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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

急いで出る必要はない 逃げ去ることもない。あなたたちの先を進むのは主であり しんがりを守るのもイスラエルの神だから。 

「奮い立て、奮い立て
 力をまとえ シオンよ。
 輝く衣をまとえ、聖なる都、エルサレムよ。
 
 無割礼の汚れた者が
 あなたの中に攻め込むことは再び起こらない。
 立ち上がって塵を払え、捕われのエルサレム。
 首の縄目を解け、捕われの娘シオンよ。

 主はこう言われる。
「ただ同然で売られたあなたたちは
 銀によらずに買い戻される」と。

 主なる神はこう言われる。
 初め、わたしの民はエジプトに下り、そこに宿った。
 また、アッシリア人は故なくこの民を搾取した。
 そして今、ここで起こっていることは何か、
 と主は言われる。

 わたしの民はただ同然で奪い去られ、
 支配者たちはわめき、
 わたしの名は常に、そして絶え間なく侮られている、
 と主は言われる。
 それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るであろう。
 それゆえその日には、わたしが神であることを、
 「見よ、ここにいる」と言う者であることを知るようになる。

 いかに美しいことか
 山々を行き巡り、
 良い知らせを伝え
 救いを告げ
 あなたの神は王となられた、と
 シオンに向かって呼ばわる。
 その声に、あなたの見張りは声をあげ
 皆共に、喜び歌う。
 彼らは目の当たりに見る
 主がシオンに変えられるのを。
 
 歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ。
 主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。
 主は聖なる味腕の力を
 国々の民の目にあらわれにされた。
 地の果てまで、すべての人が
 わたしたちの神の救いを仰ぐ。

 立ち去れ、立ち去れ、そこを出よ
 汚れたものに触れるな。
 その中から出て、身を清めよ
 主の祭具を担う者よ。
 しかし、急いで出る必要はない
 逃げ去ることもない。
 あなたたちの先を進むのは主であり
 しんがりを守るのもイスラエルの神だから。
(イザヤ書第52章)

* * *

ハーバービジネスオンラインの離婚のエキスパート弁護士によるモラハラ夫特集が面白い。

 弁護士・大貫憲介の「モラ夫バスターな日々」

これを読みつつ、筆者は、就職と結婚は似ているように感じた。何が似ているって、悪い職場は、モラハラ夫が妻を威嚇し、恐怖によって支配しようとする夫婦関係にそっくりな点だ。

前にも書いた通り、悪い職場は、悪い家庭とよく似ており、たとえるならば、おとぎ話の「青髭」の支配する家のようだ。青髭は、それまで数えきれない数の「妻」(=労働者)を娶っては、ひそかに首を切り、あろうことか、自らの城の地下室に、殺害した妻たちの骨をためこんでいる。さらに、貧しさにつけ入って、数えきれない娘たちを「愛人」として囲っては、さんざん泣かせて来た。

だが、初めてお見合いする無知な娘にそんなことが分かるはずもない。不誠実な男ほど饒舌で甘言を弄するのがうまく、まんまと騙されて娶られた娘は、しばらくの間は、青髭と「蜜月」を過ごすが、ラブシャワーの後で、青髭は残酷な本性を現す。

モラ夫の支配する「家」と、社員を搾取するブラック企業は根底で一つにつながっている。そこにあるのは、強い者が弱い者を虐げ、搾取し、支配する関係だ。 

職場で一方的な命令を下し、弱い者を威嚇し、自分に逆らうことを許さず、逆らった者を闇雲に罰したり、女性に一切の口答えを許さないような男尊女卑の上司は、きっと家庭内でも同じことをしているに違いない、と筆者は思う。

彼らはあまりに心が傷つき、さらに自分では何も生産できない無能者のため、常に自分よりも下に見る人間、自分の代わりに厄介な仕事を片付けてくれる搾取する対象がいなければ自分を保つことができない。

モラハラは一生治らないと言われている。だから、職場でも、悪しき人間関係の中にとどまっていても、生産的な人生は送れない。面白い診断があった。もしもあなたの上司に、10項目全てに○がつくようであれば、その職場は早くあきらめて脱出した方が良い。 

【ダメな管理職】コイツの下では働けないと感じさせてくれる無能な管理職の10個の特徴!
1、責任者ではなく権力者だと勘違いする
2、個人的な好き嫌いで判断をする
3、情報共有と指示を的確に伝えられない
4、意見の強要や決定事項の突き付けをする
5、無駄な会議を開きたがる
6、問題やトラブルを大ごとにする・責任転嫁する
7、思い込みが激しく客観性や根拠がない
8、部下を納得させられていない
9、行うことの目的や動機を与えられていない
10、仲良くしたいという間違った欲求を持つ

だが、偽物があれば、本物があるように、嫌な関係があるなら、正常な関係もある。

幸福になる秘訣は、限りなく、正常な関わりを追い求めることにある。だが、正常なものに巡り合うためには、自分自身を高めなければならないことも、忘れてはいけない。

淀んで腐敗した水にボーフラがわくのと同じで、ダメな人間ばかりが集まる場所には、それなりの特徴がある。善良かつ誠実で、高い品性を持つ人々に巡り合いたいと切に願うなら、望んでいる環境にたどり着くための努力が、自分自身にも必要だ。

仕事であれば、質や内容を厳正に選ばなければならない。誰でも就けて、大した努力の必要のない職場に、特別に良い人間が集まるはずがないことは明白だ。

自分で自分の生きるフィールドのハードルを低く設定していながら、そこで最良のものに巡り合えると考えるのは、お門違いである。
 
だから、真に価値ある仕事をしようと願うなら、無責任な人々よりも、ハードルを高く設定し、自ら責任を負って立つ覚悟を固めねばならない。

「モラ夫」に「おまえはおれの情けによって生かされているんだ」などと恩着せがましい言葉を言われないためには、彼の専業主婦であることをやめねばならないのと同様、気に入らない、ダメな職場により、「メシ」を食わせてもらっている立場で、不満だけを言い続けても無駄だから、そこを脱しなければならないのだ。
 
モラ夫に仕える代わりに、身の安全を保障してもらえるという、お仕着せのパッケージを捨てて、自分自身で、上司と同じか、それを上回る責任を担い、人に頼らない人生を始める覚悟を決めねばならない。なおかつ、それができると信じなくてはならない。

逃げるとき、モラのディスカウントの言葉が、耳に聞こえて来るかも知れないが、絶対にそれを信じてはいけない。 そんな人間関係が、世の中の全てではない。自分で自分を何者と考えるかがあなたの人生を規定するのだ。

繰り返すが、あなたが自分を何者と考えるかが、あなたを規定するのである。

* * *

自民党が打ち出した減収世帯への現金30万円の給付が、公明党により、強引に国民一律への10万円の給付に変えられようとしていた頃、我が職場でも、クーデターが完遂し、ナンバー2であった上司が、トップに拮抗するほどの権限を持つようになった。
 
トップとナンバー2に逆らった社員が、社内軟禁状態にされたのを見て、筆者はここから逃げねばならないと悟った。

それは反カルト運動を繰り広げる牧師たちが、カルトからの脱会者を密室に隔離して、再教育を施そうとしていた光景を思い起こさせた。反カルト運動の指導者らは、カルト宗教からの脱会者を誤った教えから救うと言いつつも、その「救済」手段として、信者を鉄格子と南京錠つきの密室のアパートに軟禁して、ディプログラミング(再洗脳)を施したのである。信者の家族が、信者が脱走しないように24時間、つききりで監視し、その言動を牧師たちにつぶさに密告した。

職場で起きていた現象は、その光景にとてもよく似ていた。隔離された者には、苦しい仕事が与えられ、周囲との交流が断たれた。そして、全社員がその者を集団で監視し、密告を繰り返したのである。

筆者はブラックな職場をそれなりに見て知っているつもりであったが、これほど宗教めいた、気色の悪い、極端に悪口の多く、敵意に満ちた団体は、他に知らなかった。調べてみると、幹部はフリーメイソンへつながる団体の会員であった。やっぱり、そうだったかと、筆者は心の中で唸った。
 
協調性とは、グノーシス主義から生まれる概念である。それは、和の精神、自他の区別の廃止、対極にあるものの融合を意味する、聖書に真っ向から敵対する間違った理念であるから、協調性を重要な理念の一つに掲げている団体は、まともではないと見て良い。

以前にも書いたことだが、協調性とは、自他の区別を曖昧にすることによって、人が相応の努力をせずに、他者の持っている優れた資質を、自分のために盗み取ることを正当化する概念である。協調性が説かれる場所では、善人だけがひたすら努力を続ける一方、悪人は誰にも歩み寄らず、我が道を行くので、正直者が馬鹿を見るだけである。
  
当ブログを書いて来た筆者には、そうしたことは十分に分かっていたはずなのだが、筆者はずっとそれに気づかないふりをして、今までやり過ごして来た。しかし、ついにその団体が、滅茶苦茶な基礎の上に成り立っていること、破滅へ向かっていることを、目を開いて見ずにいられなくなり、悪しきものとは訣別せねばならない時がやって来たのである。
 
グノーシス主義とは、キリストの十字架なしに、人類が己が力で自分の罪をあがない、神に到達できるというサタンの教えである。そこで、グノーシス主義の教えには、共通の型があり、グノーシス主義者の考えることは、時代を越えて変わらない。

密室への隔離や、懲罰労働による人格改造、恐怖政治による支配などのグロテスクな方法によって、理想郷へ到達できるという、有り得ない誤った発想も、時代を超えて同じである。

19世紀、ロシアのデカブリストの一人は、理想郷を生み出すためには、200年間かけて警察国家を作り、国民の自由を奪い、民衆に再教育を施して、人類を作り直さねばならないと考え、クーデター計画を練った。 彼は帝政ロシアの軍隊によって反乱が鎮圧される前日に逮捕され、人類改造計画を記した大量の書類も押収されて、死刑に処された。
 
今日、コロナウィルスの蔓延は、グノーシス主義者による各国社会の収容所化のためのアジェンダだという説がある。

それは悪意ある人々が、恐怖によって人々の自由を奪い、日常生活を奪って、自宅や、職場に閉じ込め、再教育を施すことを目的に、人工的に計画したのだという。ステイホームも、自宅収容所化の手段なのだと言われる。

そんなグロテスクな計画を本気で考え、その達成の手段として、人為的にウィルスを世界にばらまき、騒動を煽る人々がいるのかどうか、筆者には疑わしい。

だが、その説をあながちトンデモ論として笑えないのは、実際に、コロナを口実にして、緊急事態条項を作ろうと、改憲を目論んでいる人たちが確かに存在していたり、政府が、事業者に100%の休業補償をせずに休業を命じることで、まるで「貧しい人は路頭に迷え。潰れるべき企業はさっさと潰れろ」と言わんばかりの冷淡な態度を取っているからだ。

一体、コロナウィルスは、悪意ある人々による、弱く貧しい人々の人工的な淘汰の手段として作られたのだろうかという疑問が、人々の心に生まれて来るのも仕方ない。

筆者の職場でも、以上に書いた通り、まるで労働によって人間の本質を改造しようとしたマルクス主義さながらなことが行われている。

マルクス主義は、労働によって、人類の幸福社会を築こうとした。人類が自らエデンを取り戻すためには、罪という終わりなき連帯債務を、労働によってあがなうべきと唱えたのである。

もちろん、マルクス主義において「罪」という概念はないが、要はそういうことである。人類の負い切れない罪の返済手段が、労働だったのである。人類が理想郷へたどり着くために必要なすべてを、人類自身が連帯責任として背負い、労働によってまかなうべきと唱えたのである。
 
だが、労働によって、人が己が罪を自力で贖うなどのことは、達成不可能な偽りであるから、そうしたスローガンに騙されて働く人間も、愚か者だけということになる。だからこそ、共産主義国においては、労働しない人間が、最も出世したのであり、政府の上層部は、卑劣漢、悪党、盗人で占められた。誰も責任を取らないので、その体制は、ありとあらゆる悪事を犯し、崩壊するしかなかった。

悲しいかな、筆者の職場では、まさにそれに等しいことが起きつつあるのだが、筆者は何度も、他でもないグノーシス主義者の幹部から、まだその人がグノーシス主義者だとは筆者が気づいていなかった頃に、組織を出て、新たな出発を遂げるよう、幾度も促された。

「あなたが望んでいるような自由は、あなたが自ら経営者にならない限り、きっと得られないと思いますよ」と、その人は言ったのである・・・。
 
筆者はその頃、職場が間違った基礎の上に築かれているとは知らずに、色々なことを語り合った。その人がグノーシス主義者でさえなければ、どんなに良い旅の道連れになっただろうかと、今でも名残惜しい。

筆者は、その人が筆者と話しているときに、時折見せた、自分はもう助からないとでも言うような、絶望的な表情を覚えている。それは一瞬、垣間見えただけであるが、それがあまりにも哀れであったので、筆者は何とかして、命に至る道を見つけて欲しいと願い、無理やりにでも、バビロンから連れ出したいと願った。残酷なナンバー2にも、同じことを願った。

だが、彼らは呼べば呼ぶほど、ますます筆者の忠告を振り切り、焼け落ちる火宅に自ら駆け戻って行く人のように、反対方向へ走って行った。

筆者には分かっている、神は悪人と正しい人を一緒に滅ぼすようなことはなさらないので、筆者がいる限り、組織が崩壊することはないと。筆者には、バビロンの崩壊を遅らせることもできれば、エリコの再建のように、滅んだ組織を再興することもできる。
 
だが、滅ぶべきものを延命させるという間違いは、二度と犯してはならない。誤った理念の上に築かれた城に、人情のゆえに、同情の涙を注いでも意味はない。タイムリミットは近づいており、そろそろエクソダスせねばならない。
 
記事には具体的なことを書けないので、かなり曖昧な表現を使わざるを得ないが、以上に書いた通り、職場で極端なカルト化現象が起きなければ、筆者は今でも見込みのないものに望みをつなぎ、戸口の前で、足踏みをしていたかも知れない。

何より、その職場が根本的に誤った反聖書的な理念を土台として成り立っていることに、今も気づかず、バベルの塔建設のためのレンガ運びの作業にいそしんでいたかも知れない。

だが、レンガ運びの作業が、苦行と化し、それを拒んだ者には、厳しい懲罰が科されるようになったことにより、分かったのである。それは収容所における囚人労働と同じであって、自由な明日を作り出すことに貢献することはないと。

隔離された社員だけが、密室に閉じ込められているのではない。そこでは、幹部から末端の人間に至るまで、誰もがみな閉じ込められているのだ、労働という檻の中に――。

その収容所に閉じ込められている限り、みなが破滅へ向かうだけで、誰にも自由な明日はない。労働による人格改造などあり得ない。だから、恐怖政治の果てに、待っているものは、ただ滅びだけである。
 
もちろん、だからと言って、筆者は、幹部の勧めに従って、明日、独立するつもりはない。そんな風に、一足飛びに何かを達成できると思うのは間違いだからだ。だが、それでも、幹部の言葉のおかげで、狭い密室を出て、地境を広げねばならないことに気づいた。より多くの自由、権限を手にするために――。

こうして、筆者が呼びかけた人は、筆者の招きに応じず、救いにも興味がなく、滅びると分かっている建物に戻って行っただけであるが、筆者は、ここで立ち止まるわけには行かないので、まだ見ぬ都へ向かって、進んで行かなくてはならない。

たとえ今、筆者の手元に、自分の身一つ以外に何もなくとも、信仰によって、無から有を生み出し、いつか想像をはるかに超えた大きな目的を達成できると信じて、勇気を持って、颯爽と、歩き出さなければならない。

バビロンを出て、聖なる都、新エルサレムへ向かって――。

* * *

キリストは花嫁なる教会のためにご自分の命を捨てられた。それは部下のために上司が命を捨てるような、奇跡的な愛である。いや、違う。部下のために命を捨てる上司くらい、いるだろう。だが、神は私たちが罪人であったときに、救う価値のない罪人である私たちのために命を捨てられたのだ。

