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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:48)

今週一週間も、またしても、多くの学びある時を過ごした。

このところ毎日のように、暗闇の勢力の圧迫に立ち向かうことを学ばされている。毎日、何も起こらない日がないのである。電車に乗れば、人身事故で大幅な遅延が起きて予定が狂ったり、平穏な朝を迎え、駐輪場にバイクが止めたかと思えば、もう夕方には思いもかけない突風が来て車が倒れている。我が家の鳥たちにも、動物たちにも、日々、様々な変化が起き、油断して隙を作らないように、色々なところに心を配らなければならない。
 
このような種類の圧迫は未だかつてなかったものであり、時が縮まっていることを強く感じざるを得ない。時代が新たなフェーズに入っており、霊的な防衛の盾をはりめぐらさなければならないことを感じる。しかし、こうした圧迫に立ち向かうことは、決して困難ではない。
 
そのために必要なのは、何よりも、周囲でどのような出来事が起きようとも、決して、出来事の表面的な有様に心を奪われて、失望したり、落胆することなく、毅然と心の中で顔をあげて、これらの一つ一つの出来事の只中で、死を打ち破ったキリストの復活の命に立って、死の圧迫を打ち破るために立ち向かうことである。

その中で、「かめの粉は尽きず、瓶の油は絶えない。」と以前に書いた通り、享楽的な生活を送るほどにまで有り余る資産はなくとも、貧しすぎて生きていけないほどの困窮を通らされることもなく、神の守りの中で、自分の資産を心配していちいち数えたりせずとも、必要なものがすべて天から供給されて与えられ、行きづまることがないのを知らされている。
 
多くの信仰の先人たちは、最後のなけなしの資産をもなげうって、主のための奉仕に邁進したが、その中で、彼らは、自分たちの生計を神が不思議な方法で維持して下さったことを証ししている。まさにその通りのことが、筆者の身にも起きており、信仰による明け渡しの度合いは、年々、深まっている。ただぼんやりと「神が守って下さる」と考えるのではなく、筆者の限られた知恵の中に、主が働いて下さり、何をどうすべきか、教えられているがゆえに、守られているのである。

もし上からの知恵がなければ、筆者のように平凡な人間の生活は、昨今の凶悪なご時世の中で、とうに破滅して終わっていたことであろう。それほど不思議な力が臨んで、筆者の生活は守られ、生かされ、支えられているのである。

そこで、筆者は、どんなことでも、神に率直に打ち明けて助けを乞うことをお勧めしたい。

かつて筆者に向かって「神には泣き言であろうと、怒りであろうと、不満であろうと、恨み言であろうと、愚痴であろうと、どんなことでも、正直に思いの丈を打ち明けて、まさに神の胸ぐらをつかむような勢いで直談判することも許されるのですよ。そういう正気さも神は重んじて下さるのですよ」と助言した信者がいた。

その頃から、筆者は、愚痴や弱音や泣きごとのようなことでも、神には恥じることなく率直に打ち明け、解決を得ることを続けて来た。神は真実なお方であるから、私たちが助けを乞うているのに、それを退けたりはなさらない。こうして相談する先があればこそ、筆者は行きづまることがないのである。

だからこそ、筆者は、すべての信者に、自分の主張を神に率直に打ち明けることをお勧めする。

この世でも、自分の権利をきちんと訴えなければ、それが認められることはない。たとえば、裁判は、ただ人が受けた被害を取り返す目的のためだけに起こされるものではない。そもそも、自分がどんな権利を持っているのか、どのような人間であって、どう扱われるのがふさわしいのか、自分自身の完全な権利を自覚することなくして、不当な主張に立ち向かうことは誰にもできない相談である。

筆者がこれまで常にカルト被害者救済活動を批判して来たのは、この活動を支援する人々(カルト被害者を名乗っている人々ではなく、被害者を支援すると表明している人々)が、常に自分には何の弱さも落ち度もなく、困っているのは自分以外の誰か他人であると主張して、いつも他人ばかりを助けようとする一方で、自分は神に助けを求めないためでもある。

一体、彼らはどういう動機から被害者を支援すると言っているのか、定かでない。おそらく、彼ら自身も、どこかの時点で、教会やキリスト教につまずいて、心の傷を負った被害者なのだろうと思われるが、彼らは決して自分の心が傷ついていることを認めず、自分が被害を受けたとは主張せず、自分の弱さ、自分の脆さ、自分の恥、自分の心の傷を、頑なに認めず、覆い隠しながら、傷ついて助けを求めているのは自分ではなく、他の誰かであると言って、常に自分以外の誰かに、自分の弱さを転嫁して、他人を助けることで、自分を救おうとするのである。

だが、それは彼らが自分の真の姿を否定して、自分を救うために行っている代償行為であるから、そのように他者を助けることによって、彼らの傷ついた自己が癒されることは永遠になく、彼らの弱さが取り除かれて、問題が解決することもない。マザー・テレサのように他人を助けていれば、社会からは、善良で思いやり深い人間であるかのように高く評価されるかも知れないが、その一方で、彼らの心の中では、他人を助ければ助けるほど、ますます自己の孤独が深まり、神が分からないという闇が深くなって行くのである。

