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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(8)―こうして救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。

さて、今回は少し違った話題を以下で書こうとしているが、初めに断っておきたい。

村上密の記事には重大な問題がある。些細なことで他人の揚げ足取りはしても、いつも一番肝心なことについて説明がないことだ。これは人々の不信感を誘う。

村上密は2015年3月27日の記事「残りの人生」で、「40代の牧師」に主管者を譲って、自分は退任すると宣言した。これは、「長澤牧師を後継に据え、若い牧師に道を譲る」と言っているに等しい。

この記事で村上は「40代の牧師が主管者になれば、教会は20年以上は安定した教会運営ができると判断した。私は4月で60歳になる。」と書いていた。この記事が書かれたのは3月末であって、そこから4月までは1ヶ月もない。つまり、主管者を退任した時点で、村上は60になるまで約1ヶ月しかなかったということである。

ところが、村上はこうして自分から「40代の牧師」に道を譲るとして、主任牧師を引退しておきながら、後継であったはずの長澤牧師を、ほとんど一瞬とも言える短さで、主任牧師の座から退け、若くもない自分の妻を牧師に据えた。なぜこんな事件が起きたのかについて、村上は今日まで何一つ理由を対外的に説明できていない。

主任牧師をわずかな期間で交替させるなどのことは、会社で言えばトップの交替に等しいため、対外的にも深刻重大な影響を及ぼし、極めて慎重な判断が下されなくてはならず、それだけの十分な理由が必要だ。なのに、村上の教会では、この事件について、合理的な説明が一切なく、村上のブログでも、この出来事が全く説明されていないのは、非常に恐ろしい、読者に不信感を呼び起こす出来事である。

特に、村上の後を継いで主管者になって間もなく、長澤氏のもとには、村上の教会の牧師たちの連名で、「あなたには神様の召しはありません!」という内容の通達が届き、それが主たる理由となって、長澤氏は主任牧師を降格させられたのだという。

とはいえ、長澤氏にはいかなる落度もなく、依然、信徒からの信任も篤いことは、主管者を降格させられた後も、長澤氏が未だに同教会で何事もなく奉職を続けている事実を見ても分かる。従って、長澤氏が主任牧師を降格させられたのは、不祥事による主管者の交替ではない。

ある人たちは、村上は初めから長澤氏を後継にするつもりなどなく、これは短期間の目くらましの人事だったと言う。村上は、長澤氏を長年、手足のようにこき使い、あらゆる雑務を任せた挙句、不当かつ不明な理由で、約束していた主任牧師の地位から速やかに退けたのである。

今回、当ブログ執筆者が提起した訴訟の第一審の準備書面の受け取りも、長澤氏がかなりやっていた事実は、事件記録のサインを見れば明らかである。そこに村上密の署名はない。

繰り返すが、教会の主管者の交替という、これほど深刻かつ重大な問題に、村上のブログで一切、言及がないのは、極めて不審な事態である。長澤氏はほぼ100%に近い信徒の総意で主任牧師に選ばれたが、なぜその長澤氏を降格させて、村上恵子を主任牧師に据えねばならなかったのか、世間を納得させられるだけの理由は、何ら提示されていない。

しかも、村上自身が「40代の牧師」に道を譲ると宣言した後で、なぜ他でもなく村上の妻が主管者とならなくてはいけならなかったのか、なぜそれが信徒の総意に反さないと言えるのか、いかなる説明もないのは、非常におかしな現象である。

村上はこの問題を指摘されると、自分の引退劇に話を逸らし、退任した時点ではまだ60を迎えていなかったとか、牧師職を降りたわけではないなどといった話でごまかしながら、長澤氏を降格させた理由を何とかして隠そうとする。こういう村上の主張は、不透明な人事を隠すためのスピンとみなされておかしくない。

だが、どんなに隠そうとしても、極めて異常で合理的説明もつかないこの事件は、村上が退任時の年齢を訂正するくらいのことでは隠せない。むしろ、そんな些細な事柄をあげつらって、躍起になって反論し、話題を逸らさざるを得ないほど、後継者問題は、村上にとってネックだったのだと自ら告げているようなものだ。
 
そこで、おそらく、この状況では、村上の記事を鵜呑みにして信じる人はほとんどいまいと思う。自分の主張が人に信じられる根拠とは、そういう些細な問題ではないということが、村上には分かっていないようである。

もちろんのこと、鳴尾教会の裁判で、村上が当事者になったなどと、当ブログでは一度も書いていない。なぜなら、村上が常に「代理人」という名を使って、他者の裁判に介入して来たのは、この業界では言わずと知れた有名な話だからだ。

しかしながら、鳴尾の裁判を陰からバックアップしながら、これに勝てなかったことが、村上の信用に致命的な打撃をもたらしたことは確かだと見られる。宗教トラブル相談センターの働き等に専念することは、主管者を降りるほどの理由とはならないからだ。
 
だが、村上が本当に「40代の牧師」に道を譲るために、つまり、教会の若返りのために、自主的に主管者を降りたというなら、まだ理屈は通るであろう。しかし、妻に主管者を譲るために、60前に引退せねばならない理由はなかったはずだ。従って、村上が主管者を引退せねばならなかった本当の理由は、それではないとみなされるのは当然である。

要するに、それほど地元では村上の信頼が失われていたということである。ところが、その話が表に出て来なかったのは、村上が自らの教会においても、当ブログ執筆者に対して現在そうしているように、少しでも自分に対して批判的な言動を見つけると、早速、名誉毀損だとか、裁判だとかをちらつかせながら、信者を心理的に圧迫・恫喝して黙らせて来たためであると、もっぱらの評判である。

筆者は、前々から、沖縄では、村上を批判すれば、村上の思惑を忖度した信者たちから、たちまち集団リンチに遭わされ、村八分にされるという噂を聞かされて来たが、この度、筆者が村上に訴訟を提起したことにより、掲示板で起きた筆者に対する連日連夜の誹謗中傷を見れば、以上の噂が事実であることは、今更、証明する必要もないほど、万人の目に明々白々になっただろうと思う。

掲示板には、当ブログ執筆者の個人情報があることないこと数多く書き散らされ、歪曲された人間関係が記され、家族や知人など数多くの関係者までが、一緒になって誹謗中傷されているが、その情報の出所は、ほぼすべてが村上の運営する宗教トラブル相談センターである(一部、唐沢治からのものもある)。このセンターに家族を連れて行ったがゆえに、今や筆者の家族までバッシングされているのが現状である。

こうして信者の家族関係まで徹底的に利用して、不都合な信徒を弾圧する材料とするのが、村上の宗教トラブル相談センターなのである。村上自身が直接関わっておらずとも、村上の思いを忖度した信者が、不都合な人間を自主的に片付けてくれるのだから、楽な仕事である。

そして、今やその信徒から裁判を起こされているというのに、村上本人が未だ信徒の個人情報を無断で公開しては個人的に権利侵害を伴う反論に及んだりしている状況であるから、こんなにもコンプライアンスの意識の欠落した恐るべきセンターには、終わりが近いのは当然と言えよう。というより、むしろ、このセンターこそ、宗教トラブルの根源だとみなされて当然ではないだろうか。

読者はよく見ておかれたい。この牧師には、個人情報を話せば話すほど、それが後に訴訟の材料として利用されたり、掲示板で誹謗中傷の材料とされるのだ。そんな恐ろしいセンターに相談に行くことは、自殺行為同然であるから、絶対に誰にもお勧めできない。

さて、京都教会では、数多くの牧師が奉職しており、英語礼拝なども行なわれているにも関わらず、牧師たちの名前が、ホームページでは公表されていない。これもおかしなことだ。

さらに、村上密、村上の息子、村上の義理の父(津村昭二郎)、村上の妻(恵子)と、この教会では、教職者のほとんどが、村上ファミリーで占められ、彼らの謝儀が献金の圧倒的大半を占め、他の牧師は生活もできないような貧しい謝儀しか与えられていない。

村上一家が教会から出て行った際には、現金で家を買ったという噂も出回っており、沖縄出張への費用がどのように賄われているかも不明だという。そもそも沖縄で、村上が何をしているのかも、出張報告書も出て来ないので、誰にも分からない。神学生のための特別献金など、名目をもうけては、通常会計に上らない献金が集められるものの、その使途も、管理方法も不明だという。

京都七條基督教会が、人事においても会計においても、世間の常識から並外れて不透明な教会となっていることは明らかである。、

最後に、村上は粘着気質により、自分がターゲットとした人間を延々と批判し続けるが、筆者はそのような動機から発言していない。筆者は自己の人権を守るために発言しているのではなく、聖書の御言葉に立って、神の教会の権益を守るために発言している。

すべての人間を自分の低いものさしに従ってしかはかれない村上は、心底、情けない男としか言いようがない。村上の記事には、神への愛もなければ、教会や、信者への愛もない。何よりも、聖書の御言葉による裏づけが完全に欠けている。神への愛、そして、聖書の御言葉への愛、信者への愛がないこと――これは牧師として、他のどんなことにも比べられない、たとえようのない三大悪のような恥である。


* * *

さらに、唐沢治についても、ひと言、追加しておきたい。一つ前の記事に掲載した唐沢の陳述書は、唐沢が弁護士を介して出して来たものである。

信徒を刑事告訴し、自分が訴えられると、弁護士を通じて回答する。このような牧師が、唐沢治なのである。三大悪ということでは、この牧師も同格である。
 
とはいえ、弁護士の作った文書も、唐沢の文書とほとんど内容が同じであったので、あえて掲載する必要もないと考え、割愛した。

筆者は常日頃から、弁護士とは詭弁を弄するために存在している職業だと考えている。従って、裁判では、弁護士をつけたから、勝算が上がるということもなく、特に、牧師が信徒に向き合うに当たり、弁護士を介さねばならないとは、実にみっともないことでしかない。その上、あれほど辻褄の合わない支離滅裂な回答では、不誠実な人間性は覆い隠すこともできず、弁護士をつけたことで、かえってますます評判が低下するだけだろうと思わざるを得ない。

