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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

先の者が後になり…

 家を一歩、外に出ると、緑がギラギラ。水がギラギラ。
 河べりの土手を走ると、中州に生い茂る緑と、河を流れる濁流のような水が、凶暴なほどの生命力となって私の身体を刺し貫く。これが主から来る生命力なのか、被造物そのものが持っている生命力なのか、よく分からないが、照りつける太陽の下で、いかに被造物全体が成長の喜びの雄たけびを上げているかが分かる。木も、森も、水も、河も、まるで音に聞こえない大合唱のように、生命の賛歌を歌っている。

 川沿いの道を走ると、いつも喜びが心に溢れてくる。まるで何ヶ月か分くらいの若返りの力をもらっているような気がする。被造物全体が主の現われを切に待ち望んでいる、という聖書の箇所は、ひょっとして、こんなことにも通じるのだろうか…。被造物の大コーラスの中に入れられて、私は喜びに浸される。彼らと一緒になって、いつまでも歌い続けたい。
 このまま、ガードレールを突っ切って、車ごと河の中に飛び込んでしまえれば、どんなに心地よいだろうか!

 さて、このブログは、真理を覆い隠す偽りの教えについての分析をも課題としているので、この先、その作業を続けていきたいと思っている。多分、かなり深刻な描写も加わるだろうことをお許しいただきたい。

 だが、それとは関係なく、私自身について言えば、今は主によって、不思議なほどの安息の喜びに入れられている。主にあっての兄弟姉妹たちを得たことの喜びがあるだけでなく、これまでに辿って来た様々な苦難のために生じた心の傷や痛みが、完全に過去のものとなりつつあり、回復の最後のステージに自分が立っていることが分かる。

 これまで、私に最も苦痛をもたらした問題は何であったか、誰か想像することができる人がいるだろうか。
 それは、長子であるがゆえのプライドであった。

 ある時点で、私は主の御名のために、どんな災難をこうむっても構わないと覚悟を決めたが、それでも、私の心を苛み続けたのは、私が自分の人生において、年少のきょうだいたちよりも、遅れを取っているという自覚であった。カルト化教会の事件が、私から貴重なものを根こそぎ奪ったためである。その意味で、私は長子でありながら、まるで末のきょうだいよりも劣った者のようにされた。

 さて、先の者が後になり、後の者が先になる、というのは、聖書にはよく見られる光景である。たとえば…。
 アダムは誘惑に屈して死んだが、第二のアダムなるイエスは人を救い、天に昇られた。
 カインは兄であったのに、アベルに勝る者となれなかった。
 エサウは兄であったのに、ヤコブに長子の権と祝福を奪われた。
 ヨセフの兄たちは、年長者であったのに、弟ヨセフに父の愛を奪われた。
 放蕩息子の兄は、間違いを犯さなかったのに、弟の方が盛大な祝宴にあずかった。
 イスラエルは選ばれた民であったのに、異邦人が先に救われることになった。etc.
 
 だが、長子として生まれた私は、そういう話を聞くと、いつも何かしら侮辱のようなものを感じてしまうのだった。どうしても、私は年長者の立場に立って物語を眺めてしまい、彼らの方に同情してしまう。「父よ、あなたの祝福はただ一つだけですか。父よ、わたしを、わたしをも祝福してください」(創世記27:38)と声をあげて泣いたエサウの気持ちが、私には痛いほど分かる。彼が弟ヤコブを殺そうと思った、その復讐心もよく分かる。

 長子としてのプライドというのは抜き難い、厄介なものだ。年少者に見下されることは、本当に、つらいものがある。そうなっても、怒ったり、仕返ししたりせずに、悠然と顔を上げて、非難や軽蔑をかわせるようになれば、もはや、地上でやり残した仕事はないと言えるほどに、人格ができ上がったと言えるかも知れない。生まれ持った自己のプライドを捨てるということは、人にとって、それくらいに難しい。