それは彼ら自身が、常に他人の弱さだけに注目し、決して自分の弱さ、自分の行き詰まり、自分の問題を見ようとしないためである。そうして彼らが神の助けを乞わないので、神ご自身も、彼らから遠のいて行ってしまい、彼らの抱える問題にはいつまで経っても解決が与えられないのである。

それに引き換え、他人がどうあれ、自分の抱える問題を真正面から見据え、自分の問題の解決のために、なりふり構わず、率直に弱さを認めて天に助けを乞うことができる人は、問題から抜け出すスピードも速い。

裁判では、緻密な証拠の裏づけ、法的根拠の裏づけを確保した上で、自分の主張を明白に提示せねばならないが、そのようにして明白かつ合理的に自分の主張を行えば、多くの場合、その主張は認められる。しかし、主張しなければ、初めから願いが認められる見込みもない。

この法則は、霊的な世界においても適用されるのであって、神に対して(もしくはサタンに立ち向かって)、自分の権利がどのようなものであるかを強く主張せず、暗闇の勢力からいわれのない非難を受けても、黙っており、自分の権利を少しも取り戻そうとしない人間は、決して不完全な状態から脱する見込みがないばかりか、いずれその非難が現実になってその人の身に成就してしまうのである。

このことは、悪人に立ち向かって、彼らに自ら報復を加えよと言っているのでは決してない。裁判では主張できない多くの被害がこの世に存在することは確かであり、筆者がここで述べているのは、たとえに過ぎず、何よりも、信者が神に対して自分の弱さを認め、自分の問題を率直に認めて神に打ち明けて、真に完全な人となるために、御言葉が約束してくれている権利に基づき、上からの新たな力を乞い、神に解決を求めることの重要性である。そのように主張する根拠となるのが、真の意味での人権意識なのであり、その人権意識は、聖書の御言葉に立脚するものなのである。

この世の法廷闘争においては、憲法を最高法規として、法が規定する人権の概念に基づき、自己の権利を主張するが、霊的な世界において、我々が自分の権利を主張する根拠となるのは、キリストが獲得された完全な人としての権利である。

我々はキリストの贖いの完全性に立って、これを穢し、否定するすべての主張に立ち向かうのである。

もう一度言うと、筆者がカルト被害者救済活動を決して認めることができないと主張するのは、これまで幾度も述べて来た通り、この活動を支援する人々が、あたかも被害者を助けてやるように見せかけながら、被害者を永久に被害者の鎖につないだまま、栄光を搾取する道具とし、彼らが被害から立ち上がって、神の完全な救い、完全な贖い、完全な回復に到達して自由になることを決して許さないためである。

このような活動は、労働者が手っ取り早く仕事を見つける手助けをしてやるように見せかけながら、労働者の賃金を中間搾取する人材派遣業や、信者が神の御言葉を受けとるためには、牧師の手助けを受けなければならないとする牧師制度によく似ており、要するに、人間の弱みをダシにした霊的中間搾取の手法でしかないのである。

牧師制度は一人一人の信者を、まるで母親の乳房にすがりつく赤ん坊のように、牧師という存在から離れられない依存状態に押しとどめ、決して信者が自立して御言葉の糧を一人で得て咀嚼できる大人に成長することを許さない。そのように信者を霊的な赤ん坊のような弱さの中に閉じ込めることによって初めて、牧師は信徒の弱さに付け込んで、信徒の助け手として、手柄を得ることができる。

同様に、カルト被害者救済活動は、被害者を永久に被害者のままにしておくことによって、初めて被害者を支援する人々に栄光をもたらすのである。

しかし、私たちは、自分が霊的にいつまでも後見人や保護者を必要とする子供ではないことを知っており、不要な松葉杖を捨てて自力で立ち上がる必要がある。いつまでも自分を半人前に押しとどめようとする圧力に屈してはならないのである。

このことは、別なたとえで言えば、最近、自動車業界で起きた完成検査不備の大規模なリコールを思い出させる。そこでは、資格を持たない者が完成検査を行ったため、一度は完全であると宣言されて公道を自由に走っていたはずの車が、リコール対象とされ、再び不完全なものであるかのように検査を受けなくてはならなくなったのである。

私たちはキリストの十字架の贖いを信じて受け入れることにより、一度限り永遠に罪赦されて、完全な贖いにあずかり、神の目にキリストと同じく完全な人として受け入れられる資格を得たはずである。

それにも関わらず、一体誰が、その贖いが成就した後で、神の贖いには不十分なところがあったかのように、私たちが不完全な人間であるかのように非難して、私たちを罪に定めることができるのであろうか。

もしそんな主張が成り立つならば、神が一度限り永遠に、私たちを完全な存在として受け入れられ、私たちを自由とされた宣言は、間違っていたことになる。そのように一旦、自由が宣言された後で、神の検査は、実は不完全なものであって、私たちは再び、何者かによって、自由を取り上げられ、罪ある不完全な存在であるかのように、再検査の対象とされなければならないのだとすれば、そんな救いに何の価値があるだろうか。

