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私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

「わたしはあなたと争う者と争い、あなたの子らを救う。」―神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となった。

「神は真実な方です。だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、「然り」であると同時に「否」であるというものではありません。わたしたち、つまり、わたしとシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。

神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。

わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に”霊”を与えてくださいました。」(Ⅱコリント1:18-22)

最近、上記の御言葉の深淵な意味を理解する貴重な機会に恵まれている。
 
筆者は最近、世の中で発せられる言葉がことごとく嘘にまみれ、それが嘘であることさえ否定されるほどに厚かましく虚偽が大手を振って跋扈していることに対し、心底からの憂慮と憤りを覚えていた。

労働市場には求人詐欺が溢れ、公文書は改ざんされ、政治家の公約は平然と破られ、それでいて誰も責任を取らされることもなく、世の中に溢れる言葉の一つ一つが耐えられないほど無意味となり、何を信じて良いのか、もはやその目安さえ見つからないほどすべてが混沌として、信頼に足る根拠のある言葉が見つからないことに、空恐ろしい感覚を覚えずにいられなかった。

まるで全世界が深い嘘の闇の中に沈んで行こうとしているのに、それをどうすることもできないむなしさ。一体、これほど深い海のような嘘の中で、我々はどうやって身を守り、生きて行けば良いのか? 

そんなことを考えていた時、昔の友人、いや元同僚と会話する機会があった。かつて我々はある職場で出会ったのだが、そこはまるで魑魅魍魎の跋扈する伏魔殿のようなところで、仕事は尋常でなくハードで、労基法の存在など誰にも認識されていなかった。研修中に半分以上の新入社員が黙って姿を消していくような職場だった。
 
当時、その職場のあまりにも極端な有様に、我々も驚き呆れた。懸命に働いたが、長くは持ちこたえられず、間もなく皆が散り散りになって行った。しかし、苦労の只中で生まれた絆は、時が経っても、消え去ることなく保たれた。

最近、ふと思い出して連絡を取った時、思いもかけない返事が返って来たのである。

「ねえ、ヴィオロンさん、私が今どこにいると思う? あの会社よ!」

驚くべきことに、同僚が口にしたのは、筆者の中では、まるで恐るべきものの代名詞だったような社名であった。

「びっくりでしょう~? でも、本当にこの会社は変わったのよ。とても働きやすくなったの」

彼女が言うには、何とその会社が、根本的に変化して、福利厚生を整え、社員の願いをくみ上げ、未来を与えることのできる風通しの良い会社になっているというのだ。

残業代は1分単位で支払われ、社員への慰労会が催され、働けばちゃんと報いが得られる仕組みになっているという。何よりも苦労の多かった元同僚が、すでにかなり長くその職場にいるという事実自体が、他のどんなことよりも、彼女の語る言葉が事実であることを物語っていた。
 
しかし、何よりも、筆者が驚いたのは、次の言葉である。

「つい最近、5年勤めた私の同僚が、終身雇用になったばかりなのよ。色々と続けられるかどうか悩んでいた時期もあったようだけれど、ついに終身雇用になって、本当に安心したって言ってたわ」

筆者は耳を疑った。シュウシンコヨウ? 何しろ、それは安定とは程遠いイメージの、最も人の出入りの激しい業界のことである。さらに、世の中では、正規雇用への転換を阻むための雇止めが横行している中、勤めて5年経ったら終身雇用とは、まさか?

だが、その話は聞けば聞くほどどうやら本当らしいのであった。

筆者は驚いてしまった。

筆者の心の中で、その会社のイメージは、筆者がいた頃の混乱した有様で、記憶が止まっていた。あまりにも多くの人々を無碍に会社の外へ放り出し、悪事をたくさん犯し過ぎたので、立ち直りは不可能だろうとさえ思っていた。

筆者がその職場を去る前、上司にその胸の内を打ち明けると、上司は、頷きながらも、その時、自分はここに残ってこの現状を改革するのが夢だと語っていたことを思い出した。

よくは分からないが、長い歳月が過ぎ、当時、胸を刺し貫かれるような光景を幾度も目撃しながら、育てて来た後輩を次々と見送り続けて来た人たちが、やがて幹部となって、会社を改革したのかも知れなかった。

