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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

十字架の死と復活の原則―燔祭として神に捧げられ、死んでよみがえらされ、神の手から返された新しい人―

このところ、都会のすべての喧騒を離れ、キリストにある自由と平安を満喫している。空気は清浄で、食べ物は美味しく、親族を見舞うという名目ではあるが、人生の中で、久方ぶりに与えられた平穏な休暇である。

さて、生ける水を流し出す秘訣は、キリスト者自身にある。自分の中にある新しい命を解放する秘訣を知れば、信仰による創造はそんなにも難しいことではない、と筆者は確信する。

時には良いことだけでなく、人の目には失敗のように見えることも起きるが、そんな中でさえ、神の同情、慈しみと憐れみが、雨のように筆者に注がれている。人からの同情など要りはしないが、神からの同情や憐れみならば、どんな時でも、あればあるほど嬉しい。もし神が筆者に注意を払って下さるならば、どんなにわずかな瞬間であっても良い、その瞬間を何とかしてもっと増し加え、主との交わりの時を増やしたいと切に思う。

まさにダビデが詩編に書いたように、筆者も言う、主よ、奴隷が主人の命令を待って、主人をまっすぐに見つめるように、私の目は、あなたを見つめるのです、ほんの少しでも、あなたの関心を、あなたの慈しみを、憐れみを、祝福を得たいと思って、神よ、私はずっとあなたを見つめ続けるのです…。私の心はあなたがご存知です、お言葉を、命令を、戒めを、あなたの御思いを、私に教えて下さい…。

以前から書いていることだが、主イエスは地上で公生涯を生きられた間、ご自分の職業を持たず、養ってくれる家族を持たず、スケジュール表を持たず、ただ御霊の促しのままに、誰にも相談することなく、御父の御旨だけに従ってすべての物事を決定して生きられた。

主イエスがどのようにして日々の糧を得、どのようにして助け導くべき人々を見分けられ、ご自分の使命を知られたのか、聖書に具体的には示されていないことが多い。しかし、エルサレム入場のために用意されていた子ろばのように、主イエスの召しに必要なものは、すべて天の父が備えられた。それはすべて人知によらず、御霊によって告げられ、理解され、達成される事柄であった。主イエスは、御父の命じることを御霊によって識別することで、父なる神の御心のままに行動されたのである。

前回、筆者は記事において、自然界の動物に生存のための知恵が本能として備わっているように、命というものには、おのずから生きるための法則性が組み込まれており、神がキリストを通して信じる人々にお与えになった新しい命にも、命の御霊の法則性が組み込まれていると考えていることを書いた。天然の命に法則性があるならば、いわんや、キリストの復活の命には、新しい法則が備わっているはずである。そして、それが、御霊の油塗がすべてを教えるということの意味であると筆者は理解している。つまり、天然の命においては、本能という不完全なナビしか設定されていないが、復活の命においては、御霊自身が真実を教えるナビゲータの役割を果たすのである。

とはいえ、御霊の導きに生きるとは、人が機械的に何かの命令に従って自分の意志を放棄して生きることを意味せず、あるいは、信者が説教者になったり、牧師や伝道者になることを最高の到達点と考えて、いわゆる模範的なクリスチャンの生き方を目指して、何かの型に当てはまろうとすることを意味しない。

御霊の導きに従って生きることに、特定の型はなく、それは人の作り出したどんな固定概念にもおさまるものではないと筆者は確信する。神は人それぞれの個性を尊重されるため、それはあくまで神と人との同労によって作り出される生き様なのである。

キリスト者の人生とは、信じる人の個性と、その人の内に住んで下さるキリストの人格とが、何の矛盾もなく、調和の取れた同労を成し遂げて形作られるものである、と筆者は確信している。神は決して人の個性を無理やり押し潰したり、人の意志を否定して、何かを力づくで押しつけ、強制なさることはない。神が信じる者の内で生きて働かれる時には、むしろ、神はその人の意志を最大限に尊重されて、その人の人格と調和の中で同労を成し遂げられる。そのため、そのような生き様においては、信じる者の個性も、圧迫されるどころか、極めて自然に生かされる。

神は信じる者の個性を尊重して、その人と同労することがおできになるのだ。だから、信者の生き様には、ただ神がどんなに偉大で憐れみに満ちたお方であるかという、神の御言葉の真実、神のご性質が様々な形で証されるだけでなく、キリストと共に死んでよみがえらされた信じる者自身の個性も、生き生きとした形で、表現されるはずである。

このように、キリスト者の人生とは、信者がキリストの生涯を真似て、地上でそのコピーになろうとすることとは全く異なる。あるいは、誰か偉大な説教者や、信仰の偉人などの先人たちを手本に、模範的なクリスチャンになろうとすることをも意味しない。

それは、誰の生き様の模倣でもなく、その人自身の人格と、キリストの人格との同労によって作り出される、誰にも似ていない、新しいオリジナルの人生である。ナビゲータは御霊であるが、御霊が力づくで信者をどこかの方向へ引っ張って行くということもない。信者と御霊とが平和的に共存・同労を成し遂げるのである。

だから、筆者は、御霊に従って生きることに、定義というものはおよそ存在しないのだと思っている。おそらく、その生き様は、人知によって外から定義づけをしたり、何かのものさしで推し量って理解したりすることが極めて難しい事柄であろうと思う。

そして、何よりも、その人生には自由がある。それは、こうせねばならない、ああせねばならないという数々の義務や、人間の作り出した常識や、規則によってがんじがらめにされる人生ではなく、また、己の生存を必死になって自力で支えねばならないという恐怖によるものでもない。

共産主義者の定義とは全く違った意味で、それは必然の王国ではなく、自由の王国の生活である。だが、自由といっても、放縦とは違うので、当然ながら、節度や限度はある。その範囲内であれば、信者は自分自身の個性を存分に生かして生きることが許される。

さて、筆者は何年も前に、今身を置いている地上の故郷から新天地を目指して旅立って行ったのだが、長い間、なぜ神は、筆者が関東へ移住することを許して下さり、その条件を気前よく備えて下さったのだろうかと思いめぐらしていた。

当初、筆者は、この移住は、エクレシアに連なるため、信頼できる信仰の仲間に出会い、彼らの交わりに加わるためであったと解釈していたため、その期待が潰えた後には、一体、この移住に何の意味があったのだろうかとしばらく考えざるを得なかった。

そして、もし信頼できる信者の交わりというものがないとしたら、主は、筆者に一体、どんなミッションをお与えになっておられるがゆえに、この地に筆者を呼び出されたのだろうかと思いめぐらしたものである。

だが、最近になって、筆者が思い至るのは、神はただ筆者が御名により心から願い求めたから、ご自分の愛する子供の一人として、筆者の願いを気前よく叶えて下さっただけだ、ということである。

つまり、この移住は、エクレシアに連なるための手段ではなかったのである。いや、どんなことの手段でもなく、それ自体が、筆者の願いに対する神の応答だったのである。あれやこれやの目的の手段として、移住を促されたのではなく、ただ筆者が信仰により願い求めたものに、神が応えて下さったということである。

筆者はこれまで、この移住の他にも、実に沢山のものを、信仰により神に注文し(注文という言葉は、まるでい神を手段とするかのような、いささか不適切な表現のように響くが、これには、願いが成就するまで譲らず懇願し続けるという強い意味合いも含まれる)、信仰によって地上に引き下ろして来た。たとえば、一番多く引き下ろしたものは、仕事であろう。筆者が、目下、従事している仕事にどうしても満足できなくなって、もっと違う仕事をやりたいと切望するようになった時、神は、実に不思議な形で、筆者の願いにかなう新しい仕事を用意して下さったのである。

この他、友人や知人が、祈りを通し与えられたこともあれば、筆者が受けた悲しみに、神が思いもかけない豊かな慰めを用意して下さったこともあった。

しかしながら、一つだけ、筆者がこれまでどんなに願っても、実際に呼び出すことができなかったものがあった。全く不思議なことであるが、それが、信頼できる信仰の仲間との恒常的な交わりなのである。エクレシアに連なり、エクレシアの建設のために、移住までしたはずなのに、なぜそんな結果になるのかと、当初は、まことに不思議でならなかったのだが、筆者が共に教会を建て上げる目的で接近したキリスト者(らしき)人々は、ことごとく、交わりの途中で、信仰の道から逸れて行った。彼らがどのようにおかしくなって、聖書に反する考えへとあからさまに移り変わって行ったかといった過程の詳細は、すでに再三、書いて来た通りなので繰り返さない。

筆者は、ある人々に対しては、その変節を実際に詳細に知る前に、これ以上接触すべきでないと直感的に理解したので、交わりから退いた。そして、それ以外の誠実な信者は、亡くなったりするなどして、早々に別れがやって来たのである。

そんなこんなで、ついに筆者には、関東方面で、心にかなう信仰仲間が一人もいなくなった。そして、今やそのような人間を探そうとも思っていないほどである。ただ一つとても嬉しいことは、それ以外では、家人も含め、親族の誰も、地上の組織としての教会にこだわる人々がいなくなったことである。以前には、宗教団体としての教会に拘泥していた親族も、今や全くそのようなものに未練を持たず、むしろ、組織を離れた信仰を模索するようになった。

