学用語を使って信者に病名を診断するような行為は、村上の過去の行動には見られないものであることから、筆者は、村上以外の人間が、村上にそのような話を示唆することがない限り、以上のような記事の投稿はあり得ないと推測した。

とは言うものの、村上は病名診断のような行為を過去に行ったことはないかも知れないが、同様の考え方は、以前から保持して来たものと見られる。

なぜなら、上記した通り、村上一家による鳴尾教会の人事の私物化問題を指摘した記事でも紹介した通り、かつて津村氏の下で働いていた伝道師夫妻は、猛暑の中、クーラーが壊れた狭い部屋で過ごし、体調を崩したため、妻が流産するという出来事が起きたことを手紙で訴えている。ところが、津村氏が過酷な環境で二人を働かせていたという伝道師夫妻の悲痛な訴えに対し、村上の義理の父である津村氏は、

㉚ なぜ、クーラーが故障していることを牧師に言わなかったのか。これは被害者意識の強い文章ではないか。

と指摘していた。これに対し、筆者は、

「被害者意識の強い文章だ」という津村氏の弁明には呆れて笑ってしまう。しかも、これはプロテスタントのキリスト教界の牧師たちの不祥事を告発し、教会のカルト化を憂い、被害者となった信徒らを「救済する」という名目で、「カルト被害者救済活動」を繰り広げている村上密氏の義理の父の言葉なのである。

 これが、カルト被害者を救済すると言っている人たちにふさわしい言葉なのであろうか。他の牧師たちの悪事だけは厳しく告発しておきながら、いざ自分たちの冷淡さが咎められる段階になると、たちまちそれを他人の被害妄想だと言い訳して、無責任に逃げを決め込むつもりだろうか。そんな彼らがどうやって被害者を理解し、助け、「カルト被害者救済活動」など行えるのだろう。他人の被害者意識を否定するならば、信徒の被害者意識を利用して自らの儲けの手段とするなどナンセンスである。そんな活動はさっさとやめればいいことである。


と書いた。つまり、この頃から、村上ファミリーが、自分たちにとって不都合な事実は、「被害者意識が強い(被害妄想と言っているのとほぼ同じ)」などのレッテル貼りをしては耳を塞いで退けて来たことを指摘したのである。

掲示板では折しも、この記事が再び注目を集めていたところであるし、一つ前の記事で、筆者は、村上はよほど自分の活動の支持者たちが、掲示板で筆者一人に対して行った集団的なリンチ(権利侵害)に罪悪感を持っているのではないか、それだからこそ、サイバーカルト監視機構は実在しない、などと繰り返し否定せざるを得ないのではないかと書いた。
 
掲示板で起きた事件は、通常であれば、人を自殺に至らせていてもおかしくない出来事であるが、筆者は一審の間に、筆者のことを気遣い、紛争を解決に導いてくれる人たちに出会い、彼らを決して悲しませたくないし、負い目を負わせたくもなかったので、そうした圧迫には断固、立ち向かって、心の平安を保つ秘訣を学んだと書いた。

しかし、村上は掲示板で起きていることなど、筆者の「被害妄想」に過ぎない、と言わんとした可能性は考えられるし、そもそも筆者が村上を訴えた行為自体が「被害妄想」に過ぎないと言いたいのだろうとも推察されるし、また、筆者がキリストにあって、心の平安と喜びを保つ秘訣を知った、と書いていることが何より許せず、杉本同様に、「おまえは人格障害だ、心の平安などあるはずがない」というレッテルを貼ろうとしている可能性も、なきにしもあらずだ、と考えられる。

しかし、名指しであからさまにそのように書くと、名誉毀損に問われる可能性があるため、暗示にとどめたのではないかと。

その推測は、この記事の投稿後、村上が以下にも示す通り、ただちに「唐沢治の陳述書1~4」というブログ記事を投稿し、そこで筆者を断罪したことから、当たらずとも遠からずと言えるのではないかと見られる。つまり、「被害妄想」という記事は、筆者を断罪するための皮切りとして投稿されたと考えるのが妥当なのである。

だが、すでに述べた通り、心理学は唐沢の専門分野であることから、筆者は、村上が以上の記事を発表した背景には、最初から、唐沢の影響があるものと疑っていた。そこで、唐沢の陳述書が村上のブログから公開された事実は、まさにそれを裏づけるものであったと言えよう。
 
* * *

③ 自分に刃向う信者をみな「精神異常」と決めつける唐沢治
 
ちなみに、唐沢はこの春、杉本徳久が筆者に敗訴したことにより、過去に唐沢を偽預言者呼ばわりした記事を削除せねばならなくなったことをきっかけに、「杉本徳久氏の『現代の風景-随想 吉祥寺の森から』における事件の報告」と題していたブログ記事を、「ニュッサ&ヴィオロンに関わる事件について(2版)」と題名を書き換え、その記事の内容からも、杉本に向けた非難の言葉を削除し、改めて、唐沢治のミニストリーを批判して、唐沢の集会から離れ去った筆者とニュッサ氏、れん氏の三名をまとめて断罪するという内容に書き換えを行った。



唐沢を非難した杉本の記事が削除されたのは、筆者が杉本に勝訴したがゆえであり、筆者の手柄と言っても良いにも関わらず、唐沢が筆者には一言の感謝もなく、かえって筆者を、唐沢が告訴したKFCの元信徒と同列に並べて断罪し、杉本を無罪放免したことは、唐沢のものの見方の根本的な異常をよく示す事実であると言えよう。

ちなみに、筆者はこの記事が公表されるまで、ニュッサ氏の存在(面識はない)を伝聞によって知っていただけで、れん(ミルトス)なる女性の存在も、その女性の投稿記事のことも知らなかった。

唐沢が「ニュッサ事件」と呼んでいるKFCの元信徒の事件については、以前に書いた通りである。2010年当初、筆者は、唐沢が「密室で呪いの予言を行った」などとKFC元信徒が杉本ブログへ投稿した内容を、真実であると認める気にはなれず、唐沢を擁護していたが、その後、筆者自身が、2012年に唐沢からKFCを追放されるに当たり、鵜川夫妻と三人で「呪いの予言」と呼んで差し支えのない罵倒の言葉を浴びせられたことから、ニュッサ発言は真実だったのではないか(つまり、唐沢は虚偽告訴をした可能性がある)という強い疑いを持つようになった。

ちょうどそのような記事を筆者が投稿した頃、唐沢が前掲記事を更新し、そこで「なお、HN"ミルトス"はヴィオロンに合わせるように現在に至り(2019年)、私が「呪いの預言」をしたとか、4-5時間も正座させたなどとも主張している。 」などと記したのである。

つまり、唐沢がそう書かなければ、筆者も気づかなかったものを、唐沢は、筆者の他にも、ニュッサ発言は事実であり、「呪いの予言」はあったと認める人物が現れたことを、自らのブログで宣伝してしまったのである。
 
唐沢はここで、「ミルトスも<略>精神障害を隠れ蓑に偽りを語るべきではないであろう。 」などとして、あたかも「れん」と名乗る女性が、精神障害者であるかのように決めつけている。

筆者はこの女性のことを唐沢の記事で知り、さらに、掲示板でも彼女のブログが紹介されたので、その所在を知ったが、筆者は掲示板における誹謗中傷に他人を巻き込みたくないので、今に至るまで、彼女の詳細は知らない。

ただ一つ、直接確かめたことがあるとすれば、それは唐沢が彼女とニュッサ氏の結婚の司式をしておらず、英国キャンプに同行した他の信者のカップルの司式を行ったという事実だけである。それはかつて、KFCの元信徒が筆者に向かって、唐沢がニュッサ夫婦の司式を行ったかのような証言をしていたので、筆者はそれが事実でないことを確かめたものであった。おそらく、その信徒が筆者にこのエピソードを話してくれた際、昔のことなので、別のカップルの結婚の話を混同していたものと見られる。

さて、筆者がれん氏のブログを見る限り、彼女が心の病を患っていたのは、もうずっと昔のことであり、現在は健康そのものとなり、さらに、彼女は「破戒」したと書いている通り、宗教界を去ったようであるから、現在はキリスト教信仰を持っているかどうかも分からず、その点で、筆者とはかなり異なる歩みをしている様子が分かる。

にも関わらず、唐沢は、「HN"ミルトス"はヴィオロンに合わせるように現在に至り(2019年)、私が「呪いの預言」をしたとか、4-5時間も正座させたなどとも主張している。」などと記し、まるで彼女が筆者と歩調を合わせた人生を歩んでいるかのように書いている。
 
まるで第二のヴィオロンが出現したとでも言いたげなニュアンスを感じる記述だが、これを読むと、唐沢は、この記事の発表当時、筆者が存在も知らなかったれん氏を、まるで筆者のドッペルゲンガーか何かのようにとらえているのでは?という気さえしてならない。

というよりも、唐沢はここで、かつて精神障害を患っていたというれん氏の経歴を、筆者と意図的に混同し、さらに、そこに精神不安定になり(唐沢の用語だと「自己崩壊」した)ニュッサ氏もごちゃまぜにして、要するに、唐沢治に刃向う信徒など、みな精神障害者に決まっている、妄想性障害だ、被害妄想だ、と言いたげな決めつけを、一緒くたに行うために、あえてこのように三人を並べて印象操作に及んでいるのではないかと思われてならない。

だが、れん氏が現在、精神障害に陥っておらず、健康である以上、唐沢のそうしたトリックは成立しないし、むしろ、彼女が「呪いの予言」があったと証言している限り、唐沢の側のアリバイが崩れたと言うのが事実であろう。

ちなみに、筆者は生まれてこの方、精神科にかかったことは一度もなく、現在も、いかなる精神疾患にも陥っておらず、心理学者のカウンセリングも受けたことはない。そこで、杉本がそうしたように、医者でもなく、カルテもないのに、他者をいわれなく精神異常者と断定するような話を押し広げていれば、いずれ、そのようなことをした人間が真っ先に責任を問われるだけのことである。

証拠もないのに、そうして人を罵倒したいと願う人々がいるなら、あえてその愚行を止めるつもりは筆者にはないが、そのような都市伝説や怪談のような類の話が、訴訟で大真面目に取り上げられることはないであろうということは断言できる。むろん、ネットの読者も今日、そこまで侮られる存在ではなかろう。

* * *
 
④ 唐沢治の防衛の盾として都合よく利用され、使い捨てられる道を歩もうとする村上密

さて、こうした中で、村上が発表した一連の「唐沢治氏の陳述書1~4」の記事は、村上が一方的に唐沢の肩を持って筆者を断罪する内容となっている。

しかし、おそらく、村上がこの記事を発表した本当の動機は、ただ筆者を断罪するのみならず、長澤牧師の異動や、村上ファミリー(特に村上の息子に注目が集まる)による京都教会の私物化といった問題から、掲示板の話題を含め、読者の目を逸らすことが主たる目的であるものと見られる。

しかし、初めに断っておくと、村上はこの記事の公開によって、非常に危険な賭けに出たことになる。

まず、唐沢治という人物を、実際に知っている経験に立って、筆者が言えることは、唐沢は自分が窮地に陥ったときに、常に自分を支持する信徒などの他者を巧妙に盾のように用いて、自分だけが都合よく危機を乗り越えて来た男だということである。

唐沢はKFCの元信徒を刑事告訴した際にも、筆者に警察での証言を頼んだり、和解の呼びかけを推敲するよう依頼するなどして、筆者の手を借りて元信徒を追い込むことで、この事件を自分に有利に解決しようとした。つまり、自分が矢面に立たなくて済むように、巧妙に他人を盾にしながら立ち回って来たのである。

そうした唐沢の利己的な行動は、その後、唐沢が杉本に筆者の個人情報を渡した時にも同じように見られた。唐沢は自ら矢面に立って筆者と対立せずとも、杉本が自分に代わってその役目を都合よく果たしてくれることを見込んだ上で、あえて杉本に情報提供したのである。その結果として、杉本がその責任を負わされて敗訴に追い込まれている。

また、それ以前に坂井の裁判の時にも、唐沢はこれと同様の行動をしている。唐沢は坂井を陰ながら支援するという立場を装って、坂井の裁判を通じて、筆者の個人情報を杉本に提供させた。しかし、その裁判に坂井自身は敗れている。唐沢の「支援」は何の効き目も無かったのである。
 
このように見ると、唐沢の言い分を真に受けて、唐沢を擁護したり、協力する目的で動いて来た人間は、誰もが敗北に追い込まれるか、もしくは、欺かれて、罠に陥れられるような結果になっている様子が分かる。

そうした唐沢の行動が、今になって変化することは考えられない。筆者は最近、唐沢に対する訴訟を間もなく提起することで、唐沢の前掲記事を削除させるつもりだという意図を明らかにしたことから、そろそろ訴訟の時期が近くなって来たと考えた唐沢は、この度、この事件に一人で立ち向かうことを避けるために、今度は村上密を利用しようと考えた可能性があることを断っておく。
 
筆者から見れば、唐沢は村上よりも知的に上手であるため、そういうことは十分に起こりうる事態である。

しかし、そのような提案にまんまと乗せられたのであれば、村上は、したたかな報いを受けるだけである。ちなみに、唐沢は周知の通り、ニッポンキリスト教界に尽きせぬ憎悪を抱き、とりわけあらゆる牧師に対する憎しみを燃やし、罵倒を続けていることで有名である。

唐沢のニッポンキリスト教界の牧師に対する口汚い非難と嘲笑は、筆者と出会う前から始まっていたので、もうかれこれ15~20年くらいは続いているのではないかと見られる。その上、、今度は、村上密をもターゲットにすることにしたのかと呆れるのみである。

だが、村上も杉本を盾のように利用した趣が強いことから、そうなったとしても、自業自得と言う他ない。次の御言葉を引用するのみである。

悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたがたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。」(二テモテ3:13-17)

唐沢はすでに東洋思想、ニューエイジ、オカルト思想とキリスト教を合体するなどして、正統な聖書の教えから完全に逸れてしまっている。その上、ニッポンキリスト教界に対する尽きせぬ憎悪を燃やし、牧師たちに対する罵りの言葉を日々、語り続けている。このような人物と提携して、誰がどうして無傷で済まされようか。

筆者はニュッサ氏の事件の際にも十分に学んだが、キリスト教徒には、まことの弁護者であられる神が着いておられるわけだから、他人の弁護という仕事は、決してやってはいけない仕事である。他人を弁護しようとすると、どうしても、人は加減が分からず、一線を超えてしまい、行き過ぎた発言を行って、過ちを犯す傾向がある。しかも、自分が庇いだてしている人間が、本当に正しい、弁護に値する人物かどうかは、神でなければ分からない。そこで、もしも弁護しようとしている人間が、悪人であった場合、その人間を弁護する者は、同じ罪に自分もあずかることになるだけなのである。

