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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

祝福あれ、主の御名によって来る人に。私たちは主の家からあなたたちを祝福する。

思った通り、働かせ方改悪法案が強引に押し通されようとしており、これが通れば、まさに我が国は24時間働かせ放題のディストピアへと転じることになる。

筆者がこれまでずっと述べて来た通り、労働がまさに罪のゆえの終わりなき懲罰と化す時代が到来しているのだ。アウシュヴィッツ行きの列車が人々を満杯に乗せて、汽笛をあげて発車しようとしている。

この列車に乗ってはいけない。今は勤労の精神を説く時代ではない。プロテスタントの始まりと共にヨーロッパ諸国で勤労の精神が取り入れられたが、プロテスタントも、労働市場も、徹底的に腐敗堕落し、もはや終焉にさしかかっているのだ。

「私たちは安定的な雇用を得て、定期的な収入と、高い職業的な地位を得て、まっとうな市民としてのつとめを果たしているから大丈夫・・・」などと思っていると、行き先は飢えと死の支配する強制収容所となろう。

それはキリスト教界も同じで、宗教組織に所属し、宗教指導者に従うことで、それを神の救いの目に見える形の代替物のように思って握りしめていると、行き先は地獄でしかない。
 
この国は、もはやすべてにおいてタガが外れており、善と悪が逆転し、すべてのことがひっくり返っている。善良な人々が悪人とみなされ、悪人が善人面して跋扈している。
 
だが、そうなったのには、深い理由がある。これは我が国が経済成長だけを第一として、金儲けを至上の価値として歩んできたことの手痛いツケであり、必然的な結果なのである。

戦前もそうであったが、戦争は、政府や皇族や大企業の金儲けのために起こされるものであって、口実など何でも良いのである。要するに、儲かりさえすれば、どんな手段を取っても構わないという精神が、戦争へとつながって行くのだ。

人権軽視の憲法改悪と、武器の製造と輸出(軍需産業の育成)、国公立大学における人文科学の縮小、人間を過労死させるまで働かせて使い捨てることを厭わない働かせ方改悪法案などは、すべて根底では一つにつながっている。要するに、これらは金の力の前に人権および人命が徹底的に軽視され続けたことの結果、起きたことである。
 
最近、辛淑玉さんが事実上の国外亡命を果たしたというニュースを知って驚いた。以下のニュースは「読む・書く・考える」のブログから転載したものである。
 

東京新聞(3/14):

 「ニュース女子」問題で辛淑玉さん
 ヘイト標的 拠点ドイツに 

 沖縄県の米軍基地反対運動を扱った東京MXテレビの番組「ニュース女子」で、名誉を毅損されたと認められた団体代表の辛淑玉さん(59)が昨年11月からドイツに生活拠点を移した。本紙の取材に対し、昨年1月に番組が放送されてから民族差別に基づくヘイトクライム(憎悪犯罪)の標的にされかねない不安が高まったとして、「事実上の亡命です」と明かした。(辻渕智之)

 辛さんによると、番組放送後、注文していない物が自宅に届いた。近所で見知らぬ人が親指を下に向け批判するポーズをしたり、罵声を浴びたりもした。これまでも仕事先などへの脅迫や嫌がらせはあったが「私の身近な生活圏に踏込んできた」という。(略)
(略)
 最近は「スリーパーセル」(潜伏工作員)との中傷もある。先月、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)中央本部が銃撃されたことに触れ、「私が狙われてもおかしくなかった。国のリーダーは北朝鮮と敵対しても、『日本の中にいる朝鮮人たちは一緒に生きていく隣人です』と宣言してほしい」と訴える。


 この出来事についてブログの著者は呼びかけている、
 

「辛淑玉さんは、日米両政府から差別・迫害されるマイノリティ(沖縄)に連帯し、その自己解放運動を支援してきた。そんなマイノリティ(在日コリアン)女性の自宅を特定し、嫌がらせを繰り返して、ついには国内で生活できなくなるまで追い詰める。これが「愛国」だの「美しい国」だのを標榜している連中の正体なのだ。

一刻も早く、そんな不良日本人どもからこの国を取り返さなければならない。それは、間違いなく、この国のマジョリティである我々の責務である。


まったく同感である。だが、それにしても、ここまで事態が深刻化していたと知って筆者は驚いた。単なるテレビ番組だけの問題ではなくなり、実生活にまで被害が及び、もはや日本にいられないというまでの事態になっていたのだ。

「ニュース女子」とは、化粧品会社DHCの傘下のグループ企業が制作しているテレビ番組である。このDHCは、澤藤統一郎弁護士のブログの文章を理由に、弁護士に高額スラップ訴訟を起こしたことで知られる。DHCが起こした高額スラップ訴訟については、「澤藤統一郎の憲法日記」に詳しく、弁護士はDHCと勇敢に戦って勝訴し、今やDHCが被告となっている。

「ニュース女子」では最近、沖縄の高江・ヘリパット基地建設に関連して、事実として裏づけの取れていない、基地反対派の活動を一方的に敵視して貶める内容の放送を行ったとして、ネットでも数多くの批判を浴びていた。DHCのグループ会社が制作するこのTV番組は、まさにDHCという企業の意向を強く受けて制作されていたと見られる。
 

朝日新聞デジタル 「ニュース女子」打ち切りへ MXと制作会社に隔たり 
田玉恵美 2018年3月1日03時21分 から抜粋
 
 ニュース女子は、化粧品大手ディーエイチシーのグループ会社「DHCテレビジョン」が取材・制作し、MXが完成版の納品を受けて放送している。問題になった昨年1月2日の放送回については、放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会が昨年12月、MXが番組内容を適正にチェックせず、中核となった事実についても裏付けがないとして「重大な放送倫理違反があった」とする意見を公表していた。

 関係者によると、批判を受け、MXは自ら番組の制作に関与したいと申し入れて交渉していたが、DHC側から断られたという。このため、今春の番組改編に合わせて番組の放送をやめることを決めた。

 
しかし、BPOから放送倫理違反との結論が出されたことに対し、DHC会長は、かえって「BPOは正気か」とする反論を発表し、そこでBPOは委員のほとんどが「反日、左翼」に占められており、正常な判断など下せるはずがないと、偏見としか言いようのない衝撃的な見解を述べている。そして、「ニュース女子」はうちきりになったわけではない、これからも放映を続行すると強弁して、BPOに対決宣言と見える姿勢を打ち出している。
 

【DHC会長独占手記】「ニュース女子」騒動、BPOは正気か 
「ニュース女子」DHC会長、衝撃の反論手記 
から抜粋
「田嘉明(DHC会長)


 今、問題になっている放送倫理・番組向上機構(BPO)についてですが、まずこの倫理という言葉を辞書で調べてみると「善悪・正邪の判断において普遍的な基準となるもの」(「大辞泉」)ということになっています。そもそも委員のほとんどが反日、左翼という極端に偏った組織に「善悪・正邪」の判断などできるのでしょうか。

 沖縄問題に関わっている在日コリアンを中心にした活動家に、彼らが肩入れするのは恐らく同胞愛に起因しているものと思われます。私どもは同じように、わが同胞、沖縄県民の惨状を見て、止むに止まれぬ気持ちから放映に踏み切ったのです。これこそが善意ある正義の行動ではないでしょうか。

 先日、情報バラエティー番組『ニュース女子』の問題に関して、朝日新聞が「放送の打ち切り決定」というニュースを大々的に流したようですが、『ニュース女子』の放映は今も打ち切ってはいません。これからも全国17社の地上波放送局で放映は続行します。」
 


 だが、以上のような見解を見ても、すぐに分かることは、DHC側が、沖縄の基地問題を、日本と米国の外交問題、政治問題、また、日本本土と沖縄との偏って不公平な関係といった観点からとらえるのではなく、これを日本人対在日コリアンという民族対立のヘイト問題にすりかえることで、人々の目を問題の本当の核心から目をそらそうとしていることである。

もしも民族的対立という観点からとらえるのであれば、沖縄の基地問題は、何よりも、日本人から琉球人への差別という観点から論じられねばならない。今でも続行している日本本土による沖縄への基地の押しつけという不公平にこそ、まずは目を向けなければならない。

ところが、本土と沖縄という問題を、それとは全く異なる日本人と在日コリアンの対立という問題にすり替え、「在日コリアン側からの日本人への敵視」が行われているという、一種の被害妄想めいた話を作り出すことによって、沖縄を差別してきた加害者であるはずの日本人が、かえって被害者であるかのような問題のすり替えが行われようとしている。

そうした原因すり替え論の結果として、辛淑玉さんが国外亡命さざるを得ないような状況さえ起きて来ている。本来は、企業が政治活動に携わること自体が、望ましいことではないと筆者は考えるのだが、最近は、企業にもあからさまな右傾化が起きており、DHCのみならず、巨大企業がブランド力と動員力を使って、テレビだけにとどまらない政治的影響力を行使するようになっている様子が伺える。

とはいえ、日本人もTV番組や巨大企業の宣伝だからと裏づけの取れない情報を完全に鵜呑みにするほどまで愚かではないため、こうした動きに対しては、強い反発も起きており、DHC製品の不買運動もじわじわ広がっているようであり、上記の弁護士などもDHCの不買運動を呼びかけて広く反響を得ている様子である。

東京MXテレビとDHCの開き直りに反感、デモや不買運動もー『ニュース女子』沖縄ヘイト放送
志葉玲  | フリージャーナリスト(環境、人権、戦争と平和)  2017/1/27(金) 8:59


だが、今のままだと、まもなく不買運動など呼びかけずとも、化粧品のことなど誰も考えていられないような恐るべき時代がやって来ることになるだろう・・・。しかも、まるでロシア革命時に大勢のロシア人が国外に亡命したように、辛淑玉さんのみならず、我が国で「非国民」のレッテルを貼られた人々が、続々とこの国を捨てて国外亡命を果たすような時代が、もうすぐそこまで来ていると感じられてならないのである。

こうした一連の出来事を見つつ、筆者も色々と考えさせられる。

筆者は最近、ヴァイオリンを弾きながら、辛淑玉さんのように、将来、ドイツへ行ってみるのも悪くないなあ・・・、などと思いめぐらしている。国外亡命のためではない。何しろ、ドイツは教育が無償だそうだから、改めて音楽を学び直す良い機会ともなろう。

音楽には国境もなければ言語の壁もないため、いざとなれば、日本国内外を問わず、そこから何か開けてくるものがあるだろうと思うのだ。筆者はこの試みが、深いところで、筆者自身の自由とも密接につながっていることを強く確信している。

筆者は以前から、この国はソドムとゴモラ化していると書いており、まさしくその通りの展開となっていることを感じている。そして、このような腐敗した領域からは出るべきだと述べている。だが、筆者が述べている「エクソダス」とは、あからさまな国外亡命のような、物理的な移動を指しているわけではないのだ。時には、そういうことが不可欠な場合もないわけではないと思うが、はるかに重要なのは、霊的エクソダスである。

これから先、どれだけ早く真実に気づいて「エクソダス」を成し遂げるかが、一人一人の生死を分けることであろう。

筆者は、働かせ方改悪法案に賛同しておらず、事実上の24時間労働制・国家総動員体制などに賛成票を投じるつもりも全くないが、それでも、残念ながら、我が国に国家総動員体制のようなものが敷かれるのはほとんど避けられない結果だと考えている。

それはこの国がこれまで敷いて来たヒエラルキー、競争原理が必然的にもたらす結果なのであり、一旦、とことん行き着くところまで行き着かない限り、この残酷な競争の激化は止められないのではないかと考えている。

だから、私たちはそうした先行きのない世界から目を逸らし、新しい地境を見るべきなのである。もし船の左側に網を降ろして何も魚が取れなかったなら、右側に網を降ろしてみれば良いのだ。左側は、人間の努力によってすべてを達成する道、右側は、神の約束によってすべてが達成される道である。

話が変わるように思われるかも知れないが、経済界および労働市場の絶望的なることを示すために、あるエピソードを述べておきたい。

それはかつて筆者が何年も前に、アルバイトのような仕事をして、とある故障・修理受付のセンターで働いていた時のことであった。

筆者がその職場に入ったとき、その職場は、開けた都会の駅からすぐの大型ショッピングモールのビル街の只中の、きれいでピカピカのオフィスにあった。まだ立ち上がったばかりで、大勢の同僚たちが雇用され、活気があり、窓から見える景色はきれいで、食べ物屋にも困らず、まことに良い雰囲気であった。

ところが、それがとことん異常になり果てて行くまで、3ヶ月もかからなかった。そのセンターの仕事には最初から前線部門と技術部門の二つの区分があり、最初、これらの部門の間に差別はなかった。だが、最初から給与が違っており、技術部門の方がわずかに高かった。前線部門は修理の受付をして技術部門へ渡すための一次対応であった。

センター始まってしばらくすると、いつの間にか、前線部門と技術部門との間にヒエラルキーのような格差が出来てきた。前線部門は、技術部門に接続する前段階の苦情受付のための捨て駒のような役目を押しつけられ、技術部門との間に、だんだん給与面だけでなく心理的にも大きな格差ができ、技術部門は特権的な地位のようにみなされるようになって行ったのである。

職場の中にヒエラルキーがあるということは心理的にも非常によくない。職場内にあからさまな無気力感が漂い、同僚同士が妬み合ったり、足を引っ張り合ったりして、何一つ良いことは起きない。

だが、そのセンターには、筆者が働き始めて3か月頃した頃から、今度は、いきなり現場の仕事には全く携わることのない庶務部門や、社員の仕事をチェックしてはダメ出しするだけの品質管理部門といった新たな部門が導入されて、さらに新たな重層的ヒエラルキーが出来上がり、事務仕事に携わる連中が、前線部門、技術部門を問わず、センター全体の仕事を見張り、難癖をつけては、大きな顔をするようになったのである。

いきなり導入された庶務部が、シフト管理などにうるさく口出しをし、全従業員に君臨して大きな顔をし始め、一つの職場内で、事実上の官僚集団のようになって行った。一つのセンターの中に完全な「お役所」が出来上がり、筆者は開いた口がふさがらなかった。

そのような事態になるまでの間に、仕事の質もどんどん落ちて行った。最初は活気があったセンターが、連日の苦情のために、どんどん疲弊して行った。さらに、従業員は、あくどい形で、顧客から金をとるために、修理しなくても良い箇所まで、修理させるようにとの業務指示を下されたりと、納得のできないことの連続で、顧客が可哀想だと思われることしきりであった。

何より、連日のように顧客から異常と思われる終わりのない苦情が入って来るようになり、それにみなが苦しめられていた。むろん、そんな苦情が発生したこと自体、企業の経営方針、倫理の欠如が深刻に問われる。そうした希望の見えない仕事の中で、職場では身びいきがはびこり、幹部の覚えめでたい連中だけが、見る間に出世して管理職に登用されて行き、管理者ばかりがゴロゴロいるようになったのであった。

筆者はより高い給与とましな仕事内容を求めて技術部門への転身を試みたが、あいにく実現しなかった。(そして、筆者の人生では、この仕事が本業とは関係のない最後のアルバイトとなった。)
 
以上のような変化の中で、筆者はこの職場には将来の希望が全く見いだせないため、早く転職せねばならないと思うようになった。品質管理部門が、皆の仕事に目を光らせて、あれやこれやとうるさく難癖をつけているため、思うように仕事もできなくなり、筆者はこの職場を一刻も早く出るべきと確信した。
 
ほんのわずかな期間に、入ったばかりの頃のわきあいあいとした雰囲気、同僚たちとのあけっぴろげな談笑、これから何かが始まるぞという活気は、急速に萎み、見る影もなくなっていた。

筆者が仕事に愛想を尽かしかかっている気配を察知して、それまで同僚だった人が、それを上部に密告し、友達の顔をして、筆者の動向を調べ上げ、中枢部に報告するようになった、筆者はうすうす同僚の裏切りを感じてはいたが、それでも、それを全く意に介さず、その同僚の説得を振り切って、センターを去った。

その同僚は、筆者の退職後、筆者を裏切り者のように言いふらしていたらしい。(だが、自己弁明しておけば、そのように悪しざまに言われていた人々の中には、筆者のみならず、この職場を脱出しようとしたすべての同僚たちがを含まれていたのである。)
 
そして、密告までして上部に媚を売り、その仕事にしがみつき、センターに残った人たちが、その後、どのような末路を辿ったのかは、センターにいた仲の良かった別な同僚が仔細に至るまで教えてくれた。

筆者がそこを出た後、なんとごくわずかな間で、本社からリストラ精鋭部隊なるものが送り込まれて、大規模リストラを決行し、そのセンターが事実上、崩壊したというのである。

筆者はその話を聞くまで、追い出し部屋だとかの話を耳にしても、半信半疑で、リストラ部隊などといったものは、あるはずのない話だと思っていた。まさかそれなりに名の通った大企業に、自社の社員たちをリストラすることだけを専門にしている社員が雇われているなど、考えてみたこともなかったのである。一体、何のために?

ところが、それは本当のことらしかった。本部から四人の凄腕のリストラ精鋭部隊が送り込まれて来て、センターに残っていた同僚たちをことごとく片っ端からクビにして行ったというのだ。

仕事のできる優秀な人々がまず真っ先にターゲットとされ、仕事に難癖をつけられては、何度も、何度も、訂正を求められ、それにうんざりして自分から辞めた人も多かったという。数か国語を扱える優秀な社員も同じようにターゲットとされて追い払われた。

次に、管理職、平を問わず、大規模なリストラが決行されて、センターの人員が半数近くもいなくなった。その後は、事実上の恐怖政治が敷かれ、最後までクビにならずに残った人たちは、シフトも自由に申告できなくなり、休みも思うように取れず、恐怖で辞めることもままならず、会社への密告を恐れて同僚と口を利くことさえできなくなり、職場に出勤しても、恐怖のあまり手が震えてパソコンを打てないほどだったという。

センター自体はなくならなかったはずだが、筆者が見知っていた同僚の8割がたは解雇されて入れ替えられた。筆者がいた頃に、身びいきで出世していった人々も、みなすげ替えられたのである。

筆者はこの他にも、職場の腐敗や、崩壊に近い現象をそれなりに見て来たが、短期間でこれほどまでにダイナミックな崩壊(自滅?)を遂げた事例は他に聞いたことがなかった。立ち上げ当初の活気ある雰囲気を知っていただけに、まさかという思いが今でも込み上げて来るが、やはり、自分の中の直観は正しかったのだと思う。

リストラ部隊は、筆者には、抜き身の剣を持った御使いたちの姿を思い起こさせる。コネや身びいきがはびこり、不平等なヒエラルキーが敷かれ、お友達ばかりが管理職になって出世し、誠実な人々はひたすら苦情処理のような味気ない仕事を押しつけられ、昇進の道も閉ざされ、将来の希望もなく、不公平、不正義、堕落、腐敗の代名詞のようになったセンターには、こうして目に見えない剣が投げ込まれて、誰の手にもよらず、職場が自壊して行ったのである。

そうした話を同僚から克明に聞かされた時、職場がそんなひどい状態に陥るよりも前に、筆者がそこを去ったのは、まことに正しい決断だったと、改めて心の中で頷いたものであった。たとえ裏切り者のように罵られたりしたとしても構わない、残っていれば、もっとはるかにひどい事態が待ち受けていたことは明らかなのである。

可哀想なことに、優秀でまじめで仕事好きだった同僚は、精神的に追い詰められて、疲弊した様子だった。決して誰とも対立したり、会社の悪口を言ったりするようなタイプではなく、思いやり深く、働き者の同僚であったが、結局、無理がたたって怪我をして、その仕事を続けることはかなわなくなったようであった。

筆者が何を言いたいかは、しまいまで言い切らずとも、分かってもらえるのではないかと思う。

これまで我が国は、「国と企業のために役立つ優秀な人材」を求めて、ひたすら偏差値教育やら、就職戦線やら、国家公務員試験制度やらを通して、国民同士を競争させ、国民の間にヒエラルキーを敷いて、差別的な階層を作り出した。仕事を得る上でも、新卒・既卒の差別や、正規雇用と非正規雇用の身分差別、圧倒的な賃金格差を作り出し、とことん不公平な体制を敷いて、国民同士を「勝ち組・負け組」に分断して、戦わせて来たのである。

そのような悪しき分断作戦に、国民は気づいて立ち向かうべきであったのに、競争原理に踊らされ、自分を「勝ち組」として、地位にしがみつくことに必死の人々は、隣人に起こっていることに無関心で、自分が優位にあるうちは、自分だけが大丈夫であれば良いと考え、他人を見殺しにした。自分自身が徹底的にターゲットとされるまで、搾取や、リストラや、過労死や、ハラスメントなどは、自分には関係のないことだと高をくくっていた。

そのような愚かさ、無関心さ、無慈悲さ、利己主義がもたらす最後の当然の結末として、我が国では、今や国家や企業の無限大の搾取の願望が、ついに24時間働かせ放題のディストピアという形で押し通されようとしているのだ。

もうこうなると、国の崩壊そのものが近いと言えよう。今や抜き身の剣を持った御使いたちが、天から派遣されて、目に見えない死の剣を、我が国の国民全体の頭上に振りかざしている最中なのである。

それなのに、人々は殺されるまで物言わぬ羊として、上からの覚えめでたい人間として生きるため、地位にしがみつくため、殺人的な政策にも黙って従い、屠殺場に黙って引いて行かれるつもりなのであろうか? 

残念ながら、こうした現象は、経済界だけに限ったことではなく、むろん、国の組織も、学術研究機関も同じであり、およそ地上の組織という組織が、腐敗して、頼りにならない、人間を苦しめ、圧迫し、閉じ込めるものとなっているのである。

それは、宗教指導者の利益を第一とし、宗教指導者から評価されることを信者の「救い」と取り替えた腐敗した宗教組織にも共通することである。

「囲いの呪縛から出よ!」と、筆者はもう一度、言いたい。私たちは「和の精神」の呪縛から自分を解放すべきなのである。

カルト団体では、宗教指導者が信者に死ぬ寸前まで奉仕を要求するが、今の経済界で起こっていることは、それと本質的に同じ現象である。合理的な結果を出すために働かせるのではなく、人間を完全に奴隷化して支配するために、限度を超えた労働を要求しているのである。

このような死の世界には触れてはいけない。問題は、過労死をいかに防ぐかとか、企業や団体に労基法をどうやって守らせるかとか、正規と非正規の格差をどうやって埋めるかと言ったところにはもはやないのだ。

この果てしない地獄のような搾取の願望、人命を何とも思わずに犠牲とする金儲け第一主義の腐敗した理念から、どうやって一人一人が身を引きはがし、身を守り、これにNOを突きつけ、これとは全く異なる価値観に従って生きて行くかという選択の問題なのである。

筆者はクリスチャンとして言うが、今やまさに一人一人の信者が、信仰によって神ご自身との直接のつながりを得て、人間の指導者を介さず、組織を介さず、神のまことの命からすべての供給を受けて生きて行かねばならない時代が来ている。
 
それはハドソン・テイラーやジョージ・ミュラーを含め、幾多のキリスト教の先人が生涯に渡って成し遂げて来た方法であるから、何も不可思議な方法論ではないし、恐れることでもない。

イエスは十字架にかかられる前にこう言われた。

「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。

わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(ヨハネ12:23-26)

この御言葉は、隣人愛のために自分を捧げるという文脈で誤解される向きが強いが、実際にはそうではない。この御言葉は、クリスチャンが、この世で得られるすべてのかりそめの栄誉、地位、財産など、人間の間で作り出される虚栄に対して死ぬという意味を強く持っている。

これは、人の目に立派な人間と認められ、この世でひとかどの者と認められて地位を築き上げようとすることをやめて、ただお一人の神だけに評価され、神の御心を満足させることだけを求めて生きよという神の命令なのである。そして、主イエスは、その実現のために、十字架の死に向かわれたのであり、ご自分の死を指して、ご自分の「栄光」だと言われたのである。

イエスが地上に来られた時代、地上には立派なエルサレムの都と神殿があった。多数の宗教指導者がいて、人々に敬われていた。だが、イエスはそうした人々から全く栄光をお受けにならなかった。むしろ、主イエスは彼らを偽善者と呼び、「白く塗った墓」にたとえ、「外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている」(マタイ23:27)と非難されたのである。

イエスは彼らにこう言われた、

「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。こうして、自分が預言者を殺した者の子孫であることを、自ら証明している。

先祖のが始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。蛇よ。蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。

こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。」(マタイ23:29-36)

今日の時代もこれと全く同じではないだろうか。地上には荘厳で立派な教会がいくつも建てられ、立派な服を着た宗教指導者たちが講壇から重々しく説教し、うやうやしく荘厳な儀式が行われている。そして、彼らのもとに集まる信者は、自分たちは正しい宗教指導者を拝む正しい信者であると自負している。

あたかも、そこには完成に近い素晴らしい礼拝があり、素晴らしい敬虔な指導者や信者たちがいるように見えることであろう。

ところが、そうした人々は、神が遣わされた「預言者、知者、学者」を決して認めようとはせず、その中の「ある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する」。そして、その血の責任を、自分自身の身に負っているのである。

イエスが、エルサレムの都と神殿の崩壊を予告して言われたことを思い出したい。

「「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ。めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。

見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。
言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。

イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指した。そこで、イエスは言われた。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石ここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」」(マタイ23:37-39.,24:1-2)

このような宣告が一切、我が国とは関係がないと、私たちは言えるだろうか? 義人を罪に定め、真実を闇に葬り、不法と虐げを見て見ぬふりをし、寄る辺ない弱い者たちを嘲笑して死に追いやり、神に従う信者を迫害し、神が遣わされた預言者を殺そうとする国や街が、この先、無傷で立ちおおせることなどあるだろうか?

