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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。

「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞切れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。」(ヨハネ一5:13-15)

ここ一週間、曇天と雨が続き、それに合わせて、心を曇らせる出来事が山のように起きた。

だが、同時に、誰かが筆者のために、非常に心を砕いて心配してくれていることも、ひしひしと伝わって来た。

そういうことは、これまでにも幾度かあった。 筆者の身を案じてくれているのが、誰なのか分からないこともある。もしかしたら、御使いなのかも知れない。

それでも、苦難がやって来るときに、錯覚とはとても思えないリアルな感覚として、本当に筆者のために心を悩ませてくれている人がいることが伝わって来る。誰であれ、そういう人がいると分かると、心が慰められるし、立ち上がって、圧迫を粉砕するため、何度でも奮闘しようとの力が湧いてくる。

昨朝、目覚めた際、懐かしい知人が、まるで顔を覗き込み、「ヴィオロンさん、大丈夫ですか 私はあなたの味方ですからね」と、幾度も語りかけているように感じられた。

何をそんなに心配されねばならないような理由があるのかと、その時は思ったが、理由はあとになって分かった。その慰めは、しばらく経った今も続いている。これは主から来た慰めなのか、それとも、人から来たものなのか、御使いによるものか、知らない。だが、至る所で、特別な配慮に満ちた励ましをそば近くに感じる。

だから、筆者は出来事に振り回されることはなく、また、人の思いとは一切関係なく、静まって、内なる気力を養い、虚偽と、不当な制約と、死の宣告を打ち破るために、何が必要なのかを神に知らせて下さいと願うのみである。

サタンからは、絶え間なく、筆者のもとに「あなたは値しない」という証書が届く。

「あなたが望んでいることは、あなたに値しない」「あなたの言い分は、あなたに値しない」「あなたの願いは、あなたには値しないから、あきらめなさい」「あなたが抱えている不自由と苦しみと制約こそ、あなたが選んだ、あなたにふさわしいものである」

しかし、筆者は、その証書を破り捨て、サタンの言い分は粉砕し、さらなる自由と解放を求めて、神が望んでおられる道を歩いて行くために必要な知恵と手立てが与えられるように天に願う。
 
突飛な話と感じられるかも知れないが、このようなことについて考える時、筆者はどうしても、人を生かす力は、女性にはなく、男性からやって来る、と思わざるを得ない。

このところ、筆者に関わる全く同じような手続きを、女性と男性の二人の権威者が、違ったやり方で成し遂げるのを筆者は見させられた。

その結果、この二つのケースにおいて、ほとんど同じ状況で、180度異なる結論が出たのである。

女性は、筆者に自由や解放を与えず、困難を乗り越えて信頼を維持し、手続きを成功裏に導くことができなかった。それだけでなく、筆者に疑いを抱き、大きなダメージを与える結果をもたらしたが、他方、男性は、そういう困難を打破して、根気強く、誰もが生きられるような結論を導き出すことができた。

この二人が相手にしたのは、筆者という同じ人間である。この二つのケースがあったおかげで、筆者は、何もかもが自分の選択の結末ではなく、誰を相手にするかによって全く結論が変わって来ることを思い知らされた。

女性は早々に筆者に向かって、信頼を手放し、望みをあきらめるよう釘を刺したが、男性はそのようにはしなかった。だとすれば、信頼を維持できないことは、必ずしも筆者の側の責任ではないことが分かる。
 
筆者の目には、女性には、困難を根気強く乗り越えながら、互いに信頼を維持し、願っている自由へ向かって、あきらめることなく、手を携えて進んで行く能力が、そしてそのために苦しみを負う能力が、男性に比べ、極度に不足しているように見えてならない。

だから、女性との連帯は、困難が来るとすぐにあっけなく壊れ、かえって女性が女性を束縛し、死に導くという結果が起きてしまいがちなのである。

こうした出来事を筆者はこれまで山のように見せられて来た。職場でも、それ以外の場所でも、女性に自分の決断を委ねようとすると、なぜか命に至り着くどころか、束縛と、死の宣告を受け、死に触れることになるのである。

最近、その傾向がますます強まっており、女性が筆者にもたらす死の力は、何かしらものすごいものとなっているように見受けられるため、一体、これは何なのだろうかと、どうしたらそのような影響を防げるのかと、筆者は考えさせられている。

虚無に服した被造物全体を象徴する女性が、非常に美しい笑顔で笑いながら、死神のように、サタンが作った債務証書を筆者に突きつける。

「あなたにはこの限界がふさわしい。いい加減、あきらめてそれが自分の運命だと悟りなさい。私もあなたと同族で、大きな制約を負って生きてきたのです。なぜあなたは自分だけがそこから逃れられるなどと思うのですか。そんなのはわがままです」

だが、筆者はそれでも首を振り、限界と死の宣告を受け入れない、という意思表示を行う。不可能事を望んでいると言われても、構わない。見えない領域に向かって、その証書を突き返し、改めて死の力ではなく、生きた命をもたらすことのできる人々へ担当者の交替を願い出る。

