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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第二審)への準備(2)ー「船の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」

「その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。

シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「私たちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、船に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。

イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「船の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。

イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。

さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。シモン・ペトロが船に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。

イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。」(ヨハネ21:1-14)


さて、このくだりについては様々な解説がすでに存在しているので、注釈を述べるつもりはない。今回、述べたいのは、筆者は「船の右側に網を降ろした」ということである。

日常で頻繁に使用していたある品が壊れ、買い替えのために、店に行ったが、専門店に行っても、長蛇の列。二軒回ったが、どちらも混雑していて、店員から2時間以上の待ちを宣告された。しかも、2時間から3時間待っても、手続きが終わる保証はなく、品ぞろえも悪いため、望みのものが見つかるかも分からない、などと初めから追い返そうとするような予告を受けた。
 
それら二軒の店は、どちらもが、いつ行っても、人件費を節約するためか、慢性的な人手不足の状態にあり、客は2~3時間待たされるのが通常で、混雑状況が改善される見通しもなかった。

そこで、外は炎天下であったが、筆者はためらいなくその店を後にして次の店に向かった。

一体、なぜ市井の人々は、あのように未来の展望のない死の雰囲気の漂う場所で、怒ることも、愛想を尽かすこともなく、まるでそれが当然であると言わんばかりの調子で、何時間も、辛抱強く行列に並んで待ち続けることができるのか、筆者にはまるで理解ができない。

筆者は一分一秒もそこにとどまりたくなかったし、そこで待っていれば何かが進展するとも思わなかったので、車を発車させて、三軒目へ向かった。そこは家電量販店である。そこならば、専門店と違い、その日は人々の興味が向かず、行列がなく、高圧的で不親切な店員もおらず、目的を遂げられるのではないかという、ちょっとした読みがあった。

幸いなことに、読みは的中した。その日、その店に、客は筆者の他に誰一人いなかったのである。そういうわけで、2時間も待ちぼうけをさせられていれば、何一つ完了できなかったはずの手続きを、2つも3つも終えて、店を出ることできた。

神は不思議なお方だと思った。どこへ行っても、待つのが当然と宣告されたが、筆者はそれを信じなかった。たかが2~3時間も待てないのか、何と短気なことか、などと言う人もあるかも知れないが、その2~3時間を使って、どれほどのことができるか、筆者は知らないわけではない。
 
「求めなさい、そうすれば与えられます。」「捜しなさい、そうすれば見つかります。」とある通り、あきらめずに探せば、心にかなうものは必ず見つかる。同じ手続きをするにしても、くたびれるまで待たされた挙句、ぞんざいな対応に情けなく惨めな思いをさせられながらではなく、心行くまできちんと説明を受けて、納得した上で、充実した時間を過ごすことが可能なのだ。やはり、自分の心にかなうものを探し出すまで、決して妥協したり、あきらめてはいけないと思った。

閉ざされている扉ではなく、開いている扉へ向かって進まねばならない。

だが、開いている扉を見つけるためには、世間の人々と、少し違った角度からものを考えなくてはならない。大勢の人たちが向かう「広き門」へ向かって、皆と同じ行列に並んでいたのでは駄目なのである。

知名度や、看板などに欺かれるのでなく、人の知らない道、踏み固められていない道、しかし、真実であって、偽りのない、誠実さの伴う道を探さなくてはいけない。

多分、その法則はおそらくあらゆることに当てはまるだろうという気がした。筆者は、控訴理由書を書きながら、本当に、プロテスタントという宗教とは(カトリックもそうだが)もはや、永久にさよならだと思わずにいられない。

筆者はキリスト教徒であるのに、キリスト教徒から見れば、異端に当たる宗教の信者が、プロテスタントの牧師から、カルト被害者救済活動(強制脱会活動)の対象とされて、著しい人権蹂躙を受けたなどということを、訴訟で主張せざるを得なくなっていることを極めて皮肉に思う。

筆者は他宗教の信者を改宗させることを目的に、プロテスタントの牧師らが信者らを拉致監禁してまで説得を行った行為を決して擁護することができない。このようなことは、プロテスタントは、キリスト教全体の名折れでしかない、大変、恥ずべき事柄である。

さらに、そうした牧師たちが、他宗教の信者ではなく、同じキリスト教徒を名乗っていた筆者までも、支持者と一緒になって集団的に攻撃したことは、もはや致命的としか言いようのないミスであり(というよりそれも牧師制度の悪がもたらした必然的な結果なのだが)、彼らの活動が末期状態にあることの証左である。

おそらく、カルト被害者救済活動が筆者に対してなした事柄は、世間に対して、プロテスタントの終焉をはっきりと告げるものとなるだろうと思う。世間はおそらく、これまで他宗教の信者に争いをしかけるだけでなく、ついには同士討ちのような状態に陥り、信者が信者を攻撃し、牧師が信者を徹底攻撃するという結末に至ったこの宗教(プロテスタント)に対して、この先、信用を持たなくなるだろうという気がする。

牧師制度の悪が、カルト被害者救済活動という形になって結実したのである。牧師制度そのものを撤廃せず、自分は信徒に対する搾取をやめないのに、ある牧師が、自分だけは正義の味方のような仮面をつけて、同じ牧師の職にある者を悪としてやっつけて、自分の搾取は正当化しながら、他のカルト化した教会の搾取だけを一方的に非難するというこの運動の自己矛盾が、ついに結局、牧師が信者を、そして信者が信者を滅多打ちに攻撃して排斥するという同士討ちに結びついたのである。

これは宗教を隠れ蓑にした単なる弱い者イジメの構図に他ならない。見る人が見れば、すぐに分かることで、カルトも反カルトも、自分たちの権力を守りたい人々が、自分たちよりも弱く貧しい者たちからの批判を徹底的に踏みにじって潰しているだけのことで、カルト被害者救済活動には、正義など全く存在しない。

カルト被害者救済活動は、異端を取り締まるだとか、カルト化した教会の問題を是正すると言いながら、結局は、牧師制度そのものを温存するための隠れ蓑に過ぎず、カルト以上に恐るべき腐敗を内に秘めた、プロテスタントのすべての害悪を結晶化したような運動である。このような運動が登場してきたこと自体が、プロテスタントの終焉を告げるものである。
   
筆者はこのように混迷を極める有様となったプロテスタントを後にして、組織や指導者に帰属する外側だけのキリスト教を完全に捨て去り、新たな信仰回復運動の只中を生きるために、キリストご自身だけを見上げて、前へ向かって歩いている。
 
いつまでも遅々として進まない行列しか目の前に見えず、数多くの苦労だけがあって、目的地がどこにあるか分からないと感じられる時には、いつも「船の右に網を降ろしなさい」という声が聞こえて来るようだ。
 
「視点を変えなさい。発想を変えなさい。多くの人たちがまだ気づいていないやり方、考えていない新しいアイディアを思い巡らしなさい。踏み固められた道に別れを告げて、新しい方法を採択しなさい。私があなたにそのヒントを与えます・・・」

冒頭の聖書箇所を挙げた出来事が起きたその日、弟子たちは、イエスが十字架で死なれた後、復活されたことは知っていたが、以前のように常に弟子たちと共にいて下さらないので、自分たちにはもはや師がいなくなって、何をすれば良いかも分からなくなったという思いで、もとの職業に戻ろうとしていたのかも知れない。

彼らがどんな気持ちで、漁に出たのかは、書かれてはいないため分からないが、彼らは十字架の死と復活の中に込められたことの意味が分からず、イエスが十字架にかかられる前の生活がなくなってしまったことに困惑し、復活された主イエスが、前のように絶えずそばにおられないことに、言いようのない寂しさを感じていたのかもしれない。

彼らはまだ御霊を受ける前だったので、まだ人間的な観点からしか、十字架の死と復活という出来事をとらえることができなかった。それは彼らの理解を完全に超えており、彼らはこれをどう受け入れるべきかが分からなかった。イエスが彼らを最初に召し出された時に言われた、人間をとる漁師になるとは、どういうことなのか、自分に与えられた召しが何なのかも、未だ理解することができなかったのである。

彼らが漁に出ても、何も取れなかった。弟子たちはもうずっと前に、漁師であることを捨てて、イエスに従っていたのであり、本当は、二度と漁師に戻れるはずがなかったのだが、イエスはどこへ行かれたのか分からず、することもなく、さらに、食べるものもなかった。ペテロたちが、何も見つからないので疲れ果てていた頃、イエスが岸に現れて、舟の右に網を降ろしなさいと言われた。

だが、それは復活のイエスであったので、彼の姿を見ても、弟子たちには、それが誰であるのかがすぐには分からなかった。弟子たちが引き上げられないほどの魚を取って戻って来ると、イエスはすでに火を焚いて魚を焼いておられた。弟子たちのために食事を作っておられたのである。

これは何かしら、私たちの人間的なあがきや、心の紆余曲折が終わるときを、神が辛抱強く、憐れみを持って見守って下さっているような、そんな感じのするエピソードである。

ペテロやトマスらがどういう気持ちで、何を考えながら漁をしていたのかは分からないし、彼らはもしかすると、未だ主イエスの十字架の死という壮絶な出来事のショックから抜け出られず、また、イエスの復活という出来事そのものを、理性ではどうとらえれば良いのかも分からず、困惑していたのかも知れない。

主イエスと弟子たちとの関係は、十字架の死と復活を経て、全くそれまでとは異なるものに変わろうとしていた。だが、新しい関係において、自分たちは何を求められているのか、弟子たちには分からなかったのである。

弟子たちが何を思っていたにせよ、イエスは、彼らの人間的な思いが吹っ切れて、彼らが自分たちの方法を捨て去り、神のご計画に再び目を向けるようになるまで、そばにいて待っておられた。

弟子たちは、主が何を自分たちに願っておられるのか分からず、戻ろうと思えば、漁師に戻れると考えていたのかも知れない。しかし、結果として、漁師に戻ることは不可能になっていたことが分かった。それどころか、弟子たちは、人間的な経験、知識、思いを捨てて、新しい世界観、価値観を受け入れるよう求められていた。復活の命と、それに属する新たな領域、復活の命に伴う新しい秩序である。

彼らがどんなに過去の熟練した経験に従って、自分たちの計画、自分たちの思いに基づき、何かをしようとしても、イエスのまことの命が介在されなければ、すべてが空振りに終わることは避けられない状況となっていたのである。かつては慣れ親しんだ自分たちの職業においても、主がおられなければ、一匹の魚もとれない状況となっていた。

だが、主はどこへ行かれたのか、何を命じておられるのか? 弟子たちは、依然として、イエスが十字架にかかられる前と同じように、自分たちのそばに姿を現して、何かを言って下さらなければ、その御思いを理解することもできず、途方に暮れていた。

しかし、主は姿を現さないだけで、常に彼らのそばにおられたのである。弟子たちのむなしい漁には、主が現れられると、たちまち収穫が豊かに与えられた。それは、弟子たちが昔のように漁師に戻るために与えられた収穫ではなく、信仰によって、新たな収穫を勝ち取ることができるという証であったものと筆者は思う。つまり、イエスが命じられた通り、彼らが人間を採る漁師として、抱えきれないほどの天の収穫を得ることの予表だったのである。

復活後のイエスは、十字架にかかられる前のように、弟子たちと一緒におられ、食事も共にされたが、それでも、イエスと弟子たちの間には、以前にはなかった何かの違い―距離のようなもの―が出来ていた。イエスが持っておられたのは、よみがえりの体で、弟子たちの贖われない体とは異なっていた。弟子たちが、イエスをすぐにそれと見分けられなかったことを見ても、様変わりされていたことが分かる。肉体を持って弟子たちの前に現れられたにも関わらず、何かがはっきりと以前とは違い、復活のイエスは、弟子たちとは異なる法則の中で生きておられたのである。

復活されてから、イエスはそう長い間を弟子たちと共には過ごされず、短い間、よみがえりの姿を現されてから、天に昇られ、父の身元に戻られた。その代わりに、弟子たちに聖霊が与えられた。

弟子たちは復活のイエスを見、それが自分たちが贖われた後の栄光の体であることを見せられたのだが、依然、多くのことが理解できないままであった。それを理解するためには、御霊が必要だった。

