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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

ペンテコステ・カリスマ運動の反聖書性ーキリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動⑥ 地上天国を目指す異端思想の家族モデルの型ー

➀ 文鮮明夫妻を「真の父母」とし、信者が「子」となって「神の家族」を形成することで地上天国が実現すると述べる統一教会の「全人類一家族理想」

統一教会は、2015年に「世界基督教統一神霊協会(統一教会)」というかつての名称から、「世界平和統一家庭連合」と改称された。この名称だけを見ても、いかにこの宗教が自らメシアと崇めている「真の父母様」である文鮮明を中心とする家族モデルを、信者全体の信仰生活の極めて重要な拠点として思い描いているかがよく伝わって来る。

さて、統一教会が理想と思い描いている信者の家族モデルとはどのようなものかは、以下の統一教会信者とおぼしき人物のブログの抜粋を通してもよく理解できる。
 

ブログ「原理に帰りましょう」
記事
「全てを許してやりたいのが親の心情」から抜粋

「神様の創造理想は、実体を持った人間を創造し、人間に責任分担を与え、愛を完成すること、そして人間と共に地上天国、天上天国を完成することでした。しかし人間始祖アダムとエバが堕落することにより、神様の理想とは似ても似つかない地上地獄、天上地獄を形成してしまいました。

 真の愛による真の生命の創造で神様の真の血統が繁殖するはずでしたが、偽りの愛による偽りの生命が誕生し、サタンの血統を繁殖してしまったのです。

 その血統を転換するために、メシヤすなわち 真の父母 を神様は送って下さいました。
 
私たちは真の父母を迎え、同じ神様の血統を共有する全人類一家族理想を成就しなければならないのです(以下、引用中の太字は全て筆者による)



統一教会では、宗教指導者の執り行う合同結婚式を通じて信者が自らの家庭を築くことにより、現実には全く血のつながりのない宗教指導者の「聖なる血統」を霊的に継承することができ、それによって信者は罪から清められて「神の家族」の一員に加えられると教えられている。

その教えによれば、文鮮明は人類を罪の堕落から救うメシアであり、信者たちは、この宗教指導者の夫妻を「聖なる父母」(「真の父母様」)として崇め、文鮮明の「子供」となって、「お父様」の願いを実現するために生きることこそ、信仰生活の基礎であると信じている。

おそらくは、信者自身の家庭にも同様の構図があって、信者が「真の父」である文鮮明の願いを体現して生きるのと同じように、信者の子供も、親に服従し、親の願いを体現して生きることが求められているのであろう。

このように「真の父母」によって結ばれる「神の家族」である信者の家庭を地上で増やしていくことで、「全人類一家族理想」が成し遂げられ、地上天国が成就すると、彼らは言うのである。「全人類一家族理想」という用語からも分かるように、全人類を統一教会の信者として、「真の父母」を中心とする「一つの家族」に結びつけることそ、彼らのミッションとなのである。

このように、信者が宗教指導者の夫妻を「聖なる両親」と仰ぎ、その「子供」となって彼らの教えに帰依することで、この世の堕落から救われて、聖なる神の家族の一員に加えられ、それによって「神の家族」が拡大して行くという考えは、異端思想のほとんどに共通して見られる特徴である。

そのような教えは、宗教指導者の教えに従うことで、信者の家庭が清められ、「聖家族」が地上で増え広がって行くことにより、やがて全人類がこの一つの神の家族に連なり、地上天国が成し遂げられると教える。

「全人類一家族理想」――すなわち、聖書によれば目に見えないものである神の国を、目に見える地上の王国に置き換え、地上天国を成し遂げるために、全人類を一つの教え、一組の
「真の父母」に帰依させて、「一つの家族」に結びつけること――それこそ、異端思想の時代を超えて変わらない普遍的な目標であり、悪魔が夢見るまことの神の国の模倣としての「地上天国」の「理想」なのである。



② 牧師夫妻を「霊の父母」とし、信者が「子」として牧師夫妻を崇めて「一つの霊的家族」として交わることが「教会成長の勘所」だとするプロテスタントにおける異端思想

驚くべきことに、そのような異端的な教えは、プロテスタントにも入り込んでいる。かつて記事「クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か?(1)」で記したように、カリスマ運動の指導者である日本基督教団高砂教会の手束正昭牧師は、著書『教会成長の勘所』において、クリスチャンは、自分の属する教会の牧師夫妻を「礼典的・象徴的存在」として崇め、牧師夫妻を「霊の父、霊の母」として、これに「子」として従うべきであるという、統一教会とほとんど変わらない家族モデルを提唱している。

「クリスチャンには三人の父がいると言われる。まず第一には、言うまでもなく、『肉親としての父』である。次に、信仰の対象としての『天の父』、そして第三には、『霊の父』である牧師である
(『教会成長の勘所』、手束正昭著、マルコーシュ・パブリケーション、2003年、
p.74)



むろん、記事でも記して来たことであるが、聖書には牧師を「霊の父」として崇めることを奨励する記述は全くないどころか、それは聖書が逆に明確に禁じている行為である。

「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師は、ただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、すなわち、キリストだからです。」(マタイ23:8-10)

しかしながら、手束氏は聖書の記述などお構いなしに、
牧師夫妻を「霊の父母」とする家族に信者が属して交わることこそ教会成長論の勘所だと説き、統一教会とほとんど変わらない「リバイバル」という地上天国の夢、一家族理想に邁進して行くのである。


・異端的な「父・母・子」の三位一体論に基づくプロテスタントにおける「母性原理回復」の試み

手束氏がこのような「霊の父母子」という家族モデルの提唱に至ったその背景にあるのは、同氏による異端的三位一体論である。

手束氏はフェミニズム神学者らの主張に基づいて、聖霊を「母なる霊」とみなすことで、父なる神・聖霊・子なるイエスの交わりを、「父なる神・母なる聖霊・子なるイエスの交わり」としてとらえる異端的な三位一体の解釈に至った。(このことは記事クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か?(2)でも触れた。)

つまり、手束氏は、三位一体を「父・母・子」とみなす異端的な解釈にならって、信者らも、「霊の父母」である牧師夫妻を頂点に、「一つの霊の家族」となるべきであり、その交わりが成し遂げられることによって、教会が成長して行く、と述べるのである。そのようにして成長する教会が数多く現れることが、リバイバルの秘訣であると言うわけである。
  

三位一体の神ご自身が『父性的存在』と『母性的存在』と『子的存在』の交わりとしてあられるならば、当然教会においても、このような交わりが必要であり、そのような交わりが成就するときに、教会は健全となり、安定性を持ち、従って成長していくことになるのではなかろうか。

 パウロはテモテを『愛する子』(第二テモテ一・二)と呼んでいる。牧師や牧師夫人にとって、信徒は『愛する子』であり、『霊の子』である。信徒にとって、牧師は『霊の父』であり、牧師夫人は『霊の母』である。ここにおいて、『神の家族』(エペソニ・十九)であり、『霊の家族』である教会は成立する。

だとするならば、牧師は父性原理の体現者として信徒を教え導いて秩序付け訓練することに秀でなくてはならないし、牧師夫人は母性原理の具現者として、信徒を受容し、慈しむことのできる人でなくてはならない。このとき、教会は落ち着いた安定性を得、また信仰において成熟していくことになるのである。このような雰囲気を持つ教会には、必然的に多くの人々が集まってくるのである。」
(『教会成長の勘所』、p.79)


  
それだけでなく、手束氏がこのような「父・母・子」という異端的三位一体の解釈に基づき、牧師夫妻を「霊の父母」、信徒を「霊の子」とする家族モデルを提唱しているのは、それによって、「キリスト教に母性原理を回復するため」という目的があることも見逃せない。

プロテスタントがカトリックの堕落と腐敗に抗議して、これと訣別すべく生まれたことは知られているが、手束氏はまるで歴史を逆行させるように、カトリックには聖母マリア崇拝がもたらされたことによって、多少なりとも母性原理が回復されたが、聖書の御言葉だけを中心として、マリア崇拝を退けているプロテスタントには、御言葉に基づいて、善・悪を峻別する「分割」、「切断」、「二分」という父性原理ばかりに重きが置かれ、母性的な受容性がなくなり、その結果、プロテスタントは安定や健全さの欠ける、人間を精神病理に追い込むような、「極めて父性的で、厳粛な宗教に陥ってしまった」と嘆く。

「著名な心理学者河合隼雄氏によると、父性とは『切断する』ことにその特性を持っている。物事を上と下に、善と悪に、主体と客体に分類して、秩序付けや成長を促していく。他方、母性とは『包含する』ことにその特性があり、すべてのものを良きにつけ悪しきにつけ受容していくのである。

人間が精神的に健全に成長し成熟していくためには、どうしてもこの父性原理と母性原理のバランスが必要なのであり、どちらかに偏重すると、いろいろな点で不健全さ、不安定さを免れ得ない。河合隼雄氏は日本社会の様々な病理的現象の背後には、父性が欠如し、母性が過剰になっているとことにあると分析している。さらに遡って河合氏は、このような日本の母性文化の発生の理由を、日本の宗教の母性的性格に見ている。日本人は『父なる宗教を知らぬ国民』なのである」(同上、p.74-75)


 

「ところで、<略>その後のキリスト教の歴史においては、どちらかと言うと、母性的要素がことさら抑えられてきたように思える。特に我らプロテスタント教会はその感が強い。

カトリック教会の場合は『マリヤ崇拝』を導入することによって、何とか父性の偏重にバランスをとろうとした努力がうかがえるのであるが、プロテスタント教会は“聖書のみ”の立場から、聖書からは導き出し得ない『マリヤ崇拝』を廃棄せざるを得なかったのである。その結果、プロテスタントは、<略>極めて父性的で、厳粛な宗教に陥ってしまったのである。

しかしそこには人間性の安定や健全さを求めることは難しく、従って、プロテスタント国においては精神的な病を患う人々がより多く排出されることになったのである。父性というのは、上と下、善と悪を峻別して、秩序立てていこうとするので、どうしても心理的葛藤が起こりやすいからである」(同上、p.76-77)



このような手束氏の主張は、これまでも何度か言及して来たように、聖書の御言葉の「二分性」をキリスト教の「短所」として非難する仏教学者・禅の指導者鈴木大拙氏の主張にそっくり重なっている。手束氏は自身がキリスト教徒を名乗っており、プロテスタントの牧師であるにも関わらず、仏教学者の主張に歩調を合わせるかのように、プロテスタントの聖書の御言葉中心主義を否定的なものとしてとらえ、善悪を峻別する御言葉の「二分性」を、人間にとって不都合なもの、人間を狂わせる、精神病理に追い込む不健全なものとみなし、この「病理的な弱点」を克服するために、プロテスタントには、善悪を問わずすべてを受容するような(東洋的な)母性原理の回復がぜひとも必要であるとして、そのために「母なる聖霊」や「霊の母」としての牧師夫人論を持ち出すのである。



・「創造」や「生命を与える」力の源を「父なる神」ではなく「女性原理」にあるとするフェミニズム神学の誤り
  
ところで、一体、フェミニズム神学とは何なのであろうか。
手束氏の以下の文章からは、聖霊を「母なる霊」とみなす異端的三位一体の解釈が、解放の神学の一派であるフェミニズム神学の強い影響を受けて生まれたものであることがよく分かる。
そして同氏が、フェミニズム神学がキリスト教が父性原理のうちに長い間、抑圧して来た母性的・女性的な要素を回復すべきと主張したことを、高く評価している様子も伺える。
 

「『父なる神』と『母なる聖霊』

 今日の『フェミニズム神学』の評価すべきところは幾つかあるが、そのうちの一つはこれまで父性的男性的な傾向の強かったプロテスタント的キリスト教のあり方に批判を加え、長い間隠され抑圧されていた母性的女性的な要素を回復しようとしたことにある。<略>

フェミニズム神学の論者たちは言う、『聖霊は女性ではないのか』と。従来、三位一体の一位格である聖霊もまた『父なる神』『子なるキリスト』に続いて、男性的人格として見なされてきた。
しかし聖霊を示すヘブル語のルァハは女性形であるばかりか、『人間のダイナミックな生命力が表現される特別な呼吸の出来事』を意味した。これは具体的には性的興奮と分娩を指しているという。

