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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる良い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。

「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。

イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の負っている者をすべて、生活費を全部入れたからである。」(マルコ12:41-44)

* * *

「わたしは、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。ご存じのとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。

あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主エス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」(使徒20:33-34)

* * *

惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承でなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。

神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる良い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。

「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。
 彼の慈しみは永遠に続く」
と書いてあるとおりです。

種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。

この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。」(Ⅱコリント9:6-14)

* * *

主の御座の高さと静謐さの中を歩む。私たちのこの手に、種以外に何もないように見えるとき、豊かな実りを約束して下さっている主の御言葉を思う。

毎年、筆者の年末年始や、特に新年の過ごし方は、とても深い意味を持つ予表的・象徴的なものであった。人々が自分の家庭に引きこもり、御馳走を食べて過ごすその瞬間、もしくは、神社や教会その他の宗教施設に通い詰め、行事や、あるいは買い物に明け暮れる中、大抵、筆者は、この世のすべての喧騒から引き離されて、ほんのわずかなキリスト者と共に、神との静かな歩みの中に引き入れられていた。
 
そこには、人の知れない、ひっそりとした喜ばしい交わりと、ほとんど単独者と言って良い、神の御前での歩みがあった。

今年は、そうした静けさの中で、自分自身を、本当に自分のためではなく、主の御心にかなう目的のために、なげうとうと決意させられた。

今でも忘れられないのは、ある新年のこと、ちょうど仕事の切れ目で、新しい職を探していた筆者を、ある姉妹が自分の別荘に呼び、心からもてなしてくれた時のことである。姉妹はその別荘で、誰にも言えない筆者の悩みをじっくり聞いて、筆者には広い自分のベッドを提供し、自分は寝袋を敷いて床に寝た。

階下にある温泉に筆者が浸かりながら、将来のことを思い巡らして悩んでいた時、彼女は台所でかいがいしく料理を作り、いかにして筆者をもてなそうかと心を尽くしていた。自分は温泉に行っても、あっという間に戻って来て、筆者の話に耳を傾けた。

だが、姉妹はそれらのことを本当に心から喜んでしており、筆者が悩みの渦中に沈んでいたにも関わらず、筆者といるのが、楽しくてたまらないという風であった。そして、その姉妹と一緒にいるときに、新しい職場からの連絡がかかって来て、筆者が進むべき道も定められたのだが、そうなるまでにも、彼女は、筆者の仕事のためにも、どんなに祈ってくれたか分からない・・・。

その姉妹は、あまりにも心清く、純粋な信仰を持ち、天に近いところにいたためであろうか、その後、数ヶ月で、実際に、天に召された。もう何年も前のことである。だが、その時にも、彼女が召されたことと引き換えのように、大きな慰めが天からもたらされ、信仰者ではなかったが、またもや新たな複数の友が、不思議な形で筆者の人生に与えられたのであった。

このように、なんの尊敬すべき取り得もなく、何一つ返せるものさえ筆者になかった時に、筆者の苦しみを少しも見下したり、蔑んだりすることなく、まるで筆者が神から遣わされた御使いででもあるかのごとく、心からの尊敬と愛情を持って、心を尽くして仕えてくれた姉妹がいたことは、筆者の心に深く刻み込まれた。

ああ、これが、キリスト者の奉仕なんだな、これが、互いに愛し合い、仕え合いなさいという御言葉の意味なんだな・・・と示され、それと同時に、彼女を通して、筆者がどんな境遇にあっても、キリスト者としての愛らしい魅力を失っていないこと、それが、仲間の兄弟姉妹にはちゃんと分かること、落胆すべきことなど何もなく、どんな瞬間にも、神の恵みに満ちた御業が確かに存在すること、それを分かち合って喜ぶことが、私たちキリスト者の使命であることを知らされたのである。

筆者自身は、その後も、しばらくの間は、自分が生きることに精いっぱいで、人々を助けるところまで、手が回らなかったが、ようやく昨年は、司法制度を通じて筆者が受けた恵みを、他の人々にも届けようと考え、そのために、自分の専門を捨てて、新しいことを始めた。

そうして、自己実現のための生き方を捨て、自分の専門を手放した報いとして、筆者は失ったものを余りある豊かな祝福を受けたのである。

神はやはり、私たちの生きる動機そのものをよくご覧になっておられ、正しい動機のために、私たちが捨てたものを、決して見過ごしにしてはおかれないのだと痛感させられた。

そこで、この新たな年には、筆者はよりまさった天の収穫を受けるために、自分をさらに捨て、神と人とのために、自分をなげうとうと決めた。と言っても、その方法は、あくまで秘密であって、それは人に知られない十字架の道である。

幼い頃に、兄弟たちに裏切られて、エジプトに売られたヨセフが、エジプトで宰相になるまでの間には、長い長い月日が経過した。エジプトはヨセフの故郷ではなかったし、ヨセフはそこでも、何度も、あらぬ罪を着せられたりして、苦難の月日を過ごさねばならなかったが、それでも、彼に与えられた神の力が発揮され、異郷の地でついに最後はファラオからも篤い信任を得て、重責を担う立場に立たされた。

だが、そうなった目的は、決して、ヨセフ自身が、偉い人となって、人々に君臨することにはなかった。むしろ、彼を通じて、彼の親兄弟たち、イスラエルの民が飢饉から救われ、生き延びることにこそあった。つまり、ヨセフは、エクソダスの象徴であり、ヨセフを通して、民が死から生へと贖い出され、命へと導き入れられるためにこそ、彼が兄弟よりも先にエジプトに遣わされたのである。

エクソダスとは、十字架である。つまり、ヨセフが辿った苦難と栄光もまた、主イエスの十字架の死と復活の象徴だったのである。

そういうわけで、一粒の麦が地に落ちて死なない限り、多くの実が結ばれることはない。キリスト者が学ばねばならないのは、自己の望みの最後の最後のなけなしのものに至るまでも、神と人とのために手放し、それによって、自分の思いをはるかに越えたところにある神の恵みに満ちた正しいわざを掴み、これを地上に引き下ろし、それによって生きることである。

筆者には、エジプト(この世)で果たさなければならない使命があり、非常に困難な召しが心にある。神を愛し、人を愛して生きるために、筆者は、この国の人々のために、役立つことをせねばならないと思っている。残りの人生は、もはや筆者自身の個人的な満足と栄光のために存在しているわけではない。

とはいえ、この国の人々のために・・・などと仰々しい言葉を使っても、それは決して、筆者が有名指導者になって、自分の名を冠した多くの組織や団体を作り、その先頭に立って人々を指揮し、皆から篤い信頼と尊敬を受けながら、輝かしい事業を率いて行くというものではない・・・。

そういう道を、筆者はこれからも選ばないだろう。筆者はこれから先も、ずっと神の御前の単独者として、何の栄光も受けない名もない人間として、ひっそりと人に知られない道を歩み続けながら、それでも、そこで自分の召された目的を従順に果たし続けるだろうと思う。

筆者の歩いている道は、誰からも理解もされず、評価も受けないように見えるかも知れないが、それでも、その時々で、神はその道が、確かに神の召しによって与えられたものであり、筆者を待ち受けている将来的な栄光が確かに存在することを、筆者のみならず、他の人々にも分かるように、不思議な形で示して下さり、その約束の確かさを、筆者に思い起こさせて下さるだろうと思う。

そうして自己を否み、日々の十字架を担って、主に従って、歩み続けることこそ、神が筆者に与えられた筆者の見えない「事業」であり、ミッションなのである。だが、その十字架は、私たちが負い切れないほどの苦難を負って、絶望や孤独や悲しみにひしがれながら歩むというものではない。

主は言われた、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)