筆者は死神など呼んだ覚えはなく、神の御言葉に沿って正しい解放をもたらすことのできる存在を呼んだのである。
 
当ブログでは、繰り返し、聖書によれば、男性が先に創造され、女性は男性から後になって造られたという順序があり、男女の秩序は決して覆せないものであるということを述べて来た。

男性は、主イエス(救済者)のひな型であり、女性は、教会(被造物)のひな型である。もちろん、人類は男性も女性も含め、神の神殿であり、宮なのだが、とりわけ象徴的には、男性は神を象徴し、女性は被造物全体を象徴している。

そうである限り、男性には、誰であれ、またどんなにそれがかすかなものとなっていようとも、人を困難から救い出し、追い詰められている人を解放し、自分の命を投げ出してでも、弱い他者を救うことを、己が使命とするキリストの面影が宿っているように見える。

男性には、男性である限り、誰であれ、救済者になろうとする願望がある。それはしばしば誤った形で発揮されることも多いが、いずれにしても、その性質の中には、神ご自身が持っておられる他者を生かす力が、受け継がれていると筆者は見ている。

だが、女性にはそうした性質がない。女性は憐れむことはできるが、それは自分を投げ出してでも、他者のために命を与えることとは、別の種類のものである。

教会は宮であり、あくまで主がなければむなしい存在であるから、女性は単独では虚無であり、解放者ではなく解放される側に立ち、空っぽで満たされるのを待っている器である。それゆえ、単独では、制約と、死を象徴する。

このようなことを言い始めると、たちまち差別だと誤解する人たちも出て来るかも知れないが、あくまでそういう文脈ではないことを断っておきたい。

以上のようなわけで、女性は、筆者から見ると、その存在自体に、単独では「理不尽」と書きこまれていると言って良い存在である。だからこそ、その存在に触れるとき、理不尽に触れてしまうことになり、死の力が及ぶのである。女性は、自分だけでは、その理不尽を打ち破ることができず、その中に閉じ込められているからこそ、他の女性を解放することもできないのである。
 
そこで、筆者はこの先、被造物の象徴としての女性の受けている死の圧迫を避け、その制約から自由になるために通るべき道を知らねばならないと思わされている。

さしあたり、筆者を生かすことのできる人々を天に向かってオーダーすることしかできないが、一体、この問題に終止符を打つために具体的に何が必要なのであろうか、と考えさせられる。
 
* * *

とはいえ、女性同士の間でも、痛みを分け合いながら、共に進んでいくことのできる人たちがいる。

人生が落ち着いたときに、時折、互いに身の上話をして来た友人と久々に会話したところ、その人は、筆者に向かって、いつになく確信に満ちた断固たる口調で、早いうちにボーナスや退職金が支給される環境に行かなければならない、そうでなくては、生涯の賃金格差を決して乗り越えることができない、と切々と説いた。

その言葉は、いつになく切迫した重要な助言のように響いた。なぜなら、ちょうど筆者の感じていた危機感と一致していたからである。

筆者は雇用契約書に目を通す際、育児休暇・産前産後休暇、介護休暇に賃金が支払われるのかどうかを気にしている。さしあたり、そうした休暇をすぐに取る予定があるわけでないのに、それに注意を払うのは、もしもそれらの休暇が、無給であれば、その職場は、真に人を人間として育てて行こうとの意識がないところだから、そう長くは続けられない、と認識して構わないからである。

社員を労働力としてしか見ず、人として豊かな生活を送るために、必要な余裕を与えない職場では、社員が幸福を求めて行動を起こすと、大きな障壁にぶつかる可能性が高い。

それは身長の高い人が、天井の低い家に住むようなもので、人間の身の丈に合っておらず、窮屈な生活の中で、幾度、頭を鴨居にぶちつけて痛い思いをするか分からないのを分かって、あえてその家に住もうとするのは愚かである。

もちろん、短期の派遣の雇用や、契約社員の雇用に、そのような恵まれた条件があるはずもなく、通勤交通費さえ支給されない職場に、有給の産前産後休暇や介護休暇を望むのは愚かである。

そういうものは、屋根も壊れて雨漏りのする家のようなものであって、それが家だと思っている限り、その人には安全な暮らしさえ保証されない。

筆者は、人が人らしく生活を営むことと、働くことが両立しうるような雇用体系の中に身を置かない限り、その人の勤めている職場は、結局、人を使い潰すことしかできない、という法則性は変わらないという結論を得ている。

そのことを明白に悟ったとき、筆者は、これまでの自分が、あまりにも微小なものしか求めず、ほんのわずかな条件の向上を見ただけで、天から救済者が現れたかのように喜び、本当の意味で、自分の身の丈にあったものが何であるのかを、知らず、それを探し求め、得る道があることを十分には知っていなかったことを思い知らされた。

たとえるならば、カビの生えたパンを毎日食べながら、これが食事だと思い込み、雨漏りのする家に住みながら、これが家だと思い込んでいるような具合で、本当の食事とは、本当の家とは、決してそのようなものではない、ということを漠然と感じながらも、では、一体、自分の探し求めているものは何なのかを具体的に知ることなく、ただ一体、なぜ自分はこんなに窮屈で不快な思いをしながら毎日を苦しんで暮らさねばならないのだろうか、これが本当に人の生活というものだろうかと思い悩んでいたような具合である。

