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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

港町の風景

 KFCから届いたワーシップソングを聴いていると、どんなに悩みが山積していても、心のもつれがほどけていくようだ。中でも、私が一番好きなのは、"Jesus you are beautiful." 最も美しく感じられるメロディーだ。
 
 つい先ほどまで、人間関係において、道を踏み誤ることへの恐れがひどく私の心を苛んでいた。今まで、弱さゆえに、何度、同じ過ちを繰り返しては、人間関係を損なってきただろう。そのことを思うと、自分の弱さが二度と、以前のような形で大失敗となって現れることがないよう、泣きながら神に祈らずにいられなかった。

 考えているうちに、自信がなくなってしまった。私は本当に、主によって与えられた兄弟姉妹を心から愛していると言えるのか? ひょっとして、利己的な感情に基づいて、相手を利用しようとしているだけではないのか? 私が愛と呼んでいるものは、正真正銘、主の御心にかなう偽りのない感情なのか? それとも、利己心を都合よく言い換えただけではないのか?
 せっかく主によって与えられた兄弟姉妹との関係を有害なものに変えてしまうくらいなら、今のうちに、全ての人間関係を断ち切ってしまった方が良いのではないか。そんな恐れをさえ感じた。

 だが、賛美を聴きながら、心を鎮めた。そして、麗しいキリストの御業を思いながら、すべての人とのつながりが、ただ主によって一方的に与えられたものであったことを思い出した。私が主の御名を賛美することを始めてから形成されてきた人間関係の中には、私が自力で掴んだものなど、何一つない。それが分かった時、恐れは消え、はっきりと、今後、どうすべきかが分かった。
 これ以上の自己批判は一切、無用である。これ以上、自分の心に起こるあらゆる感情を、良いものも悪いものも含めて、一つ一つをまるで顕微鏡で調べるようにして、丹念に吟味し、不要なものがないか探し、自分の持っているあらゆる財産をズタボロに切り刻んでは、一片一片を丹念に日に透かして吟味しようとするような作業は必要ない。

 私は、仮に弱さが残っているにせよ、確信を持って、兄弟姉妹への愛に立って生きていけば良いのだと分かった。与えられた兄弟姉妹との関係を(正しいものにしようとして)コントロールしようとすることさえ無用なのだ。すべては主が成して下さること。だから、未来に起こるどんな出来事をも、もはや恐れまいと決意した。自分が間違うことさえ、恐れない。どんな背教も、汚れたものも、キリストがうちにおられる限り、私には触れることができない、ただそう信じることができるだけだ。
 もしも私の心の中で起こっている様々な感情について、外から介入しようとする試みがあれば、一切、退けることを決意した。いわれのない非難だけでなく、人の杞憂に対しても、耳を塞ぐ必要がある。本人の自主性を侵してまで、他者の心を切り刻もうとするあらゆる力を排さなければならない。

 サタンの非難の声にいちいち親切に耳を貸していれば、義人になれない地上の人間は、誰一人、正気を保てなくなってしまうことだろう。すでに十字架によって罪赦されている以上、私たちには、善悪のものさしに立って生きる必要はもうない。たとえ色々な弱点は消えないにせよ、それを糾弾する声に耳を傾けてはいけないのだ。罪はキリストの十字架によってすでに処理されているはずであるし、弱いところにこそ、キリストの強さが現れるのだから。もしも未処理の罪があるならば、キリストの十字架へ持って行くだけでよい。自分で自分を裁いたり、吟味し続ける作業は必要ない。

 近いうちにもう一度、横浜を訪れることができればと思う。
 以下は、懐かしい神戸の海。横浜の夜景はまだ一度も見たことがないが、きっとこれに似ているのではないかと思う。


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どうなるか、夏祭り?