筆者がかつて唐沢のために証言した際には、筆者は故意に偽証したわけでなく、また、ニュッサ氏が書き込んだ先が、杉本ブログだったために、筆者自身も被害を受けた身であり、そういうこともあって、神は筆者を助けて下さり、さらに信徒も不起訴となった。

だが、唐沢があの時、有利な立場を保てたのは、明らかに筆者の助力があったことによる。それが今はなく、また、他の証言者も現れたわけだから、唐沢は、前よりもっと苦しい立場に立たされながら、筆者に敵対しているわけであり、唐沢には勝ち目がない。むろん、その弁護を引き受けた者も、都合よく防衛の盾とされるだけで、率先して負けて行くことになるのは避けられない。

少なくとも、自分が陥れられていることさえ分かっていない人間には、まず勝ち目はないと言えよう。筆者から見れば、唐沢の弁護は、到底、村上にできる仕事ではない。

* * *

⑤ 唐沢治の言い分を真に受けた村上密によるデマ拡散と権利侵害とそれに伴う厳しい報い
 
さて、筆者が2012年にどういう経緯でKFCを追放されたか、そこで鵜川夫妻が何を行ったのか、唐沢の陳述書にいかなる虚偽が書かれているかは、「村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(7)―唐沢治と杉本徳久のメール文通―彼らのために真理の道はそしられるのです。」に詳しく記したので、こちらを参照されたい。
 
村上は以上の記事を一切読むことなく、唐沢の主張した虚偽を鵜呑みにして、筆者を中傷する記事を発表した。そのようなことをすれば、一方的に唐沢の言い分を鵜呑みにして虚偽を言い広めた村上が、唐沢の分まで、その責任を控訴審で問われることになるだけである。何と愚かかつ軽率な行動であろうか。

さて、筆者は唐沢に対して将来的に記事の削除を求める訴訟を提起する意図であることを、当ブログで隠していないので、村上の書いた「唐沢治氏の陳述書 1 」には、新事実はないと言えよう。また、筆者が「神の啓示を受けた」として横浜へ転居した事実もなく、これは唐沢の作り話であることも、上記の記事に書いた。横浜案内その他についても、上記記事に通りである。

唐沢治氏の陳述書 2 」も、村上の人格権侵害の記事等と合わせれば、プライバシー権の侵害他の人権侵害が成立する可能性がある。ちなみに、「ルークさん」という言葉を、村上がわざわざ引用しているところに、筆者は村上の唐沢に対する深い嫉妬を感じざるを得ない(この頃、唐沢は杉本に対しても、村上に対しても、敵対的な立場にあったため、筆者と唐沢との親交は、村上から見て非常に忌むべき不快なものと映ったであろうことを疑わない)。

村上は愚かにも、ここで、唐沢の言い分を鵜呑みにして、筆者が坂井と「協力体制」にあったかのように思い込んでいる。しかし、筆者は当時から現在に至るまで、坂井といかなる協力もあった試しはなく、坂井とは面識も、連絡のやり取りもないまま、2012年にKFCから追放されたため、坂井との「協力」など構築される間もなく、唐沢との関わり自体が終わったのである。

従って、村上が事実でないことを根拠に、「これでヴィオロンを援護するために坂井氏が私にしつこく絡んできたことがわかった。」とか、「なぜ債権者が根拠もなく債務者Aと債務者Bの私と結びつけるのか、それはヴィオロンたちが組んだ「協力体勢(ママ)」の投影だったと思われる。」と断定していることは、筆者に対する人格権侵害と合わせれば、名誉毀損が成立する恐れが非常に高い。

ところで、 杉本徳久が2018年3月28日に送りつけて来た迷惑メールの中にも、以下の内容が書かれていたことが思い出される、「ヴィオロンさんが書かれるとそれは多くの方が読まれるわけですが、唐沢治や坂井能大らの目にも触れるわけです。ヴィオロンさんは坂井とは面識はないだろうと思いますが、あなたが別に調停を申し立てた村上密さんにも散々、嫌がらせ中傷をしてきた人物が坂井です。聞いてみたことはありませんが、村上さんもおそらく非常に迷惑を被っただろうと思われます。」

この時点で、杉本は筆者が坂井を焚き付けたなどとは主張していなかったが、その後、杉本は自分が坂井に対して起こした裁判さえも、あたかも筆者が陰で糸を引いて坂井を焚き付けたせいであるかのように主張を翻し、坂井と筆者との間に「協力関係」が存在していたかのように事実に反する決めつけを行った。
 
現在、村上は、かつての杉本と同様の見解に立って、以上の記事で、唐沢の言葉を利用しつつ、2012年から今日に至るまで、存在したこともない「協力体制」を理由に、あたかも筆者が坂井を焚き付けて、村上に対する挑発行為に及ばせたかのように断言しているのである。杉本との驚くほどの思考の類似性が見られるだけでなく、むろん、正当な根拠のないこの記述が、名誉毀損に相当する可能性があることは、繰り返す必要がない。
 
さらに、村上がここで「「協力体勢(ママ)」の投影」などとして、坂井と筆者との間の存在しない「協力体制」を根拠に、これを筆者が、債務者A、Bに「投影」して、A,B,Cの間に「協力体制」があると思い込んだかのように主張していることも、極めて不可解な独自の論理の飛躍と言う他ない。一体、これらの両者(両グループ?)の間に、何の関係があるからそのような結論に至り着くのか、さっぱり理解できない話である。(しかも、筆者は一切、A,B,Cの三者が共謀関係にあるという主張を行った事実はない。)
 
いずれにせよ、杉本と同じように、他人から吹き込まれた悪口を、見境なく信じ込んでは触れ回る愚かな人間には、相応の報いが待ち受けているだけである。
 
村上は「このヴィオロンの謝罪を信じていた唐沢氏はやがて攻撃を向ける立場になった。」などとするが、不可解な主張である。自分たちは信者の謝罪を本気にしていた分だけ馬鹿だった、信頼を裏切られ、欺かれたのだ、と言いたげな自己憐憫の思いが透けて見える。
 
だが、前掲唐沢の記事の内容を読んでも分かる通り、唐沢は、信者をあからさまに断罪したり、信者に理解できない不可解な行動を繰り返すことによって、信者を戸惑わせ、信者が罪悪感を抱いて、唐沢に対して謝罪せざるを得ないような状況を作り出すのが巧みな人間である。
 
一度でも信者から謝罪があれば、それをいついつまでも引っ張り、「あの時、あなたは謝ったんだから、このことについても、あのことについても、どうせあなたが悪いんでしょ」と、一つの謝罪を拡大解釈しながら、諸々の行動を責めるための根拠としていく。和解するためでなく、言質を取るために謝罪へ追い込むのである。そのことは、唐沢が、れん氏やニュッサ氏の謝罪のメールを「必要があれば公開する」などと告げて、脅しめいたやり方で、自己正当化の証拠として提示しようとしている態度にも、はっきり表れている。

(しかし、暴力を用いて自白させても、それが有力な証拠とならないように、心理的圧迫を与えて、何を謝っているのかすら限定されていない漠然とした謝罪を取りつけても、それが相手に非があることの有力な証拠とならないのは言うまでもない。)
 
唐沢にとって信徒からの「謝罪」は、鬼の首を取ったぞ、という証拠なのである。こういう人間には、間違っても謝罪すべきではない。しかも、村上が言及しているメールは、筆者自身が一度も公開していないもののため、当然のことながら、人格権侵害の記事と合わせれば、プライバシー権の侵害に当たるだろう。

唐沢治氏の陳述書 3 」も同様に、「土下座」などそもそもクリスチャンの習慣にはないことから、唐沢が作り話をしていることは、信者にはすぐに分かることはすでに述べた。村上はあえてそのように明々白々な事実をも否定したいようである。

KFCは開かれた集会場であり、その場には、鵜川夫妻と筆者以外の他の兄弟姉妹もいたのであって、鵜川夫妻はメッセンジャーであり、筆者はメッセンジャーでなかったわけであるから、何の権威も肩書もない平信徒の立場にあった筆者が、いかなる権限に基づき、鵜川氏に土下座を命じたり、強要することなどできようか? また、何を根拠に、鵜川夫妻がその「命令」に従う義務があるのか?

村上は牧師としてこの疑問に訴訟でどう答えるのだろうか。筆者から見れば、笑い話であるが、見ものである。

しかも、村上自身が引用している唐沢の言葉に、「ヴィオロンを追放するように迫るU夫妻に対して、債務者Cは聖書的根拠がないと言っている。」とある通り、当時、唐沢にも、筆者をKFCから追放するような理由は何一つ見当たらず、鵜川夫妻が、筆者に対して行き過ぎた主張を行っていたことは明白だったのである。

にも関わらず、村上は、唐沢の記述を鵜呑みにして「土下座」の話題を引っ張り、「もし土下座が強要であればこれは強要罪(刑法223条)となる。」と根拠もなく疑いを書き立て、「もし、土下座が強要されたものであれば、ヴィオロンを追放する法的な根拠にはなる。」などとして、唐沢が筆者をKFCから追放した行為に、後付けで正当性を持たせることが可能であるかのような飛躍した論理を展開する。

このように、事実かどうかも分からない話を、想像だけで果てしなく膨らませて、自分が所属してもいないよその教会で、信者を追放する牧師を擁護するとは、村上の悪意に満ちた性格、特に、他の教会における分裂騒ぎや、裏切りや、離反の話が好きでたまらないという、異常とも言って良い嗜好をよく物語る記述ではないだろうか。

常日頃から、とことん他人の悪口が好きで、誰かを悪者にできそうな話には、正義漢ぶって、見境なく飛びつき、これを言い広めることで、達成感を得るような性格でないと、こうはならないであろうと筆者は思う。
 
つまり、これは「お互い信徒に見捨てられた哀れな牧師同士」、互いに涙を注ぎ合って、信徒の悪口を言い合って、被害者意識に溺れましょうね、ということに他ならない。
 
しかし、唐沢も「U夫妻が土下座する事件が起きました。」と書いて、(土下座の事実そのものが存在しないことは言うまでもなく)、これをあくまで鵜川夫妻の自主的土下座としていることからも分かる通り、ここには「強要罪」などという言葉を思わせる事実は、一つも口にされていない。

そのようなことが読み込める文脈ではないことは明らかであるにも関わらず、この場面に、村上が行き過ぎた想像をめぐらせて、唐沢を擁護すべく、また、鵜川夫妻を何とかして「被害者」に仕立て上げるべく、これを筆者の強要であったかのように捏造・誇張する発言をしているわけだから、その記述はただでさえ虚偽である唐沢の記述を前提に、これを想像によって膨らませて筆者の名誉を傷つける発言として、権利侵害に問われる恐れは十分にある。
 
村上が悪意により、筆者を貶める目的でこれを書いていることを、筆者は疑わないが、たとえそうでない場合にも、正体もよく分からない、信頼できない他者をかばおうとすると、行き過ぎが必ず生じて、悪人を弁護した者が、悪人よりもさらに重い罪に問われる可能性が高いのである。

そこで、クリスチャンは他者の弁護を浅はかに引き受けることは絶対にせず、そのような仕事をキリストに任せるべきだと筆者は言うのである。村上のしていることは、その点で、愚かさの極みと言えるであろう。
 
さらに村上は、「U夫妻に対して「教会の乗っ取るための工作員」と言い張る。この陳述書には債務者Cの債権者に対する性格描写が書かれてある。」などとしているが、陳述書は、そもそも性格描写を記すための書面ではない。しかも、鵜川夫妻がクーデターを起こしたことは、唐沢自身が記事にしたためているので、村上は、唐沢の自己矛盾に満ちた記述によって板挟みとなり、罠に陥れられることとなる。

さらに、村上は「債権者が横浜に転居してきた平成21年夏頃から、債務者Cとは3年数ケ月の信仰的に共に歩んだことがわかる陳述である。「同志」の関係は、第三者的には結構続いたと思える。」などと、悔し紛れのような記述を行っている。

だが、筆者から見れば、筆者は子供の頃からアッセンブリー教団にいたのであり、それに比べ、KFCで過ごした時間など、何と短かったのだろうかと思うが、村上にはそうは見えないらしい。もっと早く決裂に至らせたかったのに、3年も続いたのか、という悔しさをにじませる記述である。やはり唐沢に対する嫉妬のような思いが感じられる。

唐沢治氏の陳述書 4 」も同様で、唐沢は自分で鵜川夫妻による「クーデター」が起きたことを認めているのであるから、唐沢の主張それ自体が、自己矛盾によって成立しないものである。また、筆者は横浜に来たときに孤独感を唐沢に訴えたことなど全くないと主張しているにも関わらず、唐沢の言い分を一方的に信じ込んで嘘を記述しているわけであるから、村上はその責任も問われるだろう。

「かつては裁判を否定していたヴィオロンはこここそ自分の戦いの場であるかのごとく、準備書面の準備に多くの時間をかけている。債権者はいつ休息しているのだろうか。」
  
筆者が訴訟を起こすかどうかについて、村上はそもそも何かを言える立場にない。訴訟を起こすことは市民の権利であるが、これを否定するつもりだろうか。
  
しかも、これが昨年の一審が開かれていた間に発せられた言葉ならまだ分かるが、なぜ今、こんな言葉が出て来るのか、理解に苦しむ。何しろ、筆者は今、控訴中であって、村上に対する準備書面を書いていない。唐沢に対する訴えも、訴訟に転じるという名目で取り下げされたと、村上自身が認めているわけだから、この申立についても、準備書面の作成などなかったことになる。

それなのに、筆者が「準備書面の準備に多くの時間をかけている」かどうか、なぜ村上に分かるのか? 実におかしな話である。そもそも他人のパソコンを覗いたりでもしない限り、いかなる文書の作成に誰がいかなる時間を費やしているかなど、分かるはずもないことではないだろうか。

さらに、筆者は信仰があればこそ、他人の何倍もの仕事ができるようになると、前々から主張している。筆者の休息のことを心配するなら、そもそも村上がブログ執筆をやめることが一番の休息となる。

以上、残る部分は訴訟にて主張すれば良いが、まさしく墓穴としか言いようのない村上の記事である。どうしても、村上は軽微な罪では飽き足らず、より重い罪で自分を裁いてもらいたいらしい。
 
もしもこれらの記事が、唐沢のブログから発表されたものであれば、唐沢はあからさまな人格権侵害を犯しているわけではないので、人権侵害が成立するための要件は、少しこみいったものとなっていたであろう。しかし、村上はすでにあからさまな人格権侵害に及んでいるため、これを権利侵害として訴える前提は揃っている。

