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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

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自分発の愛から神発の愛へ

人の道は自分の目にことごとく潔しと見える。
しかし主は人の魂をはかられる。
あなたのなすべき事を主にゆだねよ。
そうすれば、あなたの計るところは必ず成る。」(箴言16:2-3)

 山谷少佐が記事「目カラ片鱗ノ剥落スル事」の中で、Sugarさんの「山暮らしのキリスト」の記事を読んで、目からうろこが落ちるような感銘を受けたことを書いておられた。それを読んで驚いた。実は、私もSugarさんの記事を読んで、驚きと感銘を受けていたからである。

 高校生の頃、私は教会に所属していた。教会で何か行事がある度に、参加者を増やすために、学校で友人や先生にチケットやパンフレットを配り歩いていた(今から思えばはた迷惑な信徒であっただろう)。そんないきさつがあって、学校では私がクリスチャンであることを数人の先生方が知っておられ、職員室で、たまたま信仰の話が出たことがあった。
 ある時、世界史の先生が、私に聞いた。
「ねえ、きみ、神様を信じてるらしいけれど、好きな人が出来たら、きみは神様と、その人と、どっちを取るつもり?(好きな人をあきらめてでも、神様に従うことができる?)」

 私はそれを聞いて、心の中で、何という愚問だろうと思ったことを覚えている。人は皆、神が創造されたのだ。神は互いに愛し合いなさいと人に言われたのだ。だから、神を愛することと、人を愛することは対立しない。
 …それが当時、生真面目な信徒だった私の思い描いた生真面目な答えだった。
 もっとも、先生はその会話を冗談にして終わらせてしまったので、せっかくの模範解答には、答える暇も与えられなかったのだが…。

 今から思うと、その教師が投げかけた質問は、私が当時、思い描いたよりも、はるかに深い意味を持っていたことが分かる。時に、クリスチャンでない人の言葉を通してさえ、主は私に来るべき試練を告げ知らせ、私を試されることがあるのかも知れない。人から試される時、私たちは、自分の心をもう一度、奥底までかえりみる用心深さを持つ必要があるだろう。間違っても、自分は誰からも試される必要のない、全てを悟った人間であるなどという自己過信に陥ってはいけない…。

 「心にはかることは人に属し、舌の答えは主から出る。」(箴言16:1)
 私が今、心に持っている答えは、人の思いに過ぎないものだろうか? それとも、主から与えられた答えなのだろうか? 時に、それは試されてみなければ分からない場合がある。人の心を探り極める方が、私の心を底の底まで探り極め、あらゆる不純物を取り除いて下さることを願う。

 さて、高校時代が過ぎ去ってだいぶ経った頃、クリスチャンでなかった友人や、クリスチャンを名のっていたにも関わらず、実は偽クリスチャンであった牧師や信者らの手によって、私の人生は滅茶苦茶に壊された。それは、神への愛と、人への愛が、私の中で、両立しなかった結果であった。
 もちろん、そこにあったのは、様々な人間関係であった。師弟関係あり、先輩後輩あり、信徒の交わりや、近所づきあいなども含まれていた。愛という名前でひとくくりにするには、あまりにも複雑な人間関係だったかも知れない。
 だが、人への愛(人への執着や、義理人情)は、いずれにせよ、私の人生を足元からひっくり返し、私を引き倒し、神の御前で取り返しのつかない大きな失敗を犯させた。その体験の最たるものが、カルト化教会での事件だった。

 そんなことがあったおかげで、以後、私は人を愛することに対して、極度に慎重になった。というよりも、人に対して徹底的に絶望させられたため、愛という感情そのものが、しばらくの間、私の中で、完全に死に絶えていたと言っても過言ではなかった。全ての人間関係を断ち切り、あらゆる人への未練を追い払い、ただ一人きりになり、神の愛と真実だけを求めるところから、挫折した私の信仰生活は再開した。

 その後、私のために色々な励ましをして下さる方も現れたが、それでも、人を愛することについて、未だ大きなためらいを私は持ち続けていた。キリスト者の人への愛のあり方はどうあるべきなのか? どうすれば、人への愛と、神への愛は対立しなくなるのか? 
 人に徹底的に絶望させられた私の中で、もう一度、人への優しい感情が甦ろうとするにつれて、これ以上、人の思惑に振り回されたり、人に欺かれるという失敗を繰り返してはならないという強い自戒の念がこみあげた。そこで、わずか二日ほど前、私を支援して下さったある方に、心からの好意と感謝を表しつつも、私は次のような内容を書き送った。

「全ての感情にまして、私は私を贖い出された主のものです。
私の夫は万軍の主なのです。世界中の夫族の中でも、とりわけ、嫉妬深い夫なのです。
私の愛を独占しなければ、気がすまないお方なのです。
私がどんなに愛しても、決して、満足することがなく、さらに私に愛と忠誠を求められるお方なのです。この方が、『おまえは私の聖なる妻(エクレシア)となったのだ、その立場を二度と忘れるな』と言われます。
ですから、私は夫の怒りが怖いので、今後、何があっても、誰とも『浮気』はいたしません。
生きるのも死ぬのも、ただ主のためです。 」

 二度と、神よりも人への感情を優先することはすまい。たとえ主の御名によって遣わされる兄弟姉妹であっても、神以上にその人を優先することはすまい、そう宣言したつもりであったが、それだけでも、神への愛を表すには、まだ不十分であった。そのことが、数日後、Sugarさんの記事「愛は分割されてはならない」を通して判明した。

主は私達が自分の愛する者や物を、完全に手放すように求めて
おられます。
神の要求は正に絶対的です。神はご自身の子供達の
愛情を、他の人やものが獲得することを少しも許すことが出来ません。

更に主は 私が『私流のやり方で』主を愛そうとすることを
願われません。神は私達が『神ご自身に従って』ただ神を愛すること
のみを願われます。こと愛については、主は私達が絶対的であることを
願われます。神はあなたの愛を独占したいのです!
主は本当に『ねたむ神』です。(出エジプト20の5)

非常に残念なことに、あるキリスト者達は『彼らが愛するものを
自由に愛し、また同時に主を愛することが出来る』と思っています。
彼らは、自分の愛するものを愛するのなら、同時に主を愛することは
不可能であると言う事実をまだ認識しておりません。

