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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

一点キリスト

 「一点キリスト」。これはSugarさんから学ばせていただいた言葉だ。
 私たちがキリストの歩まれた道を歩む時、主のご計画に基づいて、さまざまな不思議な出来事が身の回りに起こって来る。しかし、そんな時、私たちは決して、自分の五感に訴えかけてくる現象の中に主がおられると思って、現象に注目し、現象そのものを求めるようになってはいけない。
 また、祈っても、何の現象も起こらず、主からの応答もないように思われる沈黙の時があるだろう。しかし、そんな時にも、現象の有無を基準にして、御心をはかっているようではいけない。

 御霊に導かれて歩むとは、五感に訴えかけるこの世の現象に基づいて、私たちが信仰の判断を下すことではなく、ただ信仰の導き手であり、完成者であるイエスから目を離さずに、この方だけを見つめながら、歩み続けることである。
 ただ一点キリスト。私たちが見るべきは、このお方だけである。そうしていれば、どんなことが周りに起こっても、現象に惑わされて、信仰を見失うことはない。

 たとえるならば、この世は不完全な鏡のようなものであって、そこに映し出される主の栄光は、全体のほんの一部分、しかも一つの角度からの反映に過ぎない。「私はありてある者」と言われる方は、鏡の中にはお住すまいにならず、四隅に区切られない、永遠を住まいとされる。だから、この世の現象がキリスト者にとって、どんなに素晴らしく感じられることがあったとしても、私たちの眼差しは、いつもこの世を越えて、ただ見えない世界にだけ注がれる、思いはいつも、御座についておられるキリスト、ただそれだけである。

 さて、無事、家を決めてきた。
 夜行バスはさすがに疲れる。解体が進むチボリ公園前の広場で、深夜、バスに乗り込み、翌日、たった一日で、引越し先を決めて戻って来た。

 これまでに幾度も引越しを行った経験に立つと、見知らぬ土地で、一日で、しかも5つにも満たない選択肢の中から、物件を決めるというのは、無謀極まりないことである。今回、私は、これが最善であるとの確信を持てる策を実行したつもりだが、行ってみると、さすがに、こんなことをやっていて、本当に大丈夫だろうかとの恐れが心をよぎった瞬間があった。(最近、気づいたことは、肉体的に疲労困憊している時は、聖霊の導きに対しても鈍感になるということである。)

 だが、主は不思議な方法で道を開いて下さり、制度上の不可能事をさえ、次々と、可能として下さり、私は困難を乗り越え、3つの選択肢の中から、最良のものを選ぶことができた。非常に悪くない選択だったと自分でも思う。

 とある独立行政法人の営業センターで契約について話をしていた最中、私が隅々まで暗譜しているセザール・フランクのヴァイオリンソナタ イ長調がかかっていた。その時には、気にもとめていなかったのだが、今から考えると、我が主は、まことに茶目っ気のある方のようで、こんな形でも、私の門出を祝福して下さっていたのかも知れない。

 今回、私は一つ一つの行程を進むに当たり、幾度も、主の明確な導きを求めて祈った。チボリ公園の解体工事を例として学ぶべきであるように、キリスト者は、自分の欲望や、目先の利益だけに惹かれて、自分勝手な計画を立てても、決して、その後の人生は上手く行かない。私たちには、真理に逆らっては、何事も成し遂げる力がないのだ。そのことを、私は幾度、自分の人生で、思い知らされてきただろう…。莫大な資金と、果てしない労力をかけて、精魂こめて積み上げてきた計画が、失敗に終わり、人手に渡され、無惨に解体されていくところは、もう二度と見たくない。

 だから、今は何事についても、主との質疑応答の繰り返しの上、進んでいる。これから先も、きっとそうなるだろう。特に、今回、私が引越しに関して、すでにいただいているいくつもの証拠の上に、また新たに主に願い求めた証拠は、私が選んだ物件を、父が祝福してくれるように、ということであった。

 それはかなえられた。帰宅して引越し先について報告すると、父は「良かったじゃない、いいところが見つかって」と喜んでくれた(それに支援を快諾してくれた)。今回、父が私のためにしてくれたことは本当に大きい。十字架の和解があったので、もはや家族の間に恨み事はないが、もし今、私がそのような負の感情を引きずっていたとしたら、このような恵みを受けることもなかっただろう。

 さて、山積する次なる課題の中でも、最大は職探しである。パウロが教会に迷惑をかけないために手ずから働いたように、私も、この先、エクレシアに迷惑をかけずに済むよう、一刻も早く、今のような窮乏生活から抜け出したいと本気で願う。主はこのことをも必ず、かなえて下さるだろう。

 そして私には今もう一つ、主に願い求めている証拠があるが、それはエクレシアの成員と会う時まで、この先のお楽しみとして取っておきたい。

 以上のことは全て、主がなさったことであり、私の力にはよらない。私に必要なのはいつも、信仰を持って応答することだけである。そして、この先も、私には一連の大変な行程が待っており、その全てを一人でこなさねばならないのだが、その中においても、主との静かで密接な交わりを保つなら、そこで、一つ、一つ、主の導きを見いだすだろう。御霊に導かれて歩むということの味わい深さを、こうして、日々、経験していくことができるのは、何にもましてゴージャスな恵みだと思う。

