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「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)
当ブログは次のブログへと続いています(「私ではなくキリスト」)。
また、「東洋からの風の便りⅢ」も開いています。

その他、ホームページにて分析記事をまとめています。


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もしわたしたちが力を受けて、キリストのために証しをし、サタンと戦うことを欲するなら、聖霊で満たされる経験を求めないわけには行きません。確かに、今日、聖霊の満たしを尋ね求める人は日ごとに多くなっています。しかし、彼らが聖霊で満たされることと霊的力を受けることを尋ね求める目的は、何のためでしょうか? 

どれだけ多くの人が、見せびらかすために力を尋ね求めているでしょうか? 自己の肉をさらに輝かしいものにするための人が、どれだけ多くいることでしょうか? 人々を自分の前に倒れさせ、尋ね求めて戦うための活力を彼らから奪ったりするような力を、受けることを望んでいる人が、どれだけ多くいることでしょうか?

わたしたちは、霊的力を受けることにおけるわたしたちの動機が何であるかを、はっきりと見なければなりません。もしわたしたちの動機が神にしたがっておらず、また神から出たものでないなら、わたしたちはそれを受けることはないでしょう神の聖霊は、人の『肉』の上にはとどまられません。彼のとどまられる所は、神が新しく創造された霊だけです。

これは、わたしたちが外なる人(肉)を生きさせておきながら、神にわたしたちの内なる人(霊)を聖霊の中でバプテスマしてくださるよう求めることではありません。もし肉が対処を経過していないなら、神の霊は人の霊の上に下られません。なぜなら、肉的な人に力を与えることは、彼を高ぶらせ、さらに肉的にさえさせるほか、何の結果も生じないからです。」(ウォッチマン・ニー著、『霊の人』、第二巻、p.49-50)

クリスチャンが御霊に導かれて生きる人となることは、神の御心にかなったことです。主イエスは、真理の御霊であり、助け主である聖霊が、いつまでもクリスチャンと共にいて下さることを約束してくださっています(ヨハネ一四・一六―一七)。クリスチャンは主を信じた時に、御霊によって新しく生まれており、御霊がすでにその人の内に宿っています。たとえそのような実感がなくとも、主を信じている人は自分が聖霊をすでに内にいただいていることを信じるべきです。

ですが、それにとどまらず、クリスチャンはさらに聖霊に満たされ、聖霊によって力づけられる必要があります。ペンテコステの日に、信徒たちが聖霊によって力づけられたように、私たちも聖霊の力を受けて強められ、また日々、神の命の力によって強められることができます。そうなる時に、信徒は、聖霊によって内なる霊を強められ、神の御心を深く知り、大胆に御言葉を宣言し、サタンに対抗し、御心を実際に実行する「霊の人」となり、御国のために有用な働き人となることができます。

聖霊は、「命を与える霊」(Ⅰコリント十五・四五)であり、クリスチャンはこの聖霊の命の力を経験することなしには、神のまことの命を実際に生きることは決してできません。聖霊は、まことの命そのものだからです。また、真理の御霊を通さなければ、信徒は御言葉の意味が何であるかを理解できず、神の御心が何であるかを適時に知ることはできません。聖霊の導きによらずには、信徒は御心にかなった祈りを一つも捧げることができません。聖霊が力を与える時だけに、信徒は臆することなく神の御心を実践する人へと変えられます。

しかしながら、私たちは、十字架の働きを抜きにして、聖霊の力だけを追い求めるようなことをしてはいけません。今日、御霊の満たしを受けるためには、まず信徒自身の肉が十字架で対処されていなければならないことを真に知っている人がどれほどいるでしょうか。御霊は、高慢で高ぶった肉的な人と共に働くことは決してできません。「なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは、肉に反するから」です(ガラテヤ五・十七)。ところが、今日、多くのクリスチャンが聖霊を求めている動機は、限りなく肉的であることが疑わしい場合が多いのです。

実に多くの人たちが、自己の栄光のために、自分の肉をさらに飾り立てるために、自分をさらに魅力的な人間にするために、聖霊を求めています。すでにあれやこれやの才能や、持ち物を持ち、自己を誇っている人が、さらに特殊な霊力で身を飾り、あるいは魅力的な自己を作り出そうとして、聖霊の満たしを願っている場合があります。しかし、そのような間違った動機から捧げられる願いが、神に聞き届けられることはありません。(「求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。」(ヤコブ四・三)

にも関わらず、十字架で肉が対処されていない人々が、何らかの超自然的な力を誇っている場合がありますが、私たちはこのような力の源を警戒せねばなりません。御霊は決して個人に名誉や成功をもたらすことを目的として働かれません。聖霊が人の肉を強めたり、人を高ぶらせたり、自己中心にしたり、高慢にさせたり、理性を失わせたり、無秩序状態に陥れたりする形で働かれることは決してありません。明らかに聖書は告げています。神の霊の他に、「この世の霊」(Ⅰコリント二・十二)があり、サタンとそれに従う邪悪なもろもろの霊たちが存在していると。

また、「聖書はわたしたちに告げていますが、聖なる注ぎ油のほかに、それに『似たような』(出三〇・三三、原文)注ぎ油があるのです。それは同じように調合されますが、聖なる注ぎ油ではありません。」(p.52)私たちは混合物としての霊があること、聖霊に似て非なる霊があることを知って、そのようなものを警戒し、ただ純粋に混じりけのない、神から来た聖霊を願い求めるべきです。

聖霊は必ず人を十字架へと導きます。聖霊は、主イエスが達成された十字架を、私たちが人生においてより深く経験するように導きます。

「人の再生の時、人の霊は神の命を受け、生かされるようになります。この働きを活発に達成するのは聖霊です。罪、義、裁きについて人を責めるのは、聖霊です。聖霊は人の心を備え、主イエスを救い主として信じるようにと願わせます。十字架の働きは、主イエスによって達成されます。しかしながら、これを罪人の上に、また罪人の心の中へと適用するのは、聖霊です。

