忍者ブログ

私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。主はその僕の魂を贖ってくださる。主を避けどころとする人は罪に定められることがない。

「どのようなときも、わたしは主をたたえ
 わたしの口は絶えることなく賛美を謳う。
 わたしの魂は主を賛美する。
 
 貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。
 わたしと共に主をたたえよ。
 ひとつになって御名をあがめよう。

 わたしは主に求め
 主は答えてくださった。
 脅かすものから常に救い出してくださった。
 主を仰ぎ見る人は光と輝き
 辱めに顔を伏せることはない。
 
 この貧しい人が呼び求める声を主は聞き
 苦難から常に救ってくださった。
 主の使いはその周りに陣を敷き
 主を畏れる人を守り助けてくださった。

 味わい、見よ、主の恵み深さを。
 いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。
 主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。
 主を畏れる人には何も欠けることがない。

 若獅子は獲物がなく飢えても
 主に求める人には良いものの欠けることがない。
 
 子らよ、わたしに聞き従え。
 主を畏れることを教えよう。

 喜びをもって生き
 長生きして幸いを見ようと望む者は
 舌を悪から
 唇を偽りの言葉から遠ざけ
 悪を避け、善を行い
 平和を尋ね求め、追い求めよ。

 主は、従う人に目を注ぎ
 助けを求める叫びに耳を傾けてくださる。
 主は悪を行う者に御顔を向け
 その名の記念を地上から経たれる。

 主は助けを求める人の叫びを聞き
 苦難から常に彼らを助け出される。
 
 主は打ち砕かれた心に近くいまし
 悔いる霊を救ってくださる。

 主に従う人には災いが重なるが
 主はそのすべてから救い出し
 骨の一本も損なわれることのないように
 彼を待追っ手くださる。

 主に逆らう者は災いに遭えば命を失い
 主に従う人を憎む者は罪に定められる。
 
 主はその僕の魂を贖ってくださる。
 主を避けどころとする人は
 罪に定められることがない。」(詩編第34編)

前回も同じ個所を引用したが、共同訳の方がどことなくしっくり感じられる箇所である。

命を永らえることを望む者は、何をなすべきであろうか。まずは偽りから遠ざかり、悪を離れ、善を行い、平和を追求すべきである。

嘘偽りが洪水のように溢れるこの時代、偽りを避けるというだけでも、人の目には狭き門であろう。人々は自分の見栄えが少しでも良くなるよう世間に気を使い、SNSで自分を粉飾し、企業も嘘の広告を出し、偽の期待を人々に持たせ、役所は文書を改ざんし、誰もが息を吐くように嘘をついている。

そんなこの時代に、世間に迎合することなく、偽りのない生き方を見つけることは、非常に困難なように思われる。自分を粉飾して、過大な実力があるように見せかけ、人々の関心を引くことができるなら、その方が楽に生きられるように感じられるだろう。

しかし、その道を行けば、命を失うと御言葉は言う。

どんなに狭き門に見えても、確実に勝利へと続く道を行くのが一番、近道なのだ。そのためには、偽りや、悪から遠ざかることは、決して外してはならない条件である。

さて、少し本題から逸れるようだが、インターネット上では、数年前から、「聖書信仰」やら「福音主義」への攻撃が盛んに行われている。これはカルト被害者救済活動のことだけを指すわけではない。

むしろ、カルト被害者救済活動は、以上の大きな流れの一端として現れて来たものである。そして、この流れが真に正体を現すのもこれからである。

「カルトを告発する」と言いながら、カルトとそうでないものをごちゃ混ぜにし、無実のクリスチャン、しかも、聖書に忠実に歩もうとするクリスチャンを攻撃するというのは、暗闇の勢力が用いるいつものやり方である。

聖書を敵視する運動は、今のところはまだ「聖書信仰」やら「福音主義」だけを攻撃する形を取っているように見えるが、やがて彼らの主張は、必ずや「聖書そのもの」を否定し、排除する流れへと変わって行くだろうと筆者は予想している。

共産党政権下の中国のように、国民の誰かが聖書を所持し、開いているだけでも、犯罪者扱いされるような国を作りたい、聖書を所持し、真面目にその内容を知ろうとしている人間は、みなカルト信者ということにして葬り去ってしまいたい、そういう悪しき思惑が渦巻いていることが感じられる。

そうした思惑は、時を追うごとに、国家神道やら共産主義やら日ユ同祖論やら先祖崇拝やらを一緒くたに混ぜ込んだ新たな異端思想(これこそまさに新手の新興宗教!)の形となって勃興しようとしている。

これもやがては、愛国主義、軍国主義、天皇崇拝などの一連の流れの一環として、戦前回帰という本流へ合流して行くだろう。

たとえば、ネット上には、プーチン政権下ロシアを極端なまでに美化したり、さらにマルクス主義を礼賛したり、日ユ同祖論を唱えたり、国家神道に近い考えを提唱するなど、様々な思想の持主を寄せ集めたような勢力がある。

その勢力は、大きく見れば、陰謀論と呼ばれる流れの中に位置するが、一見、安倍政権に反旗を翻すアウトサイダーのような立場から政権批判を繰り返しつつ、同時にEden Mediaが告発しているような悪魔的思想(グノーシス主義)を告発し、悪魔崇拝を告発すると言いながら、実際には「聖書信仰」を目の敵として、キリスト教を仮想的とする非難を開始している。

グノーシス主義を批判しながら、自らがグノーシス主義に陥っているという点で、この勢力は、まさにカルト被害者救済活動と同じ道を辿っていると言える。

しかし、マルクス主義であれ、国家神道であれ、日ユ同祖論であれ、もともとこうした思想の持主らが掲げている思想が、いずれも明らかに人類の生まれながらのルーツを神聖視するというグノーシス主義の系譜に属する思想ばかりであることを見れば、こうした勢力のものの考え方が、結局、グノーシス主義を批判しているように見えても、グノーシス主義から一歩も外に出られず、かえって正しい思想を攻撃するだけに終わるのは、初めから当然予想できる結果である。

当ブログでは、以前から、「プーチン率いるロシアが日本や世界を救ってくれる」などという考えが、どれほど愚かなものであり、国家としての主権の放棄に等しいか、また、極端なまでのロシア美化・賛美が、どのような背景で生まれて来るのかということを書いて来た。

天皇を賛美し、日本の文化やルーツを礼賛すると言っている連中が、それとは全く相矛盾することに、「プーチン政権下ロシアが日本を救う」などと言っているのだから、呆れることしきりである。最近は、日ロの経済協力も領土問題も全く膠着状態に陥ったので、かつてほどそうした声は聞かれなくなったが、そんなことからも、要するにその声は、表向きには安倍政権を非難しながら、背後では政権とぴったり歩調を合わせていることが分かる。

また、そうした異常なほどのロシア美化の背景には、マルクス主義が存在していることが多い。

マルクス主義の影響を甚大に受けている人ほど、ロシアを非現実的なまでに美化することが多い。今日、ロシアという国を極端なまでに美化してこれをまるで救世主か何かのように信奉している人々の歩みを追って行けば、若い頃に学生運動に参加していた、などのマルクス主義との接点が出て来ることが稀ではない。

すると結局、彼らは若い頃から今に至るまでずっと変わらず、思想的にはマルクス主義者のままだったことが分かるのである。だが、彼らは現実のロシアのことはほとんど知らない。ゆえに、自分の心の中で思い描いたユートピアをロシアに重ねているだけで、ソ連時代の暗黒の歴史がどんなものであったかも、彼らは真正面からは決して見ようとはしない。

マルクス主義は、宗教の形を取っていないが、とどのつまり、人間がキリストの十字架を介することなく地上にユートピアを建設できる(=救いに達することができる)と見なす点では、アダムを神としているグノーシス主義に分類されて差し支えない思想である。

