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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

賢い花嫁と愚かな花嫁の区別―キリストを追求するのか、自分自身を追求するのかが生死を分ける

 今日、キリスト教徒の集まりが、概して、日曜礼拝を一つの頂点として、主義となり、形式となり、規則となり、組織論となり、人間を束縛する枷となって、まことの命の現われを阻んでいる。キリストのまことのいのちを形式によって把握することはできず、それにも関わらず、そのような方法が主流となっているところに、大きな逸脱がある。
 
 だが、そのように抜け殻に過ぎない形式が主流となった背景には、神を信じる人々が、キリストご自身のみを純粋に追及することをやめて、自分自身を高く掲げるようになり、真に代価を払ってキリストに従っていないのに、自分たちの集まりが、あたかもキリストの花嫁であるかのように見せかけるようになったことが挙げられる。

  ある人々は、そのようにキリスト教界がバビロン化したことを糾弾し、「何がエクレシアではないか」を暴くことに熱中している。だが、キリストのまことの命とは、決して、”アンチ・テーゼ”にはとどまり得ない”何か”であるため、どれほど偽物を定義し、暴露しても、それによって本物を生み出すことはできない。

   では、一体、エクレシアとは何なのか、と問うても、それを誰もが分かるように説明することは不可能だ。その本質をまずは自分自身が個人的に体得しなければ、それが何であるか、決して誰にも分からず、形容もできないのが、エクレシアなのである。
 
 多くのクリスチャンが、教会とは、毎日曜日に、同じ地域、同じ時代を生きている者同士が、互いに顔を合わせられる場所に集まって神を礼拝するもの、もしくは、霊的に同じ理解に達している者同士が集まり合うもの、と思っているが、それは途方もない勘違いである。

  また、ある人々は「自分たちこそエクレシアとは何かを知っている」と豪語するかも知れないが、本当にその人がエクレシアの一員であるかどうかを知っておられるのは神ご自身のみである。

  キリストによって新しく生まれ、この新しい命によって生かされる個人個人、またその個人個人の交わりが、集合体としてのエクレシアを形成している。だが、エクレシアは時代を超え、物理空間を超える霊的構成体であるため、必ずしも、この世の同じ時空間を共に生きて、同じ理解を共有している者同士が、互いに顔を合わせ、接触できる形で集まり合うという性質のものではない。
   
 幽閉されていたガイオン夫人や、投獄されていたパウロや、迫害や監禁の中にあった聖徒らは、他の兄弟姉妹と物理的に接触が不可能となっても、依然として、エクレシアの構成員のままであった。しかも、黙示録などを参照するならば、エクレシアは、キリストのまことの命によって新しく生まれ、御言葉に忠実であった聖徒らの時代を超えた総体を指していることが分かる。

 このように、エクレシアはとらえがたく、キリストの命を実際に生きることなくしては決して理解することもできない性質のものであるが、それでも、求めなさい、そうすれば与えられます、と聖書にある通り、私たちが心の底から真剣に求めるならば、必ず、神は誠実にそれに答えて下さり、エクレシアとは何かということをも、啓示して下さるだろう。

  だが、忘れてはならないのは、キリストと共に生きることなくして、キリストの命を味わい知ることは誰にもできない相談だということである。
 
 そこで、キリストを二の次にして、エクレシアを第一に追い求めることには、重大な罠がある。私自身、バビロン化したキリスト教界を脱して、真実なエクレシアを追い求める過程で、常に警戒しなければならなかったことがある。それは、あまりにも多くのクリスチャンが、キリストの御名による兄弟姉妹の集まりを追い求めると言いながら、そのうちに、いつの間にか、追求の対象が、自分たち人間の集まりへとすり替わり、キリストではなく、自分たちの集まりを賛美することが最終目的となって行ったことである。

 主ご自身を切に追い求めると言っていたクリスチャンが、いつの間にか、キリストを退け、「自分たちの集まり」を美化し、肯定し、賞賛し始める。そして最後にはついに、それだけが絶対的に正しいかのように言い始め、そこへ信徒らを拘束し、その団体を離れた信徒を悪魔化したり、断罪するのである。このような堕落は、組織化された礼拝だけでなく、組織化されないクリスチャンの集まりにも同様に起きうる。
 
 私たちが第一に求めるべきものは、あくまで神の国とその義、であって、人間の集まりではない。人間の温もりの中で得られる安心感や、自分たちの集まりを賛美、権威化し、自画自賛の根拠を得るために、エクレシアを利用することは誰もできない相談である。

 そこで、たとえある日、一人のクリスチャンが主に出会って、自分がエクレシアの一員であることを知ったとしても、そのクリスチャンが、ただ主ご自身だけを切に求め、主お一人だけに心を向けることをやめて、自分自身の姿を見つめてそれを賛美し始めた瞬間に、彼がエクレシアだと思っていたものは、ただちに腐敗し、バビロン化し始める。

 私はそのことを深く警戒しており、そのような混合物を求めているのではない、ということを何度でも断っておきたい。

 だが、私が2009年に横浜に来て後、(むろん、それ以前に属していたキリスト教界においては言うまでもないことであるが)、遭遇したすべての出来事は、「エクレシアのバビロン化」と呼んで差し支えない現象ばかりであった。これは今日のキリスト者が遭遇している、想像を超えるほどに大きな危険であり、誘惑であると言える。
  
 一旦、集まりがそのような腐敗や混合を受け入れてしまったならば、その交わりが回復される見込みはほぼゼロであり、やがてそれは偽物のエクレシアとして神の敵と化すだけである。

 そこで、我々は、ある集まりがバビロン化している事実を見わけた瞬間に、抜け殻となった組織や団体を離れ(エクソダスして)、キリストのみを追い求め、主のみに従うために、霊的にまだ見ぬ地へ向かって歩いて行くことが必要となる。

 バビロン化しつつある組織にとどまって、それを是正することはむなしい相談である。そうした試みには全く見込みがない。

 こうして、当初は純粋に神を見上げていたと思えた交わりであっても、時と共に、腐敗堕落して行くなら、そこをエクソダスせねばならず、その過程で、かつては純粋に主に従うことを追求し、人間的な面ではすっかり意気投合していたような兄弟姉妹とも、決定的に道が分かれてしまうことは何度でも起きる。

 多くの人は、そういった離反、エクソダスが行われた過程を見て、「あの人は他の人とうまくやれなかったので、あれやこれやの団体を出たのだろう」と憶測したり、「リーダーにつまづいたのだろう」などとささやいては、その団体は悪くないが出た人に非があるのだと言っては、人間の集まりや群れの中に、あたかも真実があるかのように考え、自分を慰めようとする。
  
 そうした集まりが、交わってはならないものと混合したがゆえに、主のみに従うために、人々が出て行ったのだと理解する者は非常に少ないだろう。

 だが、事実は、多くの場合、そのような単純なものではない。そして、いかなる憶測が生まれようとも、信徒がキリストのみを主人として崇め、従うためには、それが不可能になるほど、被造物に過ぎない人間を高く掲げるようになったバビロンとの混合物としての集会からは、出る以外に手段は残されていないのである。
 
 このように、エクレシアを追求することは、キリストのみを追求し、キリストのみに従うことなくしてはできないため、それは決して人間との交わりを第一として生きることとは相容れず、その点で、人間の交わりを美化することとも異なり、その点で厳しく、険しい道である。

 だが、それも当然であろう。聖書の中で、主イエスは、賢い花嫁と愚かな花嫁のたとえを語られているが、そのたとえにより、花嫁と呼ばれるものが、すべて主の目にかなう存在ではないことがはっきりと示されている。

 花嫁たるものが、花婿だけを一心に見つめることをやめて、花婿が来ないうちに、自分の生活の安寧を打ち立てて満足し、自分の美や賢さを見て酔いしれ、自分の地位は安泰だと思い込み、そこに安住して自分の利益を追求し、自分の栄光を求め始めるならば、その花嫁の心には、もはや花婿は慕うべき存在と映らず、かえって己が権威と栄光を打ち立てるための名目だけの存在となろう。そのような花嫁は、花婿が来たときに、もはや花嫁とは認められない、と言われて退けられるだけである。

 そうなる危険は、形骸化したキリスト教界のみならず、エクレシアを追求するすべての兄弟姉妹に存在する。他者の堕落や腐敗を非難することはいとも容易であり、キリストの名を冠しながらも、キリストの香りを一切失った組織を数限りなく列挙することは容易であるが、神はあくまで一人一人の心に問いかけられ、一人一人の行いに応じて報いられる。

 そこで我々は改めて、キリスト者が追い求めるべきは、花嫁たる自分の栄光ではなく、花婿たるキリストの栄光であるということを、心に焼きつけておかねばならない。人に悪しざまに言われたくないという恐怖感から、あるいは、人とのつながりを失いたくないという恐怖感から、バビロン化した集会にとどまっていても、良いことは何もない。いずれはその崩壊に巻き込まれるだけである。そのような交わりを改善することは、諦めるべきである。

 むしろ、聖書では、愚かな花嫁たちに油を分けてやったがために、彼女たちの怠慢に巻き込まれ、永遠に至る栄誉を失ってはいけないことが警告されている。自分が受けるべき栄冠を失わないように注意を払わなければならないのである。
 
 神の御前での自分の心の透明性、苦難や恥をも厭わず、キリストに従う御言葉への忠実さ、自分の栄光でなく、キリストの栄光だけを求める貞潔さ、といったものが、今日のクリスチャンにはどれほど欠けているであろうか。
   
以下は、オースチンスパークスの「土台のある都」 第八章 都の明かり―命と証しの透明性 (1)から。

聖書朗読:黙二一・一〇~一一、一八、二一、二二・一、ガラ四・二五~二六。

 「透明な」というこの言葉は、これらの節の中に一度ならず現れます。また、例えば「純粋な金」「透明なガラスのような」のように、その同義語も出てきます。これらの言葉は光の観念を示唆します。これらの言葉は、天から出て神から下って来る天のエルサレムに関して述べられている光と関係しています。その明かりは高価な宝石のようであり、碧玉のようです。

 主の天的な民の光について述べるにあたって、私たちは再びとても厳粛で、深刻な、大切な特徴に触れることにします。その特徴には、それに関する途方もない歴史があります。主の民の歴史、そして霊の命の歴史はすべて、光と暗闇、真理と虚偽、純粋さと姦淫・混合、透明性と曖昧さ、開放性と秘匿性の歴史です。この長い歴史を表現するのに他の多くの言葉を用いることができます。この歴史がこれほど長く、これほど多彩なのは、すべて敵の執拗な絶え間ない試みのせいです。敵は、神からのものを疑わしいもの、不確かなものにしようとしてきましたし、絶対的真理、絶対的純粋さ、絶対的透明性というその途方もない力をそれから奪い去ろうとしてきました。

 キリスト来臨の遥か昔に、サタンはこれらのバビロン的要素をこの地上に広めていました。これらのバビロン的要素は、教会が霊的衰退・弱さの状態に陥る時をひたすら待っていました。それはこの霊的団体に襲いかかり、その命を吸い取って損なう寄生虫となる機会をつかむためです。ですから、新約聖書の外に移る前にすでに、霊的に衰退した状況の所では、バビロン的特徴、祭司制度、聖職者階級制度、形式主義、儀式主義、他の多くの事柄――それらはバビロンに由来するものであり、オカルト、秘教、美学の中に見られます――といった状態であることがわかります。これらの観念は今や、ローマの体系全体の総計であり本質です。これらのものはみなバビロンから来たものであり、教会が衰退するのをこの世で待っていました。そして、この衰退が起きるやいなや、教会を掌握して侵害したのです。それらはみな、黙示録の最初の諸章の中に見出されます。また、他の箇所にも、奥義的バビロンのこの宗教性の数々の要素が見い出されます。それらの目的は、直接的・即座にキリスト教を撲滅することや、教会の存在を消し去ることではなく、教会の立場を神の御前で曖昧なものにするよう様々なものを混合させることでした。それは、神が教会をもはや御自分の純粋な花嫁と認められなくなるためでした。