 だが、聖書はあくまで、選びによる救いではなく、恵みによる救いを主張する。長子として生まれた、あるいは、自分は神に選ばれた選民である、そのような「選び」の上にあぐらをかいて、その特権に満悦し、そのステータスが自分に義をもたらすと考えて自己安堵しているような人々は、必ず、後から来た者に祝福を奪われ、出し抜かれる羽目になるのだ。

「なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。」(ローマ10:3-4)

 自分の義。それは「私は神によって選ばれた者である。それゆえ、私は神に祝福されて当然である」という高ぶりであり、それは神の恵みを自分の当然の権利であるとみなし、たとえ神に祝福されても、ただ自分に栄光を帰そうとする。
 対して、神の義。それは選びではなく、信仰による義である。「神はご自分があわれもうとする人間をあわれんで下さる。私は神にあわれまれる資格を持たない人間だったにも関わらず、恵みを受けたので、ただ神に感謝を捧げよう」と、祝福されても、自分ではなく、神に栄光を帰する。

 私はかつて誤った信仰を持ち、誤った教会に足を踏み入れ、そこで人生を浪費させられた。そのことで、深い挫折と、失望と、恥の意識を感じてきた。まるで詐欺師の甘言に騙され、自己破産してしまった人のように、肩身が狭かった。肉親の前に顔を上げられない。きょうだいと合わせる顔がない。親族の幸せな人生のニュースをまともに聞けない。長いこと、そういう心境が続いた。それは私が頼みとして来た自分の義、自分のステータス、自分のプライドが、最後の最後まで、完全に打ち砕かれた瞬間であった。

 だが、そのために生じた失意や挫折の意識も、今、主によって取り扱われ、消滅しつつある。すると、以前は失意が占めていた場所を、今度は平安が占めるようになって、新たな喜びが心に増し加わるのである。

 今、私は思う、私の失敗は何のためであったか。それは私でなく、他の人々の命が救われ、他の人々が恵まれるためであった。それは私が神から捨てられたことを意味しない。私は苦しみによって、人格を練られ、信仰が増し加わり、一度は、失われた者となっていたが、今は再び見いだされた。さらに、この先、私の挫折体験は、きっと、今はキリストから離れている、肉にあってのきょうだいたちを、救いに立ち返らせるきっかけともなろう。だから、万事これで良かったのである。

 兄たちに妬まれてエジプトに売られたヨセフは、兄弟に再会した時に言った、「わたしをここに売ったのを嘆くことも悔むこともいりません。神は命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです。」(創世記45:5)
 主は兄弟全員の命を救うために、時に、順番を入れ替えられることがある。

 ローマ人への手紙にもこれと類似した内容が見いだせる。神はイスラエルの民の心をかたくなにして、異邦人を先に救われたが、それは神がイスラエルを無用なものとして捨てたことを意味していなかった。それは選びによる義を打ち砕いた後で、信仰による義という恵みによって、全ての人を救うための神の計画であった。神は、兄たちに先んじて弟ヨセフをエジプトに送ったように、全ての命を救うために、イスラエルの民より先に、異邦人を遣わしたのである。

 選びによる義は信仰による義に勝らないが、それにしても、選びそのものが無意味なのではない。切り捨てられた枝としてのイスラエルについて、パウロは言った、「神には彼らを再びつぐ力がある。なぜなら、もしあなたが自然のままの野生のオリブから切り取られ、自然の性質に反してよいオリブにつがれたとすれば、まして、これら自然のままの良い枝は、もっとたやすく、元のオリブにつがれないであろうか。」(ローマ11:23-24)

 私はこんなことも考えてみる。ひょっとすると、選びの上に自己安堵していたがゆえに、キリスト教界は今日のような有様となったのではないだろうか。そこでは、名の通った教会に所属し、教会籍を持ち、立派な牧師や信徒と呼ばれ、世間でもクリスチャンとして知られ、自分でも信仰暦何十年との自負を持つ多くの信者が、心頑なにされ、御言葉から遠く離れ、愛から遠く離れ、偽りの信仰と無知の中に落ち込んで行った。そして、逆に、選びから漏れ、教会を追い出され、所属場所も失ったような人々が、神への愛と真実に立ち戻り、熱い信仰に立っている。

