忍者ブログ

私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

KFCとペンテコステ運動の異端性ーキリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動⑪

⑤ペンテコステ・カリスマ運動に基づき、キリストの十字架の贖いを否定するDr.LukeのKFC(Kingdom Fellowship Church)の異端性

少し本題から逸れるが、ここで、KFC(Dr.Luke's kingdom fellowship church)のメッセージに顕著に表れているペンテコステ・カリスマ運動の異端性について見てみたい。十字架を抜きにしたグノーシス主義的手法によって彼らがどのように神との合一に達しようとしているかを振り返りたい。

次の2015年8月16日の動画には、KFCの理念の異端性が余すところなく表れている。わざわざ他の動画を見て分析する必要もなく、この動画だけで、KFCの現時点でのほぼ全ての主張をカバーできるのではないかと思われるほど、盛りだくさんの内容である。
このメッセージを少し聞いただけでも、聖霊と異言の価値を強調するこの団体がペンテコステ・カリスマ運動の深い影響を受けていること、そして、この団体がすでにキリストの十字架を完全に見失い、聖書とは「異なる福音」を宣べ伝えており、自分たちを「神々だ」と自称するまでに至っている様子が誰にでもすぐに見て取れるからだ。

視聴は全く勧めないが、KFCがすでに異端化していることを示す明白な証拠としてここに挙げておく。



 



・原罪とキリストの十字架の贖いの否定

Dr.Lukeはこの動画において、人間の罪という問題を完全に否定して、生まれながらの人間が神の中に生きていると述べている。魚が水の中に生まれ、暮らしているように、人はみな神の中に生まれ、生きているのだと。

人にとっての神とは、魚にとっての水のようなもので、たとえ人がどんなに神を否定しても、その人が神の中に生まれ、生きている事実は変わらないというのである。
 

「魚ってたぶん水の中にいる意識ないんですよ。でしょ?ないですよ。そこがもう全てですから。ぼくらは空中にいて水の中っていう区別がるから、あ、今、水の中だって分かるんだけど。生まれた時から水の中にいる人にとっては水の中だってことが分からないんですよ。そうでしょ? でも感じることはできますよね。こうやってやると、水、抵抗もあるし。

神も同じです。使徒行伝の、あれ、パウロが、エペソでしたっけ、パウロがあのしじ、しじ、詩人の詩を聞いてさ、「人はみな神の中に生きている」って言っているわけ。
我々は神の中に生まれていたんです。人ってのは、ぜんぶ神の中に生まれているんです。だから神の存在が分かんないんですよ。

世の中の人もね、信じてない人も、神の中にいるんです。パウロもそういっているもの。あの「名前も知らざる神のために」っていう詩人のあれを引いてさ、あなたがたはこういう感受性がおありだと。

我々は神の中に生きている。人はみな神の中に生きている。我々は神の中に生きている。神の中に生まれていた。世の中に「神はいない」と言ってる人も、ほんとは、神の中にいるんです。
魚も同じです。」(2:16:48-2:18:27)


むろん、これは神と人との断絶という聖書の真理の事実上の否定であり、人の原罪の否定、同時に、キリストの十字架の贖いの否定である。

パウロが引き合いに出した「知られない神に。」と刻まれた祭壇(使徒17:23)は当然ながら異教の神々を奉じるギリシア人の汎神論的な考えを引き合いに出しただけであり、彼らの考える神の概念を肯定したものではない。また、「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。」(使徒17:28)というパウロの言葉も、確かに人は神に創造され、神の栄光を表す被造物に囲まれて生きているという点では、自分で自覚せずとも、被造物を通して神の栄光を見ているわけだが、だからと言って、その言葉を拡大解釈して、被造物全体の堕落という聖書の事実を無視して、物質世界に生きている全ての人間が、キリストの十字架での罪の贖いを信じることなくして、神の子孫になりうるかと言えば、そのようなことは決してない。

パウロはギリシア人の神についての熱心さを利用して、まことの神に注意を向けさせようと語ったのであって、異教の神々を信じるギリシア人が、キリストを知らなくとも、知らずに拝んでいる神によって救われているとか、すべての人が信仰なくして「神の中に生きている」と言ったわけではない。

別の個所でパウロははっきりと述べている、「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」(エペソ2:3)

「罪過の中に死んでいたこの私たち」(エペソ2:5)
という言葉が示すように、聖書によれば、キリストの贖いを信じない人間は、みな「罪過の中に死んでい」るのであって、「神の中に生まれて」もいないし、「神の中」にもいない。それどころか、「自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない」、神に対しては無価値で死んだ、神との交わりを全く持たない「生まれながらに(神の)御怒りを受けるべき子ら」なのである。人はいかに神の創造としての物質世界に生まれ、生きていたとしても、罪によって神と断絶しており、己の罪を悔い改めて、十字架の贖いを信じて受け入れることによってしか、神に立ち返る道はない。

ところが、Dr.Lukeはこのような聖書の基本とクリスチャンの初歩的な認識さえも失って、人間の原罪を否定する。そうすると、当然ながら、人類の罪を認めないのだから、人類の罪を贖うためのキリストの十字架の意味も否定されることになる。このメッセージ全体を通して聞いても分かることであるが、Dr.Lukeはすでにキリストの十字架には全く言及していないのである。彼の「キリスト」からは十字架の贖いが完全に消し去られているのである。

このことから、Dr.Lukeはもはや人が罪によって神と断絶しているという聖書の事実を認めない立場に立っていることが分かるのである。もし十字架が語られていたとしても、そこにはもはや罪の贖いとしての意味はない。そして、人は神を認めようが認めまいが、キリストの救いを信じようが信じまいが、みな「神の中に生きている」と言うのである。これは、人がキリストの十字架の贖いを通さずとも、自力で神に回帰する道があり、人は本来的に神と同一であるとするグノーシス主義の教えである。



・汎神論的かつ東洋的な「慈愛の神」の概念


さらに、Dr.Lukeは、「神」の概念を、「魚にとっての水」にたとえる。同氏の言う「神」とは、人格を持ったお方というよりも、人間を包み込む環境全体、もしくは人間を浸すプールの水のようなものに近い。そうなるのは、Dr.Lukeがこの「神」を人格を持った父なる神、子なるキリストとしてではなく、むしろ「聖霊」としてとらえているからである。明らかに、KFCはペンテコステ・カリスマ運動の影響を受けて、「聖霊のバプテスマ」を重視し、「聖霊に浸される」という経験を、「神の中に生きている」ことと同一視しているのである。
 

「魚も、生まれつき水の中ですから、自分が水の中にいるなんて意識はないんです。だけど水がないないって言ったって、水の中にいるだろうと。同じ。神がいないいないと言ったって、あなたは神の中にいるでしょう。そう、神の中にいるのが、感じられると言ったわけ。

神がここに満ちている。神は遍在されるお方でしょ。<中略>ダビデは「あなたの霊、どこへ行けば、あなたの霊から逃れることができましょうか。どこへ行っても、あなたの霊の中にわたしはいます」と。もう我々は神の霊の中にいるんですよ。」(2:18:18-2:19:13)


 そのように、人が水の中に浸されるように、どこへ行っても、神は満ちておられ、人は神の霊の中に包み込まれ、神の慈愛の中に浸されて生きている、という認識は、聖書の神ではなく、むしろ、東洋的な神の概念に合致するものである。Dr.Lukeは続ける、
 

「神はそれくらいに近いんです。主は近い。ぼくらはこの神の中にいて、神のいつも慈愛を感じるんです。神のfavourを感じている。あなたのことをいつも見ている、あなたのことをいつも思いはからっている、あなたの人生をすべてわたしが導いている、わたしはあなたの主である、あなたの父であると。この感覚がこっから伝わってくるわけよ。危ないねえ。」(2:19:47-2:20:25)


 こうした「慈愛に満ちた神」の概念には、人間を罪定めしたり、罰したり、懲らしめ、訓戒したりする厳格な父なる神の性質、裁き主、贖い主としての神の側面はない。そこで、これは聖書の神の概念というよりも、むしろ、「東洋的な神」のイメージであり、ちょうど国家神道における「神と人との和」、「人と自然との和」で語られている「神」の概念に驚くほど酷似している。
 
『国体の本義』の「神と人との和」における東洋の神の定義をもう一度読んでみよう。
 

更に我が国に於ては、神と人との和が見られる。これを西洋諸国の神人関係と比較する時は、そこに大なる差異を見出す。西洋の神話に現れた、神による追放、神による処罰、厳酷なる制裁の如きは、我が国の語事とは大いに相違するのてあつて、こゝに我が国の神と人との関係と、西洋諸国のそれとの間に大なる差異のあることを知る。<中略>

我が国に於ては、神は恐しきものではなく、常に冥助を垂れ給ひ、敬愛感謝せられる神であつて、神と人との間は極めて親密である又この和は、人と自然との間の最も親しい関係にも見られる。我が国は<中略>、他国には見られない美しい自然をなしてゐる。この美しい自然は、神々と共に天ッ神の生み給うたところのものであつて、親しむべきものでこそあれ、恐るべきものではない。そこに自然を愛する国民性が生まれ、人と自然との和が成り立つ。」


 要するに、これは万物には神が満ちているという汎神論的な考えであって、すべてのものはみな同じ神から生まれ、神の中に調和しており、世界は神の中に一つであり、人もその中に一つとなって調和して生きているという考えである。

これが東洋思想における「神」の概念であるが、Dr.Lukeもこれと同じように、聖書にはっきり記されている人間の罪を語らず、神と人との断絶を語らず、キリストの十字架を語らず、神の裁きを語らず、神をただ人間にとって優しく親しみ深い、常に慈愛を垂れ、感謝される、人間にとって恐ろしくもなければ、脅威ともならない存在へ変えてしまう。そして、そのような慈愛の神があらゆるところに満ちて偏在している、と言うのである。そして、聖霊を通して、人はそのような神の愛に浸され、神の御言葉の実体にあずかれると言うのである。

サンダー・シングも全く同じような形で、汎神論的な概念で神の遍在性を主張している。
 

「神が存在するところには、天国あるいは神の国がある。だが、神はどこにも存在するので、天国はすべての場所にあるこのことを知っている真の信仰者はどこにあっても、どのような状態いあっても、苦しみや困難に見舞われているときも、友の中にいるときも敵の中にいるときも、現世にあっても来世にあっても幸せである。彼らは神の中に住み、神もまた彼らの中に永遠に住まわれる。これこそ神の国である。」(『聖なる導き インド永遠の書』、林陽訳、徳間書店、p.304-305)


 



・キリストの贖いと、キリストの完全な神性と人性の否定

だが、そんな考えでは、キリストは一体何のために地上に来られたことになるのか? Dr.Lukeは言う、父の独り子が「わたしたちと共有点を持つために人となった。」と。

「イエスは本質的にももちろん、神の独り子です。ですよね。ロゴス。初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。ですから、永遠の初め、あの初めっていうのは、創世記の初めとは違うよ。創世記の初めは時間の始まり。だからこういう、立ってる端っこです、時間の端っこ。だけど、ヨハネの言う初めは、時間とか空間がなかった初めです。
永遠に。その時からもうロゴスはすでに父の懐の中にいた。父の独り子だった。だから、この点においてイエスはユニークです。

だけど、わたしたちと共有点を持つために人となった。幕屋を張った。書いてあるよね、あの「人となられた。肉体となった」というのは原文では、「幕屋を張った」です。幕屋を張って、
その幕屋は私たちと全く同じ、人間。そして、その中におられた聖霊は、人間生活を経験して下さった霊なんです。だからただ単なる旧約における神の霊としてではなく、人間、イエスの中にいて、人間性を知っておられる霊なんですよ。」(2:29:17-2:30:17)


 だが、当然のことであるが、聖書は、キリストが「人間であるわたしたちと共有点を持つために人となった」とは全く言っていない。

「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。 これが時至ってなされたあかしなのです。」(Ⅰテモテ2:5-6)

神がその独り子を世に遣わされた目的は、人類の罪の贖いのためである。イエスは神の御前に永遠の贖いとして供えられた小羊である。ところが、Dr.Lukeはキリストの受肉から、十字架の贖いという目的を取り去って、全く別の説明をはめ込む。

つまり、キリストが人となられたのは、人間と共有点を持つため、つまり人間に近しい存在となるため、だというのである。このような考えは、以下のサンダー・シングの主張にぴったり重なる。
 

わたし(筆者注:イエスのこと)は、人のために人となった。彼らが神を知るようになるためである。恐ろしい異質な者としてではなく、愛に満ちた、人に似たものとして世に現れた。人は神に似て、神の姿に象られたからである。

人はまた、自分の信じている神、自分を愛してくださっている神に会いたいという、自然な願いをもっている。だが、父を見ることはできない。父のご性質は人の理解を超えているからである、父を理解するには父と同じ性質をもたねばならないからである。一方、人は理解できる被造物であり、それがため神をみることはできない。だが、神は愛であり、その同じ愛の力を人にお与えになっているため、愛の渇きを満たすために、神は人に理解できる存在の形をとられたのである。こうして、神は人となった。(『聖なる導き インド永遠の書』、p.200)


サンダー・シングのこの記述は、「西洋の神話に現れた、神による追放、神による処罰、厳酷なる制裁の如きは、我が国の語事とは大いに相違するのてあつて、<中略>我が国に於ては、神は恐しきものではなく、常に冥助を垂れ給ひ、敬愛感謝せられる神であつて、神と人との間は極めて親密である。」という国家神道が述べる東洋的な神の概念にも合致するものである。

こうして、Dr.Lukeは、聖書の神の概念を東洋的な慈愛に満ちた神へとすり替えることによって、キリストの受肉の意味をも、人間にとって極めて都合の良い概念へと変えてしまったのである。すなわち、キリストの受肉の目的は、ただ神が人間に近しい存在となって人間と共有点を持つことにあったとすることによって、キリストがその十字架の死において、父なる神から人類に対する刑罰を身代わりに受けられることによって、その贖いを信じる者を永遠の滅びと裁きから救われたのだという事実を覆い隠し、人類の罪を否定し、その罪に対する神の刑罰としての十字架を否定し、信じない者に定められている永遠の滅びも否定する。そして、聖書の神から、このような「恐ろしい側面」を全て除き去って、人間にとってひたすら心地よく、都合の良い、人間を脅かさない「慈愛に満ちた神」の概念を作り出すのである。

