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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。

「イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。しかし、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」(マルコ10:29-31)

さて、我が家の成員が急遽増えたので、しばらくそちらにかかりきりになっていた。
鳥の雛が我が家にやって来たのだ!

毎朝、毎夕、我が家のベランダには可愛い雀たちが群れて挨拶にやって来て、つい先日は、手の届くほどの距離で物干しさおにちょこんと止まっていたが、鳥好きの私としては、雀を眺めているだけでは物足りない。

むろん、我が家のメンバーはすでに存在しているのだが、もう少し成員を増やしたいと願った。

以前の記事にかつて起きた小鳥の落鳥のことを書いた後、言葉が足りなかったなと思うことがあった。「主が与え、主が取りたもう」・・・、このストーリーには確かに続きがあるが、まだそれを書いていないからだ。

は与え、は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1:21) これはヨブの言葉であるが、主は取られることもあれば、必ず、その後、以前よりも豊かにお与え下さる方なのである。

それが証拠に、ヨブはサタンの試みにあって家族を失い、一時は一家全滅の寸前まで追いやられたのに、物語の最後では、前よりも豊かになっている。

このように、むろんヨブほどの試練ではないにせよ、何かが我々の生活から取り去られる時、いつも主にあってそれを小さな十字架として受け止めるならば、しばらくの悲しみの後に、前よりももっと豊かな祝福が与えられる。

それがどんなきっかけで生じた損失であれ、法則は同じなのである。自分の過失であれ、誰かの裏切りであれ、偶発的な事件であれ、何が原因で生じたものであれ、すべての痛みと損失を主に持って行き、主にあって、これを日々の十字架として受け取り、「主が与え、主が取りたもう、主の御名は誉むべきかな」と宣言するのである。

すると、そこに死と復活の法則が働く。そして、不思議と受けた損失を補って余りある祝福が天から与えられるのである。

私はこのことをよく経験して来た。

だから、きっと小鳥もそうに違いないと確信していた。案の定、探すと不思議な幸運で、大した苦労もなしに、ちょうど雛のシーズンが終わる前に、実によく人馴れした愛らしい鳥たちに出会うことが出来た。

それは願った以上のものが向こうからやって来るほどで、頼んでもいないのに珍しい鳥が集まって来るのである。

しかし、これは鳥に限った話ではない。以前に、あるキリスト者に向かって、ロシア語の練習の機会が欲しいのだと話した時に、こう言われた、「ヴィオロン、それはね、ロシア人よ、私のもとに集まれ!と命じるんだよ」と。その時にも、実際に不思議とそうなって行ったのだが、今度は鳥である。(鳥と同列に論じられるとロシア人は怒るかも知れないが。)

キリスト者は自らの言葉によってさまざまな出来事を主と共に創造している。だから、どのようなことであれ、主の栄光になるように語ることが大切である。「主は与え、主は取りたもう。しかし、主の御名はほむべきかな、主は我々のすべての必要と心の動きをご存知で、私たちの地上の人生は、痛み苦しみだけでは終わらないのだ…」

むろん、誰しも、大きな別離を経験したすぐ後に、立ち上がって再び出会いを探そうというのは無理な話である。そんな不自然なことをする必要はない。悲しみたい時には悲しみ、涙を流すべき時には思い切り泣き、目いっぱい、人として自然な生活を送り、そして、立ち上がり、望む気力が出て来たときに、新たな出会いを模索するのである。それはペットであれ、仕事であれ、人との出会いであれ、みな同じである。主は絶対に人の心の自然な動きに反するようなことを求められない。

だが、信仰者が信仰によって望みを抱いて立ち上がるなら、そこから、常に新しい展望が開けて来る。それは信者の歩みが主との二人三脚だからである。

十字架の死と復活の法則は、すべてのことを信仰によって主の御手から受け取る時に確かに生きて働く。良いことも、悪いことも、喜ばしいことも、悲しいことも、何もかもすべてを主の御手から受けとるのである。

そして、主こそ、それらすべての現象をご自身の栄光に変えることのできる方であることを信じるのである。

それは日々起きるすべての出来事の中での信仰による一瞬の手続きである。何も考えずにただ現象に振り回され、左右されるのでなく、すべての出来事の只中にあって、主を見上げ、すべてのことを主の御手から受けとることを、あえて信仰によって宣言するのである。

そうすると、悲しみや苦しみでさえ、まもなく新たな喜びへと変えられて行く。何かが失われたように見えても、しばらくの後に、溢れるほどの祝福が返って来る。その不思議ないきさつを見ていると、おそらくは、そこに日々の十字架の働きが――死と復活の命の働きが確かにあるのだろうと想像するしかない。

私は十字架の恵みに満ちた喜ばしい側面だけを強調しようとは思わない。主に従う上で、苦しみは確かに避けて通ることができないと知っているからだ。セルフがキリストと共に十字架の死に同形化されることに、痛みが全く伴わないはずがない。