 だが、たとえそうだとしても、私たちは決してそのことで誇らないようにしよう。
 「あなたがたはその枝に対して誇ってはならない。たとえ誇るとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのである。<…>高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい。もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、あなたを惜しむようなことはないであろう。」(ローマ18,20-21)

 神は不信仰な者をいつでも切って捨てることがおできになる。生きている限り、神の御前で、自分は天国の住人として完全に選び出され、その約束と権利は永遠に変わらない自分固有のものだと言い切って、誇ることができる人は一人もいない。それらの約束はひとえに、神のあわれみと恵みによって私たちに与えられたものであり、私たちが御言葉のうちにとどまらないなら、いずれ取り上げられることは間違いない。

 だから、他人の不従順を見たとしても、自分が恵まれていることを決して、誇らないようにしよう。なぜなら、神のご計画は、人の不従順の中にさえ働いているからである。
 どうして今日のキリスト教界がこのような様相を呈しているのか不明だが、恐らく、もしもそれがなければ、救われなかったであろう人々が、今、救いにあずかっているのであろう。だから、心頑なになった人々を、私たちはあざけることなく、むしろ、全てのことの背後に働いておられる神のご計画に厳かに思いを馳せ、恵みを与えられた喜びをもう一度、心の中で味わうにとどめたい。

 「神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである。
 ああ、深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。」(ローマ11:32-33)

 この御言葉は、私の不従順ゆえの挫折に関しても、深い慰めをもたらす。私自身にとっては失敗であり、遅れでしかなく、恥にしか感じられないような様々な体験も、神の深遠な知恵の中では、必ず、益として用いられることが定まっているのである。私自身に益をもたらさなくとも、それは必ず他の人々に益をもたらすのである。
 そして、「神の賜物と召しとは、変えられることがない」(ローマ11:29)。
 私は神から捨てられたのではない。この私にも、主は何らかの召しと賜物とを確かに与えておられるのである。

 だから、順番にはあまりこだわらないようにしよう。自分の賜物や召しがどんなものであっても、それを人前で、あるいは、主の御前で誇ることがないようにしよう。神は日暮れ前になって後から雇われた人々にも、先に雇われていた人々と同じように、永遠の命という恵みを平等に分け与えて下さる寛大な方なのである。
 先の者も、後の者も、共に救いにあずかることが、主の御心である。救われる人が一人でも増えることが天における喜びである。だから、先であるか、後であるかにこだわる必要がない。今はただ、失われた者であったのに、見いだされ、切り捨てられるべき枝であったのに、幹であるキリストに接木され、キリストを知る絶大な喜びの中に導き入れられ、豊かな命を得ている幸いに思いを馳せよう。

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救いはただ神から来る

兄弟たちよ。あなたが召された時のことを考えてみるがよい。
人間的には、知恵のある者が多くはなく、
権力のある者も多くはなく、
身分の高い者も多くはいない。

それだのに神は、知者をはずかしめるために、
この世の愚かな者を選び、
強い者をはずかしめるために、
この世の弱い者を選び、
有力な者を無力な者にするために、
この世で身分の低い者や軽んじられている者、
すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。

それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。
あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。
キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、
義と聖とあがないとになられたのである。
それは、『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりである。(Ⅰコリント1:26-29)
 

* * *

 これは私の好きな聖句の一つだ。
 私は弱い者として生まれた。その立場の弱さゆえに、これまで、様々な苦悩を経験せねばならなかった。人から蔑まれ、惨めな思いをせねばならなかったことも何度もあった。だが、神はあえてそのような弱い者を救いの対象として選ばれたのだとまさに聖書は告げている。それは、その人間が救われたのが、その人の力によらず、ただ神の力によることが証明されるためである。