筆者は、こうして、かつてはエクレシアの一員と思った人々の中から多くの離反者が出て、もはやエクレシアだと確信を持って呼べる、信頼できる信仰仲間の存在が身近になくなってから、かえって、これは非常に自然で有益な結果だったのではないかと思うようになった。なぜなら、おかしな方向に逸れて行った信者たちは、みな目に見える地上の組織や、仲良しサークルのような目に見える仲間との人間関係やつながりを重視して、仲間を失うまいと、人間の絆に必死にしがみついて、人々からの承認や賛同を求めていたからである。

彼らは依然として、宗教団体としか呼べない地上組織を建て上げることに腐心しており、目に見えるリーダーを崇め、目に見える組織を神聖視しており、目に見える団体に所属していることが、自分の聖を信じる根拠になってしまっており、そのような生き方に、筆者は全く真実な信仰のかけらも見いだすことはできなかった。

こうして、筆者が観察しているうちに、かつてこれこそまことのキリスト教であると豪語して、いかにもクリスチャンの交わりを装っていた、目に見えるつながりがことごとく偽りであると判明し、当初は信頼できると考えていた信者たちの中にも、嘘や不誠実さが見い出され、彼らが信頼に値しなかったことだけが判明し、交わりと思っていたものは離散したのである。

こうして、何か目に見えるサークルの一員になることによって、教会を建て上げることができるという発想自体が、ことごとくナンセンスなものと判明し、筆者は、教会を建て上げるという概念を、以前とは全く違ったものとしてとらえざるを得なくなった。

筆者は、何年も前の当時は、信頼できる信仰の仲間と手を携えてエクレシアを建て上げることができると考え、それに関心を寄せていたものであるが、今はひょっとすると、そのような考え方にこそ、以上のような人々の犯した過ちに通じる、目に見えるものの神格化という、危険極まりない要素が含まれていたのではないかと考えるようになった。

つまり、エクレシア賛美、エクレシア崇拝の危険性である。目に見える人間同士の連帯、目に見える人的ネットワーク、五感で確かめ合うことのできるつながりを賛美し、そこに神聖を見いだそうとする考え方の罠や、深い危険性を思うのである。

エクレシアという単語には、信者にとって、何かしらとても耳に心地よい、甘く、理想的な響きがある。だが、その響きの甘さに陶酔することの中には、キリスト以上に信者が自分自身を聖なる存在として掲げたいという誤った欲望、間違った自己崇拝、信者の自己神格化の危険が潜んでいるのではないかと危惧されてならない。

いわゆる教会組織と呼ばれている地上の目に見える宗教団体や組織にこだわる信者ほど、この誤った自己崇拝、自己神格化の度合いが非常に深いように思われてならないのはそのためである。

だから、筆者は今、エクレシアを賛美しようという考えは全くもっておらず、これに憧れ、建て上げることが自分の使命であると言うつもりもない。もしそういうミッションがあるとしても、それは日々、自分自身が主と共に死と復活を経ること、自分の十字架を負ってキリストに従うことだけにしかよらないのだ。仲良しごっこのような交わりを通して達成できることなど何一つありはしない。そもそも、我々が見るべきお方はキリストだけであり、キリスト以上に教会を高く掲げ、これを関心の対象とすること自体が、非常に危険なことではないかと思わずにいられない。

今までの経験から言えることは、教会が建て上げられ、発展する方法は、多くの人たちが想像するように大人数がひと所に「集まる」ことよりも、むしろ「散らされる」ことにあり、大勢が集まって自分たちの存在を世間にアピールし、「自分たちの名を地上で高く掲げる」こととは正反対なのだと思わずにいられない。人が成功し、有名になったり、地位を築き上げて、安直な手柄を立て、自分をアピールすることではなく、むしろ、低められ、砕かれ、無化され、苦しみを通過しながら、人格が練られることの方にこそあるのだと思わずにいられない。

何よりも、もし我々がただキリストだけに目を注ぎ、この方だけに栄光を帰し、この方だけに従って生きていれば、教会を建て上げることに特別な関心など寄せずとも、エクレシアが何なのかは自然に分かって来るのではないかと思われてならない。

すでに一度は書いたような気がするが、筆者が今でも覚えている体験の中に、筆者が横浜に来る前、当初、筆者がエクレシアだと考えていた人々の、幸福そうな集まりの様子を遠くからネットで眺め、何か分厚いガラスの隔たりでもあるかのように、彼らと自分自身との間に決定的な距離を感じ、心に鈍い悲しみを覚えたということがあった。

その時、感じた悲しみや失望が何だったのか、その理由は、実際に彼らと接触してみて分かった。その集まりは、聖書的な交わりを装ってはいたが、結局のところ、いわゆる内輪の知り合い同士の仲良しサークルの域を一歩たりとも出てはいなかったのである。それは互いに誉めそやし合い、自画自賛し合うための、エクレシアに似て非なる集まり、単なる自己満悦のごっこ遊びのようなものに過ぎなかったのである。そこで、結局、筆者はその仲良しサークルを観察しては見たが、その一員には決してなることなく、その交わり(と呼ばれていた偽物)を通り過ぎただけであった。

今、筆者はそのようなものがエクレシアだとは露ほども考えておらず、彼らのように、自分が心許せると考えた仲間内だけで、徒党を組むことで、キリスト者の交わりを確立できるとも思っていない。そのようにして、仲良しサークルを拡大したり、自分たちの交わりこそ本物であると、世間に誇らしげにアピールしようとする試みを一切無視して、もっと言えば、そもそも人に良く見られ、誤解なしに受け入れられたいという衝動そのものとも訣別し、エクレシアというものを、まるで同時代人のサークルのような、人間の目に見えるネットワークに見いだそうとする考えを完全に捨てて、ただ神の御前の単独者として御言葉に従って真実に歩むことだけを目指す生き方を貫くことに決めたのである。

そうこうしている中でも、筆者のもとには、その時々に、神が率直に語り合うことのできる誠実な信仰者を友として送って下さることがあった。だが、その友情や連携は、固い結びつきになって、同志的な関係が生まれる前に、かなり早い段階で、強化されるどころか、分解されるのが常であった。

そんなことからも、筆者は、エクレシアを建て上げるという名目で、人々が寄り集まって自画自賛に明け暮れ、自己陶酔に浸ることは、全く神の御心でないばかりか、むしろ、大きな危険性が伴うだけだと考えるようになり、教会を建て上げるとは、気の合ったクリスチャン者同士が、お手手つないで、みんなで仲良く一緒に天国の門をくぐりましょうといった子供騙しのような願望とは全く異なる事柄で、もっともっと厳しい側面を含んでいる、と思わずにいられなくなった。その厳しさの中では、共に手を携えて歩める仲間が現れることの方が少ないほどである。そして、それゆえ、信仰者の歩みの基本は、やはり、神の御前の単独者としての信仰の歩みにしかないと確信している。

たとえ信者であっても、人間と人間との間で結ばれる絆や友情は、決して永久的なものとはならず、人は時と共に変化し、あるいは簡単に道から逸れてしまい、固いように見えた絆も取り去られる。だから、どんな時にも、信者は人を当てにせず、まずは神との間で、確固たる信仰による交わりを維持することに心を砕くべきであって、それ以外のものにほんの少しでも価値を置き、期待をかけ、栄光を帰したい衝動が芽生えると、それはたちまち腐敗したものとしてあっけなく失われるのだと思わずにいられない。

キリストだけに変わらない価値を置いて、この方にすべてを委ねて生きようと決意するときにこそ、それ以外のものが、必要に応じて与えられる。生活の様々な必要だけでなく、信仰の仲間でさえ、そうなのである。その意味で、キリストとエクレシアとの優先順位は、絶対に逆にされることがあってはならないのではないかと筆者は考える。

さて、以上の内容から、話が再び変わるようだが、筆者は、最近、とある商人からヴァイオリンを買った。どうにもこうにも、ヴァイオリンを弾くべきだと思えてならない時が来たせいである。一年ほど前から、ピアノの特訓を再開していたが、どうにもピアノだけでは物足りなく思えるようになった。

実は、筆者のペンネームは、ヴァイオリンから取られたものなのだが、筆者自身がヴァイオリンを弾けるのかと言えば、子供の頃、我が家に人から譲り受けた分数ヴァイオリンがあったが、本格的なレッスンを始めるに至らず、学校時代に基礎を習ったが、ヴァイオリニストのように自由に弾けるようになる手前で習い辞め、今、暗譜している曲はほんの二曲ほどしかない。それでも、長年に渡り、ヴァイオリンへの情熱は消えず、身近で他人の演奏を聴き続けたりした記憶の蓄積がついに飽和状態に達し、自分で弾かねばならないと思うに至った。

全くの余談に聞こえるかも知れないが、そう思ったきっかけは、ピアノだけに熱心に取り組むことに何かしらの限界を感じたせいでもあった。筆者は一時期、仕事に熱中して、ピアノをうっちゃっていたせいで、ほとんどピアノが弾けなくなってしまった時期があり、そのブランクを挽回しようとしているうちに、どうにもピアノという楽器には、何かしら根本的に、人になじみにくい要素があるのではないかと思い始めたのだった。