わたしたちは、キリストの十字架と聖霊の働きとの関係を理解しなければなりません。十字架はすでにすべてのことを達成しましたが、聖霊はすでに達成されたことを人の中で達成するのです。十字架は人に地位を得させますが、聖霊は人にその経験を持たせるのです。十字架は神のために『事実』を成し遂げますが、聖霊は人にその経験を与えるのです。」(p.12)

聖霊は信徒が生涯、十字架のより深い働きを実際に経験するのを助けます。それによって信徒は、神の御前に、よりくだかれた、へりくだった魂となり、罪と分離し、肉の情と欲を捨て、自己の天然の命を否み、混じりけのない、純粋な、清い霊によって支配される人へと変えられていくでしょう。聖霊が肉なる人の上に注がれることはありません。ですから、聖霊の満たしを受け、聖霊によって力づけられたいと願う人は誰でも、まず、ゴルゴタを経て、自分自身の肉が主イエスと共に十字架につけられて、死に渡されるという経験を経ている必要があります。

「わたしたちは何度も言ってきましたが、十字架はペンテコステの前にやってきます。聖霊は、まだ十字架を経過していない男女には力を与えられません。ゴルゴタこそ、エルサレムの屋上の間へと至る唯一の道です。この模範に従う者だけが、聖霊の力を受ける可能性を持つのです。神の言葉は言います、『これは……聖なる注ぎ油であって、常の人の身にこれを注いではならない』(出三〇・三一―三二)

最も汚れた肉であろうと、最も教養のある肉であろうと、神の聖霊はその上に下ることはできません。十字架の釘跡がなければ、聖霊の注ぎ油はあり得ません。主イエスの死が、アダムにあるすべての人に対する神の判断です。すなわち、『すべてのものは死ななければならない』のです。

神は、主イエスが死なれるまで待たれました。その時はじめて、神は聖霊を遣わされました。同様に、もし信者が主イエスの死を経験することがなく、また旧創造に属するすべてのものに対して死んだことがないなら、彼は聖霊の力を見ることを望むことはできません。歴史上のペンテコステは、ゴルゴタの後にやってきました。霊的経験における聖霊の満たしもやはり、十字架を担った後にやってきます。」(p.50-51)


肉が十字架につけられるという経験は、決して、私たちの内にある、人の目から見て否定的で不愉快な性質だけが死に渡されなければならないということをさしているのではありません。たとえ人の目にどれほど善良に見える性質であろうとも、崇高に見える性質であろうとも、宗教的に見える性質であろうと、立派な知識、才能、美徳、人から賞賛される資質、魅力的な性格などであろうとも、それが肉から来たものであり、天然の命から来た性質であるならば、それは神の御前に全て死ななければならないのです。私たちの肉そのものが神の御前に死ななければならないのです。そのために、神は御子を十字架につけられました。この十字架の死を通して、信者の肉の古い命が死に渡されます。新しい命そのものである聖霊は、その死の後に初めて、復活の命として与えられ、信徒を内側から生かし、力づけ、立ち上がらせるのです。

「肉は神の前で永遠に罪定めされています。神はそれが死ぬことを望まれます。信者は、肉が死ぬのを望まず、反対に聖霊を受けて肉を飾り、肉にさらに多くの力を備えさせて、神のために働かせようとするかもしれません(もちろん、これは絶対的に不可能です)。このことすべてにおけるわたしたちの動機は何でしょうか? わたしたちの動機は、個人的な魅力、名声、人の歓迎、霊的な信者からの賞賛、成功、人に受け入れられること、自己を建て上げることでしょうか? 

清くない動機、すなわち『二心』の動機を持った者たちは、聖霊のバプテスマを受けることはできません。わたしたちは、自分の動機はとても清いと考えるかもしれません。しかし、わたしたちの大祭司は環境を通してわたしたちに、わたしたちの動機が真に清いかどうかを知らせてくださいます。わたしたちの現在の働きが完全に失敗し、人々がわたしたちの名を悪いものとみなし、わたしたちを軽んじ、拒絶する点にまで至らなければ、わたしたちの動機が完全に神のためであるかどうかを知ることは、とても困難でしょう。主によって真に用いられた人はすべて、この道を歩みました。いつであれ十字架がその働きを達成する時、その瞬間、わたしたちは聖霊の力を受けます。」(p.51)

私たちは自分の古き人が十字架で対処されることをさえ、自己の栄光や、人からの賞賛を受けるために求めるという過ちを犯すことがあります。周りにいる信者たちから、「霊的」であるとみなされたいばかりに、聖霊の力をさらに求めようとするという誤りを犯すことがあります。さらに、私たちは、可能な限り、楽をして、自分に痛みが少ない方法で、手っ取り早く、成長を遂げて、素晴らしい「霊の人」になれればよいと思っていないでしょうか? 霊的な人になりたいという私たちの動機は、一体、どこにあるでしょうか? 