 これを読んだ時、主は私の心の弱さを隅々まで見透かしておられるのだろうか、と驚いた。人への愛を神への愛よりも優先しません、などという中途半端な言葉でお茶を濁している場合ではない。まずは、人へのあらゆる未練と執着を徹底的に断ち切り、自分の感情の全てを神へ捧げきるところから、キリスト者の歩みは始まるのだ。最初に、まず、それをしておかなければならない。

 私が愛するのは、主よ、あなただけです。地上のどんな人間も、天のどんな存在も、私の心を動かすことはできません。私の愛は人生最後の瞬間まで、ただあなただけのものです。
 主よ、私はあなたの他には誰一人、愛していません!! 私の愛はただあなただけのものなのです!!
 まずは、主の御前でそう告白する必要がある。

 だが、それでは、神お一人だけに全ての愛を捧げ切ってしまうなら、私たちはもう誰をも愛せなくなるのか? まるで修道院に入ったように、人を離れ、世俗を捨てて、余生を神だけに捧げる孤独な生活を送ることしか残されていないのか?という疑問が生じるかも知れない。
 そうではない。ここで逆説的な事件が起こる。一旦、私たちが自分の愛を完全に神に捧げてしまうと、神は私たちを神との一致の中に引きいれて下さり、そこで、聖別された愛を与えて下さり、神を出発点とする聖い愛によって、私たちが他人を愛することを改めて可能にして下さるのだ。そのことは、一つ前のSugarさんの記事「主に愛を捧げること」に記されている。

「私の手元に持っている愛が、神にだけ100パーセント献げられるので
あれば、私の元に 愛はもう1パーセントも残っていないことになります。
その時、神以外に献げる私の手持ちの愛は全くゼロです。ですから
私の愛の対象は全部神です。私は完全に神しか愛しません:
神は先ずこのことをキリスト者に求められます。

しかし、不思議なことですが、その時になって初めてキリスト者は
『他人を自分と同じように愛する』ことが出来る筈です。何故なら
その時あなたは自分自身を完全に離れ、ひたすら純粋に『神のために、
神の中で、神の愛によって』人を愛するようになるからです。」

 自分自身として人を愛そうと苦心している時には、人の愛には制限が生じる。好感の持てる人しか愛することはできない。自分にとって益となる人しか愛することができない。さらに、愛情の源となり、刺激の源となる自他の関係を何とかしてつなぎとめておきたいとの思いから、相手の存在への強い執着が生じる。別離が怖くなり、死などによって愛する相手を失うことへの恐れが生じる。

 しかし、愛情が、自分発のものから、神発のものへと変えられる時、私たちの愛情のあり方そのものが変わってくる。手に入れる⇔失う、出会う⇔別れる、という区別が消えて、私たちの愛はどんな出来事によっても、決して失われることのない永遠の絆へと変わっていく。

 目に見えないものが永遠に続くという聖書の言葉は、愛のことを指しているのではないかと私は思う。(何しろ、神は愛だからだ。)私たちが肉的な愛を捨てて、主の視点に立って被造物を愛するようになるとき、自分が永遠に主から愛されているように、他の人たちも主に愛されていることを知るようになる。すると、それまでのように、失うことを恐れ、誤解されることを恐れ、突き放されることを恐れ、嫌われることを恐れ、関係性が変化して失われることを恐れ、いつか別離によって相手を見ることができなくなることを恐れながら、その恐れと臆病さの中で、何とかして人を愛そうとしていた、その愛の臆病な制限が消えて、主にあって、大胆に、恐れなく、創造の不思議な御業を心から楽しみ、与えられた恵みを分かち合い、与えられた仲間と共に、永遠に、主を喜び、賛美するという愛のあり方が生まれてくるのではないだろうか。
「全き愛は恐れをなくす」ということは、そういうことを指しているのではないだろうかと思う。

 今ならば、私はこう言っても差し支えないだろう。神を愛することと、人を愛することは、もはや私の中で対立しないと。なぜならば、人を愛する愛は、私を出発点とするのでなく、神が与えて下さるものとなっているからだ。主がご自身の被造物をご覧になられ、それを愛され、祝福されるように、私が主にあるクリスチャンを見る時、そこには、ただ主の愛にならう愛があるだけなのだ。期限付きの地上の生の中に、自他との関係を何とかして永遠につなぎとめようとする時の、あの強烈な焦りや執着、未練はもはや生じない。

 そして、今はまだ難しいことであるが、神は敵への愛をも、きっと与えて下さることを信じる。肉なる私にとっては、ただ嫌悪することしかできないような相手にさえ、不思議な形で、愛することを可能として下さるのが、主であると信じる。
 神は愛なのだ。神にできないことはない。そして愛はすべてのとがを覆うのだから。

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どんなに欺かれても…

KENTさんが記事に書いておられるので紹介します。

私たちはイエスキリストを最優先にしなければなりません。神を畏れない連中に騙され、欺かれたとしても、どうかガッカリせず嘆かないでください。希望を失わないでください。
たとえこの世の信仰に伴う環境がどんなに荒んでいたとしても私たちの希望と国籍は天国にあるのです。信仰の対象はイエスキリストただひとりであることを忘れないでほしい・・・、

また、カルト教会の膿の部分(堕落・腐敗)はまだ少ないと私は思うので、これ以上悪事がキリスト教界全体に行き渡ることが無いように、思慮のある健全な教会の牧師の皆さま方も注意を促していただきたいと思います。まちがっても彼らのような悪事を繰り返す牧師たちの集まりに交わることがないように・・・、

牧師やクリスチャンの皆様、あなたがたが真のキリストの柱であるなら何が重い罪で、何がいけないことであるのかわかるはずです。
最後に聖書の御言葉を二つ

「金持ちになりたがる人たちは、誘惑と罠とまた人を滅びと破滅に投げ入れる。愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することがあらゆる悪の根である。」(テモテⅠ6:9~10)
「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい」(ヘブル13:6)

