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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

御国が来ますように―天地の架け橋としてのキリストにある「新しい人」(2)

「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかりと保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。
(ヘブライ4:14-16)

前回、オースチンスパークスの論説が、御霊によって、御国の法則を示したものだと書いたが、そのことをもう一度、強調しておきたい。オリーブ園の記事「私たちのすべてなるキリスト 第四章 開かれた天(1)」を参考に挙げておく。
 
今回は、これを踏まえつつ、時宜にかなった助けを受けることの必要性について語りたい。

私たちと神との関係は、御子が地上におられたときの、御霊にあっての御父との関係と同じだという言葉はまさにその通りである。

御霊を通して、私たちは神に向かって「父よ」と呼びかけ、その御前に子として進み出ることが許されているのであり、あらゆる必要を希う権利が与えられているのである。そして、主イエスは地上におられた間、絶えず隠れたところで御父に祈りを捧げられ、御父からまことのいのちの供給を受けられた。

私たちはこの権利を地上において行使する必要がある。この天につづくはしごを活用して、絶えず天を地に引き下ろさなければならないのである。

ただ、その作業のためには、積極的に願うこと、平安の中で願ったことが必ず実現に至ることを信じること、大胆に目的へ向かって進んで行くことが必要となる。

特に重要なのは、平安を失わないことである。平安が基礎とならないと、神に願いを申しあげても、それが実現すると信じることさえできない。そして、信仰に基づいて確かな足取りで歩んで行くことができないのである。
 
筆者は、かつてすべての教団教派を離れ、約1年ほどかけて、幼い頃から受けたキリスト教の教育で学んだ経験や知識もすべて脇において、まことの神ご自身は一体、どういう方なのか、聖書の御言葉が意味するものは何なのか、個人的に熱心に尋ね求め、そして神ご自身がそれに応えて下さり、直接、神を知った時から、筆者が神の子供として受け入れられている事実、神が今日も生きて働いて下さる事実を疑ったことはないし、信仰をなくしたことは一度もない。
 
その時から、人間の生きる目的のすべては、神を知ることにあり、自分自身の利益のためでなく、神のために生きるという一事のためにあることを確信して来た。

それは明らかに筆者自身の力によって得られた信仰ではなく、御霊を通して与えられた信仰であったと言える。なぜなら、筆者は教会生活を送っていた頃に、そのような確信を得たことが一度たりともなかったからである。

しかし、それでもその後の信仰生活には波乱がなかったわけではない。そして、最も大変な時に、一度だけ、果たして自分が本当に子として神の御前に恵みを求めて進み出ることが許されているのか、何かひどい疑いのようなものがついて回ったことがあった。

筆者は、これは暗闇の勢力からの攻撃ではないだろうかと感じ、それにどう抵抗すれば良いのか考えあぐねた。その頃、想像を絶することが次々周囲で起き、それはどれを見ても、まさにすべて暗闇の勢力からの攻撃としか言えない現象ばかりであった。

しかし、そうした疑惑は、それでも自分の心を頼りとせず、御言葉への信仰により頼みつつ、一定期間を過ごした後に、まるで暗いトンネルから抜け出て光のもとに出るように、あるいは霧が晴れるように取り去られ、気づくと以前と同じような大胆な確信の中に入れられていた。不明な圧迫に対しては、御言葉に基づき、とことんまで抵抗することで、暗闇の勢力との戦いが打ち破られて、重荷が取り去られたのであろう。
   
クリスチャン生活の中には、あまりにも戦いが激しく、防衛戦で手一杯となり、積極的に新たな霊的領土を征服するための攻撃戦に出て行くことができなくなり、何かを願うことさえ不可能に近い心理状況に追い込まれることがありうることは、幾度か書いて来た。

それはちょうどイエスがゲッセマネの園で、血の汗を流して祈られたという場面にも重なるかも知れない。むろん、私たちの誰一人、そのようなまでの苦境を通らされたことはないが、その時、主イエスの願いは、ただ十字架という杯を避けられるかどうか、という一事に絞られ、それまでのように、御父との優しい絶え間のない交流を得て、慰め、励まし、助けを得、すべての必要を父に満たしていただくために祈られたわけではなかったのである。

そういう、心の最後の平安までも失われたかに見える激しい心の戦いが、クリスチャン生活にないとは言わない。時には、神の御旨と自分の意志との間にずれが生じ、言い争いのようなことが起きることがないわけではない。
 
しかし、ほとんどの場合、私たちの祈りは、御父に向かって、自分の心の中にあることを穏やかに告げて、神の御心を示して下さいと率直に求め、神の御旨を信頼して自分を委ね、必要な助けを求めることである。

大きな試練の中にあって、何かしら神の取扱に納得できない事柄があったとしても、私たちの祈りは、最終的には、自分のすべてを神の御手に委ねて、御心の通りになさって下さいと申し上げる形で終わる。

そして、私たちが御旨に従うからこそ、必要な助けが与えられるのである。

平安は、その明け渡しの作業が完了した時にやって来る。大胆に恵みの座に進み出て、時宜にかなった助けを受けるとは、あれやこれやの自分の必要性を神に訴え、助けて下さいと願うことも含んでいないわけではないが、何よりも、この心の平安――私たちが確かに父なる神によって子として受け入れられ、贖われ、愛され、キリストの中にあって、聖霊によって、助けを得ているという確信――もっと言えば――すべての戦いは十字架においてキリストの勝利により決着がついており、その勝利は私たちのものであるという確信――を得ることである。言い換えれば、その十字架を通して、御父、子、聖霊の交わりの中に、私たちが確かに入れられているという確信を得ることである。

その確信が基礎となって、初めてすべての必要を神に願うことが可能になる。まず、子としての立場がなければ、何一つ御父に願う資格すらもないためである。

そして、子としての平安に満ちた確信は、私たちが神にあって、自分の全てをこの方に委ね、神の御心に従って生きることに同意することによって得られるのである。

地上のサラリーマンの給与は、企業などの団体に所属して、その団体の利益に奉仕することによってしか得られないであろう。しかし、天の御国の収穫のために、天に奉仕する働き人は、神の御旨に奉仕することによって、必要のすべてを満たすことのできる目に見えないサラリーをもらっている。もちろん、働きとは関係なく、子として養われている分もあるが、その上に、働きに応じた報酬も存在するのである。

私たちの本当の雇用主は、こういうわけで、天の父なる神なのである。
 
このことは幾度も書いて来たが、私たち信者が、真に天の御国の権益に関わる事柄に奉仕する時、それに必要なものは何もかも上から添えて与えられる。そこで、どうやって生きるかということだけを最優先課題として、地上の生活を第一に心配し、そのせいで御国への奉仕を後回しにする必要がなくなるのである。神が承認されたプロジェクトには、神がそれを完遂するために必要なすべての手段を与えて下さる。
 
そこで、神は何をするにしても、まずは私たちの動機を問われる。

「あなたのしようとしていることは、あなた自身のためなのでしょうか。それともわたし(神)の栄光のためなのですか。」との動機が問われるのである。

神は、聖霊の見えない証印が押され、確かに神の栄光のためになされたことでなければ、後押しされないし、責任も負われない。人間が自己の判断で自分の利益のために行ったことについては、神は決してこれを守ったり、ご自分から出たことであるかのように擁護し、責任を負って下さることはないのである。

だが、私たちは多くのことを自分の必要を満たすために行っている。いちいち御心を問うこともしていない。そして、そのすべてが、御国の収穫のために行ったとどうして言えるだろう?

ところが、そう言える根拠が存在するのである。パウロは、食べることや飲むことまでもすべてキリストのために行うと述べている。同様に、私たちは日常で行っているすべてのこと――それがたとえ直接的には神の栄光に関わりがないように見えても――をすべて神の栄光のために行うことができるのである。それは私たちの全き献身、自分のすべてを神に委ね切ることから始まる。

神への明け渡しは、繰り返すが、「私はあなた(神)の栄光のために生きます」と宣言し、自分のすべてを神に委ねることである。

たとえばある企業が、より大きな企業に吸収合併されれば、その名も、資産も、すべてが合併された会社に属するよう変更される。資産だけでなく、赤字も、合併した企業のものになる。

私たちが絶えず神への献身を行って行くとき、同じようなことが起きる。私たちの諸々の行動の中には、果たしてその出所が定かでないことも含まれているかも知れない。知識が足りないがゆえに及ばなかった行動があったり、私たちが何が神の御心であるかを自覚できていないまま、それが神の御心にかなうと一方的に考え、あるいは誤解していたような事柄さえも、含まれているかもしれない。後になってみれば、何と考えが足りなかったのだろうと思われることが多くあるかも知れない。
 
それはいわば赤字である。

だが、それも含めて、私たちが自分のすべてを正直に心から神に委ねる時、神が私たちの人生に対して最終責任を負って下さるのである。赤字をたくさん作って、にっちもさっちもいかなくなってから、自分よりも大きい企業に身売りをするのは、あまり良いやり方ではない。しかし、立ちゆかない経営を続けて倒産し、すべての従業員と家族を路頭に迷わせるよりはましであろう。

私たちのために重荷を担われる主、と聖書にある通り、十字架において人類のすべての負債を身代わりに背負うことのできた方には、今日も、私たちの抱えているすべての重荷を負って下さることができないはずがない。

だが、もちろん、神に都合よく重荷だけを押しつけ、自分は恵みにだけあずかりたいというような生き方は、初めて悔い改めて神に立ち帰る信者なら許されても、いつまでもそのようなことを続けていれば、誠実な献身とは言えないだろう。
 
私たちの主人に重荷ではなく、収穫をもたらすために、良い僕として働き、共に同労するという道があるはずである。

私たちは地上にある間は、神から離れて生きている。心には聖霊を通じてキリストが住んで下さっても、体は神から離れている。そして、この神から離れている部分は、私たちを絶えず、さらに神から引き離そうと圧力を加える。

しかし、私たちは自分たちの霊の内側で、それとは逆のベクトルの力を行使して、自分の体を霊に従わせる。飲み食いは体の仕事であるが、それも神のために明け渡すことで、体の働きをも聖別することができる。

こうして、自分自身を絶え間なく神の御旨の中に委ね、すべてのことを自分個人のために行うのではなく、神の栄光のために行うことを告白し続け、自らのあらゆる行動の動機を神に委ね続けるのである。

何かひっきりなしの異言の集会や、訳の分からない恍惚体験に身を委ねるのではなく、人の見ていない隠れた場所で、はっきりとした自覚を持って、自分自身の人生が、もはや自分のためにあるのではなく、神のために存在することを告白し、自分について、自分で把握できていることについても、把握していないことについても、すべてを神に委ねるのである。

その時、神があなたの人生に最終責任を負って下さり、どれほどあなたの人生に複雑に錯綜した幾多の問題があろうとも、神が必ずそれを最後まで解決へと導いて下さるという明確な平安が心に訪れる。その時から、あなたの心に秘密はなくなり、神との間に言い争いもなくなり、あなたはすべての問題について、神と同労しながら進んで行くことができるようになる。

そして、重荷が去った暁には、願うことを自由に口にできるようになる。

保護者の許可がないと多くのことができない子供には、願っても実現できない数多くのことがあるが、大人になれば、自分で行きたいところへ行って、したいことができる。大きな事業も始められる。
   
神はあなたがキリストにあって成人となり、自らの意志で神に従うことを選びつつ、神に栄光をもたらす多くのことができるようになるまで、ずっと後見人として付き添って下さる。御父が望んでおられるのは、信者が暗闇の勢力との戦いでへとへとになるまで、ただ防衛戦だけをいつまでも繰り広げることではなく、あらゆる圧迫を大胆に打ち破って、その先に、自由の中で、勝利の生活を打ち立てることにある。そして、その法則を、自分だけで楽しむのではなく、多くの人々に伝え、他の人々を自由へと導くことにある。
  