そこで、マルクス主義と、国家神道、日ユ同祖論、先祖崇拝、天皇崇拝などといった思想は、一見、何の共通点も類似点もないように見えても、みな根底では、アダム(生まれながらの人間)を神とし、人類の生まれながらのルーツを神聖視するという、人間崇拝へとつながる点で、ベースが全く同じなのである。

だから、これらの思想がごった煮のように集まって来て「結婚(重婚)」に至ったとしても、不思議ではない。繰り返すが、これらの思想はもともと根本が同一であり、異なるのは表層部分だけだからである。

ロシアには歴史上、「ロシアが世界を救う」と言ったメシアニズムの思想が存在しており、なぜこうした思想が登場して来たのか、その分析はここでは行わないが、ロシア正教の中にもそうした思想が存在したことがあり、マルクス主義はそうしたロシアの文化的・思想的な土壌を背景に、その歴史的延長として、ロシアに移植されたと見てもおかしくないことは以前にも述べた。

さらに、『国体の本義』などを読んでも分かることは、かつての日本が唱えていた「八紘一宇」だとか、「大東亜共栄圏」などのスローガンも、みなメシアニズムの思想から出ているということである。戦前・戦中の国家神道は、天皇を救世主になぞらえ、皇国日本が世界を救うというメシアニズムの思想である。

そこで、これらの各種のメシアニズムの思想が、類は友を呼ぶ式に集まって来て結合し、それらの思想をことごとく闇鍋のように内包している勢力が、今や「聖書信仰」を新興宗教力ルト扱いして攻撃し、否定しにかかっているのも、何ら不思議なことではない。

もともとそういう似非救済思想が、聖書と相性が良いはずもない。彼らも聖書を利用したり、キリストの名を語ることがないわけではないにせよ、その目的は必ず、彼らが「自分たちは、先祖代々から伝わる神聖なルーツを受け継いでいる」と主張するためであり、日ユ同祖論者などは、自分のルーツを美化(神聖視)する道具として、イエス・キリストの名を利用しているに過ぎない。要するに、自分たちはメシアの末裔だから、世界を救う活動に参加する資格があると言いたいのである。

こういう思想を持つ人々が、歴史的に、はた迷惑な世界救済事業に乗り出して来たのであり、それらの思想にとって、聖書などはもとより自分を美化するための添え物に過ぎない。

キリストの名を都合よく騙って自分のルーツを美化・神聖視したいだけの人々にとって、本気で聖書などを読み、真剣にその教えを実践・探求する信者は駆逐したい邪魔者と映るのは当然に予想できる。

だが、もしも「聖書信仰」を攻撃するなら、プロテスタントのほぼすべての教会は「聖書信仰」に立っているため、これらのすべての教会が「カルト」ということにされて終わってしまう。そういう暴論は、ネット上でしか成立し得ないものである。

今日、「カルト」という呼び名は、あからさまな蔑称とみなされ、使用を避けられつつあるため、以上のような人々はやたらと「新興宗教」という言葉を使いたがる。新興宗教という呼び名には、何ら罵倒や侮蔑の意味は含まれていないのだが、こうした言葉をやたら振り回す人々は、「新興宗教と言えば、要するに、キリスト教系のカルトのことだ」という暗黙の了解を前提としているようである。

「新興宗教」などという曖昧模糊とした呼び名は、あらゆる宗教を十把ひとからげに疑わしいものとして攻撃するには、もってこいなのである。

だが、こうしてネット上で、気に入らない思想にのべつまくなしに「新興宗教」のレッテルを貼り、かつ「聖書信仰」を目の敵にして非難している人々のほとんどが、実のところ、統一教会とキリスト教界の区別もつかない人々である。統一教会とはキリスト教なのだと思っている人々が大半という有様で、もちろん、エホバの証人や、ローカルチャーチが使っている聖書と、プロテスタントの教会で使われている聖書の区別もつくはずがない。

彼らはそもそも聖書などほとんど読んだこともなく、キリスト教の基本的な言い回しも知らない人々であるから、彼らの糾弾している「聖書」が、一体、どの「聖書」を指しているのかも定かではない。

彼らはただ、「聖書を真面目に信じるのは狂信者だけのすることである」という先入観・固定概念を作り上げ、人々を聖書から遠ざけたいがために、攻撃的な言葉を振り回しているだけなのである。

しかし、彼らが聖書をあらゆる攻撃対象の中でも、とりわけ攻略せねばならない本丸とみなしていることだけは確かである。「新興宗教批判」は、手始めに創価学会、統一教会などから始まるが、ほとんど間をおかずに、キリスト教への攻撃に転じる。本当の目的は、キリスト教の中でも、「聖書信仰」を攻撃することにある。

こうした動きは、カルト被害者救済活動が辿って来たのと同じように、最初は「危険な新興宗教について警告を発する」という口実を用いながら、様々な宗教への攻撃を正当化して行き、そのうちに、自分たちに属さないすべての思想を攻撃するようになり、独麦と一緒に本物まで一緒に抜くために、もっぱらキリスト教徒に敵意を向けるようになる。

彼らの「本命」は、最初から、創価学会でも統一教会でもなく、キリスト教にあると言って差し支えない。だから、キリスト教徒はこれらの人々の出現に警戒せねばならない。

彼らが聖書を敵視するのは、聖書が彼らの思想の誤りを明白に証明するためである。特に、日ユ同祖論者などは、聖書の御言葉が本物であっては困る人々である。

それはなぜか?

聖書こそ、彼らの血統が偽物であることを証明しているからである。

誰かがチャンピオン犬の直子を買えば、きっと血統書がついて来るだろうが、聖書は、一体、誰がキリストの子孫でありうるのかをはっきりと証明している。

日ユ同祖論者にとって重要なのは、「日本人はユダヤ人の末裔だ!だから、俺もメシアの末裔なのだ!」と主張することである。天皇崇拝者にとっても、天皇の血統を神聖視し、日本国のルーツを高めるためならば、何でもありで、日本人がユダヤ人の末裔だという実に荒唐無稽な説も、天皇崇拝を肯定し、日本人を美化するエッセンスになりうるなら、ウェルカムというところだろう。

だが、聖書は言う、
「愚かな議論、系図の詮索、争い、律法についての論議を避けなさい。それは無益で、むなしいものだからです。」(テトス3:9)

新約聖書を開けば、まずマタイによる福音書における
「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」が目に飛び込んでくる。しかし、このようにして最初の福音書の冒頭に、キリストの系図が登場することの最も重要な意義は、「この素晴らしい選ばれたメシアの血統」を誉めたたえることにはない。

むしろ、メシアの系図という最も選りすぐりの系図も含め、人類の生まれながらの系図の意義は、ことごとくイエス・キリストと共に価値がなくなり、終わった、ということが示されている。

人類の生まれながらの系図は、ただキリストと共に無価値とされただけでなく、キリストと共に「呪われたものとして木にかけられて罰せられた」のである。

そこで、今日、キリストの子孫とは、こうした系図によって、キリストに連なると主張している人々を指すのではない。信仰によって水と霊によって生まれ、キリストに連なる兄弟姉妹となり、神の家族となった人々のことを指すのであって、「日本人のルーツはユダヤ人だ!」などと主張して、自らの血統を誇る人々は、キリストに属する人々には含まれない。生まれながらの血統は、キリストとは何の関係もなく、木にかけられて、罰せられる根拠にしかならなかったのである。

だが、悪貨が良貨を駆逐するように、偽物は本物を駆逐しようと活動しており、そこで、信仰もないのにただ日ユ同祖論のような荒唐無稽な思想を根拠に、「自分はキリストの子孫だ!」と誇り、そのために聖書を飾りとして利用したい人々の目には、聖書など真面目に読んで信じている人々は邪魔な存在としか映らないのである。

