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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

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闇はこれに勝たなかった!!

 エクレシアの結びつき、一致は、特別なものだ。それは人の短い生涯を越えて、永遠に至る結びつきだからだ。だから、そういう人たち(エクレシアを持っている人たち)と接触していると、初めはそうと気づかないのだが、次第に分かってくる、彼らが私にとって、本当に、特別な意味を持つ人たちであるということが。

 かつてある場所を訪れた際には、私はまだ安息していなかった。目に見える世界の出来事に、あまりにも気を取られ過ぎていたからだ。しかし、今は待ち遠しい、冬になって、ペチカの火を囲んでその場所で過ごす時間が。その時、誰がそこに連なっているのか知らないが、誰であろうと、きっと、私たちは静かに、永遠に、ただ主だけを思いながら、神を誉めたたえるだろう。今度こそ、人生相談をするためではなく、ただ主を誉めたたえるためだけに、そこに集うだろう。

 エクレシアを思う気持ちは、仲間を恋しく思う気持とは、異なっている。共に神を誉めたたえたいという思いが何にもまして、出発点となって、人々が集まるからだ。私たちが一同に集まる時、私たちの内側から、賛美が爆発的なパワーとなって溢れ出すだろう。ちょうど合唱隊員が集まると、合唱が始まらないではおかないのと同じだ。隊員にとっては、忘我の境地で、歌の真っ只中に身を浸すことが、本分である。

 主を賛美することは、私たちの本分である。だから、その瞬間が、待ち遠しくてならない。
 私自身の存在や、願いなどもはやどうでもよく思われる。主との一致の中にとどまり、そこでただ主を賛美したい、それが願いの全てとなる。私の内におられるキリストが、多分、誰よりも、その時間を待ち望んでおられるだろうという気がする。その瞬間のためにこそ、私は生かされていると言って過言ではない。

 私自身にとっても、その一致は、焦がれるほど待ち望む、歓喜に満ちたものであるのだが、この先、私の生活がどれほど忙しいものになろうとも、神ご自身が、その至福のひと時を絶対に、用意せずに置かないという気がする。何しろ、誰よりも、主ご自身が、その時を待ち望んでおられるのだ。二、三人の聖徒たちが集まって、心を合わせて、主を誉めたたえ、主を賛美するその時を。

 私には分かるような気がする、主がご自分への妙なる捧げ物であるこの甘美なひと時を、絶対に、自ら手放されるはずがないと。神ご自身が、ご自分の栄光のために、神を誉めたたえる聖徒たちを起こされたのだ。もし仮に私がその本分を果さないならば、他の人たちがその偉大な任務に召し出されていくだろう。
 主が定められたエクレシアは、何があっても、衰退しない。それは必ず成就する不変の御旨である。

 だから、たとえ束の間、私たちが暗闇や孤独の中を通されることがあったとしても、ばらばらになるように見えることがあったとしても、主との一つの結びつきは、ぐらついたり、消滅したりすることなく、時を経て、なお一層、輝きを増し、強められて姿を現すであろう。

 我が神よ、私たちのエクレシアは、今、本当に、しみもしわもない花嫁にまで整えられようとしているのですね。あなたご自身が、その花嫁の聖なる美しさをご覧になって、畏怖の念さえ抱くほどまでに、私たちはあなたの前に清められ、整えられ、あなたにふさわしい聖なるパートナーとして、建て上げられようとしているのですね。それを全て、私たち側からの努力でなく、あなたご自身の力で、成し遂げようとなさっておられるのですね。

 あなたにふさわしい、聖なるパートナー、誰がその意味を真実、理解できるでしょうか。どうして塵に過ぎない私たちがそんな大それた聖なる召しに耐えられるでしょうか。けれど、主よ、あなたがなさるのです、あなた以外には誰もそんなことは成し得ません、あなたがそれをなさろうとしておられるのです、ご自分の栄光のために!