 昨日は、地元の夏祭りの予定日であったが、朝からあいにくの雨のため、一日延期。
 だが、今日も天気予報によれば、雨なのだ。しかも、朝から土砂降りの雨…。 
 
 いまだにアナウンスがない。ということは、役場で協議が続いているのだろう。果たして、祭りはどうなるのか…。私としてはぜひ開催して欲しい。田舎にも関わらず、川原でかなり壮大で豪華な打ち上げ花火が見られる機会はこれを除いてないのだから。

 今、10時半を回ったところだが、蝉が鳴き始め、鳥の声が聞こえ始めた。これなら希望がありそうだ。主よ、どうか私たちに楽しみの機会をお与え下さい!(左は何年も前の祭の写真。)

 朝から、エクレシアのことについて色々と思い巡らしていたが、主からの平安が心にやって来る。やはり、幾度、考えても、私の心は兄弟姉妹への温かい愛に戻って行く(その中にはまだ見ぬ人々も含まれている)。それでも、かつてのような失敗を二度と繰り返したくない、偶像礼拝や、間違った感情に陥りたくないと思ったため、自分の心の最終吟味のつもりで、私は以下の記事を書いた。

 だが、これ以上、何も思い煩う必要はないと分かった。この愛は、主が、互いに愛するようにと私に上から与えて下さったもの。主を愛する愛の中から生まれて来たもの。誰に対しても、何一つ、恥じるところはないし、それを無理やり吹き消そうとする必要もない。きっとこれから、交わりの輪はますます広がっていくことだろう。

 何もかも、平安のうちに、主におまかせだ! もちろん、今日の天気のことも含めて!

(追記:) なんと、記事を書いた時点ですでに祭りは中止されていたことが判明。川の増水のせいでもある。残念だが、「主が与え、主が取りたもう」と、主に感謝を捧げよう。
 信仰の仲間も、全て、主が与え、主が取られるもの。神に信頼して、これから起こることに期待しよう。

バビロンの包囲の中で

 昨日、エクレシアのことを書いたが、重大な注意点を補足せねばならない。それは、キリスト者が集まって神を礼拝することの喜びが、たとえどれほど大きかったとしても、私たちは、その喜びを求めるために集まるようになってはならないという点だ。キリスト者は、人生最後の瞬間まで、ただ神ご自身のみに目を向け、神ご自身だけを切に求めるようにしなければならない。それが礼拝の目的である。

 ドストエフスキーが警告しているように、集団的な跪拝の対象を求める人類の欲望には、果てしない深みがある。私たちは人知によっては、何がバビロンであり、何がエルサレムであるのかをきっと見分けることができないだろう。それほどまでに、かの者の誘惑は深い。サタンの荒野の第三の誘惑である地上の王国の中には、必ず、繁栄ばかりでなく、統一的な地上の宗教が含まれている。私たちは、自分が神のみに目を注ぎ、神に栄光を帰するためにある場所へ赴こうとしているのか、それとも、集団的な跪拝が生み出すあの興奮を求めて出かけようとしているだけなのか、それを常に、吟味し続ける用心深さを忘れてはならない。

 たとえキリスト者の集まりがどれほどの深い感奮をもたらすものであったとしても、私たちは、それを得ることを目的にして礼拝を行おうとしてはならないのだ。仮に、隣にいるキリスト者の中に、どれほど感動的な主の臨在を感じたとしても、私たちはただ天に目をむけ、天にまします私のお一人なる神だけを見上げることを忘れてはならない。隣の人の中にこそキリストがおられると考えて、その人の内側に目を向けようとすべきではない。(確かにキリスト者それぞれうちにはキリストが住まわれているのだが。)

 なぜなら、もしもそのように注意していなければ、私たちはあまりにもあっけなく、隣人の中の「現人神」に目を奪われ、そのきらびやかさに魅せられてしまうだろうからだ。元来、神のかたちに似て創造された人間の中には、人の目を惹きつけてやまないある種の誘惑が潜んでいる。それを用いて、人が神に仮装することはまことに簡単なのだ。たとえ、その人が「私は神だ!」とあからさまに叫んでいなかったとしても。

 だから、人に惑わされないよう常に気をつけていなければならない。キリスト者はいつでも、ただ主ご自身だけを一心に見つめるようにしなければならない。そのことだけが、あらゆる惑わしからクリスチャンを救ってくれるだろう。

 考えれば、考えるほど、現代のキリスト者は、いずれも深いバビロンの中にとらわれており、バビロンによって全面的に包囲されているのではないかと思われてならない。このバビロンの誘惑は極めて深い。

 一つには、それはバビロン化したニッポンキリスト教のことであると言えるだろう。だが、しかし、これ以上、その名称を使い続けることがためらわれるのは、ニッポンキリスト教という枠組みの中だけで、背教を論じようとすることに、そもそも意味がないからだ。むしろ、ニッポンキリスト教界という名を多用することによって、私たちは、背教が、そこに限定されて働くものでなく、もっともっと深い危険性を持っているものであることを忘れ去ってしまうかも知れない。