神は私たちの動機が肉的でなく、純粋に御心に沿ったものとなるまで、ずっと環境を通して私たちを練られます。私たちの動機の中から自己目的が取り除かれ、私たちの動機が、神の願いと一致する時が来ない限り、神が私たちに聖霊の力を付与されることは決してないと思って差し支えないでしょう。私たちは覚悟する必要があります。神は私たちが、たゆみない成功の中で、賞賛の嵐の中で、人からの歓迎や注目の中で、快感と享楽の中で、順風満帆で何不自由のない生活の中で、聖霊の力をますます増し与えられ、力づけられて、大胆に進んでいくようなことはまずなさいません(それではあまりにも私たちを高慢にさせるだけに終わることは目に見えています)。

むしろ、それどころか、聖霊の力が与えられる前に私たちが経ていなければならない十字架は、私たちにとって極めて不快かつ、負いたくないような、痛みの伴うものであるかもしれません。神は、私たちの働きがことごとく失敗に終わり、私たちが人から見捨てられ、悪しざまに言われ、軽んじられ、誤解され、疎んじられ、拒絶され、敗者としての烙印を押され、「霊的なクリスチャン」として賞賛を浴びるどころか、クリスチャンの風上にも置けない人間との評価を受けて、孤独の内に、たった一人、見捨てられて、魂が微塵に打ち砕かれるような経験をまずお求めになるかも知れません。たとえそうなったとしても、私たちはただ神のみをまっすぐ見上げて、自分の肉と魂の欲求のすべてを脇において、それを捨てて、その願いに死んで、まず、御心だけを第一に求めることができるでしょうか? 自分自身が完全に絶望であるとの認識に立ち、見える評価の一切を拒み、ただキリストだけを見上げて、自分の栄光のためでなく、神の栄光のためだけに、聖霊によって力づけて、立ち上がらせて下さいと求めることができるでしょうか?

どうか、大祭司なる主イエスが、私たちの隠れた動機を明らかにして下さいますように。私たちの願いを御心に沿ったものへと練り清めて下さいますように。
「再生された信者は、霊が生かされ、聖霊が彼に内住していますが、依然として肉的な信者のままであり、霊が魂や体によってなおも抑圧されていることがあり得ます。再生された信者が、霊的になるのに成功するために特別に歩まなければならない道が、一つあります。

 簡単に言えば、一人の人には、彼の命において少なくとも二つの大きな変化があります。すなわち、滅びゆく罪人から救われた信者に変わることと、肉的な信者から霊的な信者に変わることです。ちょうど罪人が実際において信者となることができるのと同じように、肉的な信者も実際において霊的な信者となることができます。神は罪人を信者とならせ、ご自身の命を持たせることができます。神はまた、肉的な信者を霊的な信者とならせ、ご自身の命をもっと満ちあふれるほどまでに持たせることができます。<…>

 聖霊だけが、信者を霊的にすることができます。聖霊の働きは、人を霊的にすることです。神の贖いの方法の按配において、消極面では、十字架は破壊する働きを遂行し、アダムからのものすべてを滅ぼします聖霊は、積極面において、建設的な働きを遂行し、キリストからのものすべてを建て上げます

信者が霊的になることを可能にするのは十字架であり、信者を霊的にするのは聖霊です。霊的であることは、聖霊に属することを意味します。聖霊が人の霊を強めるのは、聖霊がその人全体を治めるようになるためです。ですから、もしわたしたちが霊的になることを追い求めるなら、わたしたちは聖霊を忘れるべきでなく、また十字架を脇へ置くべきでもありません。なぜなら、十字架と聖霊は、左右の手として働くからです。そのどちらも欠くことはできませんし、またこれら両者のどちらも単独で働きをすることはできません十字架は常に人を聖霊へと導き、聖霊は常に人を十字架へと導きます。霊的な信者は、自分の霊の中で聖霊と共にある経験を持たなければなりません。」(ウォッチマン・ニー著、『霊の人』、第二巻、p.24-25)


 この箇所を読んでいて、かねてよりの疑問が私の中で解けました。十字架は人の内のアダムからの命(旧創造)を滅ぼす働きをし、聖霊は人の内にキリストを建て上げる働きをします。十字架と聖霊は共に切り離すことができないものであり、どちらかのみが単独で働くことは決してあり得ません。ところが、今日、広まっている誤った教えの中では、多くの場合、この二つが全く切り離されています。健全な教えから外れてしまった教会では、信者たちは、十字架と聖霊とを全く別個のものに分けてしまい、これらが互いに無関係に、あたかも単独で働くことができるかのようにみなしているところに、重大な危険性があります。私たちも、もしも十字架と聖霊との関わりを見落とすならば、簡単に誤った教えに落ちてしまうでしょう。

 たとえば、信者が聖霊を抜きにして、十字架の破壊する働きだけに注目し、そのことばかり重視し始めると、それは信者に病的な破壊作用をもたらします。信者はどれくらい十字架を通して自分の自己が死んでいるかと自分をつぶさに振り返って、自己分析にふけったり、自己批判、他者批判に熱中したり、あるいは、自己を早く処分しようと自己破壊に熱中して、ついには精神に破綻をきたすことさえあり得ます。信仰の教師たちが、幼子のような信者に向かって、「神のためにあなたの自己を十字架上で早く捨てよ!」と、求めるようなことがあれば、それは信者に対するマインドコントロールとなり、それに基づいて支配や強制が生み出され、教会はカルト化し、信者は精神崩壊へと導かれるでしょう。

 私たちは、聖霊を抜きにしてやって来る偽りの「十字架」を拒否せねばなりません。御霊は、必ず、人の最も奥深いところから、その人自身の自主性を尊重する形で働かれます。ですから、御霊によって人が十字架へと導かれる時、十字架は確かにその人の内側で、古き人を壊すという意味では破壊的な働きをしますが、しかしそれによって、その人自身が自己崩壊に至ったりすることは決してありません。むしろ、十字架の働きが進めば進むほど、ますますその人自身は命に溢れ、調和の取れた人間へと変わっていくでしょう。それは御霊が新しい真の命としてその人の内側で建て上げる働きをするからです。