しかも創世記の冒頭の天地創造の物語において、創造を直接的にもたらした神の言葉の前には、『神の霊』(ルァハ)が働いていたのである。さらに、『新しい存在』(新しい被造物)であるナザレのイエスの誕生に際しては、聖霊が介入している。『聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生まれ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう』(ルカ1:35)。

つまり、聖霊の中心的な働きは創造や生命を与えるということにあるのであり、これは勝れて女性的母性的特徴と言える。このように見てくると、三位一体の教義も、新しい視点の下に解釈していくことが可能となる。すなわち、『父なる神』と『母なる聖霊』によって生み出されたのが『子なるキリスト』であり、三位一体は神の家族的象徴性を担っているということになる」(同上、p.77-78)

 

しかし、すでに書いたことであるが、従来の神学においては、聖霊はギリシア語では“pneuma”(中性名詞) 、「性を持たない人格」として扱われて来た。また、ラテン語では“Spiritus Sanctus”(男性名詞)、他の言語においても、男性か中性のどちらかの人格とみなされ(たとえば、露語 Святой Дух 男性名詞)、少なくとも、フェミニズム神学を除き、従来の神学上、女性人格とみなされることはなかった。

聖書を見ると、「聖霊」は確かに「息」と密接な関係にあり、命を与えるという役割を担っていることが分かる。創世記において、神が人を創造された時、神は人に息を吹き込まれることにより、人に命(霊)を与えられた。

「その後、神であるは、土地のちりで人を形作り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」(創世記2:7)

しかし、アダムに吹き込まれた命は永遠性がなく、アダムは罪によって堕落したため、死が人類に入り込んだ。しかし、キリストが人となられ、十字架の死と復活を通られたことにより、「最後のアダム」であるキリストを信じる者は、永遠に滅びることのない、神の非受造の命としてのキリストの御霊を受けることができる。

キリストの御霊は、命を与える源であるだけではなく、キリストご自身の人格と一つに結びついている霊である。主イエスは弟子たちに息を吹きかけて、この永遠に命なる御霊を受けるように、と言われた。これは信じる者に新しい命がもたらされたことを意味する。


「聖書に、「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。」(Ⅰコリント15:45)

「イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけられて言われた。「聖霊を受けなさい。」(ヨハネ20:21-22)


このように、確かに、聖霊には「命を与える霊」としての役割がある。しかしながら、だからと言って、果たして、手束氏の言うように、聖霊を女性人格とみなすことが可能なのか。手束氏は聖霊を女性人格とみなす根拠としてこう述べる、「聖霊の中心的な働きは創造や生命を与えるということにあるのであり、これは勝れて女性的母性的特徴と言える。」と。

多くの原始宗教において、女性は、生命、創造、多産、豊穣などの象徴として扱われて来た。しかしながら、我々は、原始宗教の固定概念に立脚して物事を考えているわけではないので、先入観にとらわれることなく、よくよく冷静になってこの問題を考えてみたい。

果たして、フェミニズム神学の言うように、「創造や生命を与える」行為は、「勝れて女性的特徴」なのであろうか?

筆者の観点から見ると、解放神学というものは、聖書を裏返しにして、神と御言葉に反逆する秩序転覆の思想である。解放神学については、記事「偽りの教えの例――弱者解放の福音の誤りとグノーシス主義(10)」を含む、いくつもの記事を書いて来たので、そちらも参照されたいが、フェミニズム神学も、解放神学の一派である。

フェミニズム神学に限らず、フェミニズムという思想そのものが、男性(父性原理)に対する強い嫌悪感に基づいて、これに対する反発から、母性・女性原理を高く掲げるという構造になっている。これは聖書の説く男女の秩序を転覆させる思想であり、東洋思想(グノーシス主義)とも密接な関係があると筆者はとらえている。

だから、先入観に惑わされずに、この問題をよく考えてみる必要がある。聖霊に性を見いだすかどうか、という問題を脇に置いても、筆者の目から見ると、命を与える役目は、あくまで男性にあるように思えてならないのである。女性は、これを受ける器である。女性は、分与された命を受け取り、これを自らの命と結びつけて新しい生命として養い、世に送り出すことはできても、女性だけがひとりでに命を生み出す能力はない。従って、命を分け与えることは、男性の本来的な使命であると思われてならないのである。

聖書においても、エバはアダムから生み出されたのであり、女性が先に生まれて、女性から男性が生み出されたわけではなかった。イエスを産んだマリヤも、聖霊の働きがなければ、一人では何も生み出せなかったであろう。もし手束氏の言うように、聖霊を「母なる霊」とするならば、キリストの誕生は、女性が女性の霊によってみごもったことになるが、そんな説明が成立するであろうか?

(さらに、手束氏の考えに基づくと、「父なる神」と「母なる聖霊」の交わりの結果、「子なるイエス」が生まれたことになるが、そうであれば、イエスの本当の「母」は聖霊ということになるから、マリヤはカルケドン信条に定義されているように「神の母」ではなく、代理母でしかないということになろう。この点でも、完全に手束氏の主張は異端である。)


聖書の秩序は常に、男性が命を与える側に立つというものである。父なる神がアダムを創造され(創造された側のアダム――人類――は、神の命なる霊を受ける器という意味では、霊的に女性。これも教会の型)、アダムの肋骨からエバが作り出された(アダムとエバとの関係も、キリストと教会を予表する)、聖霊が乙女マリアのうちに働き、キリストの誕生に至らせた(これもまたキリストと教会の型)、ただひとりの男子キリストが十字架にかかられて死なれたそのわき腹から、水と血と霊によって生まれたのが教会であり、キリストは、十字架の死と復活を経験されたがゆえに、永遠に朽ちない命を与える御霊を、信じる者たちに分け与えることができる。

こうして詳細に見て行くと、聖書的な観点からは特に、創造や、生命を与える」行為は、母性原理ではなく、むしろ、父性原理(父なる神)の特質であると言って差し支えないことが分かる。むろん、フェミニズム神学にとっては、このような考えこそが憎悪の対象なのである。フェミニズム神学は、父性原理に対する嫌悪感から、「創造」と「生命を与える」という栄誉ある役割は父性原理にあるのではなく、女性原理にあると主張して、「創造」という役目を、父なる神から母性原理の役目へと奪おうとしているのである。

そのように、命を与えることが、あたかも母性原理であり、女性の専売特許であるかのような誤解は世に広く普及しているが、少なくとも聖書においては、「創造」と「生命を与える」力の根源は、創造主である父なる神にこそある。そこで、いみじくもキリスト教「神学」を名乗っているにも関わらず、父なる神による創造という聖書的事実を退けて、女性こそ創造者であるかのように、母性・女性原理を高く掲げるこの教え(フェミニズム神学)は完全に、聖書の定める男性と女性との秩序の転覆をはかるものだと言えよう。

従って、男性である牧師たちが、自らこのような理念を信奉するならば、必ずや、彼らは男性としてのプライドと名誉を失うことになるであろうと筆者は確信する。なぜなら、この思想の中には、根本的に男性(父性原理)そのものに対する激しい嫌悪と蔑視が含まれているからである。



・解放神学(フェミニズム神学)とそれに基づく(ペンテコステ・)カリスマ運動は、キリスト教ではなくキリスト教に敵対する東洋思想(グノーシス主義)の一種である

フェミニズム神学を含め、解放神学もそうなのだが、手束氏の主張も含め、キリスト教においては「父性原理に基づく二分性ばかりが強すぎるので、母性原理の受容性を補うことによって、その欠点を克服しなければならない」という主張は、根本的には、みな異端であると言って良い。

なぜなら、これは聖書の御言葉を毀損することによって、キリスト教そのものを歪曲する試みであり、キリスト教とは全く相容れない思想がその根底にあるからである。その思想こそ、東洋思想である。

そのことは、こうした思想がすべて、仏教学者・東洋思想家・禅の指導者である鈴木大拙氏の主張とぴったり一致することからも分かることである。結局、「キリスト教における母性原理の回復」を唱える教えは、すべて東洋思想を基盤としているのだと言って過言ではない。従って、それはどんなにキリスト教の仮面をつけて、キリスト教のように装っていても、本質的にキリスト教ではないものから出てきているのである。

記事「偽りの教えの例――弱者解放の福音の誤りとグノーシス主義(11)」でも記したことであるが、女性解放の神学の代表者、ローズマリー・リューサーは、解放神学は、魂と肉体、主体と客体の二元論が、古典的キリスト教の「欠点」であるとして、これを克服せねばならないと述べた。彼女は、古典的キリスト教は、男性だけが神の像に似て造られた「人間性」の真髄を備えた存在であり、女性は完全な神の像を持たず、頭である男性と共にあって初めて真の人間性を持つことができるとしている点で、キリスト教は女性を男性の客体、「対象物」におとしめているとして非難した。

リューサーは欧米諸国のようなキリスト教社会においては、このような聖書的男女二元論が原型となって、社会の全ての抑圧形態に作用しており、この二元論の断絶があらゆるものに応用されて、人類社会に無限の断絶をもたらしており、それゆえ、社会には「もろもろの権威と支配」が乱立し、疎外が満ち溢れたのだと言って、伝統的なキリスト教に「有罪」の宣告を下す。そして、キリスト教の二元論から来る断絶・疎外を解消し、人間を「客体性」から解放することが、人間の救済である、と主張するのである。
 
記事「カルト被害者救済活動の反聖書性について―キリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動④ー」でも見て来たように、フェミニズム神学者が非難しているようなキリスト教の「二元論」は、創造主と被造物との二分性、すなわち、「知る者」である神と「知られる者」である人との主客の区別を根源として発生して来るものである。

男女の二元論から始まり、「主客の区別」そのものに反対し、人間の「客体性」からの解放を唱えるリューサーの主張は、全くもって鈴木大拙氏の主張にそっくりであることに驚かされる。
再び、鈴木大拙氏の文章を引用しよう。
 

分割は知性の性格である。まず主と客とをわける。われと人、自分と世界、心と物、天と地、陰と陽、など、すべて分けることが知性である。主客の分別をつけないと、知識が成立せぬ。知るものと知られるもの――この二元性からわれらの知識が出てきて、それから次へ次へと発展してゆく。哲学も科学も、なにもかも、これから出る。個の世界、多の世界を見てゆくのが、西洋思想の特徴である。

 それから
分けると、分けられたものの間に争いの起こるのは当然だ。力の世界がそこから開けてくる。力とは勝負である。制するか制せられるかの、二元的世界である。」(『東洋的な見方』、鈴木大拙著、岩波書店、p.10-11)

 

「西洋文化といえば、ギリシャ、ローマ、ユダヤ的文化の伝統ということになる。その不完全さは、宗教の上に最も強くあらわれる。自分はキリスト教をみだりに非難するのでなく、また悪口するのでもない。これはいうまでもないところだが、キ教には、二分性から来る短所が著しく見え、それが今後の人間生活の上に何らかの意味で欠点を生じ、世界文化の形成に、面白からぬ影響を及ぼすものと信じる。キ教はこれを自覚して、包容性を涵養しなくてはならぬ。

 二分性から生ずる排他性・主我性などは、はなはだ好ましからざる性格である。二分性を調節して、しかもそれを包含することになれば話はわかるが、これがないと、喧嘩が絶えない。」(同上、p.169-170)



鈴木氏は、西洋思想における「分割する知性」、すなわち、「主客の区別」の根源となっているものは、キリスト教における創造主と被造物との区別であると見る。そして、この「主客の区別」から生じる「二分性」、「排他性」、「主我性」を極めて否定的なものとみなす。

もしそこにリューサーの言葉をあてはめるなら、聖書によれば、創造主は「知る者」であるが、被造物としての人間は神によって「知られる者」(客体)であるから、神によって造られた人間は、男女を問わず、みな神の満足の「対象物に貶められている」ということになろう。