 バビロンとはまず、私たちキリスト者を完全に包囲している空中に働く霊的影響力であり、地理的な境界や、あらゆる組織の枠組みを超えて働く、諸霊の力であると認識すべきだろう。それは決して、キリスト教界内のみに限定して働くことはない。バビロンとは、まさに私の周りに広がっている世界全体のことだ。

「それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のように輝いている。」(ピリピ2:15)

 この世はまさに曲がった邪悪な霊の支配に覆われている。キリスト者はその暗闇に囚われながら、御言葉の灯火を輝かせている小さな星だ。
 預言者エレミヤはバビロンにとらわれたエルサレムの民に、主が命じられていることを告げた。「わたしがあなたがたを捕らえ移させたところの町の平安を求め、そのために主に祈るがよい。その町が平安であれば、あなたがたも平安を得るからである」(エレミヤ29:7)。

 この言葉は、偶像礼拝の支配する土地の只中に住んで、異なる宗教的価値観にさらされて生きねばならない私のような者にとって、一種の安らぎとなる。私はこの土地の安全なしには、生きていけない。だから、この土地の実りと安全を願わずにいられないが、それは神の御心に反することではないと理解することができる。バビロンの中に住んでいるイスラエルの民は、とらわれている町の中で、安らかに暮らすために、町の平安を願っても良いとされた。

 だが、注意せねばならないことは、異教の町の安全を願うことは良くとも、エルサレムの民は、決して、その異教の町から霊的影響を受けてはならないと主から命じられたことだ。

「あなたがたのうちにいる預言者と占い師に惑わされてはならない。また彼らの見る夢に聞き従ってはならない。それは、彼らがわたしの名によってあなたがたに偽りを預言しているからである。わたしが彼らをつかわしたのではないと主は言われる」(エレミヤ29:8-9)

 注意せねばならないのは、「わたしの名によって偽りを預言している」と、神はエレミヤを通して、はっきりと警告されたことである。異教の神の名によってなされる預言ではなく、まさに唯一の神の名においてなされる預言の中に、信じてはならないものがあると警告がなされたことである。
 現代における背教もこれと同じである。私たちが警戒せねばならないのは、非キリスト教の教えではなく、キリスト教の名でやってくるあらゆる背教である。だが、その背教が、明らかな異端と分かっている腐敗した教えや、カルトと名指しされている集団や、ニッポンキリスト教界の名だけでやって来ると思っていたら、大間違いだ。背教はまさに主の御名を通して(偽のキリスト者から、もしくは堕落しつつあるキリスト者から)やって来るのである! 主の御名をかたりながら、偽りを広める人間は、どこにでも存在しうるのだ。(明日にでも、私がそうならないという保証はどこにもない! 主が私を守ってくださり、御言葉のうちを歩めますように!)

 背教に囲まれている今の時代にあって、神の名を用いながら、神が語られたのではない教えに影響を受けた誰しもが、疫病のように、背教を持ち運ぶ器となりうることに、私たちは注意せねばならない。さて、とらわれた民に向けられたエレミヤの預言は、次の有名なくだりにさしかかる。

 「主はこう言われる、バビロンで七十年が満ちるならば、わたしはあなたがたを顧み、わたしの約束を果たし、あなたがたをこの所に導き帰る。
主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災いを与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。
その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈を聞く。
あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会うと主は言われる。
わたしはあなたがたの繁栄を回復し、あなたがたを万国から、すべてわたしがあなたがたを追いやった所から集め、かつ、わたしがあなたがたを捕われ離れさせたそのもとの所に、あなたがたを導きかえろうと主は言われる。」(エレミヤ29:10-14)

 バビロンでの捕囚には70年という月日が定められていた。この捕囚の終わりは、私の人生においては、キリスト教界を抜け出た事件とも重なって見える。だが、考えてみよう。キリスト教界を抜け出れば、それがすなわち、バビロンを抜け出たことになるのか? それが、私が背教の影響にさらされる時代の終わりとなるのだろうか? 違う。断じて、そうではない。