 ところが、御霊によらない、外側からの圧力としてやって来る偽りの「十字架」は、人の自主性を簡単に侵害し、人格を押しつぶすことができます。サタンはこうして、十字架の概念を悪用することによって、御霊によらない十字架を作り出して信者を惑わせ、外側から信者にマインドコントロールをかけ、破壊的な作用を及ぼすことができます。そこには聖霊がないので、信者の人格が(十字架を名目に)ただひたすら壊されていくだけで、新しい命を建て上げる働きは全くありません。もしも、その偽りを見抜けずに、そのような破壊的な作用に従うならば、最後には、信者は精神に破綻をきたすでしょう。私たちはこのような聖霊によらない十字架を警戒しなければなりません。

 さらに、十字架と無関係にやって来る偽りの「聖霊」というものも、私たちは警戒しなければなりません。今日、聖霊の名を語りながら、超自然現象へと信者を熱中させ、信者を恍惚状態や熱狂的陶酔に陥れたりして、それによって信者の人格と生活に破壊的作用を及ぼしている誤った教えがありますが、そこには、十字架が全くありません。十字架は常に人をへりくだらせ、私たちの天然の命を対処しますが、十字架と無関係に働く霊は、人を高慢にさせ、天然の命をさらに(異常に)増長させる効果を及ぼします。

 このような欺きに惑わされないために、十字架と聖霊とは左右の手のように切り離せないものであることを、私たちはしっかり覚えておく必要があります。

 さて、本題に戻りましょう。私たちはクリスチャンになった後も、ほとんど御霊の導きを内側で感じたことがないほどにまで、肉的・魂的な信者である場合が多いものです。どのようにして、私たちはそのような状態から抜け出し、御霊の導きを聞き分ける信徒となることができるのでしょうか。

「聖霊は信者の中におられますが、信者はそれを知らないか、あるいは聖霊に服従しないかのどちらかです。ですから、彼は自分に内住しておられる聖霊を知り、完全に聖霊に服従しなければなりません。

信者は、神の聖霊が一人のパースンであり、信者に内住し、教え、導き、キリストにある『実際』と真理を信者に与えることを、知らなければなりません。聖霊のこの働きは、信者が、自分の魂がいかに無知で鈍いかを認め、自分は愚かであっても喜んで教えを受けたいと決心してはじめてなされ得るのです。信者は、聖霊にすべてを支配していただき、真理を啓示していただくよう願わなければなりません。

信者が、神の聖霊は自分の存在の最も深い部分に、すなわち自分の霊の中に住んでいることを知り、彼の教えを待つ時、聖霊は働きをすることができます。わたしたちが自分では何も追い求めることをせず、完全に教えを受けることを願う時、聖霊はわたしたちに真理を、わたしたちの思いが消化できる方法で教えることができます。さもなければ、危険性が生じます。

わたしたちが、自分の内側には霊、すなわち神の至聖所があり、それは思いや感情よりも深いものであり、聖霊と交わることのできるものであることを知り、そこにおいて神の聖霊を待つ時、わたしたちは聖霊が真にわたしたちに内住しておられることを知ります。わたしたちが彼を告白し、彼を尊ぶ時、彼はご自身の力と働きを、わたしたちの内側の隠された所から現し、わたしたちの魂と知覚の命に彼の命を得させます。」(p.32-33)

 このことからも分かるのは、まず、信徒はクリスチャンとなった時からすでに自分の内なる霊の中に一人のパースンであられる聖霊をいただいていること(クリスチャンになった後に聖霊が与えられるのではないこと)、また、聖霊は、決して私たちの意志に反して、私たちの自主性をないがしろにするような働き方をしないこと(強制したり、脅かしたり、圧迫したりしないこと)、また、御霊は、私たちの知識や思いや感情の受けいれられる限度を超えて、私たちが自分をコントロールできなくなるような形では働かれないこと、御霊は私たちの限界を考慮して下さり、私たちの内で秩序を守ってくれること、決して、私たちの精神や肉体に破壊的作用を及ぼすような形では働かれないことです。

 聖霊は私たちの自主性を尊重して、私たち自身が信仰を働かせて、御霊に従って生きることを自ら選び取るのを待っています。もしも私たちが、聖霊に教えを受けたいと願わなければ、聖霊は私たちに教えることはありません。もしも私たちが聖霊に支配していたきたいと願わないならば、私たちは御霊によって支配されることは決してありません。そして聖霊は、外からの刺激や圧迫を通じて私たちに働くのではなく、また、外から私たちに何らかの賜物として分け与えられるのでもなく、私たちが内におられる聖霊を信じて待つ時、御霊は、私たちの内側の最も奥深くから、新しい命そのものとして、命の力として、現れ出るのです。私たちの古き人を砕くための十字架は、日々外的環境を通して整えられることはあるでしょうが、たとえそのような最中にあっても、御霊の命そのものは、必ず、私たちの最も奥深い内側から(私たち自身の霊を通じて)現れ出るのです。
<つづく>

「まず、『彼らは小羊の血によってうち勝ち』ました(啓示録第十二章十一節参照―筆者註)。
霊の戦いにおける勝利は小羊の血に基づきます。血は罪の赦しと救いのためだけではありません。さらに進んで、それはわたしたちがサタンにうち勝つ根拠です。

ある人たちは主にあって成長したものにとっては血はそれほど大きな価値はないと思うかもしれません。彼らは血を必要としない程度にまで成長し得るものと想像しています。わたしたちは力をこめて言わなければなりません。そんなことは決してないと! いかなる人も血の必要を超越する程度にまで成長できるものではありません。神の言葉は『彼らは小羊の血によってうち勝った』と言います。」(ウォッチマン・ニー著、『栄光の教会』、p.144)


今回の記事では、クリスチャンがサタンに立ち向かい、勝利を得るために、キリストの御血がどれほど必要不可欠なものであるかについて話したいと思います。サタンは日夜、クリスチャンを神の御前で訴えることを職業としています。サタンは、あらゆることについて、あることないこと、クリスチャンを罪定めしようとします。可能な限りの全ての口実をとらえて、彼は私たちを訴え、有罪にしようとしています。