そんなことがあって良いはずがない。神の検査は、真の資格者による検査であるから、その検査に合格した者に、後になって不備が見つかることは絶対にあり得ないのである。それにも関わらず、その検査に不備があったと訴えている者がいるとすれば、それはまさに虚偽であって、「兄弟たちを訴える者」による不当な告発に他ならない。

筆者がこの世の裁判において証明しようとしているのは、まさに以上の事柄なのである。暗闇の勢力は、何とかして神が義とされた者たちを訴えて、再び有罪を宣告しようと願っているが、それは虚偽の訴えであるから、ことごとく打ち破られて、退けられることになる。

神は私たちの潔白を公然と立証して下さる。私たちはリコール対象ではなく、神の目に、いかなる不備も落ち度もない完全な存在として受け入れられている。現実の私たちは、土の器なので、あれやこれやの弱さや、未熟さや、不完全さが見受けられるように思われるかも知れないが、それにも関わらず、私たちに対して神の贖いが及んでおり、神の目には、私たちはキリストと同じ完全な人として受け入れられているのである。

そこで、私たち自身が、自分の表面的な有様にとらわれることなく、自分たちの真の人権(キリストが何者であるかという事実)に立脚して、自分の権利を主張して譲らず、私たちを訴えて再び有罪を宣告しようと願っている暗闇の勢力からのすべての圧迫に対して、毅然と立ち向かって、虚偽の主張を退けなければならないのである。

かつて筆者を刑事告訴すると予告して来た人間がいたが、その計画は、筆者が予想した通り、成就しなかったことを思い出してもらいたい。その者は筆者を罪に問うことができなかったのである。

それと同じように、この度も、裁判の過程で、筆者に対して中傷行為を行っていた一人の牧師が、その記事を自ら取り下げると宣言した。その牧師は、決して自己の過ちを認めたわけではないにせよ、筆者に有罪を宣告して謝罪を迫った自分の主張を押し通すことを断念せざるを得なくなったのである。

このように、筆者を無実にも関わらず罪ある者として訴えようとするすべての主張は、この先も、ことごとく打ち破られて行くであろう。

そして、それは筆者自身だけの力によるものではなく、筆者の弁舌の巧みさや、裁判の風向きによるものでもなく、ただ神の完全な贖いが筆者に臨んでいることの明白な証明なのである。要するに、神が筆者を贖われたのに、その後で、筆者を訴えることのできる人間は、地上には一人もいないという事実が立証されているだけなのである。

しかし、繰り返すが、筆者の外見および地上の人間として筆者が持っている能力は、平平凡凡なものに過ぎず、何の偉大さもきらびやかさもないため、この先も、そのように取り立てて偉大ではない筆者の外なる人の要素だけを見て、筆者を蔑んだり、軽んじようとする人間は現れるかも知れない。

だが、そのようなことも、ほんの表面的な有様に過ぎない。脆く儚い土の器としての信者の外なる人の中に、神のはかりしれない力が働いているのが現実なのであり、その力こそ、キリストの復活の命であり、その力が筆者の朽ちゆく不完全な外なる人を覆っている以上、信者の表面的な有様だけを見て、神が贖われた信徒に挑戦しようとする人間は、結果的にしたたかな敗北を見るだけである。

ところで、話題が変わるようだが、多くのキリスト教徒を名乗る人々が、異端の方向へ逸れて行ってしまうのは、彼らが神を自分が享楽を得て、偉大な存在になるための手段として利用しようとするためである。

聖霊派の集会では、絶え間なく、キャンプやら、聖霊待望集会のような、非日常的で享楽的な催し物が開かれている。筆者は聖霊派には属さないゴットホルト・ベック氏の集会においても、同じように、絶え間なく「喜びの集い」が開かれていることの異常性に、疑問を呈したことがある。

一体、これらのお祭り騒ぎ的イベントは、何を目的として開かれるものなのか? 吟味して行けば、これらのイベントは、みなそれに参加する信者らに、「神」を「体験して味わう」という一種の恍惚体験、享楽的感覚を与えるものであって、信者が「神」を口実にして、神秘体験を通して快感を得るための手段でしかないことが分かるだろう。

信者が神に従う過程で、不思議な出来事は幾度も起きて来るが、しかし、神はあくまで私たちが僕として服し、その命に従うべき主人であって、私たちが快感や満足を得るための手段ではないし、自分を偉大に見せかけるための手段でもない。

それにも関わらず、神を自分が楽しみを得るために、また、自分を偉大な存在とする目的で食する秘密の果実か何かのように扱うならば、たちまち、その信者は異端の方向へ逸れて行ってしまう。それは神と人の主従関係が逆転するためであり、そのような考えはすべて神秘主義から来ている。