自分を捨てて、日々の十字架を負うとは、主の謙虚さにならって、負いやすい軛、軽い荷を担う道である。ちょうど主イエスがゴルゴタに向かわれたとき、主が十字架を負い切れなくなった瞬間、ほんのわずかな間だけ、人がそれを負うのを手助けしたことがあった。私たちが担う日々の十字架とは、そういうものであって、十字架の大部分は、すでに主が担って下さっている。

だから、主のへりくだりにあずかりさえすれば、私たちに与えられた軛は負いやすく、その荷は軽い。そして、主のへりくだりにあずかるとは、私たちがいついかなる瞬間も、自己の限界を迎えると思うときでさえ、主が豊かに与えられたように、惜しみなく与える人となることを意味する。それによって、私たち自身が、私たちの仕えている方の限りない豊かな性質を生きて体現することである。
 
こうして、 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:33-34)と書いてある通り、その道にさえ、忠実に歩んでいれば、筆者の個人的幸福や生活の必要性などは、すべてその後から「みな加えて与えられる」だろう。すべての必要が、自然と、不思議に満たされ、地上的な必要性のことで心をいっぱいに煩わせた挙句、明日のことまで思い煩う必要などどこにもなくなるのである。

すべてのものの供給者は神である。だから、私たちは、自分が不器用で、何も持たず、貧しいように思えるときにも、人に頼るどころか、むしろ、主にあって、豊かな者として、惜しみなく豊かに与えることが実際にできるのだ。

だから、筆者はエクレシアから一方的に命の供給を受けることなく、あくまで豊かに流し出す者としてそこに連なっているものと確信している。エクレシアとは、そもそも、命なるキリストが、神の多種多様な知恵が、天の無尽蔵の富が満ち溢れているところである。そのエクレシアに連なっている者が、日々、自分の必要性で窮々とし、絶えず人の助けを乞うしかないなどあるはずがなく、どんな状況にあっても、信仰によって豊かに命を流し出すときに、そこに主の栄光が現れるのであり、それこそが、私たちが絶え間のない命の交換に生きるための秘訣なのである。

キリスト者はこうして、まさに生涯の終わりの瞬間が来るまで、絶え間なく、与える人になることが実際にできる。そして、それだけが、私たちが、この地上的制約を解かれ、天の栄光と祝福の満ちたりた豊かさの中を、身を軽くして歩む秘訣なのである。しかし、この原則を知っている人は、とても少ないのではないかと思う。

何度も言うが、それは、与えるものが豊かに手元に備わっているから、与えるというもののではなく、むしろ、手元に何も残っていないように見えるとき、私たちの力が尽きて、できることがもう何もないように見えるときに、なけなしのものを、神の愛のゆえに、主のため、人々のために捧げることを意味する。

そうするときに、私たちがなげうったものは、何倍にも祝福されて、天から返される。

それは、最後のレプタ二枚を献金したあの女と同じであって、主イエスは、その女が命がけで神に自分を捧げたことを知っておられ、その女の信仰を誉められたが、その女は、その後、どうなったのだろう? 生活費全部を愚かにも賽銭箱に投げ入れたために、信仰と引き換えに、飢え死にしたのであろうか? そんな馬鹿なことは決してあるまい。

主イエスは別なたとえでこう語られた。

良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」(マタイ13:23)

最後のレプタ二枚を神に捧げた女は、きっととても不思議な方法で、天から百倍、六十倍、いや、どんなに少なくとも三十倍は、その報いを得て、必要を余りあるほど補われたであろうことを疑わない。

なぜなら、そういうことは、筆者の人生でも何度も起きて来たからである。

神が見ておられるのは、私たちが、神と人とに仕える動機であって、どこで、誰にどんな奉仕をするかというその内容や、規模ではない。たとえ自分の持てるすべての財産をなげうったとしても、その動機が、神への愛から出たものでなければ、報いはない。

しかし、神は、私たちが、主に従い、神の愛の中にとどまるがゆえに、自分の持てる最後のなけなしのものを捧げて神に仕え、人々にも与える立場に立とうとすることを、とても喜んで、評価して下さる。

そんなわけで、自己の力が尽き果てようとするとき、自分には何ももう誇るべきものがなく、誰にも分け与えるものも、評価や尊敬を受ける根拠もなく、与えて欲しいと願われるようなものさえ、手元にはもう何もないという境地になったときこそ、最も豊かに与えることができる瞬間なのである。

この原則を知っている人は実に少ない。(ただし、これは筆者が追い詰められているということの告白ではないから、そのように誤解することがないように言っておきたい。)

そういうわけで、自分の財布の中身が限られていると言って、そのことを嘆く人は、その後も、自分の財布を拡張することはできないだろう。財布とその中身を広げたいなら、そのためにも、まずはその限られた中身を、ことごとく神に捧げ、人に分かち与えることから始めるべきである。

この最後のレプタを投げ打つことができるかどうかで、その後の私たちの人生は決まる。もちろん、ここで言うレプタとは、様々なものの象徴であって、必ずしも、金銭のことばかりを指すのではない。それは、人の持っている自己の限界そのもののことを指す。

自分は苦しい、これ以上何もできない、捧げよと言われても、何も捧げるものはない、くれと言われても、与えるべき愛などない、これ以上、要求ばかりを押しつけられては困る・・・などと自己弁明したくなるその瞬間、自分には最も何もないと思われるときにこそ、信仰によって、豊かに与えられることを信じ、一歩を踏み出し、自己のレプタを手放し、主により頼むからこそ、それが考えられない規模で祝福されて、豊かに返されるのであり、手放さなければ、それはただのレプタ一枚のままである。

こういうことを言い始めると、早速、「カルトだ!」などと言い出す人があるかも知れないから、筆者は決してどこかの宗教団体に献金せよという話をしているのではないことを幾度も強調しておく。

筆者は誰にも以上のような生き方を強要するつもりもないし、レプタをあくまで手放したくないという人は、手放さないでいれば良いものと思う。

だが、何度も言うように、一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままなのである。天の祝福にあずかるためには、どうしても、それをなげうつ過程が必要となる。だから、筆者はこの新年に、すでに捨てて来たものに加え、さらに昨年手に入れたなけなしのものも、真心から主にお返しし、捧げようと決めた。手放すと言っても、それは心の中で、決してそれらのものにとらわれず、執着しないという意味であり、また、自己の満足のためにそれらのものを使用しないという意味である。そうすることと引き換えに、さらにまさった天の豊かな恵みを得ることができると信じている。

栄光は、ただそのようにしてのみ、やって来る。すなわち、信仰によって、絶え間なく、自己を手放すことにより。十字架の死を経由することにより。復活の力が何であるかを知りたいと思えば、まずは死を経由する以外に道はない。そして、死を経由するとは、主と共に十字架において自己の死を味わうということなのである。それが必ずしも快い体験のはずがないことは、誰しも想像できることである。

だが、主はその軛は負いやすく、荷は軽いと言って下さる。
 
わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。

人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。


神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」(マルコ8:34-38)

だから、筆者は、主イエスに従って生きたいと願う。地上のどんな尊敬できる人々の存在にもまさって、主イエスにのみ従いたいと願う。いつの瞬間も、以上の御言葉を実践して、自己の限界にとらわれず、主の命の豊かさを流し出して、福音を恥じることなく、生きられるようになりたいと願っている。

受けた恵みを、自分のもとにとどめることなく、自分で限界をもうけず、それを流し続けることをやめたくはない。そうこうしているうちに、そこにある命の流れが、必ず多くの人々を潤すようになり、パイプラインが、もっともっと巨大なものとなって、聖徒らの全ての必要を満たし、エクレシアを潤すようになり、私たちには主が確かに着いておられること、私たちの主が無尽蔵に富んでおられる方であること、それゆえ、その庇護を受けている私たちは、どんなことにおいても、不足がなく、心配する必要もないことを、やがてもっと多くの人たちに公然と証し、それによって主の栄光が誉め讃えられる日も来よう。そうなるまで、筆者のパイプライン建設はずっと続くのである。
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主に従う人は主を避けどころとし、喜び祝い、心のまっすぐな人は皆、主によって誇ります。