だが、私たちは、地上のエルサレムではなく、天のエルサレムを目指して歩んでいる。地上の目に見える都、宗教組織、目に見える礼拝、目に見える宗教指導者に帰属するのではなく、天の都に根差して生きている。だから、私たちは常に見えない新しい地に目を注ぎ、地上の目に見える有様に足を取られることは決してない。上にあるものを求めるために、崩壊しかかっている地上の有様からは目を離すのである。

今日、私たちがこの身に負っている「イエスの死」は、現実の死ではなく、十字架における霊的死である。私たちは絶えず自分の心に問われている、あなたは何を第一として生きるのかと。この地上における栄誉、人からの賞賛や理解、高い地位などと言ったものを求め、それを第一として生きるのか、それとも、見えない神からの賞賛や評価だけを求めて生きるのか。神を愛し、神に従って生きることと、地上での栄誉を求めることは決して両立しない。

筆者は何も持たずにこの地へやって来たときと同じように、手ぶらかつ気楽に、しかし心から、神に向かって祈る、主イエスよ、私はあなたに従います。何があろうとも、私はあなたに従います。私は、キリストがそうであったように、完全な人となり、あなたに従いたいと心から願っている僕の一人です。私の行くべき道を教えて下さい。私を教え、導いて下さい。私の人生は、あなたの御手の中にあり、私は人生最後の瞬間まで、あなたの僕です。

私たち自身の努力や決意は不完全であっても、神は私たちの信仰に必ず応えて下さる。何しろ、私たちが神を選んだのではなく、主が私たちを選んで下さったのであり、それは私たちが出て行って、実を結び、その実が永遠に残るためなのである。

そこで、地上の有様がますます悲惨に、混乱に満ちて行ったとしても、私たちの心の中には、常に新しい尽きない感謝の歌がある。それは、私たちの永遠になくなることのない希望である、まことの神への尽きない賛美と感謝の歌である。

だから、私たちは確信を持って大胆にこう言う、「主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。人間がわたしに何をなし得よう」と。イエスはすでに十字架で私たちのために勝利を取られたのであり、生涯の終わりまで、完全に私たちの味方でいて下さるのである。

「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。
 イスラエルは言え。  慈しみはとこしえに。
 アロンの家は言え。  慈しみはとこしえに。
 主を畏れる人は言え。 慈しみはとこしえに。

 苦難のはざまから主を呼び求めると

 主は答えてわたしを解き放たれた。
 主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。
 人間がわたしに何をなしえよう。
 
 主はわたしの味方、助けとなって
 わたしを憎む者らを支配させてくださる。
 人間に頼らず、主を避けどころとしよう。
 君侯に頼らず、主を避けどころとしよう。
 
 国々はこぞってわたしを包囲するが
 主の御名によってわたしは必ず彼らを滅ぼす。
 蜂のようにわたしを包囲するが
 茨が燃えるように彼らは燃え尽きる。
 主の御名によってわたしは必ず彼らを滅ぼす。

 激しく攻められて倒れそうになったわたしを
 主は助けてくださった。
 主はわたしの砦、わたしの歌。
 主はわたしの救いとなってくださった。

 御救いを喜び謳う声が主に従う人の天幕に響く。
 主の右の手は御力を示す。
 主の右の手は高く上がり
 主の道の手は御力を示す。

 死ぬことなく、生き長らえて
 主の御業を語り伝えよう。
 主はわたしを厳しく懲らしめられたが
 死に渡すことはなさらなかった。

 正義の城門を開け
 わたしは入って主に感謝しよう。
 これは主の城門
 主に従う人はここを入る。
 わたしはあなたに感謝をささげる
 あなたは、答え、救いを与えてくださった。

 家を建てる者の退けた石が
 隅の親石となった。
 これは主の御業
 わたしたちの目には驚くべきこと。
 
 今日こそ主の御業の日。
 今日を喜び祝い、喜び踊ろう。

 どうか主よ、わたしたちに救いを。
 どうか主よ、わたしたちに栄えを。
 
 祝福あれ、主の御名によって来る人に。
 わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。
 主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。
 祭壇の角のところこまで
 祭りのいけにえを綱でひいて行け。
 あなたはわたしの神、あなたに感謝をささげる。
 わたしの神よ、あなたをあがめる。

 恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。」(詩編118:5-29) 

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御霊に導かれて生きる~イエスを公に証しない霊はすべて神から出ていない反キリストの霊である~

「「人は皆、草のようで、
 その華やかさはすべて、草の花のようだ。
 草は枯れ、
 花は散る。
 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。
 これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。」(Ⅰペテロ1:24-25)

草は枯れ、花は散る。

以上の御言葉の前半部分は、まさに東洋的世界観にも通じるこの世の物質世界の無常をよく表している。しかし、聖書の御言葉は無常観を表すものでは全くないから、それに続く御言葉は、前半とは全く異なる永遠の世界があることをはっきりと告げる。

「しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」

この最後の部分を認めるか認めないかによって、人の世界観、人の運命は真逆のものとなる。

さて、悪魔の歪んだディスカウントの鏡に映っている人間の像は、いつも嘘だらけで、信じるに値しない。当ブログについてディスカウントを続けている「鏡」があるが、その人々と彼らの言い分をこれから「彼岸」と呼ぶことにしたい。なぜなら、彼らはグノーシス(=般若)にたどり着いた面々だから、その名称がよく似合っているはずだ。

以前にグノーシス主義とは、母体となる宗教や思想の枠組みを持たない悲観的な哲学・世界観であって、どのような宗教、どのような思想の中にでも入り込み、その宗教の神話などを自在に利用して、自身に都合よく変えてしまうのだと書いた。

それゆえ、「彼岸」のグノーシス主義的世界では、筆者についても、これを一人の登場人物として、一聞しただけで、思わず笑いがこみあげて来るような、完全に妄想に満ちた虚偽の荒唐無稽なストーリーが出来上がっている。たとえば、筆者には甥など一人もいないにも関わらず、存在しないはずの甥が、筆者の家族の成員に加えられ、筆者の家庭は、クリスチャンホームでもなかったにも関わらず、筆者の「両親」は共に教会に通う敬虔な(?)クリスチャンに仕立て上げられ、その他にも、あるはずもない数々の虚偽が作り出されて、笑い出したくなるような非現実的なストーリーが出来上がっている。

そこでは、筆者に数々の栄誉ある称号も色々と取り揃えられており、筆者は極めて優秀な「御霊によって歩む」クリスチャンとなっているばかりか、ドストエフスキーやトルストイの研究者とも呼ばれ、当無料ブログのおかげで、評論家という称号まで受けている。一体、ドストエフスキーとトルストイの両方の研究者を名乗ることの困難さを、彼らは知らないのだろうか。こうなっては、まさにもう何でもありの世界だが、さわやか読者が押しかけて日夜検索結果の操作にいそしんでいるこのブログを理由に、ネット評論家を名乗るなどのことも、筆者自身は考えたこともなかった。

偉大な称号と、呆れるような中傷がミックスされて、大いに結構づくめのディストピアが出来上がっているようだが、そのデタラメぶり、根拠のなさがあまりにも可笑しく、断片を見ただけで、思わずふき出してしまう。足りないのは「ユダヤ人の王」の称号くらいか、いや、欠けているのは、聖書と、真実な信仰である。

聖書の神に忠実に従って生きるクリスチャンは、誰しもリトマス試験紙の役割を担っていると当ブログでは以前に書いた。様々な霊たちが、クリスチャンの周りで論争を繰り広げるが、クリスチャンは自覚していようといまいと、これらの霊の正体を人前ではっきり明らかにする役割を担っている。
 
当ブログにぶつかってきた霊たちは、いよいよはっきりとその正体と本音を明るみに出し始めたようだ。驚くべきことに、彼らはあからさまに聖書を否定し始めたのである。聖書に基づく純粋な信仰に生きることを、カルト扱いして、聖書の真実性を否定し、退け始めたのである。

このことは、彼らが今までうわべだけはクリスチャンを装って来たことから考えると、驚くべき事実であり、彼らが重大な分岐点を通過したことをよく物語っていると言えよう。

カルト被害者救済活動には、以前に説明した通り、当初は統一教会やその他のカルトと名指しされている宗教に入信した信者らを、暴力によって強制的に拉致監禁して、密室で聖書を使って延々と説得工作を行い、元カルト信者らの思想の誤りを暴き、彼らの誤った信仰を打ち砕いて、カルトへの信仰を棄教させた上で、キリスト教に入信させて来たという残酷な過去がある。

そんなにまでして、聖書を聖典として振りかざし、カルト信者に強制的な脱会・説得工作を行って来たカルト被害者救済活動の陣営が、ついに自ら振りかざしていた聖書の真実性を否定し始めたのである。

まさに本音が出たなという印象を受ける。筆者は以前から、拉致監禁までして他宗教から信者を奪うようなことは、決してキリスト教の信仰に基づく正しい行動ではないと指摘して来た。なぜなら、聖書の神は決して人に信仰を強制するようなことはなさらないからだ。
 
この人々は、聖書はすべてがすべて真に受けるべきものでなく、ほどほどの理解で良いなどと言っているようだが、もしそんなことを本気で考えているのなら、彼らが元カルト信者を強制的に脱会させた過去はどのように正当化されるのであろうか。そんなにもいい加減で無責任な認識で良いならば、多くのカルト宗教では、改ざんされているとはいえ、聖書も伝道に利用されているわけだから、多少、クリスチャンと認識がずれているくらいのことで、目くじら立てず、黙って放っておけばよかったのだということにしかならないであろう。身勝手極まりない理屈である。

聖書は、彼らにとってうわべを飾り、他宗教に対して優位を誇り、自己正当化をはかるためだけのどうでも良いツールだったことが、この告白によって明らかになった。彼らは本気で聖書の御言葉を信じ、従うつもりなどさらさらなかったのに、カルト信者に対して己の優位を振りかざすためだけに聖書を都合よく利用したのである。脱会工作は、おそらく、牧師たちが、カルトに入信した信者らの親から、泣く泣く頼み込まれ、しかも親たちから報酬としての謝礼金をもらって実行したことに過ぎないのだろう。それが決して信仰に基づく行動ではなかったことがますます裏づけられているのである。
 
「彼岸」では、日曜礼拝その他の各種の儀式の重要性ばかりが語られているようだが、それらの儀式をどんなに形式的に遵守しても、聖書の御言葉の真実性さえ信じようとしない、信仰のない人々の独りよがりな礼拝などは、罪人カインの礼拝として、神に受け入れられることも、喜ばれることも決してあるまい。

さて、これまで当ブログで大きなテーマを勢力的に扱おうとすると、「彼岸」では必ずこの種のネガティブ・キャンペーンが張り巡らされて来た。いつものパターンの繰り返しである。今や言いたいことがあるならば、裁判所や警察を通して、きちんと公に自分の言い分を主張する道が開かれているのに、こうした卑劣な方法しか使えないのは、よほど自分たちの主張を出るべきところに出て主張することに自信がないせいであり、かつ、よほど当ブログにおける主張が、暗闇の勢力にとって身に堪えているせいであろう。

グノーシス主義の理論の共通の骨子が暴露されることは、悪魔と暗闇の勢力にとって何としても耐えがたいことなのであろう。

彼らは筆者を狂人扱いした挙句、このままでは破滅するなどと言っているが、よくよく自分を振り返って観察してみることだ、一体、破滅の淵に立っているのは誰なのか。
  
この人々には、今までにも、決して自分の所属先の宗教団体を名乗らないという明白な特徴があった。勤務先はもちろんだが、どの宗教団体の人間なのかさえ、全くはっきりしない連中ばかりなのである。このような人々の述べる信仰論は、それだけで、最初から耳を傾けるに値しないことが明白である。他人には身元を明かせと要求し、暴力的に個人情報を暴いて、プライバシーを侵害する行為に出ておきながら、自分自身は所属教会さえ明らかにしないとは、まさに笑止千万な行動である。それでどうやって信仰を語る資格があるというのか。

このように、信仰があると自称しているにも関わらず、自分がどの宗教の信者であるかさえ明らかにしないような人々の言い分に、真面目に耳を傾けるのは愚か者のすることである。彼らは、クリスチャンであるのかどうかという最低限度の事実さえはっきりさせずに、他者の信仰告白の内容について云々できる資格などないのは当然である。

だからこそ、もとより信仰のないこの人々は、週刊誌のように他人の人間模様やスキャンダルを暴くことにばかりに熱中し、それ以外にできることがないのである。それは、彼らにはもともと聖書的な知識も信仰もなく、あるのはこの世的な関心だけかだらである。

だが、ついに彼らが最も好んで来た人間模様の中にさえ、フィクションの登場人物が作り出され、話がどんどん現実離れした方向へ向かっている様子を見ると、彼らがすでに重度の妄想に陥っていることがよく分かり、ただただ可笑しくなるだけである。

このような人々にはまさに「彼岸」という言葉がふさわしい。彼らはすでにこの世をすら去って、自ら「他界」し始めているのである。むろん、以下の御言葉の「悟りの道」がグノーシス主義のグノーシスと同じものでないことは、説明せずとも良いと思うが、死者の霊の集会に出席する者は、例外なく黄泉に誘われて行く。以上の人々はまさに「棺桶に片足を突っ込んでいる」のだと言えよう。

「悟りの道から迷い出る者は、死者の霊たちの集会の中で休む。 」(箴言21:16)
 
さて、以上のような人々の愚劣な行為がこの先、しかるべき罰を受け、そのデタラメな記述が必ず削除されることは変わらない事実だが、ただし、この先、彼らの「彼岸」の世界で、ありもしない創作物語が、どこまで大きく膨らんで行くのか、また、そのような話に騙される人々が、どの程度、この国にいるのか、それは面白い観察材料であるものと思う。

ある意味で、この手の話は、日本人の民度の高さを試す良いバロメーターになると言えよう。何の根拠もない中傷を真に受ける程度の判断能力しか持たない人々には、関わってもろくなことは起きない。良識的な人々は決してそのようなものに惑わされず、振り回されることもない。だから、このようなものは、自動的に良いフィルターの役目を果たしてくれる。

すでに多くの人々が気づき始めているように、この国は、だいぶ前からのグノーシス主義国であり、何もかもがさかさまにされているのである。安倍政権のもとで、以前からあった傾向が極度に強められ、今やこの国で良識的に生きる人々は、みな前回の記事で触れたロストロポーヴィチ夫妻のように、ソヴィエト政権から追放されたり、処罰された人々と同じく、あらぬスキャンダルの疑いをかけられ、「狂人」のレッテルを貼られ、社会から排斥されている現状がある。何しろ、グノーシス主義国だから、真実と虚偽が裏返しにされ、良識的な人々が「狂人」とされ、狂人が「健常者」の仮面をかぶって巷を跋扈しているのである。

それにしても、論拠のない稚拙な決めつけの記事もさることながら、他人のブログに便乗して二、三行の無責任なコメントを投稿するだけで、何か言ったような気分になるとは、信じがたいほどの独りよがりだと言う他ない。

筆者は、できる限り、ツイッターやフェイスブックや掲示板や他者のブログ等へのコメントの投稿を控えるよう心がけている。それは、あのように短い文章の中で、十分な論拠を示して物事を主張することは、決してできない相談であり、そういうツールを使い始めると、人はとことん怠惰になって、決めつけや、思い込みだけで、まことしやかにものを言う癖が身についてしまうと考えるからだ。

断片的な文章しか書かないでいると、思考力と文章力も、当然ながら著しく低下する。しかも、そういったコメント内容のほとんどは、他者の書いた論評に対する印象批評でしかないため、自分自身では何も生み出していないのだ。

論文で最も重要になるのは論拠である。なぜあなたはそのように考えるのかという具体的な証明プロセスのない、結論だけが決めつけのように提示されている文章は、決して誰にも相手にされない。緻密な論証過程を飛ばして、結論だけ提示して、何か言ったような気になるという無精な発言の仕方に慣れてしまうと、いざ何かを論証せねばならなくなった時、全くその要求に対応する力が自分の内に見いだせないとであろう。「彼岸」の著者の一人が、博士論文を書き上げることができなかったのは決してゆえなきことではあるまいと思う。

さらに、論証過程を飛ばしてコメントすることに慣れてしまうと、自分が無精な方法でしか発言していないため、他者が作り上げた作品にも、どれほどの苦労が込められているかが全く分からなくなってしまう。何を見ても、上から目線で傲慢な態度で、一方的な印象批評を書き記すだけの空っぽな人間が出来上がる。痴呆化と高慢さへの最短コースである。

そこで、当ブログの内容について反論がある人々は、一人一人自分でブログを開設して、引用箇所をはっきりさせた上で、ルールを守って、自分の文章を論理的に書いて反証してみれば良いのだ。多分、どんなにそれが恐ろしく手間のかかる作業であるかがすぐに分かり、ほとんどの人々が面倒になって途中で放り出すことであろう。むろん、所属先の宗教団体も当然、明かすべきであろう。その上で、しかるべき諸手続きを最後まできちんと遂行して主張を提示できる人々がいたならば、それは傾聴に値する意見であるため、ネット上で議論をする価値もそれなりに出て来よう。

だが、ブログというものは、そもそも他者への反論だけではどうやっても続かない。自分の信念に基づく確固たる意見が出せなければ、文章を書き続けること自体が無意味である。コピペだとか、ネットのニュースの転載だとか、どこかで起きた事件を、ただ右から左に報道しているだけで、自分が一体、それについて何を訴えたいのか、自分自身はその出来事にどう関与しているのか、それさえ明らかにできないブログは、読者の共感も得られず、決して続かない。

人を貶め、中傷するためだけの「鏡」は、完全に独創性を失っているため、そこまで内容が希薄になれば、この先、放っておいても、長くは持ちこたえられないのは明白である。脅せば誰でも人は言いなりになると考えているのだとすれば、それは完全な誤りである。

主張というものは、内容が勝負所なのであって、主張と主張のぶつかり合いで勝利をおさめたければ、相手の主張を超える強度を持った主張を自ら提示せねばならない。相手の主張がダイヤモンドならば、それを超える強度が必要となる。それができなかった場合、弱い方の主張が粉々にされてしまうだけである。
 
時に、粉砕されなくても、淘汰という現象も起きる。筆者が知っているだけで、ここ5年ほどで匿名掲示板とその投稿が相当な分量、淘汰されて消え去った。当ブログに悪質なコメントを残していた掲示板があったので、その投稿の記録を保存してあったが、ここ数年の間に、掲示板ごと消失しているものが、相当数あったのである。2ちゃんねるなどは一時は広がりを見せ、人目には隆盛を極めていると見えた時期があったかも知れないが、今となっては、あまりにも悪評高いせいで、良識的な読者に見捨てられ、消滅の危機に晒されている。日本年金機構への内部告発に利用された際、消えかけた線香花火のような存在意義を見せたくらいであろうか。

匿名掲示板には訴訟沙汰なども多発しているため、人々が安心感を持てなくなり、関心が薄れつつあるだけでなく、ツイッターやフェイスブックなどで身元を明かして、同じくらいに短いコメントを発信するスタイルが今や主流になったため、そのことが匿名掲示板の衰退に拍車をかけている。

やはり、責任の所在を明らかにしない文章は、影響力を持たないのであり、その上、きちんとした論拠を示さず、とりともないおしゃべりを続けるだけとあれば、内容の希薄さゆえに、淘汰されて行くのは当然である。おそらくあと10年から長くとも15年のうちに、匿名掲示板は消え去るか、今とは全く違った形式に移行する必要に迫られるのではないかと予想する。

花が散り、草が枯れるように、聖書の永遠の御言葉に立脚しないむなしい議論は、一時は盛り上がっているように見えたとしても、時と共にすべて初めから無かったも同然に、胡散霧消して行くのである。

さて、聖書にはこんな文句もある。空中に散じて行くだけの無意味なおしゃべりのせいで、永遠に有罪を宣告される者たちが出て来るというのである。

言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」(マタイ12:36)

「彼岸」から他者をディスカウントする発言ばかりに熱中している悪霊に導かれる者たちは、いざ神の御前で申し開きを求められたとき、その言葉のゆえに、どれほど重い罪を負わされるのであろうか。しかも、その幾分かは、この世でもリハーサルがあるのだ。すべての言葉には責任が伴い、必ずそれが追及される日が来るのである。

しかし、きちんとルールや手順を守って価値ある内容の文章を書いていれば、その記事は、三十年、四十年先になっても、いや百年先であっても、必ず、残るだろう。そのことは、ソビエト体制のような厳しい思想的統制下で秘密裏に書かれた文学作品でさえ、あらゆる方法で保存され、何十年もの時を経て、今日まで残されている事実を見ても分かる。それはこの世の文学作品の話であるが、永遠に変わらない神の御言葉に立つ信仰告白が、この世の文学作品よりも早く消え去ることは絶対にない。

悪魔の妄想でしかないフィクションの「鏡」は短期間で消え去るであろうが、真のリアリティである神ご自身という「本体」に属するものは必ず残る。筆者が自信を持って、この先、何が起こるかを見てもらいたいと言うのは、キリストとの霊的な結びつきの中を歩んでいるキリスト者の証が地上から取り去られて、悪魔の「鏡」だけが残るということは絶対にないと分かっているためである。

筆者はまだ信仰の歩みの途上にあるため、パウロと同じように、自分が学ぶべきことを学び終えてすでに完璧なクリスチャンになったなどと自己宣伝するつもりはさらさらないが、それでも、当ブログは、筆者の真実な信仰告白であるから、その内容に対しては、神が責任を負って下さると分かっている。

なぜなら、聖書に書かれていることが真実であることを証明されるのは、神ご自身だからである。だから、たとえ誰かが筆者を狂人扱いしたりしても、それによって、その人が神の御言葉までも消し去り、否定することは絶対にできないのである。

筆者は、この度、「般若=グノーシス」を根こそぎ断罪して、彼岸に投げ捨てた。うわべだけは敬虔な信者を名乗っている多くの人々が、筆者に対して、般若の顔をして、筆者を中傷したり、呪ったり、断罪したりしたが、そのようにして彼らが筆者になすりつけようとしたすべての呪いを、みなキリストの十字架を経て彼岸へと渡し、黄泉の世界に追い返したのである。

興味深いのは、「彼岸」から未だ中傷を続けている人々の言い分が、だんだん筆者個人への非難や中傷の域を超えて、ついに聖書全体への中傷、神ご自身への冒涜にシフトしつつあることだ。

ある意味で、筆者がずっと待っていた回答がやっと提示され始めたのである。いよいよこれからが本番中の本番である。彼らは自分たちはグノーシス主義者ではないと言っているが、彼らの言い分を聞いて、誰が本当にそうだと信じるだろうか? 彼らはこれまで自分たちがあたかもクリスチャンであるかのように振る舞ってきたが、ついにそのかりそめの信仰も自ら捨てつつあるのだ。聖書など初めから全く敬っておらず、御言葉の真実性を信じていなかったことを彼らは自ら告白している。

おそらく、この先、クリスチャンの仮面をかぶり続けて来た彼らの内心が、とことん明るみに出され、その本心に溢れ返っているものは、神への恨み、憎悪、聖書の御言葉への憎しみ、否定であることが、この上なくはっきりする時が来るものと思う。

先に当ブログでは、彼らは必ず警察の忠告を振り切り、この世のすべての秩序を侮るだろうと予告したが、現にそうなっている。このまま見守り続ければ、いずれ彼らは必ず、聖書の神ご自身への憎しみと中傷をまき散らし、憤りを爆発させて、自分たちが神の敵であることをはっきりと万人の前で告白する時が来るであろう。それがまさに彼らの心の本質なのである。

そして、それは必ず多くの人々が目撃する形でなされるであろうから、そうなるまで、しばらくこのまま観察しておきたい。

筆者が殉教などという言葉を口にしたからと言って、まさか自ら死に支度をしているなどと勝手に考えてもらっては困る。今はまだ戦いの初歩の初歩の段階であって、およそ殉教などというレベルの話が具体的に出て来る余地はない。仮にそういう時代が来るとしても、それはまだまだかなり先のことである。