そこで、筆者はこれらの恍惚体験をもたらす感覚的享楽をもたらすイベントは、すべて本質的に悪魔的なものであると断言して差し支えないものとみなしている。それが証拠に、こうしたイベントに参加した信者らは、異口同音に、自分たちが他の団体の信者らよりもすぐれて真理を知っており、高みに引き上げられているかのように述べて、他の信者を見下げ、優位を誇るようになる。そのような高慢さが公然と信者らの言動に現れることが、何よりも、これらのイベントが本質的に悪魔的なものであることの明白な証明であると筆者は感じている。

このようにとんでもない思い違いに至って、神を己を偉大とする手段として利用しないためにこそ、神は愛する子供たちに、あえて弱さや、圧迫や、苦難の中を通らせ、私たちが常に自己の限界の中で、率直に神の助けを呼び求めて、上からの力にすがらざるを得ない状況に置かれるのである。

そこで、もしもある信者の生活の中に、全く苦難もなく試練もないのだとすれば、その信仰生活は何かが根本的におかしいのだと断言して構わない。

私たちの外見も、神の助けを得たことにより、立派になったり、偉大になったりするわけではなく、私たちの生活が、神の助けを得たことにより、飛躍的に悩み苦しみの一切から解かれるわけでもない。

むしろ、一つの事件に劇的解決が与えられても、次にそれよりもさらに高度な試練が待ち構えている。神の助けは常に、私たちが頭を低くして、圧迫や蔑みや嘲笑や誤解をも甘んじて受けながら、それでも、それらの圧迫や苦難に信仰によって毅然と立ち向かう時にこそ、与えられる。

繰り返すが、神の御前に私たちが己を低くするとは、私たちが不当な蔑みや嘲笑にいつまでも翻弄されて、どんなに侮辱されても、それに受け身に甘んじることを意味しない。私たちは、不当な訴えには、毅然と立ち向かい、潔白を主張して虚偽を粉砕せねばならない。

しかしながら、それと同時に、私たちが不当な訴えを受けることによってこうむる痛み苦しみは、神の目には、私たちが御前に己を低くして、試練を耐え忍んだことの証として評価されているのであり、私たちがそうした圧迫の中でも、自分を確かに保って、虚偽の訴えに屈することなく、神の贖いの完全に立脚して、御言葉によって神の完全を主張し続けた努力は、天において高く評価されるのである。

こうして、神の偉大な力は、常に私たちの弱さとセットになって働くのであって、私たちの生来の気質として与えられた器用さや、能力、才覚などが、そのまま神の力として働くわけではない。だからこそ、周囲の人々は、私たちを守り、支えている力が、私たち自身に由来する力でないことを知って、これに瞠目し、驚嘆せざるを得ないのである。
  
霊的な法則性は、霊的な事実に従って、自己の権利を主張したものが勝つというものである。主張しなければ、どんな権利も認められない。だが、デタラメな主張でも、主張しさえすれば、認められるというものではなく、私たちは正当な根拠に基づいて、権利を主張しなければならないが、何よりその根拠となるものが、聖書の御言葉なのである。

そこで、筆者は決して自己の権利のためだけに、各種の訴えを出しているわけではない。筆者を贖われた神がどういう存在であるか、神が私たちに約束して下さった御言葉がどれほど確かなものであるかを公然と証明するために、一連の主張を行っているのである。
 
御言葉は、キリストが神の御心を完全に満足させたことにより、御子を信じる私たちも、キリストと同じように、神の目にかなう者とされたと述べている。だからこそ、私たちを訴えることのできる者は誰もいないのである。そして、この御言葉は、「しかし律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしいのです。」(ルカ16:17)とある通り、私たちが目の前に見ている天地万物、神羅万象、私たちの朽ちゆく外なる人を含め、すべての滅びゆく目に見える被造物にまさる神の永遠かつ不変の事実なのである。

私たちはキリストのゆえに、律法の要求するすべての厳しい検査に合格して義とされ、自由とされた。それにも関わらず、私たちが再び律法の検査に不合格とされて、リコール対象とされることは決してない。つまり、私たちが公道を思いのまま自由に走る権利は、神に由来するものであるから、私たちに不完全を言い渡してこれを取り上げて、検査対象に引き戻すことのできる者はどこにもいないのである。

冒頭に挙げた御言葉は、前後の文脈を読むと、あたかも悪人に対する寛容さを求めるものであるかのように受け取れないことはないが、筆者は、この御言葉は、信者が、神を信じる人に対しても、そうでない人に対しても、自分に与えられた贖いがどれほど完全なものであるかを絶えず証し続けることの重要性を述べたものであると理解している。

神が完全であるように、私たちも完全な者になるとは、決して私たちが自力で弱さを克服して一切の未熟さや落度のない偉大な存在になろうと努力することを意味せず、ただ私たちが自分がどのような者であれ、どんな状況の只中であろうとも、御言葉の約束に立脚して、自分に与えられた救いの完全さを信じて、神の完全な力が自分を覆うよう、神を信じてより頼むことを意味するだけである。
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二つの出来事 主が与え主がとりたもう(2)

