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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

新エルサレムまで続く長く細い道のりを、主が出会わせて下さった兄弟姉妹と共に辿りつつ

さて、証言を集め、協力者も集まって来ている。ここからが大詰めで、ドラマのような展開が進んで行く。

前にも書いたことだが、弁護士は当事者ではないため、当事者以上の証言を決して行うことができない。そこで、何が真実であるか、その是非を争いたい時には、当事者の証言こそ有効である。

キリストの御身体に命の供給が必要だいう言葉の重さを痛感するのは、こういう時だ。一人だけでもすべてに立ち向かうことは十分にできるが、やはり、仲間としての兄弟姉妹の協力を仰ぐことによって得られる利益も確かに存在する。それは地上の個人的な利益だけを指すのではなく、キリストの御身体に新鮮な命の供給がもたらされるという利益だ。
 
一人だけでも、もしキリストが内におられるなら、それは一人の証言ではない、と筆者は思うが、その上、兄弟姉妹の証言が得られば、その証言の強度は倍加する。

凶暴な狼によって、バラバラに引き裂かれた信徒たちが、再び一つにつなぎ合わされる。それが一つのからだとなり、真実を持って、虚偽に対抗して立ち上がる巨大な兵士の軍団のようになる。草の根的な、名もない小さな人々の集まりが、大きな力になって行くのだ。

今はまだ小さな流れだが、いずれ大河のように流れる時が来よう。

さて、以前には関東圏は終わりを迎えているため、よその土地に引っ越した方が良いという筆者の思いを記したが、それはあるいは、エリヤがイゼベルから逃げ出した時のような弱音だったのかも知れないし、あるいは、未来へつながっていく確実な望みなのかも知れない。今のところ、まだそうした問題には答えが出ていない。

どこになら住まいを構えてもよいだろうかと考えながら、土地を巡る中で、かつて筆者が地上で楽しく交わりを行ったあるクリスチャンの夫人のことを思い出した。その人の人生最後の時期に、筆者は彼女と親しく交わりを持つようになった。

それ以前から、互いに存在を知ってはいたが、彼女も、筆者も、ともに地上の団体を離れ、人間のリーダーを離れるまで、個人としての出会いは起きなかった。年齢は親子ほど離れていたが、良い交わりが持てた。多分、それまで様々な団体の指導者に気を取られていた頃には、せっかく出会っても、互いの価値が分からないまま、通り過ぎていたのだろう。

その人は祈りに祈って家を手に入れたとよく言っていた。家を建てる前から、図面を作り、案を練っていた。彼女は、念願かなって手に入れたというその家へ筆者を招いてくれて、雄大な景色を見せ、センスの良い家具や、配置を見せて、言った、「この家へあなたをお招きしたのは、誰でも、祈りさえすれば、こういう家が手に入ることをあなたに教えたかったからなのよ」と。

色々なところで会い、信仰の交わりをし、あかしをし、共に喜び、感謝した。それからごくわずかな間に彼女は天に召され、しばらくして彼女の夫も天に召され、その素晴らしい家は、誰も住む人がいなくなった。筆者が知らないうちに、いつの間にか、彼女の夫までも地上を去っていた。

筆者からみれば、その夫婦は、まるであたかも両親の代理のように、非常に親切にしてくれた。夫人が亡くなってから、二、三回、ご主人に会って、思い出話を聞いた。筆者の心には良い思い出しか残っていなかった。

しかし、筆者が見ていたのは、ほんのうわべだけの有様に過ぎない。夫人は生前、夫には信仰がないと嘆いており、家の屋上にのぼって泣きながら祈ることがよくあると語っていた。他人には決して打ち明けることのできない様々な悩み苦しみが、胸の内には色々あったのだろうと思われる。

しかし、一体、何を涙して祈らねばならなかったのか、いつも幸福そうな外見からは全く分からなかった。こちらから事情は何も尋ねなかったし、彼女の夫も、教養ある人たちの家庭では常にそうであるように、他者に対しては親切で気前良く、何一つ愚痴も悩みもこぼすことなく、夫人が嘆いていたような問題があることは全く分からないままであった。

筆者は、彼女が召されてからも、彼女と過ごした夢のようなひと時を幾度も心の中で思い出した。

それからずっと経って、筆者は、偶然に、この夫人の家のことを思い出した。最後に残っていた彼女の親族から、ついに夫人の家も、すっかり空っぽになって、売りに出されたという話を聞いて、心から寂しい気持ちになったことを思い出した。

筆者にとっては、いつまでも記憶の中で、色あせることのない、夢のような家である。もしも地上で最も天に近い、聖なる場所があるとすれば、それはきっとあの家に違いない、と思った。

そこで、ずっと前に削除したアドレス帳に記した住所を何とか記憶を辿って思い出し、探してみると、その家は何と買い手がないまま売りに出されているではないか。

この聖なる場所が人手に渡らなかったのはきっと奇跡に違いない、などと筆者は思って、そこを訪ねてみることにした。

だが、現実は容赦なかった。その家は、誰も住まなくなって久しいため、大規模な修繕が必要で、とてもではないが、誰から見ても、経済的な買い物と言える状態ではない。修繕で済めば良いが、すべてを造り変えるしかない可能性が極めて高い。

夫人が筆者をもてなしてくれ、みなで聖書を輪読した素敵な居間も、今は朽ちかけ、床はひび割れ、壁も傷み、テラスへ続く扉は、開けようにもシャッターや扉が開かなくなっていた。

それでも、ごくわずかな思い出の片鱗でも残っていないかと期待しながら、筆者は歩き回ってみたが、その家には、もう当時の生活の名残は、ごくわずかに天上に吊るされた照明と、家の中に数か所残されたインテリアのかけらくらいしかなかった。

その代わり、筆者は、客として招かれた頃には、決して案内されることのなかった家の隅々までも見ることができた。

そうして驚くべきことが分かった。その家には、筆者が客として招かれたときには、決して存在を知ることのない隠された空間があったのである。夫人が生前に、センスの良い高価な家具をたくさん飾り、実に良い雰囲気を醸し出していた居間のある上層階とは別に、一種の廃墟と言っても良い状態の下層階が存在したのである。

その下層階は、まさに廃墟と呼ぶべき状態であり、しかも、多分、そこが廃墟になったのは、家が空き家になって後のことではなく、夫人がまだ生きていた当時から、開かずの間として放置されていたのではないかと思われた。つまり、同じ家の中に、美しく改装された二階と、放置されて朽ち果てて行く一階とがあり、この二つが、基礎構造を通じてつながっていたのである。

筆者は非常に驚き、複雑な思いになった。これはまるで人間の心の中のようだという気がした。生まれながらの人の心の中には、誰にでも、こうして人には見せられない隠された奥の間がある。そこに、様々な嫌な思い出や悪意が封印されていたりする。