筆者がいかなる人間であろうと、聖書の御言葉で武装し、神の懐に隠れている人間を攻撃することのできる人々はいない。今起きていることは、我々はまずこの地上で、小羊の血潮と証しの言葉によって悪魔に立ち向かうことをきちんと学ばねばならない、ということを示しているだけである。

さらに、「彼岸」にいる人々がブログを失い、人生を失って破滅すれば、自暴自棄な行動に出る可能性があると思い、憂慮する人もあるかも知れないが、しかし、それすらも、全く心配の必要がないと言うのは、彼らの行動はすべて衆人環視の中で行われ、以下の御言葉にもはっきりと示されている通り、彼らが抜いた剣は、彼ら自身の胸を刺し通すだけだからだ。考えても見てもらいたいが、今まで行われた彼らの行動のすべてが、大勢の証人のいるところで行われたのだ。この人々の運命は全世界に対して指示されねばならないので、その終わりも、当然ながら、衆人環視の中となるであろう。

これまでも、彼らはただ脅すだけで、決して何事も筆者に強制することはできなかった。それは、筆者が何を信じるのか、誰からの強制によらずに、自分自身で選択し、告白することを神に求められているためである。神はすべてのことを、信者自身の意志で選ばせたいと考えておられる。強制されて行われた告白は、自由の中で自ら選んだものと言えない。よって本当にその人自身の選択なのかどうかも分からない。神は、筆者が人生における最後の選択の一つに至るまで、すべてを自らの意志で決定することを望んでおられるのである。それが神の御心であるがゆえに、筆者に対して何一つ強制できる人はいないのである。

筆者は「彼岸」のブログに自殺者の遺族のフォーラムの話題が掲載された時点で、それは彼らがすでに死者の集会の中に身を置いていることを明白に示す証拠だと受け止めている。彼らの心は絶えず死とその周辺の黄泉とをさまよっている。今後、どういう形でそれが具体的に彼らの身の上に実現するのか、今はまだ分からないが、すでに述べたように、彼らが神を公然と人前で呪う段階が訪れた後、ヨブの妻がヨブに投げつけた言葉が、おそらく、彼らの身の上に成就するであろうと思う。「神を呪って死になさい!」という彼女の言葉は、神を呪うことと、人が自死することが、分かちがたく一つであることを示している。

これが、神を知る知識を自分で退け、捨てたすべての人に働く霊的法則性なのである。それは決して誰かの意志次第で変えられるような軽い運命ではない。だから、聖書に対してどのような態度を取るか、各人は極めて慎重でなければならない。全世界の人々が見ている前で、聖書の真実性に異議をさしはさむような者は、必ずその次には神を呪ったり、冒涜・否定する段階へと進み、誰もに取って見せしめや教訓となるような最期を遂げることになるであろう。

「人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、”霊”に対する冒瀆は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」(マタイ12:31-32)

人を罵倒する罪は、悔い改めれば赦されるし、償うこともできよう。しかし、聖霊を冒涜する罪は赦されないと、前々から幾度も述べているように、人はクリスチャンや神の教会を罵倒しているうちに、いつしか取り返しのつかないところまで深く罪を犯してしまうことがありうる。さらに、聖書の真実性を否定することは、御霊によって書かれた書物を虚偽であるとみなすことと同義であり、それは、ひいては神ご自身を偽り者とみなすことを意味する。

そして、人が創造主を偽り者(=フィクション)とみなせば、その人の存在そのものがフィクションとして消えるのである。これは霊的法則性である。自分が創造主に対して吐いた言葉が、自分の運命をそのまま決することになるのである。
 
だが、いかに人を侮辱することが永遠の罪にならないと言っても、彼らはこの先、筆者を攻撃すればするほど、自分で自分の心を傷つけ、人としての尊厳を失い、罪悪感と、後ろめたさと、社会からの蔑みの目線と、孤立により、居たたまれなくなって行くだけである。

さらに、筆者はこの十年間というもの、どうやっていわれのない迫害に立ち向かうべきか、一つ一つ必要な手順を学んできたが、彼らは一度たりとも一人で神に向き合ったことがなく、迫害や圧迫に立ち向かう術をも学んでいない。

だから、彼らが孤立状態に置かれれば、その心は、それがごくごくわずかな期間であっても、大変な打撃を受け、正常には保たれるまい。彼らの言い分の内容の希薄さを見ても、彼らの終焉が近いことはすぐに分かるが、彼らに残された月日自体がそう多くはない。人を馬鹿にすることはまだ償いが可能であるとしても、神を侮り、冒涜し、自ら神になり代わろうとすることはそれとは異なるからだ。
  
肉のものは霊のものより早熟である。それは肉の性急で忍耐できない性質に由来する。それゆえ、肉のものは霊のものよりも先に絶頂に達し、先に繁栄を謳歌する。その繁栄は、ぱっと見には長く続くように見えるかも知れないが、実際には、花が散り、草が枯れるように、たちまちにして消えて行くものである。悪人は気づけばもう跡形もなく、いなくなっている。栄枯盛衰、諸行無常、聖書の御言葉を信じない悪人にあるのは、ただ滅びゆく世界の無常観だけである。その定めに抗う術は彼らにはない。だが、御言葉に立つ者は、悪人が消え去った後も、末永く平和と繁栄を享受する。

人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。
 「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、
 裁きを受けるとき、勝利を得られる。」と書いてある通りです。」(ローマ3:4)

「悪事を謀る者のことでいら立つな。
 不正を行う者をうらやむな。
 彼らは草のように瞬く間に枯れる。
 青草のようにすぐにしおれる。

 主に信頼し、善を行え。
 この地に住み着き、信仰を糧とせよ。
 主に自らをゆだねよ。
 主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
 あなたの道を主にまかせよ。
 信頼せよ、主は計らい、
 あなたの正しさを光のように
 あなたのための裁きを
 真昼の光のように輝かせてくださる。

 沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。
 繁栄の道を行く者や
 悪だくみをする者のことでいら立つな。
 怒りを解き、憤りを捨てよ。
 自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはいならない。
 悪事を謀る者は断たれ
 主に望みをおく人は、地を継ぐ。

 しばらくすれば、主に逆らう者は消え去る。
 彼のいたところを調べてみよ、彼は消え去っている。
 貧しい人は地を継ぎ
 豊かな平和に自らをゆだねるであろう。

 主に従う人に向かって
 主に逆らう者はたくらみ、牙をむくが
 主は彼を笑われる。
 彼に定めの日が来るのを見ておられるから。
 主に逆らう者は剣を抜き、弓を引き絞り
 貧しい人、乏しい人を倒そうとし
 まっすぐに歩む人を屠ろうとするが
 その剣はかえって自分の胸を貫き
 弓は折れるであろう。

 主に従う人が持っているものは僅かでも
 主に逆らう者、権力ある者の富にまさる。
 主はご自分に逆らう者の腕を折り
 従う人を支えてくださる。
 無垢な人の生涯を
 主は知っていてくださる。」(詩編37:1-18)

聖書の御言葉と、フィクションの世界はどこまで行ってもなじまない。筆者はまだ信仰に生きるようになる前、学生時代に長編小説を書こうと試みたことがあるが、完成に至らないまま放棄した。筆者はその当時、架空の世界を舞台として、冒険物語を書こうと思い、構想を練り、登場人物を揃え、プロットがほぼできあがった。だが、いくつかの章ができ、あとは細部を書き上げてつなぎ合わせるだけとなった時点で、別な用事のために、その作品は未完のまま放置された。それから、何年も月日が過ぎて、当ブログを始めた少し後で、改めてその小説を開いてみたところ、聖書とは無関係の架空の世界を舞台にして小説を書き続けることは筆者にはもうできないという結論に至った。

筆者は、キリスト者として生きることが何を意味するのかを理解するようになってから、それ以前とは大いに自分の感覚が変わってしまったと思うことがたくさんある。ここで言う「キリスト者として生きるようになってから」という言葉は、教会に通うようになってからとか、洗礼を受けてからという意味ではない。キリストご自身を実際に生きて知ってから、という意味である。

世にはクリスチャン作家が存在することは知っているが、その人たちの考えがどうあれ、筆者自身は、現実に存在しない架空の舞台で、キリスト教の神について語ることは無理であると考えている。なぜなら、神の御業を生きて知ることは、常にそれに関わる人々に現実的な代価を要求するため、人としての痛み苦しみも実際には味わうことなく、この世の時空間の中にまるで存在しない架空の登場人物に、神の貴い御業を信仰の代価なしに体験させることなど無理だからだ。どうやってそんな設定に説得力を持たせることができようか。
 
もしフィクションの物語で描ける内容があるとすれば、それは神のいない、人間だけの世界で起きる絶望的なストーリー展開だけであろう。その悲しい描写によって、人々の心にこんなにもむなしい世界は嫌だという思いを起こさせ、そのフィクションの世界を抜け出て、真実な神へ向かいたいという願いを呼び起こすことは可能かも知れない。

フィクションの世界では、このように、まことの神ご自身を物語のプロットに介入させることができないため、描けるのはどこまでも人間だけである。だが、キリスト教の神を扱えないからと言って、そこに聖書の神とは異なる別の神を作り出し、フィクションの宗教を作ったりすることは、もっと忌むべき試みであるものと思う。

そのようなわけで、架空の物語には、その物語の世界観の基礎となるべき思想がなく、それゆえ、どんなにプロットに重みを持たせようとしても、中心となる柱が欠けているため、最も主張したい重要な事実に、裏づけがなくなり、主張が消し飛んでしまうと分かり、それ以後、筆者は小説を書くことを放棄した。

この他にも、以前にはそれなりに本を読んでいたが、興味もなくなり、読めなくなってしまったという変化も起きた。感情や感覚をいたずらに刺激する文学的修辞が、物事の本質からいかにかけ離れているかが分かり、受けつけられなくなったのである。

人間の感情や感覚を刺激する描写や表現は、たとえそれが文字で書かれた文章であったとしても、ある種の悪魔的な性質としての肉の働きを含んでおり、それに没入するならば、本人を全く意図していない方向へと導く。文学的修辞は、堕落した魂の世界に属するものであり、それを通して、様々な悪しき思いが人間の心へ入り込むきっかけを作り出す。

聖書には、霊的な文脈はあるが、文学的修辞はない。聖書は人間の使う言語を用いて書かれているとはいえ、文学的修辞のような、魂に働きかける言語によって書かれたものではないのである。

以前に、筆者は、当ブログにも度々引用しているオリーブ園クリスチャン古典ライブラリーに掲載されている記事の中で、クリストフ・ブルームハルトや、セス・リースのような、ペンテコステ系の指導者の記事だけは、どうにもいただけないと疑問符を投げかけたことがあった。その理由は、こうしたペンテコステ・カリスマ運動の指導者らの記事の文章が、霊的文脈でなく、まさに通常の小説などと同じ、文学的手法を用いて書かれているためである。(それゆえ筆者自身はこれらの記事を一部を除いてほとんど読んでいない。)
 
文学的修辞は、人間の感情や感覚を揺さぶる力を持っているが、それはあくまで人間の天然の魂に働きかける力であって、霊的文脈ではない。人間の道徳観も同じである。どんなに正しい主張のように聞こえても、魂から生まれる道徳論は、神の霊的な事実とは一致しない。それゆえ、ペンテコステ・カリスマ運動の指導者の書いた記事は、どんなに霊的内容を装っていても、オースチン-スパークスやペン-ルイスなどの文章とは全く異質な別の動機によって書かれたものであると、筆者は判断せざるを得なかったのである。(このことは、オリーブ園の著者が行っている膨大な手間暇をかけた翻訳作業を筆者が評価しないという意味では全くないため、誤解しないようにしてもらいたい。いかなる人の発表したいかなる内容であれ、読者は自分自身で識別しなければならないことを述べているだけである。)
 
そうした判断に基づき、オースチン-スパークスのような霊的先人たちの主張と、ペンテコステ・カリスマ運動のような「霊的ムーブメント」とが、どのように異なるのかを追っていくと、両者は、全く源流を異にする別の霊的運動だという事実が見えて来る。そして、一体、ペンテコステ・カリスマ運動の起源は何かということを調べて行くと、これは聖書とは全く異なる東洋思想をキリスト教と合体させて出来た異端で、その本質はグノーシス主義だということが分かるのである。

「霊的」と言われているからと言って、すべてが御霊から来たものではなく、グノーシス主義のように、「肉のものを御霊のものに見せかける」トリックが存在するため、この点を見分けることができなければ、熱心なクリスチャンほど欺かれる危険がある。なぜなら、熱心なクリスチャンには、霊的な信者になりたいという真剣な熱意があるので、真理への渇望、探究という点で、怠惰なクリスチャンとは比較にならないからだ。そして、そのような熱心さにつけこんで、「あなたはかれこれの教えを受ければ、もっと霊的になって、神に近付けますよ」という甘い誘い文句で、信者を欺くのがグノーシス主義の特徴であるため、注意しなければならない。その偽りを見分けるためには、霊の偽物が存在することを理解した上で、異端の基礎構造を把握して備えておく必要がある。ちなみに、霊を識別することは、聖書が信者たちにはっきりと信者に呼びかけている事柄である。

「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。」(Ⅰヨハネ4:1-3)

以上の短い御言葉を読んだだけでも、イエス・キリストを証せず、人間を証し、聖書を軽んじるカルト被害者救済活動が、神の霊から来た活動でないことは明白である。だとすれば、その運動はどこから来たのか。悪魔から以外にはあり得ないだろう。ではなぜ彼らは自分たちはグノーシス主義者ではないと言っているのか? ただ嘘をついているだけである。

我々には、ある人の主張の背後に存在する霊の性質を見分けるに当たり、その人の書いた文章以外に手がかりとなるものはない。そこで、ある主張が、本当に神の聖霊から来たものであるかどうかを確かめる有力な手がかりは、聖書の御言葉と対比することである。だが、もっと簡単に見分けるポイントをあげるなら、それは前々から書いているように、「キリストに栄光を帰しているのか、それとも、人間に栄光を帰しているのか」という違いに注目することだ。御霊はイエスを証しし、イエスに栄光を帰する。それをせず、人間を証し、人間に栄光を帰する霊は、キリストの御霊ではない。

イエスは言われた、「もし、わたしが自分自身について証しするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証は真実であることを、わたしは知っている。」(ヨハネ5:31-32)

「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」(ヨハネ15:26)

「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。」(ヨハネ16:13-15)


ペンテコステ・カリスマ運動がいかがわしい偽物の霊的運動だとはっきり言えるのも、この点によるのであり、この運動は必ずと言っていいほど、人間の指導者に栄光を帰する。彼らは人間に過ぎない指導者を、偉大な霊の器として誉めたたえ、いかにその指導者が数々の奇跡的な偉業を成し遂げたかという話に夢中になる。この類の話は、イエスを人間が栄光を受けるための手段に変えてしまっており、その「証」の内容も、ほとんどがサンダー・シングと全く変わらない奇跡物語である。それゆえ、どこからの時点で、死者の霊との語らいというテーマも出て来るであろう。なぜなら、悪魔的な思想は、死、黄泉、墓、死者の霊などに異常なほどの愛着を持っているためである。

繰り返すが、キリストから来た御霊は、キリストを証する。そしてキリストに栄光を帰する。しかし、堕落した被造物としての人間(悪魔)から来る霊は、人間自身を証し、人間に栄光を与えようとする。前者がキリスト教の正しいあり方で、後者は被造物を神とするグノーシス主義の特徴である。そこで、以上の御言葉のリトマス試験紙により、9割程度の主張の出所が明らかになる。それでも分からないものがあれば、さらなる検証が必要である。

さて、自分たちはグノーシス主義者ではないと言って、筆者の論に反対しているカルト被害者救済活動の支持者らが、イエス・キリストを証しせず、聖書の完全な真実性を認めず、クリスチャンや神の教会を迫害し、嘘とデタラメを終わりなく並べ、筆者のようなクリスチャンが聖書を捨てるべきだとまで主張していることは、思わず笑ってしまうほどの自己矛盾であり、荒唐無稽かつ愚劣な主張である。こうも支離滅裂な主張になって来ると、もはや精神の異常さえ疑われるレベルに達していると言われるのも当然であろう。

偽りの霊性がその醜い本性を赤裸々に表すのは、彼らの思想の展開が最後の段階になってからのことである。悪魔が光の天使を装うように、般若(グノーシス)は、最初は涅槃の姿をして近づいて来るのであって、その真の顔が、般若の(鬼の)面であることは、最初から示されるわけではない。現に三島もそうであった。三島が肉体を鍛え、明るい太陽の下で、人々と楽しく交流し、人生を謳歌していたように見えた時、彼は人々から見れば、涅槃に生きているようにしか見えず、まさか彼がまっしぐらに死へ向かっているのだとは、皆に思いもかけなかったであろう。彼には妻もあれば、子供たちもいたのである。その上、才能もあった。死ななければならない理由は、彼の思想に着目する以外には、どこにも見いだせなかった。

今日も、同じように、何の問題もなく人生を謳歌して安楽に生きているように見える人々の心に、御言葉という見えない霊的法則性の物差しを当てはめるなら、まるで数学の方程式を解くように、彼らの向かう先がどこであるか、その目的地をほとんど狂いなく正確に導き出すことができる。

ノアが嘲りの只中で箱舟建設の作業を進めていた時、人々は飲んだり、食べたり、娶ったり、嫁いだりして、己の欲望に邁進していた。人々は、ノアがそうした事柄に関わろうとせず、人々の振る舞いに賛同も賞賛もしないのを見て、最初はいぶかしみ、次に忠告し、彼を何とかして世に引き戻そうと試み、それがかなわないと見るや、何という変人かと呆れ、ノアはきっと偏屈なカルト信者に違いないと決めつけて、嘲りと妨害に転じたことであろう。箱舟建設に妨害は起きなかったと思う方が安易すぎる。

ロトの時代もやはりそれと同じであった。ソドムの住人は己の欲のゆえに途方もなく凶暴化しており、ロトの家に滞在した御使いたちの引き渡しを求めて、ロトの家に群衆となって殺到し、押し入ろうとさえした。だが、神はロトの家族を守ることを決めておられ、実際に彼らを守られたのである。ただロトの妻だけが、ソドムの欲に引かれ、脱出の途上で後ろを振り返って帰らぬ人となった。ソドムの凶暴化した住人たちは、当然ながら、一人残らず滅ぼされた。そこには加害者も被害者もなかった。ロトの家族を除いて、全員が滅ぼされたのである。

今、見えない箱舟建設の作業は着々と進んでいる最中であり、これを嘲っている人々は、ただ自分たちに差し迫っている滅びが見えないだけである。彼らは自分が何からエクソダスせねばならないかも分かっておらず、神と聖霊に執拗に言い逆らって、自分たちが二度と後戻りできないように、信仰の道を自ら閉鎖している。まもなく、彼らは、御使いたちを憎悪して引き渡しを求めたソドムの住人たちのように、自らの憎悪を、被造物ではなく、創造主に直接、向けるようになるだろう。通常の常識のあるクリスチャンが、彼らの境遇に置かれれば、自分たちを待ち受けている滅びの運命が、あまりに恐ろしいことに気づき、とうに嘲りとディスカウントの鏡を捨て去って、真心から悔い改めて神に立ち戻っていたことだろう。神が彼らの心をこれほど頑なにされたのである。恐るべき霊的盲目性と言うほかない。それは彼らが悔い改めて神に立ち返る道が閉ざされるためである。神はご自分が憐れもうとする者を憐れみ、心頑なにしようと思う者を頑なにされるからである。

「ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。人の子が現れる日にも、同じことが起こる。<略>自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。」(ルカ17:26-33)

「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。」(マタイ24:36-39)

牧師や教職者を特権階級とする制度は教会を絶対的に腐敗させる~バアルにひざをかがめない七千人の登場を待つ~

さて、いよいよグノーシス主義に関する最後のテーマに近づいて来たが、そのテーマに入る前に、もう一度、牧師制度が根本から誤っていることについて書いておきたい。

牧師制度の根本的な誤りについて書くと読者が激減する。今は当ブログを訪れる読者の数多くが検索結果の操作のための工作員という有様なので、さわやか読者が減っているならば、良いことである。

不思議なことに、アクセス履歴がどうあれ、ここで論じた話題は電撃のごとく伝わって行く。まるで閉塞した全体主義社会のようなキリスト教界において、はっきりものを言う人は極めて少ないため、影響力は少なからずあると見られる。

さて、ネットにブログを開設したり、コメントの投稿を行っている人々は読者のうちのほんの一部で、残りの8~9割はネット上ではほとんど発言しない人々である。だが、筆者が読者とみなしているのは、もの言わぬ人たちである。

日本のクリスチャン人口は1%を横這いしていると言われるが、それは統計が取られた時点で、どこかの教会に所属している人たちを指し、実際にはその何倍、何十倍もの、教会に属さない”隠れキリシタン”のような人たちが存在すると思われる。1%は入れ替わりの結果だからだ。

選挙では、無党派層が動けば、政権交代など簡単だと言われているのと同じように、以上のように教会から打ち捨てられて、統計にも挙がらず、ひっそりと個人的に信仰を守る”ドロップアウト組”のクリスチャンが動くことがあれば、キリスト教界をめぐる状況はあっさりと変わるだろうと思う。

牧師制度の前に跪拝しない、「バアルにひざをかがめない七千人」が必ず残されていることを筆者は信じる。
 
さて、「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久なる人物の誤りは、プロテスタントの諸教会の誤りを現象面だけで取り沙汰し、教義面で深く考察することをほとんどしなかったがために、ペンテコステ・カリスマ運動の根本的な誤りに気づくことなく、これと訣別もしなかったことである。さらに、それに加えて、数々の牧師を批判しながらも、牧師制度そのものが根本的に誤っていることに気づかず、牧師制度こそ、諸教会に様々なスキャンダルが引き起こされる最たる原因であるということを見失ったまま、教会バッシングに走った点にある。
 
だが、以前にも書いたように、杉本は当初はプロテスタントのあらゆる牧師に対して否定的な態度を取っており、村上密についても「全く信用していない」と断言し、活動を支援しない立場を取っていた。筆者から見れば、そのままの立場を貫けば良かったのである。

ところが、杉本は村上密から、早速、自分が村上について書いた否定的な見解にクレームをつけられた際、おそらく、水面下で、「あなたは思い込みだけで私を非難している。私(村上)は命がけでカルトと戦い、被害者を救済しようとしているのに、あなたは私の働きを否定して、被害者を見殺しにするつもりか」と責められたのだろう(そう考えるのは、村上が当ブログにクレームをつけた際に、まさにそういう理屈を用いているからである)。それを機に、杉本はあっさりと立場を翻し、前言を撤回して、ほとんど謝罪文のような文章をブログに記して、村上陣営に下って行った。

だが、杉本は過去にアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の教会を見放して、そこを去った経緯があったわけだから、その時に得た自分の個人的な直観を尊重すべきであった。おそらく、それまでの杉本の心の中には、何らかの体験を基に、聖霊派の教団は一切信用できず、そこにいる牧師も信用できないという直観があったのではないかと思われる。

それにも関わらず、杉本は「自分が他人にどう見られているか」という体裁にこだわるあまり、自分が体験を通して得た貴重な教訓を尊重せず、自分がかねてよりプロテスタントの教会(特に聖霊派)に対して持っていた不信感を捨て、世間からの評価を失うことを恐れて、村上のクレームに屈してしまったのである。

杉本は、村上の人物が信用できずとも、とにかくカルト被害者だけは支援しなければならないという義務感に駆られて、村上に降伏宣言をし、それを機に、自分の見解をどんどん失って行ったものと考えられる。
 
そのようなことになったのは、杉本がもともとブログにおいて、自分自身の心の問題と真正面から向き合っていなかったためでもある。杉本は、自分が一体、なぜカルト問題に関心を寄せており、カルト被害者に同情しているのか、自分自身が聖霊派の教会で受けた負の体験や心の傷と、真正面から向き合いながら、その問題を解くことを避け、自分自身の問題はすうかり脇に置いて、他のカルト被害者のことだけを論じており、そのようにして自分自身の問題を軽んじるうちに、以上のように、自分が個人的な人生で体得して来た教訓や直観すらも軽んじるようになったのである。

杉本は、神の御前で、自分が教会に対して持っている恨みや憎しみはどこから来るのか、その負の感情を正直に告白して、自分自身の心の癒しを求め、さらに、神の望まれる真実な教会の姿を求めることで、真理に立ち返る作業をしなかったのである。そうして自分自身が不在のまま、他者の問題にばかり没入して行った結果、村上密のような人間が現れた際、「カルト被害者を見捨てるのか」という問いをきっかけに、自分をあっさりまるごと村上に奪われてしまったのである。
  
ご存知の通り、それ以降の杉本の歩みは、すっかり村上密にマインドコントロールされたものとなり、聖書の御言葉の真実性を追求することや、神が満足される教会の姿を追求することなど二の次となり、ただカルト被害者の面目が傷つけられないことだけを優先するものとなった。