Dr.Lukeは言う、キリストが人となられた肉体(幕屋)は「私たちと全く同じ、人間」であると。しかし、この言説も、誤りである。カルケドン信条には、キリストの人性について、「人間性においてわれわれと同一本質のものである。「罪のほかはすべてにおいてわれわれと同じである」」と定義されており、ここに「罪の他は」という、決して見落としてはならない極めて重大な相違点がある。

カルケドン信条のこの箇所は、聖書の次の御言葉を基本としている。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(ヘブル4:15)

このように、人間にはキリストにはない「罪」が存在する以上、キリストは「私たちと全く同じ人間」であるとは言えないのである。にも関わらず、Dr.Lukeが言うように、キリストが「私たちと全く同じ、人間」になられたとするならば、キリストは罪人となられたということになってしまう。

サンダー・シングはこの点でもっと大胆に、「キリストは、われわれのために罪人となり、罪人の死をお通りになった。」(『聖なる導き インド永遠の書』、p.292)と明言する。これはキリストの神性を否定し、キリストを罪人の一人へと貶める記述である。前にも述べた通り、サンダー・シングはここでキリストの十字架を、冤罪によって殺された無実の人間の死と同じように解釈し、キリストは罪人たちへの愛のゆえにすすんで罪人と同化しようと、喜んで濡れ衣を着せられて処刑されることに同意したのだ、と主張する。
 
他方、カリスマ運動の指導者である手束正昭氏も、養子論的キリスト論に基づいて独自の主張を展開し、キリストは元来、単なる人間に過ぎなかったが、聖霊を受けることによって、神性を帯びたのだ、としている。
  

「養子論的キリスト論は『霊のキリスト論』とも呼ばれ、それは聖霊論的キリスト論です。つまり、人間なるイエスがある時を境にして、聖霊の圧倒的な注ぎを受けて神の養子として引き上げられたというのが、“養子論”の一般的な理解である。 このいわゆる養子論の系譜にありつつも、その生涯の発端から聖霊の圧倒的な注ぎを受けて神の養子として引き上げられていたというのが『霊のキリスト論』であり、養子論的でありつつ、いわゆる養子論とは異なる使徒教父たちに強く見られるキリスト論である。
そして“受肉論”が神とキリストの連続性を見ているのに比べて“養子論”の場合はむしろキリストと私達の連続性、しかも聖霊の役割の大きさということが注目される。
(『続 キリスト教の第三の波―カリスマ運動とは何か―』、手束正昭著、キリスト新聞社、1989年、p.17)

 

ペンテコステ・カリスマ運動の影響を強く受けたDr.Lukeの言説も、今や、手束氏と同様の意味を持つものであると言える。まず、罪の問題を曖昧にしたまま、キリストが「私たちと全く同じ、人間」になられた、と主張することは、事実上、キリストを罪人の一人に貶めることに等しい。もしそうだとすれば、我々と全く同じ人間として生まれたキリストに、後天的に神性を付与したのは誰なのか、という問題が生じる。それが手束氏が言うように、ペンテコステ・カリスマ運動では、聖霊の役割だとみなされるのである。



・神の戒めを守ることよりも、正体不明の「霊」に浸される恍惚体験を「礼拝」にすり替える

Dr.Lukeは、以上のように、ペンテコステ・カリスマ運動がしきりに強調する異言を特徴とするいわゆる聖霊のバプテスマと同様の体験を通して、信者が水の中に浸されるように、「霊」の中に浸され、「神のfavour」(愛顧)を感じながら、フワフワした恍惚体験の中に自己放棄し、自分でも理解できない言葉をしゃべり続けながら、一種の神がかり状態に陥って悦楽に浸ることが、神との交わりであり、礼拝である、と言う。

Dr.Lukeは自分自身の「神」観が、以前とは全く違うものに変わったことを、自ら告白している。

以前には、明らかに、同氏の信仰はまだ、「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望み」(コロサイ1:27)という認識にとどまっていたが、いつの間にか、それが汎神論的な意味において「どこにでも偏在しておられる神」という概念にすり替わり、「魚が水の中に生きるように、私たちは神の霊の中に浸け込まれている」という感覚的なものに変わって行ったのである。

そして、「神はここにおられる。ここに。ほら」と、自分たちは神のうちにいて賛美しているのだと言うのである。
 

「最近ね、ぼく変なんですよ。前はほら、内側に主がいてね、平安とか安息とかは内側で満たして下さるって。今はここなんですよ。とにかくね、ぼくね、おかしいって言われるほど 見えるわけよ。神が見てくれてる。父が、ほら、感じるわけよ、ここに。もう父が迫るわけ。」(2:16:10-2:16:48) 
神はここにおられる、ここに。もう、ほら、こう近寄って来られる。我々が賛美している時には、神は喜んで下さっている。これが、ここで感じられるわけ。私たちは、神のうちにいるんです。そして、神の愛顧、favourにあずかっている。神の愛が、みなさんの中に絶えず注がれている。これがあまりにも当たり前になっちゃってると、感じられなくなっちゃうんですよ。水の中にいる魚は感じないでしょ。

だけどある時ふってこう主のところへ向くわけですよ。水の中で手を動かしてみると、あ、水の中にいる。神の中にいる。だから、手を挙げるってことはものすごく大事。前回も言ったけど、これはsurrenderです。

そうすると、神がふってこう近寄って来るわけ。ふわってこう触れてくれる。そういう神との経験、これを我々、味わえば味わうほど、クリスチャンはjuicyになります。freshになります。パサパサじゃなくて、筋々じゃなくて、juicyなクリスチャンになるんですよ。ハレルヤ。それが人に何か潤いを与えるわけ。juicyなステーキ。Amen? 神が食べたいのは、juicyなステーキです。

そのために、浸けてくれるわけ、ご自分の霊の中に。みなさんを浸け込んでくれてるんですよ。
だから、worshipでsurrenderしてパ~っと委ねちゃうとき、チューニングして、自然と祈りも出る、声も出る、異言も出る。自然と内側が満たされる。そういう経験をそれぞれが味わってるわけ。これが、礼拝なんです。

こんなもんじゃないですよ。祝祷とか言ってね。ああいう儀式じゃないんです。ハレルヤ。生ける神との関係ですから、生ける神が皆さんを満たすことですから、そのお方に感謝と賛美を捧げることが、celebrationです。」(2:20:25- 2:22:54)


こうなってはもう完全に荒唐無稽な主張である。Dr.Lukeがやたら多用しているカタカナ英語にも注意が必要なのは、そこには大抵、聞きなれない用語で人の思考を煙に巻こうとするがごとくに、概念のすり替えが満ちているためである。

たとえば、上記のメッセージでは、「明け渡す、委ねる、服従する」(surrender)という言葉の意味は、御言葉への従順を通して父なる神の御旨に従うことではなく、ただ単に「手を挙げる」という、ほとんど何の意味を持たないアクションにすり替えられており、信者が手を挙げさえすれば、神の方から近寄って下さる、と言う。

多くの場合、Dr.Lukeはこのように人の行動とその背景にある動機や意味をバラバラに切り離して、ほとんど何の意味も持たない表面的な現象や行動の重要性だけを強調することによって、人が自ら御言葉に基づいて自分の行動を決め、一貫性をもって行動することの重要性を覆い隠してしまう。

つまり、現象と行動の重要性ばかりをひたすら強調し、その意味を軽んじることによって、信者が深い意味の裏づけなしにただ行動することを促すのである。異言の重視も、後述するように、その一環であり、意味不明の言葉を語り続ける重要性をひたすら強調することによって、言葉というものが、本来、意味と一体である事実を見失わせる。聖書の御言葉は神の命令であり、当然、一定の目的と意味を帯びている。意味を持たない御言葉というものは一つもない。だが、誰にも理解も解釈もできない異言という、意味を持たない音声の羅列を「神の言葉」として弄ぶことによって、言葉と意味を切り離し、何の目的も思考の裏づけもない、歌詞もなければ旋律もない歌のような無目的で空虚な音声作りに時間を費すのである。

礼拝についても、Dr.Lukeは神への崇敬の意味を強く持つ「礼拝」(worship)という言葉を意図的に避けながら、「祝賀、祭典」と言ったお祭り的な意味合いの濃い”celebration"を多用する。早い話が、感覚的高揚感ばかりを強調して、非日常的なお祭り体験、神がかり的な自己陶酔に、信者が理性を眠らせて身を委ねることが、神への礼拝であり、神との交わりだというのである。

こうして、人に自分で物事をきちんと考え、吟味することをやめさせ、信者の思考や知性を意図的に眠らせて、信者が疑うことや、警戒心を持つこと、識別力をもって自分で物事を考察し、行動を注意深く律する努力を自ら放棄させて、幼子のように無防備・無分別の状態になって、自分を開放して何者か分からない「霊」の導きに受動的に身を委ねるようにさせるというのは、礼拝というよりも、原始宗教レベルの「祭り」と呼んだ方がふさわしいと思うが、こうした神がかり状態を作り出すことは、ペンテコステ・カリスマ運動には極めて特徴的であって、それがこの運動では「聖霊のバプテスマ」と呼ばれ、聖霊が降臨した状態だとされるのである。

Dr.Lukeの言う「霊の中に浸け込む」というのも、「聖霊の(中に)バプテスマ(する)」という意味である。つまり、「聖霊のバプテスマ」を通して(彼らが)「神のことば」(とみなしている)異言を語りながら、恍惚状態となり、現実逃避のように自己放棄した一種のトランス状態に陥ることを通して「生ける神との関係」を持つことができ、神との合一体験を味わい、神に「感謝と賛美を捧げる」ことができる、というのである。

だが、次に述べるように、ペンテコステ・カリスマ運動の「聖霊のバプテスマ」のように、人の理性的思考を眠らせて、感覚的高揚感、陶酔感、恍惚体験に受動的に身を委ねさせる教えは、まさに人の主権を放棄させてそこに入りこもうとする悪霊の欺きのテクニックなのである。

神の聖霊は決して人が理性や知性を眠らせて、自分の主権を放棄し、全ての現象の源を御言葉に照らし合わせて吟味・識別することなく、正体不明の霊のもたらす感動体験にただ受け身に身を任せるよう促すことはない。なぜなら、聖書は、「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。」(Ⅰヨハネ4:1)とあるように、信者が目を覚まして、自分の理性を働かせ、すべての霊が本当に神から来たものであるかどうか、自ら吟味し、識別するよう教えているからである。

悪霊も奇跡を行うことができる。人に好ましい感覚体験をもたらすからと言って、それが神から来た霊なのかどうかは調べてみなければ分からない。玄関のドアを無施錠で開放しておけば、泥棒も詐欺師も自由に入って来るであろう。そんな無防備な状態が信者にとって理想のはずがない。



・羊を「juicyでfreshなステーキ」にして味わうことを欲する貪欲な狼

しかし、Dr.Lukeのメッセージでは、常にキリスト教界に対する嫌悪と共に、プロテスタントの礼拝に顕著に見られる、信者が御言葉を朗読しながら、自分の知性によって御言葉の意味を理解する過程は脇に追いやられ、キリスト教界の礼拝儀式は真の礼拝ではないとして否定され、特にキリスト教神学は強い嫌悪をもって退けられる。上記のメッセージでも、Dr.Lukeは、キリスト教の神学理論にことさらに強い嫌悪感を示し、「肉汁の抜けて乾燥した筋だらけの肉」にたとえ、無価値なものとして一蹴している。

同氏は、神学及びキリスト教界のクリスチャンは「肉汁の抜けたステーキ」のように「筋だらけでパサパサで、美味しくない!」のだと揶揄する。そして、クリスチャンの人生は「juicyで美味しい」ものでなければならない、と言う。
 

「クリスチャンの人生は、美味しい人生です。これね、最近、いいたとえを思いついたの。ステーキで、ほら、肉汁が抜けちゃったステーキってあるじゃないですか。パサパサの、筋だらけのやつ。ね? 神学だとか、ね、何とかだとか、筋だけなんですよ。あんな何とか神学だとさ、バルトとか、ブルトマンだとかさ、あんなの読んでみなさん、内側が潤されますか? 筋です。美味しくない! 

ステーキが美味しいのは、肉汁が、juicyなステーキが、美味しいんでしょ。そのjuicyさを生み出すのは、聖霊です。聖霊が流れるとき、我々の内側に流れるとき、それが甘さであったり、平安であったり、喜びであったり、私の内側に、神の愛の実体、神の愛のサブスタンスを私の経験にして下さっているわけですよ。それがjuicyなんです。美味しいんです。

美味しいクリスチャンになりましょう! 筋のクリスチャンはもういいから。筋ばっかり…。美味しくない! 我々はjuicyにね、流すんです。美味しく、juicyなオーラを醸すんです。Amen? 」(2:11:43-2:13-27)


 

そういう神との経験、これを我々、味わえば味わうほど、クリスチャンはjuicyになります。freshになります。パサパサじゃなくて、筋々じゃなくて、juicyなクリスチャンになるんですよ。ハレルヤ。それが人に何か潤いを与えるわけ。juicyなステーキ。Amen? 神が食べたいのは、juicyなステーキです。」(2:21:12-2:21:58)


 果たして、このような主張にどんな聖書的裏づけがあるのだろうか?
美味しい」という表現は、当然、食べる主体がいてこそ成り立つものであるため、この文脈では、クリスチャンは誰かに「食べられる対象」だという事になる。

では、信者を「食らう」のは誰なのか。信者を「美味」だとか「不味い」とか判断するのは誰なのか? 信者は誰のために「美味しいクリスチャン」になるべきだと言うのか? Dr.Lukeは、「神が食べたいのは、juicyなステーキです」と言う。しかし、聖書の神はそんなことを信者に一度も要求してはおられない。

聖書が一貫して信者に教えるのは、御言葉に従うことによって、信者が父なる神の戒めを守ることである。キリストの愛の中にとどまることは、ペンテコステ・カリスマ運動の支持者らが言うような「霊のバプテスマ」の中で自己陶酔に陥ることによるのではなく、ただキリストのいましめを守ることによってのみ可能である。

「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)
 
主イエスは、「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:1)と言われる方であり、ご自分の羊を食い物にされることはない。聖霊もそのようなことを信者に求めない。にも関わらず、Dr.Lukeは、こうした御言葉を全て無視して、神が願っておられるのは、信者が神にとって「juicyなクリスチャンになる」ことだと言う。だとすれば、同氏の言う「羊を食する『神』」とは、一体、何者なのか?
 