筆者が第一審で分かったことは、やはり訴訟においては、首尾一貫した矛盾のない誠実な主張を通すことが、信頼を得る何よりの根拠だということである。法的根拠に基づき、白黒つけられない問題については特に、整合性の取れる主張を丹念に積み重ねて行くことが必要である。

村上は杉本と同様に、あたかも筆者の書面がいたずらに長いかのように嘲っているが、筆者は一度の反駁で、杉本と村上の2名の被告を相手にしたのであり、杉本の準備書面も、相当な分量に及び、非常に虚偽に満ちた内容であったため、これに反論するためには、どんなに少なくとも3倍近くの文書量が必要となった。

前々から述べている通り、誹謗中傷するのは1行で済むが、それに反論するためには、3~5倍程度の文章が必要となる。ただ反論するだけでなく、証拠の積み重ねが必要だからである。また、小さな文言の修正であっても、訂正を怠らないことも、誠実さの証しである。

さて、当ブログであえて村上密や唐沢治の書面を公開しつつ、これらの牧師たちの不誠実さについて言及しているのは、牧師という職業について、読者の幻想が徹底的に打ち砕かれることを、筆者が心から望んでいるからだ。

当ブログでは、2008年に始まった頃から、牧師という職業は、それ自体が、聖書に反しており、必要ないどころか、有害な偶像崇拝であるという見解を提示して来た。従って、以上に挙げたような出来事は、すべてその結論を裏づけるものでしかないと言えよう。

唐沢治は、かつて自分でも、エクレシアに固定的な指導者は必要ない、自分はKFCの指導者であり続けたくないので、一刻も早く牧師職を降りたい、などと述べていた。だが、それはポーズに過ぎず、唐沢のもう一つの側面は、決してこの集会を手放したくない、リーダーの座を折りたくないというものであった。

村上密が主管者を退任すると宣言した後も、自分はあくまで現役牧師であると言い張り、教会に対する影響力を手放せないでいることや、唐沢治がKFCから降りたいと言いながらも、この集会の牧師職にすがりついた姿の中に、我々は、自分から引退を口にして役目を終えたはずの人間が、いつまでも必要のない地位にすがりつくと、こうまで人間性が腐敗して行くという生きた実例を見て取れよう。

さて、掲示板のコメントを読めば分かるが、村上密・唐沢治をとりまく信者たちは、「自分は見捨てられた」という自己憐憫と被害者意識で一致団結している。そして、見も知らない当ブログ執筆者から、何の正当な根拠もなく、自分たちは見捨てられたのだという被害者の立場に身を置き、筆者に報復するために、集団で攻撃している。

だが、この被害者意識こそ、こういう悪しき指導者たちの吸引力の源であり、麻薬のように人格を腐敗させて行く根源なのである。杉本徳久もそうであったが、村上密に深く関わった人々は、皆、筆者の目から見ると、同じような被害者意識を抱え、それゆえ物事を正常に見られなくなって行く。
 
杉本徳久がかつて1件のコメントの削除を筆者から依頼されただけで、その依頼によって自分を完全に否定されたかのように思い込み、10年間もかけて、筆者を恨み続けたように、この人々は、少しでも他者から自分を批判されるような言動があると、早速、自分を否定した人間を(見ず知らずの人間であっても)許せない思いとなり、生涯に渡るほどの執念を持って反撃し続けるのである。(しかも、自分が批判されたのではなく、指導者が批判されたことに対して報復しているところが、より異常だと言えよう。)
 
この異常とも言える被害者意識は、人を完全に霊的盲目にしてしまう。これに感染した人は、どれほど自分が残酷な行動を取っていても、我が身可愛さのゆえに、全くその残酷さが自覚できなくなり、いつか限度を超えた報復行為に出て、それが犯罪行為として裁かれる結果に至る・・・。

被害者意識が、人の健全な意識を失わせ、まるで傷が人間全体を飲み込むように、人格を腐敗させて行く様子を、掲示板の人々に見て取れよう。

そこで言えることは、このような悪影響を信者たちに及ぼす指導者からは、すぐに離れなさい、ということだ。村上密の被害者意識によるマインドコントロールから離れなさい。自分は見捨てられた人間だとか、傷つけられて、打ち捨てられた哀れでみっともない人間だという意識から離れなさい。

真に神を信じて生きているならば、他者の言動に振り回されることがなく、他者との間で紛争が起きても、これを合法的かつ正当な手段で早期に解決できるはずだ。見も知らない他人を恨み続け、延々と匿名で掲示板に恨み言を書き連ねるような不毛な行為に至り着くはずがない。

ラスコーリニコフにもソーニャがいたわけだから、たとえ犯罪者になったしても、それで人生が終わるわけではない。真摯な悔い改めと誠実な心があれば、自分のソーニャを見つけ、いつからでも人生のやり直しは可能なのである。
 
ところが、この人々が、いつまでも自分を見捨てられた人間の立場に置いて、自己憐憫、自己卑下に明け暮れているのは、その心の根底に、「自分は神に見捨てられた」という被害者意識があるためである。このことを、当ブログでは、幾度となく説明して来た。それがグノーシス主義なのである。

実はこれこそが、最も厄介かつ深刻な問題であり、個人的な恨みや復讐心のレベルを超えて、人の永遠の命の問題を左右する問題である。だが、この問題については、長くなるので、別途、記事を改めることにしよう。

いずれにしても、被害者意識や自己憐憫から離れ、紛争が起きたなら、これを合法的で正当な手段を用いて早急に解決することをお勧めする。市民としての正当な権利がいくつも与えられているのに、掲示板になど深く関わっていれば、いずれあなたの人生が取り返しのつかないことになるだけである。
 
 
* * *

さて、前置きは終わったので、ようやく、今回の記事のテーマに入ろう。まず述べておかねばならないことがある。それは、キリスト者は御言葉に立つために、徹底的に霊的戦いを戦い抜かねばならない場合があるということだ。

筆者がなぜ戦いを続行しており、それによって何を掴もうとしているのかも、これによって説明できる。地上で己の利益を保って平穏無事に暮らすことだけを第一優先している肉的な信者は、「和」を尊び、争い事を敬遠することこそ、この世の知恵であると思い込むあまり、このような戦いの重要性を全く理解できなかった。

だが、筆者は繰り返し、この戦いは、筆者の人権を守るためではなく、神の国の前進のために必要不可欠なものだと述べている。筆者は、個人的な思惑に基づいて、訴訟を提起したりしているわけではない。

ここには、私たち信者が、迫害を受けた際、簡単に主の御名を捨ててしまうのか、それとも、どんな迫害に遭っても、信仰の証しを大胆に守り抜くことができるのかという、私たちの永遠の命に関わる問題がかかっている。

また、教会が、一人や二人の狼藉者のために、恐怖によって脅しつけられ、口を封じられ、証の言葉を大胆に述べられなくなるような、あるまじき理不尽な状況を容認するのかどうか、という問題もかかっている。

もし以上のような状況を容認するならば、教会は、死を打ち破られたキリストのよみがえりの命によって、自由にされた人々の集まりどころか、死の恐怖によって脅しつけられた捕われ人の集団となるであろう。

そして、そのような待遇に自ら同意した人々は、この先、一歩たりとも前進して行くことができず、ついに最後は、すべての自由と権利を失い、信仰の片鱗も見られなくなり、クリスチャンというより、ゲヘナの子と呼んだ方が良い有様にまで転落し、キリストの福音を全く知らなかった方がまだましな状態となって人生を終えるのではないだろうか。

一つの権利侵害に甘んじることは、百の権利侵害に甘んじることと同じである。不当な脅しに沈黙して、立ち向かわないことは、自分のすべての権利を自主的に放棄して、生きることを放棄しているも同然である。

そこで、聖書の御言葉の真実性を信じない人々による恫喝、嘲笑、侮辱の言葉を放置・容認するならば、それは彼らの信念に、あなたが自ら同意しているのとほとんど変わらない効果をあなたにもたらす。

神は、神の御名が汚されている時に、沈黙しているあなたを喜ばれるだろうか。むしろ、あなたの態度を恥じて、あなたの名が汚される時にも、あなたを守って下さらないだろう。

神を知らない人々にも、憤って立ち上がらなければならない瞬間があるように、クリスチャンには、断じて黙っていてはならない瞬間がある。

我々が侮辱されたから立ち上がるのではないのだ。聖書の御言葉が曲げられ、主の御名が冒涜され、神の教会が蹂躙され、我々の嗣業が脅かされているがゆえに、立ち上がって、これを取り戻さねばならないのである。

それができなければ、教会は、自分に与えられた尊い永遠の嗣業を失ってしまうだろう。約束の地にたどり着けず、荒野で倒れた民のように、神が約束された偉大な自由と解放に全く至りつけないまま、中途半端な妥協で人生を終えてどうして良いだろうか。

いみじくも、オリーブ園に掲載されているオースチン・スパークスの最新の論説が、この霊的戦いのテーマについて、はっきりと告げているので、まずはこれを掲載しておきたい。


 「キリストとの合一」第四章 創造的・種族的合一(10)
 
 さて、他の文脈でそうするのと同じように、私は次のことをあなたたちに思い起させて終えることにします。すなわち、嗣業はキリストと教会に対する戦いの鍵です。そして、相続人たる身分には二つの面があります。法的面と霊的面です。