 ああ、だから、私はこれからも、ずっと弱いままでいよう! そしてその弱さの中に、キリストの力が輝くことを、ただ目撃し、キリストの強さをのみ楽しもう! 
 時折、私は強くなりたいと願うことがある。人々から愛され、誇れるものをより多く身に付けたいと切に願うことがある。確かに、貧しさや苦しさ、孤独は、これまで耐え難いほど私を苛んだ。そこで、二度と、そのような目に遭いたくないと、人の気持ちとしては、強く願わずにいられない。
 だから、時として、聖書の約束に私は身勝手な形ですがりつく。キリスト教が、貧しさを抜け出し、孤独を抜け出し、幸せな生活を手に入れるための手段のようにさえ、映ることがある。

 だが、そのような思いにはさよならを告げて、やはり、私は、これからも弱いままでいようと思う! それは、私が弱いからこそ、そこにキリストの強さを見ることができるからだ。財産が、学歴が、強靭な体力や、健康が、何を私に保証してくれる(た)だろうか。それらが頼れるものであったなら、なぜ今までのような生活が私にあり得ただろうか。仮にこれから先、誰もかなわないほどの力ある、魅力的な友人を持ったところで、その人が私に何を保証してくれるというのだろう。その人が私に永遠の命を保障できるというのだろうか。

「神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれた」

 この聖句の中には、どんな革命も及ばないほどの大転換がこめられている。この世で知者だと自惚れている人たち、権勢があると自負している人たち、高貴な生れの人たち、すべての強者に勝って、神はこの世の愚者、貧者、軽蔑されている者、取るに足りない者を、御前に高く掲げられたのである! 神はこの弱い人たちを愛されたのである!

 だから、私は愚者でよかった。
 軽蔑されてよかった。
 取るに足りない者でよかった。

 私の救いは、ただ神だけから来る! そのことが、私を通して今後も証明されますように、と願わずにいられなかった。不思議な静けさが心に戻った朝であった。

 


和解の尊さ

 昨日、大学病院に両親とともに祖父を見舞いに行った。祖父は緑内障の進行を食い止めるために手術を行っている。今のところ、それほど悪化していないため、見舞いに行くのも気が楽であった。

 それにしても、私が時代遅れな人間であるせいかも知れないが、最近の大学病院内の設備の充実ぶりには驚かされた。病院内にスターバックス・コーヒーがある! すずらん通りと名付けられた通りがある! 寿司屋があり、美容院がある! シャワー室、トイレなどの設備の充実もさることながら、くつろぎのための施設の何と多いことかと、私はまるで観光客のようにもの珍しげに病院内を眺めて歩いた。まるで病院全体が一個の街のようだった。

 だが、奥まった通路に向かうに連れて、次第に、病院ならではの薬の臭いが鼻につき、だんだん閉じ込められるような閉塞感に襲われるのは、毎度同じであったが…。

 祖父は快適な病室で、携帯メールを打ちながら、ゆうゆうと過ごしていた。沢山の人からお見舞いのメールをもらって実に嬉しそうであった。(私などは生まれてこの方一度も携帯電話を持ったことがないというのに)。

 本当のことを言えば、眼の手術を受けるべきは祖父ではなく、私なのかも知れない。私は生まれつきの斜視(両眼視の不可)ゆえに、ものがそもそも二重に見えていることに加えて、右眼にかかっている軽い乱視が、近視の進行につれて、ますますはっきり感じられるようになりつつある。つまり、私にはものが四重に見えるようになってきているということだ。これは冗談ではなく、ひどい現実であり、そのために、眼精疲労が蓄積し、今は15分と本を読めなくなってきている。

