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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

乞食から家臣へ

 昨日もいつもと変わりなく日が過ぎた。
 家人と特に話すこともない。今までと何の違いがあるだろうと思うような一日の過ごし方だ。けれども、私の中では、これで大丈夫との確信がある。私がここを出るまで、私は安全である。家人のことはこれ以上、気にかけてはいけない、彼らとの関係について案じてはならない、ただ自分の人生をしっかり歩むことを考えればよい、との安らぎがある。

 主の前で静かに考える時間を持った。そこで得た内容を書き記そう。

「私はこれまで、自分の必要性(欠乏)のためだけに生きて来た。絶え間ない悲しみと痛みが私を苛んでいたので、私にとって、神は不足を訴え、憐れみを乞い、乞食のように必要なものを乞うためだけに存在していた。そこには、神と私との信頼はほとんどなかった。私が一方的に憐れみを乞うだけだったのである。
 だが今後、神と私との関係は、王と乞食のようではなくなり、王と臣下(僕)のようになるだろう。そしてやがてついには、王と王子(王女)のようになるだろう。

 家臣は、王の家来にふさわしく装う。乞食のようにぼろ切れをまとって城門に座っているということはない。家臣には仕事がある、王命を民に伝え、実行に移すという仕事が。乞食のように日がな門に座っていることはない。家臣は毎日、活動する。乞食に活動はない。家臣には威厳がある。乞食に威厳はない。家臣には同僚がいる。乞食に仲間はない。家臣には明日の計画がある。乞食に明日はない。

 私は、右や左の旦那様の気まぐれによって人生を左右される乞食の立場から、王の命令だけによって動かされる家臣へと変わるだろう。どうしてあるキリスト者がこれほど私の注意を引いたのか。それはその人が僕ではなく、息子としての権利を行使して自由に大胆に振舞っていたからではないか。
 私もいずれ、この地上にいながらにして、王の娘として自由に振舞う時がやって来るだろう。たとえキリスト者の使命が、最後には神のために命を捨てるところへと向かっているのだとしても、この世で一度たりとも自由と解放を味わっていない者が、どうして主のために命を捨てることができようか? 奴隷が主君のために命を投げ打つのは当然である。それはただ命令を実行しただけであり、捧げ物にはならない。だが、自由の子が友のために命を捨てるからこそ、それは捧げ物となるのである。

 私は自由の子とされるだろう…。私の態度に、王の威厳が反映され、その日暮らしでない安定感が生まれ、信頼感が生まれる日が来るだろう。世の中がどう悪くなろうと、私は恵みを享受するだろう。それはただ主によってなされるのだ。私の生来の誠実さをたとえありったけかきあつめたとしても、私には到達不可能な場所へ、主が私を連れて行かれるのである。それは神が神ご自身のためになされる回復である。神はご自分の栄光のために花嫁を創られた、だから、神が神のために私を回復されるのだ。私が自分で回復するのではない。

 今回の事件を通して、神はきっと不屈なまでに頑なな私の努力、私の誠実さ、優しさ、人情、そういうものをへし折られたのだろう。何度、努力しても、私の力で家庭の人間関係が少しも回復しなかったのは、そのためなのだ。主の娘として、私が真に回復されるために、何より取り除かれなければならなかったのは、私の人情、優しさ、正義感、善意、義憤、期待だったのだ…。私の『良かれ』と思う気持ち、その『良かれ』を自力で成し遂げようとする気持ちのすべてが、打ち砕かれ、取り除かれなければならなかった。私にとって、それは人としての最高の善意であったが、それは主の御心に反するものであり、私が乞食のぼろ服にしがみつくことを意味していたのである。

 人の善意や情けや正義感のもたらす欺きはまことに深く、それは地獄へと通じている。それは人間による自己栄化、自己救済の道であり、神が死を宣告された旧創造を救おうとする試みだからである。だから、人の目にどんなに麗しく見えても、人の生まれながらの情けや善意、平和を願う気持ちは、すべて堕落しており、紆余曲折を経て、結局、地獄へと通じているのである。

 19世紀のロシアで、60-70年代に、『人民の中へ』運動が盛んになった。教養ある貴族の青年たちが、虐げられている民衆の痛みを放置してはならないと思い、民衆を救い、民衆に負債を返すために、貴い生まれを捨てて、民衆のぼろ服をまとって、民衆の生活に分け入って行った。