これは決して愚痴や泣き言ではなく、真剣に取り組めばこそ、思うことなのである。物心ついてすぐに最初に習い始めた楽器がピアノだったので、今までこのようなことを考えたこともなく、ピアノという楽器の難解さを感じても、常にそれは自分の技量の足りなさのせいだとしか思いもしなかったが、何しろ、ピアノには88鍵ものキイがある。隅から隅までこの楽器を使いこなすには、両手をいっぱいに広げねばならず、それだけでも大変な移動距離である。そして、ピアノ曲は旋律だけのものはほとんど皆無で、旋律も伴奏も一台の楽器で全部やってしまうのが通常であり、それゆえ、一度に奏さねばならない音がとにかく多く、その点で、他の楽器に比べても、極めて楽譜も複雑になりがちである。最も重大な注意点は、楽器が巨大なので、持ち運びが利かず、自分用に調整された楽器を演奏会用に準備することもできないことだ。どこへ行っても、コンディションの異なる備え付けのピアノに、奏者が自分自身をなじませるしかない。さらに、楽器が巨大ゆえ、人との間に拭い難い距離感があって、人が楽器と完全に一体になって共鳴することがやりづらい。

そんな楽器にも関わらず、ピアノ奏者は全世界で他の楽器にくらべてもとりわけ多く、音楽界における競争は他のどんな楽器に比べても一層過酷だ。そのような条件は、演奏家に非常に大きな負担を強いるものではないだろうか。

これと比べると、ヴァイオリンという楽器は、ピアノに比べれば、運指のための移動範囲もそれほどでなく、ピアノのように、鍵盤を押しさえすれば、それらしき音が鳴るということもなく、まずは自分で音を作るところから始めねばならないが、その方が楽器としては、はるかに自然な気がしてならない。ピアノは一音が消えるまでの時間が早いため、音を持続させるために、比較的早く次の音へ移行せねばならないが、ヴァイオリンは、弓を上手に使えば、少なくとも、一音をピアノよりはるかに長く持続させることが可能であり、その間に音の強弱も変えられる。

何よりも、ヴァイオリンという楽器の最も自然なところは、奏でる音質が人間の音声に近いことだろう。だから、ちょうど歌を歌うのにも似た感覚で、楽器を演奏することができる。しかも、楽器が人の腕の中にすっぽり入ってしまうくらいの大きさなので、人との距離感がさほどでなく、接触している部分も多く、楽器の共鳴が人体にそのまま伝わる。人の体と楽器がまさに一体となって音楽を奏でているという感覚を持ちやすい。

それに引き換え、ピアノと人体との直接の接点は、指先と、ペダルを踏む足先くらいであろう。だから、ピアノの音の振動は、人間の体で直接、体感する部分が少なく、基本的には、耳で聴いて音を感知するしかない。しかも、ピアノの音は、人間の声にさほど似ていない。

世の中にはピアノとヴァイオリンの他にも無数の楽器が存在するので、この二つだけを比べて論じることには無理があると思うが、それにしても、ヴァイオリンに比べると、いかにピアノが人工的で不自然な楽器かという気がしてならないのである。ピアノが親しみやすい楽器だと錯覚できるのは、子供に初歩を習わせる時くらいのことではないだろうか。

もともとヴァイオリンは、民衆のための楽器であり、クラシックの世界で、ヴァイオリニストたちが、楽器の値段や価値を競い合い、また難解なテクニックを競い合って、激しい競争が行われるようになって、一流ヴァイオリニストが、スター同然にもてはやされたりするようになったのは、ごく最近のことであろう。

そうなるまでのヴァイオリンは、オーケストラや室内楽だけでなく、民衆の祭りなどでも普通に駆り出されるような、庶民にもごくごく身近な楽器であったはずだと思う。肩当てや、顎当てさえ、比較的最近になって普及したのだと言われるように、もともとは非常に単純な楽器である。そんな楽器に、人間が逆立ちしなければ、達成できないような複雑怪奇な操作は、必要とされていないはずで、もともとこれはそんなアクロバットを当て込んで作られた楽器ではないはずだ。だから、本来のヴァイオリンとは、人を寄せつけないほど難解ではない、単純素朴な楽器のはずだと思うのである(だが、ヴァイオリニストはこれを聞いて、異議を唱えるかも知れない。単純なものが全く複雑化されてしまうところは、宗教もクラシック音楽界もどこか似ている。)

もちろん、ピアノにはピアノの良さがあり、ピアノという楽器を知っているがゆえに得られる喜びや満足は非常に大きいと言える。そもそも音楽の基礎を学ぶのに、この楽器を避けて通ることはできず、ピアノ曲には偉大な作曲家の豊富なレパートリーの取り揃えがあるので、一生を費やしても時間が足りないほどの楽しみが満載であると言うことはできる。だが、そうは言っても、ピアノには備わっていない別な要素を、ヴァイオリンのような別の楽器で学び、これをピアノに応用することで、ピアノの人工的で不自然な部分を補うことができないだろうかと筆者は考えているところだ。その実験の最たる目的は、どうすれば、人間の音声からかなり離れたピアノを、人の歌声のように自然に歌わせ、響かせることができるかというところにある。

一体、この実験と信仰に何の関係があるのか?と問われそうだ。まるでこじつけのようにしか聞こえないかも知れないが、これも筆者が神に願って与えられた機会なのである。

筆者はかつて非常に音楽に熱中していた時期があったが、一旦、これを神にお返しした。筆者の専門もこれと同じことで、かつて自分自身の思いで熱心に探求し、愛でていたすべてのものを、どこかの時点で、筆者はすべて手放し、一旦、神に返却することになった。

それゆえ、筆者は多年に渡り、音楽からも、自分の専門からも離れた時期が存在する。一見、その時期は、全くの無駄な紆余曲折のようにしか見えないことだろう。だが、そうして神にお返ししたものは、まるで燔祭に捧げられたイサクのように、一度、死んでよみがえって生かされたものとして、主の御手からもう一度、受け取ることができる。そうすれば、今度こそ、何のためらいもなく、信仰に反しない、聖別されて、祝福されたわざとして用いることができるのだ。

もし離れていた時期がなく、幼い頃から、両方の楽器を真剣にやっていれば、今、与えられている楽しみが、どんなに大きなものとなっていたろうと、ふと考えることがないわけではないが、幼い頃には、理解しようと思っても、分からないことの方が大きい。そんなわけで、筆者はブランクの時期を振り返って後悔するということはない。

その当時、筆者を教えてくれた教師たちは、真面目に練習していないがゆえに、抜けの多い筆者の演奏をも、素質があると誉めてくれ、その道に進めばどうかと助言してくれたこともあったが、それでも、当時、筆者の探求心は違ったことに向いていた。どちらかと言えば、筆者には、言葉の方に関心があったのである。

だが、幾年もの月日を経て、言葉への探求と、音楽への探求が、互いに矛盾しないものとして、一つにつながる時がやって来た。さらに、それらは死を経てよみがえらされたことにより、信仰とも全く矛盾しないものとなったのである。

もっと言うならば、言葉になる前の言葉と、音楽になる前の音が、信仰により、信者と一体になる時が来たのだと言っても良いかも知れない。

地上で音楽を奏でるということには、絶えざる格闘がある。なぜなら、プロの演奏者でさえ、思っているような演奏がなかなかできないからだ。コンディションの悪さが、常に演奏を邪魔し、自分が理想として追い求めるイメージと、現実に発せられる音との間に、絶えず開きを生む。自分がとらえよう、獲得しよう、達成しようと思っているものをどんなに真剣に追いかけても、すでにとらえたから、もう満足だという日は来ない。

だが、それでも、奏者は心の中に理想として持ち続けているイメージといつか自分が一体となり、音楽と自分との距離がなくなることを目指して、ひたすら弾き続ける。そこには、聴衆を含めた世界全体が一体となる時を目指すことも含まれている。

また、詩人は、演奏家とはまた違った形で、自らの言葉を通して世界と一体になろうとしている。いや、もっと正確に言えば、有限な言葉を通して、言葉になる前の無限の世界を追い求めていると言って良い。

詩人にとっては、どんなに素晴らしい詩を書いてみたところで、言葉を通して表現されるものが全てではない。言葉の先にある、言葉を生み出す源となるインスピレーション、霊感そのものをとらえようとして追い求めているのである。音楽家もある意味ではこれと同じである。音を通して表現しようとしているものは、音が生まれる以前の何か、音を生み出す源となるものなのである。

鈴木大拙が「神が光あれと言われる前の世界」への回帰を唱えたことを、筆者は別の記事で触れたが、人間が探求しているのは、まさにその霊感の世界なのであろう。だが、筆者は、禅者ではなく、あくまで聖書の神を信じるキリスト者であるから、「神が光あれと言われる前の世界」への回帰を目指さず、むしろ、「神が光あれと言われた後の世界で、光を造られた神と一つとして生きる」ことを目指している。

音楽家や詩人が、音や言葉の生まれる前の、それらを生み出す源となるものと一体化して、これを表現しようとしているならば、筆者は、信仰によって、この地上に実際の事物が生まれる前の、それらを生み出す源となる命そのものと一つになりたいと願っているのだ。

だが、筆者は、歴史を逆行して、神と人(被造物)とが分かたれる前の世界に回帰することで、その一体性を得ようとは思わない。むしろ、創造主と被造物の両者の間には距離があること、その距離が、我々が地上にいる間には、決して完全には克服できないものであること、それゆえ地上では、人の苦悩があることを分かりつつ、それでも、自分の力によらず、ただ一人、この断絶を乗り越えることのできるキリストの十字架の御業によって、朽ちない命に与り、この方と一つとして生きることを目指しているのである。