おそらく、私たちの思い、感情、計画、生き様のすべてに、御霊による新しい証印が押されねばならない。筆者はその点で、未だ、目の前に、新しいものをはっきりと見てはいない。これは筆者の個人的な人生のことを言うのではない。

キリスト教そのものが、新しい御霊の息吹を与えられなければ、進んで行けないところへ来ているのである。そのことを多くの信者たちは全く考えることなく、古いものにしがみ着いているが、私たちの計画、思い、感情、知識、経験などは、すべて行き詰まりを迎えており、主がそこに新しいアイディアを与えて下さらなくてはいけない時が来ている。そうなって初めて、私たちの死んだ働きに、電源のスイッチが入る。

「船の右に網を降ろしなさい。」と、主イエスが言われた通り、私たちの生活には、全く新しいヒントが与えられなくてはいけないのである。
 
右とは、ただ文字通りに船の右というだけではなく、神の右に座しておられるイエスを見上げなさいという意味にも取れないことはない。

いずれにしても、主を見上げるとき、私たちに新鮮な命の息吹が注ぎ込まれる。そのことは確かである。 そこで、筆者はふと顔を上げる。作らなければならない書面は、あらかた主張を出し尽くしたので、まだ完成してはいないとはいえ、筆者自身にとって、一番、書いていて面白い時期は過ぎた。この作業はある意味、もう終わりを迎えた。

そうなると、次なる新しい話題(話題作りのための話題ではなく、主が導いて下さる新しいテーマ)を見つけねばならない。だが、その新しい話題とは、もはや訴訟という枠組みとは関係のない、別な何かである、という気がしてならない。どう言えばいいのか分からないが、第一審も、第二審も、筆者にとっては極めて重要な戦いではあったのだが、そこを抜け出て、もっと大胆で、もっと革新的で、もっと自由で、飛躍的なアイディアへ至り着かねばならない気がしている。1軒目、2軒目の店を過ぎ去ったならば、3軒目のことを考えてみるべきである。

3軒目は、1軒目、2軒目とは全く異なる新しい発想に立つ場所である。つまり、カルト被害者救済活動やらプロテスタントやら牧師やらとは全く関係のない新しい信仰生活が始まろうとしているのである。そのことが、紛争が決着するよりも前から、筆者の目の前に見えるような気がする。
 
そうして、遠く、遠くへ目をやる。実は、一審が終わった後から、筆者は何かしら今までとは違った出来事が始まるだろうという予感がしてならなかった。今はまだ相変わらずの繰り返しのように見える状況もあれば、閉塞しているように見える事柄もある。紛争は終わったわけではないので、自由はいつになれば訪れるのかと感じられるかも知れない。

だが、それにも関わらず、筆者は、イエスを待ちながら漁をしていた弟子たちと同じように、既知の世界にいるようでありながら、自分が主にあって、未知の展開を待っていることを知っている。
 
もう少しすれば、まるで長蛇の列に並びなさいと言われているような、この不自由な手続き三昧の状況から抜け出せるだろう。そして、法的措置による戦いも終わりを告げて、次なるステージの出来事が始まるだろう。

それは筆者が「プロテスタントに別れを告げた」ことと密接な関係がある。もはやそれは、筆者にとって古き世界となったのであり、そこへは二度と戻れまいし、何かが断ち切れたのである。プロテスタントのみならず、組織、教団、教派、教説、指導者、教えなどに信者が帰属するすべての形式的なキリスト教が、筆者に対して死んだものとなり、終わりを告げるときに来ているのが今なのである。

弟子たちはその日、漁に出ていたが、主イエスと共に信仰によって十字架の死と復活を経由していた。彼らは依然、それまでと同様の考えに基づき、行動しているように見えたものの、深い所では、古き職業に対して死に、古き生き方に対して死に、古き自己に対して死んでいた。そして、彼らはまだ新しい生き方を掴んでいなかったが、それは彼らの心の内側にすでに到来しかかっていたのである。
 
こうして、古きものが過ぎ去り、新しいものが到来しようとしていること分かるに伴い、掲示板も、まるで過ぎ去った過去のように、筆者に手を触れられなくなった。それは、法的措置を取られると分かった人たちが、怯えているというだけが理由ではなく、何か目に見えない隔てが、彼らと筆者を隔てたのだ。追っ手が到達できないところまで振り切ったのである。

次に、筆者をあからさまに攻撃していた牧師やら信者やらが、筆者に到達できない時が来る。そして、彼らと筆者を隔てている隔てとは、結局、エクソダスの壁なのである。プロテスタントと筆者との間に打ち立てられた隔てなのである。

不思議なことに、この壁が、今まだ紛争当事者となって向き合っている人々と筆者との間をさえ、確固として隔てた事実が感じられるのである。そのために、まだ続いている戦いさえ、霊的な次元において決着が着き、筆者はそこから解放されている事実があることをはっきりと知るのである。それはつまり、この紛争が本当に終わりかけていること、筆者の手から離されようとしていることを意味する。

新しい世界は、まだはっきりとは姿を現していないが、復活の命に基づく新しい秩序が到来しつつある。筆者はそこへ向けてドライブをしている。本当は2009年にすでにここへ向かっていたのであるが、随分、長い間、荒野にとどめられた。その頃、戦い方が分かっていなかったので、どのように進路を切り開くべきかを知らず、遅延や停滞のように感じられるものが生じた。だが、目指している約束の土地がある以上、筆者はそこへ向かい続けなくてはならない。

他に誰も客のいない三軒目の店で手続きをしている時、貴重なチャンスが与えられたのだから、ここにある品でぜひとも最後まで手続きを終えねばと思った。あらゆる説明を聞きたいだけ聞いて、順調に手続きが進み、最後に、会員登録をせねば、決済が終わらないと言われた。その時、以前にも会員登録をしたような気がした。様々なことがあったような気がした。だが、情報を検索してもらったが、何も出て来なかった。過去が帳消しにされるがごとく、古い情報がまるごと消え去り、跡形もなくなっていたのである。

その時「すべてが新しい」とい言葉が脳裏をよぎった。神は不思議な方だという気がした。

そういう日が、この先、来るだろう。つまり、我々が本当に復活の領域に達する日が。古いものがすべて過ぎ去り、すべてが新しくなる日が。
 
今、筆者は過去10年間くらいの出来事の記録をカバーした書面を書いているが、おそらくこれを書き上げて、手から離すと同時に、この厭わしい煩わしいすべての事件の記録(記憶)が、まるごと筆者の履歴から消え失せる日が、遠からず来るだろうという予感がする。

第一審の終わりが、そのことを筆者に告げていた。一審判決は、まだ実現を見ていないとはいえ、それは明らかに、筆者とこの紛争との関わりを、一定程度、断ち切ることを告げる宣告であり、霊的な領域においては、筆者に自由を与えるものであった。この先、言い渡される判決は、もっと完全に筆者の存在をこの紛争から断ち切ることであろうと思う。

そうなると、過去が抹消されたに近いことが起きる。そうなる少し前から、筆者の心はおそらく紛争に興味がなくなり、全く別の出来事に熱中し始めることであろう。今はまだ過去の記憶の最後の残りを生きているところであるが、次の瞬間、その最後の残る記憶さえも断ち切られ、「見よ、すべてが新しくなった」と言われる時が来るだろう。

エクソダスが完全に完了し、断ち切れるべきものが最後まで経ち切れる時が近づいている。
 
その時、復活のイエスが弟子たちに収穫を指示し、パンと魚を弟子たちに自ら分け与えられたように、主ご自身が、自ら給仕して、空腹で疲れ切っている弟子たち(筆者を含め)の労苦をねぎらい、新しい命で満たして下さるであろう。そして、私たちが元気を回復した後で、さらなるミッションを与えて下さるものと思う。
 
三軒目の店にたどり着きさえすれば、あとはすべて神の側からなして下さるだろうと思わずにいられない。その「三軒目の店」が最高裁であって、そこまで行かねばならないというならば、筆者はそれに反対するつもりはないのだが(それだけの準備はすでに成し遂げられている)、そうなるまでのどこかの時点で、この紛争は、筆者の手から取り上げられて、筆者の心からも切り離されて、カルバリで信者を不利に陥れるすべての告発が廃棄され、自由と解放が訪れるだろうと思う。

筆者は紛争が長引くだろうという予測を述べているわけではなく、むしろ、その逆に、それだけの期間が過ぎ去る前から、すでにこの問題に決着が着いていること、筆者はただ約束の地へ向かうだけで良いことが感じられると述べているのである。
 
筆者に不当に負わされて来た重荷は、別人に返され、債務は、負うべき人間に返され、主ご自身が、弟子たちをねぎらい、心行くまで給仕して下さることであろう。筆者は、主イエスがパンと魚を取って分かち与えて下さる時を楽しみにしている。そして、それは未来でありながら、同時に今日であることも知っている。

その日、主はただ私たちの労苦をねぎらって下さり、すべての過去を帳消しにして下さるだけでなく、私たちを満ち満ちた命の豊かさに招き入れて下さり、さらに、私たちの姿をも、栄光の主と同じに変えて下さる。

筆者はこの贖いの完成を心に思い、そこにある自由、栄光をもっとよく知りたいと願っている。向かっているのは、贖いの完成、私たちが主の栄光と安息の中に招き入れられ、よみがえりの命の領域を、主と共に生きる約束の地なのである。荒野にいる時に、はるか先に目を凝らして、約束の地を見る。私たちが目指しているものは、今現在、目に見ているものではなく、まだ見ないもの、これから来るべき秩序である。ところが、まだ目に見ていない来るべき秩序が、私たちの只中に、すでに到来していることを知っている。そこに信仰があり、私たちの望みがある。
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村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(30)ーこの朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。

さて、このシリーズも30本に達した。次回からは、第二審に向けて標題を改めることにしよう。

先の記事で、本紛争は、行き着くところまで行き着き、中途半端な妥協点は退けられて、どちらかの陣営が社会的に抹殺されるなど、完全な勝敗が明らかになるまで、続くだろうと筆者は書いた。

筆者はこの紛争が始まる前から、論敵の口を完全に封じること、ハガルとイシマエルの子孫を神の家から駆逐することが紛争の目的であると何度か断って来た。だが、当初は筆者の目にも、それはあくまで霊的法則性を表すものであって、地上の人間に対しては各種の情けが必要であって、文字通りにその法則性を当てはめてはならないものと見えていたのである。

そこで、筆者は誰かを社会的に抹殺することなどを目的として本紛争を提起したわけではない。それにも関わらず、事態がどうやらそのような方向にしか進まないらしいことを、筆者はここ数日間で理解した。

筆者はこれまで、一審判決で下された命令を、被告に字義通り、忠実に実行させることが、自らの責務であると考えていた。「命令」と「実行」を一つにするとは、そういうことだと解釈していたのである。

ところが、被告は賠償金を支払わない。これを支払いさえすれば、新たなる差押がなされるなどの不利益を被ることはないと、どれほど伝えても、身を守るための措置も講じず、敗北を認めず、判決に従おうともしない。

こうして、賠償命令が未だに実現していない理由が、なぜなのかを考えるとき、それはこの戦いが、決して一審判決で命じられた事柄を字義通り実現しさえすればそれで良いという性質のものではないからだと、筆者は思わざるを得ない。

被告は、自分に不利な判決を取り消してもらいたいがゆえに、控訴したそうである。また、筆者との直接交渉の中で、筆者の意思と情けを踏みにじり続けることで、判決の解釈と実行をどこまでも自分に有利に曲げようとしている。

だが、もしも敵にそのような模索が可能ならば、こちら側にも当然、同じことができる。つまり、判決は変えられないが、その執行の形態はいくらでも変えられる。そのことは、判決の解釈を変更することに等しく、「命令」に対する相手方の反応を見て、その実行形態を様々に変化させて、段階的により容赦のない措置に及んで行くことを意味する。

これが、本紛争が究極的なところまで行き着かねばならないとする筆者の予想の根拠である。被告が命令に逆らえば逆らうほど、彼にはしたたかな破滅が避けられないものとなって行くのである。だが、それは筆者が選んでいるのではない。被告自身の選択なのである。
 