 シオンの娘も、『人民の中へ』のスローガンに同調して、全能主の娘という貴い生まれを捨てて、民衆のぼろ服をまとって、民衆と一体となった。弱者へのいたわりと、人としての正義感ゆえに、民衆と苦難を共に忍ぼうとしたのだ。しかし、娘は、自らがあれほど憐れんだ民衆の中に、少しの正義も、善意も見なかった。民衆は彼女を嘲笑い、受け入れず、騙し、遊郭に売った。彼女が助けたいと思った民衆は、救済に値しなかったのだ。虐げられた弱者、美しい民衆とは、虚構の概念であった。そして、彼女は王の娘としての位を永久に失ってしまった。もし王が彼女を助けなければ、彼女は自分の正義感ゆえに永遠に滅んだだろう。

 人としての正義感。いたわり。情愛。それは人の目から見てどんなに貴い、麗しいものであろうと、全て救いようなく堕落しており、希望がない。主の目から見れば、それは陰険で、悪質で、曲がりきっており、ゴミ箱で焼却されるしかない、腐臭漂う乞食のぼろ服なのである。主はこのぼろ服を私から取り上げて、別の服を着せたいと思っておられる。王の娘、息子としてふさわしい衣装を。けれど私たちはぼろ服にしがみついて、それを放そうとしない。それが人間としての最高の善意だと思っているから。
 私のぼろ服は、主によって強制的に取り上げられた。そして気づくと、王の娘としての衣装が着せられていた…。」
 

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聖なる都、新エルサレム

 先日、私は家人に言った、「今、ほとんどのクリスチャンたちは、まるで分厚い雲のような偽りにごまかされているように思う。私もずっとその下で暮らしてきた。未だにそれ以外の世界を知らない。でも、今から、この雲を突き抜けて、太陽が輝いている世界を見たいと思わずにいられない。どうしても雲の上の世界に行きたいと思わずにいられない…。」

 それはほとんど愚痴のような言葉だった。けれど、今から、思い出すと、その言葉は、私の魂から出たのではなく、主の導きによって与えられたものだったのかも知れない。主は不思議な方法で、今、私の人生に働いておられるが、それを通じて分かることは、いよいよ、私は本格的に地上を離れなければならないということだ。

 私は今までほとんど強制的に地上のものに対して死ぬことを求められて来た。それはいわゆる運命のいたずらによってだった。驚くような事件に遭遇し、地上の宝を失い、自分がどれほど弱く、不完全であるかを思い知らされた。肉なる愛情で私を愛してくれていたはずの人たちが、敵意をむき出しにし、それまでかろうじてあったはずの信頼さえなくなった。
 これら全ては人知を越えた驚くような事件だったが、そうなっても、まだ、私は人生を何とか元の軌道に乗せたいと、そればかりを願ってきた。けれど、その願いはどうやっても叶えられない。いや、叶えられるはずがなかった。それは、私の居場所は元々この地上にはなく、私の幸福は地上にあるのではないからだ。

 地上には、私を完全にするものは何一つとしてない。完全なるものは全てキリストの中にのみ存在する。自己流の方法で自分の不完全さを補おうとすることは、この世への妥協と、霊的な死を招くだけである。
 以下は、オースチン-スパークスの言葉の引用。

「さて、私はとても強い言葉を述べたいと思います。それを受け入れるのは、あなたにとって困難かもしれません。あなたは、この世が呪いの下にあることを、理解しておられるでしょうか?
神は今のこの世の上に呪いを宣告されました。呪いはどのように表れるでしょう?呪いのあるところには挫折の法則が働きます。あなたはそこそこ進めるだけで、それ以上進むことはできません。人間生活はそこそこ進んで、それでおしまいです。完全と完成に至るまで進み通すことはありません。すべてが不完全であり、死によって挫折させられます。
イエス・キリストが話されたある男は、一生の間に大量のたくわえを積み上げて、ほくそえんで自分に言いました、『魂よ、もう引退することができる。自分のために大量のたくわえを積み上げたのだから、食べて、飲んで、楽しめ』。しかし、神は言われました、『愚か者よ、今夜お前の魂は取り去られる。お前が用意したものは、誰のものになるのか?』(ルカによる福音書12章20節)

 呪いと死は、人のもくろみがすべて挫折することを意味します。人間生活に言えることは、この世にも言えます。ああ、何と多くの人が挫折という堅固な壁を打ち破ろうとしてきたことでしょう!今日、人は何と遠い道のりを進んできたことか!25年前に今日の様子を告げられていたら、あなたはそれを決して信じなかったでしょう。そうです、人はとても長い道のりを進んできました。月に到達しさえしたのです――そして、誰かの指がボタンを押すだけで原子爆弾の投下が始まり、人の業は一瞬のうちにすべて一掃されてしまいます。すべての人がこの可能性を知っていますし、まさにそうなるであろうことを神の言葉はとても明確に告げています。呪いがこの世の上に臨んでいるため、この世は決して完成に至ることはありません。