大晦日である。晴れた空に,夕日がいつになく美しく輝いていた。

その日は、筆者の関わるキリスト者の交わりが、文字でなく、音声でもなく、顔と顔を合わせた生きた交わりとなり、筆者の中で、エクレシアが完全に復興を遂げた日であった。

特段、何かがあったわけでないのに、信仰による交わりがあったというだけで、ここ数ヶ月の間、一度も味わったことがないほどの平安が心に訪れた。果たすべき課題はまだたくさん残っているが、それらをすべて脇に置いて、休むことができた。

これまでにも、様々な交わりに出席してきたが、その頃と今とでは、何かが違う。

こんなことを言われた。

「あなたにはねー、こんなこと言っていいかどうか迷ったんだけど、今朝、ヴィオロンさんと『不器用』という言葉が一つにつながったんだよ」

筆者はそれを聞いて「それはひどいですねー」とうわべは抵抗を見せつつも、頷いて笑う。

筆者は確かに不器用な人間であり、人のために何かしてあげようと思っても、そのタイミングを逸することが多い。筆者が動こうとする前に、気の利いた誰かが、もうすでに人々の世話に着手しているからだ。

ところが、キリスト者の交わりとなると、そんな不器用な筆者からも、世話を受ける人が出て来る。互いに仕え合い、満たし合う関係が不思議に成立する。

その日の話題は、主にあって、いかに自分の生来の力に対して弱められ、それに死に、主の力によって強められて生きるか、というところを巡っていた。筆者が不器用であっても、私たちは存在そのものが神の教会であり、己の力で何かを努力して果たすことによってではなく、ただ存在しているだけでも、世に影響を与え、信仰によって、キリストを人々にもたらす役目を果たせる。それができると信じて良い。

「もっと教会(エクレシア)に頼ったらいいんですよ」

とも言われた。以前には、なかなか人に頼るということができず、頼ることを恐れていた筆者であったが、ここ数年で、考えを変えさせられた。

近頃、筆者の周りには、どこからともなく、善良な人たちが集まって来るようになり、困難な日に、どれほど貴重な助言を受け、励ましを受け、支えられたか分からない。そうして助けを受けたからといって、決して、依存関係や、主従関係が生まれるわけでなく、それぞれが自分の信念を持ち、自立していながら、互いに支え合い、仕え合い、助け合う関係が成立するのである。

そのようなわけで、今年は、人から助けを受けることへの抵抗感がなくなり、特に、神の家族からの助けは、大いに受けて良いものであると分かった。肉の家族ではなく、天の家族が、はっきりと姿を現し、信仰の有無に関わらず、肉の家族以上に筆者を支えてくれるようになったのである。

筆者は、初めは恐る恐る、その人たちとの関わりに足を踏み入れ、恐る恐る、助けを受けた。かつて、あまりにも多くの交わりが、サタンの試みによって引き裂かれ、疑心暗鬼によってバラバラに分解されたので、またも同じことが起きないか、非常に心配であったが、何度、試しても、その交わりは分解することなく、筆者を取りこぼすこともなく、より安定して、強固なものになり、発展した。

以前にも、筆者はキリスト者の交わりを求めて、はるばる長い距離を移動した。その頃も、純粋にエクレシアを求めていたつもりであったが、その時と今とでは、何かが違う。エクレシアを求める熱心さにさえ、死んだのかも知れない。今、与えられているものは、恵みであって、筆者が探し求めた努力の結果とは言えない。

すべての希望が潰え、もう何も戻っては来ないだろうと思った頃に、望みをはるかに超えた恵みが、向こうから自然と姿を現したのである。

それは、天によって支えられている不思議な関係である。鳥が空中に巣をかけるように、地に属さず、地上のすべての関係を超越したところに、不思議な形で、交わりが保たれている。その交わりを何と名づけるべきか、分からない。だが、そこに筆者の居場所があり、平安がある。

その居場所は、信仰のない様々な人たちの間でも、不思議に成立している。たとえば、最近は、警察官から、「クリスマスケーキは食べたの?」と聞かれたり、この世の人から、「無事に年を越せるの?」などと言われ、御馳走を振る舞われたりもした。そんなに心配されるほど、筆者の境遇は危なっかしくはないのだと、とうわべは弁明するのだが、それでも、虚勢を張らず、ありがたく人の親切を受けるようにもなった。
 
これまでは、筆者を苦しめるためだけに、ひたすら筆者の嫌がることばかりをやり続ける人たちがいたが、今年は、そういう人たちと入れ違いのように、筆者が頼んでもいないのに、筆者が何を願っているのか、言葉も発していないうちから、筆者の願うことだけを、ひたすらやり続けてくれる人が現れるようになった。

しかも、それはただ単純に、望みをかなえてくれるという低い次元の関わりではなく、時宜にかなった助言があり、将来に渡ってまで、役立つ助けが与えられ、困難の中でも、率直に心の内を語り合い、互いに支え合い、励まし合う関係が成立している。そんな関わりが成立しうるとは、想像したことさえなかったが、筆者の未熟さによって揺るがされることのない、真実で誠実な信頼関係が成り立つことを知ったのである。

そういうわけで、「人が一人でいるのはよくない。彼のために助け手を作ろう」とおっしゃられた神の御言葉が、筆者の人生にも成就し、筆者自身も、人の助け手となったり、人々も、筆者の助け手となってくれたりして、これまでのように一人で時間を過ごすことがだんだん難しくなってきた。

かつてのように、開かずの間に向かって、扉を叩き続けるような、むなしい関わりが減って行き、そういうものが残っていても、ある時、バッサリと枝葉が切り捨てられるようにしてなくなる。そして、いつの間にか、筆者自身からも、命の水が細い川のように流れ出し、その流れを人々と分かち合うことができるようになった。

どういうわけか知らないが、長年、筆者を縛っていた敵の呪いが解け、筆者自身の中に残っている古き人の残滓が、どんどん筆者から切り離されて行くのである。恐れ、疑い、不信、肉なる情・・・、そういった古き人の思いが、御言葉による「手術」により、筆者から切断されて、取り払われて行く。これは人知を超えた不思議な逆説的なみわざである。

「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろともに十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」(ガラテヤ5:24-26)

筆者を憎む者が、筆者を踏みつけ、勝利の快哉を叫んでいる最中に、筆者は、キリスト者の交わりの中に入れられ、愛によって取り囲まれ、信仰者からも、信仰を持たない者からも、心を尽くした助けと慰めと励ましを受け、魂を生き返らされている。

追い詰められ、殺されかかっているように見える時に、かいがいしく世話を受け、「生きよ」と命じられ、「私はあなたの敵を滅ぼす」、「すべての重荷を私に委ねなさい。」、「私はあなたを見捨てない」、「私を信頼してすべてを任せなさい」と、主から励ましを受ける。

一体、この恵みは何なのだろうか。多くの苦難と、それを圧倒的に上回る慰めに満ちた励ましとのコントラストである。

主は、信じる者をお見捨てにならず、恥の中に捨て置かれることもない。同時に、神の家族も同じように、愛する人々を苦難の中に置いて去って行くようなことをしない。

まるで多くの人たちからこう言われているようである、「疑わなくていいんですよ、ヴィオロンさん、私たちは目に見えない家族として結ばれているのですから、引き離されることはありません、互いに助け合うのは当然です」

神は報復なさる方であり、無垢な者を破滅させようと企む者には、したたかに報いられる。だが、主の勝利は、私たちが肉の腕で勝ち取るものではなく、信仰を通して、神がなさるみわざである。そうであるがゆえに、それがどのように現れるのか、私たちは事前に知らないし、己の力を誇ることで、敵に対する勝利を勝ち取るわけでもない。