筆者は、元同僚の勧めで、会社説明会に行ってみることにした。すると、確かにすべてが以前とは異なるのであった。大体、企業の登録説明会などに行くと、生気の抜けた空々しいスピーチを聞かされ、あれやこれやの禁止事項を言い渡され、おどろおどろしい内容のビデオを見させられたり、細かい字が敷き詰められた誓約書にサインを求められたり、まだ何も始まっていないのに、早くもこんなにも要求過多なのでは、この先、どうなることやらと、げんなりしながら帰宅したりしていたものだが、そうした印象はほとんどなかった。

ビルにたどり着くまでの親切な道案内、受付の快活さ、お決まりのビデオでは、禁止事項は一つも挙げられず、かえってどれだけその職場が自由で伸び伸びとしており、社員にとって働きやすい制度が整備され、企業が社員の未来に心を配っているかということが強調されていた。

上から目線の義務と要求の押しつけが全くと言って良いほどなかったのである。

感動屋の筆者は、そのビデを見ているうちに、当時、別れ別れになった上司や同僚たちの姿が脳裏をよぎり、よくぞここまで変わったものだと、涙ぐんでしまった。

かつてはまるで次々と同僚が討ち死にして行くのを横目に、自分の順番が回って来るのを待つしかない戦々恐々とした戦場のようだった場所に、いつしか涼しい木陰をもたらす大きな樹木と憩いの広場のようなものができていた。

かつてはやって来る人をみな鬼のような形相で追い払う恐ろしい聖域のようだった場所に、日照りの中を歩くことに疲れた人々が、自然に休息を求めてやって来る大きな木陰ができていた。

筆者はこんな事例を他に一つも見たことはないが、とにかく組織というものは変わりうるのだという実例を目の前で見せられた気がした。

今まであまりにも多くの血を流し過ぎたから、立ち直り不可能ということはないのだ。どんなに悲惨な光景が広がっているように見えたとしても、そこにごくわずかでも良いから、良心と未来のビジョンを持った人々が、犠牲を払って踏みとどまりさえすれば、全体が変わる日が来るのかも知れない。

それは大きな教訓であった。筆者にはその当時、ここに踏みとどまろうという決意はなく、別の目的もあり、その混乱の只中から何かが生まれて来るとは、到底、信じることができなかったが、それでも、ごくわずかな間であっても、命がけのような毎日を送りながら関わって来た人々と、長い長い年月が経って、かつては予想もできなかった形で再会できたことは、実に感慨深いことであった。

この企業の取り組みは 時代を先取りしているように感じられた。これから5~10年も経つ頃には、大規模な人手不足時代がやって来るだろう。人のやりたがらない苦労の多い仕事には、就く人もいなくなるに違いない。それに先駆けて、アルバイトであろうと派遣であろうと非正規雇用であろうと、今、その仕事に就いて苦労してくれている社員らに未来の夢を提供することで、その会社が、自分たちに仕えてくれる人たちを自社に残そうとしていることは、正しい選択であるように思われた。
 
まるで階級制度のように超えられない壁のように見えた正規・非正規の壁を、その会社が取り払おうとしていることは、正しい選択であるように感じられた。

筆者は、ここ最近、重要なのは、筆者を取り巻く人々や、組織が、外見的にどう見えるかではなく、その人たちの中に真実があるかどうか、もっと言えば、その人々が嘘偽りのない生き方を心から目指しているかどうかに、すべてがかかっているのだということに、はっきりと気づいた。

身内や、親族や、長年の知己や、信仰の仲間や、著名な指導者だからと言って、その人が我々に真実に接してくれる保証はない。老舗の会社だから、誠実に仕事をしてくれるということもない。