これは決して人が神を獲得することを意味しない。人が人の分際を超えて、神から神である地位と性質を奪おうとする試みでもない。人間の側からの神の詐称でもない。私たちは、神を心から敬い、この方を慕い求め、かつ崇め、誉め讃え、自分が被造物に過ぎないことを十分にわきまえて、畏れかしこみながら、同時に、この方に愛され、受け入れられて、子とされて、一つとされて生きることを心から願っているのである。

信じる者がキリストとの間で、完全な一致を地上にいるうちに獲得できないことを知りつつも、それでも、この方が信じる者のうちに住んで下さり、生きて働いて下さり、この方と共に共同統治者とされることを信じながら、私たちは神を喜び、神を尊び、神を愛して生きているのである。

聖書に書いてある通り、私たちはキリストをこの目で見たことはなく、実際に生きてお会いしたわけでもない。その声を聞いたこともなく、手で触れたわけでもない。神を五感でとらえることはできない。にも関わらず、この見えない方を見るようにして信じ、かつ、愛してさえいる。敬い、崇め、慕い、賛美するが、その賛美は、何よりも、神への愛から来るものなのである。

その愛は、この新しい命、朽ちないまことの命は、我々が自力で獲得したのではなく、神の側から一方的な恵みとして与えられたのだという認識から来る。神がまず私たちを愛して下さり、すべてを与えて下さったがゆえに、私たちも神を愛さずにいられないのである。

こうして、神の方を向くならば、人の心の覆いは取り除かれる。自分自身を完全に神に捧げ、かつては自分で握りしめようとしていたものも、今は神に委ねているからこそ、筆者も、キリストにあって再統合された自分自身を、ためらいなく受け入れ、生きることができるのだと言える。

古きは過ぎ去った以上、信じる者の個性そのものが、今やキリストにあって、神に聖別された新しい人として、神の手から信者の手に返されている。そこにはもはや恥じるべきものは何一つなく、隠すべきものもなく、死の宣告を受けたものを、まるで聖別されないものであるかのように思い返して、恥じたり、修正したり、変えようとする必要はない。信者の過去も、人格も、個性も、すべてがキリストにあって新しく生かされていることを信じれば良いのである。

筆者は、前途有望と言われた時期に、自分に与えられた様々な可能性を、自分の人生の成功を掴むためには利用しなかった。今となっては、遅すぎると言う人もあろう。たとえば、筆者は、職業音楽家になるにはいささか遅すぎるし、研究者として功績を残すにもやや遅れ気味であり、その他、遅すぎると言われても不思議ではないチャレンジがいくつもある。

だが、筆者はこの「遅延」を嘆くどころか、むしろ喜び、楽しんでいる。地中に眠っている種が、発芽して根を下ろすまでに、長い時がかかることがあるように、他人にどう見えようとも、筆者にとっては遅いということはなく、今がまさにその時なのである。もしもっと前に、有望と期待されている時に、もっと真剣に取り組んでいれば、今以上の結果が出たであろうか? 決して、そうは思わない。その時には、分かっているようで、何も分かってはいなかったのであり、何事にも今と同じ姿勢を到底、持ちようがなかったであろう。

今、筆者に与えられているすべての可能性は、筆者が自力で自分の名誉、地位、成功を築き上げるための手段として与えられているものではなく、そういうものを獲得せねばならないという焦りや義務感や恐怖とも、筆者は無縁である。そういった無用な気負いがないからこそ、平安のうちに、純粋に喜び、楽しむことができるのだと考えている。

今、筆者に与えられているものは、筆者が人生を喜び、楽しんで生き、神に栄光を帰するために、恵みとして与えられたものであって、それ以上の意味はない。自己顕示のための手段でもなければ、地位を築き上げるためのものでもない。音楽であれ、言語であれ、詩であれ、もはやどんなものも、筆者の心の偶像にはなり得ない。たとえ熱心に取り組んだとしても、自分を見失うまで熱中したり、あるいは憑りつかれているのではないかと言われるような取り組み方は決してしないのである。

さて、最後に、再び、話が飛ぶと思われるかも知れないが、多くのプロテスタントのクリスチャンをいたずらに苦しめ、恐怖に追いやっているカルヴァンの予定説の何が間違っているのかについて、筆者の考えを少し書いておきたい。

この説の決定的な誤りは、人類(人間一般)という定義の中に、古い人類と新しい人類とを一緒くたに混同していることにあるのではないかと筆者は考えている。決して一緒にしてはならない二つのものを、無理やり同じ土俵で一緒くたに論じればこそ、クリスチャンとなった後でも、誰が真実救われているのかは、信者が死後、神の御前でさばきの座に立たされる時まで本当には分からないなどといった、全く恐ろしい絶望的で不毛な結論が生じるのではないだろうか。

それはまるでチンパンジーとオランウータンを同じ種族と断定して、どれがチンパンジーであってどれがオランウータンなのかは、DNA鑑定をしてみないことには分からないと言っているのと同じくらいのナンセンスに感じられる。

パウロは、ローマ人への手紙で、一人の人(アダム)によって罪と死が人類に入り込んだように、一人の人(キリスト)によって多くの者が義とされ、命を得ることを述べている。この二つの系列の種族は、決して同列に論じられるべきものではない、全く別の種類である。

外見が同じように「人類」に見えるからと言って、アダムの古き命に生きる者と、キリストの新しい命によって生かされる者とを、「人間一般」という定義でひとくくりにするのは全く望ましくない。いや、望ましくないだけでなく、これは誤った定義であり、事実誤認である。外見だけによって、本来、一緒にしてはならないものを一緒にするから、救われた人間と、そうでない人間を、内的確信によって区別することが不可能だとする荒唐無稽が生じるのである。

さて、キリストと共に十字架の死にあずかり、共に復活した者は、自分がすべての面において完全に新しくされ、すべての面において聖別されたことを信ずべきである(ただし、これは決してその信者が地上において、すでに罪なき完全に聖なる存在となったことを意味しない)。我々は地上にあっては、依然として、欠けの多い、誤りやすい、不完全な存在にしか見えず、多くの期待はむなしく潰え、もはや手遅れに思われることも多く、キリストご自身との間には、相当な距離があり、達しようと目指しているものとの間には、はるかに遠大な距離があるかのように感じられることだろう。その距離は、我々を打ちのめして、失意や悲しみをもたらしかねないほどのものであり、それゆえ、我々はこの不完全な地上の幕屋の中で絶えず呻いている。

それにも関わらず、我々はその感覚を否定して、呻きの中から、完全に贖われる日を待ち望み、それを信じ、これに達しようとしている。信仰によってそれが事実であることを先取りして、すでにその贖いと一つであること、キリストと一つとされていることを信じ、宣言する。つまり、飲むにも、食べるにも、移動するにも、学ぶにも、演奏するにも、書くにしても、何をするときも、生きることはキリストだと宣言する。たとえ現実がどれほどそこから遠いように見えても、目指しているものが、生きているうちに到達不可能であるように見えても、それでも、生きることそのものが、我々の存在そのものが、地上での限りある一瞬一瞬が、キリストと一つとして生かされており、そうであるがゆえに、この方に栄光を帰するものとなるようにと願い、信仰によってそれを宣言し、待ち望むのである。

このことは、我々が外見的にどんな風に見え、どれくらいの見込みが残されていると想定されるかには全く関係ない。我々の望みは、目に見えるものにあるのではなく、見えないものにこそ置かれているからだ。我々は御言葉により、自分をすでに死んだものとみなし、死者をよみがえらせ、無から有を引き出し、不可能を可能とすることのできる神の御業を信じて、贖いの完成を待ち望んでいるのである。

だから、状況が見込み薄のように見え、嘆かわしく見える時ほど、信じ、待ち望む甲斐があるのだ。主にあって、一度手放したものを、再び返されて、この手に取り上げる時には、常に死の厳粛さと、よみがえりの喜びを思わずにいられない。筆者がこの手に握っているものは、もはや筆者のものではなく、神の所有なのである。

多くの人々は、若いうちに、つまり、自分にたくさんの可能性があるように見え、たくさんの期待を寄せられているうちに、早々に何かを達成してしまうことこそ、人生の成功であると思い込んでいる。そして、失敗や遅延を無意味なものとして、できる限り避けながら、ただ成功だけを手にして前進したいと考えるのかも知れないが、筆者は決してそうは思わないのだ。

人が若くてエネルギッシュで生命力に溢れ、前途有望と誰からも期待されているうちに、持ち前の生命力によって、何かを成し遂げることには、何の不思議もありはしない。そこにはただ天然の命の生まれ持った本能があるだけで、何の奇跡もなければ、瞠目すべき要素もない。

もし死を経るという過程、死んで葬られるという過程がなければ、筆者のすべてのわざは、非常に皮相で、軽薄な、むなしい価値しか持たなかったであろう。筆者は、軽薄で皮相なものを全く欲していないし、そのようなものが自分の人生の本当の麗しい飾りになるとも思っていない。そのようなもので他人を満足させたり、深い感動を与えることができるとも思わない。

神の目から見て、天然の命に属するものが何一つとして価値を持たないように、人の目にも、長年かけて熟成され、正真正銘、試練や、苦しみや、呻きの中で、練られ、洗練たものでなければ、賞賛に値する価値は見いだせない。神の目はごまかせないが、人間の目なら簡単に欺けると考えるのも間違っている。皮相で軽薄なもので人の関心を引き、人目を欺けるとしても、それはほんの一時しのぎでしかない。真に価値を持たないものは、いずれにせよ、短期間で馬脚を現し、長続きしないと相場は決まっている。そのようなものを追って生きても、全くむなしいだけで、一体、何の甲斐があろうか。

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わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。

「イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。しかし、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」(マルコ10:29-31)

さて、我が家の成員が急遽増えたので、しばらくそちらにかかりきりになっていた。
鳥の雛が我が家にやって来たのだ!