金、名誉、地位、権力、快楽がこの世の幸福の条件とされるものであるが、これが得られたからといって幸福にはならない。金はこの中で最も魅力あるものだが、これを追い求めると、人生を狂わせ転落してしまう。」

 これは、牧師たちだけでなく、何よりも、カルト被害者に向けられた言葉です。キリスト教界で受け入れられなかった私のような人たちにも向けられている言葉です。どんなに周りに広がっている信仰の世界が殺伐としていても、どんなに人に欺かれても、どんなに人から冷たくあしらわれても、どんなに多くのものを失って、どんなに涙の日々を送ったとしても、どんなに孤独であったとしても、希望を失わず、私たちはイエス・キリストだけを見上げて、何度でも、立ち上がって進んで行きましょう。

「どんなに淋しい時でも どんなに悲しい時でも
イエスさまがいちばん イエスさまがいちばん

たとえそれが どんなばあいでも
イエスさまが いちばん
イエスさまが いちばん
だってイエスさまは 神さまだもの
だってイエスさまは 神さまだもの

どんなに泣きたい時でも どんなに叫びたくても
イエスさまがいちばん イエスさまがいちばん

どんなにいじわるされても
どんなに苦しめられても
イエスさまがいちばん イエスさまがいちばん…」

 子供の頃に覚えたこの賛美を思い出します。悲しんでいる方には、次の音楽の流れるページがきっと慰めになるのではないでしょうか…。

 人を狂わせるもの、それは自己愛です。
 目の欲、肉の欲、持ち物の誇り、金銭欲、権力欲…、これらはキリストにあって、すでに死に渡されているはずのものですが、クリスチャンの自己が死に切れなくなった時に、復活してくる欲望なのです。

 私たちはいつも思い出しましょう。私たちの自我そのものが、すでにキリストにあって死んだはずのものであることを。忘れないでおきましょう、私たちは全ての感情と、この世のものへのあらゆる執着に死んで、すでにキリストの花嫁として全身全霊を聖別され、召し出されていることを。

 たとえ貧しくて孤独な時に、心が寂しく、肉体が苦痛を覚えることがあったとしても、バプテスマを受け、召し出された以上、私たちは滅びに至る各種の欲望だけでなく、人への未練にも、愛情にも、憎悪にも、もはやとらわれていないのです。

 過去のどんな悲惨な事件にも、どんな失敗にもとらわれていません、孤独にも、悲しみにもとらわれていません、その代わりに、自分の正義にももはや死んでいるのです。自分で自分を裁くことさえ、必要ありません。全力で正義を実現しようと目指し、真実を訴えようと声を大に叫ぶことさえ、必要ありません。
 私たちに残されているのは、ただ、キリストを通して聖別されて、主と、そして、信仰の友なる者たちへ向けられる清い愛情なのです。憎しみはもうありません。恨みもありません。その清い愛をもって、互いに愛し合うことが、イエスが私たちにせよと命じられたことなのです。

 自ら傷つけた人と和解できる人は幸いです。しかし、たとえ和解できなくても、二度と会うこともない遠方にいる人であっても、キリストが私たちを愛されたその大いなる愛のゆえに、つらい過去を手放し、赦しましょう、愛しましょう。そうする力を主は望む者に必ず上から与えて下さると信じます。 



我が街倉敷に寄せて


 正確に言うと、今、私が住んでいるのは倉敷市ではない。だが、かつて幼い頃、私はこの街で暮らしたことがあった。この街の見所は、よく知られているように、美観地区に立ち並ぶ倉(蔵)屋敷であり、有名な観光スポットにもなっている。

 十数年以上前、この倉敷市にチボリ公園を建設する計画が持ち上がった。当時、それを聞いて私は心の中で首をかしげたものだ。すでに全国に誇れる歴史的名所があるというのに、どうしてそれを差し置いてまで、何の文化的ルーツも持たない、ただの外国のモノ真似のようなハコモノ建設計画を進めるのか。
 その頃、私は関西に住んでいたが、幼い頃に、記憶に刻み付けられた街の思い出を壊されるようで、不快だったのを覚えている。

 だが、建設は進められ、テーマパークは駅からすぐに見えるところに建設された。JR倉敷駅のプラットホームには、倉屋敷の模様がデザインされているが、その和の趣と、おとぎ話から抜け出たような洋風の城の尖塔が、まことにちぐはぐな印象を醸し出している。

 案の定、チボリ公園はたった11年で採算が取れなくなり、閉鎖された。建設に使われた莫大な費用は、ただ借金となって県の財政に残ったのだろうか。もちろん、チボリ公園で散策を楽しんで、それが記念になったという人も沢山いただろうが、それにしても、風に吹きさらわれるもみがらのように、はかなく消えていった愚かな計画であった。他方、歴史ある倉屋敷の方は、今でも夕涼みに人々が楽しく散歩し、静かな観光名所として続いている。

 今、私はこの街を歩きながら、幼い頃に見た風景を一つ一つ、思い出している。アイビーガーデンの壁は、私にクレムリンの城壁を思い出させる。もう10年近くも前になるが、モスクワの赤の広場から、川にそって、どこまでも続く長い城壁の下をよく歩いたものだ。その時、どこかで見た風景だと思ったのは、この壁を思い出していたのだろうか。煉瓦の壁は、キエフの大門をも髣髴とさせる。

 かつて、この街に住んでいた頃、私の記憶にはまだ何の悲しみもなかった。それが私の人生で、最も純粋無垢で、楽しかった時代かも知れない。キリスト教界のドグマティズムも、まだ私の生活に入り込んでいなかった。近所の子供たちと、広い田畑を駆け回り、喧嘩をし、毎日、疲れ切るまで、夢いっぱいに遊んで過ごした。

 今、街を歩きながら、私は人生の敗残者かも知れないなあと、思い巡らすことがある。「故郷に錦の御旗を飾る」どころか、まさか、こんな風にして、手ぶらで街に戻って来ようとは、考えたこともなかった。田舎にはいつも世間の動向の波が遅れて届く。この土地に多く暮らす裕福なお年寄りたちは、失業や不況にあえいだことがないので、若者の苦労を知らない。そこで、時に、思い切り残酷な言葉を投げかけられることもある。