キリスト者の原則はいつも、「私は衰え、彼(キリスト)は栄える」、というものだ。だから、来るべき年は、ますます肉の力によらず、信仰による神の御業を待ち望み、主の御言葉の正しさを地上で証明することに専念し、自分自身を誇るのではなく、ただお一人の神を誇りたいと願う。
 
二つの詩編を引用しておこう。

詩編第1編

いかに幸いなことか
神に逆らう者の計らいに従って歩まず
罪ある者の道にとどまらず
傲慢な者と共に座らず

主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木。

ときが巡り来れば実を結び
葉もしおれることがない。
その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。

神に逆らう者はそうではない。
彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
神に逆らう者は裁きに堪えず
罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。

神に従う人の道を主は知っていてくださる。
神に逆らう者の道は滅びに至る。

詩編第64編

神よ、悩み訴えるわたしの声をお聞きください。
敵の脅威からわたしの命をお守りください。
わたしを隠してください
さいなむ者の集いから、悪を行う者の騒ぎから。

彼らは舌を鋭い剣とし
毒を含む言葉を矢としてつがえ
隠れた所から無垢な人を射ようと構え
突然射かけて、恐れもしません。

彼らは悪事にたけ、共謀して罠を仕掛け
「見抜かれることはない」と言います。
巧妙に悪を謀り
「我らの謀は巧妙で完全だ。
 人は胸に深慮を隠す」と言います。

神は彼らに矢を射かけ
突然、彼らは討たれるでしょう。
自分の舌がつまずきのもとになり
見る人は皆、頭を振って侮るでしょう。

人は皆、恐れて神の働きを認め
御業に目覚めるでしょう。
主に従う人は主を避けどころとし、喜び祝い
心のまっすぐな人は皆、主によって誇ります。

神に従う人の道は輝き出る光 進むほどに光は増し、真昼の輝きとなる。

「わたしの兄弟たち、何よりもまず、誓いを立ててはなりません。天や地を指して、あるいは、そのほかどんな誓い方によってであろうと。裁きを受けないようにするために、あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい。」(ヤコブの手紙5:12)

あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」(マタイによる福音書第5章36)

* * *

前回、神は人の心の極みまで明らかにされる方であり、隠れた事柄が明らかにされるのは、聖書の御言葉にかなっている、ということを書いた。

そして、神が立ち上がって報復して下さるためには、ある人がただ私たちクリスチャンを傷つけたというだけでは不十分であって、その人が、神を冒涜する言葉を述べている必要があるということをも書いた。

神聖なものが冒涜・蹂躙されて、初めてその事件は、単なる人間同士の小競り合いという域を超えて、神が対処されるにふさわしいものとなるのである。

そういう意味で、今、考えれば考えるほど、人の内心が露わにされており、神を信じない人は、自分は勝利を遂げたと快哉を叫ぶ瞬間にさえ、オウンゴールを遂げて自滅することを免れられない。

昔々、教会が主催する日曜学校で、こんな出来事が起きた。日曜学校では、お祈りしているときには、みんな目をつぶっていなさい、と先生が生徒たちに教えていた。

ところが、ある生徒が、お祈りしている途中に、他の生徒がちゃんと目をつぶっていないのではないかと疑い始め、お祈りが終わったあとに、先生に向かって、得意満面でこんな報告をした。

「先生、A子ちゃんがお祈りの途中に目をつぶっていませんでしたよ!」

先生は至極落ち着いてその子に問うた。

「どうやってあなたにそれが分かったの?」

もちろん、面目を失ったのは、A子ちゃんではなく、お祈りの最中に、他の生徒たちの行状を先生に告げ口しようと、あら探しを重ねていた生徒であったことは言うまでもない。

クリスチャンの罪を告発しようなどと考える不届き者が出現すると、こういうことが起きる。

ある人が得意満面で、クリスチャンの「失敗」や「不正」を神に報告しようとする。あそこの教会ではこういう不祥事が起き、あの信者は、別な兄弟姉妹と争い、また別な信者は、家庭内のいざこざを治められず、また別な信者は、信仰の道を踏み外し・・・etc. etc.

ところが、神は問われる、「なぜあなたがそういう出来事を知っているのですか。どうやってそれを調べたのですか。あなたは祈りの家と唱えられるはずの私の父の家で、父へ捧げられた礼拝の時間と場所を使って、かえってあなたの兄弟姉妹を不利に陥れるために、彼らが知られたくないと思う情報をこっそり集めていたのですか。そんなことがあなたにとっての『礼拝』や『祈り』なんですか」

告げ口屋は、それで万事休すだ。そのことは、子供向けの日曜学校だけでなく、それ以外の教会生活にも、現実の生活においても、同じように当てはまる。

まことの父に捧げられるはずの厳粛な祈りと礼拝の時間を使って、まるで興信所のように、兄弟姉妹の身辺調査を行い、彼らを不利に陥れるための証拠を嗅ぎまわる者がいる。

しかし、そうして他人の生活を盗み見て得た情報を、聖なる貴重な手柄であるかのごとく、礼拝に携えてやって来ることはできないし、そういう者には、神ご自身が「穢れた者よ、ここから出て行きなさい!」と厳しく命じられ、神の家から放逐されることになるのは、避けられないだろう。

たとえいと小さき幼子のような兄弟姉妹であっても、その者のためにも、以下の御言葉はある。だから、祈りや礼拝の最中に、兄弟姉妹を訴える材料を探す者は、最終的には、神ご自身を敵として歩むことになる。
 
もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。・・・」

これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:31-39) 
 
さて、これまで当ブログでは、東洋思想(グノーシス主義を含む)の目的は、「対極にあるものの統合」であると述べて来た。言い換えれば、それは「然り」と「否」との統合である。

さらに別な言葉で言えば、グノーシス主義とは、ただお一人の神だけに忠実に生きていない人が、自分の不実な生き方を隠そうとして作り出す、終わりなき自己弁明のための詭弁だと言って差し支えない。

だから、そういう者の発言の中には、必ず、「然り」と「否」が混同している。

たとえば、自分を罪から贖い、義として下さった神に献身して、生涯を伝道に捧げるために牧師として生きる、と言いながら、その実、全く別なこと(教会や兄弟姉妹を告発すること)をライフワークとして生きている。
 
キリストの贖いによって罪赦されて、自分はクリスチャンになったと言いながら、兄弟姉妹の罪を決して赦そうとせず、彼らを非難・罵倒し、罪に罪を重ねて生きている。

「金持ちが天国に入るのはらくだが針の穴を通るよりも難しい」という聖書の御言葉を知っていながら、「金持ちも天国に入れる!」と自分勝手な例外をもうけて、富裕者を対象としたセミナー、集会などを開いては、積極的に献金を集め続けている。

「義人は信仰によって生きる」という御言葉があることを知っていながら、「自殺は罪ではない」と触れ回り、心弱くなって自殺した人の肩を持ち、御言葉に人を救う力があることを否定する、等々。

こんな風に、御言葉に従うように見せかけて、それを曲げたり、逆らいながら、二重性を帯びた生き方を続けて行けば、「然り」と「否」との統合(対極にあるものの統合)が起きることになる。もちろん、それは統合できるはずのないものを統合しようとする錬金術のような生き方であるから、嘘であって、詭弁であり、やがてその破綻が誰の目にも明らかになる。

最近、筆者が手を加えなくとも、そういう人にはおのずから破綻が起きるのだということが分かるようになった。そして、そういう光景を見るにつけても、やはり神は、聖徒らに罪を着せようとする人間を、そのまま放っておかれることは決してなく、キリストの十字架の血潮の絶大な価値のゆえに、私たちの身の潔白を、ことごとく証明して下さるのだと感心しないわけにいかない。

以上に挙げた御言葉には、「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」と書いてある。

このことは、主イエスによって示された神の愛は、時空間を超越して私たちと一つに結びついていることを示している。この世の事物や、人の思惑が、どんなにその邪魔をしようと入り込んで来ても、それが私たちを神の愛から引き離すことは決してない。