自分の望む真の食事とは、真の家とは何なのかを見極め、見極めたならば、それが自分に値することを信じなければならない。

そういうわけで、筆者は、限界と制約と死の象徴である死神が、どんなに限界だらけの証書を筆者のもとに届けても、それが筆者にふさわしい最終宣告であると受け入れる気はないのである。

「あなたには、雨漏りのする家と、カビの生えたパンで十分である。あなたは自らそれを望み、知っていて、それを選んだのだ。だから、それがあなたの人生にふさわしい応酬だ。それを不満に思い、それをあなたに与えた者を、騙したなどと言って、非難する資格はあなたにはない」

などと言われても、筆者は言う、

「そんな馬鹿なことはない。私は雨漏りのしない本当の家らしい家と、カビに悩まされることなどない食事に憧れ、それを探し求めてあらゆる場所の門戸を叩いた。その結果、知りもしないうちに、雨漏りのする家をつかまされ、カビの生えたパンを口に押し込まれたとしても、それが自ら招いた選択であり、私の望んだ結果であり、私にふさわしい結末であったなどとは、決して認めない。私はこういうものを、家とも、食事とも思っていないし、そんなものを求めた覚えもないし、そんなものしかないなどという話も聞かされていない。にも関わらず、これが私に値するものだとどうして言えるのか。制約よ、引きさがりなさい。」

実りをもたらさない干からびた大地をいつまでも耕し続け、貧しい家の中で、こんなにも収穫がないのは誰のせいなのだと言って互いを責め合うのは、愚かな所業であり、そんな場所からは、離れるべきなのである。必ず、実りをもたらす大地が存在するはずである。

筆者と久方ぶりに話した知人は、前途洋々たる20代、30代の中に、多額の借金を抱えている人たちが非常に増えていることを話してくれた。筆者よりも年下の世代の中に、筆者の世代よりもさらなる困難の中に投げ入れられている人々がいることが分かった。

私たちの世代も大きな困難の中に長い間、助けなく放置されて来たが、それより下の世代は、無知と無防備につけこまれ、さらにもっと大きな抑圧の中に置かれている様子が垣間見えた。

誰がこの人たちの抱えている苦難に目を留め、彼らのために自由を用意し、貧しさの連鎖が生まれないように手立てを打つのであろうか。それは大人たちが考えてやらねばならないことではないだろうか。

こんなことでは、貧しい農村から、若者を身売りさせ、騙してひどい職業に従事させたり、特攻に送り出していた戦前・戦中と何が違うのだろうかとため息をつきたくなる。

しかし、知人は、そういう悲しい出来事ばかりを毎日のように見聞きする状況を離れ、貧しさではなく、豊かさを求めねばならないこと、働くことが苦痛でしかない環境を去り、喜びを感じられる仕事を選んだこと、筆者にも、あきらめて制約を受け入れるのではなく、飽くことなく自由を探し求めるよう、改めて背中を押してくれた。

その時、筆者の目の前には、今見ているものより、はるかに遠く、もっともっと先にある目的がおぼろげながら思い浮かんだ。

雨漏りのしない本当の家――貧しさや、限界や、不幸に追い詰められ、絶えず家族のメンバーがいがみ合い、争うような不幸な家ではなく――生きるために馬車馬のように働き、休息も取れず、不意の事態にも対応できないような生き方ではなく――家族が集まって、安心して団らんのできる、幸福な家、笑顔の溢れる家――安息に満ちた生き方――それは絶対にあるはずだし、筆者はそれをこそ絶え間なく探し求めて来たはずである。

何度、騙されかけ、何度、あきらめるよう求められ、何度、制約の中に閉じ込められ、何度、それがあなたの選んだ選択であって、それ以上のものにあなたは値しないと言われたとしても、決して、それが筆者の動かせない結論であるとは認めない。

もちろん、ここで言う家とは、あらゆる環境条件のことである。そこには、雇用条件や、それ以外のあらゆる条件も含まれる。

雨漏りのしない堅固な家を願うなら、それは必ず、存在し、手に入れることが可能であり、また、自分はそれに値するという確信を持つ必要がある。あなたはそれに値しないという、サタンの死の宣告を破り捨て、これを無効化する、新たな命に満ちた証文で上書きしなければいけない。

たとえ荒野の中を通されていても、そこが永住の地ではないことを、私たちは信じている。乳と蜜の流れる土地へ向かって、長い長い道のりかも知れない。だが、その約束の地がなぜ遠く、長い道のりに感じられるのかと言えば、私たち自身が、それが自分に値することを、まだ十分には知っておらず、信じる力が十分に達していないためである。

しかし、神は私たちを根気強く教えて下さる。

主は、日々起こる波乱のような出来事の中で、瞬間、瞬間、こう言って下さる。

「私はどんなことがあっても、あなたの味方であり、あなたを見捨てません。私があなたを教え、あなたを平安に導きます。だから、どんなことがあっても、落胆せず、私に従って来なさい。私は必ずあなたを安息の地に導くことができます。それがあなたのための私の約束なのです。」