神がそうされたのは、正しいことであり、神は無限に強く、正しい方であればこそ、その正しさと力を行使して、ご自分の被造物である私たちを助けられたのである。

だから、この世においても、権威ある者は、自分の権威の下にある者たちを守らなければならない。強い者の権力は、弱い者を守るために与えられているのであって、弱い者を脅かし、痛めつけるためではない。

ところが、グノーシス主義は、いつも正しい秩序を逆にして、弱い者が、強い者のために命を捨てるようにと、無理な要求をする。

たとえば、「親孝行」という、世間ではまことしやかに美徳のごとく讃えられている概念について、考えてみよう。

考えればすぐに分かることだが、自然界の動物社会では、親が子の世話をすることはあっても、子が親の世話をしたり、親のために命を捨てるという原則はない。そもそも弱い子供にどうやって親の世話ができるというのか。弱肉強食は、同じ種の親子間でなく、異なる種類の生物の間で起きることである。

ところが、人間社会では、「親孝行」という、自然界の動物にはあり得ない教えがまかり通っている。
 
それは元を辿れば、死者の霊の崇拝、すなわち、先祖崇拝に由来する。

人間が生まれ持った命は、本当は、神聖でも何でもない、ただの動物的命である。虫でも繁殖くらいはしているのだから、人間に子孫が生まれることも、珍しくもなければ、偉業でもない。

ところが、偽りの教えにかかると、それが神業のようなものにまで変化する。つまり、人間の子孫は、「ご先祖様」から「神聖な命」を受け継いでいるから、自分に命を与えてくれた先祖に絶えず感謝し、先祖供養につとめると共に、その「神聖な命」を絶やさないために、「家名」を背負って、これを穢さず、「神聖な家」を維持していく責務を負う、ということになる。

それゆえ、その子は、生きている限り、「神聖な家系」の入れ物となる「家」を守るために、親に孝行するだけでなく、口を利くこともできない先祖の霊の供養を続けねばならない。

我が国では、戦前戦中、万世一系の天皇家を「神」にいただく「神国」などというフィクションが作り出され、その虚構の物語に基づき、臣民は天皇の赤子であるから、親である天皇のために命を捨てるのが当然、などという荒唐無稽な教えが説かれた。

もしも天皇が「親」であるというなら、天皇こそ、「赤子」なる臣民を守るために、身を投げ出し、命を捨てるべきであると筆者は思うが、それとは全く正反対の教えが説かれたのである。

それと同じ理屈で、戦後になっても、男は会社組織や共同体社会のために身を捧げよとか、妻は夫のために身を捧げて尽くすのは当然といった誤った考えが、社会の至るところにはびこっている。共に生きるために協力するのではなく、命を捨てても服従せよというのである。三島の『憂国』を彷彿とさせる世界観だ。

もちろん、親に感謝したり、親を尊敬することは何ら悪いことではない。だが、「親に感謝せよ」という考えを究極まで推し進め、子の人生を親(先祖=家)から一生離れられないように束縛してしまうのは、罪なことであり、異常である。

自然界の動物社会では、子は成長すると、自立して親を離れ、新しい家を形成する。近親交配を避けるためにも、生まれ落ちた家をいつまでも存続させることに意味はない。

子が自立して親を離れるのは、親が子より早く老いて死ぬためである。親は力の上では、子よりも強いかも知れないが、老いと死には勝てない。そのため、子をいつまでも守ってやることはできない。

だからこそ、子は親が老いる前に、親から自立し、自力で生きて行く方法を獲得せねばならないのだ。自立して初めて、親と一緒に死の中に引きずり込まれるのを避けられる。

ところが、人間社会においては、子は親が死ぬまで面倒を見、親が死んであの世に行っても、なお、面倒を見続けねばならない(供養せねばならない)という、自然界の掟にも逆らう、支離滅裂な、むなしい虚構の概念が普及している。

現代社会にも、そうして時代錯誤な家制度が生きている。自立した夫婦は、生家を出て、新たな家を築いているように見えるかも知れないが、依然として、多くの場合、男性が自分の生家の名を継承している。それは、彼が生家から離れられていないことの証である。

一体、子をいつまでも自立させず、死んでもなお手放さないという姿勢が、親心と言えるだろうか・・・。

こうした家制度の根本には、先祖崇拝という、しょせん、人間に過ぎない者を「神」として祀りあげる「神聖な家系」というフィクションの世界観がある。

そのようなフィクションに騙された子孫が、生きているうちから、親の望みをかなえることで、「家」に名誉をもたらそうと、親の附属物のようになって、苦しい人生を生きたりしながら、先祖という死者に縛られ、一生、「家」という密室の入れ物から離れられなくなるのだ。

それは何もかもを滅びと死へ引きずり込み、破滅させてしまうオカルトの教えなのであるが、多くの人々はそれに気づかないまま、これを信奉している。

この教えが究極的に目指しているのは、罪に定められた人間の欲望を、永遠にまで至らせることである。滅びゆくアダムの命を、神聖なもののように偽り、人間が堕落した欲望に生き、そのままの姿で、神のような永遠に達することができると教える。

その教えは、人類が罪に堕落したという事実を認めず、罪のゆえに死に定められたという事実も否定して、己が欲望の追求の果てに、神のような永遠性を手に入れられるとうそぶく。

人間が生まれながらの命のままで、永遠性を手に入れるなど、できるはずもないことなのだが、その教えは、代々、家系が続いていることにより、あたかも命の連続性が保たれ、永遠性が獲得できるかのように、屁理屈を並べているのである。

* * *

さて、筆者はいきなり経営者になることはできないと述べたが、それでも、人格改造のために懲罰労働が課されるような密室に居続けてはならないと悟った。

筆者の職場のみならず、現代社会における労働は、およそその多くが、収容所生活になぞらえた方が良いようなものである。

そうした人間性を奪い取る密室から解放されるためには、自分の仕事の内容と質を高めて行くしかない。一歩一歩、自らの責任の範囲を拡大し、他の人々と異なる、より自分の裁量が大きくものを言う、自由な仕事、そして、広範囲に影響の及ぶ、決定権のある仕事を模索していかねばならない。

それは筆者が見えない領域で、多くの「扶養家族」を持ち、多くの人々を養う仕事をするようになることを意味する。

筆者の目指している「事業」とは、ジョージ・ミュラーがしたように、信仰によって、たくさんの人々を養い、支え、命と自由を与えるためのものだからである。

その願いが、可能な限り、広範囲の人々に及ぶよう、筆者の仕事の責任をより重いものに、より大きな内容に変えて行かねばならないのだ。
 
だが、いきなり一足飛びの生長は、誰にもかなわない。そういうことを試みるのは危険である。
  
たとえば、10人しか社員を雇ったことのない事業所が、いきなり50人もの社員を採用して、億単位の新規事業を始めると、どういうことが起きるだろうか。

事業所の意識は一日では変わらず、それが手かせ、足枷となって、成長を妨げる。つい昨日まで、田舎の商店街にある個人商店のように、電話回線も少なく、アシスタントもごくわずかしかいなかったような小さな事務所が、いきなり大企業と並んで、巨大ビルのフロアに大きな部屋を借り、そこに大勢の社員を雇って、労務管理を行い、大規模事業を支えられるようになるかと言えば、そうはならない。そういう無理なことをしようとすると、あらゆる方面にひずみが生じる。

大規模な事業を創設し、これを育成し、完成にまで導いて行くためには、必ずメソッドが必要となる。それを打ち立てた経験が過去に一つもなく、ノウハウすらも持たない人たちを、人数だけ揃えても、いきなり事業が軌道に乗ることは絶対にない。

下手をすれば、組織が成長途中に、組織の体をなさなくなり、半熟卵のようにドロドロに溶けて、メルトダウンして行くだけだ。

同じことが、事業所のみならず、働く側の人間にも言える。昨日までパートタイムのアルバイトしかしたことのなかった人間が、いきなり、大きな店の店長や、大企業の社長になっても、物事はうまくいかない。学生時代の趣味が高じてベンチャー企業の社長になるような人々も、まずは小さな会社を立ち上げるところから始める。
 
このように、堅実な歩みを進めるためには、一歩、一歩、地道に責任の範囲を拡大して行くしかないのであって、そうした小さな意識改革を積み重ねて行った先に、ようやく、大きな事業を手がけるスキルが生まれる。

ステップを数段すっ飛ばかして、いきなり濡れ手に粟式に、巨大な成功を手に入れられると思うのは間違いである。たとえ大きなチャンスに巡り合っても、それを活かす知識と経験がなければ、失敗に終わるだけなのである。
 
そういうわけで、筆者は、自分を閉じ込めていた密室を出て行こうとしている。だが、自分一人、収容所から釈放されて、孤高の高みに君臨するためでない。大勢の人たちを生かし、自由にするために、筆者は、これから山へ登って行こうとしている。

小さな一歩かも知れないが、これまでの出発と違うのは、これから歩むべき行程がはっきり見えていることだ。神はその歩みを喜んで見守り、承認し、後押しして下さるだろうと思う。

* * *

人間とは、言葉(規則、掟、論理)が先に来るのか、それとも、行動が先に来るのか、という議論がある。

鈴木大拙は、人間の本質とは、考えるよりも先に行動するものだと言った。

しかし、筆者はそれは絶対に間違っていると確信する。なぜなら、聖書の秩序は、まず掟があって、次にそれに従った行動があるというものだからだ。

人間はエデンにおいて、神の掟よりも、自分の快楽を求める衝動に負けて、行動を先にしてしまったことにより、罪に堕落した。

だが、それは悪魔の唆しによるものだから、それが人間の本質だとは言えないだろう。

ところが、グノーシス主義者は、今日も、それこそが人間の本質だとうそぶく。人間とは、まず衝動的に行動してから、後でその行為について反省し、知性が芽生えるのだと。そうして、いつも、行動を、言葉よりも優位に置こうとする。

世の中に、政治家を始めとして、やたら人前でむなしい演説を繰り広げ、空虚なパフォーマンスに明け暮れる人間が横行するのもそのためで、彼らは口先だけでペラペラと意味のないことをしゃべり、息を吐くように嘘をつき、人の注目を集めた後で、法律や規則を曲げて、ないがしろにし、義人を罪に定め、多くの人々に害を与える。

彼らの目的は、派手なパフォーマンスによって、身勝手な行動を実行に移し、これを既成事実化し、後付けで正当化するために、規則を変えることにある。

たとえるなら、ある人が人殺しに及んでおきながら、「世の中に殺人が横行するようになったので、いっそ殺人罪を撤廃しましょう」などと言うようなものである。

聖域なき改革だの、岩盤規制を突破するだのといった威勢の良い謳い文句のほぼすべても、古くからある規則を「悪」と見せかけることによって、規則を撤廃して、自分たちの悪事を正当化するために唱えられる。

もちろん、「コロナで社会不安が広がったので、改憲して、緊急事態条項を創設し、人権を抑制しましょう」などというスローガンも、同じ理屈に基づいている。

なぜコロナウィルスが蔓延したくらいのことで、最高法規である憲法を変えなくてはならないのか。そこにどれほどの論理の飛躍があることか。

だが、彼らのやり方はいつも同じで、まず、不安を煽る様々な現象や、衝動的な行為をあげつらい、それを抑制できなかった規則など無意味だからと、最も重要な法規を、無意味だと言って、彼らに都合良く変えて行こうとするのだ。
 
私たちはそういう政治的パフォーマンスに踊らされるべきではない。弁舌巧みで、パフォーマンスが得意なのは、詐欺師だけである。
 
実際には、コロナの脅威によって、むしろ、そうした空虚なパフォーマンスこそが抑制され、駆逐され、そのむなしい本質が暴露され始めているのは、良いことではないかと筆者は思っている。

たとえば、筆者は、コロナウィルスのおかげで、「連休中はどこへ行きましたか?」という愚問から解放されて、ほっとしている。毎年、この季節になると、行楽地に大量に押しかけ、人数にものを言わせて、孤独な人々を隅に追いやり、自分たちこそ世界の中心だと言わんばかりに、厚かましく自慢話に明け暮れる家族連れを、今年はもう見なくて済むことに、安堵している。

連休は出かけるためにこそあるという、この人々の愚かな思い込みを解くのに、どれほど無益な苦労をさせられ、非難を浴びせられたことだろう。マウンティングだけが目的の、むなしい自慢話を聞かされずに済むようになって、筆者は安堵している。

休暇は休息のためにこそある。休息の方法など十人十色だ。休息期間には、大切な考察が行われ、未来への挑戦が始まる。何もしていないように見える1日、1日が、エネルギーチャージに必要な時間なのだ。

だから、筆者は今年は、心の休息を得て、信仰によって、未来をどのように創造していくか、それを思い描くことに、主要な時間を費やすことにしている。それもコロナウィルスがなければ、与えられなかった静けさだったかも知れない。

さらに、コロナは社内で行われるつまらない会議にとどめを刺し、社員同士の無駄話にも大いに水を差した。裁判所にさえ、コロナの影響は及び、法廷における弁論が、停止に追い込まれたのだ。

それによって、限りなく重要な教訓が、証明されつつあるように思うのは、筆者だけだろうか。物事の重要な本質は、耳目を集める口先だけの言葉や、見せかけのパフォーマンスにはない。行動に先んじて、行動を支配する見えない掟、法、規則、理念、思考があって初めて、人の行為には価値が生まれるのだ。

だから、断じて、行動が先んじて、思考が後に来るのではない。その反対こそが正解なのだ。どんなに束の間、繁栄しているように見えても、人間の本質を逆にしようとした者は、自らの行動の価値を証明できない。どんなに衝動的な行動をたくさん行っても、それが掟破りなものであれば、少し時が経てば、間もなくその価値は全くないことが判明し、その成果も、跡形もなく消えて行くだろう。
 
コロナウィルスの襲来によって、むなしいパフォーマンスの数々が駆逐されたなら、それは筆者にとって、非常に喜ばしいことである・・・。

* * *

グノーシス主義者の考えるユートピアは、広き門である。それは神の戒めに従わず、キリストの福音から落ちこぼれた、ダメ人間ばかりを救おうとする、偽りの大衆救済宗教である。
 
己が罪を悔いることもなく、他人ばかりを責め続け、本物の福音には到達できず、その意欲もない、無責任で、無反省な人ばかりを救おうとする偽物の福音だからこそ、その偽の福音には、最も怠惰で、最も無能な者、最悪の利己主義者、この世の失格者、落伍者、筋金入りの悪党、卑劣漢など、悪い人々ばかりが群がる。結局、その悪者のユートピアは、何一つまともなものを生み出せないまま、自壊して行くことになるのだ。

怠惰な人間を富ませるためには、真面目な人の労働の成果を盗むしかない。ダメ人間を救済するためには、ダメ人間でない人々の評価を下げるしかない。悪人を救うためには、正しい人を罪に定めるしかない。

こうして、グノーシス主義の唱えるユートピアは、ダメ人間を聖人に祀り上げるために、何もかもをさかさまにした世界観に基づいている。

そうして出来上がる「広き門」が、人に優しく見えるのは、最初のうちだけで、悪と偽りと不法と搾取は、やがて彼らが復権しようとしたダメ人間も含め、その教えに帰依した人々全員に及ぶことになる。

キリストの十字架がないので、悪人には罪が赦されることは永遠になく、その代わり、労働による人格改造という懲罰が待っているだけだ。そこで、労働による彼らの救済は、何万光年経とうが、永遠に達成されることはない。

人類の罪を人類が自力で贖うための果てしなく重い軛は、人類に連帯責任として落ちかかり、最後には、真面目で誠実な人間だけでなく、悪人も含め、すべての人々が、極度の抑圧の中に投げ込まれ、自由を奪われ、恐怖政治が出来上がる。

こうして、グノーシス主義の偽りの福音は、多くの人を救う「広き門」に見えても、その先に待ち構えているのは、滅びと、死だけであって、それは結局、彼らが退けたキリストの福音よりも、はるかに厳しく、誰も耐えられないような裁きと懲罰を繰り広げるだけに終わる。