 子供の頃には遠視のせいで、眼鏡が手放せなかったという経験もあって、今は眼鏡やら、コンタクト・レンズといった、人工的なアイテムは、できる限り、ご免こうむりたいと思っている。だが、そんな悠長なことを言っていられなくなってきた。私の左眼の視力は0.01以下、右眼も0.5を切っている。この両眼の視力の大差のためだけでも、脳内にかかる負担は膨大なものであり、本格的に視力を矯正すべき時が来ているのは明白だ。もしも両眼視不可の状態が手術によって治るなら、喜んでその手術を受けたいと思うのだが…。

 さて、祖父のいる病室で、両親と祖父との会話を、私はただ遠くから黙って聞いていた。元気に暮らしているきょうだいの消息などが耳に飛び込んで来ると、どうしても、私は今でもカルト化教会の残酷な事件がどれほど私の人生にとってロスになったかを思い出して、心に痛みを覚えずにいられなくなるのだ。

 けれども、その日、私はただそこにいるだけで十分であった。
 私は祖父を赦しており、和解の気持ちを表すために、そこへ赴いたからだ。何一つ言葉を交わさなくとも、祖父にはそのことが伝わっていた。

 一度は祖父から、「あんたは一生不幸だ!」という言葉までかけられた私であった。しかし、いつまでも人の暴言を記憶して、それを反芻しては恨み続ける苦さに比べて、和解がもたらす甘やかさは、いかほどのものだろうか。
 人を赦すということが、とてつもなく大きな特権であることを、私はその時、身を持って感じた。受けるより、与える方が幸いであるという御言葉の意味を感じた。赦されるよりも、赦すことの方が、幸せである。それを考えれば、人から非難されたことさえ、人を非難することに比べれば、幸せであった。

 私は赦すという権利を行使し、それによって絶大な心の安らぎを得た。赦しによって、相手が満足したのではなく、この私こそが深い満足を得たのだ。事件は解決した。もう犯人はいないし、被害もない。誰も不幸にならなくて良い。私にかけられた呪いの言葉は、私の内におられるキリストが受け取って無効にした。相手が投げつけた怒りと悲しみも、キリストが引き取って消化したのだ。

 ああ、非難されたのが他のきょうだいでなく、私で良かったなと、今はつくづく思う。なぜなら、キリストの十字架を信じているがゆえに、私はきょうだいの誰よりも強いからだ。私には人のいかなる悪意をも無効化する力が与えられている。キリストが私に代わってすべてを引き受けて下さるから、私にとっては、悪意も、中傷も、もはや恐ろしいものではなくなったのだ。

 もう少ししたら、カルト化教会での大失敗の経験も、痛みなしに思い出せる日が来るかも知れない。何気ない世間話を聞いて心に痛みを覚えることもなくなるかも知れない。非難だけでなく、無視や、無関心にも、動じなくなるかも知れない。私を取り巻く状況がたとえ変わらなくとも、主が共におられるゆえに、私こそは地上で最も幸せな人間なのだと、安らかに確信していられるようになるかも知れない。

 昔から人が好く、義理堅い性格であった祖父は、病室の外に出て、帰って行く私たちの姿をいつまでもいつまでも見送っていた。彼に福音の話をする機会が、この先、できるだけ早く与えられるようにと、私は祈らずにいられなかった。
 


数え切れないバナナ(祝福)の中で…

 コアラ姉妹のために。
 主は私から、石の心を取り除き、兄弟姉妹への愛を与えて下さいました。十字架がもたらす平安の中で、人を見るとき、私はその人を愛さずにいられないのです。
 兄弟姉妹に会いたいと思う時、その愛は、激しい恋心のように燃え上がります。しかし、会うことができない間も、強く、穏やかな愛で、その人の幸せを主に願うことができるのです。

 約一年前、かなり貧しい暮らしの中で、私は苦心してある教会に通っていました。平日、通勤の際に持って行く弁当は、ゆかりご飯だけ。毎日、定刻にスーパーのタイムセールに駆けつけては、半額のお惣菜を買い込むのが日課でした。通勤で磨り減ったバイクのタイヤを交換できません。いつ、バッテリーが切れるかと不安です。緊急の余分な出費がいつ生じやしないかと、おびえながら暮らしていました。

