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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

文化庁第160回宗教法人審議会議事録 ~日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による鳴尾キリスト福音教会の教団離脱手続きに対する異議申し立て棄却の記録~

~鳴尾教会のアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団からの離脱と
同教会に対する教団側からのいわれなき制裁の数々~

鳴尾キリスト福音教会は、アッセンブリーズ•オブ•ゴッド教団からの離脱に伴い、これを阻止しようとした教団側から、恫喝裁判も含めた様々な嫌がらせを受けた。

以下で引用した文化庁の宗教法人審議会議事録は、同教団が鳴尾教会の教団離脱に際し、その手続きの違法性を主張して認証取消を求めたものであるが、結果として、教団側の主張は全く一顧だにされない形で退けられた。教団側はこの都合の悪い事実には沈黙している。

鳴尾教会に関する文化庁での審議の過程は、第159回(平成22年10月18日)第160回(平成22年11月25日)第163回(平成23年10月19日)の議事録で確認できる。

なお、これらの審議を受けて、同教会の教団離脱の取消しを求めたアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による異議申し立ては、完全に棄却されて終わったが、その詳細については宗務時報No.115 (平成25年3月)を参照されたい。
  
教団は、鳴尾教会の教団離脱の手続きが正当でなかったかのように主張して、教会に対する裁判にまで及んだが、これらの争いにことごとく敗れ、それを通して教団の主張の虚偽性が明らかになった。その事実の経緯は、鳴尾教会の現在の牧師が運営するブログ「鳴尾キリスト福音教会から皆様へ」に詳しいので、こちらをご参照いただきたい。
 
なお、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団と鳴尾教会との相克の歴史は長く、事の発端は、2001-2002年にかけて、当時の鳴尾教会の主監者であった津村昭二郎牧師(村上密氏の義理の父)が、鳴尾教会の後継者として教団から正式に派遣された伝道師夫妻に、いわれなき嫌疑をかけて教会から追放した事件に遡る。
 
この事件によって鳴尾教会に引き起きされた混乱をも、教団サイド(村上密牧師及び津村昭二郎牧師)は、現在の鳴尾教会の牧師夫妻で起こったかのように責任転嫁し、現在の牧師夫妻にもでっちあげの嫌疑をかけて非難し、教会からの追放を試みていた。

当ブログでは、2001-2002年にかけて鳴尾教会で起きた事件の真相について、当時、教団側から公式に配布された証言者の説明資料に基づき、以下の一連の記事で詳しく示した。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団村上密牧師の非聖書的で危険な活動について③
アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団村上密牧師の非聖書的で危険な活動について④
アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団村上密牧師の非聖書的で危険な活動について⑤
    
鳴尾教会問題とアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団村上密牧師の非聖書的で危険な活動について(まとめ)  
   
ちなみに、鳴尾教会が教団から離脱したことを、あたかも「教会の乗っ取り」が起きたかのようにデマを主張していたアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団であるが、驚くべきことに、同じ頃、同教団の信徒が、別の教会に身元を隠して潜入し、教会を乗っ取るという事件が起きていた。この呆れるような事件については、以下の記事に記したのでご参照いただきたい。

カルト被害者救済活動の暴走~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による魔女狩りとしての鳴尾教会への恫喝訴訟とAG信徒による他教会の乗っ取り~

こうした一連の事件を詳しく振り返るならば、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団と、その指導者である村上密牧師及び津村昭二郎牧師が、どれほど信用ならない不誠実な人物であり、正当な手続きを経ないで鳴尾教会の人事に密室で介入し、同教会の正常な牧会を妨げて、教会に混乱をきたし、長年に渡り、執拗に教会関係者を追跡・迫害しては、信徒の平穏な信仰生活を妨害し、いわれなき打撃を与え続けて来たかがよく分かるであろう。

だが、教団側からの恫喝裁判を含めたあらゆる迫害にも関わらず、この小さな教会は消滅することはなかった。教団離脱後、「鳴尾キリスト福音教会」として新たに出発を遂げたこの教会の新しいホームページには、以前とは見違えるようにきれいになった白いチャペルが映っている。この改装も、教会が喜びのうちに新たな門出を果たしたことの明白な証拠である。祝福のうちに見守りたい。 

第160回(平成22年11月25日)宗教法人審議会議事録

  • ○ 日時 平成22年11月25日(木曜日)
  • ○ 場所  文部科学省3F2特別会議室
  • ○ 議題
    1. 開会
    2. 議題
      1. (1)宗教法人「鳴尾キリスト福音教会」の規則変更認証決定に係る審査請求について
      2. (2)その他
    3. 閉会
  • ○ 出席者
    【委員】
    飯野委員 井田委員 打田委員 大石委員 巫部委員 清重委員 小林委員 斎藤委員
    佐藤(禎)委員 佐藤(典)委員 杉谷委員 滝口委員 田中委員 戸松委員 深田委員 山岸委員 
    【文化庁】
    吉田文化庁次長 小松文化部長 佐藤宗務課長 井上宗教法人室長
    その他関係者

