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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(9)―たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(ヤコブ4:7)

キリストは、自由を得させるために、私たちを解放して下さいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。」(ガラテヤ5:1)

神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」(Ⅱテモテ1:7)

からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)

「隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現れないものはありません。」(ルカ8:17)

 「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)


 「このように、あなたがたも、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」(ローマ6:11)

「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、 三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」(出エジプト20:5-6)

* * *

虚偽告訴罪(刑事告訴・告発支援センター)

「人に刑事又は懲戒の処分を受けさせる目的で、虚偽の告訴、告発その他の申告をした者は、3月以上10年以下の懲役に処する(刑法第172条)。 」

最新の記事で「霊的優位性」について書いたのは偶然ではなかったものと思う。

村上密が本日、ブログ記事で筆者を告訴したと発表している。この一報を最初に報じたのは掲示板であった。仮処分の申し立てを作成していなければ、気づかなかったかも知れないが、タイムリーに投稿があったので、リアルタイムに知ることが出来た。

 
*ちなみに、村上密はこの記事を投稿してすぐ削除した模様。
 悪ふざけなのか、本気で魔女狩り裁判を開始して、これから
 クリスチャンに有罪宣告を下したいという悲願を語ったものか、
 筆者には真意が完全に不明。

 控訴審できちんと釈明していただきましょうね・・・。
 もはやオーウェルのディストピアと化している宗教トラブル相談センター。
 人格権侵害と合わせれば、あまりにも重大な名誉毀損に該当するこの記事、
 信徒相手に、
普通に考えて、牧師としてヤバすぎでしょう・・・!?
 事実ならば、むろん、こちらも虚偽告訴罪で対抗するのみですが。


こうしてテレスクリーンに「ビオロンは人民の敵」との見出しが躍り、かの全体主義国では、筆者はゴールドスタインさながらの扱いを受けている。そこはすべてが鏡のようにさかさまに映っている。罪人が聖人に、聖人が罪人に置き換えられる・・・。

本日、筆者は、先にチェックをお願いしていた告訴状を、明日受理してもらうことで警察と合意していた。先週から人格権侵害の記事については、警察へ資料を提出、最終チェックと校正をお願いしていたが、明日には受理されると聞かされた。

従って、この情報が事実ならば、村上は筆者に先手を打とうとしたことになろう。

村上の告訴事実が何から成っているのかは知らないが、村上の記事内容から判断すると、村上は、筆者が訴訟において、村上と杉本から「反訴の脅しを受けた」と記していることが、名誉棄損に相当するという主張も含めているらしい。

しかし、村上が杉本と一緒に第一審において、筆者が彼らの提示する和解条件を飲まなければ、反訴すると筆者に主張したことは、まぎれもない事実である。そのことは、村上自身が、前掲記事で、「彼女は、裁判の中で私が反訴を口にすると、「反訴の脅しをかけた」と4月13日の記事に書いている」と書いている通りである。

そこで、村上の主張は、筆者にとっては、まさに「唐沢治から密室で呪いの予言を受けた」と主張したKFCの元信徒を彷彿とさせるものである。

筆者は当初、KFCの元信徒は、杉本のブログでありもしない虚偽の事実を主張したのだと考えていたが、後になって考えを翻したと書いた。従って、もしも筆者のその予測が的中しているならば、この信徒は、虚偽告訴罪を主張できたはずだということも、繰り返し書いて来た。

それは、虚偽の告訴に対しては、毅然と立ち向かい、その罪を相手にお返しすべきだという筆者の信念を述べたものである。
 
このような事情であるから、筆者は驚いてはいない。村上は筆者がこのニュースを聞けば恐れると考えたのかも知れないが、筆者自身が、告訴状が受理されて後、どういう顛末を辿るかを、実際に確かめて知っている。その上、筆者は、村上の行った権利侵害について、警察に相談を重ねて来たのである。
 
今、筆者は、4月1日にも、今回と同様のことが起きたのを思い出す。筆者は3月末日、コラム欄に、掲示板に実名を挙げながら村上密の家族に言及しているコメントがあるのを見て、こうした掲示板の投稿を整理して、村上密について書くつもりだと予告した。すると、それからわずか1時間も経たないうちに、村上は筆者の人格権を侵害する記事をブログに投稿したのである。
 
幾度も述べた通り、村上によるこの権利侵害がなければ、今回の訴訟は第一審で終わっていたはずである。筆者は、杉本徳久の記事が名誉棄損に相当することが認められただけでも、十分な成果だと考え、判決に不服を述べないために、一審で終了するつもりでいた。

ところが、神はこの紛争をここで終わらせず、第一審では出て来なかった不法行為の証拠として、村上に以上の権利侵害を犯させたのである。

村上はこの時、おそらく筆者に実名入りの記事を書かれる前に、先手を打ったつもりであったと見られるが、その焦りが、権利侵害を犯している事実を彼に見えなくさせた。筆者は、このことは、天の采配であり、この紛争を妥協せずに最後まで徹底的に戦い抜き、望む成果を勇敢に勝ち取りなさいという天の命令であると解釈した。

今回も、村上の主張を見る限り、これと同じ現象が起きているものと見られる。告訴状を提出するには、十分かつ入念なチェックが必要で、それがあったとしても、疑義や問責が生じる可能性は十分にある。

従って、自分の焦りできちんとした構成要件を満たさない告訴状を提出した場合、その不備が後になって重大な問題となって自身に跳ね返って来る可能性は大いにあると言えよう。

特に注意が必要なのは、匿名掲示板のように、誰が投稿したかも分からない投稿を告訴する場合ではなく、相手が分かっている場合である。

もしも誰かが、筆者の記述が真実であることを知りながら、これをあたかも虚偽であるかのように主張して、自分に対する名誉毀損であると主張して告訴した場合には、当然ながら、虚偽告訴罪に該当する可能性が出て来る。
 
上記した通り、虚偽告訴罪は重い罪である。従って、告訴人の言う告訴の事実に裏づけがなく、その理由に整合性が取れず、その訴えの真実性が証明できず、故意性が認められれば、いたずらに被告訴人とされた者は、告訴人に対してこの罪を主張しうる。

実を言うと、筆者は昨日まで、控訴審での戦いのポイントを思いめぐらし、かつ、明日受理される告訴状について考えながら、これではインパクトが足りないと考えていた。確かに、この告訴状には、受理される要件は整っている。そのことはお墨付きをもらっており、第二審においても、これが確かな材料となって行くであろうことは明白に予想できた。

だが、人格権侵害だけでは、いささか被害のインパクトが軽すぎる気がする。これでは起訴―有罪に持ち込む根拠とはならないだろうという予感がある。しかも、筆者の控訴状は、「未熟児のサイズ」と記した通り、昨日までの時点では、第一審で取りこぼしたわずかな記事と、人格権侵害の記事の削除および微々たる賠償を追加するだけのものでしかなかった。

むろん、手堅く事件を進めるためには、それで十分な主張なのだが、「小さく産んで、大きく育てる予定」と当初から書いていた通り、このような些末な理由で、二審を戦う結果には、きっとならないだろうという予感があった。こんな微々たる理由では、たとえ勝ってみたところで、御名を冠する戦いにふさわしい勝利と呼ぶには、いささかインパクトが小さすぎる。

そこで、今回起きたことも、やはり主の采配であると思わずにいられない。

筆者は二審について、大々的な注目を集めるつもりは全くなかった。だが、村上がこのような記事を出した以上、この戦いは、否応なしに注目を集めるものとなろうし、まさに筆者が2009年から主張して来た通り、反カルト運動の陣営による「魔女狩り裁判」の様相を帯びて来たのである。

筆者は2009年から、村上密の活動は、このような結果に至ることを幾度も予告して来た。今回のことは、その霊的法則性が成就しただけと言えよう。信者を解放するように見えて、人間の正義によって抑圧する反カルト運動の悪しき本質が、いよいよ正体を現したのである。

ところで、筆者は今回の裁判で、告訴が確かになされたという事実を客観的に証明すること自体が、かなりの苦労を伴うことを知った。

杉本は、筆者が告訴状を提出したことを否定していなかったが、あくまで事件化はされていないなどと主張していた。

村上と杉本が、一緒になって、筆者が警察を証人として呼ぼうとした行為をメールで嘲笑っていたことは、記事で記した通りだが、告訴状が受理されていることを客観的に証明するためには、確かにある種の苦労が伴うのである。

裁判官は筆者の申し出を調査嘱託に変えたが、それでも十分ではなかった。さらに、筆者はそれを補う証拠を提出したが、それでも、十分であったとは見られない。民事では、終結していない刑事事件の確かな進行状況を認定することは、およそ不可能であり、そのようなことを争点とするのも難しいのである。

そこで、結論から言えば、検察に事件が送付されて、きちんとした結末が出てもいないうちに、誰かに対する告訴の事実を名指しで公表することは、決して得策とも賢明とも言えない。そのようなことは、100%確実に勝算の見込みがある場合以外には、絶対にしてはならないと言えるほど、リスクの大きい行為だと言えよう。

筆者の事件では、今回は第一審において、はっきりと杉本による名誉毀損や侮辱の事実が認められたゆえに、刑事事件でも、ほぼ同等の結論が出ることを予想でき、それが大幅に覆ることはまずないとみなせる。それゆえ、以上のリスクは回避することができたし、筆者の論証も十分であった。
 
しかし、これがもし民事で名誉毀損が認められず、控訴審でその事実を争うとなった場合には、早まって人物を特定して刑事告訴を公表してしまった人間は、控訴審で窮地に立たされることになる。

たとえば、村上密自身が、五次元スクールから名誉毀損で告訴されたが、不起訴になったと得意げに記事に記している。そのような結果となったにも関わらず、それ以前に、早々と相手を告訴した事実を実名で発表してしまった場合、後になって、それは事実無根の主張として、重大な名誉棄損の罪に問われる可能性も出て来る。
 
しかも、ペンネームだけであれば、人権侵害には相当しないが、村上はすでにその条件を自分で破ってしまっているのである。

そこで、今回の村上の記事の発表は、筆者から見れば、勇み足と言うべき、村上自身にとって極めて重大なリスクをはらむ危険な行為であり、筆者にとっては、控訴審における主張を大いに補強する材料となる。

この記事は、筆者に対する人格権の侵害の記事と合わせれば、十分な名誉毀損行為に相当する要件を満たしているから、これこそ、控訴審を戦い抜く上で、御名を冠する戦いとするにふさわしい最も大きな被害のインパクトとなる。
 
さて、警察とのやり取りは、ものすごい消耗戦である。告訴状を出しさえすれば、後は警察が自動的に捜査をしてくれ、自分は何もしなくても、ただ待ってさえいれば、すぐに警察が犯人を逮捕してくれて、裁判が開かれ、犯人が有罪とされて事件が終わる・・・などという甘い世界はないことを、筆者はこれまで痛感して来た。

それは、民事でも刑事でも基本的に同じであるが、民事ならば、定期的に口頭弁論が開かれ、嫌でもいつかは審理終結が来るが、刑事事件の進展はまことに見えない部分がある。

そして、この壁を打破するために、筆者はものすごい苦労を払い、ようやくのことで、風穴を開けたのである(だからこそ、筆者の事件に、これ以上の遅延はないと断言できる)。
 
だが、刑事事件の進展が遅い場合、民事において、告訴されたこと自体を名誉毀損だと相手が主張して来た場合、告訴要件をきちんと満たしていることを立証することには、膨大な時間と手間を要する。

その作業を2名の被告を相手にしながら、筆者は一審で成し遂げたが、これから、その作業が、村上に課せられることになる。杉本と一緒になって、筆者が警察を証人に呼ぼうとしたことを嘲笑った村上である。どのような手法でそれを行うのかは、注目される。弁護士を雇ったとしても、唐沢治が出して来た陳述書のような理屈では、勝算の見込みは薄いであろう。
 
だが、それよりも、今回、注目されるのは、信徒を告訴したと自ら発表したことにより、村上密という人物の内面が、極みまで明らかになったことである。

かつて相談にやって来た信徒を告訴する牧師のもとに、これから身を寄せたいと願う信徒がいるとは思えない。そこで、村上の行為は、村上の率いる宗教トラブル相談センターに、致命的と言っても良いくらいの打撃を与えることであろう。

さて、筆者は、このようなことがあってもなくても、自分の果たさなければならない仕事を淡々とこなすだけである。

幾度も言うが、キリスト者の身には、神が許された事柄しか決して成就することはない。そして、神は信者の同意がないのに、突然、試練をもたらされるようなことはなさらない。

読者は知っている通り、2009年から、筆者は、村上が構想したカルト監視機構の危険性を世に訴えて来たのであるが、その時から抱いていた危惧が、このような形で成就するまでには、10年間という月日が必要であった。