 この曲がった時代にあって、一体、どんなキリスト者が、バビロンの包囲から完全に抜け出たなどと豪語できるだろうか。いや、今なお、私は捕囚の状態にあると言った方がふさわしいだろう。もちろん、主はそのとらわれの苦しみの中でも、私に平安と、将来の希望を約束して下さっている。だから、主に信頼して、揺るぎない平安の中に立っていれば良いのである。だが、真実の解放は、主の定められたその時(サタンの完全な敗北と主の再臨の時)でなければやって来ないことを忘れるわけにはいかない。

 確かに、私にはかつて奪われたものが少しずつ主の恵みによって回復されつつあり、追いやられた土地から、主の御名のもとに集まる人々のもとに引き戻された。だが、それで万事が回復し、警戒の必要はなくなったのかと言えば、そうではない。もはや背教は後ろに過ぎ去り、私とは無縁になったと言えるかと言えば、そうではない。油断は禁物である。戦いはまだまだこれから始まるかも知れないからだ。(いや、恐らく、今からが本番なのであろう。)

「あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会うと主は言われる。」

 エクレシアとは、一人ひとりの信者が神だけを一心に尋ね求めて、神に出会う場所のことだ。それはどこか限定された一区画の土地である必要はまったくないし、集まる人々の種類にもよらない。
 私たちがただ主のみに心を向け、ただ主ご自身の臨在のみを求める時に、神自らが私たちに会ってくださるのだ。仮にそれが一人ぼっちの礼拝であったとしても、神が臨在されるならば、それは十分に礼拝であると言えるだろう。だから、恐れることはない。私たちは信者に会うために常にどこかに出かけようとする必要はないし、集うことに過度なこだわりを抱く必要もない。ただ、神にお会いすることだけを切に求めていれば、全ては兼ねて与えられるのだ。
 
 集団的な跪拝というものが作り出す情熱と興奮を求めて各地を行き来することがないよう注意しなければならない。そのような情熱の中に、背教が大きな原動力を見いだしていることは確かだからだ。だが、それでも、もしも許されるならば、私は心から共に主を礼拝する仲間と出会い、喜びを分かち合いたいと願わずにいられない。そして、共にキリストの御身体なる兄弟姉妹として、欠けた部分を補い合い、互いに助け合い、支え合って生きていきたいと思わずにいられない。(もちろん、神の御前での単独者としての立場を忘れるわけではないが、これ以上、一人きりで信仰生活は、沢山である。)
 私は心の底から、兄弟姉妹と集える日が来ることを願い、また、そのことを切に主に求める。

 主よ、あなたのいつくしみ深さ、恵み深さをどうかもっと私に教えてください。
 あなたの私への愛の広さ、深さを、どうかもっと知らせて下さい。
 あなたこそがすべての恵みの源。私はあなたの愛を求めてやみません。
 花婿なる主よ、私はあなたにお会いしたいのです。
 あなたが私のうちにおられるだけでなく、主を愛される人々の只中に、
 臨在されることを知りたくてたまらないのです。
 主よ、あなたの訪れをただ待ち望みます。

 
 

これがエクレシアだ!

 昨日は、映画「精神」の最終上映日だった。危うく忘れるところだったが、ぎりぎり滑り込んだ。地元で撮影された映画とあって、結構な人数が観に来ていた。終わった時、観客の中には泣いていた人もいたようだ。だが、私にとっては重すぎたこの映画の内容については、今は何も語れそうにない…。

 当初、残る時間で買い物をする予定であった。こちらに来てから、はや1年が経とうとしているのに、私は未だ岡山の地理についてほとんど知らない。今日、初めて、路面電車に乗った。100円でわずか三駅ほど走っただけだが、懐かしい感じがした。大阪には路面電車はない。モスクワでは路面電車を使わずにはどこにも移動できなかった…。

 楽器店で、何ヶ月も前から気になっていた楽譜を買う。それでも、まだ沢山時間が残っている。だが、地下街や商店街を買い物して歩く気にはなれなかった。それは、ある荘厳な出来事が私の心を捉えて離さなかったからだ…。

 「エクレシアとは何か。」
 その実体が、これほどに胸に迫って来た日はなかった。エクレシアのことを思うだけで、涙せずにいられないほどの感動を覚え、神に召し出された花嫁としての教会が、あまりにも強く私の心を捉えたので、他に何一つ考えることができなくなった。私は待合室の静かなベンチを探し、そこでただ呆然と主の御業を思った…。