1.開会

○大石会長
 ただいまから第160回宗教法人審議会を開会いたします。
 まず,開会に当たりまして,吉田文化庁次長から一言御挨拶をお願いしたいと存じます。
○文化庁次長
 ただいま御紹介いただきました文化庁次長の吉田でございます。
本日は,去る10月18日にこの審議会で文部科学大臣から諮問させていただきました,宗教法人の規則変更認証決定に係る審査請求に対する裁決案につきまし て御審議を頂き,御答申を頂きたく考えております。委員の先生方のかっ達な御審議を賜りますようお願い申し上げまして,簡単ではございますが御挨拶とさせ ていただきます。どうぞ,よろしくお願いいたします。
○大石会長
 ありがとうございました。
 それでは審議に入ります前に,事務局から本日の配布資料の確認をお願いします。
○事務局
 それでは配布資料の確認をさせていただきます。

(配布資料の確認)
○大石会長
 続きまして定足数の確認をいたします。
 宗教法人審議会規則第6条によりまして,総委員の5分の3以上の出席がなければ,議事を開き議決をすることができないとされております。本日は,20名の総委員中16名の出席で,定足数を充足しているということを確認いたします。
 なお,本日の審議内容の公開に関する取扱いについて確認いたします。
 当審議会における申合せにより,会議自体は非公開ですが,後日,不服審査に係る審議の内容については議事要旨を,また,その他の審議の内容については議事録を,それぞれ作成して公開することとなります。
 議事録,議事要旨については,各委員の自由な討議を確保するため,委員の意見は匿名となります。
 さらに,個別の宗教法人名は,議事録等では公開しないこととされておりますが,答申の中で記載された法人名につきましては,この限りではないとされておりまして,公開されることになります。
 以上,念のため申し添えます。

2.議事

議題(1)

 宗教法人「鳴尾キリスト福音教会」の規則変更認証決定に係る審査請求についての議事要旨は以下のとおりである。

  • ・ 平成22年10月18日及び11月1日に開催された小委員会における検討結果の報告が行われた。
  • ・ 審議の結果,審査請求を棄却する旨の裁決をすることを適当とする旨の答申が行われた。

議題(2)