筆者はその約束を信じている。だから、試練があるときにこそ、慰めは深く、解放も近いということを、常に思わされている。
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生ける水の川々

「おおよそ人を頼みとし 肉なる者を自分の腕とし、
 その心が主を離れている人は、のろわれる。
 彼は荒野に育つ小さい木のように、
 何も良いことの来るのを見ない。
 荒野の、干上がった所に住み、
 人の住まない塩地にいる。

 おおよそ主にたより、
 主を頼みとする人はさいわいである。
 彼は水のほとりに植えた木のようで、
 その根を川にのばし、
 暑さにあっても恐れることはない。
 その葉は常に青く、
 ひでりの年にも憂えることなく、
 絶えず実を結ぶ。」(エレミヤ17:5-8)

「『わたしは産ませる者なのに
 胎をとざすであろうか』と
 あなたの神は言われる。

『すべてエルサレムを愛する者よ、
 彼女と共に喜べ、彼女のゆえに楽しめ。
 すべて彼女のために悲しむ者よ、
 彼女と共に喜び楽しめ。
 あなたがたは慰めを与えるエルサレムの乳ぶさから
 乳を吸って飽くことができ、
 またその豊かな栄えから
 飲んで楽しむことができるからだ』。」(イザヤ66:9-11)


 オースチン-スパークスの「生ける水の川々」から

 「主は私たちを通してご自身を注ぎ出すことを願っておられ、私たちを通してただひたすらご自身を注ぎ出すことを願っておられることを、主は示しておられます。
『その人から生ける水の川々が流れ出るようになる』。これが彼の願いです。

 どうか私たちの共同の黙想が、このような結果をもたらしますように。干上がった水路はみな満たされ、乾いた土地はみな潤され、霊的干潮はみな満潮に場所を譲りますように。私たちは個人的にも団体的にも自分がまったく取るに足りない民であることを知っていますが、それでも、主はこの道を歩まれるということが新たに知れわたりますように。
 『国々や地の果てにも届くほど、水の量が増し加わることは可能である』と言っても、言い過ぎではありません。それは主が私たちにあってなさることのためです。これが現実となるよう、信仰にとどまりましょう。」

 聖霊降臨の起こったその日、聖霊である生ける水の川々が信徒に上から豊かに注がれた。その時、信徒はそれまでのように、自らの知識によってイエスを理解しようと努力する必要がなくなり、ただ御霊の教えてくれる通りに、父なる神と御子イエスを、そして主の貴い十字架の意味を理解するようになった。

 私にこのことが起こった時(それは聖霊派の言うペンテコステ体験のことではない、十字架における復活を経た後のことである)、福音の本質が驚くほど単純であることに目が開かれた。その単純さはどこから来ていたかというと、「すべては主によってすでに終わった(完成された)」というところにあった。
 この世や、私たち人間に必要な全てのことは、すでにイエスが完成された。イエスの地上での生涯と、十字架における死と、復活と、天に昇られ、御座につくことを通して、すべては成就したのだ。サタンの最後でさえも、すでに定められている。だから、私たちにはもう努力してなすべきことは何も残っていない。ただ御霊の導きに従って、地上で定められた道を歩む他には。

 そのことが分かった時に、これは本当に楽だと思った。すでに道は敷かれており、私たちはそこを安息のうちに楽しみながら歩いて行けばよいと言われているだけなのだ。聖書の字義的解釈がどうとか、神学がどうとか、終末がどうの、再臨がどうの、ハルマゲドンがどうのと言って騒いでいる人たちは一体、何をやっているのだろうか、と、その時、私は思った。1000人教会とか、5000人教会とか、リバイバルだとか言っている人たちは、何をやっているのだろうか。
 すべてはもう完成されている。人間側からの努力は一切必要ないというのに…。目的地は私たちが定めるのではなく、もうすでに定まっている。それははかりしれない神の栄光を表す永遠の都である。それに比べ、もしも1000人教会が私たちの目指すべき目標なのだとしたら、それは何という味気ない目標だろうか。

 福音を理解するのに、高度な学問的知識や、読みきれないほどの分厚い注解書は要らない。教えてくれるのは御霊だからである。漁師だったペテロなど、無学な者たちがイエスに招かれていったことには、何の不思議もない。聖書を解釈しようとして、学者たちによって書かれた膨大な量の文書のほとんどは、きっと、無駄な知識で終わってしまっていることだろう。そこには人間的な意味での知識はあるかも知れないが、どれほどの学識を積んだ人であっても、聖霊によらなければ、聖書が何を意味しているのか正しく理解することはできないのだ。

 ナビゲーターのような存在である御霊は、私の中にインプラントされてすぐに、御言葉の意味を教え、そして歩むべき道を教えてくれるようになった。だが、それで聖霊の働きは全てなのかと言えば、そうではない。

 神の御心は、私たち一人ひとりの信徒が、ただ永遠の命を受け取っただけに終わらず、このまことの命なる聖霊を、私たちの内から、生ける水の川々として豊かに溢れさせ、流すことにある。
 だが、それを一体、どうやって成し遂げればよいのか? そこで頭を抱えて悩む必要はない。それもまた主がなして下さることだからだ。神には一人ひとりの信徒に対する深いご計画があり、私たちが召し出された者である限り、そのご計画は変わらない。私たちの存在を通して、命の水がほとばしるように周囲に流れ出すことは、神の御心である。だから、私たちがそうなりたいと切に願っている限り、それが成就せずに終わってしまうようなことはない。もしそんなことが起こるなら、私たちの存在は誰にとって、何の役に立つだろう?