私は関東に来てから、自分の職業を今後、どう定めるべきか、
ずっと祈り求めて来ましたが、その中で、
常に心に迫って来るように感じられたことが二つあります。

その一つは、ハドソン・テイラーが中国伝道に出発する前にしていたと同様に、
私は将来を拘束されるような契約に縛られて働いてはならないということ。
二つ目は、経済において、今後、ただ主にのみより頼む覚悟を決めなければならないということでした。

歴代のクリスチャンたちがそうしてきたように、
今、ただ信仰のみを頼りに生きる決意を固める誠実な働き人であるクリスチャンたちが、
主によって求められている、という感じがあるのです。
しかし、多くの人は、私がこのように言えば、仰天するだけでしょう。
テイラーが言われたのと同様に、そんな大冒険は、今の世には通用しないから、
やめた方がいいよと言われるでしょう。
にも関わらず、その考えは、日に日に強くなっていくのです。

それでも、つい最近まで、私の心には邪心とも言えるような一つの願いがありました。
それは、かつて私が自分の職業であると考えていた研究者に
何とかして戻ることはできないだろうかという願いでした。

研究者になるということは、24時間、研究のために心を捧げることを意味します。
霊によってわきまえるべき御言葉を糧として、主のためにのみ心を捧げて生きるということと、
人が魂によって描いた文学の研究者になることは、両立しません。
それでも、未だ日々の糧を得る手段が確保されていないという不安も手伝って、
せっかく新しい生活の展望が開けたのだから、それと同時に、
何か奇跡的なめぐり合わせによってでも、かつての道に復帰できないだろうかという願いが、
私の心の中に残っていたのです。

最近、私はある兄弟にこのように愚痴を言いました。
「私はこれまで一度たりとも、定職というものに就いたことがありません。
世間で認められるまともな仕事に就いて、満足できるお給料をもらったことがないのです。
それは、不幸なめぐり合わせによって、私が不況に直面してしまったせいです。
私が経験した仕事は、ことごとく、まともな俸給のもらえない仕事ばかりで、
さらに、私が持っている唯一の誇れる専門知識が生かされる仕事には、
まだ一度も就くチャンスが与えられていません。

主は、一度でいいから、私に専門知識を生かして生きる道を与えて下さらないでしょうか。
一度でいいから、私は故郷の人々に認めてもらえるようなまっとうな職業について、
安定した生活を送ってみたいのです。
一度でいいから、家族に安心してもらいたいし、自分も幸せを享受したいのです」

そんな話と前後して、つい最近、海外の本屋さんから、ある報せが届きました。
それは私がずっと前に注文していた資料が入荷したという報せです。
それは私が博士論文を書いていた頃に探していた資料の一つで、
当時には、事情があって、見ることのできなかった資料でした。

このテーマで論文を執筆するために必要な資料の全体のうち、
すでに90%以上を私は集めています。
その多くは苦労を伴って手に入れたものです。
ですから、できるならば、今後、すでに書いた論文をより発展させて、
もっと大きな論文を仕上げたい、という願いが私の心の中に残っていました。
まだその研究をやり終えていない、という心残りがあったのです。

そんなわけで、書籍の入荷の報せが届くや否や、私は早速、支払を済ませました。
ところが、待てど暮らせど、本が発送されたという通知がありません。

一体、どうしたのだろうか、といぶかっているうちに、どうやらこれは、
主の御心を問うてみるべき出来事だということが、次第に分かって来ました。

一冊の本くらい、御心をあえて問わずとも、簡単に購入できるだろう…
と高をくくっていましたが、実はそんな簡単な問題ではなかったのです。
その一冊の本を購入するかどうかに、実に、主の御心に対する
私の誠実さ全体がかかっていたのです。

資料は待てど暮らせどやって来ません。
日が経つに連れて、私は研究者に戻るべきではない、という感じが募りました。
見えない神の御国のために働くという仕事と、己の功績をこの世で打ち立てることを最終目的とし、人としのぎを削りながら、見える世界で、魂の領域に没頭して働くということが、両立しうるはずもありません。
主イエスに従い、御国のための働き人となると宣言した人が、どうやって御言葉を捨てて、人の言葉を研究する立場に戻れるのでしょうか。
その矛盾はますます明らかになっていくばかりでした。

そこで、私はついにこう祈らざるを得ませんでした。
「主よ、私の心の中に、研究者になることへの未練がありましたことをお許しください。
けれども、どうか分かって下さい、私の職業といえるものは、それだけだったのです。
私はこれまで膨大な時間と資金を費やしてその専門を学んできたのです。
にも関わらず、本領を発揮するチャンスさえ、一度も与えられませんでした。
そして、今、私には日々の糧を得る手段が明確に与えられていません。

今、ここで、改めて、私はあなたの御心を問います。
私はあなたのために生涯を捧げる決意を固めた者です。
あなたの御旨を第一として生きるべき者です。
もし、私が文学研究に二度と戻るべきではないと、あなたが思っていらっしゃるのであれば、
今、発送が遅れているこの本が、決して私の手元には届かないようにして下さい。
それによって、私はあなたの御心を知るでしょう。
そして、私はあなたの御心に従います。」