筆者は、供託係と話をした時に、この印象を伝えておいた。「第三債務者はよほど不運な人間だ。ここでお金をおさめておけば、これ以上、ひどい事態は起きようがなかったのに、支払わなくて良い口実をもうけるためだけに、係の者に接触し、自分に都合の良い解釈を引き出し、供託はできないと結論づけた。もう少し丁寧に物事を説明する係であったなら、彼にデメリットを教えてくれて、思いとどまるように示唆してくれたかも知れない。なのに、それもなく、彼は自分に都合の良い説明を聞いて、それに飛びついた。だが、このことは、彼にとってさらなる不利益にしかつながらない。こうして、彼は自分のために与えられた情けを自分で踏みにじり、自ら猶予を無駄にしたのだ。このようなことは、よほど不運な人間にしか起きない・・・。」

こうして、一審判決の解釈は幾通りにも変えられて、より情け容赦のない措置が取られることになるだけではない。一審判決そのものの不完全な部分も、控訴審で克服されて上書きされることになる。

筆者は、このような事態になっているのは、現在の成果で決して満足してはいけないという天の采配であるとみなしている。

幾度も言うが、筆者は本紛争を提起するに当たって、どちらかの陣営が社会的に抹殺されるまで争いたいとか、最高裁まで争いたいなどという願いは微塵も持っていなかった。むしろ、一審を担当してくれた裁判官が、とても善良で、優秀で頭脳明晰な人物と見え、かつ、それだけでなく、何より重要なこととして、本紛争の核心部分を、実に早い段階で深く理解してくれていることを知ったとき、これならば十分に一審で終われるだろうと考え、そうなることを望んでいたのである。

それにも関わらず、現在、その裁判官の判決を「上書き」することを求めて控訴する事態となっていることは、かえってとても良いことだと筆者は考えている。

筆者がこれまで常に学んで来た教訓は、キリスト者は、決して誰をも自分の心の偶像としてはならないし、自分の代理人としてもならない、ということであった。弁護士などという職業が、我々にとって不要なだけではない。どんなに優秀で、どんなに深い理解を持つ、どれほど親切で善良な人間であれ、神以外の何者も、私たちの代理人にはなれないのだ。

だから、決して地上のどんな人間に対しても、私たちは決して自分の願いをことごとく託すようなことはしてはならない。
 
むしろ、私たち自身が、キリストの代理人であり、そして、キリストが私たちの代理人となって下さる。私たち自身が、主の思いを実行する側に立っているのである。このことの絶大な意味を決して忘れてはいけない。

一体、キリスト以外の誰が、私たちの心を隅々まで理解し、私たちの権利をことごとく守るための力強い代理人となって下さるであろうか。誰が敵を粉砕し、足の下に踏みにじり、私たちのために大胆な勝利と解放の宣言を打ち立てて下さるであろうか。

私たちは、鏡に映すように、彼(イエス)の栄光を移す民である。この関係は実に言い尽くせないほどに価値ある、栄光に満ちたものだ。ところが、その神を捨てて、人間に過ぎない代理人を立てると、必ずや、私たちは、その人の意思や都合に束縛される結果となり、やがては二人三脚で破滅に落ち込んで行くことになる。
 
筆者は、牧師という存在は、人間(信者たち)の欲望の化身でしかないと述べて来た。人は自分の願いを手っ取り早くかなえてくれそうな誰かを常に代理人にしたがるものだ。そして、その者に自分の権利を託し、願いを託し、その者を自分の「偶像」に祀り上げる。だが、そのようにして、人が神を捨てて、人間に過ぎない誰かを自分の代理人に据えることの結果は非常に苦く厳しいものである。

神はそのようなことをキリスト者にお求めになっておられない。人間を偶像とすれば、解放されるどころか、束縛と隷従が待っているだけである。たとえそこまで深刻な事態に行き着かずとも、私たちが人情を優先して、そこで霊的前進を終わりにすることは、とても危険なことなのである。

そういう意味で、この紛争は、究極的結論に至るまでは、終わらないであろうことを筆者は予感した。そして、筆者自身が覚悟を決めて、そこまで歩んで行かねばならないことを悟った。誰かが筆者を優しくかばってくれて、筆者をこの労苦から早期に解放してくれることを第一に望むわけには決していかないのだと。最後まで大胆に立って、信仰の戦いを忍び通して、勝利を掴まなければならない。

そういう意味で、筆者はこの戦いが続行していることを、まさに主の御心に適うこととして、喜んで受け入れている。
 
* * *

聖書に書いてある、私たちは御使いをも裁く者、世を裁く者だと。従って、傲慢不遜と誤解されることをあえて承知で言うが、本紛争に関しても、真に裁きを下しているのは、実は目に見える地上の人間ではないのだ。

今、遅ればせながら、筆者は急ピッチで控訴理由書を書き上げているところだ。事件ファイルが高裁に届くのに随分時間がかかっていたようなので、おそらく誰も急いではいまい。新たに証拠となる記事も多数、追加されたことであるし、筆者が理由書の提出をするのは、ちょうど良い頃合いになるだろうと思う。

これまで駆け足で当ブログに発表して来た多くの記事は、理由書の土台とするために、過去記事を整理したものである。

そして、理由書を書き始めると、この作業は、非常に楽しいものであり、深い満足をもたらしてくれるものであることが分かった。

筆者は、第一審の時点から、村上が筆者に対して害意を持っていることを確信していたが、筆者が一審を提起した段階では、まだそれは行為としては成就していなかったし、証拠が明るみに出てもいなかった。そこで、このような状況では、裁判官とて如何ともしがたく、現在のような判決が生まれて来るのも、理由のないことではないと言える。

しかしながら、改めて控訴審への準備を進めているうちに、一審判決と戦うわけではないにせよ、一審判決の不完全な部分を、どのように覆い尽くすべきかが見えて来たのである。

ポイントは、第一に、これまでの記事にも書いた通り、カルト監視機構と宗教トラブル相談センターを結びつけて、同センターがカルト監視機構の延長上にあり、その構想の実現として設置されたものであり、根本的に同一であることを、目的と機能の面から論じ、カルト監視機構が設立されていないという判決の前提そのものを覆すことである。

第二に、村上が過去に統一教会信者の拉致監禁等を伴う説得に関わって来た行為なども指摘しつつ、反カルト運動による権利侵害の一助を村上の活動が担っていると見られることを指摘することだ。

そして第三に、村上が一審判決言い渡し直後から、筆者に対する人格権の侵害行為に及んだり、筆者を刑事告訴したと告げたり、筆者が犯してもいない犯罪行為を犯しているかのように示唆したり、裁判資料として提出した筆者のメールを無断で公開したりした行為は、すべて宗教トラブル相談センターの暴走を示すものであり、それが筆者に対する権利侵害に結びついているだけである。そのことは、筆者が2009年に、カルト監視機構が魔女狩り的な粛清を生むと予告して行った警告に、現実性・信憑性・相当性があることの証拠である。

こうしたロジックの組み立てによって、2009年に村上が著した筆者に関する二つの記事が、権利侵害に当たらないとする判決をも、覆せるだろうと筆者は考えている。

それと並行して、掲示板に対する訴訟を起こすことで、投稿者を特定し、共謀関係の有無を突き詰めることも重要な課題である。それにより、サイバーカルト監視機構の問題についても、新しい見方を与えることができる。しかし、これは時間のかかる作業のため、この問題が明らかにならないうちに二審が終われば、二審でもこの紛争は決着しない可能性がある。

当初は、個々具体的な権利侵害だけを論じる予定だったのだが、考えれば考えるほど、二審は「カルト監視機構」が争点となるという予感は否定できない。

筆者が一審の裁判官の仕事を高く評価していたのも、今でも移送の申立の却下通知をホームページに掲載している通り、この裁判官が「カルト監視機構」こそが、本紛争の最大の争点であることを、訴訟の開始当初から見抜いていたためであった。裁判官の文章は、あくまで筆者の主張を簡潔にまとめただけのように見えるかも知れないが、実はそうではないと、筆者は確信している。

筆者は、この文章を読んだとき、この裁判官が、本紛争は、カルト監視機構という悪魔的構想に対して、それぞれがどのような信仰的態度を取るかという、深い思想的(霊的)対立が引き金となって生まれたものであり、カルト監視機構の構想こそが、すべての問題の出発点であり、根源であるという深い理解と洞察を、そこで示していることを感じたのである。

その指摘の中には、筆者が気づいている以上の深い洞察が込められていたことに、筆者は驚きを覚えた。
 
だが、一審の最中には、カルト監視機構と宗教トラブル相談センターが実質的に同じ機能を持つものであることを、筆者は論証せず、統一教会の信者に対する拉致監禁など、カルト被害者救済活動の違法性を具体的に証拠立てる資料も提出せず、何よりも、村上と杉本やその他の人々との共謀関係を証拠立てる資料が出て来ず、また、村上も筆者に対するあからさまな権利侵害に及んでいなかったため、村上密という人物が、この悪魔的構想の生きた体現者であるということをはっきりと立証するための決定的な証拠が欠けていた。この状況では、裁判官とて何もできなかったであろう。

そこで、村上の本質が客観的に明らかになるためには、まず第一に杉本が口を封じられるという過程が必要だったのであり、そのためにこそ、一審判決は有益な役割を果たした。だが、紛争は決してそこで終わりになってはいけなかったのである。
 
それは、村上密という人間の本質を明らかにすることこそ、もともと本紛争の最も主要な課題だからであり、杉本の権利侵害行為とて、結局は「カルト監視機構」の発想が具現化して起きて来たものに過ぎないからだ。

筆者から見て、村上密という人物は、「カルト監視機構」という反聖書的発想の生きた体現者なのであって、その村上を手つかずで残したまま、杉本の不法行為だけを認定して終わりとすることは、本紛争の提起された意義を根本的に失わせ、かえって極めて不公平な判決を打ちたてるだけである。

しかし、筆者は一審が開かれていた最中は、そこまでの深い理解には到達していなかった。それどころか、判決が言い渡されても、杉本から賠償金が支払われさえすれば、そこで杉本との間では紛争を終わらせて構わないと考えていたくらいである。

ところが、決してそうなってはいけなかったのである。杉本が今に至るまで賠償金を払っていないことには、以上で述べた通り、深い意味がある。つまり、この問題は、額面通りの金銭によって解決されてはならないほど深いレベルに達しており、杉本は、村上が倒れない限り、決して筆者に敗訴した事実を認めるつもりはなく、神ご自身が、筆者がこの判決を元手に、可能な限りの打撃を敵にもたらし、杉本と村上の両名を打ち破って初めて、この紛争の目的が達成されるのであり、神がそのことを望んでおられるからこそ、杉本自身が、一向に敗訴の事実を受け入れず、未だ筆者の情けを踏みにじり続けているのだということにようやく気づいたのである。

この紛争は通常の紛争とは性質の異なる霊的戦いである。杉本は筆者が2009年に投稿した1件のコメントを利用して、筆者の人生に、最大限の打撃を与えるべく行動して来た。その目的は、筆者を社会的・精神的に抹殺することにあったと筆者は見ている。

そのように、筆者の死を願っていることを明らかにして行動しているような相手に、通常人と同じような情けをかけるべきではないのである。むしろ、その発想をまさに逆転して、彼ら(あえて彼らと呼ぶ)に返さなければならない。命じられた賠償を額面通りに実現させるだけでは解決にならず、それが神が願っておられる最も望ましい解決でもない――筆者はそう思い当たった。

これは正直に言って、大変、恐ろしい結論である。彼らの(霊的)債務が金銭ではかたをつけられないレベルにあることを意味するからだ。

だが、もしも神が本当にそのように考えておられるのであれば、そして、霊的戦いとしてのこの紛争の目的が、そこまで物事を徹底的に明らかにすることにあるならば、誰もそうなることを止めることはできないだろう。おそらく、この先も、杉本はすべての情けを踏みにじって、逃げられるだけ賠償から逃げることによって、最も厳しい断固たる措置が取られざるを得ない状況を自ら作って行くものと思う。