ただお互いに、心の中で、嘘によって汚されることのない清い命の流れ、嘘偽りのない真実を探し求めている時にだけ、我々の間には、有益な関係が成立しうるのだ。

さて、ここから先は、クリスチャン向けの話題であるが、これまで筆者は、当ブログにおいて、嘘や自己矛盾や二重性というものは、聖書には決してない特徴であり、それは悪魔に由来する偽りであって、誤った教えには、首尾一貫性がなく、必ず、嘘による自己矛盾や、論理破綻が見られることを述べて来た。

グノーシス主義思想の分析においても、筆者が幾度も強調したのは、誤った教えは「全てがダブルスピークで成り立っている」ということであった。

グノーシス主義の究極目的は、正反対の概念の統合にあるとこれまで幾度も述べた。仏教もそうであるように、グノーシス主義の教えはみな「有る」と言いながら、同時に「無い」と主張するのである。
 
従って、このような教えの究極目的は、「然り」と「否」との統合にあるのだと言えよう。

だが、私たち聖書に立脚するクリスチャンは、「然り」と「否」とを統合するなどということは、誰にも絶対にできない相談であり、それは錬金術のような詐術でしかないことを知っている。

たとえば、公文書を改ざんしている人々も、国会で偽証している人々も、求人詐欺などしている会社も、みな「然り」と「否」を混同しているのである。

「困ったときは、私たちに相談して下さいね」と言いながら、いざ相談してみると、「甘えるな。自分のことくらい、自分で何とかしろ」などと言ってくる人も、「然り」と「否」を混同している。

「私はあなたと信仰による兄弟姉妹です。神が出合わせて下さったのだから、私たちの絆は絶対に壊れません」などと言いながら、いざ様々な不都合な問題が持ち上がると、早速、兄弟姉妹であることを否定して、関係を切り捨ててにかかる人々も、「然り」と「否」を混同している。

主にある兄弟姉妹はみな対等であって、宗教指導者は要らないと言いながら、自分が指導者になって信徒に君臨している人々も、「然り」と「否」を混同している。

要するに、自分で約束した言葉を守ろうとせず、言動が一致していない人々は、みな「然り」と「否」を混同する偽りに落ちてしまっているのである。

人柄が問題なのでもなければ、性格が問題なのでもなく、関係性が問題なのでもない。その人自身が、真実に立って、二重性を排除して生きるつもりがあるかどうかが、それが、我々がその人間と信頼性のある関係を築き上げられるかどうかを決める最も重要な要素なのである。

だから、私たちは限りなく、嘘偽りのない真実を追い求めなくてはならない。どんなに虚偽が海のように深く、すべてを覆っているように見えても、それでも、その中に真実を追い求め続けることをやめてはならない。

そのようにして固く偽りを拒否し、真実(真理)に立って、これを守り続けて生きる人々を探し求め、それを見つける時に、初めて、彼らとの間で連帯や協力が成り立つ。

長年の知己であろうと、親族であろうと、クリスチャンを名乗っている人々であろうと、名だたる企業の幹部であろうと、宗教指導者であろうと、誰であろうと、 「然り」と「否」を混同している人々に、何を求めても、返って来るものは何もないのだ。

クリスチャンを名乗りながらも、聖書は神の霊感によって書かれた書物ではない、と否定する者たちがいる。その者たちは、一方では真実を語りながら、もう一方では、それを自ら否定しているのだから、そのような人々と語り合っても、得るものがないのは当然である。

それは大円鏡知、すべてがさかさまの世界、すべての存在するものが究極的には「無い」という虚無の深淵へと通じて行くだけの語り合いである。

ちょうど今は盆の季節で、多くの人々が先祖供養のために帰省している。国民のほとんどには、自分たちが先祖崇拝という宗教儀式に参加している自覚はないであろう。しかし、終戦の日が8月15日に定められ、我が国最大の国家的行事としての戦没者追悼式がこの日に行われるのも偶然ではないように筆者には思われる。

我が国は、巨大な先祖供養のための国家的共同体であり、天皇は死者の霊の鎮魂と慰謝のための象徴である。その天皇の姿に、国民は自分を重ねながら、未だ先祖供養を自らの最優先課題として今も生きているのかも知れない。