本来ならば、10年もの月日があれば、記憶も薄れ、関わりも断たれ、かつてそんな主張がなされていたこと自体を、当人同士が忘れていておかしくない。だが、霊的な領域においては、記憶が忘却されるとか、主張が消滅するということは決してないのである。

だから、今回の出来事は、かねてより懸念されていた事柄が、実際となっただけであるが、そうなるまでの10年という月日は、筆者自身の霊的・内的訓練の期間であり、主は、筆者が当時から予想していた出来事に対して、十分な準備が出来るまで、待って下さったのである。

幾度も繰り返すが、筆者は個人の人権を守るためにここに立っているのではない。ここから先は、過越し――御名の主権がものを言う世界である。

今、カルバリで流された主の血潮の絶大かつ永遠なる効果のほどが、万人の前で問われているのであって、もしも筆者が罪に問われるようなことがあれば、それは主の名折れでしかない。

神はそのような方でないことを、筆者はこれまでの人生のあらゆる場面で実際に確かめて来て知っている。第一審でも、これと全く同じ、十字架の死を潜り抜けた。この事件に向き合うことを決めたときから、筆者の覚悟は固まっている。そこで、筆者にとって、このような出来事に対峙することは、日々の十字架でしかない。

神の救いは、一度限り、永遠のものであって、血潮の中に隠れる者を、罪に問える者は誰もいない。それにも関わらず、そのようなことを試みるなら、その訴えのすべてがその者自身に跳ね返ることになる。まさしく――虚偽告訴という罪として。

それが、過越しである。筆者は自分の家の鴨居に幾重にも小羊の血を塗っておく。そうしておけば、外に死の風が吹き荒れても、それは家の中の者に触れることはない。かえってエジプト人の長子が滅ぼされるのである。

神の御前で起きることに、何一つ偶然はない。そこで、なぜ村上が杉本と一緒になって反訴を言い立て、さらにこれを見送りながら、今、告訴を選んだのか、その理由は以下にあると筆者は見ている。

反訴には、どんなに虚偽の訴えを出そうとも、いかなる罪も伴わないが、告訴が虚偽だった場合には、罪に問われる。

それが、神が村上に告訴に及ばせたことの真の理由である。
 
* * *

さて、掲示板はこれまで、筆者が自分自身をエステル妃になぞらえているのを見て、さかんに嘲笑していたが、エステルは、モルデカイがハマンの策略によってユダヤ人が皆殺しにされようとしている計画が存在することを知ったとき、自分は死を覚悟して、王の前に進み出ると述べた。

すでに幾度も述べて来た通り、筆者は、杉本・村上からの反訴の予告をきっぱりと退けて、第一審を終えるだけでも、自分の命を最後まで注ぎだす必要があった。その時に、筆者の覚悟は決まったのである。

エステル記を読んでみれば良い。ハマンは自分の家の庭に、モルデカイを吊るすための絞首台を作った。その頃、モルデカイは、ハマンに手をかけることなど、考えてもいなかったであろう。

ハマンはモルデカイのみならず、ユダヤ人全体を殺害しようと考えていた。モルデカイ一人に対する憎しみをきっかけに、ユダヤ人全体に対する尽きせぬ殺意を抱いていたのである。

そして、ハマンは王の信任を得ていた。絶大な権限を持っていた。それにも関わらず、ハマンが作った絞首台は、ハマン自身の絞首台となった。

そうなるために、エステルが死を覚悟した勇気を振り絞ったからである。
 
筆者はこの物語に2018年の初め頃から、幾度となく言及して来た。それは、この戦いを貫徹するためには、筆者は、まさにエステルやモルデカイと全く同じ覚悟を固めねばならないことを初めから知っていたからである。

主はいつも筆者に問われる。「あなたはどのくらい本気ですか? 私のためにどんな代価を払うつもりがありますか?」

筆者は答える。「私は準備が出来ました。私はあなた以外に価値とするものは、何もありません。私はあなたがどういう方であるかを知っています。あなたが決してご自分のもとに身を寄せる者を見捨てられたり、失望に終わらせない方であることを、私は知っています。

私は自分のすべての利益に変えても、あなたご自身を現していただくことを利益と考えています。私が欲しているのは、私の正義以上に、あなたの正義、私の真実以上にあなたの真実であり、あなたの自由と解放、命に満ちた統治を得るために、自分の十字架を負うつもりです。たとえ、私が不真実であっても、あなたは真実な方です。あなたのおられるところに、私の命もあるのです。ですから、何が起きようとも、最後までご一緒いたしましょう・・・。」

これは宿命の戦いである。村上の思惑を忖度した信者らは、筆者が第一審で村上に勝訴できなかったことをさかんに嘲笑しているが、もしも村上密が、控訴審で必ず勝てると考えていたなら、このような措置を講ずる必要はなかったであろう。

筆者が控訴したことを、筆者よりも前に報じたり、筆者の告訴が完了する前に、筆者を告訴したと報じたりするところに、村上の恐怖心の表れを感じざるを得ない。

* * *

もう一度、エステル記(4:9-17、7:1-10)の以下のくだりを引用しておく。

「ハタクが帰ってきてモルデカイの言葉をエステルに告げたので、エステルはハタクに命じ、モルデカイに言葉を伝えさせて言った、「王の侍臣および王の諸州の民は皆、男でも女でも、すべて召されないのに内庭にはいって王のもとへ行く者は、必ず殺されなければならないという一つの法律のあることを知っています。ただし王がその者に金の笏を伸べれば生きることができるのです。しかしわたしはこの三十日の間、王のもとへ行くべき召をこうむらないのです」。

エステルの言葉をモルデカイに告げたので、 モルデカイは命じてエステルに答えさせて言った、「あなたは王宮にいるゆえ、すべてのユダヤ人と異なり、難を免れるだろうと思ってはならない。 あなたがもし、このような時に黙っているならば、ほかの所から、助けと救がユダヤ人のために起るでしょう。しかし、あなたとあなたの父の家とは滅びるでしょう。あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう」。


そこでエステルは命じてモルデカイに答えさせた、「あなたは行ってスサにいるすべてのユダヤ人を集め、わたしのために断食してください。三日のあいだ夜も昼も食い飲みしてはなりません。わたしとわたしの侍女たちも同様に断食しましょう。そしてわたしは法律にそむくことですが王のもとへ行きます。わたしがもし死なねばならないのなら、死にます」。モルデカイは行って、エステルがすべて自分に命じたとおりに行った。」

「王とハマンは王妃エステルの酒宴に臨んだ。 このふつか目の酒宴に王はまたエステルに言った、「王妃エステルよ、あなたの求めることは何か。必ず聞かれる。あなたの願いは何か。国の半ばでも聞きとどけられる」。

王妃エステルは答えて言った、「王よ、もしわたしが王の目の前に恵みを得、また王がもしよしとされるならば、わたしの求めにしたがってわたしの命をわたしに与え、またわたしの願いにしたがってわたしの民をわたしに与えてください。 わたしとわたしの民は売られて滅ぼされ、殺され、絶やされようとしています。もしわたしたちが男女の奴隷として売られただけなら、わたしは黙っていたでしょう。わたしたちの難儀は王の損失とは比較にならないからです」。

アハシュエロス王は王妃エステルに言った、「そんな事をしようと心にたくらんでいる者はだれか。またどこにいるのか」。 エステルは言った、「そのあだ、その敵はこの悪いハマンです」。そこでハマンは王と王妃の前に恐れおののいた。 王は怒って酒宴の席を立ち、宮殿の園へ行ったが、ハマンは残って王妃エステルに命ごいをした。彼は王が自分に害を加えようと定めたのを見たからである。

王が宮殿の園から酒宴の場所に帰ってみると、エステルのいた長いすの上にハマンが伏していたので、王は言った、「彼はまたわたしの家で、しかもわたしの前で王妃をはずかしめようとするのか」。この言葉が王の口から出たとき、人々は、ハマンの顔をおおった。 その時、王に付き添っていたひとりの侍従ハルボナが「王のためによい事を告げたあのモルデカイのためにハマンが用意した高さ五十キュビトの木がハマンの家に立っています」と言ったので、王は「彼をそれに掛けよ」と言った。 そこで人々はハマンをモルデカイのために備えてあったその木に掛けた。こうして王の怒りは和らいだ。
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どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

「さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。

イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。

そこでイエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。

イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」

シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。

だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。

そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。」(ルカ36:-50)

* *  *

  
「あなたの信仰があなたを救った。さあ、安心して行きなさい。」

イエスのこの言葉を筆者はどれほど待ち望んでいることだろう。もちろん、筆者はイエスがすでに筆者を贖って下さり、自分が救われていることも知っている。

だが、改めて、どうしても今一度おっしゃっていただきたいと願わずにいられないのだ。

「生きよ」と。

全被造物は、罪のゆえに堕落し、神から切り離されて、まるで本体を失った影も同然となって、虚無の中をさまようしかなくなった。

それゆえに、全被造物は、自分自身の内には虚無以外には何も見いだすことができず、ただひたすら、その影の持ち主である本体に見出され、神の御言葉の光に照らされることで、もう一度、新たに生かされる瞬間を待ち望んでいる。

自分だけでは生きられない、ものを言うことも、存在を証明することもできない「影」。

ここに、被造物としての私たちの嘆き、呻き、苦しみがあり、悲しいまでの「女性性」がある・・・。
 
* * * 

ラザロは、もの言わぬ死者となって、墓に横たわりながらも、きっとそこでイエスが来られるときを待ち望んでいただろう。自分の愛する方がそばに来られ、「ラザロよ、出てきなさい」と力強く命じられる瞬間を。

その時こそ、死者はよみがえらされて立ち上がり、喜びと感謝に溢れて愛する者たちのところに駆けつける。地上の多くの人々は、生きていると思っているが、自分がラザロ同然に、実は死んで墓に横たわっていることを知らないのだ。

パリサイ人たちからは、屑のように蔑まれ、社会から排除されていた罪の女も、ただイエスに出会いさえすれば、必ず自分のすべての罪が赦され、あらゆる汚れから清められて、彼に似た、貴い、聖なる姿に変えられるはずだとひたすら信じて、イエスを見た時、わき目もふらずに御許にかけつけ、その足元に身を投げ出して、泣き伏さずにいられなかった。

彼女は信じていた、自分自身がそれまでどのように生きて来たかなど関係ない、ただ御姿を見て、イエスを見つめられさえすれば、そうすれば、彼女は救われて、変えられると・・・。

38年間、ベテスダの池のほとりで病の癒しを待ち続けた男も、同じように、心の中で、イエスを待ち続けていた。イエスの衣に触りさえすれば、病は癒されると信じた長血の女も、「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」(マタイ8:8)と述べた百卒長も、みなイエスに出会って、その声を聞き、その言葉を聞きさえすれば、失われた存在であった自分たちは見いだされ、命にあずかり、完全に回復されると信じ続けたのである・・・。

「主よ、お言葉を下さい。そうすれば、僕(しもべ)は生きます」

これは、筆者の懇願であると同時に、虚無に服しながら、完全な贖いを求める全被造物の切なる叫びだ。

主よ、ただあなたの一言を下さい、あなたの一瞥だけで良いのです。この塵に過ぎない者に、一言、お命じ下さい。「立ち帰って生きよ」と・・・。そうすれば、僕は生きましょう・・・。

「人の子よ、イスラエルの家に言いなさい。お前たちはこう言っている。『我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか』と。

彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。 」(エゼキエル33:11-12)


とこしえに生きておられる方。「わたしはある」と言われる方。すべてにまさるリアリティである方が、虚無に過ぎない私たちに向かって、その眼差しを注ぎ、声をかけて言われる。

「立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んで良かろうか。」

私たちはすでに罪赦されて贖われた民であるが、なお、罪と死の痕跡の一切を取り除かれて、自分たちを縛っている死の縄目から完全に自由とされる日を待ち望んでいる。

まるで草花が夜の闇の中で静まりつつ、朝日が昇って、光の中で存分に身を伸ばす瞬間を待ち焦がれるように、全被造物が、虚無に服しながら、主イエスの言葉がかけられるのを待っている。

「立ち帰って生きよ。あなたの信仰があなたを救った。女(被造物)よ、あなたは完全に買い戻された。安心して行きなさい…」
 
私たちがイエスを待ち望むのは、彼(御子)こそ、失われた「影」としての私たちの「本体」であり、私たち被造物のまことの命であり、私たちの全ての全てだからである。

どうして影が本体を離れて、影だけで存在できようか。影だけの存在に、一体、何の価値があろうか。私たちは自分自身の内に何も見いださない。

どんなに声を張り上げて自分の言い分を述べ、あるいは、どれほど優れて美しい姿をしていたとしても、影はただ影でしかなく、本体が来られ、私たちを照らして下さらない限り、何の意味も持たない闇でしかないのだ。