その後の杉本ブログは、牧師制度を批判することもなく、村上の親族である津村牧師の不祥事などは一切、取り上げることもせず、ただ村上サイドに取ってのみ都合の良い、偏った情報を延々と流し続けて、村上の活動を礼賛し、村上の政敵を貶めるための情報を発表してバッシングを加えるだけの、公平性のかけらもないメディアになり下がってしまった。自分自身の主体的考察も失い、事実上、村上密の活動のための宣伝広報係になってしまったのである。

その挙句、今となっては、杉本は村上が吹き込んだ嘘の情報を次々と公に発表し続けて来たことの責任を、一身に押しつけられ、罪にまで問われている。

だが、前々から当ブログで書いている通り、こうして自ら他人の奴隷となって、自分の考察や見解を放棄した杉本の責任は重く、また、彼がいかにクリスチャンを名乗っていても、信仰を持つ神の民でないことも確かであり、杉本ブログが嘘の温床になったことは確かであるとはいえ、だからと言って、杉本の言うことが、何から何まで100%嘘というわけではない。

敵の欺きの方法は常に真実の中に嘘を混ぜ込むというものであるから、我々は、何が真実であり、何が虚偽であるのかを鋭く切り分け、決して枝葉末節に注意を逸らされることなく、真に重要なテーマを見分けねばならない。
 
ここで最も重要なことは、教会関係者へのバッシングや、スキャンダルの細部に関する論争に明け暮れることによって、本質的な敵を見誤らないことである。

すなわち、プロテスタントの牧師制度が根本的に誤っていること、牧師制度は人間の欲望が生み出した反聖書的な制度であり、教会に生じたすべての忌むべきスキャンダルの発生源はこの悪しき制度と密接につながっているという事実を見逃さないことである。

(*筆者はここで、牧師だけが特別に悪い人種だとか、牧師制度を撤廃すれば、教会は天国になるなどと言っているのではない。ただ、牧師制度はグノーシス主義的被造物崇拝の教えであり、要するに、信徒らが自分の欲望を宗教指導者に投影した結果として生まれるものであるから、牧師は信徒らの欲望の化身であり、そのようなものを尊んでいる限り、教会の腐敗は終わらないと述べているのである。

牧師制度という悪しき制度については、牧師と信徒の双方に責任があり、牧師が罪深いだけでなく、牧師を担ぎ上げた信徒の罪も同様に重いの言うまでもない。人間の悪しき欲望がこうした現人神崇拝を作り出しているのであるから、牧師だけを非難して終われるような問題ではないのである。)
 
杉本ブログが出現した時点で、牧師制度はその悪しき本質を露わにし、すでに終焉を迎えつつあったと言えよう。その上、その後、当ブログが出現し、「カルト化教会の牧師をやっつける正義の味方」として活動していた村上密や、キリスト教界を公然と批判していたDr.Lukeの主張の欺瞞性を明らかにしたことにより、「牧師が牧師をやっつけることで、キリスト教界を浄化する」という活動も、プロレスごっこと呼んで差し支えない茶番劇であり、完全な欺瞞であることが明らかとなり、こうして、一部の牧師だけを悪者として排除することによって、牧師制度そのものは温存できるとする見解が誤っていることが明るみに出されたのである。

結局、自らが牧師でありながら、他の牧師の悪事だけを非難している人々は、自分自身が非難している対象と、同じ穴の貉であるか、より一層の深い闇でしかない。もちろん、それは村上密やDr.Lukeについて当てはまるだけでなく、「キリスト教界から出なさい、牧師制度は間違っています」と教えながら、どの牧師よりもさらに強力な「牧師」のような統率者となって集会全体をコントロールしているゴットホルト・ベックという人物にも当てはまる。

ところで、もしも機会があるならば、吉祥寺キリスト集会を見学してみるのは興味深いことである。なぜなら、聖霊派のどの教団も及ばないほどの広がりがこの集会にはあるためだ。しかも、それが組織化されずに全国各地に地方集会として拡散し、機能している様子を見るのは驚くべきことである。

御代田のセンターに行き、どれほどの数の信徒が費用の負担も惜しまず、嬉々として全国から自然に集まって来るか、すべての催しがどれほど自主的な協力のもとに構成され、平和裡に遂行されるか、一度でも見物すれば、驚きにとらわれるであろう。これは聖霊派の牧師などが見れば、さぞかし悔しがるに違いない光景である。そこには一見すると、強制された、人工的な要素がなく、これほどの規模で集会を動かしていたリーダーを、筆者は他に見たことがない。動かされる献金額も全く考えられないほどの規模に達しているはずである。

しかも、この集会では、信徒らの学歴と社会層が高いために、聖霊派の教団で起こるような低レベルの混乱は起きない。もともと平和的な性格で、争いを嫌う団体のため、筆者がここでこの集会に対する批判的な意見を書き記したからと言って、早速、目くじらを立てて、筆者を引きずりおろしてやろうなどと敵愾心を燃やし、検索結果の操作にいそしんだり、2ちゃんねるに投稿を繰り返すような信者は一人もいない。前にも書いた通り、戦後の開拓期を思わせる、純朴な羊のような信徒の群れである。

それは体験としては非常に興味深いものであった。(むろん、当時の話であるが。)だが、だからと言って、そのように一人の強力なリーダーの意志のもとに推進される集会が、正しいものであるとは、筆者は一切考えていない。そして、やはりいかに自主的に運営されているように見えたとしても、その集会には、目に見えないヒエラルキーがれっきとして存在し、年功序列などの、聖書に照らし合わせて、決して正しいと認めることのできない序列があった。

彼らが「権威と服従」として受け入れているそのヒエラルキーが、決して聖書に基づく正しい考えであるとはみなせないことは、すでにこれまでの記事で解説して来た通りである。我々はただ羊のように従順であるだけではいけない。宗教指導者に盲信的に従ってさえいれば安全だということは決してなく、何が正しく何が間違った教えであるかを自分自身で吟味することを、信徒は決してやめてはいけない。

しかし、筆者はその団体で、あたかも兄弟たちと対立して、挫折して去ったかのように虚偽の情報を言いふらされることを嫌ったため、集会を離れる前、最後にわざわざベック氏のもとへ行き、「ベック兄は、毎週、日曜日に必ず礼拝に来なければ、クリスチャン生活を維持できないなどとは決しておっしゃいませんよね?」と質問して、肯定的な返事を得て、いわば指導者本人から、言質を取るようにして、集会を離れ去ることの許可を得たのであった。

ベック氏は、筆者の質問に対し、毎日曜、集会に参加することは決して義務として信徒に強制されるべきことではなく、集会に来なかったからと言って、信仰がなくなることは決してないので安心して良いと返答した(それが証拠に、吉祥寺集会のホームページには「出入り自由」と書いてある)。

ちなみに、筆者はこの集会において一度もベック氏と対立したことはない。ベック氏の本質については、以下に記すように、この集会を離れた後で、大勢の人々から話を聞いたが、筆者自身が相手の正体を暴露するような行動に出てたり、挑戦的な行動を取ったことは一度もない。ベック氏は筆者に対して常に温和であった。確かに「理想的な父」のように振る舞っていた。

だが、だからこそ、その優しい外見が真実であったとは、筆者は少しも考えていないのである。別にわざわざ正体を暴露しようなどと考えて挑戦的に振る舞わなくとも、こうして信徒らの心を支配する数々の美談や「神話」が作り出されている様子を見ただけで、それが嘘であることは十分に分かる。
  
そうした「神話」が本当であったらどれほど良いだろうかという思いが、筆者に全く起きなかったわけではない。特に、その集会において、両親ほどの年齢の兄弟姉妹に厚遇され、彼らが両脇から筆者を挟んで席に着き、筆者を家族の一員のようにもてなし、様々な場所へ案内し、一緒に寝泊りし、祈り、讃美歌を歌ったりしていた瞬間には、もしも筆者がクリスチャンホームに生まれてさえいたならば、こういう体験がきっと幼い頃から日常的にあったに違いないと、感慨深い思いがした。

筆者の家庭は、すでに書いたように、筆者が生まれた時から、父はクリスチャンでなく、教会とも信仰とも無縁であり、それゆえ、筆者の一家は一度たりとも家族が揃って教会に通ったことはなく、両親の間でも、常に宗教観が異なるために思想的対立があり、それゆえ、子供時代から、筆者は、相当な寂しさや孤独を味わって来たものである。
 
神を信じたことと引き換えに、いわば、筆者は両親からの愛を失ってしまったと言っても過言ではない状態に置かれ、信仰をめぐって家庭内で絶えざる対立が引き起こされていたために、苦しい思いをしたものである。(だからこそ、杉本が、筆者の両親が共に教会へ通ったかのように書いている偽りは、特に許し難いと言えるのである。)

だが、どんなにベック集会の兄弟姉妹が、両親を思わせるような人々であって、筆者が子供時代に家庭内で味わった孤独感を埋め合わせるかのように行動したとしても、彼らは決して筆者の実際の両親でないだけに、そのような「理想的クリスチャンホームの像」とでも呼ぶべき関係は、やはり「フィクション」でしかないことが痛感された。そのような「美しい幻」を維持するためには厳しいコストが必要となり、それを現実であるかのように信じれば、苦い結末が待っている。

何よりも、筆者は神を信じることにより、キリストの十字架を通して、肉による絆から解放されたのである。十字架を通して、生まれながらの肉によるすべての関係に対して死に、生まれ落ちた家庭に対しても死んだのであるから、筆者のなすべきことは、自分が召されて出て来た家庭を振り返ることでもなければ、それと類似した「疑似家族」を打ち立てることによって、幼い頃に得られなかった満足を追い求めることでもない。

そして、実際に、肉による家族関係が、そのまま神の家族関係になることは決してない。にも関わらず、その集会が、肉による家族関係を集会に取り込むことで、それがあたかも神の家族となりうるかのように強調していることには、大きな問題があった。

そこで、以下に書くような事件をきっかけに、「麗しい幻想」が壊されたことは、筆者にとって、まことに良いことだったのである。

現在、筆者があたかもゴットホルト・ベック氏の集会で、他の兄弟姉妹と対立したがゆえに、そこを去ったかのように虚偽を言いふらしている情報源は、唐沢治ではあっても、ベック集会の兄弟姉妹ではない。(杉本は唐沢の言い分を真に受けて受け売りしているだけである。)

唐沢治はこの集会について何も知らない。よって初めからこのことについて証言などできる立場になく、ただ身勝手な推測に基づく虚偽を言いふらしているだけである。

さて、筆者がその集会を離れる最大のきっかけとなったのは、筆者がMr.Sugarをその集会に案内したことであった。Mr.Sugarとは、ローカルチャーチ時代からの唐沢治の長年の知己であり、兄貴分と言って良い存在である。

そのMr.Sugarが、ウォッチマン・ニーに造詣の深い上記の集会において、ウォッチマン・ニーの権威であるように振る舞い、ニーに傾倒している他の信者たちの間で信用を得た上、筆者の悪口を広め始め、兄弟姉妹との仲を引き裂いたことが、筆者が集会を離れる直接的な原因となったのであった。

おそらくMr.Sugarは、そのようなつもりは一切なかったと弁明するであろうが、実際には、筆者が知っている限り、Mr.Sugarには、どんな集会に行っても、自分がそこで中心人物として指導的立場に立って、他の兄弟姉妹たちに説教を始めてしまうという欠点があった。

長年、ローカルチャーチで長老的な存在をつとめたことの結果、そうした態度が身に着いたのであろう。Mr.Sugarはどのような集会においても、他の兄弟姉妹と対等な立場に立つことはなく、教職者然と人を教えるリーダーになってしまうのである。これはDr.Lukeと極めてよく似た欠点であると言えよう。

さらに、Mr.Sugarには、温厚で優しいカウンセラーのような役割を演じつつ(むろん、それが演技であるという認識は本人にはない)、様々な信徒の相談に乗って、心の弱みを探り出した挙句、それを簡単に言いふらしてしまうという欠点があった。

Mr.Sugarはおそらく自分は他の信者らの弱点をよく知っており、それを克服するために手助けをしているという文脈で、信徒らの弱点に言及していたのであろうが、いずれにしても、あまりにも簡単に信者らの失敗談や欠点を、他の人々に向かって赤裸々に語ってしまうのである(病的な噂好きと口の軽さという点では、村上密ともよく似ているだろう)。
 
筆者がMr.Sugarを以上の集会に案内したにも関わらず、筆者に関する否定的な見解をMr.Sugarが他の兄弟姉妹に広めていることを、筆者は兄弟姉妹から聞かされ、しかも、兄弟姉妹がSugar氏に心酔するあまり、その言い分を信じ始めていることが分かった際、筆者はそれを機に、その集会をすっかり離れ去る決意を固めた。だが、集会を離れることで誰かから断罪されたりいわれのない誤解を受けることがないよう、ベック氏のもとへ行き、指導者自身から許可と言える言葉をもらった。

筆者はそうしてその集会を去った後、何が起きるのか観察して見ることにした。もしもMr.Sugarが正しいのであれば、彼は集会に残り、他の兄弟姉妹とうまくやって行けるであろう。だが、いつも自分がリーダーにならずにいられないMr.Sugarが、果たして、ベック氏を頂点とする集会に定着できるとはとても思えなかった。そこで、Mr.Sugarは必ず、どこかの時点で、ベック氏を崇拝することの誤りを兄弟たちに向かって説き、兄弟たちをこの集会から引きはがして、自分の影響力の下に置こうとして、それを機に、他の兄弟姉妹から関わりを絶たれるだろうと筆者は考えた。そして事実、そうなったのである。

だが、筆者とMr.Sugarとの縁はそれで終わりにはならなかった。次にしばらく年月が経ってから、コンタクトを取った際、Mr.Sugarは反ベック集会(ベック氏を批判して分裂した群れ)の只中にいた。そして、Mr.Sugarは「ベック集会がどんな風に誤っているか、この人々から詳しく聞いたので、あなたにも確かめてもらいたい」と筆者に向かって述べたので、筆者は今度はMr.Sugarの案内で、反ベック集会を訪れ、ゴットホルト・ベック氏について何が言われているのかを直接、彼らの口から聞いた。

Mr.Sugarは、ベック集会以上の正しい集会を見つけ、筆者をそこに導いたと考えていたのかも知れないが、筆者は、その集会に連続して通おうという気にはならなかった。なぜなら、その集会は、吉祥寺キリスト集会の影のようなものでしかなかったからである。

さらに、Mr.Sugarがその集会でメッセンジャーとなって人前で説教していることを知って、筆者は心の底から呆れた。なぜなら、Mr.Sugarこそ、筆者の前で、メッセンジャー(御言葉を取り継ぐ教師)となって、キリストになり代わって他の兄弟姉妹の心を支配し、人前に栄光を受けることの忌まわしさを、嫌というほど語った本人だったからである。

そこで、筆者はMr.Sugarに向かって、彼のしていることは自己矛盾であると述べ、Mr.Sugarがメッセージを語っている集会に行くつもりもない旨を告げた。だが、筆者はこの集会の人々がベック氏について述べたことは、本当であると考えている。そもそもベック氏について作り上げられている美談は、もはや「神話」と呼んで良い類のものであり、額面通りに信ずべき内容ではなかった。

Mr.Sugarは相変わらず、自分がこの集会に残ってメッセージを語り続ければ、人々の目を開かせることができると考え、そうすることに関心があったようだが、筆者は決して、そのようなことが人助けであるとは考えていない。
 
筆者から見れば、Mr.Sugarのしていることは、ペンテコステ・カリスマ運動の信者と同じなのである。すでに出来上がった土台を有する他の集会に入り込み、もしくはその群れから脱落しかかっている信徒を探し出し、彼らを「さらなる真理に目を開かせる」という口実でスカウトしては、自分自身の支配下・影響下に置こうとしていく。

Mr.Sugarは離散している信徒らの群れに特別な関心があり、彼らが個人的に開いている家庭集会を見つけては、交わりの中で信任を得て、定期的に集会を持つようになる。それだけならば、それは離散している群れなので、信者の強奪にも当たらず、非難されるべきことはないだろう。しかし、一度でも、そうした集会の中で、Mr.Sugarに対して何かしらの批判的な言葉を発すれば、その結果、一斉に集会全体が拒否反応を示すことになるので、それが完全にMr.Sugarの意志でコントロールされていることが分かる。

筆者が言えることは、「あなたが知っているよりも、さらに深い真理を私は知っており、私はそれをあなたに教えることで、あなたを色々な問題から助けてあげたい」と述べて、親切心を装いながら近づいて来て、信徒らの心をキリストから奪い去り、自分自身に向けさせる人々は要注意だということである。

そうしたやり方は、まさに悪魔が人間を「啓蒙」しようとして近づいて来たやり方にそっくりであり、そのささやきに耳を貸せば、真理を追求しているつもりでも、途中から人間に関心を逸らされ、依存して行くことは避けられない。
 
筆者はMr.Sugarから学んだことが数多くあったことは否定しない。KFCを出たときにも、あるいは2009年に横浜に来た時点でも、Dr.Lukeの危険性を、筆者に誰よりも説いて聞かせたのは、Mr.Sugarであった。
 
Mr.Sugarは2009年に筆者が横浜へ来た当初から「KFCはバビロンである」と断言しており、この集会のいかに危険であるかを切々と説き、Dr.Lukeの二重性を帯びた人柄について深く憂慮していた。だが、筆者から見たMr.Sugarの心理的弱点は、人と直接ぶつかることを恐れる余り、決して自分の本心を直接相手に告げて、耳の痛い忠告をしないことであった。喧嘩や対立を恐れるあまり、本人に向かって直接言うべきことを、第三者に語るので、それはただの悪口になってしまうのである。

当時、Mr.SugarもDr.Lukeと同じように「リーダーのいない兄弟姉妹の群れ」を追求していたが、それにも関わらず、自分自身がリーダーになってしまうところに、二人のどうしようもない自己矛盾があったと言える。

Mr.Sugarは牧師を名乗ったことは一度もないが、結局、自分が教師となって他の信徒らの心を自分自身に向けさせ、説教者となって信徒らの心を支配してしまう時点で、牧師も同然の存在であった。また、他の群れから信者をスカウトすることによって、自分の群れを形成しようとするところにも、非常に大きな問題点があったと言えよう。

筆者は、ローカルチャーチを出たこの二人の人物から、聖霊派では決して知ることのできなかった真理についての証言を聞かされ、そこに神の采配があったことを疑わないが、ローカルチャーチを経由しているがゆえに、この二人のふるまいには、決して油断できない二重性があったことも確かであるものと思う。

我々は、ある日、誰かから、これまでに聞いたことのないような、御言葉に関する優れた解釈を聞かされたり、ある交わりの中で、大きな真理が開かれるのを見ることがあるかも知れない。だが、そのような奇跡的な出来事が起きたからと言って、決してその集会を賛美したり、特定の人間を師のように仰いだりすべきではない。

仮にどんなに優れた兄弟姉妹と出会ったと感じることがあったとしても、真理については、ただキリストご自身から学ぶという立場を貫き通すべきであり、人間から教えを受けたかのような態度を取るべきではない。聖書の御言葉について重要な真理を学ぶきっかけを得たというだけの理由で、目に見える人間につき従って行って、彼らの人間的な弱さに巻き込まれたりすべきでもない。

そこで、真理に関する知識を、あたかも自分たちが独占的に握っているかのように振る舞うことで、福音を手段として人の心を支配し、人前に栄光を受けようとしている人たちには、よくよく注意しなければならない。
  
さて、話を戻せば、今や牧師制度が信頼失墜し、新たな時代の到来が待ち望まれているのは明白である。にも関わらず、未だそうした事実を見ずして、牧師を批判する信徒が現れると、その信者だけにすべての問題があってそうなったかのように決めつけ、信徒に対するネガティブ・キャンペーンにいそしんでいる人々がいる。

彼らは牧師制度を維持したいがために、プロパガンダをしているのである。そういうことをしている面々は、決まって宗教指導者であるか、もしくは特定の牧師の手先のように行動している信者だけである。

先の記事で挙げた杉本のメールでは、ベルシープ伝道所の牧師を名乗っている坂井能大とKFCのDr.Lukeについての記述があった。むろん、先に指摘した通り、他人へ宛てたメールの中で、第三者に対する証拠のない悪口を書き記すことは(悪口だけでなく虚偽の情報であっても)、罪に問われてもかしくない違法行為であるから、杉本はそのような行為をやめるべきである。

だが、そこで杉本が言わんとしていることの中には、見逃せない事実もある。なぜなら、そこで示唆されているのは、「坂井は唐沢から事実を知らされておらず、唐沢に騙されて焚き付けられただけだ」とする筆者の見解は甘く、坂井と唐沢は初めから確信犯的なグルであって、坂井は唐沢の正体を十分に知りながら、唐沢の罪にはそしらぬ顔をして、筆者の名を無断で使用することにより、大いに空騒ぎを起こして、筆者に害を及ぼしているだけで、そこにはいかなる善意もありはしないということだからである。

杉本のこうした指摘に対して、坂井が今後、どう反応するかは、一つの試金石になると言えよう。何しろ、唐沢と坂井は筆者のメールを無断で裁判に提出したくらいなので、他人のメールを裁判の証拠にすることにはためらいがないはずだ。当ブログで公開している杉本のメールなどは証拠として使用しても、違法行為にも該当せず、罪にも問われはしない。

そこで、この先、坂井が個人的に杉本の主張に論拠を示して抗議し、杉本を訴えるようなことがあれば、杉本の言うことは嘘だったと公然と立証される。だが、それがなければ、結局、杉本の言い分が結果として残るのである。

しかしながら、我々は、坂井が杉本を訴えるかどうかをわざわざ時間をかけて観察せずとも、坂井の本当の敵が、初めから杉本ではなく、そこには、唐沢の場合と全く同様の、信徒を貶めようとする意図しかなかったであろうことを十分に察知できる。

坂井が杉本に対立しているかのように振る舞って来たのは、唐沢と同様に、全くうわべだけのポーズなのであり、その挑発行為の真の目的は、杉本を焚き付けて、自分たちに不都合な信徒を攻撃させて、信徒を争いの中に引きずり込み、破滅させることにあったのだと十分に推測できるのである。

坂井は、杉本を憤激させて筆者を攻撃させるためにこそ、筆者の名を全面に押し出して、杉本を挑発した可能性が限りなく高い。そもそも、坂井が筆者とは一面識もないのに、筆者がブログを閉じていた間にも、筆者のブログの記述を大いに利用して、杉本に対する挑戦的な騒ぎを拡大していたこと自体が、「簒奪の模倣」に該当する。

つまり、ここにも、ペンテコステ・カリスマ運動に影響を受けた人々が常に、自分以外の信者の意志や許可をよそにして、本人に無断で本人の名を騙ってなりすましたり、まるで自分こそ、その人間の代弁者であるかのように勝手に名乗り出て、ターゲットとする人物の存在をことごとく「流出」させて、信者の弱点を言いふらして印象操作を行ったり、人間関係を分裂させて壊したりして、神に属する民を傷つけ、冒涜し、害を加えることをやめられないという悪しき性癖を見ることが出来るのである。

何のために彼らはそんなことをするのだろうか? それは第一に信徒を辱める目的と、第二に、牧師階級を守る目的のためである。坂井や唐沢は、ただ気に入らない信徒をおもちゃにして害を加えて楽しんでいるだけでなく、牧師制度の罪を告発し、この制度の撤廃を訴え、自分たちが特権階級として属しているヒエラルキーを否定するような信徒に集団で制裁を加え、破滅させて口を封じようとしているだけである。

現在、まさにそうした筋書きが進行中で、坂井は自らの主張の正当性を、裁判でも立証できずに杉本に敗れ、その馬鹿馬鹿しい挑発行為のとばっちりが、無関係な筆者に不当に呼んでいる。

筆者は2ちゃんねるにコメント投稿したこともなく、坂井を焚き付けた過去もなく、坂井とメールの一通すらも交わしたことなく、裁判が行われた事実も知らなかったのであるから、坂井の言動が筆者の差し金によるはずもなく、かえってどれほど筆者の方が、坂井と唐沢の無責任な挑発行為によって迷惑を及ぼされているかはかりしれない。

だが、そうしたことも、彼らには織り込み済みであり、彼らはもともと杉本の思い込みの強さを知っていたために、杉本なら簡単に騙せると考えて、筆者の名を存分に利用して杉本を挑発し続け、自分たちの背後にあたかも筆者が存在しており、すべてが筆者の策略であるかのように思わせようとしたのである。

それに成功しさえすれば、結果として、彼ら自身は悪しき挑発行為の責任を追及されることなく、すべての責任を筆者にかぶせることができ、杉本をして筆者を攻撃させることにより、筆者を苦しめ、葬り去ることができると計算したのであろう。もちろん、それは最終的に、牧師制度を守り、この制度を非難する者の存在をネットから消し去るために行われているのである。