 山谷少佐が「続・目カラ片鱗ノ剥落スル事」の中で、その時に、私が考えていたのと全く同じ事を書いておられるのが、重ねて驚きである。私の駄文をご引用下さっているようだが、山谷少佐のコメントだけをご参照いただきたい。以下、引用。

「私は主のもの。あの人も主のもの。そこにあるのは、ただ、主の至高の愛である。
この愛の下に置かれているのが、本然のエクレシアなのだ。
それは、伝統とか機構とか制度とかには、よらないものである。
もちろん、そういうシステムが、この『中間の時』には必要とされているけれども、本然のエクレシアの『本質』は、そういうことどもの中には、ない。『本質』は、ただ、主の至高の愛の中にあるのだ。

ある兄弟たちは、人為的に伝統や機構や制度を『合一』のものにしようとして、苦心惨憺したが、どうも上手く行かなかった。本然のエクレシアの立場からすれば、その努力は徒労だったということであろう。
なぜなら、主の至高の愛において、兄弟姉妹はそもそも最初から『一』であり、また、永遠に『一』なのであって、決して分割されることが出来ないのだから。
というのは、主の至高の愛が、分割され得ないものだからである。」

 読者はご存知かと思うが、私は近々、これまで一度もお会いしたことのない信仰の兄弟たちのもとに出かけようとしていた。しかし、今の今まで、私には自分のしようとしていることの意味が、何も分かっていなかった。
 告白すべきことは、私は今日に至るまで、エクレシアとは何であるかを、ただ文字の上でしか知らなかったということだ!

 私の知っていた教会とは、あまりにも、薄っぺらでお粗末なものであった。それは多分、教会と呼ばれるべきでさえなかったろう。たとえば、日曜日の午前10時半に、眠い目をこすりながら、礼拝堂へ駆けつける。かなりの期待を持って、説教に耳を傾けてはみるものの、ナニカガチガウ、と、心は満たされない。気を取り直して、午後の部会に出席し、信徒との交わりに期待をかけるが、さらに、コンナノハマヤカシダ、との苛立ちが心に去来する。それでも、何とか気を取り直し、仲の良い信仰仲間とお茶を飲みに出かけ、率直に語り合うが、そこでも、ナニカガココニハケッテイテキニカケテイル、との虚しさが心を襲う。ついに、時間切れとなって、帰宅の途につきながら、キョウモナニモエラレナカッタ、コンナキモチノママ、アトイッシュウカンモ、スゴスノカ…と、より一層ひどくなった飢え渇きを抱えて日曜日の夜を迎える。それが私にとっての教会だった。

 そのようなことがあまりにも普通になってしまったので、私は信徒の交わりというものに、もはや多大な希望を寄せることがなくなっていた。会って、励ましあい、祈りあい、それなりに、傷つけあうことなく、有意義な時間を過ごせれば、それ以上、何を求めることがあろう。

 だが、それは本当の教会というものを知らないがゆえの、あまりに大きな誤解であった。主の視点に立って人を愛する、ということを理解した時に、私は教会の持つ重大な意味に圧倒されてしまった。
 
「私は主のもの。あの人も主のもの。そこにあるのは、ただ、主の至高の愛である。この愛の下に置かれているのが、本然のエクレシアなのだ。」

 私が出かけようとしていたのは、主が心から愛されている人のもとであった。神によって聖なる宮とされた人々のもとであった! それを理解した時、私は畏怖の念に打たれ、何メートルも後ろに後ずさりして、ひれ伏したい思いに駆られた。私の目の前にあるのは燃える柴だった!

ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」(出エジプト3:5) 

 主が臨在される聖なる地、そこがエクレシアなのだ! 私はその地を目の前にして立っていたのに、それと気づいていなかった! 自分の汚れ切った靴(セルフ)を脱ぎ捨てなければ、そこに近づくことは誰にもできない。もしも私が靴を脱ぎ捨てなければ、私は兄弟たちに利己的な感情を持って近づくことになり、それは私が神の宮に対して害意を抱くことに等しい。神は私を滅ぼされるだろう!