 塩はその味を失っては、何の役にも立たない。エクレシアがエクレシアとしての存在意味を失うならば、それは誰からも用のないものとして捨てられるだけだろう。そんなことは決して起こらない。主はそんなむなしいことのために、十字架というはかりしれない代価を払って、私たちを贖い出されたのではないからだ。私たちの命には、イエスの十字架の値段がついている。主がそれほどの代価を払って、私たちを買い戻されたのだ。だから私たちはもはや自分自身のものでなくなり、主のものとされている。僕は主人に何と言うべきか。「僕は聞きます、主よ、お語りください。」 それで十分である。僕が主人に代わってあれこれ悩み、命令を考える必要はない。進むべき道は主人が教えてくれる。

 生ける水の川々を豊かに流し出す管となるために、まず、必要なのは、私たちが日々、十字架における自己の死(大小さまざまな形でやって来る)を通して、自分がこれまで立ちふさがってきた水路を聖霊に譲り、御霊が自由に流れる広い水路を開くことである。

 次に、生ける水の川々を豊かに流れさせるためには、「神の宮」の中に、つまり、エクレシアの中にとどまっている必要がある。私たちは個人としてすでにエクレシアを形成しているが、より広い意味でのエクレシア、つまり、兄弟姉妹たちとの愛による一致の中にとどまる必要がある。

「川は第一に十字架と関係しています。十字架は道を開き続け、水路を深め、広げます。
次に、川は宮と関係しています。なぜなら、この経綸時代だけでなくあらゆる時代において、神の御旨のすべては『神の宮』という名が示すもの――教会――と関係しているからです。教会は『永遠の時の前』に神が計画した素晴らしい神の傑作です。偉大な聖霊経験を持ちたいのなら、この実に偉大なものの中にいる必要があります。 」

 エクレシアの一致とは、主にあっての兄弟姉妹たちと、恵みを分かち合い、豊かに与え合い、喜んで仕え合う関係である。エクレシアにおける兄弟姉妹関係は、キリストが弟子達にそうされたように、限りない恵みと祝福を互いに与える関係である。エクレシアには、互いを限りなく愛し、互いのためにわが身を喜んで差し出して奉仕する、キリストのご性質がそのまま体現される。「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22-23)であり、私たちが御霊の導きに素直に身を委ね、御心の通りに生きたいと心から願う時、それらの実は、ことごとく、私たちの努力によらず、主によって、私たちの人生に結実するだろう。

 生ける水の川々には豊かな恵みの現れが伴う。その川々の水量が豊かになり、エクレシアの隅々にまでびっしりと流れて恵みを漏れなく行き届け、(果てはエクレシアの外にさえ流れゆく)に連れて、エクレシアの一致はますます強固なものとなり、そこから分裂や党派や妬み、陰口などが一切、自然消滅していくことだろう。御霊の命が溢れるほどに流れるようになるに連れて、私たちの内からも、肉的な性質の残滓がますます消えていくだろう。
 この途方もない計画は、私たちの努力によって築き上げるものではなく、主自らがなそうとしておられることである。だから、私たちはその成就を信じて、主のご計画に身を委ねたい。

「親愛なる友よ、もしあなたがイエス・キリストの召しと神の恵みに応じてきたのなら、何か途方もないもの、何か巨大なもの、何か抗えないものに捕らえられていることを、先に進むにしたがって知るようになるでしょう。それがどのようなものなのかを描写しようとする時、エゼキエル書は見事に私たちを助けてくれます。覚えておられるでしょうが、川はその幅と深さを増しながら、宮の敷居の下から発し、祭壇の横を流れ、聖なる敷地全体を通り、国土を流れ下りました。

この預言者が告げるところによると、幻の中で一人の人が彼を川に連れて行き、次に川の中に連れて行きました。最初、川はかかとの深さでした。それから、川が膝の深さになるまで、さらに腿の深さになるまで、彼は導かれました。そして、『泳げるほどの水』になりました。最後の描写は、『渡ることのできない川』(エゼキエル47:1-5)です。

 これは素晴らしいです!これが神の恵みの川だとすると、それはあなたや私の理解・能力を超えたものであり、自分たちの貧弱な限られた容量内には収まらないものです。どんなに必要が大きくても、この川は私たちを超えています。この川は常に私たちを超えています。あなたはもうこのことを悟っておられるでしょうか?私は悟りつつあります。あなたは自分自身に絶望し、『もはや神の恵みも自分を助けることはできない』と思ったことはないでしょうか?しかし、この川が完全に自分を超えていることをあなたは知ります。あなたはこの恵みの川に抵抗することができません。前に述べたように、もし恵みの呼び声に応じるなら、それが何か途方もないものであることをあなたは発見するでしょう。恵みの川は時の前に遡り、時の後にも進み続けます。それは永遠と同じく広大無辺です。」
 