 先行きが見えない時代になった。私が最近、どのようにして死を迎えるかということばかり考え続けているのも、きっとそんな状況が影響してのことだろう。人間らしく生きるために必要な希望が手に入らないので、自分の手でコントロールできる、残されたただ一つのものが、死なのだ。
 キリスト者として、尊厳に満ちた死に方ができれば良い、そのことで、少しでも主をお喜ばせできれば良いということが、心の支えになっているのだ。我ながら、不健全であると思う…。

 マイホームを築き、子供を育て、希望ある未来を思い描いて、懸命に働くべき世代が、こうして、社会から外側にはじき出されてしまった。正規雇用の道から一旦はずれた人々が、二度とそこへは戻れなくなるような社会の仕組みの中で、それまで人々を守るために作られてきたはずの様々な制度が、逆に、人々を疎外するものへと変わった。
 システムが、人を守るためのものから、人を食らい、排除するためのものに変わった。このシステムの下で、あまりにも多くの人々が押しつぶされ、呻吟している。そこで、やがてこのシステムそのものを破壊しようとして立ち上がる人々が現れるのは避けられないだろう。革命的な混乱の時代がやって来る足音が聞こえるような気がする。

 伝統的に続いてきた文化をこそ守らなければならない。昔ながらの暮しを守らなければならない。なのに、一攫千金の夢を見る者たちが、砂上の楼閣を打ち立てるために、湯水のように金を使い、伝統を破壊してしまった。そのために、社会の様々な組織が、鬼のように人を食らっては、バブルのようにはじけ飛ぶものとなり、人を成長させるための基盤が根こそぎ消えてしまった。キリスト教界も然りである。

 打ち捨てられた世代はどこへ行けば良いのか。今、私の属する世代は、社会の中で食い物にされる以外、ほとんど行き場を失いつつある。ある者は派遣の地獄の中ですり減らされ、ある者は引きこもりとなり、ある者は私のように死に様を思い巡らしながら、街を歩き、最後の生命の糸をつないでいる。運良く家庭を築き、安定した生活を送っている人でも、将来の事を考えると、きっと不安が絶えないだろう。はっきり言って、この社会はもう、私のような人々にとって、生きていたいと思える魅力を失っている。未来が今よりも良くなるという見込みを私はほとんど抱けない。

 「時が良くても、悪くても、しっかりやりなさい。」
 弱気になる時、聖書の言葉が私を励ます。もしも、主によって注がれる愛がなければ、生きてはいられないだろう。こうして、多くの人に支えられ、励ましを受けている恵まれたキリスト者の私にさえ、他者の幸福な人生のニュースが、時折、鋭い矢のように胸に突き刺さることがあるのだ。いつまでこんな時代が続くのか…。そして、出口が見えないまま、さらなる混乱の中へと社会は突入してくのか…。私たちは最後まで、置き去りにされたままなのか…。殺伐とした暮しの中で、人間性を失う人々が続出するのは全く理解できないことではない。

 だが、主は一人ひとりの悩み苦しみを確かに知っておられる。そして人の弱さを覚えておられる。耐えられないような試練を主は人に与えられない。システムには頼れないことが分かった今だからこそ、悔しい時、泣きたい時は、人のもとへ行くのではなく、キリストの懐に駆け込むことができる。
 主よ、あなたの花嫁を迎えに来て下さい、混乱の中に置き去りにしないで下さい、主よ、私はここにおります。あなたが頼りなのです、主よ、来たりませ。そう祈りたい。

 「わたしに喜びと楽しみとを満たし、
 あなたが砕いた骨を喜ばせてください。
 み顔をわたしの罪から隠し、
 わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。
 神よ、わたしのために清い心をつくり、
 わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。
 わたしをみ前から捨てないでください。
 あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください。
 あなたの救の喜びをわたしに返し、
 自由の霊をもって、わたしをささえてください。
 そうすればわたしは、とがを犯した者に、
 あなたの道を教え、
 罪びとはあなたに帰ってくるでしょう。<…>
 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。
 神よ、あなたは砕けた悔いた心を
 かろしめられません。」(詩篇51:8-13,17) 

 故郷の馴染み深い風景が、主の愛と共に、私の傷ついた心を黙って優しく包んでいる。


村上春樹氏のエルサレム賞受賞のスピーチ原稿から


皆様の熱いご要望にお応えして、村上春樹氏のスピーチを再掲します。
余計ながら、以前に私が書いた文章も繰り返しますが、ご了承ください。
 

* * *

イマーゴ氏の「精神分析じゃない日々」に掲載されていた、エルサレム賞受賞の際の村上春樹氏のスピーチ原稿です。あまりにも見事なスピーチのため、部分的ですが、記事からぜひにも引用させていただきました。(記事には全文翻訳が掲載されています。)

私は必ずしも村上春樹の全作品が好きなわけではなかった。というより、どちらかと言えば、彼の作品は苦手だった。けれども、今回の村上春樹氏のスピーチは、私が言いたいことを、そっくりそのまま代弁してくれるような、胸のすくような文章だった。
ただ、とても心を打たれた。

私はこれまで、日本のキリスト教会における問題についてひたすら語って来た。けれども、ひょっとすると、中には、私の文章を読んで、次のように非難する人があるかも知れない。
「どうしてきみはいつもふざけた『言葉遊び』のような方法ばかり使って信仰を語ろうとするのか? どうしてフィクションの物語まで登場させるのか? 信仰とは真面目な事柄なのに、きみの文章を読むと、いつもきみが本気なのか、冗談半分なのか、分からなくなってしまう。しかも、いつもセンセーショナルな題名ばかり並べて、まるでワイドショーきどりだね。そういうやり方はぼくは好かない。いい加減、言葉遊びはやめて、きみもクリスチャンなら、もっと真面目に、純粋に、ストレートに信仰を語りたまえ。きみの心の純粋さが、きみのふざけた文章からは見えないよ。」