かくて影はどこまでも本体を慕い求める。まことのリアリティの到来を待ち望む。暗闇でしかない自分自身から目を離し、ただ光なるお方を見つめ、ひたすら、本体である真実なお方から見出され、贖われ、再び一つとされる時を待ち望んでいる・・・。

* * *

創世記に「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。 」(創世記2:7)とあるように、神は最初の人間であるアダムを、塵の中から造られた。

アダムが塵から造られたことは、彼が被造物として、神を離れては無価値であり、虚無でしかないことをよく表している。

神が息を吹きかけられたとき、アダムは生きた人間となった。ここで言う「息」とは、神から与えられた霊であり、また、人を生かす神の御言葉のことでもある。

「神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(創世記:26-27)

聖書は、人類は「神にかたどって」創造されたと言う。だが、「神にかたどって(神のかたちに)」造られたとは、人類の外見を指すものではないだろう。塵から造られたアダムの外見に、神の栄光に満ちた「かたち」が表れているわけではないからだ。

むしろ、これは人類の役割のことである。

アダムの役割は、神の御言葉を守り、神に与えられた霊によって生かされることで、神の栄光を表すことにあった。アダムに与えられていた霊は、聖霊ではない。だが、御言葉が光となって彼を照らすことで、塵に過ぎないアダムに、神の栄光が反映していた。

こうして、神の御思いを体現し、鏡に映し出すように、神の栄光を反映し、神を誉め讃えて生きることが、アダムの役目であり、こうして神に栄光を帰して生きることこそ、被造物に与えられた栄光に満ちたつとめであり、それが被造物の表す「神のかたち」だったのである。

次に、神はアダムの肋骨からエバを造られた。

「主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」

主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。

主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。 そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。

主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそ わたしの骨の骨 わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう まさに、男(イシュ)から取られたものだから。

こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。 」(創世記2:18-25)


神はご自分の助け手として、ご自分の栄光を表す、ご自分に似た者として、アダムを創造されたが、次に、アダムのためにも、アダムに似た者として、助け手となる存在を用意された。

それがエバである。アダムが死のような深い眠りに落ち、再び、目覚めたとき、そこにアダムの性質をそっくり受け継ぎ、かつ、彼の栄光を表す者であるエバがいた。

アダムは彼女を見たとき、彼女が自分自身から出来ており、自分の栄光であることがすぐに分かったので、たちまち、自分を愛するように、彼女を愛した。

神は塵から造ったアダムに、息を吹き入れて、アダムをご自分の栄光を映し出す者とされたように、アダムの成分を使って造られたエバを、アダムのために、アダムの栄光を表す者とされた。

助手は、助手だけでは存在できない。必ず自分が仕えている主人が存在するはずである。もしもアダムが、神のかたちにかたどられた、影のような存在だとするならば、エバも、アダムのかたちにかたどられた、アダムの影のような存在であった。

そして、悲劇は、本体の栄光を表すために造られたはずの「影」が、本体から離反して、罪の堕落のゆえに、死を宣告されて、影だけで絶望の中をさまよわなくてはならなくなったことである。

人が神の御言葉を捨てて、罪を犯したとき、人の霊は死に、人の栄光は消え去った。彼を照らしていた御言葉の光は消え去り、人は真っ暗闇となって、自分自身の存在意義を見失ったまま、やがて消滅するのを待ちつつ、暗闇をさまようことしかできなくなった。

全被造物は、堕落によって神から切り離され、それ以後、自分の主人となるべき神を見いだせなくなり、己の堕落した虚無の世界を、ひたすら絶望のうちに堂々巡りせざるを得なくなったのである。

だが、被造物には、絶望の中でも、神を思う思いが与えられている。そこで、ひたすら、嘆き悲しみ、苦しみの中でも、自分を造られたただお一人のまことの神を思い、まことの神に見出され、贖われ、もう一度、息を吹きかけられて、神の栄光を表すものとして、御前に立たされる時を、切に待ち望んでいる。

主よ、もう一度、我ら全体におっしゃっていただきたいのです、立ち帰って生きよと、そうすれば、僕は生きましょう・・・。
 
主よ、あなたこそ私たちを造られた方、私たちの栄光なる望み、私たちは皆あなたによって、あなたの栄光のために、造られた者です。私たちはあなたの影、あなたは私たちの主、どうして私たちがあなたを離されて、存在し続けられましょうか。
 
主よ、お帰り下さい。お帰り下さい。そして、お言葉を下さい。このすべての世界は、あなたのために、あなたの栄光のために造られたのです・・・。

* * *

預言者ホセアは、神によって、姦淫の女を娶り、彼女の生んだ淫行の子らを引き取るようにと命じられた。

「主がホセアに語られたことの初め。主はホセアに言われた。「行け、淫行の女をめとり 淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」 」(ホセア1:2)

神の預言は、ホセアの結婚が悲惨な過程を辿ることを始めから予告していた。

ホセアは、自分に忠実な汚れのない女性を妻に迎えたはずであったが、ホセアが娶った妻ゴメルは、神に逆らい続けるイスラエルの民を象徴する女であって、彼女は、ただ一人の主人だけを愛するには、最初からあまりにも心が多すぎた。

彼女はホセアと結婚して後、すぐに、彼を捨てて、子供たちと共に、愛人のもとへ去った。むろん、彼女が生んだ子らは、ホセアの子ではない。あまりにも気が多すぎる彼女は、やがて愛人にも捨てられて、ついには身を落として奴隷にまでなった。

それでも、ゴメルはなかなか自分の主人のもとに立ち帰ろうとはしなかった。

こんな「妻」から、誰がどんな良いものを見いだせようか。いや、こんな女を誰が「妻」と呼べようか。また、どうして彼女の子供を「我が子」と呼べようか。

この汚れた「母」を告発せよ――。

裏切られたホセアの嘆きは、神の嘆きにそのまま重なる。

このゴメルは、神の御言葉に従うことを捨て、奴隷に身を落とし、バビロンと化した今日の教会そのものである。欲に誘われるまま生き、時期尚早に多くの子を産みはするが、そこには、何一つ本当のものがない。彼女の勢いは束の間でしかなく、その幸福は不実で、何一つ永遠に残るものがない。

この汚れた「母」を告発せよ――。

その叫びに応えるようにして、剣を持った残忍な軍隊のような、獰猛な野獣のような勢力が彼女に押しかけ、教会という教会に対し、告発を重ね、多くの神の宮が、土足で踏み荒らされた。

それでも、彼女はいまだ着飾って、晴れやかな祝祭日を楽しみ、祝うことをやめない。そこで豪奢な食卓を用意しては、己が富や権勢を誇り、自分たちの慕う目に見える指導者らを拝んでは、我が幸福は永遠なりと豪語している。

彼女たちは、自分たちが拝んでいるものが、偶像であることにも気づかず、己が誇っている富が、これらの偶像によってではなく、ただお一人のまことの主なる神が与えられたものであることにも気づかない。

それゆえ、野獣の牙は、より一層、残忍に彼女に噛みつき、彼女を食い荒らし、蹴散らして、その富と栄光を奪い去り、彼女の恥を露わにして、彼女を壊滅にまで追い込む。

告発せよ、お前たちの母を告発せよ。
彼女はもはやわたしの妻ではなく
わたしは彼女の夫ではない。

彼女の顔から淫行を 乳房の間から姦淫を取り除かせよ。
さもなければ、わたしが衣をはぎ取って裸にし
生まれた日の姿にして、さらしものにする。

また、彼女を荒れ野のように
乾いた地のように干上がらせ
彼女を渇きで死なせる。

わたしはその子らを憐れまない。
淫行による子らだから。

その母は淫行にふけり
彼らを身ごもった者は恥ずべきことを行った。
彼女は言う。「愛人たちについて行こう。
パンと水、羊毛と麻
オリーブ油と飲み物をくれるのは彼らだ。」

それゆえ、わたしは彼女の行く道を茨でふさぎ
石垣で遮り 道を見いだせないようにする。

彼女は愛人の後を追っても追いつけず
尋ね求めても見いだせない。

そのとき、彼女は言う。
「初めの夫のもとに帰ろう
あのときは、今よりも幸せだった」と。

彼女は知らないのだ。
穀物、新しい酒、オリーブ油を与え
バアル像を造った金銀を、豊かに得させたのは
わたしだということを。

それゆえ、わたしは刈り入れのときに穀物を
取り入れのときに新しい酒を取り戻す。

また、彼女の裸を覆っている
わたしの羊毛と麻とを奪い取る。

こうして、彼女の恥を愛人たちの目の前にさらす。
この手から彼女を救い出す者はだれもない。

わたしは彼女の楽しみをすべて絶ち
祭り、新月祭、安息日などの祝いを
すべてやめさせる。

また、彼女のぶどうといちじくの園を荒らす。

「これは愛人たちの贈り物だ」と
彼女は言っているが
わたしはそれを茂みに変え
野の獣がそれを食い荒らす。
バアルを祝って過ごした日々について

わたしは彼女を罰する。

彼女はバアルに香をたき
鼻輪や首飾りで身を飾り
愛人の後について行き
わたしを忘れ去った、と主は言われる。

野獣に食い荒らされたゴメルの「ぶどう園」とは、あの強盗のような農夫たちに占拠されたぶどう園と同じだ。悪い農夫たちが、彼女のぶどう園を強奪し、その収穫を我が物としてかすめ取って来たが、そのぶどう園は、神の圧倒的な御怒りの前に、踏み荒らされて廃墟となり、破壊される。

ゴメルは罰せられ、彼女が生んだ、誰を父としているとも知れない子らも、罰せられ、神に討たれて、駆逐された。

神はゴメル(神に背いた教会)を依然、愛しておられるが、彼女を罪あるままで、受け入れることは決してできない。そのため、ゴメルは罰せられねばならない。偶像崇拝によって生まれた子らは、消し去られなければならない。

だが、ゴメルは貧しさと死の苦しみの中で、ホセアのことを思い出した。

一体、それはゴメルにとって、どれほど遠い記憶だったであろうか。何人の愛人が、彼女を通り過ぎて行ったことだろうか。しかも、今彼女を支配しているのは、彼女を奴隷として酷使する横暴な主であって、もはや愛人ですらない。

ゴメルには昔の美しさは見る影もなく、自由であった頃の面影もなく、今はただ貧しく蔑まれ、見捨てられて、やつれ果てた奴隷の女でしかない。

だが、彼女には、昔、確かにホセアという主人がいた。彼女は自由の身であった時があった。彼女はホセアを思い出したとき、ようやく自分を今まで支配してきたすべての者たちが、残忍で、嘘つきで、強盗で、人殺しである事実に気づき、これらの者どもを一切、自分から断ち切り、生き方を改めることを決意した。

彼女はホセアの名を呼んだ。だが、もう手遅れだ、遅すぎる、こんなにまで身を落として、どうして彼に助けを求められようか。どうして彼を夫と呼べようか。
 
ところが、ホセアは彼女の呼び声に応えた。ホセアは、奴隷に身を落としたゴメルを買い戻すために走った。海の向こうから、山々の向こうから、はるかな道のりを辿り、地の果てのようなところまでたどり着いて、見失われ、忘れられ、変わり果てた我が妻を探し出し、彼女を説得して家に連れ戻した。

イスラエルは、神の栄光を映し出すために造られた器。どうして神がこれを忘れられようか。神は手のひらを返して、見捨てられたゴメルのために報復される。彼女を蹂躙し、傷つけた者どもにしたたかに報復されて、追い払われる。

「島々よ、わたしに聞け
 遠い国々よ、耳を傾けよ。
 主は母の胎にあるわたしを呼び
 母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。

 わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き
 わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠して
 わたしに言われた

 あなたはわたしの僕、イスラエル
 あなたによってわたしの輝きは現れる、と。

 わたしは思った
 わたしはいたずらに骨折り
 うつろに、空しく、力を使い果たした、と。

 しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり
 働きに報いてくださるのもわたしの神である。

 主の御目にわたしは重んじられている。
 わたしの神こそ、わたしの力。

 今や、主は言われる。
 ヤコブを御もとに立ち帰らせ
 イスラエルを集めるために

 母の胎にあったわたしを
 御自分の僕として形づくられた主はこう言われる。

 わたしはあなたを僕として
 ヤコブの諸部族を立ち上がらせ
 イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。

 だがそれにもまして
 わたしはあなたを国々の光とし
 わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。