サタンは私たちを訴えることにおいては天才的であり、その能力は私たちの想像をはるかに越えます。私たちが犯した大小の罪が非難されるのはもちろんのこと、私たちの犯していない罪までも、非難の材料となります。私たちの過去、現在、未来についてまでその非難は及び、一瞬たりともやむことなく、まさに私たちの一挙手、一投足のすべてにサタンの非難が向けられます。私たちが良心の咎めを持つように、あらゆる状況を通じて、サタンは私たちに非難を浴びせることができるのです。

たとえば、私たちが御言葉についてちょっとでも学ぶと、その御言葉を悪用して、サタンは私たちを罪定めしようとするでしょう。私たちが、人の古き命の性質が十字架で死を経なければならないということを学ぶと、早速、サタンは私たちの古き人がまだ少しも死んでいない!と言うことを根拠に、私たちを責めます。私たちが兄弟姉妹に対して、少しでも配慮に欠ける行動を取ると、おまえには兄弟姉妹への愛がない!と、私たちを責めます。私たちのクリスチャン生活に前進がないこと、その他、ありとあらゆる材料を持ち出して、彼は私たちがしかるべき状態にない事実を強調し、責めるのです。

サタンはクリスチャンを憎悪しています。彼は人を憎み、殺し、破壊し、誘惑し、偽証し、罪に陥れますが、クリスチャンを非難することも、彼の主要な活動の一部です。

「クリスチャンに敵対するサタンの主要な活動は、彼らを訴えることです。サタンは人殺しですか。そうです。彼は偽りを言い誘惑する者ですか。そうです。彼はわたしたちを攻撃する者ですか。そうです。しかしそれだけではありません。彼の主要な働きは訴えることです啓示録第十二章十節は言っています、『……われらの兄弟らを訴える者、夜昼われらの神のみまえで彼らを訴える者は、投げ落とされた』と。

わたしたちはここでサタンが兄弟らを夜昼訴えるのを見ます。彼は神のみまえで訴える者であるだけでなく、またわれらの良心のなかでも訴える者です。そして彼の訴えはわたしたちを弱くし、また全く無力にさせることができます。彼は人々を訴えて、彼らに自分は役たたずだと考えさせ、そうすることで彼らが彼と戦うすべての立場を失う程度にまで彼らを訴えることを好みます。

わたしたちはわれらの罪を対処する必要がないと言っているのではありません。わたしたちは罪に対して鋭い感覚をもたねばなりません。しかしわたしたちはサタンの訴えを受けいれてはならないのです。」(p.144-145)

私たちは、自分が犯した罪については、正直に神に告白して、赦しを乞わなければなりません。自分が犯した罪までも、それはサタンの訴えだから事実無根だと言い張ってはなりません。しかしながら、サタンによってもたらされる猛烈な非難は、私たちの考えられる範囲をはるかに越え、私たちの耐えうる限度をはるかに越えています。考えてみましょう、もしも、たとえ無実であっても、私たちが法廷に被告として立たされるようなことがあれば、どれほど自分を恥ずかしく思い、意気消沈するでしょうか。それなのに、夜となく昼となく、サタンから被告として責められ続けるということが、人にとってどんなに恐ろしいダメージとなるでしょうか。サタンは実際にそうする者であると聖書は言っています。サタンはあなたを、昼夜を問わず、人前であろうと、一人でいる時であろうと、絶えず、被告席に座っている人間のように非難し続けることができるのです。そして、このようなサタンの訴えに敗北して、消耗させられているクリスチャンがあまりにも多いのです。

「いったん神の子がサタンの訴えを受けいれると、一日中彼は自分は間違っていると感じるでしょう。朝早く起きると彼は自分は間違っていると感じます。祈るためにひざまずくと自分は間違っていると感じます。そして神は自分の祈りに答えてくださると信じることさえしません。集会でひとこと語ろうとすると、自分は正しくないのだからそれは何の役にも立たないと感じます。何か主にささげ物をしようとするとき、自分のような者のささげ物をどうして神はお受けになることができようかと思い、それなのになぜ何かをささげねばならないのかしらと怪しみます。

この種のクリスチャンのおもな関心は、主イエスがいかに栄光ある勝利の方であるかではなく、あらゆる状態のもとで自分らがいかに悪しくまた無価値であるかということです。朝から晩まで自分自身は無価値であるという思いに食いつくされます。彼らは働いていても、休んでいても、歩いていても、聖書を読んでいても、または祈っていても、いかに自分は無価値であるかと考えない一瞬間もありません。これがサタンの訴えです。もしサタンがわたしたちをこのような状態に保ち続けることができたなら、これは彼が勝利を得たのです。<…>

しばしばわたしたちは、自分自身が悪いという思いで占領されると、これがクリスチャンの謙遜だと容易に考え違いしてしまいます。しかしそれはわたしたちがサタンの訴えの有害な効果を受けているにすぎないことを知らないでいるのです。わたしたちが罪を犯したときは、それを告白して対処しなければならないことは真理です。しかしわたしたちの学ばなければならないもう一つの学課があります。わたしたちは自分自身を見ないで主イエスだけを仰ぎ見ることを学ばなければなりません。朝から晩まで自分を意識することは一つの病的な状態です。それはサタンの訴えをわたしたちが受けいれた結果です。<…>

 こういうわけで、わたしたちはサタンの訴えを軽く見積もってはなりません。彼のおもな仕事はわたしたちを訴えることです。<…>ついにわたしたちの良心はすっかり弱くされて、強くなることができなくなります。」(p.145-147)