毎朝、毎夕、我が家のベランダには可愛い雀たちが群れて挨拶にやって来て、つい先日は、手の届くほどの距離で物干しさおにちょこんと止まっていたが、鳥好きの私としては、雀を眺めているだけでは物足りない。

むろん、我が家のメンバーはすでに存在しているのだが、もう少し成員を増やしたいと願った。

以前の記事にかつて起きた小鳥の落鳥のことを書いた後、言葉が足りなかったなと思うことがあった。「主が与え、主が取りたもう」・・・、このストーリーには確かに続きがあるが、まだそれを書いていないからだ。

は与え、は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1:21) これはヨブの言葉であるが、主は取られることもあれば、必ず、その後、以前よりも豊かにお与え下さる方なのである。

それが証拠に、ヨブはサタンの試みにあって家族を失い、一時は一家全滅の寸前まで追いやられたのに、物語の最後では、前よりも豊かになっている。

このように、むろんヨブほどの試練ではないにせよ、何かが我々の生活から取り去られる時、いつも主にあってそれを小さな十字架として受け止めるならば、しばらくの悲しみの後に、前よりももっと豊かな祝福が与えられる。

それがどんなきっかけで生じた損失であれ、法則は同じなのである。自分の過失であれ、誰かの裏切りであれ、偶発的な事件であれ、何が原因で生じたものであれ、すべての痛みと損失を主に持って行き、主にあって、これを日々の十字架として受け取り、「主が与え、主が取りたもう、主の御名は誉むべきかな」と宣言するのである。

すると、そこに死と復活の法則が働く。そして、不思議と受けた損失を補って余りある祝福が天から与えられるのである。

私はこのことをよく経験して来た。

だから、きっと小鳥もそうに違いないと確信していた。案の定、探すと不思議な幸運で、大した苦労もなしに、ちょうど雛のシーズンが終わる前に、実によく人馴れした愛らしい鳥たちに出会うことが出来た。

それは願った以上のものが向こうからやって来るほどで、頼んでもいないのに珍しい鳥が集まって来るのである。

しかし、これは鳥に限った話ではない。以前に、あるキリスト者に向かって、ロシア語の練習の機会が欲しいのだと話した時に、こう言われた、「ヴィオロン、それはね、ロシア人よ、私のもとに集まれ!と命じるんだよ」と。その時にも、実際に不思議とそうなって行ったのだが、今度は鳥である。(鳥と同列に論じられるとロシア人は怒るかも知れないが。)

キリスト者は自らの言葉によってさまざまな出来事を主と共に創造している。だから、どのようなことであれ、主の栄光になるように語ることが大切である。「主は与え、主は取りたもう。しかし、主の御名はほむべきかな、主は我々のすべての必要と心の動きをご存知で、私たちの地上の人生は、痛み苦しみだけでは終わらないのだ…」

むろん、誰しも、大きな別離を経験したすぐ後に、立ち上がって再び出会いを探そうというのは無理な話である。そんな不自然なことをする必要はない。悲しみたい時には悲しみ、涙を流すべき時には思い切り泣き、目いっぱい、人として自然な生活を送り、そして、立ち上がり、望む気力が出て来たときに、新たな出会いを模索するのである。それはペットであれ、仕事であれ、人との出会いであれ、みな同じである。主は絶対に人の心の自然な動きに反するようなことを求められない。

だが、信仰者が信仰によって望みを抱いて立ち上がるなら、そこから、常に新しい展望が開けて来る。それは信者の歩みが主との二人三脚だからである。

十字架の死と復活の法則は、すべてのことを信仰によって主の御手から受け取る時に確かに生きて働く。良いことも、悪いことも、喜ばしいことも、悲しいことも、何もかもすべてを主の御手から受けとるのである。

そして、主こそ、それらすべての現象をご自身の栄光に変えることのできる方であることを信じるのである。

それは日々起きるすべての出来事の中での信仰による一瞬の手続きである。何も考えずにただ現象に振り回され、左右されるのでなく、すべての出来事の只中にあって、主を見上げ、すべてのことを主の御手から受けとることを、あえて信仰によって宣言するのである。

そうすると、悲しみや苦しみでさえ、まもなく新たな喜びへと変えられて行く。何かが失われたように見えても、しばらくの後に、溢れるほどの祝福が返って来る。その不思議ないきさつを見ていると、おそらくは、そこに日々の十字架の働きが――死と復活の命の働きが確かにあるのだろうと想像するしかない。

私は十字架の恵みに満ちた喜ばしい側面だけを強調しようとは思わない。主に従う上で、苦しみは確かに避けて通ることができないと知っているからだ。セルフがキリストと共に十字架の死に同形化されることに、痛みが全く伴わないはずがない。

しかし、それでも、キリスト者の人生とは、苦しみの連続には終わらない。ダビデが謳ったように、慈しみと恵みとが生きている限り、キリスト者を追って来るのである。

そして、当ブログに書いて来た通り、これまで筆者が出会ったクリスチャンを名乗る人々の間では(むろん、彼らはとても信者を名乗るに値する人々ではなかったのだが)、裏切りや離反や密告や誹謗や讒言や、誰も目にしたくもないさまざまな偽りの光景が目の前で起きて来たが、同時に、これらの損失(?)を補って余りある祝福もまた上から与えられるのだと信じている。

人の人生を食い荒らすことしかできないバッタやイナゴのような無価値な一群とは別に、人に喜びを与え、そのさえずりによって安らぎをもたらす美しい鳥たちの群れも飛んで来ることであろうと確信している。

私は何もこの手に握らない。これだけは私のものだ、これだけは取らないでくれ、としがみつくものはない。
それでも、聖書には書いてある、信仰者は主の御名のために失ったものの百倍を受けるのだと。今の世でも、来るべき世でも、豊かな報いを受けるのである。(来るべき世には家というものがないので、永遠の命を報いとして受ける)。回復されるものの中には、兄弟姉妹も含まれている。これには信仰による兄弟姉妹も含まれると私は確信している。

だから、ヨブが失った家や娘息子たちを再び主の御手を通して得たように、失われたクリスチャンの兄弟姉妹たちも再び得られる時が来るだろうと確信している。ちょうど、海の向こうから贈り物を携えてやって来る外国人たちを信仰によって呼び出したように、すべての生活の必要と、兄弟姉妹を、呼び出すのである、御言葉に基づき、信仰によって――。

蘇生する自己

さて、皆さん、お久しぶりです。

関東に来てからしばらく、ブログを更新するという重荷からも逃れて(笑)、夢のように解放的で充実した日々を送っていました。長らく記事を書いていなかったので、私のブログ読者は半分以下に激減したようですが、それもかえって嬉しく感じられます。過去にためこんだあれやこれやの荷物をきれいさっぱりと捨てて、日々の十字架だけを背負って、つつましい、新しいスタートを切ることができるのは、またとない幸いです。

人に言わせると、「ヴィオロンは著しく変わった」のだそうです。本当にそうなのでしょう。去る8月25日、紛争の絶えなかった我が家と、その我が家のために、救いがたく病んでいた私に、神が大いなる憐れみを注いでくださったその時から、私は十字架上で、御子イエスと共に自己に死に、イエスの復活の命をいただいて、御霊によって生きるように変えられました。以来、筆舌に尽くしがたい不思議なことが周りで起き、それからわずか1ヶ月の早さで、私は我が家を離れ、今住んでいる土地へとやってきました。この「エクソダス」は、エクレシアに連なりたいという動機だけに基づいて行われたことであり、それはどうやら、神の御心にかなって与えられた願いのようです。この計画にまつわるすべての事柄に関して、主は完璧すぎるほどに準備を整えてくださいましたので、私は何の問題もなく引越しを完了することができたのです。

しかし、解放感に浸るのはそろそろ終わりにしましょう。ここからが今日の記事の本題です。今、先人の言葉を参考にしながら、記事を書いています。

私が経験したのと同じようにして、キリスト者は、ある日、突然、何か劇的な事件が起こって、あるいは、些細な事件を通して、「十字架によって自己に死ぬとは何なのか」を学ばせられる体験をするかも知れません。その時、私たちは自分の弱さ、醜さを徹底的に思い知らされ、人知の癒しがたく腐敗していること、人間が魂の底まで、救いようなく堕落しており、生まれながらの人間から発生するどんな善良さも、絶望的なものであり、腐敗していること、人間には微塵もきよさはないこと、神の助けなくして、人間は一瞬たりともまともに生きられない邪悪な存在であることを思い知らされます。

御霊を通してやってくる真理の光に照らされ、私たちは絶体絶命へと導かれ、そこで自分たちの無力と腐敗を知ります。私たちは神の御前に万策尽きた状態となり、どんなあがきも、試行錯誤も、あの手この手も、自分を生かす力がないことを知ります。完全にお手上げです。私たちには、目の前にたちはだかる困難に立ち向かう力は全くありません!万策尽きました! 主よ、助けて下さい! それが、私たちが、自分の自己に対して、徹底的に殺される瞬間に、心の底から出て来る叫びであることでしょう。今までのプライドは打ち砕かれ、誇りにしていた経験も何の役にも立たず、知識は私たちを裏切り、感情は不毛な叫び声をあげるばかりです。私たちは、世間からどんなにみっともなく思われようとも、その時、ただなりふり構わず、神に助けを求める以外には、もはや何もできないことを知ります。こうして、私たちは、自己に死なされます。

その後、自己に死んだだけで終わるのでなく(それでは無意味です)、十字架を通して、イエスの復活の命が私たちに適用されるなら、私たちは、絶体絶命をくぐりぬけて、今まで経験しなかったような新たな力によって、自分が生かされていることを知るでしょう。ふと気づけば、あれほど強固に自分を苦しめていた縄目が地に落ちて、私たちは自分が勝利を得たことを知るのです。今まで知らなかった新しい命が自分を生かしていることを私たちは見ます。それは自分の力では決して得られなかった勝利です。ですから、私たちは、今や上から与えられた力が自分を生かしていることを知るのです。そして喜びのゆえに主を賛美します。主は新しい命を私たちに与えて下さったのです! ハレルヤ!