自分が控訴されている立場でありながら、このような記事を発表するとは、筆者から見れば、果てしない愚行であり、またしても唐沢に嵌められる人間が出現したというだけの笑止千万な話でしかない。今まで唐沢に関わって、さんざん負の影響を受けて来た者が、複数名乗り出ており、幸せになった信徒が見当たらないことを知りながら、なぜわざわざそんな愚行に走るのであろうか。

やはり、村上が杉本の発言を自分に都合よく利用した行為が、村上自身に報いとして跳ね返っているのであろうと言わざるを得ない。
 
もしも村上が、唐沢と組んで筆者を追い詰めれば、筆者に心理的打撃を与えられるだろうと考えているのだとすれば、それは愚かな間違いである。そもそも悪人と詐欺師がタグを組んでも、より悪に落ちて行く時間が縮まるだけで、何の勝算の見込みもない。

筆者がまことの神により頼んでおり、これらの牧師たちが、聖書の御言葉への忠実な信仰を捨てている以上、彼らがどれだけの嘘を懸命にばらまいたとしても、厳しい報いが待ち受けているだけで、一切勝ち目がない。もはやそのような嘘に騙される人数も、非常に限られている。
 
それにしても、悪人と詐欺師が互いに信頼も協力もできず、自己憐憫や打算に働きかけて、互いに騙し合い、責任をなすり付け合って、互いを破滅させる形でしか、共に悪事を遂げられないというのは、実に興味深いことである。これが悪人流の「協力体制」ということなのかも知れない。
 
* * *
  
いずれにしても、村上が以上のようにいきなり、唐沢の陳述書の話を持ち出したのは、長澤牧師の追放に近い転任や、村上一家による京都教会の私物化という問題を、これ以上、読者に追及されないためのスピンである可能性が高いということを何度でも断っておきたい。 

筆者が一連の記事を発表したことにより、唐沢の陳述書の問題などはほぼ終わっている。今、注目されるのは、カルト化して、現人神と化した牧師たちを祀り上げる母体となった京都教会とKFC が、これからどういう末路を辿るのかである。

これらの教会にはしたたかな報いがあるだろう。バビロンの倒壊には巻き込まれないようにせよと聖書にはあるから、左遷であろうと、追放であろうと、転任であろうと、このような忌むべき場所から遠ざけられた者は幸いであろう。


村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(7)―唐沢治と杉本徳久のメール文通―彼らのために真理の道はそしられるのです。

5.唐沢治が杉本徳久と交わしたメール(牧師としての秘密漏示)
 
「かつて、民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも偽預言者が現れるにちがいありません。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否しました。自分の身に速やかな滅びを招いており、しかも、多くの人が彼らのみだらな楽しみを見倣っています。彼らのために真理の道はそしられるのです。
彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にします。このような者たちに対する裁きは、昔から怠りなくなされていて、彼らの滅びも滞ることはありません。」(ペテロニ2:1-3)


彼らは、厚かましく、わがままで、栄光ある者たちをそしってはばかりません。天使たちは、力も権能もはるかにまさっているにもかかわらず、主の御前で彼らをそしったり訴え出たりはしません。この者たちは、捕えられ、殺されるために生まれてきた理性のない動物と同じで、知りもしないことをそしるのです。そういった動物が滅びるように、彼らも滅んでしまいます。」(ペテロニ2:10-12)

当ブログ執筆者を日夜誹謗している掲示板には、多くの「杉本用語」「村上用語」「唐沢用語」が登場する。本人が書き込んでいるかどうかまではまだ不明だが、以下のコメントで使われている「脳内空転」という言葉も、唐沢治のお気に入りの用語である。



口汚い言葉で筆者を罵っているこのコメントに登場するこの言葉は、以下に示す通り、唐沢が杉本に宛てて書き送った、当ブログ執筆者を罵倒するメールにも登場している。

だが、今は掲示板について話す前に、まずは唐沢治がどのように杉本徳久の圧力に屈し、牧師としての守秘義務を破って、当ブログ執筆者の個人情報を杉本に売り渡し、筆者を陥れて、杉本を筆者に対立させるよう仕向けて行ったか、唐沢治が用いた巧妙な策略について、今回の裁判において新たに判明した事実を提示しながら、振り返っておきたい。

* * *

➀ 唐沢治が杉本徳久に2010年に民事提訴を予告した経緯

唐沢治は、KFCの元信徒が、杉本が2009年に当ブログをバッシングするために発表した記事のコメント欄に、「唐沢から密室で呪いの予言を受けた」という趣旨のコメントを書き連ねたことをきっかけに、2010年にこの元信徒を刑事告訴した上、その事件を自分に有利に解決するために、筆者に警察での証言を頼んで来た経緯がある。

さらに、唐沢治はこれと前後して、筆者に対するバッシング記事を取り下げさせることにより、都合よくKFCの元信徒の書き込みも削除させようという名目で、杉本に宛ててメールを送り、そこで筆者に(はおろか他の誰にも)何の断りもなく、一方的に杉本に民事提訴を予告するという暴挙とも言える行動に出た。

唐沢が杉本に提訴を予告した目的は、KFCの元信者の書き込みについて、杉本による幇助の責任を追及するためであったことは、杉本ブログに2010年8月23日付で投稿された記事「唐沢治からの民事提訴の通告」に、以下の通り、唐沢自身のメールとして公開されている通りである。



 

「また杉本さまにつきましては、メールや私に関する書き込みなどを当局に提出し、一応幇助罪の適用の可能性を検討していただき(あまり高くはないかと思いますが、掲示板管理人が書類送検された事案がありましたね)、また民事提訴させていただきます。法的構成は2ちゃんねるの西村氏と同じ立場になるかと思いますが、後ほど弁護士からご連絡させていただきます。

「容疑者検挙や事実関係の詳細などにつきましては、おいおい私のブログで公表してまいります。なお、私からの直接のご連絡はこれを最後とし、今後は弁護士経由でご連絡させていただきます。

ここに書かれている通り、唐沢はこの当時、杉本に対し、KFCの元信徒による書き込みについて、幇助の可能性を問うため、民事提訴を予告し、以後、杉本への個人的な連絡は一切控え、弁護士を通じて連絡する、と通告したのである。

繰り返すが、この提訴予告は、唐沢があくまで自らの権利を擁護する目的で、杉本に通告したものである。

それにも関わらず、唐沢は、誰にも何の説明もないまま、自ら行った提訴予告を実行に移さなかった。それゆえ、唐沢の提訴予告に激怒した杉本は、唐沢をブログで激しく中傷したのみならず、筆者や、エシュコル氏など、当時のKFC信者に宛てて、幾度となく、唐沢の提訴予告のことで、事の次第を明らかにせよと、信者をなじるメールやコメントを書き送った。

筆者は当時、このような杉本の行為に当惑させられていたが、唐沢はどこ吹く風といった態度であった。

なぜ唐沢は、誰にも何の説明もなく、杉本への民事提訴の予告を実行に移さなかったのか。その理由として考えられるのは、唐沢は勇み足で杉本に提訴を予告したものの、その後、調べてみると、杉本ブログに投稿されたKFCの元信者のコメントについて、ブログ管理者としての杉本に幇助の責任を問うことは、ほぼ不可能であることが分かったのではないかということである。

ちなみに、本訴訟でも、コメント投稿欄に投稿された内容について、ブログ管理者は責任を負わないという判断が出ている。

つまり、唐沢は、杉本に提訴予告した後になって、先に通告した理由では、訴訟を提起しても、勝ち目がないことを悟ったのではないかと見られる。だが、そのことを、唐沢はプライドゆえに、決して誰にも明かしたくなかった。提訴を取りやめたと言うことさえ恥であると考えたのではないか。

それゆえ、なぜ提訴を実行に移さないのか、誰にも説明しないまま、唐沢は沈黙を決め込み、時間を稼いだのではないかと見られる。

だが、もしも唐沢が誠実な人間であったとすれば、先に通告した理由で提訴が困難と判明しても、別な手段で杉本に立ち向かう道が残されていた。それは、唐沢が自分自身への誹謗中傷を理由に、杉本を訴えることである。

なぜなら、提訴を予告されて激怒した杉本は、上記の記事で、唐沢治を「精神家きどりのやぶ医者ごっこ」をしているだけの「預言者気取りでエセ精神病理学の専門家」と呼び、「ある種の痛々しさ」は唐沢の病的な心理に潜んでいるものであろう。」とか、「こういう洗脳、心理操作の台詞をいともあっさり他人に対して次々に放って恐怖心を射貫き、心理的に相手を圧して支配していく手法。」などと記し、唐沢は、心理操作の手段として、杉本に提訴を予告したのであって、これはスラップ訴訟であると決めつけ、「これが独裁カルトの新興宗教、誇大妄想信仰の恐ろしさである。」などと、あらん限りの非難・中傷の言葉を唐沢に浴びせた上で、ついには「唐沢治のキングダムフェローシップチャーチ(KFC)は、見まごう事なき異様な独裁カルトである。」とまで結論づけていたからである。

杉本が唐沢の実名に対して向けた以上のすさまじいまでの記述は、当時、十分に名誉毀損に相当する不法行為となり得たのであり、もしここで唐沢が杉本を民事提訴していれば、杉本は一巻の終わりとなっていたものと見られる。

ちなみに、杉本がこのように誰かから非難を受ける度に、より深刻な権利侵害を行っては、罪に罪を増し加えて行った様子は、筆者と杉本との間に起きた紛争においても、共通して見られた現象である。

たとえば、2017年に筆者が杉本に脅しメールやバッシング記事について反省と謝罪を促し、念書を差し入れた時点では、杉本による不法行為は成立し得たかどうか分からなかった。脅しメールは過去のものであり、バッシング記事では実名も出ておらず、権利侵害が成立したかどうかが分からないためである。

ところが、杉本は和解を断っただけで終わらず、それを機に、筆者のメール等を無断で公開しながら、筆者に対する人格権の侵害、名誉毀損・侮辱に及んだ。この時点で、杉本による明白な不法行為が成立したのである。

さらに、筆者が杉本の不法行為の存在を知って、2018年2月に、杉本を刑事告訴の上、民事調停を提起した時点でも、まだ杉本による明白な不法行為は、2、3本の記事にとどまっていた。ところが、筆者が調停を提起した後で、杉本はさらに20本ほどのおびただしい数の名誉毀損に相当する記事を投稿し、自ら賠償を重くして行ったのである。それゆえ、杉本の不法行為は、まさしく訴訟にふさわしいインパクトを持つものとなった。

杉本が唐沢に対して2010年に行ったことは、それととてもよく似ている。当時、唐沢が杉本にぶつかって行ったことにより、杉本の内側に隠れていた罪深い内面が、思い切り外にぶちまけられたのである。

このことは、神の子供たちには、霊的な視力によって、自分に害を加えようとしている敵の不法行為を、それが実際に成し遂げられるよりも前に、察知し、彼らの本質を見抜き、これを明らかにする役割が備わっていることを示している。

我々が暗闇の勢力と接触する時、我々の宣言によって、暗闇の勢力の内実が明らかにされる。村上密の場合も、同様であった。筆者が村上を訴えた時点では、村上の不法行為の証拠は固まっていなかった。しかし、第一審が終結した時点で、村上は無罪放免されたにも関わらず、自ら不法行為に及んで、自分を不利に陥れたのであり、そうなったのは、筆者が村上と接触し、村上を糾弾したことにより、村上の内面が外に現れたのだと言える。

話を戻せば、仮に唐沢が杉本に提訴を予告した時点で、杉本の明白な不法行為が成立する要件が十分に整っていなかったとしても、だからと言って、唐沢は敗北すると決まっていたわけではなく、その提訴予告に激怒した杉本が、ブログで唐沢を誹謗中傷し始めた時点で、杉本には不法行為が成立する要件が十分に揃っていたのである。従って、その機に乗じて、唐沢が杉本に対して断固たる措置に出てさえいれば、杉本にまつわるすべての問題は、それ以上拡大することなく、終了していた可能性が高い。

ところが、KFCの元信徒を訴えることにはためらいがなかった唐沢が、自分自身の名誉と人権を守るために、また、自分の率いる集会KFCの正統性を守るために、杉本の主張に毅然と立ち向かうことをしなかった。

このようなことは、唐沢が当時から真理に生きていなかったからこそ、起き得たことであると筆者はみなしている。

唐沢が、自分に盾突いたKFCの元信徒には容赦のない措置を取りながらも、杉本を訴えることを躊躇したのは、唐沢の心の中に、杉本を「延命させておきたい」という願いがあったからだではないかと考えられる。

つまり、唐沢は、真のクリスチャンを抑圧するための手段として、杉本を残しておくことに価値を見いだしたのではなかと考えらえるのだ。少なくとも、唐沢があの当時、本気で杉本に立ち向かっていれば、杉本は簡単に倒されたことであろうが、そうなることは、唐沢にとっても、まずい事態だったからこそ、唐沢はそれを実行しなかったのである。

このようなことは、唐沢が真のクリスチャンであれば、起き得ない事態であり、むしろ、その逆であったからこそ、唐沢は杉本を上手く使えば、クリスチャンたちを弾圧する手段として利用できることを知っていたのではないかと予想できる。

また、筆者から見れば、唐沢は、自分が傷つけられたときに、正当な方法で、自らを擁護することができない性格であった。杉本も、村上も、唐沢も、みなこの点で共通している。彼らは、自分を脅かした敵に対して、いつまでも執念深く報復措置を加えることはあっても、どういうわけか、正当かつ合法的な手段を用いて、紛争を早期に終わらせ、自己の正当な権利を取り戻すために戦うことができない。

だから、彼らはどんなに戦っても、戦えば戦うほど、その成果が薄れて行き、何も成果が残らないのである。このようなことは、自己を非常に深いレベルで傷つけられて、自分を防御できなくなっている人々に共通する。
 
いずれにせよ、唐沢が杉本の主張に毅然と立ち向かうことをせず、その口を封じる行為に及ばなかったがゆえに、杉本が発した呪いのような言葉が、唐沢の身の上に徐々に成就して行くことになったものと筆者は見ている。


* * *

② 唐沢治自身が認めている2013年にKFCで鵜川貴範が起こした「クーデター」

筆者は2012年にKFCを去ったが、そうなるまでの間に、KFCは杉本が述べた通り、「見まごう事なき異様な独裁カルト」と呼ばれても、致し方ないのではないかというほどの惨状に陥っていた。

(とはいえ、2012年が来るまで、KFCには複数のメッセンジャーがいたため、独裁という言葉は当てはまらない。しかし、2013年にKFCが解体されて、2015年に唐沢がフルタイムの牧師になった頃には、まさに以上のような状況が生まれた。)

筆者は、2011年から2012年頃にかけて、KFCで起きたクーデター事件について、「アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団信徒による他教会(KFC)乗っ取り事件」にまとめている。

この事件を要約すると、当時、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の現役信徒であった鵜川貴範が、Br.Takaという名で、身元を隠してKFCに潜入、2011年頃にはKFCの中核的なメッセンジャーとなり、唐沢の信用を得た。