こうして、唐沢と坂井がこれまで一体、何のためにタグを組んで、さんざん杉本を挑発し、むなしい騒ぎを起こし続けて来たのか、その理由は読者に十分に明らかになったと言えよう。

そこで言っておきたい。もしもこの先、唐沢や坂井のような人間が現れて、勝手に「ヴィオロンさんがいじめられている」とか「ヴィオロンさんから応援したいと言われた」などと述べて、筆者の名を使って、杉本や村上のような誰かを非難し、ネット上で「戦争」を始めたとしても、それは筆者とは何の関係もない事柄である。

村上や杉本を含め、筆者が誰かに対立して、論争をしかけたいと考える場合は、可能な限り、オープンな場で、きちんと証拠の残る、合法的なやり方を用いるつもりであり、当ブログとは異なる掲示板などの場所を利用して、責任の所在が分からない発言を行うことはない。

さらに、前々から述べている通り、筆者は誰とも協力しておらず、牧師との協力関係などは、金輪際、お断りである。そこで、杉本の嘘の主張に反駁するためであろうと、他のどんな問題解決のためであろうと、誰にも協力を仰いだりせず、代弁者を立てて行動することもない。

むろん、これまで何度も書いて来たように、唐沢が杉本に民事提訴を予告したことも、唐沢の単独行動であって、そこに筆者の依頼はない。よく考えれば誰にでもすぐに分かるはずだが、仮に筆者が依頼してみたところで、唐沢が筆者に代わって、筆者の受けた「被害」を理由に、杉本を訴えることなど、もとより不可能なのである。グレゴリウスを名誉毀損で訴えた唐沢がそのことを知らなかったはずはなく、大人なら誰でも分かるはずの常識的かつ初歩的な事実である。

そこで、唐沢が、筆者があたかも唐沢に向かって杉本に対して裁判を起こすよう焚き付けたとか、それにも関わらず、筆者の実名が表に出ていないために提訴ができなかったとか、幼稚園児の綴るおとぎ話のような、筋の通らない空想話を用いて、自分にはまるで杉本と対立する意志など毛頭なく、筆者から要求されたので仕方がなくそのような行動を取らざるを得なかったかのように、後になってすべてをごまかそうとしていることは、まさに笑止千万な作り話であり、とてもではないが、立派な学歴もあり、高い職業的地位に就いていた、大の大人の発言とは思えない。そして、そんな馬鹿げた幼稚な筋書きに騙され、振り回される方もどうかしており、両者ともにとてつもなく暗愚であるとしか言いようがない。

ただし、筆者は、唐沢は当時、杉本から実名で名誉毀損を受けていたのであるから、それに抗議するために、自分自身の名において、杉本を提訴することは、十分に可能であり、許される行為だったと考えている。また、民事提訴を取りやめたのであれば、その旨をきちんと周囲に分かるよう、説明すべきであった。にも関わらず、唐沢が筆者から説明を求められたにも関わらず、それをしなかったことは、結局、唐沢という人物の闇を証明するだけである。結局、唐沢は杉本の中傷が真実であると認めているに等しく、いたずらに騒ぎを拡大して筆者に害を及ぼすためだけに事件に関わったと自ら白状しているも同然なのである。

坂井の裁判に関しても、前から書いている通り、もしも筆者が本当にその裁判が起きたことを知っており、これを応援するつもりがあったなら、当然ながら、過去のメールを裁判資料として提出したりせず、その時点で、陳述書を書いて、自らの口で証言していたはずである。なぜなら、それが当事者以外の人々が裁判で証言するための常識的なやり方だからである。

従って、唐沢が、筆者から陳述書を取ろうともせずに、筆者が坂井の裁判を「応援したい」と述べたとか、そのために自分のメールを資料として提出することに「同意した」とか、嘘八百を述べていること自体、常識をわきまえている人間から見れば、理屈に遭わず、筋書きが破綻していることが明白なのである。

結局、こうした事実から見えて来るのは、唐沢や坂井が、常に筆者本人の意志を無視して、許可もなく、筆者の名を騙って、杉本を挑発し、ひたすら騒ぎだけが大きくなるように行動し、そうした自分たちの無責任で幼稚な行動が、あたかも筆者の差し金によるものであるかのように見せかけることで、自分たちはちゃっかりと責任を逃れた上、筆者に不当な形で害を及ぼそうと企んで来たという事実だけである。

そうした彼らの恥知らずな行動を通して、我々は、彼らの本当の目的が、杉本と対立することになど初めからなく、ただ杉本を挑発して、自分たちの気に入らない信徒に害を及ぼすことにあったと知ることができる。繰り返すが、彼らは二人とも牧師であって、筆者よりも年上であり、大の男たちが、これほど幼稚で非常識な行動を取ることは、通常では考えられない。しかし、牧師だからこそ、彼らはこういう行動に及んでいるのであり、牧師階級を批判する人間を葬り去るためならば、どんな卑劣な手段をも厭わないのである。

こうして、我々は、村上密の投げつける非難に屈し、これを受け入れた人々が、結果的には、ことごとく、村上密が描いた通りの人物像になって行った様子を見ることができる。杉本は村上に「思い込みが強い」と非難され、村上のクレームを受け入れたことで、まさにその通りになり、唐沢もまた、「非常識な主張になれあいで悪のりのコメントをしているだけの無責任なコメント投稿者」、「藪の中から石を投げて喜ぶだけの非常識で幼稚な生き方」などと非難され、その村上の非難を反駁もせずに受け入れたことで、まさにその通りの人物像になって行ったのである。

だが、筆者は上記の二人のように、村上密による根拠もない呪詛のような言葉を受け入れることは、断固拒否させていただく。
 
これまでもそうだが、この先も、誰かが筆者の名を勝手に使って、筆者の味方を装い、あるいは筆者の代弁者を装い、筆者の許可もなく、掲示板やブログなどに書き込みをしたり、裁判資料などと称して筆者のメールを流出させたとしても、そのようなことは、その人物が勝手にやっていることであるから、筆者は、その行為に一切責任を負うつもりはないし、筆者が責任を負わされねばならない理由もない。そのような騒ぎを引き起こした責任は、すべてその当人に帰する。場合によっては、関係者全員から訴えられることをも覚悟してもらわねばならない。

読者は、目を開いてよくご覧になりたい。これが、牧師というものの本質なのである。つまり、一旦、牧師となった人間は、二度と信徒の利益のために動くことはなく、彼らが信徒のために動いているように見える時にも、それはすべて自分自身の利益のための行動なのである。

牧師たちには、それぞれの主張の違いがあって、相互に対立しているように見えることもあるかも知れないが、牧師階級を守るという一点においては、彼らは完全に結託して、自分たちに刃向う信徒を敵として行動する。

だが、それにしても笑止なのは、その牧師が、信徒に過ぎない杉本に裁判で敗れたことである。筆者はかねてより、杉本に敗れるなど恥でしかなく、愚の骨頂だと主張している。杉本の主張のレベルがいかなるものであるかは、読者にも2枚の答弁書から明らかになっている通りだが、このような程度の主張も覆せない人間のレベルは、もっとお粗末で、お里が知れようというものだ。およそ論理などと呼べるものは、そこには毛筋ほどもなかったに違いない。神が味方しておられるなら、なぜそんな結末になる理由があろうか。

さらに笑止なのは、敗訴に終わったこの裁判を、かつては立派な大学講師であり、博士号まで取得した人間が支援していたという事実だ。

唐沢はかつて2009-2010年には大学講師という、社会的にもそれなりに尊重される地位にありながら、自分が杉本に実名で名誉毀損をされた際、杉本を訴えることもせず、かえって元KFCの信者を告訴し、杉本ブログの権利侵害の記事を削除させるために必要な具体的な措置を何一つ講じなかった。

そして、今になっても、「杉本と遺恨を残すことは本意ではない」などと述べて、自分は杉本によっていかなる人権侵害も受けていないという立場を貫いている。そうした行動に、唐沢という人物の本心が如実に表れていると言えよう。

唐沢はおそらく当時から、杉本が村上密を支援することを通して、牧師制度の前に跪いており、牧師階級全体を敵に回すつもりがない意図をはっきり見ていればこそ、杉本を敵とみなさず、裁判を起こして徹底的に攻撃し、打ち負かすことを控えたのだと考えられる。

むしろ、牧師の手先となった杉本をうまく利用すれば、かえって自分の地位の安泰をはかることができると考え、不都合な信徒を「消す」ために、杉本の手を存分に借りられると踏んで、わざわざ杉本を「延命」させた上で、気に食わない信徒の名をさんざん騙りながら、杉本への挑発行為に心血を注いで来たのである。

その唐沢とタグを組んでいる坂井が、自分だけ唐沢と違った考え方を持っていることなどはまずありえない。そこで、彼らの真の目的は、杉本を倒すことになど初めからなく、むろん、クリスチャンとして、自分の信仰告白の確かさを、神と人との前で証明することにもなく、ただ杉本を存分に利用して、牧師階級の利益の確保のために、牧師の利益に逆らう信徒を破滅に追い込み、抹殺することだけであったと見るのが適当である。

村上密、坂井能大、唐沢治、鵜川貴範・直子夫妻、等々、筆者を糾弾している人物は、みな牧師やメッセンジャーであるか、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団や村上密を擁護する人々だけである。
 
もちろん、何度も述べて来たように、村上密が「カルト化した」教会の牧師らに対する裁判を助長し、戦いをしかけているように見えるのも、単なるうわべだけのポーズでしかなく、それも牧師階級そのものを存続させるための目くらましのプロレスごっこなのである。

村上が真に攻撃をしかけている相手は、牧師ではなく、牧師の前に跪こうとしない信徒である。(だからこそ、被害者の個人情報を加害者の牧師に転送したり、信徒の相談内容を公開することによって信徒に恥をもたらしている。)

しかし、恐ろしいことに、そのようにして霊的な敵に妥協し続けると、人間は当初、持っていたはずの優れた知性もどんどん失って行き、最終的には敵(悪魔)と一体化してしまう。悪魔は、悪知恵だけはふんだんに持っているように見えても、本性はたとえようもなく愚かであるため、自分の手下となった人間をも、どんどん自分と同じように愚かにしてしまう。

村上、唐沢、坂井、杉本の全員を例に取って、彼らの文章力、思考力が、2009年から現在に至るまで、どれほど著しく衰退したかを目を開いてご覧になりたい。

グノーシス主義の恐ろしさは、「情」という名の思考停止にある。この思想は、その虜となった人間に、すべてのことを「快・不快」という赤ん坊レベルの感情に基づいて決断させ、自分の感情が誘われる、自分にとって心地よく、好ましく感じられるものだけが「善」であると思い込ませるため、そのように盲目とされた人間の中では、感情による決めつけや思い込みだけが肥大化して行き、論理的な思考力が徹底的に破壊されるのである。その結果として、思考力、判断力の著しい衰退が起こり、人格の著しい幼児化という精神的退行現象が起きるのである。
 
グノーシス主義の教えは、このように、まさに人間の正常な脳を破壊する麻薬のごときものなのである。この教えが人々にもたらす致命的な害に不平等はなく、この教えを有害なものと見抜いて退けない限り、博士号があっても、何の助けにもならない。どんなに優れた知性を持つ人間であっても、自らの思考力を全く使わなければ、衰えるだけであるが、思考停止の教えは、思考力そのものを奪い去る。

さらに、信仰の世界で起きる現象は、世間で起きることよりも一層、厳しい結末をもたらす。かつては何百ページもの学術論文を書くことができ、圧倒的な読書量を誇り、記憶した情報を自在に引き出して語る知性を持っていたような人間であっても、一旦、グノーシス主義の怠慢な思考停止にとりつかれれば、幼稚園児並みに思考力が低下し、最後には2ちゃんねるの投稿以下の文章しか書けなくなり、デタラメな答弁書しか書けない人間に敗訴して終わるのである。もちろん、思考力・文章力のみならず、判断力も低下するので、誰一人として騙されるはずがない低レベルの詐欺師の言い分にまんまとひっかかって集会を乗っ取られたり、異端の書への識別力がなくなるのは当然である。
 
さて、話を戻そう。このように、牧師とは、信徒を物質的にも精神的にも金銭的にも搾取の対象としか見ておらず、自分が救済者や助言者をきどって人前に栄光を受けるためならば、信徒の弱みをとことんまで利用し尽くすのであり、そのチャンスを逃すまいと、手ぐすね引いて信者の弱みを握る機会を常日頃から伺い、さらに、自分たちに刃向う不都合な信徒の口を封じ、抹殺するためならば、どんな卑劣な手段でも厭わない連中である。

むろん、牧師は信徒の立てた功績はすべて我がものとして横領するが、同時に、信徒の弱みも利用する。少しでも信徒が心の弱みを打ち明ければ、助けてやるふりを装って、病原菌のように一斉に傷口にたかり、信徒の内側に侵入して食い尽くす。そして、まるごと食い尽くした後で、その悪事がバレないように、信徒に罪を着せて悪魔呼ばわりした上、教会の外にポイ捨てするのである。
 
彼ら牧師たちは、自分たちだけは選民であり、信徒は被差別階級だと考えているため、信徒をとことん利用した上、自分の身代わりに罪を着せて使い捨てることに何のためらいも恥の意識もない。言うなれば、彼らの目に映る信徒とは、どんなに騙して巻き上げても、決して罪にならない「ゴイム」でしかないのだ。

つまり、牧師階級全体が、信徒の弱みを握って恥をかかせることで、自分の優位性を誇示し、信徒を搾取してその上に君臨することで己を養う特権階級でしかなく、ひとかけらの誠実さや真実性や正義も期待できる相手ではないのである。
 
この事実は、司祭であろうと牧師であろうと、教職者制度の中に位置する人間には、宗派を超えて当てはまる。「いや、そんなのは極論ですよ、ヴィオロンさん。あなたはたまたま遭遇した人々が悪すぎただけです。まさかすべての牧師や司祭が、そんなに悪い人々のはずがないでしょう。どこかに良い牧師もきっといるはずです。私はあきらめません」などと、(杉本の言い分のように)安易な考えを抱いて、教会から教会へと渡り歩こうとは決して思わないことだ。この業界では、そのような信徒は「ジプシー・クリスチャン」と陰口を叩かれ、さらに、教会に属さず、信仰を守っている信徒も、「お一人様クリスチャン」などと呼ばれて揶揄されるだけだからだ。

これが、牧師から見る信徒の日常風景なのであり、彼らから見る信徒とは、まさに狼やハイエナから見る羊でしかない。彼らの目には、牧師制度の前に忠実に跪くクリスチャンだけが正しく、それ以外の信徒は、みな「挫折者」や「落伍者」としか見えていないのである。

こうしたことを聞くと、プロテスタントに絶望してカトリックに去れば、そういう残酷な階級闘争とは無縁に生きられると考える人々が現れるが、その考えも、幻想でしかない。かつて筆者の前にやって来て、プロテスタントの牧師たちの幼稚さには辟易したので、カトリックに去ると宣言した信徒がいたが、それも霊的後退でしかない。不祥事はカトリックの方がより深く大規模であり、カトリックにおけるヒエラルキーの束縛はプロテスタントの比ではない。

何より、それは歴史を逆行する行為でしかないため、信徒に霊的前進をもたらさない。プロテスタントは、カトリックの陥った腐敗と訣別し、これを改革することによって生まれた運動であるから、その改革の良い部分を全て捨て去り、カトリックに戻ったからと言って、それでいかなる前進が得られるわけでもない。

むしろ、我々がせねばならないことは、プロテスタントがカトリックから分離して守ろうとした正しい内容を継承し、さらに、プロテスタントの中からも不要なものを投げ捨てて分離した上、さらに先へ進むことである。

万民祭司の原則に基づく、宗教指導者のいない対等な信徒の交わりが必要とされているのである。宗派を問わず、教職者という特権階級制度を一旦、認めてしまえば、その時点で、その教会は必ず腐敗で終わることを運命づけられている。

こう書いても、日曜になれば、多くの信徒らが牧師の説教を聞きに教会へ向かうのであろう。だが、安易に「牧師」と名乗っている連中に関わると、どういう悲惨な結果が起きるかは、以上の警告から読者には明らかである。

はっきり言っておくが、牧師制度は忌むべき人間崇拝、偶像崇拝であるから、これときっぱり手を切らなければ、その信徒は神ご自身を知ることは決してできない。人生を食い尽くされ、悪魔の餌食となるだけである。だが、たとえそうなったとしても、その罪は、信徒自身にある。なぜなら、この世を愛すること(被造物の栄光を愛すること、人間社会で受けられる栄誉を愛すること)と、神を愛することはどこまで行っても決して両立することはないからだ。

目に見えないキリストを退けて、目に見える牧師を信用してつき従い、害を受けた結果、自分はカルト被害者であるから同情に値するなどと、どんなに人前で主張しても、その主張はかえりみられない。自分から判断を誤って人間崇拝の罠に落ち、神を裏切ったことを認めない信徒の言い分は、神の御前ではむなしいだけである。

だが、そうはいえども、牧師という連中が、どれほどまでに狡猾で陰険で卑劣であって、信者を陥れる計画を、四六時中、信者の頭越しに考え続けているかは、以上で述べた通りなので、注意されたい。特に、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団のような、ペンテコステ・カリスマ運動を支持する盗人の団体とその指導者には決して何があっても近寄らないことである。

信者は、目に見えない神ご自身を最優先するのか、それとも、目に見える被造物を最優先するのか、生涯、常に神の御前で問われて続ける。狭き門から入る者は幸いである。
 
「たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、
「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、
 さばかれるときには勝利を得るため。」
と書いてあるからです。」(ローマ2:4)


神の恵みは水のように、より低い方へ、恵みを素直に求める飢え渇いた人々へ向かって流れる

さて、長らく記事を書いていなかったので、その間のことを補っておこう。
 
かなり前の記事ではあるが、澤藤統一郎の憲法日記「へそまがり宣言」、なかなか面白い内容だったので、ここに全文転載しておきたい。
 

有史以来連綿として、一つの妖怪が我が物顔に日本の社会を徘徊している。最近、むやみにその妖怪の威勢がよい。――妖怪の名は「同調圧力」。この妖怪、別名を「長いものには巻かれろ」「出る釘は打たれる」とも言う。「附和雷同」「寄らば大樹」「地頭には勝てぬ」「ご無理ごもっとも」などという渾名もある。この妖怪は毒気を撒き散らし、その毒気は空気感染する。多くの人をして「みんなと同じでなければ、生き苦しい」「はみ出すのは恐い」「ボッチは耐えられない」「イジメを傍観できなければ、イジめる側に付かざるをえない」と思わせている。

日本のあらゆる支配構造が、この妖怪との神聖な同盟をむすんでいる。政治・経済・教育・メディア・学問、どの分野においてもだ。アベ政権、自民党、象徴天皇制、神社庁、日本経団連、NHK、新聞協会、民放連、JOC、教育委員会、PTA、学級、町内会…、いずれもこの妖怪と結び、この妖怪に生け贄を差し出して見返りに与っている。

現代の日本において、およそこの妖怪の毒牙による被害を被らなかった者がどこにいるだろうか。この「妖怪・同調圧力」は理性や知性を目の仇として忌み嫌う。自立した個人の敵であり、民主主義の攪乱者であって、全体主義の温床にほかならない。

これまでの日本社会の歴史は、多数派による少数派に対する同調圧力に、少数の側が果敢と異を唱え困難な抵抗を試みた闘争に彩られている。多くの場合、少数派はあえなく敗れている。もともと、闘い我に利非ずなのだ。

多数派とは、現体制であり、現体制を支えるイデオロギーの担い手である。多数派に与していることは、安全で安心であって、多数派との角逐は面倒であるだけでなく、常に孤立と排斥の危険を背負い込むことになる。だから、学校も家庭も子どもに対しては、「素直に大勢に順応せよ」「現行の秩序に波を立てるな」「和を以て貴しとせよ」「敢えて強者に逆らうな」と教えこむのだ。「社会を変えようなどと不埒なことを考えず、おまえこそ社会が望む人間になれ」というのが、「妖怪・同調圧力」がもたらした恐るべき害毒の惨状だ。

多数派との対決を敢えて辞さない社会的少数者の闘いのあり方に2種類がある。ひとつは、今は少数でも明日の多数派を目指す組織的な運動。言論の自由市場において、多数派と対峙して、市場の勝利をおさめようというこれが正統派。政党を作り、民衆を説得し、選挙に訴え、やがては自らが多数派になろうという積極的で生産的な日向の存在。

もう一つ日陰の存在がある。そもそも将来の多数派形成を意識することなく、現多数派の非を徹底的に攻撃しようという立場だ。その言論が、自らが多数になるのに有効か否かを斟酌しない。この立場を「へそまがり」という。

へそまがりは、自分の言論が社会にどう受け容れられるかを斟酌しない。ひたすら正論を吐き続けることで、「妖怪・同調圧力」と対峙する。勝てる見込みがあるかどうかは、視野の内にない。青くさい、へんくつ、などの陰口を意に介さない。

へそまがりは、徒党を組まない。孤立を恐れない。そして、へそまがりは、けっして社会におもねらない。どんな権威も認めない。権力には徹底して抗う。それなくして、「妖怪・同調圧力」と対峙する方法はないものと信じるが故だ。

へそまがりはけっして天皇の権威を認めない。天皇についての敬語一切を拒否する。元号での表記は絶対にしない。天皇の就位から歳を数え始めるなんて、まっぴらご免。「日の丸」にも「君が代」にも敬意を表しない。
へそまがりは、「民主的な手続」で選定された政権や知事を大いに嗤う。アベ政権も、小池百合子都政も徹底して批判する。
へそまがりは、ナショナリズムを拒否する。オリンピックはうんざりだ。感動の押し売りはいい加減にしてもらいたい。

へそまがりは孤独であるが、孤独恐るるに足りず。国家にも、資本にも、天皇制にも、メディアにも、町内会にもなびかない「へそまがり」バンザイ。

そう、自分に言い聞かせて、「へそまがり宣言」とする。ことの性質上、けっして宣言への賛同も同調も求めない。ひとり、へそまがり精神を貫徹するのみ。
(2016年8月17日)

 
まことに面白いし、賛成である。筆者も天皇に敬語は使わない。オリンピックは聖霊派のリバイバルと同じで、決して来ない夢であり、日の丸と、アベマリオを現人神のごとく担ぎ上げ、まことの神に逆らうこの異教の祭典は、過去に幻に終わった祭典同様、我が国で開かれることは決してないであろうと、かねてより確信している。大体、その頃までこの国が持つかどうか。

筆者は世間の評価がどうあろうとも、『シン・ゴジラ』の筋書きへの失望と幻滅を隠さないし、安倍首相がロシアの経済発展に全面的に協力すると約束し、プーチン氏の訪日日程が確定したらしいことにも、決して喜んでなどない。それにしても、まったく何という愚かな外交的敗北であろうか。政治的手柄を立てたいばかりに、安倍はまたしても自分の方から、全面的にロシアに有利なカードを切ってしまった。どうしても「平和条約締結」という手柄を立てたい軽薄な首相がこの調子では、領土問題などまるでなかったことにしてでも、ロシアの前に涎を垂らして跪き、調印をお願いするのではあるまいか、と思えて来る。

それに対して、ロシア大統領は「ありがとう、晋三」と、上から目線の礼をそっけなく述べて、安倍の提案をただ検討するとしか答えていない。これまで日本の米国への片思いのゆえにさんざん肩透かしを食らったその非礼も考え合わせれば、ロシア側の回答としては当然であろう。だが、野心を見透かされているとしか思えない、到底、対等な外交からはほど遠い反応である。

それにしても、全く幼稚としか言えない安倍外交は、国益を度外視し、なおかつ、ロシア人の気質をも全く理解していない。ロシアの友情とはすなわちロシアの国益と不可分であり、かの国に対して必要なのはかの国と同じほどにしたたかな交渉である。そのしたたかさ、図太さがないと、外交的成功はあり得ない。それが政治的な手柄欲しさに涎を垂らして安っぽい笑顔をふりまき、しかも、まだ相手が何も約束しない前から、かの地へ出向いて行き、全面協力を申し出て、訪日の際にも、山口県へ招待するなどの国内他府県を全てよそにした手前勝手なパフォーマンスを繰り広げるという自己満足ぶりだから、呆れるほかない。民間の草の根外交の使節ではないのだ。一国の首相が、打算も警戒心もなしにそんな風に物欲しそうな様子を隠しもせずにうろついていたら、森の熊さんに捕えられて餌にされるか、危険な場所へ誘い込まれるだけである。いずれにしても、子供のようにしか見なされてないことであろう。こんな調子だと、仮に平和条約が結ばれたところで、我が国の国民が少しでも浮かばれるとは到底、思えないから、その意味でも、前途多難である。