そこで、真っ先に思い浮かぶのは、次の御言葉である。

「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い気は悪い実を結びます。」(マタイ7:15-17)

「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現れるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを 買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行なわれており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。」(Ⅱペテロ2:1-3)
  
つまり、羊を食らい、なおかつ、羊が「肉汁の抜けた筋だらけのパサパサの肉では不味いから嫌だ」と不平を言い、羊は「肉汁たっぷりのjuicyでfreshなステーキでなければならない」と注文をつける者は誰かと言えば、むろん、羊を食い物にするためにやって来た貪欲な狼以外にはない。つまり、偽預言者である。

従って、Dr.Lukeが、「神」という言葉で指しているのは、自分自身なのである。次稿でも確認するように、Dr.Luke及びKFCは自己を神としているのであって、つまり、自分を満足させる餌食となるために、信者は「美味しいクリスチャンになれ」と言っているわけである。

そんな偽預言者としてのDr.Lukeが、キリスト教神学に嫌悪を催すのは当然であろう。なぜなら、たとえ昨日クリスチャンになったばかりの信者であっても、キリスト教の教義の初歩の初歩に目を通しただけで、人間の罪も認めず、キリストの十字架の贖いも否定し、信者を食い物とみなすDr.Lukeの言説が「滅びをもたらす異端」であり、「自分たちを買い取ってくださった主を否定する」ものだということは、火を見るよりも明らかだからだ。
 
そこで、Dr.Lukeのキリスト教神学に対する憎しみの動機となっているのは、聖書の正統な教義そのものへの憎しみなのだと言える。正統な教義に照らせば、自分の言説がことごとく異端であることがすぐに暴かれると分かっていればこそ、同氏はキリスト教とその教義全体に強い嫌悪と拒否感を示さずにいられないのである。

その背景にあるのは、聖書の御言葉そのものへの憎しみである。同氏は御言葉の意味を可能な限り、歪曲するか、除き去りたいのである。神学は、人が解釈したものとはいえ、聖書本体の形を多少はとどめている。Dr.Lukeは自分自身が本当は偽クリスチャンであればこそ、神学、礼拝、キリスト教全体に向かって、絶えず嫌悪と呪いの言葉を吐かずにいられないのである。



己の欲に従って生きるために聖書の御言葉の二分性を否定する

Dr.Lukeの神学蔑視・軽視の姿勢はサンダー・シングにも合致する。サンダー・シングもまた、聖霊から力を付与されて神の実在との交わりを個人的に楽しむことこそが、信者に最も必要なことであり、それがキリストの証人になる秘訣であって、この単純な生き方を複雑な哲学的教えに変えてしまうような者は、不信仰であり、病にかかって死ぬ、と述べる。サンダー・シングは聖書学者たちを批判して次のように述べる。
 

「彼らの地上的知恵と哲学そのものが、霊感を受けた聖書記者たちの深い霊的意味を知るのを難しくしているのである。彼らは、文体や年代、記者の特徴といった外側の殻ばかりをつつき、「実在」という核は調べずにいる。

 これに対して、真の実在の探求者は、聖書にまったく異なる取り組みをする。彼は実在との交わりのみを願い、いつ、誰の手によって福音書その他が書かれたかというような、ささいなことにはとらわれない。使徒たちが聖霊に動かされて書いた神の言を手にしていること、その真理たる証拠は歴史や論理に拠るものではないことを、彼らは知っている。<略>彼が求めるのは実在のみである。神との交わりの中に彼は真の生命を見出し、神における永遠の満ち足りをみる。
(『聖なる導き インド永遠の書』、p.426-427)

「<略>単純な信仰を持つ人は単純な心の糧を食べて、神の言葉、聖霊から力をいただく。彼らは人を助け起こすことに人生を費やし、完全な健康と幸せ、平和の中に生き続ける。しかし、このような単純かつ普遍的な心理と実在を、複雑な哲学的教えに変えてしまう者は、疑惑や不信仰といった消化不良にかかりやすい。どれほど魅力的にみえようと、このような哲学は栄養過多で心の糧とはならない、それを食べる者は、実在と交わる体験を楽しむこともなく病にかかり、ついには死ぬことになる。」(同上、p.427-428)


確かに、神学の中には無駄なものもあろう。キリスト教界の儀式的礼拝にも無駄はあろう。
 
しかしながら、そうしたキリスト教界の不備を指摘するという意味合いをはるかに超えて、Dr.Lukeやサンダー・シングの言説が持つ重大な危険性は、「実在と交わる体験を楽しむ」とか、「神との経験、これを我々、味わえば味わうほど、クリスチャンはjuicyになります。freshになります。」などと、信者が自分にとって都合の良い、感覚的に好ましい非日常的恍惚体験ばかりを強調することによって、そうした体験の出所を吟味し、それが本当に神から来たものなのか、悪魔に由来するものではないのか、御言葉に照らし合わせて識別する作業まで退けてしまうことにある。

これまでにも、鈴木大拙や、『国体の本義』などを例に挙げて指摘して来た通り、もともと東洋文化の中には、西洋のように分析的・知的に深く考えることを厭い、直観的・行的にものごとをとらえようとする性質がある。

東洋には、知的な分析や、深い考察を「難しい」という一言で退け、全く受けつけようとしない風潮さえある。もっと言うならば、鈴木大拙が述べているように、そのような知性による把握は人間の本性に反するという考えがある。そのため、知的分析や考察に無意識のうちに嫌悪を示す精神性が受け継がれて来たのである。
 

これを要するに、西洋の学問や思想の長所が分析的・知的であるに対して、東洋の学問・思想は、直観的・行的なることを特色とする。それは民族と歴史との相違から起る必然的傾向であるが、これを我が国の精神・思想並びに生活と比較する時は、尚そこに大なる根本的の差異を認めざるを得ない。」「国体の本義」、結語、新日本文化の創造、より抜粋

人間の本質とでもいうべきは、理性的、知性的なものでなくて、むしろ情性的、意欲的なものである。知性はどうしても二分性を根本的に帯びている。それゆえ、表面的になりがちである。すなわち薄っぺらだということになる。これに反して情意的なものは未分的すなわち全一的であって、人間をその根本のところから動かす本能を持っている。人間は行為を再先にして、それから反省が出る、知性的になる。知が行を支配するようになるのは、知がその本質からはなれて、その底にあるものと一つになるところが出なくてはならぬ。」(『東洋的な見方』、鈴木大拙著、岩波書店、p.195)


 そこで、Dr.Lukeやサンダー・シングやペンテコステ理論のように、聖書の御言葉を知性によって分析し、深く考察することなく、ただ「神との交わり」を感覚的・直観的にとらえて楽しむことこそ信仰生活の要であるとする主張は、もともと東洋人の以上のような感性に合致しているため、非常に好ましく響くのである。特に、常日頃から深く物事を考えることを嫌っている人たちには、このような主張は、自己弁明、自己正当化の意味も合わせて、まことに都合が良いのである。

そのような人々は、ペンテコステ理論のような話を聞くと諸手を挙げて賛成し、ほとんど思考停止と言って良い受動性に陥り、今までよりも一層、自分の感覚を中心に全てをとらえるようになり、御言葉に従ってすべての物事を吟味、識別するために、「目を覚ましている」ことをやめてしまう。

その結果、何が起きるかと言えば、「理性的、知性的、分析的」なものを嫌い、「情性的・意欲的、直観的、行的」なものばかりを重視するようになり、常に自分の情と感覚を頼りに物事を把握しようとして、自分にとって感覚的に好ましいものだけを「良い(=正しい)」ものとして受け入れ、自分の感性にとって不快と感じられるものを「悪い(=誤っている)」と決めつけて退けて行くことになる。そうなると当然、物事の判断が極めて主観的、短絡的、幼児的、自己中心的にならざるを得ず、受け入れる物事の範囲も極端に偏り、狭まって行く。判断力も著しく低下して、自分の感性を喜ばせてくれないものにはすげなくそっぽを向きつつ、情と感覚に訴えるしかけさえあれば、安っぽいメロドラマのような作り事の筋書きにも、疑うことなく飛びついては欺かれるということの連続になる。どんな物事をも疑いをもって慎重に吟味し、識別することをやめて、自分の感覚の奴隷となるので、理性・知性のブレーキが全く効かなくなる。

次の御言葉は、そのように自分の感性を満足させてくれる教えばかりを求めて、聖書の真理から空想話へ逸れて行く人々について警告している。

「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(Ⅱテモテ4:3-4)

ペンテコステ・カリスマ運動の言う「聖霊のバプテスマ」や、サンダー・シングの語る様々な英雄譚のような逸話などは、まさに「空想話」の筆頭格に該当する。それは人の五感には心地よく響き、何らかの高揚感や、感動、恍惚感を実際にもたらすかも知れない。だが、最も重要なのは、果たして、それが神から来た真理なのか、それとも悪魔から来た偽りの影響力なのか、という区別である。

東洋思想は、「人間の本質は、理性的、知性的なものでなくて、むしろ情性的、意欲的なものである。」として、聖書の御言葉の二分性に基づく知的な分析や考察が、あたかも人間の本質にかなわないものであるかのように主張する。だが、本当にそうであろうか?

聖書はむしろ、最初から最後まで、人間の情や思いや感覚の方が、よほど欺きに満ちていることを教える。人類に対する悪魔の最初の誘惑は、人間の感覚的欲望に訴えかけることを通してもたらされたのである。

「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」

女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」


そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。

そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかったそれで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。」(創世記3:1-6)

エバが蛇にそそのかされて取った、食べてはならないとされた木の実は、他の木の実に比べても、とりわけ"juicy”かつ"fresh"で、「美味しそう」に見えなかったろうか?

人類が自分の感覚にとって好ましいものを「是」とした時点で、神のロゴスから感覚への転換が人に起きたのである。人は神の御言葉によって生まれ、神に離反するその決定的瞬間が来るまでは、神の御言葉の戒めを守ることによって命を得て生きていた。人を生かしていた命の源は、自分の感覚的満足ではなく、神の御言葉を守り、そのうちにとどまることにあった。しかし、悪魔の誘惑は、人が生きる命の根源を、神の戒めを守ることにではなく、自分にとって何が好ましく感じられるかという感覚的満足(欲)にすりかえたのである。

そうして自分の欲におびき出されて御言葉の外に誘い出された瞬間から、人は神から切り離されて、命の源を失い、自分の欲に従って罪の中を迷いながら生きるしかなくなった。サンダー・シングが言うように、難解な神学や哲学が病と死をもたらしたのではない。人間の感覚に基づく欲望こそが、人に命を与えることなく、かえって罪と死に至らせる原因となったのである。

人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。
愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。
すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。」(ヤコブ1:14-18)

御言葉は人の命の源であり、御言葉はすべてを二分する。神が「光あれ」と言われたことによって光が造られたように、人は神の御言葉によって創造された。その御言葉の切り分けの区別を退けて、人が自分の感覚(欲望)に従って世界を一元化し、自分にとって好ましいものを全て良いものだと判断しようとしたときに、堕落が起きたのである。しかも、悪魔はそのように人が己の欲に従って、神に代わって勝手な判断を下すことを、「あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになる」と言って人類をそそのかしたのである。

<続く>

PR

カルト被害者救済活動の反聖書性について―キリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動④ー

9.十字架の「切り分け」を否定する者は、己を神として神への反逆に至る
  

さて、前稿「カルト被害者救済活動の反聖書性について キリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動③」では、プロテスタントにおける御言葉中心主義を「思い上がりに基づく傲慢な排他主義」として非難することで、聖書の御言葉の否定に至る人々がいることを見て来た。

そして、こうした人々は、プロテスタントにつまづいているのでも、信者につまづいているのでもなく、実際には、聖書の御言葉の持つ「切り分け」や「二分性」につまづいているのであり、とどのつまり、「狭き門」であるキリストの福音そのものにつまづいていることを見て来た。

そうである以上、聖書の御言葉の持つ「二分性」や「排他性」を否定する人々が、やがてキリスト教そのものを拒んで神に敵対するに至るのも不思議ではない。

だが、上記のようにあからさまな御言葉の否定に至らずとも、ペンテコステ運動のように、人間の感覚的陶酔をしきりに強調することによって、「人の五感にとって心地よい福音」を作り出し、御言葉に基づく厳粛な分離や切り分けを曖昧にし、信者が御言葉を守り、御言葉のうちにとどまる必要性をおざなりにする主張も存在している。

キリスト教そのものを破壊することが目的であるかのように、諸教会を訴え、信者を裁判に引きずり出しては、盛んにキリスト教にダメージを与えて来たカルト被害者救済活動が、まさにペンテコステ運動の只中から生まれて来たことは実に興味深い事実である。

カルト被害者救済活動は、ペンテコステ運動を率いる最大の宗教団体であるアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の現役の牧師である村上密氏と、かつてアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に所属し、同教団の信仰生活につまづいて他宗派に去りながらも、依然として、同教団の村上牧師を支持する杉本徳久氏が中心的に率いて来たことで知られる。
 
杉本徳久氏が「神々の風景」という題名のブログを執筆していることなど、様々な点から判断して、同氏が到底、キリスト教の正常な信仰を持っているとは言い難いことを当ブログではすでに幾度も指摘して来た。(おそらくは、「神々」という言葉も、彼ら自身(生まれながらの人間)を指しているのだろうと筆者は推測している。)

だが、同時に、キリスト教界の偽りを告発し、被害者運動とは明確に一線を隠しながらも、杉本氏らとの争いを通じて、信者を裁判に引き込む役割を果たしたKFCのDr.Lukeも、実際には、彼らの活動を補完する役割を果たしたことも、当ブログでは幾度も指摘して来た。(記事「キリスト教界と反キリスト教界は同一である~KFCはどのようにキリスト教界と同一化したか~」参照。)

KFCのDr.Lukeのミニストリーもまた、ペンテコステ運動の深い影響を受けたものであることは、一見してすぐに分かる。Dr.Lukeへのペンテコステ運動の影響は、同氏がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団信徒であったBr.Takaこと鵜川貴範氏をメッセンジャーに据えるよりも前から始まっていた。

そこで、上記の人々は、それぞれに立場は異なっているが、みなキリスト教界に何らかの形でつまづいた過去を持ち、それゆえ、キリスト教界に対して尽きせぬ憎悪と敵意を心に持ちながら、キリスト教界を告発することを生業とし、なおかつ、今日に至るまでペンテコステ運動と深い関わりを持っている点で共通している。
 