その時、あなたの祈りが、あなた個人だけでなく、あなたを取り巻く社会に対しても、影響を及ぼし、兄弟姉妹にも影響を及ぼし、祭司としての働きが始まるのである。それは決して、あなたが福音伝道をして何人がキリスト教に改宗したかといった問題とは関係ないことである。あなたが周囲に影響を及ぼしていることは、あなたには分かっても、他の人々にはほとんど分からず、そのことがあなたに栄光をもたらすこともない。

しかし、それでも、不思議なことに、あなたは周囲の人々に仕えながらも、彼らがあなたのために仕えているという逆説的な現象があることに気づくだろう。あなたの中におられるキリストが、あなたを通して、あなたを取り巻く社会に対しても、中心的影響力となっておられることに気づくだろう。そして、キリストこそ、全ての中心であり、万物を足の下に支配される方であることを知るようになるだろう。

私たちに与えられている時宜にかなった助けは、ただ自己保存という目的のためだけにあるものではなく、御国の法則を地に引き下ろすため、御国の拡大という霊的前進のために与えられているものである。

その前進に伴い、山上の垂訓が、信者の生活の中に確立し、生ける水の川が、信者の人生の中で、渇いた土地を肥沃にしていくということが起きなければならない。私たちは、御父に受け入れられたまことの大祭司なるキリストを通して、私たち自身も祭司となって、御前に進み出て、神の憐れみ深さ、愛の深さ、恵みの豊かさが、私たちの自己満足のためでなく、神の栄光のために、目に見える実際となって現れ、自由がもたらされるよう、絶え間なく、恵みの座に進み出て、飽くことなく懇願し、これを追求し続けなければならないのである。
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御国が来ますように―天地の架け橋としてのキリストにある「新しい人」(1)

「御国が来ますように。
 御心が天に成るごとく、地にもなさせたまえ。」

またもや大きな勝利があった。死の恐怖からの自由、不当な圧迫に対する勝利、むなしく不毛な苦役からの解放、自由の中での勝利が与えられた。神が信じる者をどれほど入念かつ注意深く助け、守って下さるかが証明された。そして、信じる者は、この地にあって、すべてを足の下にされているキリストの目に見えない復活の命の統治を持ち運んでいるがゆえに、地を従える者であることが証明されたのである。

オリーブ園に再び、オースチンスパークスの「開かれた天」が連載されている。ここには、地上におけるキリスト者がキリストと合一することにより、その者が天(御心)を地に引き下ろすための架け橋となることが記されている。

当ブログで、これまで繰り返し、オースチンスパークスを取り上げて来たのは、彼の論説が、明らかに御霊によって書かれたものだと分かるためである。私たちはそのような論説を読むとき、御言葉に基づく神の光によって、霊的に照らされることができる。

霊的に照らされるとは、私たちが地上の人間的な卑俗な観点や思いを離れ、何が神にとって最も重要な事柄であるのか、御国の権益に関わることとは一体、何なのか、改めて思い起こさせられ、目が開かれるということである。その効果は非常に絶大である。

残念ながら、霊的先人と呼ばれている人々の文章のすべてが、御霊によって導かれて書かれたものではない。正直に言えば、ペンテスコステ系の先人たちの論説のように、キリストを証しているように見せかけながら、実際には、人間の言葉に過ぎないものが数多くある。

しかし、真実、御霊に導かれて書かれた数少ない例外があり、筆者が見たところ、オースチンスパークスの論説もその一つである。それは、そこにキリストを証する文章、また、天的な法則性が記されていることからも分かる。「開かれた天」にも、キリストとの合一、死と復活の命の法則により、いかにキリスト者が、この地上にあって、御国をこの地上に引き下ろす存在となるかという法則性が記されているのである。

さて、そのようにして照らされることの重要性を述べた上で、当ブログでも、もう一度、御国の統治を地に引き下ろすことについて書きたい。

キリスト者は、死を打ち破って復活されたキリストのまことの命の霊的統治を持ち運ぶ者であることについては、これまでにも再三に渡り、書いて来た。

しかし、そのまことの命の統治が、はかりしれないほどに絶大なものであればこそ、キリスト者は、暗闇の勢力から絶え間なく攻撃を受け、何とかして神のまことの命の支配がこの地に実現しないように、妨害を受けるのである。

だが、そもそも、一体、神のまことの命の支配とは、具体的に何を意味するのか、と問われるであろう。それは福音伝道をしてクリスチャンを地上に増やすことなのか、教会の領域を押し広げることなのかと言えば、決してそうではない。

それは、地上では、か弱い人間に過ぎない一人の信仰者を通して、その者を死から贖われ、キリストの復活に同形化された神のご計画の正しさ、その者を死から贖った絶大な神の命の力が、この地上の人々にも、それと分かる形で、はっきりと現れ出ることを意味する。

究極的に言えば、一人の人間がすべての死の圧迫から解放されて、真に自由とされ、自由の中を、神と共に生きることを意味する。それは真実に基づく、偽りのない、御心にかなう生活である。
  
つまり、キリスト者は、地上では弱く脆い土の器であるが、その者が、自分を何とかして再び罪に定め、死に追いやろうと、飽くことなく敵意と憎悪を燃やしている地獄の全勢力からの果てしのない妨害を打ち破って、キリストの復活の命によって、神に対して真に生きる者とされ、永遠に贖われた神のご計画の正しさを明らかに証明することなのである。

この命の力、死を打ち破ったキリストの命の統治の力が発揮される時、暗闇の勢力と、天的な勢力との間の激しい支配権の争奪戦に終止符が打たれ、支配権が逆転するのを私たちは見る。

この世においては、キリスト者はあまりにも無力で、弱く、地獄の軍勢の虜とされて、苦しめられている罪人の一人のようにしか見えないかも知れない。いや、キリスト者となって贖われたがゆえに、世人をはるかに超える憎しみに遭遇し、世人以上に、なお一層、虜とされて苦しめられているようにさえ見えるかも知れない。

しかし、信仰によってそれらの妨害が打ち破られる時、地獄の支配権と、天的な支配権とが逆転し、悪魔の死の力を十字架において打ち破ったキリストの復活の力が、この世のすべての物事を超越してこれらを自らの意志に従えるという統治の順序の逆転が現れ出て来るのである。

つまり、キリストの復活の命は、支配権の問題であり、支配権の争奪戦だということが分かるだろう。神はアダムに地の支配権をお与えになったが、アダムの堕落のゆえに、地は悪魔によって不法に占領され、不法に統治されているが、これを悪魔の支配権から奪還して、キリストの復活の命の統治下に置くことが、神の命題であり、キリスト者の使命なのである。

そのために遣わされているのが、キリスト者なのであり、キリスト者は、神の命の支配、御子の復活の命の支配権を持ち運んでいる存在なのである。

そして、そのキリスト者が、内に御霊をいただくことによって、目に見えない形で絶えず持ち運んでいる、キリストと共に復活にあずかった新しい人としての新たなる支配権は、その者の中から、その者自身の意志、望み、活動と連動して、生ける水の川のように流れだす。ちょうど山頂に登頂した人間が、そこに旗を立てるように、その者が、何を征服しようと望み、どこに行き、何をするのかといった望みと活動に連動して、目に見えない支配圏が押し広げられて行くのである。

筆者が、キリストの復活の命の支配権の拡大を、登頂になぞらえたのは偶然ではなく、実際に、支配権(圏)の拡大は、新たなる領域を征服することにによってのみもたらされる。そして、キリスト者の場合、復活の命の支配権の拡大は、その者の内なる望みに基づく行動によるのである。

先に、キリストの命の支配の拡大とは、地上でクリスチャンが増えることや、教会の領土が拡大することとは何の関係もないということを書いた。それでは、一体、この支配とは何なのか?という疑問が生じよう。

それは何よりも、すでに書いた通り、人を真に自由とする支配であり、自由の中で、望みによって打ち立てられる支配である。

この世において、人は死の恐怖の奴隷とされている。己を養うため、命を支えるため、死から逃れるために、人は実り少ない苦役のような労働につながれ、絶えず、自分の命が失われるという恐怖の中に虜とされてしか生きることができない。何をするにも、どうやって自分の命を保たせるか、ということだけが中心課題となる。

しかし、神の復活の命の統治が現れ出る時、人はもはやそのような死の恐怖の虜ではなくなり、その恐怖から解放され、自由の中で、安息を得て、その安息の中で、自分の意思決定を下せるようになる。

これを表すに当たり、「必然の王国から自由の王国へ」という、かつて共産主義者が使用したスローガンを利用することもできるかも知れない。(ただし、共産主義者は、アダム来の人間の欲望に従って人間の自由を願ったが、キリスト者は、人に自由を得させることが、神の御心であるという事実に基づき、キリストと共に死と復活を経由した者として、自由を求めている。私たちは、己の欲望だけに従って欲望の実現を追い求めて生きているのではなく、神の御心にかなう真実で偽りがなく公正かつ自由な統治を求めているのである。)

つまり、贖われた人は、死の恐怖のゆえに、限られて乏しい選択肢の中から、仕方がなく意に沿わないものを選んで生きるしかないという限定された生活ではなく、真に自分の望みに従って、自由の中から自分の選択を決めることができるようになる。(共産主義者が使用したスローガンは、聖書における御国の模倣である。)
 
キリストの命の支配の拡大は、その者が何を望み、何を実現しようとするかにかかっている。信仰者には、どんなにそれが個人的な望みであっても、自分の個性、望みに従って、自由に行動することができる新たな生活が保障されているのである。

アダムは地の奴隷であったが、キリスト者においては、その関係が逆転しており、地の方が、キリスト者に従うようになる。これが真に正しい順序であり、その秩序が本当に現れ出る時、この世の人々、事物、状況のすべてが、キリスト者に従うようになるのを見て、私たち自身が、それが自分の力ではなく、自分の内にある神の命の支配の力によるものであることを知って瞠目するであろう。

キリスト者は、自分の望みを神に申し上げ、それが御心に反するものではないと認められたなら、その望みが実現するまで、激しい争奪戦を戦い抜いて、御国の統治を実現しなければならない。
 
だが、一体、キリスト者の自由な選択はどうやって保証されるのか?という疑問も生じよう。何を望むのも自由だが、望んだからと言って、どうしてすべてがかなうと言えるのか?
 