何度も言うが、通常の紛争では決してこのようなことは起きない。訴訟は、法的・社会的決着をつけることが目的であって、人間を破滅させることが目的ではないからだ。通常の紛争では、損害の大きさは、決まっており、賠償もその範囲にとどまり、債務が無限大に拡大して行くとか、どちらか一方が破滅するまで戦いが続行されるなどということはまずない。どれほど巨額の賠償が命じられても、人はそれを払えば、やり直しできる。もちろん、筆者もそう思って、紛争を提起していた。
 
ところが、霊的戦いは、人間の思惑の通りには進まない。そして人間的な観点から見て、明らかに妥当かつ合理的であると見られる解決を退けて、敗訴が究極的な破滅と同義になるほどまでの深刻な事態へ向かって進まないわけにいかない。それは、人々を導いている霊の本質が極みまで明らかになるために、どうしても避けては通れない過程なのである。

つまり、神を畏れることこそ、知識の初めであって、神を知る知識(聖書の御言葉)に逆らう者は、自分のすべてを失い、人生そのものが破滅するという霊的法則性が、動かしがたいものであることが、公然と世に証明されるためには、それ以外の道がないために、敵自らがそうなる道を選ぶのである。

あるキリスト者が、次のように言ったことを思い出す。「悪魔は本当に愚かですよ。なぜって、キリストを殺せば、復活が現れ、悪魔の最大の武器である死が打ち破られて無効になることを、悪魔自身が知っていた。それなのに、彼は抑え難い殺意によって、キリストを十字架にかけて殺さないわけにいかなかったのですよ・・・」

同じように、杉本は賠償金を踏み倒し続けることが、自分に何をもたらすか、知らないわけではない。なのに自らその道を選んでいるのだ。
 
そこで、この戦いには、究極的な結末が待ち受けているだけであって、やり直しのチャンスはない、ということに、筆者はようやく気づいた。被告らには、悔い改めもないし、再生もなく、忠告を聞き入れるチャンスも、情けを受ける余地もない。彼らの行く先は定まっており、それを来るべき世が訪れてからではなく、今この地上にあっても、客観的に人々に分かるように立証する使命が、筆者に託されているのである。

繰り返すが、これは極めて厳粛で恐ろしい事実である。

あらゆる訴訟には、個人の損なわれた利害の回復を目指すだけにとどまらない、個人を超えたレベルの社会的意義が込められているが、霊的紛争となると、その意味はもっともっと深いものとなる。

この紛争は、永遠にまで達する領域に関する物事を争うものなのであり、だからこそ、普通の人間の目に、ほどほどと思われる地点で終わりになることがないのである。

だから、予告しておきたい。筆者は一審判決を飲み込んで、これを上書きし、変更を勝ち取ることとなる。控訴状では、筆者は一審判決の取消ではなく、上書き(変更・追加)を求めている。これは判決の不完全な部分について、さらに主張を補い、完成に導くための措置である。

なぜ筆者が当ブログにおいて、訴訟に関する連続シリーズを書き続けているかという目的も、そこにある。これは歴史を塗り替えるため、存在の上書きをし、朽ちるものを朽ちないもので飲み込み、覆うための措置なのである。

杉本や村上は、人間の正義感に過ぎないものを振りかざし、神の御言葉によらず、教会を悪から浄化しようとしたが、そのような運動は、聖書の神に対する反逆であるから、決して成功に終わることはない、との指摘を筆者は続けて来た。

村上密は、2009年当初からカルト監視機構の構想を批判した筆者に「悪」のレッテルを貼っていたが、事実は全く逆なのであり、それゆえ、村上はいずれ筆者の批判に飲み込まれて終わるというのが、筆者の変わらない見立てである。

このようにして事実を上書きする(もしくは事の真相を明るみに出すことにより、偽りの情報を駆逐する)ために筆者はものを書いている。虚偽のプロパガンダに過ぎないものを、真実によって飲み尽くすために再評価を下し、名誉回復の作業にいそしんでいるのである。

また、この上書き作業は、「名を知る者がその者を支配する」原則に基づくものと言って良い。

杉本や村上は、自分たちが住所氏名電話番号まで自己の情報のすべてを開示して「逃げも隠れもせず」活動していることを盛んにアピールしていた。それを誠意の証しであるかのように宣伝していた。だが、筆者に言わせれば、そのように自己の情報を第三者に無防備に託すというのは、初めからその第三者(大衆)に自己存在を奪われ、第三者によって自己イメージを規定される道を選んでいるのと同じなのだ。

「わたしたちには、神が”霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。”霊”は一切のことを、神の深みさえ究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。<略>霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。
「だれが主の思いを知り、
 主を教えるというのか。」
 しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。」(1コリント2:10-16)

キリスト者は、自らすべての事柄を判断するが、自分自身は誰からも判断されることはない。

これまで杉本は盛んに筆者の個人情報を要求して来たが、それは善意によるものではなく、筆者に害を加えようとする意図に基づくものでしかなく、たとえば、氏名を知れば、誹謗中傷に利用する、住所を知れば、提訴するために利用するといった具合であるから、口座番号を伝えれば、強制執行を実行するために利用するだろう。

このように、反カルト陣営に関わる人々は、信者に関して入手したすべての情報を、信者に害をもたらすため、信者を不利な立場に立たせるため、本人の心を支配する脅しの手段として利用して来た。そのようにして、信者を不利な立場に陥れるきっかけをつかむために、彼らは裁判という場を利用して情報の開示を求めて来たのである。

だが、そのように信者に悪意を抱いている人々がいるならば、同じ原則を、そのまま逆に彼ら自身に当てはめることが可能である。自己の情報をみだりに第三者に開示し、「逃げも隠れもしない」などと豪語して、他者の名誉を貶める行為にいそしんでいる人々には、彼らが開示していた情報を利用して、責任追及を行い、開示されていない情報についても、司法を利用してさらに開示を求めるだけのことである。

もともと彼らがそのように世に対して自己の情報を開示していた行為は、それ自体が、他者(世)からの評価に自己存在を規定され、自己を左右され、評価され、簒奪され、上書きされるきっかけを自ら作っているのと同じであるから、彼らの存在は、さらに「聖域」を取り払われて、まるで裸にされるがごとく、徹底的にこの世に対する開示を求められることとなろう。

つまり、彼らが教会の「聖域」に畏れ知らずにもメスを入れ、神に代わって教会の恥を暴き、裁こうとした思い上がりに満ちた計画が、そのまま彼ら自身の上に適用され、成就するということである。それが、主が願っておられる計画であって、主の御名と教会を辱めようとした者に当然のごとく降りかかる報いであって、それ以前のところで決着をつけてはいけないということを、筆者は理解したのである。

筆者は当ブログにおいて自己存在をアピールするつもりは全くなく、キリストによって覆われた新しい人として、世に対して姿を現している。

村上密は、自分は被害者の代理人として行動して来たと言う。代理人とは、自分の名を名乗り、自分の権利のために行動するのではなく、自分が代理としている人物の名を用いて、その人物に代わって、その人物の利益のために行動する者である。
 
私たちは、地上において、誰の代理人なのか。むろん、私たちは、キリストの代理人であるから(牧師が神の代理権威なのではなく、信じる者一人一人が御名の権威を託されている)、私たちは、自己の利益を擁護するために立っているのではなく、キリストの利益を擁護するために生かされているのであり、従って、世の前に立つとき、私たちが自己の名を語るのではなく、キリストの名を用いるのは当然である。

そして、もしも私たちが代理人となって行動しているその方の御名が、私たちの名を圧倒的に超える絶大な権威を持つものであるなら、その方の代理人となることにより、私たち自身が、はかりしれない権限を持つこととなる。

従って、私たちクリスチャンが、幼い頃から「イエス・キリストの御名によってお祈りします。」と唱えることを教えられて来たのと同様、筆者は当ブログにおいても、自己の名ではなく、主の御名によって、すべての事柄を書き記している。

私たちの発する言葉は、一つ一つが不完全であり、私たちの存在も不完全で、影のようなものでしかない。だから、筆者は当ブログで用いている言葉が、隅から隅まで完全であると言っているわけではない。だが、それにも関わらず、私たちが「イエス・キリストの御名」の権威を帯びる時、私たちの不完全さは、主の完全さで覆われ、私たちの弱さは、主の強さに変わり、私たちの不真実は、神の真実によって取って代わられ、敗北は勝利に置き換えられ、悲しみは慰めに変わり、罪は赦しの恵みによって覆われ、朽ちる命が朽ちない命を上から着せられ、滅びゆく有限な者が、神の永遠の命を着せられて、キリストと共に栄光にあずかるのである。

そのようなわけで、私たち自身が、絶えずイエスの命によって、キリストの思いによって、存在を「上書き」されている。そうした現状があればこそ、筆者は、御名の権威を用いて、信仰のない人々の判断を上書きすることを辞さず、またその作業が可能であることを信じている。

筆者は、彼らの判断を飲み込んでしまい、それに上から新しい事実を「着せる」。筆者は「勝利者」として歴史を作り、書き換えているのだが、その「歴史」とは”His-story”であって、カルバリで取られたキリストの勝利に基づくものであって、筆者個人の勝利ではない。

つまり、筆者がすべての物事を「上書き」することによって、着せようとしているのは、キリストご自身なのである。そして、それに従わないものは、すべてのみ込まれて消えて行くか、罰せられるかに終わるであろう。

「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできません。わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。

この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。

「死は勝利にのみ込まれた。
 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
 死よ、お前のとげはどこにあるのか。」

死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしたちの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に励みなさい。主に結ばれているならば自分の苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」(1コリント15:50-58)

こうして、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬべきものが命にのみ込まれるためにこそ、私たちは証の言葉を述べ続けている。
  
これは神の完全な贖いを巡る争いなのである。だからこそ、人間的な観点から見た合理的な解決に至り着いて終わりになることなく、完全な決着が着けられるまで、戦いが続行される。
 
神の贖いに反対する者には、この地上はおろか、永遠に至る領域においても、容赦のない裁きが下されることが確定している。その霊的法則性が明らかになる地点まで、本紛争は必ず進むだろう。筆者はこれを明らかにする責務を負わされているのであって、それを果たすまでは、この戦いは終わらない。そのことを、ここ数日間で筆者は心に確信させられたのであった。
 
わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(2コリント10:4-6)

主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。
 わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。

 
すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当てを胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。」(エペソ6:10-18)

 
  <続く>


村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(8)―こうして救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。

さて、今回は少し違った話題を以下で書こうとしているが、初めに断っておきたい。

村上密の記事には重大な問題がある。些細なことで他人の揚げ足取りはしても、いつも一番肝心なことについて説明がないことだ。これは人々の不信感を誘う。

村上密は2015年3月27日の記事「残りの人生」で、「40代の牧師」に主管者を譲って、自分は退任すると宣言した。これは、「長澤牧師を後継に据え、若い牧師に道を譲る」と言っているに等しい。

この記事で村上は「40代の牧師が主管者になれば、教会は20年以上は安定した教会運営ができると判断した。私は4月で60歳になる。」と書いていた。この記事が書かれたのは3月末であって、そこから4月までは1ヶ月もない。つまり、主管者を退任した時点で、村上は60になるまで約1ヶ月しかなかったということである。

ところが、村上はこうして自分から「40代の牧師」に道を譲るとして、主任牧師を引退しておきながら、後継であったはずの長澤牧師を、ほとんど一瞬とも言える短さで、主任牧師の座から退け、若くもない自分の妻を牧師に据えた。なぜこんな事件が起きたのかについて、村上は今日まで何一つ理由を対外的に説明できていない。

主任牧師をわずかな期間で交替させるなどのことは、会社で言えばトップの交替に等しいため、対外的にも深刻重大な影響を及ぼし、極めて慎重な判断が下されなくてはならず、それだけの十分な理由が必要だ。なのに、村上の教会では、この事件について、合理的な説明が一切なく、村上のブログでも、この出来事が全く説明されていないのは、非常に恐ろしい、読者に不信感を呼び起こす出来事である。

特に、村上の後を継いで主管者になって間もなく、長澤氏のもとには、村上の教会の牧師たちの連名で、「あなたには神様の召しはありません!」という内容の通達が届き、それが主たる理由となって、長澤氏は主任牧師を降格させられたのだという。