 日曜日に、往復の電車賃を払い、教会で献金を払い、信徒との交わりの際に、店で昼食代を支払ってしまうと、残る一ヶ月、どのようにしてやり過ごせばよいのか、いつも、心に不安がありました。

 その頃、私は日曜礼拝に希望を託していましたので、礼拝に通わないことはできませんでした。信徒の交わりにも希望を託していました。だから、いつも主に祈ったものです、「神様、私は交わりの機会が欲しいのです。どうか、そのために必要な費用を与えて下さい。誰にも借金しないで暮らせるように、どうか助けてください」と。そして、清水の舞台から飛び降りるような気持ちで、昼食代を支払っていました。

 しかし、その教会で私が出会った姉妹が経験された貧しさは、それとは、比べ物になりませんでした。姉妹がカルト化教会にいた頃の献身生活とは、労働が制限され、収入はほとんど得られず、それでも、収入の5分の1以上を献金として捧げさせられるようなものだったのです。強制的な集団生活の中で、プライバシーが保てず、毎日、応じきれないような、理不尽な量と内容の奉仕が次々と要求され、極限まで疲労困憊させられていました。
 もちろん、ご飯のおかずなどありません。切り取ったにんじんのへたを窓際に置いて、徐々に生えて来る芽を摘んでは、炒めて食べる…。そんな生活であったことを、私は聞きました。

 ある日のことです。その過酷な献身生活の最中、姉妹が道を歩いていると、ふと、八百屋でバナナを売っていたのが目に入りました。一束、100円です。それを目にした時、姉妹はどうしても、バナナが食べたいと思ってしまったのです。しかし、収入は全てカルト化教会に捧げきっているので、買うお金が残っていません。だから、姉妹は神に祈りました、「神様、バナナを下さい、私はどうしてもバナナが食べたいのです」と。

 すると、後になって、本当に、考えられない方法で、食べきれないほどのバナナが知人を通して贈られたのだと、彼女は教えてくれました。神に仕えると言いながら、指導者を崇拝する偽りの教会の中にいたのに、そんな生活の中でさえ、主は彼女に御手を伸ばそうと、いつも彼女を見つめ、その時を待っていて下さったのです。(この事件については彼女の記事をご参照ください。)

 その話は、私にとってはあまりにも悲しく、かつ痛ましかったので、それを聞いた時に、答える言葉がありませんでした。けれども、
 「バナナが食べたい。」
 そんな小さな、取るに足りない、秘められた、切なる人の願いにさえ、豊かに応えて下さるのが主なのです。主は私たちの困窮を知っておられ、助けの御手を伸べる機会を待っていて下さるのです。

 私たちが神の助けを得るためには、まず、私たちが自分の願いを主に率直に申し上げ、その心の領域を主に明け渡す必要があります。このことについては、Dr.Lukeと、山谷少佐が明快に語っておられますので、ご参照下さい。(「十字架―交換の場―」「私たちのアイデンティティ」) 十字架とは、自分の願いと、主の願いとを交換する場なのです…。

 バナナ一本、食べたいなあと思う、願いであったとしても、私たちがそれを主に捧げる時、主は数え切れないバナナを持って、私たちの願いを満たして下さるのです。たとえ、その時、私たちに買うお金がなかったとしても、どんなに主から離れていたとしても、どんな混乱の最中であろうと、あるいは、カルト化教会の中にいようと、人知で考えられる限りの距離と障害を越えて、神は私たちが真心から主に捧げる願いを聞きつけ、それに応えようと、飛ぶようにして、私たちのもとに駆けつけて下さるのです。神はいつも待っておられるのです、私たちが、自力で何かをやろうとするのをやめて、ただ主に向かって目を上げ、主よ、成して下さいと、願いを神に委ねる時を…。
 