この頃、筆者は、他教団の信徒であるにも関わらず、身元を隠してKFCに入り浸る鵜川夫妻に多大なる疑問を持つようになり、唐沢にこの夫婦は何を目的にKFCに来ているのか分からないので、注意した方が良いと、クーデターの可能性を告げて警告したが、鵜川夫妻に心酔していた唐沢は、2012年になって、危険を警告した筆者を、夫妻と一緒になって非難、呪った挙句、KFCから追放した。

彼らは筆者を仕事の後で呼び出し、「悪霊に憑りつかれている」だの「そのままでは滅びる」だの、まさしく陳腐な呪いの予言としか言えない言葉を三人でかわるがわる浴びせて、筆者にKFCに来ないように求めたのであった。

この事件が起きたことにより、筆者は初めて、唐沢が「人を呪うような人間ではない」と考えていた以前の見解を改め、唐沢がKFCの元信徒を刑事告訴した事件でも、唐沢が嘘をついている可能性があると疑うようになった。

なお、鵜川のクーデター事件については、唐沢自身が2014年4月30日のブログ記事「お知らせとご注意」で、KFCで当時、確かに「クーデター」が起き、自分が一時、メッセンジャーを降格させられていたこと、鵜川の策略によって、KFCの会堂契約が無効になり、さらに偽サイトが開設されたままになっている事実を自分で記している。

この記事で、唐沢がクリスチャン・トゥデイに掲載された鵜川貴範に関する記事にリンクを貼っていることを見ても、この事件をおこしたのが、まさしくアッセンブリー教団所属の鵜川貴範であったことは明白である。

「*1:端的に言えば、2013年1月初旬、クーデターが起き、Dr.Lukeが一切の働きを封じられて追放された次第。
*2:チャペルに関してはそのまま彼らが使用したいとのことで、2013年9月末に私の契約解除を申し入れ、12月に彼らが契約することになっており、不動産屋との交渉も開始されておりましたが、12月になり彼らは突如チャペルから逃亡しました。こちらからと不動産屋の連絡に対しても一切の応答はなく(携帯もメールも遮断)、よって契約の意思なしとして、チャペルは契約解除され、もちろん彼らの契約下にはありません。よって「公式サイト」の記載は偽りですので、私宛の来訪者が一部おられるようですが、ご注意ください。」





以下は、唐沢が、KFCでクーデターを起こした「メッセンジャー」という文字に、リンクを貼っている鵜川貴範に関するクリスチャントゥデイの記事



このように、鵜川貴範によるKFCのクーデター(乗っ取り)事件は、唐沢治自身が、その存在を認めたものであった。

この事件のために、KFCは会堂を失い、一時は閉鎖に追い込まれていたが、KFCの残党がその後、結集して、また新たに唐沢治を担ぎ上げ、まるでエリコの町を再建するように、会堂がないまま、現在のKFCを作り上げたのである。

こうして再建されたKFCは、前よりも一層ひどいものとなり、唐沢は以前からサンダー・シングなどのオカルトに影響を受けていたことに加え、新しくリニューアルしたホームページの中では、ニューエイジ、禅など、ありとあらゆる非キリスト教的教えから無分別に影響を取り込んだことを隠し立てもしていない。

そして、唐沢自身も、以前は女学生から人気があると自慢するために続けていたような大学講師の職を、2015年に「神の啓示を受けた」として、KFCの牧師業に専念するため、自ら辞した。それによって、アカデミズムを去り、学術研究者としてのキャリアも捨てて、公に心理学の専門家を名乗ることのできた根拠をも自ら捨て去ったのである。

唐沢が大学講師の職を自ら辞したことは、KFCホームページに掲載されたプロフィール欄でも確かめられる。

 

* * *

③ 唐沢治が当ブログ執筆者の個人情報を杉本徳久に漏洩した経緯

・唐沢治が坂井―杉本裁判に当ブログ執筆者のメールを無断で提出(2013年)


筆者は、2012年にKFCを去って以後、唐沢とは何の関係もなくなっていたが、唐沢の方では、うわべは一切の関わりがなくなったように見せかけながら、水面下では、色々と筆者を争いに巻き込むために画策していたようである。

まず、唐沢は、杉本が2013年に坂井能大を民事提訴した際、坂井を支援するという名目で、筆者の了承を得ないまま、筆者の個人情報を含むメールを無断で坂井に書証として提出させた。

このメールは杉本の手に渡り、それが、杉本が筆者の個人情報を特定する根拠の一つとなったと、杉本は筆者との訴訟において認めている。

唐沢は、筆者があたかもメールの提出を許可したかのように述べ、また、筆者と坂井との間で、何らかの「協力関係」が構築されていたかのように弁明を重ねているが、それはすべて事実に反する。

筆者が、唐沢に坂井の裁判にまでメールの提出を許可したことは一度もなく、筆者は坂井とはいかなる協力関係にもあったことがなく、面識すらなく、連絡を交わしたことも一度もない。

しかも、杉本―坂井裁判が行われていた時、唐沢は筆者を呪った挙句、KFCから追放したのであって、筆者はすでにKFCを完全に離れ、唐沢の影響下にもなく、ブログも閉鎖しており、裁判のことも知らなかった。

それにも関わらず、唐沢は筆者の同意を得ないまま、あたかも筆者を遠隔操作で杉本との対立に引き込むかのように、筆者のメールを裁判に提出し、まるで筆者がこの裁判を支援しているかのように「演出」したのである。

この裁判で、坂井は杉本に敗れ(杉本の言葉によると、杉本の勝訴的和解に終わったという)、それによって、坂井と杉本だけでなく、坂井を支援していた唐沢と杉本との対立関係にも、終止符が打たれた。

唐沢は、こうしてもはや杉本の記事を、自分への名誉毀損だと主張する根拠さえ、自分から手放したのだと言えよう。

だが、唐沢は杉本に降伏したことで、KFCが杉本の予告の通り、「見まごう事なき異様な独裁カルト」へと転じる最後の歯止めを自ら外したのだとも言える。


・唐沢治が杉本徳久と交わしたメール文通(2016年―2018年)

その後も、唐沢は2010年に、杉本に対する個人的な連絡はこれを最後とし、以後、弁護士を通じてしか連絡を取ることはないと通告したことなど、全く忘れたかのように、杉本とのメール文通を重ね、そこで牧師としての守秘義務を破って、筆者の個人情報を次々とメールで杉本に提供するようになった。

その結果、唐沢が次々と筆者をいわれなく不利に陥れるような情報を杉本に伝え、杉本がそれを受けて、その情報を筆者を誹謗中傷する材料として使用するという「連携プレー」がなされた。

そのようにして、唐沢が信徒の個人情報を杉本に漏洩していた事実は、杉本が第一審で筆者に書証として提供した一連のメールを通して明らかになった。

杉本はおそらく唐沢に筆者を裏切らせたことが、よほど嬉しかったのであろうと思う。筆者を悔しがらせようと、あえてこの恐るべき悪事の証拠を自ら書証として公の場に持ち出して来たのである。

唐沢が2016年に筆者を指して「脳内空転」と罵った次のメールも、杉本が書証として出して来たものである。

 
1.唐沢が杉本と2016年に交わしたメール。この時点では、唐沢は筆者を「脳内空転」と罵っていたが、まだ秘密漏示には及んでいなかった。

ここで唐沢は、依然として杉本ブログには、唐沢を中傷する記事が掲載されているにも関わらず、杉本と対立する大義はもうなくなったなどと、杉本に対する事実上の和解宣言をしている。

さらに、このメールは、唐沢が、杉本を批判するために書いた記事の削除を、杉本から求められ、それに返信したものであるが、唐沢は杉本の怒りが自分に向かないように、巧妙に筆者の話に話題をすり替え、筆者を「脳内空転が強い」などという言葉で罵ることによって、杉本の注意を筆者に引きつけている。

杉本は、この悪口にも早速、飛びついたと見られ、あたかも筆者が精神異常に陥っているかのような根拠のない自説の裏づけとして利用して行った。

さらに、唐沢はまだこの時点では、秘密漏示には及んでいなかったが、その後も、杉本とのメール文通を重ねるうちに、ますます事実に基づかない、もしくは極度に誇張された情報を盛んに杉本に漏洩しては、杉本が筆者を中傷する行為を助長・容認するようになった。

唐沢はその過程で、杉本の怒りを自分から逸らすために、自分が過去に杉本に行った提訴予告すらも、まるで初めから唐沢の権利を擁護するためのものではなく、あたかも筆者の権利を守るために、筆者から促されて仕方がなく行ったものであるかのように、巧妙に主張をすり替え、その嘘を杉本に信じ込ませた。

そのことは、以前に書いた記事でも示した通りであるが、以下にも唐沢のメールを再掲載する。


2.2017年1月のメールでは、唐沢は杉本に対して虚偽の情報を提供しては、筆者を不利に陥れようと画策していたことが分かる。

唐沢は2017年1月に杉本に宛てたこのメールで、自分が無責任にも実行に移さなかった提訴予告のことで、責任を棚上げしようと、「彼女から提訴を何度も求められましたが、実名が出ておりませんので、彼女の件では動けなかったわけです。」などとうそぶき、2010年に自分が杉本に行った提訴予告が、あたかも筆者の権利を守るために、筆者が唐沢に杉本を訴えるよう促したものであったかのように話をすり替え、虚偽の事実を杉本に伝えた。

だが、唐沢は以上で述べた通り、そもそもの初めから、KFCの元信者による書き込み幇助の責任を問うという、自分の権利を擁護するために杉本に提訴を予告したのであって、筆者が唐沢に杉本を提訴してくれ、などと頼んだ事実はない。また、唐沢は筆者の代理人でもないのだから、仮に筆者の権利が侵害されたとしても、それを理由に唐沢が杉本を訴えることなどもとより不可能である。

それにも関わらず、唐沢治がこのように虚偽の事実を杉本に伝えたのは、自分から杉本に(勝ち目のない理由で)提訴を予告したにも関わらず、これを実行しなかった自らの責任を、巧みに筆者に転嫁することで、杉本の怒りを筆者に集中させて、矛先を逸らし、さらに筆者を杉本との争いに全面的に巻き込んで行くための巧みな心理操作であったとしか言いようがない。

さらに、唐沢はこのメールで、2012年に筆者をKFCから自ら追放しておきながら、2013年になって、唐沢とは何の関わりもなくなっていた筆者が、あたかも坂井の裁判を「応援したい」と述べた事実が存在するかのように、虚偽の事実を杉本に伝えている。そして、あたかも、筆者の許可を受けて、筆者のメールを坂井に書証として提出させたかのように自己弁明している。

だが、筆者は坂井とは現在に至るまで、いかなる面識もないだけでなく、その当時、ネットから遠ざかっていたため、坂井と杉本の二人の間で、そのような裁判が行われていた事実さえも知らず、唐沢は筆者に坂井の裁判について伝えるメールを送ったと主張するが、そのメールを筆者は読んだ記憶もなければ、返信した事実もない。むろん、見ず知らずの坂井の裁判へのメールの提出を許可した事実などあるはずもない。

だが、杉本はこのような唐沢の巧みな心理操作に乗せられ、2013年に坂井を訴えた裁判で、筆者があたかも坂井+唐沢の援護射撃に回っていたかのように信じ込んだだけでなく、さらには、坂井の裁判までが、筆者が陰で糸を引いて、坂井を巧妙に焚き付けて杉本と衝突させたものであるかのようにまで信じ、そうした虚偽を、後にまことしやかにブログで吹聴しては、筆者を断罪し、名誉を傷つけたのである。

いずれにせよ、唐沢にとって、そうした嘘を杉本に信じさせるのは、全く困難ではなかったと見られ、こうして唐沢は、筆者について嘘を吹き込むことで、筆者を杉本との全面的な対立に至らせるきっかけを作って行ったのである。

唐沢が、常日頃から、「自分には人の気持ちが読める。人を操るなど簡単だ」と豪語していたことを思い出しても、このメールで、唐沢が「杉本さんが彼女を告訴する/しないは、もはや私が関与することではありません。」と、あえて杉本が筆者を告訴することを認めるような発言を行っていることも見逃せない。

この言葉から、唐沢が、できれば、杉本がヴィオロンを訴えてくれれば、非常に都合が良いのに、と考えていた様子がひしひしと伝わって来るように感じられる。
 
この他にも、唐沢は杉本に対し、秘密漏示に当たるメールを送信している。

 
3.2017年5月に唐沢が杉本に書き送ったメール。このメールで、唐沢はいくつもの信徒の個人情報を杉本に漏洩し、秘密漏示に及んでいる。

このメールで、唐沢は以前よりもさらに積極的に、杉本が筆者を中傷する材料を得られるよう、筆者に関する情報を捏造・歪曲する形で、杉本に伝えている。

唐沢が杉本に漏示した情報は次の通りである。
1.家庭の事情(何かしら深刻重大な事情があるかのような思わせぶりなニュアンス)
2.信徒の人間関係(兄弟姉妹と「総当たりでトラブルを起こしている」という虚偽の情報)
3.実家の所在地
4.家族構成
5.家族との人間関係(家族と対立しているかのようなニュアンスを含む歪曲された情報)
6.生活状況(生活苦に落ちっているかのようなニュアンスを込めた書きぶり)

こうした情報を伝えられた杉本が、それに飛びつき、これを利用して筆者を名誉毀損する記事を書き始めたのは周知の通りであるが、その直接的なきっかけを作ったのは、唐沢治なのである。

むろん、筆者はKFCにいた時、「兄弟姉妹と総当たりでトラブルを起こした」事実もなければ、実家と対立した事実があるわけでもない。実際に、この年、筆者は700km以上の距離を走行して実家へ旅していることからも、それは明らかである。

だが、唐沢から歪曲された情報を提供された杉本は、これを鵜呑みにして、2017年から2018年にかけて、筆者が至るところで対立を引き起こし、実家とも対立して絶縁状態にある、などとする中傷を書き記して行くことになる。

その後も、唐沢と杉本は親しくメール文通を続け、二人を批判する筆者に対する「対策」を共に練っていたようである。


 
4.2018年5月、筆者が杉本と村上に対して提起した民事調停が決裂に終わる直前に唐沢が杉本に送信したメール。

以上のメールで、唐沢は、筆者の書いた記事が虚偽であるかのように述べるだけでなく、訴訟のアドバイスまで丁寧に杉本に書き送っている。

「この種の人物は些細な兆候や事実を膨らませます。杉本さんと村上さんが連携して彼女を追い詰め、さらに私が寝返って関わっていると言うわけですよね。ですから、その兆候のヒントを与えると彼女がますます増長し、彼女を利するわけです。

ゆえに杉本さんの態度としてはあくまでも「不知」がベストなのです。こうして私とメールをやり取りしていることも彼女には利益となるでしょう。」

こうして、次々と筆者を不利に陥れるような歪曲された情報を杉本に与えて、個人情報まで漏洩し、杉本が筆者を中傷・攻撃するきっかけを作っておきながら、よくも以上のように主張できるものだと呆れるばかりだ。

唐沢はこの当時、まさかこのメールを杉本が訴訟に提出することになるとは予想していなかったであろうし、それを願っていなかったと考えられるが(だからこそ、唐沢は杉本に「不知」で通すよう、余計なことを話さないよう勧めている)、それでも、独特の直観で、このメール文通の存在が、筆者の目に隠しおおせず、必ず、彼らにとって不利な証拠として利用され、いつか白日の下に晒される日が来ることを予見していたようである。

杉本はこのメールの中で、「ヴィオロンから民事調停を申し立てられていますが、卑怯なことに住所を秘しているため、こちらから反訴ができない状況です。」と述べている。筆者の情報をどこまでも集めたいがために、手あたり次第、筆者のかつての知人にメールを送りつけ、情報を聞き回っていたわけであるが、唐沢の反応を見る限り、唐沢は筆者を陥れるために、知ってさえいれば、どんな情報であれ、喜んで杉本に伝えたのではないかと疑われてならない。

筆者の目から見て、唐沢が杉本に嘘を信じ込ませることで、杉本の筆者に対する対立感情を煽った手法は、極めて狡猾なものである。下手に心理学などを学ぶと、このように他者の愚かさや弱さに付け込んで、他人の心を操り、手玉に取る術ばかりを、常人以上に身に着けてしまうのであろうか?