しかし、それでも、キリスト者の人生とは、苦しみの連続には終わらない。ダビデが謳ったように、慈しみと恵みとが生きている限り、キリスト者を追って来るのである。

そして、当ブログに書いて来た通り、これまで筆者が出会ったクリスチャンを名乗る人々の間では(むろん、彼らはとても信者を名乗るに値する人々ではなかったのだが)、裏切りや離反や密告や誹謗や讒言や、誰も目にしたくもないさまざまな偽りの光景が目の前で起きて来たが、同時に、これらの損失(?)を補って余りある祝福もまた上から与えられるのだと信じている。

人の人生を食い荒らすことしかできないバッタやイナゴのような無価値な一群とは別に、人に喜びを与え、そのさえずりによって安らぎをもたらす美しい鳥たちの群れも飛んで来ることであろうと確信している。

私は何もこの手に握らない。これだけは私のものだ、これだけは取らないでくれ、としがみつくものはない。
それでも、聖書には書いてある、信仰者は主の御名のために失ったものの百倍を受けるのだと。今の世でも、来るべき世でも、豊かな報いを受けるのである。(来るべき世には家というものがないので、永遠の命を報いとして受ける)。回復されるものの中には、兄弟姉妹も含まれている。これには信仰による兄弟姉妹も含まれると私は確信している。

だから、ヨブが失った家や娘息子たちを再び主の御手を通して得たように、失われたクリスチャンの兄弟姉妹たちも再び得られる時が来るだろうと確信している。ちょうど、海の向こうから贈り物を携えてやって来る外国人たちを信仰によって呼び出したように、すべての生活の必要と、兄弟姉妹を、呼び出すのである、御言葉に基づき、信仰によって――。
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蘇生する自己

さて、皆さん、お久しぶりです。

関東に来てからしばらく、ブログを更新するという重荷からも逃れて(笑)、夢のように解放的で充実した日々を送っていました。長らく記事を書いていなかったので、私のブログ読者は半分以下に激減したようですが、それもかえって嬉しく感じられます。過去にためこんだあれやこれやの荷物をきれいさっぱりと捨てて、日々の十字架だけを背負って、つつましい、新しいスタートを切ることができるのは、またとない幸いです。

人に言わせると、「ヴィオロンは著しく変わった」のだそうです。本当にそうなのでしょう。去る8月25日、紛争の絶えなかった我が家と、その我が家のために、救いがたく病んでいた私に、神が大いなる憐れみを注いでくださったその時から、私は十字架上で、御子イエスと共に自己に死に、イエスの復活の命をいただいて、御霊によって生きるように変えられました。以来、筆舌に尽くしがたい不思議なことが周りで起き、それからわずか1ヶ月の早さで、私は我が家を離れ、今住んでいる土地へとやってきました。この「エクソダス」は、エクレシアに連なりたいという動機だけに基づいて行われたことであり、それはどうやら、神の御心にかなって与えられた願いのようです。この計画にまつわるすべての事柄に関して、主は完璧すぎるほどに準備を整えてくださいましたので、私は何の問題もなく引越しを完了することができたのです。

しかし、解放感に浸るのはそろそろ終わりにしましょう。ここからが今日の記事の本題です。今、先人の言葉を参考にしながら、記事を書いています。

私が経験したのと同じようにして、キリスト者は、ある日、突然、何か劇的な事件が起こって、あるいは、些細な事件を通して、「十字架によって自己に死ぬとは何なのか」を学ばせられる体験をするかも知れません。その時、私たちは自分の弱さ、醜さを徹底的に思い知らされ、人知の癒しがたく腐敗していること、人間が魂の底まで、救いようなく堕落しており、生まれながらの人間から発生するどんな善良さも、絶望的なものであり、腐敗していること、人間には微塵もきよさはないこと、神の助けなくして、人間は一瞬たりともまともに生きられない邪悪な存在であることを思い知らされます。

御霊を通してやってくる真理の光に照らされ、私たちは絶体絶命へと導かれ、そこで自分たちの無力と腐敗を知ります。私たちは神の御前に万策尽きた状態となり、どんなあがきも、試行錯誤も、あの手この手も、自分を生かす力がないことを知ります。完全にお手上げです。私たちには、目の前にたちはだかる困難に立ち向かう力は全くありません!万策尽きました! 主よ、助けて下さい! それが、私たちが、自分の自己に対して、徹底的に殺される瞬間に、心の底から出て来る叫びであることでしょう。今までのプライドは打ち砕かれ、誇りにしていた経験も何の役にも立たず、知識は私たちを裏切り、感情は不毛な叫び声をあげるばかりです。私たちは、世間からどんなにみっともなく思われようとも、その時、ただなりふり構わず、神に助けを求める以外には、もはや何もできないことを知ります。こうして、私たちは、自己に死なされます。

その後、自己に死んだだけで終わるのでなく(それでは無意味です)、十字架を通して、イエスの復活の命が私たちに適用されるなら、私たちは、絶体絶命をくぐりぬけて、今まで経験しなかったような新たな力によって、自分が生かされていることを知るでしょう。ふと気づけば、あれほど強固に自分を苦しめていた縄目が地に落ちて、私たちは自分が勝利を得たことを知るのです。今まで知らなかった新しい命が自分を生かしていることを私たちは見ます。それは自分の力では決して得られなかった勝利です。ですから、私たちは、今や上から与えられた力が自分を生かしていることを知るのです。そして喜びのゆえに主を賛美します。主は新しい命を私たちに与えて下さったのです! ハレルヤ!