 さて、その後、私は引っ越し、姉妹との間にはかなりの距離が生じました。周知の通りの問題も手伝って、私たちの立場は今、離れています。
 しかし、私は信じています、私たちが信じているものが、同じ神である限り、一切の障害を超えて、私たちは姉妹として結ばれているのだと。
 いつか、もう一度、姉妹の元気な姿を主が私に見させて下さいますように、その時まで、互いの必要の全てを主に委ね、必要を満たされて健全な豊かさの中を生きることができますように。二度と以前のような困窮を通過せずに済みますようにと、願わずにいられません。

 教会に通っていた頃、彼女が詩を書き、私が曲を作りました。二人での初めての共同合作です。楽譜を書いて、牧師に提出しましたが、誰にも歌ってもらえませんでした。しかし、私としてはかなりの力作であったと、今も自負しているのです。まだ最終的な完成を見ていませんが、いつか歌える日が来ることを願います。(詩は一部変更。)

「礼拝」

私の全てを尽くして 愛する事を学ぶ
神様と この私自身と 弱さを覚えている 隣人を

弟子たちの足を洗ったイエスは
愛する事を教えてくれた
私の心に 主の愛が注がれ
私の心は変えられた

礼拝 それは愛する事
神様と 私と 隣人を


「愛する事を学ぶ」

イエスの十字架のゆえに
愛されていることを知ったとき
心から 主に従おうと
強く 強く 願う

御言葉に従おうとしても
できない自分がある
義にも 真理にも 届かなくて
あわれみ求め 叫ぶ

ありのままで 目を上げて
変わらない主イエスの愛を受けて
罪赦されて はじめの愛に戻り
愛する事を学ぶ

それが私の喜び
 


 


キリスト者に与えられた揺るぎない平安

 まだ夜が明けるにはちょっと早いが、風が気持ちよさそうなので、これから外を散歩してくることにしよう。

 夜の散歩はとても心地よい。この近辺の数少ない礼儀正しい住人は、夜にはちゃんと寝静まっているので、深夜に、家を一歩外に出れば、世界は私だけのものだ! 星空を見上げながら、ゆうゆうと道を歩き回り、鳥や虫の声に耳を傾けることができる。
 夜は、虫や蛙たちが最も活発に歌いだす時間帯だ。田舎では特に、昼間には聴こえないオーケストラが夜には聴こえる。昼間とは、別の世界が広がっていると言った方がいい。

 さて、昨夜は、KFCのアクシデントつきの礼拝でお疲れのはずのDr.Lukeをつかまえて、私は受話器を通じて彼の時間を大量に奪い取り、さんざん私だけに必要なアドバイスをむしりとって行った。一応、断っておけば、そんなことをしでかしたのは今回が初めてである。

 Luke氏には色々と聖書を引きながら、疑問に親切に答えていただいたが、その中で、最もためになったのは、記事の中で氏が少しだけ触れておられるように、人が自分の十字架を負うとは、平安のうちに歩むことだという点に気づけたことである。

 え? 十字架が平安? そんな楽なことがあっていいわけ?
 と驚くような答えが、真の答えなのだと。なぜならば、人の十字架は、その人のうちにおられるキリストが負ってくださるものだからだ。
 だが、これはあまりに画期的な答えなので、あまり世間に言いふらしたくない。正直なことを言えば、誰にも教えたくない。何も知らない人々には、いつまでも、クルシチャンでいてもらって構わない。

 時々、クラゲ化があまりにも進行しすぎているように思われるLuke氏の文章に、正直なことを言えば、私のような生真面目な人間は、苛立たせられる瞬間があるのだが、それはあくまで表面的なこと。氏の文章に、背骨はしっかりと通っている。それが、分かる人にはちゃんと分かる。彼は言った、「生来の真面目さは、どこかで破綻しなければならないものですよ」と。