かくて広き門によって救われる人間はゼロなのだ。ダメ人間のユートピアなどあり得ず、そういうものを作ろうとすれば、生まれるのは、ファシズムだけであり、その結果としてもたらされるのは、滅びであり、死である。

それを考えれば、「労働廃絶論」(ボブ・ブラック)などという説が出て来るのも、頷ける話だ。
 
* * *
 
ちなみに、筆者は、あらゆる労働――いや、人間の社会への奉仕が一切合財、無価値だと言っているのではない。あくまで人が罪から逃れるために、死の恐怖から逃れるために、自己救済のために行う労働が、無意味だと言っているだけである。

人々は筆者に問うかも知れない。「ヴィオロンさん、あなたはプロテスタントにおける礼拝と、資本主義における労働が車の両輪で、今の時代には、その両方が終わりに瀕しているなんて、荒唐無稽な説を唱えています。

あなたによれば、日曜礼拝と、月曜から金曜まで会社にお参りすることは、本質的に同じなのだそうです。そして、それは自由をもたらす解放どころか、自己懲罰のために、人々が自ら「隔離」されていることなのだと、あなたは言います。あなたによれば、その労働は、強制収容所における人格改造と同じほどむなしい、無意味なものなのだと…。
 
それでは、あなたは労働そのものに反対なんですか? それなら、あなたはこの先、一体、どうやって生きるつもりなんです? 社会に必要なサービスは、誰が行うんですか?」

もう一度言うが、筆者が反対しているのは、罪のゆえに、死の恐怖の奴隷となっている人々が、その恐怖を紛らし、偽りの救済を得るために、強いリーダーのもとに馳せ参じ、そのリーダーに生存を保障してもらおうと、その教えに帰依し、自力で救済を得るための手段として労働を用い、みなで結集して、バベルの塔を構築する、そういう生き方である。

プロテスタントの日曜礼拝は、「自分が本当に救われているかどうか分からない」という、救いの内なる確信の持てない信者が、自らの心の不安をなだめるために作り出した鎮静剤のようなものである。

同じように、資本主義におけるサラリーマンの労働も、もともとは「救われているかどうか分からない」という不安を抱えるプロテスタントの信者が、日々、勤労に励むことで、神の御前に善行を積み、不安心理をなだめようと発生したものである。

現代社会においては、労働における宗教色はほとんど見いだせないほどに薄れているが、それでも多くのサラリーマンは、「自分がどういう生き方をすれば良いか分からない。どんな事業が自分の天職なのかが分からない。それを自分で始める力もない」という無力感を、手っ取り早く、誰かに埋め合わせてもらうために、他人に仕えて働いている。

産業革命以後、仕事の機械化、細分化が進んだことにより、人々は昔に比べてより一層、自己というものを喪失し、労働においても、より家畜のように一元化して管理しやすくなった一方で、逆に機械に使役される人間が大量に作り出された。

そのおかげで、神の救いが分からず、自分自身が分からないだけでなく、自分の仕事にも、価値を見いだせないという、迷える羊のような人々が大量に生まれた。

その迷える羊に対して、様々な職場は、一見すると、救済のように見える、各種のパッケージをケアキットのように提供している。その中には、コンビニエンスストアの店長や、政府の公共事業などのように、自らにアイディアや元手がなくとも、手軽に始められる事業もある。

それをいくつもいくつも取り替えながら、自分をごまかして生きている人々は多いだろう。一つの仕事に飽きれば、次の仕事を見つければ良い。
 
だが、それは「パッケージ」であるがゆえに、そこには自由がなく、最初は入りやすく見えて、その先には、厳しく搾取される日々が待っているだけだ。一つの密室を出ても、気づくとまた別の密室に囚われている。隔離でない労働とはどこにあるのか。
 
私たちは、自分たちが喪失してしまった二つのもの――神へのまことの礼拝と、天職――この二つを再発見しなければならない時代に来ている。

この二つのものを発見するためには、やはり、広き門ではなく、狭き門をくぐるしかない、と筆者は考えている。自分の人生の決定権を安易に人に委ね、手っ取り早く、出来合いのパッケージに頼ろうとする限り、そこにあるのは、広き門――すなわち、密室へ続く道なのである。

そこで、そのように他人に頼る態度を捨てて、自分のことには、自分で責任を負い、自分で決める自由裁量の余地を取り戻し、これを増やしていくしかない。

だが、それは、今まで松葉杖をついて歩いていた人が、杖を捨てて、真直ぐ歩けるようになるためのリハビリの過程にも似て、一足飛びに達成できるものではない。内なる自分自身を、何者にも頼らずに、強めて行く過程が必要である。

その一歩一歩の先に、密室とは無縁の、真に自由で、心から健康で、自立していると言える生活が待っている。松葉杖に頼ろうとしている限り、自由な空間には出て行けない。

私たちの自由と豊かさは、いかに目に見えるものに依存せず、目に見える誰かに依存せず、見えない神だけに頼り、自分の裁量と自分の責任で、自分の人生を決めたか、その度合いに応じて決まる。

誰かに頼って、自分の人生を何とかしてもらおうと願っている限り、金銭的搾取だけでなく、霊的中間搾取からも、逃れられない。
 
信じる者の内側には、死を打ち破ったキリストの復活の命が宿っている。それゆえ、コロナであろうと、他のどんな脅威であろうと、信者は、信仰だけによって、すべての脅威に立ち向かい、勝利をおさめる秘訣を得ている。

その本当の命の力に頼って生きねばならないのである。だが、信者の内なる人は、まだ弱く、未熟であるがゆえに、その信じる力を、十分に養い、行使するための秘訣を十分には知らない。そこで、彼は自分に与えられた命の力を引き出すことを、まずは学ばなければならないのである。

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今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のようにすべきです。

「いかに幸いなことか
 神に逆らう者の計らいに従って歩まず
 罪ある者の道にとどまらず
 傲慢な者と共に座らず
 主の教えを愛し
 その教えを昼も夜も口ずさむ人。
 その人は流れのほとりに植えられた木。
 ときが巡り来れば実を結び
 葉もしおれることがない。
 その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」(詩編第1編1-3)

(後日付記:この記事を発表した後、我が職場は、社員への休業補償を6割から満額に改めることを発表した。)

昨日の雨が嘘のように、夏のようによく晴れた空の下を車で走った。

いよいよコロナの波が首都圏を本格的に襲い、我が国は、ヨーロッパで起きている悲劇を対岸の火事と見ている場合ではもうなくなった。

ヨーロッパも、ほんの2~3週間前には、今の我が国のような状態だったのだ。

3.11の時が思い出される。その当時、筆者は職場で、パンク状態になった電話回線に一瞬も途切れることなくかかって来る電話への応対にかかりきりだった。個人の力では、何としてもおさめられない大パニック。人々の阿鼻叫喚の叫びの前に、我を忘れて立ち向かったが、それも大海からスプーンで水をすくって捨てるようなむなしい奮闘だった。

ライフラインが止まり、電車もバスも止まっているにも関わらず、上司は毎日のように電話をかけて来て、我々に出勤を命じた。

津波は? 放射能は? 外へ出て良いのか? 政府発表からは聞こえてこない情報に耳を澄まし、もどかしさを覚えつつ、それでも仲間と共有していた危機感から、筆者は勇気を持って職場へ駆けつけた。

だが、事態がほんの少し、回復の兆しを見せると、出勤を命じた上司たちは、ことごとく異動して早々と消え去り、クライアントの会社も、我々の努力に頭を下げることもなく、たちまちもとの傲然とした態度に戻った。

もちろん、賃金が微塵も上がることはなかった。それだけではない。事故については口外しないよう箝口令が敷かれ、非常事態に津波のように襲いかかる苦情に勇敢に立ち向かった社員たちには、より一層厳しい統制が敷かれた。褒賞が与えられるどころか、休むことさえままならなかった。

筆者は幻滅と疲労感だけを手土産に、何とか無難にその職場と別れたが、今でもその頃の光景を思い出すし、あの日、あの時、バスや電車を乗り継いで、無理に無理を重ねながら出勤したのは、正しかったのか、間違いだったのか、と問い返す。もしも津波が、原発事故の影響が、報道よりもさらに重かったなら、あの時、外へ出た我々には、命はなかったかも知れない…。

今も、当時と似たような選択を迫られている。「3密」そのものであり、すべての対策が後手後手に回り、沈みゆく泥船のように、ますます環境が悪くなって行くだけのこの職場に、今日も駆けつけるべきか、否か。

迫りくる破滅を一向に考えず、乗客同士が目先の利益を我先にと争い、互いを押しのけ合い、裏切り合っている泥船のような職場に、今、命の危険を冒してまで、駆けつけるべきなのか、否か。

そこで与えられる幻想に過ぎない利益に、しがみつくべきなのかどうか。

我が職場にいる人々は、未だに昇進、昇格、昇給などの夢に憧れ、それが到達可能であるかのように信じている。権勢を拡大し、人脈を強化し、人々と連帯し、人生を謳歌し、自分の待遇を良くするという希望によすがを見いだしている。

だが、筆者の目には、それらはすべてはかなく消えて行くだけの、幻のような夢に見える。

もはや、コロナの襲来によってそれらの希望はすべて潰えたのに、なぜそのことが分からないのだろうか。それだけでなく、目的に到達するための方法が正しくないから、彼らがそうした目的に至り着くことは絶対にないことも。

己が利潤だけを追求し、それと引き換えに誠実な人々を侮り、嘘をつき、弱者を虐げ、欺きと搾取によって得た富で、享楽をむさぼるような道徳的退廃が、どうして正しい成果をもたらすことがあろうか。

そういう光景はすべて滅びの前兆でしかない。だから、そういう光景を見たならば、そこには期待をかけず、一目散に逃げた方が良い。ところが、残念ながら、我が職場で毎日のように繰り広げられる光景とは、以下のようなものだったのである。

「ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。

ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。

人の子が現れる日には、同じことが起こる。<略>ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。」(ルカ17:26-33)


そういうわけで、今年に入った頃から、筆者は、職場の人々が飲んだり食べたりしながら繰り広げる享楽的な自慢話に、強烈な違和感を覚えるようになり、それに背を向けて、心の耳を閉じて、遠ざかっていた。

一時期、筆者もそうした人々の仲間入りをしようと試みたことがあった。それは、滅多に職場に来ない上司が、筆者の目を書類から上にあげさせて、彼を見つめさせた時期である。

その上司は、かつて出会った裁判官にもどこかしら似て、善良で、心優しく、へりくだって、高貴な人のように見えた。その人は、まるで主イエスが、筆者の心に語りかけるように、へりくだって、筆者に寄り添い、彼と筆者とは同じ考えを共有していると言って、筆者を勇気づけようとした。

この世の人であったにも関わらず、まるでキリスト者のように、深い霊的な交わりが可能に思われたのである。

だが、しょせん人間は人間に過ぎず、神ではない。そして、神ではないにも関わらず、主イエスがされるように、その人が腰を低くして、筆者の心を自分に向けさせようとした理由が何であるかは、少しずつ分かった。
 
やはり、よく確かめて行くと、その人はグノーシス主義者であった。これまでにも、光の天使のように、善良そうに親切な姿で、筆者に近づいて来る人は、後になって、ことごとくグノーシス主義者であることが判明するのだったが、その人が何より大切なスローガンとして唱えていた協調性も、偽りであった。

協調性とは、グノーシス主義のシンボルである「輪(和)」を指す。それはとどのつまり、本来は二分された相容れないもの、別個のものを統合するための錬金術であり、対極にある概念の統合を指す。もっとはっきり言ってしまえば、協調性とは、盗みである。

考えてみれば分かるはずだ。ふてぶてしい悪党と、お人好しな正直者が、二人で向き合い、協調性を発揮するよう命じられたら、どうなるだろうか。悪党はふてぶてしい態度を貫き、一歩たりとも正直者には歩み寄らない。だが、お人好しな正直者は、心理的圧迫に負けて、次第に譲歩して、悪党に歩み寄らざるを得なくなるだろう。

本来、悪党と正直者の間には、何の共通点もありはしない。ところが、「協調性」なる魔法の言葉を使うと、正直者が悪党に歩み寄らなくてはならなくなってしまうのだ。

聖書には「協調性」なる概念は存在しない。あるのは、むしろ、「二分性」である。

あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。キリストとベリアルにどんあ調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。神の神殿ご偶像にどんな一致がありますか。

わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。
「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。
 そして、彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 だから、あの者どもの中から出て行き、
 遠ざかるように』と主は仰せになる。
 『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる。』
 全能の主はこう仰せられる。」(2コリント6:14-18)
 
こうして、聖書は、絶対に交わってはいけないもの、絶対に相容れないものの間に、しっかりと線を引いて、両者を切り分ける。

ところが、グノーシス主義は、聖書の「二分性」を否定する。そして、様々な美辞麗句を弄しながら、絶対に相容れないはずのものの間に引かれた境界線を巧みにずらして行き、俗なるものを、聖なるものに見せかけ、自他の区別を排し、自分のものでないものを、自分のものと言い、他人のものを横領する。

こうして、盗みを正当化し、美化するために作り出された概念が、「和」であり、「協調性」なのである。その魔法の言葉を使えば、劣った者が、優れた者の性質をただで盗み取り、努力しない人間が、努力する人の成果を盗み取り、聖でない者が、聖なる者から、聖なる性質を盗み取れるようになる。平和の名のもとに行われる侵略、兄弟愛を唱えながらの搾取や支配なども、みなこうした考えから出て来る・・・。究極的には、それは神でない者(悪魔)が、神の性質を盗み取り、神を詐称することを正当化する思想であり、悪魔が作り出した偽りの思想、それが「和」の概念の本質である。

さらに調べてみると、その上司は、もとを辿れば、フリーメイソンにたどり着く団体に属していることが分かった。キリスト者のような深い満足をもたらす霊的交わりが可能であった理由は、そこにあると見られた。

つまり、グノーシス主義者は、ただの人ではない。彼らは、無宗教を装ってはいるが、実際には、肉なる自分自身を神とする宗教に入信し、自分を拝むための儀式に参加しているのと同じである。

彼らは、ある種の礼拝儀式を行っていればこそ、主イエス・キリストを信じて救われた信仰者とよく似て、霊的な力を持っている。だからこそ、筆者とその上司は、互いを見た瞬間に、何か双子のようによく似た者に出会ったような、懐かしさを覚えたし、その人は、筆者の持っている力に気づいたのであろう。

筆者は、その人に何かしら信仰者に似た雰囲気を感じ、その人もまた、筆者の希望が、彼の絶望を打ち負かす力があることに気づいたのだろう。そして、筆者の信仰を利用すれば、すべてを成功に導けると考えたのであろうと思う。

確かに、筆者には、自分が心を込めて面倒を見ているすべてを生かす力がある。それは筆者の力ではなく、筆者の信仰を通じて働くキリストの復活の命の力である。

筆者は、キリストの復活の命を流し出すためのパイプラインを建設中であり、その命の水を流し出せば、その圏内に入れられたものはすべて生きる。

だが、筆者は、その上司の信じている教えの偽りなることが分かってから、その教えを心の外へ追いやり、命の水を流し出すパイプラインの元栓をひねり、水の流れを止めた。

彼は筆者の心をこの世の事柄に向けさせて、それを受け入れさせようとした。目に見える人々との交流、協力、連帯を打ち立て、肉なる力によって建て上げるレンガの塔の建設に関わり、目の欲、肉の欲、持ち物の誇りを語り続けるむなしい会話を受け入れ、人助けに邁進するようにと…。

そうして、ヒューマニズムの名のもとに、神から与えられた筆者の持てる力を、徐々にそれに値しない者のために盗み取って行こうとしたのである。そのことに気づいてから、筆者は光の天使のようなその人の美しい像から目を背け、再び、無味乾燥な書類に目を落とした。むなしい会話に耳を塞ぎ、滅びゆく目に見えるもの全てを視界から遠ざけた。

神でないその人が、筆者が彼の像を拝まなくなったことに、腹を立てたのかどうか知らない。やがて、したたかな反撃がやって来た。筆者が人々の自慢話に耳を塞ぎ、レンガの塔を建て上げる作業から手を引こうとすると、人々の怒りが、襲いかかった。
 