しばらくの間、この驚くような新しい力と、いまだかつてない勝利に、私たちは酔いしれます。聖なる御霊が自分の内に宿っていることを知り、聖書の御言葉が驚くほどよく分かるようになり、何かしらの啓示さえ受けるかも知れません。それまで、心の中にさんざん生い茂って、真理を阻んできた自己という雑草がことごとく取り払われたおかげで、私たちは自分が聖別されたことを感じ、霊的視界がクリアになり、どんな物事も澄んだ目で見られるようになったような気がします。自分が神に愛されている存在であることを前よりももっとはっきりと感じ、今までよりも、もっと親しく、近しく、主に向かって祈り、願うことができるようになったと思います。

しかし、ここで私たちは、勝利を得たのでもう学習は終わった、などと決して思うべきではありません。「私はすさまじい体験をくぐりぬけたおかげで、他人より抜きん出て霊的な人へと変えられた。私は勝利を得たのだから、もう二度とかつてのような事件は起きないだろうし、これ以上、自己に死ぬということを私は学ぶ必要はない」、とは、決して思うべきではないのです。

まず、私たちが経験した事件が劇的であればあるほど、それは、誇るべき経験ではなく、むしろ、私たちのしぶとく頑固だった自己を殺すために、神はそれほどの大事件を必要とされたという事実を見るべきです。私たちの自己は、ひょっとすると、悪質なゴキブリの千倍、万倍も、頑固でしぶとく、殺しても死なないほどの生命力を持っていたのかも知れません。いや、そうであるはずです。だからこそ、そのように腐敗しているにも関わらず、強靭な生命力を持った魂と肉体(自己)に死ぬということを私に経験させるために、神は特別な事件を私のために用意しなければならなかったのです。私の自己が他人と比べてあまりにもわがままで、しぶとく、腐敗しきっているために、神には大がかりな事件によって私を打ち砕く必要があったのです!

こうして、十字架という、罪を駆除する最も強力な光の照射によって、私たちの自己は、ある日は殺されたかも知れません。そして復活の命に生きる喜びを、私たちは全身全霊で感じたかも知れません。しかし、自己は一旦殺されても、時間が経つと、また蘇生してくるのです(蘇生とは、あるキリスト者の表現)。それはちょうど、一旦きれいに庭を掃除して、雑草を刈り取っても、手入れを怠れば、庭には再び雑草が生い茂るのと同じであり、退治しても、退治しても、また害虫がどこからか家に入り込んで、住み着くようになるのに似ています。

仮に私が昨日、どんなに徹底的に、大々的に、ドラマチックに、キリストの十字架を自分のものとして受け取って、自己に死に、キリストの復活の命によって生きることの意味を学んだとしても、それは私の今日の糧とはなりません。昨日の勝利は、今日の勝利にはならず、今日、私が自己を否んで、キリストの十字架を負っていることの何の証拠にもならないのです。

人は日々、自分の十字架を負って、イエスに従わなければいけません、自分の天然の命を拒否して、キリストの命を選び取ることを続けなければならないのです、その日々の十字架を負うことは、決して、どこかの団体や組織へ熱心に奉仕することと取り違えられてはいけません。日々の十字架を負うとは、まず何よりも第一に、真理なるキリストの光に照らされて、私たちが、自分の生まれながらの自己の本当の醜さを知り、それに絶望して、自己を否み、キリストを選ぶことを指しているのです。

私たちは自分の生まれつきの自己がどれほど癒し難く腐敗しているか、どれほど邪悪であるか、私たちの生まれつきの姿が、どんな犯罪者にもまさって、最悪の最悪の姿であるかを、直視しようとしません。それを直視することには大いなる痛みが伴うからです。私たちの肉体も、魂も、痛みを伴う事件を避けようとします。過去に大失敗があったからと言って、それでもまだ私たちは、それが自己の腐敗した本質によって引き起こされたという事実を直視しようとしません。むしろ二度と同じ痛みを味わわなくて済むように、こざかしいあの手この手を考え出すばかりなのです。そうやって、自己の本質を直視する痛みを避けて、自己を美化する楽な道を選び、毎日、自己を甘やかし、大目に見、自己を立て、自己から来る力を楽しんで生き、それを誇り思い、自己に栄光を帰そうとして、あれやこれやと計画し、走り回って活動しているのです。キリストのため、と言いながら、その実、活動しているのは私たちの自己なのです。