けれど、そうではないのだ。冗談半分で、私はフィクションの話など登場させているわけではないし、受け狙いで、センセーショナルな話題に焦点を絞っているわけではない。
学術論文、創作、記念文集…、これまで色々な文章を書いてきたが、私もやはり、村上春樹氏と同じように「プロの嘘つき」なのだとつくづく思う。そして「プロの嘘つき」として、これからも文章を綴り続けたいのだ。
それは「言葉遊び」を目的としてのことじゃない。
ただ、「システム」という巨大な壁に立ち向かい、そこにぶつかって割れ続ける、幾千、幾万の「個人の尊厳」という卵、この小さな小さな命の光に焦点を当て、彼らの苦しみを代弁し、この不条理を訴えるためだ。

私は、マシュマロのように甘い砂糖まぶしの、自分の幸福のことばかりに焦点を当てた文章を読むことを好まない。たとえ、それがどんなにその人にとって嬉しい、幸せな話であったとしても。
世界中の数え切れない人たちが、今も不幸に呻き続けている中で、そのようにして、壁に押しつぶされて消えてゆく人々を、無いがごとくに無視して、ただ自分の幸福だけに酔いしれているだけの文章を見ると、私はどうしても、目をつぶり、耳を塞ぎながら、そういう言葉たちを足早に通り過ぎたくなってしまう。

私は、たとえ自分の書く物語がどんなに極端な構造になったとしても、それがどんなに非現実的なまでに、ただ一点にだけ焦点を当ててそれを押し広げるものになったとしても、今後も、壁につぶされる弱い者の側に立って、文章を書いていきたいと思っている。それはシステムという巨悪を大きく浮かび上がらせるための闘いだ。

だが、巨悪と闘うための政治運動ではない。壁を倒すことが目的なのではない。(そんなことが無理であるのは分かっている。)ただ、壁に押しつぶされる人々の命かけた悲鳴を、より多くの人々の耳に届け、壁というものの不条理性を訴えることによって、一人でも、その壁にぶち当たって、血まみれになる人が減るように、叫ぶためなのだ。

…それは、すでに壁にぶつかって無惨に壊れ、砕け散った、私のような無数の「卵」たちへの弔いの詩でもある。

教会というところが、システムという壁になることの残酷さ。
教会というところで、人間を道具化し、押しつぶすプログラムが実行されていくことの恐さ。

人間をコントロールし、支配しようとする全てのシステムやプログラムという壁の理不尽さを訴え続けること、そのシステムがすでにキリスト教界にも導入されている現実の恐ろしさを訴え続けること、それが恐らく、これからも私の命かけた闘いとなるだろう。

闘いの武器として与えられているのは、ただ、ペン一本、今はキーボードだけ。
それでも、真実、神に従って生きるのなら、そのクリスチャンの言葉には、霊と肉を切り分ける鋭い刃のような力が与えられることを私は信じる。(そして、その人はもはや「嘘つき」ではなくなり、真実の証人となる。)
真実の言葉には力がある。真実の言葉は、鋭利な刃物のように、光と闇とを切り分け、人の思いと信仰とを切り分け、何がほんとうであって、何が嘘であるのか、全ての人々の前で、白日の下にさらけ出すだろう。

村上春樹氏が、今もまだ紛争が続くイスラエルの、他ならぬエルサレムで次のスピーチを語ったことの意味は大きいと思う。

 

――― 村上春樹氏のスピーチ―――

今日私はエルサレムに小説家、つまりプロの嘘つき(spinner of lies)としてやってきました。
もちろん、小説家だけが嘘をつく訳ではありません。すでに周知のように政治家も嘘をつきます。
外交官や軍人は時と場合によって独自の嘘を口にします。
車のセールスマンや肉屋、建築屋さんもそうですね。
小説家とその他の人たちとの違いですけど、小説家は嘘をついても
不道徳だと咎められることはありません。実際、大きい嘘ほど良いものとされます。
巧みな嘘は皆さんや評論家たちに賞賛されるというわけです。

どうしてこんな事がまかり通っているかって?

答えを述べさせていただきます。すなわちこういうことです。
創作によって為される上手な嘘は、ほんとうのように見えます。
小説家はほんとうの事に新しい地位を与え、新たな光をあてるのです。
ほんとうの事はその元の状態のままで把握するのは殆ど不可能ですし、
正確に描写する事も困難です。
ですので、私たち小説家はほんとうの事を隠れ家からおびき出して尻尾をとらえようとするのです。
ほんとうの事を創作の場所まで運び、創作のかたちへと置き換えるのです。
で、とりかかるためにまずは、私たちの中にあるほんとうの事がどこにあるのか
明らかにする必要があります。これが上手に嘘をつくための重要な条件です。

しかし今日は、嘘をつくつもりはありません。なるだけ正直でいようと思います。
1年のうちに嘘をつかないのは数日しかありませんが、今日がその1日なのです。

そういうわけで、ほんとうの事を話していいでしょう。
結構な数の人々がエルサレム賞受賞のためにここに来るのを止めるようアドバイスをくれました。
もし行くなら、著作の不買運動を起こすと警告する人までいました。

もちろんこれには理由があります。ガザを怒りでみたした激しい戦いです。
国連によると1000人以上の方たちが封鎖されたガザで命を落としました。
その多くは非武装の市民であり子供でありお年寄りであります。

受賞の報せから何回自問した事でしょうか。
こんな時にイスラエルを訪問し、文学賞を受け取る事が適切なのかと、
紛争当事者の一方につく印象を与えるのではないかと、
圧倒的な軍事力を解き放つ事を選んだ国の政策を是認する事になるのではと。
もちろんそんな印象は与えたくありません。
私はどんな戦争にも賛成しませんし、どんな国も支援しません。
もちろん自分の本がボイコットされるのも見たくはないですが。

でも慎重に考えて、とうとう来る事にしました。
あまりにも多くの人々から行かないようアドバイスされたのが理由のひとつです。
たぶん他の小説家多数と同じように、私は言われたのときっちり反対の事をやる癖があります。
「そこに行くな」「それをするな」などと誰かに言われたら、ましてや警告されたなら、
「そこに行って」「それをする」のが私の癖です。
そういうのが小説家としての根っこにあるのかもしれません。小説家は特殊な種族です。
その目で見てない物、その手で触れていない物を純粋に信じる事ができないのです。