 栄光は限りなく主のもの。私たちが努力によって成し得ることなど、何一つありません。私たちはただ自分を差し出し、あなたが働いて下さるに任せるだけなのです。

 何という時代に私は生きているのでしょうか。この世の闇の暗さ、深さと、そこに星のように輝く光のコントラスト。光は、やがてまぶしいほどに輝き出て、ついには、闇を覆い、闇を葬るでしょう。
 闇はこれに勝たなかった!!(ヨハネ1:5)

 エクレシアに婚礼の鐘が鳴り響く瞬間が近づいています。どんな悪魔の業も、神と聖徒たちとが愛によって結ばれるその一致を妨げることはできません。岩盤のような固い壁を突き破って、生ける水がエクレシアからほとばしり出、怒涛のように溢れ出すことでしょう。その時のために、心のすべてをささげ尽くして、主なる神を愛する聖徒たちが、今、全地に起こされようとしているのです…。

 動脈硬化などもう沢山です。キリストの御身体にどうしてそんなものがあって良いでしょう。詰まった血管は、奔流のように流れ来る生ける水によって押し流され、通り良き管へと変えられるでしょう。
 貧困や、病や、欠乏や、抑圧、難行苦行はもう沢山です。どうしてそれらの欠乏が、あなたの栄光の証となりましょう?

 サタンの虜にされている聖徒たちを、今、あなたの力によって、解放してください。そして、私たちがあらゆる恐れとためらい、嘆きや涙を捨てて、あなたの偉大な解放の御業を、心から誉めたたえられるようにして下さい。
 これまで、いわれなく、苦しめられ、獄屋に閉じ込められてきた聖徒たちの叫びをかえりみて、どうか速やかに彼らを解放して下さい。兄弟姉妹たちが獄屋に閉じ込められているままで、どうしてあなたの栄光をあまねく全地に告げ知らせることができるでしょうか。

 私たちはいつまでも互いの欠乏を補い合い、互いに傷をなめあい、互いに依存し合い、同情し合うためだけに召し出されたのではありません。何よりも、あなたの栄光を誉めたたえ、あなたの憐れみ深さ、いつくしみ深さを世に証していくことが私たちの任務であります。しかし、そのために、まず、私たち自身が、あなたの十字架、御座にいますキリストから流れ出るまことの命の豊かさ、健やかさを、隅々まで体験する必要があるのです。

 私たちがこれまでどうやっても打ち破ることのできなかった束縛の枷を、今、あなたの十字架の御力によって、打ち砕いて下さい。あなたの恵みが人知をはるかに越えた素晴らしいものであることを、私たちが隅々まで味わうことによって、これまでとらわれてきたちっぽけな知識の枠組みから完全に解放されるようにして下さい!

 御身体はあらゆる人情を廃して、ただあなたの御力によって、一つとされるでしょう。しみやしわは消えうせ、壊死した細胞は丹念に取り除かれ、悲しみの涙は最後の一滴まで拭われて、若返りの命が、エクレシアなる御身体全体から、川のように、芳香のようにあふれ出るでしょう。御霊の命の息吹が、キリストの香りとして、キリスト者全員の内側から立ち上るでしょう。それをなさるのは、あなたなのです!

 主よ、今、あなたの御身体を名乗っているものの中には、全くそうでないものが混じっています。200歳ほどに年を取った、つぎはぎだらけの醜い怪物、何度、手術されても再生の見込みのない、腐臭漂うミイラは、その老化と衰えと貧しさゆえに、甚だしく倒れ、息絶えることでしょう。それで良いのです。どうして、そんなものがあなたの花嫁を名乗って良いでしょうか。死すべきものは、ますます衰退し、滅びへと向かい、聖なる十字架によって額に刻印を帯びた、まことの命を持つ者だけが、真の豊かさ、健康さを帯びて、全能なる神の永遠の誉れにふさわしく、喜びと賛美を持って御前に立ち、また、世にあなたを証するのです。

 私たちはそのような者として召し出されていることを確信し、あなたの十字架の解放の御業を感謝して、誉めたたえます!!

 主よ、この偉大な御業の立会人とされている恵みの大きさに、私は言葉も失いそうです。私は死すべき汚れた罪人の一人であるのに、どうしてこんな恵みがあり得たのでしょうか。しかし、それをなさったのも、やはり、あなたであるのです。主よ、あなたが一方的に私を憐れまれ、死体の山の中から私を掘り起こされ、死刑宣告された罪人に過ぎない私に、十字架上で、罪の赦しと、復活の命を与えられたのです。だから、私は生きることができるのです、あなたの力によって、あなたのために!