以上からも分かるように、東洋思想が最も激しく反発しているのは、人間は神によって造られた「客体」に過ぎず、どこまで行っても、神(主)ご自身にはなれない、という点なのであるそして、その点はフェミニズム神学者の主張とも根本的に一致する。
 
造られた者であるがゆえに、人は神ご自身ではなく、神から切り離されて、神性から疎外されている、どんなに信仰が増し加わっても、人自身は完全な聖に達し得ず、造られた被造物ではあっても、創造主たる神にはなれない――この点こそ、東洋思想の学者や、フェミニズム神学者らが、最も激しく反発する点である。

「男性だけが神の像に似せて創造され、男性からできた女性は、男性に比べ、完全な神の像を持たない、という聖書の見解は、女性を貶めている」というリューサーの主張は、結局のところ、「神だけが神であって、人間は神のかたちに似せて創造された被造物に過ぎないので、完全な神のかたちを持たない、という聖書の理屈は、人類全体を貶めている」と言っているのと同じなのである。そのような考えには根本に、人間が完全な神のかたちを持たない(人は神になれない)という聖書の事実に対する嫌悪・反発・抵抗がある。

従って、こうした思想の持主が、キリスト教は、聖書の御言葉の「二分性から生じる排他性・主我性」という「短所」を克服することこそ、必要である、と述べているのは、結局のところ、「神と人との区別を廃止して、人を被造物という客体性から解放せよ」と言っているのと同じなのである。

お分かりと思うが、このような思想は、結局、聖書の「唯一の神」という概念そのものに逆らっているのである。グノーシス主義が、自らを唯一の神であるとする創造主の宣言を「悪神の傲慢」として嘲笑・否定するのと全く同じ構図がそこにある。(記事「キリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動④ー」参照。)

従って、彼らの述べる、「人間を(被造物の)「客体性」から解放せよ」という主張は、「わたしのほかに神はいない」とする聖書の唯一の神を退けて、人が神の地位を乗っ取り、自ら神になろうとする反逆に他ならないのである。

わたしより先に造られた神はなく、
 わたしより後にもない。
 わたし、このわたしが、であって、
 わたしのほかに救い主はいない。」(イザヤ43:10-11)

わたしがである。ほかにはいない。
わたしは光を作り出し、やみを創造し、
平和をつくり、わざわいを創造する。
わたしは、これらすべてを作る者。」(イザヤ45:6-7)

「ああ。
陶器が投機を作る者に抗議するように
自分を造った者に抗議する者。
粘土は、形造る者に、
「何を造るのか。」とか、
「あなたの作った物には、手がついていない。」
などと言うであろうか。」(イザヤ45:9)

「ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている
 陶器師を粘土と同じにみなしてよかろうか。
  造られた者が、それを造った者に、
 「彼は私を造らなかった。」と言い、
  陶器が陶器師に、
「彼はわからずやだ。」と言えようか。」(イザヤ29:16)



・キリスト教の「父なる神」に対抗して東洋思想が賛美する「神秘なる母性(母なる混沌)」

さて、それでは、一体、以上のように「唯一の神」を否定して、人間を「客体性」から解放することを主張する思想の持ち主は、一体、どのような方法で、キリスト教の「二分性」を克服することを目指すのであろうか?

それは、キリスト教に「母性・女性原理を回復する」ことによってである。彼らはキリスト教において「父性原理」と「母性原理」を新たに融合することによって、未だかつてない新しい境地に至ることができるかのように主張しているのである。キリスト教と東洋思想とを合体させて混合態を造ることを使命としていると言っても良い。

鈴木大拙氏は、すでに記事で述べた通り、キリスト教の「二分性」から来る「排他性」の問題を解消する方法として、キリスト教に母性原理を補い、「主客(善悪)未分以前の母なる混沌」への「嬰児的回帰」を提唱する。

鈴木氏は、それを「神が光あれ、と言われる以前の状態」と表現する。結局、それは光と闇が分かたれる前の状態、サタンが堕落して神から切り離される前の状態、人間が神によって創造されて、堕落によって楽園を追放されて、神から切り離される前の状態に回帰しようとする試みである。

つまり、事の善悪に拘泥せず、万物をあるがままに受け止め、知性が先走る状態を克服して「知」と「行」とを一つにすることで、知性による分割発生以前の「未分的」で「全一的」状態を取り戻すこと(いうなれば、「真如」に回帰することであろうか)、そのようにして、、「二度目の林檎を食べる」ことが必要であり、それが禅の悟りの本質であるかのように鈴木氏は述べているのである。

相当に長い引用であるが、母性原理・女性原理の回復という言葉が、何を意味するのかを理解するのには役立つと思うので、以前の記事でも度々挙げたが、同氏の言葉を再び引用しておく。
 

「なぜ、西洋的に見たり考えたり行動したりしてゆくと、行き詰まりを見なくてはならぬかというと、人間の生きている世界は、五官で縛られたり、分別識で規定せられる外に、いま一つ別の世界があるのである。これを明らかにしておかぬと、人間は生きてゆけぬのである。生きていると思っていてもそれは自己欺瞞で、虚偽の生涯である。『今一つ別の世界』などいうと、また数の概念に収めこんで、そんなものが、この可視的、可把握性の世界の外にあるかのごとく、思惟せられるのであろう。これが言葉なるものの短所で、禅者はことにこの点に気を配る。」(『東洋的な見方』、p.22)

 

人間の本質とでもいうべきは、理性的、知性的なものでなくて、むしろ情性的、意欲的なものである。知性はどうしても二分性を根本的に帯びている。それゆえ、表面的になりがちである。すなわち薄っぺらだということになる。これに反して情意的なものは未分的すなわち全一的であって、人間をその根本のところから動かす本能を持っている。人間は行為を再先にして、それから反省が出る、知性的になる。知が行を支配するようになるのは、知がその本質からはなれて、その底にあるものと一つになるところが出なくてはならぬ。

アダム、イブの世界には『行』のみがあって『知』がなかった。それでエデンの楽園が成立した。一旦、知が出ると、失楽園となったのである。入不二法門の世界では、その知をそのままにして、もとの行の世界、意の世界を、新たな面から再現させている。この点で入不二界はエデンと相違するのである。一段の進出といってよいのである。二度目の林檎を食べぬといけない。」(『東洋的な見方』、p.195-196)

 

「東洋民族の間では、分割的知性、したがって、それから流出し、派生するすべての長所・短所が、見られぬ。知性が、欧米文化人のように、東洋では重んぜられなかったからである。われわれ東洋人の真理は、知性発生以前、論理万能主義以前の所に向かって、その根を下ろし、その幹を培うところになった。<略>

 主客未分以前というのは、神がまだ「光あれ」といわれなかったときのことである。あるいは、そういわんとする刹那である。この刹那の機を捕えるところに、東洋真理の「玄之又玄」(『老子』第一章)なるものがある。<略>

 「光あれ」という心が、神の胸に動き出さんとする、その刹那に触れんとするのが、東洋民族の心理であるのに対して、欧米的心理は、「光」が現れてからの事象に没頭するのである。主客あるいは明暗未分化以前の光景を、東洋思想の思想家である老子の言葉を借りると、「恍惚」である。荘子はこれを「混沌」といっている。また「無状の状。無象の象」(『老子』第十四章)ともいう。何だか形相があるようで何もない。<略>またこれを「玄牝(げんぴん)」ともいう。母の義、または、雌の義である。ゲーテの「永遠の女性」である。これを守って離れず惑わざるところに、「嬰児(えいじ)」に復帰し、「無極(むきょく)」に復帰し、「樸(はく)」に復帰するのである。ここに未だ発言せざる神がいる。神が何かをいうときが、樸の散ずるところ、無象の象に名のつけられるところで、これから万物が生まれ出る母性が成立する。分割が行ぜられる。万物分割の知性を認識すること、これもとより大事だが、「その母を守る」ことを忘れてはならぬ。東洋民族の意識・心理・思想・文化の根源には、この母を守るということがある。母である。父ではない、これを忘れてはならぬ。

 欧米人の考え方、感じ方の根本には父がある。キリスト教にもユダヤ教にも父はあるが、母はない。キリスト教はマリアを聖母に仕立てあげたが、まだ絶対性を与えるに躊躇している。彼らの神は父であって母ではない。父は力と律法と義とで統御する。母は無条件の愛でなにもかも包容する。善いとか悪いとかいわぬ。いずれも併合して「改めず、あやうからず」である。西洋の愛には力の残りかすがある。東洋のは十方豁開である。八方開きである。どこからでも入ってこられる。

 ここに母というのは、わたしの考えでは、普通にいままでの注釈家が説明するような道といったり、また「ゴッドヘッド」といったりするものではないのである。もっともっと具体的な行動的な人間的なものと見たいのだ。しかし今は詳説するいとまをもたぬ。」(同上、p.13-14)


 こうして、鈴木氏は、「人間の本質とでもいうべきは、理性的、知性的なものでなくて、むしろ情性的、意欲的なものである。知性はどうしても二分性を根本的に帯びている。それゆえ、表面的になりがちである」とした上で、キリスト教の「知性による分割」、「二分性」を否定的なものととらえ、同氏が「人間の本質」であるとする、「情性的なもの、意欲的なもの」に回帰するために、神人とが分かたれる前の「主客未分以前」、「明暗未分化以前」、「知性発生以前」、「善悪未分以前」の状態に回帰することが必要であると述べる。

そして、このような神と人との主客の区別が発生する以前の原初的な状態のことを、鈴木大拙氏は「恍惚」とか、「混沌」とかいう言葉で呼ぶ(まさにペンテコステ運動にふさわしい言葉ではないだろうか?)

そして、この原初的な混沌を「母なる混沌」として(玄牝(げんぴん)と呼ぶ。

ここでなぜ「母」なのか。なぜ女性なのか、という疑問が生じよう。

なぜなら、もし聖書の父なる神が「光あれ」と言われる前の状態に回帰するというならば、そこには、父なる神お一人だけしか存在する方はいないはずだからである。

ここで、いつの間にか、聖書の「父なる神」が、東洋の「母なる混沌(神秘なる母性)」にすり替わっていることに気づくのである。鈴木氏は言う、「万物が生まれ出る母性」と。つまり、東洋思想においては、万物を生み出す源は「父なる神」ではなく「神秘なる母性」でなければならないのである。従って、東洋思想の「神」とは、母なる神なのだと言っても差し支えない。

それは、カリスマ運動の指導者・手束正昭氏が、「創造や生命を与えるということ<…>、これは勝れて女性的母性的特徴と言える。」と述べているのと同じである。

このような考えは、東洋思想において古くから存在して来た。鈴木氏は老荘思想を根拠に挙げる。老子の思想においては、この「神秘なる母性」は「玄牝」と呼ばれる。
 

河瀬直美監督 映画『玄牝』公式サイトから抜粋

玄牝とは?
『谷神不死。是謂玄牝』――谷神(こくしん)は死せず。これを玄牝という。
タイトルの「玄牝」とは、老子の『道徳経』第6章にあることば。大河の源流にある谷神は、とめどなく生命を生み出しながらも絶えることはない。谷神同様、女性(器)もまた、万物を生み出す源であり、その働きは尽きることがない。
 老子はこれを玄牝――“神秘なる母性”と呼んでいる。


このように、東洋思想の基本には、生命の源は「永遠に女性的なるもの、神秘なる母性」にあるという考えがあり、生命を生み出し、創造する力を「母性」に求める。そして、人は知性によって自他の区別が生じる前の、赤子のような無意識の状態に戻り、「神秘なる母性」に身を委ねてこれと一つとされることが、人間にとっての究極の解決であると言うのである。

むろん、これはキリスト教における「父なる神」の否定であり、「父なる神」による天地創造という聖書の事実そのもの否定と言って良い。聖書をどう歪曲しようとも、聖書の神は父なる神であって、母なる神ではない。初めからないものに回帰せよと言われても、荒唐無稽な話である。

しかしながら、それでも聖書を巧妙に曲げるために、手束氏のようなカリスマ運動の指導者は、「父・母・子」の異端的三位一体論を唱えることにより、キリスト教に「母性原理の回復」がなされねばならないと主張して、「母なる聖霊」論を持ち出すのである。