(2009年の記事「エクレシア この不思議なもの」を加筆修正)
  

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御霊によって神の安息に入ることと、自力で神に到達しようとする独りよがりの礼拝の違い(2)

ベック集会を出てから、少しずつ、筆者の生活のありようが変わった。まず、クリスチャンの交わりを求めて、あちらこちらの集会を巡るということを、筆者は全くやめてしまった。

もちろん、アッセンブリーズ教団などには決して戻らないが、ベック集会にも、KFCにも戻らない。日曜礼拝に行かないだけではない、素敵なリビングルームで開かれる大規模家庭集会…、そういうものに全く関心がなくなった。

神は、そういう風に、人の大勢集まる場所におられるのではない。人数がどうあれ、たとえ一人であったとしても、まさに主を信じる者の只中にいて下さるのである。その確信のもと、エクレシアを求めてあちらこちらを移動する代わりに、筆者自身が、可動式の主の幕屋であることを確信するようになった。

そして、信仰に基づいて、筆者自身が、この幕屋の内側から、信仰によって、兄弟姉妹を呼び出す側に回ったのである。

人との交わりを求めて移動することをやめると、一見、以前よりも生活が孤独に陥るように思われるだろう。ところが、交わりを求めて色々なところをさまようことをしない代わりに、ただ本当のクリスチャンだと言える兄弟姉妹とだけ厳選してつき合う方が、結果的に交わりに実りが多いのである。さらに、仕事の仕方も変えた。組織や団体のために自分をとことん差し出し、消費するという生き方をやめてしまったのであった。

ベック集会にいた頃、筆者が専門の仕事に戻れるようにと、兄弟姉妹が祈ってくれた。そして、めでたくある企業で専門知識を活かして仕事を始めたのだが、初めて一週間ほどで、ここは何かがおかしいという実感に至った。毎日、送られて来るメールが百通以上に達し、休日出勤、現場出張が課され、イレギュラーな対応が続く。

政府の下請け企業の一つであったが、社内を最小限の人数で回しているので、一人一人の担当する仕事の量が尋常ではない。しかも、正社員はごくわずかで、残りはすべて派遣社員である。入社してたった一週間で、筆者は気力・体力の限界に達した。現場出張に行っても、疲労困憊状態で、歩くのさえもやっとの状態なのである。さすがにこれは何かがおかしいと思わずにいられなかった。

その仕事を始めてから、筆者が最初に担当させられた中に、海外出張に派遣された通訳の報告書に基づいて、残業代を計算することがあった。ところが、後になって分かるのだが、筆者が計算した残業代は、政府に確かに請求されるものの、通訳の懐には入らず、会社が全てピンハネするのである。しかも、そのことを政府関係者も十分に知っていたほどであった。それほどまでに業界では悪名高く、恐れられていた会社だったのである。

そんなこととは知らずに、せっかく兄弟姉妹の祈りによって得た仕事だからと最初は思っていたのだが、知れば知るほど、その企業の異常さがはっきりするだけであった。さらに、ちょうどベック集会を出たのと同じタイミングで、筆者が二、三日、会社に休みを申し出たところ、会社が契約を打ち切ると言って来た。何しろ、最小限度の人件費で回している会社だったので、入って間もない新人が、たった一日でも、休みを取るなど、許されないのである。たとえ体調不良が原因であっても、会社を休むこと自体が、あるまじき「反逆」であり、言語道断な行為とみなされて、即、クビだと宣告された。全く野蛮そのものであった。

派遣会社が契約の短縮通知を送って来た。要するに、筆者が自分から辞職を願い出たような形にして、残る給与を支払わずに契約を終わりにしようという算段なのである。全くハイエナのような体質の企業であることが、よく理解できたが、そんな馬鹿げた話に筆者が了承するはずもなく、長々とした交渉の末に、ようやく、法的に会社に支払い義務があるものは全て払ってもらう運びになった。

むろん、ベック集会の人々は何の助けにもなるはずもなかった。どうにもこの会社はおかしいのではないかという予感がしたとき、それを兄弟姉妹に打ち明けても、ある姉妹などは、「派遣は社員よりもたくさん仕事を任せられるのは仕方がないし、即戦力になる人しか雇われないのが常識よ。うちの主人も、派遣を使ってるけど、使い物にならない人はすぐにクビにするのよ」などと企業を擁護しながら、自慢話を並べ、末端の従業員が次々とクビにされることを喜ぶ有様だったので、そんな「信者」たちは全く当てにしようとも思わず、筆者は誰にも相談せずに、すべてのことを自分自身で交渉しつつ望ましい結果へ運んだ。

さて、ベック集会を去った当時、筆者は毎年のように正月には故郷に帰省していたが、さすがにその年は、故郷に帰ることがためらわれた。仕事は以上のような有様で、集会の印象も最悪となり、こんなひどい正月は今までになく、誰にこんな有様への理解を求められようかと嘆きながら、年末にKFCを離れていたある姉妹に起きていた事件を告げた。

(この婦人は筆者の母親くらいの年齢で、「兄弟姉妹」という呼び名を嫌っていた。別の記事でも書いた通り、彼女はクリスチャン同士が自分たち信仰者だけを専門用語で「兄弟姉妹」と呼び合うのは、自画自賛のような驕りであり、不信者の排除だと言って嘆いていたのである。だから、もしかしたら、ここで彼女のことを「姉妹」と呼ぶのは、本当はやめておいた方が良いかも知れないが、とりあえず慣習としてそのように記しておく。
 また、この婦人はベック集会のことも予めインターネットで調べ上げて、非常に評判が良くない集会であることを筆者に何度か語っていた。)
 
彼女はいたく心を動かされ、筆者に言った、「あなたはただ聖書だけに立ち戻り、人間の指導者からは一切離れるべき頃合いだと思う。でも、もしその条件に応じて、神様だけに立ち戻る気があるなら、御言葉のバイブル・スタディを開かない? 私は喜んで協力するから、少し待っていて。」と申し出たのである。

全く、神は不思議な方だと思うことしきりであった。「捨てる神あれば拾う神あり」と、世間でも言われるように、ある人々からいわれなく非難されたり、誤解されたりして、突然に、さよならを告げられ、あたかも行き場がなくなったように思われる時でさえ、ちゃんと別の場所には、安全な避難場所を主は用意して下さるのである。

だから、キリスト者はあたかも地上では追い詰められて、迫害され、居場所がないかのように見えて、その実、居場所がなくなることはないのだと言える。我々の席は天に確保されているからである。その天の予約席を地上で発券することによって、常に次の目標を立てるのである。それが可能であることを筆者は今までの人生で、幾度も確認して来た。

この婦人は、こうして、本来ならば、家族で過ごすのが当然であるはずの正月に、自分の夫を置いて、筆者一人だけを伴って、富士山の見える温泉付きの別荘に泊まり込んだ。そして、我々は二人でひたすら聖書を読んで正月を過ごしたのであった。

ただ屋内に閉じこもって聖書だけを読んでいたわけではなく、美味しい食事を取り、散策し、自然を楽しんだ。神の恵みを存分に味わったのである。

だが、その頃の筆者は、今に比べれば、まだまだ繊細で傷つきやすく、感受性が強すぎるため、起きた出来事の印象からすぐに抜け出ることができなかった。そこで、せっかくの素晴らしい雄大な景色を見、温泉に浸かっていても、ベック集会のことを思い出したり、仕事のことを思い出したり、あれやこれやのひどい出来事が心に思い出され、一人涙を流していたりしたものであった。

だが、そんな中でも、この婦人の親切と奉仕心には本当に驚かされたものであった。彼女にはどんな状況にある人をも見下すということが全くなく、若年者だからと軽く扱うということもない。それどころか、まるで主イエスに仕えるように、彼女は筆者に仕えてくれたのである。

彼女の人に仕える姿勢は、前述の長老級の兄弟がしていたように、指導者然と振る舞い、上から目線でどうあるべきかを他者に説教し、心ひそかに他人のないところばかりを数え上げて、見下しながら、うわべだけは同情的に振る舞うという偽善的なものではなく、本当に自分を捨てて人に仕え、尊敬の限りを尽くし、愛を注ぎだしたのである。そして、見返りを求めなかった。自分の親切が人に受け入れられても、受け入れられなくとも、評価されようとも、されなくとも、淡々とと自分が信じることを実行していたのである。

驚いたのは、自分の別荘であるにも関わらず、その婦人が個室にある広々としたダブルベッドを筆者に譲り、自分はリビングの床に寝袋をしいて寝ていたことであった。さらに、筆者はゆっくりと時間を取って温泉を楽しんだが、その婦人は、自分は温泉に行っても、ほとんど時間をかけず、たちまち戻って来るのである。それが筆者との時間をより多く確保するためであることがよく分かった。その婦人は、キリスト者との交わり、神との交わりに対する意気込みと心がけが、筆者がそれまで見て来たどの信者とも明確に異なっていた。常日頃から、彼女はよく一人で別荘にこもって御言葉の学びに専念しており、普段から、神のために自分の利益を脇に置くことを当然としていたのだが、交わりの相手を伴う時には、さらに、自分のためには、何の特権も享受しようとせず、自分の持てるすべてを神の恵みを伝えるために使ったのである。

筆者は、この婦人と親しかったために特別扱いされたわけではなく、巧みに同情を引く話をして心を動かしたわけでもない。身内でもない人間に、そこまで奉仕するのは、筆者から見ても、筆者に対してしているというよりも、むしろ、神に対してしている奉仕であるに違いないと確信できた。「貧しい人に貸すのは主に貸すのだ」、「このいと小さき者にしたのはわたし(神)にしたのである」と聖書に書かれているように、彼女はいと小さき兄弟姉妹に心から仕えることで、その人にというよりも、天におられる神に仕えていたのである。

その正月は、この婦人の人生にとっては、最後の正月となった。むろん、当時はそんなことになるとは誰も知らなかった。筆者はその極めて重要な最期の時間を、彼女からもらったことになる。彼女と過ごしている間に、筆者には次の仕事も決まり、神の采配が常に完全であることを思い知り、そして、二人で共に主を賛美した。

だが、その次に入った会社もまた相当な曲者であった。長時間残業が当然視されていたり、専門家が顎でこき使われていたり、ついには残業代が払われなくなったりと、色々な問題があった。この婦人は、会社にあまり深入りしないように、残業をしないようにとしきりに筆者に忠告していたが、その頃、まだ筆者は、仕事に力を入れようと考えており、彼女の忠告の意味を十分に理解していなかった。そうこうしているうちに、彼女は天国へ旅立って行ったのである。

しかし、主は完全なお方である。彼女の突然の死の前日にも、筆者はまるで偶然のように会社から休憩時間にこの姉妹に電話で連絡していた。

「ゴールデンウイークはどうされますか?」
「あのね、最近、素敵な教会を見つけたから、主人と二人でそこへ行ってみようと思っているのよ。」

彼女はKFCを離れて後、もうどんな集会にも教会にも行かないことを決めて、筆者にもそのようにするよう勧めていたので、その返答にはちょっと驚いた。

「教会ですか?」
「また報告するわね。素敵な教会なの。そうね、あなたと会えるのは、もうちょっとだけ先になるわね・・・」

そんな会話だった。筆者はその時、この婦人も、結局、組織に戻って行くのだろうかと思って内心少しがっかりした。彼女はそうなるまでにいくつもの大規模な組織での信仰生活を経験し、それらをすべて断ち切って、地上の団体に属さない信仰生活を送ることを決めていた。またもや教会員に戻る、そんなことが彼女にできるのだろうか…?と筆者はいぶかしく思った。もし彼女が組織に戻るなら、この姉妹とも別れなくてはならないだろうと思った。