とはいえ、長澤氏にはいかなる落度もなく、依然、信徒からの信任も篤いことは、主管者を降格させられた後も、長澤氏が未だに同教会で何事もなく奉職を続けている事実を見ても分かる。従って、長澤氏が主任牧師を降格させられたのは、不祥事による主管者の交替ではない。

ある人たちは、村上は初めから長澤氏を後継にするつもりなどなく、これは短期間の目くらましの人事だったと言う。村上は、長澤氏を長年、手足のようにこき使い、あらゆる雑務を任せた挙句、不当かつ不明な理由で、約束していた主任牧師の地位から速やかに退けたのである。

今回、当ブログ執筆者が提起した訴訟の第一審の準備書面の受け取りも、長澤氏がかなりやっていた事実は、事件記録のサインを見れば明らかである。そこに村上密の署名はない。

繰り返すが、教会の主管者の交替という、これほど深刻かつ重大な問題に、村上のブログで一切、言及がないのは、極めて不審な事態である。長澤氏はほぼ100%に近い信徒の総意で主任牧師に選ばれたが、なぜその長澤氏を降格させて、村上恵子を主任牧師に据えねばならなかったのか、世間を納得させられるだけの理由は、何ら提示されていない。

しかも、村上自身が「40代の牧師」に道を譲ると宣言した後で、なぜ他でもなく村上の妻が主管者とならなくてはいけならなかったのか、なぜそれが信徒の総意に反さないと言えるのか、いかなる説明もないのは、非常におかしな現象である。

村上はこの問題を指摘されると、自分の引退劇に話を逸らし、退任した時点ではまだ60を迎えていなかったとか、牧師職を降りたわけではないなどといった話でごまかしながら、長澤氏を降格させた理由を何とかして隠そうとする。こういう村上の主張は、不透明な人事を隠すためのスピンとみなされておかしくない。

だが、どんなに隠そうとしても、極めて異常で合理的説明もつかないこの事件は、村上が退任時の年齢を訂正するくらいのことでは隠せない。むしろ、そんな些細な事柄をあげつらって、躍起になって反論し、話題を逸らさざるを得ないほど、後継者問題は、村上にとってネックだったのだと自ら告げているようなものだ。
 
そこで、おそらく、この状況では、村上の記事を鵜呑みにして信じる人はほとんどいまいと思う。自分の主張が人に信じられる根拠とは、そういう些細な問題ではないということが、村上には分かっていないようである。

もちろんのこと、鳴尾教会の裁判で、村上が当事者になったなどと、当ブログでは一度も書いていない。なぜなら、村上が常に「代理人」という名を使って、他者の裁判に介入して来たのは、この業界では言わずと知れた有名な話だからだ。

しかしながら、鳴尾の裁判を陰からバックアップしながら、これに勝てなかったことが、村上の信用に致命的な打撃をもたらしたことは確かだと見られる。宗教トラブル相談センターの働き等に専念することは、主管者を降りるほどの理由とはならないからだ。
 
だが、村上が本当に「40代の牧師」に道を譲るために、つまり、教会の若返りのために、自主的に主管者を降りたというなら、まだ理屈は通るであろう。しかし、妻に主管者を譲るために、60前に引退せねばならない理由はなかったはずだ。従って、村上が主管者を引退せねばならなかった本当の理由は、それではないとみなされるのは当然である。

要するに、それほど地元では村上の信頼が失われていたということである。ところが、その話が表に出て来なかったのは、村上が自らの教会においても、当ブログ執筆者に対して現在そうしているように、少しでも自分に対して批判的な言動を見つけると、早速、名誉毀損だとか、裁判だとかをちらつかせながら、信者を心理的に圧迫・恫喝して黙らせて来たためであると、もっぱらの評判である。

筆者は、前々から、沖縄では、村上を批判すれば、村上の思惑を忖度した信者たちから、たちまち集団リンチに遭わされ、村八分にされるという噂を聞かされて来たが、この度、筆者が村上に訴訟を提起したことにより、掲示板で起きた筆者に対する連日連夜の誹謗中傷を見れば、以上の噂が事実であることは、今更、証明する必要もないほど、万人の目に明々白々になっただろうと思う。

掲示板には、当ブログ執筆者の個人情報があることないこと数多く書き散らされ、歪曲された人間関係が記され、家族や知人など数多くの関係者までが、一緒になって誹謗中傷されているが、その情報の出所は、ほぼすべてが村上の運営する宗教トラブル相談センターである(一部、唐沢治からのものもある)。このセンターに家族を連れて行ったがゆえに、今や筆者の家族までバッシングされているのが現状である。

こうして信者の家族関係まで徹底的に利用して、不都合な信徒を弾圧する材料とするのが、村上の宗教トラブル相談センターなのである。村上自身が直接関わっておらずとも、村上の思いを忖度した信者が、不都合な人間を自主的に片付けてくれるのだから、楽な仕事である。

そして、今やその信徒から裁判を起こされているというのに、村上本人が未だ信徒の個人情報を無断で公開しては個人的に権利侵害を伴う反論に及んだりしている状況であるから、こんなにもコンプライアンスの意識の欠落した恐るべきセンターには、終わりが近いのは当然と言えよう。というより、むしろ、このセンターこそ、宗教トラブルの根源だとみなされて当然ではないだろうか。

読者はよく見ておかれたい。この牧師には、個人情報を話せば話すほど、それが後に訴訟の材料として利用されたり、掲示板で誹謗中傷の材料とされるのだ。そんな恐ろしいセンターに相談に行くことは、自殺行為同然であるから、絶対に誰にもお勧めできない。

さて、京都教会では、数多くの牧師が奉職しており、英語礼拝なども行なわれているにも関わらず、牧師たちの名前が、ホームページでは公表されていない。これもおかしなことだ。

さらに、村上密、村上の息子、村上の義理の父(津村昭二郎)、村上の妻(恵子)と、この教会では、教職者のほとんどが、村上ファミリーで占められ、彼らの謝儀が献金の圧倒的大半を占め、他の牧師は生活もできないような貧しい謝儀しか与えられていない。

村上一家が教会から出て行った際には、現金で家を買ったという噂も出回っており、沖縄出張への費用がどのように賄われているかも不明だという。そもそも沖縄で、村上が何をしているのかも、出張報告書も出て来ないので、誰にも分からない。神学生のための特別献金など、名目をもうけては、通常会計に上らない献金が集められるものの、その使途も、管理方法も不明だという。

京都七條基督教会が、人事においても会計においても、世間の常識から並外れて不透明な教会となっていることは明らかである。、

最後に、村上は粘着気質により、自分がターゲットとした人間を延々と批判し続けるが、筆者はそのような動機から発言していない。筆者は自己の人権を守るために発言しているのではなく、聖書の御言葉に立って、神の教会の権益を守るために発言している。

すべての人間を自分の低いものさしに従ってしかはかれない村上は、心底、情けない男としか言いようがない。村上の記事には、神への愛もなければ、教会や、信者への愛もない。何よりも、聖書の御言葉による裏づけが完全に欠けている。神への愛、そして、聖書の御言葉への愛、信者への愛がないこと――これは牧師として、他のどんなことにも比べられない、たとえようのない三大悪のような恥である。


* * *

さらに、唐沢治についても、ひと言、追加しておきたい。一つ前の記事に掲載した唐沢の陳述書は、唐沢が弁護士を介して出して来たものである。

信徒を刑事告訴し、自分が訴えられると、弁護士を通じて回答する。このような牧師が、唐沢治なのである。三大悪ということでは、この牧師も同格である。
 
とはいえ、弁護士の作った文書も、唐沢の文書とほとんど内容が同じであったので、あえて掲載する必要もないと考え、割愛した。

筆者は常日頃から、弁護士とは詭弁を弄するために存在している職業だと考えている。従って、裁判では、弁護士をつけたから、勝算が上がるということもなく、特に、牧師が信徒に向き合うに当たり、弁護士を介さねばならないとは、実にみっともないことでしかない。その上、あれほど辻褄の合わない支離滅裂な回答では、不誠実な人間性は覆い隠すこともできず、弁護士をつけたことで、かえってますます評判が低下するだけだろうと思わざるを得ない。

筆者が第一審で分かったことは、やはり訴訟においては、首尾一貫した矛盾のない誠実な主張を通すことが、信頼を得る何よりの根拠だということである。法的根拠に基づき、白黒つけられない問題については特に、整合性の取れる主張を丹念に積み重ねて行くことが必要である。

村上は杉本と同様に、あたかも筆者の書面がいたずらに長いかのように嘲っているが、筆者は一度の反駁で、杉本と村上の2名の被告を相手にしたのであり、杉本の準備書面も、相当な分量に及び、非常に虚偽に満ちた内容であったため、これに反論するためには、どんなに少なくとも3倍近くの文書量が必要となった。

前々から述べている通り、誹謗中傷するのは1行で済むが、それに反論するためには、3~5倍程度の文章が必要となる。ただ反論するだけでなく、証拠の積み重ねが必要だからである。また、小さな文言の修正であっても、訂正を怠らないことも、誠実さの証しである。

さて、当ブログであえて村上密や唐沢治の書面を公開しつつ、これらの牧師たちの不誠実さについて言及しているのは、牧師という職業について、読者の幻想が徹底的に打ち砕かれることを、筆者が心から望んでいるからだ。

当ブログでは、2008年に始まった頃から、牧師という職業は、それ自体が、聖書に反しており、必要ないどころか、有害な偶像崇拝であるという見解を提示して来た。従って、以上に挙げたような出来事は、すべてその結論を裏づけるものでしかないと言えよう。

唐沢治は、かつて自分でも、エクレシアに固定的な指導者は必要ない、自分はKFCの指導者であり続けたくないので、一刻も早く牧師職を降りたい、などと述べていた。だが、それはポーズに過ぎず、唐沢のもう一つの側面は、決してこの集会を手放したくない、リーダーの座を折りたくないというものであった。

村上密が主管者を退任すると宣言した後も、自分はあくまで現役牧師であると言い張り、教会に対する影響力を手放せないでいることや、唐沢治がKFCから降りたいと言いながらも、この集会の牧師職にすがりついた姿の中に、我々は、自分から引退を口にして役目を終えたはずの人間が、いつまでも必要のない地位にすがりつくと、こうまで人間性が腐敗して行くという生きた実例を見て取れよう。

さて、掲示板のコメントを読めば分かるが、村上密・唐沢治をとりまく信者たちは、「自分は見捨てられた」という自己憐憫と被害者意識で一致団結している。そして、見も知らない当ブログ執筆者から、何の正当な根拠もなく、自分たちは見捨てられたのだという被害者の立場に身を置き、筆者に報復するために、集団で攻撃している。

だが、この被害者意識こそ、こういう悪しき指導者たちの吸引力の源であり、麻薬のように人格を腐敗させて行く根源なのである。杉本徳久もそうであったが、村上密に深く関わった人々は、皆、筆者の目から見ると、同じような被害者意識を抱え、それゆえ物事を正常に見られなくなって行く。
 
杉本徳久がかつて1件のコメントの削除を筆者から依頼されただけで、その依頼によって自分を完全に否定されたかのように思い込み、10年間もかけて、筆者を恨み続けたように、この人々は、少しでも他者から自分を批判されるような言動があると、早速、自分を否定した人間を(見ず知らずの人間であっても)許せない思いとなり、生涯に渡るほどの執念を持って反撃し続けるのである。(しかも、自分が批判されたのではなく、指導者が批判されたことに対して報復しているところが、より異常だと言えよう。)
 
この異常とも言える被害者意識は、人を完全に霊的盲目にしてしまう。これに感染した人は、どれほど自分が残酷な行動を取っていても、我が身可愛さのゆえに、全くその残酷さが自覚できなくなり、いつか限度を超えた報復行為に出て、それが犯罪行為として裁かれる結果に至る・・・。

被害者意識が、人の健全な意識を失わせ、まるで傷が人間全体を飲み込むように、人格を腐敗させて行く様子を、掲示板の人々に見て取れよう。

そこで言えることは、このような悪影響を信者たちに及ぼす指導者からは、すぐに離れなさい、ということだ。村上密の被害者意識によるマインドコントロールから離れなさい。自分は見捨てられた人間だとか、傷つけられて、打ち捨てられた哀れでみっともない人間だという意識から離れなさい。