だが、地獄の釜の蓋が開いて、束の間子孫のもとへ戻って来るという亡き先祖の霊が、子孫のために何かをしてくれたことが、これまでに一度でもあったのだろうか? 彼らは、子孫に慰めを要求し、供え物を要求する一方で、自らは何一つ子孫のために奉仕することもない。

それもそのはずである。地獄に落とされたという亡者たちが、生者のために何かしてあげることなど、できるはずもない。生前に自ら犯した罪のゆえに地獄で責め苦に遭い、永代供養を求めることしかできない地獄の死者たちが、本当に、厚かましく、独りよがりな亡霊ではなくて、尊敬すべき立派な先祖であり、まして仏であり、神として讃えられるべき存在だと、本当に考えられるであろうか?

いや、彼らが本当に神ならば、自分のためだけに生贄を終わりなく子孫に要求し続けるようなことをせず、生きとし生ける者の命を維持するために、自ら奉仕し、配慮するであろう。
 
自分が生んだ子らに慰めを与え、命を与え、日々の糧を与え、見離すことなく、生涯の終わりまで、共にいて助けるであろう。

それでこそ、神の名に値する。

それなのに、子孫に向かって永遠に要求を重ね、子孫の財産を奪い去ることしかできず、子孫の配慮によって、自らに供えられたものを、食べることも、味わうこともできず、感謝の言葉を発することもできない死者の霊が、果たして、神だなどということが、あるはずがないではないか。
 
クリスチャンであれば知っている。死者の霊が神になるわけではないと。そんなことは決して起きないと。神の独り子なる救い主であるキリストへの信仰を持たない者が、死んだからと言って、神になることなど決してありはしないのだ。

神の子に連なるためには、人は水と霊によって、すなわち、新しい命によって生まれねばならず、それは、その人が人類の生まれながらのアダムの命や、それに連なる関係に対して、霊的死を帯びることを意味する。

詩編には次のような言葉がある、

「父母はわたしを見捨てようとも 主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。」(詩編27:10)

この言葉は、私たちが救われたのは、生まれながらの肉の絆によるのではないことを、はっきり示している。十字架で私たちの罪のためのいけにえとなられた神の御子キリストを信じることによって、私たちには新しい命が与えられ、このキリストの命によって、私たちは神の共同体に加えられ、神の家族とされたのである。

だからこそ、神は私たちを子として守って下さる。必要な慰めを与え、励ましを与え、困った時に支え、助け、命を与えて下さる。それはこの世の命だけでなく、来るべき世においても続く永遠の朽ちない命である。
 
この関係は、死者の霊に子孫として連なる地上の肉なる絆「生み生まれる親子の立体関係」とは全く異なる。

私たちは、死と復活を経られたキリストの霊によって新しく生まれ、天的な新しい家族関係の中に入ったのである。

私たちが連なるのは、死者の霊ではなく、命を与える霊となり、よみがえられた最後のアダムなるキリストである。

そこで、古きは過ぎ去らなければならない。死んでは地獄に陥れられ、子孫に束の間の慰めを求めてすがるばかりで、子孫を慰めることも、救うこともできないような「生み生まれる親子の立体関係」は、死に渡されるべきなのである。

「イエスは言われた、「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。」(マルコ10:29-30)

これは、私たちキリスト者が、地上の「生み生まれる」肉なる関係に対して死ぬ変わりに、神の家族という、新しい関係、新しい天の財産が豊かに与えられることを示している。

地上の関係を信仰のゆえに喪失するときは、それは一時的に、悲しいことのように感じられるかも知れず、また、そのような生き方は、この世の常識とは異なるため、世間の理解を受けられないかも知れない。

だが、私たちが失ったものをはるかに補って余りある天の豊かな相続財産を、神が私たちに約束して下さっていることは確かである。

最後のアダム、命を与える方、この方の言われる言葉はすべて真実であって、偽りがない。だからこそ、我々は然り、アーメン、と言うのである。

「神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。

神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。」
 
最後に、今一度、これまでに何度も引用したイザヤ書49章の後半を挙げておきたい。神はご自分が全能の主であることを知らせるために、ご自分のもとへ身を寄せるすべての者を守って下さる。神が信じる者を守って下さり、慰め、憐れみ、決して恥をこうむらせず、失望させることはないという約束は真実である。
 