そうした事態に直面して、改めて筆者は思った、やはり、労働とは人が自力で罪を贖うためのレンガの塔の建設であり、神への反逆としての自己救済なのだと。どんなことをしても、その労働を美化することはできない上に、牧師であろうと、弁護士であろうと、裁判官であろうと、どんな立派な教師であろうと、職場の上司であろうと、誰も神ではないから、信頼などできはしないと。

神でないものを神のように信頼しようとすると、したたかな報復を受けるだけなのだ。

だが、主は確かに筆者の信仰を知っておられ、筆者が窮地に立たされる前に、コロナ禍が襲って来て、筆者を圧迫していたすべての原因を取り去った。公判は止まり、上司は職場から逃げ去り、職場の人々も、筆者の前で、自慢話を繰り広げようにも、もはや会話することも、互いに近づくことさえ危険となった。

そればかりか、一般市民が、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりすることさえ、後ろめたいことのようにみなされる時代となったのである。

「兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。」(1コリント7:29-30)

ある意味で、コロナがもたらしたこの市民生活の変化の中には、筆者にとって、ありがたい解放のように受け止められる側面があった。なぜなら、これまでのように、職場で終わりなく繰り広げられていた人々の享楽的な自慢話や、当たり前のように他人を押しのけて道を歩く赤ん坊連れの親子や、レストランの座席を占める大勢の家族連れなどの姿を目にしなくて済むようになったからである。

光の天使のように美しく見えた上司も、筆者がこの職場の理念の偽りに気づき、上司を信頼することをやめ、パイプラインを自ら断絶し、命の水が流れ出ないようにしたことが分かると、すべてを部下に任せて、職場から逃げ去った。

筆者の信頼が失われたことが分かるや否や、筆者を置いて逃げ去って行ったのである。そればかりか、死ねとばかりに、残る社員に出勤を命じ、休業させるにしても、路頭に迷えとばかりに、いきなり給与を減じた。

やっぱり、そうだったかと、それを見て、筆者は心の中で頷いた。すべてが順調に行っているときには、あんなにも謙遜で、親し気で、人情味に溢れていたように見えた人物であり、とてもではないが、他人に苦しみをもたらすような所業に手を染めるとは思えない人物であった。ところが、その美しい外見、善良でへりくだったように見える態度、優しい物腰と言葉、ヒューマニズムは、すべて見せかけでしかなかったのだ・・・。

これがグノーシス主義者の本質である。見かけは非常に崇高で、高潔に見えるが、内実がない。口では大言壮語し、美辞麗句を語るが、試されると、逃げることしかできない。最も危機的な時に、そばにいて助けてくれない存在に、何の価値があろうか。無責任に、部下たちを危険の中に放り捨てて行くような上司の命令にしがみついて、生き延びられるはずがない。

それは神ではなく、死神と呼ぶべき存在であり、普段から虐げと搾取を繰り返していればこそ、危機にあって、残酷な本性が現れるだけだ。

だが、このように大胆な非難の言葉を発している筆者も、まことの羊飼いは、羊のために命を捨てるという聖書のフレーズを知らなければ、危険の中に部下を置き去りにしていく上司の態度が、残酷で無責任だということにさえ、気づかなったかも知れない。

悪魔は、盗んだり、滅ぼしたり、殺したりするために来る。だが、私たちのまことの羊飼いである主人は、私たちに命を与え、しかも、豊かに与えるために来られる。

私たちキリスト者は、自分を生かすことのできる本当の主人を知っている。だからこそ、何が偽りであるかを見分けることができるのだ。

「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。

わたしは負い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は、羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。

わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられr、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。」(ヨハネ10:9-15)

そこで、筆者は、この火急の時に、この世の富にしがみつき、それによって焼け太りする人々がいても、むなしい利益はもう見たくないと、そこから目を背ける。沈みゆく泥船に背を向け、死出の旅路に他ならない片道切符を払い戻し、ソドムを後にしようと決意した。

幸いなるかな、神に逆らう者たちのはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者と共に座らなかったその人。主はその人を緑の牧場に伏させ、豊かな牧草を与え、決して乏しくなることがないよう、取り計らって下さる・・・。
 
だから、誠実な人間を騙し、嘲り、不法と、虐げを重ねて、富を積み上げる罪人の集会にはもう属すまい。

このような言葉で、自分のいた職場を形容せざるを得ないとは、情けないことではあるが、気づくと、そこはすっかり沈みゆく泥船としか言いようのない状態に陥っていたのである。

コロナ禍の襲来がなければ、そのことに今も気づかなったかも知れない。この災いが、物事の真相がよりはっきりと見えるよう、助けてくれたのである。

ただある団体や、理念が異常というにはとどまらず、このような生き方、働き方には先がないということを示してくれた。

それは教会も会社も同じである。一人の指導者のもと、一つの場所に、多くの人々が詰めかけ、同じ時間に、同じ理念、同じ活動を共有し、同じ社員証を身に着け、あたかも、その一人の指導者を礼拝して、そこから命の保障を得ようとするかのように、行動を同じくし、他人に自分の命を預ける生き方が、終わりに来ているのだと…。

そのようなむなしい目に見えるものに、命の保障を見いだそうとする生き方が、破綻したのだと。

そうである以上、見かけ倒しの空虚な美と、呪われたむなしい利益には、もう心を奪われたくない。

そこで、目先の利得に振り回される人が、自分の命も、周囲の人々の命もかえりみず、ただ賃金と地位を得るためだけに、今も我先にと死の中へ率先して突撃して行くような働き方には背を向けて、鳥が飛び立つように、ソドムを逃げ去ることを決めた…。

そうして、筆者はまたしても、御国の利益のための書類作成にとりかかることにして、この記事を書く時間を確保している。
 
今、このような危機的な時代にあって、私たちが、真っ先に考えねばならないのは、神に背かず、良心を捨てず、御言葉に従って、残りの人生をどのように守り、人間らしい尊厳を保って生きるか、ということではないだろうか。

外面の美や、地位や肩書や俸給を保つことではなく、自分たちの内面の美を、良心を、人格を、真に高潔で品性ある人格を、どのように保てるかということではないだろうか。

改めて次の御言葉を思う。

わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。」(ルカ9:23-26)

「信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:31-34)
 
自分の命を救おうとする者は、それを失うとある。筆者は、自分の利益でなく、天の利益を第一として生きたい。

だから、心から祈ろう、我が神よ、私にはこれ以上、偽りの指導者に従ったり、偽りの理想に基づく、むなしい、実りのない生き方はできません。けれども、あなたは私を今日まで助け、守って下さいました。あなたはこれからもただ一人、私を守り、導くことのできる方です。ですから、あなたは必ず、私が次になすべき働きを与えて下さるでしょう。私の誇りはあなたであり、私はあなたを知っていることを幸いに思います。あなたは私の羊飼い、ただ一人のまことの羊飼い、あなたは私をお見捨てにはなりません…。

こうして、一つの街を通り過ぎ、天の都エルサレムへ向かって、筆者の旅路は続く。何度目だろうか、こうして腐敗したレンガの塔の倒壊を見させられるのは。だが、少しずつ、少しずつではあるが、偽りは後退し、あんなにも隆盛を極め、驕り高ぶっているように見えたバビロンにも、己が富を誇る力が失せつつある。確かに、バビロンには、滅びが近いらしい。その高笑いは聞かれなくなり、自慢話は封じられ、美しかった屋根瓦は、一つ一つ剥がれて、崩れ落ちて来ている。

他方、イサクを連れたサラは、まだまだ取るに足りない、か弱い存在であるが、少しずつ、少しずつ、尊厳を身に着け、信仰が力強くなり、勇気を増し加えている。

権勢によらず、能力にょらず、主の霊によって、見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからだ。

いつの日か、偽りの都バビロンは倒壊し、聖なる都である天のエルサレムが、着飾った花嫁として、真の尊厳と美を身にまとって現れる日が来る。

「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(2コリント4:18)
 
わたしの民よ、彼女から離れ去れ、
 その罪に加わったり、
 その禍に巻き込まれたりしないようにせよ。
 彼女の罪は積み重なって天にまで届き、
 神はその不義を覚えておられるからである。
 彼女がしたとおりに、
 彼女に仕返しせよ、
 彼女の仕業に応じ、倍にして返せ。
 彼女が注いだ杯に、
 その倍も注いでやれ。
 彼女がおごり高ぶって、
 ぜいたくに暮らしていたのと、
 同じだけの苦しみと悲しみを、
 彼女に与えよ。

 彼女は心の中でこう言っているからである。
 『わたしは、女王の座に着いており、
 やもめなどではない。
 決して悲しい目に遭いはしない。』
 それゆえ、一日のうちに、さまざまの災いが、
 死と悲しみと飢えとが彼女を襲う。
 また、彼女は火で焼かれる。
 彼女を裁く神は、力ある主だからである。」(黙示18:4-8)

霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。(2)

「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」(マタイ19:11)

わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。」(マタイ19:29)
 
* * *

さて、掲示板での騒ぎのために心痛めている人があるかも知れないので、一言書いておきたい。我々信じる者を巡って起きる対立は、人間的な対立ではない。その背後には、神の霊とそれに逆らう汚れた霊の対立がある。聖書には、次のように書かれている通りである。

「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。ですから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」(エフェソ6:10-13)

私たちが敵としているのは、目に見える肉なる人間ではなく、彼らを導いている悪の諸霊であり、暗闇の世界の支配者、それが率いるもろもろの支配と権威である。
  
はっきり言えば、私たちが敵としているのは、目に見える人間ではなく、彼らの吹き込む嘘偽りの教えである。

人間はたかだか100年ほどしか生きないが、おそらく霊には寿命というものがないのではないと思われる。創世記で蛇の姿をしていたサタンが、黙示録では、年老いた竜になっているところを見ると、サタンと暗闇の勢力にも、年を取るということはあるのかも知れないが、彼らには体がないので、寿命が来て死ぬことはなく、従って、世の終わりが来て、神の永遠の刑罰が彼らに下され、彼らが己が悪行の報いとして、火の池に投げ込まれるときまで、この諸霊どもは生き続けるものと見られる。

つまり、暗闇の勢力に属する悪の諸霊は、神の天地創造からこの方、ずっと変わり映えのしないメンバーで、人類を欺き、惑わし続けているのであって、彼らは自分の体を持たないために、常に宿主となる人間を探し出しては、その人間を通じて、堕落した惑わしの力を行使しようと、この人間を要塞として利用して来たのであって、悪の諸霊の吹き込む嘘を受け入れた人々が、その宿主となって来たのである。

従って、もう一度言うが、私たちが無力化して粉砕すべき対象は、目に見える人間ではなく、また、悪の諸霊それ自体でもなく、その霊どもが、人間を要塞化してそこから宣べ続けている「偽りの教え」である。

悪の諸霊は、人間の手によって根絶されることはない。これを最終的に裁かれるのは神である。従って、私たちの戦いの目的は、悪霊そのものを対処するというよりも、悪の諸霊の述べる嘘に満ちた偽りの教えを粉砕して、彼らの脅しを無効化することにあるということを、いつも覚えておかなければならない。
 
私たちが目にしている人間的な対立の背後には、必ず、霊的な対立が存在する。そこで、もしも我々信者の証しを否定するために、立ち向かって来る人間があるとすれば、その人は自分の考えを述べているのではなく、彼らを導く悪霊の考えを述べているのであって、その究極の目的は、聖書の御言葉を否定することにあると理解しなければならない。
  
私たちは、どのような相手であれ、人に向き合うに当たり、彼らの述べている思想がどのようなものであるかを把握することによって、彼らがどのような霊に導かれて生きているのかを見分けることができる。

聖書が次のように教える通りである。

愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊は、すべて、神から出ていません。これは反キリストの霊です。」(Ⅰヨハネ4:1-3)
  
 さて、当ブログでこれまでずっとグノーシス主義の構造を明らかにして来たのは、それが悪霊の教えの基本形だからである。基本形と言っても、これは聖書をさかさまにしたものであるから、悪霊にオリジナルの教えがあるわけではない。とはいえ、この基本形を知ってさえいれば、悪の諸霊が時代を超えて作り出すすべての思想は、すべてそのバリエーションに過ぎないことが理解できる。

たとえば、長年、当ブログに激しい攻撃を加え続けているカルト被害者救済活動の支持者の一人は、キリスト教徒を名乗っているにも関わらず、自らのブログで、聖書は神の霊感を受けて書かれた書物ではなく、人間が書いたものに過ぎないとか、悪魔もなければ、暗闇の勢力も存在せず、エデンの園で悪魔が蛇の姿を取って現れて人類を惑わせたなどのことは事実でなく、ノアの洪水もなく、聖書の記述を文字通りに信じるなど、精神異常の産物であって馬鹿げている、という見解を公然と述べている。
 
当ブログでは、そのような見解からは、必然的に、乙女マリヤが御霊によって身ごもってイエス・キリストを生んだという聖書の記述などは、すべて「馬鹿げた作り話」という結論しか導き出せず、従って、このような人々は、うわべだけはキリスト教徒を名乗りながらも、結局、イエス・キリストが神の独り子であって、人類の救い主であることを否定しているのだと示した。

このことから、彼らを導いているのは、反キリストの霊であると言える。そして、このように、彼らが、聖書が神の霊感を受けて書かれた書物であることを否定し、イエスが神の独り子なることを否定していることを理解した上で、改めて彼らが当ブログに投げつけている悪罵の言葉を見れば、その内容が、ほとんど彼らが聖書を非難している言葉とほぼそっくりであることも、すぐに分かるはずだと指摘した。

つまり、彼らは聖書が「嘘に満ちた作り話」であると確信していればこそ、当ブログの信仰の証しが「妄想の産物」であるかのようにみなして攻撃・中傷しているのであって、当ブログに向けられた非難は、それを通して、彼らが聖書の御言葉を否定し、聖書の神に敵対するための手段なのである。
 
さらに、彼らが「聖書の記述は嘘だ」と主張していることに加えて、彼らが何より広めたい第二番目の主張は、「神は唯一でない」ということである。
 
当ブログは、「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただお一人なのです。」(Ⅰテモテ2:5)の御言葉に基づき、聖書のただお一人の神以外の「神々」など存在せず、牧師などの指導者は、とどのつまり、キリストになり代わって信者の心を支配しようとしている偶像に過ぎないと主張して来た。

この主張こそ、彼らにとって最も許しがたいものなのである。なぜなら、この主張は、宗教指導者の権威を否定するのみならず、それに属する彼ら自身が、「神々」であることを否定するものだからである。
 
上記のような人々が、すでに心の内で、自分たちを「神々だ」と宣言していることは、これらの人々の一人が「神々の風景」という題名のブログを開設していたことや、当ブログにもかつて書き込みをしことのあるある集会の指導者が、今や「自分たちはエロヒム(神々)だ」と公言している様子を見てもわかる。これは決して偶然ではない。

彼らが言いたいのは、結局、「俺たちは神々だ! それを否定して、神は唯一だなどと宣言する輩は、俺たちの『神聖』を『冒涜』しているのであって、許せない」ということであり、自分たちこそ「神々である」と宣言するためにこそ、彼らは、彼らの考えに大いに水を差す当ブログを、何とかこの世から駆逐しようと、あれやこれやの言いがかりをつけては、当ブログの信仰の証しを否定しているだけなのである。

だが、恐れないでもらいたい。今、掲示板で馬鹿騒ぎを繰り広げている連中は、筆者に指一本触れることはできない(そのようなことは、彼らには許されていない)。彼らにできることは、彼らの偽りの教えを否定し、真実な信仰の証しを続けるクリスチャンに、あらん限りの罵詈雑言を投げつけることで、聖書に基づく信仰の証しを公然と続けることは、ためにならず、危険なことであるかのように多くの人たちに思わせ、信者を威嚇することだけなのである。
 
そこで、筆者は、このような卑劣な脅しには断じて屈しないようにと人々に呼びかけておく。

これまで幾度も書いて来たように、クリスチャンが信仰のために主に献げるものは、すべて前もって、神と信者との間で了承のもとに取り去られるものに限られている。従って、今起きていることは、将来起きることの予表ではあるにせよ、彼らは決して神が許した限度を超えて、クリスチャンに手をかけることは許されていないのである。
  