しばらくの間、この驚くような新しい力と、いまだかつてない勝利に、私たちは酔いしれます。聖なる御霊が自分の内に宿っていることを知り、聖書の御言葉が驚くほどよく分かるようになり、何かしらの啓示さえ受けるかも知れません。それまで、心の中にさんざん生い茂って、真理を阻んできた自己という雑草がことごとく取り払われたおかげで、私たちは自分が聖別されたことを感じ、霊的視界がクリアになり、どんな物事も澄んだ目で見られるようになったような気がします。自分が神に愛されている存在であることを前よりももっとはっきりと感じ、今までよりも、もっと親しく、近しく、主に向かって祈り、願うことができるようになったと思います。

しかし、ここで私たちは、勝利を得たのでもう学習は終わった、などと決して思うべきではありません。「私はすさまじい体験をくぐりぬけたおかげで、他人より抜きん出て霊的な人へと変えられた。私は勝利を得たのだから、もう二度とかつてのような事件は起きないだろうし、これ以上、自己に死ぬということを私は学ぶ必要はない」、とは、決して思うべきではないのです。

まず、私たちが経験した事件が劇的であればあるほど、それは、誇るべき経験ではなく、むしろ、私たちのしぶとく頑固だった自己を殺すために、神はそれほどの大事件を必要とされたという事実を見るべきです。私たちの自己は、ひょっとすると、悪質なゴキブリの千倍、万倍も、頑固でしぶとく、殺しても死なないほどの生命力を持っていたのかも知れません。いや、そうであるはずです。だからこそ、そのように腐敗しているにも関わらず、強靭な生命力を持った魂と肉体(自己)に死ぬということを私に経験させるために、神は特別な事件を私のために用意しなければならなかったのです。私の自己が他人と比べてあまりにもわがままで、しぶとく、腐敗しきっているために、神には大がかりな事件によって私を打ち砕く必要があったのです!

こうして、十字架という、罪を駆除する最も強力な光の照射によって、私たちの自己は、ある日は殺されたかも知れません。そして復活の命に生きる喜びを、私たちは全身全霊で感じたかも知れません。しかし、自己は一旦殺されても、時間が経つと、また蘇生してくるのです(蘇生とは、あるキリスト者の表現)。それはちょうど、一旦きれいに庭を掃除して、雑草を刈り取っても、手入れを怠れば、庭には再び雑草が生い茂るのと同じであり、退治しても、退治しても、また害虫がどこからか家に入り込んで、住み着くようになるのに似ています。

仮に私が昨日、どんなに徹底的に、大々的に、ドラマチックに、キリストの十字架を自分のものとして受け取って、自己に死に、キリストの復活の命によって生きることの意味を学んだとしても、それは私の今日の糧とはなりません。昨日の勝利は、今日の勝利にはならず、今日、私が自己を否んで、キリストの十字架を負っていることの何の証拠にもならないのです。

人は日々、自分の十字架を負って、イエスに従わなければいけません、自分の天然の命を拒否して、キリストの命を選び取ることを続けなければならないのです、その日々の十字架を負うことは、決して、どこかの団体や組織へ熱心に奉仕することと取り違えられてはいけません。日々の十字架を負うとは、まず何よりも第一に、真理なるキリストの光に照らされて、私たちが、自分の生まれながらの自己の本当の醜さを知り、それに絶望して、自己を否み、キリストを選ぶことを指しているのです。

私たちは自分の生まれつきの自己がどれほど癒し難く腐敗しているか、どれほど邪悪であるか、私たちの生まれつきの姿が、どんな犯罪者にもまさって、最悪の最悪の姿であるかを、直視しようとしません。それを直視することには大いなる痛みが伴うからです。私たちの肉体も、魂も、痛みを伴う事件を避けようとします。過去に大失敗があったからと言って、それでもまだ私たちは、それが自己の腐敗した本質によって引き起こされたという事実を直視しようとしません。むしろ二度と同じ痛みを味わわなくて済むように、こざかしいあの手この手を考え出すばかりなのです。そうやって、自己の本質を直視する痛みを避けて、自己を美化する楽な道を選び、毎日、自己を甘やかし、大目に見、自己を立て、自己から来る力を楽しんで生き、それを誇り思い、自己に栄光を帰そうとして、あれやこれやと計画し、走り回って活動しているのです。キリストのため、と言いながら、その実、活動しているのは私たちの自己なのです。

自己はまさしく欺きの天才です。ちょうど暗がりに隠れたゴキブリが、人のいないところを見計らって、夜半にこっそりと出て来るように、私たちの自己も、私たちの思いを欺いて、キリストの真理の照射する殺人的な光線を何とかして避けて、自らを生き延びさせようと、あらゆる狡知をめぐらします。自己は宗教活動にも偽装しますし、信仰にも偽装します。何にでも化けるのです。この自己の欺きを看破し、その策略を微塵に打ち砕くことができるのは、ただ御言葉――真理なるキリスト――まことの光だけです。私たちが自分の力でどんなに自己を鎮めようとしても、それは無理です。私たちは自分の力で、自己に死ぬことはできず、自分の力では、キリストの復活の命を受け取ることもできないのです。

方法は一つだけです、光の照射です。私たちが日々、まことの光に照らされて、自己の腐敗性、絶望性、無力さ、邪悪さを知り、その自己を神の御前に汚れた、忌まわしいもの、呪われたものとして拒否し、その代わりに、キリストの復活の命を選び取り、その復活の命によってのみ、生き、活動することが必要なのです。それには痛みが伴うでしょう! あなたは自分が無力になって、打ちのめされたと感じ、失望し、見込みを失うでしょう! 愕然とし、恥じ入り、頭を垂れるしかないでしょう。しかし、それは幸いな時です、この痛みを伴う訓練は、生きている限り続くものであって、誰一人として、その訓練はもはや自分には必要なくなったと言える人はいません。自分の十字架は日々、負わなければならないものなのです! 

ですから、私たちは(できるならば、毎日の生活のごく些細な事柄を通して)、何が自己から来る力であり、肉と魂の衝動に由来する忌まわしいエネルギーであるか、学ぶ必要があります。何が天然の命から生まれる願いや力であり、何が御霊から来る、御心にかなった願いと力なのか、識別することを学び、自己から来る力を行使しないことを学ぶ必要があります。
(注意していただきたいのですが、自己を否むとは、決して、自分の意志を放棄することではありません。それは決して、信徒が自分の意志を放棄して、誰か指導者の命令や思惑に妄信的に振り回されたり、何らかの教義の奴隷状態に陥ることを意味しません。私たちはあくまでしっかりした自分の意志を働かせつつ、自己を否み、キリストを選ぶのです、自分の自己を十字架上でキリストと共に死んだものとして拒否し、人の思惑ではなく、御霊の導きに従うことを選択し続けるのです。)

この毎日の学課(私たちが自己の絶望的な本質を知り、それを拒否して、真理に忠実に聞き従うこと)を的確に行うならば、神は私たちの自己を打ち砕くために、わざわざ大がかりで悲惨な事件(大失敗や絶体絶命の危機)を用意する必要はなくなることでしょう。しかし、私たちがかつてのある日、自分の自己が十字架につけられて死に、その代わりに信仰によってキリストの復活の命を受け取った、という体験の上にあぐらをかき、それに慢心し、日々、自己の厭うべき性質を知ることをやめて、自分の腐敗した性質を見ようとせず、むしろそれを甘やかし、増長させていくならば、神はその肥大した自己の忌まわしい性質をあなたに知らせ、それを断ち切るために、ある日、あなたが考えもしなかったような悲惨な失敗の体験をあなたの身に起こさなければならなくなるでしょう。

そんなわけで、大きな勝利が得られて、物事が順調に行き、自分がきよめられて、霊的になったように感じられ、神から特別に恵まれているとさえ思われるほどに幸福な時には、普段以上に注意が必要かも知れません。富んでいる人が天国に入ることは難しいと警告されているのです! 人の生まれながらの自己は、永遠の命を継ぐことはできません! その富が、勝利が、自己を慢心させ、肥大化させ、御霊に従って生きる道を奪うきっかけとならないよう、私たちは気をつけなければなりません。

信徒が自己を否んで御霊の導きを選び取り、キリストの復活の命によってのみ生きることを学ぶ学課は、私たちが地上を歩む限り、決して終わることはないのです。どうか、神が私を憐れんで下さり、私が日々負うべき、痛みを伴う十字架とは何かを、はっきりと悟ることができるようになり、それを避けようとすることがなくなっていきますように。