今日、自分は完全に無価値であるという病的な思いに占領されてしまっているクリスチャンは多数います。これは彼の良心がサタンによって汚され、弱くされてしまった結果です。クリスチャンは、神の御前に、何のとがめもない、清い良心を持っていなければ、神にまっすぐに向かうことができません。もしも良心がつまずくならば、私たちは自分が神に向かってもはや頭を上げることができない者であると感じ、カインのように、御前で顔を伏せます(創世記4:5)。また、自分は神にまっすぐ向かう資格のない人間だから、祈っても聞き届けられるはずがないと感じ、神から遠く切り離されていると感じるようになります。私たちは罪を犯した時に、良心のとがめを感じますが、サタンは、私たちがたとえ罪を犯していなくても、事実無根の訴えをいくらでも作り出して、私たちに良心のとがめを感じさせ、つまずきを与えることができるのです。

「クリスチャンの日常の生活と働きにおいて、彼の良心は非常に重要です。使徒パウロはコリント人への第一の手紙第八章で、もし良心が汚されるなら人は滅びると言っています。この滅びるというのは永遠の滅亡のことではありません。ただその人はもう建て上げられることができなくなるという意味です。彼はあまりに弱くされてしまい役にたたなくなるのです。テモテへの第一の手紙第一章は良心を捨てたために信仰の破船をする人のことを言っています。破船したら航行することはできません。

こういうわけでクリスチャンが神の前に立つことができるかどうかは、彼がその良心につまずきがあるかどうかにかかります。いったんサタンの訴えを受けいれると、彼の良心はつまずきます。いったんその良心がつまずくと彼はもう神のために奉仕を続けることも、戦うこともできません。こういうわけでわたしたちはサタンのおもなわざはわたしたちを訴えることにあること、そしてわたしたちがうち勝たねばならないのは彼のこのわざであることを認識しなければなりません。」(p.147)


私たちは神の御前につまずきのない良心を持たなければなりません。そうすれば、私たちはまっすぐに神に向かい、神に心から礼拝を捧げ、喜んで御国のために働くことができます。しかし、私たちは罪を犯すことのある、間違いやすい人間です。どうすれば、聖なる神の御前に、清く汚れのない良心を維持し、サタンの訴えを退けることができるのでしょうか。

「どのようにしてわたしたちはサタンの訴えにうち勝つことができるのでしょうか。天からの声がわたしたちに告げます、『彼らは小羊の血によって彼にうち勝つ』と。血が勝利の根拠です。またそれがサタンにうち勝つ武器です。サタンはわたしたちを訴えるかもしれません。しかしわたしたちは御子イエス・キリストの血がすべての罪からわたしたちをきよめると答えることができます(第一ヨハネ一・七)。『すべての罪』とは大きかろうが小さかろうがどんな罪をも意味します。御子の血はわたしたちをそれらすべてからきよめるのです。

サタンはわたしたちが間違っていると言うかもしれません。しかしわたしたちは主イエスの血をもっています。主イエスの血はわたしたちの多くの罪すべてをきよめ去ることができます。これは神の言葉です、『御子イエスの血がすべての罪からわたしたちをきよめるのである』

 わたしたちは理由のない訴えを退けるだけでなく、理由のあるすべての訴えもまた退けなければなりません。神の子たちが何か間違ったことをしたとき、彼らは御子イエスの血だけを必要とするのであって、サタンの訴えなど必要としません。罪のために必要なのは尊い血です。訴えではありません。わたしたちが罪を犯した後訴えが必要であるなど、神の言葉は決して言っていません。ただ一つ問題はわたしたちが罪を告白したかどうかです。もしわたしたちがそれを言いあらわしたなら、それ以上何か言われるはずがありましょうか。<…>万一罪を犯したとしてもそれを言いあらわしたなら、わたしたちは訴えられるはずがありません。」(p.148-149)


こうして、神に向かって正直に罪を告白し、主イエスの血潮によって清められることを通して、私たちは、根拠のある訴えからも、根拠のない訴えからも、救い出されるのです。小羊の血は私たちのあらゆる罪を無効にすることができ、また、たとえサタンが私たちが犯してもいない罪を訴えたとしても、それも当然、無効にする根拠となります。私たちはあらゆる機会に主イエスの血による清めを求めて祈ることができます。そうして小羊の血を自分に適用したならば、私たちは神の御前に罪汚れない者とされたのですから、それ以上、サタンの訴えに耳を貸してはなりません。(それは感覚の問題ではありません。たとえ主イエスの血による清めを求めて祈った時に何の感覚がなくとも、私たちは清められたことを信じなければなりません。)

サタンは絶え間なく、私たちがいかに善良さに欠けているか、いかに欠点だらけで、未熟で、幼く、神の御前で忌むべき役に立たない人間であるかということを、繰り返し、繰り返し、強調するでしょう。サタンは言うでしょう、おまえの性格はあまりにも自己中心すぎる、おまえの古き人が邪魔になっている、おまえは傲慢すぎるゆえ、奉仕の役に立たない、あるいは、未熟すぎて、まだそんな奉仕をする力はない、等々。あらゆる機会をとらえて、サタンは私たちの振る舞いが常に間違っていると強調し、私たちが御国のための働き人にふさわしくない欠点を持っていることを非難するでしょう。そして、私たちがそういう自分のあれやこれやの未熟さや、欠点にばかり、絶えず、目を向けて、失意落胆するように仕向けるでしょう。そしてその欠点を何とか自力で克服して、もっともっと信仰的に成熟した人となり、自分の力でそれなりの義に達しなければ、人も私たちを受けいれないばかりか、まして神は、私たちを決して受けいれるはずがない、と言うでしょう。そんな訴えに耳を貸してはなりません!