同時に、自らは聖書の二分性を否定するか、曖昧にし、御言葉を守っていないにも関わらず、キリスト教界の誤りを糾弾し続けている点においても一致している。

彼らの言動は、すべてにおいて「どっちつかず」の「いいとこどり」である。すなわち、一方では、自ら信者を名乗ることによって、クリスチャンの善良なイメージを大いに利用して、世間の信頼を勝ち得て、人前に栄光を受けようとする。ところが、他方では、キリスト教界に起きる様々な不祥事をあげつらっては、キリスト教界を断罪し、信者の無知をひどく嘲りながら、キリスト教の「不備」や「欠点」を暴き出しては強調し、このの宗教のイメージを貶める。

彼らは、自分には一般の信者以上に物事が分かっていると考え、信者を見下しては、断罪するか、あるいは上から手を差し伸べることにより、常にキリスト教界に対して優位に立とうとするが、結局のところ、彼ら自身が、全く御言葉を守っておらず、その中にとどまっていないのである。

KFCの「セレブレーション」の内容の偽りに関しては、東洋思想に関する論稿が終わり次第、分析を進める予定であったため、今まで筆者は内容を詳細に振り返ることがなかったが、しかしながら、改めて内容を分析するまでもなく、以下のような標題を見るだけで、ここまで病状が進行していたのかと驚くばかりである。善良なクリスチャンには、この集会がどれほどひどく聖書から逸脱しており、どんなに恐ろしい結末へ向かっているかが見て取れよう。

以下は杉本徳久氏の「神々」と同じく、極めて恐ろしい告白である。これこそ御言葉の二分性を否定し、キリスト教の「病理」を主張する者たちの行き着く先であり、こうしてアダムを神格化して自ら神と名乗ることこそ、ペンテコステ運動の霊的な本質なのだと言えよう。

悪魔の願望は、神を押しのけて、己を神とすることにある。以前、筆者は記事「カインの城壁 旧創造を弁護するために現実を否定して滅びを選ぶというグノーシス主義者の末路」において三島由紀夫の末路と重ねて、KFCの行く末について述べたことがある。下記のような告白をDr.Lukeと共に行った者たちには、厳しい末路が待ち受けていることであろうと思う。筆者はとうにこの集会を去っていることを改めて神の憐れみに満ちた采配として喜びたい。
  
「そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの芽が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。」(創世記3:4-6)
 

  

ここまで「病理」が進行すると、
もはや解説も不要であろう。
ローカルチャーチの教えとペンテコステ運動と
心理学とサンダー・シング等々、すべての教えの
「いいとこどり」をした結果の結論である。
むろん、聖書についても「いいとこどり」をしたのである。
 このメッセージの冒頭で、ルーク氏はキリスト教界の
罪による癒着という「病理」を批判しているが、
最後には自ら同じ罠に落ちていることに気づいていない。
すなわち、「神が人となって下さった」点だけを強調する
ことにより、キリストを罪人のレベルにまで引き下げ、
人(アダム)が十字架の死を通らなければ、
神に受け入れられない事実を巧妙に覆い隠している。
アダムの神格化という、ペンテコステ運動と
ローカルチャーチの誤りを引き継いで、ついに
自ら神と宣言するにまで至ったのは恐ろしいことである。

 
  



10.キリスト教の「二分性」を否定する者は、「唯一の神」を否定して、主客の区別を否定する。そして、知性による全ての区別を廃した「善悪未分化の母なる混沌」への「嬰児的回帰」を主張する。


さて、これからいよいよ上記の恐ろしい各種の運動のように、御言葉の「二分性」を否定し、十字架の切り分けを曖昧にする思想が、「神は唯一である」という聖書の真理に逆らって、自ら神になりかわろうとする試みであり、その根本に横たわるものは、聖書の神に反逆する東洋思想(グノーシス主義)であることを見ていきたい。
 
さて、聖書は初めから最後まで分離と切り分けに満ちている。天と地、光と闇、神と悪魔、造物主と被造物、堕落したこの世と来るべき世、霊と肉、男と女、父と子・・・。

聖書の御言葉の持つ二分性は本来的にすべて「神は唯一である」という事実に由来する。すなわち、神は絶対者であって、創造主であり、すべてを切り分ける主体である。他方、唯一の神以外の全てのものは、すべて神によって「造られた者」であり、神に「知られる者」という客体である。
 
このように、「神は唯一である」という事実が聖書のあらゆる「二分性」の根源となっている。どこまでも絶対者である主なる神と、それによって造られ、統治される客体である被造物との主客の区別が、キリスト教の「二分性」の根源なのである。

御言葉は、ただ創造主である神と、神によって造られた被造物との区別を生じさせるだけでなく、被造物の堕落後、キリストの十字架を通して、神に属する新創造と、滅びに定められた旧創造を峻厳に区別する。

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえ刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」(ヘブル5:12)

神は唯一です。また、神と人との間の仲保者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(Ⅰテモテ2:5)

わたしが神である。ほかにはいない。

 わたしのような神はいない。」(イザヤ46:9)

「私は、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、である。
  あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
」(出エジプト20:2-3)

ところが、すべての異端思想は、「神は唯一であり、神と人との仲保者も唯一である」という聖書の事実に激しく逆らう。それは、異端思想は、神の地位を奪おうとした悪魔の欲望を正当化し、悪魔とそれに従う暗闇の勢力が神に対して罪を犯したために神と断絶し、神に永久に見捨てられて滅びに定められているという事実を覆い隠して、主と客を転倒させて、神を罪に定め、悪魔と悪霊たちが自分たちを無罪放免して名誉回復するために作りだした秩序転倒の教えだからである。

そこで、堕落した暗闇の勢力は、神に反逆した自分たちが未来永劫、破滅を運命づけられているという事実を否定し、これを人の目からも覆い隠すために、聖書をさかさまにして、「唯一の神」という聖書の真理を、「傲慢で愚かな悪神の思い上がり」として否定する。そして、神と人との唯一の仲保者であるキリストの十字架をも退けて、聖書の御言葉への信仰を否定して、キリスト教そのものを傲慢な排他主義だと主張して退ける。

今日でも、異端の教えは、キリスト教の持つ「二分性」を「傲慢さ」や「狭量さ」として非難して、御言葉による十字架の切り分けが、愚かで荒唐無稽なカルト的思考であるかのように信者に思わせることで、御言葉を退けて、救われていないこの世を擁護し、神に反逆して堕落した罪あるものを無罪放免し、神を押しのけて悪魔を名誉回復しようとするのである。カルト被害者救済活動は、あたかもキリスト教を装って始まったが、実際には、上記のように、キリスト教そのものに根本的に敵対する運動であることはすでに述べた通りである。
 
当ブログではこれまで、すべての異端思想の根源は、グノーシス主義思想にあることを述べて来たが、グノーシス主義の教えが、自らを唯一の神とする創造主を「悪神」として非難していることを思い出したい。グノーシス主義思想は、この目に見える物質世界を作った神は「狂った悪神」であるとし、この世を不幸に陥れている元凶であり、思い上がりゆえに「妬む神」となって「自分こそが唯一の神である」と宣言したのだとして非難する。たとえば、次のような記述は、グノーシス主義思想の基本を解説したものである。
 
 

グノーシス主義はこの世が悪の支配にゆだねられている理由を、この世を作った神が実は「偽の神」であって、それゆえに「悪の宇宙」、狂った世界が生まれた、と説明する。それはどういう意味かというと、もともと至高神(「真の神」)の作った世界はプレーローマ(充溢)した世界であったが、この至高神のアイオーン(神性)の一つであるソフィア(知恵)が、デミウルゴスDemiuruge(プラトンの「ティマイオス」に登場する造物主)あるいは、ヤルダバオートYaldabaothという狂った神を作った。ヤルダバオートは自分の出生を忘れ、自分こそ唯一の神だと錯覚している。このヤルダバオートの作った世界こそ悲惨に満ちた人間の生存している悪の宇宙である。従って、グノーシス主義はこの狂った宇宙に叛旗を翻す。(反宇宙主義)

グノーシス主義~悪の臨在
より引用



東洋思想には、「唯一の神」を否定するための物語があるわけではないが、事実上、グノーシス主義と同じように、唯一の神という概念が否定されている。

以前にも、当ブログで引用したことのある鈴木大拙氏は、著書『東洋的な見方』(岩波文庫)の中で次のように述べている、すなわち、西洋思想における「二分性」の原則は、知性を発展させて文明の発達に寄与はしたはいいが、それは同時に、力の論理を生み、果てしない分裂と闘争、疎外に結びついたと。そして、鈴木氏はこの悪しき「二分性」の源が、キリスト教にあるとみなすのである。
 
「ラテン語でdivide et imperaというのがある。英語に訳すると、divide and ruleの義だという。すなわち「分けて制する」とでも邦訳すべきか。なんでも政治家軍事上の言葉らしい。相手になるものの勢力を分割して、その間に闘争を起こさしめ、それで弱まるところを打って、屈服させるのである。ところが、この語には不思議に西洋思想や文化の特性を剴切に表現している。

 分割は知性の性格である。まず主と客とをわけるわれと人、自分と世界、心と物、天と地、陰と陽、など、すべて分けることが知性である。主客の分別をつけないと、知識が成立せぬ。知るものと知られるもの――この二元性からわれらの知識が出てきて、それから次へ次へと発展してゆく。哲学も科学も、なにもかも、これから出る。個の世界、多の世界を見てゆくのが、西洋思想の特徴である。

 それから、分けると、分けられたものの間に争いの起こるのは当然だ。力の世界がそこから開けてくる。力とは勝負である。制するか制せられるかの、二元的世界である。」(p.10-11)
 
鈴木大拙氏は、西洋思想における知性による分割の「二分性」の根源はキリスト教にあり、そして、この二分性こそ、「キリスト教の著しい欠点」であると主張する。

「西洋文化といえば、ギリシャ、ローマ、ユダヤ的文化の伝統ということになる。その不完全さは、宗教の上に最も強くあらわれる。自分はキリスト教をみだりに非難するのでなく、また悪口するのでもない。これはいうまでもないところだが、キ教には、二分性から来る短所が著しく見え、それが今後の人間生活の上に何らかの意味で欠点を生じ、世界文化の形成に、面白からぬ影響を及ぼすものと信じる。キ教はこれを自覚して、包容性を涵養しなくてはならぬ。

 二分性から生ずる排他性・主我性などは、はなはだ好ましからざる性格である。二分性を調節して、しかもそれを包含することになれば話はわかるが、これがないと、喧嘩が絶えない。<中略>

 西洋では造物主と所造者とを峻別する。造物主をゴッドという。天地万物はこの能造者から出て来る。造られて出る。そうして能造者自身は造られないものである。絶対者である。それがまた所造者として統率している。それから出る命令は至上命令で、これを乗り越えるわけにいかぬ。二分性は人間に与えられたところのもので、これから脱離不可能だ。能造と所造とを分けてかかると、それから次々とあらゆる対蹠が出てくる。自分と汝、善と悪、罪人と聖者、黒と白、はじめと終わり、生と死、地獄と極楽、運と不運、味方と敵、愛と憎しみ、その他、あらゆる方面に対立が可能になる。こんなあんばいにして、まず二つに分かれてくると、それから無限の分裂が可能になってくる。その結果は無限の関係網がひろがって、人間の考えが、いやが上に紛糾する。手のつけられぬようになる。ある意味で、われらは今日のところ、この紛糾せる乱麻の間中に出没している。それで、手や足やが、彼方にひっかかり、此方にひっかかりって、もがけば、またそれだけ、幾重にもまつわってくるという次第である。一遍ひっかかると、手がつけられぬといってよい。枝葉がはびこると、自然に根本を忘れる。二分性の論理はそういうことになるのが、常である。」(p.169-171)
 
鈴木氏によるキリスト教の持つ「二分性」への非難は、今改めて読んでみると、まさにこれまで当ブログ記事で示してきたような、「キリスト教の排他性」を非難して、キリスト教から「脱福」した元信者や、カルト被害者救済活動の支持者らによる信者に対する非難の言葉にぴったり重なるように思われる。特に、元信者によるキリスト教に対する非難の言葉を思い出したい。

「キリスト教そのものに本質的な精神病理があると愚考しているのです。」

「聖書絶対主義と申しますか、よく言えば「福音的」な信仰と申しますか、そういう発想のただ中にそもそも自己愛的な「排除の病理」を看取するのですよ。」
 
鈴木氏もこうした人々と同様に、キリスト教の「二分性」をあるまじき「排他性」「主我性(言い換えれば、自己愛!)」として非難し、この「二分性」こそ、キリスト教を「不完全」にしている最大の欠点であるとみなし、キリスト教はこの「二分性」を克服して、もっと「包容性」を補わなければならないと言うのである。

鈴木氏のキリスト教に対する非難の言葉を見ると、今日、福音を拒んでキリスト教に敵対している人々の主張が、何ら新しいものではなく、彼らの使う「自己愛」や「ナルシシズム」や「病理」といった言葉でさえ、古くからあるキリスト教批判の焼き増しに過ぎない事実が見えて来る。
 
こうした人々のキリスト教に対する非難の根源となっているのは、「主客の区別」、すなわち「創造主」と「被造物」との区別、「知る者」と「知られる者」との区別などの「二分性」である。そして、彼らはこの主客の二分性を撤廃することによって、キリスト教はその残酷な排他性という著しい欠点(もしくは「病理」)を克服せねばならない、と主張するのである。

だが、彼らの言うように、主客の区別を撤廃することは、被造物に過ぎない者が、自らを造った神に対して、神であることをやめよと言うのと同じであるから、とてつもない傲慢であり、まさに神に対する反逆なのだが、彼らはそのことは全く理解しない。

鈴木氏は、聖書の「唯一の神」から生まれる主客の区別を「キリスト教の不完全性」として退ける一方で、東洋思想の長所と称して、神と人との断絶が生じる前の「主客未分化」の状態へ回帰するべしと提唱する。すなわち、無限の分離を生み出すだけの知性に基づく父性原理にではなく、善悪の区別なく全てを包容する母なる混沌へと回帰せよというのである。

「主客未分化(善悪未分化)の母なる混沌」――これこそ、あらゆる種類のグノーシス主義が一様に原初のユートピアとして回帰を唱えるものの正体である。

さて、鈴木氏の提唱する「主客未分化」の状態とは、神が「光あれ」と言われる前の状態、すなわち、光と闇とが分離されない状態、つまり、善も悪もなく、神と、神に反逆して堕落した永遠の犯罪者である悪魔と暗闇の勢力との区別すらもない混沌とした状態である。