 生真面目な人種に属している私のような人間には、大いに考えさせられるものがある。真面目な人間というものは、かなりコワイ。わがまま勝手な人の有害性は外から見て分かりやすい。だが、外からは見えない、秘めた危険性を持っているのが、真面目な人々なのだ。

 真面目な人々は、一旦、何事かを思い込んだら、自分の正義を振りかざし、止めようのない力で、どこまでも、猪突猛進して来る。彼らを思いとどまらせるものは何もなく、一切の議論が無駄となり、ポリシーのためならば、命かけてでも、活動し、不撓不屈の努力によって、革命さえ、起こしかねない。しかも、真面目な人々は、自分の真面目さというものを高く評価しており、誇りに思っているので、それが裏目に出ることがあろうとは、露ほども考えてもみない。実際、生真面目な信念を持った生真面目な人々が結集した結果、はた迷惑な革命が、歴史上、幾度も起こされてきたのだ。

 十字架において自己に死ぬ、ということを考える時、その中には、己の短所や欲望に死ぬというだけでなく、自分では美徳だと考えているような長所にも死ぬことが含まれている。己により頼む気持ちが、あらゆる面で、一旦、破綻しなければならない、それが十字架なのだ。この全面的な死を経験しないと、美徳を養う名目で、相変わらず、セルフを引きずったままの人生が続いていってしまう…。落とし穴だ。自分では正しく生きているつもりなのだが、自分の力で必死で十字架を担おうとしているので、やがて疲れ果ててしまう。自己に死んでいないからこそ、自分の力で十字架を背負おうとする努力が生まれるのだ。

 だから、真に自己に死んだ者にとって、もはや自分の十字架を負うことは(=キリスト者として生きることは)苦しくなく、軽いことのはずだ。それが苦しく感じられるのは、状況のせいではなく、何か自分の中に、十字架上で死に切れていない部分があるからだと思っておいた方が良い。何かを負おうとしている自己があるからこそ、苦しみが発生するのだ。(と言うと、アリストテレスのような議論に落ち込んで行きそうだし、さらに、十字架上で己に死すべく、必死に努力する人々が現れることが予想されるが…、この堂々巡りについてはノーコメント)。 

 自分の周りにある一向に改善しない悪しき状況を見て、ため息つかないでいられる人間はどこにもいないだろうが、それでも、どんな状況のうちにも主がおられることを本当に信じられるようになれば、現象によって心が動かされることはなくなる。

「だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。<…>
 わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。
 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも、深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」(ローマ8:34-35,37-39)

 キリスト者の歩みが深まっていく時、そこには神への愛に根ざした揺るぎない平安が生じるはずだ。どんな現象も、人の言葉も、人の存在も、その人を動かすことができない。泰然自若とした生き方が自然と生まれる。

 時には、自分がどうにも、平安とは逆行する人生を歩んでいるように感じられることがあるが、そんな時には、私たちを神の愛から引き離すものは何もない、というふりだしに戻ろう。

 私の人生にとって、もはや何一つ、脅威となるものはないのだ。脅威の名で呼ばれるに値するのは、私をキリストから引き離す力を持っているものだけだが、そのような力を持つものはすでに存在していないことを、聖書が告げているのだから。どんな被造物も、魅力あるリーダーの言葉も、冷たい非難の言葉も、巧妙なサタンの策略も、キリストの勝利によって、すでに無効とされている。それを心から信じる時に、私を平安から外におびき出そうとする敵のあらゆる策略が、力を失うのだ。そして主の与えて下さる愛のうちで、ただ安らぐことができるようになるのだ。

 この平安から外に出ないように気をつけよう。この平安のうちを歩みながら、信仰生活を送って行くことにしよう。そうすれば、きっと今までの生き方よりも、今後の行程は、かなり楽になるはずだ。

 ところで、これ↓、何か分かる? (サマルカンドからタシケントへ戻る道中に見た光景。ヤバイよなあ…、これ、絶対、オマワリにつかまるよなあ、と思っていたら、ほんとにつかまっていた。)