 


生ける水と死せる水

「…アブラハムはなお、主の前に立っていた。アブラハムは近寄って言った、『まことにあなたは正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。たとい、あの町に五十人の正しい者があっても、あなたはなお、その所を滅ぼし、その中にいる五十人の正しい者のためにこれをゆるされないのですか。正しい者と悪い者とを一緒に殺すようなことを、あなたは決してなさらないでしょう。<…>』
主は言われた、『もしソドムで町の中に五十人の正しい者があったら、その人々のためにその所をすべてゆるそう』。」(創世記18:22-26)

「町の人々はエリシャに言った、『見られるとおり、この町の場所は良いが 水が悪いので、この地は流産を起こすのです』。エリシャは言った、『新しい皿に塩を盛って、わたしに持ってきなさい』。彼らは持ってきた。エリシャは水の源へ出て行って、塩をそこに投げ入れて言った、『主はこう仰せられる、『わたしはこの水を良い水にした。もはやここには死も流産も起らないであろう』」。こうしてその水はエリシャの言ったとおりに良い水になって今日に至っている。」(列王記下2:19-22)


 私たちは今日、神の御前に正しく歩む聖徒たちの存在が、全世界の被造物に対して、どれほど大きな影響を与えているかについて、ほとんど知らない。多くのクリスチャンは(私も含めて)、サタンの捕囚とされて生きることにあまりにも慣れ過ぎてしまっているため、私たちの内におられる御霊、キリストの存在をあまりにも過小評価し、自分の存在に重大な意義があるとは少しも思わず、私たちの祈りが世界に影響を与えうるとはほとんど信じていない。

 だが、冒頭にあげた、ソドムの街の滅びについてのアブラハムと主との問答を通して、私たちが確かに知ることができるのは、神の御前に正しく歩む聖徒たちの存在が、神の大いなる憐れみを引き出すきっかけとなること、聖徒たちの存在の有無によって、堕落しきった一つの町の滅びの運命さえ、食い止められる場合があるということである。
 主はアブラハムへの答えを通して示された、たった10人の義人の存在でも、主にとっては、ソドムの滅亡を撤回するのに十分であることを。(ソドムの全人口がどれくらいだったのか、分からないが…。)

 だから、今日にも同じことが言えよう、私たちが自覚しようとすまいと、この日本に住んで、真実な心で主を崇める聖徒たちの存在は、この国に対する神の大いなる憐れみや、恵みを引き出すきっかけになり得るのであり、その意味でも、エクレシアの存在意義は、私たちが思っているよりもはるかに重大なのである。

 だが、エクレシアの存在意義を語る前に、まず、人と被造物とのかかわりについて、別の側面から述べておきたい。たった10人程度の義人の存在によって、ソドム全体の破滅が阻止されえたとすれば、逆のことも言える。たった1人の人間の悪事が、全世界を滅ぼすきっかけとなることがあるのだと。
 アダムの堕落がそれである。

 話がいきなり飛ぶようで申し訳ないが、かつてソビエト連邦で起きたチェルノブイリ原発事故の悲惨な影響は、まだ終わっていないし、忘れられてはいない。人類発の社会主義国がもたらした人類史上最も劣悪な原発事故は、ソビエト連邦の威信を揺るがし、崩壊を早める大きな要因の一つとなったとも言われている。
 放射能の汚染は、実に何百年という単位でしか取り除かれないものであり、今日になっても、チェルノブイリ原発の脅威はなくなったとは言えないどころか、むしろ以下に述べるように、私たちは新たな危険に直面している。

 私はかつてウクライナのチェルノブイリ記念館を訪れたことがあるが、そこで受けた重苦しい、窒息するような印象を今になっても忘れることはできない。薄暗い広間の壁に、「人民の英雄」とされたリクヴィダートルたちの遺影がぼんやり照らし出されていたが、ソビエト体制によって与えられた表彰状や、記念館などは、彼らの恐ろしい死という事実の前に、何の意味もなかった。

 1986年4月に起きた原発事故の後、リクヴィダートル(汚染除去作業員)と呼ばれる男たちが、当局によって集められた。まだ若い男性がほとんどであった。彼らは原発の4号炉の壊れた壁を、人海戦術によって、コンクリートでふさぐために集められたのだ。このコンクリートで造られたシェルターは、「石棺」(саркофаг サルカファーク)と呼ばれている。
 集められた労働者は、ただ事故があったという他には、何も知らされていない人たちであった。放射能の汚染は目に見えず、耳にも聞こえない。専門知識のない一般人が、この前代未聞の事故の恐ろしさを理解できるはずもなかった。だから、作業員の男たちは、ただ指示に従って、いつものように、薄い防護服一枚で、言われるがままに、作業を完遂したのである。