 この願いを私の心に植えられたのは主でありますから、ためらうことなく、心よりお願いします、どうか私を永遠にあなたと共におらせて下さい、いつまでも、あなたの一致の中にどまらせて下さい、兄弟姉妹と共に、貴い御身体の一部として下さい、そして人知をはるかに越えた、あなたの永遠なる御業の完成に、可能な限り、あずからせて下さい、あなたの聖なる御業は始まったばかりなのです。

 

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私を義として下さる方に

「わたしは思う。今のこの苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。」(ローマ8:18)

 我が主、イエス・キリストよ、花嫁が花婿を慕うように、私はあなたを慕います。
 あなたが我が夫となってくださったことにより、私はもはや孤児でも、宿無しでも、やもめでも、浮浪者でもなくなり、あらゆる恐れと、奴隷のくびき、孤独や、蔑みからも解放されました。あなたをたたえます!

 私が牧者を見つけられず、道に迷っていた時、御子イエスよ、あなた自らが私を呼ばれ、薮の中から導き出されました。貴い十字架の犠牲の血をもって、私の罪を洗いきよめ、私を死すべき者のなかから贖い出し、あなたの御前に立つにふさわしい者へと変えられました。

 そして今、あなたは私の願いに応えて、私のために牧者をも立てて下さり、私を真心から気遣って下さる兄弟姉妹を与えられました。私はもはや孤独ではありません。

 私は主にあって、神の子とされたとてつもない特権を今、喜び、楽しんでいます。
 子供のように、無邪気に、あなたの造られた美しい庭を駆け回っています。
 そこには血を分けた肉親よりも、さらに強い愛によって結ばれた兄弟姉妹がおり、私のために用意された恵みの食卓があります。豊かな命の川の流れがあり、命の木が植わっています。この兄弟姉妹と共に、主が私に与えて下さった大いなる恵みを味わい、主への愛を分かち合い、共に主を賛美し、礼拝できることを心から感謝します!

 ここにはもうどんな悲しみも追っては来ません。これまでに受けた惨い仕打ちへの恨みも追っては来ません。憎しみも、恨みも、涙も、病も、死も、いかなる不健全な関係も、もはや私を苛むことはありません。
 私はここに来て、過去に受けた全ての傷と訣別しました。私は、主イエスの御名によって、キリスト教界が私に対して行ってきた全ての悪事を赦し、その悪影響と訣別します。悪事から受けた一切の心の傷と、生活上の損害からも、解放を宣言します。

 主よ、私は私に対して罪を犯した人々のために、とりなし、祈ります。私をあざけった牧師と信徒が、もしも悔い改め、主に立ち返るならば、どうか、あなたの憐れみと愛をもって、彼ら一人一人を優しく抱きとめて下さい。牧師の罪を信徒に負わせないで下さい。指導者の罪を弟子に負わせないで下さい。父の罪を子に背負わせないで下さい。道を踏み外した牧師の妻と子供たちを守って下さい。子供達が父の罪を負わなければならないでしょうか?

 憤りは人の健康にとってよくありません。私に対して憤っている人たちがいるなら、心を鎮め、主の平安と健やかさの中に入れられますようにと願います。

 妻が侮辱された時、夫は怒って立ち上がらないでしょうか?
 私の名誉が傷つけられた時、毅然と立ち向かって下さるのは、我が夫であられる万軍の主、あなたです! 饒舌に自己弁護することならば簡単でしょう。しかし、主よ、あなたこそ、私を義として下さる方、私を弁護して下さる方なのです。あなたがどれほど深く、またとこしえに私を愛しておられるかを私は知っているので、ただ静かにあなたの訪れを待ちます。

 主イエスよ、今、何よりも心を痛めねばならないことは、私ではなく、あなたの貴い御名が、日々、軽んじられ、傷つけられていることなのです。来る朝、来る朝、辱められ、傷つけられているあなたの名誉こそ、誰よりも先に、回復されなければならないものです! あなたの受けておられる辱めの前に、信徒がならうのは当然なのです。

 「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。
 ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜らないことがあろうか。

 だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。
 だれが、わたしたちを罪に定めるのか。
キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。

 だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。<…>わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。
 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」(ローマ8:31-39)

 たとえ私が何を耐え忍んだとしても、それはキリストの受けられた苦難の足元にも及びません。どんな時でも、主の愛が私をとらえ離さず、主の約束が心に平安をもたらすのです。御子イエス自らが、私のためにとりなし、私を義とし、私を守り、私に全ての必要を備えて下さると約束されているのに、肉なる人の言葉や態度が、私たちにとってどんな力を持つでしょう。
 やがてあなたにまみえる時に、あなたは聖徒のどんな打ち傷にも、ふさわしい栄光の覆いをかけて下さると信じています。主をたたえます。