一言で言えば、日ユ同祖論であれ、国家神道であれ、天皇崇拝、先祖崇拝であれ、マルクス主義であれ、あらゆるグノーシス主義の流れを汲む思想は、みな今日では「日本スゲー系」などと呼ばれている自画自賛の潮流と何ら変わらないものであって、

セルフの美化 セルフの神化

を究極目的としている。キリストの十字架によらず、自己の死を経ることなく、生まれながらの自己がそのまま神となるという究極目的を彼らは追い求めているのである。

最終的には、天皇を頂点とする軍国主義日本の再来、戦前回帰の流れの中に合流し、一致団結して向かって行くことであろう。このようなものは、キリストの名とは本来的に全く関係がない。

もちろん、「天皇を頂点とする」と言っても、彼らにとっては、天皇も、キリストと同じように、自己のルーツを美化するための道具でしかないため、しょせんは飾り物である。

彼らにとっては、何であれ、すべてが自己を高めるためのツールなのである。そこで、そのような勢力がこの国を占拠するようなことがあれば、この国は「俺様スゲー!」と自己を賛美する人々で溢れかえることになるだろう(考えたくもないが)。

今日、安倍政権に反対しているように見えるほとんどの潮流は、このように、実質的には安倍政権と同一であり、間もなくその本質を表すであろうことに注意が必要である。

たとえば、そこには、護憲を唱えながらも、実質的に、天皇崇拝に陥っている政党も含まれる。

さらに、キリスト教徒を名乗りながらも、天皇に宗教的意義を見いだし、天皇制を強調している者も含まれる。

さらに、キリスト教を装いながら、ニッポンキリスト教を盛んに攻撃している「俺様スゲー系似非キリスト教」もそこに含まれる。

これらはすべて、表向きには日ユ同祖論やマルクス主義とは手を結んでおらずとも、最終的には、一つの勢力として結集して行くであろう思想たちである。

これらは「俺様スゲー!」という自己愛(セルフへの執着)を基軸として、国民が再び一致団結して立ち上がるという究極目的へと続いて行く道である。一体、何に対して集団的に団結して立ち上がるのか? 死の恐怖に対し、侵略の恐怖に対し、自己を喪失する恐怖に対してである。

要するに、自分の内側にある恐怖をごまかすために、「日本はスゴイ!天皇はスゴイ!だから俺達もスゴイ!」などと吹聴して集団的な自画自賛に明け暮れ、自分の罪を見なくて良いように、絶えず自分の外に仮想敵を作り出しては、それに自分の罪を転嫁して集団的に攻撃を繰り返し、さらに、その攻撃を「世界の救済のため」などと言い換えながら、破滅へ向かって進んで行くのである。

こうした思想に欠かせない特徴は、「絶え間のない自画自賛」と「己の欠点から目を背け、自分が他者より優れていることを誇示するために、絶え間なく仮想的を必要とすること」だと言えよう。

たとえば、「ニッポンキリスト教」などという呼び名を使い、キリスト教への絶え間のない攻撃を行っている勢力も、これに含まれる。我々は、そのような勢力が、本質的にキリスト教とは無縁の勢力であることを心しておく必要がある。(現に彼らはキリスト教を否定し、自分たちは宗教とは一切関係がないと公言している。)

本当はキリスト教を攻撃し、駆逐することを目的としている勢力が、表面的には、自分たちがあたかもキリスト教徒の一部であるかのように装いながら、聖書を用いて、偽物の福音を語るということは昔から行われて来た。

エホバの証人やモルモン教徒がキリスト教を名乗っているのと原則は同じである。

もちろん、筆者は日本のキリスト教の宗教組織としての教会のあり方が正しいと言うわけではない。筆者のような人間は、牧師制度も必要ないものとみなしている。だが、そうした地上的な組織の有様に関する議論と、聖書の根底に流れる思想そのものを否定・攻撃することはわけが違う。

聖書66巻を神の霊感を受けて書かれた書物だと認めている人々の間には、いかに教団教派が違えど、宗教組織を超えた連帯が存在する。

しかし、ニッポンキリスト教を絶え間なく批判している勢力は、自分たちがキリスト教よりも優れた勢力であることを誇示したいだけである。彼らは聖書を利用はするが、決してその教えに従わない。十字架を語っても、自己の死を認めない。信仰のゆえの苦難を厭い、自己を高く掲げて栄光化し、目の欲、肉の欲、持ち物の誇りに邁進し、己を低くして日々の十字架を負うこともない。このようなものがキリスト教と一切、関わりのない自画自賛の思想であることは明白である。ニューエイジの思想も取り込み、アセンションを経て、すでに自己を神とする領域へ達している。

どんなに自己を栄光化し、高く掲げても、彼らがのべつまくなしにあらゆる牧師をひっきりなしに批判し続けねばならないことが、彼らの内心の空虚さを何より物語っている。他者を否定したところで、寸分たりとも自分が進歩し、神聖な存在に近付けるわけではないのに、そのようにして絶えず、自分の処刑場に誰かを引っ張り出して来ては、自分には関係もなく、自分に害を加えたこともない赤の他人をひっきりなしに貶め、辱め、非難し、嘲笑し、否定せずにいられないことが、彼らの内心にある絶えざる恐怖、払拭できない空虚さを何よりもよく証明している。

そのようにして彼らが勝ち誇り、凌駕したい相手とは、最終的には、まさにキリストご自身なのである。キリスト教界に対して勝ち誇ることは、神に対してマウンティングをしていることとほとんど同じである。今日のキリスト教界はあまりにも弱体化しすぎており、牧師という人々が神聖を表すのではないとはいえ、そこにはやはり教会の名残がある。神の教会を貶める行為は、神ご自身を敵に回すのとほとんど同じである。

創価学会や統一教会がカルトと非難されて仕方がないものであるにせよ、あらゆる宗教には、神への畏敬の念が投影されていることは確かであるから、すべての宗教をのべつまくなしにカルト扱いしたり、十把一からげに「新興宗教攻撃」に走る人々は、要するに、あらゆる宗教を攻撃することによって、神ご自身を否定し去ろうとしているのだと言える。

そして、神を否定する代わりに、自分を神として高く掲げるのである。

ニッポンキリスト教を攻撃している勢力の所業は、まさにキリストの名を存分に利用しながら、キリストご自身を否定して、自己をそれに置き換え、自己を神とすることである。

そうして神と自己を置き換えることが、異端思想の特徴である。だから、このように、絶え間なくキリスト教を悪罵しては、「自分だけは本物だ!」と豪語している勢力こそ、まさに偽物のキリスト教なのである。(繰り返すが、彼らは自分たちをキリスト教徒だとみなしていない。すべての宗教とは無縁であり、キリスト教とも別格の存在だと主張している。だが、それならば、いっそ誤解のないように、聖書を使うこともやめれば良かろう。)

筆者はあくまで聖書の御言葉に固く立って歩みを進めるつもりである。それを時代遅れや偏ったものの見方のように吹聴する人々がどれほど現れようとも、事実は逆である。人の目を恐れるのか、それとも神の目を畏れるのか。私たちは常に選択を迫られている。世相になびいて神の御言葉を捨てる者は愚かである。

「「人は皆、草のようで、
その華やかさはすべて、草の花のようだ。

草は枯れ、
花は散る。
しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」

これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。」(Ⅰペトロ1:24-25)

さて、この話題はここまでにしておこう。脱線が長くなってしまったので、手短に本題に入りたい。

「かめの粉は尽きず、瓶の油は絶えない。」これは筆者がよく思い出す、好きな箇所の一つである。預言者エリヤがケリテ川のほとりで、主のはからいにより、カラスを通してパンと肉を運んでもらって過ごしたというあの有名な箇所の後で、彼は今度は貧しいやもめ女のもとへ身を寄せる。

やもめにはエリヤを養う余裕など全くない。むしろ、彼女は最後の食糧や水を使い切って死のうとしているところであった。そこへ預言者がやって来て、その最後の食べ物を要求する。やもめはこれを断らず、エリヤの命に従った。それによって、預言者も彼女も双方生き永らえるのである。