そこで、この「母なる聖霊」論は、本質的にキリスト教とは無縁の(むろん異端という意味で、絶対にキリスト教ではあり得ないのだが)、もともとは東洋思想に由来する発想なのだと言うことができよう。すなわち、手束氏の言う「母なる聖霊」とは、東洋思想における「神秘なる母性」、「母なる混沌」の言い換えなのである。

つまり、ペンテコステ・カリスマ運動(筆者はこれらの運動を一つにまとめて問題ないと考えている。日本基督教団の手束氏の著書は、聖霊派の枠組みをはるかに超えて、プロテスタント全体に行き渡っている)は、うわべだけはキリスト教の装束をまとってはいても、実際には東洋的な「神秘なる母性」を崇拝する別の教えなのだと言って差し支えないであろう。

全く恐ろしいことである。こうなってもまだペンテコステ・カリスマ運動をキリスト教だと考えて信奉している信者は哀れとしか言いようがない。そして、この東洋的な「神秘なる母性」への崇拝こそが、聖書が全体を挙げて告発する「大淫婦バビロン」の本質なのである。マリア崇拝、フェミニズム神学も含め、キリスト教に「母性原理を回復せよ」という主張は、すべてここから出てきていると見て良い。

<続く>

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異端思想に共通する地上天国建設のための家族モデルーキリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動⑤

ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。」(マタイ24:38)

「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13-14)

「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師は、ただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、すなわち、キリストだからです。」(マタイ23:8-10)

「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。
人の子が来たのは、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。
」(マタイ20:25-28)

不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」(黙示22:11)

 



10.宗教指導者を「霊の父母」とし、これに絶対的に帰依する信者の家庭を増加させることで、地上天国を成就させることを目指す思想は異端である


さて、この論稿は、前の記事の続きとして、信者の家庭をエクレシア建設の単位とみなし、地上でクリスチャン家庭を増やすことにより、神の国が招致されるとする思想が根本的に誤っていることを、各種の異端思想と比較して明らかにすることを目的としている。

だが、同時にこのテーマは、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師にとっての家族モデルとは何なのかを明らかにする目的で筆者が追究し始めたものでもあるため、まずはそこから話題を開始して行きたい。


・「霊の父母」を作ることにより、縦の関係を絶対化する偽りの教え

 
カルト被害者救済活動を率いるアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師は、約十四前、同教団に属していた鳴尾教会において、当時の鳴尾教会の主監者であり、自らの義理の父であった津村昭二郎牧師と協力して、津村氏の後継者と目されていた伝道師夫妻を教会から追放した。(この事件については記事「村上密牧師による鳴尾教会への不当な介入問題 まとめ」を参照。)

伝道師夫妻の異動は、一見、彼らが自主的に異動届を出した結果であるかのように見せかけられていたが、実際には、その裏に村上氏と津村氏からの伝道師に対する圧力があったことが、後に教団が公にした伝道師らの書簡によって判明した。そのため、鳴尾信徒らの間には、教団と津村氏・村上氏に対する根強い不信感と疑惑が生まれ、これが、鳴尾教会に長く続く混乱をもたらす原因となった。

しかし、教団は津村氏と村上氏をかばってこの不正な事件をもみ消すために、教会の混乱の原因を後に鳴尾教会に赴任した山田牧師夫妻に転嫁しようと試み、かつて伝道師らを追放した時と全く同様に、山田牧師夫妻に対する異端の疑惑をでっちあげようとした。(村上密氏のブログ記事参照)。
 
鳴尾教会はこのデマを信じず、信徒らの総意により、かえってこの腐敗した教団から離脱する道を選んだため、教団側の目論見は頓挫した。教団は裁判にまで及んで鳴尾教会の教団離脱を阻止し、これを手中に取り戻そうとしたが、それもことごとく敗北に終わった。


村上密氏は、今年になってもまだ、鳴尾教会がやがてアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団とは別の教団に属することになるだろうことを見越して、これを何とか阻止しようと、負け犬の遠吠えのごとく、懸命に山田牧師夫妻の印象を貶めようと叫んでいるが、みっともないことである(村上密氏のブログ記事参照)。

こうして、自分に対する離反者には長年に渡り、容赦なく制裁を加え、教団を去る者には呪いのような非難の言葉しかかけることのできない、この牧師の自己本位で執念深い性格は、同氏の記事において十分に明らかになっている。これを読めば、
信仰を持たない一派市民でも、この教団には疑問と恐怖を感じて近寄らなくなるであろう。

村上氏率いるカルト被害者救済活動は、教会に恨みを持つ(元)信者ばかりを集めては決起させることによって、信者を懺悔させることを目的に、教会や信者を裁判に引きずり出しては懲罰を加え、諸教会の平和な信仰生活を妨害して来た。その上、教団離脱した教会に対しても、将来に渡ってまで悪影響を与えるような制裁を今も公に加え続けているわけだから、これでは教団の評判も落ちようというものである。

このようにキリストの福音を平和的に伝道するという牧師の第一義的な使命から著しく逸脱し、他の牧師の伝道を妨害することしかできなくなった牧師にこそ、しかるべき厳しい処分を下すのが、教団の本来の組織としてのあるべき姿である。

しかし、そのようなことはこの教団には言っても無駄であろう。何しろ、村上密氏のカルト被害者救済活動は、村上氏個人が率いているものとはいえ、教団そのものの理念とも、密接な結びつきがある。もともとこの教団が推進するペンテコステ運動は、聖書に基づかない弱者救済活動として始まったものであり、なおかつ、リバイバル招致による地上天国という異端的な偽りの神の国を目指している。このように、神に反逆する人類の一致を唱えている以上、その裏面として、キリスト教を内側から破壊する理念を持つ運動が現れて来ることは避けられないのである。そのことは以下で明らかにする。

 
さて、本題に戻ると、今回のテーマの一つは、なぜ十四年前から現在に至るまで、村上氏が鳴尾教会に関して、義理の父である津村氏と一心同体のようになって行動を共にしたのか、という疑問を、同氏がかつて深く関わっていた異端思想に照らし合わせて検証することにある。

つまり、村上氏にとって「父」とは何か、という問題にスポットライトを当てることによって、なぜ津村氏・村上両氏が、なぜ長年に渡り、鳴尾教会にいわれなき制裁を加え続けたのか、その理由も幾分、明らかになると考えるのである。
 
村上氏は、義理の父とはいえ津村氏とは互いに別の人間であるから、たとえ津村氏が大先輩の牧師であっても、同氏の判断に絶対服従せねばならない理由はない。まして、村上氏には自らの牧会する教会が別にあるのだから、直接の関わりのない鳴尾教会に対して、わざわざ教団や教会内規則を踏み越えてまで、内政干渉しなければならない理由もない。

にも関わらず、鳴尾文書を読んでも分かるように、村上氏は十四年前の当時から現在に至るまで、常に義理の父である津村氏の意向を忠実に体現し、津村氏と一体となって、自分ではなく津村氏の願いを実現させるべく、鳴尾教会の内政に不当に介入して来たのである。

その有様を見ると、なぜここまで父子が一つになって行動しているのだろうかという疑念が生じないわけにはいかない。


この疑問に対する答えとして挙げられるのは、統一教会を脱会して、キリスト教の牧師になった後でも、村上密氏はかつての統一教会流の、指導者を絶対化するカルト的思考を捨てられずに今日に至っているのではないかという疑惑である。

特に、統一教会には指導者夫妻を「真の父母」とする独特の「霊の家族」モデルが存在する。そして、次の論稿で示す通り、プロテスタントには、ペンテコステ・カリスマ運動の枠組みの中から登場しながら、この運動の枠組みを超えて、福音派を含む諸教会に「バイブル」のように受け入れられた「教会成長論」という異端的な家族モデルが存在する。

統一教会は、文鮮明を再臨のキリストとみなし、この宗教指導者夫妻を「真の父母様」として褒めたたえ、その教えに帰依し、合同結婚式を通して、彼らの家族モデルに加わることによって、信者は「聖なる血統」にあずかり、罪から救われて清められ、聖家族に加えられると教えている。

このような統一教会が理想とする家族モデルを、村上氏はこのカルト団体を脱会した後も、心に持ち続け、さらにそれが上記のペンテコステ・カリスマ運動において提唱されている「教会成長論」の異端的家族モデルとも合わさって、ますます補強されて行ったのではないかということが言える。


つまり、村上氏は合同結婚式にまで至ることなく統一教会を脱会したものの、その後、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の中でも相当の権威とみなされていた教職者・指導者である津村昭二郎夫妻のクリスチャン家庭の一員に加わることによって、また、津村氏夫妻を師のように仰いで、その意向に忠実に従うことによって、あたかも「聖家族」に連なったかのように、理想的なクリスチャン生活を体現でき、「聖化」が成し遂げられるかのように考えていたのではないかと推測される。
 
村上氏にとって、津村氏は単なる「義理の父」ではなく、その教えに背くことが決して許されないような宗教指導者であり、自身の「霊の父」なのである――そういう事情でもない限り、村上氏・津村氏らがそこまで長年に渡り、思想的に一致して鳴尾教会への迫害という行動を共にして来た理由が見当たらないのである。
 



・「子」が「親」を守り、「家」を守ることを要求する転倒した家族モデル

これから見て行くように、統一教会であれ、カリスマ運動であれ、国家神道であれ、異端的な家族モデルにおける「縦の関係」は、「子」に「親」への絶対的な従順を要求するという共通点がある。

本来、「家」とは、強い大人たちが弱い子供たちを守るのでなければ立ち行かない。赤ん坊や、未成年や、子供たちが自分で自分を守れるはずもなく、彼らには大人たちの保護が必要である。このような非力な子どもたちが、親を守る防波堤になどなれるはずもないし、家を守るために立ち上がって戦う戦士にもなるわけがない。家を守るのは大人たちの仕事である。

また、当然のことであるが、子供たちはいつまでも子供のままでいることが望ましいのではない。やがて親から自立し、一人の人間として独立し、生まれ落ちた家を離れて、自らの人生を切り開いていくことが求められる。

しかしながら、異端的な家族モデルは、「子」を「家」(親)を守り、支えるための道具とみなし、なおかつ、「子」の「家」(親)からの自立を決して認めない。そこでは、アジアの貧しい農村の家庭で、朝早くから子供たちが学校にも行かず、労働力として働きながら、家計を支えているのと同様に、「弱い者」である「子」が「強い者」である「親」に仕え、「子」が「親」を守り、「子」が「家」に名誉と繁栄をもたらすために生きることが義務とされ、親子の縦の関係から「子」が離脱することが許されないのである。

このようなものを筆者はアジア的な家族モデルとみなしているのだが、これを教会生活にあてはめ、指導者夫妻を「霊の父母」、信徒を「子」の立場に置いて、親子の縦の関係を絶対化するのが、異端的家族モデルである。

こうして指導者(親)が信徒(子)を守るのではなく、信徒(子)が指導者(親)を守り、指導者(親)に仕えて生きるという、転倒した家族モデルを教会の基礎とみなし、同じ家族モデルに連なる信者の家庭を地上で増やしていくことによって「リバイバル」を引き起こし、全人類を「一つの霊の家族」に帰依させて、地上天国を実現できる、とするのが、あらゆる異端の教えに共通する基礎的な型である。

村上氏は、こうした異端的な家族モデルにのっとって、義理の父である津村氏を絶対視し、宗教指導者と信者との縦の関係を絶対視すればこそ、鳴尾教会もまた指導者である津村氏に絶対服従すべきであると考えていたのではないか。そこで、鳴尾教会が、主監者であった津村牧師の不祥事を追求して告発したり、津村氏の不祥事を明るみに出すことによって、同氏を辞任に追い込んだり、村上氏と津村氏による伝道師らの理不尽な追放という事件についてもためらうことなく真相を追究し、教団と村上氏・津村氏の対応に不信感を突きつけ、こうして「弱者」であるはずの教会が、「強者」である教団や指導者に責任を追及し、物申して事態を明らかにしようとしたこと自体が、「(霊の親たる教団と指導者に対する)あるまじき反逆である」、とみなしているのではないだろうかと考えられる。
 