○会長
 次に,議題(2)その他について,事務局から報告がございます。
○宗務課長
 お手元の資料を御覧いただきたいと思います。
 昨年の1月にも御報告をさせていただきました不活動宗教法人対策につきまして,その後の状況を御説明させていただければと思います。
 各都道府県に,平成21年12月31日現在の不活動宗教法人数を調査したところ,都道府県知事所轄で4,149法人あることが分かりました。文部科学大臣所轄が4法人ありますので,不活動宗教法人は全国で4,153法人ということになります。
 系統別につきましては,仏教系が2,190法人,神道系1,722法人,キリスト教系43法人,諸教系198法人となっております。また,包括・被包 括・単立別で言いますと被包括宗教法人が3,741法人,包括宗教法人が7法人,単立宗教法人が405法人となっております。これまでの文化庁における取 組ですが,平成16年から平成22年まで,都道府県向けとして不活動宗教法人対策会議の開催,不活動宗教法人対策マニュアル・対策事例集の配布・作成を行ってきました。
 また,包括宗教法人向けの取組としては,包括宗教法人への文書による協力依頼,個別包括宗教法人に対するヒアリングの実施,包括宗教法人向けの不活動宗教法人対策会議の開催,不活動宗教法人対策手引書・対策事例集の作成・配布を行ってきました。不活動宗教法人数の推移について御説明しますと,文部科学大臣所轄では平成16年に17法人あったものが,平成22年には4法人となり,都道府県知事所轄では平成16年に4,731法人 あったものが,平成22年には4,149法人となり,それぞれ減少しています。
 つまり,文部科学大臣所轄については,13法人減少の76.5%減,都道府県知事所轄については,582法人減少の12.3%減となっています。不活動 宗教法人については,法人として維持・存続させる意思がある場合には活動再開を念頭に置きますが,そのような意思がない場合は,法人格の整理を検討することになります。その場合,役員がそろっている又は補充が可能である場合は法人の自主的な解散手続である吸収合併や任意解散を,それができない場合には,裁判所への解散命令請求を検討することになります。
  今後の課題ですが,不活動宗教法人のうち,調査不足などのため,対策方針の策定ができていない法人が存在します。都道府県知事所轄の法人についていいますと,実態別として,解散命令請求の要件にもなっている,代表役員が1年以上不在であるとか,境内建物が2年以上不存在であるとか,そういった分類分けができている法人もありますが,対策方針を策定のために調査をするべき法人が1,916法人あります。
  整理阻害事由としては,残余財産が存在して清算が困難で先が進まない,法人関係者が不明である,あるいは法人関係者の協力が得られないというような場合があります。
  次に,書類未提出法人ですが,文部科学大臣所轄1,043法人のうち997法人が提出しており,提出率は95.7%となっています。また,都道府県知事所 轄ですと18万1,484法人のうち16万4,780法人が提出しており,提出率は90.8%となっています。未提出法人については,今後も提出を促すよう努めるとともに不活動の疑いがある法人があれば,実態調査等を行っていく必要があります。
  最後に,対策上の問題点として,特に都道府県の問題点ですが,専任の事務担当者がいない県が多く,認証等の事務がある中で,対策に着手できていない状況が あるということや,解散あるいは清算に費用がかかるという意見があります。それから,包括宗教法人の方でございますが,いろいろな形で対策に取り組んでい ただいている法人と,そうでない法人があると思っております。なかなか対策が進まない包括宗教法人の御意見を聞きますと,人的協力とか費用負担についてい ろいろ難しいというお声を聞きます。一方,宗派において対策委員会を設けておるところもございます。不活動宗教法人対策のみならず後継者対策等に論点をあ てるなど積極的に取り組んでいただいております。
  また,包括宗教法人がない単立宗教法人の場合には,その実態が十分に分からない上に,対策の効果的な手法・ノウハウが欠如していると思われます。
  最後に,今後の取組としまして,考えている対策について御説明いたします。
  まず,被包括宗教法人への対策と単立宗教法人への対策に分けてそれぞれ対策を講じます。
  被包括宗教法人につきましては,包括宗教法人の協力が得られるのかどうかによってその対策の進み方が大きく違います。特に,宗派ごとの不活動宗教法人のリストアップ,情報共有,それから対策の進んでいない宗派に対しての個別のお願い,また,都道府県担当者と宗派の情報交換や協議の場が設定できないか等,考えております。単立宗教法人については,不活動宗教法人の法人格が悪用されないように一層厳格な認証事務の実施やその実態把握調査などを行っていきます。
  厳格な認証事務の実施という点につきましては,法人格の譲渡や売買という報道もございましたが,所轄庁では,そういったことがないように,宗教法人の事務 所の移転や名称変更などの規則変更の認証に当たっては,宗教活動や礼拝施設の現状や役員等の選任過程など十分に調査を行い,宗教法人の同一性,継続性が維 持されているかどうかを確認し,法人格が売買の対象になっていないかどうか慎重に対応しています。仮に法人の同一性や継続性が維持されない場合は,新規法 人の設立の手続によることになります。
 また,平成23年度に新規事業の実施を検討しております。
 これは,都道府県知事所轄の不活動宗教法人等の整理を進める上での効果的な手法・ノウハウの収集・蓄積等を行い,その成果を全国に普及させることを目的とした「不活動宗教法人対策推進事業」として概算要求をしているところでございます。
  以上でございます。
○大石会長
 ただいまの事務局からの報告について,何か御質問がありましたら承りたいと思います。
○宗務課長
 次に,情報公開に対する対応状況について御説明させていただきます。これは,毎年1回御報告させていただいておりますが,平成22年度は,宗教 法人法第25条の提出書類に対する情報公開請求が1件,規則に対する情報公開請求が12件ありました。請求に対する決定については,法律に従って,登記事 項等の公知の事項を除き,不開示情報として取り扱うなど,適切に処理しているところです。
 それから,情報公開法改正について,内閣府の行政透明化検討チームにおける取りまとめ概要が8月24日に出されておりますので御参考までにお知らせいた します。現段階では開示手続の迅速化・強化ということで,開示請求に係る手数料を原則として廃止するとともに,開示実施に係る手数料を引き下げ,開示決定 までの期間の短縮ということで,開示請求から開示決定等までの原則的期限を30日から14日にするということなどについて議論が進められていると承知して おります。
 以上でございます。
○大石会長
 ただいまの事務局からの報告について,何か御質問がありましたら承りたいと思います。
 それでは,一応予定されていた報告は以上ですが,お手元にある平成17年3月と平成20年3月に作成した「海外の宗教事情に関する調査報告書」を御覧ください。平成17年のものは法律的な側面や制度ではなく,それぞれの国,地域でどのようになっているかというのが主になった報告書で,以前からこういう調査をしているところでございます。
 一番最近の資料は,平成22年3月に作成したものでございまして,平成20年作成の報告書本体の附属資料として,資料 編の1から5まで,イギリス,ドイツ,フランス,イタリア,アメリカの宗教関係法令が,各巻で原文とともに翻訳も載っているということでございます。基本的な宗教と政治といいますか,いわゆる政教関係がそれぞれの国でどうなっているか,宗教団体の制度がどうなっているかということを5か国横並びで分かりやすいようにチームを組んで検討したものでございまして,非常に充実した内容になっております。
 それから,現在,宗教法人法の英語訳の作業が進められております。これは,政府の平成22年度翻訳整備計画に宗教法人法が挙げられているためです。会社法等他法令につきましても,既に英語訳が作成されているものもあります。
 さて,最後の点ですが,前回の議事録を御確認いただけましたでしょうか。特に支障がなければこれで確定させていただきたいと思います。
 本日の議事につきましては,以上でございますが,最後に全体を通して御発言等はありませんでしょうか。特に御発言等なければ,本日はこれにて閉会します。
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この道から一歩逸れるだけで…

この道は、人から嘲られ、罵られ、誤解される道。
この道は、私が人から賞賛されて、高く上げられ、有名になる道ではない。
むしろ、人からは罵られ、誤解され、裏切られ…、私の栄光が最も徹底的に奪われる道である。そこでは、私が徹底的に低くされなければならない。