「しかし国に雨がなかったので、しばらくしてその川はかれた。
「その時、主の言葉が彼に臨んで言った、「立ってシドンに属するザレパテへ行って、そこに住みなさい。わたしはそのところのやもめ女に命じてあなたを養わせよう」。

そこで彼は立ってザレパテへ行ったが、町の門に着いたとき、ひとりのやもめ女が、その所でたきぎを拾っていた。彼はその女に声をかけて言った、「器に水を少し持ってきて、わたしに飲ませてください」。

彼女が行って、それを持ってこようとした時、彼は彼女を呼んで言った、「手に一口のパンを持ってきてください」。 彼女は言った、「あなたの神、主は生きておられます。わたしにはパンはありません。ただ、かめに一握りの粉と、びんに少しの油があるだけです。今わたしはたきぎ二、三本を拾い、うちへ帰って、わたしと子供のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしているのです」。

エリヤは彼女に言った、「恐れるにはおよばない。行って、あなたが言ったとおりにしなさい。しかしまず、それでわたしのために小さいパンを、一つ作って持ってきなさい。その後、あなたと、あなたの子供のために作りなさい。 『主が雨を地のおもてに降らす日まで、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない』とイスラエルの神、主が言われるからです」。

彼女は行って、エリヤが言ったとおりにした。彼女と彼および彼女の家族は久しく食べた。主がエリヤによって言われた言葉のように、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えなかった。 」(列王記上17:7-16)

筆者はあらゆるところでこの話を思い出す。今日、目に見える形で預言者エリヤが私たちのもとを訪れることはない。私たちと共におられるのは、目に見えないキリストである。

そして、キリストは、私たちに地上のものを預けておられる。それを使って神を証しなさいと言われる。しかし、時折、主は私たちが持っているごくわずかばかりのものを指して、「それを私のために使いなさい」と言われることがある。

その命令は、声なき声のようであるから、無視することも簡単にできるだろう。だが、私たちはあらゆる限界、欠乏、死の恐怖を打ち破って、自らの限界ある命を神に差し出し、神に使用してもらおうとする。その時、私の限界、欠乏、死の恐怖が去り、洪水のようにとは言わずとも、日照りで焼け付く地にオアシスが生まれるように、私たちに信仰によって与えられた永遠の命を通して生ける水の川が流れ、荒野に食卓が整えられる。

エリヤとやもめが共有したパンと水とは、まさにキリストの体を象徴していることだろう。

やもめの家に絶えなかった粉、油は、地上でキリストの体を養い、キリストの証しを維持するために与えられたのである。

まことにダビデが歌った通り、敵前でも、主は僕のために食卓をもうけて下さり、杯に注ぎ入れ、頭に油を注いで下さる。それは、人の目には瞠目するような豪勢な食卓には見えないかも知れないが、それにあずかる者には、確かに主が共におられることが分かる、他のどんなものにもかえがたい食卓である。

現代は御言葉の飢饉の時代であり、命の水の川は国中で絶え果てたように見える。嘘偽りがはびこり、どこにも真実など見いだせず、誠実な人々は、このやもめ女のように、恐ろしい危機的時代の様相に倦み疲れ、生きる道など見いだせまいと考えているかも知れない。

だが、その中で、主に従って生きる望みを捨てさえしなければ、私たちは常に一抹のごくわずかな真実を土台に生きて行くことができる。国中が暗黒に包まれたような恐るべき時代に、人の目から見れば、存在しているかどうかも分からないほど貧しく取るに足りないエリヤとやもめの限界の中に、主は確かに共におられ、生きて力強く働かれたのである。

PR

「人はその父と母を離れて」ー「生み生まれる」天然の関係に、十字架の霊的死が適用されなければ、人は神の宮として生きることはできない

・「生み生まれる」天然の関係に対して十字架の霊的死を経なければ、人は神の宮とはなれない

前回では、三島由紀夫の『金閣寺』には隠れた霊的プロットがあることを見て来た。すなわち、金閣寺とは、深い文脈では、神の宮として作られた人間自身のことを指しており、人間が本来あるべき状態を取り戻したときの理想的な姿を象徴的に表していることを見て来た。

この物語の主人公は、吃音という(より深い文脈では人類の罪を象徴する)問題を抱えているため、恥や不完全さとコンプレックスの意識に絶えず苛まれており、自分が理想状態から遠くかけ離れており、それに「値しない」という意識を持っている。

そこで、主人公は自分を惨めで恥ずべき存在と考えているが、金閣寺に憧れるとき、彼は無意識のうちに、自分が本来的に、神の宮として創造されたことに思いを馳せ、その機能を完全に取り戻したいと思い焦がれているのである。

従って、主人公が金閣寺との一体化を目指すことは、決して自分の外にある、自分とは全く別の何かを得ることによって、高みに至り着きたいと考えているわけではなく、むしろ、彼は人類の願望を代弁して、「この堕落した状態から抜け出て、神の宮としての機能を取り戻し、あるべき完全さや尊厳に立ち戻るためには、どうすれば良いか」と考え続け、自分自身の理想を追い求めているのである。

つまり、この主人公にとって、金閣寺とは、被造物が罪を取り除かれて、あるべき姿を取り戻したときの美や完成の象徴であり、彼は自分自身がそのようになりたいからこそ、金閣寺に尽きせぬ憧憬と思慕を抱くのである。

それにも関わらず、主人公が金閣寺に到達できないことを知って、自らの理想である金閣寺を否定し、破壊することは、人類が目指していた本来的な目的を諦め、これを否定すると同時に、それに到達するために創造された自分身を破壊することを意味する。

それゆえ、「金閣殺し」は「自分殺し」に結びつくのである。

主人公が追い求めていたものは「永遠の女性美」でありながら、それは彼と全く関係のないものではなく、神の宮として創造された自分自身のことだからである。

だが、なぜこの主人公にとって、金閣寺はそれほどまでに手の届かない、到達不可能な目的だったのか。なぜ彼はこの神聖な神の宮を目指しても、それに拒まれているという意識しか持てなかったのか。

それは、この主人公には、罪を贖う「十字架」が欠けていたからである。

聖書によれば、人が神の宮となることができるのは、キリストの御霊が、信仰によって、信者の内に住み、信者がその霊に従い、この霊を尊び、崇めて生きる時だけである。

そうなるためには、人はアダムの命に対する死をくぐらなければならない。

生まれながらの被造物には、どんなことをしても、神の霊と交わる道はなく、それゆえ、神の宮としての機能を発揮することもできない。

その事実を知らず、受け入れられない人々は、生まれたままの命のままで、何とかして最高の美に到達しようともがき、それに値する存在となるために、自分の堕落した命を改造しようと必死に努力し、苦しむ。

そして、目に見える人間の誰かの中に、自分の模範となるべき像を探し求め、その人物を「神」として崇め、忠誠を誓うことで、自分自身も神に連なろうと試みたりするが、その試みが成功することは決してない。

彼らがどんなに被造物を神として拝み、これに近づこうとしても、結果として判明するのは、「自分は神から疎外されている」という事実だけであり、彼らは自分が神として拝んでいるものとさえ、決して一体化することができない。

さて、聖書の創世記が述べている「それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。 」(創世記2:24)という御言葉には、霊的な文脈があり、それはキリストと花嫁たるエクレシアの合一を指している。
 
その霊的合一は人自身の中で起こるのであり、そのようにして人が神の霊を入れる神の宮となり、人の内側で神の霊と人の霊が一つとなった状態こそ、人間のあるべき完全な姿であるのだと言える。