それを保証するものが、信仰であり、復活の命である。キリストの復活の命が、その者に必要なすべてを供給するのである。個人的なごくごく些細な望みに至るまで、その命が、その者の生活のすべてを支え、保証するのである。

人にはそれぞれ個人的に異なる望み、異なる生活がある。地上組織としての教会の拡大のために働くことと、キリストのまことの命によって生きることは何の関係もない。そこで、キリスト者が復活の命によって支えられながら、何を実現して生きようと願うのかは、個人によって異なる。クリスチャンだからと言って、その生活も、望みも、人によって全く異なる。一人一人に与えられている召しも、望みも、生きざまも、すべて異なるのである。

そこで、神の復活の命にどれほどのはかりしれない力が含まれているかについては、ちょうどこの地上の人々が、海底や、地底に人知れず眠っているエネルギー資源を見つけた時のように、一人一人が自らの生活の中で、その命の力を開発し、利用し、使う方法を具体的に学ばねばならないのである。

クリスチャンが、自分の願い、望みを率直に神に申し上げ、それを神の復活の命を経由させて、地に実現して行く方法を具体的に学ばなければならないのである。

キリスト者が地上で生きることが、ただ個人的なレベルの生活にとどまらず、御国の統治そのものと密接につながっており、御国の権益と関わっていることに気づき、天的な展望のレベルで物事を見る必要がある。
 
そして、キリストの復活の命にこめられた力を実際に知らなければならない。復活の命が、キリスト者に、ただ命の保障を与えるだけでなく、どうやって信仰によって、望みのものを約束し、保証してくれるか、これを開発し、法則性を探り出し、利用しなければならないのである。

その過程で、キリスト者は、まず何よりも霊的に積極性を失わない「攻めの姿勢」を持たなければならない。絶えず目を覚まして警戒を怠らず、新たに目指すべき目標が何であるかを知り、これに大胆に向かって行かなければならない。消極的で受動的な態度でいながら、霊的支配を拡大して行くことは無理である。
 
ここで言う「攻めの姿勢」とは、霊的な積極的な生産のサイクルと密接に関連している。

まず、それは妨害があっても、決してあきらめないだけの強い願いを持つことから始まる。キリスト者が(どんなに些細かつ個人的な事柄のように思われても良いから)、新たな望みを大胆に持ち、次に、どんなに周囲の状況が否定的で圧迫的に見えたとしても、その望みが神にあって実現可能であることを信じて、望みに向かって大胆に邁進して行き、望みが実現するまで、どれほど激しい戦いがあっても、臆して退却することなく、妨害を打ち破って、前進し続けることが必要となる。

こうして、キリスト者が積極的な望みに基づき、さらなる自由に到達し、神の栄光を増し加える新たな霊的山頂を目指して、絶え間なく前進して行き、勝利をおさめ、新たな自由を勝ち取ることが、目に見えない神の命の支配を拡大するための霊的生産サイクルなのである。

それは大いなる戦いであって、信仰者が御名によって、新たな見えない領土を獲得するための戦いである。その戦いがあまりにも激しくなると、キリスト者が意気阻喪して、望むことをやめてしまったり、前進をあきらめて立ち止まることがある。そうすると、霊的支配の前進もやんでしまう。それだけでなく、再び、彼自身が、死の圧迫の虜とされてしまうことがあるかも知れない。そうなれば、暗闇の勢力は、彼がすでに獲得したはずのものにも、大いなる打撃を与え、これを奪い取り、彼をどんどん退却させて行こうとするであろう。

しかし、たとえそのような停滞や退却があったとしても、キリスト者は再び、上からの力を受けて、絶え間なく、死の圧迫を打ち破って、自由に向かって前進し続けることが必要である。それを成し遂げて行くときに初めて、信じる者たちには、弱った足腰が強くされ、よろめく膝がまっすぐになり、たゆむことなく、遠くまで歩いて行くことのできる力が上から与えられる。こうして前進し続けて、さらなる自由を獲得し、御心を地に引き下ろし、御名に栄光を帰することが、キリストの復活の命の支配の拡大の法則性なのである。


ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。

「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(ヤコブ4:7)

当ブログでは好んで引用する聖句だが、今週も大きな収穫があったので報告しておきたい。 
 
膠着状態にあった事件が急ピッチで進み始め、新たな組織態勢が組まれた。このブログを開設したばかりの頃のように、非常に清浄な空気が周りにあることを感じる。

この出来事については、事件の関係であまり詳しく書けないが、準備作業が着々と進んでいるので、遠からず、どんでん返しが起きるであろうと言っておきたい。

こうなるまで、かなりの時間と労力を要したが、あきらめずに主張しただけの甲斐はあった。このブログ記事の結論を述べると、悪魔から来た重荷は一刻も早く悪魔に返しなさい、という一言に尽きる。

たとえば、当ブログを中傷する記事を約10年近くもネットに掲載し、その記事の削除と引き換えに、当ブログ記事の削除を求めていたアッセンブリーズ・オブ ・ゴッド教団の村上密牧師が、少し前、裁判を通じて事実上の降伏宣言を出した。 

村上の準備書面には、「裁判では和解が勧められる。まだ勧められてはいないが、一刻も早い紛争解決を望むので、原告に対する2つの記事を削除することにする。」と記されている(準備書面2頁)。
 
村上は、裁判開始当初、当ブログ記事の削除を要求していたが、具体的なURLや権利侵害の事実を挙げることさえせず、それらを立証するよう求められた結果、自らの要求をさっさとあきらめ、和解を目指して自ら問題となる記事を取り下げると宣言したのである。

だが、まさかこれが真に「和解」を目指した主張であるとは誰も理解しないであろうし、そんな和解が評価に値することはなく、実にみっともないことである。

なぜみっともないのか? 自分が主張した事実をきちんと最後まで論証して闘う努力をはらわず、論証できないからと言って、「和解」という綺麗事を理由に、論争から逃げようとすること自体がみっともないのである。

筆者はてっきり、村上は、鳴尾教会に教団を使ってしかけた裁判の時と同じように、最高裁まで争うつもりだろうと考えていたので、記事の取り下げは意外かつ拍子抜けであった。しかも、かつてはかなり有名だった牧師が、弁護士も雇わず、人を馬鹿にした二枚程度の準備書面で、自分の主張をあっさり撤回したのである(準備書面は真実、2枚しかない)。教団を大いに利用できる時には、弁護士もつけるが、自分個人の争いでは、極力費用と労力を惜しみたいという思惑が透けて見える。信徒相手だから、ろくに答弁もしなくても良いと思っているのかも知れない。しかも、自分の書いた記事が虚偽であることさえ認めず、それにも関わらず、記事を取り下げるという自己矛盾ぶりである。

このことから、村上牧師の人間性を読者は十分に観察することができるであろう。当ブログでは、信仰に基づいて主張したことは、命をかけて証明せねばならないということを繰り返し書いて来た。殉教者たちは死に至るまで「キリストの復活の証人」だったのである。

ところが、村上牧師のような人々は、自分のブログでは大風呂敷を広げて、次々と「怪しい」とみなした牧師や信徒を非難断罪するものの、いざ裁判で、自らのブログ記事の証拠を求められると、あっさりと記事の撤回に応じる。何という情けない、無責任ではた迷惑かつ一貫性のない行動だろうかと思わずにいられない。
 
すぐに諦めるくらいなら、初めから正義感ぶって、他者をカルト扱いしたり、無責任呼ばわりするような嘘を記事に書いたりして、挑発行為に出なければよかったのである。 裁判においても、当ブログの記事の削除など、初めから要求しなければよかったのである。費用の計算もせずに家を建てかけて途中でやめれば、笑い者になるだけだという聖書のことば通り、できもしないことは初めから要求すべきではないのだ。そのことがこの人々にはどうしても分からないようだ。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団には、この手の人騒がせな信者らが、数えきれないほどに存在していることは、幾度も繰り返し述べて来た通りである。筆者はこれは「霊的な」現象であると考えており、彼らが「聖霊のバプテスマ」と称して受けた「霊」が、この人々にこのような無責任かつ奔放な行動をさせているのだと理解している。

彼らは根拠もない事柄を「神から示された」と主張して、多くの人を巻き込んで人騒がせな事件を起こすが、いざ自らの主張の具体的な根拠を求められ、公の場で論証するよう要求されると、何の証拠も提示できずに、そそくさと主張を撤回して逃げて行き、自分の引き起こした事件の後始末をすべて他人に押しつけるという体たらくである。

筆者は同教団の中にこのような性質の信徒がいることは幾度も確かめて来たが、牧師も例外ではない。そもそも公の場においてきちんと論証できないような主張を提示すること自体が間違っているが、彼らにはそれは言っても無駄なことである。

昔は「男に二言はない」などと言われたが、そもそも、人が一旦、信念に基づいて主張したことを、最後まで貫き通す覚悟もなく、途中で撤回すること自体が情けない。何より、そうして主張を簡単に翻すことが、その人間が信念に基づいて行動していないことの証拠である。そうした行動から、彼らのしていることは、正義や真実や信念に基づく行動ではなく、ただうわべだけ自分がヒーローを演じ、誰かを悪者にしては、他人に不快な思いをかけ、膨大な手間暇をかけて自分に抗議をさせて、人生を浪費させることだけが目的の迷惑行為でしかないと分かる。
 
だが、それでも、牧師にも関わらず、信徒と全面的に争い、最高裁まで我を押し通すよりは幾分かマシであろう。そんなことをすれば、全キリスト教界の笑い者でしかない。牧師が信徒と最高裁まで争う、そんな教会には、まず人は来ない。KFCのように、牧師が信徒を公然とブログで非難断罪・呪い・中傷するような教会も、人々は願い下げである。

村上の他に、最後まで全面的に筆者と争いたいという人間がいる(唐沢治もその一人である)が、そういうことをすれば、牧師としてのその人間の信用は粉微塵に砕け散るだけである。唐沢治は未だにニッポンキリスト教界を敵視し、日々、呪詛のような非難の言葉を浴びせ、さらに自分の集会を去った信徒を公然とブログ記事で断罪し続け、筆者に対しても全面的に争う姿勢を見せているが、そのような行為に及ぶ宗教指導者に将来はないであろう。

さらに、唐沢治が本年になって杉本徳久といまだに交わしていた一連のメールを、杉本が裁判に提出して来るというコントのような滑稽さである。互いに裏切り合って協力もできないのになぜメールなど交わし続けているのであろうか。いつまで経っても、和解を目指ささず、自分に盾突いた人間を半永久的に許さずに恨みに思い、公に根拠のない非難断罪を続けるという点で、二人は実によく似ていると感じられる。こんな牧師を擁護する弁護士がいることにも呆れる。しかも、弁護士を使ってまで、かつては「ヴィオロンさんのために」などとさかんに筆者の名前を勝手に引き合いに出しては、自分が大見栄を切って助言者や擁護者を演じようとした信徒と争う。その陰で、その信徒を苦しめた加害者と内通して文通を重ねる。そして、唐沢は自分は筆者と「牧師と信徒の関係ではなかった」と主張しているのだから、笑い話のごとく呆れた話である。

こうした行動から、読者は唐沢治という人物の不実な人間性をもよくよく理解できるはずである。こういう牧師のいる集会に通えば、どういう将来が待ち受けているか予想できないのは、よほどの愚か者だけである。この集会に通った信徒が、その後、どんなトラブルに巻き込まれても、こういう牧師は、「私はそもそもあなたの牧師などにはなっていませんから、私には何の責任もありません」と後から言ってくるのは間違いない。その上、牧師のブログで公開処刑のごとく糾弾され、その牧師は別な人物に信徒の実名を書き送り、晒させるであろう。このような牧師は、まさに狼がやって来れば、群れを放棄して逃げる、聖書に登場する悪い牧者のたとえの典型例と言える。

読者のみなさん、牧師ななどという職業を安易に信用することは決してお勧めできませんよ。自分を正義漢や、優しい助言者に見せかける人間の内実を強く疑い、彼らを試してみることをお勧めします。大抵は、その本質はこういう人々から成るものだからです。
 
村上牧師は、あるいは、これ以上この事件を深く掘り下げると、もっとヤバい問題が噴出してくると危惧して、争いを早期終結させようとしているのかも知れない。杉本には公に言って良いことと悪いことの区別がつかないらしく、関係者を裏切るような証拠を次々と裁判に提出している。村上に筆者に関する問い合わせを行ったことを自ら答弁書において証言しているのも杉本である。杉本のその証言がなければ、そもそも村上が裁判に呼ばれる事態とはなっていない。

従って、この先、杉本がどれほど自己正当化のために不用意な発言を重ねるかは注目されるところであり、また、村上のブログで被害を受けたのも、筆者のような無名信徒の一人や二人ではないため、本件が長引けば、そうした人々が公に被害者として名乗り出て来る可能性は実に高いと見られる。
 
鳴尾教会を含め、当ブログなどよりもはるかに深刻な被害を受けた人々や団体が存在する。今回の裁判でも協力を仰いでいるが、彼らには勇気を捨てないでもらいたい。最後まで主張することの重要性を決して見逃さないでもらいたい。神にあって潔白とされ、無実とされ、誰からも罪に定められない贖いを得たことのはかりしれない意味を今一度、公然と主張してもらいたい。そして、正義は人間でなく神にあることを証明してもらいたいと願っている。 

ところで、読者にはさらなる注意事項がある。

それは、村上密についての記事を書くと、早速、掲示板等で騒ぎ立て、話題を逸らそうとする「さわやか読者」らが現れることだ。村上密の場合、他の人々に比べて、話題がかく乱されるスピードが圧倒的に速いため、他の人々との影響力の違いを感じさせる。