主イエスの歩まれた道を歩む者は皆、主イエスがそうであられたように、
誤解され、嘲笑され、痛めつけられ、排斥され、呪われ、時には、殺されさえするだろう。
しかし、わが主がそのように蔑まれ、栄光を奪われたのに、
どうして私が主を差し置いて、人からの栄誉をこの身に受けることができようか。

恐らく、私を最も過酷に扱うのは、私の兄弟姉妹を名乗ってやって来る人だろうと思っている。私たちクリスチャンも、くちづけをもって裏切られることになるのかも知れない。
しかし、それが何だろう。
「わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し
偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。
喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。」(マタイ5:11-12)

以下は、シュガーさんの記事から、ウォッチマン・ニーの詩を転載します。

「私が進むべき行程」から
少し横道にそれるだけで、唯それだけで、
私の命運は とても容易なものとなるだろう。
しかし、私は確かに知っている、
わが主は 何と過酷な行程を進まれたかを。

それ故 私はこの世を全く捨て去り 
その結びつきを 総て断ち切る。

私の行く道は なお狭きものとなり
世は総て 私に敵対して立ち上るであろう。

人々は 顔をしかめ、軽蔑してあざ笑うとしても
私は 主の笑顔のみを慕う、
ひとえに 彼の「よくやった」を願う、
地上のこの つかの間の時間の中でこそ。

偉大さを追い求めまい、
地上の栄光を追い求めまい。
ただ身を低くし 主にのみ仕えたい、
かの日、彼の誉め言葉を得んがために。

私は今 
「あの裁きの座」から来るその光を見つめる。
総ての私の生き方と働きが、
「かの火のテスト」に耐え得るために。

人々は総てをかけ
自分の成功を求め、栄光と富と名声を追求し、
自己の偉大さや 自分の追従者、
そして自身の栄誉を獲得しようとするだろう。

しかし私は
魂の中の繁栄ではなく、
ひどい孤独と貧困の中でさえ 
彼に忠信に従うことを求める、
あのゴールに到達するに至るまで。

私は知っている、地上におられた時 
主の歩まれた道は唯一つ 
あの十字架に向かう道であった
ことを。
それ故、私も彼と共に 
ただ損失をこうむることを願う。

総ての私の光栄は「かの前方」に備えられている。
それ故 ここで 私は総てを耐え忍ぶ。
主の御前において、主を差し置き、
今 自分の栄誉を求めることなど出来ようか。

しかし、来たるべきかの時、私は栄誉を賜るだろう、
主御自身 総て私の涙をぬぐい取って下さるという。
それ故 今この時代 忠信に 私はただひたすら前に進む、
私の主が出現される かの日に至るまで。


復活の命を生きる特権

この道を歩んでいて、本当に素晴らしいと思うこと。
それは全ての人の自己が、主の御前に、同じように死ななければならないという事実。

生い立ちが幸せであろうと、不幸であろうと、
金持ちの家に生まれようと、貧乏な家に生まれようと、
立派な教育を受けようと、教育を受ける機会がなかろうと、
健康であろうと、病に苦しんでいようと、
美しかろうと、醜かろうと、
人から認められていようと、蔑まれていようと、
全ての人の肉を、神は一様に憎むべきものとみなし、十字架につけて完全に呪われ、滅ぼしてしまった。

人は神の目から見て、現在置かれている様々な状態によっては評価されない。
主がOKを出されるのは、古き人がキリストの十字架で死に、復活の命をいただいた者だけ。
ああ、もしもその事実を知らなければ、私はきっと自分を不幸とみなしていたでしょう。

世の人々には、例外なく、自己を誇るために拠って立っている「何か」がある。
ある人は、自分の持ち物を誇る。
ある人は、自分が人から愛されていることを誇る。
ある人は、自分に与えられている高度な知識や優れた才能を誇り、
ある人は、自分の容姿や運動能力を誇り、
ある人は、自分の仕事が順調で、社会から認められていることを、
ある人は、子宝や、善良な夫や妻を、家庭的な幸福を誇る。

クリスチャンでさえ、どれほど熱心に聖書を読み、奉仕したかを自慢するものだ。
人々は互いに品定めし合い、人と自分を比べて喜んだり悲しんだりしている。
全ての人に、自己を立てるために拠って立っている「何か」がある。

しかし、主はそうして互いに誇り合っている私たちの肉を、忌まわしいものとして全て十字架で退けられた。
十字架は、幸福な人も、不幸な人も含めて、あらゆる人の肉を、神の目に忌まわしいものとしてはりつけにしてしまった!!
美しい人も、醜い人も、性格の良い人も、悪い人も、賢い人も、愚かな人も、強い人も、弱い人も、すべて十字架上で完全に否定された。
そして、私たちは、今生きている天然の命によって、これからも生き延びようとするのでなく、新創造へとつながるイエスの復活の命によって生きるようにと、招かれている!