筆者が客としてこの家を訪れた時、夫人は、信仰によって与えられた非の打ち所のない家のように、この家を紹介しれくれたが、その時、夫人が筆者に見せてくれたあの夢のような空間は、最も良いごく一部である上層階に過ぎず、この家には、下へ下へと降りるに連れて、それとは全く異なるもう一つの顔があったのである。

しかし、あれほどセンスの良い綺麗好きで自分の家をとても愛していた夫人が、そのような状態で、率先して下層階を放置していたとは、およそ考えられず、多分、そうならざるを得なかったのは、そこには夫人が立ち入れなかったか、管理の及ばない何かの特別な事情があったためだろう、と考えられた。

同じ一続きの家ではあったが、そこは夫人が設計したわけでなく、管理したわけでもない、別人の空間だったと思われる。

そういう事情を見ても、きっとこの家の中には、外の人には決してあけっぴろげに見せることのできない何かの秘密が隠されていたのだろう、という気がしてならなかった。

多分、その秘密こそが、夫人が生前、幾度も涙しては屋上で祈らなければならなかったり、静かに祈るための空間を求めて、郊外へ移動したりしていた理由につながっていたのではないだろうか、などと筆者は思いを巡らしてみた。
 
だが、筆者はそれ以上、その事情について、知りたいとは思わなかった。どの家族にも、それなりの秘密がある。たとえば、筆者の目から見て、夢のように素晴らしい家庭に見える家でも、その家に生まれた子供たちの目から見れば、かなりの問題があると感じられるかも知れない。

人目には愛のある素晴らしい夫婦のように見える二人がいても、もしかすると、毎日のように、どちらか一方が泣いているかも知れない。あるいは、親たちは幸福そうに見えても、子供たちは苦しみ、悩んでいるかも知れない。

遠目に見るからこそ、何もかもがきれいに見えるだけのことである。すべての地上の家は、そういうものだ。筆者が愛していた夫人の家だからと言って、すべてが例外などということは決してないのだ。

だから、その家が、最も天に近い、地上で一番、祝福された、聖なる場所のように筆者に見えていたのは、あくまでその当時の筆者の主観によるものであり、同時に、夫人の主観によるものであり、また、同時に、単なる人間の主観にはとどまらない、信仰によってつながった姉妹たちが、主の御名の中で、ともに分かち合った喜びや賛美によるのである。

確かに、その時、私たちの霊の内で、何とも言えない理想的な空間が広がっていた。だが、だからと言って、その思い出を、まるで完全で聖なるもののように、極度に美化するわけには行かない。

地上のものが、エクレシアの永遠の構成要素の一つであるかのようにみなすわけにはいかない。どんなに素敵な家も、ありふれた家の一つでしかなく、理想や、完成からは遠い、不完全なこの世の朽ち行く物質から作り出されたものに過ぎず、その家も、どこの家もそうであるように、老朽化やその他の様々な問題に悩まされ、いずれは消えて行く脆くはかないものの一つでしかない。

仮にその家が、何の秘密も持たない理想的な空間であったとしても、それでもやはり地上の朽ちて行くものが、天の朽ちないものを形成するわけではない。

結局、真理と霊によって神を礼拝する場所は、あの山や、エルサレムではない。エクレシアは、思い出の中に存在しているのでもなければ、他人の素敵な家の中にあるわけでもない。

筆者にとってのエクレシアとは、常に筆者の内に住んで下さるキリストによって、筆者と共に存在している。このことを決して忘れるわけにいかない。あの時、筆者と夫人と、また別のもう一人の夫人が、共に三人で集まり、祈ったことにより、我々の霊の交わりの中に、確かにエクレシアが存在していたのであり、他方、夫人の素敵な家は、その交わりによって照らされ、聖別されていた地上の空間に過ぎない。

不思議なことに、目の前で、思い出深い場所が、残酷に朽ちて行く光景を見せられたというのに、しかも、そこには、筆者の知らない秘密まであったと分かったにも関わらず、筆者の記憶の中では、依然として、その家も、夫人の面影も、輝いたままに残っている。

おそらく、それがエクレシアの永遠の交わりが、確かにその時に生きて存在していたことによるのだろう。そこがどんな家であったかなど、全く問題ではないのだ。

エクレシアは、主の御名の中で集まる二、三人の中にある。だから、過去を振り返ることなく、真実な心で今、生きている兄弟姉妹と手を取り合って、前に進んで行こう。
 
人間は生きている限り、絶えず変化し、前に進んでいく。人は常に新しいものを求める。人間の作った技術が年々、進歩しており、年々、物質が古くなり、朽ちて行くのと同様、かつては最善に見えたものも、時代の変化により、廃れて行く。だから、思い出を振り返り、名残惜しむことによって、何かが取り戻せるということは絶対にない。過去を振り返る時でさえ、今の基準に立って、すべてを厳しく評価しなければならない。そして、地上に存在しているものは、どんなものであろうと、満点をつけられるものはない、と言い切らねばならない。

なぜなら、私たちが求めているものは、この地上に属するものではないからだ。
 
ところで、筆者は、開かずの間のない家を理想と考えている。古いものと新しいものを一緒に残すことはできない。古い基礎構造の上に、新しい部分をかぶせて、一部だけを新しくして、すべてが新しくなったように見せようとは思わない。そういう混合は決してあってはならないものだ。

開かずの間とは人の心でもある。エレミヤ書にあるように、どんなに人の心が陰険で、罪と悪に満ち、直りようがないほど悪かったとしても、その部分は、神の光によって照らされなければならない。そうして、照らされて、新しく造り変えられる必要がある。

そのためには、その部分をまず神に対して解放して、明け渡さなければならない。廃墟であろうが、どんな状態であろうが、構わないから、そういうものが自分の心の中にあることをまず認め、扉を開けて、主をその中にお招きせねばならない。客人をお招きするにふさわしくない空間であることは百も承知だが、だからと言って、それをないもののように、鍵をかけて閉ざしてはいけない。にも関わらず、それをそのままにして、古い基礎を残したまま、その上に上層階を建れば、その弊害は必ずしばらく経って現れて来る。そのような仕方で建てた家は、長くは持たない。筆者には、そういう気がした。
 
大胆な外科手術によって、取り除くべきものがすべて取り除かれた上で、すべてが新しくされねばならないのである。基礎構造から、すべてが新しくなければならない。そういう意味において、夫人が見せてくれた家は、天の故郷である新エルサレムまで続く道の途上にある、非常に魅力的な通過点の一つであったとはいえ、それがゴールでは決してなく、そこから天の故郷までには、まだまだ遠く、はるかな距離が残っており、その通過点は、どんなにその時には満足できるもののように見えたとしても、そこで立ち止まるべきではない、甚だ不完全で中途半端な地点でしかなかったのである。

だから、私たちは生きてキリストの十字架の死と復活をさらに知るべく、主のよみがえりの命によって刷新されるべく、後ろのものを忘れ、前に向かって進んで行く。その途上で、また新たに喜びに満ちた出会いや、有益な参考材料となる学びが現れて来るだろう。

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御霊に導かれて歩む(3)ゴルゴタとペンテコステ

もしわたしたちが力を受けて、キリストのために証しをし、サタンと戦うことを欲するなら、聖霊で満たされる経験を求めないわけには行きません。確かに、今日、聖霊の満たしを尋ね求める人は日ごとに多くなっています。しかし、彼らが聖霊で満たされることと霊的力を受けることを尋ね求める目的は、何のためでしょうか? 