新しく生まれた時、私たちは法的に相続人となりました。新創造の中にあるなら、私たちは法的に出生による相続人です。しかし、相続人としての法的身分と霊的に相続する行為とは非常に異なります。

後で見ることになりますが、聖書は他の文脈と同じようにこの文脈においても明確な区別をしています。ガラテヤ人への手紙はまさにこの思想を巡って構築されています。「相続人は子供である間(中略)父によって定められたその時が来るまで、保護者や家令の下にいます」(ガラ四・一、二)。この手紙はさらに続けます――子供であるなら息子でもあります。私たちはみな息子たちです。それは信仰によって、つまり法的にです。たとえ子たる身分すなわち嗣業の意義・価値を実際かつ霊的に所有していなくてもそうです。私たちは出生により法的相続人です。しかし、霊的成長によって私たちは嗣業の霊的所持者になります。


 これについてはっきりしているでしょうか?もし教えに関してはっきりしていないなら、実行と経験に関してはっきりしているかどうか自問して下さい。どれだけ多くのクリスチャンがこの嗣業を享受し、自分たちの嗣業を所有し、嗣業の保有に向けて前進しているでしょうか?多くのクリスチャンはそうしていませんが、それでも彼らは神の子供であり、法的相続人です。法的相続人から霊的相続人になるまでの間に、何かが起きてあなたはこの嗣業を失うかもしれません。

新約聖書は常に私たちに告げます。私たちは偉大な嗣業を持っているので、それを失ってはならないことを。私たちは偉大な数々の権利を持っているので、それらを放棄してはならないことを。私たちは永遠の過去からある事柄にあずかるよう召されています――しかし、しかと「あなたの召しとあなたの選びを確かなものにしなさい」。私たちの法的身分と私たちの霊的状態とは異なります。


 この新創造でも同じです。私たちは霊的学びをしなければなりません。一つの領域から他の領域に漸進的に渡らなければなりません。戦わなければなりませんし、争いの中に入らなければなりません。自分の救いのためではなく、キリストの中にある私たちの嗣業のためです。私たちは試され、試みられなければなりません。それは自分が良いクリスチャンであることを証明するためではなく、霊的優位性の何たるかを学ぶためです。こうして霊的優位性の中でこの嗣業の中に入ります。

無代価の賜物として受けることと、次にそれを受け継ぐべきこととに関する、これらの矛盾のように思われる事柄にあなたは心当たりがあるでしょう。すでに見たように、一方は法的地位であり、他方は霊的地位です。私たちは新創造の中にあります。その圧倒的大部分は彼方にあります。しかし、私たちは進み続けています。確かに、私たちが集会に集まる時は常に、その理由は主と共に前進したいからです。一つの領域から他の領域に移りたいからです。私たちの心は、主が御自身との合一に中に私たちをもたらされたその意義全体の上に据えられています。彼の恵みにより、私たちは切り抜けて前進します。



* * *

さて、このオースチンスパークスの論説を理解するためのキーワードは、「霊的優位性」である。以上の話を理解するために、もう一度、以下のガラテヤ書の御言葉に戻ろう。

「わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。

アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。

これには、別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。

他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。なぜなら、次のように書いてあるからです。


「喜べ、子を産まない不妊の女よ、
 喜びの声をあげて叫べ、
 産みの苦しみを知らない女よ。
 一人取り残された女が夫ある女よりも、
 多くの子を産むから。」

ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。けれども、あなとき、肉によって生まれた者が、”霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じことが行われています。

しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。


この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。
」(ガラテヤ4:21-31,5:1)


私たちは、キリストの贖いを信じて受け入れているならば、約束の相続人である。これは来るべき国の無尽蔵の相続財産が、私たちに約束されていることを意味する。

だが、この相続人としての権利は、判決文のように、実行されなければ、効力の伴わない宣言で終わる。

法的権利を持っていても、これを実際に行使しなければ、自らに約束された権利を掴むことはできない。そこに戦いが起き、困難が伴う。あなたはその困難をすべて打破して、約束の権利にたどり着き、これを実際とせねばならない。

アブラハムに約束された子イサクは、信仰によって生まれたが、成長するまでは、肉によって生まれたイシマエルと同じ家に暮らしていた。

同じように、今日の神の教会にも、御霊によって生まれた神の子供たちと、新生を経ていない、肉によって生まれ、うわべだけクリスチャンに偽装しているだけの、偽りの霊に導かれる者たちが混在している。

この異質な両者は、まるで同等の権利を持つ者であるかのように、教会を我が物として活動している。

だが、これらの異質な者同士の間には、必ず、戦いが起きる。まず最初に肉によって生まれた者たちが、霊によって生まれた者たちを、神の教会から追い出そうとする。これが戦いの最初のステップである。

今日の時代には、肉によって生まれた者たちが、カルト化を監視するという名目を用いて、全教会の支配者となろうとする恐るべき理念を振りかざし、裁判を利用して教会に戦いをしかけ、気に入らない者を中傷し、諸教会を自らの支配下に置こうとしている(反カルト運動)。

反カルト運動は、表向きには、人々をカルトから解放するという正義と自由の旗を掲げているものの、実際には、恐怖による恫喝を手段としており、その真の目的は、教会を解放するどころか、むしろ、抑圧して支配することにある。

今やプロテスタントの多くの教会が、このほえたけるししのような連中の罠を見抜けず、恐怖に脅しつけられ、抵抗できなくさせられた。

だが、心配することがないのは、 私たちは、二度とそのような奴隷のくびきにつながれないためにこそ、救いにあずかっているわけであり、命の栄冠を誰にも奪われないために、不当な脅しに毅然と立ち向かってこれを撃退するならば、むしろ、肉によって生まれた者たちを教会から追放することが可能なのだ。

イサク(御霊によって生まれた子)が、イシマエル(肉によって生まれた子)をアブラハムの家から追い出せるようになるまでには、成長が必要である。イシマエルは、イサクよりも早く生まれた分だけ、イサクよりも先に力と知恵をつけているため、初めは強敵に見える。

だが、イサクもやがて成長して、イシマエルに自力で立ち向かうことができるようになる。そして、イサクが反撃に転じたことにより、肉によって生まれた者と、霊によって生まれた者との間に、激しい相克が起きる。これが第二のステップである。

第二のステップは、異質な者同士の間で起きる壮絶な争いである。むろん、サラとハガルとの間にも、争いが起きている。一体、どちらの陣営が勝利するのか、この時点では、はた目には分からない。肉は早熟であり、一時的な勢いがあるため、肉によって生まれた者の方に優位があるように見えるかも知れない。

だが、キーワードは「霊的優位性」である。

キリスト者は戦いに臨むとき、自らの勝利を十字架から引き出して来る。コロサイの信徒への手紙には、「キリストはすべての支配や権威の頭です。」(コロサイ2:10)と記されている。

これが、キリスト者の圧倒的な霊的優位性の根拠なのである。あなたが女性であろうと、この世で見下された無力な存在であろうと、世間からどんな風に見られていようとも、関係がない。もしもあなたがキリストによって新しく生まれた者であるならば、あなたは彼の御名のゆえに、彼と共に、すべての支配と権威を足の下にする権威を帯びているのである。

だから、私たちは敵に立ち向かうとき、この霊的優位性をフルに活かして、戦いを有利に進めなければならない。この霊的優位性の内実は十字架にこそある。

神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によって私たちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」(コロサイ2:13-15)

二つ前の記事に、債権差押命令を提示したが、これはまさに債務を抱える者に対する強制的な取り立てを許可する令状である。

キリストによって贖われておらず、自由とされていない民には、罪という名の無限大の債務がある。それゆえ、悪魔は彼らに対して強制的に取り立てを行う権利を有し、日々、彼らを恫喝し、彼らの権利を剥ぎ取っている。

他方、贖われた者たちには、そのような債務は存在しない。従って、私たちには、誰からも恫喝されたり、取り立てられたりする根拠は何もないのである。

だが、肉によって生まれ、贖われていない者たちは、悪魔のみならず、神の子供たちに対しても、債務を抱える存在であると言えよう。特に、神の教会を迫害して来た者どもの罪は重く、神の子供たちは、彼らの罪を債務に変えて、実際に取り立てが可能なのである。

「罪人の富は神に従う人のために蓄えられる。」(箴言22:13)というのは、そういう意味である。

そこで、私たちが暗闇の勢力に対して戦いを挑むとき、私たちはこの霊的優位性を活用する。贖われていない者は、罪という債務に縛られており、それゆえ、もろもろもの支配と権威による取り立てに服するしかない存在であるが、贖われた私たちは、罪という債務に縛られていないので、もろもろの支配と権威を従わせ、贖われていない者を支配下に置くことができる。

だが、筆者は、この戦いが簡単だと言うつもりはない。目的を達成するためには、想像を超えるほどの根気強さを持って、壁を打破して行かねばならない。

だが、それでも、私たちは、この戦いを貫徹するならば、自分たちが、本当にこの世のあらゆる支配と権威を超越したところに立たされていること、敵こそ、私たちの足の下に踏みつけられ、罪の負債を負って、我々の取り立てに服する義務を負った存在であり、我々の命令に服するしかなく、彼らはすでに十字架において霊的死の宣告を受け、裁かれており、恥をこうむって終わることを運命づけられていることが分かるだろう。

私たちの名のゆえでなく、キリストの御名のゆえに、この世のもろもろの支配と権威は、私たちに完全に服従しなければならない。そうなる時まで、私たちはこの戦いの中で、十字架を貫き通し、キリストの御名に込められている霊的優位性が、目に見える実際となって、この地にもたらされるまで、この戦いを容赦なく貫徹する。

わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(コリントニ10:4-6)

主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。ですから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」(エフェソ6:10-13)

筆者はおそらく、自分のしているこの戦いが、神に栄光を帰するための信仰による戦いであることを証するためにも、キリストの御名以外の名を高く掲げることはないだろうと思う。

この戦いに勝利するために、私たちは死力を尽くさなければならないが、御名のゆえに与えられた霊的優位性、すなわち、神に由来する力は、敵の要塞をも打ち破るに足るものであり、敵の振りまくあらゆる嘘、詭弁、ごまかし、すりかえ、脅しを粉砕し、神の御言葉に逆らうすべての高慢を打ち砕いて、すべての人々の思いをとりこにしてキリストに服従させることができるものであるから、私たちは、すべてのものを足の下にしているキリストの絶大な御名の権威のゆえに、地上のすべてのものを足の下にする。

教会は、キリストを頭とする体であり、キリストが満ちておられる場であるから、主と共に御座に引き上げられ、地上のすべてを足の下に従えている。

そして、私たちは、すべてのものがひざをかがめて、「イエスは主である」と告白することが実現するためにこそ、この世から召し出され、この地に置かれているのである。

神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、精力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エフェソ1:20-23)

こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。」(エフェソ1:10-11)

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

このため、
神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピ2:6-11)

こうして、イサクは信仰によって成長し、強くなって、困難を忍びつつ、よく戦い抜いて、実際にすべてのものをキリストと共に足の下にする秘訣を学ぶようになる。

その時、イサクはイシマエルを打ち破り、肉によって生まれた子に対する霊的優位性を見事に証明することができるようになる。そして、第三のステップである平和が訪れる。

反カルト運動は必ず打ち破られて、恥をこうむり、神の家から追い出される日が来るであろう。

今や不従順な肉の子であるイシマエルは神の家から追い出され、イサクこそ、神の家の唯一の約束の相続人である。

イサクのためには、アブラハムが築き上げた無尽蔵の相続財産が約束されている。これがイサクの嗣業である。私たちは、キリストの命の中に隠されている無限とも言える自由と豊かさに、実際に至り着く必要がある。これが私たちの目指している新しい領域である。ただ贖われただけで終わるのではなく、激しい戦いを戦い抜いて、霊的に勝利をおさめ、敵を征服し、圧倒的な自由と豊かさの中に、実際に入らなければならないのである。
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御国が来ますように―天地の架け橋としてのキリストにある「新しい人」(7)

オリーブ園のオースチンスパークスの記事「「私たちのすべてなるキリスト」 第九章 子たる身分の意味と価値(3)」が秀逸なので、この一連の論説を続けて読むことをお勧めする。

そこには、御子が地上にあって、どのように御父から命の供給を受け、権威と尊厳を持って生きられたか、その具体的な方法が記されている。それは、今日、私たちが地上にあって御子と同じように使用できる法則である。

私たちは御霊にあって、その命からすべてを引き出す方法を知る必要がある。これは魔法ではなく、子たる身分に基づいて、神から私たちに与えられた恵みである。

私たちは、キリストの復活の命の中から、日々の糧、人々と関わる際の知恵、この世を圧倒的に超える権威、目に見えない高い霊的な地位を供給されるのである。

キリスト者として歩むに連れて、私たちはいかなる人間関係の中においても、自分が支配的・優越的地位に立たなければならないことが分かって来るだろう。それがなければ、私たちに与えられた自由は発揮されることがないし、私たちの霊的権威が地上に及ぼされることもない。

とはいえ、私たちはこの地上において、王でもなく、支配者でも、権威者でもない。むしろ、何の肩書も持たない寄る辺のない民のように見えることであろう。

しかし、その弱く貧しい民が、キリストにあって、彼と共に、地上のすべてのものを足の下にする圧倒的な力と権威を授けられているのである。それはこの世の経済、物流、そして人間関係にももちろん適用される。

私たちが地上のものに心惹かれ、それに心を奪われてしまうと、それが人間であっても、物質であっても、その目に見えるものが私たちの心を支配することになる。しかし、正常な秩序は、それとは逆に、私たちがすべての地上のものを霊的に支配することにある。

私たちが心に抱いている永遠の望み――私たちの信じているただお一人の神、その御名が、すべての目に見えるものにまさる権威として掲げられれ、万物が、私たちの存在を通して、キリストに服従することが、神が望んでおられる正しい秩序なのである。

従って、それゆえに、内にキリストを持ち運んでいる私たちは、地上のどんなものに屈服してもならず、地上の支配よりも下に置かれてはならず、この世の経済や、人の思惑や、この地上に立てられた権威にまさる、これらを霊的に支配することのできる目に見えない霊的権威を与えられているのであって、その霊的権威を行使することによって、初めてこの地上に、御国の秩序を引き下ろすことができる。

私たちは、御子が地上におられた時にそうであられたと同様、この世のすべての物理法則、事物、人々を超越して、霊的に支配する立場に立つことができるのであり、また、そうしなければならない。

それは本当に、御子がそうであられたのと同じ、この世に渦巻く諸々の支配や思惑に巻き込まれて翻弄されることのない、この世の触れることのできない、貴い、崇高な天的な地位である。天の御座から、地上のすべてのものを統べ治める立場である。

その高い地位は、様々な試練の中で、信仰を貫き通す時に、初めてはっきりと姿を現して来る。いわば、エジプトに売られた日の幼いヨセフが、生長して、ファラオに次ぐエジプトの宰相となり、知恵と権威を持ってエジプトを治める者となって、現れて来るような具合である。

キリスト者が人生で遭遇するすべての出来事は、こうして本人の霊的成長に合わせて、スケールが拡大して行く。戦いのスケールも、霊的成長に合わせて拡大して行く。

その中で、私たちはこの世を超える圧倒的な権威を行使する術を学ぶようになるが、しかし、それは、霊的成長に伴う、霊的権威の増し加わりであって、必ずしも、私たちがこの世で、人々がその名を聞いてすぐにひざまずくような、何か圧倒的に偉大な権威を手にすることを意味しない。

私たちの権威は、地上の肩書、地位ではなく、御名に由来するものである。

こうして、御名の権威が私たちを通して地上に現れ出るために、この世の経済、物流、人の心、物事の有様、といったすべてのものを、私たちは、キリストにあって、私たちの意志の下に従属させ、屈服させていく方法を学ぶ必要がある。

それは激しい支配権の争奪戦の中で、十字架を貫き通すことで初めて可能となるが、このように、あらゆる試練の中で、信仰による確信を捨てずに進んで行くならば、不思議と、物事も、人々も、諸条件も、いずれ私たちの意志の下に服するようになるのである。

私たちの意志の下に、と言っても、私たちが御言葉に服従し、キリストにあって生きている以上、それは私たちの存在を通して、地上の事物が、御名の権威に服することを意味する。

こうして、キリスト者は、地上の諸原則をすべて足の下に従える方法を学ばなければならない。それができるようになって初めて、キリストにある新しい人――地上の堕落に巻き込まれ、触れられることのない、真に高貴な人としての霊的地位が現れ出て来ると言えよう。

異教のシャーマンや、修行僧も、物理法則を従える方法を熱心に研究している。しかし、私たちは、そういう修行を通して自己改造するのではなく、私たちの内側に与えられている新しい命の法則に従って自然に生きることにより、この世を超越する新しい法則の中を生きる方法を身につけるのである。

ただし、私たちは肉体的な修行の中を通りはしないが、日々の十字架は負う必要がある。この痛みに満ちた教訓なくして、決して私たちがヨセフのような崇高な地位に立つことはできない。

キリスト者は、神にあって自分に与えられたこの新しい命の力を開発し、知らなければならない。キリストの復活の命の中に、神がどれほど人を愛され、恵まれ、人に崇高で重い使命を託されたか、なぜ、どのような目的で、神は人を創造されたのか、その答えが凝縮されて込められている。

アダムが創造された時、神はアダムに地を治めるように求められたが、その使命は、今日、キリストを通して、キリストにあって生きる私たちに託されている。私たちはこの新たな法則――御国の到来を、人々に告げ知らせる者であり、その新しい法則を実際にこの地上にもたらし、霊的収穫をもたらさなければならない。そうして行くときに、その支配権が、不思議な形で、この世の事物だでなく、多くの人々の心にも及んでいる様子を見ることができるだろう。


御国が来ますように―天地の架け橋としてのキリストにある「新しい人」(2)

「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかりと保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。
(ヘブライ4:14-16)

前回、オースチンスパークスの論説が、御霊によって、御国の法則を示したものだと書いたが、そのことをもう一度、強調しておきたい。オリーブ園の記事「私たちのすべてなるキリスト 第四章 開かれた天(1)」を参考に挙げておく。
 
今回は、これを踏まえつつ、時宜にかなった助けを受けることの必要性について語りたい。

私たちと神との関係は、御子が地上におられたときの、御霊にあっての御父との関係と同じだという言葉はまさにその通りである。

御霊を通して、私たちは神に向かって「父よ」と呼びかけ、その御前に子として進み出ることが許されているのであり、あらゆる必要を希う権利が与えられているのである。そして、主イエスは地上におられた間、絶えず隠れたところで御父に祈りを捧げられ、御父からまことのいのちの供給を受けられた。

私たちはこの権利を地上において行使する必要がある。この天につづくはしごを活用して、絶えず天を地に引き下ろさなければならないのである。

ただ、その作業のためには、積極的に願うこと、平安の中で願ったことが必ず実現に至ることを信じること、大胆に目的へ向かって進んで行くことが必要となる。

特に重要なのは、平安を失わないことである。平安が基礎とならないと、神に願いを申しあげても、それが実現すると信じることさえできない。そして、信仰に基づいて確かな足取りで歩んで行くことができないのである。
 