 

神への冒涜に対するとりなしの祈り

今日は我が家の書棚から、『祈りの石垣を築け』という本を取り出します。著者はバジレア・シュリンク(カナン出版、1995年)。この著書にはとりなしの祈りがおさめられています。
 そこから、今日は「神への冒涜に対するとりなしの祈り」を紹介したいと思います。

 アメリカを含め、世界の聖霊派の名だたる指導者たちの幾人もが、あからさまに「私は神だ!」と宣言しているビデオを見られて、空恐ろしく感じられた人も多いかも知れません。私たちは肉なる人間に過ぎない者であるのに、その私たちのうちから誰かがこのような言葉を叫ぶ時、クリスチャンは、それを他人事としてただ傍観したり、嘲笑したりするのでなく、肉に過ぎない者の犯したその大いなる罪を、主の御前にひれ伏して嘆かなければなりません。

 旧約聖書時代の預言者がしたように、衣服を引き裂き、荒布をかぶり、断食して、灰の中に座ることまでは、私たちにはできないかも知れません。しかし、主を悲しませ、傷つけ、冒涜する言葉や行為をし続けている人の罪に対して、とりなしの祈りを捧げることは重要です。


2016年6月5日:追記
筆者は、長年に渡り、己を神とする異端の教えの偽りを追及して来ましたが、その結果、今、言えることは、「この種類の冒涜は決して赦されない罪である」、従って、とりなしてはいけないし、とりなしても無効だ、ということです。

主イエスは言われました。


「まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪をも赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」(マルコ3:28-29)

むろん、聖書の神を知らない人が、聖書の神を罵倒したり、否定したりする罪にはまだとりなしの余地がありまし、クリスチャンが過ちを犯して神を軽んじ、罵倒してしまったり、悲しませるようなことをした罪にもと、まだとりなしの余地があります。

しかしながら、クリスチャンの指導者を名乗り、聖書の御言葉を十分に知りながら、神と人との境界線を踏み越えて、「私は神だ!」と宣言する人々には、とりなしの余地はなく、もはや後戻りの道はありません。従って、このような人々の罪を赦すようとりなしによって要求することは、悪魔の思想に加担することと同じです。

神が唯一であるという事実は、聖書の根幹であり、動かすことのできない事実です。ところが、クリスチャンでありながら、神と人との境界を故意に踏み超え、汚れたものを神聖と宣言し、自ら神と宣言する者は、神の地位を奪う悪魔的な思想を信じているのであり、そのような教えを信奉した結果、己を神と宣言した者は、必ず、裁かれ、彼らに後戻りの余地はありません。

一連の記事で示しているように、ペンテコステ・カリスマ運動は、必ず、信じた人に己を神とさせるという特徴がありますが、そこには「聖霊を冒涜する教え」があります。この運動の背景には、聖霊を「母なる霊」とし、「神秘なる母性」を崇拝する偽りの信仰があります。これは東洋思想とキリスト教とが合体してできた混合物であり、意図的に作り出された背教なのです。

聖書は、大淫婦バビロンが「混ぜ合わせた杯」(黙示18:6)を持っていることを示していますが、これは混合の教えを意味します。キリスト教そのものを否定するのではなく、聖書の御言葉と別のものと合体させて、混合物を作り出し、これをキリスト教のように見せかけて人々に信じさせようとするのです。


むろん、知らずにペンテコステ・カリスマ運動に欺かれていた信者にはまだ後戻りの道があります。しかし、故意に御言葉に反してこのような混合の教えを作り出し、これを広めることに加担した結果、ついには自らを神と宣言するに至った者には、決して後戻りの道はありません。それが「聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」という意味である、と筆者はみなしています。当然ながら、そこには「母なる聖霊」論を唱える人々も含まれます。

従って、このような教えを信じている人々にとりなしの祈りなどしても意味がありませんし、彼らをかばうことで、同じ罪にあずかってもなりません。このような汚れた教えとそれを信奉している人々からは、全力で早急に遠ざかり、永遠に訣別することです。


わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。なぜなら、彼女の罪は積み重なって天にまで届き、神は彼女の不正を覚えておられるからです。」(黙示17:4-5)