真に神を信じて生きているならば、他者の言動に振り回されることがなく、他者との間で紛争が起きても、これを合法的かつ正当な手段で早期に解決できるはずだ。見も知らない他人を恨み続け、延々と匿名で掲示板に恨み言を書き連ねるような不毛な行為に至り着くはずがない。

ラスコーリニコフにもソーニャがいたわけだから、たとえ犯罪者になったしても、それで人生が終わるわけではない。真摯な悔い改めと誠実な心があれば、自分のソーニャを見つけ、いつからでも人生のやり直しは可能なのである。
 
ところが、この人々が、いつまでも自分を見捨てられた人間の立場に置いて、自己憐憫、自己卑下に明け暮れているのは、その心の根底に、「自分は神に見捨てられた」という被害者意識があるためである。このことを、当ブログでは、幾度となく説明して来た。それがグノーシス主義なのである。

実はこれこそが、最も厄介かつ深刻な問題であり、個人的な恨みや復讐心のレベルを超えて、人の永遠の命の問題を左右する問題である。だが、この問題については、長くなるので、別途、記事を改めることにしよう。

いずれにしても、被害者意識や自己憐憫から離れ、紛争が起きたなら、これを合法的で正当な手段を用いて早急に解決することをお勧めする。市民としての正当な権利がいくつも与えられているのに、掲示板になど深く関わっていれば、いずれあなたの人生が取り返しのつかないことになるだけである。
 
 
* * *

さて、前置きは終わったので、ようやく、今回の記事のテーマに入ろう。まず述べておかねばならないことがある。それは、キリスト者は御言葉に立つために、徹底的に霊的戦いを戦い抜かねばならない場合があるということだ。

筆者がなぜ戦いを続行しており、それによって何を掴もうとしているのかも、これによって説明できる。地上で己の利益を保って平穏無事に暮らすことだけを第一優先している肉的な信者は、「和」を尊び、争い事を敬遠することこそ、この世の知恵であると思い込むあまり、このような戦いの重要性を全く理解できなかった。

だが、筆者は繰り返し、この戦いは、筆者の人権を守るためではなく、神の国の前進のために必要不可欠なものだと述べている。筆者は、個人的な思惑に基づいて、訴訟を提起したりしているわけではない。

ここには、私たち信者が、迫害を受けた際、簡単に主の御名を捨ててしまうのか、それとも、どんな迫害に遭っても、信仰の証しを大胆に守り抜くことができるのかという、私たちの永遠の命に関わる問題がかかっている。

また、教会が、一人や二人の狼藉者のために、恐怖によって脅しつけられ、口を封じられ、証の言葉を大胆に述べられなくなるような、あるまじき理不尽な状況を容認するのかどうか、という問題もかかっている。

もし以上のような状況を容認するならば、教会は、死を打ち破られたキリストのよみがえりの命によって、自由にされた人々の集まりどころか、死の恐怖によって脅しつけられた捕われ人の集団となるであろう。

そして、そのような待遇に自ら同意した人々は、この先、一歩たりとも前進して行くことができず、ついに最後は、すべての自由と権利を失い、信仰の片鱗も見られなくなり、クリスチャンというより、ゲヘナの子と呼んだ方が良い有様にまで転落し、キリストの福音を全く知らなかった方がまだましな状態となって人生を終えるのではないだろうか。

一つの権利侵害に甘んじることは、百の権利侵害に甘んじることと同じである。不当な脅しに沈黙して、立ち向かわないことは、自分のすべての権利を自主的に放棄して、生きることを放棄しているも同然である。

そこで、聖書の御言葉の真実性を信じない人々による恫喝、嘲笑、侮辱の言葉を放置・容認するならば、それは彼らの信念に、あなたが自ら同意しているのとほとんど変わらない効果をあなたにもたらす。

神は、神の御名が汚されている時に、沈黙しているあなたを喜ばれるだろうか。むしろ、あなたの態度を恥じて、あなたの名が汚される時にも、あなたを守って下さらないだろう。

神を知らない人々にも、憤って立ち上がらなければならない瞬間があるように、クリスチャンには、断じて黙っていてはならない瞬間がある。

我々が侮辱されたから立ち上がるのではないのだ。聖書の御言葉が曲げられ、主の御名が冒涜され、神の教会が蹂躙され、我々の嗣業が脅かされているがゆえに、立ち上がって、これを取り戻さねばならないのである。

それができなければ、教会は、自分に与えられた尊い永遠の嗣業を失ってしまうだろう。約束の地にたどり着けず、荒野で倒れた民のように、神が約束された偉大な自由と解放に全く至りつけないまま、中途半端な妥協で人生を終えてどうして良いだろうか。

いみじくも、オリーブ園に掲載されているオースチン・スパークスの最新の論説が、この霊的戦いのテーマについて、はっきりと告げているので、まずはこれを掲載しておきたい。


 「キリストとの合一」第四章 創造的・種族的合一(10)
 
 さて、他の文脈でそうするのと同じように、私は次のことをあなたたちに思い起させて終えることにします。すなわち、嗣業はキリストと教会に対する戦いの鍵です。そして、相続人たる身分には二つの面があります。法的面と霊的面です。

新しく生まれた時、私たちは法的に相続人となりました。新創造の中にあるなら、私たちは法的に出生による相続人です。しかし、相続人としての法的身分と霊的に相続する行為とは非常に異なります。

後で見ることになりますが、聖書は他の文脈と同じようにこの文脈においても明確な区別をしています。ガラテヤ人への手紙はまさにこの思想を巡って構築されています。「相続人は子供である間(中略)父によって定められたその時が来るまで、保護者や家令の下にいます」(ガラ四・一、二)。この手紙はさらに続けます――子供であるなら息子でもあります。私たちはみな息子たちです。それは信仰によって、つまり法的にです。たとえ子たる身分すなわち嗣業の意義・価値を実際かつ霊的に所有していなくてもそうです。私たちは出生により法的相続人です。しかし、霊的成長によって私たちは嗣業の霊的所持者になります。


 これについてはっきりしているでしょうか?もし教えに関してはっきりしていないなら、実行と経験に関してはっきりしているかどうか自問して下さい。どれだけ多くのクリスチャンがこの嗣業を享受し、自分たちの嗣業を所有し、嗣業の保有に向けて前進しているでしょうか?多くのクリスチャンはそうしていませんが、それでも彼らは神の子供であり、法的相続人です。法的相続人から霊的相続人になるまでの間に、何かが起きてあなたはこの嗣業を失うかもしれません。

新約聖書は常に私たちに告げます。私たちは偉大な嗣業を持っているので、それを失ってはならないことを。私たちは偉大な数々の権利を持っているので、それらを放棄してはならないことを。私たちは永遠の過去からある事柄にあずかるよう召されています――しかし、しかと「あなたの召しとあなたの選びを確かなものにしなさい」。私たちの法的身分と私たちの霊的状態とは異なります。


 この新創造でも同じです。私たちは霊的学びをしなければなりません。一つの領域から他の領域に漸進的に渡らなければなりません。戦わなければなりませんし、争いの中に入らなければなりません。自分の救いのためではなく、キリストの中にある私たちの嗣業のためです。私たちは試され、試みられなければなりません。それは自分が良いクリスチャンであることを証明するためではなく、霊的優位性の何たるかを学ぶためです。こうして霊的優位性の中でこの嗣業の中に入ります。

無代価の賜物として受けることと、次にそれを受け継ぐべきこととに関する、これらの矛盾のように思われる事柄にあなたは心当たりがあるでしょう。すでに見たように、一方は法的地位であり、他方は霊的地位です。私たちは新創造の中にあります。その圧倒的大部分は彼方にあります。しかし、私たちは進み続けています。確かに、私たちが集会に集まる時は常に、その理由は主と共に前進したいからです。一つの領域から他の領域に移りたいからです。私たちの心は、主が御自身との合一に中に私たちをもたらされたその意義全体の上に据えられています。彼の恵みにより、私たちは切り抜けて前進します。



* * *

さて、このオースチンスパークスの論説を理解するためのキーワードは、「霊的優位性」である。以上の話を理解するために、もう一度、以下のガラテヤ書の御言葉に戻ろう。

「わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。

アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。

これには、別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。

他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。なぜなら、次のように書いてあるからです。


「喜べ、子を産まない不妊の女よ、
 喜びの声をあげて叫べ、
 産みの苦しみを知らない女よ。
 一人取り残された女が夫ある女よりも、
 多くの子を産むから。」

ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。けれども、あなとき、肉によって生まれた者が、”霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じことが行われています。

しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。


この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。
」(ガラテヤ4:21-31,5:1)


私たちは、キリストの贖いを信じて受け入れているならば、約束の相続人である。これは来るべき国の無尽蔵の相続財産が、私たちに約束されていることを意味する。

だが、この相続人としての権利は、判決文のように、実行されなければ、効力の伴わない宣言で終わる。

法的権利を持っていても、これを実際に行使しなければ、自らに約束された権利を掴むことはできない。そこに戦いが起き、困難が伴う。あなたはその困難をすべて打破して、約束の権利にたどり着き、これを実際とせねばならない。

アブラハムに約束された子イサクは、信仰によって生まれたが、成長するまでは、肉によって生まれたイシマエルと同じ家に暮らしていた。

同じように、今日の神の教会にも、御霊によって生まれた神の子供たちと、新生を経ていない、肉によって生まれ、うわべだけクリスチャンに偽装しているだけの、偽りの霊に導かれる者たちが混在している。

この異質な両者は、まるで同等の権利を持つ者であるかのように、教会を我が物として活動している。

だが、これらの異質な者同士の間には、必ず、戦いが起きる。まず最初に肉によって生まれた者たちが、霊によって生まれた者たちを、神の教会から追い出そうとする。これが戦いの最初のステップである。

今日の時代には、肉によって生まれた者たちが、カルト化を監視するという名目を用いて、全教会の支配者となろうとする恐るべき理念を振りかざし、裁判を利用して教会に戦いをしかけ、気に入らない者を中傷し、諸教会を自らの支配下に置こうとしている(反カルト運動)。

反カルト運動は、表向きには、人々をカルトから解放するという正義と自由の旗を掲げているものの、実際には、恐怖による恫喝を手段としており、その真の目的は、教会を解放するどころか、むしろ、抑圧して支配することにある。

今やプロテスタントの多くの教会が、このほえたけるししのような連中の罠を見抜けず、恐怖に脅しつけられ、抵抗できなくさせられた。

だが、心配することがないのは、 私たちは、二度とそのような奴隷のくびきにつながれないためにこそ、救いにあずかっているわけであり、命の栄冠を誰にも奪われないために、不当な脅しに毅然と立ち向かってこれを撃退するならば、むしろ、肉によって生まれた者たちを教会から追放することが可能なのだ。

イサク(御霊によって生まれた子)が、イシマエル(肉によって生まれた子)をアブラハムの家から追い出せるようになるまでには、成長が必要である。イシマエルは、イサクよりも早く生まれた分だけ、イサクよりも先に力と知恵をつけているため、初めは強敵に見える。

だが、イサクもやがて成長して、イシマエルに自力で立ち向かうことができるようになる。そして、イサクが反撃に転じたことにより、肉によって生まれた者と、霊によって生まれた者との間に、激しい相克が起きる。これが第二のステップである。

第二のステップは、異質な者同士の間で起きる壮絶な争いである。むろん、サラとハガルとの間にも、争いが起きている。一体、どちらの陣営が勝利するのか、この時点では、はた目には分からない。肉は早熟であり、一時的な勢いがあるため、肉によって生まれた者の方に優位があるように見えるかも知れない。

だが、キーワードは「霊的優位性」である。

キリスト者は戦いに臨むとき、自らの勝利を十字架から引き出して来る。コロサイの信徒への手紙には、「キリストはすべての支配や権威の頭です。」(コロサイ2:10)と記されている。

これが、キリスト者の圧倒的な霊的優位性の根拠なのである。あなたが女性であろうと、この世で見下された無力な存在であろうと、世間からどんな風に見られていようとも、関係がない。もしもあなたがキリストによって新しく生まれた者であるならば、あなたは彼の御名のゆえに、彼と共に、すべての支配と権威を足の下にする権威を帯びているのである。