筆者は、かつてすべての教団教派を離れ、約1年ほどかけて、幼い頃から受けたキリスト教の教育で学んだ経験や知識もすべて脇において、まことの神ご自身は一体、どういう方なのか、聖書の御言葉が意味するものは何なのか、個人的に熱心に尋ね求め、そして神ご自身がそれに応えて下さり、直接、神を知った時から、筆者が神の子供として受け入れられている事実、神が今日も生きて働いて下さる事実を疑ったことはないし、信仰をなくしたことは一度もない。
 
その時から、人間の生きる目的のすべては、神を知ることにあり、自分自身の利益のためでなく、神のために生きるという一事のためにあることを確信して来た。

それは明らかに筆者自身の力によって得られた信仰ではなく、御霊を通して与えられた信仰であったと言える。なぜなら、筆者は教会生活を送っていた頃に、そのような確信を得たことが一度たりともなかったからである。

しかし、それでもその後の信仰生活には波乱がなかったわけではない。そして、最も大変な時に、一度だけ、果たして自分が本当に子として神の御前に恵みを求めて進み出ることが許されているのか、何かひどい疑いのようなものがついて回ったことがあった。

筆者は、これは暗闇の勢力からの攻撃ではないだろうかと感じ、それにどう抵抗すれば良いのか考えあぐねた。その頃、想像を絶することが次々周囲で起き、それはどれを見ても、まさにすべて暗闇の勢力からの攻撃としか言えない現象ばかりであった。

しかし、そうした疑惑は、それでも自分の心を頼りとせず、御言葉への信仰により頼みつつ、一定期間を過ごした後に、まるで暗いトンネルから抜け出て光のもとに出るように、あるいは霧が晴れるように取り去られ、気づくと以前と同じような大胆な確信の中に入れられていた。不明な圧迫に対しては、御言葉に基づき、とことんまで抵抗することで、暗闇の勢力との戦いが打ち破られて、重荷が取り去られたのであろう。
   
クリスチャン生活の中には、あまりにも戦いが激しく、防衛戦で手一杯となり、積極的に新たな霊的領土を征服するための攻撃戦に出て行くことができなくなり、何かを願うことさえ不可能に近い心理状況に追い込まれることがありうることは、幾度か書いて来た。

それはちょうどイエスがゲッセマネの園で、血の汗を流して祈られたという場面にも重なるかも知れない。むろん、私たちの誰一人、そのようなまでの苦境を通らされたことはないが、その時、主イエスの願いは、ただ十字架という杯を避けられるかどうか、という一事に絞られ、それまでのように、御父との優しい絶え間のない交流を得て、慰め、励まし、助けを得、すべての必要を父に満たしていただくために祈られたわけではなかったのである。

そういう、心の最後の平安までも失われたかに見える激しい心の戦いが、クリスチャン生活にないとは言わない。時には、神の御旨と自分の意志との間にずれが生じ、言い争いのようなことが起きることがないわけではない。
 
しかし、ほとんどの場合、私たちの祈りは、御父に向かって、自分の心の中にあることを穏やかに告げて、神の御心を示して下さいと率直に求め、神の御旨を信頼して自分を委ね、必要な助けを求めることである。

大きな試練の中にあって、何かしら神の取扱に納得できない事柄があったとしても、私たちの祈りは、最終的には、自分のすべてを神の御手に委ねて、御心の通りになさって下さいと申し上げる形で終わる。

そして、私たちが御旨に従うからこそ、必要な助けが与えられるのである。

平安は、その明け渡しの作業が完了した時にやって来る。大胆に恵みの座に進み出て、時宜にかなった助けを受けるとは、あれやこれやの自分の必要性を神に訴え、助けて下さいと願うことも含んでいないわけではないが、何よりも、この心の平安――私たちが確かに父なる神によって子として受け入れられ、贖われ、愛され、キリストの中にあって、聖霊によって、助けを得ているという確信――もっと言えば――すべての戦いは十字架においてキリストの勝利により決着がついており、その勝利は私たちのものであるという確信――を得ることである。言い換えれば、その十字架を通して、御父、子、聖霊の交わりの中に、私たちが確かに入れられているという確信を得ることである。

その確信が基礎となって、初めてすべての必要を神に願うことが可能になる。まず、子としての立場がなければ、何一つ御父に願う資格すらもないためである。

そして、子としての平安に満ちた確信は、私たちが神にあって、自分の全てをこの方に委ね、神の御心に従って生きることに同意することによって得られるのである。

地上のサラリーマンの給与は、企業などの団体に所属して、その団体の利益に奉仕することによってしか得られないであろう。しかし、天の御国の収穫のために、天に奉仕する働き人は、神の御旨に奉仕することによって、必要のすべてを満たすことのできる目に見えないサラリーをもらっている。もちろん、働きとは関係なく、子として養われている分もあるが、その上に、働きに応じた報酬も存在するのである。

私たちの本当の雇用主は、こういうわけで、天の父なる神なのである。
 
このことは幾度も書いて来たが、私たち信者が、真に天の御国の権益に関わる事柄に奉仕する時、それに必要なものは何もかも上から添えて与えられる。そこで、どうやって生きるかということだけを最優先課題として、地上の生活を第一に心配し、そのせいで御国への奉仕を後回しにする必要がなくなるのである。神が承認されたプロジェクトには、神がそれを完遂するために必要なすべての手段を与えて下さる。
 
そこで、神は何をするにしても、まずは私たちの動機を問われる。

「あなたのしようとしていることは、あなた自身のためなのでしょうか。それともわたし(神)の栄光のためなのですか。」との動機が問われるのである。

神は、聖霊の見えない証印が押され、確かに神の栄光のためになされたことでなければ、後押しされないし、責任も負われない。人間が自己の判断で自分の利益のために行ったことについては、神は決してこれを守ったり、ご自分から出たことであるかのように擁護し、責任を負って下さることはないのである。

だが、私たちは多くのことを自分の必要を満たすために行っている。いちいち御心を問うこともしていない。そして、そのすべてが、御国の収穫のために行ったとどうして言えるだろう?

ところが、そう言える根拠が存在するのである。パウロは、食べることや飲むことまでもすべてキリストのために行うと述べている。同様に、私たちは日常で行っているすべてのこと――それがたとえ直接的には神の栄光に関わりがないように見えても――をすべて神の栄光のために行うことができるのである。それは私たちの全き献身、自分のすべてを神に委ね切ることから始まる。

神への明け渡しは、繰り返すが、「私はあなた(神)の栄光のために生きます」と宣言し、自分のすべてを神に委ねることである。

たとえばある企業が、より大きな企業に吸収合併されれば、その名も、資産も、すべてが合併された会社に属するよう変更される。資産だけでなく、赤字も、合併した企業のものになる。

私たちが絶えず神への献身を行って行くとき、同じようなことが起きる。私たちの諸々の行動の中には、果たしてその出所が定かでないことも含まれているかも知れない。知識が足りないがゆえに及ばなかった行動があったり、私たちが何が神の御心であるかを自覚できていないまま、それが神の御心にかなうと一方的に考え、あるいは誤解していたような事柄さえも、含まれているかもしれない。後になってみれば、何と考えが足りなかったのだろうと思われることが多くあるかも知れない。
 
それはいわば赤字である。

だが、それも含めて、私たちが自分のすべてを正直に心から神に委ねる時、神が私たちの人生に対して最終責任を負って下さるのである。赤字をたくさん作って、にっちもさっちもいかなくなってから、自分よりも大きい企業に身売りをするのは、あまり良いやり方ではない。しかし、立ちゆかない経営を続けて倒産し、すべての従業員と家族を路頭に迷わせるよりはましであろう。

私たちのために重荷を担われる主、と聖書にある通り、十字架において人類のすべての負債を身代わりに背負うことのできた方には、今日も、私たちの抱えているすべての重荷を負って下さることができないはずがない。

だが、もちろん、神に都合よく重荷だけを押しつけ、自分は恵みにだけあずかりたいというような生き方は、初めて悔い改めて神に立ち帰る信者なら許されても、いつまでもそのようなことを続けていれば、誠実な献身とは言えないだろう。
 
私たちの主人に重荷ではなく、収穫をもたらすために、良い僕として働き、共に同労するという道があるはずである。

私たちは地上にある間は、神から離れて生きている。心には聖霊を通じてキリストが住んで下さっても、体は神から離れている。そして、この神から離れている部分は、私たちを絶えず、さらに神から引き離そうと圧力を加える。

しかし、私たちは自分たちの霊の内側で、それとは逆のベクトルの力を行使して、自分の体を霊に従わせる。飲み食いは体の仕事であるが、それも神のために明け渡すことで、体の働きをも聖別することができる。

こうして、自分自身を絶え間なく神の御旨の中に委ね、すべてのことを自分個人のために行うのではなく、神の栄光のために行うことを告白し続け、自らのあらゆる行動の動機を神に委ね続けるのである。

何かひっきりなしの異言の集会や、訳の分からない恍惚体験に身を委ねるのではなく、人の見ていない隠れた場所で、はっきりとした自覚を持って、自分自身の人生が、もはや自分のためにあるのではなく、神のために存在することを告白し、自分について、自分で把握できていることについても、把握していないことについても、すべてを神に委ねるのである。

その時、神があなたの人生に最終責任を負って下さり、どれほどあなたの人生に複雑に錯綜した幾多の問題があろうとも、神が必ずそれを最後まで解決へと導いて下さるという明確な平安が心に訪れる。その時から、あなたの心に秘密はなくなり、神との間に言い争いもなくなり、あなたはすべての問題について、神と同労しながら進んで行くことができるようになる。