杉本に情報を提供してやることで、杉本を思い通りに動かし、筆者に対立させることなど、唐沢にとっては全く問題ではなかったであろう。だが、唐沢の誤算は、筆者が(信仰ゆえに)杉本よりも強く、杉本が筆者に打ち破られて終わると予測できなかったことにあった。

いや、筆者は、内におられる方のゆえに、杉本だけでなく、唐沢にも打ち破られるとは思っていない。唐沢が聖書の御言葉に立たないならば、真実なクリスチャンの前に立ちおおせる根拠は何もないのである。

* * *

④ 唐沢治の嘘とまことの混在した整合性のない矛盾だらけの主張

現在、唐沢は、筆者がKFCで起きたクーデター事件について、自らのブログ記事とは裏腹に、U(鵜川)夫妻がKFCを乗っ取った事実はないと否定し、さらに、筆者とは「牧師と信徒の関係にはなかった」などという荒唐無稽な嘘を主張している。

唐沢の巧妙な印象操作と詭弁に満ちた主張は、以下の陳述書でも如実に見て取れる。




これは筆者が昨年に申し立てた仮処分の申立に対する陳述書であるが(仮処分は訴訟に転じる予定で一旦、取り下げている)、唐沢はここで筆者が「神の啓示を受けた」などとして、あてもなく突然、横浜に尋ねて来ては、自分の孤独を切々と訴え、唐沢に面倒を見てもらおうとし、それを唐沢は親切にもケアしてやっていたかのように、虚偽の情報を記している。

しかしながら、事実は全くこのようではなかった。筆者は、2009年10月に横浜へ移住した際、確かに神が奇跡的に筆者の祈りに応えて、大きな恵みを与えて下さったことに喜んでいたが、「神の啓示」により、移住したと述べたことは一度もない。むろん、それ以後、生活について、いかなる形でも、唐沢から支援を受けたこともない。

むしろ、筆者が横浜に移住してわずか数日後に、唐沢の20年来の知己であり、ローカルチャーチ時代からの親友であったMr.Sugarを名乗る年長の兄弟が、「唐沢は非常に危険な男であるから、近寄るべきではない」と筆者に向かって真摯に忠告したため、筆者はそれ以後、杉本によるバッシング事件が起きて、年末から年明け頃になるまで、KFCには近寄らなかった。

従って、筆者が唐沢に孤独な心中を打ち明けたとか、親切に面倒を見てもらったなどという事実はない。むしろ、杉本事件が起きてから、筆者が途方に暮れて唐沢のもとに相談に行っても、それに対して、唐沢が行ったことは、KFCの元信徒の事件を自分に有利に解決するために、筆者に唐沢に有利な証言を警察で行うよう求めることだけであった。

唐沢はその後、独断で杉本に提訴を予告して杉本を激怒させた上、その提訴を実行に移さず、さらにそうした理由さえも、いわれなく筆者にかこつけ、筆者をKFCから追放した上、筆者を中傷する情報を杉本に提供したことはすでに述べた通りであり、それを考えれば、唐沢が筆者のためになした良いことなど、ほとんど何も見当たらないと言えよう。

筆者は、唐沢の信仰的見解を非常に危ぶんでいたので、唐沢に助言や忠告めいた内容を伝えたことが、幾度となくあり、何とかして唐沢に正統な聖書的見解を取り戻せないかと試行錯誤し、話し合いの機会をもうける口実として、「横浜を案内して欲しい」と頼んだことがあった。

しかし、それに対しても、唐沢はただホームレス伝道が行われている教会へ筆者を連れて行っただけであり、筆者はその伝道風景を見て、あまりにも人工的であると感じて、気分が悪くなっただけであった。もちろん、筆者がそれ以外に唐沢から横浜案内を受けたことはない。信仰についてKFC以外の場所で話し合ったことはあるが、観光などの信仰とは関係のない事柄を共に行ったことはない。

筆者は杉本のバッシング事件において、唐沢からほとんど助力を得られなかったが、それとは別に、2012年にKFCを去るまで、唐沢が「セレブレーション」と呼んでいた礼拝に通っており、それゆえ、筆者とは「牧師と信徒の関係になかった」という唐沢の主張が荒唐無稽であることは言うまでもない。

唐沢が筆者の「カウンセラー」でなかったという事実は、何ら牧師と信徒の関係に影響を与えるものではない。

むろん、筆者が2012年に鵜川夫妻に口論をしかけた事実もなければ、鵜川夫妻が土下座したといった芝居じみた話も、事実ではない。大体、キリスト教徒が土下座などすると考える方がどうかしているが、鵜川夫妻は、当時、筆者が夫妻に疑問を感じていることを鋭く感じ取っており、2012年のある日の礼拝後、筆者が鵜川のメッセージを素直に聴かないと言って、他の信徒が見ている前で、筆者をすごい剣幕でなじった。そして、夫妻は、筆者が彼らに心を開かないことを責め立てたのであった。

唐沢は、その頃から、鵜川夫妻に入れ込んでいたので、彼らの肩を持って、その話を聞いていたのであろう。それからほんのわずかしか経たないうちに、3人で筆者を断罪し、KFCから追放したのである。

同じ頃、筆者がKFCを去る少し前に、エシュコルがKFCに対してブログで決別宣言を出し、集会を去った。だが、それについても、唐沢は「ヴィオロンがエシュコルを唆したに違いない。あんな人間に自分で物事の判断ができるはずがない」などという理由で、鵜川夫妻と一緒になって筆者を断罪し、さらに、礼拝後、信徒たちの目の前で、「彼は血潮を踏みにじり、赦されない罪を犯した。これから先、己が罪を生涯背負って、無意味な自己弁明を重ねながら生きて行くしかないだろう。」などと宣告していた。

こうした事件を目の当たりにした結果、筆者はKFCの元信徒が、唐沢から「密室で呪いの予言を受けた」と主張していたことを、全く嘘とは思えない心境に至ったのである。

その確信は、唐沢が現在、この信徒だけでなく、筆者をも事実に基づかない理由で断罪する以下の記事を公然とホームページに掲載しているところを見ても、さらに深まるばかりである。

 



この記事で、唐沢はすでに10年ほども前に、不起訴に至ったKFCの元信徒に対して、未だに尽きせぬ恨み節を向けながら、彼の家庭・精神が崩壊に至ったことを喜び、嘲笑するかのような言葉を浴びせている。

このような断罪記事には、唐沢の精神が余すところなく表れているのであって、このように信者を断罪できる唐沢が、この信徒に「密室で呪いの予言を浴びせる」ことなど、平気だっただろうという推測が生じるのは当然である。

唐沢はここで筆者についても、誇張・歪曲された事実をいくつも並べて、あたかも筆者がアッセンブリー教団で「挫折」したかのように述べたり、筆者が「現実と幻想の混濁した独自の世界観」の持ち主であるかのように、必死に印象操作をしようとしている。こうした記事が、杉本にどれほど好都合な材料となったか、あえて述べなくとも明らかであろう。

こうした唐沢の主張は、村上密が筆者に向けている非難にほぼ重なるものである。かつて唐沢は、自分から村上密を嘲笑する記事を投稿していた事実などすっかり忘れたように、ここでは筆者が村上を「憎悪」しているかのように、都合よく村上を擁護する側に回っている。

唐沢はかつてはアッセンブリー教団をも批判していたのである。しかし、2012年にアッセンブリー教団所属の鵜川夫妻がKFCでクーデターを起こして以来、唐沢はアッセンブリー教団を非難することができなくなった。唐沢が鵜川夫妻を公然と批判できないのは、鵜川夫妻と親しく交わりを重ねているうちに、夫妻に弱みを握られたためなのかどうかまでは、筆者は知らない。

いずれにしても、唐沢がこうして杉本徳久が筆者を名誉毀損することを促すかのように、格好の材料を次々と提供して行ったのは事実である。

こうした事実から、読者は唐沢という人間の極端なまでの利己主義、サイコパスのごとき冷淡さを見て取れるのではないだろうか。

とはいえ、筆者は、唐沢が筆者を呪ったり、杉本が誹謗中傷したとしても、全くその言葉には効果がないと確信している。なぜなら、私たちのためには、すでに木にかけられて呪いとなって下さった方が存在しているためであり、誰からの呪いも、十字架によって無効にされているからである。

ただし、それでも、唐沢は自らの行動の責任を取らなければならないことは確かである。

* * *

④ 偽預言者を待ち受ける破滅 異端的教説にはまることの恐ろしさ

最後に、以上のような事態が、唐沢治の内側で進行したのは、その間、唐沢治が、ニューエイジ、オカルト、東洋思想などの非キリスト教的思想をいくつも渡り歩いて、それに深く影響を受けたために他ならないと、筆者は考えている。

筆者はまだKFCにいた頃、こうした教えがどれほど危険なものであるか、再三、唐沢に忠告し、議論したこともあった。その当時、筆者は何とかして唐沢の心を変えて、正常な信仰を取り戻せるのではないかという甘い期待を持っていたのである。

しかし、唐沢はどれほど忠告しても、己が考えにしか従わず、聖書と異なる教えを捨てようとはしなかった。唐沢は自分にあまりにも自信を持ち過ぎていたため、むしろ、筆者がそれらについて警告すればするほど、筆者に対する嫌悪を深めて行ったのである。

当ブログでは、前々から述べている通り、東洋思想の基礎は、グノーシス主義にあり、グノーシス主義の本髄は、「対極にあるものを融合する」こと、すなわち、嘘とまこと、「然り」と「否」を統合し、究極的には「神」と「人」を一つにすることにこそある。

唐沢治がかつて属していたローカルチャーチでは「神と人とが混ざり合う」という異端的教説が教えられているが、唐沢はこの教えをかつては糾弾していたにも関わらず、結局のところ、自分自身がそこへ戻って行ったのだと言えよう。

唐沢治が現在、KFCにおいて、自分たちは「エロヒム(神々)だ」と主張し、「キリスト教からのエクソダス」を唱えていることは、彼らが、自ら神(々)になっていることを意味する。

生まれながらの人が、十字架の死を経ることなく、自力で神に到達すること――これは、あらゆる異端が目指している最終目的であり、神秘主義の極意である。

筆者は、目に見える教会組織や、目に見える指導者からの「エクソダス」を唱えたことはあっても、唐沢のように「キリスト教からのエクソダス」を唱えたことは一度もない。

しかしながら、禅とキリスト教の融合を唱えたり、「白いキリスト教の呪縛から解かれよ」などと唱える唐沢は、もはや自分をキリスト教徒であるとは認識していないことがよく分かる。

筆者は2010年当時から、KFCが世間からどのように見られているかを観察して来たが、もしも自分の職を捨てることがなければ、唐沢の言い分は、今でも心理学の専門家として、世間で通用したかも知れないものと思う。

しかし、今はその根拠もなくなっている。唐沢は筆者を指して「脳内空転」と嘲るが、その用語も、心理学の専門用語ではなく、唐沢が考え出した時前の罵倒語に過ぎない。そして、「脳内空転」では、告訴状は受理されず、民事での賠償命令も出ない。

年上の男性宗教指導者および信徒に対し、何の肩書もない年下で無名の女性の筆者の告訴状が受理されること自体、真に驚くべきことであるが、そのようなことが起きるほど、彼らの信用は失墜していると言うこともできよう。

実際には、キリスト教の信仰に「挫折」、「現実と幻想が混濁した独自の意味不明の世界観」を生きているのは、唐沢自身である、と筆者は断言する。さらに、唐沢はキリスト教を憎悪し、教会をも憎悪している。かねてより、キリスト教は人間に狂気をもたらすなどと述べて来たのも周知の事実である。

これまで繰り返し述べて来た通り、村上・杉本・唐沢が、筆者を陥れようとしたり、権利侵害を行ったりした背景には、彼らの聖書の御言葉に対する憎悪が存在する。ここには、単なる個人的な対立を超えた、霊的争いが存在し、彼らが滅ぼそうとしたのは、聖書に忠実な信仰であり、神の国の権益であって、個人としての筆者ではないのである。

*ちなみに、この記事を書いている最中、上記でリンクを貼った記事を、杉本は削除した模様だ。しかしながら、はっきりと物事の決着をつけておくためには、記事が削除されても、控訴審で改めてこうした一連の記事の削除を求めることは、続けて行かねばならない。また、記事を削除させるための別の強制手続きも続行中である。

だが、いみじくも、今回、断固として敵の嘘に立ち向かいさえすれば、正しい主張は通るのだという結論が出た。すべての信者には、暗闇の勢力による脅しに屈さず、毅然と立ち向かうことをやめないでもらいたい。そして、敵の要塞を打ち破ることは可能なのだと勇気を奮い起こしてもらいたい。

キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。

あなたがたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。

聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。」(テモテ二3:12-17)


霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

さて、キリストとの合一というテーマがいかに重要なものであるかを示すために、オースチンスパークスの論説を改めて引用しておく。

キリストとの合一」第二章 彼の地位――御父の愛によって(7)

 この合一は役職的なものではありませんし、法的・形式的なものでもありません。それは愛情によります。ここで支配的なのは強制ではありません。強制しても愛は決して止まることはなく、常に進み続けて究極的可能性に至ります。