イエスが何を言われたか、思い出してもらいたい。

「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。
 しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や楼に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。

それはなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。

 あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」(ルカ21:10-19)


このように、クリスチャンが世から憎まれ、迫害を受けるのは、人々の前で立派に信仰を証する目的のためである、と主イエスははっきり言われた。

従って、私たちが迫害を受けたとき、せねばならないことは、人々の前で敵の嘘や詭弁に満ちた主張を、対抗弁論によって毅然かつ堂々と打ち破ることであって、彼らの脅しを恐れて退却することではない。

なぜなら、すでに述べた通り、私たちが向き合っているのは、あれやこれやの人間ではなく、悪の諸霊が吹き込む偽りの教えそのものであって、私たちがなすべきことは、すでに述べた通り、彼らの嘘を指摘し、聖書の御言葉が真実であることを公然と証明することで、大勢の人々に対して行使されている彼らの嘘による脅しと、惑わしの力を、無効化することだからである。

それが、「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく」という言葉の意味なのである。

* * *

さて、今回は、「聖書の記述は嘘だ」という彼らの第一の言いがかりに加えて、「我々は神々である」という彼らの第二の嘘が意味するところについて、重点的に考えてみたい。

なぜなら、聖書のまことの神である唯一の神を否定して、自分たちが「神々である」と詐称することこそ、グノーシス主義思想の最大の目的だからだ。

福音書には、ぶどう園をあずかった悪い農夫たちのたとえ話が複数個所、登場する。

むろん、誰でも知っているように、この悪い農夫たちは、直接的には、ユダヤ人を指す。ユダヤ人たちは、神が自分たちのために遣わされた預言者たちを迫害して殺し、神が独り子なる救い主を遣わされたのに、これをかえって十字架につけて殺した。

そこで、救いはユダヤ人から取り上げられて、異邦人に与えられ、それだけでなく、主イエスを拒んだユダヤ人の都エルサレムは、やがてローマの進軍により滅ぼされ、神殿は石組一つも残らないほど徹底的に壊滅した。

実は、グノーシス主義の構造とは、まさにこの悪い農夫たちの策略そのものであると言える。そして、恐るべきことに、今日、目に見える教会には、まさに神と人とが主客転倒したグノーシス主義の教えが広まり、まさにこのぶどう園の有様が広がっているのである。

今回は、マタイによる福音書からそのたとえ話を引用しよう。

「ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。

さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受けとるために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で撃ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。
 
そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。


さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。

 イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。


 『家を建てる者の捨てた石、
 これが隅の親石となった。
 これは、主がなさったことで、
 わたしたちの目には不思議に見える。』

  だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。

 祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。」(マタイ21:33-46)

私たちは、このたとえを読んで、首をかしげるだろう。一体、なぜこの悪い農夫どもは、ぶどう園の主人の跡取り息子を殺したからと言って、農園が自分たちのものになると考えたのだろうかと。殺人によって所有権を奪うことなどできるはずもないのにと。

全くその通りで、そんな考えが荒唐無稽であることは言うまでもない。しかし、暗闇の勢力は、有史以来、殺人によって神の国(神への礼拝)を正しい人々の手から奪い取ろうとして来たのであって、カインはアベルを殺すことで、神への礼拝を奪い取れると考え、ユダヤ人たちも、キリストを殺せば、自分たちの教えだけが、正しいものとして残ると考え、自分たちが本当は神に受け入れられておらず、全くの罪人でしかないという事実を誰からも暴かれずに済むと思ったのである。

要するに、これらの人々は、本物を駆逐しさえすれば、誰にも本物と偽物との区別がつかなくなり、偽物である自分たちが、正体を暴かれることなく、公然と本物を名乗れるかのように考えたのである。

ここに、「唯一の神から、神であることを奪って、自分たちが神になりかわりたい」というグノーシス主義の究極的な願望が込められていると言える。

当ブログにおいては、グノーシス主義とは、被造物が主体となって、自らの創造主を客体に貶め、被造物が創造主の神聖を盗み出して自ら「神々」になろうとする「模倣と簒奪の思想」であると述べて来た。

要するに、グノーシス主義は、聖書の神と人とを主客転倒した「さかさまの思想」であって、神によって罪に定められ、神聖から排除された、堕落した生まれながらの人類が、自分たちを罪に定めた聖書の神に反逆し、神に復讐を遂げることを正当化するために造り出された思想なのである。そして、もちろん、その起源は、創世記において、人類を誘惑した蛇の教えにある。

グノーシス主義思想が、「擬制(フィクション)としての父の物語」だと言われるのもそのためで、この思想の持ち主は、神の国の後継者ではないのに、後継者であると詐称して、まことの神から、神であることを奪って、己を神としたいからこそ、彼らにとって「父なる神」はフィクションでなければならないのである。なぜなら、本当の父というものがあれば、彼らの嘘がすぐにバレてしまい、彼らは父の圧倒的な権威によって、家を追われることになるためである。
 
聖書において、父なる神は、「わたしは有る」(出エジプト3:14)と力強く宣言される方であって、断じてフィクションなどではない。

お前はわたしの子
 今日、わたしはお前を生んだ。
 求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし
 地の果てまで、お前の領土とする。
 お前は鉄の杖で彼らを打ち
 陶工が器を砕くように砕く。」(詩編2:7-9)

この箇所は、キリストを指したものであるが、父なる神が聖霊によって独り子なるキリストを生んだように、私たちクリスチャンも、バプテスマを通して下からの出自に死んで、御霊を通してキリストによって上から生まれた者たちである。

私たちはこうしてキリストによって、父なる神から生まれていればこそ、この父に、子として何でも願い求めることができるのであり、もしも私たちが「父が分からない」子だとするならば、私たちは信仰によって、何一つ神に願い出る資格を持たない者となる。

「それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。

神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。

もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(ローマ8:12-17)

と書かれてある通りである。

ここでは、神の子供であることを見分けるために、いくつかの条件が提示されている。まず、「神の霊」によって導かれていること。そして、その霊とは、人を恐怖によって奴隷とする霊ではなく、私たちが神の子であることを証する霊であること。

次に、私たちが神の子であるならば、キリストと共に「共同相続人」でもあること。これは私たちが、やがて来るべき新しい天と地で栄光に満ちた贖いに預かることを指している。

さらに、私たちがキリストと共に苦しみを受けることによって、栄光を受けることが出来ること。これはクリスチャンが地上で主の御名のゆえに負わねばならない苦難を指す。

また、非常に重要なこととして、神の霊によって導かれて生きるためには、「肉に従って生き」ず、かえって「霊によって体の仕業を絶つ」ことが必要になる。これは主と共なる十字架の死の効果が、信者の肉に対して絶えず及んでいることを意味するが、このことについては後述する。
   
ところが、被造物を主とするグノーシス主義は、「父なる神」をもの言わぬ「虚無の深淵」や「鏡」に貶め、「存在の流出」という考えにより、あたかも天地万物のすべての被造物は、父なる神の意志によらず、自動的に流出したかのように述べる。

幾度も述べた通り、ここには、父の意志というものが介在しないため、「お前はわたしの子 今日、わたしはお前を生んだ。」という父から子への明白な承認が全くない。それどころか、もの言わぬ「父」は、いるかどうかも分からない存在へと追いやられている。

このようにグノーシス主義は、「父なる神」から発言権を奪った上で、神の姿が水面に映って乱反射した映像から流出して出来たとされる被造物を「神々」として誉め讃えるのである。

このように、まことの神を骨抜きにして、その神から神聖なるリアリティを盗むがごとくに生まれた被造物を「神々」として賛美するという人類の自己満足、自己賛美のために造られた思想が、グノーシス主義である。

どこまでも人類の自己満足、自己賛美の思想であって、それを力強く承認してくれる者の存在がないからこそ、この思想には、この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。と言える「神の子とする霊」「証」の存在はなく、ただひたすら「俺たちの父祖は神だ!俺たちは神の子孫であって、神々だ!」という「自称」の世界が広がっているだけなのである。

しかし、彼らの自己満足にも、決定的に水を差す存在がある。それが、ソフィアの失敗作と生まれたヤルダバオートである。

グノーシス主義においては、地上を支配する醜い悪神ヤルダバオート(デーミウルゴス)は、アイオーンたちのヒエラルキーを飛び超えて、単独で神の神聖を盗もうとして失敗したソフィアの過失の結果、生まれた悲劇の産物であるとされる。そして、これが聖書の創造主(ヤハウェ)と同一視されて、徹底的に悪罵と嘲笑の対象とされるのである。

私たちは、グノーシス主義とは、聖書の唯一の神を徹底的に憎悪し、悪罵・嘲笑することを目的に生まれた思想であることを覚えておく必要がある。

グノーシス主義がヤルダバオートを憎むのは、まず彼の存在そのものが、母としてのソフィアの企ての失敗(被造物の失敗)を示すものであることに加え、彼の外見が、自分たちは美しいと思って自画自賛しているアイオーンたちから見て醜く見え、さらに、何よりも、ヤルダバオートが「わたしの他に神はない」と宣言しているためである。

もちろん、ヤルダバオートのこの宣言は、「わたしは主である。わたしのほかに神はない、ひとりもない。」(イザヤ45:5)などの聖書の神の宣言を、グノーシス主義者が皮肉り、嘲笑するために悪用したものである。
 
つまり、「神々」なるアイオーンたちから見れば、自分一人だけが神であるかのように宣言し、他の「神々」の存在を頑なに認めないヤルダバオートは、「高慢」で「無知」で「愚か」な悪神であって、許せない存在と見えるのである。

それゆえ、グノーシス主義の思想は、至る所で、ヤルダバオートに聖書の唯一の神を重ねて、これを高慢で無知で愚かな神として、徹底的に嫌悪し、嘲笑の対象とするのである。

このように、グノーシス主義が最も憎んでいるのは、神は唯一であって、他に神はいないと述べている聖書の真理なのであって、この思想の持主の目的は、神が唯一であることを否定して、その代わりに、被造物を「神々」に据えることにこそある。

先に結論から述べるならば、掲示板において当ブログに盛んに悪罵の言葉を向けている人々が、当ブログの主張を「高慢」で「狭量」で「僭越」なものであるかのようにみなしているのも、同じ理由からである。

当ブログの信仰の証しを「妄想」や「精神異常の産物」として罵っている人々は、聖書の記述をも、人間に精神異常をもたらすだけの「作り話」だとみなして否定しているだけでなく、当ブログの信仰の証しを「高慢」だと罵ることにより、自分たちこそ「神々」であるとして、唯一の神を否定しているのである。

もちろん、彼らが神の独り子なるイエス・キリストの十字架の贖いも認めていないことはすでに述べた。だとしたら、ただ一人の救い主を信じないのに、自分たちが救われていると自称している彼らは、自分たちが生まれながらにして「神々」だと詐称しているに過ぎない。
 
こうした悪罵の背景には、太古から続いて来た、聖書の神に反逆する思想があるということを、私たちは覚えておく必要がある。

グノーシス主義というのは、初代教会の時代に名付けられた呼び名に過ぎず、この思想それ自体は、もっと前から存在している。その起源は、創世記で人類をそそのかした蛇にさかのぼり、いわば、蛇の教えを体系化したものが、グノーシス主義なのであって、それが多くのバリエーションを作って、世界の宗教、哲学、政治思想などに受け継がれている。
 
結局のところ、世界の思想は、根本的に大別すると、キリスト教と非キリスト教(グノーシス主義)の二つしかないのであって、聖書の御言葉が真理であることを認めない思想は、すべてグノーシス主義のバリエーションとして分類することができるのである。

私たちは、このように、太古から、聖書の唯一神を徹底的に悪罵、憎悪し、神を誹謗中傷の対象として来た悪魔的思想というものが存在し、それが悪の諸霊によって、現代にも、惑わされた人々に連綿と受け継がれていることを理解しておく必要がある。

だから、掲示板における人々の当ブログに対する非難の根底には、グノーシス主義が存在しているのであって、当ブログがこの偽りの教えの嘘を体系的に明るみに出していればこそ、彼らの非難は苛烈を極めるのである。
 
とはいえ、私たちの神ご自身が罵られ、嘲られている時に、私たちがキリストの苦しみにあずかるのは当然であって、それによって、私たちは来るべき世において、主と共に栄光を受けることができるであろう。約束の相続人であるからこそ、キリストと共に苦しむという栄誉も与えられているのである。

わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたよりも前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5:11-12)

話を戻せば、グノーシス主義には、もの言わぬ「虚無の深淵」とされているとはいえ、一応、形ばかりは「父なる神」が存在している。これは「神々」の誕生にほんのわずかなりとも口実を与えるために造り出された、骨抜きにされた沈黙する神であって、すでにフィクションのような存在である。

だが、東洋思想においては、このようにフィクションによって抜け殻と化した「父なる神」すらもなく、万物の生命の源は、公然と「母なる神」(神秘なる混沌)にあるとして、女性原理が神聖なものであるかのように誉め讃えられる。

この「母なる神」(老子によれば玄牝)は、言い換えれば、人間の肉の情欲そのもののである。詳しくは省略するが、東洋思想では、天地万物は、「神秘なる母胎」なるものから、情欲の交わりによって誕生したのだとされ、東洋思想の根本には、堕落した肉の情欲をあたかも神聖なものであるかのように誉め讃える思想がある。

幾度も述べて来た通り、このような思想は、ペンテコステ運動の中にも、「母なる聖霊」論などという荒唐無稽な形を取って入り込み、キリスト教の「父なる神」を骨抜きにし、堕落させようとして侵入しているのは言うまでもない。

このようなものは、要するに、唯一の神を否定して、「父なる神」の戒めなど完全に無視して、己の肉の欲望のままに、あらゆるものと奔放に交わり、無責任に子を生み出し続ける、忌むべき「母」バビロンのことである。

女は紫と赤の衣を来て、金と宝石と真珠で身を飾り、忌まわしいものや、自分のみだらな行いの汚れで満ちた金の杯を手に持っていた。その額には、秘められた意味の名が記されていたが、それは、「大バビロン、みだらな女たちや、地上の忌まわしい者たちの母」という名である。わたしは、この女が聖なる者たちの血と、イエスの証人たちの血に酔いしれているのを見た。」(黙示17:4-6)

(ちなみに、今日、このバビロンが堕落した肉欲の象徴であり、偽りの教えの総体であることを否定する信者はほとんどいないであろう。そして、バビロンがどれほど豪奢に着飾っているかの描写が、次のパウロの言葉といかに対極にあるかもよく分かるはずだ。

「婦人はつつましい身なりをし、慎みと貞淑をもって身を飾るべきであり、髪を編んだり、金や真珠や高価な着物を身に着けたりしてはなりません。むしろ、良い業で身を飾るのが、髪を敬うと公言する婦人にふさわしいことです。」(Ⅰテモテ2:9-11)

ところが、今日、ある人々は当ブログを非難して、このくだりの「婦人」とは、象徴を指すものではなく、文字通りの意味だと主張している。そして、「婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。」(Ⅰテモテ2:12)という続くパウロの言葉を文字通りに解釈し、これを実行すべきだと述べて、彼らの教会の講壇に立っているわけでもない当ブログの記事が、ただ女性執筆者によるものだというだけの理由で、許せないなどと支離滅裂な非難を展開している。

だが、バビロンとの対比によっても、この「婦人」が象徴であることは明らかであり、そうでないと主張したい人は、まずは自分たちの教会の講壇から女性説教者をすべて追放すれば良かろう。そして、自分たちの娘にも、いかなる結婚式やその他の宴会でも、決して高価な着物を着させず、生まれてから一度も髪を編まず、金や真珠を一切、身に着けるのをやめさせると良いのである。そして、教会に足を踏み入れてから立ち去るまで、彼女たちには一言も口を利かないように教えるがよい。それが以上の御言葉を文字通りに受け取ることの意味なのだから、この人々は、まずは自分たちが信じるところを忠実に実践すべきなのである。)