ところが、まさにその最後に訪れた教会が、彼女の葬儀を執り行うことになったのである。

その会話を交わした日の夜、会社でいつものように遅くまで残業しながら、筆者は何かしらどうしようもない体のだるさを感じて、仕方なく応接のソファに横になって休んだ。その翌日の朝になると、もう起き上がれないほどに体調が悪く、仕方がないので、会社に連絡を入れて、午前中は家で休んでいた。(その会社では、少なくとも、たった一日の休みでクビを言い渡されることはなかった。だが、筆者はそれでもその日の夕方には出勤して行った。)

すると、朝、家へ突然、電話がかかって来た。受話器を取ると、全く知らない声で、上記の婦人の夫だと名乗る。

「家内が亡くなったので…」

何を言われているのか全く理解できず、耳を疑うだけであった。姉妹の葬儀の日程の連絡だったのである。しかも、筆者はこの婦人の夫とはこの時まで全く面識がなく、この婦人とも、親しく交わるようになったのは、ごくごく最近のことであって、筆者は彼女を除いてこの一家とは、全く知り合いではなかった。

それなのに、彼女の夫が、彼女の死後、一体どのようにして、筆者の存在を思い出し、連絡先を確かめて、コンタクトを取って来たのか、極めて不思議であった。それでも、上記の姉妹が亡くなったことをこのような形で知らされたことも、主の采配であった。筆者がこの間、訳の分からぬ体調不良に見舞われていたことも、まるで知らないうちに彼女の苦しみを共に味わっていたかのようで、キリストの御身体の一致を思わされるのであった。

こうして、彼女が最後に訪れた教会が、不思議な縁で、彼女の葬儀を執り行うことになった。彼女が生前、最後の日々にその教会を訪れたのは偶然ではなく、それは教会員に戻るためではなく、ただ目に見えない霊的な準備だったのだと思われてならない。(その教会は、葬儀をきっかけに無理やり彼女を教会員にしたてあげたり、残された夫に熱心に働きかけて団体に取り込もうとしたりするようなところではなかった。葬儀で配られた式次第にも、教会の名前も連絡先も全く記されておらず、宣伝とみなされるような記載は何一つなかった。)

筆者は葬儀に参列したが、あまりのことに、我を失っていたためか、記帳の際に自分の住所を書き間違え、さらに親族だけが伴うのが当然であるはずの火葬場へのバスに、筆者も一緒に乗り込んでしまった。が、ゴールデンウィーク中で道路が渋滞しているため、いつまで経っても、バスは目的地に着く気配がない。そうこうしているうちに、この婦人が生前、筆者を案内してくれ、共に楽しんだ鎌倉の観光地の風景が思いがけなく窓の外に見えて来た。二人で一緒に土産物を買った店などが窓の向こうに並んでいる。運よく、バスの乗客の一人が渋滞にたまりかねて、子供のトイレ休憩のためにと、バスを降りた。続いて、筆者も降りた。本当は、土産物屋で買い物をした後、すぐにまたバスに戻って来るつもりだったのだが、それきりバスを見失い、もう追いかけることはできなかった。

晴れやかな日で、いつものように、湘南の海がとてもきれいに輝いていた。筆者は結局、婦人と歩いた思い出の道を一つ一つ辿って、そのまま帰宅したのであった。火葬場へなど行かなくて良い、それよりも、神が作られたこの世界の美しさを楽しみ、神を誉めたたえる方が、多分、この婦人の意にかなっているに違いない。

長い間、筆者はこの婦人の死に大きな喪失感を覚えていたが、今は以前のようには嘆いていない。神の采配はすべてにおいて完全である。

その後、婦人の夫と何度か話すうちに、生前、この姉妹は懸命に夫の救いのために祈っていたが、夫はすでに信者であって、幼い頃に、ミッション系の学校に通い、洗礼名も与えられていたことが分かった。病気がちな主人を一人残していくことだけが、彼女の気がかりだったのだと思うが、その悩みも、多分、必要ないものだったのではないかと思う。神は完全である。

今でも、「次に会えるのは、ちょっと先になるわね」、と言った彼女の最後の言葉を思い出す。

そうなのだ。彼女の言う通り、それはほんのちょっとだけ先、あと少しだけ先のことだ。筆者が天に召されてから、彼女とまみえるのである。だが、それはそんなにも遠い未来のことではない。

今は、天での休息のひと時に憧れるよりも、まだこの地上において、果たすべきミッションがある。それは主と共に、この地を、自分の人生を、自分自身を統治することである。信仰だけによって、どれほどのことが可能であるのか、筆者は少しばかり知っただけで、まだ十分に知り尽くしたとは言えない。このような状態では、天でキリストの御前に立たされても、まだ誉められることがないので、まだ天に行くわけにはいかないのだ。

義人は信仰によって生きる、そのことを生きて証明しなければならない。たとえこの地上にブラック企業が溢れ、経済はますます悪化し、人々の心は残酷、険悪になり、兄弟姉妹と呼ばれる人々でさえ、互いに蔑み合い、裏切り合い、騙し合うようになったとしても、神の御心の正しさは、寸分たりとも、変わることはない。聖書の御言葉はいつまでも変わらない。

人間を助けることのできる方は、神だけなのである。どんなに素晴らしく見える兄弟姉妹との交わりも、永遠ではない。だから、筆者は、神のみに信頼を置いて、聖書の御言葉に立脚して、筆者は神の愛と憐れみの深さを、実体として地上に引き下ろす。その実験はこれからもずっと続く。それがキリスト者の本業である。御国の働き人としての仕事が終わりに近づき、天に召される日が近づいて来れば、主は必ず、筆者にそのことを知らせてくれるはずである。

 

御霊によって神の安息に入ることと、自力で神に到達しようとする独りよがりの礼拝の違い(1)

「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神であるの声を聞いた。
それで人とその妻は、神であるの御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れたました。」
 すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」
 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
 そこで、神であるは女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」

<…>

 また、(神は)アダムに仰せられた。

 「あなたが、妻の声に聞き従い、
 食べてはならないと、
 わたしが命じておいた木から食べたので、
 土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。
 あなたは一生、苦しんで食を得なければならない。
 土地は、あなたのために、
 いばらとあざみとを生えさせ、
 あなたは、野の草を食べなければならない。
 あなたは、額に汗を流して糧を得、
 ついに、あなたは土に帰る。」(創世記3:8-19)


「神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落語する者がひとりもいないようにしようではありませんか。」(ヘブル4:10-11)

筆者がゴットホルト・ベック氏の集会を訪ねていた時分、一体、この集会の何がおかしいのか、最初に気づくきっかけを得たのが、ある遠方の障害者をこの集会に誘ったことであった。

筆者より1つか2つ年上なだけの重度の障害者の姉妹は、日々、車いす生活、もしそのまま何も有効な手を打たなければ、やがて体が麻痺して行って自由を失い、何もできなくなるという症状に見舞われていた。

だが、そうは言っても、心は体とは全く関係なく、元気で、活発に活動を求める。生まれながらの障害者ではないので、倒れる前の元気だったときの生活スタイルや、ものの考え方は今も生きている。だから、彼女は筆者に向かって、しきりに寂しい、と繰り返していた。人との出会いが欲しい、人並みの幸福な生活を送りたい、だが、どうやって出会いのきっかけを得るべきか分からない、などと相談して来るのであった。

筆者の方でも、その当時はまだ月曜日から金曜日まで働きアリのように働く労働者に過ぎず、自分自身のためにも、なかなか時間が取れない有様だったので、筆者に提案できることと言えば、「クリスチャンの交わりに出てみたらどう?」ということだけであった。

むろん、今ではそういう働き方も、交友関係もすべて改め、クリスチャンの友人に関しても、全く違った観点から交わりを持つようになったのだが、当時はまだそのようなライフスタイルの改変の前であった。だから、「ずっと家に閉じこもっていても、何も起きない。すでに通っている教団には満足できない。何もしなければ、体が弱って行くだけ。それならば、なおさらのこと、活動した方が良いと思う」と筆者は提案した。

その障害者が住んでいる土地は、筆者の住まいからは随分、離れているため、筆者自身が彼女を案内することはできなかった。だが、ベック氏の集会であれば、全国各地の色んなところで、集いが開かれているし、親切なクリスチャンに頼めば、車いすの障害者も、健常者と同じように、何の問題もなく受け入れてくれるはずである。実際、この集会には障害者も多数、集っていたのであるから。

そのようなわけで、筆者は当時の知り合いの信者を介して、自分が行ったこともない遠方の集会に、彼女を連れて行ってくれるように頼んだのであった。できるだけ、その集会に彼女と同じ年代のまだまだ若い人たちが大勢、集っており、話が弾むことを願いつつ・・・。

筆者は、彼女が新しい出会いを求めて自分から立ち上がる決意に至ってくれたことを喜び、興奮しながら、主が何をして下さるのだろうかと期待して、結果を待っていた。

ところが、その集会から帰って来るや否や、彼女は大爆発して筆者を責めるのである。まず、気温があまりにも暑く、外出するのにはあまりにも負担が大きかったため、死ぬかと思った、ということから始まり、集会には老人しか集っておらず、期待したような若者は一人としていなかった、挙句の果てには、その老人たちから上から目線で、「毎週、日曜礼拝にはちゃんと出席しなさい」などと、説教めいた叱責を受け、自分が落ちこぼれの信者であるかのように侮蔑的な扱いを受け、婦人たちはみなベールをかぶって説教を聞いているところを見ても、集会全体の進行がこの上なく不気味であった、よくもこんなとんでもないひどい無意味で高圧的な集会に自分を誘ってくれたものだ、この失望と幻滅をどうしてくれるのだ、と言うわけである。

彼女が筆者に向かって「爆発」したのは、これが最初で最後ではなく、体調不良に見舞われると、それに連動して、心の状態も不安定になる病者にありがちなこととして、彼女との関係は最初から最後までトラブルの連続だった。

だが、体の疲労と、「集会には老人しかいなかった!!若者との出会いがなかった!!」という理由がメインで、筆者を責める彼女には、半分は八つ当たりだと呆れながらも、それでも、もう半分では、彼女の思いの中に切実な悲鳴のようなものを感じたので、その訴えを真摯に受け取り、また心に留めた。期待した効果が全く得られなかったのは残念なことではあり、責められるのも割に合わないことではあるが、そんな結果になったのも、何かの警告かも知れないと筆者も心に留めたのである。

最も注目に値したのは、古参信者たちから彼女への上から目線の警告であった。なぜなら、その集会は出入り自由と謳っており、日曜礼拝に人を束縛するようなことは決してしない、と表向きに公言していたからである。にも関わらず、結局は、日曜礼拝に出ることが義務づけられているのだとしたら、それは二重性というものだ。さらに、もしその集会が本当に正しいのであれば、世の中の片隅でかろうじて生きているような弱い存在の一人にも、ただ失望と屈辱的な思いを味わわせるだけには終わらなかったであろうと思われた。

アッセンブリーズ教団の信者であったその障害者に対して、筆者は当時、彼女の置かれていた困難な境遇ゆえに、少しでも助けにならなければいけないように感じ、また彼女も信仰者の一人だと考えていたのだが、それが適切な友情ではなく、また、アッセンブリーズ教団の信者と関わっても何一つ良いことは起きないということが、まだ当時は十分に分かっていなかった。

その障害者は、筆者よりも世故に長けていたので、自分の憤りを、決して筆者以外の人間にはまき散らさなかった。集会の人々には何か適当なことを言って、二度とそこへ行かなくて済むように丁重に断っておき、筆者にだけ本心をむき出しにしたようである。つまり、筆者に色々なことで助けを求めながら、他者の奔走を適切に評価することができなかったのである。そこには、やはり自分は障害者だから、哀れまれ、助けの手を差し伸べられるのは当然という思いがあったのではないかと思う。そして、案の定、結局、その障害者はベック集会への拭い去れない恨みを抱えながら、元のアッセンブリーズ教団へ戻って行っただけであった。