こうしたコメント投稿者らは、当ブログだけではなく、村上に敵対する人間に対して、ことごとく「狂気」「馬鹿」「人騒がせ」などの粗野な言葉で悪人のレッテルを貼り、しきりに誹謗中傷を繰り広げることで、話題を逸らし、この牧師を擁護する部隊の役目を果たしているのである。
 
こうしたコメント投稿者らは、何者なのか素性の全く分からない人間たちである。 一体、これらの人々が、まさか京都七條基督教会の信徒であるために村上を擁護しているとは思えず、信仰については一言もないため、おそらくクリスチャンでもないと見られる。

しかし、彼らは明らかに村上牧師を擁護する目的で団結しており、この牧師についてのコメントを隅から隅まで監視し、批判的な言動があると、一斉に匿批判者を名掲示板で中傷するなどして、話題をそらす役目を担っている。

そこで、彼らが誰の支持やリクエストに従って、こうしたコメントの投稿を日夜行っているのか、読者はよくよく考えてみられたい。特に、村上密が統一教会の出身であった事実を重視されたい。

村上牧師がこれまで常に杉本徳久のように、自分の教団や教会とは一切、無関係な人間のブログ記事を、自分のブログで引用しながら、自分の主張の裏づけとして来たことを思い出されたい。

なぜこの牧師は、自分の主張を展開するに当たり、自分の教会の信徒でもなければ、教団関係者でもない人間の主張を援用するのであろうか? どうしてカルト監視機構は最初から、キリスト教とは関係のない人間が、キリスト教界を監視することを想定していたのか? この事実をよくよく考えてみられたい。

村上はこのように、初めからキリスト教界に、キリスト教界に属さない部外者の手でメスを入れることを提案していたのであり、その部外者の中には、天理教の関係者なども含まれていたのであるから、それならば、統一教会の関係者だけは、カルト監視機構のメンバーになってはいけないという理由もあるまい。

実に恐ろしいことであるが、このように、村上の提唱するカルト監視機構は、最初から信仰を持たない人々によって教会の内情を監視することを目的としていたのであり、その意味で、カルトを取り締まると言いながらも、まさにカルトと内通し、「カルトによって教会を監視する」という逆転現象が起きる危険を最初から内包した機関だったと言えるのである。
 
従って、こうした事実を通して、現在、掲示板で匿名で、村上に敵対するクリスチャンへの誹謗中傷をしきりに繰り広げているコメント投稿者の雇い主(指導者)が誰であるのか、所属団体は何であるのか、彼らがそもそもどこから来たのかという事実をよく考えてみられたい。
 
もしも村上の主張が正しければ、裁判で全面的に自分の正義を主張し続けて、敵対勢力を敗訴に追い込めば良いだけであり、表向きの「和解」という美辞麗句を名目にして、自らの要求の取り下げを行う必要など全くないのである。

それにも関わらず、裁判では自らの主張を提示できなかった牧師が、掲示板等ではヒーローとなり、その牧師に「たてついた」信徒らが、依然、「悪者」とされて、根も葉もない誹謗中傷が拡大されて騒ぎが繰り広げられる。

こうした現象が繰り返されているのであり、繰り返されているという事実自体が、それが偶然ではなく、計画的に行われていることをよく物語っている。組織されたコメントであり、運動だということである。
 
公平かつ中立的な読者は、こうした現象を通して、当ブログに対する敵対がどの方面から来ているのか、村上密牧師を批判した牧師や信徒らが、これまでどのような目に遭わされて来たかをよくよく観察して、事の本質を見極められたい。

そして、村上牧師を含め、カルト被害者救済活動を推進したり、あるいは、ニッポンキリスト教界をしきりに挑発・敵対して来た唐沢治のような牧師が、本当にクリスチャンと言えるのかどうか、彼らは一体、何者であるのかについても、よくよく考察されたい。
  
さらに、信仰もなく掲示板で騒ぎを拡大している連中こそ、真に「匿名に隠れて」無責任な挑発行為を繰り返している人々であるから、最も警察の捜査対象となるにふさわしいと当ブログはみなしている。実に2015年から、当ブログでは2chの書き込みも十分に刑事告訴の対象となりうることを警察から知らされていることは、すでに書いた通りである。そして、告訴状を提出できる場所も、警察だけではないことを読者は知っているだろうか。彼らに対する警告は十分である。

さらには、掲示板では、パソコンを通じて敵対する勢力を監視していることをほのめかす読者まで現れる始末であるが、カルト監視機構の設立を願っていた村上密のような人々が、自分たちに挑戦して来るカルト勢力が、自分たちのパソコンをハッキングしようとしたとまでブログで主張していることを思い出されたい。

だが、一体、カルト被害者救済活動に関わる人々は、どのような経緯で自分たちのパソコンがハッキングされた事実を知り得たのか?という疑問が生じるのは当然である。そのような事実を察知したというだけで、この人々が普通の暮らしを送っていないであろうことは容易に推測される。なぜなら、セミプロ的な知識を持って、常時、そのような危険が自分にあることを理解して見張って、犯人を特定できなければ、そのような事実が分かるはずもないからである。

その意味で、彼らは、自分たちも同じ手口を使って常時、敵対勢力を監視していればこそ、敵の手法が分かったのではないかと推測される。

このように、カルトも闇であるが、カルト被害者救済活動も、同じほど深い闇なのである。どちらの陣営も、まさに暗闇におけるスパイ合戦でしかない。これまで、カルト被害者救済活動を支持する人々が、どれほど非合法な手段を駆使しては、自分たちへの批判をしきりに闇に葬ろうとして来たか、それは彼らの用いた手法、また彼らの取り巻きや支持者となった人々の言葉から十分に伺える。

この人々はクリスチャンでは断じてない。そして、キリスト教界を破壊することを目論むこの勢力がどこから送り込まれて来たのかについては、読者はよくよく考察と注意が必要である。彼らの目的が、聖書に基づく正しい信仰の破壊にあるということを決して忘れないでもらいたい。

   
とはいえ、掲示板等に書き込まれている証拠のない文章は、何年も残るものではなく、すべて束の間に消えて行くものでしかない。すでに昔に書かれたものの多くが板ごと削除されている。

他方、白日の下に残るのは、公の場所に提出された文書と、そこで下された判決文である。そして、筆者は、カルト被害者救済活動は、ただ自分たちの批判者を誹謗中傷しているのではなく、神が御子キリストを通して私たち人間にお与え下さった贖いそのものに敵対しているのだと2009年以来主張している。

私たちが主張しているのは、神の贖いの完全性であって、自分自身の義ではない。また、読者に自分自身を見させることが目的でもない(我が身可愛さ、自己主張が目的であれば、どうしてこれほどまでの手間暇と大いなる犠牲を払ってまでわざわざ主張するだろうか。無駄なことである)。

当ブログではただ、私たちを贖われたキリストの十字架における犠牲の完全さを主張し、贖われた人間を再び罪に定めることのできる人間は誰もいないということを示しているのである。
 
従って、聖書に予告された通り、この贖いに敵対する人間は、ヴィオロン何某に敵対しているのではなく、神の贖いを否定しているわけであるから、自ら救いを退けているのであり、罪に定められるのは当然である。

以上のような出来事は、やはり不当な圧迫に毅然と立ち向かえばこそ、得られる収穫である。

多くの人々は、著名人や、自分より強い力を持った権力者に対して、波風を立てることは、無益であり、害をこうむるだけだと考えている。彼らの頭の中では、法を犯すことが悪なのではなく、「権力者に立ち向かうこと、世間に波風立てることが悪」なのである。

しかし、筆者の言い分は、これとは全く別である。不当な主張に対して、立ち向かわなければ、何一つ成果はない。立ち向かわないことは、不当な主張が真実であると認めることに等しい。その悪しき効果は、すでに幾度も述べた通りであり、最初はどんなにいわれのない中傷や非難の言葉であっても、それを退けずに認めるならば、その「呪い」が現実になって行くのである。

また、不当な主張に反論しないということは、自分の権利を知らないこと、それを自ら放棄することを意味する。自らの権利を侵害されても、それを権利侵害と主張しない人間が、正当な権利を手にすることは決してない。

だが、自分の権利を主張するためには、まず、自分がどういう者なのかを知らなければならない。 
 
私たちの立脚点はあくまで天のキリストである。キリストの完全性が、私たちの霊的現実であり、また最終ゴールなのである。そこで、私たちの諸権利は、地上の法的根拠によっても付与されていることは確かだが、何よりも、天におられるキリストから発するものなのである。

キリストが持っておられる義が、私たちの義なのであり、彼の持っておられる聖が、私たちの聖なのであり、彼の贖いが、私たちの贖いとなったのである。これが、私たちクリスチャンにとっての本当の「人権」が生じる発端である。

つまり、この世の法的根拠は、アダムに属する古き人の人権を規定しているが、私たちはキリストから生まれた「新しい人」として、アダムにはるかにまさる人権を持っていることを知るべきなのであり、私たちの人権意識はすべてここを発端として始まるのである。
 
この他、山と書かねばならない事実があるが、それはこれからの記事に回すことにしたい。そこでは、虚偽や、他人の悪意や、中傷だけでなく、金銭面でも、仕事の上でも、人間関係でも、私たちは全ての圧迫に立ち向かわねばならないことを示すつもりである。そのためには、攻めの姿勢が極めて肝心だということを書きたい。

ただその前に一言だけ、もう一度、言っておきたい、サタンは、人に不当な重荷を課す達人だが、その重荷はサタン自身にお返しできるのだと。その法則を学びさえすれば、不当な圧迫に立ち向かうことは難しいことではないと。

長年、当ブログにいわれなく敵対・挑戦して来た人々は、村上牧師のように、自己の名声のためだけでも良いから、早期に主張を撤回して和解しないなら、彼らの名誉はいずれ打ち破られて粉々になるだろう。特に、宗教指導者でありながら、信徒と徹底的に争うようなことをすれば、その指導者の名声は終わりである。

さらに、物事には順序があるが、匿名掲示板だから対象外ということは決してない。というよりも、実名により、もしくは、自分自身でブログやホームページを開設して、きちんと文責の所在を明らかにした上で、公に論争している人々に比べ、このように真に「匿名に隠れて」、一切、責任を取ろうとしない形で、騒ぎを拡大している人々の方が、より罪が重く、責任も重いのは当然である。彼らが誰であり、誰の指示に従って動いているのか、といった事実も、時と共にはっきりするであろう。

筆者は、横浜にやって来た目的はここにあると考えている。つまり、試金石としての役目を果たすことにある。世間に媚び、地的な思いに心を占領されている人々と仲良くすることが目的では初めからないのだ。そして、暗闇の中で、ひそひそ声でささやかれただけのような会話が、今、公にされている事実を見ても、神はやはり闇の中に隠れていた真実を明らかにされる方だと思わずにいられない。

私たちは信仰のともしびを内に持つ者として、闇を照らす光である。私たちクリスチャンが存在することによって、世はその暗闇の中に隠れていた事柄を明るみに出されるのである。カルト監視機構を闇を暴くのではない。神の教会とクリスチャンこそ、高い山の上から下界にある町々をことごとく照らし出す大きなともしびなのである。
 
そこで、筆者はすべての心あるクリスチャンに向かって言いたい、最後まで目を上げて、この戦いをしっかり見なさいと。そして、不当な重荷を勇敢に押し返しなさいと言いたい。勇敢に重荷を払いのけて、早くそれを負うべき人間に押し返しなさい!と。

かつて、日本軍は敗戦に敗戦を重ねている時でさえ、自分たちは「勝っている」と嘘を発表して来たが、悪魔のやり方は今日も同じである。敵は最後まで「負けてはいない」と見栄を張るであろう。そして、正しい人を罪に定め、殺そうとするであろう。しかし、当ブログを嘲笑している人々が、恥をこうむって終わることは、聖書によれば、初めから確定済みの事実である。なぜなら、神を避けどころとする人間が恥をこうむることは決してないからである。
 