イザヤ書49章

 この世に対して死んでしまうと、この世の財産の回復や、傷つけられた名誉の回復に対して、何の関心もなくなる。主が一つのものを取り去られる時は、もっと良いものを私たちに下さろうとしている時であると、かけ値なしに信じられるようになるため、自分で自分を回復しようとする一切の試みに関心がなくなっていく。

 私がこれから言うことは、きっと、極端に聞こえるだろうことは承知である。たとえあなたがカルト化教会で全財産、失ったとしても、悲しむには及ばない。ヨブのように息子達を一挙に失ったとしてさえ、悲しむには及ばない。今、仮にあなたがやもめであろうと、みなし子であろうと、産まず女であろうと、盲目であろうと、障害者であろうと、無一文であろうと、宿無しであろうと、何一つ、憂う理由にはならないのだ。それは、あなたが主イエス・キリストを信じて従っているならば、あなたを通して、神がご自身の栄光を現されようとするそのご計画は永遠に不変だからであり、その計画は必ず成就し、あなたは栄えるからである。

 そんなわけで、私は生い立ちや家庭について悲しむことを全く忘れてしまった。この世で不当に奪われ、失われた価値のために涙し、嘆くことを禁じられてしまったような有様だ。だから、世の中のどんな幸せなニュースを聞いたとて、何一つ、羨ましく思うこともなく、心が痛むこともなく、ただ穏やかな笑顔で祝福を祈り、主はこの私には何をなして下さるのだろうかと期待に胸を膨らませるのみである。
 主のご計画の観点から物事を見るならば、一つのものが失われることは、新しいものの始まりであり、神のさらなる栄光が現されるきっかけである。そのことを確信を持って理解できたので、私は失われたものを嘆かないどころか、手ぶらになったことが、かえって嬉しい。空になった壺を、新しい油で主が満たしてくださると信じているからである。

 このような考えは、私の力では持ち得ないものである。これほどまでに多くを失って、未来に希望が見えているわけでもないのに、なお喜んでいる人間がいたとしたら、馬鹿か、あるいは、気が狂っていると世間では思われるだけであろう。気が狂っていると思われようとも、私は少しも構わない。主が確かに私を変えられたことを信じるからである。これが、私の知性にも、感情にも及ばないことであるのが、誰の目にも明白であるので、かえって、そこに主の栄光が現されることを喜んでいる。

 さて、勝手ながら、以下の御言葉を私のために引用させていただきたい。

しかし、シオンは言った、
「主はわたしを捨て、主はわたしを忘れられた」と。
「女がその乳のみ子を忘れて、
その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。
たとい彼らが忘れるようなことがあっても、
わたしは、あなたを忘れることはない。


見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ。
あなたの石がきは常にわが前にある。
あなたを建てる者は、あなたをこわす者を追い越し、
あなたを荒らした者は、あなたから出て行く。

あなたの目をあげて見まわせ。
彼らは皆集まって、あなたのもとに来る。
主は言われる、わたしは生きている、
あなたは彼らを皆、飾りとして身につけ、
花嫁の帯のようにこれを結ぶ。

あなたの荒れ、かつすたれた所、こわされた地は、
住む人の多いために狭くなり、
あなたを、のみつくした者は、はるかに離れ去る。
あなたが子を失った後に生れた子らは、
なおあなたの耳に言う、
『この所はわたしに狭すぎる、
わたしのために住むべき所を得させよ』と。

その時あなたは心のうちに言う、
『だれがわたしのためにこれらの者を産んだのか。
わたしは子を失って、子をもたない。
わたしは捕われ、かつ追いやられた。
だれがこれらの者を育てたのか。
見よ、わたしはひとり残された。
これらの者はどこから来たのか』と」。

主なる神はこう言われる、
「見よ、わたしは手をもろもろの国にむかってあげ、
旗をもろもろの民にむかって立てる。
彼らはそのふところにあなたの子らを携え、
その肩にあなたの娘たちを載せて来る。

もろもろの王は、あなたの養父となり、
その王妃たちは、あなたの乳母となり、
彼らはその顔を地につけて、あなたにひれ伏し、
あなたの足のちりをなめる。
こうして、あなたはわたしが主であることを知る。
わたしを待ち望む者は恥をこうむることがない」。

勇士が奪った獲物を
どうして取り返すことができようか。
暴君がかすめた捕虜を
どうして救い出すことができようか。

しかし主はこう言われる、
勇士がかすめた捕虜も取り返され、
暴君が奪った獲物も救い出される。
わたしはあなたと争う者と争い、
あなたの子らを救うからである。

わたしはあなたをしえたげる者にその肉を食わせ、
その血を新しい酒のように飲ませて酔わせる。
こうして、すべての人はわたしが主であって、
あなたの救主、またあなたのあがない主、
ヤコブの全能者であることを知るようになる
」。

 主はご自身の栄光をあまねく全地に知らせるために、ご自分に忠実な民の全ての損失を回復されると言われる。そこでは、失われたものは何一つ忘れられることはない。(裁判などが何になろう。)私たちを生かす方は、ただお一人である。私たちのために、闘って、報復される方は、ただお一人である。私たちの救い主、あがない主、全能主はただお一人である。私はもはや自分のためにいかなる報復も求めない。しかし、このお方は、ご自分が生きて、今日も働いておられ、全能であることを示すために、私たちの人生を用いられる。この方により頼むなら、私たちは決して恥を見ることはない。
 私たちを通して、神はご自身が今日も生きておられることの証とし、ご自分の栄光を現されようとしておられる。そのご計画は永遠である。主の御名は誉むべきかな。

十字架における自己の死と復活

 なぜ今まで気づかなかったのだろう。十字架経由で自己の死を経たということは、復活したということでもあったのだ。この素晴らしい恵みを直接体験していたにも関わらず、今まで気づいていなかったとは!

 8月の初めに、記事の中で、私はあるキリスト者との語らいについてこう書いた。

「いかにイエスの十字架が軽いといえども、この状況では、苦しくて音をあげたくなる時があります。永久に私はこのままなのだろうか、そんなことには耐えられない、何とかして名誉挽回したいし、人並みに楽しんで幸福な人生を生きていきたい<…>と思わずにいられないのです…。人からどんなに蔑まれ、どんなに貧しく、どんなに惨めな境遇にあったとしても、ただ黙って耐え続けるのが十字架なのでしょうか?」と私。

「気持ちは分かりますよ、でも、そこで自分をごまかして、つまり、自己弁護しようとしてはいけません。サタンは私たちが肉なる自己にしがみつき、肉を立てようとするのを待っているのです。けれども、キリストにならう道とは、馬鹿にされ、誤解され、あざけられ、軽蔑される道なのです。私たちは肉体を持っているとはいえ、すでに肉に死んでいます。私たちの命はすでに死んで、キリストと共に神のうちに隠されているのです(コロサイ3:3)。神のうちに隠されている、これはいわば、墓の向こうで生きるようなものなのですよ。」

「それじゃあ、私はすでにこの世とは別次元で生きているようなものだということですね。だから、この世からはたとえ死人のようにみなされていても仕方がないし、むしろそうあって普通なのだと」
「そうです、この世に対しては死んで、隠された命を生きているのです。自分を祭壇に横たえ、本当に死んでしまえば、敵ももうそれ以上、あなたを攻撃できないのですよ」

 会話は、キリスト者はイエスにならって、十字架、死、復活、キリストと共に御座につくこと、それらを経験しなければならないという運びになった。私は自分の名誉回復をいまだに願ったりしている時点で、本当の意味では自己の死さえ完了していないのかも知れない。<…>

 また、私たちの戦いは血肉に対するものではない、だから、真の敵は人間ではないということが、歩みを進めるに従って、もっとはっきりと分かって来るだろう、との話であった。そうなれば、もはや肉なる人間に対する憎しみや恨み、怒りなども、持ちようがなくなってくるのだと。


 この記事を書いた当初、交わりで交わされていた言葉が、今、成就したのだということが分かる。私は今初めて、自己の死と復活を身を持って体験したのである。
 「自己の死」について、Dr.Lukeの説明を改めて引用することによって、この出来事を振り返りたい。

「…人は自分の意志を完全に放棄することはできません。なぜなら、元々人は悪魔によって『神のようになれる』という誘惑を受け、それに従った結果、堕落に陥ったからです<…>

そこで人は外界と適当な折り合いをつけながらも、手練手管を用いて、最後には自己の意志を通すことを学びます。このために教育や自己啓発によって魂(特に知性)を発達させるのです。これが社会に適応する形で表現されれば、例えば有能な経営者として手腕を発揮し、これが社会に適応し得ない屈折した形で表現されるとカルトの教祖ともなり得るわけです。<…>

それに対して、イエスは自己の意志を通し、それを自ら実現させることを一切排除されました:『わたしは父が行うことを見て、その通りをおこなうのである』、『わたしの言葉は父の言葉である』と。彼はあらゆる状況を自らの有利になるようにコントロールされませんでした。イエスの生き方の特徴は、御父に対する愛と信仰によって、完全に御父に頼り、御父の意志を行ったことです。すなわち、『自己における死』とは、主に私たち自身の意志の取り扱い方において、具体的に表現されます。