そして、重荷が去った暁には、願うことを自由に口にできるようになる。

保護者の許可がないと多くのことができない子供には、願っても実現できない数多くのことがあるが、大人になれば、自分で行きたいところへ行って、したいことができる。大きな事業も始められる。
   
神はあなたがキリストにあって成人となり、自らの意志で神に従うことを選びつつ、神に栄光をもたらす多くのことができるようになるまで、ずっと後見人として付き添って下さる。御父が望んでおられるのは、信者が暗闇の勢力との戦いでへとへとになるまで、ただ防衛戦だけをいつまでも繰り広げることではなく、あらゆる圧迫を大胆に打ち破って、その先に、自由の中で、勝利の生活を打ち立てることにある。そして、その法則を、自分だけで楽しむのではなく、多くの人々に伝え、他の人々を自由へと導くことにある。
  
その時、あなたの祈りが、あなた個人だけでなく、あなたを取り巻く社会に対しても、影響を及ぼし、兄弟姉妹にも影響を及ぼし、祭司としての働きが始まるのである。それは決して、あなたが福音伝道をして何人がキリスト教に改宗したかといった問題とは関係ないことである。あなたが周囲に影響を及ぼしていることは、あなたには分かっても、他の人々にはほとんど分からず、そのことがあなたに栄光をもたらすこともない。

しかし、それでも、不思議なことに、あなたは周囲の人々に仕えながらも、彼らがあなたのために仕えているという逆説的な現象があることに気づくだろう。あなたの中におられるキリストが、あなたを通して、あなたを取り巻く社会に対しても、中心的影響力となっておられることに気づくだろう。そして、キリストこそ、全ての中心であり、万物を足の下に支配される方であることを知るようになるだろう。

私たちに与えられている時宜にかなった助けは、ただ自己保存という目的のためだけにあるものではなく、御国の法則を地に引き下ろすため、御国の拡大という霊的前進のために与えられているものである。

その前進に伴い、山上の垂訓が、信者の生活の中に確立し、生ける水の川が、信者の人生の中で、渇いた土地を肥沃にしていくということが起きなければならない。私たちは、御父に受け入れられたまことの大祭司なるキリストを通して、私たち自身も祭司となって、御前に進み出て、神の憐れみ深さ、愛の深さ、恵みの豊かさが、私たちの自己満足のためでなく、神の栄光のために、目に見える実際となって現れ、自由がもたらされるよう、絶え間なく、恵みの座に進み出て、飽くことなく懇願し、これを追求し続けなければならないのである。

御国が来ますように―天地の架け橋としてのキリストにある「新しい人」(1)

「御国が来ますように。
 御心が天に成るごとく、地にもなさせたまえ。」

またもや大きな勝利があった。死の恐怖からの自由、不当な圧迫に対する勝利、むなしく不毛な苦役からの解放、自由の中での勝利が与えられた。神が信じる者をどれほど入念かつ注意深く助け、守って下さるかが証明された。そして、信じる者は、この地にあって、すべてを足の下にされているキリストの目に見えない復活の命の統治を持ち運んでいるがゆえに、地を従える者であることが証明されたのである。

オリーブ園に再び、オースチンスパークスの「開かれた天」が連載されている。ここには、地上におけるキリスト者がキリストと合一することにより、その者が天(御心)を地に引き下ろすための架け橋となることが記されている。

当ブログで、これまで繰り返し、オースチンスパークスを取り上げて来たのは、彼の論説が、明らかに御霊によって書かれたものだと分かるためである。私たちはそのような論説を読むとき、御言葉に基づく神の光によって、霊的に照らされることができる。

霊的に照らされるとは、私たちが地上の人間的な卑俗な観点や思いを離れ、何が神にとって最も重要な事柄であるのか、御国の権益に関わることとは一体、何なのか、改めて思い起こさせられ、目が開かれるということである。その効果は非常に絶大である。

残念ながら、霊的先人と呼ばれている人々の文章のすべてが、御霊によって導かれて書かれたものではない。正直に言えば、ペンテスコステ系の先人たちの論説のように、キリストを証しているように見せかけながら、実際には、人間の言葉に過ぎないものが数多くある。

しかし、真実、御霊に導かれて書かれた数少ない例外があり、筆者が見たところ、オースチンスパークスの論説もその一つである。それは、そこにキリストを証する文章、また、天的な法則性が記されていることからも分かる。「開かれた天」にも、キリストとの合一、死と復活の命の法則により、いかにキリスト者が、この地上にあって、御国をこの地上に引き下ろす存在となるかという法則性が記されているのである。

さて、そのようにして照らされることの重要性を述べた上で、当ブログでも、もう一度、御国の統治を地に引き下ろすことについて書きたい。

キリスト者は、死を打ち破って復活されたキリストのまことの命の霊的統治を持ち運ぶ者であることについては、これまでにも再三に渡り、書いて来た。

しかし、そのまことの命の統治が、はかりしれないほどに絶大なものであればこそ、キリスト者は、暗闇の勢力から絶え間なく攻撃を受け、何とかして神のまことの命の支配がこの地に実現しないように、妨害を受けるのである。

だが、そもそも、一体、神のまことの命の支配とは、具体的に何を意味するのか、と問われるであろう。それは福音伝道をしてクリスチャンを地上に増やすことなのか、教会の領域を押し広げることなのかと言えば、決してそうではない。

それは、地上では、か弱い人間に過ぎない一人の信仰者を通して、その者を死から贖われ、キリストの復活に同形化された神のご計画の正しさ、その者を死から贖った絶大な神の命の力が、この地上の人々にも、それと分かる形で、はっきりと現れ出ることを意味する。

究極的に言えば、一人の人間がすべての死の圧迫から解放されて、真に自由とされ、自由の中を、神と共に生きることを意味する。それは真実に基づく、偽りのない、御心にかなう生活である。
  
つまり、キリスト者は、地上では弱く脆い土の器であるが、その者が、自分を何とかして再び罪に定め、死に追いやろうと、飽くことなく敵意と憎悪を燃やしている地獄の全勢力からの果てしのない妨害を打ち破って、キリストの復活の命によって、神に対して真に生きる者とされ、永遠に贖われた神のご計画の正しさを明らかに証明することなのである。

この命の力、死を打ち破ったキリストの命の統治の力が発揮される時、暗闇の勢力と、天的な勢力との間の激しい支配権の争奪戦に終止符が打たれ、支配権が逆転するのを私たちは見る。

この世においては、キリスト者はあまりにも無力で、弱く、地獄の軍勢の虜とされて、苦しめられている罪人の一人のようにしか見えないかも知れない。いや、キリスト者となって贖われたがゆえに、世人をはるかに超える憎しみに遭遇し、世人以上に、なお一層、虜とされて苦しめられているようにさえ見えるかも知れない。

しかし、信仰によってそれらの妨害が打ち破られる時、地獄の支配権と、天的な支配権とが逆転し、悪魔の死の力を十字架において打ち破ったキリストの復活の力が、この世のすべての物事を超越してこれらを自らの意志に従えるという統治の順序の逆転が現れ出て来るのである。

つまり、キリストの復活の命は、支配権の問題であり、支配権の争奪戦だということが分かるだろう。神はアダムに地の支配権をお与えになったが、アダムの堕落のゆえに、地は悪魔によって不法に占領され、不法に統治されているが、これを悪魔の支配権から奪還して、キリストの復活の命の統治下に置くことが、神の命題であり、キリスト者の使命なのである。

そのために遣わされているのが、キリスト者なのであり、キリスト者は、神の命の支配、御子の復活の命の支配権を持ち運んでいる存在なのである。

そして、そのキリスト者が、内に御霊をいただくことによって、目に見えない形で絶えず持ち運んでいる、キリストと共に復活にあずかった新しい人としての新たなる支配権は、その者の中から、その者自身の意志、望み、活動と連動して、生ける水の川のように流れだす。ちょうど山頂に登頂した人間が、そこに旗を立てるように、その者が、何を征服しようと望み、どこに行き、何をするのかといった望みと活動に連動して、目に見えない支配圏が押し広げられて行くのである。

筆者が、キリストの復活の命の支配権の拡大を、登頂になぞらえたのは偶然ではなく、実際に、支配権(圏)の拡大は、新たなる領域を征服することにによってのみもたらされる。そして、キリスト者の場合、復活の命の支配権の拡大は、その者の内なる望みに基づく行動によるのである。

先に、キリストの命の支配の拡大とは、地上でクリスチャンが増えることや、教会の領土が拡大することとは何の関係もないということを書いた。それでは、一体、この支配とは何なのか?という疑問が生じよう。

それは何よりも、すでに書いた通り、人を真に自由とする支配であり、自由の中で、望みによって打ち立てられる支配である。

この世において、人は死の恐怖の奴隷とされている。己を養うため、命を支えるため、死から逃れるために、人は実り少ない苦役のような労働につながれ、絶えず、自分の命が失われるという恐怖の中に虜とされてしか生きることができない。何をするにも、どうやって自分の命を保たせるか、ということだけが中心課題となる。

しかし、神の復活の命の統治が現れ出る時、人はもはやそのような死の恐怖の虜ではなくなり、その恐怖から解放され、自由の中で、安息を得て、その安息の中で、自分の意思決定を下せるようになる。

これを表すに当たり、「必然の王国から自由の王国へ」という、かつて共産主義者が使用したスローガンを利用することもできるかも知れない。(ただし、共産主義者は、アダム来の人間の欲望に従って人間の自由を願ったが、キリスト者は、人に自由を得させることが、神の御心であるという事実に基づき、キリストと共に死と復活を経由した者として、自由を求めている。私たちは、己の欲望だけに従って欲望の実現を追い求めて生きているのではなく、神の御心にかなう真実で偽りがなく公正かつ自由な統治を求めているのである。)