おそらく、当ブログがカルト被害者救済活動に対して勝つか負けるか、虎視眈々と結果に注目している人々が、世間にはかなりの人数、存在しており、情勢次第では、早速、カルト被害者救済活動に恨みを晴らすために襲いかかろうとしている人々も、たくさんいるものと考えられる。なぜなら、この活動はあまりにも多くの人々に敵対して来たためである。すでに戦いの決着はつき始めている。

筆者はクリスチャンであるから、カルトを擁護しようとは全く思わない。しかし、筆者はキリスト教を絶対的なものとして、人々に押しつけるつもりは毛頭なく、これを信じない人々を排斥するつもりもない。

筆者が擁護しているのは、内心の自由であり、信教の自由である。

クリスチャンであっても、人々は間違うことがある。そして、神はアダムが誤って罪を犯してしまうことを想定した上で、それでも、アダムに自由意志を授けられた。神が人間を創造される時、自分に逆らわないように脅したり、強制力によって意志を奪うということはなさらなかったのである。

それは今日も同じであって、神は、私たちが自らの判断で、物事の真偽を確かめ、正しい道を選び取っていくことを願っておられる。人は一時的に誤った教えをそれと知らずに信じてしまうこともあるかも知れない。だが、だからと言って、これらの人々が、その誤った思想のゆえに、危険人物のごとく排斥・殲滅されるようなことはあってはならない。公正な論争は行われなければならないが、それはあくまで法的に許された範囲内で行われるべきである。誤った思想を持つ人間を排斥することが目的になれば、それは初めから間違った運動である。

(しかしながら、一つのパラドックスとして、当ブログの根絶を願った人々が、自らブログを根絶され、当ブログ主の社会的抹殺を願った人々が、自ら社会的に抹殺されるということは大いに起きうるであろう。それはただ彼らが他人を呪い、他人の不幸を願い、他人に対して宣告した呪詛の言葉が、自分自身に跳ね返っているだけのことである。)
  
人は病原菌に感染して免疫抵抗力を育み、耐性を身に着けて強くなる。その意味で、病原菌そのものは有害であっても、人はその危険性に触れてそれを理解・体得したことによって、結果的に耐性を身に着け、進歩することがある。異端や誤った教えもこれに似ている。それ自体は極めて有害なのだが、それが存在していることによって、初めて、人々は、これを見わけ、退け、抵抗していく術を学び、自分の弱点をも知って、これを防衛する方法を学び、より賢明になり、進歩するのである。

その意味で、カルトそのものは誤っており、あるべきでないとはいえ、人の人生は複雑であって、これに触れたことによって初めて学べる教訓が存在する。その意味で、人の内心の自由は、誤った思想を信じないことよりも、より高度な利益であり、優先されるべきものである。

それにも関わらず、カルトが危険だというだけの理由で、カルトとカルトに「感染」した人々を根こそぎ危険人物扱いし、断罪し、無理やり棄教させ、考えを改めさせ、徹底的に謝罪させて恥をかかせ、誤りを認めさせなければ気が済まないといった時代遅れな方法では、物事は何も解決できない。まして強制力を用いて彼らを思想改造(洗脳)し、脱会工作を行い、内心の自由を侵してキリスト教徒に仕立て上げるといった方法では、カルトの問題を解決することは決してできない。

神がサタンを最終的に滅ぼされるまではまだ時間が残されている。その時間は、私たちが触れてはならないものが何であるか自ら識別することを学習し、誤った思想に対する耐性を身に着けるための時間なのである。従って、誤った教えを根絶して完全な無菌室を作ることは、地上では不可能事であるだけでなく、それによっては、私たちの進歩はない。

しかしながら、同時に、話を戻せば、恐怖、不安、脅かし、嘘といった圧迫は、何よりも、それをもたらした悪魔自身にお返しし、悪魔にこそ、恐怖を増し加えることができるのである。

だから、不当な圧迫は、どこから来たのか、原因を特定した上で、悪魔にお返ししなさい。恥は悪魔に、栄光は神に返しなさい。私たちは、キリストと共に天の栄光に満ちた御国を相続する者なのだから、主に信頼する者が恥をこうむることがないというのは、真実である。だとすれば、当然、恥は、それを負うべきしかるべき存在が、キリスト者とは別に、存在しているはずである。


あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:48)

今週一週間も、またしても、多くの学びある時を過ごした。

このところ毎日のように、暗闇の勢力の圧迫に立ち向かうことを学ばされている。毎日、何も起こらない日がないのである。電車に乗れば、人身事故で大幅な遅延が起きて予定が狂ったり、平穏な朝を迎え、駐輪場にバイクが止めたかと思えば、もう夕方には思いもかけない突風が来て車が倒れている。我が家の鳥たちにも、動物たちにも、日々、様々な変化が起き、油断して隙を作らないように、色々なところに心を配らなければならない。
 
このような種類の圧迫は未だかつてなかったものであり、時が縮まっていることを強く感じざるを得ない。時代が新たなフェーズに入っており、霊的な防衛の盾をはりめぐらさなければならないことを感じる。しかし、こうした圧迫に立ち向かうことは、決して困難ではない。
 
そのために必要なのは、何よりも、周囲でどのような出来事が起きようとも、決して、出来事の表面的な有様に心を奪われて、失望したり、落胆することなく、毅然と心の中で顔をあげて、これらの一つ一つの出来事の只中で、死を打ち破ったキリストの復活の命に立って、死の圧迫を打ち破るために立ち向かうことである。

その中で、「かめの粉は尽きず、瓶の油は絶えない。」と以前に書いた通り、享楽的な生活を送るほどにまで有り余る資産はなくとも、貧しすぎて生きていけないほどの困窮を通らされることもなく、神の守りの中で、自分の資産を心配していちいち数えたりせずとも、必要なものがすべて天から供給されて与えられ、行きづまることがないのを知らされている。
 
多くの信仰の先人たちは、最後のなけなしの資産をもなげうって、主のための奉仕に邁進したが、その中で、彼らは、自分たちの生計を神が不思議な方法で維持して下さったことを証ししている。まさにその通りのことが、筆者の身にも起きており、信仰による明け渡しの度合いは、年々、深まっている。ただぼんやりと「神が守って下さる」と考えるのではなく、筆者の限られた知恵の中に、主が働いて下さり、何をどうすべきか、教えられているがゆえに、守られているのである。

もし上からの知恵がなければ、筆者のように平凡な人間の生活は、昨今の凶悪なご時世の中で、とうに破滅して終わっていたことであろう。それほど不思議な力が臨んで、筆者の生活は守られ、生かされ、支えられているのである。

そこで、筆者は、どんなことでも、神に率直に打ち明けて助けを乞うことをお勧めしたい。

かつて筆者に向かって「神には泣き言であろうと、怒りであろうと、不満であろうと、恨み言であろうと、愚痴であろうと、どんなことでも、正直に思いの丈を打ち明けて、まさに神の胸ぐらをつかむような勢いで直談判することも許されるのですよ。そういう正気さも神は重んじて下さるのですよ」と助言した信者がいた。

その頃から、筆者は、愚痴や弱音や泣きごとのようなことでも、神には恥じることなく率直に打ち明け、解決を得ることを続けて来た。神は真実なお方であるから、私たちが助けを乞うているのに、それを退けたりはなさらない。こうして相談する先があればこそ、筆者は行きづまることがないのである。

だからこそ、筆者は、すべての信者に、自分の主張を神に率直に打ち明けることをお勧めする。

この世でも、自分の権利をきちんと訴えなければ、それが認められることはない。たとえば、裁判は、ただ人が受けた被害を取り返す目的のためだけに起こされるものではない。そもそも、自分がどんな権利を持っているのか、どのような人間であって、どう扱われるのがふさわしいのか、自分自身の完全な権利を自覚することなくして、不当な主張に立ち向かうことは誰にもできない相談である。

筆者がこれまで常にカルト被害者救済活動を批判して来たのは、この活動を支援する人々(カルト被害者を名乗っている人々ではなく、被害者を支援すると表明している人々)が、常に自分には何の弱さも落ち度もなく、困っているのは自分以外の誰か他人であると主張して、いつも他人ばかりを助けようとする一方で、自分は神に助けを求めないためでもある。

一体、彼らはどういう動機から被害者を支援すると言っているのか、定かでない。おそらく、彼ら自身も、どこかの時点で、教会やキリスト教につまずいて、心の傷を負った被害者なのだろうと思われるが、彼らは決して自分の心が傷ついていることを認めず、自分が被害を受けたとは主張せず、自分の弱さ、自分の脆さ、自分の恥、自分の心の傷を、頑なに認めず、覆い隠しながら、傷ついて助けを求めているのは自分ではなく、他の誰かであると言って、常に自分以外の誰かに、自分の弱さを転嫁して、他人を助けることで、自分を救おうとするのである。

だが、それは彼らが自分の真の姿を否定して、自分を救うために行っている代償行為であるから、そのように他者を助けることによって、彼らの傷ついた自己が癒されることは永遠になく、彼らの弱さが取り除かれて、問題が解決することもない。マザー・テレサのように他人を助けていれば、社会からは、善良で思いやり深い人間であるかのように高く評価されるかも知れないが、その一方で、彼らの心の中では、他人を助ければ助けるほど、ますます自己の孤独が深まり、神が分からないという闇が深くなって行くのである。

それは彼ら自身が、常に他人の弱さだけに注目し、決して自分の弱さ、自分の行き詰まり、自分の問題を見ようとしないためである。そうして彼らが神の助けを乞わないので、神ご自身も、彼らから遠のいて行ってしまい、彼らの抱える問題にはいつまで経っても解決が与えられないのである。

それに引き換え、他人がどうあれ、自分の抱える問題を真正面から見据え、自分の問題の解決のために、なりふり構わず、率直に弱さを認めて天に助けを乞うことができる人は、問題から抜け出すスピードも速い。

裁判では、緻密な証拠の裏づけ、法的根拠の裏づけを確保した上で、自分の主張を明白に提示せねばならないが、そのようにして明白かつ合理的に自分の主張を行えば、多くの場合、その主張は認められる。しかし、主張しなければ、初めから願いが認められる見込みもない。

この法則は、霊的な世界においても適用されるのであって、神に対して(もしくはサタンに立ち向かって)、自分の権利がどのようなものであるかを強く主張せず、暗闇の勢力からいわれのない非難を受けても、黙っており、自分の権利を少しも取り戻そうとしない人間は、決して不完全な状態から脱する見込みがないばかりか、いずれその非難が現実になってその人の身に成就してしまうのである。

このことは、悪人に立ち向かって、彼らに自ら報復を加えよと言っているのでは決してない。裁判では主張できない多くの被害がこの世に存在することは確かであり、筆者がここで述べているのは、たとえに過ぎず、何よりも、信者が神に対して自分の弱さを認め、自分の問題を率直に認めて神に打ち明けて、真に完全な人となるために、御言葉が約束してくれている権利に基づき、上からの新たな力を乞い、神に解決を求めることの重要性である。そのように主張する根拠となるのが、真の意味での人権意識なのであり、その人権意識は、聖書の御言葉に立脚するものなのである。

この世の法廷闘争においては、憲法を最高法規として、法が規定する人権の概念に基づき、自己の権利を主張するが、霊的な世界において、我々が自分の権利を主張する根拠となるのは、キリストが獲得された完全な人としての権利である。

我々はキリストの贖いの完全性に立って、これを穢し、否定するすべての主張に立ち向かうのである。

もう一度言うと、筆者がカルト被害者救済活動を決して認めることができないと主張するのは、これまで幾度も述べて来た通り、この活動を支援する人々が、あたかも被害者を助けてやるように見せかけながら、被害者を永久に被害者の鎖につないだまま、栄光を搾取する道具とし、彼らが被害から立ち上がって、神の完全な救い、完全な贖い、完全な回復に到達して自由になることを決して許さないためである。