同時に、鈴木氏の言う、神が「光あれ」と言われる前の未分化の状態とは、分割する知性によってあらゆるものが識別される前の状態、すなわち、人が自分自身と、自分を取り巻く世界を明確に区別し、理性によって周囲の物事を分析しわきまえる必要が生じるより前の状態を指している。これは人間の知性による一切の分析や識別自体が存在しない状態である。
 
あたかも暗い母胎のような場所で、人が嬰児のごとく、受動的に世界に包まれて養われており、自分が誰であるのか、これから何が起きようとしているのか、自分を包んでいる世界とは何なのか、どこまでが自分で、どこからが自分でないのか、それさえ分からずに、ただ世界と一体化して無防備に混沌に身を委ねて漂う、一切の自我意識が生じる前の、無意識のような、忘我の境地のような状態を指している。

さらに、重要なのは、この混沌が「母なるもの」と女性形で呼ばれていることである。鈴木氏の言う知性による区別が存在しない「主客未分化(善悪未分化)の混沌」、これこそ、あらゆる東洋的な「母なるもの」の正体であり、グノーシス主義思想が唱えるユートピアとしての「原初回帰」なのであるが、これを説明するために、長いが、鈴木氏の言葉をそのまま引用したい。

「東洋民族の間では、分割的知性、したがって、それから流出し、派生するすべての長所・短所が、見られぬ。知性が、欧米文化人のように、東洋では重んぜられなかったからである。われわれ東洋人の真理は、知性発生以前、論理万能主義以前の所に向かって、その根を下ろし、その幹を培うところになった。近ごろの学者たちは、これを嘲笑せんとする傾向を示すが、それは知性の外面的光彩のまばゆきまでなるに眩惑せられた結果である。畢竟ずるに眼光紙背に徹せぬからだ。

 主客未分以前というのは、神がまだ「光あれ」といわれなかったときのことである。あるいは、そういわんとする刹那である。この刹那の機を捕えるところに、東洋真理の「玄之又玄」(『老子』第一章)なるものがある。この玄に触れないかぎり、知性はいつも浮き足になっている。現代人の不安は実にここから出て来る。これは個人の上だけに表れているのではない。国際政治の上にもっとも顕著な事象となって、日々の新聞に報ぜられる。

 「光あれ」という心が、神の胸に動き出さんとする、その刹那に触れんとするのが、東洋民族の心理であるのに対して、欧米的心理は、「光」が現れてからの事象に没頭するのである。主客あるいは明暗未分化以前の光景を、東洋思想の思想家である老子の言葉を借りると、「恍惚」である。荘子はこれを「混沌」といっている。また「無状の状。無象の象」(『老子』第十四章)ともいう。何だか形相があるようで何もない。名をつけると、それに相応した何かがあるように考える。それで、まだ何とも名をつけず、何らの性格づけをしないとき、かりに、これをいまだ動き始めぬ神の存在態とする。老子は、またこれを「天下谿(てんかのけい)」とも「天下谷(てんかのたに)」ともいう(第二十八章)。谷も谿も同じだ。またこれを「玄牝(げんぴん)」ともいう。母の義、または、雌の義である。ゲーテの「永遠の女性」である。これを守って離れず惑わざるところに、「嬰児(えいじ)」に復帰し、「無極(むきょく)」に復帰し、「樸(はく)」に復帰するのである。ここに未だ発言せざる神がいる。神が何かをいうときが、樸の散ずるところ、無象の象に名のつけられるところで、これから万物が生まれ出る母性が成立する。分割が行ぜられる。万物分割の知性を認識すること、これもとより大事だが、「その母を守る」ことを忘れてはならぬ。東洋民族の意識・心理・思想・文化の根源には、この母を守るということがある。母である。父ではない、これを忘れてはならぬ。

 欧米人の考え方、感じ方の根本には父がある。キリスト教にもユダヤ教にも父はあるが、母はない。キリスト教はマリアを聖母に仕立てあげたが、まだ絶対性を与えるに躊躇している。彼らの神は父であって母ではない。父は力と律法と義とで統御する。母は無条件の愛でなにもかも包容する。善いとか悪いとかいわぬ。いずれも併合して「改めず、あやうからず」である。西洋の愛には力の残りかすがある。東洋のは十方豁開である。八方開きである。どこからでも入ってこられる。

 ここに母というのは、わたしの考えでは、普通にいままでの注釈家が説明するような道といったり、また「ゴッドヘッド」といったりするものではないのである。もっともっと具体的な行動的な人間的なものと見たいのだ。しかし今は詳説するいとまをもたぬ。」(p.13-14)
 
以上の鈴木氏の言葉を読めば、同氏がキリスト教の持つ「二分性」(あるいは「分割する知性」そのもの)を、「律法と義によって統御する」狭量な「父性原理」として退け、むしろ、善悪の切り分け自体が存在しない、何もかもを無条件に許し包容する(知性発生以前の)「母性原理」の境地に嬰児的に回帰することが、東洋思想の醍醐味であり、長所であると述べていることが分かるのである。

だが、実は、このような「母なるものへの回帰」は、大変、恐ろしい思想なのである。

 



11.聖書の原則である「分離」や「切り分け」を否定して、主客未分化の「母なる混沌」への「嬰児的回帰」を提唱する思想は、個人を全体にからめ取り、離脱を許さない恐ろしい支配を生む。

「主客未分化」、「善悪の区別のない母のような包容性」とは、一体、何を意味するのか。
「受容」や「包容」と言った甘い言葉の響きに欺かれることなく、「人が永遠に胎児のままで母胎から抜け出られない世界」とはどういうものか、想像してもらいたい。

「分割する知性が発生する以前の善悪未分化の状態」とは、人が自分で物事を考えることも、識別することもできず、むろん、行動や選択の自由もなく、自己決定権というものが一切、存在せず、ただ与えられるものを無条件に受け入れて、自分を何者かに完全に委ねて明け渡し、自分よりもはるかに強い何者かに包み込まれ、支配されてしか、生きられない状態を意味する。

それは、「母なるもの」の支配から決して人が分離することのできない、永遠に離脱の自由のない、がんじがらめの世界である。

これが決して行き過ぎた表現でないことは、東洋思想に基づいて作られた戦前の日本の国家主義が、個人が共同体(家族、社会、企業、国家)から離脱する自由を一切認めない恐ろしい思想であったことによく表れている。

それは、「神と人との断絶はない」(神と人とが和合している)という思想ゆえに、生まれて来た発想であった。

すなわち、神と人との断絶を認めず、人が神によって造られた被造物であり、なおかつ、堕落しているがゆえに神と切り離されているという聖書の事実を認めないと、主客の区別が消滅し、その結果、全体と切り離された個人という概念も否定されるのである。そうなると、個人として認められない人間は、自分を取り巻く環境から離脱する自己決定権を永久に奪われることになるのである。(記事「東洋思想とは何か。~その柱は何を再建しようとしているのか~」参照。)

こうして、東洋思想が「分離」や「切り分け」を悪いものであるかのように否定して、個人としての人間の自己決定権をも退けて、切り分けの存在しない状態である「善悪未分化」「主客未分化」の「母なる混沌」への「嬰児的回帰」を目指すのに対し、聖書の原則は常に、人が自らの知性を完全に働かせて、大人として能動的に識別し選択する「分離」や「切り分け」を奨励する。
 
聖書には「分離」や「切り分け」を否定的にとらえる発想はない。神に属さないものとは「分離せよ」というのが、聖書の教えの基本である。

不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。
 キリストとべリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。
 神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。
「わたしは彼らの間に住み、また歩む。
 わたしは彼らの神となり、
 彼らは私の民となる。
 それゆえ、彼らの中から出て行き、
 彼らと分離せよ、と主は言われる。
 汚れたものに触れないようにせよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 わたしはあなたがたの父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる、
 と全能の主が言われる。」(Ⅱコリント6:14-18)


キリスト者は、この世からの分離によって、キリストの霊的統治の中に召し出された者たちである。キリストと共なる十字架の死を通して、自らの古き自己に死んで、肉なる家族からも分離を遂げて、神の霊的な家族へと加えられた。このように、キリスト者の信仰の歩みは絶えざる「エクソダス」であり、「分離」であって、その目的は「出て来た故郷」に戻ることには決してない。

聖書の分離の原則は、母胎のような未分化の混沌への回帰とは正反対であり、「父母からの分離」も、聖書の原則の一つである。「それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。」(マタイ19:5)

ここでイエスの語られた御言葉は、男女の結婚を指しているのみならず、キリスト者の信仰の歩みにもあてはまる。つまり、人はキリストへの信仰を持つことにより、生まれながらの自分の出自に死んで、生まれ落ちた家庭を離れ、神の霊的な家族の一員として加えられ、キリストの花嫁なるエクレシア(教会)として召されるのである。信者が教会として召されることは、この世からの分離なくしては決して成り立たない。

ヘブル書11章には、信仰の先人たちの地上での歩みがことごとく神に属さないものからの絶えざる「分離」であったことが記されている。

「信仰は、望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。
 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟りしたがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。

「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。」
「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。」
「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造りその箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。」
「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました
 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続する遺作やヤコブとともに天幕生活をしました
 彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。」
「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み
はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。
 彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。
 信仰によって、彼は王の怒りを逸れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。
信仰によって、初子を滅ぼす者が彼らに触れることのないように、彼は過越と血の注ぎを行ないました
 信仰によって、彼らはかわいた陸地を行くのと同様に紅海を渡りました。エジプト人は、同じようにしようとしましたが、のみこまれてしまいました。」


「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥とはなさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」(ヘブル11:5-16)

このように、「分離」や「切り分け」は、キリスト教から決して外すことのできない大原則であり、信者はこの御言葉の切り分けの機能に基づいて、何が神の御心であり、何がそうでないのかを自ら識別する。そして、神に従う道を選び取るために、堕落したこの世の故郷と自ら訣別して、まだ見ぬ天の故郷へ向けて旅立って来たのである。

しかしながら、今日、キリスト教にも、御言葉の「分離」や「切り分け」を巧妙に否定する異端思想の危険が迫っている。東洋思想における「何もかも包含する母の愛」なるものが、あたかもキリスト教のような仮面をつけてこの宗教に入り込み、「神は愛だから罪人を裁いたりなさらない」などと言って、人の罪を否定して、神と人との断絶を否定したり、神の裁きを否定したりしている。(記事「命の道と死の道――狭き門と広き門――偽りの教えの構造(1)」参照。) あるいは、ペンテコステ運動のように、御言葉の切り分けを曖昧にして、信者が自ら霊的な識別力を放棄して、恍惚状態に受動的に身を委ねることを奨励するような教えが流行している。

東洋思想は、「主客未分化」や「すべてを包含する母なるもの」などの言葉で、神と人との断絶を否定し、光と闇とが分離される前の(悪魔が罪を犯して神に反逆する前の)状態への回帰を主張する。こうして、キリストの十字架を介さずに、「主」である神を退けて、生まれながらの人間が神に至る道を見つけようとする。

このような思想はあらゆる点から見て反逆的なのであるが、何よりもまず、被造物である人間が「神に造られたもの」であって、神に「知られる者」という客体であるという事実を否定する点で、反逆的である。そして、被造物は、自らを造った神に従うのが当然であるという秩序をも否定する。そして、「目に見えるもの」と「見えないもの」の秩序を逆転し、主と客との立場を逆転して、自分が「主」となり、神になり、創造主の神秘を極めようとする。

こうして、東洋思想は、グノーシス主義と同様に、聖書のまことの神を退けて自ら神になろうという悪しき願望を述べるのだが、その反逆的な動機の悪質さを隠すために、「キリスト教は残酷で排他的で不完全な宗教だ!」とか「包容性が足りない!」とか「キリスト教の二分性は争いを助長する!」とか「キリスト教の信者の主我性は自己愛だ!」などと、ありとあらゆる方法で聖書の二分性を非難して、何とかして善悪の区別を廃し、神が唯一であるという聖書の事実を否定して、神に呪われて退けられた堕落した勢力をもう一度、復権し、神にまで至らせようと試みるのである。

その主客転倒(主客未分化ではなく主客転倒!)の試みが、東洋思想においては「善悪未分化の状態である母なる混沌への回帰」となって現れ、グノーシス主義思想においては「唯一の神」を宣言する創造主を「傲慢な悪神」として貶めて断罪するという考えになって現れるのである。

こうした思想を信じる人々は、自ら聖書の御言葉を曲げて神に反逆し、神になりかわろうとしているのであるが、その反逆の意図を隠すためにこそ、「キリスト教の危機」をしきりに訴えては信者の心を揺さぶり、キリスト教を「不完全で短所だらけの排他的で病理的な宗教」として印象づけようと努力し、キリスト教の教義や、聖書の御言葉に立脚した信仰生活が、あたかもカルト的・反人間的な思考に基づくものであるかのように描き出すことで、聖書の御言葉の信用を毀損し、聖書の御言葉の真実性を信者に疑わせて、「思い上がって狭量な信仰」に対する自己反省を迫り、十字架における「切り分け」を否定することで、本来、救われるはずのない人々、罪に定められている堕落した世界を「救済」しようと試みるのである。

結局、こうした人々は、キリストの福音を否定して、罪の悔い改めもなく、キリストの十字架の贖いを信じることもなく、アダムに対する十字架の死の宣告を受け入れることもなくして、誰もがありのままで救われ、神に至ることができるようなヒューマニスティックな「広い道」をよこせと叫んでいるのである。しかも、聖書の御言葉を否定して、自ら神になりかわろうとする忌まわしい欲望を、「キリスト教によって被害を受けた被害者を救済する」などと述べて、人類愛や弱者救済などの美辞麗句で覆い隠そうとしているのである。

これらの思想は、形は違えどその主張の根幹は同じであり、要するに、その根底には、聖書の神に対する反逆の思想がある。このような思想こそ、神に対する「高慢」と「自己愛」と歪んだ「ナルシシズム」の「病理」として非難されてしかるべきであろう。

だが、鈴木大拙のように、キリスト教とは関わりのない他宗教の信者がそのような批判を繰り広げるならば、まだしも理解できるが、キリスト教の内側から、キリスト教に偽装して、そのように福音を曲げる主張が生まれて来ることには驚きを禁じ得ない。

こうした人々を生む土壌となっているのが、カルト被害者救済活動であり、さらに、このカルト被害者救済活動を生み出す母体となっているものが、ペンテコステ運動である。

そして、ペンテコステ運動も、御言葉の切り分けを否定して、生まれながらの人を神に至らせようとする聖書に対する反逆思想の土壌となっていることに注意しなければならない。(たとえば、「偽キリスト」現代における背教:「人が神になる」という偽りの教え---ペンテコステ・カリスマ運動の場合―」参照。)
  