だが、アッセンブリーズ教団の教会でも、彼女は期待したような交わりを得られていたわけではなかった。そのことは折に触れて彼女が筆者に不満をぶつけていた。だからこそ、当時は、筆者自身が、まだ兄弟姉妹の交わりを探し求めていたこともあって、別の信者の交わりを求めてはどうかと提案したのであるが、それも効を奏することはなかった。

だいぶ後になってから、もうベック集会とは関わりがなくなって後、筆者はようやくこの障害者の人生相談に乗ることを一切やめて、彼女に向かってはっきりと言った、「あなたの不満は理解できる。ベック集会には私も同意できない。そういう点で、意見が同じ部分はたくさんある。でも、私はもうこれ以上、あなたの相談には乗れない。」と。
 
そして、問題なのは、ベック集会だけではなく、アッセンブリーズ教団や、既存の教会組織を訪ねても、そこで決して心からの満足は得られないと筆者は考えているため、すべての教会組織を離れて、ただ神だけに直接、心の願いを申し上げ、相談するように勧める、と述べた。
 
少なくとも、自分の通っている教会には片方で良い顔を向けながら、遠方にいる無関係の筆者をまるで教会への苦情窓口のように考えることは正しくない。そのような相談に乗ることはできないし、その関係から生まれて来るものは何もないと考えている。
 
だが、もしも本物の交わりを心から願っているならば、その夢がどうすれば達成できるのか、人の助けによらず、神様に正直に打ち明けて、答えが得られるまで本気で模索すべきであり、神はその願いを理解して下さると筆者自身も確信している・・・。

おそらく、筆者の印象では、この信者はその後も、アッセンブリーズ教団を離れることはなかったのではないかと思う。アッセンブリーズ教団というのはそういう弱みを抱えた人たちを取り込んで成り立っている組織だからだ。多くの弱みを抱えた人たちに寄り添って、巧みに彼らを助けてやる風を装いながら、教会員として利用し、団体に拘束し、彼らの悲劇の物語を団体の手柄に変えて、宣伝材料にして行くということが行われている。このような教団から見れば、障害者は、その障害が重ければ重いほど、利用できる宣伝材料である。

最近では、こういう心理的トリックは感動ポルノとして障害者自身からも批判を浴びるようになって来たが、当時はまだそういう風潮も生まれてはいなかった。こうした事情から、結果的に、格別な弱みを抱えた人たちばかりがこの教団に集まっている。何年間、この団体に所属しても、彼らはいつまで経っても、その弱みから抜け出すことができない。だから、今も上記の信者がずっと同じ不満を抱えながらこの教団に通い続けているのだとしたら、それは極めてむなしいことである、と筆者は思う。

さて、ベック集会に話を戻せば、筆者は若者との出会いを求めてこの集会に通ったわけでは全くなく、エクレシアを模索する上での通過点でしかなかったのだが、その後、この障害者が味わったのと似たような体験を、筆者も覚えることになった。筆者は新たにこの集会とはもともと何の関係もなかった、ある相当に年配の「兄弟」を集会に紹介した。それは、集会の人々の熱心さには、筆者の心にも何かしら解せないものがあって、一体、長年の信仰者である第三者の目から、この集会はどう見えているのかを判断するためのリトマス試験紙とするためでもあった。

当時、その兄弟は筆者に近しいところにおり、すべての事柄について同意できる意見を持っていたわけではなかったが、それでも筆者の芽には、経験豊かな信仰者だと見えていたので、もしその人の目から見て、この集会に危険があるようであれば、必ず、筆者にそのことを教えてくれるはずだと思ったのである。

ところが、またしても予想外のことが起き、事態は違う方向へ進んだ。長老のような風格のその年配者の「兄弟」を集会に紹介するや否や、それ以前に、筆者と親しくしてくれていた兄弟姉妹の関心が、一斉に彼に移ったのである。何しろ、当時、その兄弟は70代、筆者は30代の半ばである。年齢だけを見るならば、40歳近い年の差があり、筆者など、全く比較にならないほんの小娘に過ぎない。特に、ウォッチマン・ニーを重んじ、年功序列を重んじていたその集会では、ウォッチマン・ニーに精通する長老級の人物の登場を目の前に、筆者の存在はまるでないがごとくに忘れ去られた。

いや、忘れ去られたくらいならばまだ良かったのだが、何かしら、それまでには一度も見たことのないような、訳の分からない侮蔑的な眼差しが、他の兄弟姉妹から感じられるようになったのである。つまり、筆者が自分で紹介したその長老級の兄弟と、もともと集会にいた兄弟姉妹たちが、いつの間にか、筆者の知らないところで結託し、筆者についてよからぬ噂話を色々言い広め、その結果、彼らが筆者をまるで青二才のような侮蔑的な目つきで見下し始めたことがうすうす感じられたのである。

案の定、しばらくすると、その侮蔑的な眼差しはやがて非難の態度へと変わって行き、以前には親しく交わっていたはずの信者たちから、筆者の態度が不遜だ、とか、自分の子供だったらそんな態度は許せない、とか、集会に対する貢献が十分でない、等々の非難が起きた。

その時、筆者は、かつてこの集会に出席した障害者が味わった苦痛が、一体、どこから来るものであったかをよくよく理解した。「高齢者が高圧的な態度で威圧して、上から目線で偉そうに説教して来た。自分などそこでは全く相手にされていなかったし、歓迎されてもいなかった。しかも、自分のことは何でも知っているかのように初対面の信者からほのめかされ、不気味この上なかった。自分は何か薄汚い罪人の一人のように、粗末にしか扱われなかった。断じて許せない」という彼女のクレーム内容を明確に理解したのである。

すでに当時、筆者はKFCの事件をも通過した後で、KFCでいわれなく「悪魔扱いされた」という出来事ですっかり免疫が出来てしまっていたため、信者から侮蔑的な態度を取られたり、いわれない非難をこうむったり、良からぬ噂を立てられるなどのことは、日常茶飯事として、ほとんど動じないまでになっていた。そのように仲間の信者を絶えず陰で中傷し、様々な憶測に基づいた噂を言い広めて酷評しているような団体は、およそまともな団体ではないので、そこにいる人たちから覚えめでたい人間になろうと努力する必要など全くないのである。むしろ、そこで高く評価されているような人間は、決まってまともな人物ではないと判断して差し支えない。

さらに、他の事件を通して、筆者はこの長老級の「兄弟」の性格をもよく理解していた。この集会に限らず、別の交わりでも起きたことであるが、この兄弟を別な信者に紹介すると、誰もが、彼を師と仰ぐようになって、この兄弟に心酔してしまうのである。そして、筆者が紹介した人間が、この兄弟に「弟子化」され、そこに教師と生徒のような序列が出来上がり、すっかり交わりが壊されてしまうのである。筆者から見ると、このような効果は決して良いことではなく、ただ集会の側だけに原因があって起きていることだとも思えなかった。もともとその兄弟の心の中にあったものが、外に出て来て、集会の人々の心の中にあるものと響き合って、序列や差別を生んでいるだけである。

はっきり言えば、『権威と服従』の内容を額面通りに受け取り、自分は年長者だから、親だからと、すっかり心の中で偉くなってしまった人たちが、自分をひとかどの信仰者だと己惚れ、これを他者にも認めさせようと、互いに連帯して、自分たちよりも若く未熟で、説教相手になりそうな信者を捕まえて来ては、彼らを従わせるために包囲網のような城壁を築き上げているだけである。筆者はいつの間にかそれによって追い詰められていたのである。

そのことに気づいた瞬間、筆者は全力でそこから逃げ去った。老人たちに取り囲まれて罪人として非難され、彼らの注文に従わないと、いずれ「悪魔扱いされて追放される」という、あまりにも見え透いたお決まりのパターンに至るよりも前に、そのような愚かしい出来事によって精神的に打撃を受けることを拒否してその場を去ったのである。
(後日注:この「逃げた」という表現だけを拡大解釈して、これをまるで筆者の臆病さの表われのように吹聴したい連中がいるようだが、これはそういう意味で書いているのではない。聖書にはこのような人々を「避けなさい」との忠告がれっきとして存在するため、筆者は彼らを避けたのである。

このことは、信者がカルト団体等で精神的打撃をとことん受けるまで、そこにとどまる必要がないという意味でも書いている。さらに、つけ加えておけば、筆者は別にこの団体を「逃げ出した」わけでもなく、以下に記すように、彼らと直接話し合って、自分の意見を伝えた上で、この団体を去ったのである。さらに、この時、筆者に向かって説教した兄弟からは、後に謝罪の手紙が送られてきた。別に今日に至るまで対立関係が続いているなどということはない。

ただし、筆者はそれでも、この団体の礼拝が神の安息に安らぐものだとは考えていないので、戻っていないだけのことである。)


その際、ただ単に逃げ出すだけでは、彼らの非難を十分にかわすことはできまいし、問題解決にもならないと思ったので、きっちり話し合いを行い、自分の反対意見をも彼らに伝え、それなりに決着をつけた。
筆者は最後の交わりの際、それまでに筆者が観察して気づいた集会のすべての自己矛盾を洗いざらい彼らに提示しておいた。

雑居ビルの半地下のようなところにある食堂での会話であった。二対一で責められ、まるで筆者が何か悪いことでもしたかのように、懺悔を迫られそうになる状況の中で、筆者はひるまずにこう反論した。

「私を含め、あなたがたが『集会に従順でない』と思う人たちを一方的に責めるよりも前に、この集会そのものの異常さを考えてみるべきではないでしょうか。なぜあなたたちの集会では、牧師制度を持たないと言っているのに、ベック氏という、牧師にも何倍にもまさる絶対的な権威を置いているのですか? これはまさに偶像礼拝以外の何物でもありませんよね? ベック氏を神様にしてしまっているのではありませんか? それに、どうして集会では兄弟だけがメッセージをし、家庭集会では、姉妹だけが料理をするのですか? この男女の古典的・差別的な役割分担は何でしょうか? なぜあなたがたの集会では、出入り自由と言いながら、実際には、集会に毎回、出席しないといけないプレッシャーがかけられるのですか? 全く出入り自由じゃないですよね。しかも、どうしてある人たちは、まるで謹慎のような処分を受けて、集会に出入り禁止にされたりしているのですか? どうしてあなたたちは献金の使途を明らかにしないのですか? どうしてあなたたちは証と称して、自分たちの過去の罪を赤裸々に語り、互いのプライバシーをあけすけに共有しては、噂話に明け暮れているのですか? どうして集会で発行される証集の中に信徒の学歴を記し、立派な社会的地位をもった人々を積極的に集めようとするのですか?