筆者は、日ロ間に平和条約が結ばれさえすれば、何かが劇的に前進するとは思っていない。そもそも、主権国家としてのプライドと独立心を備えていない属国には、どこの国とも対等な外交は無理である。我が国の精神的課題はそのレベルに始まっている。

さて、話を戻せば、「同調圧力」という名の妖怪にはまだ一つ、有名な名がある。「和をもって貴しとなす」という名だ。

この「和」なるもの、非常な曲者である。そして、この「和」というものと、聖書の唯一の神への従順は決して両立しない、と筆者は確信する。「和」は世の方を向いており、神の方を向いておらず、クリスチャンにとって、神と世とを両方愛することは、不可能事だからだ。だから、「和の精神」というものは、信者にとって大敵である。それが分からないと、クリスチャンは信仰生活に大きくつまづくだろう。

全く話が変わるようだが、今でも筆者がよく覚えている出来事の中に、KFCである時に行われた聖餐式がある。すでにBr.Takaがこの団体をかき回し、団体が異端化していた頃のことだ。その聖餐式の時に、Dr.Lukeが奇妙なメッセージを前もって述べた。はっきりは覚えていないが、「あなたがたの中で資格のある(罪がない)者だけが、この聖餐にあずかりなさい」といった内容であった。

そもそも、KFCというのは非常に底意地の悪い団体で、自分たちだけの暗黙のルールを作っては、それに従わない人間を陰で中傷し、恥をかかせては、次々団体から放逐して来た歴史があった。まだ筆者がこの団体に関わる前から、そうして追放された人々は数知れず存在した。それが、KFCが公にアッセンブリーズ教団の信徒と手を結び、Br.Taka夫妻を招き入れてからは、その愚かしい集団イジメの傾向が、より一層強まった。アッセンブリーズ教団の悪質さについては、当ブログですでに幾度となく述べて来た通りであり、このような悪質な異端の教団の信者と手を結べば、仮にもとはKFCのようではないもっと優れた団体であったとしても、必ず、堕落するのは必至である。
 
当時、すでに筆者はDr.Lukeからも、この団体の信者たちからも睨まれ、危険人物としてマークされていた。それは筆者がDr.Lukeに向かって、信者との霊的姦淫をやめるよう忠告したためであった。古参信者の証言によると、KFCには二重統治のような体制があり、礼拝に出席もしておらず、信徒の交わりにも出ていない信徒が、陰で大きな実権を握って、団体全体に影響力を行使しているということであった。

この頃、KFCはすでに自己を神として、己が罪を全く認めず、真摯に御言葉に立ち戻るようにとの信徒たちからの忠告にも全く耳を貸さないまでに至っていた。筆者よりも前に、そういう忠告を彼らに行った他の信者たちがいたのである。Dr.Lukeのもとに、彼のメッセージがどんな風に聖書と相違しているのか、項目ごとに列挙して持参した信者もいたし、彼らに罪を捨てて御言葉に立ち戻るように忠告したゆえに、Br.TakaとDr.Lukeから睨まれて、呪われて団体から放逐された信者もいた。

こんな風に、アッセンブリーズ教団と手を結んでからは特に、恐怖政治が甚だしかったので、筆者はその時に行われた聖餐の儀式もまた、彼らが悪だくみによって仕組んだ一つの罠なのだということをも理解していた。

それでなくとも、この団体の信者たちは、Dr.Lukeを筆頭として、何をするに当たっても、自分たちが特別に選ばれた存在であり、他者とは違って、他者にあずかり知らぬ特権を持つ、他者とは別格の存在なのだということを、あらゆる機会に人前で誇ることを常としていた。礼拝も、結婚式などの儀式も、祈りも、賛美も、すべてが他者に対する圧倒的な優位性と、自分たちが選ばれた民であることを自己顕示し、自己満足に浸るために行われていたのである。だから、聖餐さえも、彼らは自分たちの「特権」を強調し、気に食わない他者を排除して勝ち誇るために利用したのである。

案の定、筆者が見回してみると、古参信者たちはパンにも葡萄ジュースにも手を伸ばそうとはせず、神妙な面持ちで頭を垂れたまま、全く聖餐にあずかろうとしていなかった。Dr.Luke本人も、パンも葡萄ジュースも手に取ろうとしなかったと記憶している。

しかし、筆者はその時、そんな周囲の行動と、Dr.Lukeの言い分など気にせず、全く臆することなく、聖餐に備えられていたパンと葡萄ジュースを手に取った。

そして、どこの教会でも、信者たちがみな行っている通りに、筆者は一人の信者として、信者の当然のつとめとして、主の御前に信仰告白と共に、自然に、ごく普通に聖餐にあずかったのである。

むろん、あとでさんざんKFCの連中から陰口を叩かれたことは想像に難くない。多分、「ヴィオロンはふさわしくないのにKFCの聖餐にあずかり、主の御身体を穢した」などと言われていたのであろうと想像する。現に、何か別のことについても、そのように悪しざまに言われていた他の信者が存在した。「あの信者は主の血潮を穢した」とかいった言葉で、身内の信者を非難し、呪い、排斥して行くのが、彼らの常套手段であったからである。

彼らがそのように聖餐にあずかった者たちを辱めるために、わざと聖餐式をきっかけに他の信者たちに罠をしかけたのだということも、筆者には分かっていた。

だが、そんな風に、自ら聖餐式を行いながら、その儀式に加わらないことを是とするほどまでに異常化した団体の中にいても、筆者は彼らの思惑を気にせず、聖書の御言葉だけに従って行動した。その異常な信者たちが、集団イジメと、気に入らない信者たちの排除だけを目的に、聖餐式を利用し、わざと自分は主の御身体にふさわしくないかのように振る舞い、主の御身体の一部であることを自ら否定するならば、筆者は、なおさらのこと、自分が確かにキリストの御身体の一部であることを、彼らの前ではっきりと表明しなければならないと思った。
 
信者は、常に神と人と悪魔の前で、自分が一体、神と悪魔、どちらの側に立っているのかを明白に表明しなければならない義務を負っている。我々の行動の一つ一つが、聖書の御言葉の正しさを証明するための信仰の証なのである。だから、たとえある人々から仲間でないとみなされ、敵視されたとしても、悪魔と行動を共にして自分がキリストの御身体の一部であることをわざわざ自分から否定するほどの恐るべき罪を犯すことに比べれば、人間の思惑など全く無害である。
 
キリスト者が従うべきは、人の思惑ではなく、聖書の御言葉である。さて、聖書は何と言っているか?

「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。

食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」(ルカ22:19-20)

主はこのように「わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われたのだ。パンは、私のために裂かれたキリストの御身体であり、杯は、私のために流された主の血潮である。なのに、なぜキリストを信じていると告白する者、主の血潮の価値を知っており、それによって罪赦されて、神の子供として受け入れられた者が、「自分は聖餐にあずかるにふさわしくない」とみなし、まるで主の御身体と血潮が自分には無縁であるかのように振る舞い、自ら主の御身体の一部であることを否定する必要があるのか。

そんな告白は、信者が自分で神の救いを否定し、血潮による罪の赦しを退け、自分を悔い改めない罪人とみなし、御身体の一部であることを否定するに等しく、謙遜でもなければ、悔い改めでもなく、信仰とは無縁の行動である。そのような告白をして、聖餐にあずかることを自ら拒否し、人前で主の血潮と御身体を恥じた者たちには、それにふさわしい報いが待ち受けていることであろう。そして、それはもうすでに始まっているのである。

その儀式のとき、筆者と同じく、聖餐式にあずかった信者たちが、集会全体でどれくらいいたのかは分からない。だが、その時、暗黙のルールとして、Dr.Lukeの心を満足させて、同氏と行動を共にするために、自ら聖餐を拒否した信者たちは、その瞬間に、確かに主の救いを恥じ、血潮と御身体を恥じて、これを自分とは無縁のものとして拒否したのである。

だから、もしこの時、聖餐に加わった信者が「主の血潮や御身体を穢した」と非難したい信者らがいたならば、実は、彼らこそが、信仰者を名乗りながら、自ら聖餐を拒否したその行為によって、主を恥じ、血潮と御身体を恥じて拒否するという罪を犯したのである。そして実際、彼らは恐るべきことに、確かにその後、キリストの御身体から切り離されてしまい、キリスト教そのものを敵視した上、自己の義により頼んで血潮による赦しからも遠ざかり、Dr.Lukeと共に、自己を神として、唯一の神に敵する道を歩んで行ったのである。

それを考えると、あのような異常な儀式はたとえ一回きりであったとしても、霊的には、必ず「踏み絵」としての効果を持つのだと思わずにいられない。すなわち、それはKFCの連中が、仲間を排除し、恥をかかせるために悪巧みとして考え出したような意味での「踏み絵」ではなく、「あなたは聖書の御言葉を信じて従い、神の側につくのか、それとも、人間を恐れ人間に媚びて人間から嫌われないために、御言葉を捨てて人間の思惑に従うのか」という、神の側から見た「踏み絵」だったのである。

集団の「和」から弾き出されて、他の信者の悪口やイジメの対象とされたくないという怖れから、同調圧力に抵抗できないような人間は、その瞬間、悪魔に魂を売ってしまうであろう。そして、その影響は後々まで尾を引くことになるのである。

だから、筆者は、その時点から、KFCという団体が、筆者をどう評価し、どんな風に誉め、あるいはけなし、陰口を叩くかといったことを全く気にせず、御言葉だけに従うことを選んだ。主の御身体であることを自ら否定して、生涯に渡り、我々の罪を覆うことのできる血潮を拒否するという恐るべき罪に比べれば、人間の評価など、全く恐れるに足りないと今も思うだけである。

たとえ全世界の人々が聖餐式に加わることを拒んだとしても、筆者は彼らと行動を共にすることによって神の救いを自ら失いたくないと思う。それでは、一体、何のためにクリスチャンになったのか分からない。世人と何らの違いもないであろう。人に誤解されたり、見捨てられることなど、一時的な問題でしかなく、全くさしたる影響もないが、自ら神を拒み、神に捨てられる以上に恐るべき状態は人には存在しない。それは永遠に関わる問題だからである。

だから、筆者はただ単なる「へそまがり」として、自らの主義主張や、性格のゆえに、同調圧力から外れて立っているのではなく、そこには聖書の御言葉という、れっきとした根拠が存在するのである。

すなわち、幾度となく繰り返して来た通り、

人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。」(ローマ3:4)

と聖書にある通りだ。神を真実な方とするとは、神の御言葉を真実なものとみなし、御言葉に従う、ということ以外の何物でもない。

思えば、KFCに深く関わった人たちは、常に誰かを排除するという形でしか、行動できなかったように見受けられる。たとえば、その当時、Mr.SugarはKFCを批判してすでに関わりを断っていたとはいえ、それでも、筆者がデッドライン君の自慢のリビングルームに異議を唱え、彼らの聖餐に水を差すような発言をしたとき、筆者はデッドライン君の家で最初に開かれた聖餐式から、Mr.Sugarによってふさわしくないと判断されて、弾き出されてしまったことをすでに書いた。

筆者はその当時は、その事件の意味が理解できなかったので、衝撃を受けたものだが、今はそこにある排除の論理が結局、KFCと全く同じであることが良く理解できるのである。つまり、彼らにとっての儀式とは、神への従順のために行われるものでなく、常に彼ら自身の威信と栄光を高めるために行われるものでしかなく、従って、彼らの自己満足に疑問を呈し、その喜びに水を差すような発言をする人間を、彼らは徹底的に排斥し、あるいは報復するのである。

神に捧げられる儀式は、そもそも人間の自己満足や、威信の発揚のために行われるのではないにも関わらず、この人々にはそのことがどうしても分からないのである。そして彼らはそのようにして、常に親しい仲間の誰かを排除したり、見下しては、自分たちこそ、神の特権に与る恵まれた存在であり、少数の勝利者であり、そこに加われず、その価値が分からない愚かな連中とは別格の存在なのだという優越感に浸ることをやめられないのである。

KFCの聖餐式は、儀式にあずからないことによって特権意識を強調するという裏返しの形になっていたが、儀式そのものが、彼らの自己満足の手段、彼らの特権意識を確認する場として利用されている点で、原理は同じである。そういう優越感と特権意識によって他者と自分とを区別し、他者を凌駕し、圧倒し、排除することによって、自らの信仰の立派さや、優位性を強調しようとすることこそ、KFCという団体の理念と深く関わった者たちに共通して見られる病的な誘惑なのだ、と筆者は思わずにいられない。

つまり、まるで受験競争のごとく、他者と競争し、他者に対する優位を勝ち誇ることでしか、彼らは自分の信仰の正しさや立派さを認識することも証明することもできなくなってしまっているのだ。神に賞賛してもらうことを願って、神だけの評価を勝ち得ようと、人の目から隠れたところで努力するのではなく、人前で、他者に対する圧倒的な「優位性」を見せつけるために、しかも、他者を悲しませ、弾き飛ばし、酷評することによって、自分の威力を誇示するために、絶えず他者に対して罠をしかけるような暗黙のルールを作っては、誰かを蹴落とし、辱め、排除し、その一方で、自分は安全圏にいる成功者であり、選ばれた数少ない勝利者なのだと自分に言い聞かせ、こうして常に自分が他者より一段高いところに立っていなければ落ち着かないのである。

そのような見栄に憑りつかれた人々は、神の霊の内なる承認を得ようとして戦っているのではなく、ただ人の目に失格者と見られず、人前に立派な人間だと評価され、支持を失わず、己の威信を誇示し、名誉欲を叶えることだけを第一として生きているのである。だから、結局、彼らを動かしているのは、御言葉ではなく、信仰でもなく、彼らが気にしているのは神の眼差しではなく、この世の評価なのだと言える。

そういう生き方は、純粋な信仰生活とは決して両立しない。そのようにして、歪んだこの世的な価値観に染まってしまった信者たちは、飽くことなく自己の栄光だけを追い求めるようになるので、時には、我が子さえも競争相手とみなし、子供たちから徹底的に出番を奪ったり、子供たちを自分自身が栄誉を得るための手段とみなして利用する。その結果、そういう家庭では、子供の自殺という悲劇が起きることも少なくない。

親たちは自分たちの外見的な見栄を飾るために、子供を一生懸命、「立派な信仰者」に育て上げようとするのである。だが、それはしょせん、自己の見栄のためでしかないので、親の欲望をかなえる道具とされた子供たちは、精神的に追い詰められ、最悪の場合、その苦痛に満ちた束縛から逃れるために、自ら死を選ぶのである。

それは霊的搾取と呼ばれるべき構図であり、それはむろん、信者の家庭内だけでなく、信者と信者との間でも行われる。アッセンブリーズ教団を含め、既存の教団教派でも、指導者の栄光のために信徒が搾取されるということが当然のように行われるが、さらに、組織を持たないと自称している団体の中でも、同じことが起きるのである。KFCのみならず、ゴットホルト・ベック氏の集会など、複数の集会を見学した結果、そのことが、よりはっきりと筆者に理解できるようになった。

今現在、筆者はそのようなシステムをネズミ講と同じものとみなしている。信者が、他の有望そうに見える信者を、自己の栄光を築き上げる道具とするために「スカウト」しては、自分自身が教師然となって、その信者を「弟子化」し、弟子を増やすことによって自分の手柄を増やしながら、無限のピラミッドを築き上げようとするのである。

そういうことが行われているのは、断じて、献金を集めねば存続できない公の宗教団体だけではない。たとえ団体名がついておらず、公の組織が存在していないように見え、あるいはネット上の関わりしかなくとも、それでも、多くの場合、そこには何かの見えないピラミッド・システムが存在し、人間の絆を通して、霊的搾取が連綿と広がっているのである。そこから抜け出るただ一つの方法は、指導者や教師になりたがる人物に決して頼らず、神だけに依存して生きることのみである。
  
以上のような「弟子化」の際によく使われるのが、何らかの霊的先人たちの教えを記した教本である。それを教科書のようにして、古参の信者が新しい信者を自分好みに教育しながら、次第に自らの精神的支配下にからめ取り、自分の栄光を築き上げるための道具として束縛して行くのである。

もしも誰かが、それが霊的搾取のために作られた悪しきピラミッド・システムであるという異常性に気づいて、そこから離脱しようとすると、一斉に、システム全体が彼に敵対する。それまでシステムなど存在しないと思っていた信者も、その時が来ると、自分がピラミッドの末端にいたことに気づかざるを得ない。それまで優しい友・教師・助言者だと思っていた指導者が、実は残酷な支配者でしかなかったことに気づくのも、その時である。

このようなものは、信仰であるかのように装ってはいるが、実のところ、巧妙に作られた信仰生活の偽物に過ぎない。たとえそこに本物の信仰がわずかに存在していたとしても、このようなシステムの中に組み込まれ、拘束されている以上、その信仰も正常に機能しない。だから、もし健全で正しい信仰生活を送ろうと願うなら、信者はいずれこのピラミッドと訣別することが不可欠となる。

クリスチャンのほとんどは組織や団体の中で信仰を持つようになるが、その後で、もしも本当に主の御前に、真実な信仰生活を送ろうと願うならば、どこかで「踏み絵」の瞬間がやって来る。つまり、人間の理解や賞賛や励ましを失いたくないばかりに、神の御言葉を否定してでも、人間の集団の中に残るのか、それとも…。その時に、人間の集団を選ぶと、永久に後戻りが不可能となってしまう。

だから、ピラミッドに組み込まれることを拒否し、空気は読まず、指導者の意を忖度もせず、周囲に波風を立て、「和をもって貴しとしない」生き方を、筆者は恥じるつもりはない。

そのような生き方を生意気だと思ったり、疎ましく思っていた信者たちは存在するし、同調圧力に屈した人々からは、陰口も叩かれていたのであろうが、筆者はそのような非難を、全く苦にしておらず、むしろ、もっと早くから、どうして断固たる不動の決意がなかったのかと思っているくらいだ。

筆者も若く未熟なうちは、それなりの遠慮もあって、20も30も年上の連中に対し、なかなか面と向かって言い出せない数多くの確信を心の内に秘めていた。だが、そのような他者への遠慮は、恐れから来るものでしかなく、百害あって一利なく、余計なしがらみに巻き込まれて無駄に人生を失わないために、早くなくなるに越したことはない、と今は思う。

人への優しさ自体は悪いものではないが、日本人の多くの人々の空気に逆らえず長い物に巻かれる習性は、臆病さと優柔不断さの現れでしかなく、長所ではなく欠点である。何より、クリスチャンは、ご機嫌伺いするなら、人の顔色を読むのでなく、神の顔色をこそ読むべきであるのに、そのことを全く認識していない人々が多い。

もし世に媚びて人の寵愛を失わず「和」に生きたいと願うならば、クリスチャンをやめた方が良いだろう。神の福音を知りながら、世を愛し、世に媚びて、神の救いを拒むくらいならば、福音を最初から知らなかった方が罪が軽く幸福である。そのことを筆者は信者たちに向かってはっきりと断言しておきたい。

最後に、再び話が大きく変わるが、「shueiのメモ」より、「暴力は暴力を、憎悪が憎悪を生みます。これは良い解決策につながりません。わたしたちは、わたしたちの価値観のための戦いを続けます。」という記事も、全文に目を通す価値がある。

これは大きな参考事例だ。大量殺人を行った犯人に対して、ノルウェーはどう接したか? この記事を読むと驚かされる。かつての記事で、歌手のレーナ・マリア(旧姓ヨハンソン)について触れた際、北欧ならではの理念が彼女の教育の背景に存在すると筆者は確信したが、この記事を読むと、またしても、北欧の日本人にはない発想に驚かされる。

ノルウェーと同じ方法を、たとえば、日本で植松容疑者に適用できるだろうか? きっとこの国ではできないだろう。この国ではいつも悪い方に合わせ、厳罰によって対処したような気になって終わるという感情論以上のものがないからだ。しかし、上の記事では、厳罰を下すことによっては、犯人と同じように憎しみに生きることを助長するだけで、社会は何も変わりはしないとはっきり結論づけている。世界の考え方の多様性を学ばされる事例である。

筆者は、最近、日本的な物の考え方の限界をしきりに認識するようになった。それは特に、ピラミッド・システムの中に人を閉じ込め、決してそこから外に出そうとしない「和をもって貴しとなす」という、個性を否定する役割重視の集団性の精神の弊害を痛切に感じるためである。たとえ信仰者でなくとも、人々は、そのような価値観の中からは、既存の体制を是とする以上の何の革新的な発想も生まれて来ないので、閉塞感を覚えざるを得ないであろう。

今、日本政府の凶暴さと利己主義が余すところなく明らかになっているので、その著しい犠牲となっている沖縄の日本からの独立論もネットでは盛んだが、沖縄人でなくとも、この社会のバビロン化した体系からのエクソダスの時が本当に近づいていると感じざるを得ない。このような悪しき体制のもとでは誰も幸福に生きられはしない。

基地問題の他にも、我が国には、福島原発事故処理など、従来のものの考え方では、およそ対処できないような深刻な問題が山積みになっている。ところが、政府には解決を生み出す能力がなく、その意欲も展望もなく、人々の想像力も枯渇しつつあり、西を向いても東を向いても、「神になりたい」だけの人たちばかりの様子に、筆者もほとほとうんざりしている。日本人の謙遜はどこへ消えたのかと思うほど、悪しきイデオロギーが至る所で跋扈し、人々はより尊大に高慢に恥知らずになって行っている。そして、そこには必ず異端の影響がある。悪魔的思想だけが、人間性をそのように腐敗させることが可能なのだ。

だが、たとえそのような異端者たちが、大手を振って弱い者を侮蔑し、踏みにじっては、己が栄耀栄華を誇って、自分たちは特権階級だ、選民だ、と豪語してみたところで、ヒエラルキーの競争は果てしなく、彼らの競争に永遠にゴールはない。グノーシス主義というものは、果てしない差別の階層制なのだと筆者は述べたことがあるが、その果てしない競争こそが、この悪しき異端思想の重大な落とし穴なのである。

どんなに人前に評価を得、どんなに他者を凌駕し、圧倒して、どんなに高みに上ってみたところで、そこにはさらなる競争が待ち受けているだけで、その競争は永遠に終わりがない。だから、そんな競争は、関わった誰一人にも、幸福をもたらさないのである。

さて、天皇の生前退位の問題には、この点で、多くの示唆が含まれていたように思う。むろん、この問題には多くの議論が存在するので、通りすがりに触れられるような単純な事柄ではないが、それにしても、筆者は、天皇自らがお勤めを降りたいと表明したことに、注目せざるを得ないのである。つまり、戦後の天皇の仕事は、一見、国民を慰め、励まし、多くの人たちを支える、人に感謝され、喜ばれる、有益で尊い仕事のように見えたであろう。天皇皇后に出会った人たちはみなそれを誇りにするし、かつての大戦の犠牲者を弔うことも、重要な仕事に見えた。

だが、天皇制は、天皇自身の人間性の否定の上にしか成り立たないことが判明したのである。特に、いつまでもかつての大戦に対する反省と懺悔の仕事を、生きた一人の人間に集中して押しつけるべきなのであろうか? そうすることによって、本当にこの国は責任を果たしたことになるだろうか? むしろ、もっと重要な何かがそれによって覆い隠されてしまっているのではないか? 天皇をありがたがる人たちは、自己の満足と慰めのために他者に強いている犠牲を考えてみるべきなのである。

これと同じように、教師や牧師やリーダーといったものにも、世で考えられ、ありがたがられるような価値も栄光も、本当は全く存在しないのだと筆者は思わずにいられない。それどころか、「人の間で尊ばれるものは神に忌み嫌われる」(ルカ16:15)と聖書にある通り、人の目に貴く輝いて映るものほど、ほとんどの場合、まるで実体がなく、むしろ、そこにあるのはメッキのような偽りの栄光と、祀り上げられた人間の忌まわしい犠牲だけなのである。

だから、筆者は、人の上に立つということ自体が、ある意味で、人間にとっては呪われた所業なのだと思わずにいられない。多くの人たちに乞われて高みに上り、師となり、リーダーとなり、象徴となって、人前に栄光と賞賛を受けることは、決して人間の歩むべき道ではないのだと確信する。猿に失礼なたとえだが、猿のごとく知性の欠けた愚直な人間だけが、そのような地位にしがみつくのであって、誠実に正直に生きる人間ほど、その危険性に早く気がつき、そのような忌むべき場所からは一刻も早く降りたいと願うのではないだろうか。

だから、たとえこの国の99%が虐げられた民であり、侮蔑され、見下されているのだとしても、だからと言って、彼らを踏みにじって勝ち誇る1%に入り込むことが、人間の幸福では全くないのだと確信する。そのようにして他者を凌駕し、君臨するために、果てしない競争の階段を上って高みに立とうとすること自体が、敵の仕掛けた罠であり、それは永遠の競争に人を巻き込むだけで、何の解決も、満足も、人にもたらしはない。

人が人間らしく生きるためには、富を蓄積し高みに上り他者の及びもつかない雲上人(神)を目指すのとは、全く違う価値観が必要なのである。そして、それは自分と他者とを比較して優位を誇ったり、あるいは誰か自分よりも可哀想な人間を見つけて来ては、哀れんだり、助けてやったり、あるいは排除したりして、自分の優位を確認することによって得られるものではなく、人間そのものに生まれながらに備わった、他者との比較によるのではない、自己の個性の独自性を基にしてしか生まれて来ることのない価値観である、という気がしてならない。

たとえば、深海や、空の高いところや、人に知られない地の暗闇に、何のために生きているのかもよく分からないような生態不明の生物もたくさん存在する。そのような生物にも、おそらくは、人には理解できずとも、何かの意味が必ず隠されているのである。自分に理解できないからと言って、その生命には生きる価値がない、とか、無用な存在だ、などと誰が言えるであろうか。人もこれと同じであって、多くの人の注目を集め、賞賛され、もてはやされ、評価され、感謝されて生きることが、人間の価値なのではないのだ。むしろ、そうやって他者を喜ばせ、他者に尊ばれ、ありがたがられ、評価されることばかりを目指して、自己アピールに生きると、結局は、他者を失望させないために、絶えず人目を気にし、他人の評価に踊らされ、それに縛られることになる。他方、たとえ人から理解されず、賞賛を受けずとも、そんなものは初めから度外視して、自らの独自性を存分に発揮して、自分本来に備わった自然な役割と能力を生き生きと発揮できるならば、その方が、はるかに自然で幸福ではないだろうか?