このような主張をする人々は、たとえクリスチャンを装っていたとしても、その思想形態から判断するに、とてもではないが信者とは呼べない。むしろ、こうした人々は、十字架の切り分けの存在しない東洋思想(グノーシス主義)をキリスト教の中に持ち込んで、キリスト教を内側から乗っ取り、この宗教からあらゆる区別を撤廃することで、キリスト教を全く異質なものへ変質させようという大変、危険な試みを推進しているのだと言えよう。

だが、こうした異端思想がどれほど流行しようとも、「律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしい」(ルカ16:17)とイエスが言われた通り、聖書の御言葉の真実性が少しでも揺らいだり、キリストの十字架の「分離」や「切り分け」が消滅することは決してない。

たとえキリスト教界の中に、悪党のような嘘つきが入り込み、どれだけ声高に偽りの福音を叫んだとしても、聖書の御言葉は永遠に堅固として不変であり、人間の勝手な必要に応じて変えることはできず、まして堕落した時代の要請に基づいて変えることはできない。

従って、どんな理屈を用いていたとしても、十字架の分離を否定し、神に呪われた旧創造を無罪放免しようとする人々は、聖書の事実に逆らうことによって、神に敵対しているのであり、その試みは、歴史を振り返っても分かる通り、最期は悲惨な自滅に終わるであろう。

聖書はこのような人々の考え方に対して言う、

ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている
 陶器師を粘土と同じにみなしてよかろうか。
 造られた者が、それを造った者に、
「彼は私を造らなかった。」と言い、
 陶器が陶器師に、
「彼はわからずやだ。」と言えようか。」イザヤ29:16)
 
  「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、
多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。
彼らの 思いは地上のことだけです。

けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
キリストは、万物をご自分に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のかたらだと同じに変えてくださるのです。」(ピリピ3:18-21)

 さて、次回は、「母なる混沌」のもたらす支配の恐ろしい本質により迫って行きたい。

<続く>


聖霊運動についての補足

 ところで、次の話題に移る前に、私がここで第三の波、ペンテコステ・カリスマ運動をひっくるめて非キリスト教であるとみなしていることが、物議をかもすかもしれないので、それについてお断りを入れておきたい。

 記事を読んで、私を次のように非難する人がいるかもしれない、「あなたは自分も聖霊派で信仰を持ったのに、聖霊派の信仰を一概に否定するつもりなのか」と。けれども、私はそんな主張を展開したいのではない。私は確かに聖霊派の枠組みの中で信仰を持ち、バプテスマを受け、彼らの言う聖霊体験にもあずかった。しかし、それが聖霊派の教会の中で起こった出来事であったからと言って、すべて間違っており、無効であったとは考えないし、聖霊派の牧師から洗礼を受けたために、その洗礼は無効であり、受けなおすべきだとも思わない。

 私がここで取り上げているのは、個々の信者の信仰の真偽ではなく、あくまで聖霊運動が打ち出す一般的教説とプログラムの問題性なのである。聖霊派の中にも真の信仰を持った信者は当然、いるであろう。そのことまで否定するつもりは私にはない。個人がイエス・キリストを信じ、御言葉に従って歩んでいくならば、たとえ彼を取り巻く環境がどうあろうとも、その信者の決断は神の御心にかなったものとして祝福されたものとなるだろう。
 どのような教団教派の中であろうと、あるいは教会の枠組みの外であろうと、主は一人ひとりの信仰に応じて働いて下さる。神にとっては教団教派の枠組みなど全く問題ではない。だから、ペンテコステ・カリスマ運動が仮にこの先、どれほど過激化し、どれほど深刻なカルト化現象を引き起こしたとしても、それはその運動の将来が絶望的であるというだけの話で、個々の信者の中には、立派な信仰を持つ人々も当然存在するであろうし、またこの先、現れるだろう。

 繰り返すが、私は聖書に記された聖霊降臨の出来事が今日も起きうるものであること、聖霊の賜物が存在すること、異言、預言が存在し、御言葉による超自然的な癒しや奇跡などが今日も起きうるものであることを否定するつもりはない。そのような超自然的現象が起きているところがすべて非キリスト教だと決め付けるつもりもないし、聖霊のバプテスマを信じているから、あるいは、「ペンテコステ的現象」が観察されたから、一概に拒絶し、異端だと決め付けることは、それもやはり現象に頼った浅はかな見方であると思う。

 問題なのは、聖霊運動推進者たちが、ただ聖霊のバプテスマを、回心とは別個の体験としてとらえて、十字架にさらに何かを付け加えた段階的な祝福を唱えていることだけではない。問題は、彼らが超自然的な現象や、超自然的な体験を、個々の一過性の祝福や恵みとしてとらえるのではなく、それを一つの類型と考えて、万人にあてはまり、かつ、いつでもどこででも繰り返しうるプログラムとみなして唱道し、集会等において、おびただしい回数、実践していることなのである。そうなると、そのプログラムは私たちを解放するのではなく、むしろ、拘束するものへと変わる。

 カルト被害者救済活動についても同じことが言えるのだが、たとえば、私たちのうちの誰かが、ある日、家に空き巣に入られたとしよう。被害はかなり深刻であった。当然、それ以後、私たちは家のセキュリティを強化する。けれども、一回、空き巣に入られたからと言って、私たちは残る全生涯を空き巣撲滅運動に捧げ、全国各地の空き巣被害のニュースを聞く度に、現地へ飛んで被害者の救済につとめたりするだろうか。そんな人がいたとすれば、その心理は何かしら不自然だと誰でも感じるだろう。
 同様に、一度、カルト被害に遭ったからと言って、残る全生涯をカルト撲滅運動に捧げるという発想にも、同じ異常性(強迫反復的なとらわれ)が見て取れるのである。

 イエスが(旧約時代の預言者が)死人を復活させた、という聖書の記述を私は否定しない。また、今日(からし種一粒ほどの信仰があればの話だが)、キリスト者には、パウロがまむしを腕から払い落としたように、毒物の害を受けず、病人を癒し、あるいは死人をも甦らせる力さえ与えられているだろうことも信じる。それは次の聖句の通りである、「信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」(マルコ116:17-18)。
 しかし、私たちは、イエスが死人を復活させ、病人を癒し、その力が今日のキリスト者にも与えられているという記述を文字通り信じていることをただ証明したい、というだけの理由で、毎日、自分も病人を癒し、死人を復活させるべく、病室や霊安室を巡り歩いたりすべきであろうか? イエスが悪霊を追い出された記述が聖書にあるからといって、毎日、自分も悪霊の潜んでいそうな家の片隅やその他の場所に向かって悪霊追い出しの祈りをしたりすべきであろうか?

 私たちは、繰り返せない時空間の中に生きていることを自覚し、今、何が主の御心であるかに耳を澄ますべきであるし、また、今しか味わうことを許されていない恵みを存分に受け取り、楽しんでよいのである。神が起こして下さる奇跡は、本来、繰り返せない一過性の出来事であり、私たちの人生に与えられる固有の恵みであるはずである。しかし、そのような奇跡を常習化して、手っ取り早く、いつでも、どこででも、引き起こそうとするプログラムがあれば、私たちはそれを警戒すべきである。
 人間側のニーズに応じて、イエスの御名を用いて、繰り返し奇跡を引き起こそうとすることは、主の御名をみだりに唱えることを意味し、また、神を試す行為である。そのように、みだりに主の御名を濫用する、パターン化された各種の超自然的体験のプログラム(神癒、預言、奇跡、いやし、各種の超自然現象)を推進しているのが聖霊運動であるのだが、そのようなプログラムにはまってしまうと、私たちは人生の貴重な時間をパターンの繰り返しという退屈な作業に浪費していくことになる。

 ペンテコステ・カリスマ運動、第三の波運動が華々しく打ち出している神癒、預言、悪霊追放の超自然的プログラムを実行している信奉者たちは、それらの事柄が繰り返せない時空間内で一過性のものとして与えられる恵みであることをほとんど考慮していない。この運動に関する書物を読めば、そういう超自然的な出来事は、まるで特定の時間・場所で起こった一度限りの物語のように描写されているが、ところが、実際にそれが現場で推進される際には、運動の推進者・信奉者たちは、まるでテレビゲームの戦闘を繰り返すようにして、神癒、預言、悪霊追放などを日常的に実行し続けているのである。
 たとえば、信者達が集団で、何時間もぶっ通しで患者を拘束して悪霊追い出しの祈祷を続けた挙句、患者が亡くなった。神癒を信じるがゆえに、医学的治療を拒否した患者が、症状が悪化し、後遺症が残った。そのような例は、すべて、奇跡をパターン化して実行しようとするプログラムの中で起こったことである。そこにはもはや奇跡はなく、ただ、奇跡を麻薬のように求め続ける人たちの果てしない欲求、一種の禁断症状のようなものがあるだけである。神から恵みを与えられたという喜びがあるのではなく、奇跡を求めねばならないという強迫観念があるだけである。

 超自然的な体験がプログラム化されると、それは人間を解放するという表向きのスローガンとは裏腹に、人間を拘束するものとなり、それを繰り返し実行せねばならないという恐怖の中に人を陥れていくのである。そういう意味で、私は聖書に記されている奇跡そのものを否定するわけではないが、プログラム化された奇跡や、悪霊追放や、預言などは、愛ではなく、恐れから出て来たものであり、イエスの御名をみだりに唱えている点でも、キリスト教ではありえないと断言して構わないと思っている。

 

* * *

 ひまわりがきれいに咲きました。暑さに弱い私は、昼間はほとんど何も手つかず。私の住んでいるところから、Sugarさんの山小屋まではかなり遠いようです。本当にたどり着けるのでしょうか。無事に帰って来られるのでしょうか。無謀な思いつきをしてしまったのではないか…、関係諸氏に随分と迷惑をかけてしまっているのではないかしら…と、今更ながら、ちょっと心配になりつつも、ただ主がすべてを成して下さるように、恵みを分かち合う良い機会となるように願いつつ、準備を進めています。
 皆様に祝福がありますように!


繁栄の神学の危険性

<聖霊の第三の波とは何か(2)からの続き>

 さて、少し時間が空いたので、前回の話をざっと振り返るところから始めたい。
 以前に書いたように、現時点で、私は聖霊運動(ペンテコステ、カリスマ、第三の波を含む運動)とは、キリスト教に偽装した非キリスト教であるという理解に立っている。その理由は、これから詳しく説明していかなければならない(もしきちんと説明しなければ、ただの誹謗中傷だとのそしりを免れないだろう)。
 初めにお断りしておけば、私はこれを「食わず嫌い」として主張しているのではなく、あくまでかつて聖霊派に属していた経験に立って主張しているのである。

 なぜ聖霊運動が非キリスト教であるとまで言えるのか。
 その第一の理由は、すでに述べたように、聖霊派が、キリストの十字架による贖いの完全性を損なうような教説を唱え、キリスト者の祝福の根源として、「十字架以外の何か」である、聖霊のバプテスマ(満たし)を付け加えようとしているからである。

 もう一度引用しよう、従来のプロテスタントの福音派が伝統的に取って来た立場はこうであった、「クリスチャン体験は全体として一つである。言い換えてみるならば、それは新生ということ、罪を悔い改め、イエス・キリストを信じる信仰によって新しく生まれ変わる回心の体験、新生の体験というものが基本であって、あとのものはこれに含まれるという考え方です。従いまして、聖霊のバプテスマなどという第二の体験はない、もしそれがあるとしたならば、キリストを信じたそのとき、新生の時にあずかっているのであり、新生がイコール聖霊に満たされる、聖霊のバプテスマであるという考え方です。従って聖めという体験も、新生の後に特別にあるものではない。新生の時に罪が赦され、そして聖められているのであり、キリストの救いは十全である、それ自体において完全である、その後何かつけ加えていくものではないという考え方です。これは主として伝統的な教会やまた福音派の中で、ペンテコステ運動に理解をもたない多くの人たちが持っている考え方なのです。」

 この伝統的な考え方は、回心とは別個の祝福としての聖霊の満たしという体験を否定するだけでなく、ペンテコステ・カリスマ運動に顕著に見られる「体験重視の信仰観」をも否定する。従来の福音派は、キリスト者の救いや祝福は、必ずしも、五感で感じられる体験によってはかれるものではないにも関わらず、それを体験という観点のみからとらえようとすることに、危険を見いだすのである。
 たとえば、回心の時にどれだけ後悔の涙を流したかによって、救いの完全性をはかることができないのと同様に、聖霊の満たしを受けてどんな不思議な出来事が身に起きたか、どうやって神の御声を聴いたか、霊の戦いにおいてどんな悪霊と対決しとか…など、目に見え、五感で感じられるような事柄、特に、私たちの感覚に高揚感をもたらすような非日常的な奇跡的体験を通して、信仰の成長をはかろうとすることに、重大な危険を感じ取って来たのである。

 かつて聖霊派に属していた私も、今では、上に書いたような従来の福音派の立場に賛同している(私は福音派に属しているわけではないし、福音派の政治形態については多くの異論があるがそれはさて置き)。体験としての聖霊の満たしが、信仰の成長をはかる現実的なものさしであるとは、私は全く考えられないし、さらに、もっと進んで言うならば、ペンテコステ・カリスマ・第三の波の人々の主張する聖霊のバプテスマ(聖霊の満たし)における「霊」とは、イエスとは関わりのない、何かしら、聖書外の「霊」ではないかと私は結論づけている。

 その「霊」が神から来たのかどうかを見分ける有効な方法の一つは、霊を受けた人にへりくだりがもたらされたか、それとも、高ぶりがもたらされたかに注目することだろう。イエスが遣わす霊は、決して、人に高ぶりをもたらすようなものではない。また、それはイエスを証することはあっても、自分自身を証することはない。聖霊は「臆する霊ではなく、力と愛と慎みの霊」(Ⅱテモテ1:7)である。だが、この聖句の中から、大胆さと力だけを抜き取って、「愛と慎み」を捨て去ってしまったのが、今日の聖霊派に見られる「霊」であると私は考えている。愛と慎みがないのに、ひたすらパワーを主張し、恐れ知らずに突き進んで行く霊が、聖書に示されている聖霊でないことは明らかだろう。