このように、グノーシス主義における「神々(被造物)」とは、本質的にバビロンと同じく、堕落した被造物のうちに働く生まれながらの肉の欲望を「神聖なる女性原理」として誉め讃えたものであり、彼女の行いが悪いからこそ、グノーシス主義者は、「父なる神」には沈黙しておいてもらわなくてはならないのである。

彼らは「父」の戒めに従っていないからこそ、彼らにとって「父」はフィクションである方が都合が良く、むろん、バビロンの姦淫によって生まれた「子ら」にとっても、父が誰かなどといった問題は、タブーであって、放っておいてもらわなくてはならない問題なのである。

このような思想の特徴は、肉に対する霊的死がなく、心に割礼を受けていないという一言に尽きる。

だが、先の御言葉でも、正統な神の国の後継者には、「霊によって体の働きを殺す」という「一つの義務」が課せられている。

「わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。

これが、罪に対する赦しとは別の、キリストの十字架のもう一つの側面である。私たちの旧創造に属する堕落した肉を霊的に死に渡すことのできる絶大な十字架の効力である。

だが、グノーシス主義においては、罪もなければ、十字架もないため、この思想は、人間の肉欲を聖なるものであるかのように褒めたたえるだけで、それに対するいかなる処方箋も提示しない。

グノーシス主義では、天地万物の創造は、真の至高者が、水面に自分の姿を映し出すことによって、そこから「神々」の存在が、映像のごとく「流出」して生まれたとされる。

だが、この筋書きも、人間の自己愛の産物であって、ちょうどギリシア神話に登場するナルシス(ナルキッソス)が、水面に映った自分の映像に恋い焦がれて死んだのと原則は同じである。

ナルシスの悲劇は、「本体ではなく、映像こそが真のリアリティだ!」と宣言して、主客転倒して、本体からオリジナリティを強奪しようとするグノーシス主義者の願望をよく表していると言えよう(だからこそ、しばしばグノーシス主義の研究者らはこの物語に言及する)。

だが、ここで言う「映像」とは、堕落した被造物全体を指すだけでなく、人の肉の欲望そのもののことなのである。

ナルシスは、水面という鏡に自分を吸い取られることによって、本体は虚無であって、映像こそがまことのリアリティだという転倒したものの見方を提示し、その恐るべき思想の至り着く当然の結末として、自分を失って死んだのであるが、ここには、神は虚無であって、被造物こそがまことのリアリティだという転倒した思想が表れているだけでなく、被造物も、肉に対する霊的死など帯びる必要がなく、思う存分、肉欲に翻弄されて生きた結果、肉欲を「主」として、その持ち主たる人間(自分)を「従」として、肉欲に自分を吸い取られることにより、いずれ神にまで至れるとする完全に転倒したグノーシス主義の考え方がよく表れている(むろん、そんなことが起きるはずもなく、彼らを待ち構えている結論は、死だけである)。

ギリシア神話では、あくまで物語の主役は、まだナルシスにあったが、グノーシス主義は、そこからより進んで、主役(至高者)を完全に沈黙に追い込んだ上、ナルシスの自己愛を、水面に乱反射させるようにして「神々」という形で結実させる。そして、この「神々」の動向の方に巧妙に物語の中心を移していく。そして、東洋思想になると、形骸化して沈黙する「父」もいなくなり、被造物(「母」)だけが勝ち誇っている。

無限とも言えるほどにたくさんの鏡、数えきれない映像、それらがせめぎ合って、みな本体を押しのけては、自分たちこそ本体だと、真のリアリティだと叫ぶ――これは、東洋における八百万の神にも通じる考えであって、グノーシス主義のアイオーンたちの形成する世界と同じものであり、現在、掲示板で起きている現象そのものであると言える(彼らは無数の鏡を作り、そこに当ブログについても悪意ある歪んだ映像を作り出し、それがリアリティであるかのように叫んでいる)。

これらの「神々」は、すべて時期尚早に結ばれた肉の実、「ハガルーイシマエルーバビロン」の系統に属する、心の割礼を受けない堕落した人類の欲望を表している。

自己愛というのは、自己保存願望と同じである。そこで、「神々」などと言っても、結局、グノーシス主義における「神々」の正体は、煩悩とでも呼んだ方がふさわしい、数えきれない欲望を表しているだけなのである。それらの欲望の中で最たるものが、人類が自力で子孫を残し、自己保存することによって、神の永遠にまで至り着きたいという願望である。

その欲望が、老子の言う玄牝であり、東洋思想の神秘なる混沌であり、グノーシス主義における最初の被造物にして万物の母なるバルベーローであり、これらはすべて人類の肉の欲望の総体である「ハガル」を象徴し、最終的には「大淫婦バビロン」に至り着くものである。

旧約聖書におけるサラは、アブラハムの妻であったにも関わらず、自分に子が生まれないことに悩み、このままアブラハムの家の子孫が絶えては困るという考えで、肉なる力によって、アブラハムの血統を保存しようと、自分の代わりに奴隷のハガルをアブラハムに差し出した。

この時点では、サラは神の御言葉の成就を待てず、「霊によって体の働きを殺す」どころか、肉の思いによって、早々に実を結ばせようと、奴隷を主人に差し出して、苦しみを招いてしまう。

だが、ここで言う奴隷のハガルとは、罪と死の奴隷となって、絶えず死の恐怖に追い立てられている人類の肉欲そのものであって、何とかして死に至る前に、自力で死に打ち勝って、永遠に至り着きたいという、人類の焦り、恐怖を指している。

つまり、「ハガル」とは、罪と死の法則によって支配され、「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊」の象徴であると言えよう。

人類の肉の欲望は、何であれ、すべて究極的には、死の恐怖に追い立てられて生まれる自己保存願望である。

そこで、グノーシス主義とは、心に割礼を受けていない、人を奴隷として恐怖によって支配する霊、堕落した肉欲の実を結ばせようと願う「ハガル」という母胎を、あたかも神聖なものであるかのように誉め讃え、ハガルの生み出す肉の実によって、神に喜ばれる信仰によって生まれる聖なる約束の子を駆逐し、消失させようという思想であると言える。

そこで、ぶどう園の悪い農夫たちは、みな「ハガル」の子孫である、と言えよう。彼らは、アブラハムの正式な妻であるサラから生まれた約束の子を殺して、奴隷のハガルから時期尚早に生まれた子を跡継ぎに据えれば、神の国を強奪できるだろうと考えた。

彼らの言いたいのは、こういうことである、「本物を殺して、コピーだけを残せ。そうすれば、俺達がコピーであって模造品に過ぎないとは、誰にも分からなくなり、俺たちの犯罪行為はかき消される。」

「本物の信仰の証しを地上から消し去り、神の子供たちをインターネットから駆逐しろ。そうすれば、何が本物で、何が偽物かなどと、誰にも分からなくなる。本物の神の子供たちを教会から追い出せば、神の国の後継者を名乗れるのは、俺たちだけだ。俺たちは神々であって、神聖で侵すべからざる存在だ。俺たちを冒涜する者は、誰でも同じ苦しみに遭わせてやれ。」

それが、この悪い農夫たちの悪質な企みであり、いわば、悪魔の教えの根幹であると言えよう。そして、このような盗人・人殺しによって支配されるぶどう園の行く末がどうなるのかは、聖書に書かれている通りである。

今日、無数の「ハガルの子孫たち」が現れて、自分たちは神の国の後継者だと詐称しては、聖書のまことの神に反逆し、キリストに連なる神の子供たちを教会から追い出し、彼らに憎しみを燃やして迫害を繰り返している。そして、すでに地上の目に見える教会は、これらの詐称者によって占拠されてしまった。だからこそ、このような場所からはエクソダスせねばならないし、彼らの偽りの教えに加担してはならないと言うのである。

* * *

霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。」(ガラテヤ5:16-17)

霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制である。これらを禁じる掟はありません。」(ガラテヤ5:22)

キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」(ガラテヤ5:16-25)



「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。
 そして、彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 だから、あの者どもの中から出て行き、
 遠ざかるように』と主は仰せられる。
 
 『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる。』
 全能の主はこう仰せられる。

 愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」(Ⅱコリント6:14-18,7:1)

* * *

最後に、冒頭に挙げた御言葉は、私たちが神に従う上で、肉による下からの生まれに死ぬのみならず、肉による絆、魂の愛情にも死なねばならない時があることをよく示している。

あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。<略>また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。」とある通り、時には、親族や、兄弟や、友人からさえも、迫害されて、厳しい試練を通過せねばならない場合がありうることが予告されている。

だが、それゆえに、イエスは
「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。」(マタイ19:29)と言われ、迫害に耐え抜いたことに対して、大きな栄光があることを約束されたのである。

だが、ここには、妻と夫との関係だけは含まれていない。それは、妻と夫の関係は、血縁によるものではなく、キリストと教会を予表するものであるため、信仰による迫害によって捨てなければならないものの中に含まれていないのである。

しかしながら、冒頭に挙げた通り、「
天の国のために結婚しない者もいる。」と、主イエスははっきりと述べ、それを受け入れられる心のある人は、そうした心構えで生きるようにと勧められた。パウロも、これに準ずる考えを述べている。

ところで、夫と妻との関係を論じるに当たり、ある人々は、
「不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」(マタイ19:9)というイエスの御言葉を取り上げて、聖書は絶対的に離婚を禁じていると主張しているが、「不法な結婚でもないのに」とある通り、イエスはそこに例外をもうけられたことに注意が必要であろう。

このことについて、終わりのない愚かしい議論を繰り返している人間どもがいるため、そういう彼らには、サドカイ派の人たちの質問を裏返しにして、お尋ねしたい。

たとえば、カルト被害者救済活動の指導者は、カルト宗教で、指導者が信者に「神の啓示」として命じた結婚は、解消しても構わないと触れ回っているが、それはイエスの言われた
「不法な結婚」に相当するのか、しないのか。

さらに、ある人が結婚して、二人か三人の子供をもうけた後に、自ら家族を捨てて、しばらく経ってから、誰か別の、誰とも結婚したことのない若い人をつかまえて、その人の無知と弱みにつけこんで、結婚したと仮定しよう。しばらく経ってから、その人は、その若い伴侶を捨てて、さらに別の若い人を見つけて結婚したとしよう。そうして、七度、その人は、家庭を築き、その度毎に、子をもうけるか、もしくはもうけないで、伴侶を捨てて、ついには独身になった。そのような場合に、その人が地上で築いた七つの家庭のうち、その人が離婚を禁じられた伴侶とは、誰(何人)を指すのか。

この質問にきちんと答えられる人が、他者に向かって石を投げつければ良いのである。だが、果たして、これに答えられる人間が、目に見える教会や指導者にしがみつき、それを己が神聖の根拠であるかのように主張している信者の中にいるのかと疑問に思う。

要するに、愚かでむなしい議論にははまらないことである。

エクレシアのまことの伴侶はキリストであるから、信者は地上の移ろい行くものに心を留めないで、真っすぐに神の国を見上げて生きるのが、最も賢明な策であることは、誰にも否定できない事実であろう。


生きることはキリスト――私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。

「もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。

というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。

また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。」(Ⅱコリント5:13-16)


ここで、パウロは「人」という言葉を、キリストにある新しい種族だけを指すものとして使っている。キリストにあって生まれておらず、キリストを信じてもいない滅びゆく古き人は、ここで言う「人」の概念には含まれていない。

そこでは、キリストにあって生まれておらず、信仰によってキリストの死と復活に同形化されてもいない、地上の出自しか持たない滅びゆく罪人は、あたかも「人」の範疇には全く含まれていないばかりか、存在すらもしていないも同然である。

それは、ここでパウロが使っている「人」とは、誰よりもキリストご自身を指すからである。つまり、真の人間、神がかくあれかしと造られた人間、神の御心を完全に満足させる、真に人間らしい人間は、キリストただお一人だけであり、そのキリストから生まれ、キリストに結びついている者だけが、「人」と呼ばれるに値する、というわけなのである。

「人間的な標準で人を知ろうとはしません」という表現は、信者のことを指しているのかと思いきや、すぐにキリストのことであると示される。

その後には、「だれでも キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」というあの有名な言葉が続く。

この文脈は、キリストのうちにある人は、誰もがキリストに属する新創造であり、真に人間らしい人間なのであるから、もはや誰も古き人の性質(人間的な標準)に従ってその人を知る必要はない、ということを意味する。

もっと言うならば、新創造とされた信者は、キリストに限りなく近しい人間であり、キリストご自身と全く同一ではないにせよ、キリストが内に住まわれ、キリストという「型」を内にいただいて生きているので、たとえキリストとは別個に、自分の人格を持っていても、キリストと分かちがたく一体となって、キリストの性質を帯びて生きているのである。

だから、その信者が地上の旧創造であるアダムの生まれとして、いかなる性質を持っているか、聖別は、国籍は、肌の色は、外見は、性格は、経歴は・・・などと言った事柄は、もはや知る必要もないほどまでに些末なことだ、というのである。信者が知る必要があるのは、その人の人間的な特徴ではなく、キリストに属する性質だけだ、と言うのである。

ところで、筆者は、罪と義認についてのあの長い説明をそろそろ離れたいと思っている。キリスト教は、いつまで経っても、悔い改めと、罪の赦しと、血潮の話を繰り返しており、その堂々巡りから先に、ほとんど歩みを進めていない。

今日キリスト教と思われている教えの中には、あまりにも多くの誤謬があるように思われてならない。そして、その誤謬は、人をいつまでも弱さと罪の中に閉じ込め、永久にその弱みから自由にさせない束縛の枷として機能している。

たとえば、キリスト教にはあまりにも多くの聖書と無縁の地上的な運動が入り込み、その結果、あたかも慈善事業の場のようになった。人の貧しさや病や弱さを美徳のように考え、虐げられた人々や、犠牲の死を美化する思想などがキリスト教に入りこんでいる。

しかし、このようなものはキリスト教ではなく、共産主義思想を含む、偽りの弱者救済の思想から来たものでしかない。そのように人間の弱さや、苦しみや、犠牲を美化する思想を信じている限り、信者はずっと「人間的な標準」の中に閉じ込められ、神がキリストの十字架を通して信者に約束して下さっている自由と解放には決して達することがない。

病や虐げや貧しさや死は、みなこの世における罪や、悪魔の働きの結果もたらされるものであり、これ美化し、これを後生大事に握りしめながら、同時に、キリストの復活の命を知って自由になろうとするのは、エンジンとアクセルを同時に踏んで前へ走ろうとするのと同じくらい不可能なことである。

そこで信者は、もし心から信仰生活において前進したいという願うならば、貧しさや病や虐げと手を切り、これらを憎むべきものとして退けて、御言葉によって否み、神が天に用意して下さった命の豊かさにあずかることを目指して、前へ向かって進む必要がある。

なのに、なぜ多くの人たちにはそれができず、前進をためらっているのか? それは、その人たちが自分の弱みを捨てることをためらう何かの理由があって、あるいは、弱者であることから来る特権に心奪われ、あるいは、自己憐憫に溺れ、あるいは、人からの同情を受ける心地よさに安住し、さらには、弱者が弱者を支配して虐げるという構図があって、その中で義理や人情によってがんじがらめにされており、あるいは、人が人の弱みにつけこんで、助けてやるふりを装いながら、他人を精神的に支配し、搾取するという偽りの「救済システム」に取り込まれ、あるいは、信者が信者を「弟子化する」という序列と支配のシステムの中でがんじがらめにされているために他ならない。地上には、あたかも弱者に優しく手を差し伸べてやるように装いながら、決して弱者を弱者であることから逃がさないようにする幾多のシステムが存在する。

だがもし信者が本当にキリストの命にある自由を知りたいと思うのであれば、そういった人が互いの弱さをかばい合うという名目で、その実、弱さを手がかりに他人を支配するために作られた、アダムの命に基づく腐敗した支配と搾取の自己防衛の共同体(「イチヂクの葉同盟」)を脱出しなければならない。