・全人類を「一つの霊的家族」に結びつけようとする教えは神への反逆である
  
村上氏は、一方では、「教会のカルト化の危機」を叫んで、教会から被害を受けたとする信者らを積極的に集めては、「疑わしい」牧師や教会に裁判をしかけ、教会の破壊活動にいそしみながらも、他方では、統一教会や教会成長論に見られるような異端的家族モデルに基づいて、信徒は自らの宗教指導者に絶対服従すべきという教えを振りかざし、自分たち(身内)に対する離反や告発は決して許さず、離反者に対しては長年に渡り厳しい報復行為に及んで来た。
 
この二つの運動――身内の指導者や教団の権威の絶対化――と、自分たちの集団に属さない指導者や教会の権威を容赦のない制裁によって引きずりおろすこと――は、一見、相矛盾する行動に見えるかも知れないが、ともに聖書の御言葉に基づかず、人をキリストではなく人間に従わせる異端的家族モデルから生まれて来る活動なのである。
 
端的に言えば、それらはともにキリストの霊に属さない、人の生まれながらの古き「自己」が行う果てしない「自己保存」と「自己増殖」の試みでしかない。

たとえば、村上密氏が率先して行って来た裁判による他教会の取り潰しや併合は、「他家」を容赦なく取り潰して「我が家」に併合することで、果てしなく「我が家」の拡大(自己増殖)を目指し、やがて全人類を「我が家(自己)」に同化させて、同じ「霊的血統」に属する一つの家族に帰依させることにより、地上にユートピアが到来すると教える異端的家族モデルの現実的な運用なのである。村上氏が提唱している「カルト監視機構」も同じであり、これは宗教界全体を己の支配下に治めるための試みに過ぎない。

こうした思想はすべて、異端思想が一様に提唱する「全人類一家族理想」のモデルーー宗教指導者夫妻を「霊の父母」として崇め、それに「子」として連なる信者を増やすことにより、人類全体を自己に同化させて「一つの家族」としようとする試み――から来るものであり、そのようなものは断じて、聖書の神が望んでおられるキリストの花嫁たるエクレシアの建設ではなく、それはずっと古くからある神に反逆するための建物の建設の試みである。

「さて、全地は一つのことば、一つの話ことばであった。そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。
彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。

そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」

そのときは人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。
は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。

こうしては人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、が人々をそこから地の全面に散らしたからである。」(創世記11:1-9)

結局、全人類をともに「一つの霊の家族」につなげることにより、地上で「リバイバル」を呼び起こせるとしている「教会成長論」は、神に反逆するバベルの塔建設の試みに他ならない。それはどんなにキリスト教の中から生まれて来た運動のように見えても、実際には、神に対する人類の思い上がりの必然的な結果として、キリスト教界に分裂と、混乱しかもたらさないのである。

そこで、地上天国としての「リバイバル」を唱えているペンテコステ・カリスマ運動の只中から、教会に裁判をしかけては破壊と混乱をもたらしているカルト被害者救済活動が出て来たのは、偶然ではない。それらは共にコインの表と裏のように、同じ性質を持つものであり、表向きに掲げている「全世界の一致」と、それに完全に相反するように見える「分裂と混乱」――これら二つの側面は、全人類が一致して神に反逆しようとする試みに必ずや伴う両面を示しているに過ぎない。
 
このように、聖書の神に逆らう悪魔的な発想としての全人類の一致・地上天国建設の計画は、何度頓挫しても飽きたらずに、繰り返し、繰り返し、キリスト教の中に、聖書の教えを装って現れて来た。聖書を見ると、そうした教えは、失敗続きの中でも次第に肥え太り、最初は単なる小さなバベルに過ぎなかった町が、最後には「地上の王たちを支配する大きな都」(黙示17:18)バビロンにまで成長しているのを見ることができる。ちょうど創世記では小さな蛇だった悪魔が「巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇」(黙示12:9)になったのと同様である。

このバビロンこそ「大淫婦」、すなわち、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン。」(黙示17:5)である。

最初は「町」だったものが「都」になっただけでなく、それは今や性別と人格が与えられ、「母」や「女」と呼ばれている。なぜ大淫婦なのか? その理由はクリスチャンならば誰でも知っていよう。聖書の御言葉に反するあらゆる虚偽の教えを喜んで奉じ、キリストだけに従う真実と貞潔を捨てたからである。

しかし、ここでバビロンが女性の名で呼ばれていることに注意が必要である。なぜ「母」なのかは、この論稿を読み進めて行けば分かるはずである。

それは東洋思想と密接な関係がある。結論から提示するならば、これは東洋思想の誉め讃える女性原理・母性原理を人格化したものだからである。

大淫婦バビロンとは、聖書の御言葉の「二分性」を否定して、御言葉の持つ「分割」や「切り分け」という父性原理を否定して、御言葉に基づいて善悪を識別することをやめ、何でも愛して受容する東洋的な「母性原理」を高く掲げる東洋的(オリエント的・ヘレニズム的・アジア的)な思想の総称なのである。いや、堕落したキリスト教が東洋思想と相通じた結果として生まれて来た混合物を意味するのである。
 
こうした東洋思想とキリスト教とを混合させることで、キリスト教を堕落させる試みは、キリスト教の中から、あたかもキリスト教のような仮面をつけては、度々、登場して来た。以下で見て行くペンテコステ・カリスマ運動もまたその混合物の一つであることがよく分かるであろう。

ペンテコステ・カリスマ運動はキリスト教ではない。それはキリスト教と、聖書が最も憎むべきものとみなしているものとの混合である。そこで、このような運動には決して関わらないことを勧める。これに深く関わり、その教えを信じた人々は、必ずや、聖書の御言葉に対する真実性と貞潔さを失う。そして、御言葉の切り分けを曖昧にし、神と人との断絶を否定した上で、最終的には、まことの神を押しのけて、自らを神とする異端的告白へと行きつくのである。
 
<続く>


わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。

「さて、イエスの母と兄弟たちが来て、外に立っていて、人をやり、イエスを呼ばせた。大ぜいの人がイエスを囲んですわっていたが、「ご覧なさい。あなたのおかあさんと兄弟たちが、外であなたをたずねています。」と言った。

 
すると、イエスは彼らに答えて言われた。「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。

 
して、自分の周りにすわっている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」(マルコ3:31-35)

「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。

 さらに、家族の者がその人の敵となります。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:34-39)

 



 1.神の家族とは、信者の肉による家族のことではない。にも関わらず、信者の肉による家庭をエクレシアの基礎単位とみなす考えは誤りである。

さて、エクレシアと神の家族のテーマについて補足しておきたい。

 
それは、信者の家庭(集会)を信仰生活の基礎とみなす考えは、根本的に異端であり、間違っているという見解を述べるためである。

当ブログを始めたばかりの頃、このブログには熱心なコメント者も相当おり、キリスト教界を脱出した数多くの信者たちとの生きた接触があったため、あたかもこれからエクレシアの建設に向けて、純粋に神を求める信者たちが集まって、地上で大きなうねりができるのかも知れないという印象を筆者も受けなかったわけではない。

その頃、ある兄弟が言った、「初代教会の教会は単純素朴で、立派な礼拝堂などなかったはずです。大規模な集会もなく、組織化された団体というものはなく、指導者もおらず、信者が日々の生活の中で、互いの家庭を訪ね合って、単純素朴に交わりを持つというのが、エクレシアの姿だったわけです。だから、今日の教会も、そのように『家々の教会』であるべきなんですよ」。そして、「家々の教会が増え、広がって行くことが、主の再臨を呼び寄せるのです」と言うのである。
 
「家々の教会」、言い換えれば、家庭集会である。そこまで組織化された集会でないとしても、素朴な家庭の集まりが、エクレシアの最小単位であり、地上において信者の家庭集会が増え広がって行くことが、エクレシアの拡大であり、主の再臨の秘訣だというのであった。

この兄弟はその信念に基づいて、それ以後も、ずっと大規模な組織を離れたところで、家庭集会の増加に努めているようである。その後も、筆者は、この兄弟とは別なところで、家庭集会こそが、地方教会の基礎であり、家庭集会の増加が、エクレシアの拡大を意味し、主の再臨を引き寄せる秘訣だと考えている集団に出会った。

だが、筆者の見解は、この人々の見解とは全く逆のものである。地上における「家々の教会」が増えることにより、人数が集まってエクレシアが拡大して行き、やがて主の来臨を引き寄せるなどという考えはれっきとした異端である、というのが、筆者の動かせない見解である。

上記の兄弟もそうであったが、彼らは「エクレシアとは組織ではない」と言って、既存の教団教派を離れ、組織や団体を作ることには反対していた。だが、筆者から見れば、地上における家庭という単位も、やはり、れっきとしたミニ組織なのである。

何しろ、家庭とは、個人ではなく、すでに集団である。個人の信仰ではなく、集団をエクレシアの基礎単位とし、地上における家庭集会という「拠点」を増加させるために活動することは、次回の記事で述べる通り、聖霊派の唱えているリバイバルとほとんど変わらない、地上天国への招きなのである。

そんな風に家庭の数を増加させることにより、人数を増やし、地上での権勢を誇るよりも、一人一人の信者(誰よりも自分自身!)の中で神への信仰が増し加わることの方がはるかに重要であることに筆者は気づいたため、他者への期待と関心は、年々、薄れて行った。そればかりか、目に見える他の信者に心を向けることが、重大な危険であることが分かったので、そのような関心を自ら否む必要があることが分かったのである。

このような筆者の見解をはっきりと裏付けるいくつかの事件があったので書き記しておきたい。


 
➀元アッセンブリー信者の青年の例から
  
2009年頃、上記の「家々の教会」を主張していた兄弟たちとの交わりに、熱心にエクレシアを求めているかのように装って現れた一人の青年があった。

その青年は、筆者のブログを読んで、何としても筆者に会いたいと願ったのだと言って、コンタクトを取って来た。だが、交わりに加わるや否や、早速、その青年は、自分の家庭のために連綿と祈りのリクエストを出すようになった。

そのリクエストは、最初は「我が家のリビングルームに主をお迎えしたいのです。妻子に主を受け入れて欲しいので祈って下さい」といった比較的無難な内容であったが、すでにこの時点で、筆者の心には、深刻な疑問が生じていた。
 
青年は大の愛妻家であり、子だくさんの家庭と、素敵なリビングルームのある家を所有していた。青年のリクエストは、家庭こそ、エクレシアの拠点であるべきという兄弟の心の願いに火をつけたので、そういったものを持たない信者を取るに足らない存在として退ける効果をももたらした。

だが、筆者には疑問であった。果たして、主をお迎えする場所は、立派な家庭の整えられた素敵なリビングルームであるべきで、そこには信者が愛してやまない妻子がいるべきなのだろうか? 
  