 その後、彼らは次々と病に倒れた。それは普通の病気ではなかった。彼らの家族全員も、悲劇に巻き込まれた。だんだん、人の形をなさなくなる夫を前に、妻たちはなすすべもなかった。夫がまだ生きているうちに、せめて子供だけでも残せないかと努力した妻もあった。だが、生まれた子供は、人の形をなさず、生きられなかった。何も知らないまま被爆したリクヴィダートルの汚染は、子孫にまで受け継がれ、妻たちも、夫への接触によって被爆した。

 今日、チェルノブイリの「石棺」の劣化、崩壊が懸念されている。今もじわじわと汚染が続いているが、もしも原発のコンクリートの壁に亀裂が入れば、そこから再び放射能が大規模に漏れ出すのは必至である。

 「英国放送協会(BBC)によると、事故を起こした原子炉には今なお当時の核分裂性物質が95%も残っており、事故後に応急処置として建設されたコンクリートの覆いの下にとどまっているが、『石棺』とよばれるこのコンクリートの覆いは、風化と老朽化が進んでいるという。」
 2007年11月に書かれたWired Visionの短い記事によれば、この時点では、コンクリートの「石棺」を、新たに鋼鉄製のシェルターで覆うという計画が打ち出されていたようであるが、莫大な資金が必要となり、しかも、4号炉に人が近づいて作業することすら難しい状況で、今、補修工事はどうなっているのだろうか。

 チェルノブイリ(Чернобыль)という町の名前は、「苦よもぎ」 (чернобыльник チェルノブイリニク ウクライナ語ではチェルノブイリ)という植物の名前を起源としている。この名の意味について、時折、聖書に照らし合わせて尋ねてくる人があるが、私も、その名には聖書との一致が含まれていると考えている(ただし、ロシア語の聖書では「苦よもぎ」の翻訳はチェルノブイリではなかったように記憶しているが、ここでは翻訳の字義にとらわれる必要は全くないだろう)。

 チェルノブイリ原発は、人と地の産物に流産と死をしかもたらさない、汚染された、苦々しい水を生み出す源となった。そしてその汚染された水は、ドニェプル河や、その支流を通じて、その地方一帯に伝わっていった。(右の写真は、チェルノブイリ記念館にて、現地のウクライナ人から、放射能汚染が河を通じて地方一帯にどう伝わったか、地図を指し示して、説明を受けた時のこと。)

 ちなみに、ヨハネの黙示録8:10-11にはこう書かれている、第三の御使いがラッパを吹き鳴らすと、たいまつのように燃えている「苦よもぎ」と呼ばれる大きな星が空から落ちてきて、川の三分の一と水源を汚染した、と。
「水の三分の一が『苦よもぎ』のように苦くなった。水が苦くなったので、そのために多くの人が死んだ」。

 この黙示録の記述が、いつの時点での出来事を指しているのか、私には分からない(恐らく、未来に起こることのように思われる)。だから、これを直接、チェルノブイリ原発事故と同一視しようとまでは考えない。

 だが、少なくとも、そこに霊的象徴としての一致、共通点が存在していることは確かだろうと私は思う。すなわち、黙示録に示されている「苦い水」とは、チェルノブイリの事故の場合と同様に、何らかの汚染のせいで、流産と死をもたらすようになった「死せる水」なのであり、原因が何であれ、それは、オースチン-スパークスが述べている、旧約聖書に登場するエリコの「死せる水」と、本質的に同じものを指していると解釈できると思う。

「『死せる水』とも呼べる、生きていない水の例が、聖書の中に少なくとも一つあります(列王下2:19-22)。その水にはある要素が欠けていたため、熟する前に実はすべて落ちてしまいました。達すべき目標・目的に達したものは一つもありませんでした。それは死せる水でした!エリコの人々は『ここの水は悪い』と言いました。預言者はその状況を正常化しました。」

 「苦よもぎ」は水源を汚染し、どんなものにも実を結ばせないようにしてしまう。畑には収穫がなく、人には流産と死だけをもたらす。それはあらゆる活動を停滞させる「死せる水」である。何をやっても、実りがない。それは霊的な意味で、汚染された、呪われた、腐敗と死の水である。

 さて、これはチェルノブイリや、エリコという町に限ったことであろうか? 私たちが住んでいるこの世という土地に、関係のない話であろうか?

 私たちは、放射能の脅威についてはいつも大騒ぎする。だが、アダムの堕落が全世界にもたらした汚染が、それよりもはるかにひどいものであったことをしばしば忘れているのではないだろうか。アダムの罪のために、アダムその人のみならず、全世界が被爆したと言っても過言ではない。罪ゆえの堕落という放射能は、今日、私たちが知っている最も恐ろしい放射能の脅威よりも、さらに永続的な脅威として、全地球(宇宙)に残留しており、そのために破壊されたDNAが、父祖アダムから私たちに至るまで、この肉の体を通して伝わっている。それは、何千年という時が立っても、決して、分解されることも、消滅することもない放射能である。
 アダムの堕落によって、全地は永久に呪われ、実を結ばない不毛の土地となり、人には死と流産がもたらされるようになった(創世記3:16,17-18)。