 イスラエルを贖う聖なる神、主は
 人に侮られ、国々に忌むべき者とされ
 支配者らの僕とされた者に向かって、言われる。

 
王たちは見て立ち上がり、君侯はひれ伏す。
 真実にいますイスラエルの聖なる神、主が
 あなたを選ばれたのを見て。

 主はこう言われる。
 わたしは恵みの時にあなたに答え
 救いの日にあなたを助けた。
 わたしはあなたを形づくり、あなたを立てて
 民の契約とし、国を再興して
 荒廃した嗣業の地を継がせる。

 捕らわれ人には、出でよと
 闇に住む者には身を現せ、と命じる。
 彼らは家畜を飼いつつ道を行き
 荒れ地はすべて牧草地となる。

 彼らは飢えることなく、渇くこともない。
 太陽も熱風も彼らを打つことはない。
 憐れみ深い方が彼らを導き
 湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。

 わたしはすべての山に道をひらき
 広い道を高く通す。

 見よ、遠くから来る
 見よ、人々が北から、西から
 また、シニムの地から来る。

 天よ、喜び歌え、地よ、喜び躍れ。
 山々よ、歓声をあげよ。
 主は御自分の民を慰め
 その貧しい人々を憐れんでくださった。

 シオンは言う。主はわたしを見捨てられた
 わたしの主はわたしを忘れられた、と。

 女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。
 母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。
 たとえ、女たちが忘れようとも
 わたしがあなたを忘れることは決してない。

 見よ、わたしはあなたを
 わたしの手のひらに刻みつける。あなたの城壁は常にわたしの前にある。

 あなたを破壊した者は速やかに来たが
 あなたを建てる者は更に速やかに来る。
 あなたを廃虚とした者はあなたを去る。

 目を上げて、見渡すがよい。
 彼らはすべて集められ、あなたのもとに来る。
 わたしは生きている、と主は言われる。
 あなたは彼らのすべてを飾りのように身にまとい
 花嫁の帯のように結ぶであろう。

 破壊され、廃虚となり、
 荒れ果てたあなたの地は
 彼らを住まわせるには狭くなる。
 あなたを征服した者は、遠くへ去った。

 あなたが失ったと思った子らは
 再びあなたの耳に言うであろう
 場所が狭すぎます、住む所を与えてください、と。

 あなたは心に言うであろう
 誰がこの子らを産んでわたしに与えてくれたのか
 わたしは子を失い、もはや子を産めない身で
 捕らえられ、追放された者なのに
 誰がこれらの子を育ててくれたのか
 見よ、わたしはただひとり残されていたのに
 この子らはどこにいたのか、と。

 主なる神はこう言われる。
 見よ、わたしが国々に向かって手を上げ
 諸国の民に向かって旗を揚げると
 彼らはあなたの息子たちをふところに抱き
 あなたの娘たちを肩に背負って、連れて来る。

 王たちがあなたのために彼らの養父となり
 王妃たちは彼らの乳母となる。
 彼らは顔を地につけてあなたにひれ伏し
 あなたの足の塵をなめるであろう。

 
そのとき、あなたは知るようになる
 わたしは主であり
 わたしに望みをおく者は恥を受けることがない、と。

 勇士からとりこを取り返せるであろうか。
 暴君から捕らわれ人を救い出せるであろうか。

 主はこう言われる。
 捕らわれ人が勇士から取り返され
 とりこが暴君から救い出される。
 わたしが、あなたと争う者と争い
 わたしが、あなたの子らを救う。

 あなたを虐げる者に自らの肉を食わせ
 新しい酒に酔うように自らの血に酔わせる。
 すべて肉なる者は知るようになる
 わたしは主、あなたを救い、あなたを贖う
 ヤコブの力ある者であることを。 」(イザヤ書第49章)


 * * *

神はこうして背信に背信を重ねて、完全に見失われた存在となったご自分の民を、彼らの内にごくわずかに残った、あるかなきかの信仰だけを頼りに、地の果てまで探しに行かれた。

そして、ご自分の呼び声に応答する者を一人でも見つけると、その者を家に連れ戻し、汚れた着物を脱がせ、一切の罪の汚れを水の洗いで清められ、真っ白な新しい服を与え、再び、ご自分の栄光を表すための、しみもしわもない、聖なる栄光の花嫁なる教会として、ご自分の前に立たせられた。

心の定まらなかったゴメルは、もういない。そこにいるのは、心の中から偶像を取り除かれて、ただ一人の主人だけを愛するようになった、忠実な妻である。彼女の罪は一切、消し去られ、痕跡すらも残らなくなり、ホセアとゴメルとの結婚は回復される。そして、彼らは祝福されて、その子らは海の砂のように、数えきれないほどになる。

その子らとは、天のエルサレムを母とする、サラの汚れのない子供たちである。この一家には神の慈しみと憐れみとが注がれ、彼らは神の栄光を表す器となる。もう誰も収穫を得られないのに労苦することはない。

「初めの愛」が回復されて、恋人に語らうように、主はご自分の花嫁なる教会に向かって優しく語りかけられる。

「それゆえ、わたしは彼女をいざなって
荒れ野に導き、その心に語りかけよう。

そのところで、わたしはぶどう園を与え
アコル(苦悩)の谷を希望の門として与える。

そこで、彼女はわたしにこたえる。
おとめであったとき
エジプトの地から上ってきた日のように。

その日が来れば
と 主は言われる。

あなたはわたしを、「わが夫」と呼び
もはや、「わが主人(バアル)」とは呼ばない。

わたしは、どのバアルの名をも
彼女の口から取り除く。
もはやその名が唱えられることはない。

その日には、わたしは彼らのために
野の獣、空の鳥、土を這うものと契約を結ぶ。
弓も剣も戦いもこの地から絶ち
彼らを安らかに憩わせる。

わたしは、あなたととこしえの契りを結ぶ。
わたしは、あなたと契りを結び
正義と公平を与え、慈しみ憐れむ。

わたしはあなたとまことの契りを結ぶ。
あなたは主を知るようになる。

その日が来れば、わたしはこたえると
主は言われる。
わたしは天にこたえ
天は地にこたえる。

地は、穀物と新しい酒とオリーブ油にこたえ
それらはイズレエル(神が種を蒔く)にこたえる。

わたしは彼女を地に蒔き
ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)を憐れみ
ロ・アンミ(わが民でない者)に向かって
「あなたはアンミ(わが民)」と言う。
彼は、「わが神よ」とこたえる。 」(ホセア2:16-25)

「イスラエルの人々は、その数を増し 海の砂のようになり 量ることも、数えることもできなくなる。彼らは 「あなたたちは、ロ・アンミ(わが民でない者)」と 言われるかわりに「生ける神の子ら」と言われるようになる。

ユダの人々とイスラエルの人々は ひとつに集められ 一人の頭を立てて、その地から上って来る。イズレエルの日は栄光に満たされる。あなたたちは兄弟に向かって 「アンミ(わが民)」と言え。あなたたちは姉妹に向かって 「ルハマ(憐れまれる者)」と言え。」(ホセア2:1-3)


 * * *

神の裁きは正しく、神はご自分のもとに立ち帰るすべての民を回復される。

「わたしは神が宣言なさるのを聞きます。
 主は平和を宣言されます
 御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に
 彼らが愚かなふるまいに戻らないように。
 
 主を畏れる人に救いは近く
 栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
 慈しみとまことは出会い
 正義と平和は口づけし
 まことは地から萌えいで
 正義は天から注がれます。
 
 主は必ず良いものをお与えになり
 わたしたちの地は実りをもたらします。
 
 正義は御前を行き
 主の進まれる道を備えます。」(詩編85:9-14)

* * *

創世記におけるアダムとエバの愛に満ちた関わりも、ホセアとゴメルの愛の回復も、すべてキリストと教会の愛の交わりの回復の予表である。

エクレシア(教会)は、十字架で死なれたキリストのわき腹から、水と血と霊によって生まれた聖なるエバである。それはキリストの肉の肉、骨の骨から生まれ出て、彼の息によって御霊を受けて生まれた、新しい生きた女(被造物)だ。

イエスは十字架にかかられた後、弟子たちのもとに現れて、ご自分の手とわき腹を見せて、ご自分が確かに死なれ、復活されたことを示された。そして、弟子たちに息をふきかけて、聖霊を受けよ、と言われた。

「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

そう言って、手とわき腹とをお店になった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

そう言ってから、彼らに息をふきかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハネ20:19-23)

ここに、聖なるエクレシアの誕生がある。本体なる神から切り離され、虚無の中をさまようことしかできなくなった、失われた影である被造物が、神に立ち帰り、イエスの十字架の死と復活にあずかり、彼のわき腹から新しく生まれ、彼のよみがえりの命によって生かされる、新しい聖なる女(被造物―人類)とされた。

その時、イエスが十字架にかかられたことに、はかり知れないショックを受けて、ただ恐怖の中に閉じこもり、ユダヤ人たちを避けて逃げ隠れることしかできなかった弟子たちは、再び喜びに満たされ、勇気づけられ、そして、地の果てまで、イエスの復活の証人となった。

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒1:8)

かつて神が失われた民を、地の果てまで探しに行かれたように、今度は、見出された民が、地の果てまで、主の復活の証人となる。私たちの神が、私たちを愛し、私たちのために先に命を捨てられたように、今度は、私たちが、ただお一人の神を愛し、神のために、死に至るまでも命を惜しまず、自分を残らず注ぎだして従うことができるようになるのだ。

聖霊を受けた弟子たちは、主の死と復活にあずかることで、主と同じ霊にあずかり、それゆえ、彼らには主イエスが持っておられたのと同じ、御名の権威が与えられた。病人を癒し、蛇を踏みつけ、毒を飲んでも害を受けず、人の罪を赦す権限も、赦さないでおく権限も与えられた。

弟子たちに吹きかけられた息―聖霊は、アダムと生かした霊とは異なる、死と復活を経たキリストの霊、永遠の命であり、「臆病の霊」ではなく、「力と愛と思慮分別の霊」である。

それは信じる者を、どんな苦難や試練に耐え抜いてでも、最後まで、固く御言葉に立たせ、あらゆる敵の嘘による惑わしを打ち破る知恵を与え、死に至るまでも、主の復活の証人とすることのできる霊である。

パウロは言う。

神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。
だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを耐え忍んでください。

神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。

この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。

キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。

というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。

キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。」(Ⅱテモテ1:7-14)


キリストのために受ける苦しみを、恥じてはならない。失われていたものが見いだされ、死んでいた者が生き返り、神が大いなる喜びを持って、ご自分に立ち帰る民を迎えられるためならば、自分は何を耐え忍んでも構わない、パウロはそう語る。

今、神の御思いの中心にあるのは、被造物の完全な回復である。神は、立ち帰った民の罪を赦されるだけでなく、これらの民を、堕落した一切の痕跡のない、しみもしわもない、キリストの栄光に輝く花嫁なる教会として完成されようとしておられる。

死んでいた者が生き返り、いなくなっていた者が見いだされることへの神の喜び。放蕩息子の帰還を喜ぶ父の言葉は、ご自分の民を迎える父なる神の喜びである。

「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。そして、祝宴を始めた。」(ルカ15:22-24)

キリストがエクレシア(教会)を愛されるのは、エクレシアが、キリストの成分から成る、彼の栄光を表す器だからである。アダムがエバを見たときに、これこそ自分の肉の肉、骨の骨と叫んだように、主はご自分の前に立つ花嫁なる教会を見て、そこにご自分の死と復活を見、ご自分の聖なる性質を見、ご自分の栄光の反映を見て、心から満足される。

エクレシアは、キリストにとって自分自身のような愛の対象であり、エクレシアにとっても、キリストは自分自身のような愛の対象である。この二つは一つであって、互いに呼応し合って、離れることがない。

「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会をご自分の前に立たせるためでした。

そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。わたしたちはキリストの体の一部なのです。

それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。」(エフェソ15:22-33)

* * *

さて、今日、ホセアとゴメルの失われたはずの子ら、サラとアブラハムに約束された数えきれない子どもたちとは、一体、誰を指すのだろうか。

それは、黙示録に記されている、あの白い衣を着た数えきれない大群衆のことではないかと思う。つまり、キリストによって贖われ、新しく生まれた神の子供たち、主のものとされ、死から贖い出された者たち、それが、私たちが産みの苦しみを味わいつつ、労苦していることの実なのではないかと思う。

だが、それはただ数えきれない大群衆という、数の問題ではない。被造物が、この地上にある間に、どれくらいキリストのご性質にあずかり、彼に似た者とされるかという、贖いの成就の程度と、完成の問題である。