どれだけ多くの人が、見せびらかすために力を尋ね求めているでしょうか? 自己の肉をさらに輝かしいものにするための人が、どれだけ多くいることでしょうか? 人々を自分の前に倒れさせ、尋ね求めて戦うための活力を彼らから奪ったりするような力を、受けることを望んでいる人が、どれだけ多くいることでしょうか?

わたしたちは、霊的力を受けることにおけるわたしたちの動機が何であるかを、はっきりと見なければなりません。もしわたしたちの動機が神にしたがっておらず、また神から出たものでないなら、わたしたちはそれを受けることはないでしょう神の聖霊は、人の『肉』の上にはとどまられません。彼のとどまられる所は、神が新しく創造された霊だけです。

これは、わたしたちが外なる人(肉)を生きさせておきながら、神にわたしたちの内なる人(霊)を聖霊の中でバプテスマしてくださるよう求めることではありません。もし肉が対処を経過していないなら、神の霊は人の霊の上に下られません。なぜなら、肉的な人に力を与えることは、彼を高ぶらせ、さらに肉的にさえさせるほか、何の結果も生じないからです。」(ウォッチマン・ニー著、『霊の人』、第二巻、p.49-50)

クリスチャンが御霊に導かれて生きる人となることは、神の御心にかなったことです。主イエスは、真理の御霊であり、助け主である聖霊が、いつまでもクリスチャンと共にいて下さることを約束してくださっています(ヨハネ一四・一六―一七)。クリスチャンは主を信じた時に、御霊によって新しく生まれており、御霊がすでにその人の内に宿っています。たとえそのような実感がなくとも、主を信じている人は自分が聖霊をすでに内にいただいていることを信じるべきです。

ですが、それにとどまらず、クリスチャンはさらに聖霊に満たされ、聖霊によって力づけられる必要があります。ペンテコステの日に、信徒たちが聖霊によって力づけられたように、私たちも聖霊の力を受けて強められ、また日々、神の命の力によって強められることができます。そうなる時に、信徒は、聖霊によって内なる霊を強められ、神の御心を深く知り、大胆に御言葉を宣言し、サタンに対抗し、御心を実際に実行する「霊の人」となり、御国のために有用な働き人となることができます。

聖霊は、「命を与える霊」(Ⅰコリント十五・四五)であり、クリスチャンはこの聖霊の命の力を経験することなしには、神のまことの命を実際に生きることは決してできません。聖霊は、まことの命そのものだからです。また、真理の御霊を通さなければ、信徒は御言葉の意味が何であるかを理解できず、神の御心が何であるかを適時に知ることはできません。聖霊の導きによらずには、信徒は御心にかなった祈りを一つも捧げることができません。聖霊が力を与える時だけに、信徒は臆することなく神の御心を実践する人へと変えられます。

しかしながら、私たちは、十字架の働きを抜きにして、聖霊の力だけを追い求めるようなことをしてはいけません。今日、御霊の満たしを受けるためには、まず信徒自身の肉が十字架で対処されていなければならないことを真に知っている人がどれほどいるでしょうか。御霊は、高慢で高ぶった肉的な人と共に働くことは決してできません。「なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは、肉に反するから」です(ガラテヤ五・十七)。ところが、今日、多くのクリスチャンが聖霊を求めている動機は、限りなく肉的であることが疑わしい場合が多いのです。

実に多くの人たちが、自己の栄光のために、自分の肉をさらに飾り立てるために、自分をさらに魅力的な人間にするために、聖霊を求めています。すでにあれやこれやの才能や、持ち物を持ち、自己を誇っている人が、さらに特殊な霊力で身を飾り、あるいは魅力的な自己を作り出そうとして、聖霊の満たしを願っている場合があります。しかし、そのような間違った動機から捧げられる願いが、神に聞き届けられることはありません。(「求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。」(ヤコブ四・三)

にも関わらず、十字架で肉が対処されていない人々が、何らかの超自然的な力を誇っている場合がありますが、私たちはこのような力の源を警戒せねばなりません。御霊は決して個人に名誉や成功をもたらすことを目的として働かれません。聖霊が人の肉を強めたり、人を高ぶらせたり、自己中心にしたり、高慢にさせたり、理性を失わせたり、無秩序状態に陥れたりする形で働かれることは決してありません。明らかに聖書は告げています。神の霊の他に、「この世の霊」(Ⅰコリント二・十二)があり、サタンとそれに従う邪悪なもろもろの霊たちが存在していると。

また、「聖書はわたしたちに告げていますが、聖なる注ぎ油のほかに、それに『似たような』(出三〇・三三、原文)注ぎ油があるのです。それは同じように調合されますが、聖なる注ぎ油ではありません。」(p.52)私たちは混合物としての霊があること、聖霊に似て非なる霊があることを知って、そのようなものを警戒し、ただ純粋に混じりけのない、神から来た聖霊を願い求めるべきです。

聖霊は必ず人を十字架へと導きます。聖霊は、主イエスが達成された十字架を、私たちが人生においてより深く経験するように導きます。

「人の再生の時、人の霊は神の命を受け、生かされるようになります。この働きを活発に達成するのは聖霊です。罪、義、裁きについて人を責めるのは、聖霊です。聖霊は人の心を備え、主イエスを救い主として信じるようにと願わせます。十字架の働きは、主イエスによって達成されます。しかしながら、これを罪人の上に、また罪人の心の中へと適用するのは、聖霊です。

わたしたちは、キリストの十字架と聖霊の働きとの関係を理解しなければなりません。十字架はすでにすべてのことを達成しましたが、聖霊はすでに達成されたことを人の中で達成するのです。十字架は人に地位を得させますが、聖霊は人にその経験を持たせるのです。十字架は神のために『事実』を成し遂げますが、聖霊は人にその経験を与えるのです。」(p.12)

聖霊は信徒が生涯、十字架のより深い働きを実際に経験するのを助けます。それによって信徒は、神の御前に、よりくだかれた、へりくだった魂となり、罪と分離し、肉の情と欲を捨て、自己の天然の命を否み、混じりけのない、純粋な、清い霊によって支配される人へと変えられていくでしょう。聖霊が肉なる人の上に注がれることはありません。ですから、聖霊の満たしを受け、聖霊によって力づけられたいと願う人は誰でも、まず、ゴルゴタを経て、自分自身の肉が主イエスと共に十字架につけられて、死に渡されるという経験を経ている必要があります。