このような活動は、労働者が手っ取り早く仕事を見つける手助けをしてやるように見せかけながら、労働者の賃金を中間搾取する人材派遣業や、信者が神の御言葉を受けとるためには、牧師の手助けを受けなければならないとする牧師制度によく似ており、要するに、人間の弱みをダシにした霊的中間搾取の手法でしかないのである。

牧師制度は一人一人の信者を、まるで母親の乳房にすがりつく赤ん坊のように、牧師という存在から離れられない依存状態に押しとどめ、決して信者が自立して御言葉の糧を一人で得て咀嚼できる大人に成長することを許さない。そのように信者を霊的な赤ん坊のような弱さの中に閉じ込めることによって初めて、牧師は信徒の弱さに付け込んで、信徒の助け手として、手柄を得ることができる。

同様に、カルト被害者救済活動は、被害者を永久に被害者のままにしておくことによって、初めて被害者を支援する人々に栄光をもたらすのである。

しかし、私たちは、自分が霊的にいつまでも後見人や保護者を必要とする子供ではないことを知っており、不要な松葉杖を捨てて自力で立ち上がる必要がある。いつまでも自分を半人前に押しとどめようとする圧力に屈してはならないのである。

このことは、別なたとえで言えば、最近、自動車業界で起きた完成検査不備の大規模なリコールを思い出させる。そこでは、資格を持たない者が完成検査を行ったため、一度は完全であると宣言されて公道を自由に走っていたはずの車が、リコール対象とされ、再び不完全なものであるかのように検査を受けなくてはならなくなったのである。

私たちはキリストの十字架の贖いを信じて受け入れることにより、一度限り永遠に罪赦されて、完全な贖いにあずかり、神の目にキリストと同じく完全な人として受け入れられる資格を得たはずである。

それにも関わらず、一体誰が、その贖いが成就した後で、神の贖いには不十分なところがあったかのように、私たちが不完全な人間であるかのように非難して、私たちを罪に定めることができるのであろうか。

もしそんな主張が成り立つならば、神が一度限り永遠に、私たちを完全な存在として受け入れられ、私たちを自由とされた宣言は、間違っていたことになる。そのように一旦、自由が宣言された後で、神の検査は、実は不完全なものであって、私たちは再び、何者かによって、自由を取り上げられ、罪ある不完全な存在であるかのように、再検査の対象とされなければならないのだとすれば、そんな救いに何の価値があるだろうか。

そんなことがあって良いはずがない。神の検査は、真の資格者による検査であるから、その検査に合格した者に、後になって不備が見つかることは絶対にあり得ないのである。それにも関わらず、その検査に不備があったと訴えている者がいるとすれば、それはまさに虚偽であって、「兄弟たちを訴える者」による不当な告発に他ならない。

筆者がこの世の裁判において証明しようとしているのは、まさに以上の事柄なのである。暗闇の勢力は、何とかして神が義とされた者たちを訴えて、再び有罪を宣告しようと願っているが、それは虚偽の訴えであるから、ことごとく打ち破られて、退けられることになる。

神は私たちの潔白を公然と立証して下さる。私たちはリコール対象ではなく、神の目に、いかなる不備も落ち度もない完全な存在として受け入れられている。現実の私たちは、土の器なので、あれやこれやの弱さや、未熟さや、不完全さが見受けられるように思われるかも知れないが、それにも関わらず、私たちに対して神の贖いが及んでおり、神の目には、私たちはキリストと同じ完全な人として受け入れられているのである。

そこで、私たち自身が、自分の表面的な有様にとらわれることなく、自分たちの真の人権(キリストが何者であるかという事実)に立脚して、自分の権利を主張して譲らず、私たちを訴えて再び有罪を宣告しようと願っている暗闇の勢力からのすべての圧迫に対して、毅然と立ち向かって、虚偽の主張を退けなければならないのである。

かつて筆者を刑事告訴すると予告して来た人間がいたが、その計画は、筆者が予想した通り、成就しなかったことを思い出してもらいたい。その者は筆者を罪に問うことができなかったのである。

それと同じように、この度も、裁判の過程で、筆者に対して中傷行為を行っていた一人の牧師が、その記事を自ら取り下げると宣言した。その牧師は、決して自己の過ちを認めたわけではないにせよ、筆者に有罪を宣告して謝罪を迫った自分の主張を押し通すことを断念せざるを得なくなったのである。

このように、筆者を無実にも関わらず罪ある者として訴えようとするすべての主張は、この先も、ことごとく打ち破られて行くであろう。

そして、それは筆者自身だけの力によるものではなく、筆者の弁舌の巧みさや、裁判の風向きによるものでもなく、ただ神の完全な贖いが筆者に臨んでいることの明白な証明なのである。要するに、神が筆者を贖われたのに、その後で、筆者を訴えることのできる人間は、地上には一人もいないという事実が立証されているだけなのである。

しかし、繰り返すが、筆者の外見および地上の人間として筆者が持っている能力は、平平凡凡なものに過ぎず、何の偉大さもきらびやかさもないため、この先も、そのように取り立てて偉大ではない筆者の外なる人の要素だけを見て、筆者を蔑んだり、軽んじようとする人間は現れるかも知れない。

だが、そのようなことも、ほんの表面的な有様に過ぎない。脆く儚い土の器としての信者の外なる人の中に、神のはかりしれない力が働いているのが現実なのであり、その力こそ、キリストの復活の命であり、その力が筆者の朽ちゆく不完全な外なる人を覆っている以上、信者の表面的な有様だけを見て、神が贖われた信徒に挑戦しようとする人間は、結果的にしたたかな敗北を見るだけである。

ところで、話題が変わるようだが、多くのキリスト教徒を名乗る人々が、異端の方向へ逸れて行ってしまうのは、彼らが神を自分が享楽を得て、偉大な存在になるための手段として利用しようとするためである。

聖霊派の集会では、絶え間なく、キャンプやら、聖霊待望集会のような、非日常的で享楽的な催し物が開かれている。筆者は聖霊派には属さないゴットホルト・ベック氏の集会においても、同じように、絶え間なく「喜びの集い」が開かれていることの異常性に、疑問を呈したことがある。

一体、これらのお祭り騒ぎ的イベントは、何を目的として開かれるものなのか? 吟味して行けば、これらのイベントは、みなそれに参加する信者らに、「神」を「体験して味わう」という一種の恍惚体験、享楽的感覚を与えるものであって、信者が「神」を口実にして、神秘体験を通して快感を得るための手段でしかないことが分かるだろう。

信者が神に従う過程で、不思議な出来事は幾度も起きて来るが、しかし、神はあくまで私たちが僕として服し、その命に従うべき主人であって、私たちが快感や満足を得るための手段ではないし、自分を偉大に見せかけるための手段でもない。

それにも関わらず、神を自分が楽しみを得るために、また、自分を偉大な存在とする目的で食する秘密の果実か何かのように扱うならば、たちまち、その信者は異端の方向へ逸れて行ってしまう。それは神と人の主従関係が逆転するためであり、そのような考えはすべて神秘主義から来ている。

そこで、筆者はこれらの恍惚体験をもたらす感覚的享楽をもたらすイベントは、すべて本質的に悪魔的なものであると断言して差し支えないものとみなしている。それが証拠に、こうしたイベントに参加した信者らは、異口同音に、自分たちが他の団体の信者らよりもすぐれて真理を知っており、高みに引き上げられているかのように述べて、他の信者を見下げ、優位を誇るようになる。そのような高慢さが公然と信者らの言動に現れることが、何よりも、これらのイベントが本質的に悪魔的なものであることの明白な証明であると筆者は感じている。

このようにとんでもない思い違いに至って、神を己を偉大とする手段として利用しないためにこそ、神は愛する子供たちに、あえて弱さや、圧迫や、苦難の中を通らせ、私たちが常に自己の限界の中で、率直に神の助けを呼び求めて、上からの力にすがらざるを得ない状況に置かれるのである。

そこで、もしもある信者の生活の中に、全く苦難もなく試練もないのだとすれば、その信仰生活は何かが根本的におかしいのだと断言して構わない。

私たちの外見も、神の助けを得たことにより、立派になったり、偉大になったりするわけではなく、私たちの生活が、神の助けを得たことにより、飛躍的に悩み苦しみの一切から解かれるわけでもない。

むしろ、一つの事件に劇的解決が与えられても、次にそれよりもさらに高度な試練が待ち構えている。神の助けは常に、私たちが頭を低くして、圧迫や蔑みや嘲笑や誤解をも甘んじて受けながら、それでも、それらの圧迫や苦難に信仰によって毅然と立ち向かう時にこそ、与えられる。

繰り返すが、神の御前に私たちが己を低くするとは、私たちが不当な蔑みや嘲笑にいつまでも翻弄されて、どんなに侮辱されても、それに受け身に甘んじることを意味しない。私たちは、不当な訴えには、毅然と立ち向かい、潔白を主張して虚偽を粉砕せねばならない。

しかしながら、それと同時に、私たちが不当な訴えを受けることによってこうむる痛み苦しみは、神の目には、私たちが御前に己を低くして、試練を耐え忍んだことの証として評価されているのであり、私たちがそうした圧迫の中でも、自分を確かに保って、虚偽の訴えに屈することなく、神の贖いの完全に立脚して、御言葉によって神の完全を主張し続けた努力は、天において高く評価されるのである。

こうして、神の偉大な力は、常に私たちの弱さとセットになって働くのであって、私たちの生来の気質として与えられた器用さや、能力、才覚などが、そのまま神の力として働くわけではない。だからこそ、周囲の人々は、私たちを守り、支えている力が、私たち自身に由来する力でないことを知って、これに瞠目し、驚嘆せざるを得ないのである。
  
霊的な法則性は、霊的な事実に従って、自己の権利を主張したものが勝つというものである。主張しなければ、どんな権利も認められない。だが、デタラメな主張でも、主張しさえすれば、認められるというものではなく、私たちは正当な根拠に基づいて、権利を主張しなければならないが、何よりその根拠となるものが、聖書の御言葉なのである。

そこで、筆者は決して自己の権利のためだけに、各種の訴えを出しているわけではない。筆者を贖われた神がどういう存在であるか、神が私たちに約束して下さった御言葉がどれほど確かなものであるかを公然と証明するために、一連の主張を行っているのである。
 
御言葉は、キリストが神の御心を完全に満足させたことにより、御子を信じる私たちも、キリストと同じように、神の目にかなう者とされたと述べている。だからこそ、私たちを訴えることのできる者は誰もいないのである。そして、この御言葉は、「しかし律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしいのです。」(ルカ16:17)とある通り、私たちが目の前に見ている天地万物、神羅万象、私たちの朽ちゆく外なる人を含め、すべての滅びゆく目に見える被造物にまさる神の永遠かつ不変の事実なのである。

私たちはキリストのゆえに、律法の要求するすべての厳しい検査に合格して義とされ、自由とされた。それにも関わらず、私たちが再び律法の検査に不合格とされて、リコール対象とされることは決してない。つまり、私たちが公道を思いのまま自由に走る権利は、神に由来するものであるから、私たちに不完全を言い渡してこれを取り上げて、検査対象に引き戻すことのできる者はどこにもいないのである。

冒頭に挙げた御言葉は、前後の文脈を読むと、あたかも悪人に対する寛容さを求めるものであるかのように受け取れないことはないが、筆者は、この御言葉は、信者が、神を信じる人に対しても、そうでない人に対しても、自分に与えられた贖いがどれほど完全なものであるかを絶えず証し続けることの重要性を述べたものであると理解している。

神が完全であるように、私たちも完全な者になるとは、決して私たちが自力で弱さを克服して一切の未熟さや落度のない偉大な存在になろうと努力することを意味せず、ただ私たちが自分がどのような者であれ、どんな状況の只中であろうとも、御言葉の約束に立脚して、自分に与えられた救いの完全さを信じて、神の完全な力が自分を覆うよう、神を信じてより頼むことを意味するだけである。