人自身が神の幕屋となり、そこに神の霊が入り、神の霊の光によってその宮全体が照らされ、神ご自身だけでなく、宮も神聖とされるのである。

『金閣寺』の主人公は、そのようなことがありうるとは知らないまま、無意識に「永遠の女性美」を追い求める。彼はその理想の中に、神の霊を祀る宮としての機能を取り戻した時の人類の姿を見ようとしているのだとは自分では知らない。

そして、もちろん、彼の目指している「永遠の女性美」も、本当は金閣寺の中にはなく、キリストの花嫁たるエクレシア(教会)の中にしか存在していないことを知らない。

この主人公がそこに至り着くただ一つの方法は、人類を罪から贖うキリストの十字架を経て、自分自身に対して霊的に死ぬことだけである。

その唯一の解決を退けた結果が、霊的死ではなく、物理的な死を通して、この理想と一体化するという悲劇の結末を生むのである。

仏教の世界観においても、グノーシス主義と同様、世界の根源は、虚無の深淵のごとき存在としての「無」であるとされる。従って、仏教哲学の概念に照らし合わせても、主人公が至高の存在として追い求め、憧れている金閣寺には、真のリアリティはないということが分かる。

金閣寺は、結局、エクレシアの模造品としてのバビロンを意味するのであって、被造物が決して十字架の死を通ることなしに、美の極致、完成に至れるという偽りの思想なのであり、それは偽りの幻想でしかなく、その本質は「無」なのである。

しかしながら、人がキリストの十字架を通して贖われ、神の神殿となり、神が人の内側に住まれ、人と共にある状態は、決して人にとって達成不可能なおとぎ話のような理想ではない。

それは人類にとっての悲願であるだけでなく、神にとっての悲願でもあることが、聖書の記述から分かる。

「見よ。神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも苦労もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示21:3-4)

このように、神の霊が人の内側に入り、人が宮としての機能を取り戻すとき、初めて人は永遠の存在となり、自己の完全性を得ることができる。もちろん、最終的な贖いの完成のためには、復活の時を待たねばならず、地上ではその予表を見ているとはいえ、それでも、相当な程度、その完全性にあずかることはできるのである。

だが、聖書が、そのようにして、人が神の霊を受けるための条件として、要求していることは、「人はその父と母を離れて」という事実である。

これは何を指しているのか。より深い意味では、人が罪を悔い改めてバプテスマを受け、キリストと共なる十字架を通して、この世に対して死に、自分自身に対して死に、生まれながらのアダムの命とそれに関わるすべてのものに対して死んで、神に対して生きる者となることを意味する。

そのことが、創世記においても、すでに予表されていたのだと言える。つまり、人が生まれながらの「父と母」との関係を離れ、「生み生まれるという自然の関係」に対して死なない限り、神との出会いも結合もあり得ないことを、創世記の御言葉は予表しているのである。

教会を表す原語エクレシアとは、「この世から召し出される」という意味で、この世から召し出されておらず、天然の関係に死を経ていない者は、神の民とはならず、神の宮ともならない。

詩編の次の言葉も、同じことを意味する。

「娘よ、聞け。
耳を傾けて聞き、そしてよく見よ。
あなたの民とあなたの父の家を忘れよ。
王はあなたの美しさを慕う。
王はあなたの主。彼の前にひれ伏すがよい。
ティルスの娘よ。民の豪族は贈り物を携え
あなたが顔を向けるのを待っている。」(詩編45:11-12)

これもまた人が生まれながらの出自から召し出されて神の民とされ、キリストの花嫁たるエクレシアに加えられる十字架の死と復活のプロセスを表しているのである。

ヨハネの福音書には、主イエスとファリサイ派のニコデモの次のようなやり取りがある。

「イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。
ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょう。」

イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。」(ヨハネ3:3-7)

主イエスの言われた「新たに生まれる」ことは、人がバプテスマを受け、信仰によって、生まれながらの命に死に、キリストの命によって新たに活かされることを意味する。それがなければ、人は神の国に入ることはできない。生まれながらの命に生きる姿のままでは、誰一人、神の霊をいただいて宮となることは不可能なのである。

次の言葉も同じように、生まれながらの関係に対する霊的死の必要性を述べている。

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。
人をその父に、
娘を母に、
嫁をしゅうとめに。
こうして、自分の家族の者が敵となる。
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイ10:34-39)

聖書は、父と母を敬えと教えており、両親を憎むべきとは教えていない。しかしながら、イエスは、人が神を愛する以上に、自分の生まれながらの出自や家庭を大事にして生きることは無理であると教える。

神に従う過程で、信者らは必ず、父や母への天然の愛情、娘や息子への天然の愛情という、「生み生まれる自然の関係」に基づく魂の情愛を死に渡さなければならない時が来ることを示されたのである。

従って、聖書の教えは、国家神道が教えるような「生み生まれるといふ自然の関係を本とし」て、人が神の国に到達できるというものではない。それは絶対的に不可能である。

それで人はその父と母を離れて」とあるのは、真に人がキリストに結ばれるためには、必ずキリストと共なる十字架を通して、自分自身の生まれながらの命や、天然の自己、この世、肉にあるすべての関係に対して死を通らねばならないことを示しているのである。

そういう意味で、「父と母を離れ」るという言葉の意味は非常に深いと言える。それは人が生まれたままの姿では、決して神の国に入ることができないことを示している。

しかし、すでに述べて来たように、今日、実にキリスト教界においては、この原則が破られて、さかさまの教えが説かれているのが現状である。

たとえば、多くの他の教会では、一人の信者の一家全員が救われて教会に所属し、「クリスチャンホーム」が形成されることこそが、信者の目指すべき到達目標であるかのように教えられる。

この世の習慣を通して「父の日」や「母の日」といったイベントが祝われるだけでなく、さらには、信者の家族であれば、救われていなくとも、教会の一員であるかのように教会で葬儀が行われたりするのが現状である。

肉による親子関係が、十字架の死を経ることもなしに、公然と神の家族であるかのように教会に持ち込まれているのである。

しかし、我々は、聖書を通して、神の家族と、肉による家族との間には、何の関係もないという事実を見る。

主イエスは、公生涯を始められてから、肉による親子関係を全く神の家族の中に持ち込むことは全くなさらず、生みの親子であるからと言って、ご自分の肉親を、信仰によって結ばれた神の家族以上に重んじることは全くなさらなかった。それは次の御言葉から明らかである。

「イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう。あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」(ルカ11:27-28)

「イエスが群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人がわたしの兄弟、姉妹、また母である。」」(マタイ12:46-50)

また、イエスは十字架にかかられた時、自分を生んだ母を目の前に見て、次のように言われた。

「イエスは母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」(ヨハネ19:26-27)

このように、イエスはご自分の肉親を、信仰を持つ他の人々の前で、特別扱いすることはなさらなかったが、ついに十字架の下で、肉による親子の絆は本当に断ち切られ、それに代わって、信仰による神の家族が成立したのである。

使徒行伝では、イエスの母マリアとイエスの兄弟たちが、何一つ特別な待遇を受けることなく、他の信徒の兄弟姉妹と同じように、共に集まり、祈っている姿が描かれている(使徒1:14)

このように、主イエスは徹底して肉にある絆を退けられ、信仰によって結ばれた神の家族としての絆を重んじられた。にも関わらず、今日のほとんどの教会ではそれが完全にさかさまになってしまっているのである。

今日の教会では、ペンテコステ・カリスマ運動のように、あからさまに「キリスト教には父性的要素ばかりが強すぎて、母性的要素が足りない」と、ケチをつけることはないかも知れないが、それでも、「キリスト教はこれまで社会的強者ばかりを伝道対象とし、社会的弱者を容赦なく見捨てる冷たい宗教であった。キリスト教はこのような残酷な欠点を克服しなければならない」と言って、信仰によらない弱者救済活動に非常に熱心となる風潮は至る所に見られる。