その約束は極めて絶大である。人の人生には、その人自身の目にさえも、失敗と映る出来事が存在しないわけではないし、人の目から見て、何が正しく、何が間違っているかは、時に分からないこともある。だが、そういうときでさえ、キリスト者の人生にあっては、神がすべての出来事を益として下さり、神の栄光のために用いられる。

それゆえ、私たちの人生には、失敗とか、損失というものは存在しないし、思い煩わねばならない理由もない。

神に従う人の道は輝き出る光
 進むほどに光は増し、真昼の輝きとなる。
 
 神に逆らう者の道は闇に閉ざされ
 何につまずいても、知ることはない。」(箴言4:18-19)

ハマンはエステルの祝宴に招かれ、自分の地位は安泰だと過信し、モルデカイとユダヤ人たちを殺す機会は目前に迫ったと考えて喜び浮かれていたが、王はハマンがモルデカイを吊るすために自分の邸宅の庭に造った絞首台に、ハマン自身を吊るすよう命じた。ハマンの邸宅は、エステルに与えられた。

霊的な文脈においては、すべてのことについて、決着が完全についている。そして、筆者は、時を追うごとに、目に見える出来事を通しても、その霊的な勝利が少しずつ表されていること、カルバリの勝利は、信じる者に揺るぎのない約束として与えられており、私たちにはいつでもそこへ帰って行く権利が与えられていることが、分かるようになった。

「然り」と「否」を統合しようとする者は、最終的に、神ご自身によって討たれ、退けられる。すでに誰も強制していないのに、その者は、自らの内心を赤裸々に吐露して、自分を義としてくれた人の言葉を裏切って、自滅へと向かったことを見ても、なおさらそう思わないわけにいかない。

実に不思議なことであるが、その人が勝利のおたけびだと思って叫んでいる言葉が、そのまま、敗北の宣言に変わっているのだ。
 
そして、気づくと、十年来、筆者が解こうとして苦労して来た呪いは、いつの間にか解除されていた。

いつしか筆者の周りには、多くの人たちがやって来るようになり、一人でいるための時間も残らないほどになった。なぜそうなったかと言えば、筆者の手がけているプロジェクトが、完成に近づいているためである。

そのプロジェクトは、生ける命の水の川々をこの地から、筆者自身から、はるか遠くに及ぶまで、果てしない広域に向けて流し出すというものである。干上がったこの霊的飢饉の最中に、沙漠の中にオアシスを作るように、神の愛が川のように溢れ流れ出すよう、巨大なパイプラインを建設中なのである。

それは誰も注目しないみすぼらしい「干潟」から始まる。人知れない事業であった。だが、筆者が開拓した「干潟」からは、確かに命の水が流れ出し、周囲を潤すようになり、その水を求めて来た人たちや、筆者との交わりのために来た人たちが、泉の水を汲み出して飲み、そこに手足を浸して、体を休めている。パイプラインが建設された後には、人々が安らぐための広場が出来、緑の公園や、ベンチや、噴水が出来、子供たちが駆けまわる。

だが、まだ足りないものがある。それは、住まいである。多くの人たちを受け入れ、かくまうための住まい、彼らが荷を下ろし、時を忘れて静かに語らい、ゆっくりと休むことのできる住まいがまだない。
 
その住まいとは、神のために用意された神殿である私たち自身のことでもある。主イエスは、地上を去られる前に、私たちのために天に住まいを用意するために行かれると言われた。その住まいはたくさんあるとも。だが、同時に、私たち自身が、この地上において、まことの主人の到来にふさわしい住まいとして建て上げられ、整えられ、主の栄光を表すことが必要なのである。

それはまるで天と地とが呼応するようである。その住まいが完成されたとき、神ご自身もそこに喜んでやって来て、私たちと共に住んで下さり、それはついには朽ちることのない永遠の巨大な都を構成するようになるだろう。

そういうわけで、今は終わりの時に向かって、人々の内心がことごとく明らかにされ、それぞれが目的とするところが何であるかが試され、各自のビジョンが完成に近づいている時である。正しい者はますます正しく、悪い者はますます悪くなる。聖なる者はますます聖とされ、汚れた者は、なお汚れるままになると聖書に書いてある。

不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行なわせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。

 見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。
わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。
 命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。」(黙示22:11-15)

渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むが良い。この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者がれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この預言の書の言葉から何かを取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。」(黙示22;17-19)
 
だから、私たちは、より一層、霊や肉の穢れから身を清め、聖なる神の住まいとなるにふさわしく整えられたい。

荒野で、蛇にかまれても、さおにかけて上げられた青銅の蛇を見た者が生きたように、カルバリにおいて永遠に打ち立てられた御子の十字架を仰ぐことによって、私たちは生きる。

私たちの内に義があるのではなく、キリストが、私たちの義であり、贖いであり、聖なのである。彼こそが、私たちのために模範として与えられた、神の御心を完全に満足させる新しい人である。
 
神はそれぞれの心の内にある動機を知っておられ、これらをすべて万人の前に明らかにすることができる。神の御前には何一つ隠し立てできるものはなく、人の思いの不完全さも、神にはすべて知られており、明らかにされる時が来る。

筆者はまずはその光による照らしを待ちたい。その後、悪者たちには終わりが来る。その行程がどんなものになるか、筆者はここに明かすことはないが、主を信じる者が、失望に終わる事はないと聖書に書いてある通り、神はご自分を信じる者をみもとにかくまい、すべての悪巧みから救い出し、高いところに置かれる一方で、主に逆らう悪者にはしたたかに報いられる。

悪者は、自分を襲う恐怖を知らず、それに対策を打つこともできず、そこから自分を救うこともできない。主に叫んでも、その叫びはかえりみられることなく、その祈りは罪とされる。主に従う者の道は栄え、悪者は断たれる。それは聖書が一貫して告げている変わらない法則性である。


何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。

「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞切れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。」(ヨハネ一5:13-15)

ここ一週間、曇天と雨が続き、それに合わせて、心を曇らせる出来事が山のように起きた。

だが、同時に、誰かが筆者のために、非常に心を砕いて心配してくれていることも、ひしひしと伝わって来た。

そういうことは、これまでにも幾度かあった。 筆者の身を案じてくれているのが、誰なのか分からないこともある。もしかしたら、御使いなのかも知れない。

それでも、苦難がやって来るときに、錯覚とはとても思えないリアルな感覚として、本当に筆者のために心を悩ませてくれている人がいることが伝わって来る。誰であれ、そういう人がいると分かると、心が慰められるし、立ち上がって、圧迫を粉砕するため、何度でも奮闘しようとの力が湧いてくる。

昨朝、目覚めた際、懐かしい知人が、まるで顔を覗き込み、「ヴィオロンさん、大丈夫ですか 私はあなたの味方ですからね」と、幾度も語りかけているように感じられた。

何をそんなに心配されねばならないような理由があるのかと、その時は思ったが、理由はあとになって分かった。その慰めは、しばらく経った今も続いている。これは主から来た慰めなのか、それとも、人から来たものなのか、御使いによるものか、知らない。だが、至る所で、特別な配慮に満ちた励ましをそば近くに感じる。

だから、筆者は出来事に振り回されることはなく、また、人の思いとは一切関係なく、静まって、内なる気力を養い、虚偽と、不当な制約と、死の宣告を打ち破るために、何が必要なのかを神に知らせて下さいと願うのみである。

サタンからは、絶え間なく、筆者のもとに「あなたは値しない」という証書が届く。

「あなたが望んでいることは、あなたに値しない」「あなたの言い分は、あなたに値しない」「あなたの願いは、あなたには値しないから、あきらめなさい」「あなたが抱えている不自由と苦しみと制約こそ、あなたが選んだ、あなたにふさわしいものである」