つまり、贖われた人は、死の恐怖のゆえに、限られて乏しい選択肢の中から、仕方がなく意に沿わないものを選んで生きるしかないという限定された生活ではなく、真に自分の望みに従って、自由の中から自分の選択を決めることができるようになる。(共産主義者が使用したスローガンは、聖書における御国の模倣である。)
 
キリストの命の支配の拡大は、その者が何を望み、何を実現しようとするかにかかっている。信仰者には、どんなにそれが個人的な望みであっても、自分の個性、望みに従って、自由に行動することができる新たな生活が保障されているのである。

アダムは地の奴隷であったが、キリスト者においては、その関係が逆転しており、地の方が、キリスト者に従うようになる。これが真に正しい順序であり、その秩序が本当に現れ出る時、この世の人々、事物、状況のすべてが、キリスト者に従うようになるのを見て、私たち自身が、それが自分の力ではなく、自分の内にある神の命の支配の力によるものであることを知って瞠目するであろう。

キリスト者は、自分の望みを神に申し上げ、それが御心に反するものではないと認められたなら、その望みが実現するまで、激しい争奪戦を戦い抜いて、御国の統治を実現しなければならない。
 
だが、一体、キリスト者の自由な選択はどうやって保証されるのか?という疑問も生じよう。何を望むのも自由だが、望んだからと言って、どうしてすべてがかなうと言えるのか?
 
それを保証するものが、信仰であり、復活の命である。キリストの復活の命が、その者に必要なすべてを供給するのである。個人的なごくごく些細な望みに至るまで、その命が、その者の生活のすべてを支え、保証するのである。

人にはそれぞれ個人的に異なる望み、異なる生活がある。地上組織としての教会の拡大のために働くことと、キリストのまことの命によって生きることは何の関係もない。そこで、キリスト者が復活の命によって支えられながら、何を実現して生きようと願うのかは、個人によって異なる。クリスチャンだからと言って、その生活も、望みも、人によって全く異なる。一人一人に与えられている召しも、望みも、生きざまも、すべて異なるのである。

そこで、神の復活の命にどれほどのはかりしれない力が含まれているかについては、ちょうどこの地上の人々が、海底や、地底に人知れず眠っているエネルギー資源を見つけた時のように、一人一人が自らの生活の中で、その命の力を開発し、利用し、使う方法を具体的に学ばねばならないのである。

クリスチャンが、自分の願い、望みを率直に神に申し上げ、それを神の復活の命を経由させて、地に実現して行く方法を具体的に学ばなければならないのである。

キリスト者が地上で生きることが、ただ個人的なレベルの生活にとどまらず、御国の統治そのものと密接につながっており、御国の権益と関わっていることに気づき、天的な展望のレベルで物事を見る必要がある。
 
そして、キリストの復活の命にこめられた力を実際に知らなければならない。復活の命が、キリスト者に、ただ命の保障を与えるだけでなく、どうやって信仰によって、望みのものを約束し、保証してくれるか、これを開発し、法則性を探り出し、利用しなければならないのである。

その過程で、キリスト者は、まず何よりも霊的に積極性を失わない「攻めの姿勢」を持たなければならない。絶えず目を覚まして警戒を怠らず、新たに目指すべき目標が何であるかを知り、これに大胆に向かって行かなければならない。消極的で受動的な態度でいながら、霊的支配を拡大して行くことは無理である。
 
ここで言う「攻めの姿勢」とは、霊的な積極的な生産のサイクルと密接に関連している。

まず、それは妨害があっても、決してあきらめないだけの強い願いを持つことから始まる。キリスト者が(どんなに些細かつ個人的な事柄のように思われても良いから)、新たな望みを大胆に持ち、次に、どんなに周囲の状況が否定的で圧迫的に見えたとしても、その望みが神にあって実現可能であることを信じて、望みに向かって大胆に邁進して行き、望みが実現するまで、どれほど激しい戦いがあっても、臆して退却することなく、妨害を打ち破って、前進し続けることが必要となる。

こうして、キリスト者が積極的な望みに基づき、さらなる自由に到達し、神の栄光を増し加える新たな霊的山頂を目指して、絶え間なく前進して行き、勝利をおさめ、新たな自由を勝ち取ることが、目に見えない神の命の支配を拡大するための霊的生産サイクルなのである。

それは大いなる戦いであって、信仰者が御名によって、新たな見えない領土を獲得するための戦いである。その戦いがあまりにも激しくなると、キリスト者が意気阻喪して、望むことをやめてしまったり、前進をあきらめて立ち止まることがある。そうすると、霊的支配の前進もやんでしまう。それだけでなく、再び、彼自身が、死の圧迫の虜とされてしまうことがあるかも知れない。そうなれば、暗闇の勢力は、彼がすでに獲得したはずのものにも、大いなる打撃を与え、これを奪い取り、彼をどんどん退却させて行こうとするであろう。

しかし、たとえそのような停滞や退却があったとしても、キリスト者は再び、上からの力を受けて、絶え間なく、死の圧迫を打ち破って、自由に向かって前進し続けることが必要である。それを成し遂げて行くときに初めて、信じる者たちには、弱った足腰が強くされ、よろめく膝がまっすぐになり、たゆむことなく、遠くまで歩いて行くことのできる力が上から与えられる。こうして前進し続けて、さらなる自由を獲得し、御心を地に引き下ろし、御名に栄光を帰することが、キリストの復活の命の支配の拡大の法則性なのである。


神の国の秩序(キリストの至高性)

神の国の秩序は、キリストの十字架の死と復活を通したキリストとの合一によって
キリストの至高性が確保された信者の内に到来する


さて、以前の記事の中で、私は御国の法則について説明しようとしたが、御国の秩序、御国の統治形態、御国の法則全体を指すものとして、ひとまず、御国の秩序という言葉を使うことにしたい。

 「…わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。」(マタイ12:28)とイエスは言われた。このことは、御国の秩序が、人となって地上に来られ、バプテスマと聖霊を受けられた御子イエスを通して、地上に実現したことを意味する。

 御国の秩序とはどのようなものか。次の通りである、

「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
 天国は彼らのものである。
 悲しんでいる人たちは、さいわいである、
 彼らは慰められるであろう。
 柔和な人たちは、さいわいである、
 彼らは地を受けつぐであろう。
 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
 彼らは飽き足りるようになるであろう。
 あわれみ深い人たちは、さいわいである、
 彼らはあわれみを受けるであろう。
 心の清い人たちは、さいわいである、
 彼らは神を見るであろう。
 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
 彼らは神の子と呼ばれるであろう。
 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、
 天国は彼らのものである。」  (マタイ5:3-10)

 イエスは山の頂きに座して、ご自分も安息されながら、弱く打ちひしがれた人々を御元に集めて、彼らにも、安息の時が到来したことを告げられた。すなわち、イエスを通して、御国の秩序が、神を信じる人々のもとにやって来たことを告げられた。その御国の秩序とは、人に安らぎをもたらすものであり、人を罪と死とあらゆる汚れ、捕われから解放するものであり、人に神の無尽蔵の富を豊かに分かち与えるものであることを告げられた。御国の秩序のあるところには、自由があり、汚れたものの一切が追放され、まことの命の豊かさが惜しみなく現れ出る。

 御国の住人として(エクレシアとして)召し出されている人々は、神を抜きにして幸せ一杯に、満ち足りて、悠々自適に暮らしているこの世の人々とは一線を画している。召し出された者たちは、この世においては、絶えず心の飢え渇きを覚えている人たちだ。彼らは、この世においては、悩みが絶えない。病や貧しさや困難に絶え間なく見舞われ、人よりも不幸に見える人生を送っていることも多い。またイエスの名のゆえに迫害されていることも多い。彼らは戦闘的ではなく、心優しい、謙った人々であるがゆえに、この世では軽んじられ、見下され、侮られている。彼らはこの世に正義がないことを知っており、神の義だけを切に求めている。彼らは神に出会って、慰めを得て、解決を得られる時を切に待ち望んでいる。

 こうした人々が主に出会って、心から慰めを得、神の義を見て、満足し、平和を見て、満ち足りるようになることが、御国の秩序が到来することの結果である。その御国は、イエスと共にすでに神を信じる者たちのもとに到来している。聖霊が私たちの内に住まわれることによって、すでに私たちの只中に成就している。神の国とは、私たちが死後になってやっと手に入るようなものではない。

 だが、肉なる人間は、御国とは何であるかを理解できない。そこで、いつも経済的祝福や、病からの癒しなど、この世的な現象、奇跡的な祝福にばかり注目し、尋常でないいくつかの現象だけを取り上げては、それが神のご性質の全てであるかのように騒ぎ立てる。そこに大きな間違いがある。イエスの時代にも、群集の多くが、イエスが病を癒されると、その奇跡だけに注目し、パンと魚を増やされると、その奇跡だけに熱狂し、そして同じような奇跡が再び起こるのを見たいという衝動だけから、イエスに着いて行った。