「 天よ、歌え、地よ、喜べ。もろもろの山よ、声を放って歌え。主はその民を慰め、その苦しむ者をあわれまれるからだ。

しかしシオンは言った、「主はわたしを捨て、主はわたしを忘れられた」と。


女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。
見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ。あなたの石がきは常にわが前にある。
あなたを建てる者は、あなたをこわす者を追い越し、あなたを荒した者は、あなたから出て行く。

あなたの目をあげて見まわせ。彼らは皆集まって、あなたのもとに来る。主は言われる、わたしは生きている、あなたは彼らを皆、飾りとして身につけ、花嫁の帯のようにこれを結ぶ。
あなたの荒れ、かつすたれた所、こわされた地は、住む人の多いために狭くなり、あなたを、のみつくした者は、はるかに離れ去る。

あなたが子を失った後に生れた子らは、なおあなたの耳に言う、『この所はわたしには狭すぎる、わたしのために住むべき所を得させよ』と。

その時あなたは心のうちに言う、『だれがわたしのためにこれらの者を産んだのか。わたしは子を失って、子をもたない。わたしは捕われ、かつ追いやられた。だれがこれらの者を育てたのか。見よ、わたしはひとり残された。これらの者はどこから来たのか』と」。


主なる神はこう言われる、「見よ、わたしは手をもろもろの国にむかってあげ、旗をもろもろの民にむかって立てる。彼らはそのふところにあなたの子らを携え、その肩にあなたの娘たちを載せて来る。 もろもろの王は、あなたの養父となり、その王妃たちは、あなたの乳母となり、彼らはその顔を地につけて、あなたにひれ伏し、あなたの足のちりをなめる。こうして、あなたはわたしが主であることを知る。わたしを待ち望む者は恥をこうむることがない」。

勇士が奪った獲物をどうして取り返すことができようか。暴君がかすめた捕虜をどうして救い出すことができようか。
しかし主はこう言われる、「勇士がかすめた捕虜も取り返され、暴君が奪った獲物も救い出される。わたしはあなたと争う者と争い、あなたの子らを救うからである。 わたしはあなたをしえたげる者にその肉を食わせ、その血を新しい酒のように飲ませて酔わせる。こうして、すべての人はわたしが主であって、あなたの救主、またあなたのあがない主、ヤコブの全能者であることを知るようになる」。

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新エルサレムまで続く長く細い道のりを、主が出会わせて下さった兄弟姉妹と共に辿りつつ

さて、証言を集め、協力者も集まって来ている。ここからが大詰めで、ドラマのような展開が進んで行く。

前にも書いたことだが、弁護士は当事者ではないため、当事者以上の証言を決して行うことができない。そこで、何が真実であるか、その是非を争いたい時には、当事者の証言こそ有効である。

キリストの御身体に命の供給が必要だいう言葉の重さを痛感するのは、こういう時だ。一人だけでもすべてに立ち向かうことは十分にできるが、やはり、仲間としての兄弟姉妹の協力を仰ぐことによって得られる利益も確かに存在する。それは地上の個人的な利益だけを指すのではなく、キリストの御身体に新鮮な命の供給がもたらされるという利益だ。
 
一人だけでも、もしキリストが内におられるなら、それは一人の証言ではない、と筆者は思うが、その上、兄弟姉妹の証言が得られば、その証言の強度は倍加する。

凶暴な狼によって、バラバラに引き裂かれた信徒たちが、再び一つにつなぎ合わされる。それが一つのからだとなり、真実を持って、虚偽に対抗して立ち上がる巨大な兵士の軍団のようになる。草の根的な、名もない小さな人々の集まりが、大きな力になって行くのだ。