しかし、筆者は、その証書を破り捨て、サタンの言い分は粉砕し、さらなる自由と解放を求めて、神が望んでおられる道を歩いて行くために必要な知恵と手立てが与えられるように天に願う。
 
突飛な話と感じられるかも知れないが、このようなことについて考える時、筆者はどうしても、人を生かす力は、女性にはなく、男性からやって来る、と思わざるを得ない。

このところ、筆者に関わる全く同じような手続きを、女性と男性の二人の権威者が、違ったやり方で成し遂げるのを筆者は見させられた。

その結果、この二つのケースにおいて、ほとんど同じ状況で、180度異なる結論が出たのである。

女性は、筆者に自由や解放を与えず、困難を乗り越えて信頼を維持し、手続きを成功裏に導くことができなかった。それだけでなく、筆者に疑いを抱き、大きなダメージを与える結果をもたらしたが、他方、男性は、そういう困難を打破して、根気強く、誰もが生きられるような結論を導き出すことができた。

この二人が相手にしたのは、筆者という同じ人間である。この二つのケースがあったおかげで、筆者は、何もかもが自分の選択の結末ではなく、誰を相手にするかによって全く結論が変わって来ることを思い知らされた。

女性は早々に筆者に向かって、信頼を手放し、望みをあきらめるよう釘を刺したが、男性はそのようにはしなかった。だとすれば、信頼を維持できないことは、必ずしも筆者の側の責任ではないことが分かる。
 
筆者の目には、女性には、困難を根気強く乗り越えながら、互いに信頼を維持し、願っている自由へ向かって、あきらめることなく、手を携えて進んで行く能力が、そしてそのために苦しみを負う能力が、男性に比べ、極度に不足しているように見えてならない。

だから、女性との連帯は、困難が来るとすぐにあっけなく壊れ、かえって女性が女性を束縛し、死に導くという結果が起きてしまいがちなのである。

こうした出来事を筆者はこれまで山のように見せられて来た。職場でも、それ以外の場所でも、女性に自分の決断を委ねようとすると、なぜか命に至り着くどころか、束縛と、死の宣告を受け、死に触れることになるのである。

最近、その傾向がますます強まっており、女性が筆者にもたらす死の力は、何かしらものすごいものとなっているように見受けられるため、一体、これは何なのだろうかと、どうしたらそのような影響を防げるのかと、筆者は考えさせられている。

虚無に服した被造物全体を象徴する女性が、非常に美しい笑顔で笑いながら、死神のように、サタンが作った債務証書を筆者に突きつける。

「あなたにはこの限界がふさわしい。いい加減、あきらめてそれが自分の運命だと悟りなさい。私もあなたと同族で、大きな制約を負って生きてきたのです。なぜあなたは自分だけがそこから逃れられるなどと思うのですか。そんなのはわがままです」

だが、筆者はそれでも首を振り、限界と死の宣告を受け入れない、という意思表示を行う。不可能事を望んでいると言われても、構わない。見えない領域に向かって、その証書を突き返し、改めて死の力ではなく、生きた命をもたらすことのできる人々へ担当者の交替を願い出る。

筆者は死神など呼んだ覚えはなく、神の御言葉に沿って正しい解放をもたらすことのできる存在を呼んだのである。
 
当ブログでは、繰り返し、聖書によれば、男性が先に創造され、女性は男性から後になって造られたという順序があり、男女の秩序は決して覆せないものであるということを述べて来た。

男性は、主イエス(救済者)のひな型であり、女性は、教会(被造物)のひな型である。もちろん、人類は男性も女性も含め、神の神殿であり、宮なのだが、とりわけ象徴的には、男性は神を象徴し、女性は被造物全体を象徴している。

そうである限り、男性には、誰であれ、またどんなにそれがかすかなものとなっていようとも、人を困難から救い出し、追い詰められている人を解放し、自分の命を投げ出してでも、弱い他者を救うことを、己が使命とするキリストの面影が宿っているように見える。

男性には、男性である限り、誰であれ、救済者になろうとする願望がある。それはしばしば誤った形で発揮されることも多いが、いずれにしても、その性質の中には、神ご自身が持っておられる他者を生かす力が、受け継がれていると筆者は見ている。

だが、女性にはそうした性質がない。女性は憐れむことはできるが、それは自分を投げ出してでも、他者のために命を与えることとは、別の種類のものである。

教会は宮であり、あくまで主がなければむなしい存在であるから、女性は単独では虚無であり、解放者ではなく解放される側に立ち、空っぽで満たされるのを待っている器である。それゆえ、単独では、制約と、死を象徴する。

このようなことを言い始めると、たちまち差別だと誤解する人たちも出て来るかも知れないが、あくまでそういう文脈ではないことを断っておきたい。

以上のようなわけで、女性は、筆者から見ると、その存在自体に、単独では「理不尽」と書きこまれていると言って良い存在である。だからこそ、その存在に触れるとき、理不尽に触れてしまうことになり、死の力が及ぶのである。女性は、自分だけでは、その理不尽を打ち破ることができず、その中に閉じ込められているからこそ、他の女性を解放することもできないのである。
 
そこで、筆者はこの先、被造物の象徴としての女性の受けている死の圧迫を避け、その制約から自由になるために通るべき道を知らねばならないと思わされている。

さしあたり、筆者を生かすことのできる人々を天に向かってオーダーすることしかできないが、一体、この問題に終止符を打つために具体的に何が必要なのであろうか、と考えさせられる。
 
* * *

とはいえ、女性同士の間でも、痛みを分け合いながら、共に進んでいくことのできる人たちがいる。

人生が落ち着いたときに、時折、互いに身の上話をして来た友人と久々に会話したところ、その人は、筆者に向かって、いつになく確信に満ちた断固たる口調で、早いうちにボーナスや退職金が支給される環境に行かなければならない、そうでなくては、生涯の賃金格差を決して乗り越えることができない、と切々と説いた。

その言葉は、いつになく切迫した重要な助言のように響いた。なぜなら、ちょうど筆者の感じていた危機感と一致していたからである。

筆者は雇用契約書に目を通す際、育児休暇・産前産後休暇、介護休暇に賃金が支払われるのかどうかを気にしている。さしあたり、そうした休暇をすぐに取る予定があるわけでないのに、それに注意を払うのは、もしもそれらの休暇が、無給であれば、その職場は、真に人を人間として育てて行こうとの意識がないところだから、そう長くは続けられない、と認識して構わないからである。

社員を労働力としてしか見ず、人として豊かな生活を送るために、必要な余裕を与えない職場では、社員が幸福を求めて行動を起こすと、大きな障壁にぶつかる可能性が高い。

それは身長の高い人が、天井の低い家に住むようなもので、人間の身の丈に合っておらず、窮屈な生活の中で、幾度、頭を鴨居にぶちつけて痛い思いをするか分からないのを分かって、あえてその家に住もうとするのは愚かである。

もちろん、短期の派遣の雇用や、契約社員の雇用に、そのような恵まれた条件があるはずもなく、通勤交通費さえ支給されない職場に、有給の産前産後休暇や介護休暇を望むのは愚かである。

そういうものは、屋根も壊れて雨漏りのする家のようなものであって、それが家だと思っている限り、その人には安全な暮らしさえ保証されない。

筆者は、人が人らしく生活を営むことと、働くことが両立しうるような雇用体系の中に身を置かない限り、その人の勤めている職場は、結局、人を使い潰すことしかできない、という法則性は変わらないという結論を得ている。

そのことを明白に悟ったとき、筆者は、これまでの自分が、あまりにも微小なものしか求めず、ほんのわずかな条件の向上を見ただけで、天から救済者が現れたかのように喜び、本当の意味で、自分の身の丈にあったものが何であるのかを、知らず、それを探し求め、得る道があることを十分には知っていなかったことを思い知らされた。