 キリストとの合一はこのような性格のものです。なぜなら、それは神の愛の中心だからです。もちろん、あなたはこれらすべてに関して静かな黙想を大いにしなければなりませんし、私たちがキリストに関して述べていることをすべてクリスチャン生活と関係づけなければなりません。

 「彼が愛する御子の王国の中に移して下さいました」(コロ一・一三)。この側面――「彼の愛する御子」――だけでも驚くほど素晴らしいですし豊かです。キリストとの合一は私たちをこの立場に、この領域の中にもたらします。

 ああ、まるで神の愛は彼が見い出される善の程度や悪の程度によって等級が分かれているかのように、この愛を等級付けして考えないようにしましょう。あなたや私に対する彼の愛は、彼が御子に対して抱いておられる愛です。これがその啓示です。キリストに結ばれることは、御父の愛する御子として彼が持っておられる御父との関係の完全な寸法の中に包まれることです。「まさに神として彼が持っておられる御父との関係の完全な寸法の中に」と私は述べていません。人として、御子イエス・キリストとしての彼について述べているのです。


   さて、牧師を介さずにキリストとの霊的合一に達するというテーマは、暗闇の勢力にとって、よほど致命的なウィークポイントのようである。

 なぜなら、この話題になると、とりわけ激しく入念な誹謗中傷が当ブログに向けられて来るからだ。かえってそのことにより、このテーマが神と悪魔との両方から見て、極めて見逃せない重要性を帯びた喫急の課題となっていることが分かる。

 しかし、それも当然である。なぜなら、神の眼差しは、キリストとエクレシアとの結婚、小羊の婚礼にこそ、注がれているからだ。だから、神の御思いの中心にあるテーマが、暗闇の勢力にとって衝撃とならないはずがない。

 ちなみに、当ブログに誹謗中傷を繰り返している人々(犯罪行為のため捜査中)の様子を見れば、どんなにキリスト教のことを知らない世間の人々でも、教会に所属している信者が、教団教派に属さない信者を、これほどまでに徹底的に攻撃・中傷している様子を見て、プロテスタントがいかに危機的状況に陥っているかを察知し、絶対にこのような人々が集まっている教会になど足を向けたくないと考えるようになるものと思う。

 この人々は、当ブログの内容に同意できないならば、読まずに放置していれば良いだけなのであるが、同じ教会に属している訳でもなく、顔を合わせたこともない人間の執筆するこのブログに対して、これほど執拗に権利侵害を繰り返さざるを得ないのは、彼らがどうしても、キリスト教信者を、牧師や司祭といった目に見える宗教指導者に隷従させて自由を与えず、そこから出ようとする人間に徹底的な妨害を加えずにはおかないカルトと化しているためである。
 
 筆者は訴訟を通して、今日のプロテスンタントの諸教会が、いかにカルト被害者救済活動の側から多数の訴訟をしかけられて、制圧され、陥落されて行ったかという過程に詳しく触れた。もはや公然と抵抗しているのは、当ブログだけとなりつつあることも述べた。その後、実際に、プロテスタントは恫喝されて完全に陥落されたも同然の陥っている。

 しかし、こうして当ブログが最後まで信仰の証しを持ち続けている以上、カルト被害者救済活動という反キリスト的勢力が、どのような方法を用いて、プロテスタントの諸教会や信者を恫喝し、彼らの証しを地上から取り去り、自らの支配下に置いて制圧して来たかという証拠は、公然と記録として残され、白日の下に晒されることになる。

 掲示板においても、当ブログに関する中傷を広めているのは、間違いなく、この勢力である。彼らはまさに黙示録に登場する「獣」の霊に導かれた人々であると言えよう。彼らは、本質的に人殺しである。今までにも、多くの人々を助けると見せかけながら、精神的殺人を繰り返し、死へ追いやって来たのであろうが、何とかして当ブログに対しても、信仰の証しを取り去るきっかけ掴みたいと欲望と執念を燃やし、執拗な言いがかりを繰り返しているのである。

 だが、神は竜に追いかけられた女を荒野へ逃がされたように、汚れた霊の持ち主どもによる迫害から、筆者を助け出されるであろう。

 さて、キリスト教以外の宗教にも、巫女などを含め、神に仕えることだけを職業とする人々が存在する。また、昔の仏教では、多くの僧侶に妻帯が禁じられていた。もちろん、キリスト教でも、昔の宣教師の多くは、神に身を捧げて奉仕に専念して生きるために、あえて伴侶をもうけず、自分の家庭を持たなかった。
 
 ところが、今日、キリスト教の目に見える教団教派では、教会は牧師一家(妻だけでなく子供や孫に至るまで!)を金銭的に支えるための手段と化し、信者らは牧師一家を養うために重い献金を課されてあえいでいる。

 そして、当ブログのような場所で、既存の教団教派に属さず、宗教指導者に頼らず、ただ見えない神にのみ仕えて生きると宣言すると、正体不明の信者らが、そんな考えは絶対に許せない、トラウマの産物だ、精神病だと叫び、憎しみに燃えて、既存の教団教派とその指導者を擁護すべく、引きずりおろそうと押し寄せて来るのである。

 こういう現象が起きているのは、キリスト教の既存の教団教派が、目に見える宗教指導者に信者を縛りつける危険なカルトと化しているためで、これまでは、思想面から、そのことを詳しく論じて来たが、現実に起きている出来事を見れば、それ以上に説得力のある材料はないことであろう。
 
 それはかつて天皇皇后を現人神とみなし、これを拝まない人々を、国民同士で攻撃し合って排除していたのと構図は同じである。庶民はその当時、天皇など見たこともなく、全く関わりのないところで暮らしていたにも関わらず、「天皇は神である」と思い込むことによって、自分自身も「神々の子孫」であると己惚れ、己を誇ることができたのである。

 そこで、天皇崇拝に陥った人々は、高慢になって、天皇を拝まない人を見ると、自分が否定されているかのように怒りを燃やし、密告したり、特高警察に売ったりして、率先して集団的に弾圧・排除した。その直接の動機は、「神国日本」のルーツを否定する者は、神聖なる臣民の一人である「俺様」を否定しているのだから許せない、という、自分が面子を潰され、プライドを否定されたことへの憎しみと怒りであったろう。

 これと同じように、今日のプロテスタントおよびカトリックでは、聖職者(司祭や牧師)が、信者のルーツを神聖に見せかけるための偶像と化している現状がある。かねてより、「牧師先生と呼ばれないと怒り出す牧師がいる」と言って呆れていた人がいたが、今やインターネットが普及して、牧師を拝まない「不届きな信者」は、牧師の下手人である無数の信者たちが、掲示板で匿名で集団リンチして葬り去ってくれる便利な時代となった。牧師はこうして気に入らない信徒を自分の手を汚さずに葬り去れるのだから、何と楽な時代だろうか。

 こういうわけで、宗教指導者という偶像に頼らず、真に聖書を自分で紐解いて理解し、なおかつ、キリストとの真実な霊的な交わりに入れられ、神を知りたいと熱心に願い、そのために、自分の身をフルタイムで捧げ、生涯を投じようとする信者が現れると、サタンにとっては耐えられない脅威となるようで、猛攻撃をせねば居ても立っても居られなくなるようなのだ。

 おそらく、筆者が神学校に行くと宣言しても、誰一人バッシングするものはないであろうが、宗教指導者に頼らずに信仰に生きようと宣言すると、それによって傷つけられる人間など、誰一人いないのに、何の利害関係にもない人々から、考えられないようなバッシングが起きて来るわけなのである。

 それはなぜかと言えば、まず第一に、一人一人の信者が、直接、キリストに連なり、真理を知るようになると、聖職者だけが真理を知って、これを信者に正しく伝えることができるという彼らが築いて来た幻想が崩れてしまうからだ。さらに、この指導者たちが、実は神を知らないのに、知っているかのように偽って、信仰に生きていないのに、篤い信仰を持っているかのように見せかけて来た実態が明らかになってしまう。
 
 もちろん、信者が誰でも直接、御霊に教えられて、神の御言葉を学ぶようになると、当然ながら、聖職者と呼ばれる人々は、献金を払ってくれる信者たちに去られて、失業することも免れられない。何よりも、彼らの権威が否定される。

 だが、指導者たちが失業すること以上に、悪魔にとって脅威なのは、目に見える人間を拝むことは、人類が、霊的割礼を受けたことのない、自分の生まれながらの肉的なパワーを拝んでいるのと同じなのだということを、多くの信者たちが知ってしまうことである。

 今日のプロテスタントのほとんどの教会では、十字架はただ人類の罪の悔い改めのためとしか教えられず、人間の生まれながらの肉の堕落については、語られることもない。肉に対する十字架の死の必要性などまず教えられない。

 数多くの異教では、人類の堕落した生まれながらの肉的な力を、子孫繁栄をもたらす力だと言って、美化し、誉め讃えている。しかし、他方では、この力が、制御できない粗野で荒々しい自己保存・自己拡大の欲望として、終わりなき戦争、殺戮、暴力、虐待に利用され、弱い者たちが踏みにじられて、言い知れない苦悩をこうむっている。

 聖書の神は、人類が堕落した肉的な生まれながらのパワーに生きているままでは、罪と死の法則に支配されているだけで、決して神に受け入れられ、神に喜ばれる聖なる子供たちとはなれないことを知っておられた。

 そこで、神はご自分の選ばれた人々に、堕落した人間の肉なるパワーに対する霊的死の宣告として、割礼を命じられたのである。それは、人類が、己の誇り、頼みとしている力が、汚れた悪しき力であって、彼らがその堕落した生まれながらの力に死んで、神によって上から与えられた清い力によって生かされることにより、神の民とされるためであった。

 主イエスが地上に来られて、十字架にかかられて死なれたことにより、肉に対する霊的死は完成に達した。そこで、もはやキリスト教信者は今日、割礼を受ける必要はないが、その代わりに、絶えず主と共なる十字架の死に自分を同形化し、自分自身の古き肉の情欲を十字架で死に渡す必要がある。その霊的死を帯びた時、初めて十字架の復活の命が、その信者の中に働くのである。

 このように、聖書の原則は、まずは信者が己が肉的な力に対して、霊的死を帯びるところから始まる。男であれ、女であれ、自分の生まれながらのセルフに対して死なねば、復活の命にあずかることはできない。

 しかし、目に見える指導者を立てている教会は、信者に見えないキリストを礼拝しているように見せかけながら、こっそりと目に見えるものを拝ませることで、本質的には、キリストの十字架を否定して、生まれながらの肉的な力、十字架の霊的死を経ていない、滅びゆく目に見える被造物の堕落したパワーを、あたかもそのまま神聖なものであるかのように、誉め讃えさせ、拝ませているのである。

 プロテスタントの諸教会が、カルト被害者救済活動に屈してしまったのは、結局、諸教会の目に見える指導者が、この運動の支持者らと同じように、堕落したアダムの命から来る自己保存願望を究極の目的とし、十字架の死を経由しておらず、霊的割礼を受けておらず、目に見える生来の自己の力により頼んで、神の聖に達しようとしていたからなのである。

 このように、今日、目に見える指導者に信者を依存させ、それに緊縛するプロテスタントの制度(牧師制度、教会籍)は、見えないキリストの支配に悪質に敵対するものとなってしまった。当ブログは十年ほど前からそのことを指摘しているが、この十年間の間に、これらの制度にしがみつく人々の堕落は、あまりにも目に余るものとなっていることが誰の目にも明白である。
 
 だが、新約聖書の原則は、一人一人の信者が直接、キリストに連なり、御霊から教わるというものであるから、信者が宗教指導者に属さないで信仰生活を送ることは、奇妙でないどころか、むしろ、当然である。

 そこで、読者には、カトリックであろうと、プロテスタントであろうと、目に見える指導者のいる教会に、これから先、決して所属しないことを勧める。当ブログに起きていることを、目を開いてよく見てみることだ。そうすれば、当ブログにバッシングを加えている人々が、絶対に敬虔な信仰を持つ主の民ではあり得ないことが分かり、このような人々が占めている目に見える建物の中で、まことの神を礼拝できるなどという考えは消え去るであろう。

 彼らが拝んでいるものは、聖書の神ではなく、むしろ、悪魔であり、彼らの指導者は、先生というより、獣と呼ばれる方がふさわしい。そこで、もちろんのこと、カルト問題を扱っている様々な「専門家」を名乗る宗教指導者にも、悩み相談など、絶対にしないことを勧める。なぜなら、そこであなたが話した内容は、あなたがその団体を去ろうとする時に、当ブログが受けたのと同じような形で、陰湿なバッシングのために徹底利用されるからだ。

 ちょうど派遣会社が外国人技能実習生を劣悪な環境と考えられないほどの低賃金で働かせるために、パスポートをあずかって逃げられないようにするのと同じく、情報は信者を人質にするための手段なのである。

 さて、もう話してしまったという人もいるかも知れない。すでに所属している信者はどうすれば良いのかという問いもあろう。これに対する聖書の答えは、後ろを振り返るな、上着を取りに戻ろうとするな、というものだ。

 もしも、イエスの次の御言葉を、現代にも通じるものとして受け取るならば、「荒らす憎むべき者が聖なる場所に立っている」今、このように汚れた者どもに占領された神殿に、自分の荷物を取りに戻ろうとすることは、百害あって一利ない。

 彼らの元から出て行き、一切の関わりを断つことである。その上で、主だけを仰いで生きることである。

 すなわち、反キリストに属する不法の子らが占領した目に見える礼拝堂になど、いかなる未練も持たず、エジプトに置いて来た宝になど一切目もくれず、一目散に、前へ向かって走ることだ。ひたすら、上にあるものを求め、目に見える都ではなく、天の都を目指して走ることである。

 キリストに受け入れられるための方法は、主と共なる十字架を経て、心に割礼を受け、この世と自分自身と悪魔に対して死んで、らくだが針の穴を通るように、御言葉への信仰以外には何も持たずに、貧しいやもめのように、主の辱めを身に負って、宿所の外に出て、彼のみもとへ行くことである。この世に未練を持てば、待っているのは、ロトの妻の運命だけである。

わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:19-20)

「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。

 しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っていおいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。

 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」(ガラテヤ5:16-25)

「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」(ガラテヤ6:14)


祝福あれ、主の御名によって来る人に。私たちは主の家からあなたたちを祝福する。

思った通り、働かせ方改悪法案が強引に押し通されようとしており、これが通れば、まさに我が国は24時間働かせ放題のディストピアへと転じることになる。

筆者がこれまでずっと述べて来た通り、労働がまさに罪のゆえの終わりなき懲罰と化す時代が到来しているのだ。アウシュヴィッツ行きの列車が人々を満杯に乗せて、汽笛をあげて発車しようとしている。