そういうわけでここにいます。ここに近寄らないよりは、来る事にしました。
自分で見ないよりは見る事にしました。何も言わないよりは何か話す事にしました。

政治的メッセージを届けるためにここにいるわけではありません。
正しい事、誤っている事の判断はもちろん、小説家の一番大切な任務のひとつです。

しかしながら、こうした判断をどのように他の人に届けるかを決めるのは
それぞれの書き手にまかされています。
私自身は、超現実的なものになりがちですが、物語の形に移し替えるのを好みます。
今日みなさんに直接的な政治メッセージをお届けするつもりがないのはこうした事情があるからです。

にもかかわらず、非常に個人的なメッセージをお届けするのをお許し下さい。
これは私が創作にかかる時にいつも胸に留めている事です。
メモ書きして壁に貼るようなことはしたことがありません。
どちらかといえば、それは私の心の壁にくっきりと刻み込まれているのです。

「高く堅固な壁と卵があって、卵は壁にぶつかり割れる。そんな時に私は常に卵の側に立つ」

ええ、どんなに壁が正しくてどんなに卵がまちがっていても、私は卵の側に立ちます。
何が正しく、何がまちがっているのかを決める必要がある人もいるのでしょうが、決めるのは時間か歴史ではないでしょうか。
いかなる理由にせよ、壁の側に立って作品を書く小説家がいたとしたら、
そんな仕事に何の価値があるのでしょう?

この暗喩の意味とは?ある場合には、まったく単純で明快すぎます。
爆撃機と戦車とロケット弾と白リン弾は高い壁です。
卵とは、押しつぶされ焼かれ撃たれる非武装の市民です。
これが暗喩の意味するところのひとつです。

しかしながら、常にそうではありません。より深い意味をもたらします。こう考えて下さい。
私たちはそれぞれ、多かれ少なかれ、卵です。
私たちそれぞれが壊れやすい殻に包まれた唯一無二のかけがえのない存在(soul)です。
私にとってほんとうの事であり、あなたにとってもほんとうの事です。
そして私たちそれぞれが、多少の違いはあれど、高く固い壁に直面しています。
壁には名前があります。それはシステム(The System)です。
システムはもともと、私たちを護るべきものですが、ときにはそれ自身がいのちを帯びて、
私たちを殺したり殺し合うようしむけます。冷たく、効率的に、システマティックに。

私が小説を書く理由はひとつだけです。
個人的存在の尊厳をおもてに引き上げ、光をあてる事です。
物語の目的とは、私たちの存在がシステムの網に絡みとられ貶められるのを防ぐために、警報を鳴らしながらシステムに向けられた光を保ち続ける事です

私は完全に信じています。
つまり個人それぞれの存在である唯一無二なるものを明らかにし続ける事が
小説家の仕事だとかたく信じています。
それは物語を書く事、生と死の物語であったり愛の物語であったり
悲しみや恐怖や大笑いをもたらす物語を書く事によってなされます。
生と死の物語や愛の物語、人々が声を上げて泣き、恐怖に身震いし、
体全体で笑うような物語を書く事によってなされます。
だから日々私たち小説家は、徹頭徹尾真剣に、創作をでっちあげ続けるのです。
<…>

今日みなさんにお知らせしたかった事はただひとつだけです。
私たちは誰もが人間であり、国籍・人種・宗教を超えた個人です。
私たちはシステムと呼ばれる堅固な壁の前にいる壊れやすい卵です。
どうみても勝算はなさそうです。壁は高く、強く、あまりにも冷たい。
もし勝ち目があるのなら、自分自身と他者の生が唯一無二であり、
かけがえのないものであることを信じ、存在をつなぎ合わせる事によって得られた暖かみによってもたらされなければなりません。

ちょっと考えてみて下さい。私たちはそれぞれ、実体ある生きる存在です。
システムにはそんなものはありません。
システムが私たちを食い物にするのを許してはいけません。
システムがひとり歩きするのを許してはいけません。
システムが私たちを作ったのではないです。
私たちがシステムを作ったのです。

私が言いたいのは以上です。
エルサレム賞をいただき、感謝しています。
世界の多くの地域で私の本が読まれた事にも感謝しています。
今日みなさんにお話できる機会を頂いて、うれしく思います。
 


 



悲しめる者のためのくちびるの実



気絶しそうなほどの猛暑の中、美観地区を散歩して来た。
私は子供時代に、7歳になるまでこの街に住んでいた。
今になっても、記憶のどこかに、街の風景がおさまっている。

街中を歩くと、まるで方位磁石が身体の中に埋め込まれているかのように、遠い記憶が呼び覚まされる。
いつか通ったことのある道。いつか見た風景、いつか見た空き地、なじみ深い山々…。
写真を通じて、猛暑が読者に伝わることはないと思うので、美しい映像を載せておきたい。

昨日、ある方からとても嬉しいお便りをもらった。
「もしもこの先、苦しまねばならないなら、私もあなたと共に苦しみましょう、
けれども、キリストにあっての自由を私はあなたに楽しんでいただきたいのです」、という内容の便りであった。

それを読んだ時、こんな不思議なことがあって良いものだろうか? と思った。

これまで、キリスト教界において、私は泣く者と共に心ゆくまで泣いてくれた人を見たことがなかった。ましてや、苦しむ者のために立ちどまり、共に苦しみを担ってくれる人には出会ったことがなかった。

私の知っているクリスチャンと名乗る人たちのほとんどは、みな、自分が正しくふるまうことで精一杯だった。
何が正しくて、何が間違っているかを論じることで精一杯。
サタンの誤りに陥らないように気をつけることだけで精一杯。

それは、私の目には、幾度、倒されても、立ち上がる不死身の怪物のように見えた。
まるで痛みなどないかのように、弱さなどないかのように、不撓不屈の精神で、自分を鞭打って、わき目もふらず、そばにいる人の気持ちにさえ気づかずに、ただ前に、神の義にだけ向かって、まっすぐ、進んで行こうとする人たち。