 だが、神の国とは、そんな個々の現象にとどまらない、一連の秩序体系を指す。人知では理解できない、霊的な、見えない秩序が、御国の秩序なのであり、その秩序に従って、イエスは不思議な御業を行われた。その神の国が、神を信じる者たちのもとにすでにやってきていることをイエスは告げられたのだ。だが、このすでにやってきているということの意味が、またまた、人知では理解できない。そこで、神の国の意味を誤解した人々は、弟子訓練などの各種の方法論を通して、改めて神の国を地上に大規模に「建設」しようとなどと考え始める。そこにも大きな間違いがある。神の国とは、地理的領土のことではなく、この世的な、人間による支配体系のことでもなく、神の御心に沿って作り出される、御霊による、見えない秩序のことである。そして、その御国の秩序に従って、イエスはこの地上での業を成され、イエスが天に昇られた後、御霊によって生まれたクリスチャン一人ひとりが、イエスと基本的に同じ働きを任されているのである。クリスチャンたちの只中に、すでに御国はあるのだ。

 肉なる人は、しるしと不思議と奇跡という、現象や結果ばかりをいつも追い求めているが、私たちクリスチャンがいただいているのは、そのような一切の現象を引き起こす源であるイエスであり、まことの命である聖霊であり、見えない秩序である神の国である。

 神の国の法則に従って起こることが、世の人々には常に奇跡のように見えるのは、御国の秩序と、この世の秩序が決定的に異なっているためである。しかし、神の視点から見れば、転倒しているのはこの世の秩序なのであり、イエスが行われたことは全て、御心にかなったあるべき秩序なのである。

 だから、そのことを思う時、私は、この先、クリスチャンの間にまことのエクレシアが建て上げられていくに連れて、私たち一人ひとりのクリスチャンも、ますますイエスに似た者とされて行き、使徒のように大胆な働きをするようになり、各種の聖霊の賜物が、豊かに現れて来るだろうと思わずにいられない。

 神の国のはかりしれない秩序を、クリスチャンは内側にすでにいただいている。外見的には、みすぼらしく、取るに足りない、いつも危機に晒されて、追いつめられているようにしか見えない、弱く、脆い器である私たちの日々の営みを通して、神の国の圧倒的な秩序が、否応なしに、この世に流れ出て、現実化していくところを、私たちは今後、これでもかと言うほどに、目撃させられることになるだろう。こうして、初めは小さな種であった御国は、大きな木へと成長し、私たちの内側から、光が輝き出て、生ける水の川々が溢れ、流れ出すようになる。エクレシアが建て上げられていく時、神の国の秩序とは何なのか、まことの命の豊かさとは何なのか、神のご性質とは何なのか、その人知でははかり知れない不思議さ、豊かさを、私たちは隅々まで味わい知るだろう。そして、神の義の現れを見て、その中で歓喜し、主をほめたたえるだろう。

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2016年追記。
キリストがどれくらい信者の歩みを、ご自身と不可分のものとして心に留め、注意を払って下さるかは、信者の側が、どれくらいキリストと一つとされているかによる。

それは信者がどれくらい主と共なる十字架の死と一体となって、主の死と復活にあずかっているかによるのである。

これまでの間、筆者は誰にも頼らず、神にのみ頼ることを学んだ。人に頼れば、必ず、間違いが起きる。そもそも人に頼るということ自体が、心の助け手である神の栄光を曇らせる不信仰であると言って過言ではない。

しかし、主にのみ頼って行くときに、信者を中心として、この世の法則によっては到底理解できないような、霊的法則が実際に働き、すべての必要が満たされるということを経験的に知って来たのである。

たとえば、筆者が何を欲しているのか、その願望を口にするまでもなく、心に描いた望みを主が知っていて下さる。自分の資産を数え、足りないものをあげつらう以前に、筆者にどんな必要があるのか、主が知っていて下さる。

そして筆者の知恵を超えた不思議な方法ですべてを満たして下さるのである

だから、涙に暮れ、叫んだりして、仰々しい祈りを捧げなくとも、すべてにおいて主が共におられることを静かに確信し、キリストが信じる者と共にこの地を治め、信者の願いを通して今日も生きて働いて下さることをこれまで知って来たのであり、今も常にそれを信じて一歩を踏み出す。

だが、主が共におられるからと言って、どんな問題にも一切遭遇することがなくなるというわけではない。しかし、どんな問題に遭遇する時であれ、主がすでに解決となって下さっていることを理解するのである。

もし信者が目に見える人間の誰にも助けを求めることなく、人間に栄光を帰することなく、全ての必要をただ主にのみ率直に打ち明け、信頼して御手に自分自身を委ねて行くならば、日々の糧、生きる方法は、すべてが天によって備えられる。

そんな中でも、信仰の戦いは次第に難易度を増し、以前には通らなかったような細い道を通らされることもあり、信仰が苦難によって試される必要がなくなるわけではない。

だが、神への信頼に立つなら、その信頼が裏切られることは決してない、ということが、その歩みの一つ一つから理解できるのである。

多くの信者たちは、日々人助けに邁進することが、信仰の道だと考えている。まるで企業に雇われて働くような感覚で、「どれくらい人様の役に立って、感謝され、評価されているか」という、人間のために提供した「サービス(奉仕)」の量が、信仰生活をはかる重要なバロメーターだと思い込み、それゆえ、困っている人たちを探し出しては、絶えざる人助けに邁進し、他者からの評価の度合いを、自分自身の信仰生活の前進だととらえている信者が多い。

だが、筆者の目から見ると、信仰生活は、そのようなものではなく、この世の人間の観点とは逆になっているように思われてならない。つまり、信仰生活とは、そもそも人間の欲求を満足させるためにあるのではなく、神の願いを満足させるために存在するのだ。

そして、神は誰よりも、ご自分の子供たちが、神の恵みを豊かに知って、喜んで生きることを願っておられる。キリストは、すでに信者の内に住んで、共に生きて下さっている。だから、信者は、他者の中にキリストを見いだそうとする以前に、まず自分自身を大切にし、そして、自分自身の内でのキリストとの結合をより強固なものとしなければならない、と筆者は思うのだ。

とりわけ今日、キリストの名を用いながら、人を欺く偽信者が数多く登場して来ているので、どんなに敬虔そうに見えたとしても、目に見える人間の言動に左右されることなく、内なるキリストだけに頼って生きることが、必要なのである。

そして、 自分の願い、計画、歩みに神からの承認を確かに受けるために、主と共なる十字架の死と復活により立脚することが必要になって来るのではないか。この土台を離れては、御霊からのいかなる承認も受けることはできないからだ。

ところで、人が神の恵みを受けるために何より必要なのは、自分自身の欠乏を率直に認める素直さなのではないだろうかと筆者は思う。たとえば、ホームレス伝道のような慈善事業に明け暮れたり、カルト被害者救済などの旗を掲げて、常に他者の問題を解決することに明け暮れ、他者の欠乏を満たすことにばかり目を向けようとするクリスチャンたちに、筆者がどうしても欺瞞を感じずにいられない理由がここにある。

人助けに邁進する人生は、世の中から見れば立派である。しかし、他者の欠乏を満たしてあげる親切な人間を演じることは、人の自負心や、見栄によって支えられている場合が少なくない。さらに、そこには、助けてあげるという名目で、他者に対する優越感が入りこむ余地があり、助けの手を差し伸べている相手を、自分に依存させ、自立から遠ざける危険もある。結果として、人助けという名目で、一種の共依存関係ができあがることになる。

このように、他者の欠乏ばかりに目を向け、そればかりを議題にあげる人間は、往々にして、自分自身の欠乏を決して見ようとせず、自分に一体、何が足りないのかという、己の限界を謙虚に見据えることをしない。むしろ、自分には何も欠けたところがないかのように装って、他者の欠点ばかりを取り上げて、他者に恥をかかせながら、それを解決してやる心優しい人間を振る舞うことに、大きな落とし穴があるように思うのだ。

信者は、他者の欠乏をあげつらう以前に、己の欠乏に目を向け、神の御前で自分がどれほど満たされる必要を抱えている、心貧しき、飢え渇いた、哀れな存在に過ぎないかを、率直に認めるべきである。自分が神の御前に多くの必要を抱えていることをまず認め、幼い子供が父に願い出るように、自分のすべての願いと必要を正直に父なる神に申し上げ、神と相談しながら、日々、歩んでいくことこそ、信者の信仰生活に真に必要なことではないかと筆者は思う。

他者が満たされる必要ばかりを説き、己の必要に目を向けない人には、その強がり、虚勢のために、一向に、神の恵みを味わうチャンスが巡って来ないのである。

そんなわけで、筆者はあらゆる悩みや欠乏や苦難や試練を通らされる度に、それをただ主に向かって打ち明け、その都度、主に信頼することには大きな報いが伴うことを思い知らされている。他者の憐れみや、助言や、支援を宛てにして生きるのでなく、すべての必要を、信仰によって天の銀行から引き出すということこそ、最も確かな方法であると感じる。

この世においては、人間の生存は己の労働によって支えられるという間違った考え方が普及しているが、しかし、神はクリスチャンにそのようなことを要求されない、と筆者は思う。

野の花も、空の鳥も、己の労働の対価として命を得ているわけではないのだ。これは決して怠けることの勧めではないし、人は自分で働いて人を頼りとせず生きるべきであるが、それにしても、この世的な観点における労働というのは、根本的に、「他者の目にどう評価されるか、他者をどう喜ばせるか、他者にどう役に立つか」という観点ばかりに基づいたものであり、「神をどう喜ばせるか」ということにつながらない。

だから、必死の自己犠牲に基づく労働によってしか、生きる術を獲得できないというこの世的な考えは間違っており、そのような観点から、自分で自分を養おうと努力すると、自由なきつらい生き方が待っているだけであろう。

おそらく、この地上における労働の概念は、ますますこの先、人間をいたずらな苦しみに追いやるものとなるだろうが、神は、人間に苦役ではなく自由を与えられたのであり、この自由を行使し、二度と人間の奴隷にならずに生きるためにも、天の経済に支えられて生きる必要があると感じる。