そのために、信者はまずは自分自身の人間的な弱さと手を切る必要がある。それはただキリストにあってのみ可能である。アダムの命にあってアダムの命の弱さを否むことは誰にもできないことであるが、神の強さにすがり、これに覆われることによって、人は、誰からも同情されたり、助けの手を差し伸べられたり、哀れまれたり、教えられたりする必要のない、真に自立した自由な人であることができる。神に贖われた信者は自由であり、彼を巡る「負債」はもはや存在しないのである。

このことは、信者のアイデンティティが、限界と不足ばかりの、罪に堕落したアダムの命にある自分自身から、キリストの満ち足りて不足のない永遠に聖なる命に移行することを意味する。キリストにある時にのみ、信者はどんな状況にあっても、自分には何の不足もなく、弱さもないと言うことができる。

だが、人間的な標準によって自分をとらえ、それによって自分の限界を自ら規定している限り、信者はキリストの満ち満ちた性質を真に知ることはできないだろう。なぜなら、アダムの命が主張することは、常に不足、不足、弱さ、弱さばかりであって、この命は信者に何も自由を与えないからだ。他方、キリストの命にあるのは、満ち足りた豊かさ、そして自由である。一体、どちらの命に立脚して生きるのか、それは、信者自身が実際に決めることである。

あまりにも多くの人たちが、誰からも同情される必要のない自立した自由な人間になることよりも、人に同情され、注目される心地よさを失わないために、弱さから抜け出られない人生を自ら選び取るのはまことに奇妙で愚かなことに思われてならない。

あまりにも多くの人たちが、人前にか弱い人間のように振るまった方が、自分が愛らしく映ると思い込み、世から憎まれたり攻撃されないために、積極的に弱いふりをさえ装う。しかし、そうこうしているうちに、その弱さが、演技ではなく事実となって、あっという間に、病や死や貧しさとなって信者の人生を飲み込み、食い尽くしてしまうのだ。

ある意味で、罪の告白もこれとほぼ同じ作用を信者にもたらす。一部の信者たちは、自分が救われる前にどんなに罪深い人間であったか、自分の古き自己がどんなに汚れた罪深い性質を持つものであるか、絶えず人前に告白して、神と人に赦しを求めることが、信仰生活に必要であるかのように思っている。

しかし、そのような告白は、あまりにも多くの場合、現実の信者を全く改善しないばかりか、より深く過去に目を向けさせ、過去の罪と手を切れないようにし、自責の念からいつまでも抜け出せないようにしてしまう。

信仰のない世の人々の場合であっても、同じ過ちを延々と繰り返し続けては、判で押したように同じ謝罪を続けるのは、進歩のない証拠であり、開き直りと思われるだけである。その謝罪の言葉が誠実さの表れと受け取られることはまずない。

神に対しても同じである。だから、信者はいつまでも同じ罪の告白ばかりを繰り返すのはやめて、自分自身の思いを変えるべきなのである。アダムの腐敗した命を自己のアイデンティティと思うことをやめ、それが十字架において死に渡されたことを宣告し、キリストにある新しい命、新しい人格を、自ら選び取るべきである。

「人間的な標準」で自分を推しはかり、いかに自分が罪深いかという性質にばかり目を留めて、懺悔に明け暮れるのでは、前に進んでいくことは決してできないし、自分で過去を引き戻しているのと同じである。

たとえば、贖われた信者の救われる前の罪深い過去なるものは、神の目の前に死んだも同然で、意味をなさない。にも関わらず、神にとって存在しないものを、なぜ信者がいつまでも引っ張り出して来ては、延々と繰り返す必要があるのか? こうして、いつまでも罪深い過去ばかり振り返って、懺悔を続けていれば、誰にも新たな出発など出来はしない。どちらかの自分と手を切って、一歩を踏み出さねばならないのだ。 キリストの復活の命によって生かされた新たな自己と、新たな生き様を、信者は自らの信仰によって選択せねばならないのである。
   
筆者は決して、ここで信者にとって罪の悔い改めや赦しが全く必要なくなると言っているわけではなく、また、救われたと同時に、信者が聖人君子になるわけでもないことは承知している。キリストの命にあっての信者の心や行動の変化は、一朝一夕に起きるものではなく、徐々に続行して行く。むろん、地上にいる限り、人間から単数形の罪の性質が消えることはなく、従って、信者が血潮による清めを必要としなくなることはない。

だが、たとえそうであっても、信者はこれ以上、アダムに属する人類の罪なる性質がいかに恐ろしく堕落しているか、いかにそれが信者にとって逃れ難い悪質な罠のようなものであって、自分はそれに苦しめられているか…といった敗北的な話ばかりを延々と続けるのはやめた方が良いと考えずにいられない。

そのようなことは、もはや言うまでもなく、信者であれば誰でも知っていることであるが、我々はそろそろ、アダムの地表を離れて、キリストの地表に立たなければならないのである。アダムの性質という希望のない地表からいい加減に目をそらし、神が喜ばれ、神の御心にかなうキリストのご性質とはいかなるものなのか、キリストの持っておられるすべての豊かさと美徳を、信者は自分自身にも確かに付与されたものとして理解し、その命の領域に生きることが必要だからである。

「生きることはキリスト」という確信が、信者に必要なのである。

信者には、これ以上、人間的な標準で自分自身を知ろうとしないことが必要である。なぜなら、贖われた者は、もはや自分自身のために生きているのでなく、神のために生きているのであって、信者自身、もはや信者のものではないからである。

にも関わらず、信者が自分をあたかも依然として自分のものであるかのように見つめ、これを握りしめ、自分勝手に評価したり、定義することは許されない。神が贖われた者をどのようにご自分の御心に従って造り替えられるかは、神が決められることであり、信者は、それにとやかく言わず、贖われた自分が、もはやかつての自分ではないことを認めて、自分が神の永遠のご計画の一部として、キリストの新しい命によって生かされていることを認め、受け入れるべきである。

こうして、大胆な確信に立って「生きることはキリスト」と言える信者が、ほんの100人ほど現れただけでも、我が国は、いや、世界は全く違った有様になることであろう。

そのためにも、信者には、パウロが「人間的な標準で知ろうとしない」と述べたように、もはや「余計なものを見ない」という姿勢が信者にとって重要である。これは信者が罪深い性質に開き直ることを意味しない。信者はその古き性質を憎むべきものとして理解し、全力でこれを否定しようとしている。だが、たとえ御言葉による古き人との訣別の方法がまだ具体的に分からず、信者の目には罪と失敗と無益な思考錯誤の繰り返ししかないように見える時でさえ、信者はそれらの古き性質を自分自身のアイデンティティとして受け止めるのではなく、キリストにあって贖われた自分自身の新たなアイデンティティを見つめ、これを信仰によって掴むのである。

地上にある限り、信者はこの地上の生まれから完全に解き放たれることはない。だが、それにも関わらず、もはやその古き性質に従って、キリストをも自分自身をも知ろうとしないのある。

イミテーションの宝石は、どんなに数が多くても、本物にはならない。十字架において死んだ古き人の性質に目を向けて、どんなにそれを批判してみても、そこから本物の性質が理解できるわけではない。本物を理解するためには、ただ本物だけをまっすぐに見つめなければならない。

そういう意味において、信者は自分自身を含めた「人」や「人類」という言葉を、アダムに属する罪深い絶望的な種族としてのみとらえるのをやめて、キリストにある「新しい人」こそ、本当の意味での「人」であり、それこそが、神の目にリアリティであることを見る必要がある。そして、自分はすでに古き人類の一員ではなく、この新しい「人」の中に加えられたことを見る必要がある。

すでに新しい世界が出現しているのに、ずっと古い世界にこだわり続けて、価値ある重要なものを見失うほど愚かなことはない。

神は贖われた信者を、もはやアダムの命にある古き人としては見ておられない。生まれたての未熟な信者であってさえ、神の目にはキリストと同じく完全なのである。それはキリストの贖いの御業のゆえであって、信者が霊的に進歩したからではない。だが、信者は、それでも、神がご覧になるように、自分を見、そして、神がキリストにあってその信者のために備えて下さった新しい完全なる人格という霊的事実を、実際として地に引き下ろすべきなのである。その時こそ、「生きることはキリスト」という事実が、自然と信者の中において実際に成就するであろう。


御霊に導かれて歩む(1) 御霊によって肉の働きを識別して、これを否んで霊に服従させる

全てのクリスチャンは、キリストと共なる十字架のより深い働きを知る必要がある

 さて、今回のテーマは、クリスチャンがどのようにして御霊の導きに従うのか、ということです。

 クリスチャンは、救われたにも関わらず、いつまで経っても、世の罪人と同じように、各種の罪の誘惑、不義なる思いにからみつかれたまま、それに打ち勝つこともできずに、同じところを行ったり来たりして、前進のない敗北的な信仰生活を送る必要など全くありません。

 実のところ、クリスチャンがそんな歩みをずっと続ける必要は全くなく、それは神の御心でもないのです。しかし、肉の力によって罪の力に打ち勝つことは誰にもできませんから、ここに、この世の法則や、人の堕落した肉の力をはるかに超えたキリストと共なる十字架の霊的死の働きが必要となります。
 
 アダムは創造された時(まだ堕落していなかった時)、神と交わることのできる霊を与えられていました。それは神の霊(聖霊)ではなく、人の霊であったけれども、アダムはその霊によって神に従い、神と交わることができ、彼の魂と肉体は、彼の霊に服従していました。

 神と交わることのできる霊を与えられていること、それが、あらゆる被造物と人間とのはっきりした区別です。

 堕落する以前の当時、アダムの中では、崇高な霊が最も高い地位を占め、それに魂と肉体が従うという優先順位が守られていました(霊→魂→肉体)。

 しかし、アダムが堕落した後、人の霊の機能は死んでしまい(もしくは機能不全に陥った)ため、魂と肉体を統率することができなくなりました。

 それ以後、生まれながらの人の霊は、神に対して閉ざされた状態となり、むしろ一部の人々にあっては、悪霊に対して開かれているような機能不全の状態となり、さらに、人の霊と魂と肉体の優先順位が覆されてしまいました。

 人の中では、堕落した肉が王座についたため、人は罪の奴隷となり、人を導くものは、霊ではなく、肉となったのです。
 
 また、神のいましめに逆らって善悪を知る木の実を選んだことにより、人の魂も、神によらない偽りの知識によって高ぶりました。人の魂は、御言葉を退けて、自分勝手な基準で、自ら善悪を判断するようになりました。

 今日、文明が発達した結果として、人間はあらゆる知識を蓄え、己が知性を誇ってはいますが、それでも、人間の魂の知識は人をただ不幸な暗闇へと導くだけで、何の救いももたらしてはいません。

 こうして、堕落した肉(魂+肉体)が人の中で最高位を占めるようになり、真理を知らない魂が、霊に代わって人を治めるようになって、肉→魂→霊、と優先順位が転倒しました。

 その結果、人は霊によって自分自身を治めることができなくなり、誤った偽りの知識と、肉の欲望の奴隷となったため、人の人生にはあらゆる悲惨や混乱がつきものとなりました。人は生まれてもただ暗闇の中をさまよい、罪と死に至るだけです。再生されていない人は、どんな努力によっても、その状態を変えることはできません。

 しかし、人が罪を悔い改めて、御子イエスの十字架の救いを信じて神に立ち返ると、血潮によってあらゆる罪から贖われます。そして、聖霊がその人のうちに住まわれることによって、人の霊も生かされます。

 しかし、多くのクリスチャンは、その時点では、罪が赦されたことと、御霊が我がうちに住まわれたことをただ信仰によって信じているだけで、聖霊の導きをまだはっきりと内に感じることはありません。

 彼は霊によって導かれる人にはまだなっていません。また、肉の誘惑に打ち勝つことができる力もほとんどありません。自分を覆っている無気力や、挫折感、罪深い各種の誘惑や、失意の念がどこからもたらされているのかも知らず、これに打ち勝つべきであることも知りません。

 そのような時点でのクリスチャンは、まだ生まれたばかりの肉的なクリスチャンで、思いを識別することもできませんし、罪に勝利する力もほとんどありません。ある日、涙ながらに、罪と訣別する決意をしても、翌日には、また罪に戻っているような有様です。しばらくの間は、救われる前に耽溺していた罪との格闘、そしてそれに打ち勝つ力がないための敗北が続くでしょう。

 そのような時点でのクリスチャンの中には、一生懸命に聖書を読み、御言葉を知識として蓄積し、主のために多くの活動をする人たちがいますが、依然として、彼の活動の内には、聖霊の命が働いていません。そのため、彼の働きはその熱心さにも関わらず、実を結ばず、ただ余計なおせっかいのようになるだけか、もしくは死んだように力がありません。

 この時点でのクリスチャンは、まだ、肉→魂→霊という転倒した優先順位の中で生きています。神のための奉仕ですら、肉の力によって決行しています。

 このような信者が、御霊に導かれる人となるためには、まずは上記の順位を覆し、肉体と魂を霊に服従させ、御霊の導きの下、人が自分自身の内側で、霊を真の主人とならせることがどうしても必要なのです。

 そのために、信者は、肉体と魂に働く古い性質を、御子の十字架を通して死に渡す必要があります。


十字架には肉の働きに対する霊的死の効果がある
 
 多くのクリスチャンは、御子が達成された十字架を、ただ罪からの贖いとして受け取るだけですが、実際には、御子の達成された十字架にはより深い働き――肉の働きに霊的な死をもたらす効果――があります。

 なぜなら、キリストの十字架は、彼を信じる全人類の罪深い肉そのものに対する死の刑罰だったからです。
 
 このようにして、キリストの十字架における霊的な死が、信者の肉に適用された時に、初めて、信者は、自分の肉体や魂に働く、古き悪しき性質が、キリストと共に十字架で死に渡されたことが事実であること、そして、キリストの復活の命にある新しい法則が、自分のうちで実際により深く、より力強く働くようになるのを知るでしょう。
 
   私たちは肉が罪なる性質を持っていることを知っています。御言葉はこう述べます。
「肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、享楽、および、そのたぐいである。」(ガラテヤ5:19-21)

 これらの肉の働きが邪悪なものであることはあえて説明する必要もありません。しかし、ここに、うっかり見落としてしまいがちな点があります。それは、肉は不義をなすことができるだけでなく、善を成し遂げることもできるということです!
 