すべての被造物の贖いの完全な成就――これこそ、神の御思いの中心にあるテーマであり、それこそが、キリストの花嫁なる栄光に輝く教会の完成なのである。その完成のためにこそ、現在、私たち神の子供たちは、すべての被造物と共に、産みの苦しみに呻きつつ、御言葉の光によって照らし出されて、ますます主の栄光を反映させて、主の似姿とされるために、試練を耐えて労苦している。

現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。

つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、”霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。」(ローマ8:18-24)

私たちには、罪赦されて贖われただけでは終わらない希望がある。それは、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り変えられ、神の栄光を完全に映し出す器とされることである。

「しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは、”霊”のことですが、主の霊のおられるところには自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを取り除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(Ⅱコリント3:16-18)

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められたました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光を与えになったのです。」(ローマ8:28-30)

こうして、私たちが栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り変えられるとき、私たちは、神の栄光を完全に表し、ご自分の造られた者への神の愛の深さを余すところなく証明する者とされる。私たちの存在そのものが、神の愛の深さ、その偉大さの証明となる。それが被造物に与えられた役割なのである。
 
「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。


「わたしたちは、あなたのために
 一日中死にさらされ、
 屠られる羊のように見られている」

 と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:35-39)

* * *



この十字架によって、世は私に対し、私は世に対してはりつけにされているのです。

「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊(魂と霊)、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。

更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。」(ヘブライ4:12-13)


「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世は私に対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」(ガラテヤ6:14)

今日のオリーブ園の記事「「霊の力の回復」第四章 霊の事柄のための霊的能力 (10)」(オースチンスパークス)も非常に意義深い。

 「エホデはこれを対処しなければなりませんでした。彼は太った人であるエグロンを対処しなければなりませんでした。さて、聖書に記されていることにはみな意義があります。エグロンは円もしくは丸いことを意味します。聖書は「さて、エグロンはとても太った人だった」と述べています。

とても太った人は、あまり多くのエネルギーを使ったことのない人です(私は攻撃的になりたくありません!)。単なる口先だけの者は、とても自己充足しており、自分のことでいっぱいで真の霊のエネルギーや力がない、という雰囲気を帯びています。それは一種の満ち足りて自己満足・自己充足しているものであり、決してあまり多くのことを行いません。

エグロンは彼の夏の部屋で素晴らしい快適な時を過ごしていました。この肉、この満ち足りた、快適で、宗教界の中で自己満足している天然の人が入って来て、神の民を支配します。「円」を意味する彼の名は、口先だけの者は円を描いて進み、決してどこにも辿り着かないことを示唆するように思われます。口先だけの者――これがエグロンです。

そしてエホデはこれを、それ自身の根拠に基づいて、神の御言葉という両刃の剣を用いて対処しました。そして、口先だけのものと本物とを真っ二つに切り分けるほどに刺し通しました。エホデの名が「告白」を意味するのは興味深いです。彼は口先だけのものに反対しました。この二つの証しの間には大きな違いがあります。その詳細は霊的背景の上にとても多くの光を投じます。


 主が私たちに告げたいのは次のことのように思われます。すなわち、霊の力は主イエスの全き主権の中に立つ問題であり、それをあなたの生活の中で個人的・団体的に知る問題なのです。それに必要不可欠なのは、あなたが主を生き生きとした個人的・実際的方法で知ることであり、あなたの生活が単なるキリスト教的生活ではなくなることです――あなたがその中にあるのは、その中にいることが良いことだからでも、自分に宗教的傾向があるからそれに興味を持っているからでもなく、その中にいざるをえないからです。あなたはその中に上から生まれたのです。」

円には完全という意味もあるが、当ブログにおいては、円とはどこにも行きつかない永遠の堂々巡り、人類が自力で神の懐に回帰して、神と分離される前の一体性を取り戻そうとするむなしい努力、すなわち、被造物を造物主と取り替えようとするグノーシス主義思想における「鏡」、相矛盾する概念の統合であるウロボロスの輪、東洋思想における永遠の混沌との一体化である「道」、禅においてすべてがさかさまになった「大円鏡智」などを意味し、すべて人類が歴史を逆行して自力で神に回帰しようとする不可能な努力のことを指していると示して来た。

そういう意味で、士師記に登場する、神が起こされた勇士エホデが滅ぼした、イスラエルを虐げていたモアブ人の王エグロンの名が「円」を意味することは興味深い。

(筆者はここで筆者がかつていたこともあるキリスト教の集会でクーデターを起こして集会を乗っ取った人物(夫妻)が、共に太った人物であったことを思い出さずにいられない。夫妻ともどもに非常に似た者同士だったのである。

筆者は外見で人を判断したいとは思わないし、外見がすなわち人の性格を表すものだとも言わないが、彼らの場合は例外で、彼らの外見は彼らの内面をよく表していた――自己を制御できない状態、貪欲さ、動物的で野卑な性格、忍耐のなさ、性急さ、緩慢さ、感覚の鈍麻といった内面の状態をはっきりと表していたのである。だから、筆者はこの集会のリーダーに向かって、この人々の危険性を告げたとき、彼らはなぜあれほどまでに太っているのか、という質問を投げかけたことがあった。他方、集会のリーダーは外見に非常にこだわりのある人物で、外見を鍛え上げ、自己鍛錬に励んでいたが、そのような人物が、自分のポリシーと相容れないエグロンのような人々と和合したことも、非常に象徴的であった。人の生まれながらの自己から発生するものは、何であれ、円を描いて対極のものと結びつき、腐敗して行くのである。)

 
  
異端思想(神秘主義)のシンボル
エグロン=円=輪=和=日輪=道=ウロボロスの輪=大円鏡智=グノーシス主義の鏡


こうして、神と人との区別を否定するすべての異端思想(神秘主義思想)が、相矛盾する概念の統合、循環する時間軸として、円というシンボルで表されるのに対し、聖書に基づく正統なキリスト教の時間軸は、直線であって、円ではなく、そこでは矛盾する概念が一つに溶け合うなどのことは絶対に起こらない。正統なキリスト教にはアルファ(はじめ)とオメガ(終わり)があって、それは決して円を描いて一つに結びつくことはない。

聖書は、神の御言葉には、切り分ける(切断する)機能があるとしており、それは何よりも人の生まれながらの腐敗した命の働きと、神の新しい聖なる命の働きとを鋭く切り分ける。その切り分けの機能は、ちょうど旧約聖書において、いけにえとして神に捧げられた動物が幕屋で解体される場面になぞらえられる。

エホデの名は「告白」を意味し、その言葉は、ちょうど黙示録に登場する「証しの言葉」に一致する。クリスチャンは小羊の血により罪を清められ、キリストの復活の証人として、神の御言葉の正しさを証言する人々である。聖書の御言葉が神に属する聖なる永遠に続くものと、神に属さない滅びゆくものを切り分ける機能を持つならば、御言葉を告白する人々の証しも、同様に、すべての物事を切り分ける機能を持つ。

兄弟たちは、小羊の血と
 自分たちの証しの言葉とで、
 彼に打ち勝った。
 彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。」(黙示12:11)

エホデがエグロンを対処したことは、今日、私たちが口先だけで十字架を唱えながらも決して自己を主と共なる十字架において死に渡そうとしない相矛盾した態度を捨てて、厳粛に御言葉に服し、生まれながらの自分自身に対する死の宣告を受け入れることを意味する。

エグロンのように天然の命に基づいて、緩慢な滅びである円を描いて生活する人々は、信者の中にも、あまりにも数多く存在するが、私たちは彼らにならうことなく、自分自身が、祭壇の上に捧げられた供え物として、まことの大祭司なる主イエスの御言葉の切り分けの機能の下に服し、切断されることに同意しなければならない。

裁きは神の家から始まる――私たちは世が滅びるよりも前に、世から召し出された者として、真っ先に神の裁きに服する者たちである。今日、主の民全体が、両刃の剣よりも鋭い神の言葉によって刺し通され、対処される必要があるが、私たちはその代表として、神が立てられたエホデである御言葉の剣を取り、自分自身の内側にあるエグロンが刺し通されることに同意する。

私たちはいついかなる瞬間にも、自分がゴルゴタで主と一体となって、この世に対してはりつけにされて死んでいることを認め、告白する。ただこのキリストの十字架によってのみ、地獄の全軍勢が、私たちに手出しをする力を失い、かえってその勢力がキリストによって征服されて、彼の凱旋の行進に捕虜としてさらしものとされるのである。


あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。

御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。


天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべての者よりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。

また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた者です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。

神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。

あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自分の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。

ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。」(コロサイ1:13-23)

今朝のオリーブ園に掲載されているオースチンスパークスの記事「「霊の力の回復」第四章 霊の事柄のための霊的能力 (9)」は、キリストと共に十字架で人の自己が死に渡されることがどれほどエクレシアにとって重要な事柄であるかを語るものであるため、以下に掲載しておく。

なお、一つ前の記事にキリストのからだとしてのエクレシアの働きについても、必要な聖書箇所を補っておいた。

これまで筆者は繰り返し、エクレシア(教会)に参加するためには、それぞれの信者の自己が戸口で焼き尽くされて死んでいなければならないことを書いた。以下の論説も、ちょうど同じテーマを扱っており、キリストと共に自己を十字架に死に渡すことなく、キリスト者の交わりに参加しようとする者が、どれほど神の福音の証しを損ない、交わりを害してしまうかについて言及している。

主と共に真に十字架に赴くことがない人々は、いわば、ただクリスチャンに偽装しただけのような存在であり、交わりをかく乱するだけでなく、真に主と共に十字架に自分を同形化しているクリスチャンにも多大な悪影響を及ぼす。

それは筆者が繰り返し書いて来た、神の最善を退けて、人間の思いを優先する次善であり、しかも、自分たちが次善であることが暴かれないよう「最善」を攻撃する「次善」であり、神の教会から真に衝撃力の伴う御言葉の証を取り去ろうとする。

ところが、嘆かわしいことに、今日、教会と呼ばれている団体の8~9割はこうした人々で占められているのではないかと思われる。それほどに、今日の教会は真に霊的衝撃力の伴う神の証しを失って、弱体化しかけている。

その状態が回復されるためには、やはり真に主と共に十字架を通る人々が新たに起こされる必要があり、キリストと共なる十字架とは何であるのかが、人々の目に公然と証される必要があろう。

今更、説明の必要もないとは思うが、信仰によって前進する過程で、私たちは、自己の安寧、自己の都合、自己の名誉・・・といった生まれながらの自己の必要性を、自分の手から離して、神に明け渡すことが、どうしても必要になる。その戦いは、個人個人によって性質が異なるものであり、何をどこまで主のために手放すのかは、人に要求されてすることではなく、各自が神との間で相談して自主的に決めることである。

今日、暗闇の勢力が行っている欺きはこういうことである、「主と共に十字架で死ぬですって?十字架で自己を手放すですって?何を言っているんですか。そんなのカルトですよ。あなたは日常生活も放棄して、自分の願いを自分で滅ぼして、自分で自分を否定して、自分の楽しみや喜びを放棄して、一体、何をしようとしているんですか。クリスチャンがそんなみすぼらしく、みっともない貧しく孤独な生活を送る必要はありません。日曜日に教会に通い、牧師の説教を聞いて、献金をしていれば十分ではありませんか!後の時間は、自分の幸福のために使えばいいんですよ。」

だが、神は私たちの全存在を求めておられ、私たちが全身全霊で神を愛し抜き、従い抜くことを願っておられる。それが代償なしに達成されるはずもない事柄であることは明白である。神が先にその愛する独り子を地上に送り、私たちのために犠牲とし、命を捨てて下さったのに、私たちの方は、自己の安寧を微塵も手放さず、ただひたすら自分のことだけを考えて、一つの痛み苦しみも味わうことなく、神に従えるというのだろうか。そんなことを考える方がどうかしているだろう。

しかし、もちろん、神は初めから私たちの理解も及ばないような著しい代価を求められることは決してない。神は私たちの弱さを知っておられ、あくまで私たちの同意に基づいて、ご自分のみわざをなさる。クリスチャンの従順は徐々に完成に向かうものであり、神の子としての訓練を受けることで、キリストの御丈まで成長するのである。

「イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ22:37-40)

「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)

「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。」(ローマ8:5-9)

主と共なる十字架を知らない人々は、神に従う上で、自分自身にも払わなければならない代価があるということを知らず、肉を十字架において死に渡すことを知らないし、これに抵抗する。オースチンスパークスは書いている、

「新生の問題は、私たちが理解している以上に遥かに大きな問題です。この問題は神の教会の証し全体に影響を及ぼします。悪魔がしてきたのは、真に上から生まれていない人々を入り込ませることによって、イエス・キリストの主権についての証しを損なうことです。主の民は力を奪われています。これが主イエス・キリストの絶対的卓越性についての証しを滅ぼす敵の方法でした。それは三重の天然的関係であり、これを滅ぼせと主は言われました。