何が正しくて、何が間違っているかを論じるために、果てしなく生み出される議論の数々(律法学者たちとまるで同じ)。
もつれた糸にからまるようにして、議論の中で訳が分からなくなり、立ちどまってしまった信徒は、道の途中で、置き去りにされた。
「信仰の勇者」になりたい人たちは、脱落者に構うことなく、信仰の弱い人を助け起こそうともせず、疲れ果てた人を置いて、議論しながら、どんどん先へ進んで行った。
自分達だけが、天国に到達し、神の御前で義人としてふるまうために。

どれだけの人が、気づけば教会に姿を見せなくなっていっただろう。
人の苦しみさえも、どう解決すべきかという議論に変えられてしまった。
主の御前で喜ぶことさえ、義務として教えられた
他人の苦しみに対して、涙一つ流さないまま、聖書を指差しながら、押し付けがましく、もっともらしく、残酷に、誤った考えを捨てるように、繰り返される説教。

まるで人生で一度も挫折したことがないかのように、「主にあっての喜び、平安」だけをひたすら強調し続ける、このお化けのような人たちに、ある日、私はついに、身体がついて行かなくなった。

まるで人生で一度もつまずいたことがなく、自らの失敗のために一夜も泣き明かしたことがないかのように、「何が正しいか」だけをひたすら説き、避けるべき過ちを潔癖症のように列挙する人たちに耳を貸せなくなった。

光は、闇を拒否することによって生まれるだろうか?
喜びは、悲しみを拒否することによって生まれるだろうか?
たとえ全ての誤った感情と行動を拒否したところで、人はそこから、真の自由や解放を得られるだろうか?

それはキリスト不在の福音であったのだが、私はそのことに長い間、気づけなかった。
そこで、私はキリスト教そのものを一旦、捨てなければならなくなってしまった。

身近なクリスチャンの語る不自然な「喜び」や「平安」に、私は辟易してしまった。
異常なほど熱狂的で明るい説教を、心が受け付けなくなった。
異常なほど歓喜に満ちて、軽薄な賛美歌に、心がついて行かなくなった。

ある教会の礼拝で、ゲストとして招かれた講師の説教に我慢しきれなくなった私は、いきなり礼拝堂から外へ向かって駆け出した。
「何してるの、一体、どうしたの…?」
他の信徒が不審そうに後を追って来た。

しかつめらしい服装をした、社会的にもそれなりの肩書きを持つ紳士たちの集う静かな教会だった。
何をしているのか、自分でもよく分からなかった。
どうしようもない拒否反応。どうしてこんなにも大勢の立派な人たちが、こんなくだらない説教に我慢できるのかという嫌悪感。
その時、私はもう生理的に、キリスト不在の礼拝に我慢できなくなっていた。

私はこの「義人お化け」のようなクリスチャンたちのいる教会から、嫌悪感だけを抱いて去った。彼らのうちには、人として何かとても大切なものが、大きく欠けているように思われてならなかった。

私は彼らに聞きたかった、なぜあなたたちは、人の悲しみや涙を受け入れないのか?
絶望的な環境にあって、笑顔も作れなくなった人たちの気持ちに、なぜ寄り添おうとしないのか?
なぜあなたたちは悲しむ者の悲しみを担わず、泣く者と共に泣くために、片時も立ちどまることなく、ただひたすら、自分の義のことだけを唱え、神にあっての喜び、勝利、平安ばかりを一方的に強調し続けるのか?

それから、私は長いこと、神なき絶望的な日々を送った。

ある人は、それを自己憐憫だったと言うかも知れない。
人につまずいて教会を離れた私を、浅はかだった、信仰が足りなかったと言うかも知れない。
私はただ自分の感情を優先しただけであって、それは信仰とは関係ない事柄だったと言うかも知れない。
人の憐れみや、助けを期待していた時点で、真に神に頼る信仰心がなかったのだと言うかも知れない。

だが、私は、「キリスト教」を離れて、初めて、人間的な感情を自分に取り戻すことができた。
もうこれ以上、不自然な喜びを自分に強制する必要がない。
無理な努力をして、キリストの枝らしくふるまう必要がない。
あらゆる苦難の中にあって、さも立派な解決を得たかのように、ありもしない勝利について語る必要がない。
私は失格者になったのかも知れないが、それならそれで良いと思った。これがあるがままの現実なのだから…。

そうして教会から遠ざかって、月日が過ぎた。
その間、ただ迷いと挫折だけがあったわけではない。私は確かに、自分の現在地を探し出すことができた。

多くのクリスチャンは自分の現在地を知ろうともせずに、ただ目的地のことばかり議論しているように私には思われてならない。
だが、たとえどんなに遠大かつ崇高な目的地を設定したとしても、自分の立っている現在地が分からないのでは、どうやって目的地にたどりつけるというのだろうか。

失意の日々に、私は地図を広げ、キリストから遠く遠く離れている自分の現在地を発見した。
現在地とは、自分が罪人であり、悔い改めて、神に立ち返らなければならないということであった。
それから、犯した罪を悔い改め、とにかく、どんなに時間がかかっても構わないから、ただ神へ向かって、キリストへ向かって歩こうと決意した。
誰もそばにいなかった。信仰の一人旅が始まった。

ところが、不思議なことに、その後、歩いているうちに、私の現在地と目的地が重なっていることに気づいた。
目的地であられるキリストが、いつの間にか、私と共に歩いて下さっていたからである。
「あなたはもうどこへも行かなくて良いのだ。あなたのうちに私がすでに宿っているのだから」と、神は我がうちに語られた。そして、今、私は自分がどこへ向かっているのか知らない。それを知っているのは、私ではなく、思いのままに吹かれる風――御霊である。



気づけば、他にも道連れが出来ていた。もはや一人旅ではなくなっていたのだ。
そして今、私に向かって、再び、主にあっての喜び、自由、平安を語る人があった。
それを聞いても、以前のような嫌悪感を、私はもう感じない。

それは、今、説かれている喜びが、以前のように、不自然な、上から強制される感情ではないことが分かるからだ。その喜びは、我がうちにおられるキリストからあふれ出てくるものであり、私が自分の感情を懸命に偽って、無いところから無理やりひねり出そうとする、不自然で到達不可能な感情ではないからだ。