自己はまさしく欺きの天才です。ちょうど暗がりに隠れたゴキブリが、人のいないところを見計らって、夜半にこっそりと出て来るように、私たちの自己も、私たちの思いを欺いて、キリストの真理の照射する殺人的な光線を何とかして避けて、自らを生き延びさせようと、あらゆる狡知をめぐらします。自己は宗教活動にも偽装しますし、信仰にも偽装します。何にでも化けるのです。この自己の欺きを看破し、その策略を微塵に打ち砕くことができるのは、ただ御言葉――真理なるキリスト――まことの光だけです。私たちが自分の力でどんなに自己を鎮めようとしても、それは無理です。私たちは自分の力で、自己に死ぬことはできず、自分の力では、キリストの復活の命を受け取ることもできないのです。

方法は一つだけです、光の照射です。私たちが日々、まことの光に照らされて、自己の腐敗性、絶望性、無力さ、邪悪さを知り、その自己を神の御前に汚れた、忌まわしいもの、呪われたものとして拒否し、その代わりに、キリストの復活の命を選び取り、その復活の命によってのみ、生き、活動することが必要なのです。それには痛みが伴うでしょう! あなたは自分が無力になって、打ちのめされたと感じ、失望し、見込みを失うでしょう! 愕然とし、恥じ入り、頭を垂れるしかないでしょう。しかし、それは幸いな時です、この痛みを伴う訓練は、生きている限り続くものであって、誰一人として、その訓練はもはや自分には必要なくなったと言える人はいません。自分の十字架は日々、負わなければならないものなのです! 

ですから、私たちは(できるならば、毎日の生活のごく些細な事柄を通して)、何が自己から来る力であり、肉と魂の衝動に由来する忌まわしいエネルギーであるか、学ぶ必要があります。何が天然の命から生まれる願いや力であり、何が御霊から来る、御心にかなった願いと力なのか、識別することを学び、自己から来る力を行使しないことを学ぶ必要があります。
(注意していただきたいのですが、自己を否むとは、決して、自分の意志を放棄することではありません。それは決して、信徒が自分の意志を放棄して、誰か指導者の命令や思惑に妄信的に振り回されたり、何らかの教義の奴隷状態に陥ることを意味しません。私たちはあくまでしっかりした自分の意志を働かせつつ、自己を否み、キリストを選ぶのです、自分の自己を十字架上でキリストと共に死んだものとして拒否し、人の思惑ではなく、御霊の導きに従うことを選択し続けるのです。)

この毎日の学課(私たちが自己の絶望的な本質を知り、それを拒否して、真理に忠実に聞き従うこと)を的確に行うならば、神は私たちの自己を打ち砕くために、わざわざ大がかりで悲惨な事件(大失敗や絶体絶命の危機)を用意する必要はなくなることでしょう。しかし、私たちがかつてのある日、自分の自己が十字架につけられて死に、その代わりに信仰によってキリストの復活の命を受け取った、という体験の上にあぐらをかき、それに慢心し、日々、自己の厭うべき性質を知ることをやめて、自分の腐敗した性質を見ようとせず、むしろそれを甘やかし、増長させていくならば、神はその肥大した自己の忌まわしい性質をあなたに知らせ、それを断ち切るために、ある日、あなたが考えもしなかったような悲惨な失敗の体験をあなたの身に起こさなければならなくなるでしょう。

そんなわけで、大きな勝利が得られて、物事が順調に行き、自分がきよめられて、霊的になったように感じられ、神から特別に恵まれているとさえ思われるほどに幸福な時には、普段以上に注意が必要かも知れません。富んでいる人が天国に入ることは難しいと警告されているのです! 人の生まれながらの自己は、永遠の命を継ぐことはできません! その富が、勝利が、自己を慢心させ、肥大化させ、御霊に従って生きる道を奪うきっかけとならないよう、私たちは気をつけなければなりません。

信徒が自己を否んで御霊の導きを選び取り、キリストの復活の命によってのみ生きることを学ぶ学課は、私たちが地上を歩む限り、決して終わることはないのです。どうか、神が私を憐れんで下さり、私が日々負うべき、痛みを伴う十字架とは何かを、はっきりと悟ることができるようになり、それを避けようとすることがなくなっていきますように。

イザヤ書49章

 この世に対して死んでしまうと、この世の財産の回復や、傷つけられた名誉の回復に対して、何の関心もなくなる。主が一つのものを取り去られる時は、もっと良いものを私たちに下さろうとしている時であると、かけ値なしに信じられるようになるため、自分で自分を回復しようとする一切の試みに関心がなくなっていく。

 私がこれから言うことは、きっと、極端に聞こえるだろうことは承知である。たとえあなたがカルト化教会で全財産、失ったとしても、悲しむには及ばない。ヨブのように息子達を一挙に失ったとしてさえ、悲しむには及ばない。今、仮にあなたがやもめであろうと、みなし子であろうと、産まず女であろうと、盲目であろうと、障害者であろうと、無一文であろうと、宿無しであろうと、何一つ、憂う理由にはならないのだ。それは、あなたが主イエス・キリストを信じて従っているならば、あなたを通して、神がご自身の栄光を現されようとするそのご計画は永遠に不変だからであり、その計画は必ず成就し、あなたは栄えるからである。