私たちは、肉によって、肉に打ち勝つことは出来ない。
どんなに肉を頼みとしても、自分ひとり、救うことは出来ない。
しかし、主イエスは十字架を通して、私たちの古き人の問題を終わらせて下さった。
主と共に、私たちはこの十字架の死に立ち、その死にとどまりつづけよう。

御子イエスの十字架は、どのような問題にも間に合う。
御子イエスの十字架は、どのような問題にも十分である。
御子イエスの十字架は、人の現在の状態に全く左右されない。

十字架は今日も私たちに語りかけている、
自分の義、自分の方法論、自分が頼みとしてきた術策の全てを捨てて、キリストと共に十字架上で己に死んで、神の与える新しい命によってだけ生きなさいと。

神はあの罪なき尊い独り子をさえ、十字架上で、肉において、滅ぼされたのだ。
御子の清さに比べようもない私たちが、どうして肉を頼みとして誇ることなどできようか。
どんなに肉の強さにより頼んだとて、私たちのうち誰が、罪のない御子さえも死ななければならなかった、あの十字架を経ないで生き残れよう?

主イエスの十字架を通して、古き人に死に、自分の力によらず、
ただイエスの復活の命に生かされるようになる時にこそ、
私たちは十字架があらゆる人・問題に対して十分な解決であることを知る。

あれやこれやの術策はもう要らない。
人に誇るためのアイテムも要らない。
優れた才能、社会的地位、成功も、財産も、家族も要らない。
私の古き人は死んだ、御子イエスと共に十字架の上で。
私の過去も、私の願いも、共に死んだのだ。

今、私を生かしめているのは、御子があれほどまでの犠牲を払って、用意して下さった尊い復活の命。
復活の命だけが、私のあらゆる問題の解決である。
クリスチャンに与えられているのは、イエスの復活の命を実際に生きるという絶大な特権。
どうか主が私たちをあわれんで下さり、私たちが、その特権の果てしなく深い意味を、残された人生において十分に知ることができますように。

音楽の楽しみ

 家から徒歩5分もかからないところにあるNPO法人の建物へ行って、グランド・ピアノを弾いて来た。時々ふらりと出かけては弾くのだが、今日は聖歌を持って行って、覚えている限りの曲を弾いた。

 NPO法人には子連れのママさんたちが沢山集まっており、最初は私をうさんくさそうに眺め、迷惑そうにぴしゃりと部屋の扉を閉めて行った人もあったのだが、しばらく弾いていると、なじみのある曲に警戒心を解いてくれたのか、誰も音楽を気にしなくなった。

 この年になると、子供の頃のように、ピアノを弾いても、何やかやと話しかけてくる人は滅多にいない。日本人はロシア人ほど音楽好きではないから、音楽を介してすぐに人と仲良くなれるということもない。ロシアにいると、人々はたとえ地下道の演奏であろうと、音楽の前で立ちどまらずには置かないし、女性達が2,3人集まれば、すぐに合唱が始まる。ロシア人の音楽好きの国民性はよく知られている。

 それに比べて、日本では、何かしら音楽の聴き方が素直でないと昔から感じてきた。曲の内容を聴かずに、ただ技術だけを品定めするような皮肉な聴き方をする人が大変多いのだ。興味を持つ人がいたとしても、「何年やってるの?」「どの先生に習ったの?」とか、大抵、そういう質問をかけられるのが常だった。

 だが、今となっては、子供でないので人からそのような質問をされることもなくなった。その代わりに、誰からも注目されることもなくなった。人からおかしな目で見られていないのがまだしも幸いだが、それでも、自分でも一体、何のために弾いているのか分からない時がある。専門家でもなく、それでお金を稼いでいるわけでもなく、いずれステージに立つわけでもないし、その力量があるとも言えない状態なのに、何を目ざして、毎日、何時間も練習に費やしているのだろうか?

 特に、我が家では、昔から誰一人として私の演奏を喜んでくれた人はいないので、むなしいと言えばかなりむなしい。だが、プロの音楽家にはそれとはまた別の悩みがあって、それは聴衆から難曲ゆえに理解されないということなのだが、その話は置いておこう。
 たとえ誰からも必要とされていなくとも、練習をやめることはできない。一旦、覚えた曲をただ忘却に任せるなどというもったいないこともできないし、毎日、鍵盤に向かう度に得られる新たな喜びを手放すこともできない。(とはいえ、演奏するという行為を私は何度も手放し、主に捧げてきた。)もしかすると、NPO法人のグランド・ピアノは、主が私のために備えてくれたものかも知れないと、今でも思う。

 関西にいて最後に教会に通っていた頃、私は礼拝堂においてあるグランド・ピアノに、毎週のように、かじりついていた。一体、日曜礼拝に来たのか、ピアノを弾きに来たのか、それすら分からないほどであった。きっとそれを快く思っていなかった人もいただろうと思う。
 その頃、派遣会社に勤め、へとへとになって帰宅した後、毎日、3時間以上、家で練習をしていた。にも関わらず、一旦、でくの棒のようになってしまった指は、まるで動かなかった。子供時代から、教会の奏楽を含め、少しも真面目に練習をしなかった上に、大学院時代にピアノを投げてしまい、何年間も、まともに鍵盤に向かわなかったブランクがたたって、私の指はただバイクのハンドルを握るためだけのものになってしまっていた。