ホームレス伝道やその他の慈善事業といった、本来、この世のNPOや市民団体が行うべき社会事業にまで、教会が積極的に乗り出し、弱者救済活動を売り物にして注目を集め、あるいは、カウンセリングなどと称して、精神的な弱さを抱える人々を積極的に招き寄せては、支援を表明する。

しかし、こうした弱者救済活動は、人の弱さを美化し、甘やかすことはしても、弱者を決して弱さから解放することはない。それどころか、人の弱みをきっかけとして、弱者をさらなる搾取と支配の中に巻き込んで行くだけである。

人の弱さ、愚かさ、恐れ、恥の意識、罪意識は、本来的には、罪から来るものであり、主と共なる十字架の死に渡されるべきものである。

教会が、そうした人の弱さを、あたかも大いに同情を受けるべき、哀れまれるべきものであって、まるで貴い神聖な要素であるかのように扱うことは根本的に間違っている。

だが、そのようにして、アダムの命に属するものは何であれ、すべて十字架で霊的に死に渡されねばならないという聖書の真理を無視して、教会が各種の弱者救済活動に熱心になり、弱者を美化した結果、今日の多くの教会には、元ヤクザ、元ホームレス、元カルト信者、障害者、病者などの社会的弱者が溢れ、特別な事情を抱える、精神的な弱さを持つ人たちが溢れ、これらの人々が、まるで自己の弱さを聖なる要素であるかのように考えて誇るという転倒した現象が起きているのである。

教会が「病院」や「駆け込み寺」のようになってしまった挙句、病院ならば、きちんと治療を施して退院させてくれるからまだ良く、「駆け込み寺」は一時的な退避の場でしかないが、いつまでも「愛」や「憐れみ」を口実に、人の弱さを甘やかし、助長するばかりで、何の治療も施さず(もちろん、病院でないのだから、教会が人の弱さの治療などできるはずもない。カウンセリングにしても同じことである)、人の弱さに終わりなき同情の涙を注ぎ、これを壊れやすい宝石のように扱うばかりで、かえってより一層、人がその弱さを手放して力強く立ち上がることが永久にできなくなるように仕向けているのである。

このようにして、今日のほとんどの教会は、旧創造に属するものを死に渡すどころか、これらを惜しみ、いたわり、哀れみ、尊びながら、本来ならば十字架で死に渡されるべき数々の肉にある関係、罪から来る弱さ、この世とのつながりを、あたかも信仰生活の欠かせない一部であるかのように説き、公然と受け入れている。

そういうことの結果、今日、教会と名のつくほとんどすべての教会において、信仰生活は、父なる神を中心とするものでなく、被造物を中心とする、被造物を喜ばせるための教えに代わってしまった。

福音とは、人間の指導者が、信徒の弱みにつけこみながら、信徒を搾取して生計を成り立たせるための手段でしかなくなり、人間の宗教指導者に栄光を帰する手段となり、信仰は、被造物を喜ばせるこの世的な祝福や恵みを引き出す手段とみなされ、信仰生活の目的は、自分たちだけが、どれだけ多くの恵みを獲得して、他の信徒の及ばない特権階級としてハッピーな生活を送れるかにあるとさえ考えられるようになったのである。

聖書の御言葉が骨抜きにされ、キリスト教が、父なる神ではなく、被造物を喜ばせる教えへと変えられているのである。

これはもうキリスト教ではない。それは明らかに被造物崇拝という、キリスト教とは異なるグノーシス主義的な偶像崇拝の教えである。

そこで、人がこのような偽りの只中に身を置き、目に見える人間を拝み、自分の欲望を満たすために、神を求め、信仰を手段として利用しているうちは、その信者の内に本当に神が住んで下さり、ご自分を現して下さることは決してない。

彼らが哀れみ、救済しようとしている対象は、神が十字架において、廃棄することを決定された古き人間であり、彼らが拝んでいるものは、キリストの十字架の死を経ていない、旧創造としての目に見える人間なのである。

このような教えは、根本から十字架に逆らう偽りであるから、これと分離・訣別しないことには、結局、そういう教えを信じている人々は、最終的には、金閣寺の主人公と同じような結末を辿るしかなくなる。

神殿とは、神を祀るための場所であり、俗世とは完全に区別された聖なる領域であって、ただ神のためだけにもうけられた特別な場所である。

ところが、クリスチャンを名乗っている信者らが、誰を神としているのかも分からない生活を送り、己が欲望を満たすためだけに信仰生活を送り、目に見える宗教指導者を誉め讃えていれば、一体、そんな人々を、誰が神殿と認められようか。

「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。キリストとべリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。

神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。

「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。
 そして、彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 だから、あの者どもの中から出て行き、
 遠ざかるように』と主は仰せになる。

「そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる。』
 全能の主は仰せられる。」(Ⅱコリント6:14-18)

「あの者ども」は、被造物を神として拝んでいるすべての人々のことを指す。それはキリスト教の神を知らないがゆえに、この世の様々な誤った思想のとりことなって生きている世人のことではなく、まさにキリスト教を知っていながら、神の御言葉を曲げて、それを被造物中心、人間中心の教えへと歪め、虚偽の福音を宣べ伝えている偽善者たちのことを指すのである。

残念ながら、今日、数々のキリスト教会で教えられているのは、このように転倒した教えであり、クリスチャンを名乗っている人々の大半は、そうした偽りの教えを信じる人々である。

これを行き過ぎた悲観であるとは思わないでもらいたい。なぜなら、聖書ははっきりと以下のように予告しているからだ。

だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。」(Ⅱテモテ4:3-4)

「だれも健全な教えを聞こうとしない」時代がすでに来ているのである。

もはや9割以上の”クリスチャン”を名乗る人々が、グノーシス主義に汚染された被造物中心の教えを拝し、神を信じると言いながら、自分自身の欲望を拝んでいると言って過言ではない。

そのような人々は、自分に都合の良い話を述べてくれる教師たちをてんでんばらばらに担ぎ上げては、その指導者を偶像として足元に群がっているが、聖書は、クリスチャンがキリストに従う上で、いかなる目に見える「教師たち」からも教えを受ける必要はないと述べている。

「以上、あなたがたを惑わせようとしている者たちについて書いてきました。しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。」(Ⅰヨハネ2:26-27)

御言葉がこのように、御霊に聞くよう教えているのに、目に見える人間から教えを受けることが必要不可欠であるかのように説く教えは、まさに聖書をさかさまにした偽りであり、その根本には、被造物を神として崇めるグノーシス主義があればこそ、そういう結果が出るのである。

今日、キリスト教界を名乗っているところでは、例外なく、御言葉を取り継ぐ教師を名乗る「牧師」が存在するのも、同じ理由からである。

牧師制度とはグノーシス主義的なヒエラルキーを教会に持ち込んだものであり、宗教指導者を神として目に見える人間い栄光を帰し、信徒への搾取を肯定する霊的階級制度なのである。

そのような制度を敷く教会では、信徒は目に見える人間である牧師を介することなく、信仰生活を送ることはできず、このようなシステムの中にいる限り、信徒がキリストの御霊から直接真理を教わって生きることは無理である。

だからこそ、そのような忌むべき場所からは、エクソダスせねばならないのである。

こうした教会にいる信者たちは、どんなに熱心に教えを乞うているつもりであっても、被造物を神として拝むことによっては、決して誰も神の国に入ることはできない。そこで、彼らは、自分たちは神を信じていると言いながら、ますます神から遠く「疎外」され、不自然で異様な生き方に転落していく。

そして、自分たちの罪を覆い隠すために、神に忠実に生きている兄弟姉妹や、本物のエクレシアである神の教会を攻撃したり、最後まで、自分が誤っているという事実から逃避し続けるために、自決のような形で自ら世を去るか、もしくは集団自殺を遂げるか、あるいは病や、精神的弱さや、罪や、それまでさんざん彼らが「哀れまれるべき弱さ」であるとして振りかざし、美化し、誇り、甘やかして来た自分のわがままのツケを支払わされて、罪に問われたり、刑罰を科されたり、病に飲み込まれたりしながら、自滅の道を辿るしかないのである。