イザヤ書の中で最も有名な箇所の一つを挙げよう。

「彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、
 われわれの慕うべき美しさもない。
 彼は侮られて人に捨てられ、
 悲しみの人で、病を知っていた。
 また顔をおおって忌みきらわれる者のように、
 彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
 まことに彼はわれわれの病を負い、
 われわれの悲しみをになった。<…>

 彼が自分をとがの供え物となすとき、
 その子孫を見ることができ、
 その命をながくすることができる。
 かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
 彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。」(イザヤ53:2-4,10-11)

 これは御子イエスのことである。イエス・キリストはご自分の苦しみを通して、苦しむ人々に解放をもたらされた。主は喜びしか知らない人ではなかった。むしろ人の何倍も、悲しみと痛みを味わわれた。イエスの福音は、悩みのない富める者が、貧しく苦しんでいる罪人に、高みから押し付ける福音ではなかった。

 主は、私よりもさらにご自身を低くされ、私よりもさらに惨めな姿になって、無言のうちに、私に十字架の恵みを差し出された。そこには一切の強制がなかった。
 今日、もしも真の牧者と呼ばれるに値する人たちがいるならば、彼らはきっとイエスがされたのと同じように、自らを低くし、自分の打ち傷を通して、悲しむ人、泣く人を慰め、励ますことだろう。

イザヤ第61章1~3節。
「主なる神の霊がわたしに臨んだ。
 これは主がわたしに油を注いで、
 貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、
 わたしをつかわして心のいためる者をいやし、
 捕われ人に放免を告げ、
 縛られている者に解放を告げ、
 主の恵みの年と、
 われわれの神の報復の日とを告げさせ、
 また、すべての悲しむ者を慰め、
 シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、
 灰にかえて冠を与え、
 悲しみにかえて喜びの油を与え、
 憂いの心にかえて、
 さんびの心を与えさせるためである。
 こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、
 主の栄光をあらわすために
 植えられた者ととなえられる。」

 愛に基づいた深い共感がなければ、人が人の心を開くことは難しい。悲しみを知らない人に、人の悲しみを慰めることはできない。痛みを知らない人に、他人の痛みを理解できない。捕われる苦しみを知らない人に、捕われ人の気持ちが分かるはずがない。
 だが、私たちは人として、実際にあらゆる種類の苦難を自ら体験できるわけではない。努力と経験によって、苦境に立たされている人たちの気持ちを正確に理解できるわけではない。

 どうすれば、私たちは、悲しむ者、憂う者の心を、主を信じる喜びと賛美へと導く「義のかしの木」となれるのだろうか。それは、他者の苦しみに対してとてつもなく深い共感を持っておられたイエスの姿勢にならうことによってである。私たちの拙い言葉と態度は、私たちの努力と経験によらず、イエスと御霊との力を受ける時にこそ、苦しんでいる人、悲しんでいる人たちの心に、届くものとなるだろう。

 私は、被害者や犠牲者と呼ばれる人たちの心の痛みを無視したり、否定するわけではない。だが、その人たちが、これ以上、いたずらに苦しみ続けることには反対である。なぜなら、すでに解放の喜ばしいニュースが届けられており、もう誰も、自分を犠牲者と呼んで、自らを卑しめなくとも良くなったのだ。なのに、どうしてその大きな特権を行使しない理由があるだろう?
 クリスチャン一人ひとりは、主によってすでにあがなわれ、完全に回復されている。私たちはその事実に堅く立って、ただ人の哀れみと同情ばかりを乞いつづける卑しい物乞いになることをきっぱり拒絶しようではないか。

 主イエスは私の苦しみのために、私以上に苦しんで死なれた。だから、私にはもうこれ以上、苦しむ必要がない。
 主イエスは私の悲しみのために、私以上に悲しんで死なれた。だから、私にはもうこれ以上、悲しむ必要がない。
 主イエスは私が見捨てられた以上に、人からも、神からさえも見捨てられて死んだ。だから、私にはもうこれ以上、誰からも見捨てられる苦しみを味わう必要がない!

 神が支払われたはかりしれない犠牲の中に、私の苦難は吸収されて消えて行く。
 主は語られる、「覚えておきなさい、あなたが苦しむ時には、あなたのために、すでに私が苦しんだのだと。私はあなたのために、十字架の上で無限に代価を払った。それはあなたの負債を返すために、私がかかった十字架なのだ。覚えておきなさい、私の十字架の血によって、あなたのために解放の証書が書かれた。これは奪い去られたあなたの権利を補って余りあるものである。あなたが一生、平安に暮らして余りあるものである。
 私があなたの代わりに、全ての痛みを担った。あなたの悲しみと病と涙とは、私がすでに代わりに支払ったのだ。だから、十字架を見上げる時に、思い出しなさい、あなたはもう苦しまなくてよくなったのだと。たとえこの世界にどんなことが起きようとも、あなたは絶望に心痛め、悲しみに暮れる必要はもうなくなったのだと」

 一体、誰がこれまで、私の痛み苦しみのために一瞬でも立ちどまってくれる人があっただろうか?
 そんな人はいなかった。
 誰が私の苦難を共に背負ってくれただろうか?
 そんな人はいなかった。

 いや、いたのだ、それがキリストである。
 手紙はそのことを私に告げていた。神は貴い十字架を通して、私がこれまでに受けた全ての傷から完全な解放を得、主にあって、喜びに満ちた自由な生活へと入ることを望んでおられるのだと…。
 それは捕われた人に解放と平安を告げる声であった。

「『わたしは彼をいやし、
 また彼を導き、慰めをもって彼に報い、
 悲しめる者のために、くちびるの実を造ろう。
 遠い者にも近い者にも平安あれ、平安あれ、
 わたしは彼をいやそう』と主は言われる。」(イザヤ57:18-19)

 全ての被害者よ、犠牲者よ、喜べ。あなたたちはもはや寝たきりの人のように、座して人の助けを乞わなくてよいのだ。主ご自身があなたを解放され、あなたに健康を取り戻された。主はご自分に従う者たちを悲しみから救い出し、その涙を拭い、苦しみの代わりに、平安と喜びを心に植えられる。だから、今、私たちは信仰によって歩き出そう。心と身体を拘束する被害者という鎖を断ち切り、自立して、大胆に歩き出そう。