主は御座を高く置き、低く下って天と地を御覧になり、弱い者を塵の中から起こし、乏しい者を芥の中から高く上げ、自由な人々の列に返して下さる。

「ハレルヤ。
 主の僕らよ、主を賛美せよ。
 主の御名を賛美せよ。
 今よりとこしえに
 主の御名がたたえられるように。
 日の昇るところから日の沈むところまで
 主お御名が賛美されるように。

 主はすべての国を超えて高くいまし
 主の栄光は天を超えて輝く。
 わたしたちの神、主に並ぶものがあろうか。
 主は御座を高く置き
 なお、低く下って天と地を御覧になる。
 弱い者を塵の中から起こし
 乏しい者を芥の中から高く上げ
 自由な人々の列に
 民の自由な人々の列に返してくださる。
 子のない女を家に返し
 子を持つ母の喜びを与えてくださる。
 ハレルヤ。」(詩編113:1-9)

今回、謙虚さとは何かというテーマをさらに少し追記したい。

我々の生活には、神の恵みを大胆に享受することと、暗闇の勢力に立ち向かうという二つの重大なイベントが同時進行で起きて来る。

今週一週間も大きな学習の時であった。

以前にも書いた通り、ジェシー・ペンルイスが、クリスチャン生活に起きることは100%偶然ではないと述べているように、信者の生活には、暗闇の勢力からの攻撃が多々起きて来る。

聖書において、最も試みられた人物として名が挙げられるのはヨブであろう。ヨブはサタンの試みによって、財産、家族を失っただけでなく、自分の健康、友人をも失った。しかし、ヨブはそれらの試練にも関わらず、忍耐を伴う信仰によって、神に義と認められ、失ったすべてを回復する。

このことから、私たちが学べるのは、神がサタンの活動を許しておられるのには、それなりのわけがあること、それは私たちに損失を与えたままで終わりにすることが目的ではないこと、もちろん、信者自身が強くなって、試練に立ち向かうすべを学ぶ必要があると同時に、試練を通して、信者の信仰が練られ、信者が神の御前にへりくだり、忍耐を持って、神の約束待ち望むことを学ぶ必要があるために、そうした苦難がもたらされることが分かる。

真の謙虚さとは、私たちが自分たちは無力で何もできないと考えて、神の約束までも手放して、悪魔のなすがままに翻弄されることではない。だが、同時に、神の約束が成就するまでの間には、それなりの時がある。私たちの人生に試練が起きてくるときには、私たちはほんの少しだけ、頭を下げねばならない。

人間に対して卑屈に平身低頭する必要はない。ただ心の中で、神に対して、自分の人生がことごとく神の御手の中にあることを認め、神にすべてを委ね、己を低くして、試練の時をやり過ごす必要がある。何が起きようとも、神にだけ全幅の信頼を置いていることを告白する必要がある。

筆者はかつては人間の心の裏を読むということはそれほどせず、特に信者であれば、信仰仲間だという気安さも手伝って、他者の発言を勘ぐってみたり、疑ってみることは少なかったが、ここ数年間のうちに、嘘が海のように深まるにつれ、起きた数々の出来事を通して、人間の心の裏側を予め見抜いた上で行動することがどれほど重要であるかを学ばされた。

警戒せねばならないのは、すぐにそれと分かる詐欺師ような人々の甘言だけではない。すでに書いた通り、長年のつきあいのある身近な人々から、親切心を装ってやって来る嘘の助言や、嘘の約束、偽の好意などにも、振り回されるわけにはいかないのである。もしその嘘が見抜けなければ、誰にとっても、命がいくつあっても足りないような時代が到来しているためである。

この世の不動産の広告には良いことづくめの内容しか書かれていないが、現地に行ってみれば、初めてその物件の欠点が分かることも多い。我々はそうした事実が分かったからと言って、いちいち不動産会社に向かって「嘘をついたな」と責めたりはしないかも知れないが、いずれにしても、不動産のみならず、世に溢れている広告には真実性がほとんどないことは確かである。その他にも、求人誌を開けば、存在しているかどうかも明らかでない、ものすごい数の偽りの広告が掲載されている。求人詐欺などだけが問題なのではなく、広告そのものの真実性が極度に薄れている。

今や雀の涙のような賃金で将来性もないアルバイトのように味気ない仕事でさえ、そのほとんどがとてつもない倍率となっていて、存在しないにも等しいおとり広告も同然であるという事実を実際に知っている人たちは少ない。

さらに、広告のみならず、現実生活においても、誰もが自分を粉飾し、自分にとって都合の良いことしか明らかにせず、他者の目に自分を偽っている。そこで、私たちは、世の中にこうして山のように溢れる虚偽の情報の中から、何が真実であるか、何が本当の可能性であるのかを自ら探り出して、真実な関係だけを選択して行かねばならない。それができるかどうかの能力が試されており、そこに命がかかっているのである。

何が真実であるかを見抜ける力があればあるほど、損失が少ない状態で、目的にたどり着くことができるだろう。

だが、忘れてはならないことは、私たちの助けは、そもそも人から来るものではないということだ。私たちは山に向かって目を上げる。私たちの助けは、山よりもはるかに高く、天高く御座におられる唯一の神ご自身からやって来る。

そこで、神ご自身がどういうお方であるかという事実に立脚して、私たちは神の喜ばれる選択を自ら見分けて行かねばならない。神は悪を憎み、嘘偽りを嫌われる方である。人を偏りみず、公平で、不正を憎まれる方である。

その神を信じる人々が、嘘や不正にまみれた粉飾した情報をまき散らす人々に自ら関わって、平和な生活が送れるはずもないことは明らかだ。

だが、結局のところ、神ご自身に比べれば、地上の人間は、どんな人間であれ、移ろいやすい心を持った、当てにならない存在でしかなく、誰一人、本当の意味で頼ることはできない存在である。

そうした中で、私たちは地上社会と全く関わりなく生きて行くわけにはいかない以上、もともと移ろいやすく当てにならない存在である人間社会の中にも、真実、公正、正義を飽くことなく追い求め、嘘偽りのない関係を探し、これを追い求めて行かねばならない。

このことは、誰かに自分の理想を重ね、自分の心にかなう人物が現れるのをひたすら待つという受け身な姿勢を意味しない。どんな人物が相手であれ、その対象となる人々との関係性の中に、限りなく真実な関係を追い求めて行かねばならないということを言っているのである。それができない人々、つまり、最初から真実な関係を願ってもいないような人々とは、関わってはならない。

たとえば、筆者は、先日、見違えるように変化した会社の説明会を案内してくれた親切な友人のことを記事で語ったが、その人間が本当に親切だったと言えるかどうかも定かではない。筆者はその友人の会社に行くことはなく、むしろ、その直後に、その友人の助けなどを借りなくても良い、その友人に感謝を表明する必要のない、しかも、以前に相当に劣悪な環境にあった企業などに改めて希望を見いださなくても良い、別な解決ルートが与えられたのである。

確かに、その友人の働いている会社は、以前に比べれば、かなり良好な環境となっていたと言えるだろう。確かに大きな変化があったのだ。だが、それでベストということではあるまい。しかも、ちょうど筆者が説明会を申し込んだ日が来る前日に、クライアントの都合で予定を変えてもらいたいという電話がその会社から入って来た。すでに何日も前から約束済みである予定を、クライアントのわがままでドタキャンのように突如、変えて欲しいとその会社が言い出したのを聞いて、筆者は、それがこの会社の約束の不確かさをよく物語っていると感じた。筆者はその変更の依頼を断ったが、その時に、この会社には活路が見いだせないということを理解したのだった。

さらに、友人がその後、お盆に実家に帰省する予定になっていると述べたことも、筆者には見逃せない事実であった。しかも、友人はその会社に入るに当たって、何度も、何度も面接を受け直したと述べていた。

そうした事実から、筆者は、友人は本当に筆者に自分と同じ会社に入社して欲しいがために、自分の会社を案内したのではなく、ただ自分がどれほど恵まれた状況にあるかということを、筆者に自慢したかったというのが本当の動機だろうと推測せざるを得なかった。
 
要するに、その知人の助言の中には、また、その会社の約束の中には、「然り」と「否」が混在していることが、様々な出来事を通して確かめられたのである。そこから、これは筆者のために用意された真実な選択ではない、ということが、確実に理解できた。
 
実際に、筆者が見つけ出したのは、神を信じない人々との縁故によらず、「然り」と同時に「否」と言う人々から来る助けによらないで済む別な方法であった。

このように、神が与えて下さる解決は、人知によるものではなく、人の努力や、感情に依拠した解決でもない。そして、嘘偽りに立脚して解決がもたらされることもなければ、不正な方法で達成されることもない。
 
ところで、筆者は今まで様々な環境で働いて来たが、不思議なことに、最も多かったのが、非常に眺望良好な職場であった。

どういうわけか、鳥のように空高いところから、雄大な景色を一望できるような職場に、筆者はしばしば在籍して来たのである。事務所の窓が全面ガラス張りで、東京の町がまるでタワーの天辺から一望するように見える美しい事務所もあれば、あるいは、みなとみらいの風景が高みから一望できるビルもあった。
 
そのような特別の眺望の職場に巡り合うときには、今までの一切の苦労を見ておられ、それをねぎらって下さる神の何かしらの特別な采配、恵みを思わずにいられないものである。
 
これまでに筆者は、人生で抱える様々な問題について、信仰仲間も含め、色々な人々から励まされたり、慰められたり、助けを受けたりして来た。特に、仕事については、実によく祈ってもらったものである。だが、そうして信者に祈りの支援を求めた結果、筆者が痛感して来たことは、人間の同情という感情の不確かさであった。

これまで、筆者の周りには年配者の信者が多く、その中には、専業主婦も相当な人数にのぼっていた。彼女たちは、筆者が仕事を探している時に、快く筆者のために祈ってくれると約束してくれたので、筆者はその言葉を信じて、彼女たちに、これからどんな職場に行きたいと願っているのかを告げ、差し迫っている面接や試験の予定を伝え、もしもこの計画が御心に反していないならば、神が助けて下さるように共に祈って欲しいと何度か依頼して来た。彼女たちはいつも二つ返事で引き受けてくれたものである。

ところが、実際に筆者がその仕事に採用されると、それまでは親切だった信者の態度がガラリと変わるということが、幾たびか起きた。中にはいきなり、「その仕事はあなたにはきっと合わない。すぐに飽きるでしょう」などと捨て台詞を投げつける人が現れたり、筆者があまりにも簡単にその仕事を得たように見えるせいか、憤りに近い感情を示す人々もあった。

要するに、彼女たちは、筆者が祈りの助けを求めた時には、快く同意して祈ってくれたけれども、その祈りが、実際に神に聞き届けられるとは、まるで信じていなかったらしいのである。

彼女たちが見ていたのは、現実社会の世知辛い有様や、筆者の縁故の少なさや、強そうには見えない平凡な外見だけだったのだろう。こうした人々は、神を信じ、神の助けを乞うと言いながらも、筆者が実際に御言葉に従って、神から助けを得て進んで行けるとは全く思っていなかったらしいのだ。

こうした信者らは、筆者が苦境の中にある時には、優しく、同情的に接してくれるが、筆者が大胆に神の助けを得て、苦境から脱し、問題がなくなって自立して、生き生きと暮らし始めると、早速、苦々しい捨て台詞を残して立ち去って行ったりするのであった。

筆者は当初、そうした行動を見る度に、非常に驚いたものであったが、何度か同じ出来事を見るうちに、ようやくこれらの年配者らは、ただ年少者である筆者の置かれている苦境を、自分には関係ないものとして、高みから見物して憐れみ、自分の優越的な地位を誇りたいがゆえに、筆者に同情を示しているだけなのだということを理解した。

もちろん、そのような偽物の同情ではなく、真の同情を示し、共に喜びを分かち合うことのできる信者も決していないわけではなかったことは申し添えておきたい(ただし、まれな存在ではあったが)。
  