たとえるならば、カビの生えたパンを毎日食べながら、これが食事だと思い込み、雨漏りのする家に住みながら、これが家だと思い込んでいるような具合で、本当の食事とは、本当の家とは、決してそのようなものではない、ということを漠然と感じながらも、では、一体、自分の探し求めているものは何なのかを具体的に知ることなく、ただ一体、なぜ自分はこんなに窮屈で不快な思いをしながら毎日を苦しんで暮らさねばならないのだろうか、これが本当に人の生活というものだろうかと思い悩んでいたような具合である。

自分の望む真の食事とは、真の家とは何なのかを見極め、見極めたならば、それが自分に値することを信じなければならない。

そういうわけで、筆者は、限界と制約と死の象徴である死神が、どんなに限界だらけの証書を筆者のもとに届けても、それが筆者にふさわしい最終宣告であると受け入れる気はないのである。

「あなたには、雨漏りのする家と、カビの生えたパンで十分である。あなたは自らそれを望み、知っていて、それを選んだのだ。だから、それがあなたの人生にふさわしい応酬だ。それを不満に思い、それをあなたに与えた者を、騙したなどと言って、非難する資格はあなたにはない」

などと言われても、筆者は言う、

「そんな馬鹿なことはない。私は雨漏りのしない本当の家らしい家と、カビに悩まされることなどない食事に憧れ、それを探し求めてあらゆる場所の門戸を叩いた。その結果、知りもしないうちに、雨漏りのする家をつかまされ、カビの生えたパンを口に押し込まれたとしても、それが自ら招いた選択であり、私の望んだ結果であり、私にふさわしい結末であったなどとは、決して認めない。私はこういうものを、家とも、食事とも思っていないし、そんなものを求めた覚えもないし、そんなものしかないなどという話も聞かされていない。にも関わらず、これが私に値するものだとどうして言えるのか。制約よ、引きさがりなさい。」

実りをもたらさない干からびた大地をいつまでも耕し続け、貧しい家の中で、こんなにも収穫がないのは誰のせいなのだと言って互いを責め合うのは、愚かな所業であり、そんな場所からは、離れるべきなのである。必ず、実りをもたらす大地が存在するはずである。

筆者と久方ぶりに話した知人は、前途洋々たる20代、30代の中に、多額の借金を抱えている人たちが非常に増えていることを話してくれた。筆者よりも年下の世代の中に、筆者の世代よりもさらなる困難の中に投げ入れられている人々がいることが分かった。

私たちの世代も大きな困難の中に長い間、助けなく放置されて来たが、それより下の世代は、無知と無防備につけこまれ、さらにもっと大きな抑圧の中に置かれている様子が垣間見えた。

誰がこの人たちの抱えている苦難に目を留め、彼らのために自由を用意し、貧しさの連鎖が生まれないように手立てを打つのであろうか。それは大人たちが考えてやらねばならないことではないだろうか。

こんなことでは、貧しい農村から、若者を身売りさせ、騙してひどい職業に従事させたり、特攻に送り出していた戦前・戦中と何が違うのだろうかとため息をつきたくなる。

しかし、知人は、そういう悲しい出来事ばかりを毎日のように見聞きする状況を離れ、貧しさではなく、豊かさを求めねばならないこと、働くことが苦痛でしかない環境を去り、喜びを感じられる仕事を選んだこと、筆者にも、あきらめて制約を受け入れるのではなく、飽くことなく自由を探し求めるよう、改めて背中を押してくれた。

その時、筆者の目の前には、今見ているものより、はるかに遠く、もっともっと先にある目的がおぼろげながら思い浮かんだ。

雨漏りのしない本当の家――貧しさや、限界や、不幸に追い詰められ、絶えず家族のメンバーがいがみ合い、争うような不幸な家ではなく――生きるために馬車馬のように働き、休息も取れず、不意の事態にも対応できないような生き方ではなく――家族が集まって、安心して団らんのできる、幸福な家、笑顔の溢れる家――安息に満ちた生き方――それは絶対にあるはずだし、筆者はそれをこそ絶え間なく探し求めて来たはずである。

何度、騙されかけ、何度、あきらめるよう求められ、何度、制約の中に閉じ込められ、何度、それがあなたの選んだ選択であって、それ以上のものにあなたは値しないと言われたとしても、決して、それが筆者の動かせない結論であるとは認めない。

もちろん、ここで言う家とは、あらゆる環境条件のことである。そこには、雇用条件や、それ以外のあらゆる条件も含まれる。

雨漏りのしない堅固な家を願うなら、それは必ず、存在し、手に入れることが可能であり、また、自分はそれに値するという確信を持つ必要がある。あなたはそれに値しないという、サタンの死の宣告を破り捨て、これを無効化する、新たな命に満ちた証文で上書きしなければいけない。

たとえ荒野の中を通されていても、そこが永住の地ではないことを、私たちは信じている。乳と蜜の流れる土地へ向かって、長い長い道のりかも知れない。だが、その約束の地がなぜ遠く、長い道のりに感じられるのかと言えば、私たち自身が、それが自分に値することを、まだ十分には知っておらず、信じる力が十分に達していないためである。

しかし、神は私たちを根気強く教えて下さる。

主は、日々起こる波乱のような出来事の中で、瞬間、瞬間、こう言って下さる。

「私はどんなことがあっても、あなたの味方であり、あなたを見捨てません。私があなたを教え、あなたを平安に導きます。だから、どんなことがあっても、落胆せず、私に従って来なさい。私は必ずあなたを安息の地に導くことができます。それがあなたのための私の約束なのです。」

筆者はその約束を信じている。だから、試練があるときにこそ、慰めは深く、解放も近いということを、常に思わされている。

生ける水の川々

「おおよそ人を頼みとし 肉なる者を自分の腕とし、
 その心が主を離れている人は、のろわれる。
 彼は荒野に育つ小さい木のように、
 何も良いことの来るのを見ない。
 荒野の、干上がった所に住み、
 人の住まない塩地にいる。

 おおよそ主にたより、
 主を頼みとする人はさいわいである。
 彼は水のほとりに植えた木のようで、
 その根を川にのばし、
 暑さにあっても恐れることはない。
 その葉は常に青く、
 ひでりの年にも憂えることなく、
 絶えず実を結ぶ。」(エレミヤ17:5-8)

「『わたしは産ませる者なのに
 胎をとざすであろうか』と
 あなたの神は言われる。

『すべてエルサレムを愛する者よ、
 彼女と共に喜べ、彼女のゆえに楽しめ。
 すべて彼女のために悲しむ者よ、
 彼女と共に喜び楽しめ。
 あなたがたは慰めを与えるエルサレムの乳ぶさから
 乳を吸って飽くことができ、
 またその豊かな栄えから
 飲んで楽しむことができるからだ』。」(イザヤ66:9-11)


 オースチン-スパークスの「生ける水の川々」から

 「主は私たちを通してご自身を注ぎ出すことを願っておられ、私たちを通してただひたすらご自身を注ぎ出すことを願っておられることを、主は示しておられます。
『その人から生ける水の川々が流れ出るようになる』。これが彼の願いです。

 どうか私たちの共同の黙想が、このような結果をもたらしますように。干上がった水路はみな満たされ、乾いた土地はみな潤され、霊的干潮はみな満潮に場所を譲りますように。私たちは個人的にも団体的にも自分がまったく取るに足りない民であることを知っていますが、それでも、主はこの道を歩まれるということが新たに知れわたりますように。
 『国々や地の果てにも届くほど、水の量が増し加わることは可能である』と言っても、言い過ぎではありません。それは主が私たちにあってなさることのためです。これが現実となるよう、信仰にとどまりましょう。」

 聖霊降臨の起こったその日、聖霊である生ける水の川々が信徒に上から豊かに注がれた。その時、信徒はそれまでのように、自らの知識によってイエスを理解しようと努力する必要がなくなり、ただ御霊の教えてくれる通りに、父なる神と御子イエスを、そして主の貴い十字架の意味を理解するようになった。