人が生命としてのと自分自身に生まれながらに備わった個性の独自性とは何なのかを理解するためにも、世の特定の集団における人間の「役割」や「有用性」だけを至上の価値とするような、忌むべきピラミッド型収奪システムからは早く永遠にエクソダスした方が良い。

今も大勢の人々が、世の中を思うがままに牛耳り、自分たちの圧倒的な優位を他者に誇示して、弱い者たちや、気に入らない他者を辱め、排除するために作り出した儀式が、至る所で執行されている。受験競争においても、就職戦線においても、教会においても、人々が排除されている。オリンピックも、これに賛同しない人々を「非国民・テロリスト」扱いするために、利用されるのだという噂が根強い。この先、政府を批判し、オリンピックに水を差すような言動を繰り返している人間には、共謀罪が適用されるのではないかという危惧さえ囁かれている。一体、ここはどこの国だろうかというほどの有様である。

つまり、そういった一連の晴れがましい儀式は、ある人々が、気に入らない他者を排除するための「踏み絵」として利用されるかもしれないというわけである。それはKFCで行われた異常な聖餐式のように、一部の「選ばれた特権階級」を、それ以外の人々から区別し、自称「エリート」が勝ち誇るためだけに作られたものだというわけである。

だが、筆者の言いたいことはこうだ。神は不思議な方であるから、たとえそのような悪意に満ちた計画のもとに様々な行事が進められていたとしても、ある瞬間が来ると、神は上からの不思議な知恵によって、人間が考え出した意地悪な「踏み絵」をさっと裏返しにされる。そうすると、それまでエリートだと主張していた人々こそ、実は落ちこぼれであったという事実が公に判明するのである。

それはちょうど主イエスが地上に来られるまでは、人々に宗教的権威とみなされて尊敬を受けていたパリサイ人や律法学者が、主イエスの出現によって、その欺瞞が暴かれ、辱められたのと同じ構図である。聖餐式を拒否したKFCの「自称エリート」たちは、神の恵みを拒んで自己の義によりすがったので、神の恩寵から排除されてしまった。そして、彼らは今や神の敵となって歩んでいる。そして、そのような「自称エリート」からは軽蔑され、排除され、見下されて、非難の対象となっていた者たちが、かえって神の恵みに存分にあずかったのである。

自己の義によりすがり、自らを高く掲げる人間は、神の恩寵から自ら除外されて行き、最後には、神ご自身によって排除される。その法則は、イエス存命当時も今日も、何ら変わらない。

神の恵みは常に水のように低い方へ向かって流れる。また、せき止めておけない。せき止めれば、水は淀み、腐るだけである。だから、神の恵みは誰にも独占できない。それなのに、自分たちはエリートだの、義人だの、選民だの、神だのと言って、他者に対する優位を勝ち誇っては、神の恵みをまるで自分たちだけの専売特許のように誇っている連中は、必ず、最後には、神によって打ち倒され、他者を陥れようと自分がしかけた罠に落ちて終わるだろう。

むろん、そうなる前から、彼らは人々に忌み嫌われ、愛想を尽かされているので、特段、彼らを憎んだり、破滅を願うだけの価値すらもなく、まして復讐する意味など全くないが、ただ、上からの知恵によって、この高慢な愚者らに対する神の手厳しい平手打ちが、一体、どんな形で現れるのか、それだけは注目に値すると筆者は思っている。


己が罪から目を背け、自己を英雄化する日本政府の現実逃避のトリックからはエクソダスせよ

1.日本は真の戦後を未だに迎えていない。戦前と戦後の板挟みの中、歴史の岐路に立つ日本
 
これまで書いて来たように、現在の日本の抱える最大の自己矛盾は、現行の憲法を含め、現在の日本政府の形態、および、国内のすべてのシステムに、敗戦以前の明治憲法時代の体制の遺物が中途半端な形で温存されているために、敗戦によってすでに敗れ、罪に問われ、とうに裁かれ、追放されているはずの勢力と、その悪しきイデオロギーが引き継がれて今日に至っていることから生じる。

つまり、本来、敗戦によって終止符が打たれなければならないはずの思想やシステムが、こっそり仮面をつけかえて戦後の体制に忍び込み、堂々と大手を振ってこの国の頂点に居座り、君臨していることが、この国にさまざまな矛盾と悲劇を呼び起こしている最大の原因なのである。
 
その矛盾の筆頭は、敗戦後、A級戦犯であった岸信介が首相にまでなった事実にも見られるように、「共産主義の脅威に立ち向かう」ことを口実に、米国の承認を受けて、本来は、裁きの対象とされ、公職から完全に追放されていなければならなかった戦前の政治勢力が政界に返り咲き、この国のトップの座に居座り続けたことにある。

政界のトップに、敗戦によって終止符が打たれたはずの勢力が居座り続けたわけだから、我が国に敗戦後も、真の刷新が訪れなかったのは当然である。

国民には敗戦によってあらゆる負い目の意識が植えつけられたかも知れないが、政府には、敗戦によっても変わることのなく戦前と同じイデオロギーが受け継がれたため、国民と政府との間に大きな「ねじれ」が生じたのである。

その「ねじれ」は今日に至るまで、政府と国民との間の巨大な思想的な壁、この国のシステムの抱えるあらゆる自己矛盾となって受け継がれている。
 
さらに、敗戦後も政府に居座り続けた戦前の政治勢力と同様に、明治憲法時代の官僚制の遺物も、戦後の憲法の制定直後から抜け目なく温存されて今日に至っている。それが、我が国第二の悲劇である。

敗戦によって天皇の戦争責任を問うことなしに、天皇制をそのまま温存し、さらに、生まれや、門地、家柄による差別を禁止しながら、皇室だけをその例外とし、天皇という地位が、血筋、生まれ、家柄によって定められるものとしていること自体が、憲法の抱える最大の自己矛盾である。

そして、天皇制が廃止されなかったことをきっかけに、天皇制を隠れ蓑にして、本来、敗戦によって敗れたはずの政治勢力と、官僚制が、抜け目なく自己保存をはかって今日に至っているのである。

つまり、この国は、敗戦を経験しても、上層部はほとんど変わることなく今日に至っているのであり、そのために戦後の政治的刷新が行われなかったことこそが、この国最大の「ねじれ」であり、最大の矛盾であり、国民の悲劇の源なのである。
 
このような自己矛盾があるため、この国では、未だ戦前の遺物と、戦後に作られた新体制のイデオロギーとが激しくせめぎ合い、この国を過去へ引き戻そうとする力と、過去と訣別して未来へ向けて新たな一歩を踏み出そうとする相矛盾する両方の動きが同時に起きているのだと言える。

表面的には、A級戦犯の孫が首相になっていたり、肥大化して国全体を操る官僚システムがあったり、軍国主義や国家神道の復活を願う日本会議の面々によって政府が事実上、占領状態に置かれていることなどから、この国ではあたかも明治憲法時代へ逆戻りしようという勢力が大勢を占め、未来に向けた刷新は絶望的であるように見えるかも知れない。

だが、実際にはそうでなく、天皇の生前退位へ向けたメッセージにも見られるように、そうした歴史的後退の動きを牽制し、むしろ、「真の戦後」に向けて、自己矛盾を取り払い、新たな一歩を踏み出そうとする動きも、ないわけでなく、目立たないように見えながら静かに力強く進行している。

この国はそうした意味で、今、重要な岐路に立たされているのだと言える。筆者は、天皇の生前退位に関する意向表明は、たとえ天皇自身が意図していなかったとしても、やがては必ず天皇制そのものの廃止という議論へとつながって行くであろう極めて重大な問題提起を含んでいることを、思わずにいられない。

明仁天皇の「お気持ち表明」は、天皇とて基本的人権を有すべき一人の人間である、というごく当たり前の事実を表明したものであるが、しかし、現行の憲法と皇室典範の規定では、その当たり前の事実も、当たり前に実現できない、という矛盾が、それによって露呈したのである。

その意見表明により、現行の憲法が規定する国民と皇室との区別という象徴天皇制そのものの抱える自己矛盾が白日の下にさらけ出されたのだと言える。

それゆえ、天皇のメッセージは、天皇を国民とは別格の高みへと押し上げて、天皇を中心としたヒエラルキーをより強化したい人々の願いに応えるどころか、むしろ、それとは逆に、天皇を国民と同じ水準へと「引き下げ」て、天皇と国民との平等化をはかろうとする意味をおのずと含んでいた。

天皇は、天皇という地位だけが独り歩きして、その地位によって自分が現実以上の存在に祀り上げられて栄光化されるのを拒み、むしろ、自分は普通の人間として生き、普通の人間として人生の幕を閉じたいという願いを表明した。

それは明仁天皇という一人の人間の願いであるだけにとどまらず、結局は、天皇を頂点とする虚構のヒエラルキーのみなしさを暴露するものであり、そうである限り、ヒエラルキーそのもの崩壊へとつながる序曲だと言っても差し支えないほどに、衝撃的な意味を持つものと筆者は考えている。

明仁天皇のメッセージは、ただ激務から解放されたいという個人的願いを示すだけのものではなく、天皇であり続けることには、何ら輝かしい栄光はなく、むしろ、一人の人間を生涯に渡って人身御供にしてしまうような、ある種の非人間性が伴うことを無言のうちに明らかにしたのだと言って差し支えない。

従って、そのような告白がなされたこと自体が、天皇を未だ取り巻く神秘のベールを取り払い、天皇を神話化し、栄光化しようとする動きに相当、水を差すものであったことは間違いない。

つまり、そのメッセージ自体が、天皇制を隠れ蓑に、自分たちを「上級国民」として栄光化し、「下級国民」を見下して、ヒエラルキーを強化したい人々にとっては、限りない屈辱であり、著しい敗北だったのではないかと思う。

結局、この「お気持ち表明」を通して、明らかになったのは、現行憲法が定めている、日本国民の間に差別を敷く天皇制そのものが抱える自己矛盾であり、その矛盾が、天皇自身をも人間として犠牲にしていること、また、そのような形で天皇制を維持し、人が生まれによって人の上に立つことを認めたがために、我が国では、天皇ばかりか、敗戦によって終止符が打たれるべきであった旧いヒエラルキーが温存され、国民の間でも、競争が敷かれ、地位や職務ばかりが独り歩きし、社会における役割を離れての一個の個人の価値というものが、全く重視されなかったことである。役割を離れた個人の価値を認めないからこそ、基本的人権も軽視されている。

こうしたことから、筆者は、今回の明仁天皇による「お気持ち表明」は、天皇を基本的人権の例外とみなす自己矛盾の撤廃と、生まれや血筋に基づく差別の完全な撤廃と平等の実現に向けて、やがては天皇制そのものの撤廃へとつながる国民的な議論を呼び起こすであろう、と予測するのである。
 
むろん、明仁天皇は、そのメッセージによって、象徴天皇制自体の廃止の願いを表明したわけではなく、象徴天皇制そのものは国民と共に続いて行くことを願っていたので、天皇自らがそのような希望を述べたわけではない。

また、今はまだ多くの人々が、明仁天皇の生前退位の問題は、個人の問題に過ぎず、大々的な制度的変革の必要性は生じず、まして天皇制の廃止といった話には結びつかない、と考えているかも知れない。だが、筆者の予測では、そうはならない。

明仁天皇の生前退位によって提起された問題は、以上に述べたように、もっと根本的な重みをもつ問題提起なのであり、そうである限り、いずれ必ず、皇室や天皇制そのものの廃止という議論へとつながって行くことであろうと思う。
 
こうして、奇妙なきっかけであったとはいえ、今まで一度もこの国に姿を現したことのなかった真の民主主義へ向けての展望が、天皇自らの生前退位を示唆する意向表明によって、わずかながら姿を見せ始めた。

たとえこれをどんなに妨げようと考える勢力がいたとしても、一旦、始まった動きはいつの日か必ず成就されるであろうと筆者は思う。

さて、この生前退位の問題に関して、天木直人氏のブログに極めて重要な指摘があったため、転載しておきたい。

天木氏の記事における重要なポイントは、現在の皇室典範は、明治憲法時代の旧皇室典範の精神をそのまま受け継いだものだということである。

明治憲法時代の旧皇室典範は、皇族についての家法でありながら、憲法と同格の法規とみなされ、なおかつ、国民をも束縛する内容であった。戦後の皇室典範は、憲法と同格ではなく、憲法の規定に従って作られた下位法に過ぎず、国民は議会を通じてこれを改変することができ、皇室典範が国民を縛るとこともない。

だが、安倍政権を含め、極右・保守勢力は、この秩序を再び逆にして、憲法を貶めたいのであろう。彼らは皇室典範は改正せずに、憲法だけを改正することによって、憲法の精神を愚弄し、さらには将来的には、皇室典範を憲法の上位に置いて、再び天皇の名の下に国民を束縛することを主眼としているのだと考えられる。

「皇室典範は壊憲派にとっての9条だ」などと世間で言われたりするのも、こうした理由からである。だからこそ、天皇の生前退位に関しても、安倍政権は皇室典範を改正することを嫌がり、この問題を特別立法によって済まそうとしているのである。
 
つまり、彼らの目には、今も憲法と同等の(それ以上の)法規と見えており、本当は彼らが憲法につけ加えようとしている緊急事態条項などにもまして、天皇の名の下に、国民の人権を再び大規模に抑圧することが狙いであって、皇室典範こそ、それを正当化するための精神的根拠なのであろう。
 

天木直人氏のブログ記事
皇室典範は国民の手で改正しなければいけない」から転載
2016年8月17日

 国民の圧倒的多数(8割-9割)が天皇陛下の生前退位を支持する事が分かった以上、もはや安倍政権はそれを認めるざるを得ない。

 本来ならば皇室典範の改正が本筋であるが、メディアがはやばやと報
じたように、安倍政権は特別立法で乗り切るつもりだ。

 なぜか。

 
その理由を発売中のサンデー毎日(8月28日号)でノンフィクション作家・評論家の保阪正康氏が、で見事に言い当てくれた。

 すなわち、彼は「平成の玉音放送を読み解く」と題する特別寄稿の中で、皇室典範に関して次のように書いている。

 「・・・大日本帝国憲法成立と旧皇室典範はほぼ同時期に成立していて、いわば近代日本の天皇制はこの二つの枠組みで決まっていた。天皇はこの国の主権者であり、統治権、統帥権の総攬者であった。これに反して新憲法の成立とやはりほぼ同時期に決まった新しい皇室典範は、本来なら新憲法と併せて象徴天皇の両輪になるはずであった。

ところが、
たとえば新憲法では、国民の市民的権利を認める民主主義の創設を謳っているにもかかわらず、新しい皇室典範は旧皇室典範を踏襲した形になっていた・・・つまり今の憲法と皇室典範には、共通の回路があるわけではない。二つの枠組みには異質なものが抱え込まれている・・」

 賢明な読者なら、この指摘がいかに深刻な意味を持っているか、お分かりだろう。

 つまり新憲法は天皇制に関しては明示憲法の考え方を引き継いでいるということだ。

 そして天皇制に関して明治憲法の考えを引き継いでいるということは、新憲法は民主主義と明治憲法の相反する矛盾を抱えているということだ。

 この矛盾に私は気づかなかった。

 いや国民のほとんどは気づいていないに違いない。

 新憲法の成立過程は国民の手に及ばないところで作られた。

 しかし皇室典範はもっと国民の手の届かないところで作られ、その存在は国民の意識の外にあり続けたのだ。

 天皇陛下の生前退位によって皇室典範の改正が不可避になった以上、我々は、特別立法というごまかしではなく、いまこそ皇室典範の改正を求めなければいけない。

 すなわち国民の手で、皇室典範を、新憲法の定める民主主義、基本的人権尊重の精神にしたがって、作り直す必要があるのだ。

  明治時代への回帰を求める国粋・右翼の連中が、おそれおおくも天皇陛下の生前退位のお言葉に不快感を抱き、皇室典範の改正に反対する理由が、これではっきりした。

 日本が本当の意味で民主主義国家になれるかどうか。

 いま我々は歴史の大きな転換期に立たされているのである。

 天皇陛下が覚悟を持って示されたお言葉を、特別立法でごまかしては日本に民主主義はやってこない(了)

 

このように、我が国では、法的にも、民主主義を阻む戦前の遺物と、民主主義へ向けた新たな一歩と、全く相矛盾する二つの理念が未だ併存し、対立している状態で、戦後70年が経過しても、未だ過渡期のような状態である。だが、そうであるがゆえに、今、極めて重大な分岐点に差し掛かっているのだと言える。
 
時計の針を逆戻して歴史をさかさまにすることは誰にもできない以上、今はどんなに弱く小さく見えても、時代を前進させ、刷新する動きの方が最終的には勝つであろう。
 
さらに、天皇制の次に廃止されなければならないものが、官僚制度である。
 
 明治憲法下では、 主権者は天皇であるとされており、行政官庁は天皇の直属の機関であり、官僚は天皇の僕ということになっていたので、天皇に仕えるという名目で、官吏には特権的な社会的地位を得、身分保障がされていた。さらに、官吏の人事は、議会も関与できない「聖域」であった。

戦後になっても、事情はあまり変わらず、戦後、官僚は天皇の僕ではなく、国民の公僕と定められている。しかし、現実には、官僚には国民の公僕との意識は全くと言ってよいほど存在しない。天皇の直属の機関でなくなってもなお、官僚には国民が主人なのだという意識はなく、かえって自分たちは国民に君臨する存在だという意識に貫かれている。

悪しき上級キャリア試験に合格したというエリート意識が、彼らの国民への優越感をより一層助長しており、そうした官僚の特権的・優越的な意識と、その意識に基づいて、彼らが現実に作り上げ、維持している、肥大化したモンスター・天下り・システムも、結局は、「神である天皇に直接仕える官吏」という戦前の幻のような自惚れと特権意識をそのまま今日まで引きずることによって正当化されている。

そのような官僚の優越感と特権意識は、憲法が中途半端に天皇制を温存したがゆえに、これを隠れ蓑に正当化されているのだと言える。官僚には敗戦後も何ら精神的刷新が訪れず、戦前と変わらず、自分たちは国民に君臨する特権階級だという意識が持ち続けられ、そのために、現在も、自らの優越的地位を正当化し、手放さないのである。

また、官僚の人事が「聖域」であるという事情も変わらず、国家公務員は若くして国家公務員試験に合格し、省庁に採用されさえすれば、よほどの不祥事を起こして世間を騒がせたり、あるいは組織内部の判断によって降格されたり罷免されたりといったことが起きなければ、誰からも出世コースを阻まれることがない。

官僚のエリート意識を生んでいる一つの大きな要因は、官僚の登用試験制度である。戦前の官吏が試験を通じて登用されたのと同様に、今日も官僚は試験によって採用され、しかも、キャリアとノンキャリを区別するエリート専用の試験が設けられている点も、戦前と同じである。
 
このように画一的な、生涯に渡る出世のコースが限定されてしまうような試験の区別がなされていること自体、極めて深刻な問題であるが、それは戦前の制度を今日に継承して成り立っている。
 
こうして官僚の出世の可能性はおおよそ試験の結果によって決まって行く。民間企業にも、入社試験なるものはあるが、その試験が、入社後の人事に半永久的に影響を及ぼすことは決してない。さらに今日、民間企業にはアファーマティブ・アクションの一環で、障害者雇用の枠なども義務付けられているが、国家官僚にはそれもなく、経験者採用の枠組みも狭く、官僚になるには、基本的には、一定年齢の間に公務員試験に合格する以外には道がなく、たった一度の試験結果がほとんど生涯に渡って影響を及ぼすのである。

そんな制度自体が、年齢や能力に基づいた差別であり、しかも、そのような画一的な試験に高得点で合格した人間こそが、真に官僚にふさわしい人間だと判断できるだけの客観的な根拠は、全くどこにも存在しない。

明治時代、当初は官吏の試験を受けることのできるメンバー自体も限られており、学歴や卒業校による差別も行なわれていた。

その後、官吏になるための試験は国民の誰もが受けられるという体裁にはなったが、それも表向きのことであり、実際には、戦後の今でさえ、東大(法学部)卒がキャリア官僚の大半を占めるという構図は変わっていない。

こうしたシステムはすべて明治時代に作られた官吏の制度に起因しており、それが敗戦を経ても、本質的に変化することなく今日に精神的に受け継がれている。

だが、こうしたシステムは、戦後の憲法の時代、何ら正当な根拠を持つものではない。
 
このように、日本では、天皇制を筆頭として、官僚制も温存され、政治的刷新がなされなかった。戦後の憲法でさえ、完全な政治的刷新を拒む不完全さと矛盾を抱えており、そこにあらゆる戦前の悪しき勢力がつけ込み、自己保存をはかった結果、不完全な憲法の中にこめられたなけなしの新時代の理念さえ、骨抜きにされ、愚弄されて、今日まで一度も完全な形で実現を見ていない。

たとえば、戦争放棄や、非核三原則でさえ、米軍基地が置かれたことや、自衛隊の設置により、骨抜きにされ、日本国憲法が基本的人権によって保障している最低限度の生活や、居住移転職業選択の自由といったものも、定められてから一度たりとも国民の間で完全な形で実行されたことはない。
 
憲法の定める差別の禁止や平等などは謳い文句に過ぎず、今も我が国に根強く存在するのは、幼い頃から学校で良い成績を取り、偏差値優秀な大学を卒業し、官庁やエリート企業に勤め、そのエリートコースから外れなかった者だけが、社会の最上層部で特権的で裕福な生活を享受でき、自由を謳歌できるという幻想であり、他方、エリートコースから逸れた者には、その外れた分だけ、人間としての自由や権利が制限されて行く、という歪んだ価値観が横行している。

就職による新卒・既卒の区別など、法的には何の根拠のない差別でしかないのに、そのようなものが「慣習」として大手を振ってまかり通り、そのような悪しきヒエラルキーを容認し、正当化する最たる制度として、受験競争の上に官僚制度が君臨しているのである。
 
おそらくは、官僚制度がなくならない限り、日本特有の「受験戦争」や「就活」の異常な風景もなくなることはきっとないであろうという気がしてならない。

こうして、日本国憲法の理念は、戦前に作られてとうに撤廃されてしかるべき悪しきヒエラルキーによって、成立から今日に至るまで、絶え間なく踏みにじられ、愚弄され、骨抜きにされている。そのせいで、我が国では一度もきちんと完全に実行されたことがない。ところが、この憲法を、実行もされないうちから、時代遅れなものとして撤廃しようという動きが出ていることには、呆れる他にない。その理由として、そうした動きを助長する人々は、この憲法は「米国から押しつけられたものだった」と言う。

だが、実際には、日本国憲法は「押しつけ憲法」などではなかったのであり、つい先日も、「「9条は幣原首相が提案」マッカーサー、書簡に明記 「押しつけ憲法」否定の新史料」(東京新聞 2016年8月12日 朝刊)という記事により、また新たな裏付づが得られたばかりである。

ところが、こうしたニュースも、国民の目を欺きたい勢力は、トリックによってかき消そうと、「魔法」に余念がなく、「日本の憲法「我々が書いた」…米副大統領」(YOMIURI ONLIEN 2016年08月16日)といった情報を盛んに御用メディアで流布し、何とかして、戦後の憲法は米国から押しつけられたものだったのだ、という歪曲された歴史観を強化しようと試みている。

だが、たとえ現在の米副大統領が「我々が書いた」と発言したからと言って、当時の証拠もなしに、そんな発言だけを頼りに、日本国憲法が押しつけだったという論拠とするのは愚かであろうし、そんな試みは後世の人々による歴史の書き変えの一環に過ぎない。