 これを言うのは難しいように思われるのですが、たんなる口先だけの者はすべて屠られなければならないという感覚があります。これはもちろん文字通りの意味ではありません。彼らは十字架に行って屠られ、キリストと共に新しい命の中によみがえらされなければならない、という意味です。

あなたは十字架によってとても強く打たれなければなりません。さもないと、証しは損なわれることになります。
ローマ人への手紙は救われていない者ではなく信者たちに対して書かれました。ローマ人への手紙の意義はこれに尽きます。もし八章と共に登場する御霊の中にある主権の生活を知ろうとするなら、それを知ることができるのは六章の死の生活を知る時だけです。キリストと共に死ぬこと、これが中に入る道です。


 十字架のメッセージは、口先だけの者たちを中身のある者たちから、見せかけを実際からふるい分けるのに必要です。そして、これは今日、多くの人にとってとても厳粛で深刻な問題です。肉は十字架に付けられることに憤り、死ぬことに憤ります。善良ではあるけれども口先だけのクリスチャンの群衆と共にあなたは長い道のりを行くことができますが、それはキリストとの一体化が実際的な問題になるまでのことです。その時、戦いが生じます。悪の軍勢はまったくの不信者たちの中に宿っているのと同じように、口先だけの者たちの中にも宿っています。これは敵の巧妙な活動の一つです。敵は露骨な無信仰によってはそれをすることができませんでしたが、「私はあなたたちと同じです」と公言する人々を入り込ませます。しかし、彼らは死んだことが決してなく、キリストと共に十字架に付けられることがどういうことか知りませんし、あるいは、自分たちの生活の中で彼の十字架の経験を実際的な方法で経験したことがありません。」
 
十字架の死と復活の働きは、神が御言葉を人に啓示されて初めて理解されるものであって、人が人に対して教えられるものではない。主と共に屠られるためには、人はしばしば大きな苦難を通らなくてはならない。苦難の中で自分を低めること、自分の主義主張を脇に置き、自分の願望を投げ捨てて、ただ神を信頼して御言葉に従う道を選ぶこと、それだけが、主と共なる死に自分を同形化する道である。

そして、クリスチャンが主と共なる十字架に自分を同形化することに失敗するとき、ある団体がまるごと暗闇の勢力に渡されるという悲劇的な結末がしばしば起きる。

上記の論説に書いてある通り、一つの団体の中に、似て非なる二つの異なる勢力が混在している。そこには、ハガルとイシマエル(肉によって生まれた者)と、ハンナとイサク(御霊によって生まれた者)という、全く異なる勢力に属する人々がいる。

御霊によって生まれた者は、常に「人にはできなくとも、神にはできる」と信じ、大胆に御言葉の証しを掲げ、神のみわざを待ち望んでいる。しかし、肉によって生まれた者は、口先で御言葉を唱えることはしても、そこに信仰がないので、神のみわざを信じて待ち続けることをしない。そして、試練に見舞われれば、すぐに退却し、「人には限界ばかりで、できることは何もない。人をこのように惨めな存在に造られた神は理不尽である」と不満を表明する。

肉とは、言い換えれば、死へ向かう滅びゆく人間が、自己の力で何とかしてその死の決定に逆らおうとする悲痛な努力の総体であり、堕落した人間の命の限界そのもののことである。

人は自分の生まれながらの生命を維持するために、絶え間なく外界からエネルギー源を摂取しなければならず、そこに各種の欲望が生まれる。しかし、これらの欲は、満たしても、満たしても、決して飽かされることがなく、その満足はすぐに消えて行き、またしても渇望が起こるだけであって、人間は生きる限りその欲望の奴隷状態から抜け出せず、自己を満たそうとするすべての努力が、死によってしか報いられないという恐るべき悪意ある逆説の中に置かれている。

肉とは、このように絶え間ない欠乏状態に置かれ、絶えず自己の生存を死によって脅かされ、死を避けるために、自分を救う力のない己の欲に踊らされ、自分の欠乏の惨めで屈辱的な奴隷状態から抜け出せない生まれながらの人間の腐敗・堕落した有限なる命の働きである。

しかし、御霊によって生まれた者は、この滅びゆく肉に対して、主と共なる十字架で死んでいるので、以上のような罪の奴隷状態から自分が解放されており、神の朽ちることのない永遠の命によって自分が新たに生かされ、神の命によってすべての必要が上から供給されることを知っている。

キリスト者が地上で生きるためのすべての必要性は、衣食住を含め、すべて自分で自分の生存を保とうとする自己の努力によってではなく、信仰によって、キリストの復活の命を経由して上から与えられる。従って、キリスト者は地上を生きる上で、自分を救う力のない己の欲によって自分を満たさなければならないという恐るべきパラドックスから解放されているのである。

しかし、肉によって生まれた者は、御霊によって生まれた者と自分が同じ存在であるかのように見せかけながら、御霊によって生まれた者に巧みに話しかけ、神に対する不満を吹き込もうとする。そして、決定的な瞬間に、「人であるあなたにはできない。神は理不尽だ。あなたは無駄なことを信じているのであって、あなたの希望はかなわない。」とささやき、信仰をくじこうとする。

肉の思いは、つまるところ、自己の力で自己を満たそうとしても、それができない人間が、神に対して不服を表明し、憤る思いである。その思いを、肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者に吹き込み、御霊によって生きる者の思いを穢すことで、神に対する信頼を失わせ、大胆な証を損なおうとする。

このようにして、一つの団体の中に、同じクリスチャンのように見える二つの勢力が併存し、やがてこの二つの勢力が、激しく敵対し、争うようになる。霊御によって生まれた者を、肉によって生まれた者が、堕落させ、迫害し、追い出そうとするが、御霊によって生まれた者は、その激しい迫害を乗り越えて、御言葉の証を保たねばならない。そのためには、十字架の装甲の中から決して外に出ない姿勢が必要となる。

「ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、”霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。」(ガラテヤ4:28-31)
 
だが、信者たちはしばしば失敗して、十字架の装甲から外に出て、証を失ってしまう。被害者意識や、神に対する不満の思いを心に注ぎ込まれ、思いを穢されてしまう。そして、一心に信頼して神だけを見つめることをやめて、神はすべての苦難から私たちを救い出して下さるという確信を失い、自己の限界を見つめるようになり、自分を不憫がるようになり、ただ自分の弱さに同情してくれる人々だけを周りに集め、その弱さの中に閉じこもって、前進することをやめて立ち止まり、そこに人の生まれながらの自己を守るための一大共同体を作り上げてしまう。
 
すると、御言葉の証は失われ、信仰による神の働きはやみ、御霊によって生まれた者は、ちょうど髪をそられたサムソンのように、勇士としての力を失って、捕虜とされ、外に追いやられ、苦役に従事させられることになる。

私たちは、悪魔の虚偽の訴えに対しては毅然と立ち向かい、御言葉の証を守らなければならない。公正、真実、正義に立って、御言葉の真理を高く掲げることをやめてはならない。しかし、同時に、その戦いは、決して私たちの生まれながらの自己を守るためではなく、それを超えたところにある神の御国の権益のためでなくてはならず、そうして私たちの掲げる目的が、真に自己のためでなくなるためには、私たち自身が、絶えず十字架の死をくぐる必要がある。自己憐憫や被害者意識を心に抱え、神の権益のために自己の利益を手放すことを惜しみ、自分の限界を取り払うことができないものと考えて、これを哀れんでいると、主と共に十字架の死を通過することができなくなってしまい、信仰の前進がやむのである。
 
そうして聖徒らが十字架を回避して、生まれながらの自己を保つようになると、彼らの証は力を失い、彼らは聖徒としての特長を失うことになる。そして、肉によって生まれた者が、霊によって生まれた者を追い出して、団体の頂点に立ち、一つの団体がまるごと敵の手に渡されてしまう。もしくは、彼らは出て行っても、暗闇の勢力の支配下で、また新たな腐敗した別な団体を作るだけである。

筆者はこうした現象を幾度も目撃するうちに、ようやくこれがクリスチャンと暗闇の勢力との間で繰り広げられている霊的な支配権の争奪戦であることを理解し、一体、これに対してどのように打つ手があるのかを考えるようになった。

もちろん、主と共なる十字架の装甲から一歩も出ないで、自己を十字架に死に渡すことこそ、勝利の秘訣であるが、勝利というからには、死で終わるのではなく、そこに復活が現され、瞠目すべき神のみわざが現され、明白な勝利を勝ち取らなければならない。それだけでなく、ただ真理を知らないだけで、故意に御言葉に逆らっているわけではない人々を、敵の欺きから取り返すことが必要である。

そこで筆者はようやく、祈りの防衛の盾をはりめぐらし、激しい戦いの中でも、そこに踏みとどまって、決して支配権を自ら放棄することなく、霊的領土を明け渡すことなく、なおかつ、そこに残っている人々を、自分たちの陣営にかくまい、保護するまで、あきらめずに戦いを続行することを学び始めた。

その団体に残っている人々のほとんどは、しばしば、何が起きているのかを全く理解しておらず、戦いがあることさえも分からないでいる人々である。彼らはちょうど戦争が勃発しているのに、そのことを知らされないまま、自分たちの土地に残された非武装の住民のようなものである。敵が襲撃して来れば、彼らに命はないことを私たちは予め知っている。そして、私たちは武装しているが、彼らは自分を守る術を知らない。

そこで、もしもこのような状況で、私たちが自分の命を惜しんで、真っ先に彼らを捨てて安全なところに退却するならば、彼らはみな敵陣に捕虜として引いて行かれることになり、そこでさまざまなひどい目に遭わされて、神は理不尽だという思いに生涯、とらわれ、憎しみと憤りと不満の中に生きることになりかねない。何よりも、彼らは自分たちを危険の中に捨てて行ったクリスチャンを憎み、許さないことであろう。

そのようなことが起きないために、私たちは最後まで戦って、真理を知らない人々を敵の襲来から保護し、むしろ、敵の勢力の方こそを、キリストの勝利の凱旋の行進の中に捕虜として引いて行かねばならない。

そのように激しい戦いを、神の武具で武装してすべてをキリストの支配下に置くまで決してあきらめないで戦うことを決意した人々が、勝利を得るまで忍耐強く信仰によって続行したときに、初めて、一つの団体が、罪の束縛の中から解放され、肉の支配下にある者ではなく、霊の支配下にある者の指揮権の下に置かれるということが起きるのである。

ここで重要なのは、冒頭の御言葉が、「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られた」と述べていることである。戦いには初めから決着が着いており、御子はすでにカルバリで勝利を取られた。問題は、地上にいる主の民がそれを最後まで信じられるかどうかである。


しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。

「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世は私に対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」(ガラテヤ6:14)

神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」(コロサイ2:13-15)

ただ一点、キリスト。

以前にあるキリスト者からよく聞かされた言葉だ。その当時は、標語のようにしかみなしていなかったこの言葉が、筆者にとって、今はもっと深い意味を持つ。

当ブログとブログ主に対するさまざまな人権侵害を理由として筆者が起こしていた裁判が、12月27日に結審した。判決言い渡しは3月末に予定されている。

すでに記して来た通り、この裁判はネット上で起きた紛争処理の一部であり、これに付随して続行しなければならない訴えが複数残されている。そこで、この審理終結をもって事件が完全に終結したわけではない。

だが、今、筆者が書きたいのは、この紛争のために筆者が支払った犠牲のことではなく、むしろ、この事件を通して、神がどれほど筆者を含めた関係者一同に大きな恵みと学びを与えて下さったかということである。
 
今、判決を準備している最中の裁判官の心の静寂を邪魔したくないため、多くのことは書かないが、予め断っておけば、筆者は、 今回の裁判は、教会史の中に刻まれておかしくないほど、深い意義を持つものであり、今回の裁判を担当してくれた裁判官や書記官の名は、私たちクリスチャンの名と並んで、初代教会の時代から現在まで続く目には見えない使徒行伝の記録の中に、永遠に刻みつけられ、神の目に留められるだろうと信じている。

それほど神はこの裁判を通して、我々にお与え下さった救いの確かさを、余すところなく証明して下さったものと筆者は信じている。結審の様子を思い起こすと、今でも心に深い感動が込み上げて来る。

通常、裁判などというものは、原告であれ被告であれ、誰も関わりたくないと願うものであるが、今回の紛争において、筆者は弁論の回を重ねるごとに、裁判官や書記官を近しい存在に感じるようになった。これは、自分の住所の所轄裁判所で訴えを起こすことができる原告の役得のようなものである。