なぜあなたがたは、一方ではあることを題目に掲げながら、他方では、それに公然と矛盾した行動を平気で取るのですか? それは嘘であって、偽善ですよね。そんな偽善に比べれば、最初から約束などしなかった方がよほど誠実です。牧師制度を持たないと言っていながら、牧師制度以上に強力な指導者崇拝を作り出しているあなたかたは、あなたがたが非難している牧師制度を持つ教会よりももっと罪が重いのではありませんか…。」

筆者の疑問は無限にあったのだが、それを聞いた人たちは、特に、ベック氏の権威に関して筆者が投げかけた疑問を、たじろぎながら懸命に否定していた。それは偶像崇拝ではないかと言う筆者に向かって、彼らは言うのだった、「いや、人間の指導者なしに、我々は信仰を保つことはできない・・・」

まさに「本音が出たな」と感じられる瞬間であった。ドストエフスキーの大審問官の姿が心に思い浮かんだ。結局、KFCと同じように、神だけに信者が従うのではなく、人間の指導者に信者を従わせ、人間の作った組織の序列の中に信者を拘束して行くことが本当の狙いなのである。牧師を持たない、指導者を置かない、我々の集会は対等な兄弟姉妹の交わりだから、序列などない、などと言いながら、その舌の根も乾かないうちに、どんな牧師制度よりももっと強力で絶対的な指導者を作り出し、その独裁者の前に信者たちが跪くのである。そして、その指導者を頂点として、信徒たちの序列を作り出し、自分よりも弱く未熟な者たちを自分の配下に従えて行くのである。そんな生活が、主イエス・キリストだけに従う信仰と何の関係があろうか。

到底、分かり合うことのできないその会話の最後を、筆者は次のように締めくくった。「私にはそのような自己矛盾と偽善に満ちた不誠実な理念に基づく集会が、本当に聖書に合致したエクレシアの姿だとは到底、思えません。ですから、たとえそんな集会に集っている偽善的な人々から非難され、罪に問われたところで、私が悪いのだとも思っていません。むしろ、間違っているのはあなたがただと確信しています。」

多分、そうでも言わないことには、それまで集会で受けて来た数々の恩恵を返せと責め立てられかねない雰囲気であった。彼らは非常に憤慨し、筆者を生意気だ、不遜だ、恩知らずだ、と考えて、鼻息荒く責め立てようとしていたが、もうそれ以上のことは、聞いても無駄である。親戚でもなければ、親でもなく、ほんの数ヶ月程度の知り合いでしかない人間から、そこまで言われる筋合いも全くない。筆者も何も言わせず、退席した。

筆者はこうして、その集会でかつては親しくしてくれていた、恩人のようでありながらも、今となっては筆者に尽きせぬ憤りを燃やすようになった信者たちを振り切って逃げた。彼らの知的レベルも、KFCとは異なっていたので、悪魔だとか、イゼベルだとか、ユダだとか、そういう愚かしい非難の言葉が飛び交う、あまりにも馬鹿げて幼稚な修羅場は避けられたが、それでも、ほんの小娘に過ぎない人間が、20も30も年上の複数の信者たちに囲まれて、その非難を交わすのは大変な労力が要る。まるで、カルトである。もちろん、筆者の心には恐れはなく、誤った教えと序列に導かれる団体に対するどうしようもないやるせなさと拒否感があるだけであったが、それでも、町を歩いているうちに、悪徳キャッチセールスにつかまって、怪しげなオフィスに連れて行かれ、理不尽な説得によってさんざん不当な契約を迫られながら、命がけで何とかそれを拒否して逃げて来た市民のような気分であった。

それと並行して、筆者の紹介で、集会に後からやって来たのに、筆者を差し置いて、すっかり集会の「権威」となってしまった長老級の兄弟にも連絡を取ってみた。その際、やはり、筆者の知らないところで、この兄弟が他の兄弟姉妹と筆者の情報を内密にやり取りしていたことを、兄弟自らが白状した。

その兄弟が無言のうちに言わんとしているのは、要するに、こういうことであった。「他の兄弟姉妹に助けを求めても無駄だよ。あなたの弱みは、全部、私だけでなく、彼らももう知っているのだからね。観念して、私たちの言うことに従いなさい。」

こういう事態も、その時が初めてではなかった。何年も前に、やはり筆者が紹介して始まった別の交わりでも、この兄弟はこのように、筆者を中傷することによって、筆者が紹介した信者を筆者から遠ざけ、自分に心酔させた上で、筆者を交わりから排斥しようと試みたことがあったのである。その事件をはっきりと思い出した。そして、やはりあの時起きたことは、筆者が確信した通りだったのだなと理解した。

またしても、筆者は、この人物によって出し抜かれ、交わりを奪われて、弾き出されてしまったのである。だが、そんなことは筆者にとってどうでもよかった。ようやくこの「兄弟」の心の本質が見えたことに、かえってほっとする思いであった。つまり、交わりにおいて自分が教師のように注目されて、その交わりの中心人物となり、交わりを作るために助力してくれた人間を追い出して、それを私物化したい、というのがその「兄弟」の本当の狙いだったのである。

普通の人であれば、いつの間にか、信頼していた人たちに裏切られていたと分かれば、それだけで相当なショックを受けるであろう。だが、筆者にとっては、こうしたことは、すでに気づいていた予定調和的な結末に過ぎなかったので、特に驚かなかった。

だが、その兄弟は筆者から頼りとしている信者を剥ぎ取ったことで、心理的打撃を与えることができたと思ったのであろう。それを機に、彼は強気になって、あろうことか、筆者の方がこの集会に先にやって来て、筆者の紹介で自分がその交わりに出るようになったというのに、完全に筆者を小娘扱いして、明らかに断罪口調で、次のように言った、「ヴィオロンさん、〇×兄弟姉妹に無礼を謝りなさい! あなたの生活には十字架がない! あなたにはちゃんとした教会に所属することがぜひとも必要です!! これからも日曜ごとに〇×集会に出席しなさい!!」

何か現実というよりも、絵に描いた物語のようだと、心の中で呆れる展開であった。ほんの数ヶ月前に、筆者の紹介で、後から来たはずの兄弟が、まるで集会の長年の古参信徒のように、集会へ出席しなさいと筆者に説教して来るのにも恐れ入ったが、それをしかも、常日頃から、「エクレシアは組織ではない」とか、「ベック氏を頂点とする集会のあり方には疑問を感じる」などと筆者に隠し立てなくあけすけに語っていた人が言うだけに、この自己矛盾というか二重性には、心底呆れるのであった。その「兄弟」はリーダーを置かない交わりのあり方を提唱していたので、ベック氏が集会の頂点に立っていることには、もとより感心していなかったのである。

以前の筆者は、今よりもはるかに未熟で、自分の判断に自信がなく、繊細で、感じやすく、周囲の人々の言動に影響されやすく、彼らの助言を相当に重んじていたために、もし突然、身近な兄弟姉妹の誰かから叱られたり、非難されたりすれば、自分に落ち度があったのではないかと思い、あれやこれやと思い悩んだことであろう。少なくとも、深刻なショックを受けたものと思う。だが、この頃には、すでにKFCでの前例があったため、こうした人々の主張にあるカラクリが、予め手に取るように見えてしまっていたのである。

要するに、結局、そこにあるのは年功序列、男尊女卑などの、この世的な数々の差別や弱肉強食の理念と、そうした世的な価値観に基づく地上的な組織・人間関係の中に、信者をからめ取り、支配し、従わせようという欲望だけなのであった。年長者が権威となって年少者に君臨し、目下の人間を犠牲にして、その人間から栄光を吸い上げ、収奪の対象としたいという欲望によって、組織全体が支えられているだけなのである。そこでは、目に見える人間の序列のピラミッドが絶対化され、その中に信者を組み込んで、霊的搾取の材料にするために、各種の説得や感化が試みられているだけで、神や聖書や信仰は、この支配と搾取の体系を正当化するための隠れ蓑に過ぎない。むろん、本当に信仰を持つ信者たちもいるにはいるのだが、この偽りの体系の中では、制約を受け、どうすることもできない。そんなものが、聖書に基づく適切な信仰生活や、信徒の交わりではあり得ない、筆者は今でもそう考えている。

しかも、そこでは、ただ霊的搾取が行われるだけではない。KFCを振り返ればよく分かるように、彼らのひそかな楽しみは、常に誰かに罪人・落伍者・失格者という烙印を押して、彼らを集会から排除する一方で、自分たちは合格者だ、神の選ばれし勝利者だ、選民だ、義人だと優越感に浸り、排除した人間を苦しみに追いやって、自分たちは楽しい行事に邁進して勝ち誇ることにある。

いわば、霊的カースト制を作って、常に誰かを見下し、排除し、懲罰を加え、賤民の階級に投げ落としては、必要のない苦悩を味わわせ、その人々に君臨して優越感を味わうことによって、それを自分たちの「霊的な進歩」の証拠とみなし、高慢な自己肯定の根拠としているのである。もしそのように誰かを見下す優越感がなければ、つまり、排除したり、罰したりする相手がいなければ、彼らの自負心は満たされず、その偽りの「信仰生活」は一歩たりとも前に進まなくなるであろう。もし彼らが心の中では蔑んでいる「賤民」たちが、彼らの正体を見抜き、彼らの魔の手を振り切って逃亡し、反撃し、自由になろうものならば、たちまち彼らの「偉さ」も幻想として失われ、消えてなくなるであろうと思う。

だから、筆者は、そのような考えを持つ人間から、日曜礼拝に出席しないことや、特定の集会に属さないことを「罪」として断罪されても、まるで他人事のように影響を受けることなく、冷静に言葉を返した。「〇〇兄弟、でも、あなたはエクレシアは人間の作った組織ではないとあれほど言っていましたよね。日曜礼拝を義務化している教会は、間違っているし、おかしいとあれほど言っていましたよね。毎週、同じ指導者を見物するために、同じ場所に、同じ時間に、一定のお客が集うなんて、そんなものは神への礼拝でもなければ、信仰生活でもないと、言っていましたよね…。なのに、どうしてあなたは、自分でも間違っていると最初から分かっているものを人に勧めるんですか? どうしてそんな提案に私があえて応じなければならない理由があるんです…?」

その兄弟はさすがに電話口の向こうで苦笑した。「それはそうですが…、ヴィオロンさん、でもね、それは私たちだからこそ分かっていることで、彼らにはその真理がまだ見えていないんですよ。彼らは教会からは出たかも知れないが、まだどういう交わりがあるべき姿なのか、分かっていないんです。だから、自分たちが作っている制度が中途半端で、不完全で、間違っているということも、彼らには分からないんです。彼らの礼拝はまだ不完全なんですよ、ヴィオロンさん。彼らには見えていないのだから、仕方がありません。

でも、問題は、彼らの作った制度は不完全でも、彼らに信仰はあることです。だから、私は一概に彼らを切り捨ててしまうことはできないんです。私はそんな彼らに仕えているんですよ。責めるんじゃなく、仕えているんです。彼らが気づいてくれるようになるまでです。もちろん、彼らが交わりの扉を閉ざすなら、それは仕方がありませんが、そうならない限り、私は彼らにも働きかけます。

あなたにはそういう気持ちはないんですか? あの人たちが、あなたが納得するレベルに達していないから、だから我慢がならないと、あなたは彼らを切り捨てるんですか? 彼らが分かるようになるまで、見守って、助けてあげようとは思わないんですか?」

筆者は憤りを感じつつ、それでも冷静に答えた。「要するに、それは自分には真理が分かっていて、彼らにはそれが見えていないから、真理が分からない可哀想な人たちの目が開かれるまで、自分が彼らの世話をしてあげようという話ですよね。そんなのは、私に言わせれば、親切心でもなければ、謙遜でもなく、兄弟姉妹に仕えることでもないと思います。ただ単に人を上から見下しているだけです。

そんな考えでは、ミイラ取りがミイラになるだけですよ。彼らのほとんどは絶対にベック氏から離れることはないと思いますし、ベック氏に理解を示さないあなたが、ベック氏から離れるようにという影響を彼らに与えることが、彼らにとって本当に益になると思いますか。そんな方法で彼らを目覚めさせ、変えることができるとは私は思いません。むしろ、それは集会に分裂をもたらそうとすること以外の何物でもないのではないでしょうか。たとえベック氏を信奉することが間違っていたとしても、彼らがその罪に自主的に気づくまで、誰にもどうしようもありません。あなたがそれに関わることに何の意味がありますか? 
あなたのしていることは人助けではない。自分の望むレベルに達していないと、心の中で密かに見下し、蔑んでいる人たちをわざわざ相手に選んで、その人たちにかいがいしく上から手を差し伸べ、助け起こし、尽くしてやって、彼らもいつかは自分のように目が開かれて進歩するだろうと思いながら、自分の優しさや親切心に、自分で酔いしれる、それは本当の親切ではないです。

そんなのは高慢であって、奉仕でもなければ、人助けでもない。ただ自分が人よりも優位に立ちたいから、指導的立場に立ちたいから、いつも自分よりも明らかに劣っていて、弱みを抱えて、真理が見えていない人間をそばに呼んで、関わろうとしているだけであって、それは恐れや劣等感から来たことであって、そこには彼らに対する真の敬意がないのです。しかも、あなたの親切は、彼らにとっては全く無用の長物で、有難迷惑でしかないでしょう。