「わたしたちは何度も言ってきましたが、十字架はペンテコステの前にやってきます。聖霊は、まだ十字架を経過していない男女には力を与えられません。ゴルゴタこそ、エルサレムの屋上の間へと至る唯一の道です。この模範に従う者だけが、聖霊の力を受ける可能性を持つのです。神の言葉は言います、『これは……聖なる注ぎ油であって、常の人の身にこれを注いではならない』(出三〇・三一―三二)

最も汚れた肉であろうと、最も教養のある肉であろうと、神の聖霊はその上に下ることはできません。十字架の釘跡がなければ、聖霊の注ぎ油はあり得ません。主イエスの死が、アダムにあるすべての人に対する神の判断です。すなわち、『すべてのものは死ななければならない』のです。

神は、主イエスが死なれるまで待たれました。その時はじめて、神は聖霊を遣わされました。同様に、もし信者が主イエスの死を経験することがなく、また旧創造に属するすべてのものに対して死んだことがないなら、彼は聖霊の力を見ることを望むことはできません。歴史上のペンテコステは、ゴルゴタの後にやってきました。霊的経験における聖霊の満たしもやはり、十字架を担った後にやってきます。」(p.50-51)


肉が十字架につけられるという経験は、決して、私たちの内にある、人の目から見て否定的で不愉快な性質だけが死に渡されなければならないということをさしているのではありません。たとえ人の目にどれほど善良に見える性質であろうとも、崇高に見える性質であろうとも、宗教的に見える性質であろうと、立派な知識、才能、美徳、人から賞賛される資質、魅力的な性格などであろうとも、それが肉から来たものであり、天然の命から来た性質であるならば、それは神の御前に全て死ななければならないのです。私たちの肉そのものが神の御前に死ななければならないのです。そのために、神は御子を十字架につけられました。この十字架の死を通して、信者の肉の古い命が死に渡されます。新しい命そのものである聖霊は、その死の後に初めて、復活の命として与えられ、信徒を内側から生かし、力づけ、立ち上がらせるのです。

「肉は神の前で永遠に罪定めされています。神はそれが死ぬことを望まれます。信者は、肉が死ぬのを望まず、反対に聖霊を受けて肉を飾り、肉にさらに多くの力を備えさせて、神のために働かせようとするかもしれません(もちろん、これは絶対的に不可能です)。このことすべてにおけるわたしたちの動機は何でしょうか? わたしたちの動機は、個人的な魅力、名声、人の歓迎、霊的な信者からの賞賛、成功、人に受け入れられること、自己を建て上げることでしょうか? 

清くない動機、すなわち『二心』の動機を持った者たちは、聖霊のバプテスマを受けることはできません。わたしたちは、自分の動機はとても清いと考えるかもしれません。しかし、わたしたちの大祭司は環境を通してわたしたちに、わたしたちの動機が真に清いかどうかを知らせてくださいます。わたしたちの現在の働きが完全に失敗し、人々がわたしたちの名を悪いものとみなし、わたしたちを軽んじ、拒絶する点にまで至らなければ、わたしたちの動機が完全に神のためであるかどうかを知ることは、とても困難でしょう。主によって真に用いられた人はすべて、この道を歩みました。いつであれ十字架がその働きを達成する時、その瞬間、わたしたちは聖霊の力を受けます。」(p.51)

私たちは自分の古き人が十字架で対処されることをさえ、自己の栄光や、人からの賞賛を受けるために求めるという過ちを犯すことがあります。周りにいる信者たちから、「霊的」であるとみなされたいばかりに、聖霊の力をさらに求めようとするという誤りを犯すことがあります。さらに、私たちは、可能な限り、楽をして、自分に痛みが少ない方法で、手っ取り早く、成長を遂げて、素晴らしい「霊の人」になれればよいと思っていないでしょうか? 霊的な人になりたいという私たちの動機は、一体、どこにあるでしょうか? 

神は私たちの動機が肉的でなく、純粋に御心に沿ったものとなるまで、ずっと環境を通して私たちを練られます。私たちの動機の中から自己目的が取り除かれ、私たちの動機が、神の願いと一致する時が来ない限り、神が私たちに聖霊の力を付与されることは決してないと思って差し支えないでしょう。私たちは覚悟する必要があります。神は私たちが、たゆみない成功の中で、賞賛の嵐の中で、人からの歓迎や注目の中で、快感と享楽の中で、順風満帆で何不自由のない生活の中で、聖霊の力をますます増し与えられ、力づけられて、大胆に進んでいくようなことはまずなさいません(それではあまりにも私たちを高慢にさせるだけに終わることは目に見えています)。

むしろ、それどころか、聖霊の力が与えられる前に私たちが経ていなければならない十字架は、私たちにとって極めて不快かつ、負いたくないような、痛みの伴うものであるかもしれません。神は、私たちの働きがことごとく失敗に終わり、私たちが人から見捨てられ、悪しざまに言われ、軽んじられ、誤解され、疎んじられ、拒絶され、敗者としての烙印を押され、「霊的なクリスチャン」として賞賛を浴びるどころか、クリスチャンの風上にも置けない人間との評価を受けて、孤独の内に、たった一人、見捨てられて、魂が微塵に打ち砕かれるような経験をまずお求めになるかも知れません。たとえそうなったとしても、私たちはただ神のみをまっすぐ見上げて、自分の肉と魂の欲求のすべてを脇において、それを捨てて、その願いに死んで、まず、御心だけを第一に求めることができるでしょうか? 自分自身が完全に絶望であるとの認識に立ち、見える評価の一切を拒み、ただキリストだけを見上げて、自分の栄光のためでなく、神の栄光のためだけに、聖霊によって力づけて、立ち上がらせて下さいと求めることができるでしょうか?

どうか、大祭司なる主イエスが、私たちの隠れた動機を明らかにして下さいますように。私たちの願いを御心に沿ったものへと練り清めて下さいますように。

御霊に導かれて歩む(2)十字架と聖霊

「再生された信者は、霊が生かされ、聖霊が彼に内住していますが、依然として肉的な信者のままであり、霊が魂や体によってなおも抑圧されていることがあり得ます。再生された信者が、霊的になるのに成功するために特別に歩まなければならない道が、一つあります。

 簡単に言えば、一人の人には、彼の命において少なくとも二つの大きな変化があります。すなわち、滅びゆく罪人から救われた信者に変わることと、肉的な信者から霊的な信者に変わることです。ちょうど罪人が実際において信者となることができるのと同じように、肉的な信者も実際において霊的な信者となることができます。神は罪人を信者とならせ、ご自身の命を持たせることができます。神はまた、肉的な信者を霊的な信者とならせ、ご自身の命をもっと満ちあふれるほどまでに持たせることができます。<…>