この列車に乗ってはいけない。今は勤労の精神を説く時代ではない。プロテスタントの始まりと共にヨーロッパ諸国で勤労の精神が取り入れられたが、プロテスタントも、労働市場も、徹底的に腐敗堕落し、もはや終焉にさしかかっているのだ。

「私たちは安定的な雇用を得て、定期的な収入と、高い職業的な地位を得て、まっとうな市民としてのつとめを果たしているから大丈夫・・・」などと思っていると、行き先は飢えと死の支配する強制収容所となろう。

それはキリスト教界も同じで、宗教組織に所属し、宗教指導者に従うことで、それを神の救いの目に見える形の代替物のように思って握りしめていると、行き先は地獄でしかない。
 
この国は、もはやすべてにおいてタガが外れており、善と悪が逆転し、すべてのことがひっくり返っている。善良な人々が悪人とみなされ、悪人が善人面して跋扈している。
 
だが、そうなったのには、深い理由がある。これは我が国が経済成長だけを第一として、金儲けを至上の価値として歩んできたことの手痛いツケであり、必然的な結果なのである。

戦前もそうであったが、戦争は、政府や皇族や大企業の金儲けのために起こされるものであって、口実など何でも良いのである。要するに、儲かりさえすれば、どんな手段を取っても構わないという精神が、戦争へとつながって行くのだ。

人権軽視の憲法改悪と、武器の製造と輸出(軍需産業の育成)、国公立大学における人文科学の縮小、人間を過労死させるまで働かせて使い捨てることを厭わない働かせ方改悪法案などは、すべて根底では一つにつながっている。要するに、これらは金の力の前に人権および人命が徹底的に軽視され続けたことの結果、起きたことである。
 
最近、辛淑玉さんが事実上の国外亡命を果たしたというニュースを知って驚いた。以下のニュースは「読む・書く・考える」のブログから転載したものである。
 

東京新聞(3/14):

 「ニュース女子」問題で辛淑玉さん
 ヘイト標的 拠点ドイツに 

 沖縄県の米軍基地反対運動を扱った東京MXテレビの番組「ニュース女子」で、名誉を毅損されたと認められた団体代表の辛淑玉さん(59)が昨年11月からドイツに生活拠点を移した。本紙の取材に対し、昨年1月に番組が放送されてから民族差別に基づくヘイトクライム(憎悪犯罪)の標的にされかねない不安が高まったとして、「事実上の亡命です」と明かした。(辻渕智之)

 辛さんによると、番組放送後、注文していない物が自宅に届いた。近所で見知らぬ人が親指を下に向け批判するポーズをしたり、罵声を浴びたりもした。これまでも仕事先などへの脅迫や嫌がらせはあったが「私の身近な生活圏に踏込んできた」という。(略)
(略)
 最近は「スリーパーセル」(潜伏工作員)との中傷もある。先月、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)中央本部が銃撃されたことに触れ、「私が狙われてもおかしくなかった。国のリーダーは北朝鮮と敵対しても、『日本の中にいる朝鮮人たちは一緒に生きていく隣人です』と宣言してほしい」と訴える。


 この出来事についてブログの著者は呼びかけている、
 

「辛淑玉さんは、日米両政府から差別・迫害されるマイノリティ(沖縄)に連帯し、その自己解放運動を支援してきた。そんなマイノリティ(在日コリアン)女性の自宅を特定し、嫌がらせを繰り返して、ついには国内で生活できなくなるまで追い詰める。これが「愛国」だの「美しい国」だのを標榜している連中の正体なのだ。

一刻も早く、そんな不良日本人どもからこの国を取り返さなければならない。それは、間違いなく、この国のマジョリティである我々の責務である。


まったく同感である。だが、それにしても、ここまで事態が深刻化していたと知って筆者は驚いた。単なるテレビ番組だけの問題ではなくなり、実生活にまで被害が及び、もはや日本にいられないというまでの事態になっていたのだ。

「ニュース女子」とは、化粧品会社DHCの傘下のグループ企業が制作しているテレビ番組である。このDHCは、澤藤統一郎弁護士のブログの文章を理由に、弁護士に高額スラップ訴訟を起こしたことで知られる。DHCが起こした高額スラップ訴訟については、「澤藤統一郎の憲法日記」に詳しく、弁護士はDHCと勇敢に戦って勝訴し、今やDHCが被告となっている。

「ニュース女子」では最近、沖縄の高江・ヘリパット基地建設に関連して、事実として裏づけの取れていない、基地反対派の活動を一方的に敵視して貶める内容の放送を行ったとして、ネットでも数多くの批判を浴びていた。DHCのグループ会社が制作するこのTV番組は、まさにDHCという企業の意向を強く受けて制作されていたと見られる。
 

朝日新聞デジタル 「ニュース女子」打ち切りへ MXと制作会社に隔たり 
田玉恵美 2018年3月1日03時21分 から抜粋
 
 ニュース女子は、化粧品大手ディーエイチシーのグループ会社「DHCテレビジョン」が取材・制作し、MXが完成版の納品を受けて放送している。問題になった昨年1月2日の放送回については、放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会が昨年12月、MXが番組内容を適正にチェックせず、中核となった事実についても裏付けがないとして「重大な放送倫理違反があった」とする意見を公表していた。

 関係者によると、批判を受け、MXは自ら番組の制作に関与したいと申し入れて交渉していたが、DHC側から断られたという。このため、今春の番組改編に合わせて番組の放送をやめることを決めた。

 
しかし、BPOから放送倫理違反との結論が出されたことに対し、DHC会長は、かえって「BPOは正気か」とする反論を発表し、そこでBPOは委員のほとんどが「反日、左翼」に占められており、正常な判断など下せるはずがないと、偏見としか言いようのない衝撃的な見解を述べている。そして、「ニュース女子」はうちきりになったわけではない、これからも放映を続行すると強弁して、BPOに対決宣言と見える姿勢を打ち出している。
 

【DHC会長独占手記】「ニュース女子」騒動、BPOは正気か 
「ニュース女子」DHC会長、衝撃の反論手記 
から抜粋
「田嘉明(DHC会長)


 今、問題になっている放送倫理・番組向上機構(BPO)についてですが、まずこの倫理という言葉を辞書で調べてみると「善悪・正邪の判断において普遍的な基準となるもの」(「大辞泉」)ということになっています。そもそも委員のほとんどが反日、左翼という極端に偏った組織に「善悪・正邪」の判断などできるのでしょうか。

 沖縄問題に関わっている在日コリアンを中心にした活動家に、彼らが肩入れするのは恐らく同胞愛に起因しているものと思われます。私どもは同じように、わが同胞、沖縄県民の惨状を見て、止むに止まれぬ気持ちから放映に踏み切ったのです。これこそが善意ある正義の行動ではないでしょうか。

 先日、情報バラエティー番組『ニュース女子』の問題に関して、朝日新聞が「放送の打ち切り決定」というニュースを大々的に流したようですが、『ニュース女子』の放映は今も打ち切ってはいません。これからも全国17社の地上波放送局で放映は続行します。」
 


 だが、以上のような見解を見ても、すぐに分かることは、DHC側が、沖縄の基地問題を、日本と米国の外交問題、政治問題、また、日本本土と沖縄との偏って不公平な関係といった観点からとらえるのではなく、これを日本人対在日コリアンという民族対立のヘイト問題にすりかえることで、人々の目を問題の本当の核心から目をそらそうとしていることである。

もしも民族的対立という観点からとらえるのであれば、沖縄の基地問題は、何よりも、日本人から琉球人への差別という観点から論じられねばならない。今でも続行している日本本土による沖縄への基地の押しつけという不公平にこそ、まずは目を向けなければならない。

ところが、本土と沖縄という問題を、それとは全く異なる日本人と在日コリアンの対立という問題にすり替え、「在日コリアン側からの日本人への敵視」が行われているという、一種の被害妄想めいた話を作り出すことによって、沖縄を差別してきた加害者であるはずの日本人が、かえって被害者であるかのような問題のすり替えが行われようとしている。

そうした原因すり替え論の結果として、辛淑玉さんが国外亡命さざるを得ないような状況さえ起きて来ている。本来は、企業が政治活動に携わること自体が、望ましいことではないと筆者は考えるのだが、最近は、企業にもあからさまな右傾化が起きており、DHCのみならず、巨大企業がブランド力と動員力を使って、テレビだけにとどまらない政治的影響力を行使するようになっている様子が伺える。

とはいえ、日本人もTV番組や巨大企業の宣伝だからと裏づけの取れない情報を完全に鵜呑みにするほどまで愚かではないため、こうした動きに対しては、強い反発も起きており、DHC製品の不買運動もじわじわ広がっているようであり、上記の弁護士などもDHCの不買運動を呼びかけて広く反響を得ている様子である。

東京MXテレビとDHCの開き直りに反感、デモや不買運動もー『ニュース女子』沖縄ヘイト放送
志葉玲  | フリージャーナリスト(環境、人権、戦争と平和)  2017/1/27(金) 8:59


だが、今のままだと、まもなく不買運動など呼びかけずとも、化粧品のことなど誰も考えていられないような恐るべき時代がやって来ることになるだろう・・・。しかも、まるでロシア革命時に大勢のロシア人が国外に亡命したように、辛淑玉さんのみならず、我が国で「非国民」のレッテルを貼られた人々が、続々とこの国を捨てて国外亡命を果たすような時代が、もうすぐそこまで来ていると感じられてならないのである。

こうした一連の出来事を見つつ、筆者も色々と考えさせられる。

筆者は最近、ヴァイオリンを弾きながら、辛淑玉さんのように、将来、ドイツへ行ってみるのも悪くないなあ・・・、などと思いめぐらしている。国外亡命のためではない。何しろ、ドイツは教育が無償だそうだから、改めて音楽を学び直す良い機会ともなろう。

音楽には国境もなければ言語の壁もないため、いざとなれば、日本国内外を問わず、そこから何か開けてくるものがあるだろうと思うのだ。筆者はこの試みが、深いところで、筆者自身の自由とも密接につながっていることを強く確信している。

筆者は以前から、この国はソドムとゴモラ化していると書いており、まさしくその通りの展開となっていることを感じている。そして、このような腐敗した領域からは出るべきだと述べている。だが、筆者が述べている「エクソダス」とは、あからさまな国外亡命のような、物理的な移動を指しているわけではないのだ。時には、そういうことが不可欠な場合もないわけではないと思うが、はるかに重要なのは、霊的エクソダスである。

これから先、どれだけ早く真実に気づいて「エクソダス」を成し遂げるかが、一人一人の生死を分けることであろう。

筆者は、働かせ方改悪法案に賛同しておらず、事実上の24時間労働制・国家総動員体制などに賛成票を投じるつもりも全くないが、それでも、残念ながら、我が国に国家総動員体制のようなものが敷かれるのはほとんど避けられない結果だと考えている。

それはこの国がこれまで敷いて来たヒエラルキー、競争原理が必然的にもたらす結果なのであり、一旦、とことん行き着くところまで行き着かない限り、この残酷な競争の激化は止められないのではないかと考えている。

だから、私たちはそうした先行きのない世界から目を逸らし、新しい地境を見るべきなのである。もし船の左側に網を降ろして何も魚が取れなかったなら、右側に網を降ろしてみれば良いのだ。左側は、人間の努力によってすべてを達成する道、右側は、神の約束によってすべてが達成される道である。

話が変わるように思われるかも知れないが、経済界および労働市場の絶望的なることを示すために、あるエピソードを述べておきたい。

それはかつて筆者が何年も前に、アルバイトのような仕事をして、とある故障・修理受付のセンターで働いていた時のことであった。

筆者がその職場に入ったとき、その職場は、開けた都会の駅からすぐの大型ショッピングモールのビル街の只中の、きれいでピカピカのオフィスにあった。まだ立ち上がったばかりで、大勢の同僚たちが雇用され、活気があり、窓から見える景色はきれいで、食べ物屋にも困らず、まことに良い雰囲気であった。

ところが、それがとことん異常になり果てて行くまで、3ヶ月もかからなかった。そのセンターの仕事には最初から前線部門と技術部門の二つの区分があり、最初、これらの部門の間に差別はなかった。だが、最初から給与が違っており、技術部門の方がわずかに高かった。前線部門は修理の受付をして技術部門へ渡すための一次対応であった。

センター始まってしばらくすると、いつの間にか、前線部門と技術部門との間にヒエラルキーのような格差が出来てきた。前線部門は、技術部門に接続する前段階の苦情受付のための捨て駒のような役目を押しつけられ、技術部門との間に、だんだん給与面だけでなく心理的にも大きな格差ができ、技術部門は特権的な地位のようにみなされるようになって行ったのである。

職場の中にヒエラルキーがあるということは心理的にも非常によくない。職場内にあからさまな無気力感が漂い、同僚同士が妬み合ったり、足を引っ張り合ったりして、何一つ良いことは起きない。

だが、そのセンターには、筆者が働き始めて3か月頃した頃から、今度は、いきなり現場の仕事には全く携わることのない庶務部門や、社員の仕事をチェックしてはダメ出しするだけの品質管理部門といった新たな部門が導入されて、さらに新たな重層的ヒエラルキーが出来上がり、事務仕事に携わる連中が、前線部門、技術部門を問わず、センター全体の仕事を見張り、難癖をつけては、大きな顔をするようになったのである。

いきなり導入された庶務部が、シフト管理などにうるさく口出しをし、全従業員に君臨して大きな顔をし始め、一つの職場内で、事実上の官僚集団のようになって行った。一つのセンターの中に完全な「お役所」が出来上がり、筆者は開いた口がふさがらなかった。

そのような事態になるまでの間に、仕事の質もどんどん落ちて行った。最初は活気があったセンターが、連日の苦情のために、どんどん疲弊して行った。さらに、従業員は、あくどい形で、顧客から金をとるために、修理しなくても良い箇所まで、修理させるようにとの業務指示を下されたりと、納得のできないことの連続で、顧客が可哀想だと思われることしきりであった。

何より、連日のように顧客から異常と思われる終わりのない苦情が入って来るようになり、それにみなが苦しめられていた。むろん、そんな苦情が発生したこと自体、企業の経営方針、倫理の欠如が深刻に問われる。そうした希望の見えない仕事の中で、職場では身びいきがはびこり、幹部の覚えめでたい連中だけが、見る間に出世して管理職に登用されて行き、管理者ばかりがゴロゴロいるようになったのであった。

筆者はより高い給与とましな仕事内容を求めて技術部門への転身を試みたが、あいにく実現しなかった。(そして、筆者の人生では、この仕事が本業とは関係のない最後のアルバイトとなった。)
 
以上のような変化の中で、筆者はこの職場には将来の希望が全く見いだせないため、早く転職せねばならないと思うようになった。品質管理部門が、皆の仕事に目を光らせて、あれやこれやとうるさく難癖をつけているため、思うように仕事もできなくなり、筆者はこの職場を一刻も早く出るべきと確信した。
 
ほんのわずかな期間に、入ったばかりの頃のわきあいあいとした雰囲気、同僚たちとのあけっぴろげな談笑、これから何かが始まるぞという活気は、急速に萎み、見る影もなくなっていた。

筆者が仕事に愛想を尽かしかかっている気配を察知して、それまで同僚だった人が、それを上部に密告し、友達の顔をして、筆者の動向を調べ上げ、中枢部に報告するようになった、筆者はうすうす同僚の裏切りを感じてはいたが、それでも、それを全く意に介さず、その同僚の説得を振り切って、センターを去った。

その同僚は、筆者の退職後、筆者を裏切り者のように言いふらしていたらしい。(だが、自己弁明しておけば、そのように悪しざまに言われていた人々の中には、筆者のみならず、この職場を脱出しようとしたすべての同僚たちがを含まれていたのである。)
 
そして、密告までして上部に媚を売り、その仕事にしがみつき、センターに残った人たちが、その後、どのような末路を辿ったのかは、センターにいた仲の良かった別な同僚が仔細に至るまで教えてくれた。

筆者がそこを出た後、なんとごくわずかな間で、本社からリストラ精鋭部隊なるものが送り込まれて、大規模リストラを決行し、そのセンターが事実上、崩壊したというのである。

筆者はその話を聞くまで、追い出し部屋だとかの話を耳にしても、半信半疑で、リストラ部隊などといったものは、あるはずのない話だと思っていた。まさかそれなりに名の通った大企業に、自社の社員たちをリストラすることだけを専門にしている社員が雇われているなど、考えてみたこともなかったのである。一体、何のために?