 私が接触した聖霊派の多くの熱心な人たちに共通する特徴は、彼らが自分に与えられた「使命」や「力」に慢心し、酔いしれていることであった。自分たちが「リバイバル」を起こすために「特別に選ばれた器」であると信じ、あるいは、特別な召命として神から「献身」するよう求められたと信じ、その召しや献身に、異常なほどの誇りを持っていることであった。そして、こうした献身者たちは、反対者、助言者の意見などものともせずに、自分の特別なプロジェクトに向かって、いかなる障害をもかえりみずに突き進んで行った。彼らは非常に競争心が強く、自分と異なる考えを持つ者には、蔑視的態度を取ることも多かった。そこで、いつも対立や分裂、競争、疎外が起こっていた。このような影響を人々にもたらす霊が、「力と愛と慎みの霊」であるとは、私には全く考えられないのである。

 さて、では、聖霊派の言う、聖霊の満たしによるエクスタシーのような恍惚体験(天国体験などとも言われている)は一体、何だったのであろうか。私はそれを体験した一人である。それは子供の頃のキャンプでの出来事であったが、不思議な魂の浄化作用を伴うように感じられた。その効果が続いていた間、私はかつてない心の平安を覚え、悪意、競争心、憎しみ、トラウマ…、いかなる罪深い考えも持てなくなったことを覚えている。その点では、聖霊運動に関わる人々が、この体験について異口同音に記しているあの天国体験の描写は、まさに正確な描写であると私は考えている。確かに、そこには何かの恍惚体験があったのである。

 だが、私は以前に、音楽にはカタルシスの作用があり、音楽が人の心に子供のような退行現象を引き起こすこともあるということを書いた。同様に、恍惚体験は、御言葉(キリスト)以外の手段によっても、簡単に引き起こすことができる。Dr.Lukeも薬物体験との類似性を挙げながら、聖霊派の主張する恍惚体験の由来に疑問を投げかけている。その他、たとえば、マントラと呼ばれるお経のような言葉を長時間、唱え続けることによって、人の魂を日常から離脱させることが可能であることも指摘されている。いくつかの人工的装置を組み合わせれば、そのような感覚を人に引き起こすことは簡単にできるだろう。

 従って、何らかの非日常的体験があったからといって、それがただちに神から来たものだと信じ込むのは極めて危険である。特に、聖書には、サタンにも奇跡を起こすことができることが、はっきりと記されているのだから。たとえ聖霊という名前が冠されているにせよ、全ての恍惚体験が神から来るのではないことを私たちは覚えておかなければならない。
 そして、私自身の体験について言うならば、恍惚体験は一日半ほど続いて元に戻り、それによって信仰が深まったという実感はなく、そのために後の人生の歩みが聖められ、より主に近いものになったということもなかった。むしろ、その反対に、将来には信仰的挫折が待っていたのである。

 さらに、第三の波に限って言うならば、ピーター・ワグナーが著書の中で、聖霊の力強い働きが聖書的なものであると主張しようとして、聖書外の記述に頼っていることも見逃せない事実である。彼は、力強い聖霊の働きの有効性を示すために、新約外典『使徒ペテロの働き』、偽典『使徒ヨハネの働き』など、聖書に含まれていない記述を、あたかも正統な根拠であるかのように挙げている(p.94)。さらに、彼が次のような呆れる内容を述べていることに注目したい。
「私が神学校の学生であったとき、使徒時代の話で聖書にないものをあまり信用してはいけないと教えられた。マクマレンはそれに反対している。歴史家として彼は、そのような話も信頼に足る記述であり、歴史的な有効性を持ちうると語っている。さらに、そういった書物によって、実際多くの人々がキリスト教に改宗してきたことをマクマレンは発見した。」(p.95)

 エール大学の歴史学者ラムゼイ・マクマレンの著書からワグナーは大きな影響を受けたことを記している。こうして、マクマレンの意見を取り込みながら、ワグナーは、第三の波運動の方法論の中に、聖書外の事実を混ぜものとして混入し、公然と組み込んで行くのである。

 さらに彼は書いている、
「この本(『ローマ帝国のキリスト教化』―筆者)の最初でマクマレンは彼がもっとも重要だと考える質問を提示している。『キリスト教は大衆に対して何を与えたのか。簡単に言ってしまえば、何があれだけの回心をもたらしたのかということである』。その答えはばかばかしいほど単純である。キリスト教は言葉と行いによって伝えられたが、伝道に果たした役割からすれば、行いが言葉よりもはるかにまさっていたのである。」(p.92)

 ここに問題のすりかえがあることに読者は気づかなければならない。聖書ははっきりと言っている、「信仰は聞くことによるのであり、聞くとはキリストの言葉から来るのである」(ローマ10:17)と。にも関わらず、ワグナーは、マクマレンの著書を引用しながら、ローマ帝国内にキリスト教が爆発的に広がりを見せたのは、「行いが言葉よりもはるかにまさっていた」からだと断言し、その「行い」による宣伝方法論を現代にも適用すべきだとするのである。これは、キリストの御言葉を聞くことから始まるはずの信仰の否定であり、聖書にない考え方を、彼が自分の伝道方法に持ちこんだことの明らかな証明である。ワグナーの言う聖霊による「力の伝道」や「力の対決」は、御言葉によらない「行い」(つまり、宣伝、マーケティング論)として登場してきているのである。

 さて、これから先、第三の波運動(ペンテコステ・カリスマ運動を含む)を「繁栄の神学」と呼び換えよう。第三の波がペンテコステ・カリスマ運動と本質的に同一であることはすでに述べたので、繰り返す必要はないと思うが、ペンテコステ・カリスマ運動の主要な柱は以下の通りである。

1)信徒が回心後に、聖霊のバプテスマ(満たし)を受ける必要性を強調
2)カリスマ的指導者を頂点に頂くミニストリーのスタイル
3)神は貧困を喜ばず、豊かになることは罪ではないとする繁栄の神学
4)人の心身や、地域、国から悪霊を追い出さなくてはならないという霊の戦いの神学
5)キリスト教シオニズム
6)大宣教命令に基づき、運動を全世界に普及させるべく打ち出される教会成長論

 第一の柱である「聖霊のバプテスマ」についての疑いはすでに述べた。
 次に、「繁栄の神学」について見ていこう。

 少し前に、「解放の神学」というものがキリスト教の中に存在していた時期があるのをどれくらいの人がご存知だろうか。これについては次回以降の記事で詳しく述べるつもりだが、「繁栄の神学」は、「解放の神学」と非常に似通っている部分がある。
 かつて「解放の神学」がそうであったように、今日、ペンテコステ・カリスマ運動や第三の波運動が打ち出す「繁栄の神学」は、第三世界を中心にして、貧しく、あまり教養の高くない、一般大衆をターゲットとして布教され、第三世界に流行しつつある。最もよく知られているのは、アルゼンチンやチリのリバイバルであろう。また、ペンテコステ運動と名乗らず、カリスマ派として従来の福音派の教会に浸透しつつある。

 この新しい神学は、既存のキリスト教界、特にカトリックにとって大きな脅威となった。かつて引用したことのあるアンドレ・コルタン氏の『ペンテコステ派という繁栄の神学』にもこうある、「カトリック教会が恐れているのは、『アジアとアフリカにおけるイスラム急進派の拡大』だけでなく、『第三世界の大都市における、福音諸派や様々な新興宗教、それにとどまるところを知らない『ペンテコステ派』との熾烈な競争(4)』である。他方、あるプロテスタント系の神学者(5)はこう問いかける。『ペンテコステ派こそ第三世界におけるキリスト教の未来なのではないか』と。ともあれ、アフリカやラテンアメリカでは、改宗者があとを絶たない。様々な名前を冠した教団が次々に現れる。アッセンブリー・オブ・ゴッドやチャーチ・オブ・ゴッドなど知名度の高いものもあるが、その他にも『神は愛なり』『生ける教会』『シオンの聖堂』『勝利の教会』などそれほど知られていないものもある。これらの教団は『ペンテコステ派』を名乗ることはめったになく、むしろ『福音派』と呼ばれている(6)。」

 この聖霊運動が第三世界にそれほどまでの広がりを見せた理由が、まさにワグナーが指摘した「行い」、つまり、その巧みな宣伝方法にあった。ヨーロッパ文明から半ば置き去りにされかかった第三世界には、今でも、呪術や、シャーマニズムや、アニミズムや、民間信仰が生きている。ペンテコステ、第三の波運動は、従来のカトリックやプロテスタントが見向きもしなかった民衆の伝統的な土着の信仰に目をつけ、その精神性を巧みに利用したのである。

 ワグナーは、欧米文化人の意識には欠けているが、第三世界の人々の意識の中にははっきりと存在している意識の層を、「中間層」と呼ぶ。この中間層に働きかけることが、第三世界への効果的な伝道方法なのだと彼は言う、
「欧米以外のほとんどの人たちの物の見方は三階層になっている。いちばん上の層は、広大な宇宙にただよう人格者あるいは勢力に基づいた高級な宗教心。それは非常に遠く離れた部分である。
もっとも下の層は毎日の生活。たとえば、結婚、子育て、農作業、雨と日照り、病気と健康、あるいは持ち物。
そして真ん中の層は、こういった日常の出来事と、超自然、超人間的なものが普通に交錯する部分である。毎日の生活の中で、さまざまな霊、悪霊、祖先、悪鬼、幽霊、魔術、呪術、魔女、霊媒、魔法など、自分以外の力の影響を心に受けることは、彼らにとってあたりまえなのである。」(p.35)

 シャーマンや、霊媒師、巫女、魔術、先祖崇拝、先祖の祟り…、そういったものが文化の中に組み込まれ、巫女や霊媒に頼る民間療法がれっきとした生活の知恵とみなされているような土地では、この「中間層」に巧みに訴えかける方法論がなければ、布教は成功しないとワグナーは考えた。日本では恐らく、沖縄がこのような地域に当たるのだろう(だからこそ、沖縄は「霊の戦い」の浸透率が全国で最も高いのであろう)。
 病気になれば、病院ではなく、シャーマンのもとに通う生活に慣れきった第三世界の貧しい人たちを取り込むには、キリスト教もシャーマニズムに匹敵するだけの何かを持たなければならない、従来のように、魂の救いを語るだけで、現実問題には何ら答えを出さないようなキリスト教では効き目がないと、ワグナーはみなしたわけである。そこで、第三世界への効果的な伝道方法として、「超自然的ないやし」が打ち出された。さらに、ワグナーがしばしば引き合いに出しているチョー・ヨンギは、病からの超自然的解放を唱えるだけでなく、福音は貧しい者に現実の経済的な豊かさをも約束するものでなければならないと考えて伝道しているため、彼らが唱えているものを総合すれば、それは実質的に、第三世界や比較的貧しい国々の社会的弱者を貧困と病から解放する弱者解放の神学であると言えよう。

 つまり、「繁栄の神学」は、弱者解放の神学として登場してきたのである。それはかつての「解放の神学」のように、公然と既存のキリスト教との対決(暴力革命等)を主張したり、宗教改革や、クーデタの構図をあからさまに示して、既存のキリスト教界の打倒を旗印に掲げることはないにせよ、実質的には、「繁栄の神学」の存在自体が、欧米式教会をモデルとする従来のプロテスタントのキリスト教に対する強烈なアンチ・テーゼになっていることは否めないだろう。「繁栄の神学」は、これまでのように、教養もあり、社会的地位もあり、礼拝堂の席を何不自由なく占めて安楽な信仰を維持することができた「富める者たち」のための福音ではなく、場合によっては、病院での治療費もなく、献金を払うことさえできないような、第三世界のうち捨てられた「貧しい者たち」をターゲットとした福音として始まった点で、まさに黒人や女性や虐げられた弱者を解放しようとした「解放の神学」の焼き増しであると言える。だからこそ、「繁栄の神学」は、「解放の神学」と全く同じ危険性を内に含んでいるのである。

 さて、今日はここまでにして、次回、解放の神学とは何かを見てみよう。
 ちなみに、この蝶は何度目かにやっと撮ることができた♪
 


聖霊の第三の波とは何か(2)

 初めに前回の話をもう一度、かいつまんで振り返りたい。

 ピーター・ワグナーが『聖霊の第三の波』において使っている、「第三の波」という用語の意味に注目することは、私たちがこの運動の真に野心的なプロジェクトを理解する助けとなるのではないだろうか。
 ワグナーの著書の内容は、直接的には、トフラーの『第三の波』と何らかの関連を持っているわけではないが、しかし、前述したように、「第三の波」という二つの用語には、言外のつながりがあると考えてよいと思う。なぜなら、ワグナーは、その用語を通して、自らが始めた聖霊運動が、トフラーの言う第三の波と同じように、全世界に伝播し、既存のキリスト教界を塗り替えてしまうほどの革命的な変革をもたらす波であることを告げようとしていると考えられるからである。

 言い換えるなら、ワグナーは自らの始めた運動が、小規模な運動で終わらず、世界征服を目指すものであることをその名前を通じて示しているのだと言えよう。それは聞く耳のある者に分かるメッセージだ。そのように考えることは自然である。なぜなら、聖霊の第三の波は、その世界征服の夢を戦略的に成し遂げる手段として、教会成長論という具体的方法論をも掲げているからである。

 もちろん、この世界征服の野望は、大宣教命令という美名によって覆い隠されている。そのため、それは表向き、キリストの福音を全世界に伝えるための善良な宣教計画であるとされ、特定の組織や、人間的な思惑に基づいた野望なのだと公然と言われることはない。

 しかし、ワグナーがその著作の中ではっきりと述べていなくとも、聖霊の第三の波の隠された目的や特徴を、私たちは文脈から掘り起こさなければならない。聖霊運動の影響を受けた日本の各地の教会で、これほどひどいカルト化現象が起こっているというのに、この著書の内容を文字通り、額面どおりに受け止め、内容を疑わないのは愚かなことである。

 前回提示した一つ目の疑いは、ワグナーは第三の波の運動が、ペンテコステとも、カリスマとも無縁のものであると述べているが、本当にそうなのかどうかというものであった。そのような説明は、ペンテコステ、カリスマ運動のマイナス・イメージから第三の波を切り離すための、表向きの説明に過ぎないのではないか。

 確かに、ペンテコステ、カリスマ運動、そして第三の波には、それぞれ具体的な差異があり、また、教団教派による違いもある。しかしながら、私は、そのような具体的差異を超えて、ペンテコステ、カリスマ運動は本質的に同じものであるとみなしている。そして結果的には、第三の波も、その中に含まれると考える。

 アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団から出ている本ではあるが、『聖霊の神学』((アドバンスト・スクール・オブ・セオロジー発行、1998年)を参考に、まず、ペンテコステ、カリスマ運動の定義についてざっと振り返ってみよう。