このことを学ぶ機会を得させるために、神は時に私たちを私たちから見ると過酷とも見える環境・状況に導かれることがあります。その中にあっては、それまで自己の思いのままにコントロールできていた対象が一つ一つ奪い取られ、すべての事柄が自分の手中から落ちて行ってしまうように感じられます。まったく自分の意志を通すことのできない、自らの方法や策略によって事態を収拾できない、そういう状況を私たちに対して、神は必ずある明確な時期において備えられます。イエスですら、十字架の死という自分ではどうしようもない状況に置かれたのです。

このような期間において私たちに残されるのは、ただ私と主との祈りによる交わりだけです。他の対象において自分自身の存在の保証、自分のアイデンティティーを担保を期待することは100%不可能です。私の存在の保証とアイデンティティーを担保して下さるのは、ただ天地を造られた神のみです!『わが救いはどこから来るのか、天地を造られた主から来る』(詩篇)とある通りです。<…>

多分、私は感覚としてそれを感じることはできません。しかし信仰は知っています。私に残されているのは、ただ御霊による復活なのです!イエスは死に入られ、3日目に復活させられました。そのイエスを甦らせた神の力が私たち信じる者のうちにも働いているのです。その時こそ、私の意志ではなく、神の意志が実現され、神へと感謝と賛美、そして栄光が帰されるのです!神の御業が最も顕著に、かつ明確になされるのは、私たちが自己努力でもがくことなく、自己にあって死ぬ瞬間、すなわち自己の意志が無とされる時です。自己の死は、誰の意志が優先されるか、という点において明確に識別し得ます。それは私の意志でしょうか、それとも神の意志でしょうか・・・」

 今から振り返ると、不思議なほどその通りなのである。私は十字架で自己の死を経るまでには、自分がガス室に向かっているような感覚を絶えず持っていた。その時、私に見えていた十字架とは、反人間的なものであり、私を殺そうとする脅威のように思われた。そして、私の自己は、この暗い予感の通りに、まるで車の衝突実験に見られるように、時速何百キロというスピードで、十字架という壁に向かって突っこんで行った、そして、見事にクラッシュして、私は帰らぬ人となった。
 一つの事件を通して、私の自己は砕け散り、私は自分が死んだと思った…。私の生きる意欲、生きたいという願い、幸せになりたいという願いの全てが、微塵に砕け散った瞬間だった。

 だが、死んだと思った私は、十字架を経由して、まだ生きていることを知った。初めは、自分の命が奇跡によって救われたのだと思った。しかし徐々に、そうではないことが分かって来た。いや、奇跡は私が思ったよりなお素晴らしいものだったのである。私は確かに死んで、自己に死んで、復活したのだということ、この世に復活したのではなく、この世に対して死に、御霊によって、キリストの命を得て復活にあずかったということが分かってきたのである。

 なぜそれが分かるかと言えば、今、私を生かしているのが「私の意志でしょうか、それとも神の意志でしょうか」という違いがはっきりしているからである。すなわち、十字架の死を経るまでは、私は自己保存の法則に従って生きていた。この世で何とかして自分を生かそうという思い、他人を生かしたいとの思いが、私の人生目的の全てであった。神は私たちの生存を手助けした上で、永遠の命へと導いてくれる存在としか見えていなかった。たとえ御言葉を語り、神の栄光について語っている時でさえも、私は自分を起点にして話していた。

 ところが、今や、私は「神の意志が何であるか」ということを起点にしか、物事を考えることができなくなりつつあるのだ(まだこの学習は完全ではないとはいえ)。

 ここ数日、私は、世界が幾度、滅んだとしても、主のご計画は絶対に変わらないという安心感の中に生きていた。こうした表現は、一見、世界の価値、人の生命の価値を何とも思っていないかの発言に聞こえるだろう。

 しかし、それを通して、私が真に言いたかったことはただ一つ、すなわち、私はもはや古き人の情の世界に生きていないということである。私はこの世に対して死んで、この世も私に対して死んだので、私は、肉なる人を救おうとする人情が最高の価値を持っているこの世の価値観に対して死んでしまったのである。

 人情から解放されると、一見、この世に無関心で、人に対して冷たくなったように見られることがあるかも知れない。しかし、そうではないのだ。自分自身で直接、人を救おうと焦ることがなくなった代わりに、神の御心が人を救うものであることを知っているので、神を経由することによって、人を愛し、神のご計画の中で、人の救いを手助けしていくことができるようになるのである。それは情の上で人を愛するということではなく、むしろ、神のご計画の一端を担いながら、それによって、人を愛するということなのである。

 十字架上で自分が崩壊してからというもの、自分の考えで人を救い、人の苦痛を少しでも減らすことを最善と考える「人に優しい生き方」が、私にとって、一切の価値を失った。そして、「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」(ガラテヤ2:19-20)という御言葉が、本当に私の中で、はっきりした形で理解できるようになったのである。

 これを上手く説明するのは難しいだろう。「千と千尋の神隠し」という映画の中で、主人公の千尋が廃墟と化したテーマパーク(?)にいるうちに、夜を迎えてしまい、元の現実世界に戻ろうと思っても、河に隔てられて帰れなくなってしまう場面があるが、それに似ているかも知れない。

 あの場面に登場する河は、此岸と彼岸とを隔てる、三途の河のようなものを象徴している。それにもよく似て、自己に死んだキリスト者と、この世との間には、十字架なしには渡れない何らかの深い隔てがあり、十字架の死と復活を経由して、御霊の法則の支配する世界に移されたキリスト者は、この世をまるで対岸にあるもののように眺めており、そこに帰ることがもはやできないのである。私たちは、深い淵の中を、信仰の小船に乗って進んでいる。向こう岸にあるこの世の明かりはますます遠ざかるばかりで、二度と私たちはそこへ戻ることはない。新しい旅路が始まっており、向かう先はまだよく分からないが、栄光に満ちた御国が行く手にあることがはっきりしており、この小船の船頭はイエス・キリストである。この世の絶えざる苦労の中に生きていた頃の自分が、すでに死んで昔のものとなってしまったことが分かる。

 今生きている世界で、私を生かしている法則は、「主は何を望まれるのか」ということに尽きる。実際には、私はまだこの世に生きているのだが、それにも関わらず、もはやこの世と隔絶したところに生きており、自己保存の法則ではなく、御心を第一とする法則に支配されて、この世から隠されて生きている。
 「自分を祭壇に横たえ、本当に死んでしまえば、敵ももうそれ以上、あなたを攻撃できないのですよ」との言葉通り、肉なる私は死んで十字架につけられたままこの世での生命を終え、今生きているのは、キリストによって復活させられた私、キリストの命を生きている私なのである。
 多分、どう説明したところで、分からない人には分かってもらえそうにない気がするが、これが、私が十字架において自己の死と復活とを経由したということの拙い説明である。

 もちろん、このような自己の死というものは、恐らく一度限りでは終わらないだろう。私にはさらに砕かれる必要があるだろうと思う。だが、これほど大がかりで、しかも、はっきりした形でそれを理解させられたのは、私にとっては初めてのことであった。大昔にバプテスマを受けながらも、私は自己に死ぬことを(経験的に)知らなかったのだ。今、これほど明確に、自己に死に、復活するとは何かを主が私に教えて下さったことを嬉しく思う。さて、「死と復活の原則について」から引用。

 「私たちのうちには聖霊によって神の命が種の形で蒔かれています。神の命の遺伝子が組み込まれているのです。これは自分が感じようと感じまいと事実です。なぜなら聖書が信じる者は永遠の命を持つと言っているからです。問題はその命が私たちの自我という固い殻に覆われていて、その命の現れが見えて来ないことです。私たちの生まれつきの魂は、自らの意志を通し、自らの思いを守り、自らの感情に傷を受けまいとします。すなわち、私たちは魂の本質的性向として『自己保存』という強い欲求を持っています。<…>自我(魂)は自己の保存を意識的にせよ、無意識的にせよ、第一に求めるのです。

一方、神が求めておられるのは、私たちの内の神の命が、私たちを通して表現されることです(注)。そのためにはどうしても私たちの自我(魂)という硬い殻が一旦破られる必要があるのです。内に閉じ込められた命を解放するためにどうしても必要な過程です。これが私たちの『自己における死』です。」

 何のために自己の死を経る必要があるのか。それは一粒の麦が地に落ちて多くの実を結ぶためである。命の川、生ける水の川々が私たちの自我の殻を打ち破って、隔てなく、よどみなく外へ向かって流れ出るためである。そうやって、神の栄光が私たちを通して、よどみなく現されるためである。
 さらに、自己に死ぬとは、私たち自身のためでもあると、私は思う。自己に死ぬまでの過程は、肉の存在である私たちにとっては、かなり苦しいものであるかも知れないが、一旦、自己の死を経ると、私たち自身が、罪と死の法則性から解放されて、圧倒的な自由を得るのである。

 人間は、神を誉めたたえるために創造された。自分自身を生かすために生存するのでなく、神の栄光のために生きることこそが、人間にとって本来の最も自然なあるべき姿である。従って、自己に死んで、キリストの命を生きるようになる時、私たち人間は、最もあるべき姿、自然な姿、神が本来私たちをかくあれかしと創造された姿へと回復されていくのである。

「見よ、わたしは新しい事をなす。
 やがてそれは起る、
 あなたがたはそれを知らないのか。
 わたしは荒野に道を設け、
 さばくに川を流れさせる。<…>
 この民は、わが誉を述べさせるために
 わたしが自分のために造ったものである。」(イザヤ43:19,21)