この訴訟においては、弁論のほとんどが電話会議という形で行われた。電話会議は、被告らにとっては遠方の裁判所まで足を運ばなくて良い利点があり、原告にとっては、法廷のような段差や距離感を取り払い、裁判官や書記官と顔と顔を合わせて互いの表情がよく見える近い場所で、リアルに感情を分かち合いながら審理を進められるという利点がある。

そうして回を重ねるうちに、最初は裁判所をただ近寄りがたい場所とみなし、紛争解決の糸口を探していただけであった筆者が、最後には、この事件に関わってくれた全ての人々に対する厚い信頼を持つようになり、最後にはまるでチームワークのような固く緊密な結束・連携により、弁論を終結に至らせることができたのである。判決をまだ聞いていないうちから、筆者は、このような紛争のために労してくれた人々に心からの感謝や敬意を払わないわけにいかない。

今回は、当事者の誰も弁護士をつけなかったことにより、それぞれが本音で心を開いて語り合うことができた。そのおかげで、非常にリアルでドラマチックな展開が生まれたのだと言える。関わった一人一人の正直な心の本音が、裁判所の関係者に至るまで、明らかにされたことにより、事件にふさわしい結論が導き出されるために必要なすべての前提が整えられたのである。

以前にも書いたように、筆者は弁護士という職業を好かない。筆者の弁護者は、今もこれからも見えないキリストただお一人だけで十分であり、もしも今回もこの審理の輪の中に一人でも弁護士が入っていれば、率直な話し合いはたちまち不可能となっていたであろうと思う。

筆者は最後の弁論期日において、電話会議が終了した後、法廷へ移動する前に少しだけ与えられた時間の中で、ちょうど投獄されたパウロが獄吏に向かって福音を宣べ伝えたように、裁判所の人々に対し、筆者を贖って下さった神の福音のはかりしれない意義を伝えることができた。そして、そのことこそ、他のどんな結果にまさって、有益かつ貴い収穫だったのではないかとみなしている。

神はこの事件を通して、御子キリストを通して筆者に与えて下さった贖いがどんなに揺るぎないものであるかを見事に証明して下さった。だから、筆者はこの紛争を提起したことに、何一つ後悔はなく、神に栄光を帰することができたと心から喜んでいる。

しかし、今回の結審を勝ち取るためには、筆者自身にも、己を低くして通らなければならない狭き門があった。

この裁判が始まった時から、裁判官は年度末に異動を予定していることを明かしており、もしも彼に判決を書いてもらいたいならば、我々は年内にすべての弁論を終えて審理を終結させる必要があった。しかし、被告らは反訴を主張して、それを不可能にしようとしていたし、この裁判を結審させて判決を勝ち取るためには、筆者も自分の主張を脇に置いて、個人の利益をはるかに超えたところにある、神の利益のために、身を投げ出すことが必要だったのである。

およそほとんどの裁判は、人権を守る目的のために起こされるものであるが、筆者はクリスチャンとして、この裁判を通して自己の権利だけを主張しようとしているのではなく、私たちのために贖いを成し遂げて下さった聖書の神の正しさを生きて世に証明し、神の利益を擁護するために立たされた。

クリスチャンには、自分の命と引き換えにしてでも、信仰の証しを守り通さなければならない瞬間が存在する。そこで、この裁判を通して、筆者は求められた代価を払うことで、わずかながらも、福音のために命をかけた初代教会のクリスチャンらのような殉教の精神を学ぶことができたものと思う。

キリストこそ私たちの人生の真の主人であり、私たちの全ての全てであり、我々の人権も、幸福も、すべてこの方に由来している。このお方を否定して、私たちにはいかなる命もなければ、権利も幸福もない。当ブログの標題にも引用している以下の御言葉の通り、私たちは代価を払って買い取られたのであり、もはや自分自身のために生きているのではないのである。

「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」
(ガラテヤ2:19-21)


私たちはクリスチャンとして、何が聖書の御言葉にかなう真理であって、何がそうでないのかという事実については、決して主張を曲げることも、譲ることもできない。そうは言っても、私たちは自分の主義主張を掲げているのではなく、真理に立つ民として、福音の使徒とされているのであるから、ヨブのように、常に自分をむなしくして全焼のいけにえとして祭壇で焼き尽くされ、自分の主張を神の御前に投げ捨てる覚悟がなければならない。

そこで、裁判官の異動のためにもうけられた制約も、筆者の心を試す良い試金石となった。最後に行われた電話会議では、裁判官と書記官は、筆者をできるだけ早くこの紛争から解放するために、真心をこめて、この日に結審できるためのすべての手筈を予め整えてくれていた。

だが、弁論を終結するためには、あくまで筆者が自分自身を十字架に置くことが最後の決め手としてぜひとも必要だったのである。もしもこの日、筆者が自分の主張に固執し続けていたならば、年内終結というリミットは守れず、筆者は望んでいた判決を得ることもできず、裁判官の交替はやむを得ないものとなっていたであろうと思う。

この日、裁判官は、弁論が始まる前に、被告と口論にならないために、被告の主張を最後まで黙って聞くよう筆者に注意を促した。

さらに、裁判官は被告から締め切りを超えて出された書面があることを説明し、これを受けとるかどうかを筆者に尋ねた。筆者は、締め切りを守らず期日直前に出された書面を受けとりたくないという意向を前々から表明していたが、この日ばかりは、書面を受けとることに同意せざるを得なかった。

その後、書記官が被告らとの電話をつなぎ、裁判官がいつものように陳述扱いにする書面を読み上げ始めた。

筆者は当初、それをうつむいて聞いていた。裁判官が原告の提出した書面について尋ね始めた時も、まだうつむいて返事をしていた。ようやく目を上げようとすると、筆者の視界には、目の前で裁判官が読み上げた書面を手元の書類と照合してチェックをつけている書記官の様子が入りかけた。

筆者が何気なくその様子を見やろうとしたその瞬間、突如、どこからともなく、「いけない!目を上げて裁判官だけを真っすぐに見なさい!」という、まるで叱責のように鋭く厳しい制止の言葉が、筆者の心に飛び込んできたのである。

筆者ははっとして裁判官を見やったが、裁判官は事件のファイルと、陳述扱いにする書類を記載した書面をせわしなく見比べながら読み上げている最中で、以上の制止の言葉が、誰から(どこから)筆者に向けて発せられたのかは分からなかった。

しかし、筆者はこの警告を非常に重要なものと受け止め、それ以後は、しっかりと目を上げて、裁判官の言葉や態度から目を逸らすことなく注目し、ただ裁判官と連携して弁論を終結させることだけにすべての意識を集中した。

裁判官は、これが最後の弁論になることを断った上で、各自に最後の機会として自分の主張を言うよう、一人一人に発言を求めた。「まずは原告から」と、最初に発言を求められた筆者は、即座に、言うべきことは何もないと返答した。すると、被告らも、それに続いて、まるで調子を合わせるように、次々に言うことは何もないと発言し、原告に反訴もしないと答えたのである。
 
筆者の目の前で、書記官が心底、驚いている様子が伝わって来た。何しろ、その一つ前の弁論時には、議論は紛糾して非常に険悪な雰囲気となり、被告らは原告に必ず反訴すると宣言し、裁判官は我々の議論を遮って制止し、電話会議が終わった時、一同は絶望的な雰囲気に包まれ、裁判官は大きなため息をついて、これですべての希望が砕け散った、すべては原告のせいだ、と言わんばかりの表情をしていたのである。

だが、その時、筆者は信仰者として、被告らの反訴の脅しが決して実現しないことをただ一人確実に知っていたので、何とかして筆者のために労してくれている人々の心を取り戻し、絶望感を払拭して、勇気づけねばならないと思い、残された時間で、ほとんど捨て身と言っても良い態度で、すべてのことは想定内であり、どんな結果になろうとも、筆者はそれを身に負う覚悟ができており、反訴であろうと、控訴であろうと、その他の脅しであろうと、何一つ恐れているものはなく、誰の責任にするつもりもないと説明しなければならなかった。

しかも、筆者は、その時、まだすべての主張が言い尽くされたわけではなく、最後の総仕上げが残っているという印象を受けていたので、被告らの憤りを恐れず、最後まで主張を言わせてほしいと裁判官に頼んだのであった。
 
その後、筆者は自分の主張を書面で提出することができたので、最後の弁論では、いかなる主張もしないことを心に決めていた。そして、裁判官も、誰にも追加の主張がないことを確かめると、あっという間に口頭弁論の終結を言い渡した。その際、結審のために必要な最後の手筈までが予めすべて裁判所の側で整えられていたことが鮮やかに証明された。

こうして最後の電話会議は(双方の弁論の)開始からわずか1,2分程度で終了した。見事な連携プレーが成し遂げられて、議論の紛糾もなく、鮮やかに審理が終わった。

議論してはならないという裁判官の忠告がやはり正しかった。筆者は思わず満足の笑みを隠せず、裁判官もほっとして笑顔を見せ、一同、緊張が解けて解放感に包まれた。

しかし、このように息の合った連携は、もしも筆者が少しでも裁判官の判断に不服を感じていたならば、きっと成し遂げられなかったであろうことを疑わない。
 
人間が発したのではないかも知れないあの厳しい制止の言葉は、ほんの一瞬でも、その審理の場で最高の指揮官であり権威者である裁判官から筆者が目を離し、各自の思いがバラバラになったまま審理を進めることの危険性を筆者に告げたものだったように思う。

書記官も多くの配慮をなしてくれ、書類のやり取りはすべて書記官を通して行い、この審理の極めて重要な立会人となっていた書記官は、ついに筆者には親しみ深い、身近な存在になっていた。

とはいえ、この紛争の行く末を決める決定権を持っている存在は、裁判官を置いて他になかったのである。

そこで、権威に服するという点においては、決して覆せない序列がそこにあり、書記官は裁判官の権威に服し、それに従っていた。そこで、筆者も、この序列を壊さず、自分を解放する宣言を下すことのできる唯一の人間だけを真っすぐに見つめ、その発言に耳を澄まさなくてはならなかったのである。
 
筆者には、この事件を担当した担当してくれた裁判官が、この事件をとても深く理解してくれ、これを終結させるためにあらゆる努力を払ってくれていることが、前々からとてもよく分かっていた。だが、それでも、筆者がもしも最後まで自分の主張、自分のポリシーだけにこだわっていたとすれば、裁判官の深い配慮に気づけないまま、むしろ、裁判官に不服を覚えながら、各自の心がバラバラの状態で最後の弁論が行われた可能性がある。

たとえば、裁判官が弁論が始まる前に、筆者の発言に注意を促したことや、筆者が書面の当日受け取りをせざるを得なかったことなどの些細な事柄に、筆者が少しでも気を取られ、それに不満を覚えていれば、以上のような展開もなく、我々には着地点が見つからなくなって、弁論の終結もできなくなっていた可能性がないとは言えない。

つまり、この裁判官に判決を書いてもらいたいという筆者の願いが実現するかどうかは、筆者が彼を信頼してその采配に自分を委ね、その判断に全面的に従うことができるかどうかにかかっていたのである。(だからこそ、最後の弁論では、筆者はすべてを脇に置いて、裁判官を注視しなければならなかった。)

筆者から見て、地上に立てられた裁判官は、見えない裁き主としての神の権威を象徴する存在である。もちろん、すべての裁判官がみな同じような存在であるわけではない。しかし、私たちが地上の裁判官の判断にどのような態度を取るかは、私たちが神の裁きに対してどのような態度を取るかという問題ともどこかで密接につながっているように思う。
 
もしも私たちが、顔を上げて、まっすぐに自分の上に立てられた権威者を信頼して見つめないならば、その行為の中には、何かしら非常に恐ろしい危険が生じ得ることが分かったのである。

創世記において、カインは弟アベルを殺す前に、まず神に不満を抱き、神から目を逸らして、顔を伏せたとある。神の采配に対する不満が、カインの目を神から逸らさせ、顔を伏せさせるという行為につながり、そうして光であるお方から目をそらしたことで、カインの心に暗闇が生まれ、そこに罪が入り込む余地が発生し、彼は罪に誘われるまま、弟を殺したのである。

「日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。
しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。

そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。 正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。

カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。 主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。 あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」。 」(創世記4:3-12)

もしも私たちがただの一瞬でも、私たちの最も愛する方、私たちに命を与え、自由を与えることのできる方、私たちを祝福し、あらゆる悪から力強く救い出す権威を持ったお方から目を離し、神に向かって顔を上げることをせず、自分の顔を伏せて、自分自身の思いや、ほかのことに気を取られ始めるならば、その一瞬の気の緩みが原因となり、私たちは神との親しい交わり、神との同労を失い、あっという間に、御心から遠くへ引き離されて、神の御前から退けられてしまいかねない危険を思わないわけにいかない。