 それでも、無謀にも、かつて『大洋』も弾けないままに終わったショパンのエチュードを改めて全曲マスターすることを当面の目標にして、最も正確で完成されたピアニストとして名高いマレイ・ペライアのCDを買って、曲と楽譜を頭の中に叩き込んだ。ショパンのエチュードが全曲弾ければ、大抵の曲は弾けるはずだと解説書に書いてあったからである。全曲弾ければ、と簡単に言うが、ショパンのエチュードのCDへの全曲収録は、プロのコンサート・ピアニストでさえためらうほどの偉業だそうだ。私には生涯かかっても、マスターしたなどと言えるかどうか。

 もし聴覚の衰えを計算に入れるなら、私がピアノを弾き続けられるのはあと30年程度だろう。楽しみのために残された時間は限られている。特に基礎的な能力に関しては、今のうちに、できる限りのことをマスターしておかなければ、一生、私は思うようにピアノが弾けないままに終わるだろうことは目に見えている。ただの夢で終わって良いのか。下手の横好きと笑いながら、冗談で終わって良いのか。その程度のものなのか。そうはなりたくない。

 下手なりにも、ピアノを弾いていると、私も弾きたい、教えてくれという人が必ず現れる。そこが面白いところでもある。そこで、私は関西の教会で楽譜の読めない一人の青年に無料でピアノを教えていた。筋の良い人で、覚えが早かった。無料で教えたのはその教会へのせめてもの恩返しのつもりであった。

 だが、その時、教えられたのはかえって私の方だった。楽譜が読めなくても音楽をやりたいという情熱を持っている人にピアノを教えることが、いかに楽しいことであるかを私は感じた。ピアノを弾かなくても、ギターを弾いていたりするとそこに知識が蓄えられているから、面白い。3年間で、ベートーヴェンのソナタくらいは必ず弾けるようになろうね、そうなればカッコいいよねと互いに話して盛り上がっていたが、その教会とは、不本意な形で、別れなければならなかった。

 関西を去った後、私の最大の懸念事項の一つが、どこでグランド・ピアノを弾くことができるかということだった。私は庶民の出身なので、もちろんのこと、家にグランド・ピアノなど置いているはずもないし、そんなスペースもない。だが、ある程度の曲を練習し始めると、どうしてもアップライトのピアノでは対応できない部分が出てきてしまうのだ。

 それでも、まずは家にある親のアップライト・ピアノを弾き続けることから練習を再開した。私の持っている電子ピアノは弾きすぎて壊れてしまったせいでもある(修理費がどれくらいかさむか恐ろしいので見積もりもしていない)。当時は、色々な事件のために、精神的に打ちのめされていたが、ピアノだけはほとんど毎日、弾き続けた。一種の執念のようであった。
 こうなったのには深い理由があるのだが、それはまた今度説明することにして、一つ言えることは、音楽の専門家でなかった私は、それまで一度も、本気で練習に取り組んだことがなかったということだ。しかし、専門家でないから、いい加減で結構と言われ、その程度で終わりになるのはあまりにも悔しかった。ある人が私の演奏を聴いて「下手な音大生よりはずっとマシ」と言ったが、それはちっとも誉め言葉には感じられなかった。

 私の愚かしい執念のような取り組みだったが、それにも、主は道を開いて下さった。その頃、全ての夢が砕け散って、私にはピアノ以外にすがりつくものもなかったのだが、そのように惨めな状態にあった人間にも、神は憐れみを豊かに注いで下さり、私の心に秘めた最後の願いをかなえて下さったのだ。そしていつしかそれはやがて執念でもなくなり、すがりつく唯一のものでもなくなり、何かしら自然な形で、私から流れ出て、人に影響を与えるものへと変わった。

 取り組んでいるうちに、無理なく指を動かすためには、弾き方を根本から変えなければならないことに気づいた。私がそれまでに教わって、いい加減にやり続けて来た弾き方では、一曲もまともに弾きこなせず、ただ腱鞘炎になって終わるのが落ちだということが分かった。ミス・タッチの多さも無理な運動から来ている。椅子の高さ、指の角度、ひじの角度、力の入れ方、全てを変えなければならないことに気づいた。特に腕の使い方が問題だった。自然な弾き方に変えるために、使っていなかった筋力を開発しているうちに、1年近くの月日が過ぎた。

 これら全ては独習であった。そしていまだにエチュードの一曲さえマスター仕切れてはいない。『エオリアン・ハープ』のあの流麗な美しさを思うように出せるようになる日はいつ来るのだろうか。だが、そうこうしているうちに、家の近所にNPO法人があって、そこに村の会館からおさがりで預けられたグランド・ピアノが置いてあるという話を耳にした。尋ねてみると、時々、コンサート等で使われる以外には、ほとんど使用されることもなく、誰が弾いても良いピアノなのだという。

 これは大きな幸運だった。それから、気が向いた時に、そこへ出かけるようになった。すると、やっぱり、楽譜は読めないが、ピアノを弾くのが夢だったという人が現れた。その人は私に教えて欲しいと願っているようだったが、その時は、それを商談に結びつけようという発想が私の側に全くなかったので、ただのよもやま話に終わった。だが、今、考えると、あの時、レッスンを申し出れば良かったのだ。楽譜が読めないが、ピアノはどうしても弾きたいと願っている人たちは、案外、数多くいるかも知れず、私にできることがあるのかも知れない。