 聖霊だけが、信者を霊的にすることができます。聖霊の働きは、人を霊的にすることです。神の贖いの方法の按配において、消極面では、十字架は破壊する働きを遂行し、アダムからのものすべてを滅ぼします聖霊は、積極面において、建設的な働きを遂行し、キリストからのものすべてを建て上げます

信者が霊的になることを可能にするのは十字架であり、信者を霊的にするのは聖霊です。霊的であることは、聖霊に属することを意味します。聖霊が人の霊を強めるのは、聖霊がその人全体を治めるようになるためです。ですから、もしわたしたちが霊的になることを追い求めるなら、わたしたちは聖霊を忘れるべきでなく、また十字架を脇へ置くべきでもありません。なぜなら、十字架と聖霊は、左右の手として働くからです。そのどちらも欠くことはできませんし、またこれら両者のどちらも単独で働きをすることはできません十字架は常に人を聖霊へと導き、聖霊は常に人を十字架へと導きます。霊的な信者は、自分の霊の中で聖霊と共にある経験を持たなければなりません。」(ウォッチマン・ニー著、『霊の人』、第二巻、p.24-25)


 この箇所を読んでいて、かねてよりの疑問が私の中で解けました。十字架は人の内のアダムからの命(旧創造)を滅ぼす働きをし、聖霊は人の内にキリストを建て上げる働きをします。十字架と聖霊は共に切り離すことができないものであり、どちらかのみが単独で働くことは決してあり得ません。ところが、今日、広まっている誤った教えの中では、多くの場合、この二つが全く切り離されています。健全な教えから外れてしまった教会では、信者たちは、十字架と聖霊とを全く別個のものに分けてしまい、これらが互いに無関係に、あたかも単独で働くことができるかのようにみなしているところに、重大な危険性があります。私たちも、もしも十字架と聖霊との関わりを見落とすならば、簡単に誤った教えに落ちてしまうでしょう。

 たとえば、信者が聖霊を抜きにして、十字架の破壊する働きだけに注目し、そのことばかり重視し始めると、それは信者に病的な破壊作用をもたらします。信者はどれくらい十字架を通して自分の自己が死んでいるかと自分をつぶさに振り返って、自己分析にふけったり、自己批判、他者批判に熱中したり、あるいは、自己を早く処分しようと自己破壊に熱中して、ついには精神に破綻をきたすことさえあり得ます。信仰の教師たちが、幼子のような信者に向かって、「神のためにあなたの自己を十字架上で早く捨てよ!」と、求めるようなことがあれば、それは信者に対するマインドコントロールとなり、それに基づいて支配や強制が生み出され、教会はカルト化し、信者は精神崩壊へと導かれるでしょう。

 私たちは、聖霊を抜きにしてやって来る偽りの「十字架」を拒否せねばなりません。御霊は、必ず、人の最も奥深いところから、その人自身の自主性を尊重する形で働かれます。ですから、御霊によって人が十字架へと導かれる時、十字架は確かにその人の内側で、古き人を壊すという意味では破壊的な働きをしますが、しかしそれによって、その人自身が自己崩壊に至ったりすることは決してありません。むしろ、十字架の働きが進めば進むほど、ますますその人自身は命に溢れ、調和の取れた人間へと変わっていくでしょう。それは御霊が新しい真の命としてその人の内側で建て上げる働きをするからです。

 ところが、御霊によらない、外側からの圧力としてやって来る偽りの「十字架」は、人の自主性を簡単に侵害し、人格を押しつぶすことができます。サタンはこうして、十字架の概念を悪用することによって、御霊によらない十字架を作り出して信者を惑わせ、外側から信者にマインドコントロールをかけ、破壊的な作用を及ぼすことができます。そこには聖霊がないので、信者の人格が(十字架を名目に)ただひたすら壊されていくだけで、新しい命を建て上げる働きは全くありません。もしも、その偽りを見抜けずに、そのような破壊的な作用に従うならば、最後には、信者は精神に破綻をきたすでしょう。私たちはこのような聖霊によらない十字架を警戒しなければなりません。

 さらに、十字架と無関係にやって来る偽りの「聖霊」というものも、私たちは警戒しなければなりません。今日、聖霊の名を語りながら、超自然現象へと信者を熱中させ、信者を恍惚状態や熱狂的陶酔に陥れたりして、それによって信者の人格と生活に破壊的作用を及ぼしている誤った教えがありますが、そこには、十字架が全くありません。十字架は常に人をへりくだらせ、私たちの天然の命を対処しますが、十字架と無関係に働く霊は、人を高慢にさせ、天然の命をさらに(異常に)増長させる効果を及ぼします。

 このような欺きに惑わされないために、十字架と聖霊とは左右の手のように切り離せないものであることを、私たちはしっかり覚えておく必要があります。

 さて、本題に戻りましょう。私たちはクリスチャンになった後も、ほとんど御霊の導きを内側で感じたことがないほどにまで、肉的・魂的な信者である場合が多いものです。どのようにして、私たちはそのような状態から抜け出し、御霊の導きを聞き分ける信徒となることができるのでしょうか。

「聖霊は信者の中におられますが、信者はそれを知らないか、あるいは聖霊に服従しないかのどちらかです。ですから、彼は自分に内住しておられる聖霊を知り、完全に聖霊に服従しなければなりません。

信者は、神の聖霊が一人のパースンであり、信者に内住し、教え、導き、キリストにある『実際』と真理を信者に与えることを、知らなければなりません。聖霊のこの働きは、信者が、自分の魂がいかに無知で鈍いかを認め、自分は愚かであっても喜んで教えを受けたいと決心してはじめてなされ得るのです。信者は、聖霊にすべてを支配していただき、真理を啓示していただくよう願わなければなりません。

信者が、神の聖霊は自分の存在の最も深い部分に、すなわち自分の霊の中に住んでいることを知り、彼の教えを待つ時、聖霊は働きをすることができます。わたしたちが自分では何も追い求めることをせず、完全に教えを受けることを願う時、聖霊はわたしたちに真理を、わたしたちの思いが消化できる方法で教えることができます。さもなければ、危険性が生じます。

わたしたちが、自分の内側には霊、すなわち神の至聖所があり、それは思いや感情よりも深いものであり、聖霊と交わることのできるものであることを知り、そこにおいて神の聖霊を待つ時、わたしたちは聖霊が真にわたしたちに内住しておられることを知ります。わたしたちが彼を告白し、彼を尊ぶ時、彼はご自身の力と働きを、わたしたちの内側の隠された所から現し、わたしたちの魂と知覚の命に彼の命を得させます。」(p.32-33)