 一般的なクリスチャンの多くは、一生懸命に日曜礼拝を守り、早天・徹夜・断食・祈祷などに参加し、献金を捧げ、トラクトを配り、救いを知らない魂をキリストに導くために、考えうる限りの「良い活動」に真面目に従事しようとしています。

 あるいは熱心に祈りと賛美を捧げ、自他を楽しませる各種の奉仕活動に従事しています。
 
 彼らは外面から見れば、まっとうな、とても立派なクリスチャンのように見えるかも知れませんし、自らそう信じ込んでいる人々も多く存在することでしょう。

 確かに、彼らは自分たちは世の罪人よりははるかにましな生活を送っており、自分達は肉的でないとさえ思っています。しかしながら、多くの場合、彼らには、表面的な正しさはあっても、神の命の現われがありません。むしろ、実際に、信仰生活の前進のなさに悩んでいることさえ多いのです。

 なぜそのようなことが起こるのでしょうか。

 それは、その人が依然として、肉に頼って善行を行っているからであり、肉により頼んで、聖霊に従おうとし、肉により頼んで、神を喜ばせようとして、むなしい努力を続けているからなのです。

 彼らは肉そのものが神の目に忌むべきものであることを知らず、また、自分たちの伝道や祈りや奉仕が、肉によって持続されていることを知らず、自らの肉が御子の十字架ですでに死に渡されたという事実にも立っていません。

 私たちは、肉には邪悪な働きがあるだけでなく、一見、善のように見える働きもあるということを、よく覚えておく必要があります。しかし、善のように見えようと、悪のように見えようと、依然として、「肉から生まれる者は肉」(ヨハネ3:6)であり、「肉にある者は、神を喜ばせることができない」(ローマ8:8)のであり、「肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反する」(ガラテヤ5:17)のです。

 残念ながら、クリスチャンは、肉において礼拝を捧げ、肉において祈り、肉において賛美をし、肉において奉仕をし、肉において献金をしたりするということが、実際にあり得る(むしろ、大いにあり得る!)ということに注意せねばなりません。

 いかにそれが人の目に敬虔な礼拝のように見えようと、もしその礼拝が肉によって捧げられているならば、それは神の目に忌むべき礼拝なのです。

 このように言うと、「もはや何が正しいのか、私には全く分からなくなりました」と言う人が出て来るかも知れません。「自分では良いと思っていた奉仕さえ、肉によって成し遂げられていたかも知れないというなら、私はもうどうしたら良いか分かりません。」と。

 私は思うのですが、そのような場合は、今まで「神のために」行って来た活動をいったん脇に降ろすことをお勧めします。そして、改めて主が、あなたに一体、何を望んでおられるのか、それが明確に見えて来るまで、性急に動くことなく、神に直談判して熱心に問いかけつつ、神と深く交わりながら、御心を探ることをお勧めします。神の御心にのみ、心を傾け、人の忠告には耳を傾けないのが良いでしょう。
  
 さて、肉による善は、肉による不義ほどまでに、汚れたものに見えないかも知れませんが、実際には、神から見て、肉による悪と同じように、滅ぼされるべき、呪われた「肉」なのです。そのことを知らないで、依然として、肉による善行に頼って生きていることが、多くのクリスチャンが信仰生活において敗北する原因となっています。それがどれほど熱心に奉仕しても、それがいかなる実をも結ばないどころか、いずれその礼拝が、神の御心に反する効果を生む最たる原因なのです。
 
 また、ここではあまり深く触れませんが、悪魔は、信者の魂と肉体の領域に、霊の感覚の偽物を作り出すことができます。素晴らしい賛美や、祈りや、各種の大会など、感覚的に喜ばしい体験を通じて、信者の心を虜にして、「こんなに心地よく素晴らしい体験が起きるのだから、自分は聖霊に従っているのに違いない」と思わせながら、偽りの霊的体験の中を歩ませることができるのです。

 このような感覚的な欺きにとらわれないためにも、信者は、何が「良い」ものであり、何が「悪い」ものなのか、自分の感覚によって判断するのではなく、御霊の導きによる識別力が必要です。また、自分の肉に働く感覚的誘惑に対して、十字架における霊的死を経る必要があります。

 信者が肉の邪悪な働きに対して死ぬためには、キリストと共なる十字架の霊的な死のより深い理解、より深い適用が必要です。それを実際としてくれるのが、御言葉です。
 
 
キリスト・イエスにつく者は自分の肉を十字架につけてしまった
 
 さて、十字架のより深い理解と適用とは何でしょうか。それは、信者の肉は、すでにキリストと共に十字架につけられて死んだ、という事実を信じ、それを信仰によって、信者が自分自身に適用することです。
 
「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ5:24)
 

 信者は、御言葉に基づいて、神の事実を堅く信じ、キリストと共なる十字架における肉の死が、信仰を通して自分自身にも適用されたことを信じて受けとる必要があります。

 神の事実とは、御子イエスが十字架にかかられ、肉体に死なれた時、御子を信じる全ての信者の肉も、彼と共にはりつけにされて死んだ、という事実です。信者の肉も、主と共なる十字架においてはりつけにされ、死刑宣告を受け、裁きを受けて死んだのです。

 私たちが自分の肉を十字架につけるために、新たな十字架を作り出す必要は全くありません。それはすでに御子が達成されたのです! 御子イエスが十字架において、その肉体に死なれた時、彼はご自分の肉の中に、信じる者全ての肉を含められました。

 彼はご自分の肉の中に、滅ぼされるべき全ての肉を含まれたのであり、そこには私たち信者の肉も含まれている、という事実を信者は信じ、そこに立脚しなければなりません。

 その事実は、信者の現在の状態とは全く関係ありませんし、信者にそのような「実感」があるかどうかとも関係ありません。信者が今現在、敗北的な生活を送っているのか、それとも勝利の生活を送っているのか、そのどちらなのか、といった感覚的・現象面の問題や、あるいは、信者が生きている時代が、御子の歩まれた時代とどれほど遠かろうとも、関係ありません。

 御子イエスの十字架は、時空間に関係なく永遠に達成された神の事実なのです。ですから、信者は、時空間を超えて、自分の個人としての特徴や限界をも超えて、永遠において信仰によって(!)、その事実の中に入りこみます。

 こうして、信者は信仰によって、主イエスと共なる十字架に入りこみ、これと一体化し、その事実を永遠から、今の自分の存在する時空間に、信仰によって引っ張ってきて、自分自身に適用するのです。

 信者はただ自分の現在の限界あるみじめな状態だけを見つめて、それを基準として、御言葉を信じられるかどうか判断すべきではありません。御子イエスが、すでに私たちの肉を十字架上ではりつけにし、死に渡された、という神の事実を信じ、神の永遠の事実を現在の自分に適用すべきなのです。
 
 信者がキリストと共に十字架上で自分の肉が死んだことを信じ、その事実を経験として知るためには、言葉において、声に出して、御言葉を宣言し、自分に適用することも有効であると私は思っています。

 そのようにして、確信をもって事実の中にとどまるならば、信者はある時、本当に、自分の肉の働きが十字架につけられて死んでいることを実際に経験するでしょう。

 
肉の各種の働き(心の思い、計画、提案)の出所を御霊によって見分ける

 信者は、御子イエスの十字架の、このようなより深い理解と適用によって、それまでどうしても打ち勝つことができなかった自分の肉の罪深い欲が、死んだように鎮まり、肉の罪なる性質から解放されたという経験を持つかも知れません。

長年、悪いと分かっていながらやめられず、どうしても打ち勝つことのできなかった罪深い習慣が、主と共なる十字架の死が実際になった時、打ち砕かれた、という体験をするかも知れません。
 
しかし、このようなことは、肉に対する十字架の霊的死の適用の最初の第一歩に過ぎません。
 
悪習慣が打ち破られたことは、肉に対する霊的な死が適用されたことの現れではありますが、そのような経験があったからと言って、そこで、信者はあたかも自分が全く聖なる者とされ、肉から完全に解放され、もはや肉を死に渡す必要が一切なくなったかのように思うべきではありません。
 
なぜなら、それは肉の働きに打ち勝つためのほんの最初の一歩に過ぎないからです。信者が常に目を覚まして、御霊によって導かれ、「霊によって体の働きを殺す」(ローマ8:13)ことを続けないならば、肉はまた別な方法で信者を虜にし、罪の中へ落ち込ませるだけでしょう。
 
そこで、信者にはさらなる前進が必要です。あれやこれやの悪習慣が取り払われたといったところで満足して終わるべきではありません。

ですが、前進と言っても、「一体、何が肉の働きであり、何が御霊の働きなのか」、信者自身が、明確に識別できるようにならなければ、何に打ち勝つべきなのかすらも分かりません。

罪深い各種の欲望は、誰にでもすぐに肉の働きであることが分かりますので、キリストと共なる十字架の霊的な死の意義を知っているならば、信者が、自分の魂にそのような悪しき思いが去来した時、その虜にされずに、その欲望を十字架において否むことは、比較的容易です。

しかしながら、肉の働きは、すでに述べた通り、誰にでもすぐに「悪いもの」と分かるような形ばかりを取ってやって来るわけではありません。御霊によらない悪魔的な知恵が、あたかも「善良な」知恵のように、信者の心に思い浮かぶこともありますし、人からの「良さそうな提案」の形でやって来ることもあります。

ですから、信者は、自分の中に思い浮かぶ(もしくは人から提案される)さまざまな計画、思い、願い、知恵などが、一体、どこから来たものなのか、それが本当に神の御心にかなうものなのか、その出所を識別する力を養わなければならないのです。

そして、神から来た提案であれば、それを採択し、神の御心に反するものであれば、十字架においてこれをきっぱり退ける、ということをせねばならないのです。

神から来たのでない提案であっても、「良さそうだから」という理由でどんどん受け入れていると、信者の人生が破滅することになりかねません。しかし、人自身の知恵によっては、何が正しく、御心にかなう知恵で、何がそうでない悪魔的な知恵なのかを、自分の力だけで、完全に識別することはできないのです。

ですから、それを見分ける力を与えてくれるものは、御霊です。御霊による識別力というものが、信者が神の御心に従う上で、極めて重要になって来るのです。


御霊によって物事の限度や節度をわきまえる

さらに、信者は、何がどの程度、自分に許されたことであるのか、その限界をも、御霊によって識別することを学ばねばなりません。

たとえば、信者は、地上での肉体を持つ人間ですから、毎日、食べたり、飲んだりして、自分を養わなければなりません。信者が食べたり飲んだりすること自体が、「肉欲に従う罪深い行為」であるわけではありません。もしそうならば、信者は絶食の果てに死ぬことしかできませんが、そのようなことは神の御心ではありません。

しかし、もしも信者が「飲んだり、食べたりすることは罪ではない」からと言って、過度に食べたり、飲んだりしていれば、当然ながら、それは不健康の源になって行きます。

働くことも同じです。健全な自立を保つために働くことは有益ですが、あまりにも働きすぎていれば、当然ながら、体を壊しますし、生活も秩序を失っていきます。

ですから、信者は自分に許されている罪でない事柄が数多くあったとしても、一体、どの程度であれば、それが自分に有益なのか、適切な限界や、節度といったものも、御霊によって識別する必要があるのです。
 
どんなことでも、一定の限度を超えて、むさぼるようになると、それは神の御前に罪となって行きます。それは音楽を聴くことや、交わりを楽しむことや、あらゆる「無害」に見える行為に同じようにあてはまるのです。何事も、信者は自分を失うまでに没入すべきではありませんが、信者に健全な自制心や、我を忘れさせるような限界点が来る前に、「これ以上は危険ですよ」というシグナルを、御霊は的確に与えてくれるのです。その時に、御霊の警告を無視して突き進むと、信者の人生に何らかの害が及ぶことになります。

しかしながら、御霊の導きを最初から信者が完全に識別することは難しい、と私は思います。信者の歩みは一足飛びにはいきません。まずは罪深い悪習慣の虜から解放されなければならなかったように、学習は少しずつ進みます。何が御霊の導きであるのか、信者がそれを非常に繊細な感性を持って細部に渡るまで敏感に受け取り、見分け、従うようになるまでには、時間がかかるのです。
 
しかし、たとえその学習の過程で、明らかに御霊の導きと分かっていたものに、信者が従いそこなって、何らかの害を受けたり、罪の中に逆戻りするようなことがあったとしても、信者はそこで落胆すべきではありません。

そのようなことは、確かに、失敗に見えるかも知れませんが、同じ失敗でも、以前のように、何も理解していなかったがゆえに、ただ状況に翻弄され、罪の虜になっていただけではありません。それは、一定の気づきを伴った失敗です。信者はどうすれば、そのテストに合格できたのか、今や自分で知っています。
 
ですから、次に似たようなことが起きる時、以前のような行動を繰り返してはなりません。そのようにして取り組んでいくうちに、信者は、罪に対する勝利の力が自分の内にあること、内におられる御霊が、必要な知恵を供給して下さることを徐々にはっきりと知るようになるでしょう。

信者は、たとえ最初からすべてがうまく行かなかったとしても、あくまで御霊から来たのではない肉の働きを十字架において否む、ということを続けて行かねばなりません。その試みをずっと続けているうちに、やがて、たとえ肉の誘惑は依然として存在しているようであっても、罪にはもはや信者を奴隷として支配する力がない、ということを見いだすでしょう。
   
人間は地上にある限り、肉体という幕屋から逃れることはできません。それは、信者が生きている限り、肉の誘惑と100%無縁の人生を送ることはできず、また、霊によって体の働きを殺す必要性から完全に解放されることもできないことを示しています。

しかし、だからと言って、悲観したり、絶望したりする必要はありません。

キリストという完全な模範がおられます、そして、この方が信者の内に住んでおられるからです。キリストは私たちと同じように、弱く限界ある肉体を持って、地上で生活を送られました。しかし、それにも関わらず、肉の誘惑に従って罪を犯すということがなかったのです。サタンと、罪と、この世にすでに打ち勝ったキリストが内におられる限り、信者には、霊によって肉を治めることが可能なのです。信じて下さい。それはキリストによって可能なことなのです。


御霊によって肉を治め、神への従順を成し遂げる新しい人

もう一度言います。信者が地上にある限り、肉そのものが消え去るわけではありませんが、信者がこれを治めることは可能なのです。

信者は、死に至るまでの従順によって、神の御心を完全に満足させたキリストのゆえに、自分自身の肉を治めることができますし、またそうすべき立場にあるのです。にも関わらず、信者が肉によって治められ、翻弄されている状態こそ、あるべきではないのです。
 
かつてカインがアベルに嫉妬し、弟を殺そうと企てたとき、神はカインに向かって「罪が戸口であなたを慕って待ち伏せている。あなたは罪を治めなければならない」と語られました。

今日、神を信じている信者が、嫉妬ゆえに誰かを殺そうと考えることはまずないと思いますので、ここで、どうやって「殺意に打ち勝つか」という方法について語る必要はないものと思います。しかし、それでも、信者は、各種の罪深い思い(御霊から出たのでない思い)の誘惑に取り巻かれて生きていることは否定しないものと思います。その中には、まことしやかに善良な知恵を装って近づいて来る悪しき思いもあります。

こうした、御霊から出たのでない思いが、自分に忍び寄って来る時、信者はその出所を巧みに見分けて、神に喜ばれない思いを「治める」(=十字架において否む、勝利する)術を学ばなければなりません。

誰が見てもそうと分かる罪深い悪習慣に打ち勝つ以上に、これは重大で困難な学課です。なぜなら、もしそれができてさえいたならば、アダムもエバも、蛇の提案に耳を貸すことはなかったはずだからです。アダムもエバも、カインのように低級で俗悪な罪の誘惑に負けたのではありません。彼らは一見「良さそうに」見える提案の出所をきちんと識別できずに、欲に誘われて行動してしまったゆえに堕落したのです。

ですから、今日、信者にとって極めて重要なのは、すべての知恵が神から出たものではなく、たとえ良さそうに見えても、悪魔から来る知恵、悪魔から来る提案、というものが確かに存在しており、それらが信者を慕い求め、信者を堕落させようと、絡みついて来ていることに気づき、そうした思いや計画の出所を御霊によって見分け、神から来たのでないものを退ける秘訣を学ぶことなのです。

このように、信者が神から出たのでない知恵をすべて見分けた上で、これを否み、治め、無効とすることが求められているのです。

それが、パウロの書いた、「私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に 逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに 服従させ、 また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意が できているのです。」(Ⅱコリント10:4-6)ということの意味なのです。

人は、神によって地を治めるべく創造されたわけですから、人はその思い、行動によって、神の権益を代表して立たなければならない存在です。そのために人は造られたのです。
 
第二のアダムであるキリストが神への従順を成し遂げたにも関わらず、今日の信者が、最初の人アダムと同じように、悪魔の権益の代表者となって肉によって治められて生き、堕落していてはいけないのです。

今日、信者に必要なのは、あたかも神から来たように装いながら、人を堕落させるだけであるサタンの高ぶりに基づく偽りの「知恵」をことごとく見抜いて、これを否み、撃退し、その誘惑に勝利して、自分自身の思い、行動、すべてをキリストに服従させて、霊によって治め、神への従順を成し遂げることです。

キリストが成し遂げられた御父への従順を、信者もまた地上において成し遂げるよう期待されているのです。キリストがおられるがゆえに、信者にはその可能性が開かれました。

そのようにして、御霊の導きに従い、神の御心に従って「地を治める」ことが、信者の使命です。アダムが失敗して成し遂げられなくなった使命を、キリストにあって成就するのです。そうなった時にのみ、人は神にかくあれかしと造られた被造物本来の健全さ、美しさ、尊厳、輝き、を取り戻すことができるでしょう。

また、その時こそ、人の支配が、地に実りと調和をもたらすようにもなるでしょう。信者がキリストに似た者となるので、信者による霊の支配も、神の栄光を如実に反映させるものとなるのです。