 私の実家の隣家がピアノの先生をやっているので、その人に失礼なことはできないが、ピアノを教えて生計を立てることができれば、趣味が実益をかねてまことに生きやすくなるのになあ、と最近、かなり本気で願うようになった。しかも、音大志望の子供たちとかでなく、老後または壮年の趣味としてぼちぼちやって行きたい大人たちと、気楽につきあえればなあ。楽譜の読み方から丁寧に教えて行ければなあ。

 最近、近くの街にあるショッピング・モールでピアノの展示会が行われた。買い物ついでにふらりと立ち寄ってみると、何でも、ジョン・レノンが所有していたとかいうスタインウェイのアップライト・ピアノが目玉商品として置いてあった。
 「お客さん、何だか嬉しそうですねー」
 と、展示場に案内してくれたヤマハの店員さんが私を見て言った。
 花のようなピアノに囲まれて、どうしようもなく顔がにやけているのを目撃されてしまったか。
 店員さんはジョン・レノンのピアノを目の前にして、挑戦的に言った。
 「弾いてみますか?」
 「え? 私なんかが弾いてもいいんですか?」
 「いいですよ、さあ、どうぞ」
 椅子まで持って来られて、引き下がることはできない。

 何だか妙に緊張してしまったが、ラフマニノフの断片を弾いてみる。おお、アップライトでここまで美しい音色が出せるのかと驚いた。音が少しも濁らない。やはり楽器のレベルというものは馬鹿にできないものだと実感。店員さんも驚いたようだった。もちろん、私の無きに等しい腕前にではなく、ラフマニノフと、そのピアノの音色の美しさに、だが。
 ジョン・レノンの×百万円のピアノなど、初めから購入予定にも入っていないので、そのピアノとはそこでさよならしたが、以来、その店員さんは私を覚えてくれたようだ。

 このまま行くと、あと15年もする頃には、私はきっと、ピアノきちがいおばさんと呼ばれているかも知れない。若く美しい娘がピアノを弾くならば、さまになるけれど、おじさん、おばさんがどんなに上手く弾いたとしても、誰が喜ぶんだか…と皮肉な思いにもなるが、それが何だろう、一旦、知ってしまった音楽の楽しみは、どこまでも人を魅了してやまない。

 すでに賛美歌についての私のうるさい好みを色々と書き連ねたので、独善的な好みを押し付けていると、読者のひんしゅくを買ったことだろう。この手の話題を掘り下げていくと、いつか喧嘩になりそうなので、このあたりでやめておくが、それにしても、音楽がどれほど私の生活を豊かにしてくれただろうか! たとえ独りよがりと言われようと、何であろうと、楽器を演奏できるという素晴らしい趣味を与えられたことは、尽きせぬ喜びである。音楽がどれくらい私にとって、逆境を乗り越える助けになっただろう。このような表現手段を与えられたことは、どんなに神に感謝してもし足りないくらいの恵みだ!

 ところで、楽譜が読めなくても、ピアノの演奏については、決して、あきらめることはないということをお断りしておきたい。3~5年もあれば、誰でもベートーヴェンのソナタの一つくらいは弾けるようになるだろうと私は確信している。でなくとも、ショパンの簡単なプレリュードや、マズルカくらいならば、数年も経たないうちに、誰でも弾けるようになるだろう。
 クラシック音楽は高尚で難解でとっつきにくく退屈なだけだと思って敬遠している人の数は多いが、もしも自分で楽器を弾けるようになれば、二度と誰もそんなことは言わなくなるだろうに、といつも私は思って残念だ。感覚にばかり訴えかけてくる現代の騒がしい音楽よりも、はるかに深い、静かな味わいがこの世界にはあるのに、どうして人々はそのことを忘れてしまっているのだろうか。最近、この世界の素晴らしさを一人でも多くの人たちに知ってもらいたいと思うようになった。仮にピアノきちがいおじさん、おばさんと呼ばれたとしても、大いに結構ではないですか。その人の人生が美しく彩られるならば!

 
 

すべての罪咎を覆われる主

「わが敵よ、わたしについて喜ぶな。
 たといわたしが倒れるとも起き上がる。
 たといわたしが暗やみの中にすわるとも、
 主はわが光となられる。
 主はわが訴えを取りあげ、
 わたしのためにさばきを行われるまで、
 わたしは主の怒りを負わなければならない。
 主に対して罪を犯したからである。
 主はわたしを光に導き出してくださる。
 わたしは主の正義を見るであろう。
 その時『あなたの神、主はどこにいるか』と
 わたしに言ったわが敵は、これを見て恥をこうむり、
 わが目は彼を見てあざ笑う。
 彼は街路の泥のように踏みつけられる。<…>

 だれかあなたのように不義をゆるし、
 その嗣業の残れる者のために
 とがを見過ごされる神があろうか。
 神はいつくしみを喜ばれるので、
 その怒りをながく保たず、
 再びわれわれをあわれみ、
 われわれの不義を足で踏みつけられる。
 あなたはわれわれのもろもろの罪を
 海の深みに投げ入れ、
 昔からわれわれの先祖たちに誓われたように
 真実をヤコブに示し、
 いつくしみをアブラハムに示される。」(ミカ7:8-10,18-20)
 