今はまだ小さな流れだが、いずれ大河のように流れる時が来よう。

さて、以前には関東圏は終わりを迎えているため、よその土地に引っ越した方が良いという筆者の思いを記したが、それはあるいは、エリヤがイゼベルから逃げ出した時のような弱音だったのかも知れないし、あるいは、未来へつながっていく確実な望みなのかも知れない。今のところ、まだそうした問題には答えが出ていない。

どこになら住まいを構えてもよいだろうかと考えながら、土地を巡る中で、かつて筆者が地上で楽しく交わりを行ったあるクリスチャンの夫人のことを思い出した。その人の人生最後の時期に、筆者は彼女と親しく交わりを持つようになった。

それ以前から、互いに存在を知ってはいたが、彼女も、筆者も、ともに地上の団体を離れ、人間のリーダーを離れるまで、個人としての出会いは起きなかった。年齢は親子ほど離れていたが、良い交わりが持てた。多分、それまで様々な団体の指導者に気を取られていた頃には、せっかく出会っても、互いの価値が分からないまま、通り過ぎていたのだろう。

その人は祈りに祈って家を手に入れたとよく言っていた。家を建てる前から、図面を作り、案を練っていた。彼女は、念願かなって手に入れたというその家へ筆者を招いてくれて、雄大な景色を見せ、センスの良い家具や、配置を見せて、言った、「この家へあなたをお招きしたのは、誰でも、祈りさえすれば、こういう家が手に入ることをあなたに教えたかったからなのよ」と。

色々なところで会い、信仰の交わりをし、あかしをし、共に喜び、感謝した。それからごくわずかな間に彼女は天に召され、しばらくして彼女の夫も天に召され、その素晴らしい家は、誰も住む人がいなくなった。筆者が知らないうちに、いつの間にか、彼女の夫までも地上を去っていた。

筆者からみれば、その夫婦は、まるであたかも両親の代理のように、非常に親切にしてくれた。夫人が亡くなってから、二、三回、ご主人に会って、思い出話を聞いた。筆者の心には良い思い出しか残っていなかった。

しかし、筆者が見ていたのは、ほんのうわべだけの有様に過ぎない。夫人は生前、夫には信仰がないと嘆いており、家の屋上にのぼって泣きながら祈ることがよくあると語っていた。他人には決して打ち明けることのできない様々な悩み苦しみが、胸の内には色々あったのだろうと思われる。

しかし、一体、何を涙して祈らねばならなかったのか、いつも幸福そうな外見からは全く分からなかった。こちらから事情は何も尋ねなかったし、彼女の夫も、教養ある人たちの家庭では常にそうであるように、他者に対しては親切で気前良く、何一つ愚痴も悩みもこぼすことなく、夫人が嘆いていたような問題があることは全く分からないままであった。

筆者は、彼女が召されてからも、彼女と過ごした夢のようなひと時を幾度も心の中で思い出した。

それからずっと経って、筆者は、偶然に、この夫人の家のことを思い出した。最後に残っていた彼女の親族から、ついに夫人の家も、すっかり空っぽになって、売りに出されたという話を聞いて、心から寂しい気持ちになったことを思い出した。

筆者にとっては、いつまでも記憶の中で、色あせることのない、夢のような家である。もしも地上で最も天に近い、聖なる場所があるとすれば、それはきっとあの家に違いない、と思った。

そこで、ずっと前に削除したアドレス帳に記した住所を何とか記憶を辿って思い出し、探してみると、その家は何と買い手がないまま売りに出されているではないか。

この聖なる場所が人手に渡らなかったのはきっと奇跡に違いない、などと筆者は思って、そこを訪ねてみることにした。

だが、現実は容赦なかった。その家は、誰も住まなくなって久しいため、大規模な修繕が必要で、とてもではないが、誰から見ても、経済的な買い物と言える状態ではない。修繕で済めば良いが、すべてを造り変えるしかない可能性が極めて高い。

夫人が筆者をもてなしてくれ、みなで聖書を輪読した素敵な居間も、今は朽ちかけ、床はひび割れ、壁も傷み、テラスへ続く扉は、開けようにもシャッターや扉が開かなくなっていた。