 このことからも分かるのは、まず、信徒はクリスチャンとなった時からすでに自分の内なる霊の中に一人のパースンであられる聖霊をいただいていること(クリスチャンになった後に聖霊が与えられるのではないこと)、また、聖霊は、決して私たちの意志に反して、私たちの自主性をないがしろにするような働き方をしないこと(強制したり、脅かしたり、圧迫したりしないこと)、また、御霊は、私たちの知識や思いや感情の受けいれられる限度を超えて、私たちが自分をコントロールできなくなるような形では働かれないこと、御霊は私たちの限界を考慮して下さり、私たちの内で秩序を守ってくれること、決して、私たちの精神や肉体に破壊的作用を及ぼすような形では働かれないことです。

 聖霊は私たちの自主性を尊重して、私たち自身が信仰を働かせて、御霊に従って生きることを自ら選び取るのを待っています。もしも私たちが、聖霊に教えを受けたいと願わなければ、聖霊は私たちに教えることはありません。もしも私たちが聖霊に支配していたきたいと願わないならば、私たちは御霊によって支配されることは決してありません。そして聖霊は、外からの刺激や圧迫を通じて私たちに働くのではなく、また、外から私たちに何らかの賜物として分け与えられるのでもなく、私たちが内におられる聖霊を信じて待つ時、御霊は、私たちの内側の最も奥深くから、新しい命そのものとして、命の力として、現れ出るのです。私たちの古き人を砕くための十字架は、日々外的環境を通して整えられることはあるでしょうが、たとえそのような最中にあっても、御霊の命そのものは、必ず、私たちの最も奥深い内側から(私たち自身の霊を通じて)現れ出るのです。
<つづく>

十字架に戻れ!(5)

再び補足:十字架の間違った取り扱い方について

最近、気づかされたことがあります。それは、十字架の概念が度々、交わりの中で、誤用されている現実があるということでした。この危険性は、私たちが気づかないうちに忍び寄って来ます。たとえば、人が人に身勝手な要求を突きつけ、思い通りにならない人を責めたり、あるいは、厄介払いするための根拠として、「十字架」が使われている場合があり、それが意識もせずに行われ、キリストの御身体に損傷をもたらしている場合があります。

日々の十字架は、人が上からの光に照らされて、自主的に選び、負うべきものであって、いかなる理由があろうとも、人が人にそれを当然のごとく負わせるべきではありません。たとえば、私たちがある人に向かって、「あなたのその汚れた思いや感情という、古い自己を、さっさと十字架につけて下さい!」と命令するのは正しいことでしょうか。間違っています。

あるいは、仮に私たちが耐えられないほど嫌な人間に出会ったとしましょう。それでも、「あなたのその古い人を早く十字架で対処してください! 私があなたとつきあうのはそれからです」と、相手に求めてよいでしょうか。いいえ。私たちには、正直に、自分の思いを相手に告げて、つきあいが困難である人から離れ去ることは許されるでしょう。しかし、自分の嫌悪感を正当化する根拠として、御言葉を利用し、「その人の古き人が十字架で対処されていない」問題を持ち出すのは間違っています。

十字架がある人の人生において、どの程度、具体的経験として理解されているかは、人によって違いがあります。クリスチャンは、日々、十字架をより深く理解し、経験することをすすんで追い求めるべきです。いつまでも信仰の幼子のようであって良いと考えるのは間違っているでしょう。ですが、だからといって、そのことが他人への当然の要求や、強制となってはいけません。

私たちは、ある人が、まだ経験したことのない十字架の深い意義を、無理にでも、その人に経験させようと強いるべきではありませんし、また、その経験のなさを、非難したりすべきでもありません。

また、人が人に何かの負担を強いることの口実として、「自己を捨てる」よう要求したり、「十字架で自己を死に渡す」よう求めたりしてはなりません。それは十字架の概念の悪用です。人が自分の愛の足りなさ、寛容のなさ、利己主義を覆い隠すための口実として、他人にとって不利な負担を「十字架」としてすすんで耐え忍ぶよう要求したりしてはいけません。人から要求される「十字架」(多くの場合、圧迫や非難としてやって来る)には、常に注意が必要です。それは実に多くの場合、十字架の誤った取り扱い方に基づいているからです。

主は「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われました(マタイ11:30)。また、「…日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(ルカ9:23)とも、言われました。神は常に人の自由意志を尊重して働かれます。私たちが強制されてではなく、自分の意志で、神が望まれる日々の十字架を選び取ることを、主は願っておられます。御霊は常に人の決定を待っていてくださり、人の意志を無視して働かれません。ですから、私たちは、御霊でないものから、十字架を強制的に負わされる必要はありませんし、十字架を理由に人から支配されたりしてはなりません。私たちはただ主から十字架を受け取れば良いのであって、人からそれを強制される必要は全くありません。

人が人に十字架を無理にでも負わせようとすることは、人が神に代わろうとする越権行為です。人が御霊の働きを越えて、他人に対して、「古き人が死ぬこと」や、「自分の命を捨てること」や、「十字架を負うこと」を求めるべきではありません。十字架はあくまで人の完全な自主性に基づいて選び取られなければなりません。また、人が十字架をすすんで負うためには、まず、その人の内側で、上からの聖霊による照らしと導きがなければなりません。人は御霊によって、日々、キリストの十字架へと導かれるのでなければなりません。もしそうでなければ、十字架の意味は全くありません。私たちは十字架について人に語り、勧めることは許されるでしょう。けれども、その人自身がまだ主から示されていない問題を、まるで当然のごとく、理解するよう人に要求してはいけません。また、苦手な人を排除する理由として十字架や古き人の問題を持ち出してはなりません。もしも、人の自主性を無視して、人から人への強制として押し付けられる十字架があるならば、それはたやすくカルトへと結びつくでしょう。

信仰暦の長さに関係なく、私たちは、御霊の働きを妨げるそのような越権行為を他人に対して気づかずにしてしまう場合があります。ある時は、私たちは、高慢ゆえに、主より先走って、人に犠牲を求めていながら、それを「十字架」という言葉で正当化している場合があるかも知れません。または、自分では気づかずに、自分に有利な状況を作り出すために、他人に「十字架」を課そうとしている場合があるかも知れません。私たち人間には、そのようにして十字架の概念を利己的に歪め、他人を支配する口実として用いる危険性が十分にあることをいつも覚えておく必要があります。そのような危険性の中に、気づかずに足を踏み入れてはいないか、自分を振り返る必要があります。

私たちは、決して、主の働きを越えてまで、その人の自主性を侵害してまで、あるいは、御言葉の本来の意図を外れてまで、自分勝手な理由で、人に十字架を強制することがないよう常に気をつけるべきです。十字架は、キリストが私たちに与えて下さった最も尊い御業です。十字架は、キリストの命の最高の表現であり、私たちに与えられている最大の恵みです。それは神と人との和解の場であり、人と人との和解の場でもあります。私たちを新しい人としてくれる唯一の通路が、十字架です。にも関わらず、尊い十字架を、私たちが互いに裁き合ったり、責め合ったり、排除し合ったり、利己主義をかなえたりする道具として使うことがないように、常に気をつけていなければなりません。

十字架に戻れ!(4)

主にあって強くなりなさい!