* * *

 

 主なる神よ、あなたは天地と全人類の創造主で、永遠かつ不滅の神であられます。にもかかわらず、今日あなたは御自分がお造りになった人間によって冒涜を受け、拒絶され、死んだ神と宣告されています。あなたの戒めは、クリスチャンからでさえ軽んじられ、踏みにじられています。

 私たちはなんということをしてしまったのでしょう。
 どうして、私たちの裁き主である生ける神をあえて攻撃することなどができたのでしょうか。

 私たちの罪を赦してください。
 主イエス・キリストよ、あなたの尊い血潮のゆえに私たちを憐れんでください。

 主イエス・キリストよ、あなたこそ神の独り子、高くいまし威厳に満ちた方です。あなたは、神の右の座に着いておられる私たちの主であり、贖い主です。にもかかわらず、今日、あなたはおびただしい出版物や興行で冒涜され、さげすまれるばかりか、キリスト教会内でさえも道化役にまでおとしめられています。

 国家として、教会として、私たちはあなたに対してなんと嘆かわしい罪を犯したことでしょう。あなたは私たちの罪のために死んでくださったというのに、私たちはあなたに再びいばらの冠をかぶせ、侮辱と冒涜をもってそれにこたえました。
 私たちの罪を赦してください。主イエス・キリストよ、あなたの尊い血潮のゆえに私たちを憐れんでください。

 あなたを私たちの救い主として告白する私たちは、自分たちの罪、教会と国の罪のゆえに恥じ入って自らを低くします。
 自分達の過ちを真剣に受け止めなかったことを赦してください。あなたが嘲笑され、さげすまれた時の私たちの無関心と鈍感をお赦しください。

 私たちはあなたに対してどれほど罪を犯したことでしょう。私たちは、今日のあなたの苦しみの中に、あなたを見捨て、そればかりかあなたの悲しみを増し加えさえしています。
 私たちは個人として、また国家として、私たちの罪について祈り、嘆願することを怠りました。私たちは過ちのことごとくを悔い改めないばかりか、それを大目に見ました。

 私たちの罪を赦してください。主イエス・キリストよ、あなたの尊い血潮のゆえに私たちを憐れんでください。

 眠りから目覚め、祈り戦い始めようではありませんか。

 現代に蔓延している神に対する冒涜を目の当たりにして、イエスよ、贖い主であるあなたを、また聖なる方であり、裁き主である神を証しすることができますように。私たちは、たとえそれがどんなに大きな犠牲や苦しみであっても、喜んですべてを捧げます。

 聖霊よ、あなたの助けによってそうすることができますように。
私たちの心を燃え立たせてください。罪を嘆き、悔い改めに満ちて熱心に祈ることができますように。
 侮られている主イエスのために犠牲を献げ、苦しみを耐え忍びたいという願いで私たちの心を駆り立ててください。

 主イエスよ、私たちは今日憎まれているあなたを愛することを切に願わずにはいられません。
 
 主イエスよ、私たちは立ち上がり、あなたの役に立てることを願っています。
 どうか私たちが冒涜に対して抗議するあらゆる機会を逃さないように助けてください。

 映画や出版物、とりわけキリスト教会内においてあなたが受けておられる中傷に対して立ち上がることができるように助けてください。

 神の小羊よ、あなたの血潮の力によって悪の勢力の前進を押しとどめてください。魂を罪深い生き方と神に対する冒涜から救ってください。

 祈りと悔い改めを通して、私たちが備えられますように。あなたの大いなる裁きが地上に臨む時、あなたが私たちを救うことができますように。 
 アーメン。


 わがイエスは今日涙し嘆かれたもう
 あざ笑われ さげすまれ その御姿は恥をまとう
 その心ほど我らを慈しんだ愛はなし
 されどかかる傷を受け 苦しみを負われた君

 我らは過去にまさり汝を高く上げん
 ああ 愛する主よ 我らの耳を開いて聞かしめたまえ
 汝の嘆き 心の痛みを
 この日 我らに汝への慰めをささげさせたまえ

 我ら今汝を愛し 汝のために生かしめたまえ
 我ら今心を尽くし
 汝の御苦しみにあずからせたまえ
 我ら声高らかに汝はわがすべてと告げ知らせん
 諸人汝 主イエス・キリストを知るべし