 狭義においては、ペンテコステ、カリスマ運動はそれぞれ別物として区別される。
 まず、ワグナーが示したように、ペンテコステ運動とは、主として20世紀初頭(1901年カンサス州トペカ、1906年アズサ街)で始まったリバイバルに端を発し、後にペンテコステ系の諸教会を形成していった流れであり、一方、カリスマの流れは、1960年代以降に、福音派の教会の中で起こった潮流であるとして、両者は区別される。

 これに加えて、聖霊体験をした信者が、その後、既存の教団や教派から出て、ペンテコステ派に所属するかしないかという点で、ペンテコステ派とカリスマ派を区別する見方がある。この見方は今日、一般に普及しているものである。 「一応大きく見て、いわゆるカリスマ派と言われる人たちは自分たちの教団の中に、教派の中にとどまっていて、その中で聖霊体験を主張し続けている人たちであると言えるのではないかと思います。これがいわゆるカリスマ派の、最大公約数的な定義と言えるでしょう。」(p.21)

 また、ペンテコステ派が異言の伴う聖霊のバプテスマを強調するのに対し、カリスマ派は「異言の伴うしるしという面では、唯一のしるしというよりも多くのしるしのひとつとして、もっと広くとらえ、それよりも聖霊の賜物を強調します。異言の伴う聖霊のバプテスマをあまり強調しないということです。」(p.205)という差異も挙げられる。
 これらの見方は大まかにみるならば、同じ聖霊運動に影響を受けながらも、ペンテコステ系の教団教派に所属するか、それとも、福音派の教会に所属するかという、信者の所属の違いによってペンテコステとカリスマを区別していると見ることもできるだろう。

 だが、広義においては、個々の具体的な差異を超えて、ペンテコステ、カリスマ運動は本質的に同じ運動であるとみなして良いと私は考えている。そのため、次の見解に賛成である。「広い意味では具体的な聖霊の今日的な働きを信じる人たちは、全部カリスマだと言うことができます」(p.20)。
 この広義のカリスマの中には、当然、第三の波も含まれると見てよい。「ピーター・ワグナー自身も言っていますが、第三の波に属する人たちは自分たちのことをペンテコステ派とかカリスマ派だと言われることを好みません。しかし、実際には、神癒、悪霊追放、預言、超自然的な働きなどの聖霊のカリスマティックな現われに心を開く福音派の諸教会が、第三の波に属しています。彼らは自分の教会にとどまって、その教会の神学と伝統に従いながら、聖霊の賜物を広い観点で見て、カリスマを実践していこうとしています。」(p.206)

 さらに、このことは、ワグナーの教説が、ペンテコステ・カリスマ運動に属する教会における教会成長に関するフィールド・ワークから生まれてきたことを見ても分かる事実である。ワグナー自身が第三の波をペンテコステ・カリスマ運動といかに切り離そうとしてみたところで、彼の方法論がペンテコステ・カリスマ運動から取られている以上、第三の波はやはり、ペンテコステ・カリスマ運動の直系の子孫なのだと言えよう。

 さて、では、ペンテコステ、カリスマ、第三の波(とりあえず「聖霊運動」としよう)が、本質的に同一の運動であるならば、それらに共通する特徴は何か、という疑問が生じるだろう。そのことについても述べておきたい。結論から言えば、それはこの運動が「キリスト者の段階的な祝福の体験」特に、「セカンド・ブレッシングとしての聖霊の満たしの体験」を主張していることである。

 まず、正統なクリスチャンであれば誰しも、キリストの十字架を信じて回心したと同時に、キリスト者のうちに聖霊が住まわれることを否定しないだろう。しかし、問題となるのは、その後、聖霊のバプテスマ、聖霊の満たし、聖霊の油塗り、など様々な用語で呼ばれている現象が、回心とは別個に、もしくは段階的に、いわゆる「セカンド・ブレッシング」として存在するのかどうか、という点である。

 この問題は、ウェスレー・ホーリネス系の教会などが主張している聖化という体験が、回心とは別個に起こるものであるのかどうかという議論にもつながるところであるが、大別すれば、これについての教説は、キリスト者体験の統一型(セカンド・ブレッシングなどというものはないとする説)と、段階型(段階的な祝福の体験を主張する説)の二つに分かれる。

 まず、キリスト者体験の統一型を主張する教説は、次のようなものであり、従来の福音派に最も多く見られるものである。「クリスチャン体験は全体として一つである。言い換えてみるならば、それは新生ということ、罪を悔い改め、イエス・キリストを信じる信仰によって新しく生まれ変わる回心の体験、新生の体験というものが基本であって、あとのものはこれに含まれるという考え方です。従いまして、聖霊のバプテスマなどという第二の体験はない、もしそれがあるとしたならば、キリストを信じたそのとき、新生の時にあずかっているのであり、新生がイコール聖霊に満たされる、聖霊のバプテスマであるという考え方です。従って聖めという体験も、新生の後に特別にあるものではない。新生の時に罪が赦され、そして聖められているのであり、キリストの救いは十全である、それ自体において完全である、その後何かつけ加えていくものではないという考え方です。これは主として伝統的な教会やまた福音派の中で、ペンテコステ運動に理解をもたない多くの人たちが持っている考え方なのです。」(p.9-10)

 このキリスト者体験の統一型の中には、そもそもキリスト者の回心や新生などを「体験的なもの」としてとらえること自体を拒否し、それらは個人が主体的に自覚するかどうかに関わらず、御言葉に立って行われるものだという考えが含まれている。

 これに対して、回心とは別に、セカンド・ブレッシングの存在を主張する、キリスト者体験の二段階型という教説がある。そこには、従来、「聖め」を主張するウェスレー・ホーリネス系、そしてケズィックの潮流が含まれると言えよう。なぜなら、それらは、キリスト者には回心の後で、聖化の体験が(完全にあるいは漸次的に)起こるとしているからである。

 さて、ペンテコステ系、カリスマの流れ、第三の波は、回心、新生、聖めなどの後に、さらに聖霊のバプテスマという体験が伴うと主張している点で、第二(あるいは第三の)段階的な祝福の存在を主張していると言える。
 ロサンゼルスのアズサ街で1906年から三年間起こったリバイバル運動の参加者の多くはホーリネス系の信者であったが、彼らには従来、回心、新生の次に、聖めがあるという教説に立っていたその上に、聖霊体験をしたことになるわけであるから、それは三段階の祝福体験であったとみなすこともできよう。バプテスト系ペンテコステ教会は、回心とは別に、聖霊のバプテスマ(聖霊の満たし)という体験があると考えており、その点は、カリスマの流れにも共通する。

 すなわち、十字架を信じての回心、新生とは別に、キリスト者には聖霊のバプテスマ(聖霊の満たし、聖霊の力強い働き)という新たな体験的な恵みが伴い得るとし、キリスト者体験の統一型を退けて、段階的な恵みを主張している点で、ペンテコステ、カリスマ、第三の波は全て同じ系列に属する。

 しかしながら、ここで、私自身の立場を述べるなら、私はこのような段階的な祝福を主張する立場には立たない。キリストの救いはそれだけで十全であり、私たちは十字架が人間の贖いとして完全な効力を持っていることを信じるべきであると考える。だから、救われた後に何らかの体験を付け加えなければならないとか、回心後に聖めが必要であるとか、聖霊のバプテスマが必要であるとか、異言を語ることが必要であるとか、聖霊の賜物の現われがなければならないとか、そのようなことを教説として信じる必要はないと思う。私たちは十字架を信じて新生したその時に、それら全ての恵みをすでに与えられていると考えてよい。
 回心後に別個の体験を主張する教説は、今のところ、どんなにそれらを「祝福」として強調し、「救いの条件ではない」としていたとしても、結果的には、必ず、十字架による救いの完全性を否定する教説を生み出さずにはおかないだろうと私は考えている。

 聖霊の油注ぎや、異言や、各種の聖霊の賜物を私は否定するわけではない。キリスト者として歩んでいるうちに、それらのものを体験することもあるだろうし、さらなる聖めや癒しを体験することもあるだろうと思う。しかし、問題なのは、それらの体験をキリスト者の歩みの中で、回心とは別個に伴うはずの段階的な祝福として教義化し、それを万人に当てはめうるべき公式として行くことなのである。
 聖霊のバプテスマに関しての教説を教義化することは、結局は、誰もがそのような体験をすべきものと主張していることに等しい。神学とは一旦、出来上がった体系を絶対的なものとせずにはおれない種類のものであり、セカンド・ブレッシングとしての聖霊体験の存在を主張する教義は、遠からず、十字架だけでは救われない、聖霊体験がなければ救われないという結論を必ずやもたらすだろうと私は思う。それは回心の体験に何かを付け加えようとしている時点で、すでに、初めからイエスの十字架による救いの完全性を損なっているのである。

 さて、話を戻そう。こうしてみてみると、聖霊のバプテスマ(聖霊の満たし、聖霊の油注ぎ等)を、回心とは別個の祝福として捉えている点で、ペンテコステ、カリスマ、第三の波は、本質的に同じものだということになる。だが、そのように考えると、これらの「波」には実際には何の差異もなく、同一の波であったという結論になるではないか? それでは第一も、第二も、第三もなくなるではないか? という疑問が起こるだろう。

 ここで、そもそも、ワグナーの説明を額面どおりに受け取って、第一の波、第二の波をペンテコステ、カリスマ運動として捉えること自体に無理があるのではないかと疑ってみたい。もしも、ワグナーの言う「第三の波」をトフラーの「第三の波」と同じ規模のものであると考えるならば、必然的に、私たちはワグナーの言う第一、第二の波の内容をも見直さなければなくなるのではないだろうか。
 もしも第一の波を20世紀初頭のペンテコステ運動、第二の波を1960年代以降に起こったカリスマ運動とみなすならば、それらはたかだか一世紀ちょっとの間に起こった変化にしかならない。しかも、第一、第二の波は世界中のプロテスタントのキリスト教界を抜本的に塗り替えるまでの影響力には至らず、むしろ、プロテスタントの諸教会から排斥され、その波は世界に伝播することなく終わったのである。

 これに比べて、トフラーの述べている「波」の規模ははるかに大きい。第一の波(農耕文明)、第二の波(産業文明)は、ただ世界中の人々の生活様式を変化させたのみならず、人類史の長いタイムスパンの間に起こったものである。従って、その歴史的・地理的規模に注目するならば、ワグナーとトフラーの言う「波」はそもそも比較にならないものであることが分かる。両者を並べて論じようとすることが無理に思えてくるほどである。

 だが、もしも私たちが、ペンテコステ、カリスマ、第三の波が、実は、本質的に同じ第三の波に属するものだったのであり、ワグナーの説明は、ただその事実を読者の目から覆い隠す虚偽でしかなかったと理解するならば、そこには違った解釈が生まれるだろう。
 随分前に、私たちは手束正昭氏の『キリスト教の第三の波』という著書について論じた。手束氏はペンテコステ運動に影響を受けてはいるものの、厳密にはカリスマの流れに分類されると言えるだろう。そこで、自らをカリスマとは無縁とみなしているワグナーの説明を額面どおりに受け取るならば、手束氏の言う「第三の波」は、ワグナーの「第三の波」とは全く関係ないという結論に至る。しかし、これも表面的な理解に過ぎず、(教説における様々な差異はあれど)それらが大まかには同じ聖霊運動としての枠組みの中に存在していることは明白である。

 そこで、私たちはワグナー自身の説明を額面どおりに受け取るのをやめて、むしろ、彼の説明に反して、色々なことを疑ってみなければならない。そうするならば、ペンテコステ、カリスマ、第三の波は、広義においては、本質的に同じ聖霊運動に属する、一世紀近くの間に起こった同一の波であることが言えるだろう。だとすれば、第一、第二の波は、ペンテコステ、カリスマ運動ではなかったことになる。とすれば、キリスト教世界を席巻した第一、第二の波とは何だったのか? 農業文明、産業文明の波に匹敵するほどの歴史的な二大変革とは何だったのか?

 答えは一つしかないだろう。
 第一の波はカトリック、第二の波はプロテスタントである。

 これは著者の意向をあまりにも無視した仮説なので、私の創作として一笑に付されるかも知れないし、そうなっても構わない。だが、この見解に立つならば、ワグナーが著書の中で隠そうとしている事実があることを私たちは感じ取ることができるのではないだろうか。つまり、ワグナーが述べている第三の波とは、カトリック、プロテスタントに匹敵するほどに、キリスト教そのものに大変革をもたらす、全く新しい何らかの宗派の将来的な成立を暗示しているのではないか? ただその意図が、決して表立って言われることなく、文脈の中に隠されているだけなのだと考えられないだろうか? 
 第三の波は、ワグナーの考えでは、プロテスタントの福音派の中で醸造されなければならないものであった。そこで、それはどうしてもプロテスタントと同一の信仰を装い、プロテスタントに寄生して成長する必要があったのだ。ペンテコステ、カリスマ運動のように、プロテスタントの中で起こりながら、結果として、プロテスタントから排斥されたり、異端のレッテルを貼られるようではいけなかったのである。

 だが、本質的にはプロテスタントと異なるものであるからこそ、それらの波は排斥されてきたのである。にも関わらず、やがてこの聖霊運動はいつか津波のように巨大化し、第三の波として、必ずや、プロテスタントの既存の枠組みを打ち壊して、聖霊に関する新しい教義を持つ新しいキリスト教として世界を席巻する日が来るだろう、いや、ぜひともそうならなければならないのだ、そのことをワグナーは「第三の波」という言葉によって、暗に示そうとしているのではないだろうか。

 つまり、ペンテコステ・カリスマ運動を含む第三の波は、ともに、プロテスタントに寄生する非キリスト教だったのではないかと私は考えている。それはプロテスタントの既存の教会で、福音派と同一の信仰を装って生まれ、福音派を宿主として活動しながらも、自らこそが「まことのキリスト教」を知っていると考え、「力の伝道」を実践することによって、いずれ宿主を破壊し、既存の福音派を凌駕することを目指している危険な運動なのではないだろうか。
 いつか聖霊運動が、カトリック、プロテスタントに並ぶ、キリスト教の第三の新しいかたちとして、世界に頭角を現すことになるかも知れない、いや、それこそが、大世界命令の美名の下に隠されている聖霊運動推進者たちの見果てぬ夢なのではないだろうかと私は思う。

 次回から、具体的に「聖霊の第三の波」の運動の特徴について考えていきたい。

<つづく>