 肉には色々な性質があります。必ずしも否定的に見える性質だけではありません。すでに語ってきたように、肉には長所もあり、善を行う能力もあります。しかし、いずれにせよ、御言葉は、私たちの肉そのもの、さらに、肉や魂を支配している、生まれながらの古い命そのものが、堕落・腐敗した、罪なる性質を帯びたものであり、神の御前に、呪われた厭うべきものであることを示しています。肉にある者は神を喜ばせることはできません! 私たちが持っている生まれながらの命、古き人は、神の御前に永久に呪われ、廃棄されねばならないのです。

 人の生まれながらの魂は、自己を喜ばせ、自己に栄光を帰するために活動しようとします。私たちの魂は常に「自己」を中心として活動します。魂のそのような利己的で邪悪な性質も、古い人に属するものであり、私たちが御霊に従って歩むことを絶えず妨げます。
 「魂は、見られ、知られ、聞かれることを望む自分の中の『わたし』という自己愛、高慢の場所です。また、実際は『わたしは他の者のようではないことを神に感謝します』と言っている、宗教的高慢さに満ちた所でもあります。この宗教的高慢さは、最も霊的な魂の中にも忍び寄り、汚してしまいます。」(ウォッチマン・ニー全集第一巻、付録1、チャールズ・アシャー、p.248)

 私たちの肉と魂を支配するこの古い命の邪悪な性質を対処することができるのは、カルバリだけです。
 主イエスの御血の清めは、私たちを罪の汚れから清めますが、十字架は、私たちの古い命の邪悪な性質そのものを対処します。チャールズ・アシャーは言います、「わたしたちの邪悪な性質を対処するのは、血の清めではなく、十字架です。『わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた』(ローマ六・六)。『キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を……十字架につけてしまったのである』(ガラテヤ五・二四)。」(同上)

 カルバリの十字架において、主イエスはご自身の肉に私たちの肉を含められ、それらを全てはりつけにされました。信じる者にとって、十字架は、私たちの古き人―罪の肉が最も恥辱をこうむった形で永遠にさらしものとされている場所です。そこでは、私たちの古き人が、キリストと共に、死刑宣告を受け、刑罰に処され、殺されました。私たちの古い命は、カルバリで死に渡されました。サタンの思うままに支配されていた肉は、もはや死んだので、効力を失いました。これは霊的な事実です。私たちがこの霊的な事実を信仰によって日々、自分のものとして受け取る時、キリストの死と復活の力が私たちの内で実際となるのです。

 パウロは、コロサイ人への手紙第二章十四、十五節でこう言います、「神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。」

 イエスは十字架に向かわれるよりも前に、こう言われました、「…ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」(ヨハネ三・十四、十五)
 モーセが荒野で青銅の蛇を掲げ、それを見た民が、蛇の毒から救われて生き延びた(民数記二一・九)ことは、このカルバリの予表でした。今日、御子の十字架を信じる者は、蛇(サタン)の死の毒から救われて、もはや罪に汚されることのない、清く、新しい、神の霊なる命によって生きるのです。

 御子が十字架につけられた瞬間は、サタンにとって、あたかも、勝利の瞬間のように思われたでしょう、それはあたかも神の敗北であるかのように見えたでしょう。しかし、主を誉めたたえます、御子はサタンによってもたらされた死を通して、逆説的に、サタンに勝利されたのです。主イエスは「死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし」(ヘブル二・十四)たのです。

 主イエスは蛇(サタン)によって堕落させられた人類の罪を贖うために、十字架に上げられました。主イエスはそこで死なれましたが、カルバリで実際に滅ぼされたのは、蛇(サタン)でした。主イエスは肉体においては、全人類の身代わりに罪に定められて一度、死なれましたが、彼の内にある神の命は、彼の人としての死によっては何の損傷も受けることなく、よみがえりの命として、主を三日目に復活させたのです。それによって、主は蛇が人にもたらすことのできる最大の破壊である死に打ち勝ちました。そして、十字架を通して、主は、ご自身だけでなく、御子を信じる全ての人が、蛇に毒されることのない、神の新しい命によって生きる道を、キリストのご性質によって形作られる新しい人として生きる道を開かれました。カルバリは、主の死によって、蛇自身が滅ぼされる場所となったのです。

「創造主はその御子のパースンにおいて、全世界の罪をご自身の上に担い<…>、血と肉にあずかり、堕落した種族へと結合されるという束縛を受けられ、その神聖な性質において、あの堕落したアダムの命を十字架へともたらし、避けることのできない当然支払うべきものでもあり、またその結果でもある死の刑罰をそこで受けられました。それは、彼がその堕落した被造物のために、神へと立ち返る道を切り開き、彼の性質と実質そのものから建造され、形づくられた新しい種族のかしらとなるためです。」(付録5、ジェシー・ペン-ルイス、「十字架は蛇を滅ぼす」、p.297)

 十字架は堕落したアダムに属する人類の古い命が、神の刑罰を受けて死に渡される場所です。そしてまたカルバリは、堕落した古い種族が死んで、その代わりに、神の命と性質にあずかる新しい種族が生まれる場所でもあります。このカルバリに立ち、主の死に自分の死を同一化し、私たちの罪なる肉がすでにキリストと共に死刑に処せられた事実を、信仰によって受け取ることを通して、私たちは初めて、それまで自分を支配してきた罪の肉による支配から解放され、サタンによって支配されることのない、復活の新しい命によって生かされるのです。

 私たちの堕落した肉、魂、古き人は、これまで、邪悪な暗闇の勢力のもろもろの支配と権威に服し、邪悪な勢力によって思うがままに占有されてきました。わたしたちの内の古き人は、常に、サタンとその邪悪な霊たちを強めるための武具となり、彼らの家財道具となってきました。しかし、主イエスはカルバリで彼らに打ち勝たれ、強い人であるサタンを縛り上げ、サタンの武具とされて来た私たちの罪の肉を、ご自身からはぎとって、逆に、永久にさらしものとされたのです。こうして、サタンの支配と権威は、私たちから解除され、カルバリで主と共に私たちも凱旋し、サタンと邪悪な霊たちの支配と権威は永久に打ち負かされ、恥辱をこうむったのです。

「これが、その神聖な目的における十字架の意味であり、堕落した人がこの世、肉、悪魔に打ち勝つ勝利の道です。これが、堕落、すなわちサタンの霊によって占有された堕落した肉の意味です。これが、サタンに対する、また罪に対するカルバリの答えです。堕落した被造物が十字架につけられたのは、すべての人が古い種族から離れ去るという選択を持ち、最初のアダムという共通のかしらから離れ去り、『キリストにあって』再び新創造を始めるためです。」(同上、p.297-298)