キリスト教とは、十字架の死をキリストだけに押しつけて、人間だけはこれを元手に恵みに満ちたハッピーな生活を送れば良いというお手軽な教えではない。むろん、それは人間が苦行にいそしむことで「自らの十字架を負う」という教えでもないが、主と共なる十字架における霊的な死を受け入れた人々だけが、神の定めた滅びの刑罰を免れることができるわけであるから、アダムの命を愛し、天然の自己を愛し、己が欲望を神とする人々が、キリストだけにすべての苦しみと恥を押しつけたつもりいなって、自分は十字架における霊的死を免れられたかのように錯覚できるのは、ほんの一瞬でしかない。十字架を逃れたと思っていると、彼らにはその代わりに、現実の滅びが襲いかかるだけなのである。

もう一度書いておこう。イエスは言われた。

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。

また、パウロも言った。

「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。

何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです、彼らの行き着くところは滅びです。彼らは 腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。

キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に造り変えてくださるのです。」(フィリピ3:17-21)


主につまずかないために

 イエスは言われた、 「私につまずかない者は幸いです」と(マタイ11:6)。この言葉を思う時、私は厳粛な思いにさせられる。私たちは一体、信仰生活を送る上で、何に最もつまずかされているだろうか? 聖書的な知識の欠如? 未熟なクリスチャンたちの冷たい態度? 日曜礼拝の味気ない説教? 教会組織の不本意なあり方? それとも、私たち自身の自己中心や不完全さ?

 答えは、そのどれでもない! イエスが言われたことは、真理そのものが、私たちがつまずく最大原因となるということなのである。他のどんなものよりも、イエスご自身が、私たちのつまずきの源となるのである。イエスという岩の上に落ちる人は、粉みじんに砕かれ、またその岩が落ちかかっていけば、人を粉みじんに打ち砕く、という御言葉の意味がそこにある(ルカ20:18)。

 イエスにつまずく。この言葉は、自分をクリスチャンだと思っている人々には、厳しいものとなるだろう。何しろ、私たちが最も愛していると思っている主に、他ならぬ私たちがつまずくのだ。つまずくということは、主から顔を背け、主を見捨てることと同じである。イエスが十字架にかかられる前に、弟子達が主を拒んで散り散りに散ったように、私たちも、思いを頑なにして、主から離れるときが来る、ということをイエスは予告されたのである。
 以下、色を変えてある部分は、ジェシー・ペン-ルイス著、「つまずかない者は幸いです」からの引用。

「その時、イエスは彼らに言われた、『あなたがたはみな、私につまずくであろう』。」(マタイによる福音書26章31節)

「ペテロは答えて言った、『たとえ、みんながあなたにつまずいても、私は決してつまずきません』。弟子たちもみな同じように言った。」(マタイによる福音書26章33、35節)

 主がこの世に来られた目的が成就される時が近づいたとき、彼はご自分の小さな群れにむかって、「あなたがたは、私につまずくであろう」と言われました。主は彼ら以上に、彼らのことをご存知でした。主の言葉は彼らの激しい抗議を引き起こしましたが、後に、「彼らはみな、彼を見捨てて、逃げ去った」と聖書は記しています。

 十字架のつまずきは、まだやんだわけではありません!昔、主に身近な者たちが主を見捨てたように、私たちも主を見捨てるかもしれないのです!

 「脱穀」が始まった時、私たちは試みに耐え、私たちの信仰の告白を揺らぐことなく堅く保ったかもしれません。私たちは、主が選んで遣わされた僕たちを通して、主の幻を見、主の御声を聞いたかもしれません。私たちは、彼の真理の鋭い刃を喜んで受け入れ、神の力強い御手の下にへりくだったかもしれません。私たちは、彼の御言葉を自分の心に秘め、彼に従ってその道を歩む時、「つまずかなかった」かもしれません。

 これがすべて真実だったとしても、主の十字架の真の交わりが身近に迫るとき、あの晩、ペテロが裁きの間で主を見捨てたように、私たちも主を見捨てるかもしれないのです。

 「私につまずかない者は誰でも、幸いです」は、特に今日のためのメッセージです。私たちは厳しい時代に生きており、多くの人は、主の再来が近づいていることを、内側深くで感じています。


 私にも、今までの人生で、何度も、主を捨てて立ち去った瞬間があった。それが、私が真理につまずいた瞬間だった。つまずきの瞬間は、暴露の瞬間である。人の心の中で、何が至高の価値であるかが、その瞬間に、暴露される。イエスを信じていると言いながら、真理以外のもの(=セルフ)を大切にしているならば、その人はその決定的瞬間に、必ず、真理なるお方を見捨てる。そして、光を捨てた報いとして、暗闇がやって来て、平安のない、混乱に満ちた人生が始まるのである。

 キリストのからだの生ける肢体たちは、火によってためされつつあります。すべて「火に耐える」ものは、「火の中を通され」つつあります(民数記31章23節)。

 一つの力が、(主を)告白する教会の中で働いており、主と真に結合されている者たちを、神と小羊へと分離しつつあります。

 十字架への招きが試金石です。十字架の道が試金石です。キリストは、「自分の十字架を負って、私について来ない者は、私にふさわしくありません」と何度も言っておられます。

 私たちの中で、小羊に従い、「つまずかない」人々は誰でしょう?

 主ご自身が、「私の名を告白する者の多くは、終わりの時代に『つまずく』であろう」と予告されました。

 「私の名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を欺くでしょう。また、あなたがたは、戦争、飢饉、疫病のうわさを聞くでしょう。・・・また、私の名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。・・・その時、多くの人がつまずき、互いに裏切ります。」(マタイによる福音書24章5~10節を見よ)

 時がたつにつれて、「十字架のつまずき」はますます激しくなるでしょう。この世は、キリストのからだの生ける肢体たちに、ますます激しく敵対するようになるでしょう。十字架を拒絶し、主の身代わりの死による救いの知らせを拒絶し、主に従って主の犠牲の道を歩むことへの召しを拒絶する人々は、十字架に栄光を帰し、十字架につけられたイエス・キリスト以外に人々の間で何も知らない人々を、ますます激しく拒絶し、憎むようになるでしょう。その時、「多くの人がつまずき」ます。しかし、悲しみの始まりの時代に、神と兄弟に「つまずかない者は誰でも、幸いです」。

 恐らく、今はつまずきの最も激しい時代なのであろう。キリスト教界の中で、何と多くのクリスチャンを自称する人々が、真理に、十字架につまずいていることだろう。十字架にあるはずのまことの命を否定し、互いに裏切り、告発し合って、果てしない罪定めのし合いという、泥仕合で信仰生活を終えてしまっている人々がどれほどいることだろう。悲しいことである。十字架がすでに全ての争いに対する和解の生贄を提供しているというのに、それを受け入れることができずに、司法の場に改めて和解を求めている人々がいるのだ。

 また、被害者のカウンセリング、各種の心のケア、リハビリテーション、などの心理学的方法論をさまざまな教会が公然と取り入れ、カウンセラーや牧師の手腕を堂々と誇って、世に宣伝し、まことのカウンセラーたる聖霊を強引に押しのけ、影に隠していることも、つまずきである。人知による方法論を誇り、十字架による復活の命を、人の目に触れないところに隠してしまっている人々も、十字架につまずいている。

 その他にも、生活の安穏を大切にしすぎるあまり、日々の十字架を負うことを拒んでいるクリスチャンがいる。自分たちの築いてきた組織形態に固執するあまり、他のクリスチャンを否定する人々もいる。合計するならば、おびただしい数のクリスチャンが、今日もキリストにつまずいていると言えるだろう。そして真理につまずいたクリスチャンが、まことのクリスチャンを攻撃し、迫害するという構図が続いているのである。