筆者はこれまで主に心の姿勢について語って来たのであり、私たちが肉眼で何を見つめるのかという目線の重要性を語ったことはなかった。しかし、私たちの目が何を見つめるのかという問題は、私たちの心の姿勢を如実に表すものであり、非常に重要な問題である。

この審理においては、ただ裁判官だけが、筆者を法的に保護する判決文を書くことができるのであって、他の誰にもその真似をすることはできない。その人物に向かって不服を表明することは、自分を解放する決定を自分で否定し、退けることと同じである。
 
裁判官の割り当ては、原告や被告の希望によって行なわれるものではない。しかし、審理の初めから、筆者にはこの人にはこの事件を理解して解決に導くことが可能であり、この人に判決を書いてもらいたいという願いがあった。そこで、一人の裁判官に判決を書いてもらうために、訴えを分割して他部署に委ねることをも断った。

そこで筆者は、弁論終結のためには、地上の裁判官の考えや判断を尊重してこれに同意し、彼が何を意図し、弁論をどのように導こうとしているのか、まっすぐに裁判官を見つめて、その言葉や表情に注意を払い、これに同意しなければ、次に起きることを予想できず、同じ目的に向かって同労して、自分を解放に至らせるための判決を得ることができなかったのである。

最初は偶然のように始まった人選であり、出会いであったが、弁論の終結が近づくに連れて、裁判官の交替という出来事は、筆者には何としても阻止せねばならない選択肢となって行った。それは筆者が自己の義に固執して正義の判決を失うこととほとんど同じほどの意味を持ち、そこで、裁判官は弁護士でないにも関わらず、筆者は待ち望んでいる判決を得るために、裁判官の判断に完全に同意してこれを受け入れ、彼と同労することが必要不可欠だったのである。

これと同様に、私たちはクリスチャンとして、地上において、絶えず神と同労する必要に迫られている。もしも私たちがその役目を放棄して、最高権威者である神ご自身に不満を抱き、一瞬でも神から目を逸らすならば、私たちは自分をあらゆる悪から救い出すことがおできになる方の力強い決定を見失い、生きる方向性を失って行くことになる。

最後の弁論では、そのような危険はすべて排除されて、鮮やかに審理が終結し、その後、信仰の証しをする時間までも与えられた。筆者は、裁判官や書記官の前で、改めてキリストの十字架の意義を伝え、この裁判が、筆者を贖い出して下さった神の御業を表すものであることを伝えることができたのではないかと思う。

その後、筆者は書記官に伴われて、予め準備が整えられていた法廷に導かれ、すでに法壇に着座して我々を待っていた裁判官に迎え入れられた。その時、ここは筆者が自分を捨てて十字架に服さなければ、決して到達することのできない場所であったことをしみじみと感じた。

この裁判を最後まで遂行するためには、筆者はクリスチャンの一人として、神の御言葉の正しさを公然と証するために、すべての虚偽の脅しに立ち向かって、自分の命を最後まで注ぎだす必要があった。また、自分の心の中で、己を低くして、狭い道を通り、狭き門としての十字架を通らなければならなかった。それができなかったならば、決して到達できなかった場所、得ることのできない決定に、筆者はたどり着いたと感じたのである。

主イエスは言われた。わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」(マルコによる福音書 8:34-38)

法廷はしばしば人間のエゴとエゴとがぶつかり合うたけの闘争の場所のように見えるかも知れない。しかし、実際には、そこで人の痛み苦しみの記録にじかに触れ、また、人の魂が切にあえぎ求めている解決に達するためには、それぞれが己を低くして通過せねばならない見えない門が存在する。原告や被告だけが苦しみながら戦っているのではなく、そこに一堂に会するすべての関係者が心に持たなければならない謙遜さが存在する。

法廷では、裁判官は最も高い席に着席し、それよりも一段低い席に書記官が着き、原告や被告などの紛争当事者には、傍聴席と同じ目線の一番低い席が用意されている。裁判官が最も高い席に着くのは、その権威の高さに照らし合わせて当然のことと思われるかも知れないが、その裁判官といえども、決して傲然と上から人々の苦しみを見下ろしているわけではない。

裁判官は退廷するとき、決して傍聴席に背を向けず、法廷を目の前にしたまま退出する。しかも、退出する時に通る扉はかなり低く、背の高い裁判官は、ちょうど法廷に向かってお辞儀をするような恰好で身をかがめて退出せねばならない。

筆者はそれを見るにつけても、裁判官にさえ、法廷に出るためには、己を低くして通過せねばならない狭き門があるのだと感じた。そして、筆者には筆者なりに、この最後のステージに到達するために、身をかがめて通過せねばならない見えない狭い門があった。各自がそれをクリアしなければ、この三者のメンバーで、審理を終結させることはできなかったであろうことを思わされた。

法廷は神聖な儀式の場ではなく、そこにあるのはキリスト者の交わりでもない。しかし、筆者は今、キリスト者の交わりが成立するためには、それに参加する信者らの自己が、ことごとくエクレシアの戸口で焼き尽くされて死んでいなければならないという、ある信仰者の言葉を思い出さずにいられない。

モーセは燃える芝の前で靴を脱ぐように言われたが、神聖な場所に入るためには、人は自己を焼き尽くされて死を通過していなければならない。今回、法廷においては、死に定められた者が、命を与えられ、贖い出されてゲヘナから連れ戻され、名誉を回復されるという、奇跡のようなことが起き、私たちが信じている神の救いの確かさが、それによって公然と世に証されたわけであるが、それが実現するためには、まず人の自己が低められ、十字架で死に渡されていることが必要だったのである。

こうして、今回の裁判では、その全過程において、神が随所で憐れみに満ちた采配を施して下さり、すべてがドラマチックな展開を辿った。おそらく、このような裁判は他に類例がないもので、一生、忘れることのない意義深い思い出として、関係者の脳裏に刻まれるのではないかと思う。

判決言い渡しの時に、もう一度、彼らと再会することが筆者には許されている。その時、筆者がどうなっているのか、どんな変化が身に起きているのか、それもまた楽しみである。

最後に、筆者はこの裁判を通して、クリスチャンがキリストにあって与えられている絶大な特権のことを思わずにいられない。筆者は教会やクリスチャンを罪に定めるカルト被害者救済活動がなぜ誤っているのかを説明するために、準備書面を作成する過程で、ビュン・ジェーチャン牧師が民事では賠償を命じられたものの、刑事事件では無罪判決を受けたことに触れたが、こうした事例を見るにつけても、ひょっとすると、クリスチャンに有罪を宣告することは、この世の人々には不可能なことなのかも知れないという気がしてならない。
 
信仰の道の途上で足を踏み外すクリスチャンは大勢いるであろうし、そうした信者や、過ちを犯した宗教指導者らが、神の御前で受ける裁きが格別厳しいものとなることも確かであろうが、それでも、私たちは、神が贖われたクリスチャンに罪を宣告できる者は、神ご自身と、福音の使徒以外には誰もいないという厳粛な事実を思わずにいられない。

誰かが福音の使徒とされたことには、それほど人間の理解を超えた神秘があり、神が義とされたクリスチャンに有罪を宣告し、手をかけることは、まさに悪魔(とその代弁者)にしか許されていない所業なのだと言えよう。

そういうわけで、神がキリストの貴い命と引き換えに贖って下さった筆者を告発できる人間は地上には誰もいない、という事実が、またしても公然と証明された。もちろん、筆者を刑事告訴したり、反訴したりできる人間も誰もいないことが。それは筆者が暗闇の勢力から脅される度に、幾度も述べて来た以下の御言葉の通りである。

もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。


「わたしたちは、あなたのために
一日中死にさらされ、
屠られる羊のようにみなされている」
と書いてある通りです。

しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:33-39)

 
教会とは、キリストの命によって新たに生まれたクリスチャンの総体であり、神が罪赦されて、キリストを通して義と聖と贖いを授けられた人々の集団である。神は地上の脆く弱い存在に過ぎない私たちをお選びになり、私たちをこの世から召し出されて、ご自分の栄光を表すための器とされた。神はこのように弱く脆い存在を通して、ご自分のはかりしれない知恵を、天上のもろもろの支配や権威に対して知らしめようとなさっておられるのである。

「こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。」(エフェソの信徒への手紙3:10-13)

教会とは、キリストをかしらとするキリストのからだであって、キリストが満ちておられるところである。からだは、かしらであるキリストの思いを体現するためにこの世と接点を持ち、この世と接触する。私たちは、この闇の世において、キリストの栄光を証するための器官として、土の器の中に神のはかりしれない命をいただいて、星のように輝いている。
 
この先、どんなに教会が迫害されようとも、神はなお教会を通して、この世のすべての欺きを超越するご自分の多種多様な知恵を表されるだろう。だから、私たちは苦難を受けても落胆せず、あらゆる試練の中で、さらに一層、信仰を強くして、大胆に御座に進み出て、恵みを受けることができると疑わない。

敵がどんなに激しく活動して、クリスチャンの望みを絶やそうとしても、私たちは、どんな状況でも、神がご自分の栄光を力強く鮮やかに示して下さることを信じており、失望落胆する理由がない。

私たちが見るべきは、ただ一点、キリスト。詩編の中に記されている通り、奴隷が主人の手を一心に見つめるように、私たちはただキリストだけを一心に見つめ、すべての名にまさる彼の御名を高く掲げ、最高の権威者である神から目を離さない。

私たちはまっすぐに目を上げて、天の御座におられる方に目を注ぎ、神が私たちに何を望んでおられるのかに注目し、その御声に一心に耳を澄ます。

そして、神が私たちがまだ罪人であった時に、私たちを愛して、その独り子を地上に送り、命を捨てて下さったその愛をより深く知り、私たちもそれに同じ愛で応え、身を捧げて生きるために、ルツのように、心の中で愛と真実をもって神への従順を言い表すのである。

もし私たちが己を低くして主と共なる十字架で自分を死に渡すならば、神は私たちが信仰を守り通す上で受けたすべての苦難や損失を、それとは比べものにならないほどに豊かな命によって回復して下さる。

神は敵前で私たちのために宴をもうけ、私たちの頭に油を注ぎ、私たちの杯を満たして下さるだろう。

私たちの信じている神のどれほど不思議で偉大なことか。この方に賛美と感謝を捧げ、栄光を帰したい。
  
目を上げて、わたしはあなたを仰ぎます
天にいます方よ。

御覧ください、僕が主人の手に目を注ぎ、
はしためが女主人の手に目を注ぐように
わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ
憐れみを待ちます。

わたしたちを憐れんでください。
主よ、わたしたちを憐れんでください。
わたしたちはあまりにも恥に飽かされています。
平然と生きる者らの嘲笑に
傲然と生きる者らの侮りに
わたしたちの魂はあまりにも飽かされています。」

* * *

「イスラエルよ、言え。
「主がわたしたちの味方でなかったなら
 主がわたしたちの味方でなかったなら

 わたしたちに逆らう者が立ったとき
 そのとき、わたしたちは生きながら
 敵意の炎に呑み込まれていたであろう。

 そのとき、大水がわたしたちを押し流し
 激流がわたしたちを超えて行ったであろう。
 そのとき、わたしたちを超えて行ったであろう
 驕り高ぶる大水が。
 
 主をたたえよ。
 主はわたしたちを敵の餌食になさらなかった。
 仕掛けられた網から逃れる鳥のように
 わたしたちの魂は逃れ出た。
 網は破られ、わたしたちは逃れ出た。

 わたしたちの助けは天地を造られた主の御名にある。

* * *

「主に依り頼む人は、シオンの山。
 揺らぐことなく、とこしえに座る。
 山々はエルサレムを囲み
 主は御自分の民を囲んでいてくださる。
 今も、そしてとこしえに。

 主に従う人に割り当てられた地に
 主に逆らう者の笏が置かれることのないように。
 主に従う人が悪に手を伸ばすことがないように。

 主よ、良い人、心のまっすぐな人を
 幸せにしてください。
 よこしまな自分の道にそれて行く者を
 主よ、悪を行う者と共に追い払ってください。

 イスラエルの上に平和がありますように。」

* * *

「主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて
 わたしたちは夢を見ている人のようになった。
 そのときには、わたしたちの口に笑いが
 舌に喜びの歌が満ちるであろう。
 そのときには、国々も言うであろう 
 「主はこの人々に、大きな業をなしとげられた」と。

 主よ、わたしたちのために
 大きな業を成し遂げてください。
 わたしたちは喜び祝うでしょう。
 主よ、ネゲブに川の流れを導くように
 わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください。

 涙と共に種を蒔く人は
 喜びの歌と共に刈り入れる。
 種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は
 束ねた穂を背負い
 喜びの歌をうたいながら帰ってくる。
(詩編123-126編)