筆者の念頭には、これは何かがおかしいぞという直観が初めからあった。なぜなら、主との交わりは、極めて排他的かつ厳粛なものだという動かせない現実があるためだ。

私たちの神は、「あなたはほかの神を拝んではならないからである。その名がねたみである主は、ねたむ神であるから。」(出エジプト34:14)と言われる神である。

信者が最も愛してやまない対象は、ただお一人の神であるべきであって、見えない神をこそ第一とするのが信者の信仰生活である。神以外の全ての目に見える地上のものは、どんなに信者が愛していても、神との交わりに持ち込むことはできず、神以上に心を留めるべきでもない。

神との関係は、あくまで個人を基礎として、他の追随を許さない排他的関係であって、信者が集まって心を一つにして祈り合うことは可能ではあるが、それは地上の家族とは無関係の話である。たとえ愛する自分の家族であっても、人が自分の都合でそれを神との関係の中に持ち込むことはできない。

むしろ、肉によって生まれた地上の家族への愛は、神への愛の前で退けられる。

主イエスははっきりと言われた、わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:37-39)

だが、その当時、筆者の疑問をよそに、「家々の教会」を目指していた兄弟は、飛びつくように、その青年の素敵なリビングルームを訪問し、早速、第一回目の家庭集会を持ったようであった。

その後、観察していると、前述の青年は、自ら愛し、誇っていた立派なリビングルームのために、巨額の借金を負っていることが判明した。リビングルームだけではない。立派な外車も借金による購入であったし、青年が誰よりも愛していた自慢の妻は、かつて上司と婚約していたのを横恋慕して、他人から奪うようにして手に入れた人であった(おそらくは未信者だった時代に犯した過ちとして告白していたように記憶している)。

そして、その青年のリクエストも、「家族が救われて我が家のリビングルームに主をお迎えしたいので祈ってもらいたい」というものから、「借金返済のデッドラインが迫っているので、〇月〇日までにお金が与えられるように祈って欲しい」という緊迫した内容へと変わって行った。

筆者は、仕事や生活の必要性は、主が必ず満たして下さるはずだという確信があったので、だんだん強迫的な内容となって行く青年のリクエスト内容に違和感を覚えた。しかも、その青年は就職活動を全くしないまま、ただ祈りによって金銭と就職口を願い求めている様子であったため、筆者の目には、それは非常に危険な行為であると映ったが、青年の家庭の「危機」を聞いて涙を流し、祈り、支援を申し出た人たちも、信者の中にはいたようである。

筆者はその交わりを離れたが、何年か後に、再び彼らと再会した。その頃、その青年は、筆者がこの交わりを離れていた間も、「家々の教会」を主張する兄弟に着いて回りながら、その間に、就職のために兄弟姉妹に幾度も憐れみを乞うては、信者たちの世話を受けていたことが分かった。なおかつ、彼らの支援を反故にし、その信頼を裏切っていたため、多くの兄弟姉妹から恨みを買っていたのである。

一時は、悲劇の主人公のように交わりの中心に立ち、同情を受けていたこの青年であったが、その頃には、すっかり周囲の信者たちに動機を見透かされていた様子で、かつて自分が利用した信者たちの怒りを避けて、彼らから逃げていた。

その後、またしても、借金のデッドラインと祈りの支援を求める便りが筆者にも送られてきたが、筆者が、神こそ信者の全ての必要を叶えられる方なので、自分の悲劇を他人に向かって声高に主張して他人の同情を求めることをやめ、沈黙のうちに、主だけに自分の必要を打ち明けて祈ってはどうかと提案したところ、その青年は、初めてそれまで被って来た善良で温厚な信者の仮面を脱ぎ捨てて、信者らに対する憎しみを口にした。

そして、「クリスチャンは冷たく、愛がなく、哀れみがない。自分を助けてくれたのはいつも不信者だった」という捨て台詞を残して、交わりを去ったのである。(だが、実際には信者らは彼に手厚い支援を行い、就職口の世話もし、祈り、助けて来たのであった。不信者の親戚も含めると、この青年が人の憐れみにすがってこしらえた借金は何百万円にものぼる。)

その後、この人がどうなったのか筆者は全く知らないが、こうして、「我が家のリビングルームに主をお迎えしたい」という願望から始まって、自分を喜ばせるための一連の願い事に、エクレシアを役立てようとした青年は、自分の願いがかなわないことを知るや否や、エクレシアを踏みつけにして去って行ったのであった。

この人の望んでいたのは、最初から、自分が神の御言葉に服することではなく、神の御言葉を自分に服させること、すなわち、エクレシアを自分の願望の道具とすることだったのであろうと、筆者は思わずにいられない。ちなみに、この青年もまた統一教会を脱会した元アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信者であった。

この青年に起きた出来事は、「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」(マタイ19:24)という聖書の事実を筆者に思い出させた。筆者が当初から予想していた通り、エクレシアとは、この青年が思い描いていたような軽薄かつ安楽なものではないことが明らかになったのである。

神との礼拝の中に、自分の生まれながらの家族、自分が選んだ愛する伴侶、自分が生んだ愛する子供たち、自分の家庭などを持ち込み、お気に入りの仲間たちと素敵なマイホームでみんなで手をつなぎ、楽しく快適に居心地よく一緒に天国の門をくぐれます、という教えは、どう見ても、聖書には全くない。

むしろ、自分の父母娘息子よりも主を愛さなければ、神に従い抜くことができないと聖書ははっきりと警告している。
 
上記で引用した主イエスの語られた御言葉では、父母娘息子という、親子の生まれながらの縦の関係だげが言及されており、伴侶についての言及はないが、だからと言って、伴侶についても、やはり聖書の言及は一貫して厳しいのである。

使徒パウロは、信者の結婚について、禁止まではしないものの、気乗りのしない言葉を記している。「現在の危急のときには、男はそのままの状態にとどまるのがよいと思います。」(Ⅰコリント7:26)

この表現は面白い。現在は「危急の時」だから、信者は結婚しない方がいいと言うのである。

他の場所でもパウロは言う、「時は縮まっています。今からは、妻のある者は妻のない者のようにしていなさい。」(Ⅰコリ7:30)

そこでも、やはり「時は縮まっている」と、同じように緊急性が告げられている。緊急事態だから、信者はできれば妻を持たない方が良いという見解が繰り返されているのである。つまり、この大変な時に結婚などすると、あなたの信仰にとって、のちのちそれがひどい障害になりかねないので、できれば信者は結婚せずに、神にのみ心を向けて暮らした方が良い、また、たとえ家庭があっても、ゆめこれに気を取られず、あくまで神だけに望みを置くべきで、地上の宝に欺かれてはいけない、という警告のニュアンスが含まれていると感じられる。

だが、使徒は、なぜ「現在の危急の時」と言ったのであろうか? この言葉と明らかに呼応しているのは、主イエスが述べられた次の言葉である。

「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」(マタイ24:37-39)

つまり、ノアの洪水にも勝るような、世の終わりが迫っている時に、人が自分を喜ばせる活動だけに没頭していれば、神の御心など全くおざなりとなり、自分にどんな危険が迫っているのかも分からないまま、突如、滅びに巻き込まれかねないので、自己本位で自分を喜ばせる活動に心を奪われるのはやめなさい、という警告なのである。

主イエスが「めっとたり、とついだり」する行為に否定的に言及されたように、伴侶を持つことさえ、本質的に重要な事柄から人の目をそらせ、人に地上のものを愛させる効果を十分に持つことをパウロも知っていたのである。

ちなみに、「飲んだり、食べたり、めとったり、とついだり…」といった行為は、教会行事で盛んに行なわれているだけではなく、たとえば、吉祥寺キリスト集会などのように、家庭集会をエクレシアの中心に据えているところでも、不思議にすべておさえられているポイントである。

主イエスは、こうしたことは、神の御前で本質的に重要な事柄ではないので、決してそれらに気を取られるなと教えたのである。

聖書を振り返ると、アダムの堕落はエバによってもたらされたのであり、ヨブの妻もヨブの信仰にとって大いなる障害となった。異邦の女デリラを愛しすぎたことが、サムソンの悲劇のきっかけとなった。
 
従って、信者が結婚しないでいられるならば、その方が良いと述べたパウロの言葉も、背教のはびこる今の時代、たった一人だけでも信仰を貫き通すことが、どれほど困難であるかをよく示しているように感じられる。
 
パウロは、信者の離婚を基本的に認めないが、ただし、不信者の伴侶が自ら離れて行く場合は別だと言う。「しかし、もし信者でないほうの者が離れて行くのであれば、離れて行かせなさい。そのようなばあいには、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとしてあなたがたを召されたのです。なぜなら、妻よ。あなたが夫を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。」(Ⅰコリント7:15-16)

つまり、パウロは地上における信者の結婚や夫婦愛を、キリストへの愛以上に重んじることがなかった。

それは、聖書における真の「男女」とは、何よりも、キリストとエクレシアのことを指しており、地上における人間の夫婦はその型に過ぎないためである。そのことは以下のパウロの言葉からも明確に分かる。

私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。」(Ⅱコリント11:2-3)

通常、この御言葉は、聖書に基づくキリストへの信仰以外の誤った異端の教えに気を取られて、信仰者としての貞潔を失ってはいけませんよ、という警告として受け止められている。

だが、この言葉にはより深い警告が込められているものと筆者は考えている。上記の言葉を字義通り受けとるならば、ただ「ひとりの人(男子)」とは、キリストのことであり、「ただ一人の男子キリストのみに捧げられた貞潔な花嫁」というのが、エクレシアの本意なのである。

すなわち、ここから、人にとって真の「男子」とは、人間ではなく、キリストであることが分かる。神と人とがパートナーであるというのは、衝撃的な事実であるが、霊的には真理であり、それこそ、聖書が述べていることであり、キリストが求めておられる花嫁の姿なのである。

キリストは、地上での生涯の間、妻を持つことなく、人としての地上的幸福の何一つ、ご自分のものとして所有されなかった。ご自分を低くされ、すべての地上的な富と栄光をすすんで十字架に渡され、その命までお与えになられたのである。だが、そうであるがゆえに、神はキリストにすべてのものにまさる栄誉をお与えになり、教会をキリストの花嫁として召し出された。我々は、やがてキリストとエクレシアの婚礼という、宇宙的に壮大な出来事へと向かっているのである。

信者はみなエクレシアとして、ただ一人の人であるキリストのためだけに備えられた花嫁である。だからこそ、たとえ信者に家庭があっても、そのような中で、信者がキリストをさしおいて自分だけ早々と地上の幸福を誇り、神よりも地上のものに心を奪われ、キリストへの真実と貞潔を失い、背教に落ちるようなことがあってはいけないと警告されているのである。

だが、おそらく、筆者がこのようなことを述べ始めた時点で、ほとんどの信者は立ち去って行くであろうと思う。ちょうど主イエスに出会って、全財産を捨てて従いなさいと言われ、悲しみながら立ち去ったあの金持ちの青年のように…。 
 
さらに、「家々の教会」を主張していた兄弟にも、別の問題があった。この兄弟は、長い間、異端の団体にいたために、子供が心を病んで自殺を遂げ、他の子供も重い病を患っていた。この兄弟は、病は異端団体とは全く関連性がないと幾度も述べており、それが御言葉から逸れたことに対する厳しい報いであるとは認めていなかったが、筆者はそれには同意できなかった。なぜなら、多くの異端団体で、これとほぼ全く同じような家庭の崩壊や子供の自殺などの共通する不幸が数多く見られたためである。

仮に異端団体への入信と家庭の悲劇に関連性がなかったとしても、家庭の危機と我が子の窮状、および、夫婦の断絶をよそにしてまで、エクレシアの建設という「大義」を口実に、自分の家庭を置いて他の信者の家庭を一人で訪れるのでは意味がない。そのような行状に、筆者は全く賛同することができないし、神がそのような方法でエクレシアの建設を信者に命じられることは決してない、と確信している。



②現役のアッセンブリー信者の女性の例から 
 
さて、上記の元アッセンブリー信者の青年と類似した現象が、Br.Taka氏に筆者を売り渡したアッセンブリー現役信者の「姉妹」にも起きた。

この「姉妹」は、知り合った当初から、筆者の信仰生活が孤独すぎるように見えると憂慮して、何とかして、筆者を集団の交わりの場に引き出す必要があると考えていたようである。しかしながら、そうした考えも、やはり、地上の家族を重んじる考えから来たある種の高慢さであった。
 
この人物とまだ交わりがあったある猛暑の夏、筆者の家でペットの小鳥が死んだことがあった(記事参照)。その事件を、この「姉妹」は、筆者の貧しさゆえだと陰で嘲笑していたことを、その信者の闘病生活の仲間から筆者は知らされた。

当時、筆者は、人の前に虚勢を張ろうという考えがなかったので、他者の愚かで尊大な心の内を見せられたとは感じたが、別段、見返そうなどとも思わなかった。ちなみに、その年の夏は、風が何日間も止まるという異常なもので、筆者の家ばかりか、それまで風通しの良い環境で問題なく過ごして来た動物たちが至るところで死んだというニュースを後になって幾例も聞かされたのであった。

さて、その闘病生活の仲間というのも、やはりアッセンブリー信者の重度の障害者で、この「姉妹」が伝道して信仰に導いた人であった。が、この「姉妹」は、彼女の洗礼式の際にも、彼女の書いた信仰の証をすべて自分好みに書き変え、本人が自ら話せるにも関わらず、これを代読し、代読の途中で泣き崩れ、自分を主役に据えて注目を浴びることで、他人のための式をすべて自分の手柄と変えてしまったようで、闘病生活の仲間は、このことを嘆いていた。

そういったことが分かるまでは、筆者はこのアッセンブリー信者を「姉妹」だと信じ、親しく交わっていたが、前述の「デッドライン」の青年と同じく、この頃から、だんだんこの人の信仰は何かが極めておかしい、ということに気づき始めたのである。

だが、思い返せば、それよりも前に、すでに異常を告げ知らせる事件は起きていたのであった。筆者はかつてこのアッセンブリー信者の「姉妹」と共に、KFCに長らく属していた闘病生活を送る別な姉妹のもとを訪ねたことがあった。

その時、KFCに長らく通っていた姉妹は死の床について、すでに話すことができなくなっていたが、意識は確かであった。このアッセンブリー信者は見舞いの場で、手際よく自ら用意していた讃美歌のコピーを筆者にも渡し、それを二人で歌うよう指示した。だが、声の出ない病人の前で歌を歌うことは、筆者にはひどく気が進まなかった。しかも、歌っている途中で、そのアッセンブリー信者は一人で泣き崩れたのである。

何かひどく自作自演的な芝居じみたものを感じたのは事実であった。声が出ない病人の前で、一方的に歌を歌い、病人がまだ生きているにも関わらず、まるで葬式のように泣き崩れて悲しみにくれることが、果たして、そのような見舞いを受ける病人の側から見て、本当に心からの同情と励ましと受け止められるであろうか?