 私もかつては同じように無知なクリスチャンであり、死んでいた者だった。しかし、今は内なる人が変えられることによって、無知と誤謬から救われた。それはひとえに、私の努力や知識によるのでなく、ただ御霊の啓示によったのである。

 人に真理を啓示する力を持っているのは、聖霊だけである。その御霊を抜きにして、人が神の思いを知り、それに従うことは不可能である。過ちを犯した後の真摯な後悔や、自己反省や、カウンセリングとリハビリが人を救うのではない。

 「私がこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずかないためです。」(ヨハネによる福音書16章1節)

 主は、私たち自身と、私たちの弱さ、失敗、罪を啓示される時、必ず、私たちの必要を満たす神聖な備えについても知らせて下さいます。

 主は晩餐の席上、「今晩、あなたがたはみな、私のゆえにつまずきます」と言われました。しかし、主と弟子たちが別れる前に――主は十字架と苦難に、弟子たちは恥と悲しみに向かう前に――、主は弟子たちに神聖な秘密を解き明かされました。弟子たちは、その神聖な秘密によって、主が自分たちから取り去られても、また、取り残されて、主の御名を負い、彼のゆえにすべての人から憎まれる(ヨハネによる福音書15章18節) ようになっても、「つまずかない」でいることができました。

 主は弟子たちに、短く次のものを約束されました。
    • 慰め主なる聖霊の賜物
    • 復活された主の現れ
    • 父なる神を知る知識

 「私は父にお願いしましょう。そうすれば、彼は別の慰め主をあなたがたにお与えになります。」(ヨハネによる福音書14章16節)

 「私は(あなたがたに)私自身を現します。」(ヨハネによる福音書14章18~21節)

 「私の父は彼を愛され、私たちは彼の所へ行って、彼と共に私たちの住まいを造ります。」(ヨハネによる福音書14章20~23節)
 
 慰め主なる聖霊は、キリストに関する事柄を弟子たちにとって実際とし、彼らにキリストの心を伝えます。また、彼らにキリストのいのちを分け与え、彼らをキリストの平安と喜びで満たします。  内住する慰め主によって慰められている人は、「つまずき」ません!

  弟子たちが聖霊の慰めの中を歩むなら、復活されたキリストはご自身を彼らに現されます。そして彼らは、共に栄光にあずかる者となるために、喜んでキリストの苦難にあずかる者とされます。

 復活された主と親密に交わる人は、「つまずき」ません!

 弟子たちが啓示されたキリストの御旨に絶対的に従順に歩むなら、主は彼らにはっきりと御父について語られます。そして彼らは、聖霊によって、御子を通して、御父を内住する方として知るようになります。

 御父を知ることを学んだ人は、「つまずき」ません!

 「私につまずかない人は誰でも」、父なる神、子なる神、聖霊なる神の祝福によって、「祝福されて」います。

 
 真に御霊によって歩くことを学んだ人は、もはや真理につまずかない。キリストの復活の命によって生き、御父のご計画を、御霊によって理解し、命なるキリストのご性質を自分自身のものとして保ち、父と子と聖霊との一致の中に完全に引き入れられている人には、決して、十字架につまずくということは起こらない。
 さらに、そのような人の歩みは、徐々に洗練されたものとなっていき、他のクリスチャンををつまずかせることがなく、彼らの信仰を成長させるような歩みとなるだろう。

(ただし、これはあくまで、真に神の霊によって生まれた兄弟姉妹のことを指すのであって、イエスに従って歩まない偽兄弟は含まれない。滅びゆく人々にとっては、真理そのものがつまずきの源であるから、そのような定めにある人々は、真理に従うクリスチャンにも、必ずや、つまずくだろう。そういう意味では、真のクリスチャンは、イエスがそうであられたのと同じように、世人にとっては、常につまずきの石である。しかし、滅びに定められた人々が真理につまずくことは、私たちの責任ではない。私たちが注意を払うべきは、同じ御父から生まれた兄弟姉妹たちをつまずかせることがないように、ということである。)


 メッセージを終える前に、この今の邪悪な世に生きていながらつまずかない人々の特徴について、簡単に注目することにしましょう。

 彼らは「純真で、非難されるところのない者」です(ピリピ人への手紙1章9、10節)。なぜなら、彼らは深い謙遜と愛の中で、「務めがそしられないために、どんなことにも、つまずきの機会を与えない」ように努めるからです(コリント人への第二の手紙6章3節)。

 彼らは、知恵を持たない人々に対して、知恵によって接します。それは、「彼らをつまずかせないために」(マタイによる福音書17章27節)、主が知恵によって行動されたのと同じです。

 彼らは他の人々のために、合法的なものでさえも喜んで犠牲にします。それは、人々が「つまずいたり、・・・弱められる」ことがないためです(ローマ人への手紙14章21節)。

 彼らは、自分の生活を対処する時、自分を「つまずかせる」ものを(マタイによる福音書18章8、9節)、すべて断固として捨て去ります。なぜなら彼らは、主が次のように言われたことを知っているからです。

「この世はつまずきがあるから、災いです!つまずきが来ることは避けられません。しかし、つまずきをもたらす者は災いです。」(マタイによる福音書18章7節)

 十字架の要求につまずく者は、他の人々が歩む道の「つまずき」、あるいは「つまずきの石」になります。

 「つまずきが来ることは避けられません」。これは貧しい世にとって、何と悲しい言葉でしょう!この世はつまずきがあるから、災いです。不幸なことに、世は、神に似つかわしくない子供たちのために、神に背を向けているのです。

 クリスチャンを自称しながら、十字架の赦しにも、和解にも見向きもしようとせず、己を義人と考えて高ぶり、他人を容赦なく罪に定め、その結果として、互いに殺し合ったり、法廷で裁き合ったりしているクリスチャンを見れば、世が彼らにつまずくのは当然であろう。そのようにして、十字架に背を向けたクリスチャンが、クリスチャン全体の名折れになってしまっていることは言うまでもない。

 しかし、つまずきをもたらさないとは、それ以上のことである。私たちがたとえ十字架を拒んでいなくとも、うっかりした言動によって、信仰に入ったばかりのクリスチャンに誤解を与えたり、つまずきとなることは、できる限り、避けなければならない。この点で、自分にはすでに十分な思慮が与えられているので、誰のつまずきともならず、神に知恵を願い求める必要もないと断言できるような人は、一人でもいるだろうか?

 私は自分がこの点で軽率であり、知恵と知識に欠けていることを思わざるを得ない。しかし、兄弟姉妹たちの信仰に配慮するために必要な知恵を、願い求めるならば、御父は必ず与えて下さるだろうと信じる。


 神は私たちに恵みを与えて、つまずかない者にして下さいます。そして、つまずきをもたらす者たちの災いから、私たちを救って下さいます。

 「あなた(あなたの御旨)を愛する者たちは、大いなる平和を持ち、何ものも彼らをつまずかせることはありません。」(詩篇119篇165節)

 神を愛する愛の中には、大いなる平和があり、その平和が、まことのクリスチャンを一切の争いから救い、調和のうちに一つにしてくれる。自分の未熟さを知りつつ、畏れを持って、キリストの完全さを切に追い求めていくならば、御霊の与える知恵が、私たちの愚かさと無配慮に対する美しい覆いとなってくれ、私たちが主の戒めからはみ出すことのないように、歩みを健やかに守ってくれるだろう。それは私たち自身にとっても、蜜のように甘く、金よりも貴い、麗しい知恵である。

 「主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、
 主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。<…>
 主を畏れる道は清らかで、
 とこしえに絶えることがなく、
 主のさばきは真実であって、ことごとく正しい。
 これらは金よりも、多くの純金よりも慕わしく、
 また蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い。
 あなたのしもべは、これらによって戒めをうける。
 これらを守れば、大いなる報いがある。」(詩篇19:7-11)