「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。」(Ⅰコリント3:16-17)

 一人ひとりが神の宮とされている兄弟姉妹たちの作り出すエクレシアの神聖の前に、私は深く頭を垂れずにはいられなかった。主は何と一人ひとりを深く愛されていることだろうかと、改めて思わずにいられなかった。彼らは、私にとっても、まさに命であり、希望であり、貴い宝である。会ってもいない人々に、いつの間にか、どれほどの愛情を抱くようになったことか。こんな不思議なことが起こりうるだろうか。だが、それでもまだ、神の宮としての兄弟姉妹に私は十分な敬意を払っていなかったのだ。
 不思議なことに、そう自覚したことによって、私は自分がエクレシアに近づく資格がないと感じたかと言えば、そうではなかった。むしろ、抑えがたいほどの思いで、私はかえってそこに行きたくてたまらなくなってしまったのである!

 それは、まるで遠方にいる恋人との邂逅を、指折り数えて待ち焦がれるような、居ても立ってもいられない気持ちだった。彼らのいるところに、私も行きたい。私はそこに行きたい。いや、何としても、行かなければならない。幾山河越えようとも、海を渡ろうとも、陸を徒歩で越えようとも、どんな距離があろうと、どんなに時間がかかろうとも、何としても、そこに辿りつかずには置かないというほどの強い思いだった。
 一体、私はどうなってしまったのか。人への執着心はもうとうに振り払ったはずなのだが、この恋慕の情に似た思いは何なのか。どうしてこれほどまでに、彼らに会いたくて仕方がないのか。この居ても立ってもいられない焦燥感のようなものは何なのか。これは本当に良い感情なのだろうか? 何がこれほどまでに私をそこへ呼び、惹きつけるのか。

「天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである」(マタイ13:45)
「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)

 主が呼んでおられるのだ。それ以外には、どう考えても、答えがなかった。神が召し出された花嫁を一人ひとり呼び出し、集めようとされておられるのだ。主がご自分の愛される人々に、教会として、御前に立つように、求めておられるのだ。
 その時、主が花嫁たる教会をどれほど愛され、一目でもよいからその姿を見たいとどんなに願っておられるかを、私は胸苦しいほどの思いで理解した。主は、たとえ二、三人でも、主の御名のために集まる人々を見たくて仕方がないのだ。そこに臨在されたくて仕方がないのだ。そのためにこそ、神はご自分を愛する人々を常に地上のどこかで召し出されているのだ。

 私の心の中には、信徒として主を慕う気持ちと、花婿なるキリストが花嫁を呼ばれる気持ちと、その両方がせめぎあい、抑えがたい感動が起こった。キリストとエクレシアとの結婚という、壮大な歴史を超えた物語に、ちっぽけな人間に過ぎない私の心は圧倒されてしまった。

 歴史上、いくつかの全体主義体制の下で、過酷な弾圧を受けながら、人々が命の危険を冒してまで、教会に集うことをやめなかったその理由を、私は生まれて初めて理解した。共産党政権下の中国で、なぜ集会が法律で禁止されているにも関わらず、人々は命の危険に晒されながら、地下教会を作って、集まり続けたのか。ただ励ましあうためだけに、そのようなことができるだろうか? なぜ皇帝ネロの時代に、『クオ ヴァディス』のマルクス・ウィニキウスとリギアの二人のように、競技場で火あぶりにされることをもいとわず、人々はクリスチャンとして集い続けたのか。ただ神を礼拝するだけならば、一人でもできることではないか。
 彼らは集まらずにいられなかったのだ! なぜなら、主の花嫁であることをやめることができなかったからだ!

 それは、主が彼らを花嫁として召し出されたからに他ならない。主が切に、主を愛する人々の集まる姿を見たいと望まれたのだ。そして人々はそれに応えずにいられなかったのだ。
 私は、信仰者たちが集まろうとするその理由を、今日ほどはっきり理解したことはなかった。ちょうど親指と人差し指が同じ手の平に属しているのと同じくらい確かに、私は自分がキリストの御身体の一部であることを感じる。たとえ私がそこで髪の毛一本、あるいは目に見えない細胞一つのように小さな存在に過ぎなかったとしても、そんなことには一切、関係なく、私はキリストの身体である以上、その永遠の一致の中に身を投じるために、兄弟たちのもとに出かけて行かずにいられないのだ。私は呼び出されており、その招きに応えて、その「場所」に馳せ参じずにいられない。これは何者によっても押しとどめることはできない。主がそうされているのだから!