ちなみに、そのようにして、場の雰囲気を巧みにかっさらい、自分だけを主役に据える「泣き芸」のパフォーマンスは、ルーク氏のお得意の手段であり、ルーク氏はその姉妹の葬儀の場で泣き崩れることによって、あたかもこの姉妹を深く愛していたかのように装い、この姉妹をそれまでさんざん振り回し、苦しめて来た自らの罪を帳消しにしようとしたのであった。

だが、後に聞き取りによって分かった事実は、すでにこの姉妹は死の床で、KFCとルーク氏と訣別していたのであり、それがゆえに、姉妹の葬儀も、姉妹がもともと属していた教会によって執り行われたのであった。こういったすべてのいきさつをルーク氏の泣き芸は巧みに隠したのである。

ちなみに、その死の床についていた姉妹とは、筆者が関東に来る前に、挨拶状を突然、送って来た姉妹である。その手紙を読んで、KFCには行くべきではないという確信が筆者の心に生じたのであり、従って、本来は、姉妹を見舞うべきでもなかったのかも知れない。だが、生涯の終わりには、この姉妹は、ルーク氏の言説の誤りを理解して、明確にこれと距離を置いていたと思われることはまだしも幸いである。そしておそらく、その当時、姉妹の方が、KFCに関与して筆者がどうなるかを憂慮していたのではないかと思われる。

さて、上記のアッセンブリー信者も、闘病生活を送っていたため、筆者は幾度も、この人のために一連の記事を書き、病と訣別して、信仰によってキリストの復活の命を受け取り、立ち上がるよう促し、励ましたが、彼女は健康になるべきとは考えていないようであった。

さらに、このアッセンブリー信者は、上記のKFCにいた姉妹の死後、寂しさから、死後の世界を求めて、サンダー・シングに関心を持ち、この異端の教えを奉じたので、筆者はこれが危険であることを告げ、捨てるよう促したが、彼女がそれを異端であるという事実を認めることはなかった。そのような教えを信じれば、救いを失って死に至るので、明確に訣別した方が良いと警告したが、それも無用な警告と恨みにしか思われなかったようである。

この信者は、筆者から病と訣別すべきだと言われたり、異端の教えのことで警告を受けたことへの「報復」として、後にBr.Takaに筆者について讒言し、筆者を売り渡したのであるが、そうしたことが判明した際、つくづくアッセンブリー信者の偽善とは恐ろしく、この教団の信者とは、関わっても百害あって一利なしという確信を筆者は強めた。

筆者のこれまでの経験に立って言えば、アッセンブリー信者は、男女を問わず、ほぼ例外なく、深く考えることのできない、軽率で人騒がせなトラブルメーカーで、次から次へと事件を引き起こして行くのであるが、決して自分がそれらを引き起こしているのだとは認めない。そして、誰かから注意や叱責を受ければ被害者を決め込み、どこまでも、自分は弱いふりをしながら、自分に忠告した人に恨みを抱くのである。

その当時、Br.Taka夫妻、ルーク氏、このアッセンブリー信者の女性は、自分たちが異端の教えを信じ、御言葉から逸れている事実を隠すために、みなで連帯して、自分たちの地上における幸福な家庭を誇り、それを持たない筆者を嘲笑して踏みつけ、濡れ衣まで着せて、KFCから追放したのであった。

だが、それだけに終わらず、このアッセンブリー信者の女性は、自分が信仰に導いた闘病生活の仲間に向かっても、「私はもっと設備の良い病院で治療を受けるから」と言い残して上から目線でさよならを告げていたことを知らされた。

その後、この「姉妹」は自ら豪語した通り、ルーク氏らと共に豊かになったのかと言えば、逆に家計が苦しくなり、家を手放して実家に引っ越さざるを得なくなったことを知らされた。その頃には、とうに関わりもなくなっていたが、それでも不思議な形で、その事実を聞かされた時、主は生きておられると筆者は思った。

神は、自分には家があり、家庭もあって、たくさんの味方がおり、属している宗教団体もあるから、一人寂しく信仰を守っている孤独な信者とは別格の存在であると言って、自分以外の他の信者を見下して、勝ち誇っていた人の愚かで高慢なつぶやきを、決して見過ごされることはなかったのである。

「あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。」(マタイ18:10)

さて、このアッセンブリー信者らが誇っていた家庭とは、そんなにも素晴らしいものであったのかと言えば、それはやはり元アッセンブリー信者の上記の青年と似たり寄ったりの状況であった。

まず、上記のアッセンブリー信者については、彼女の闘病生活が家庭にとっては大きな負担となっており、それゆえ、子供もまた危険な重労働を強いられている様子がブログに記されていた。そして彼女のブログ記事を追って行くと、絶え間なく、家人の誰かに、事故や、怪我や、発病や、手術といった出来事が降りかかっている様子が見え、非常にいぶかしく思われるのである。

さらに、この「信者」は、未信者の夫の突然の怒りの暴発に自分が脅かされているという話をもよくしていた(自ら記事にもその愚痴を記しているため、こうした話題は秘密ではなかろう。)障害者であり、病人であることに加えて、家庭においても「弱者」だというのであった。

だが、このように、家庭における「被害者意識」も、アッセンブリー信者には非常によく見られる特徴なのである。

多くの場合、アッセンブリー教団を含め、異端の団体に入信する妻たちは、家庭における孤独や悩みが原因となって、宗教団体に誘われて行く。そして、入信しても、自分たちは家庭や社会において不当に脅かされている弱者だという意識を捨てられぬまま、様々な問題に自ら勇敢に立ち向かって行く気力を、かえって宗教団体によって奪われるのである。

そうした妻たちの多くが、宗教団体に入信することによって、いずれ夫を回心させることができ、それが起きさえすれば、家庭におけるすべての問題と、自分たちの立場が、劇的に改善するだろうという予想に望みをつないでいる。家庭のすべての問題に真正面から向き合うことなく、それを、夫がいずれ回心して、キリストのために大胆に用いられる器となることによって変えられるという思いを持つことで、むしろ、諸問題から逃避してしまうのである。

そのようにして、ほとんど夢物語のような幻想にすべての望みをかけている妻たちに、筆者はこれまで幾度も出会った。問題は自分にあるのではない、神を信じない夫や子供たちのような家族にこそある、そう思うことで、彼女たちは、自分は夫よりも正しく、家族よりも正しく、彼らには信仰がないから、自分の言い分を理解できないだけなのだ、というところに逃げ込んで、自分を慰め、被害者意識に甘んじているのである。

むろん、口論しても勝てず、力によっても打ち負かされるだけで、仕事も、社会における栄光も、すべてを独占しており、この世の方法論においては、どうやっても勝つことのできない家庭の「強者」としての夫に対する妻たちの不満が、筆者に分からないわけではない。

だが、「自分は神を信じているから、信じていない夫に比べ、本当は何もかも分かっている、だが夫や子供たちは…」という、ひそかな見下しの気持ちを含んだ思いは、本当は、決して神への信仰ではなく、家人への愛でもなく、復讐心の裏返しに過ぎないのだということは、いくら説明しても、余計な恨みを買いこそすれ、本人たちにはおそらく分からないであろう。

家族の救いや、家庭の回復という問題について、誰かが神に期待すること自体は、誰にも非難できない。だが、彼女たちが望みを託しているのが、異端の団体である以上、絶対に彼女たちの願いはかなえられることのない、幻のような現実逃避でしかない。

さらに、上記のアッセンブリー信者については、筆者がどうしても首をかしげざるを得ない、もう一つの問題があった。それは彼女が、信仰を持たない夫を通して、神が語られるのを聞いたという体験をブログ記事に記していたことである。

これは正常な信者としては絶対にあり得ない体験であると考えるため、この記事だけは、誤解のないように引用しておきたい。

主と一つ (ブログ「十字架の恵みが溢れて」)
 2010.11.18 Thursday  から抜粋

 サウロは主の弟子たちを脅迫し、迫害し、男も女も縛り上げ、エルサレムに引いてくるためにダマスコに向かっていた。
 その途中の出来事だった。
 このときはすでにイエスご自身はこの地上にはおられなかった。でも主がサウロに現れておっしゃったことは、
「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」と語られた
「なぜわたしを信じる者たちを迫害するのか」とは言われなかった。
「なぜわ・た・し・を迫害するのか」と仰せられたのです。

 この箇所を読むたびに、思い出すことがある。
 それは主人の闘病中に語ってくださった主の言葉を忘れることができない。
 初めて外来での抗がん剤を投与する日、主人を送ったあと、病院の駐車場に向かっているその時だった。

 主の御名を呼び求めながら歩いていると
 「私のために祈っていただけませんか」
 という御声を感じた。
 
 私はその御声を聞くと同時に、それが主人のことであることがわかった。主は、主人のことを祈るように言われたのではなく、
 私のために祈って欲しい・・と語られたのだ。

 私は・・・胸がいっぱいになって言葉を失い、驚きと共に涙がどっと溢れ出た。
 それほどに、主はご自身と、信じる者とを一つとしてくださっている。主の中で区別などないほどに
 ひとつとしてくださっているのだ。
 あなたがたはキリストのからだであって、
 ひとりひとりは各器官なのです。
 第一コリント12:27
 
主の深い愛を褒め称えます。
詩篇の歌を持って褒め称えます


分かりにくい文章であるが、これはそのアッセンブリー信者が、信仰を持たない目に見える人間に過ぎない自分の夫を、キリストと事実上、同一視していることを示す文面である。

つまり、彼女は、「病の中にある夫のためにあなたが祈りさない」という促しを神から受けたというのではなく、彼女の夫を指して、「わたしのために祈ってくれませんか」と、キリストが懇願されたと言うのである。

彼女はそのように「主が語られた」と主張しているのである。

だが、筆者から見れば、真の信仰を持つ者として、このような状況は絶対にあり得ないことである。

第一に、この時点で、彼女の夫は不信者であり、エクレシアの一員ではなかった。キリストは不信者の内には住んでおられない。そこで、キリストが不信者を指して「わたし」と名乗られることは決してあり得ないことである。さらに、彼女の夫は、信仰ゆえに迫害されている信者でもないため、パウロの回心の場面はあてはまらない。

また、仮にたとえ彼女の夫がこの時点で、信者であったとしても、パウロの回心のくだりで、イエスがパウロに現れて、「なぜわたしを迫害するのか」と言われたのは、特定の信者を指して言われたのではなく、パウロが迫害している教会全体を指して言われたのである。だから、一人の目に見える信者の誰かを指して、キリストが「わたし」と名乗られることは絶対にないと言える。従って、これは聖書の文脈の歪曲である。
 