 私たちは、自分は長い間、罪に支配されてきたので、そこから抜け出すのはあまりにも困難である、と言うかも知れません。私はあまりにも弱く、罪や誘惑に打ち勝つ力が少しもない、と言うかも知れません。しかし、私たちは決して、自分自身の弱さを見つめて絶望してはなりません。私たちがどんなに弱く、未熟であり、信仰生活において勝利した経験が少なくとも、カルバリには神の勝利の命があります。私たちは絶えず、十字架を通して、自分がすでに暗闇の支配から新しい命へと移し出されたことを信じる必要があります、そして、御子が十字架で達成された事実に基づき、古い命ではなく、新しい命である聖霊によって支配されて生きることを、大胆に神に願いもとめる権利があります。十字架は私たちをアダムの種族から連れ出し、新創造へ入らせる道をすでに開いてくれているのです。私たちは道であられるイエスを通って、キリストの新しい命を生きなければなりません。そのことによって、私たちは暗闇の勢力に実際に勝利し、キリストの支配をこの地にもたらす人となるのです。

「キリストにある信者と、やみの力に関する神の目的は何でしょうか? これを見るために、わたしたちはカルバリにおけるキリストの働きへと目を向け、カルバリの勝利を理解しなければなりません。カルバリの十字架において、彼はご自身から邪悪な支配と権威とをかなぐり捨てて、彼らをさらしものとされました。

キリストの死において彼と同一化された魂は、彼と共に、また彼にあって、『やみの王国』から昇天された主の『統治する命』の中へと移されています。カルバリの勝利を通して、あなたは神の目的にあってやみの王国から移し出され、その領域の中を歩かず、その視点、尺度、方法、邪悪さを受け入れないのです。

 しかし、これが実際の経験となる前に、あなたはまず、あなたに対する神の全き目的と、彼があなたをやみの力から移し出してくださったことを理解する必要があります。それは、やみの君がもうあなたに要求したりせず、あなたに対する権利も持たないようになるためです。というのは、神はその統治する命にあって、『(わたしたちをキリストと共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さった』からです。

たとえどれほどあなたがその経験に不足していようとも、あなたは自分に対する神の目的を決して引き下げずに、常に彼の意図を見つめ続け、彼が目的としておられる命へと、あなたを導いてくださるよう彼に求めなければならないことを覚えてください。あなたの立場は、『やみの力から移し出されている』というものです。

それでは、どれだけあなたは自分自身の中で、また自分の生活の中で、実際的に敵を縛っているでしょうか? <…>あなたの願いは、『やみの力から、その愛する御子の支配下に移され』、『キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さった』という神のみこころと同じでしょうか?(コロサイ一・十三―筆者註)」(付録6、ジェシー・ペン-ルイス、「やみの力から移し出される」、p.300-301)

 ジェシー・ペン-ルイスによれば、クリスチャンは三つの側面で勝利を得なければなりません。一つ目は、罪に対する勝利であり、すでに再三、語ってきたように、私たちが肉や魂の古い人に対して打ち勝つことです。ローマ人への手紙第六章は、十字架によって、私たちが「罪に対して死んだ者である」ことを認めるように教えています。第二の面は、たとえ私たちがキリストの御名のために人々に誤解され、そしられ、迫害され、罪に定められるようなことがあったとしても、その苦難を最後まで耐え忍ぶことによって勝利を得ること、あらゆる苦難に「勝ち得て余りがある」(ローマ八・三七)ようになることです。第三の面は、「悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、彼はあなたから逃げ去るであろう。」(ヤコブ三・七)、キリストの御名によって悪魔に堅く抵抗する(Ⅰペテロ五・九)ことです。

 時々、これらの三つの面は互いに関連し合ってやって来ることもあるようです。たとえば、サタンの圧迫は、しばしば、身近な人々を通して私たちにもたらされます。身近な人々が、私たちに、信仰から逸れるように要求したり、圧力をかけたりすることがあります。それらの要求は、私たちが御霊ではなく、再び、肉に従って歩むようにという内容であるかも知れません。さらに、もしも私たちが彼らの助言や要求を拒否するならば、多くの人たちから非難されるかも知れない状況があるかも知れません。そんな時、私たちはこの全てに立ち向かって勝利せねばなりません。肉に従って歩むことは拒否せねばなりません。しかし、人々に対しては、小羊のようであらねばなりません。たとえ人から誤解され、そしられ、不当な苦しみを受けても、それらを耐え忍び、人を脅かさず、悪をもって悪に報いてはなりません(Ⅰペテロ三・九)。しかし、サタンの要求そのものに対しては、毅然と立ち向かって、それを積極的に拒まなければなりません。

 クリスチャンには火のように試練が降りかかることが御言葉によって予告されていますが(Ⅰペテロ四・十二)、これらの試練に打ち勝つことは、自分自身の力によっては到底、不可能です。私たちはただ「しし―小羊」であるキリストの命によって強くならなければなりません。試みを受けた時、私たちの内にキリストの霊が見いだされるのでなければなりません。

エペソ人への手紙第六章は、敵に抵抗することにおける、勝利の生活のこの最後の面を描写しています。主イエスは人に対して『小羊』であると共に、悪魔に対しては『しし』でした。彼はもろもろの支配と権威との武装を解除し、彼らをさらしものとされました。そして、人の目には敗北であったことが、神の目には勝利となったのです。人の目には『恥』であったことが、神の目には勝利であったのです。サタンとその邪悪な軍勢すべてに対しては、キリストはしし、すなわち、ユダ族のししでした。

 エペソ人への手紙第六章でわたしたちは、やみの力に対する何か霊的な戦い、ししの命を見ます。ここでわたしたちは、兵士の霊を持った兵士を見ます。『こういうわけで、強くなりなさい』。人の側では、キリストは『弱さのゆえに十字架につけられた』(Ⅱコリント十三・四―筆者註)のでした。しかし、彼は『強く』、『強い人』よりももっと強いのでした。彼の名は『強い』です。『もっと強い者が襲ってきて』(ルカ十一・二二―筆者註)。ですから、キリストの名は『もっと強い者』です。彼は『強い人』よりもっと強いのです。

ですから、『キリストの中に』立ち、サタンへと立ち向かう信者に対するメッセージの言葉は、『強くなりなさい』です。もはやあなたは、『弱さ』について語ってはなりません。あなたは人性と自分自身においては弱いかもしれません。しかしあなたは『主にあって強く』ならなければなりません。」(付録4、ジェシー・ペン-ルイス、「勝ち得て余りがある」、p.291)

 クリスチャンはたとえどのように信仰の幼い者であっても、すでに主を信じた時から、サタンとの荒れ狂う霊的な戦いへと一歩を踏み出しています。その戦いにおいて、いつまでも自分の弱さばかりを見つめている未熟な新兵であってはなりません。私たちは主にあって、強くされる方法を学ばなければなりません。

「最後に言う、主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。」(エペソ六・十、十一)

「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネ十六・三三)

<つづく>