ところが、それは本当のことらしかった。本部から四人の凄腕のリストラ精鋭部隊が送り込まれて来て、センターに残っていた同僚たちをことごとく片っ端からクビにして行ったというのだ。

仕事のできる優秀な人々がまず真っ先にターゲットとされ、仕事に難癖をつけられては、何度も、何度も、訂正を求められ、それにうんざりして自分から辞めた人も多かったという。数か国語を扱える優秀な社員も同じようにターゲットとされて追い払われた。

次に、管理職、平を問わず、大規模なリストラが決行されて、センターの人員が半数近くもいなくなった。その後は、事実上の恐怖政治が敷かれ、最後までクビにならずに残った人たちは、シフトも自由に申告できなくなり、休みも思うように取れず、恐怖で辞めることもままならず、会社への密告を恐れて同僚と口を利くことさえできなくなり、職場に出勤しても、恐怖のあまり手が震えてパソコンを打てないほどだったという。

センター自体はなくならなかったはずだが、筆者が見知っていた同僚の8割がたは解雇されて入れ替えられた。筆者がいた頃に、身びいきで出世していった人々も、みなすげ替えられたのである。

筆者はこの他にも、職場の腐敗や、崩壊に近い現象をそれなりに見て来たが、短期間でこれほどまでにダイナミックな崩壊(自滅?)を遂げた事例は他に聞いたことがなかった。立ち上げ当初の活気ある雰囲気を知っていただけに、まさかという思いが今でも込み上げて来るが、やはり、自分の中の直観は正しかったのだと思う。

リストラ部隊は、筆者には、抜き身の剣を持った御使いたちの姿を思い起こさせる。コネや身びいきがはびこり、不平等なヒエラルキーが敷かれ、お友達ばかりが管理職になって出世し、誠実な人々はひたすら苦情処理のような味気ない仕事を押しつけられ、昇進の道も閉ざされ、将来の希望もなく、不公平、不正義、堕落、腐敗の代名詞のようになったセンターには、こうして目に見えない剣が投げ込まれて、誰の手にもよらず、職場が自壊して行ったのである。

そうした話を同僚から克明に聞かされた時、職場がそんなひどい状態に陥るよりも前に、筆者がそこを去ったのは、まことに正しい決断だったと、改めて心の中で頷いたものであった。たとえ裏切り者のように罵られたりしたとしても構わない、残っていれば、もっとはるかにひどい事態が待ち受けていたことは明らかなのである。

可哀想なことに、優秀でまじめで仕事好きだった同僚は、精神的に追い詰められて、疲弊した様子だった。決して誰とも対立したり、会社の悪口を言ったりするようなタイプではなく、思いやり深く、働き者の同僚であったが、結局、無理がたたって怪我をして、その仕事を続けることはかなわなくなったようであった。

筆者が何を言いたいかは、しまいまで言い切らずとも、分かってもらえるのではないかと思う。

これまで我が国は、「国と企業のために役立つ優秀な人材」を求めて、ひたすら偏差値教育やら、就職戦線やら、国家公務員試験制度やらを通して、国民同士を競争させ、国民の間にヒエラルキーを敷いて、差別的な階層を作り出した。仕事を得る上でも、新卒・既卒の差別や、正規雇用と非正規雇用の身分差別、圧倒的な賃金格差を作り出し、とことん不公平な体制を敷いて、国民同士を「勝ち組・負け組」に分断して、戦わせて来たのである。

そのような悪しき分断作戦に、国民は気づいて立ち向かうべきであったのに、競争原理に踊らされ、自分を「勝ち組」として、地位にしがみつくことに必死の人々は、隣人に起こっていることに無関心で、自分が優位にあるうちは、自分だけが大丈夫であれば良いと考え、他人を見殺しにした。自分自身が徹底的にターゲットとされるまで、搾取や、リストラや、過労死や、ハラスメントなどは、自分には関係のないことだと高をくくっていた。

そのような愚かさ、無関心さ、無慈悲さ、利己主義がもたらす最後の当然の結末として、我が国では、今や国家や企業の無限大の搾取の願望が、ついに24時間働かせ放題のディストピアという形で押し通されようとしているのだ。

もうこうなると、国の崩壊そのものが近いと言えよう。今や抜き身の剣を持った御使いたちが、天から派遣されて、目に見えない死の剣を、我が国の国民全体の頭上に振りかざしている最中なのである。

それなのに、人々は殺されるまで物言わぬ羊として、上からの覚えめでたい人間として生きるため、地位にしがみつくため、殺人的な政策にも黙って従い、屠殺場に黙って引いて行かれるつもりなのであろうか? 

残念ながら、こうした現象は、経済界だけに限ったことではなく、むろん、国の組織も、学術研究機関も同じであり、およそ地上の組織という組織が、腐敗して、頼りにならない、人間を苦しめ、圧迫し、閉じ込めるものとなっているのである。

それは、宗教指導者の利益を第一とし、宗教指導者から評価されることを信者の「救い」と取り替えた腐敗した宗教組織にも共通することである。

「囲いの呪縛から出よ!」と、筆者はもう一度、言いたい。私たちは「和の精神」の呪縛から自分を解放すべきなのである。

カルト団体では、宗教指導者が信者に死ぬ寸前まで奉仕を要求するが、今の経済界で起こっていることは、それと本質的に同じ現象である。合理的な結果を出すために働かせるのではなく、人間を完全に奴隷化して支配するために、限度を超えた労働を要求しているのである。

このような死の世界には触れてはいけない。問題は、過労死をいかに防ぐかとか、企業や団体に労基法をどうやって守らせるかとか、正規と非正規の格差をどうやって埋めるかと言ったところにはもはやないのだ。

この果てしない地獄のような搾取の願望、人命を何とも思わずに犠牲とする金儲け第一主義の腐敗した理念から、どうやって一人一人が身を引きはがし、身を守り、これにNOを突きつけ、これとは全く異なる価値観に従って生きて行くかという選択の問題なのである。

筆者はクリスチャンとして言うが、今やまさに一人一人の信者が、信仰によって神ご自身との直接のつながりを得て、人間の指導者を介さず、組織を介さず、神のまことの命からすべての供給を受けて生きて行かねばならない時代が来ている。
 
それはハドソン・テイラーやジョージ・ミュラーを含め、幾多のキリスト教の先人が生涯に渡って成し遂げて来た方法であるから、何も不可思議な方法論ではないし、恐れることでもない。

イエスは十字架にかかられる前にこう言われた。

「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。

わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(ヨハネ12:23-26)

この御言葉は、隣人愛のために自分を捧げるという文脈で誤解される向きが強いが、実際にはそうではない。この御言葉は、クリスチャンが、この世で得られるすべてのかりそめの栄誉、地位、財産など、人間の間で作り出される虚栄に対して死ぬという意味を強く持っている。

これは、人の目に立派な人間と認められ、この世でひとかどの者と認められて地位を築き上げようとすることをやめて、ただお一人の神だけに評価され、神の御心を満足させることだけを求めて生きよという神の命令なのである。そして、主イエスは、その実現のために、十字架の死に向かわれたのであり、ご自分の死を指して、ご自分の「栄光」だと言われたのである。

イエスが地上に来られた時代、地上には立派なエルサレムの都と神殿があった。多数の宗教指導者がいて、人々に敬われていた。だが、イエスはそうした人々から全く栄光をお受けにならなかった。むしろ、主イエスは彼らを偽善者と呼び、「白く塗った墓」にたとえ、「外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている」(マタイ23:27)と非難されたのである。

イエスは彼らにこう言われた、

「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。こうして、自分が預言者を殺した者の子孫であることを、自ら証明している。

先祖のが始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。蛇よ。蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。

こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。」(マタイ23:29-36)

今日の時代もこれと全く同じではないだろうか。地上には荘厳で立派な教会がいくつも建てられ、立派な服を着た宗教指導者たちが講壇から重々しく説教し、うやうやしく荘厳な儀式が行われている。そして、彼らのもとに集まる信者は、自分たちは正しい宗教指導者を拝む正しい信者であると自負している。

あたかも、そこには完成に近い素晴らしい礼拝があり、素晴らしい敬虔な指導者や信者たちがいるように見えることであろう。

ところが、そうした人々は、神が遣わされた「預言者、知者、学者」を決して認めようとはせず、その中の「ある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する」。そして、その血の責任を、自分自身の身に負っているのである。

イエスが、エルサレムの都と神殿の崩壊を予告して言われたことを思い出したい。

「「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ。めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。

見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。
言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。

イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指した。そこで、イエスは言われた。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石ここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」」(マタイ23:37-39.,24:1-2)

このような宣告が一切、我が国とは関係がないと、私たちは言えるだろうか? 義人を罪に定め、真実を闇に葬り、不法と虐げを見て見ぬふりをし、寄る辺ない弱い者たちを嘲笑して死に追いやり、神に従う信者を迫害し、神が遣わされた預言者を殺そうとする国や街が、この先、無傷で立ちおおせることなどあるだろうか?

だが、私たちは、地上のエルサレムではなく、天のエルサレムを目指して歩んでいる。地上の目に見える都、宗教組織、目に見える礼拝、目に見える宗教指導者に帰属するのではなく、天の都に根差して生きている。だから、私たちは常に見えない新しい地に目を注ぎ、地上の目に見える有様に足を取られることは決してない。上にあるものを求めるために、崩壊しかかっている地上の有様からは目を離すのである。

今日、私たちがこの身に負っている「イエスの死」は、現実の死ではなく、十字架における霊的死である。私たちは絶えず自分の心に問われている、あなたは何を第一として生きるのかと。この地上における栄誉、人からの賞賛や理解、高い地位などと言ったものを求め、それを第一として生きるのか、それとも、見えない神からの賞賛や評価だけを求めて生きるのか。神を愛し、神に従って生きることと、地上での栄誉を求めることは決して両立しない。

筆者は何も持たずにこの地へやって来たときと同じように、手ぶらかつ気楽に、しかし心から、神に向かって祈る、主イエスよ、私はあなたに従います。何があろうとも、私はあなたに従います。私は、キリストがそうであったように、完全な人となり、あなたに従いたいと心から願っている僕の一人です。私の行くべき道を教えて下さい。私を教え、導いて下さい。私の人生は、あなたの御手の中にあり、私は人生最後の瞬間まで、あなたの僕です。

私たち自身の努力や決意は不完全であっても、神は私たちの信仰に必ず応えて下さる。何しろ、私たちが神を選んだのではなく、主が私たちを選んで下さったのであり、それは私たちが出て行って、実を結び、その実が永遠に残るためなのである。

そこで、地上の有様がますます悲惨に、混乱に満ちて行ったとしても、私たちの心の中には、常に新しい尽きない感謝の歌がある。それは、私たちの永遠になくなることのない希望である、まことの神への尽きない賛美と感謝の歌である。

だから、私たちは確信を持って大胆にこう言う、「主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。人間がわたしに何をなし得よう」と。イエスはすでに十字架で私たちのために勝利を取られたのであり、生涯の終わりまで、完全に私たちの味方でいて下さるのである。

「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。
 イスラエルは言え。  慈しみはとこしえに。
 アロンの家は言え。  慈しみはとこしえに。
 主を畏れる人は言え。 慈しみはとこしえに。

 苦難のはざまから主を呼び求めると

 主は答えてわたしを解き放たれた。
 主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。
 人間がわたしに何をなしえよう。
 
 主はわたしの味方、助けとなって
 わたしを憎む者らを支配させてくださる。
 人間に頼らず、主を避けどころとしよう。
 君侯に頼らず、主を避けどころとしよう。
 
 国々はこぞってわたしを包囲するが
 主の御名によってわたしは必ず彼らを滅ぼす。
 蜂のようにわたしを包囲するが
 茨が燃えるように彼らは燃え尽きる。
 主の御名によってわたしは必ず彼らを滅ぼす。

 激しく攻められて倒れそうになったわたしを
 主は助けてくださった。
 主はわたしの砦、わたしの歌。
 主はわたしの救いとなってくださった。

 御救いを喜び謳う声が主に従う人の天幕に響く。
 主の右の手は御力を示す。
 主の右の手は高く上がり
 主の道の手は御力を示す。

 死ぬことなく、生き長らえて
 主の御業を語り伝えよう。
 主はわたしを厳しく懲らしめられたが
 死に渡すことはなさらなかった。

 正義の城門を開け
 わたしは入って主に感謝しよう。
 これは主の城門
 主に従う人はここを入る。
 わたしはあなたに感謝をささげる
 あなたは、答え、救いを与えてくださった。

 家を建てる者の退けた石が
 隅の親石となった。
 これは主の御業
 わたしたちの目には驚くべきこと。
 
 今日こそ主の御業の日。
 今日を喜び祝い、喜び踊ろう。

 どうか主よ、わたしたちに救いを。
 どうか主よ、わたしたちに栄えを。
 
 祝福あれ、主の御名によって来る人に。
 わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。
 主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。
 祭壇の角のところこまで
 祭りのいけにえを綱でひいて行け。
 あなたはわたしの神、あなたに感謝をささげる。
 わたしの神よ、あなたをあがめる。

 恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。」(詩編118:5-29)