エクレシア全体に向けられた呼びかけを特定の人間に置き換え、さらに信者に関する記述を、不信者に対するものに置き換えて解釈するのは、聖書の歪曲である。
 
その上、このアッセンブリー信者は、キリストが彼女に現れて、「わたしのために祈っていただけませんか」と、彼女に懇願したというのである。「あの人のために祈りなさい」と言われたのでもなく、「こうしなさい」と命じられたのでもなく、「祈っていただけませんか」と言ったというのである。

聖書のどこを見ても、主イエスは常に権威を持って他者に向かって語られたのであり、主イエスが他人に向かってそのようにご自分の必要を訴えて懇願したところは見当たらない。もしあえて似たような表現を挙げるとすれば、「わたしに水を飲ませてください。」(ヨハネ4:7)と、サマリヤの女に向かって言われた下りくらいではないかと思うが、それにしても、これは一つのパラドックスであり、主イエスは、決してご自分の必要のためにこの女に話しかけられたのではないのである。

主イエスはこの会話を皮切りに、ご自分が無限に尽きない、いのちに至る水を与えることのできる方であることをお示しになられ、かえってサマリヤの女の方が、その水を得るためにはどうすれば良いのかを主イエスに尋ねる結果となった。
 
キリストは、無限に富んでおられ、すべてのすべてであられ、人間に過ぎない誰かに何かを懇願する必要の全くない方である。さらに、ご自分が天の無尽蔵の富によって富んでおられ、父なる神に直接、願い求めることのできるお方である主イエスが、ご自分ではなく、誰か他人の必要をかなえるために、人間に過ぎない者に向かって懇願する必要はない。

従って、このアッセンブリー信者の記述は、神が自分の必要をかなえるために、人間に過ぎない彼女に膝をついてへりくだって懇願されたと言っているのであり、神と信者との関係を完全に逆転させて、神を自分よりも下に置こうとするものである。
 
このアッセンブリー信者は、信者が神に向かって自分の必要を願い求めるのではなく、神が信者に向かって必要を願い求めたのだと言っているのであり、 なおかつ、自分の夫に仕えることを「キリストに仕える」ことと混同しているのである。
 
結局、上記のアッセンブリー信者は、目に見える人間をキリストと同一視するという、聖書の御言葉からは絶対に出て来ることのない思想を述べているのである。しかし、こうした思想は、「(信仰を持たない)貧しい人々の中にキリストがおられる」としたマザー・テレサの主張と本質的に同じであり、困難に見舞われている社会的弱者の中に主がおられるなどと主張することによって、目に見える人間をキリストと同一視し、信仰がなくとも人は救われており、すべての人は生まれながらにキリストと一体であるという異端思想を示すものに他ならない。

聖書に照らし合わせて、そのようなことを神が語られることは決してあり得ないと筆者は考えている。だとすれば、この信者が聞いたとする「神の声」は、どこから来たものなのであろうか?
 
このアッセンブリー信者がサンダー・シングに傾倒していた時、筆者はかなり厳しい忠告を発したために恨みを買ったのだが、危険なのは、サンダー・シングだけではない。そもそもサンダー・シングへの傾倒も、この信者の心の深いところで、福音を最初から聖書とは違うものとしてとらえるということがなければ、決して、起き得ない出来事だったと筆者は理解している。

その「違う福音」とは、結局、生まれながらの人を神(キリスト)と同一視する思想である。

筆者自身もよくは知らないが、おそらくは、この信者がアッセンブリー教団以前に入信していた何らかの異端団体や思想があるものと思う。アッセンブリー教団も、相当に問題のある場所で、ほとんど異端団体と言って差し支えないが、こうした異端的な信念は、おそらくはアッセンブリー教団で初めて生まれたものではなく、そこに入信する以前、聖書に触れる以前から、本人の内に基礎が築かれていたものと考えられる。

さて、上記ブログの最後の方の記事で、このアッセンブリー信者は、「日本人脳科学者・ドクター愛子 科学を用いて聖書の奇跡を語る」というクリスチャン・トゥディの記事を引用しており、人間の脳に神に至る要素が本来的に含まれているとするルーク氏の言説と同種の霊的影響を受けている様子も伺える。

こうしたものは、心理学や科学を巧みに聖書に織り交ぜて、御霊による啓示を通してではなく、人知によって、神の御言葉を理解しようとする異端的試みの一つである。

聖書に記されている一連の奇跡は、人知では解明できない、神の霊的な力によるものであるからこそ、奇跡なのである。そもそも、奇跡に限らず、聖書全体が、神の御霊の啓示によって理解すべきものであり、人知によって、人の脳によって理解する事柄ではない。だが、もしそれが科学や、人間の脳によって解明できるものならば、奇跡を起こすメカニズムさえ解明できれば、人間の力によって何度でも同じ現象を引き起こすことが可能となろう。早い話が、キリストの誕生さえも、人間の力によって繰り返せるということになるのである。

おそらくはそれこそが、こうした異端の真の目的なのである。こうして、科学や心理学を用いて、人間の脳には生まれながらに神を理解することができ、神に至ることのできる要素(神的自己)が含まれており、脳の進化によって、人は誰でも「聖化」に至り、キリストに到達できるとする主張が、おそらくは今後、グノーシス主義的異端思想の主流になって行くのではないかと思われる。
 
このような時代、キリスト者は、目を覚まして、いかにある人が聖書の御言葉をもっともらしく引用して語っていても、果たして、その人の言う「神」や「キリスト」とは一体、何を指しているのか、その概念をきちんと確かめずに、浅はかに御言葉の引用文だけを見て、信者だと思い込み、信用するのは極めて重大な危険となろう。

他のブログにも、この点で全く同様の記述が認められたので引用しておきたい。

「真さんのブログ」
神を窮地に訪ね求める人には神の言葉が魂に教えてくれます。」から抜粋

我々、すべての人類の脳には神の御霊が肉体の中の魂に宿っています。



標題も、冒頭の一文も、かなり錯綜した文章であり、これ以上引用する必要もないだろう。こうして、すべての人類の脳には神の御霊が本来的に宿っているとする思想は、生まれながらの人間に神に至る要素(神的自己)が本来的に含まれているとするグノーシス主義以外の何物でもない。上記ブログにも、聖書の御言葉がたくさん引用されているが、この一文を読むだけで、この人がキリスト者ではなく、キリストの御霊によって発言しているのでもない、ということが分かるのである。
 
さて、話を戻せば、上記のアッセンブリー信者も含め、真にキリストの花嫁たらんとして神への真実と貞潔を守り抜く信者らの前で、肉による家庭を誇り、地上的豊かさを誇り、被造物に過ぎない生まれながらの人間との地上での束の間に過ぎない結びつきを、あたかも神聖な絆であるかのように誇り、生まれながらの不信者にキリストを見いだし、十字架抜きに、生まれながらの肉による家族愛を聖なるもののように高く掲げた人々は、ことごとく、聖書の御言葉から逸脱して、「異なる福音」に逸れて行った。

そのように、肉によって生まれた家族愛を高く掲げる思想は、すべて「広き門」であり、異端思想から来るものだと断言して構わないと筆者は考えている。
 
幾度も示して来た通り、キリストが再臨される前に、キリスト以外のものによって富んでしまい、地上での自分の贅沢な暮らしを誇り、キリストだけを待ち望むつつましい花嫁であるエクレシアの真実と貞潔を見下して嘲笑することこそ、バビロンの罪深い姿だからである。

「彼女が自分を誇り、好色にふけったと同じだけの苦しみと悲しみとを、彼女に与えなさい。彼女は心の中で『私は女王の座に着いている者であり、やもめではないから、悲しみを知らない。』と言うからです。
それゆえ一日のうちに、さまざまの災害、すなわち、死病、悲しみ、飢えが彼女を襲い、彼女は火で焼き尽くされます。彼女をさばく神である主は力の強い方だからです。」(黙示18:7-8)
 



他にも、類似の例はある。以前の記事に書いたように、「なぜ、聖書66巻だけが、神の霊感を受けた御言葉なんですか!」と、筆者を問い詰めた別の女性は、夫婦愛を誇っていたが、伴侶を差し置いて、若年の信者と毎日のように交わりを持つようになり、聖書外伝に没頭し、ついには上記のような問いを発して、明確に御言葉を否定するにまで至った。

このように、家族愛が、信仰生活の基礎であると説く人々の実態をよく観察してみれば、彼らの誇る家庭生活がいかに異常であるかが良く分かるであろう。そしてそこには大抵、霊的姦淫の問題がつきまとい、家庭や伴侶を高らかに誇っている割には、ただ一人の定められた伴侶以外の人々と不適切な心の結びつきがあったり、あるいは、大切なはずの子供たちを犠牲にしている様子が見えて来るのである。

こうして、自らの目に見える娘息子配偶者やらを誇り、「家々の教会」がエクレシアの基礎だと言い張る人々に限って、ほぼ例外なく、その家庭が崩壊に瀕しているという不思議な逆説的現象があるのだが、それはちょうど文鮮明の合同結婚式でできた家庭が不幸だらけなのとよく似ている。
 
弱肉強食の論理によって支配され、子供への搾取、子供の自殺など、弱い者が苦しめられ、病や、度重なる不幸な事故などが絶えず、配偶者との争いや、対立や、被害者意識から抜け出られない・・・そうした忌むべきものが溢れているのに、そのようなものが、信仰の基礎たりえるはずもないのは明らかである。

だから、惑わされてはいけない。いわゆる「クリスチャン・ホーム」なるものは、幻想に過ぎないのである。信者は、確かに自分の家庭を治めなければならず、家庭人の義務をきちんと果たすべきであるが、聖書は、信者の家庭こそが教会と信仰生活の基礎であるとは教えていないのである。

むしろ、聖書が教えているのは、信者が自ら築いた家庭も含め、神以外の地上の目に見えるものに心を寄せ、神以上に地上の宝を愛することは危険であるという事実である。
 
次回の記事では、さらに詳細に記す予定であるが、異端の教えとは、例外なく、神の国を目に見えるものとしてとらえ、地上天国を築こうとするものであるが、そうした異端の教えのほぼ全てが、地上天国を築くための土台が、家庭にあると説いているのである。

それは、国家神道しかり、統一教会しかり、ペンテコステ運動しかりである。

次回の記事では、国家神道がどれほど家族というものを重んじたかを振り返りたい。それは、この思想が、一大家族理想国家という地上天国を築くために、家庭が基礎単位となるとみなしていたからである。

統一教会もこれと同じように、合同結婚式を行ない、地上で信者の「聖家族」を増やすことにより、地上天国が到来すると教えた。聖霊派は、信者がクリスチャン・ホームを増やすことが、教会成長の勘所であり、それによってリバイバルが到来すると教える。

これらは全て信者の地上における肉なる家族の絆を「聖」として祭り上げ、信者の家庭を理想社会(地上天国)の基礎単位とみなす点で、根本的に同一の思想なのだと言える。さらに、そこに、ウォッチマン・ニーの教えを奉じる吉祥寺キリスト集会や、ローカルチャーチの「地方召会」の理念など、「家々の教会」をエクレシアの基礎とみなす人々の考えも加えられる。

しかし、どれだけこうした教えが、信者の家庭生活を聖なるもののように高らかに謳い上げても、聖書は、信者の肉なる家族がそのまま神の家族になるのではないとはっきり教えている。神の家族とは、御心を行う兄弟姉妹のことであり、信者の肉の家族を意味しない。家庭集会の増加によって主の再臨がもたらされるという考えも、聖書には見つけられない。

それにも関わらず、信者の肉なる絆に基づく家族がそのまま神の家族であるかのように教え、信者の家庭を教会・信仰生活の基礎単位とみなす思想はすべて異端思想に該当する。それは必ず、地上における信者の家々の教会を拠点とし、この拠点の増加がリバイバルに結びつくと教え、結局、地上天国を目指す点でみな基本構造は同じなのである。

<次回へ続く>