しかも、このような傲慢な発言の真に言わんとしているメッセージは、結局、「世界のどの国であろうと、我々米国人は、その国の憲法をないがしろにし、いくらでも自分たちに都合の良いように書き変える権利を持っているのだ」という、他国の主権の否定と他国への愚弄の意図に他ならない。

もし我が国が、そんな聞き捨てならないプロパガンダに乗って、一度も完全に実現されたことのない憲法を「押しつけ」だの「時代遅れ」だの「みっともない憲法」だのと言って、時の政権に都合よく改変するようなことがあれば、その時こそ、米国の「押しつけ憲法」が成立し、この国の主権は蹂躙され、もはや無法地帯同然となるだけである。

そもそも、最高法規で何を定めていても、それに違反する現状がすべてに優先するというのであれば、憲法のみならず、どんな法の定めも、すべて単なる「絵空事」に過ぎないことになり、現場でやりたいようにやった者勝ちの世界が成立する。そんなことならば、見かけだけ文明国をきどるためのまやかしの法など全て捨てて、文字も持たない未開の野蛮人に戻り、実力だけにすがって生きるのが最も手っ取り早いであろう。

戦後の平和憲法を「みっともない押しつけ憲法」だと呼んでいる者たちは、しょせん、戦犯の子孫であったり、あるいは、戦前の官吏の制度をそっくり継承して国民に君臨する官僚であったり、ほとんどがトリックによって現在の政府に入りこんだ戦前の政治勢力に過ぎない。
 
要するに彼らは、自分たちの存在そのものの違憲性が暴かれ、自分たちの無法行為が暴かれ、罪に問われたりしないように、法を骨抜きにして「やりたいようにやった」者勝ちの世界を正当化しようと、彼らを罪に問える憲法自体を自分たちに都合よく別物に変えてしまおうとしているだけである。
  
戦犯の子孫である彼らのみならず、彼らが戦犯であることを重々知りながらも、日本を「反共の砦」とするために、また、永久に属国化するために、あえてこのような犯罪者集団をこの国の政権の座につけた米国とが協力して、彼ら両方のはかりしれない重い罪を覆い隠すために、壊憲を実現しようとしているだけである。
 
今日、世界中の国々で、ネオナチ・前科者などの忌むべき犯罪集団を積極的に政権の座につけることにより、クーデター同然にその国を乗っ取り、犯罪集団のもたらす恐怖によってその国民を支配しているのが米国であり、ウクライナを例に、我が国への米国支配のあり方をも十分に学ぶことができよう。
  
こうした人々は自らの罪を否定し、自分たちが不法に獲得した特権的地位を保つために、自分たちを罪に問う力を持つ法そのものを否定し、これを歪曲し、自分たちがあらゆる法規を超える存在(神)になろうとしているだけである。


2.映画『シン・ゴジラ』に見る日本政府の妄想的な自己美化願望
  

いつの世も同じことの繰り返しである。止めようのないものは止められぬし、殺せようのないものは殺せない。時にはそれが、自分の中に住んでいることもある。「魔物」である。

仮定された「脳内宇宙」の理想郷で、無限に暗くそして深い腐臭漂う心の独房の中… 死霊の如く立ちつくし、虚空を見つめる魔物の目にはいったい何が見えているのであろうか。「理解」に苦しまざるを得ないのである。 

・・・

大多数の人たちは魔物を、心の中と同じように外見も怪物的だと思いがちであるが、事実は全くそれに反している。通常、現実の魔物は、本当に普通な彼の兄弟や両親たち以上に普通に見えるし、実際そのように振る舞う。彼は徳そのものが持っている内容以上の徳を持っているかの如く人に思わせてしまう… ちょうど、蝋で作ったバラのつぼみやプラスチックでできた桃の方が、実物が不完全な形であったのに、俺たちの目にはより完璧に見え、バラのつぼみや桃はこういう風でなければならないんだと俺たちが思い込んでしまうように。

今まで生きてきた中で、敵とはほぼ当たり前の存在のように思える。良き敵、悪い敵、愉快な敵、不愉快な敵、破滅させられそうになった敵。しかし、最近、このような敵はどれもとるに足りぬちっぽけな存在であることに気づいた。そして一つの「答え」が俺の脳裏を駆け巡った。

「人生において、最大の敵とは自分自身なのである」


さて、次は『シン・ゴジラ』について書きたい。

映画はすべて未来へ向けて人々の意識を誘導する意図を込めて作られるものである。だから、この映画についても、国民をどのような未来へと誘導しようとして作られたのか、隠されたストーリーを疑わないわけにはいかない。

筆者は、この映画は、戦争と緊急事態へ向けての布石であり、かなり巧妙かつ悪質な政府のプロパガンダ映画であるという印象を受けた。むろん、この映画は政府が制作したものでないとはいえ、その筋書きは、強く政府の意向を反映したものとなっていると感じざるを得ない。

この映画に関しては、「『シン・ゴジラ』に覚えた“違和感”の正体〜繰り返し発露する日本人の「儚い願望」」(現代ビジネス 2016年08月13日)にも見られるように、すでにかなりの批判の声も上がっている。

筆者の観点から見ても、この映画の最も遺憾な点は、これが「主権在民」とは程遠く、むしろそれとは正反対の「主権在官」と言っても良い「官主導」の観点だけから作られた、国民を軽視し、政治家と官僚だけを英雄視する政府の太鼓持ち的なストーリーとなっている点だ。

さらに、悪質で許しがたいと感じられる数々の印象操作がこの映画では堂々と行われている。ゴジラという架空生物を登場させて、政府を「ゴジラを退治する正義の味方」として描き出すことによって、本来、福島原発事故によって、東京を含め、全国にまき散らされた放射能汚染に関して政府が現実に負っている責任をごまかし、ファンタジーによって薄め、被災地への復興支援の遅れの責任なども曖昧化し、震災関連で起きた政府の全ての対応の無責任という現実を、ゴジラに転嫁してことを済ませることが、真の目的だとしか思えないほど、フィクションとは言え、許しがたい印象操作がなされている。

さらに、そのような印象に追い打ちをかけるように、ゴジラを口実にした、首相権限による超法的な「緊急事態・戒厳令」の制定、さらには自衛隊による国内での武力行使や、まるで特攻隊の再来のような、自衛隊員によるゴジラへの決死の体当たり作戦といった、人権の軽視、生命の軽視を念頭に置いた刷り込みが行われ、まるで国民に「緊急事態だになれば、人権停止も、武力行使による人的犠牲も、やむを得ないのだ」と、予め心の準備をさせることを目的としているとしか思えない筋書きが込められている。

これらのことを考慮すると、筆者には、これは福島原発事故によって生じた放射能汚染の被害に関する日本政府責任を覆い隠し、政府を「英雄化」した上で、さらには「有事」を口実に、政府の権限を無制限に拡大し、政府主導で緊急事態を宣言して国民の人権を停止するという来るべき将来の事態に向けて、国民を心理的に「地ならし」するために作られたプロパガンダ映画だとしか思えないのである。
 
もしかすると、この作品は、これまでに作られたどのゴジラ映画のストーリーともほぼ正反対の筋書きになっているのではないかと怪しまれてならない。
 
海外では、福島原発事故後、東電及び日本政府の無責任な対応について、以下のような皮肉な風刺画も描かれ、つまり日本政府こそ、人類に危害を与えるゴジラだ、と揶揄されたのである。

ところが、この映画では、まるでこうした批判をかわし、あざ笑うかのように、汚染水垂れ流しの無責任のために、「おまえこそがゴジラだ」、と国際的に非難を浴びているはずの日本政府が、「放射能をまき散らすゴジラを退治する英雄」にすり替わっている。
 
その意味で、『シン・ゴジラ』という映画自体が、東電と日本政府とが、空想の中に逃げ込むことによって、現実に起きた災害から目をそむけ、それに対する自らの対策不足と、無責任という罪から逃げ、自己を英雄視するための、架空のありもしないストーリーを思い描いて現実逃避し、そこに国民を巻き込みながら、自己肯定・自己安堵するために作られた大がかりな(自己美化のための)「装置」なのだと感じられてならない。

 

画像の出典:"Fukushima: Japan building giant ice wall as TEPCO gets go ahead"
(The News Doctors. May 28, 2014) フクシュビッツのホロコースト

しかも、この映画には、随所で3.11で現実に起きた出来事を模して作ったとしか思えない映像がちりばめられている。

たとえば、作品に登場する政府の対策本部の人々の着ている濃いブルーの防災服は、福島原発事故直後、菅直人元首相、東電勝俣元会長らが着ていた防災服とカラーが一致し、当時の政府と東電責任者を強く思い起こさせるものとなっているが、これも決して偶然ではなかろう。
  
上記の面々、特に東電の責任者らは、3.11当時、この国を滅亡へ導くほどの未曾有の原発事故の責任を問われ、ひたすら国民の前に謝罪と対応を求められていた「戦犯」たちであるが、映画では、そのような面々を思わせる登場人物が、勇敢にゴジラと闘って国を救うヒーローのように登場しているところに、これらの「戦犯」を「名誉回復」しよう、という隠れた意図を感じざるを得ない。登場人物の風貌も、どこかしら東電の吉田所長や、勝俣元会長などを思い起こさせるのは偶然であろうか?

事故後初めて記者会見し、頭を下げる東京電力の勝俣恒久会長(中)ら=30日午後、東京都千代田区

(写真の出典(上):日本経済新聞「3月30日」(2011/3/30)事故後初めて記者会見し、頭を下げる東京電力の勝俣恒久会長(中)ら=30日午後、東京都千代田区)
 (下二枚):「シン・ゴジラ 予告」より 
 


 
 


(写真の出典(上):「【菅直人氏インタビュー(中)】 原発から逃げたら、日本は国として成り立たないと思った」WEBRONZA 2012年06月15日
  (下):「シン・ゴジラ 予告」より

 

しかも、この映画では、3.11で起きた災害の様子を強く思い出させるようなシーンが、「ゴジラの脅威」にすり替えられて使われているため、現実に起きた自然災害の脅威を、人々に忘れさせる効果がある。

東電福島原発がまき散らした放射能被害に対する政府と東電の無責任を問う国民の怒りの声も、すべてゴジラへの怒りの声にすり替えられ、今でも、連日のように、国会議事堂周辺で繰り広げられる反原発デモの怒号も、「ゴジラを倒せ」という架空の存在への怒りへと置き換えられる。 

こうして、この映画は、フィクションでありながらも、現実に存在する様々な現象を、その意味を巧みに歪曲し、すり替える効果を持っており、結果として、非常に巧妙かつ狡猾な形で、政府にとって都合の良い「概念のすり替え」を、観客に刷り込み、結果として、現実に起きたあらゆる災害についての政府責任を免罪するかのような心理的効果を観客にもたらすものとなっている。

また、この映画では、国民の人権は軽視され、あえて言うならば、時代錯誤な「国体護持」以上の「理想」が何ら提示されていない。

つまり、この映画のストーリーが目指している「解決」とは、要するに、主都と政府機能が壊滅しないことにより、日本という国が体制の変革を迫られることなく、滅亡せずに存続する(現代版の「国体護持」)ことを解決とみなす、という以上のものではない。
 
人間一人一人の命よりも、「国を守る」ことの方が優先なのである。東京が壊滅しなかったことが、国全体が助かったことと同一視され、時代遅れで無能な政府が、ゴジラによってさえも終止符を打たれず、中途半端に生き永らえたことが、物語の中で、一種の「ハッピーエンド」のようにとらえられる。
 
この(現代版)「国体護持」は、おびただしい数の国民の人権の抑圧と、多数の自衛隊員の犠牲と引き換えにもたらされたものであるが、その犠牲者も、ゴジラの脅威が去って国が滅びなかったという喜びに影を落とすものではない。

こうして、国民の犠牲や、自衛隊員の死が悲劇としてはとらえられず、人間を道具のように扱いながら、どこまでも政府の作戦だけにスポットライトを当てて、その成功を祝う人命軽視のストーリーに感じる違和感は、現存の政府が抱える思想的な欠陥を、そのまま浮き彫りにしたものだと言えよう。

この物語では、政府が「主役」として高められる一方で、国民には暗黙のうちに蔑視的な眼差しが向けられる。

国民一人一人は、自らの意志で決断・行動する生きた「主体」ではなく、常に外的現象の影響力に振り回される「客体」でしかなく、ゴジラの姿を見ても危険を覚えず、スマホでの撮影に熱中したり、避難の最中にも悪ふざけしてはしゃぐような、何の危機感もない愚かな連中でしかない。メディアを通して政府から一方的に与えられる情報や指示や手助けにすがることなくして、自分自身では何らの自己管理も、正しい判断も下せないような「愚民」の集合体にされてしまっている。

そんな知性の欠ける大衆だから、災害時にはただ恐怖に逃げ惑う群衆と化し、ついに政府主導の緊急事態に基づく戒厳令によって、人権も停止され、無理やり疎開させられたり、外出もできず、缶詰のように家に閉じ込められても当然の存在ということになり、国民は徹頭徹尾、生きた人間としての自己決定権や、主体性を奪われた哀れな群衆・被災者でしかなく、政府とゴジラとの勇敢な闘いというストーリーから排除されて脇役に追いやられた黒子でしかない。

この映画を観て思い浮かぶことは、政府が勇敢にゴジラと闘う英雄となっている間、行き場もなく疎開させられ、戒厳令により家屋に閉じ込められ、帰宅難民となっていた何十万もの人々は、何を感じていたのだろうかという疑問である。3.11の時のように、彼らはテレビを通して発表される嘘だらけの政府報道に釘づけになっていたのであろうか?
 
3.11のあの時、主役どころか、悪役のトップであったはずの政府や東電のメンバーが、「ゴジラとの闘い」というフィクションの舞台で、国民を押しのけて、厚かましくも主役として舞い戻って来たのだという奇妙な既視感が生じざるを得ない。

ゴジラの破壊力の大きさを示し、群衆の恐怖を伝えるためのシーンでは、津波に追われながら、町中を逃げ惑う人々や、泥水に無残に押し流された家屋や、車、津波にさらわれてがれきの山となり、荒廃した町の様子など、現実に起きた3.11の被害を強く思い起こさせるいくつもの映像が登場する。

がれきの山を目の前に、呆然と佇む人間を見ても、それがフィクションだとは思えないほどに、3.11の災害の記憶はまだ我々の脳裏に鮮明である。正直、現実に起きた災害の場面を、こうしたフィクションに活用すること自体に、正直、映画といえども、深刻な疑問を感じざるを得ない。
 
 

写真の出典(上):「被災地のがれき処理は軌道に乗るか」(WEBRONZA 2012年04月19日)
 (下):「シン・ゴジラ 予告」より

 

3.11のみならず、熊本地震も含め、現実に起きた災害では、今も立ち上がれないでいる多くの被災者が存在する。そうした被災者には、映画のように、「ゴジラが退治されて良かったね!!」などと安堵して、避難所で手を取り合って喜ぶような余裕は全く存在しない。現実には重い被害だけが残り、今もその痛手を無言のうちに背負いつつ、避難所暮らしを余儀なくされている。

にもかかわらず、ゴジラという架空の生物を設定すれば、こうした人々の生活が元通りになっていないのに、あたかもハッピーエンドが訪れたかのような錯覚を人々に起こさせ、現実に起きた災害の苦しみから、意識をそらすことができる。こうしたごまかしは、たとえフィクションと言っても、許されるべきものであろうか?

この映画には、現実に起きた巨大災害、しかも、未解決の災害の映像をふんだんに参考材料にしながら、それを「ゴジラが原因で引き起こされた災害」にすり替えることによって、今も政府によって見捨てられたも同然に、被災地に置き去りにされ、被害から立ち上がれないでいる人々の苦しみや、復興に至っていない地域の苦しみをごまかし、こうした生きた現実を忘却させ、風化させて、政府の無能さと無責任からも人々の目をそらし、現実のすべての深刻な問題の重さと教訓を、フィクションの軽さにすり替える効果がある。

さらに、政府を英雄化することによって、観客の意識をまるごと架空の世界に逃避させて、政府の責任を忘れさせるだけでなく、現実に今、実際に何が起きているのかを忘れさせようとするトリックが随所にしかけられているように思われてならない。
 
  たとえ映画といえども、このようなフィクションは、忘れてはならない災害の教訓をより風化させることに貢献するだけであって、しかも、3.11は、自然災害と人災の組み合わさったものであって、その災害は、いついかなる場合にも繰り返されうる生きた教訓であるにも関わらず、それさえ、ゴジラの脅威にすり替えることによって、嘲笑するかのように、ないがしろにし、忘れさせてしまうものであると感じられてならない。

ゴジラの脅威に対する対策は全く必要ないが、すでに起きた自然災害への教訓は、未来へ生かさなければならない。そうしなければ、二度、三度でも、同じことが起きうる。にも関わらず、現実の政府は、過去の教訓に一切、学ぼうともせず、そこから目を背け、適切な避難計画さえもないまま、原発を無理やり再稼働させているような有様である。
 
この映画は、そのような政府の暴挙を人々に忘れさせて、国民に向かって「あなたがた愚民は、自分で考えたり、行動しようとはせず、政府の指示にさえ従っておけば、それで良いのですよ」と訴えかけ、そうした考えを刷り込む効果を持っているようにしか見えないのである。

結果として、この映画は、3.11とその結果起きた原発事故の被害についての政府責任をごまかし、自然災害の教訓を生かす対策が何ら取られないまま、政府による原発再稼働という狂気の策が実行されている恐ろしい現実を、ゴジラの脅威という架空の物語と合わせることによって、巧妙にごまかそうとするトリックだとしか考えられないのである。

しかも、この映画のストーリーは、現実に起きた災害だけでなく、未来に起きうるであろう災害からも人々の目をそらさせる効果を持っている。

すでに指摘されていることであるが、物語の政府は、あり得ないほど美化された政府であって、現実の日本政府には、映画に見られるような危機管理能力は全く存在しない。福島原発事故に際しても、政府も東電も、チェルノブイリ原発事故を石棺化するために身を投じたリクヴィダートルのような「決死隊」を組むことができなかったのだから、たとえ相手がゴジラであっても、そのような決断はこの国の人々には決してできはしない。

フィクションだからこそ、そのような「英断」が可能となるのだが、それでも、フィクションの世界でさえ、そのような「ヒロイズム」は、勇気ある美しいストーリーというよりも、戦前の特攻のような人命軽視の精神の上にしか成り立たない痛ましい犠牲だと思わずにいられない。

ゴジラへの自衛隊員の突撃シーンで思い起こされるのは、安倍内閣の解釈改憲のために、「駆けつけ警護」などを命じられ、世界の戦闘地域に実際にこれから派遣されようとしている自衛隊員の苦悩である。


ゴジラと闘わされた自衛隊員は多くが死出の旅路へ赴かされ、生還しても、トモダチ作戦以上の被爆が予想されるわけだが、このような「特攻」の任務を帯びた自衛隊員の苦悩には、映画では全くスポットライトが当てられない。ただ彼らの死と引き換えに東京が守られ、「国体が護持された」ことが、政府の作戦の成功をもたらす自衛隊の快挙とみなされるだけである。

さらに、ゴジラの危機のために、民間企業も操業を停止して、戒厳令が敷かれて国民生活は根こそぎ奪われ、すべての国民が個人生活を犠牲にして、国家総動員体制によって、ゴジラ駆逐に励んだことが、国民の団結と、ヒロイズムとして賛美される。そのような価値観自体が、敗戦と共にとうに死んで終わったものではなかったのだろうか?

しかも、さらに悪いことに、この映画では、ゴジラ駆除のための米国と国連による核の先制使用の提案に、日本政府が勇気ある反対を唱えて国土を守ったことになっているが、現実には、恐ろしいことに、「安倍首相 核先制不使用、米司令官に反対伝える 米紙報道」(毎日新聞 2016年8月16日)とのニュースにも明確に表れているように、日本政府こそが、オバマ大統領が宣言しようとしている核の先制不使用に対して、今もって猛烈に反対を唱えて、日本の国土を危険にさらしている張本人なのである。この映画はそのことも人々に忘れさせてしまう。

映画は、国土を守り、国民の命を心配する、ありもしない英雄的な日本政府の姿を描き出すことによって、実際にこの政府が行って来たすべての無責任行為と悪しきイデオロギーを覆い隠し、この国の政府の真の姿を隠す効果を持つのである。

このように、この映画には、我々が決して目を背けてはならない現実の深刻な出来事に関する様々な概念のすり替え・歪曲が満ちており、とりわけ、政府や東電の「戦犯」を免罪し、現実には国民を救えなかった無力で無責任な政府を、現実を無視して美化し、英雄化するという偽りのプロパガンダ的ストーリー立てが強く感じられるものとなっている。

要するに、この映画は、3.11と福島原発事故に今もって全く対処できておらず、その教訓を、将来的に起きうる災害への備えとして生かすこともせず、現実から目を背け続けて原発再稼働に走っているだけの無能な日本政府を美化し、しかも、国民をそのような無力かつ無責任な政府の助けなしには生きられない「愚民」として描き出すことにより、この国の歪んだ統治体制がいついつまでも変革されることもなく、永久に変わらないことを願って作られたものだとしか思えないのである。

この映画に天皇は登場しない。なぜなら、この映画の「主権者」は、事実上、国民でもなく、天皇でもなく、官僚だからである。「この国はまだまだいける」とか、「戦後は続くよどこまでも」といったような言葉さえも、実のところ、官僚主導の統治体制を賛美するものなのであって、官僚独自の「君が代」なのだと感じられてならない。

現実の日本政府は、英雄どころか、極度に追い詰められているはずであり、ジャパン・アズ・ナンバーワンの時代は過去となり、アベノミクスには成果がなく、福島原発事故の収束にはめどが立たず、国際的にも事故処理の遅れを非難され、しかも、平和憲法を骨抜きにし、挑発的で好戦的な軍国主義的スローガンばかりを唱えているので、周辺諸国との関係は悪化し、いつ戦争に巻き込まれてもおかしくなく、その戦争を勝ち抜くだけの国力はこの国にはもうないのに、軍備をいたずらに増強している。再稼働した原発がいつ災害に見舞われ、二度目、三度目のフクシマが起きてもおかしくないが、原発を断念するだけのひとかけらの知恵もない。

かつての敗戦時と同じように、こんな体制には、できるだけ早く何かの政治的変革によって終止符が打たれなければ、我が国がまるごと滅亡し、未来をつなげないところまで来てしまっている。

このように、脅威はゴジラなどでなく、現存する日本政府にこそあり、政府は、自然の摂理を無視して自滅へと向かっているのに、この映画は、政府の罪を免罪する上、未だ国体の護持だけが最高の理想という考え方を全く脱し切れていない。その国体も、結局、敗戦によって敗れたはずの政治家と官僚制を永遠に温存するための体制でしかないのである。

この映画は、「ゴジラ」という仮想敵を作り出すことによって、本来は、日本政府そのものの中に潜んでいるはずの「魔物」を、巧妙に政府から分離・抽出して、この架空生物だけに一身に投影した。それによって、あたかも政府には罪がないかのように、政府が現実に担うべき責任を曖昧化し、ごまかしている。
 
さらに、「ゴジラ」という人類共通の敵を口実にしさえすれば、政府はいくらでも軍備を増強し、首相判断で、超法的な武器使用の可能性も認められ、事実上、無制限の権力が与えられる。その一方で、国民は緊急事態と戒厳令によって家屋や疎開先に物のように押し込められ、主体性と個人生活を奪われても当然ということになる。こうした筋書きそのものが、悪質な誘導だと筆者は感じざるを得ない。

現実世界には、「ゴジラ」など存在せず、「魔物」は決してこうした誰にでも分かる怪物の姿を取って現れることなく、むしろ、いかにも正しそうに見える普通の人間、いや、普通よりも優れているように見える人間の中にこそ潜んでいるものであり、その魔物は、米国でもなく、国連でもなく、他でもない我が国の政府にこそ、潜んでいるのである。
 
本当は、自分たちは悪を退治する正義の味方で、追い詰められて可哀想な人々を守る英雄だと言っている人々の中にこそ、ゴジラはいるのであって、国民を放射能の脅威にさらし、国際的に害を垂れ流す日本政府の中にこそ、退治されねばならない「ゴジラ」の姿がある。

にも関わらず、政府が己が罪を「ゴジラ」に転嫁することで自分自身を免罪し、自己を英雄化して、現実に直面している危機を忘れようとしているのであれば、それは悪質な目くらましであり、破滅へ至る現実逃避以外の何物でもない。そのような架空のヒーローに自己を重ね、陶酔に浸る人々も、同じように現実逃避する魔物なのである。

真に駆逐されるべきゴジラとは、実は日本政府に他ならないのだという事実を、改めて目を見開いて直視せねばならない。