それ以後、どういうわけか、私の中での文学研究への熱意は薄れていくばかりでした。
いつしか、私はその資料が絶対に手元に届かなければ良いとさえ思うほどになっていたのです。

そして今日、素晴らしい兄弟たちとの交わりにおいて、私ははっきりとこう宣言しました。
私の職業は、御国のための働き人であって、御国に収穫をもたらさない仕事に従事することはもうできそうにもないし、したいとも思わないと。見えないもののために働くという絶大な価値ある人生を前にして、見えるものだけをゴールに働く人生に何の意味が見出せようかと。

そして家に帰ってみると、海外の本屋さんから、通知が届いていました。
私の注文していた資料は、品切れにより注文が取り消されたという報せでした。

まさに快哉を叫びたい心境でした。
ペテロ、アンデレ、ヨハネ、ヤコブ…、彼らが自分の仕事を捨てて主に従ったように、
主は今日、私に、まさに同じことを要求しておられるのです。
このような光栄にどうして応えないでいられましょうか。

ある人々はこのような話を聞いても、決して信じないだろうことは分かっています。
私の考えはおとぎ話のように非現実的かつ極端すぎて危険であるから、
早急に考え直した方が良いと説得されるのが落ちでしょう。
しかし、私には分かるのです、今日、主はこのような働き人を召しておられるのだと。
心底から、自分の栄光を捨てて主にお仕えする働き人が求められているのだと。

「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
だから、あすのことは思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」(マタイ6:33-34)

「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」。(マタイ9:37-38)

「ただで受けたのだから、ただで与えるがよい。<…>働き人がその食物を得るのは当然である。」(マタイ10:8-9)

「それだから、恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。」(マタイ10:31)

「おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。」(マタイ19:29)

「自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。」(マタイ10:39)

「私に従ってきなさい」

「さて、イエスがガリラヤの海べを歩いておられると、ふたりの兄弟、すなわち、ペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレとが、海に網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた、『わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう』。すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。
そこから進んで行かれると、ほかのふたりの兄弟、すなわち、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、父ゼベダイと一緒に、舟の中で網を繕っているのをごらんになった。そこで彼らをお招きになると、すぐ舟と父とをおいて、イエスに従って行った。」(マタイ4:18-22)

「イエスは彼に言われた、『もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい』。この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。」(マタイ19:21-22)

「そのとき、ペテロがイエスに答えて言った、『ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるでしょうか』。イエスは彼らに言われた、『<…>おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。』」(マタイ19:27-29)
* * *


 ペテロやアンデレ、ヤコブとヨハネが、家や仕事、慣れ親しんだ故郷の土地を捨てて、イエスの招きに従った日のことを私は考える。
 彼らがすべてを捨ててイエスに従った日から、約2000年が過ぎた。だが、今日も、キリスト者が召し出される方法は基本的に変わらない。イエスに従うことを求められる時、私たちは、この世と完全に訣別することを求められる。それがこの道の特徴の一つでもあるだろうと思う。

 主イエスが私たちを呼ばれる時、そこには目に見え、耳に聞こえる形での具体的指示が伴うわけではない。誰か指導者が、私たちにどこへ行って何をなすべきか具体的に教えるということはない。この先あれこれの団体に所属して、このような仕事をせよという命令がどこかから下ることもない。(そのように人を介した形で伝えられる召しには要注意である。)個人預言があるわけでなし、未来の具体的ビジョンもない。

 だが、どこからも明確な指示がなくとも、それでも、不思議に、内なる御霊によって、私たちは自分がキリストのために今、すべてを捨てるように求められていること、この世と訣別するよう求められていること、家、父、母、兄弟、姉妹、妻、子、友人といった、肉なる人間関係を捨て置いて、また、田畑、家屋、財産といった地上的な富にもさよならを告げて、自分の命の心配をすることさえやめて、身一つで、御霊の導きだけに従って、新しい地へ旅立つよう求められていることを理解するのである。

 全てが曖昧で、不明瞭のようだが、明確に分かっていることが一つある。それは、私たちの行く先が、見えない教会としてのエクレシアであるということだ。
 そのエクレシアは、まだおぼろげで、生まれたばかりで、形も見えない。決して、それには団体名はついていない。しかし、私たちはとうの前から、自分がそこへ召し出されていることを知っており、そのおぼろげなエクレシアが、よりリアリティを持った現実としてこの地に実在するために、その見えない「一つ」の中に身を投じるために、キリストの御身体の小さな細胞として、すべてを捨てて旅立とうとしているのである。

 私はこの世を後にして、キリストの愛の一致の中に、身を投じようとしている。これから何が始まるのか、さっぱり分からない。ペテロやアンデレ、ヤコブとヨハネも、きっと何が何だかよく分からないままに、イエスについて旅立って行ったことだろう。しかし、そこには平安があった。喜びがあった。イエスへの愛があった。私たちは、キリストがせよと命じられることに、どうしても、逆らうことができない。たとえ理性では理解できないようなことであっても、どうしようもないほどのイエスの魅力に引きこまれ、また、彼の命令が与える絶対的な喜びと平安に満たされて、気づくとすべてを捨てて、すでに従っているのである。その日、キリストは私たちにとって、この世の何にもまして、現実となる。