彼らはベック氏から離れないと思いますよ。そんな風に、相手を見下げながら、その人たちの集会をかき回し、分裂に追い込むような関わり続けても無益でしかないと私は思います。間違っていると分かったものからは、ただ静かに離れるだけのことです。自分でも間違っていると分かっているものに、わざわざ関わり続けることは有害です。誤謬の中にある人を目覚めさせようとしても、自分が害を受けるだけです。しかも、誤謬の中にある人を捕まえて来て、その人たちと一緒になって、私を責めようというのではナンセンスです。あなたはまるで私が十字架を経ていないかのように言いますが、真に十字架を経ていないのは、一体、誰なんでしょう?」
(さらに、後日談として、断っておけば、ベック集会は以上の兄弟よりは、ずっと柔和で温和な人々からの集まりだったので、筆者が集会を去ったことを苦にして、筆者に説教をした兄弟もすぐに心を変えて、間もなく謝罪の手紙を筆者に送って来た。そこには、依然として、筆者を姉妹とみなし、気にかけていること、自分の言ったことをも悔やんで反省しているので、集会に戻って来て欲しいといった旨が書かれていた。

このように、集会の人々は、自分たちが絶対に正しいという態度を押し通すことは決してない謙虚な人々である。だが、それでも、筆者はある一人の指導者を神のように崇めることは、偶像崇拝であるとみなしているため、集会に戻っていないだけである。

以上の他にも、後日、この集会には、筆者を依然、姉妹と考えて、連絡を寄越して来る信者がいるなど、この集会と筆者との間では、現在に至るまで何の対立関係が続いていることは全くない。

筆者がこの団体を逃げ出したわけでもないため、この記事だけを読んで、勝手な誤解を広げることはしないでもらいたい。さらに、記事の最後に登場する兄弟とも、その後、関わりが続き、後日談がある。
この記事は、大きな出来事のほんの片鱗を取り出しただけのものであり、この記事だけを拡大解釈して、ネトウヨのような決めつけで、都合よくストーリーを作り出すのはやめてもらいたい。

ただし一つだけはっきり言えることは、アッセンブリー教団であれ、ベック集会であれ、KFCであれ、名もない集会であれ、一人の指導者がその集会全体をコントロールし始めると、それはもはや御霊に導かれる自由な集会ではなくなるため、そのようば場所にはとどまっても仕方がなく、エクソダスせねばらない、ということである。)

ある姉妹と共に

ここ数日は、暖かい日だったので、市内を散策した。
 一昨日は、ある姉妹が私に街の案内をしてくださった。若い頃、ご主人とのデートコースだったというこの街は、年月が経って、すっかり変わってしまったらしく、かすかな記憶をたぐり寄せながら、あちこち連れて行ってくださった。エネルギッシュなこの街は、私には大阪と神戸をごちゃまぜにしたように見える。彼女は私よりだいぶ年上なのに、疲れることもなく、むしろ、恥ずかしいことに、スタミナのない私の方が着いていくのがやっとだった。

 姉妹とは、まだ知り合って間もないので、お互いのことはよくわからない。私のブログの長すぎ、かつ、殺伐とした文章が、よほど、あまりいい印象を与えていなかったらしく、初め、
 「あなたは何でも理詰めで考える方なんですか?」
 なんて質問されたりもして、ちょっと面食らった。

 そう言えば、他の兄弟からも、「あなたの日常的なところを見せてあげたら、きっと喜ぶと思いますよ」なんて、妙なアドバイスを事前にもらっていた。一体、私という人は、兄弟姉妹からどのような印象を持たれているのだろう、よほどの変人と思われているに違いないと、首をかしげることしきりだった。

 もちろん、そんなのは最初だけのこと、話を深めるとすぐに、第一印象は吹き飛び、年齢差も、好みも消え去って、とても仲良くなってしまうのが、エクレシアの不思議なところだ。主についての話題を語りだすと、きりがない上に、あたかも、個人差が消え去ったかのように、皆が一つにされる。

 昼食を終える頃には、互いの人生にどのように神が働かれたかを聞いて、「ああ、この人も、やっぱり、主が召し出された人なんだなあ…」という確信と、親しさをお互いに感じていたのではないか、と思う。キリスト者は、外見がどれほど違っていようと、根底では、とても共通した部分を持っているはずだ。そうであるのが当然、そうならない方がおかしい。何しろ、キリストの性質が人格に織り込まれているのだから。

 私には、これまで、主にあっての「お父さん」が一人登場したが、今度は、「伯母さん」が与えられた。この家族は、一体、どこまで広がりを見せていくのだろう? 楽しみこの上ない。

 キリスト者の人生には、大変なことも随分あるが、適時に、主は楽しみを与えて下さる。とても平凡で、人には知られていないようでありながら、驚きと楽しみが尽きない人生を私たちは送ることができる。
 その姉妹も、これからの世の中は、ますます混乱に満ちたものになるだろうと予想されていた。しかし、キリスト者には、たとえ迫害の中にあっても、人知を越えた平安が与えられる。

 「神の言葉はみな真実である、
 神は彼に寄り頼む者の盾である。<…>

 わたしは二つのことをあなたに求めます、
 わたしの死なないうちに、これをかなえてください。
 うそ、偽りをわたしから遠ざけ、
 貧しくもなく、また富みもせず、
 ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。
 
 飽き足りて、あなたを知らないといい、
 『主とはだれか』と言うことのないため、
 また貧しくて盗みをし、
 わたしの神の名を汚すことのないためです。」(箴言30:5-9)


 共にこの道をしっかり歩んで行きましょうね。

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2016年追記。この姉妹も残念なことに、当時、書いていたブログを早々に閉鎖して、震災の後には、海の見える素敵な一軒家を手放して、最後には関東をも去った。筆者が出会った頃には、かなり年配の独身者でありながら、エネルギッシュで活動的な人であり、活発に仕事もしていた。しかし、その後、自分で見つけて入ったホームをも放棄して、ついには関東を去って、それほど親しかったわけでもない家族のもとに身を寄せたという話を聞いた。

結局、この人もまたルーク氏の取り巻きを離れられなかった一人なのだろうと筆者は考えている。筆者が出会った頃、すでにKFCから距離を置いていたが、精神的には離れられなかった一人である。そうした人々は結構な人数、存在していた。彼らは陰では去って来た団体のことをあれやこれやと批評し、新たな出発を遂げたように主張していたのであるが、決して公に訣別宣言をしようとしなかった。だから、精神的・霊的なつながりが、結局、最後まで絶たれないのである。

はっきり言ってしまえば、彼らが重視したのは、人情による絆、また社交クラブのような仲間内の親しい関係が断たれないことであり、神の御前で受ける便宜よりも、人間から来る便宜の方を優先したのである。だからこそ、関東を去った後までも、その交友関係のつてを辿って行ったのだろうと推測される。

2009年当時、この信者に出会って開口一番に筆者が聞かれたことは、「あなたはKFCを目当てに関東に来たのだと私は思っていた」という言葉であった。その「目当て」というクリスチャンにふさわしからぬ意地悪な意図を含んだ言葉が、筆者にとって最も心外であったことをよく記憶している(なぜなら、その頃、筆者はKFCには一度たりとも足を踏み入れていなかったにも関わらず、この姉妹はあえてそのような表現を用いたからである。)ある意味、上記に書いた交わりも、自分たちのサークルに足を踏み入れてきた新人への一種の行状偵察のような意味合いを帯びていただろうという気がする。

だが、この姉妹は、そういう挑発的な発言を相手構わず発する性癖があることを自他共に認めていた。横浜の有名な公園が改装された時には、公園の設計者に向かって自ら「前の方が良かった」と発言したと自ら語っていたほどであった。

あっけらかんとして常に開放的ではあるが、色々なことについて何度も語り合うと、常にどうにも釈然としない印象だけが残った。筆者はKFCからの追放という事件についても語ったが、この「姉妹」が筆者に勧めたのは、仲直りによってその団体に戻ったら、ということだけだったのである。2009年当時、自分自身がKFCを批判し、そこからエクソダスしたと主張していたことさえすっかり記憶から消し去っている様子であった。結局、この「姉妹」は自分は批判されないために、もうとうに離れたはずのKFC関係の人間関係を再び引っ越し先でも頼っているとのことであった。

この姉妹については、比較的最近、「あの人は家を手放したりしなければ良かったんですよ…」という評価を耳に挟んだこともあった。決して、そのような言い分を述べた人間に全面的に賛同するわけではないが、ある意味では、この評価に筆者も同意している。

上記の記事で、筆者はスタミナがなかった自分を振り返っているが、若いころにはエネルギッシュでも、我々は、老年になってどういう生活を送るのか、神と人との前で試されることであろう。生まれながらの力が衰えるままに、常識の通り、それまで獲得したものをただ手放し、生活を縮小し、衰退の一途をたどるだけに終わるのか、それとも、この地上の法則に逆らって、アブラハムのように、老年になってなお衰えず、栄光から栄光へと主の似姿に変えられるのか。

これは筆者が姉妹より若いから言うのではない。この姉妹ほどエネルギッシュでも陽気でもなく、この姉妹より年上であっても、未だ単身で活発に活動しているしている人たちも存在していることを筆者は知っている。

だから、外側から判断したときの人の生来の輝きと、内なる人の輝きは全く別物であるのだということを、今だからこそ、はっきりと確信できる。この姉妹を含め、当時、筆者が出会った人々は、ほとんどが筆者より10~20歳は年上で、人生経験も豊富で、まだまだ元気で、関東のことも、クリスチャンの交わりのことも、勝手知ったる様子で、活発に活動していた。ある意味、豊かな時代に思う存分、甘やかされたのか、尊大で、我が物顔に振る舞い、思いのままに放言していた人々も多く、そこから見ると、筆者は青二才であったのだろうと思うが、その後の数年間で、彼らは人間関係の対立が起きないことだけを第一として、自らの信仰告白や意見発表もやめ、第一線から退いてしまった。そして、それをきっかけに、彼らはそれまで歩んで来た霊的上昇の人生そのものを放棄してしまったようにしか見えないのである。ついには彼らの交わりも散り散りになって行った。彼らの信じていたものの本質が、露呈したのだと筆者は考えている。

第一印象で受けた一種の違和感は、錯覚ではなかったと今は思う。当時、姉妹が書いていたブログは「この道」という題名だったのだが、そのブログさえ、姉妹はあまりに早く辞めてしまい、書きとおすことをしなかった。実のところ、ブログは単なる趣味ではない。これは全世界と暗闇の軍勢の前での、神の正しさと勝利を証するための激しい戦いを意味する。自分はこの道を確かに貫徹しており、決して諦める意図はないという態度の表明でもある。

だが、残念なことに、ほとんどの信者にとっては、ブログは単なる貴族的趣味に過ぎなかった。だから、戦いのほんの最初のとっかかりに触れただけで、そんなものは絶対に御免だとばかりに一目散に逃げ去って行ったのである。その上で、彼らは戦場に残った信者たちの無様な戦いぶりを嘲笑する側に回った。そして、ネットで信仰告白を続けることは、無意味でむなしい所業であるかのように聖徒らの苦労をあざ笑ったのである。その罪は重いと筆者は考えている。

だから、筆者のブログに長いとか、難しいとか、ケチをつけるのは人の勝手であるが、それだけの批判が出来るのであれば、なおさらのこと、自らは初心を貫徹し、より優れた作品を残し、信念を貫き通して表明して欲しかったものである。信仰に限らず、自分ができもしないことで、人をいたずらに批判するのは高慢さの証でしかないので、やめた方が良かろう。

「KFCに一度でも関わったことのある人は、難しい」ということを述べた信者がいた。筆者はその意味が今だからよく分かるのである。KFCに関わったことのある信者たちの内側にいつまでも拭い去れない悪影響として残り続けるのは、「私は人前でみっともない失敗をしたくない。私はスマートでカッコいい生き方をして、決して誰からも嘲笑されないように、高みに座して賞賛を受け、無傷でいたい」という願望、つまりは見栄である。そして、そのような成功者としての外見をきどるために、彼らは戦いを忌避し、泥にまみれることを厭い、リスクを払わず、キリストの通られた十字架の痛み苦しみを決して負わない。そして、主の御名のために真に苦難を受けている人々を蔑む。だから、そこにとどまっている限り、彼等にはそれ以上の前進もないのである。