「…わたしたちはどっちみち神の前に積極的な善など一つも持っていなかったことを記憶しなければなりません。神にささげることのできる善など一つもわたしたち自身のうちになかったのです。わたしたちはただ一つのもの―血―だけを神にプレゼントすることができます。わたしたちは血によってのみ義とされます。わたしたちのうちに積極的な義など一つもありません。わたしたちは贖いによって受ける義によってのみ義となります。恵みの御座に来る度ごとにわたしたちは恵みを求めて彼を仰ぎ見ることができます。それは恵みの御座です。義の御座ではありません。

わたしたちが神の前に来る度ごとに、わたしたちの唯一の資格は贖われたということです。クリスチャン生活でわたしたちがどれだけ前進したかではありません。『自分は最近かなりよくやっている、今やわたしは大胆に祈れるようになった』ということのできる段階にかりにも達することのできたクリスチャンなど一人もありません。そうです。わたしたちが神の前に出るとき、わたしたちの唯一の根拠、わたしたちの唯一の地位は血です。それは血の上に基礎づけられています。霊的成長のどれほどの量も血の効力に代わり得るものではないことをわたしたちは認識しなければなりません。霊的経験の一つだに血の働きにとって代わることはできません。<…>

 時々わたしたちが罪を犯したとき、サタンが来てわたしたちを訴えます。また時々わたしたちが罪を犯したのでもないのに、やはりサタンがわたしたちを訴えに来ます。時々それはわたしたちが罪を犯したかどうかの問題ではなく、わたしたちが神にささげる積極的な義を持っていないことが問題になります。そこでサタンはわたしたちを訴えます。しかしわたしたちはここではっきりしていなければなりません。わたしたちが神のみ前に来るのは血のゆえだけであって、他の何物にもよらないということですわたしたちが血によってきよめられ、血によって義とされた以上、わたしたちはサタンの訴えを受けるいかなる義務もないということです。

 尊き血は霊的戦争の根拠です。血の価値を知らないとしたら、わたしたちは戦うことができません。いったんわたしたちの良心が弱くされたら、おしまいです。こういうわけでわたしたちは責められるところのない、きよい良心を維持していないのでしたら、サタンを対処する道がありません。サタンはわたしたちに対抗して訴えようとしたら幾千という理由を使うことができます。もしそれらを受けいれたなら、わたしたちは倒れます。しかしサタンが語りかけてくるとき、わたしたちは血の答え一つで彼のすべての理由に答えることができます。血によって答えることのできないただの一つの理由もないのです。」(p.150-152)

 ハレルヤ! 小羊の血は全ての罪や汚れ(良心につまずきを与える全てのものを含む)から私たちを清めることができるのです。私たちが未熟でないことや、義人であろうと努力していることや、クリスチャン生活で前進していることなどが、私たちが神に受けいれられる条件なのではありません! 私たちの古き人がどの程度、十字架で死んでいるかが、神が私たちを受けいれる基準となるのではありません! 私たちがクリスチャン生活でどれくらい人に頼ることなく、自立して生きられるようになったかが、私たちが神の御前に義とされる根拠になるのではありません! ただ私たちが主イエスの血によって清められているかどうか、私たちに小羊の血が適用されているかどうか、それだけを神はご覧になるのです。小羊の血によってすでに清められたのなら、何も心配することはありません。神はキリストの血をご覧になって、私たちを義なる者として受けいれてくださるのです。

主イエスはわたしたちのための大祭司であり、仲保者であります(ヘブル二・一七―一八、四・一四―一六、七・二〇―二八、八・六、九・一五、第一ヨハネ二・一参照)。彼はいつでもこの地位―大祭司と仲保者として仕えておられます。彼の奉仕の目的はわたしたちをサタンの訴えから守るためです。人が彼を救い主として受けいれるのはわずか一瞬間のことです。しかしサタンの訴えに立ち向かうことは一生涯の問題です。

ギリシャ語の『仲保者』は『任命された弁護者』を意味します。主はわたしたちの仲保者、わたしたちの弁護者です。主はわたしたちのために語られるのです。問題はわたしたちが仲保者の側に立つか、それとも告訴者の側に立つかです。わたしたちの仲保者がわたしたちを弁護している最中に、わたしたちが告訴者の言葉を信ずるとしたら、それは馬鹿げたことです。弁護者がしきりに被告の有罪でないことを証明しているのに、被告は頑として告訴者を信ずるとしたら、それは全く馬鹿げたことではないでしょうか。

ああ、どうかわたしたちが主イエスはわたしたちの仲保者であること、また彼はわたしたちを弁護しておられることを見ますように。もしわたしたちが血の価値を認識するなら、今日地上に平安と歓喜のクリスチャンは大いに増加することでしょう。」(p.153-154)

この世で、人々は裁判で勝訴するために高いお金を払って有能な弁護士を雇います。しかし、クリスチャンには最高の弁護者がすでに任命されているのです。主イエスご自身が、私たちをサタンの訴えから守るために、私たちの弁護に立ち、私たちに日々仕えて下さっているのです! 被告席に座って、サタンの訴えを延々と聞かされるのは惨めな立場に思われるかも知れません。しかし勇気を出しましょう、私たちがどんなに弱くとも、主イエスご自身が私たちのために贖いとなられ、その血潮によって私たちを清めてくださり、私たちを弁護するために仕えて下さっているのです。これほど頼もしく光栄なことがあるでしょうか。小羊の血によって対処するならば、サタンのあらゆる訴えが無効になります。生涯、小羊の血によって、私たちはサタンの訴えに打ち勝たねばなりません。私たちは生涯、主イエスの血に頼り、キリストの御血に信頼しなければなりません。