 私は考える、当初、全財産を捨ててイエスに従うことができなかったあの金持ちの青年でさえ、きっと、後になって、御心を理解し、何らかの方法でこの世と訣別させられ、この道に入ったのではないだろうかと。なぜなら、イエスが発せられた御言葉は、御父の命令なのであり、それがむなしく散じるということはあり得ないからである。イエスご自身が青年を招かれたのに、彼が従わなかったということが、どうして考えられよう。人の魂には受け入れ難いことであっても、神にはできる、イエスはそう示唆された。だから、あの青年は、少し後になって、どうしようもなく御霊にとらえられて、この世を捨てて、身一つで、完成者なるイエスに従う道に、飛び込んで行ったのではあるまいか。

 「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、
  わが道は、あなたがたの道とは異なっていると
  主は言われる。
  天が地よりも高いように、
  わが道は、あなたがたの道よりも高く、
  わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。<…>

  このように、わが口から出る言葉も、
  むなしくわたしに帰らない。
  わたしの喜ぶところのことをなし、
  わたしが命じ送った事を果す。
  あなたがたは喜びをもって出てきて、
  安らかに導かれて行く。」(イザヤ55:8-9,11)

 今私は、本当は、大きすぎる喜びのゆえに、エクレシアに連なる成員に、何もかもを語り告げたくて仕方がない。けれども、あえて静まって、主と二人きりで、一歩一歩、歩みを進めて行くことにしたい。そうすることによって、この道で私を導いておられるのが、本当に、ただ主であることを、よりはっきりと認識できるようになると思うからである。

 今までのような頻度でブログを更新することはできなくなるだろう。けれども、今は私にとって、とても厳粛に、秘めやかに、大切に取り扱われるべき、歴史的瞬間であると思うので、野暮ったい詳細な報告などは後回しにして、御霊にあって生きるということに、喜びをもって、専念することにしたい。
 そんなわけで、皆さんも、どうか主にあって、喜びと平安のうちに日々を送られますように。


 


神へのいけにえは砕かれた魂

あるキリスト者のお便りから。

「この道にいるだけで! 
主はあなたの状況に応じて 敢えて奇跡も行われます。
(主にとって不可能なことはありません)
しかし それは必ず 決して私に『これっぽちの栄光も与えない』やりかたで です。
 (私の全く予期出来ない方法で、100% 主がなさる方法で)
 
でも、主は奇跡を行われないで、
敢えてその中で、私に『ある学課』を学ばせたい時には
主は私に対して わざと無反応です。
(ゲッセマネの主の切実な祈りに対する父のように。
あの時間帯 『無言』だけが 父の唯一の反応でした)
 その時間帯は これからのあなたにとっても 更に貴重なものとなるでしょう。

あなたに対して 全能の神の明確なみこころがあり、
それに向かって これから主はあなたに働いて行かれます。

主にとって あなたほど貴重な宝はないのです。
何故なら 主にとって あなたにしか出来ない 
この地上における明確な使命があるからです。
(イエスにしか出来ない使命があった。
 原則的には それと何らの相違もありません)
 
これは神の誠実さ、真実さと あなたに対する愛によります。
ですから、私達もこの道の中で、
出来るだけ真実に主に向かうのみ
です。
私達にそれ以外に出来ることは何もないでしょう。
 
主が欲しいのは私達の『その心』です
能力なら 主には有り余るほどあるのです
(神には超能力の天使が無数にいるではありませんか)
 
これからの 歩み、そのようにして 
ただ主を信じ、
一歩一歩 歩を踏み出して 行って下さい。
 
具体的には それが何であるのか、その行き先に何があるのか 
人にはわかりません。
(アブラムのように、見えるのは 見えない神の手)
 
そうです、
『あなたではない、私がします』なのですから。」

 私にはこの先の道が見えない。どこへ行き、何をすべきかも、今はまだ具体的に分からない。御心を尋ね求めるだけである。改めて思う、私にできることは、何もないのだと。ただ真実な心を主に捧げる以外には!
 

 


Quo vadis, Domine?