 そんなわけで、私は生い立ちや家庭について悲しむことを全く忘れてしまった。この世で不当に奪われ、失われた価値のために涙し、嘆くことを禁じられてしまったような有様だ。だから、世の中のどんな幸せなニュースを聞いたとて、何一つ、羨ましく思うこともなく、心が痛むこともなく、ただ穏やかな笑顔で祝福を祈り、主はこの私には何をなして下さるのだろうかと期待に胸を膨らませるのみである。
 主のご計画の観点から物事を見るならば、一つのものが失われることは、新しいものの始まりであり、神のさらなる栄光が現されるきっかけである。そのことを確信を持って理解できたので、私は失われたものを嘆かないどころか、手ぶらになったことが、かえって嬉しい。空になった壺を、新しい油で主が満たしてくださると信じているからである。

 このような考えは、私の力では持ち得ないものである。これほどまでに多くを失って、未来に希望が見えているわけでもないのに、なお喜んでいる人間がいたとしたら、馬鹿か、あるいは、気が狂っていると世間では思われるだけであろう。気が狂っていると思われようとも、私は少しも構わない。主が確かに私を変えられたことを信じるからである。これが、私の知性にも、感情にも及ばないことであるのが、誰の目にも明白であるので、かえって、そこに主の栄光が現されることを喜んでいる。

 さて、勝手ながら、以下の御言葉を私のために引用させていただきたい。

しかし、シオンは言った、
「主はわたしを捨て、主はわたしを忘れられた」と。
「女がその乳のみ子を忘れて、
その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。
たとい彼らが忘れるようなことがあっても、
わたしは、あなたを忘れることはない。


見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ。
あなたの石がきは常にわが前にある。
あなたを建てる者は、あなたをこわす者を追い越し、
あなたを荒らした者は、あなたから出て行く。

あなたの目をあげて見まわせ。
彼らは皆集まって、あなたのもとに来る。
主は言われる、わたしは生きている、
あなたは彼らを皆、飾りとして身につけ、
花嫁の帯のようにこれを結ぶ。

あなたの荒れ、かつすたれた所、こわされた地は、
住む人の多いために狭くなり、
あなたを、のみつくした者は、はるかに離れ去る。
あなたが子を失った後に生れた子らは、
なおあなたの耳に言う、
『この所はわたしに狭すぎる、
わたしのために住むべき所を得させよ』と。

その時あなたは心のうちに言う、
『だれがわたしのためにこれらの者を産んだのか。
わたしは子を失って、子をもたない。
わたしは捕われ、かつ追いやられた。
だれがこれらの者を育てたのか。
見よ、わたしはひとり残された。
これらの者はどこから来たのか』と」。

主なる神はこう言われる、
「見よ、わたしは手をもろもろの国にむかってあげ、
旗をもろもろの民にむかって立てる。
彼らはそのふところにあなたの子らを携え、
その肩にあなたの娘たちを載せて来る。

もろもろの王は、あなたの養父となり、
その王妃たちは、あなたの乳母となり、
彼らはその顔を地につけて、あなたにひれ伏し、
あなたの足のちりをなめる。
こうして、あなたはわたしが主であることを知る。
わたしを待ち望む者は恥をこうむることがない」。

勇士が奪った獲物を
どうして取り返すことができようか。
暴君がかすめた捕虜を
どうして救い出すことができようか。

しかし主はこう言われる、
勇士がかすめた捕虜も取り返され、
暴君が奪った獲物も救い出される。
わたしはあなたと争う者と争い、
あなたの子らを救うからである。

わたしはあなたをしえたげる者にその肉を食わせ、
その血を新しい酒のように飲ませて酔わせる。
こうして、すべての人はわたしが主であって、
あなたの救主、またあなたのあがない主、
ヤコブの全能者であることを知るようになる
」。

 主はご自身の栄光をあまねく全地に知らせるために、ご自分に忠実な民の全ての損失を回復されると言われる。そこでは、失われたものは何一つ忘れられることはない。(裁判などが何になろう。)私たちを生かす方は、ただお一人である。私たちのために、闘って、報復される方は、ただお一人である。私たちの救い主、あがない主、全能主はただお一人である。私はもはや自分のためにいかなる報復も求めない。しかし、このお方は、ご自分が生きて、今日も働いておられ、全能であることを示すために、私たちの人生を用いられる。この方により頼むなら、私たちは決して恥を見ることはない。
 私たちを通して、神はご自身が今日も生きておられることの証とし、ご自分の栄光を現されようとしておられる。そのご計画は永遠である。主の御名は誉むべきかな。

十字架における自己の死と復活

 なぜ今まで気づかなかったのだろう。十字架経由で自己の死を経たということは、復活したということでもあったのだ。この素晴らしい恵みを直接体験していたにも関わらず、今まで気づいていなかったとは!