人が生まれ持った力や、肉的な願望に基づいて、信仰をアクセサリーのようにひけらかし、それによって自分がいかに優れて幸福な人間であって、神に愛されている信者であるかを人前に誇示するのは簡単なことである。だが、信仰も、試されない限り、決して本物にならない。この世の法則と肉の力によって手に入れただけのものは、この世の情勢が変わり、肉の力が衰えると同時に、全て消え去って行く。そのことにより、彼らが誇っていた信仰の本物度が試されるであろう。

我々はただ環境によって手に入れた幸福や、自分の外なる人の強さから来る長所により頼んで生きるのではなく、それらの肉の強さが全て尽きた後でもなお残る信仰による内なる人の強さを握って生きたいと願う。ある意味、ここに書いたことはとても厳しい言葉であるが、筆者自身も、必ず、同じように試されるのである。

2009年当時に知り合ったあまりにも多くの信者たちが、KFCなる実態もないような団体の中における自分の見栄や地位を失いたくないという願望のために、信仰の証を曲げ、戦いを退き、当初、目指していたはずの目的を放棄して、去って行った。だが、その選択が、決して本当に神に喜ばれるものではなかったことをその後の顛末から筆者は確認しているように思う。

震災以降、この関東に残り続けることには、色々な人々に安全面での心の不安もあろう。正直なところ、どうして主がこの地での筆者の生活をずっと守って下さっているのか、筆者にも分からなくなる時がある。ここにいなければ、もっと安穏とした生活が送れるだろうという気がすることもあるからだ。しかし、そうした怖れに駆られて敗退すべきではない、ということを常に思わされる。我々は自分の地歩を固め、拡大しこそすれ、それを決して縮小してはならないのだ。我々は、キリストの復活の命によって、死に逆らって立つ者である。神が信じる者に要求しておられるのは、信者を取り巻くあらゆる死の圧迫を打ち破って、力強く復活の命に立って、その勝利を生きて証明することであるのではないか。たとえ生活のあらゆる安寧を即座に手に入れたとしても、もし永遠に変わることのない価値を追い求めて生きるのでなければ、信者になった意味そのものがないと言って差し支えないと筆者は確信している。




 

エクレシアと一つ

 私が勧められてウォッチマン・ニーの著書を真剣に読むようになったのはごく最近のことだが、不思議なことに、それと時期を同じくして、今まで誰にも知られていなかった獄中でのW.ニーについての証がSugarさんのブログ獄中のW.ニー(1)から発表された。
 W.ニーの優れた著書や、メッセージの記録を、自分たちの権威として巧みに利用しようとする団体がある一方で、この素朴な証は、何と誠実に、飾らず、W.ニーの人となりを正直に証し、彼の内におられたキリストを率直に証していることだろう。この証を知ってから、私はニー兄弟を含め、先人たちの存在を、どれほど身近に感じるようになっただろうか。

 当初は、亡くなった人を身近に感じるなんて、私は変なのでは?とも思った。けれど、兄弟姉妹に尋ねてみると、それは少しも不思議なことではない、との返事。私たちは永遠に一つのエクレシアに連なっているのであり、霊において、先人たちとも交わっているのですよ、と教えられた。ほら、イエスが山に登られた時、モーセとエリヤが彼の前に現れたのを覚えているでしょう?

 それから間もなく、私は先人を身近に感じるだけにとどまらず、自分が本当にエクレシアの只中にいることを発見した。これまで、私は真実なエクレシアを常に尋ね求めてきた。教会と名のつくところでは、ただ虚偽の交わりしか見つけられなかった。もちろん、私一人でもエクレシアの一員であるということを疑ったわけではない。だが、どうにかして、真実なエクレシアをどこかに見いだせないだろうか、真実な兄弟姉妹との交わりを見つけられないだろうか、と願って来た。

 そうして、あちこち尋ね求めているうちに、ふと、気づくと、私は自分がすでにエクレシアの只中にいることを発見した。しかも、太い鎖ががっちりと組み合わされるようにして、二度と切り離されることのない確かな形で、私はエクレシアに組み込まれていたのだった。しかも、そのエクレシアとは、イエスが天に昇られ、聖霊が信徒の上に下って以後、時を超えて、今日まで脈々と続いて来たものであり、先人たちを含めて、無数の兄弟姉妹が連なっている見えない共同体である…。

 以下は、私と、あるキリスト者の兄弟姉妹(計3人)のメールから抜粋(一部改訂)。

 「今まで、私は一生懸命に『神の御前での単独者』を生きようと苦心して来ました。環境面でも、私は長らく兄弟姉妹との交わりから遠く引き離されたところに住んでいましたから、いつも、信仰上の困難に、たった一人で立ち向かわなければならないというプレッシャーがあったのです。その上、教会という教会の中で、真実な交わりを見つけられなかったため、本当のエクレシアとは何なのか、どこに真実のエクレシアが見つけられるのか、ずっと探していました。一言で言えば、あれも、これも違うという違和感だけが重なり、確かなものを自分が掴んだという実感がなかなか沸かなかったのです。

 けれども、なぜか今日、不思議なことに、突然、亡くなった先人たちを含めて、あらゆる兄弟姉妹と共に、私は今、確かに、キリストの御身体の一部を生きているのであり、もはや私一人の人生は終わった、と分かったのです。今後、私がどこへ行って何をしようとも、あるいは、兄弟姉妹と接触していない時でさえも、私の一挙手一投足の全てが、エクレシアと共にあり、それはエクレシアのためなのであり、エクレシアと私とは二度と切り離すことができないものである、という確信がやって来たのです。

 ちょうど、あの手記の著者が獄中でニー兄弟と出会って、彼らの縁がそれ以後、二度と解かれることがなかったのと同じです! 私たちはとかく、ニー兄弟という一人の有名人にばかり注目しがちですが、獄中で神は彼をエクレシアの只中に置いたのですね。そこで与えられた素朴な交わりは、試練の最中にあって、彼にとって至福となったことでしょう。そうやって、彼の苦しみは分かち合われ、十字架は分担して背負われたのです。W.ニーは獄中でも、キリストの身体の一部としての役割の中を生きたのであって、決して一人、壮絶なまでに孤独に十字架を負ったわけではなかったのですね。
 
 これは決して、W.ニーの受けた試練を、安易な気休めで薄めようとして言うのではありません。あるいは、仲間意識とか、友情、連帯、助け合いを賞賛するという話でもありません。この時代にあって、私たちはみすぼらしい、苦痛に満ちた十字架を背負うことでしか、神の栄光をあらわすことが出来ません。私たちのために用意されているのは、キリストが飲まれたのと同じ、苦しみに満ちた杯であり、この道は、隠された、地味な、さえない、苦しみの道です。けれども、神は私たちに、決してそれを一人ぼっちで最期まで耐えぬくようにとは願っておられない。それは最大の苦痛をすでにキリストが負って下さり、それを私たちがもはや負う必要がなくなった、あるいは、神が私たちの苦痛を軽減するために兄弟姉妹を与えて下さったので、私たちはもはや一人でなくなった、というだけの意味だけにとどまらず、それは、一人の打ち傷が、全員の打ち傷となり、エクレシアが一つとして機能するためなのです。

 言い換えるなら、私たちはこの時代にあって、決して、ただ個人であることを許されていない、私たちのやることなすこと全ては、この時代、そして、それに続く時代のエクレシアとつながっており、そこから切り離されることはあり得ないのです。このエクレシアは なくなるどころか、今後、さらなる広がりを見せながら、キリストの身体としてのリアリティを増していくことでしょう。私はもう一人ではあり得ないのですね!」

「あなたにそのような光を送られた主を賛美するのみです。 『あなた一人が 単独なキリストと一つ』と言う光を基軸として その光が 『単独のキリストの無限への拡大、無限への延長としての 今日の奥義的な天地のキリストと 時空を超えて あなたは総てのキリスト者達と共に 少なくとも今 霊の中では一つである』と言う光へと あなたの中で発展したのでしょう。それを 真理があなたの中でそのツルを伸ばした、『御言葉があなたの中で成長した』とも言えるかも知れません。
 
 もともと その命は一つ 光も一つであり、それが総て今日においては 『あの大きな人』 の中にしか存在していないのですから、私達が分けられることはもう不可能です。それが可能な時があると仮定すれば、それは キリストの体が分解(or解体)される時に限られます。(分解とは死ですが、彼はもう二度と死ぬことは不可能であり、従って 御からだに解体はもはやあり得ません。)
 
 メールの後半で言われていることは 多分パウロの言う『私は あなた方のために、受ける苦しみを喜びとします。そしてキリストの体のために 私の身をもって、キリストの苦しみの欠けた所を満たしているのです。』(コロサイ1の24)と言うことでしょう。 
 パウロはここで 突然 異端者になったのではなく、永遠の中における『原型としての』キリストの苦しみは、更に彼の体の中、時空の中においても、(私達やパウロやW.ニーの肉体においても)あの二千年前にあったのと全く同じ死が 時空を超えて再現されなければならないことを言っているのでしょう。

 もしそれが今、時空の中で私達において再現されないならば、やはり『キリストの苦しみはまだ欠けている』ことになります。総ての永遠の真理は 『聖書に書いてある』だけでなく、時空の中で再現されなければなりません。それこそが、今日のキリスト者において欠落している最大のことです。」

「エクレシアと一つ。これは実に不思議な力のようですね。W.ニーでさえ過去の人ではなく 今もエクレシアの一員。こうなると パウロも ペテロも すでに天に上げられた人々さえ エクレシアの一員。そして見えないそれらの人々に 雲のように囲まれている。う~~ん 素晴らしい・・・」

 本当に、これは素晴らしいことです。いや、想像を絶するほどのことです。私が生きて出会ったことのない信徒とさえ、時空を越えて、主にあって、永遠に私たちは一つに結びつけられているのですから!

「時空を超えて 『あの監房の三人』と私達がつながっているとさえ 感じます。それが、またパウロの監房とも!」

 
アーメン! ぜひそうあって欲しいものです。キリストの苦しみを満たすという光栄な仕事を、どうか主が私たちに最後まで勇気を持って貫徹させて下さいますように。


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2016年。この記事にも追記しておく。キリスト者は、エクレシアに入る前、その敷居のところで、自己を焼き尽くされて死んでいなければならない、というのはMr.Sugarの言葉であった。

筆者はこのことに今も完全に同意しているし、その他にも、多くのことを同氏から学んだ。しかし、関東に来て分かったのは、戸口で自己を焼き尽くされていないのに、エクレシアの一員を名乗っている人々があまりに多いことであり、そうした人々が入りこんでくると、エクレシアはエクレシアでなくなり、悪魔の思うままに翻弄される肉の集まりにしかならないということであった。

今現在、筆者は、KFCのDr.LukeからもMr.Sugarからも距離を置いている。そして、ウォッチマン・ニーの著書についても、部分的に徹底的な精査が必要であると感じている。(むろん、だからと言って、キリスト教界に逆戻りする、という意味でもないのである。筆者の交わりは、その時、その時で、主がふさわしい人々を送って下さった。今もそうである。)
 
Dr.Lukeの言説が異端化したことについては、最近の記事で触れているので繰り返さないが、Mr.Sugarについても、触れておかねばならないことがある。

ウォッチマン・ニーの著書に書かれている事がらは、確かに非常に深く、キリスト教界ではお目にかかることもできないような深さがあり、その中に、極めて重要な真理が含まれていることは確かだと思う。そして、筆者自身も、キリストと共なる十字架の死、復活、などの言葉を、Mr.Sugarを介して聞いたことにより、初めて、それまでキリスト教界では知ることもできなかったキリストとの一体性を実際に知るきっかけを得たのである。そこで、この経験は、主が備えて下さったものであり、その意味では、彼らとの出会いも、なくてはならないものであったと言える。