 私が言っているのはこういうことです。もしあなたと私が霊の中でこの世に束縛されるなら、私たちは霊的死の下に来ることになるでしょう。聖霊に敏感なクリスチャンは誰でも、この世に触れる時、何かが間違っていると感じるでしょう。そして、『私は下って来てしまいました。この呪われた世に触れて、私の霊の中に死が感知されました』と反応するでしょう。

 この地上の霧を超越しない限り、神に属する事柄は決して見えないでしょう。もしあなたが自己の生活に下るなら、それは挫折です。もしあなたがこの世の生活に触れるなら、それは挫折であり、霊の中でこの世を超越しない限り、神に属する事柄は見えないでしょう
『私は御霊の中にいた。また、私は大きな高い山の上にいた。そこで私はあるものを見た』。この言葉はとても単純であり、とても意義深いです。ご覧のように、これらがクリスチャン生活の霊的原則であり、とても現実的です。私たちがこれについて知ることを私は希望します。」

 私がすべきことは地上の事柄に完全に死んで、地上の偽りと欺きとごまかしの霧を抜け出し、霊的な目で、高みに立って、新エルサレムなるエクレシアを見ることだ。実は、そうしようと思うよりも前に、すでにそこに引き入れられている幸いがあるのだが、ただ現象としてのみ、それを感じるのではなく、しっかりと目を開いて、肉眼ではなく、霊的な目で、今目の前に起ころうとしていることが何であるか、理解する必要がある。

クリスチャン生活はキリストが増し加わることです。これが私たちに対する聖霊のすべての取り扱いの理由です。なぜなら彼の唯一の目的は、教会をキリストの豊満にもたらすことだからです。キリストの豊満とは何か知りたければ、聖なる都、新エルサレムというこの象徴的表現を見ればわかります。」

「あなたは自分の人生の中に主イエス・キリストを受け入れたでしょうか?受け入れた後、自分をさらに十分に占有することを彼に許してきたでしょうか?あなたの人生でキリストは絶えず増し加わってきたでしょうか?これが裁きの規準であり、中に入れるか外にとどまるかを決定するものです。」

 私はこの世に死するために、今の状況をくぐらされたのだった、そのことが今日ほどはっきり分かったことはなかった。ただ主だけに従うために、父母、きょうだい、友人…、肉なるもの全てを失った。そうである以上、ここで、失ったものに、未練を感じたり、引け目を感じ、元の生活に戻ろうとしてはいけない。この世ときっぱり訣別し、この世に死んだ以上、新しい目的地を目指すべきである。

 向かうべき先は、キリストが満ち満ちておられる栄光の都。嵐の日に船が積荷を海に投げ捨てるように、私は目的地へ向かうために、無用な荷をまず捨てた。目的地のことを思う時、畏怖の念に近い感動がこみ上げて来る。
 天路暦程の主人公と同様に、私は確かな目的へ向かって旅をしている。新エルサレムという都へ向かって。もちろん、すでに私自身が都の一部としての性質を持ってはいるのだが、同時に、キリストのさらなる豊満を求めて旅は続く。

「都は統治の座であり、命の水の川は御座から流れ出ていることがわかります。ですから、すべてを生み出すのは御座です。この意味はおわかりでしょう!それは神と小羊の御座です。一言で言うと、それはイエス・キリストの絶対的主権を意味します。万物のまさに中心に、イエス・キリストの統治があります。この統治は彼の十字架の効力によるものであり、小羊としてです。他のすべてのものは、イエス・キリストが占められる地位に全くかかっており、私たちがどれだけ彼に自分を委ねるかに全くかかっています。もし私たちが自分を全く主に委ねており、彼が全く主であるなら、命が流れるでしょう。そして、命に関して述べたことが、私たちの間で実現されるでしょう。それはイエス・キリストへの絶対的明け渡しの証しになるでしょう。」

 夕刻に庭を歩くと、涼しい風の中、それぞれに美しい色とりどりの各種の花が、皆一様に、太陽に向かって顔を上げていた。何という不思議だろう。全ての花が太陽に向かっている。それと同じように、永遠なるもの全てが、キリストの御座に向かって顔を上げている。キリストの御座から流れ出る川が、一切の命の源だからである。命なるキリストに向かうところに、一切の信仰の歩みがある。

 私の心は畏怖の念に包まれる。ああ、目指すべきはただキリスト、キリストだけ。他に何もない。今も将来も、向かうべきはただキリストだけ。

「どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがた満たされるように、と祈る。
 どうかわたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることのできるかたに、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世よ限りなくあるように、アァメン。」(エペソ3:16-20)