 昨日から今日にかけて、ウクライナで買った『クオ ヴァディス』のDVDを観た。ポーランドで製作されたこの映画(監督E.カヴァレローヴィチ)は、最初に観た当初は、あまり印象が残らなかったが、改めて、観ると、静かな感動に満たされる。

 今まで、皇帝ネロの時代に生まれ合わせたキリスト教徒はきっと不運だったに違いないと考えてきたが、もはやそれを他人事のように考えることは、私にはできなくなりつつある。
 なぜならば、はっきりした根拠はないものの、これからの私たちの時代こそが、新しいネロの時代となるような予感がしてならないからである。

 私が初めに『クオ・ヴァディス』の物語の存在を知ったのは、とあるホーリネスの教会で、女子パウロ会から出版された漫画を目にした時のことだった。それは子供向けのような漫画であったが、そこには、マルクス・ウィニキウスのリギアへの恋、彼の内面の変化が見事に描かれていた。

 ローマの神々を信じる当時の貴族の誰もがしていたように、数多くの奴隷たちにかしずかれ、何不自由ない暮しの中で、奔放で罪なる生活を送っていたウィニキウス。だが、彼の内面は、リギアとの出会いと、様々な紆余曲折と、使徒たちを含めたキリスト者たちとの出会いを通して、全く新しいものへと変わって行く。

 繁栄と飽食を極め、世界に比類ない大帝国として栄えたローマが没落と退廃に転じた時代だった。その時代の象徴として君臨するのは、皇帝ネロ。並み居る臣下におだてあげられて、分を見失ったネロは、元来は小心者であるにも関わらず、自分の愚にもつかない詩作のために、ローマの街へ放火する。
 さらには、ペトロニウスの忠告をも振り切って、その大火の罪を無実のキリスト教徒に着せるべく、キリスト教徒に対する大規模な迫害に乗り出した。それはネロの悪魔的魂が成したことであったが、同時に、帝国の中で職にあぶれ、火事で家を焼け出され、貧しさの中で行き場を失った民衆のフラストレーションを、パンと見せ物でなだめようとする策でもあった。

 観ているうちに、ローマの凋落に我が国の歴史が重なって見えてくる気がしてならない。(私にはネロとポッパエアの姿が、今日、政界に進出しつつある何某教祖夫妻を思い起こさせてならなかった。)

 特権的な生活にあぐらをかいた貴族たちは、もはや現実感覚を失い、合理的な知性に基づいて政治を動かすことができなくなっていた。愚かしい政治の中で引き回され、行き場を失って、怨念渦巻く民衆。異なる階級同士が衝突し、大衆の巨大な波と化した怨念の矛先を何とか逸らそうと、打ち出される政策は、その場しのぎにばらまかれる金と、見せ物としての裁判と処刑だけだった…。

 暗い時代にあっても、使徒ペテロやパウロとの出会いを経て、ウィニキウスの信仰は、リギアがクリスチャンとして捕らえられる頃には、確固たるものとなっていた。

 クリスチャンの道はいつも決まっている。キリストのために誤解され、非難され、迫害され、果ては命さえ取られる道である。キリストがそうされたように、自らが徹底的に低められていく道である。愛する者を失うかも知れない恐怖にさらされながら、いつの世も同じであるキリスト者のただ一つの道を、ウィニキウスはいつしか自分も歩く決意を固めていた…。

 ひとりの人間としてのマルクス・ウィニキウスの内面の変化の描写が見事に描かれているこの作品は、数ページを読んだだけでも、真にクリスチャンでなければ書けないものであることが感じられる。私は女子パウロ会の漫画を少し読んだ後で、早速、図書館で小説を借りて目を通した。

 今、この映画を観ると、当初は恋愛物語のように思われたマルクス・ウィニキウスとリギアとの愛が、花婿キリストと花嫁であるエクレシアの愛に重なって見える。暗い退廃の中で滅びゆくローマを背景にして、彼らの間に育まれる清い愛情が、闇を貫く閃光のように輝く。今日のキリストとエクレシアとの愛情も、きっとそのようになっていくのではないかと思う。

 クリスチャンとしての信仰をついに持つことなく、ローマ文化の世界から抜け出られなかったとはいえ、ペトロニウスとエウニケの最期も人間としては見事なものに思われる。地上的生だけに目を向けるならば、それは美の完成であるとさえ言えるだろう。だが、地上のものは全て滅び行く運命にある。ペトロニウスの破滅はローマの破滅を意味していた。そして、私の心は、彼らを離れて、幼いイエスを連れてエジプトに逃げたマリヤとヨセフのように、どこへ行くとも知れない旅路についたウィニキウスとリギアに寄り添う。

 さて、話が急に変わるが、今日、これまでずっと私が懸念してきた事件がついに我が家で起こった。争いがついに流血を伴うものへ発展したのだ。キリストを信じる者に、心底からの憎しみを抱いている人々が、キリスト者をいずれ肉体的に抹殺することを目的としていると、少し前に予感したことは、正しかったと思う。

 皇帝ネロによるキリスト教徒の迫害のシーンと合わせて、サタンに操られている人々の目的が何であるかが、はっきりと私の心に迫って来た。主にあっての兄弟姉妹に祈りを求め、また、相談を乞いつつ、今はやはり、このソドムを脱出すべき時であると感じた。どこへ行って、何をすべきか分からないし、正直に言って、アクションを起こす余裕もあるとは言えないが、主がすべてを導かれるだろう。

 バビロン化したキリスト教界を出ることが必要だったように、ソドムと化した場所からはエクソダスすべきなのだ。彼らと争ってはいけない。

 Quo vadis, Domine? 主が導かれるところに私は着いて行きます。
 脱出先がこの世のどこであろうとも、私の避難所はただキリストの御許だけなのです。