その意味では、筆者に限らず、ローカルチャーチ出身の二人の兄弟が果たした功績というものは、確かに存在するものと今でも考えている。キリスト教界では、聖書の真理についてあまりに多くの事柄が失われてしまったので、ローカルチャーチを介してしか、伝達できないような事柄が存在したのである。しかしながら、同時にここに大きな危険性、もしくは落とし穴があるのは、ウォッチマン・ニーの著書の影響を受けた人々には、多くの場合、「神と人とが混ざり合う」というローカルチャーチの教えの悪影響が残り続けており、ローカルチャーチに関わっていなかったとしても、『権威と服従』という年功序列の絶対化の教えの悪影響が残っているということである。

まず、Dr.Lukeは2016年現在、自分は神であると宣言するに至り、ローカルチャーチとほとんど変わらない異端的確信に至っている。他方、Mr.Sugarがとうに書き辞めたが、ネットには残っているブログも「山暮らしのキリスト」という、自分自身とキリストをあたかも同一視するような標題となっていたことが気がかりである。

Mr.Sugarとはローカルチャーチの異端性について幾度か口論めいたやりとりをしたことがあるが、Sugar氏の家庭では、長いローカルチャーチでの集団生活の影響を受けて、息子のうち二人は心の病に陥り、うち一人は自殺に至っている。一時は、家庭内のすべてが危機に瀕していたと言われる。しかしながら、Sugar氏は子供の死がローカルチャーチの異端の教えに由来するものだとは、決して筆者の前で認めようとはしなかった。

その心の病は、要するに、ストレスや宗教が原因で生じるようなものでは決してあり得ないと言うのである。しかしながら、当時から、ローカルチャーチとSugar氏をよく知るDr.Lukeは、同氏とは全く異なる見解を持っており、ローカルチャーチで子供を育てれば、子供は絶対に気が狂うだろうと予め確信していたので、自分は「あえて宗教団体には子供を入れず、エジプト(この世)で育てたのだ」と公言していた。

筆者もまた、Sugar氏の見解とは全く相容れないながらも、異端の教えを奉ずる宗教団体で子供を育てれば、子供の心にははかりしれない悪影響が残ると確信するのにはわけがある。

筆者はゴットホルト・ベック氏の集会をも観察した。そこでも、KFCと同じように、ウォッチマン・ニーの著書が熱心に愛読されていたのだが、その団体にも、子供を自殺や不幸な形で失った親たちがたくさん詰めかけていたのであった。そして、この団体を観察しているうちに、筆者に分かったことは、この親たちは、子供を不幸に追いやってしまった自分自身の過失から目を背けるために、ウォッチマン・ニーの著書を利用しているのではないかという可能性であった。

なぜなら、ウォッチマン・ニーの『権威と服従』のような教えは、年功序列を絶対化する教えのため、年長者にとっては極めて都合が良いのである。そのような教えを振りかざして自己を絶対化・美化すれば、年長者は、自分は何をしても、従わない年少者が悪い、という理屈に逃げ込めるので、親たちはただ子供に絶対服従を求めるだけで、いかなることについても、自己反省をしなくて済むようになる。そのような浅はかな思考は、特に、子供を痛ましい形で失ってしまった親たちにとっては一種の現実逃避的な慰めをもたらすので、特にそのような人々を惹きつけるのだと考えられる。また同時に、そのような教えを奉じたがために、今も痛ましい抑圧が起き続けているのだと言える。

筆者が最初にSugar氏と決裂に至ったのは、別の記事でも記したように、2009年秋のデッドライン君の登場がきっかけであった。このデッドライン君(仮称)は、筆者のブログを読んで筆者にコンタクトを取り、エクレシアの一員になりたいと告白して来たのだが、この信者をSugar氏に紹介するや否や、あっという間に、彼はSugar氏に「弟子化」されてしまった。そして、以後、何年間も、彼はあたかもSugar氏の徒弟のように行動を共にすることになる。

筆者は当時、家庭にリビングルームも持っておらず、救いのために熱心に祈るべき家族の成員も身近にいなかったことから、Sugar氏とデッドライン君の交わりから、あっという間に、半ば弾き出されたような恰好となった。それをきっかけにSugar氏に疑問を呈したところ、あっさりと交わりから放逐されてしまったのである。

その後、KFCを出たことをきっかけに、Sugar氏と再開し、再び交わりを持ったりしたのだが、そこから得られるものも、むろんあったが、常に、そこには何かしらの望ましくない陰(いうなれば『権威と服従』の悪影響)のようなものがつきまとっていることが感じられた。つまり、何よりも、交わりそのものに、結局は、年少者が年長者に弟子化されて行くという、筆者が最も願っていない序列が出来上がってしまうのであった。筆者は、牧師や教師のような指導者が固定的に交わりに存在することを願っていなかったし、当時、Sugar氏もそのような交わりこそ理想だと公言していた。にも関わらず、誰かをSugar氏に紹介すると、たちまちその人が同氏の信奉者(要するに弟子)となってしまい、以前のようなあけっぴろげで対等な交わりがもはや成立しなくなるということの連続なのである。

Sugar氏は、Luke氏のように野蛮な形で反対者を批判したり追放したりということはしなかった。物静かで上品な外見であり、人との対立を極度に嫌っていたが、そうであるがゆえに、早々に好ましくない事件に巻き込まれることを避けてブログも公開しなくなり、また、Luke氏に対しても、陰では相当な批判を浴びせながら、一度も、公然と決別宣言をすることがなかった。

このように、自分が人間関係を傷つけたり、憎まれ役になりたくないばかりに、人と公然と対立することを避け、公に議論せず、激しい戦いを戦いぬいて自分の信仰告白を守り通したり、忌むべきものに対して断固とした決別宣言を公に出せない、という臆病さは、ある意味、大変、恐ろしい危険でもあるのだと筆者は考えている。一見、それは人間に対する思いやりや、優しさに見えるかも知れないし、対立ばかりしている不器用な生き方とは異なる「スマートな生き方」に見えるかも知れないが、要するに、それは保身の思いから出たもの、もしくは見栄から出た行動であり、どっちつかずの不忠実さをもたらすものであって、決して、真の優しさではあり得ないのだ。もし信者が世間体を重視するなら、それと同時に、全ての人を偽りとしてでも、神を真実な方として、キリストだけにつき従うことはできない相談である。人間の理解や同情や賛同をすべて失ってでも、神にのみつき従い、ただ神だけの顔色を伺うという純粋さが、信者にはどうしても必要だと筆者は思う。
 
だから、同氏の家庭で起きた痛ましい事件を振り返るにつけても、どうにも人間とは見かけではないという気がしてならない。

Sugar氏が息子を失った時に、それを信仰の勝利であるかのようにKFCで証したことは、関係者の間でではよく知られている。その時のメッセージは、KFCのメッセージ集に収められているという。筆者はそれを聴いたことがないが、これを耳にして深刻な違和感を覚え、抗議した信者も当時から存在していた。しかし、KFC関係者はすべてDr.LukeとSugar氏の面目を傷つけないために、その疑念を黙殺したのである。

筆者が最初にSugar氏に疑念を覚えたのは、同氏の山小屋で最初に交わりを持った時のことであった。その時、幼い子供たちを連れて山小屋に来ていた家族があったが、子供たちが遊んでいるうちに、勢い余って、山小屋の備品であったランプを壊してしまった。当然、親は子供をSugar氏の前に立たせて厳しく叱責し、謝らせた。子供たちは泣いて謝っていた。その時、Sugar氏は子供たちに向かって幾度か尋ねた、「わざと壊したんじゃないですよね?」と。

その質問が、筆者に強烈な違和感を生じさせた。なぜなら、元気いっぱいで遊びたい盛りの男の子たちが何人も集まって部屋の中で過ごしていた様子を、筆者は目の前で見ていたからであり、そこにはいかなる故意も悪意も存在しないことを確かに知っていたからである。

このことから筆者が何を言いたいかを察することのできる人はよほど勘の鋭い人であろう。

世の中には、子供たちに存在しない悪意を読み込んででも、自分は正義の担い手であるかのように、彼らを上から目線で指導し、矯正し、罰し、抑圧することに、一種の悦楽を覚える思想の持ち主が存在するのである。そして、そのような考えの持ち主は、とにかくあれやこれやの正論をふりかざして、人の上に立ちたがり、自分のサディスティックな願望や、上に立ちたいという欲望を正当化するために、教師や、牧師や、指導者となって、人々の上に君臨し、人間を弟子化することにより、序列を作り出し、自分の配下にいる人間を、自分が「正しい」と考える鋳型に半強制的に押し込んで、懲罰を繰り返すことによって、自分の意のままに服従させようとするのである。多くの場合、それは信仰を口実になされるが、そうした人格矯正の結果、人間性を否定された「弟子」は人格破綻に至る。そのような例は、カルト団体ではいくらでも見られることであるし、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密のような牧師の提唱する「カルト監視機構」という発想なども、結局は、「正義」を口実にして、人間の内面を人間が強制的に取り締まろうとしている点で、上記と全く同じ残酷な発想なのである。

筆者はSugar氏の内面についてあまり多くのことは知らないので、同氏が上に述べたような人格の持ち主なのだと主張しているわけではないが、ただ同氏に起きた以上のような出来事だけを通しても、見えて来るものは確実にあると言える。Dr.Lukeも、Sugar氏も、教師という職業に就いていた。そして、聖書は「あなたがたは先生と呼ばれてはならない」と教えている。もしかすると、これは牧師を指しているだけでなく、教師をも含んでいるのかも知れないと、筆者には感じられることがある。教師でありながら、自分が栄光を受けず、他人の内面の自由を完全に尊重するというのは、極めて難しいことだからである。
 
いずれにせよ、『権威と服従』の悪影響が信者たちの内面に相当深刻に残っていることは断言できるだろう。筆者は、今の曲がった世の中を「子殺しの時代」と表現している。旧約聖書で背教のはびこった時代、神を捨てた背信の民は、自分の娘息子を偶像の生贄として捧げたのである。なのに、どうして今日にだけは、異端の教えを奉じても、信者の家庭にはそのような結果は決して起きないと断言できようか。

筆者は、背教から来る殺人に加担したい願いは毛頭ないので、信者の家庭にそのような痛ましい害悪をもたらす悪しき異端の教えとはことごとく早期に手を切りたいと考えている。その上で、どんなに危険だと忠告しても、過去を反省することなく、その教えと公然と手を切ることもしない信者とは、残念だが、筆者の方からどこかの時点で訣別しなければならないと考えている。人間的には、常に相手の存在が惜しまれるし、エクレシアに抱いていた憧れが消え去ることへの無念もある。だが、異端の教えが入って来ると、もはやそのようなものはエクレシアではあり得ないのだ。

主に従う道は、この意味で、決して安易とは言えない。信仰生活は義理でも人情でもなく、
「汚れたものとは分離せよ」という聖書の原則に基づいていなくてはならず、神に忌み嫌われるものにあえて接触し続けると、信者は必ず痛手を負うことになる。Dr.Lukeの危険性について筆者に最初に忠告したのはSugar氏であったが、Sugar氏は自ら知っていたことについて、様々な責任を負っていたはずである。

ベック氏の集会には、立派な家と立派なリビングルームと立派な家族を持つ多くの信者たちが集まっていたが、にも関わらず、多くの家庭に癒されない不幸があり、その繁栄がすなわち幸福ではないということを筆者は確認したので、今となっては、そのような地上の富を持たないことに対する引け目もなければ、それに対する憧れもない。

筆者の全ての望みと目的は、信仰を口実にして、地上で優れた人間関係を築き上げて壮大なネットワークを拡大することにはなく、あくまで見えない神お一人だけに従い抜くことである。「まず神の国とその義を第一とせよ」、その条件が満たされて初めて、信者の諸々の地上的幸福などなども付随して与えられるのである。