だから、私たちは敵に立ち向かうとき、この霊的優位性をフルに活かして、戦いを有利に進めなければならない。この霊的優位性の内実は十字架にこそある。

神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によって私たちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」(コロサイ2:13-15)

二つ前の記事に、債権差押命令を提示したが、これはまさに債務を抱える者に対する強制的な取り立てを許可する令状である。

キリストによって贖われておらず、自由とされていない民には、罪という名の無限大の債務がある。それゆえ、悪魔は彼らに対して強制的に取り立てを行う権利を有し、日々、彼らを恫喝し、彼らの権利を剥ぎ取っている。

他方、贖われた者たちには、そのような債務は存在しない。従って、私たちには、誰からも恫喝されたり、取り立てられたりする根拠は何もないのである。

だが、肉によって生まれ、贖われていない者たちは、悪魔のみならず、神の子供たちに対しても、債務を抱える存在であると言えよう。特に、神の教会を迫害して来た者どもの罪は重く、神の子供たちは、彼らの罪を債務に変えて、実際に取り立てが可能なのである。

「罪人の富は神に従う人のために蓄えられる。」(箴言22:13)というのは、そういう意味である。

そこで、私たちが暗闇の勢力に対して戦いを挑むとき、私たちはこの霊的優位性を活用する。贖われていない者は、罪という債務に縛られており、それゆえ、もろもろもの支配と権威による取り立てに服するしかない存在であるが、贖われた私たちは、罪という債務に縛られていないので、もろもろの支配と権威を従わせ、贖われていない者を支配下に置くことができる。

だが、筆者は、この戦いが簡単だと言うつもりはない。目的を達成するためには、想像を超えるほどの根気強さを持って、壁を打破して行かねばならない。

だが、それでも、私たちは、この戦いを貫徹するならば、自分たちが、本当にこの世のあらゆる支配と権威を超越したところに立たされていること、敵こそ、私たちの足の下に踏みつけられ、罪の負債を負って、我々の取り立てに服する義務を負った存在であり、我々の命令に服するしかなく、彼らはすでに十字架において霊的死の宣告を受け、裁かれており、恥をこうむって終わることを運命づけられていることが分かるだろう。

私たちの名のゆえでなく、キリストの御名のゆえに、この世のもろもろの支配と権威は、私たちに完全に服従しなければならない。そうなる時まで、私たちはこの戦いの中で、十字架を貫き通し、キリストの御名に込められている霊的優位性が、目に見える実際となって、この地にもたらされるまで、この戦いを容赦なく貫徹する。

わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(コリントニ10:4-6)

主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。ですから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」(エフェソ6:10-13)

筆者はおそらく、自分のしているこの戦いが、神に栄光を帰するための信仰による戦いであることを証するためにも、キリストの御名以外の名を高く掲げることはないだろうと思う。

この戦いに勝利するために、私たちは死力を尽くさなければならないが、御名のゆえに与えられた霊的優位性、すなわち、神に由来する力は、敵の要塞をも打ち破るに足るものであり、敵の振りまくあらゆる嘘、詭弁、ごまかし、すりかえ、脅しを粉砕し、神の御言葉に逆らうすべての高慢を打ち砕いて、すべての人々の思いをとりこにしてキリストに服従させることができるものであるから、私たちは、すべてのものを足の下にしているキリストの絶大な御名の権威のゆえに、地上のすべてのものを足の下にする。

教会は、キリストを頭とする体であり、キリストが満ちておられる場であるから、主と共に御座に引き上げられ、地上のすべてを足の下に従えている。

そして、私たちは、すべてのものがひざをかがめて、「イエスは主である」と告白することが実現するためにこそ、この世から召し出され、この地に置かれているのである。

神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、精力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エフェソ1:20-23)

こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。」(エフェソ1:10-11)

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

このため、
神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピ2:6-11)

こうして、イサクは信仰によって成長し、強くなって、困難を忍びつつ、よく戦い抜いて、実際にすべてのものをキリストと共に足の下にする秘訣を学ぶようになる。

その時、イサクはイシマエルを打ち破り、肉によって生まれた子に対する霊的優位性を見事に証明することができるようになる。そして、第三のステップである平和が訪れる。

反カルト運動は必ず打ち破られて、恥をこうむり、神の家から追い出される日が来るであろう。

今や不従順な肉の子であるイシマエルは神の家から追い出され、イサクこそ、神の家の唯一の約束の相続人である。

イサクのためには、アブラハムが築き上げた無尽蔵の相続財産が約束されている。これがイサクの嗣業である。私たちは、キリストの命の中に隠されている無限とも言える自由と豊かさに、実際に至り着く必要がある。これが私たちの目指している新しい領域である。ただ贖われただけで終わるのではなく、激しい戦いを戦い抜いて、霊的に勝利をおさめ、敵を征服し、圧倒的な自由と豊かさの中に、実際に入らなければならないのである。

御国が来ますように―天地の架け橋としてのキリストにある「新しい人」(7)

オリーブ園のオースチンスパークスの記事「「私たちのすべてなるキリスト」 第九章 子たる身分の意味と価値(3)」が秀逸なので、この一連の論説を続けて読むことをお勧めする。

そこには、御子が地上にあって、どのように御父から命の供給を受け、権威と尊厳を持って生きられたか、その具体的な方法が記されている。それは、今日、私たちが地上にあって御子と同じように使用できる法則である。

私たちは御霊にあって、その命からすべてを引き出す方法を知る必要がある。これは魔法ではなく、子たる身分に基づいて、神から私たちに与えられた恵みである。

私たちは、キリストの復活の命の中から、日々の糧、人々と関わる際の知恵、この世を圧倒的に超える権威、目に見えない高い霊的な地位を供給されるのである。

キリスト者として歩むに連れて、私たちはいかなる人間関係の中においても、自分が支配的・優越的地位に立たなければならないことが分かって来るだろう。それがなければ、私たちに与えられた自由は発揮されることがないし、私たちの霊的権威が地上に及ぼされることもない。

とはいえ、私たちはこの地上において、王でもなく、支配者でも、権威者でもない。むしろ、何の肩書も持たない寄る辺のない民のように見えることであろう。

しかし、その弱く貧しい民が、キリストにあって、彼と共に、地上のすべてのものを足の下にする圧倒的な力と権威を授けられているのである。それはこの世の経済、物流、そして人間関係にももちろん適用される。

私たちが地上のものに心惹かれ、それに心を奪われてしまうと、それが人間であっても、物質であっても、その目に見えるものが私たちの心を支配することになる。しかし、正常な秩序は、それとは逆に、私たちがすべての地上のものを霊的に支配することにある。

私たちが心に抱いている永遠の望み――私たちの信じているただお一人の神、その御名が、すべての目に見えるものにまさる権威として掲げられれ、万物が、私たちの存在を通して、キリストに服従することが、神が望んでおられる正しい秩序なのである。

従って、それゆえに、内にキリストを持ち運んでいる私たちは、地上のどんなものに屈服してもならず、地上の支配よりも下に置かれてはならず、この世の経済や、人の思惑や、この地上に立てられた権威にまさる、これらを霊的に支配することのできる目に見えない霊的権威を与えられているのであって、その霊的権威を行使することによって、初めてこの地上に、御国の秩序を引き下ろすことができる。

私たちは、御子が地上におられた時にそうであられたと同様、この世のすべての物理法則、事物、人々を超越して、霊的に支配する立場に立つことができるのであり、また、そうしなければならない。

それは本当に、御子がそうであられたのと同じ、この世に渦巻く諸々の支配や思惑に巻き込まれて翻弄されることのない、この世の触れることのできない、貴い、崇高な天的な地位である。天の御座から、地上のすべてのものを統べ治める立場である。

その高い地位は、様々な試練の中で、信仰を貫き通す時に、初めてはっきりと姿を現して来る。いわば、エジプトに売られた日の幼いヨセフが、生長して、ファラオに次ぐエジプトの宰相となり、知恵と権威を持ってエジプトを治める者となって、現れて来るような具合である。

キリスト者が人生で遭遇するすべての出来事は、こうして本人の霊的成長に合わせて、スケールが拡大して行く。戦いのスケールも、霊的成長に合わせて拡大して行く。

その中で、私たちはこの世を超える圧倒的な権威を行使する術を学ぶようになるが、しかし、それは、霊的成長に伴う、霊的権威の増し加わりであって、必ずしも、私たちがこの世で、人々がその名を聞いてすぐにひざまずくような、何か圧倒的に偉大な権威を手にすることを意味しない。

私たちの権威は、地上の肩書、地位ではなく、御名に由来するものである。

こうして、御名の権威が私たちを通して地上に現れ出るために、この世の経済、物流、人の心、物事の有様、といったすべてのものを、私たちは、キリストにあって、私たちの意志の下に従属させ、屈服させていく方法を学ぶ必要がある。

それは激しい支配権の争奪戦の中で、十字架を貫き通すことで初めて可能となるが、このように、あらゆる試練の中で、信仰による確信を捨てずに進んで行くならば、不思議と、物事も、人々も、諸条件も、いずれ私たちの意志の下に服するようになるのである。

私たちの意志の下に、と言っても、私たちが御言葉に服従し、キリストにあって生きている以上、それは私たちの存在を通して、地上の事物が、御名の権威に服することを意味する。

こうして、キリスト者は、地上の諸原則をすべて足の下に従える方法を学ばなければならない。それができるようになって初めて、キリストにある新しい人――地上の堕落に巻き込まれ、触れられることのない、真に高貴な人としての霊的地位が現れ出て来ると言えよう。

異教のシャーマンや、修行僧も、物理法則を従える方法を熱心に研究している。しかし、私たちは、そういう修行を通して自己改造するのではなく、私たちの内側に与えられている新しい命の法則に従って自然に生きることにより、この世を超越する新しい法則の中を生きる方法を身につけるのである。

ただし、私たちは肉体的な修行の中を通りはしないが、日々の十字架は負う必要がある。この痛みに満ちた教訓なくして、決して私たちがヨセフのような崇高な地位に立つことはできない。

キリスト者は、神にあって自分に与えられたこの新しい命の力を開発し、知らなければならない。キリストの復活の命の中に、神がどれほど人を愛され、恵まれ、人に崇高で重い使命を託されたか、なぜ、どのような目的で、神は人を創造されたのか、その答えが凝縮されて込められている。

アダムが創造された時、神はアダムに地を治めるように求められたが、その使命は、今日、キリストを通して、キリストにあって生きる私たちに託されている。私たちはこの新たな法則――御国の到来を、人々に告げ知らせる者であり、その新しい法則を実際にこの地上にもたらし、霊的収穫をもたらさなければならない。そうして行くときに、その支配権が、不思議な形で、この世の事物だでなく、多くの人々の心にも及んでいる様子を見ることができるだろう。


御国が来ますように―天地の架け橋としてのキリストにある「新しい人」(2)

「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかりと保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。
(ヘブライ4:14-16)

前回、オースチンスパークスの論説が、御霊によって、御国の法則を示したものだと書いたが、そのことをもう一度、強調しておきたい。オリーブ園の記事「私たちのすべてなるキリスト 第四章 開かれた天(1)」を参考に挙げておく。
 
今回は、これを踏まえつつ、時宜にかなった助けを受けることの必要性について語りたい。

私たちと神との関係は、御子が地上におられたときの、御霊にあっての御父との関係と同じだという言葉はまさにその通りである。

御霊を通して、私たちは神に向かって「父よ」と呼びかけ、その御前に子として進み出ることが許されているのであり、あらゆる必要を希う権利が与えられているのである。そして、主イエスは地上におられた間、絶えず隠れたところで御父に祈りを捧げられ、御父からまことのいのちの供給を受けられた。

私たちはこの権利を地上において行使する必要がある。この天につづくはしごを活用して、絶えず天を地に引き下ろさなければならないのである。

ただ、その作業のためには、積極的に願うこと、平安の中で願ったことが必ず実現に至ることを信じること、大胆に目的へ向かって進んで行くことが必要となる。

特に重要なのは、平安を失わないことである。平安が基礎とならないと、神に願いを申しあげても、それが実現すると信じることさえできない。そして、信仰に基づいて確かな足取りで歩んで行くことができないのである。
 