 私にこのことが起こった時(それは聖霊派の言うペンテコステ体験のことではない、十字架における復活を経た後のことである)、福音の本質が驚くほど単純であることに目が開かれた。その単純さはどこから来ていたかというと、「すべては主によってすでに終わった(完成された)」というところにあった。
 この世や、私たち人間に必要な全てのことは、すでにイエスが完成された。イエスの地上での生涯と、十字架における死と、復活と、天に昇られ、御座につくことを通して、すべては成就したのだ。サタンの最後でさえも、すでに定められている。だから、私たちにはもう努力してなすべきことは何も残っていない。ただ御霊の導きに従って、地上で定められた道を歩む他には。

 そのことが分かった時に、これは本当に楽だと思った。すでに道は敷かれており、私たちはそこを安息のうちに楽しみながら歩いて行けばよいと言われているだけなのだ。聖書の字義的解釈がどうとか、神学がどうとか、終末がどうの、再臨がどうの、ハルマゲドンがどうのと言って騒いでいる人たちは一体、何をやっているのだろうか、と、その時、私は思った。1000人教会とか、5000人教会とか、リバイバルだとか言っている人たちは、何をやっているのだろうか。
 すべてはもう完成されている。人間側からの努力は一切必要ないというのに…。目的地は私たちが定めるのではなく、もうすでに定まっている。それははかりしれない神の栄光を表す永遠の都である。それに比べ、もしも1000人教会が私たちの目指すべき目標なのだとしたら、それは何という味気ない目標だろうか。

 福音を理解するのに、高度な学問的知識や、読みきれないほどの分厚い注解書は要らない。教えてくれるのは御霊だからである。漁師だったペテロなど、無学な者たちがイエスに招かれていったことには、何の不思議もない。聖書を解釈しようとして、学者たちによって書かれた膨大な量の文書のほとんどは、きっと、無駄な知識で終わってしまっていることだろう。そこには人間的な意味での知識はあるかも知れないが、どれほどの学識を積んだ人であっても、聖霊によらなければ、聖書が何を意味しているのか正しく理解することはできないのだ。

 ナビゲーターのような存在である御霊は、私の中にインプラントされてすぐに、御言葉の意味を教え、そして歩むべき道を教えてくれるようになった。だが、それで聖霊の働きは全てなのかと言えば、そうではない。

 神の御心は、私たち一人ひとりの信徒が、ただ永遠の命を受け取っただけに終わらず、このまことの命なる聖霊を、私たちの内から、生ける水の川々として豊かに溢れさせ、流すことにある。
 だが、それを一体、どうやって成し遂げればよいのか? そこで頭を抱えて悩む必要はない。それもまた主がなして下さることだからだ。神には一人ひとりの信徒に対する深いご計画があり、私たちが召し出された者である限り、そのご計画は変わらない。私たちの存在を通して、命の水がほとばしるように周囲に流れ出すことは、神の御心である。だから、私たちがそうなりたいと切に願っている限り、それが成就せずに終わってしまうようなことはない。もしそんなことが起こるなら、私たちの存在は誰にとって、何の役に立つだろう?

 塩はその味を失っては、何の役にも立たない。エクレシアがエクレシアとしての存在意味を失うならば、それは誰からも用のないものとして捨てられるだけだろう。そんなことは決して起こらない。主はそんなむなしいことのために、十字架というはかりしれない代価を払って、私たちを贖い出されたのではないからだ。私たちの命には、イエスの十字架の値段がついている。主がそれほどの代価を払って、私たちを買い戻されたのだ。だから私たちはもはや自分自身のものでなくなり、主のものとされている。僕は主人に何と言うべきか。「僕は聞きます、主よ、お語りください。」 それで十分である。僕が主人に代わってあれこれ悩み、命令を考える必要はない。進むべき道は主人が教えてくれる。

 生ける水の川々を豊かに流し出す管となるために、まず、必要なのは、私たちが日々、十字架における自己の死(大小さまざまな形でやって来る)を通して、自分がこれまで立ちふさがってきた水路を聖霊に譲り、御霊が自由に流れる広い水路を開くことである。

 次に、生ける水の川々を豊かに流れさせるためには、「神の宮」の中に、つまり、エクレシアの中にとどまっている必要がある。私たちは個人としてすでにエクレシアを形成しているが、より広い意味でのエクレシア、つまり、兄弟姉妹たちとの愛による一致の中にとどまる必要がある。

「川は第一に十字架と関係しています。十字架は道を開き続け、水路を深め、広げます。
次に、川は宮と関係しています。なぜなら、この経綸時代だけでなくあらゆる時代において、神の御旨のすべては『神の宮』という名が示すもの――教会――と関係しているからです。教会は『永遠の時の前』に神が計画した素晴らしい神の傑作です。偉大な聖霊経験を持ちたいのなら、この実に偉大なものの中にいる必要があります。 」

 エクレシアの一致とは、主にあっての兄弟姉妹たちと、恵みを分かち合い、豊かに与え合い、喜んで仕え合う関係である。エクレシアにおける兄弟姉妹関係は、キリストが弟子達にそうされたように、限りない恵みと祝福を互いに与える関係である。エクレシアには、互いを限りなく愛し、互いのためにわが身を喜んで差し出して奉仕する、キリストのご性質がそのまま体現される。「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22-23)であり、私たちが御霊の導きに素直に身を委ね、御心の通りに生きたいと心から願う時、それらの実は、ことごとく、私たちの努力によらず、主によって、私たちの人生に結実するだろう。

 生ける水の川々には豊かな恵みの現れが伴う。その川々の水量が豊かになり、エクレシアの隅々にまでびっしりと流れて恵みを漏れなく行き届け、(果てはエクレシアの外にさえ流れゆく)に連れて、エクレシアの一致はますます強固なものとなり、そこから分裂や党派や妬み、陰口などが一切、自然消滅していくことだろう。御霊の命が溢れるほどに流れるようになるに連れて、私たちの内からも、肉的な性質の残滓がますます消えていくだろう。
 この途方もない計画は、私たちの努力によって築き上げるものではなく、主自らがなそうとしておられることである。だから、私たちはその成就を信じて、主のご計画に身を委ねたい。

「親愛なる友よ、もしあなたがイエス・キリストの召しと神の恵みに応じてきたのなら、何か途方もないもの、何か巨大なもの、何か抗えないものに捕らえられていることを、先に進むにしたがって知るようになるでしょう。それがどのようなものなのかを描写しようとする時、エゼキエル書は見事に私たちを助けてくれます。覚えておられるでしょうが、川はその幅と深さを増しながら、宮の敷居の下から発し、祭壇の横を流れ、聖なる敷地全体を通り、国土を流れ下りました。

この預言者が告げるところによると、幻の中で一人の人が彼を川に連れて行き、次に川の中に連れて行きました。最初、川はかかとの深さでした。それから、川が膝の深さになるまで、さらに腿の深さになるまで、彼は導かれました。そして、『泳げるほどの水』になりました。最後の描写は、『渡ることのできない川』(エゼキエル47:1-5)です。

 これは素晴らしいです!これが神の恵みの川だとすると、それはあなたや私の理解・能力を超えたものであり、自分たちの貧弱な限られた容量内には収まらないものです。どんなに必要が大きくても、この川は私たちを超えています。この川は常に私たちを超えています。あなたはもうこのことを悟っておられるでしょうか?私は悟りつつあります。あなたは自分自身に絶望し、『もはや神の恵みも自分を助けることはできない』と思ったことはないでしょうか?しかし、この川が完全に自分を超えていることをあなたは知ります。あなたはこの恵みの川に抵抗することができません。前に述べたように、もし恵みの呼び声に応じるなら、それが何か途方もないものであることをあなたは発見するでしょう。恵みの川は時の前に遡り、時の後にも進み続けます。それは永遠と同じく広大無辺です。」