 8月の初めに、記事の中で、私はあるキリスト者との語らいについてこう書いた。

「いかにイエスの十字架が軽いといえども、この状況では、苦しくて音をあげたくなる時があります。永久に私はこのままなのだろうか、そんなことには耐えられない、何とかして名誉挽回したいし、人並みに楽しんで幸福な人生を生きていきたい<…>と思わずにいられないのです…。人からどんなに蔑まれ、どんなに貧しく、どんなに惨めな境遇にあったとしても、ただ黙って耐え続けるのが十字架なのでしょうか?」と私。

「気持ちは分かりますよ、でも、そこで自分をごまかして、つまり、自己弁護しようとしてはいけません。サタンは私たちが肉なる自己にしがみつき、肉を立てようとするのを待っているのです。けれども、キリストにならう道とは、馬鹿にされ、誤解され、あざけられ、軽蔑される道なのです。私たちは肉体を持っているとはいえ、すでに肉に死んでいます。私たちの命はすでに死んで、キリストと共に神のうちに隠されているのです(コロサイ3:3)。神のうちに隠されている、これはいわば、墓の向こうで生きるようなものなのですよ。」

「それじゃあ、私はすでにこの世とは別次元で生きているようなものだということですね。だから、この世からはたとえ死人のようにみなされていても仕方がないし、むしろそうあって普通なのだと」
「そうです、この世に対しては死んで、隠された命を生きているのです。自分を祭壇に横たえ、本当に死んでしまえば、敵ももうそれ以上、あなたを攻撃できないのですよ」

 会話は、キリスト者はイエスにならって、十字架、死、復活、キリストと共に御座につくこと、それらを経験しなければならないという運びになった。私は自分の名誉回復をいまだに願ったりしている時点で、本当の意味では自己の死さえ完了していないのかも知れない。<…>

 また、私たちの戦いは血肉に対するものではない、だから、真の敵は人間ではないということが、歩みを進めるに従って、もっとはっきりと分かって来るだろう、との話であった。そうなれば、もはや肉なる人間に対する憎しみや恨み、怒りなども、持ちようがなくなってくるのだと。


 この記事を書いた当初、交わりで交わされていた言葉が、今、成就したのだということが分かる。私は今初めて、自己の死と復活を身を持って体験したのである。
 「自己の死」について、Dr.Lukeの説明を改めて引用することによって、この出来事を振り返りたい。

「…人は自分の意志を完全に放棄することはできません。なぜなら、元々人は悪魔によって『神のようになれる』という誘惑を受け、それに従った結果、堕落に陥ったからです<…>

そこで人は外界と適当な折り合いをつけながらも、手練手管を用いて、最後には自己の意志を通すことを学びます。このために教育や自己啓発によって魂(特に知性)を発達させるのです。これが社会に適応する形で表現されれば、例えば有能な経営者として手腕を発揮し、これが社会に適応し得ない屈折した形で表現されるとカルトの教祖ともなり得るわけです。<…>

それに対して、イエスは自己の意志を通し、それを自ら実現させることを一切排除されました:『わたしは父が行うことを見て、その通りをおこなうのである』、『わたしの言葉は父の言葉である』と。彼はあらゆる状況を自らの有利になるようにコントロールされませんでした。イエスの生き方の特徴は、御父に対する愛と信仰によって、完全に御父に頼り、御父の意志を行ったことです。すなわち、『自己における死』とは、主に私たち自身の意志の取り扱い方において、具体的に表現されます。

このことを学ぶ機会を得させるために、神は時に私たちを私たちから見ると過酷とも見える環境・状況に導かれることがあります。その中にあっては、それまで自己の思いのままにコントロールできていた対象が一つ一つ奪い取られ、すべての事柄が自分の手中から落ちて行ってしまうように感じられます。まったく自分の意志を通すことのできない、自らの方法や策略によって事態を収拾できない、そういう状況を私たちに対して、神は必ずある明確な時期において備えられます。イエスですら、十字架の死という自分ではどうしようもない状況に置かれたのです。

このような期間において私たちに残されるのは、ただ私と主との祈りによる交わりだけです。他の対象において自分自身の存在の保証、自分のアイデンティティーを担保を期待することは100%不可能です。私の存在の保証とアイデンティティーを担保して下さるのは、ただ天地を造られた神のみです!『わが救いはどこから来るのか、天地を造られた主から来る』(詩篇)とある通りです。<…>

多分、私は感覚としてそれを感じることはできません。しかし信仰は知っています。私に残されているのは、ただ御霊による復活なのです!イエスは死に入られ、3日目に復活させられました。そのイエスを甦らせた神の力が私たち信じる者のうちにも働いているのです。その時こそ、私の意志ではなく、神の意志が実現され、神へと感謝と賛美、そして栄光が帰されるのです!神の御業が最も顕著に、かつ明確になされるのは、私たちが自己努力でもがくことなく、自己にあって死ぬ瞬間、すなわち自己の意志が無とされる時です。自己の死は、誰の意志が優先されるか、という点において明確に識別し得ます。それは私の意志でしょうか、それとも神の意志でしょうか・・・」