こうして、実に数多くの信者らの同情は、本物ではないことが判明するのであった。彼らは、弱みを抱えた人々には常に優しく接するが、自分が世話をしてあげた人間に弱みがなくなって、その人が自立して、もはや彼らの助けを乞う必要もなくなり、彼らの優越的地位が失われてしまうと、その立場の逆転に我慢がならなくなり、まるで自分が恥をかかされたかのような思いになって、憤慨するか、それを機に、関係そのものが終わってしまうといった現象が何度か起きて来たのである。

彼らの目から見れば、いつまでも可哀想に思って、同情の涙を注いであげられる対象が見つかったと思っていたら、あっという間にその人が自立していなくなってしまい、自分の役割がなくなったということなのかも知れない。

だが、いずれにしても、「助ける側」と「助けられる側」との間に常に隔ての壁がもうけられているような関係は、しょせん長続きはしない。「助ける側」に立とうとする人々の同情は、同情の対象となる人々を永久に弱さの中に閉じ込め、その人をいつまでも上から憐れみ、踏み台にすることによって、自分が手柄を得ることを目的とするものでしかなく、決して心から人の解放を願うものではないのである。
 
これと似たような現象が、筆者が関東に移住して来たときにも起きたことを思い出す。筆者が移住する前には、様々な人々が、筆者の状況に心を寄せて、熱心に祈ってくれたり、励ましてくれたりもした。筆者は、その人々の言葉や感情を全く疑うことなく、またその裏を勘ぐっていられるような余裕もなかったので、人々の慰めや支援を非常に嬉しく受け止めていた。

ところが、神が真実に筆者の願いに応えて、様々な恵みを与えて下さり、筆者が移住を決行するだけのすべての必要が備えられ、すべての問題が解決し、筆者の人生にもはや何の苦境もなくなり、一切、人の同情を受けたり、助けを求めねばならないような余地がなくなると、かつて、筆者の目から見れば、最も熱心に祈ってくれて、最もその解決を共に喜んでくれるはずだと思われるような一部の人々が、筆者の目の前で、筆者に与えられた恵みのニュースを聞いて喜ぶどころか、何とも言えない苦々しい表情を浮かべたのである。

彼らの表情には「なんでおまえが」という文字が、まるで書いてあるようにはっきりと読み取れた。その反応は一瞬のことではあったが、筆者はこれを見逃さなかった。彼らの表情には、はっきりと、パリサイ人や律法学者が、イエスが病人を癒されたことに嫌悪感を示したように、とらわれていた人間が解放されて自由になることを許せないと思う憤りが読み取れたのである。
 
そこで、これらの人々も、筆者のために祈ってはくれたが、その祈りが天によって聞き届けられるなどとは、最初から全く信じていなかった人々なのに違いないと推測されるのである。
 
こうした人々も、結局のところ、困っている人々のために尽くしたり、祈ってやることにより、自分がどんなに親切心や同情心溢れる善良な人間であるかを世間にアピールし、自らの優越的な立場を誇り、自己満足することを目的にしているだけであって、初めから人の解放を心から願う気持ちなどはなかったと思われるのである。
  
さらに、こうした人々は、常に自己を粉飾して、自分の目に自分を偽っているために、心の中で非常に屈折した思いを抱えており、神に素直に助けを求めることができないという袋小路に置かれている。だからこそ、他者に起きた解放を喜ぶことができないのである。

彼らはいつも虚勢を張って、自分には一切問題がなく、自分だけは完璧で、落ち度なく、他人を助けられる指導者的な存在であるかのように思い込み、困っていて助けを必要としているのは、常に自分以外の誰かだけだと考え、そのように振る舞っている。

そのようにして彼らは、神の御前でも人の前でも、弱音を吐くことができず、自分は強いと思い込んでいるため、現実に自分がどんな弱さや問題を抱えているのか直視できず、それらの問題について素直に神に助けを求めたり、神の助けを受けることもできず、その結果、永遠にその問題から抜け出せないという苦しみを抱えることになるのである。

だから、こうした人々は、筆者のような人間が、人にどう思われるかに一切構わず、なりふり構わない率直さで、神に向かって弱音を申し上げ、人にも祈りの支援を乞い、本気で自分の願いを口にし、そこへ到達したいと信仰によって表明した結果、祈った問題に対する解決を天から受け取っているのを見ると、ちょうど放蕩息子の兄が、帰宅して父に大喜びで迎えられた弟を見るような思いになって、我慢がならなくなるのである。

これらの人々は、おそらく自分たちだけが天の選ばれた特権階級であって、自分たちは常に人を助けてやる立場にあり、その優位性のある階級の中に、自分たちとは別格の、真に弱く、貧しく、取るに足りない人々が、あたかも対等な存在であるかのように入り込んでくる余地など全くあってはならないと考えているのであろう。

そこで、彼らの思い込みが打破され、神ご自身が、彼らよりもはるかに弱く、劣った、力のない存在であるように見える人々を、塵灰の中から引き上げ、王侯貴族のような服を着せて、神の子供たちの一人として、彼らと対等に迎えられると、彼らは、自分たちが独占していた立場が揺るがされるように感じ、決してこのような事態を放置しておくことができない思いになるのである。

しかし、神の国には、特権階級はなく、これは誰の独占物でもなく、神の国には多くの人々がまるで奪い取るように熱心に殺到しており、信仰の有無以外には、これらの人々が排除される理由もない。
 
それにも関わらず、うわべだけは、あたかも貧しい人々、弱い人々、寄る辺のない人々に福音が届けられ、神の解決が行き届くことを願っているかのように述べる人々の一部が、もう一方では、筆者が最も手に手を取り合って喜んでくれるだろうと考えていた解放の瞬間に、苦々しい表情を見せたことを、筆者は忘れることはないであろう。その表情が、他のどんな言葉よりも雄弁に、彼らの心の内を物語っており、実際に、その後、予想通りの結果が起きたのである。

要するに、福音を人助けの手段のように利用して人前に善人として栄光を受けようとする人々は、神が人間を真に弱さから解放して自由にされると、彼らの助けの手を必要とする人々がいなくなり、失業してしまうため、人間の解放を決して願わず、喜ばないのである。こういう人々は本質的には福音の敵にも近い存在であると言えよう。
 
そういうわけで、話を戻せば、かつての職場の友人は、以上に挙げたような信者(?)たちとは異なり、他人の成功や良いニュースに嫌悪感を示したり、これを否定するなどの非礼な行為は決して行うことはなかったが、それでも、信仰者でないため、筆者の口からすでに別の解決ルートが与えられたという話を聞かされると、「良かったわねえ」と言ってはくれたが、「もう、そんなに早く?」と非常に驚いた様子であった。
  
彼女は筆者がさぞかし思い悩み、落ち込んでいるだろうと思って電話をかけて来たところ、慰めの必要が全くないと分かり、筆者の問題にそんなに早くの解決が与えられるとは全く思っていなかったために当てが外れた様子が伺えた。

筆者にとっては、このようなことは、実に不思議な神の采配である。要するに、神は人に栄光を与えられないのである。筆者にとって、誰が長年の友人であり、親族であり、つきあいの長い、思い入れのある存在であるかなどは全く関係がなく、ヴィオロンを助け得る存在は、天にも地にも、神お一人しかいないということを、神ご自身が、あらゆる機会に示されるのである。
 
神ご自身が、まるで筆者を助けようとした誰かに向かって「あなたは考え違いをしています。この人を助けるのは私の役割であって、あなたの出番は全くありません。人間に過ぎない者は退きなさい」と語られているかのような状況が用意されるのである。
 
だから、キリスト者同士の間であっても、何かの解決が与えられる瞬間までは、共に祈り、進むことができた信者同士が、解決が与えられた瞬間に、道が分かれるということは多々起きる。それによって、特定の誰かが「私が祈ってやったから、ヴィオロンにこの解決が与えられたのだ」などと誇りようがない状況が起きるのである。
  
神が祈りに応えて解決を与えられる瞬間は、人の目から見れば、非常にスピーディで、何の苦労もなく、劇的かつ飛躍的に物事が展開するように見える。多くの場合、人の目には、まるで筆者が神の特別な寵愛とはからいを得て、天高く引き上げられ、他の人々の及ばない安全な高みに置かれたかのように映るのである。

筆者にとって、その解決は、決して他人が考えるほどに早くもなければ、簡単に与えられたものでもないのだが、そのことは、口でどんなに説明しても、人に分かることではあるまい。筆者が一つ一つの問題を乗り越えるに当たり、どれほどの苦労を背負って来たかは、他の人には話しても決して分からず、理解してもらうことが可能であるとも思わない。
 
彼らの目には、信者が暗いトンネルの中を沈黙しながら通っている時の有様は見えないので、最後に起きた劇的解決だけを見て、すべてがあまりにも簡単で、こんなのはあまりにも不公平ではないかとさえ感じるようである。

だが、実のところ、筆者自身も、そんな風に感じないわけではない。神の助けを受けることは、確かに特別な経験である。この世で不信者と信者が公平に扱われるということは決してない。だから、信じる者の上には、確かに、神の特別なはからい、特別な関心、特別な恵みが臨んでいるのである。それは私たちの栄光のためではなく、神ご自身の栄光のために、神がなさる事柄である。
  
筆者は、高い高い空の上から、町全体をはるかに下に見下ろし、この下界の光景の中には、詐欺師たちや嘘つきどもによって日夜繰り広げられるソドムとゴモラの阿鼻叫喚のような地獄も含まれていることを考え、それらの問題をすべて足の下に踏みつけ、後にして来た事実を思い、これは実に不思議なはからいだと思わずにいられない。

新しい出来事が始まれば、かつて起きたことは忘れられ、思い出されもしない。子が生まれるまで、母親は苦労するが、生まれてしまえば、その苦労は何でもなくなると主イエスも言われた通り、新しい天と地が到来する時には、先の出来事はすべて忘れられる。
 
多くの人々は、人間の痛み苦しみだけに注目し、それに解決が与えられるとは信じていないかも知れない。人々は他人事のようにヨブの苦難には注目するが、ヨブに与えられた解決、以前よりもまさった恵みのことはあまり語らない。

だが、筆者は試練の後には、以前よりもさらにまさった恵みが与えられることが、神の御言葉の約束であると固く信じている。しかも、筆者は現在立っている地点を最終目的だとは思っていないため、今の時点で与えられている恵みに満足するつもりもなく、さらに天に近いところへ向かって、まだまだ歩みを進めねばならないと考えている。

こうしたビジョンは、多くの人々には絵空事のようにしか思われず、理解されないだろう。どうして平凡な外見しか持たない筆者にそのように長い行程を歩み通すだけの力があるだろうかと思われるだけであろう。
 
しかし、筆者は、取り立てて力があるようにも見えない無名の人間に世間が示す軽視や侮蔑の眼差しを、重大な出来事であるとは全く思っていない。我々信者が人の目にそのように無力に映るのは、いつの時代も変わりのないことで、我々が土の器である以上、そうなるのが当然なのである。

ただし、そのような中でも、ほんのわずかな瞬間、私たちが己を低くして、土の器としての痛みを黙って潜り抜ければ、その先に、思いもかけない栄光が待っていることをも筆者は知っている。

神は人が負って来た苦労のすべてをご存じで、そもそも人自身の目から見てさえ、取るに足りない力弱い存在である、塵に過ぎない人間に、永遠の御旨をお任せになったのである。そのパラドックスの意味をよくよく考えてみたい。

真の謙虚さとは、人が土の器に過ぎない己の分をわきまえた上で、その土の器に、不相応なほどにはかりしれない神の力と栄光を表すという高貴な使命を人に与えられた神のはかりしれない御旨に瞠目しつつ、この壮大な使命を喜びを持って理解し、受け止め、信仰により負って行くことではないだろうかと筆者は考えている。信じる者のうちには、脆く弱い土の器の部分と、絶大な栄光を帯び神のた力というパラドックスが同居している。人の目に確かに見えるのは、脆くはかない土の器だけであるが、永遠に残るものは、その内に住まわれる偉大な神の力、尊厳、栄光なのである。