なぜなら、主の至高の愛において、兄弟姉妹はそもそも最初から『一』であり、また、永遠に『一』なのであって、決して分割されることが出来ないのだから。

 そして、このことを思う時、あの堕落した天使は、やることなすこと全てが神の働きの亜流であり、出来損ないの模倣であるということを私は思わざるを得なかった。システムによる一致とは何か。それはエクレシアの出来損ないの模倣である。もしも共産主義が神の国の出来損ないの模倣であるとすれば、あの、冷たい、血の通わない教会、無機質で、強制的で、死んだ、機械的なシステムとしての教会は、生きて、自主性に貫かれた、何によっても消すことのできない、燃え盛る火のような愛を持ったエクレシアの、似ても似つかないコピーだとしか言えない。

 だが、死んだシステムにも、時には、生きた聖なる愛と極めてよく似た感情が宿ることがある。それは人の知性によっては、偽物と見極められないほどに、エクレシアの精巧な模型となることがあるかも知れない。バベルの塔建設には、「何事によっても押しとどめることができない」(創世記11:6)ほどの歓喜があり、誇りと、感動による一致があった。それは恐らく過酷な強制労働などによっては建設されなかったことだろう。

 バビロンとエルサレム。永遠に対立する二つの都。人為的な興奮による一致と、主が永遠の昔から定められた愛による一致。一方の人々はバビロンを求めてその興奮に群がり、私たちは聖なる都を目指して、消すことのできない主への愛と、兄弟姉妹への愛を胸に、万難を排して旅を続ける。この身を主の御前に投じるその日が、焦がれるほど待ち遠しく、心を一つにして人々と共に主の御前に集う日が、焦がれるほど待ち切れない。これだったのだ、エクレシアの正体とは。私は今日まで、そのことをただの一度も理解せずに来たのだ。

 いつかずっと前、Sugarさんが書いておられたことを覚えている。

「キリスト者のあつまりは実に単純なものです。(複雑なものには要注意)
先ず、集まる理由はただ『会いたいから』です。私達はただ兄弟姉妹に会いたいから万難を排して会いに行くのです。更に言葉を加えるとするならば、それは『私の中のキリストが他のキリスト者の中のキリストに触れたいから』なのでであり、そこには、キリストの人への愛の力が作用しているから、と言う事になるのでしょう。私達はただその理由の故に『どうしようもなく』集まってしまうのです。
そこに存在するとても自然でしかも不思議なある種の吸引力、この『単純な衝動』がキリスト者が『集まってしまう』と言う生命現象の説明です。」

 あの日曜の朝10時半から始まる、砂をかむように味気ない礼拝の記憶など、ゴミ箱に捨ててしまえば良い。焦がれるほど、そこに身を置きたくてたまらず、泣き出したいほど、愛しくてたまらず、命かけてでも、そこに集わずにいられない、愛によって結ばれた兄弟姉妹のいる聖なる場所、それがエクレシアなのだ。たとえ投獄されようとも、死の危険が待っていようと、それが何だろうと思わせるほどに、会いたくて仕方がない、集わずにいられない、召し出された者たちのために用意された命と愛に満たされた場所、それがエクレシアなのだ。不思議な愛の感動の中に、私は言葉を失って佇んでいる。
 


初めの愛

 日が昇って、辺りが明るくなりつつある。昨日より、神に捧げる愛が、私の中に、まるで潮騒のように優しい音楽となって鳴り響いている。旋律も和音もないのに、不思議なほど感動的な調べなのだ…。
 「初めの愛」に引き戻された。今はどんな斬新な話題も要らないし、緻密な分析も要らない。時事的な話題で人目を集める必要もないし、人の語る言葉の刺激によって自分を満たす必要もない。こうしてブログを書くことさえ億劫なほどに、主との語らいが、大きな安らぎとして身に迫ってくる…。

 静かなところへ身を避けて、主との一致の中で、安らかに、半生を振り返る。これまでの人生に起きた喜びと悲しみと、壮絶な苦悶の跡も含めて、すべての事柄をもう一度、主の視点で見ながら、語り合う。
 ああ、あの場面でも、主は私と共におられたのだな。この場所へ来た時も、やっぱり、一緒におられたんだろうか? 旅の道連れと心が通じず、破れた心を抱えて、自分は一人ぼっちで、見捨てられていると思っていたあの時でさえ、私は一人ではなかった…?
 全ての心の打ち傷について、主に率直に申し上げる。すると主は私の祈りに応えて、それを御言葉によって温かく包んで下さる。