筆者は、かつてすべての教団教派を離れ、約1年ほどかけて、幼い頃から受けたキリスト教の教育で学んだ経験や知識もすべて脇において、まことの神ご自身は一体、どういう方なのか、聖書の御言葉が意味するものは何なのか、個人的に熱心に尋ね求め、そして神ご自身がそれに応えて下さり、直接、神を知った時から、筆者が神の子供として受け入れられている事実、神が今日も生きて働いて下さる事実を疑ったことはないし、信仰をなくしたことは一度もない。
 
その時から、人間の生きる目的のすべては、神を知ることにあり、自分自身の利益のためでなく、神のために生きるという一事のためにあることを確信して来た。

それは明らかに筆者自身の力によって得られた信仰ではなく、御霊を通して与えられた信仰であったと言える。なぜなら、筆者は教会生活を送っていた頃に、そのような確信を得たことが一度たりともなかったからである。

しかし、それでもその後の信仰生活には波乱がなかったわけではない。そして、最も大変な時に、一度だけ、果たして自分が本当に子として神の御前に恵みを求めて進み出ることが許されているのか、何かひどい疑いのようなものがついて回ったことがあった。

筆者は、これは暗闇の勢力からの攻撃ではないだろうかと感じ、それにどう抵抗すれば良いのか考えあぐねた。その頃、想像を絶することが次々周囲で起き、それはどれを見ても、まさにすべて暗闇の勢力からの攻撃としか言えない現象ばかりであった。

しかし、そうした疑惑は、それでも自分の心を頼りとせず、御言葉への信仰により頼みつつ、一定期間を過ごした後に、まるで暗いトンネルから抜け出て光のもとに出るように、あるいは霧が晴れるように取り去られ、気づくと以前と同じような大胆な確信の中に入れられていた。不明な圧迫に対しては、御言葉に基づき、とことんまで抵抗することで、暗闇の勢力との戦いが打ち破られて、重荷が取り去られたのであろう。
   
クリスチャン生活の中には、あまりにも戦いが激しく、防衛戦で手一杯となり、積極的に新たな霊的領土を征服するための攻撃戦に出て行くことができなくなり、何かを願うことさえ不可能に近い心理状況に追い込まれることがありうることは、幾度か書いて来た。

それはちょうどイエスがゲッセマネの園で、血の汗を流して祈られたという場面にも重なるかも知れない。むろん、私たちの誰一人、そのようなまでの苦境を通らされたことはないが、その時、主イエスの願いは、ただ十字架という杯を避けられるかどうか、という一事に絞られ、それまでのように、御父との優しい絶え間のない交流を得て、慰め、励まし、助けを得、すべての必要を父に満たしていただくために祈られたわけではなかったのである。

そういう、心の最後の平安までも失われたかに見える激しい心の戦いが、クリスチャン生活にないとは言わない。時には、神の御旨と自分の意志との間にずれが生じ、言い争いのようなことが起きることがないわけではない。
 
しかし、ほとんどの場合、私たちの祈りは、御父に向かって、自分の心の中にあることを穏やかに告げて、神の御心を示して下さいと率直に求め、神の御旨を信頼して自分を委ね、必要な助けを求めることである。

大きな試練の中にあって、何かしら神の取扱に納得できない事柄があったとしても、私たちの祈りは、最終的には、自分のすべてを神の御手に委ねて、御心の通りになさって下さいと申し上げる形で終わる。

そして、私たちが御旨に従うからこそ、必要な助けが与えられるのである。

平安は、その明け渡しの作業が完了した時にやって来る。大胆に恵みの座に進み出て、時宜にかなった助けを受けるとは、あれやこれやの自分の必要性を神に訴え、助けて下さいと願うことも含んでいないわけではないが、何よりも、この心の平安――私たちが確かに父なる神によって子として受け入れられ、贖われ、愛され、キリストの中にあって、聖霊によって、助けを得ているという確信――もっと言えば――すべての戦いは十字架においてキリストの勝利により決着がついており、その勝利は私たちのものであるという確信――を得ることである。言い換えれば、その十字架を通して、御父、子、聖霊の交わりの中に、私たちが確かに入れられているという確信を得ることである。

その確信が基礎となって、初めてすべての必要を神に願うことが可能になる。まず、子としての立場がなければ、何一つ御父に願う資格すらもないためである。

そして、子としての平安に満ちた確信は、私たちが神にあって、自分の全てをこの方に委ね、神の御心に従って生きることに同意することによって得られるのである。

地上のサラリーマンの給与は、企業などの団体に所属して、その団体の利益に奉仕することによってしか得られないであろう。しかし、天の御国の収穫のために、天に奉仕する働き人は、神の御旨に奉仕することによって、必要のすべてを満たすことのできる目に見えないサラリーをもらっている。もちろん、働きとは関係なく、子として養われている分もあるが、その上に、働きに応じた報酬も存在するのである。

私たちの本当の雇用主は、こういうわけで、天の父なる神なのである。
 
このことは幾度も書いて来たが、私たち信者が、真に天の御国の権益に関わる事柄に奉仕する時、それに必要なものは何もかも上から添えて与えられる。そこで、どうやって生きるかということだけを最優先課題として、地上の生活を第一に心配し、そのせいで御国への奉仕を後回しにする必要がなくなるのである。神が承認されたプロジェクトには、神がそれを完遂するために必要なすべての手段を与えて下さる。
 
そこで、神は何をするにしても、まずは私たちの動機を問われる。

「あなたのしようとしていることは、あなた自身のためなのでしょうか。それともわたし(神)の栄光のためなのですか。」との動機が問われるのである。

神は、聖霊の見えない証印が押され、確かに神の栄光のためになされたことでなければ、後押しされないし、責任も負われない。人間が自己の判断で自分の利益のために行ったことについては、神は決してこれを守ったり、ご自分から出たことであるかのように擁護し、責任を負って下さることはないのである。

だが、私たちは多くのことを自分の必要を満たすために行っている。いちいち御心を問うこともしていない。そして、そのすべてが、御国の収穫のために行ったとどうして言えるだろう?

ところが、そう言える根拠が存在するのである。パウロは、食べることや飲むことまでもすべてキリストのために行うと述べている。同様に、私たちは日常で行っているすべてのこと――それがたとえ直接的には神の栄光に関わりがないように見えても――をすべて神の栄光のために行うことができるのである。それは私たちの全き献身、自分のすべてを神に委ね切ることから始まる。

神への明け渡しは、繰り返すが、「私はあなた(神)の栄光のために生きます」と宣言し、自分のすべてを神に委ねることである。

たとえばある企業が、より大きな企業に吸収合併されれば、その名も、資産も、すべてが合併された会社に属するよう変更される。資産だけでなく、赤字も、合併した企業のものになる。

私たちが絶えず神への献身を行って行くとき、同じようなことが起きる。私たちの諸々の行動の中には、果たしてその出所が定かでないことも含まれているかも知れない。知識が足りないがゆえに及ばなかった行動があったり、私たちが何が神の御心であるかを自覚できていないまま、それが神の御心にかなうと一方的に考え、あるいは誤解していたような事柄さえも、含まれているかもしれない。後になってみれば、何と考えが足りなかったのだろうと思われることが多くあるかも知れない。
 
それはいわば赤字である。

だが、それも含めて、私たちが自分のすべてを正直に心から神に委ねる時、神が私たちの人生に対して最終責任を負って下さるのである。赤字をたくさん作って、にっちもさっちもいかなくなってから、自分よりも大きい企業に身売りをするのは、あまり良いやり方ではない。しかし、立ちゆかない経営を続けて倒産し、すべての従業員と家族を路頭に迷わせるよりはましであろう。

私たちのために重荷を担われる主、と聖書にある通り、十字架において人類のすべての負債を身代わりに背負うことのできた方には、今日も、私たちの抱えているすべての重荷を負って下さることができないはずがない。

だが、もちろん、神に都合よく重荷だけを押しつけ、自分は恵みにだけあずかりたいというような生き方は、初めて悔い改めて神に立ち帰る信者なら許されても、いつまでもそのようなことを続けていれば、誠実な献身とは言えないだろう。
 
私たちの主人に重荷ではなく、収穫をもたらすために、良い僕として働き、共に同労するという道があるはずである。

私たちは地上にある間は、神から離れて生きている。心には聖霊を通じてキリストが住んで下さっても、体は神から離れている。そして、この神から離れている部分は、私たちを絶えず、さらに神から引き離そうと圧力を加える。

しかし、私たちは自分たちの霊の内側で、それとは逆のベクトルの力を行使して、自分の体を霊に従わせる。飲み食いは体の仕事であるが、それも神のために明け渡すことで、体の働きをも聖別することができる。

こうして、自分自身を絶え間なく神の御旨の中に委ね、すべてのことを自分個人のために行うのではなく、神の栄光のために行うことを告白し続け、自らのあらゆる行動の動機を神に委ね続けるのである。

何かひっきりなしの異言の集会や、訳の分からない恍惚体験に身を委ねるのではなく、人の見ていない隠れた場所で、はっきりとした自覚を持って、自分自身の人生が、もはや自分のためにあるのではなく、神のために存在することを告白し、自分について、自分で把握できていることについても、把握していないことについても、すべてを神に委ねるのである。

その時、神があなたの人生に最終責任を負って下さり、どれほどあなたの人生に複雑に錯綜した幾多の問題があろうとも、神が必ずそれを最後まで解決へと導いて下さるという明確な平安が心に訪れる。その時から、あなたの心に秘密はなくなり、神との間に言い争いもなくなり、あなたはすべての問題について、神と同労しながら進んで行くことができるようになる。

そして、重荷が去った暁には、願うことを自由に口にできるようになる。

保護者の許可がないと多くのことができない子供には、願っても実現できない数多くのことがあるが、大人になれば、自分で行きたいところへ行って、したいことができる。大きな事業も始められる。
   
神はあなたがキリストにあって成人となり、自らの意志で神に従うことを選びつつ、神に栄光をもたらす多くのことができるようになるまで、ずっと後見人として付き添って下さる。御父が望んでおられるのは、信者が暗闇の勢力との戦いでへとへとになるまで、ただ防衛戦だけをいつまでも繰り広げることではなく、あらゆる圧迫を大胆に打ち破って、その先に、自由の中で、勝利の生活を打ち立てることにある。そして、その法則を、自分だけで楽しむのではなく、多くの人々に伝え、他の人々を自由へと導くことにある。
  
その時、あなたの祈りが、あなた個人だけでなく、あなたを取り巻く社会に対しても、影響を及ぼし、兄弟姉妹にも影響を及ぼし、祭司としての働きが始まるのである。それは決して、あなたが福音伝道をして何人がキリスト教に改宗したかといった問題とは関係ないことである。あなたが周囲に影響を及ぼしていることは、あなたには分かっても、他の人々にはほとんど分からず、そのことがあなたに栄光をもたらすこともない。

しかし、それでも、不思議なことに、あなたは周囲の人々に仕えながらも、彼らがあなたのために仕えているという逆説的な現象があることに気づくだろう。あなたの中におられるキリストが、あなたを通して、あなたを取り巻く社会に対しても、中心的影響力となっておられることに気づくだろう。そして、キリストこそ、全ての中心であり、万物を足の下に支配される方であることを知るようになるだろう。

私たちに与えられている時宜にかなった助けは、ただ自己保存という目的のためだけにあるものではなく、御国の法則を地に引き下ろすため、御国の拡大という霊的前進のために与えられているものである。

その前進に伴い、山上の垂訓が、信者の生活の中に確立し、生ける水の川が、信者の人生の中で、渇いた土地を肥沃にしていくということが起きなければならない。私たちは、御父に受け入れられたまことの大祭司なるキリストを通して、私たち自身も祭司となって、御前に進み出て、神の憐れみ深さ、愛の深さ、恵みの豊かさが、私たちの自己満足のためでなく、神の栄光のために、目に見える実際となって現れ、自由がもたらされるよう、絶え間なく、恵みの座に進み出て、飽くことなく懇願し、これを追求し続けなければならないのである。