 今から振り返ると、不思議なほどその通りなのである。私は十字架で自己の死を経るまでには、自分がガス室に向かっているような感覚を絶えず持っていた。その時、私に見えていた十字架とは、反人間的なものであり、私を殺そうとする脅威のように思われた。そして、私の自己は、この暗い予感の通りに、まるで車の衝突実験に見られるように、時速何百キロというスピードで、十字架という壁に向かって突っこんで行った、そして、見事にクラッシュして、私は帰らぬ人となった。
 一つの事件を通して、私の自己は砕け散り、私は自分が死んだと思った…。私の生きる意欲、生きたいという願い、幸せになりたいという願いの全てが、微塵に砕け散った瞬間だった。

 だが、死んだと思った私は、十字架を経由して、まだ生きていることを知った。初めは、自分の命が奇跡によって救われたのだと思った。しかし徐々に、そうではないことが分かって来た。いや、奇跡は私が思ったよりなお素晴らしいものだったのである。私は確かに死んで、自己に死んで、復活したのだということ、この世に復活したのではなく、この世に対して死に、御霊によって、キリストの命を得て復活にあずかったということが分かってきたのである。

 なぜそれが分かるかと言えば、今、私を生かしているのが「私の意志でしょうか、それとも神の意志でしょうか」という違いがはっきりしているからである。すなわち、十字架の死を経るまでは、私は自己保存の法則に従って生きていた。この世で何とかして自分を生かそうという思い、他人を生かしたいとの思いが、私の人生目的の全てであった。神は私たちの生存を手助けした上で、永遠の命へと導いてくれる存在としか見えていなかった。たとえ御言葉を語り、神の栄光について語っている時でさえも、私は自分を起点にして話していた。

 ところが、今や、私は「神の意志が何であるか」ということを起点にしか、物事を考えることができなくなりつつあるのだ(まだこの学習は完全ではないとはいえ)。

 ここ数日、私は、世界が幾度、滅んだとしても、主のご計画は絶対に変わらないという安心感の中に生きていた。こうした表現は、一見、世界の価値、人の生命の価値を何とも思っていないかの発言に聞こえるだろう。

 しかし、それを通して、私が真に言いたかったことはただ一つ、すなわち、私はもはや古き人の情の世界に生きていないということである。私はこの世に対して死んで、この世も私に対して死んだので、私は、肉なる人を救おうとする人情が最高の価値を持っているこの世の価値観に対して死んでしまったのである。

 人情から解放されると、一見、この世に無関心で、人に対して冷たくなったように見られることがあるかも知れない。しかし、そうではないのだ。自分自身で直接、人を救おうと焦ることがなくなった代わりに、神の御心が人を救うものであることを知っているので、神を経由することによって、人を愛し、神のご計画の中で、人の救いを手助けしていくことができるようになるのである。それは情の上で人を愛するということではなく、むしろ、神のご計画の一端を担いながら、それによって、人を愛するということなのである。

 十字架上で自分が崩壊してからというもの、自分の考えで人を救い、人の苦痛を少しでも減らすことを最善と考える「人に優しい生き方」が、私にとって、一切の価値を失った。そして、「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」(ガラテヤ2:19-20)という御言葉が、本当に私の中で、はっきりした形で理解できるようになったのである。

 これを上手く説明するのは難しいだろう。「千と千尋の神隠し」という映画の中で、主人公の千尋が廃墟と化したテーマパーク(?)にいるうちに、夜を迎えてしまい、元の現実世界に戻ろうと思っても、河に隔てられて帰れなくなってしまう場面があるが、それに似ているかも知れない。

 あの場面に登場する河は、此岸と彼岸とを隔てる、三途の河のようなものを象徴している。それにもよく似て、自己に死んだキリスト者と、この世との間には、十字架なしには渡れない何らかの深い隔てがあり、十字架の死と復活を経由して、御霊の法則の支配する世界に移されたキリスト者は、この世をまるで対岸にあるもののように眺めており、そこに帰ることがもはやできないのである。私たちは、深い淵の中を、信仰の小船に乗って進んでいる。向こう岸にあるこの世の明かりはますます遠ざかるばかりで、二度と私たちはそこへ戻ることはない。新しい旅路が始まっており、向かう先はまだよく分からないが、栄光に満ちた御国が行く手にあることがはっきりしており、この小船の船頭はイエス・キリストである。この世の絶えざる苦労の中に生きていた頃の自分が、すでに死んで昔のものとなってしまったことが分かる。

 今生きている世界で、私を生かしている法則は、「主は何を望まれるのか」ということに尽きる。実際には、私はまだこの世に生きているのだが、それにも関わらず、もはやこの世と隔絶したところに生きており、自己保存の法則ではなく、御心を第一とする法則に支配されて、この世から隠されて生きている。
 「自分を祭壇に横たえ、本当に死んでしまえば、敵ももうそれ以上、あなたを攻撃できないのですよ」との言葉通り、肉なる私は死んで十字架につけられたままこの世での生命を終え、今生きているのは、キリストによって復活させられた私、キリストの命を生きている私なのである。
 多分、どう説明したところで、分からない人には分かってもらえそうにない気がするが、これが、私が十字架において自己の死と復活とを経由したということの拙い説明である。