 最近になって私は、かつて経験した不義なる事件について、神ご自身がこの先、公平な裁きをなして下さり、私の名誉と損害を最後まで回復して下さることを切に願うようになった。私自身も主の懲らしめを身に背負ったが、義に飢え乾く者は幸いである、という御言葉に従い、私自身の義ではなく、神の義が全地に輝き出ることを心から願う。そうなって初めて、この事件は本当に終了したと言えるだろう。

 失われた幸福が取り戻される日が近いだろうという予感がする。以前、悲しみのあまり、味も、匂いも、何も感じられなくなったことがあったが、今は、全ての感覚が新鮮だ。主はこの先、私の人生にどんな不思議な御業を成して下さるのか、期待が膨らんでいるので、どんな些細なことにでも、子供のように喜んでしまう。エクレシアの仲間と会える日が待ち遠しくてたまらない。期待が募るので、心落ち着かせて、記事を書くのが難しい。

 一昨日より、エクレシアと主の結婚について、聖書に書かれている壮大なドラマを思い巡らしていた。そこには一筋縄では行かない出会いと、別れ、また再会がある。聖書に見る神の花嫁たる民は、決して、挫折抜きに歩んできた品行方正な乙女ではなかった。むしろ、夫ある身でありながら、遊女のように偶像に身を売り、神を裏切って歩んで来たのが、花嫁たるイスラエルの民だったのだ…。なのに、神は失われた花嫁を愛され、どこまでも探し、尋ね求められたのだ…。

 過ちを犯し、神から遠く離れた経験のない人もいるだろう。絶体絶命の窮地を経験せず、魂の暗闇を通ったことのない人もいるだろう。もしもつまづきなしに歩めるならば、それが理想かも知れない。
 けれども、罪を犯し、神から遠く離れ、また神の助けを全く失ったように思われるその瞬間があればこそ、私は、己の限界を知り、罪を赦される神のあわれみの深さ、失われた者を尋ね求める主の熱心さを知ることができた。だから、今となっては、私は自分の過去を悔いていないし、すでに罪赦された以上、誰にも引け目を感じる必要がないと思う。

 人のどのような歩みにおいても、ただすべての咎を覆う神の愛があるだけだ。
 放蕩息子にも、その兄にも、同じように神の愛が注がれる。罪人も、義人も、ともに神の祝宴にあずかることができる幸いが与えられている。
 そこに人の運命の不思議がある! 神の知恵のはかりがたさがある!

 天国というところでは、恐らく、人の全ての過去の傷が愛によって覆われているのだろうと想像する。地上において、どんな歩みをして来た人も、互いに誇りあうようなことはなく、誰もが謙遜な自覚を持ち、他人の過去に対して、深い共感を持つことができるだろう。

 人はそれぞれに異なった運命を背負っている。それだからこそ、面白い。それだからこそ、愛しいし、貴い。クリスチャンが歩むべき統一的な生活の型というものを私は考えたくない。特に、品行方正や挫折のなさをクリスチャン生活の模範として振りかざす人々には、私は正直、うんざりしているのだ…。それは、その人たち自身にとっては、恵みかも知れないが、自らの体験を規範化して、他人にまであてはめようとする必要はないだろう。誰もが自分のようでなければならないと考えて、自分の体験談を統一的な物差しとして万人にあてはめようとする行為は、はっきり言って、あまり美しくないと思う…。

 間違いを犯したくなくとも、間違ってしまうのが人間だ。カルトも、人間社会の一つの形態だと私は思っている。それは人間がどれほどの幅と奥行きを持っているかを証明する一つの要素に過ぎない。

 実際に、カルトを経験した人に聞いてみれば分かることだが、カルト社会にはただ悲惨があるだけではないのだ。そこには尽きせぬドラマがあり、興味深い人たちがおり、信じられないような様々な貴重な出来事が隠されている。
 人間学、という観点から見れば、何一つ、参考にならない経験はない。それに、どんな事柄の中にでも働かれるのが私たちの主なのだ。
 私たちの視点から見れば、それは「あってはならない事」にしか映らないかも知れない。だが、神の視点から見れば、人の過去や現在の生き様は、その人の救いとは関係がない。救いはただ神の一方的なあわれみによるのだ。「あってはならない事」の中にも、主の御手は働いている。だから、狭い人間的な思惑に視界を阻まれて、浅はかな善悪の概念を振りかざして、安易に人を断罪しないように気をつけたい。

 人を創られた神は、どんな人生の中にあっても、働かれる。神が創られ、神が負われるのだ。だから、あなたの過去がどんなものであったとしても、一旦、十字架で自分に死んだなら、それをいつまでも恥じる必要は全くない、それを負われるのは神なのである。

「ヤコブの家よ、
 イスラエルの家の残ったすべての者よ、
 生れ出た時から、わたしに負われ、
 胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、
 わたしに聞け。
 わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、
 白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。
 わたしは造ったゆえ、必ず負い、
 持ち運び、かつ救う。」(イザヤ46:3-4)

 イエスが下さる十字架は軽く、負いやすい。白髪となるまで持ち運んでくれる神を信頼しよう。