 この全地を覆う堕落、汚染、呪いは、アダムとエバというたった一組の夫婦の誤った選択をきっかけにもたらされた。言い換えるならば、彼らは被造物を正しく管理すべく任されていたのに、管理を誤って、全地に永久に死と呪いをもたらすような、あまりにも大きな爆発汚染事故を起こしてしまったのである。今日、開発されているどんな兵器の威力も、彼らの行為がもたらした結果を前にすると、印象が薄れるとさえ言えるだろう。
 今、たとえ私たちが自覚していなくとも、この世界は、チェルノブイリと比べようのないほどの汚染に見舞われている。原爆投下後の広島、長崎よりも、さらにひどい汚染の中に存続している。もしも最後のアダムなるイエスがこの地に来られなかったならば、人類にはこの汚染のうちに死ぬ他に道はなかった。

 だが、今日、幸いなことに、イエスの命をいただき、召し出されたキリスト者は、イエスにならって、人々を十字架へ導くことによって、罪と死の汚染から救い出す、その手助けをする使命を担っている。その意味で、私たちは、まことのリクヴィダートルとしての任務を与えられているのである。

 チェルノブイリのリクヴィダートルには、悲劇しか待っていなかった。彼らの死を「殉死」や、「偉業」のように美化して考えたい人たちは、私の発言を非難するかも知れないが、現実を見れば、彼らの死が、悲劇であったことは明らかである。リクヴィダートルたちは、まるで騙されるようにして作業にかき集められ、その後わずかな年数しかもたなかった虚偽的なソビエト体制の怠慢と悪事の犠牲となって、虚偽的な「人民の英雄」の称号と引き換えに、望んでもいない非業の死を遂げされられた。しかも、リクヴィダートルは汚染を根絶する使命を完遂することさえできなかった! 彼らがその死と引き換えに遺した「石棺」(何という的確な名前だろうか!)は、人類に救いを与えず、汚染を完璧に食い止めることができなかっただけでなく、今また劣化のゆえに大々的な補修が必要とされているのである。

 幸いなことに、まことのリクヴィダートルとしてのキリスト者は、彼らのような悲劇を味わう必要がない。自分の命を投げ出しながら、不完全な救いしか提供できないということはないからである。私たちは罪と死からの完璧なシェルターが何であるか、完全な汚染除去の方法が何であるかを知っているので、的確にそれを指し示すことができる。キリストの十字架は、劣化したり、何十年か経つと、新たに補修が必要となったりするような、不完全な救いではなく、完全かつ永久の救いであり、人を滅びから救い、まことの命によって生かすために与えられたものである。

 キリスト者はすでにこのまことの命をいただいているので、肉体は、この世にまだ残されているとはいえ、すでに御霊の法則の中に移されて生きている(さらに言うならば、肉体さえも、御霊の法則に多大なる影響を受けて、キリストの命をもらいながら、生かされているのである)。だから、私たちは(原罪を除いて)もはや罪による汚染から解放されており、そのために死を味わう必要がない。

 従って、この世で作業に従事していても、私たちはこの世の汚染に影響を受けて、非業の死を遂げる、という結果に至らずに済むのである。リクヴィダートルのように、人助けのために自分の命を犠牲にする必要がなく、人に二次的、三次的な被爆を与えるということもない。私たちは、罪によって破壊された肉なるDNAではなく、自分の内に、キリストのまことの命のDNAをいただき、それによって生き、永遠へと向かっている。そこで、私たちは人と接触する時に、もはや自らの罪によって人を汚染することなく、身近な人々に不幸をもたらすことなく、子孫代々に至るまで呪いを伝えることなく、むしろ、新しいまことの命によって、人を潤し、生かし、豊かに与え、祝福するキリストの性質を、人々に惜しみなく届ける存在へと変えられているのである。

 キリスト者の使命とは、罪ゆえの汚染、堕落を食い止めるという消極的なものではない。この世の朽ちて行く命ではない、朽ちないまことの命があることを、はっきりと世に示し、その命の性質に他の人々をもあずからせることである。私たちの内から湧き出る、生ける水の川々によって、命を豊かに与えるキリストの性質を表すことが使命なのである。

 苦よもぎが、死せる水を流す川々を作り上げるとすれば、私たちは、生ける水の川々を流す源とされていることを信じたい。エリシャは、エリコの「死せる水」を、主にあって、刷新するために、「新しい皿に塩を盛って、わたしに持ってきなさい」と命じた。
 キリストの十字架によって死に、復活させられた私たちは、新しい器である。内にキリストをいただいている私たちは、地の塩である。
 主は、私たちという器を通して、地の塩であるキリストの性質を、水源に投げ込まれようとしている、それによって、「死せる水」は「生ける水」へと変えられ、罪と死、飢饉と流産は消え、多くの実が結ばれるようになるだろう。アダムの堕落ゆえに不毛となったこの土地で、私たちキリスト者が生きることによって、私たちの腹から、生ける水の川々が放出されて、汚染の代わりに、命の潤いが周囲に伝わっていくのである。

 さて、この先は、エクレシアの使命と、生ける水の川々、キリストの御座とは何か、ということについて考えていこう。