 田舎に帰ってくると、すでに稲穂が色づきかけていた。いよいよ収穫の時が近づいて来ている。

 主を恐れる人はだれか。
 主はその選ぶべき道をその人に教えられる。
 かれは みずからさいわいに住まい、
 そのすえは地を継ぐであろう。(詩篇25:12-14)

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真実な候補者

 いくつかの政党の選挙カーが緑の田舎町を練り回り、候補者の名前をやたらに繰り返している。いよいよ、今の日本も20世紀初頭のロシアのようになってきたなあと思う。私は個人的にずっと前から考えてきた、今の日本は革命前のロシアの状態に極めてよく似ていると。だから、遠からず、何らかの政変が起こるであろうとの予測は変わらない。それが、ますます現実味を帯びて来ているように思う。情勢の不安定さが政治への関心の高さとなって表れている。

 だが、よほど私はひねくれた性格なのか、世の中が一斉にその方向を向くような事件があると、それを捨て置いて、誰もいない方向へ進みたくなってしまう。だから、世間が選挙、選挙と言い始めると、途端に選挙に一切の関心がなくなってしまうのだ。もし仮にこの先、富国強兵のようなスローガンを国民が一斉に唱えるようになるならば、のんびり釣りや、山へ散策に出かけたいと今から考えている。

 だが、これではいけないのではないか、私もこの国の国民なのだから、このような世と隔絶した考えで生きていくのはよくないのではないか、私も何がしかの決断をすべきなのでは、とも思ったが、心の底から沸き起こる違和感には何かしら拭い去れないものがある。
 そんな中で、Straysheepさんの記事を読んで、ほっと胸をなでおろした。私の手前勝手な読み方で恐縮ではあるが、次の一句を読んで、何かしら心からに通じるものを覚え、また、嬉しかった。以下、引用。

蝉しぐれ マニフェストと 声競う
真実は 細き御声に あらわれり


続いて、記事では、まことに適切なことに、イザヤ書42章が挙げられていた。訳の違いはあるのだが、それは無視して、冒頭からもう一度、引用させていただきたい。

「わたしの支持するわがしもべ、
 わたしの喜ぶわが選び人を見よ。
 わたしはわが霊を彼に与えた。
 彼はもろもろの国びとに道をしめす。
 彼は叫ぶこともなく、声をあげることなく、
 その声をちまたに聞えさせず、
 また傷ついた葦を折ることなく、
 ほのぐらい灯心を消すことなく、
 真実をもって道をしめす。
 彼は衰えず、落胆せず、
 ついに道を地に確立する。
 海沿いの国々はその教を待ち望む。」(イザヤ42:1-4)

 この御言葉は、神が選ばれた、御心にかなう候補者とは誰か、私たちが支持するべき候補者が誰であるか、教えている。またその候補者は私たちの前でどのように振舞うかということも示している。

 「彼は叫ぶこともなく、声をあげることなく」、これはとても重要なことである。
 その候補者は、声を限りにメガホンを持って叫んだり、巧みに考え抜かれた演説によって、人の注意を引き、心を動かすことのない方である。
 その候補者は、弱者救済を声高に訴えることないにも関わらず、しかし、傷ついた葦を折ることなく、くすぶる燈芯をも吹き消すことなく、人の心に残っている最後の信仰のともし火(神によりすがる希望)を決して無視されないお方である、つまり、最も傷ついて弱くなった者たちの心をも、いたわりをもって扱える方なのである。

 彼は真実をもって道を示す。偽りの甘言を並べただけの公約を掲げ、政権についた途端、それをきれいさっぱり忘れる、ということはない方である。
 彼は倦むことなく、どんな状況にあっても、定めた目標に向かって働き続ける。疲れているから、今は遠慮してくれと言って、私たちの訴えを退けられることのない方である。
 そしてついに彼は道を確立するのである。私たちは、彼が作った道の後を着いていくだけでよい。もはや獣道を辿って、山の中で遭難せずともよくなるのである。

 私たちはこの候補者が誰であるか知っている! 他に誰一人、頼るべき方がないことも知っている! 今、声高に訴えられるマニフェストの中に、いずれも、真実は、ない。そのようなもの以外に、人生の指針を持たない人たちは不幸である。

 このように決め付ける私を、政治に無関心すぎる愚か者だと考える人はきっと多いだろう。今、汗水流して、一生懸命に全国を走り回っている人たちには失礼ながら、私は目に見える世界は、今後、より一層の深い闇と虚構の中に落ち込んでいき、そこには一抹の真実もなくなっていくだろうと思っている。

 けれども、何という幸いだろうか! 「私は真理であり、道である」と言われる方を私たちは知っており、この方について行けば大丈夫、この道にありさえすれば、大丈夫だという道を知っているのだ。主に感謝を捧げたい。