 神は聖書の中で、キリスト者の夫になったり、親になったりと、結構、忙しい。やはり、私の中で一番、近しく感じられるのは夫から妻への呼びかけだが、戒めを語る時には、「わが子よ」という表現が多く用いられる。

 「わが子よ、わたしの言葉に心をとめ、
 わたしの語るところに耳を傾けよ。
 それを、あなたの目から離さず、
 あなたの心のうちに守れ。
 それは、これを得る者の命であり、
 あまたその全身を健やかにするからである。
 油断することなく、あなたの心を守れ、
 命の泉は、これから流れ出るからである。
 曲った言葉をあなたから捨てさり、
 よこしまな談話をあなたから遠ざけよ。<…>
 あなたの足の道に気をつけよ、
 そうすれば、あなたのすべての道は安全である。
 右にも左にも迷い出てはならない。
 あなたの足を悪から離れさせよ。」(箴言4:20-27)

 私の心はまるで海の色のように刻々と変化する。海のように荒れ、または穏やかに波打つ。その心を守れと主は語られる。自分の心を見張れ、と。この世の事象によって心騒がせるのではなく、御言葉によって心が導かれるようにせよ、と主はおっしゃる。それが私の健全さと、命の泉を保つための秘訣なのだと。その通りに従おう。

 近々、主は私が知らず、考えたこともないような新たな恵みへと導いて下さるのではないだろうかと思いを馳せる。世はますます混乱へ向かうかも知れないが、それに反して、キリスト者はますます主にあっての喜びと平安に満たされるだろう。

 格差とは、経済的なものではないのだ。このことに、どれほどの人々が今、真に気づいているだろうか。この先、神の御言葉に立つ者の豊かさと、御言葉に立たない者の貧困という、霊的格差はますます広がっていくだろう。御言葉に立たない者の貧困はあまりにも著しくなり、求めても、求めても、安らぎが得られなくなるかも知れない。御言葉を聞くことへの飢餓が始まるだろう。そして、よく言われるように、その飢饉はすでに始まっているのだ…。

 花嫁は婚礼へ向けて、身支度を始めなければならない。灯りと油を用意せねばならない。救いの確信に立ち、御言葉の光を保ち、霊によって導かれて生きなければならない。人生の時間はいつまでも永遠に与えられているわけではないのだから、限られた生の中で、神に召し出された花嫁としての身支度をクリスチャンは完全に整えなければならない。この峻厳なたとえ話を思い出し、愚かな花嫁になってはいけないと自分に言い聞かせる。

「私にできるでしょうか、主よ?」
 不安に駆られてそう尋ねるならば、主はきっとこうお答えになるだろう。
「あなたがするのではない、私がするのだ」

 聖書に出て来る花嫁の身支度の場面は、私にとって特別な意味を持っている。いつかまた語ることがあるかも知れないが…。主に召し出された花嫁の晴れ姿はいかばかりに美しいものだろうか? だが、そのきらびやかさ、美しさばかりに思いを馳せるのでなく、今、もう一度、心を厳かにして、私がいずれ臨もうとしている婚礼の厳粛な意味を考えてみる。何度、考えても、私はそれにふさわしい人間ではない。主が私を聖めて下さらなければ、どうしてその日に私は主の御前に恥ずかしい思いをせずに立ちおおせようか。

 主よ、どうして私のようなものをお選びになって下さったのですか?
 一瞬にしてこの地上を過ぎ去り、気づけばもう消えている道端の草のようなこの命の短い者を、永遠の存在であるあなたがお選びになることなど、どうして起こり得たのでしょうか?
 どうしてあなたが私を愛されるなどという奇跡が起こり得たのでしょうか?
 さらに、あなたがこの私のために命を捨てられたとは、何という信じられないほどの不思議でしょうか。
 人とは何者なのでしょうか。
 人が何者だから、あなたはこれほどまでに人に目を留めれるのでしょうか。

 神は、限りある命の、脆く弱い人間のために、小羊なる御子イエスの命を与えられた。その血によって人を罪から洗い清め、神にふさわしい聖なる花嫁となるようにされる。