 もちろん、このような自己の死というものは、恐らく一度限りでは終わらないだろう。私にはさらに砕かれる必要があるだろうと思う。だが、これほど大がかりで、しかも、はっきりした形でそれを理解させられたのは、私にとっては初めてのことであった。大昔にバプテスマを受けながらも、私は自己に死ぬことを(経験的に)知らなかったのだ。今、これほど明確に、自己に死に、復活するとは何かを主が私に教えて下さったことを嬉しく思う。さて、「死と復活の原則について」から引用。

 「私たちのうちには聖霊によって神の命が種の形で蒔かれています。神の命の遺伝子が組み込まれているのです。これは自分が感じようと感じまいと事実です。なぜなら聖書が信じる者は永遠の命を持つと言っているからです。問題はその命が私たちの自我という固い殻に覆われていて、その命の現れが見えて来ないことです。私たちの生まれつきの魂は、自らの意志を通し、自らの思いを守り、自らの感情に傷を受けまいとします。すなわち、私たちは魂の本質的性向として『自己保存』という強い欲求を持っています。<…>自我(魂)は自己の保存を意識的にせよ、無意識的にせよ、第一に求めるのです。

一方、神が求めておられるのは、私たちの内の神の命が、私たちを通して表現されることです(注)。そのためにはどうしても私たちの自我(魂)という硬い殻が一旦破られる必要があるのです。内に閉じ込められた命を解放するためにどうしても必要な過程です。これが私たちの『自己における死』です。」

 何のために自己の死を経る必要があるのか。それは一粒の麦が地に落ちて多くの実を結ぶためである。命の川、生ける水の川々が私たちの自我の殻を打ち破って、隔てなく、よどみなく外へ向かって流れ出るためである。そうやって、神の栄光が私たちを通して、よどみなく現されるためである。
 さらに、自己に死ぬとは、私たち自身のためでもあると、私は思う。自己に死ぬまでの過程は、肉の存在である私たちにとっては、かなり苦しいものであるかも知れないが、一旦、自己の死を経ると、私たち自身が、罪と死の法則性から解放されて、圧倒的な自由を得るのである。

 人間は、神を誉めたたえるために創造された。自分自身を生かすために生存するのでなく、神の栄光のために生きることこそが、人間にとって本来の最も自然なあるべき姿である。従って、自己に死んで、キリストの命を生きるようになる時、私たち人間は、最もあるべき姿、自然な姿、神が本来私たちをかくあれかしと創造された姿へと回復されていくのである。

「見よ、わたしは新しい事をなす。
 やがてそれは起る、
 あなたがたはそれを知らないのか。
 わたしは荒野に道を設け、
 さばくに川を流れさせる。<…>
 この民は、わが誉を述べさせるために
 わたしが自分のために造ったものである。」(イザヤ43:19,21)

キリスト経由でいただく命

 キリスト者は、主の御霊によって導かれて生きているのであって、その命はキリストと共に神のうちに隠されている、私たちは、この世に対しては死んでおり、もはや自分の肉に対して生きる責任を負ってはいない、ということを、たとえば私はどんな瞬間に感じるだろうか?

 答え: ご飯をちゃんと食べられている時に感じる。

 そのご飯が、主が備えて下さっているものであることが分かるからである。私は蒔かなかった、だから、本来、刈り取る資格のないものをいただいている。主は一羽の雀を生かすように、わたしを生かしていて下さる。さらには、これまで私の生存に無関心だった人が、私のために食事を備えてくれていたりするの目にするのは、本当に奇跡を見るようである。
 エリヤを養われたように、神は、今、私をも養ってくださるのだなあと実感して、感無量だ。これまで食事は大きな問題であった。だが、今は、私の命が尽きることがないように、神ご自身が心配して下さっているのだと考えることは、本当に喜びである。

 答え: 絆創膏が用意されている時に感じる。

 傷を覆う絆創膏が尽きた。さて、ではどうしよう、と思う時に、まず祈る。すると、誰かが頼みもしないのに、すでに何かを用意してくれているのである。やはり感動である。

 こんな風にして、日常生活の具体的必要の全てを、何もかも、祈りによって主に願い求める。すると、本当に、私の命を支えているのが主であるという事実が、生活を通して、分かって来るのだ。今まで、肉にあって自分を支えようとひたすらあくせくし、失敗したり、不足してきた様々なことが、こんなにしてもらって良いのだろうかと思うほどに、主によって備えられていることを知る。

 この一歩、一歩を通して信頼を学んでいくのが大切だろう。よちよち歩きの子供が、親の手にすがって歩くようなものだ。神が本当に根気強く、また気前よく、人の面倒を見て下さる方であることを学ばせてもらっている。今は、見えない主の御手に思い切りよりすがろう。

 世界がたとえどんな混乱に見舞われようとも、キリスト者にだけは関係がないと信じられるほどの安心。こんな安心は、これまで味わったことはなかった。
 キリストの十字架を信じ、御霊に導かれて生きることができれば、人生はこんなにも楽になるのだ。世に対して死ぬまでは、かなり厳しい道のりだったが、世に対して死んでしまってからは、楽になった。不思議なことである。

 主がよくして下さったことを何一つ忘れるな!