「神はわたしたちを多くの無意味な訴えから救い出すことを願われます。神はそれらのくさりを断ち切りたいのです。来る日も来る日も訴えを受け入れ続けることが、わたしたちの謙遜であるなどと決して思ってはなりません。わたしたちはこれらの訴えにうち勝つことを学ばなければなりません。<…>勝利者は、血の価値を知らなければなりません。」(p.154-155)
 

再び補足:十字架の間違った取り扱い方について

最近、気づかされたことがあります。それは、十字架の概念が度々、交わりの中で、誤用されている現実があるということでした。この危険性は、私たちが気づかないうちに忍び寄って来ます。たとえば、人が人に身勝手な要求を突きつけ、思い通りにならない人を責めたり、あるいは、厄介払いするための根拠として、「十字架」が使われている場合があり、それが意識もせずに行われ、キリストの御身体に損傷をもたらしている場合があります。

日々の十字架は、人が上からの光に照らされて、自主的に選び、負うべきものであって、いかなる理由があろうとも、人が人にそれを当然のごとく負わせるべきではありません。たとえば、私たちがある人に向かって、「あなたのその汚れた思いや感情という、古い自己を、さっさと十字架につけて下さい!」と命令するのは正しいことでしょうか。間違っています。

あるいは、仮に私たちが耐えられないほど嫌な人間に出会ったとしましょう。それでも、「あなたのその古い人を早く十字架で対処してください! 私があなたとつきあうのはそれからです」と、相手に求めてよいでしょうか。いいえ。私たちには、正直に、自分の思いを相手に告げて、つきあいが困難である人から離れ去ることは許されるでしょう。しかし、自分の嫌悪感を正当化する根拠として、御言葉を利用し、「その人の古き人が十字架で対処されていない」問題を持ち出すのは間違っています。

十字架がある人の人生において、どの程度、具体的経験として理解されているかは、人によって違いがあります。クリスチャンは、日々、十字架をより深く理解し、経験することをすすんで追い求めるべきです。いつまでも信仰の幼子のようであって良いと考えるのは間違っているでしょう。ですが、だからといって、そのことが他人への当然の要求や、強制となってはいけません。

私たちは、ある人が、まだ経験したことのない十字架の深い意義を、無理にでも、その人に経験させようと強いるべきではありませんし、また、その経験のなさを、非難したりすべきでもありません。

また、人が人に何かの負担を強いることの口実として、「自己を捨てる」よう要求したり、「十字架で自己を死に渡す」よう求めたりしてはなりません。それは十字架の概念の悪用です。人が自分の愛の足りなさ、寛容のなさ、利己主義を覆い隠すための口実として、他人にとって不利な負担を「十字架」としてすすんで耐え忍ぶよう要求したりしてはいけません。人から要求される「十字架」(多くの場合、圧迫や非難としてやって来る)には、常に注意が必要です。それは実に多くの場合、十字架の誤った取り扱い方に基づいているからです。

主は「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われました(マタイ11:30)。また、「…日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(ルカ9:23)とも、言われました。神は常に人の自由意志を尊重して働かれます。私たちが強制されてではなく、自分の意志で、神が望まれる日々の十字架を選び取ることを、主は願っておられます。御霊は常に人の決定を待っていてくださり、人の意志を無視して働かれません。ですから、私たちは、御霊でないものから、十字架を強制的に負わされる必要はありませんし、十字架を理由に人から支配されたりしてはなりません。私たちはただ主から十字架を受け取れば良いのであって、人からそれを強制される必要は全くありません。

人が人に十字架を無理にでも負わせようとすることは、人が神に代わろうとする越権行為です。人が御霊の働きを越えて、他人に対して、「古き人が死ぬこと」や、「自分の命を捨てること」や、「十字架を負うこと」を求めるべきではありません。十字架はあくまで人の完全な自主性に基づいて選び取られなければなりません。また、人が十字架をすすんで負うためには、まず、その人の内側で、上からの聖霊による照らしと導きがなければなりません。人は御霊によって、日々、キリストの十字架へと導かれるのでなければなりません。もしそうでなければ、十字架の意味は全くありません。私たちは十字架について人に語り、勧めることは許されるでしょう。けれども、その人自身がまだ主から示されていない問題を、まるで当然のごとく、理解するよう人に要求してはいけません。また、苦手な人を排除する理由として十字架や古き人の問題を持ち出してはなりません。もしも、人の自主性を無視して、人から人への強制として押し付けられる十字架があるならば、それはたやすくカルトへと結びつくでしょう。

信仰暦の長さに関係なく、私たちは、御霊の働きを妨げるそのような越権行為を他人に対して気づかずにしてしまう場合があります。ある時は、私たちは、高慢ゆえに、主より先走って、人に犠牲を求めていながら、それを「十字架」という言葉で正当化している場合があるかも知れません。または、自分では気づかずに、自分に有利な状況を作り出すために、他人に「十字架」を課そうとしている場合があるかも知れません。私たち人間には、そのようにして十字架の概念を利己的に歪め、他人を支配する口実として用いる危険性が十分にあることをいつも覚えておく必要があります。そのような危険性の中に、気づかずに足を踏み入れてはいないか、自分を振り返る必要があります。

私たちは、決して、主の働きを越えてまで、その人の自主性を侵害してまで、あるいは、御言葉の本来の意図を外れてまで、自分勝手な理由で、人に十字架を強制することがないよう常に気をつけるべきです。十字架は、キリストが私たちに与えて下さった最も尊い御業です。十字架は、キリストの命の最高の表現であり、私たちに与えられている最大の恵みです。それは神と人との和解の場であり、人と人との和解の場でもあります。私たちを新しい人としてくれる唯一の通路が、十字架です。にも関わらず、尊い十字架を、私たちが互いに裁き合ったり、責め合ったり、排除し合ったり、利己主義をかなえたりする道具として使うことがないように、常に気をつけていなければなりません。
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