それでも、ごくわずかな思い出の片鱗でも残っていないかと期待しながら、筆者は歩き回ってみたが、その家には、もう当時の生活の名残は、ごくわずかに天上に吊るされた照明と、家の中に数か所残されたインテリアのかけらくらいしかなかった。

その代わり、筆者は、客として招かれた頃には、決して案内されることのなかった家の隅々までも見ることができた。

そうして驚くべきことが分かった。その家には、筆者が客として招かれたときには、決して存在を知ることのない隠された空間があったのである。夫人が生前に、センスの良い高価な家具をたくさん飾り、実に良い雰囲気を醸し出していた居間のある上層階とは別に、一種の廃墟と言っても良い状態の下層階が存在したのである。

その下層階は、まさに廃墟と呼ぶべき状態であり、しかも、多分、そこが廃墟になったのは、家が空き家になって後のことではなく、夫人がまだ生きていた当時から、開かずの間として放置されていたのではないかと思われた。つまり、同じ家の中に、美しく改装された二階と、放置されて朽ち果てて行く一階とがあり、この二つが、基礎構造を通じてつながっていたのである。

筆者は非常に驚き、複雑な思いになった。これはまるで人間の心の中のようだという気がした。生まれながらの人の心の中には、誰にでも、こうして人には見せられない隠された奥の間がある。そこに、様々な嫌な思い出や悪意が封印されていたりする。

筆者が客としてこの家を訪れた時、夫人は、信仰によって与えられた非の打ち所のない家のように、この家を紹介しれくれたが、その時、夫人が筆者に見せてくれたあの夢のような空間は、最も良いごく一部である上層階に過ぎず、この家には、下へ下へと降りるに連れて、それとは全く異なるもう一つの顔があったのである。

しかし、あれほどセンスの良い綺麗好きで自分の家をとても愛していた夫人が、そのような状態で、率先して下層階を放置していたとは、およそ考えられず、多分、そうならざるを得なかったのは、そこには夫人が立ち入れなかったか、管理の及ばない何かの特別な事情があったためだろう、と考えられた。

同じ一続きの家ではあったが、そこは夫人が設計したわけでなく、管理したわけでもない、別人の空間だったと思われる。

そういう事情を見ても、きっとこの家の中には、外の人には決してあけっぴろげに見せることのできない何かの秘密が隠されていたのだろう、という気がしてならなかった。

多分、その秘密こそが、夫人が生前、幾度も涙しては屋上で祈らなければならなかったり、静かに祈るための空間を求めて、郊外へ移動したりしていた理由につながっていたのではないだろうか、などと筆者は思いを巡らしてみた。
 
だが、筆者はそれ以上、その事情について、知りたいとは思わなかった。どの家族にも、それなりの秘密がある。たとえば、筆者の目から見て、夢のように素晴らしい家庭に見える家でも、その家に生まれた子供たちの目から見れば、かなりの問題があると感じられるかも知れない。

人目には愛のある素晴らしい夫婦のように見える二人がいても、もしかすると、毎日のように、どちらか一方が泣いているかも知れない。あるいは、親たちは幸福そうに見えても、子供たちは苦しみ、悩んでいるかも知れない。

遠目に見るからこそ、何もかもがきれいに見えるだけのことである。すべての地上の家は、そういうものだ。筆者が愛していた夫人の家だからと言って、すべてが例外などということは決してないのだ。

だから、その家が、最も天に近い、地上で一番、祝福された、聖なる場所のように筆者に見えていたのは、あくまでその当時の筆者の主観によるものであり、同時に、夫人の主観によるものであり、また、同時に、単なる人間の主観にはとどまらない、信仰によってつながった姉妹たちが、主の御名の中で、ともに分かち合った喜びや賛美によるのである。

確かに、その時、私たちの霊の内で、何とも言えない理想的な空間が広がっていた。だが、だからと言って、その思い出を、まるで完全で聖なるもののように、極度に美化するわけには行かない。

地上のものが、エクレシアの永遠の構成要素の一つであるかのようにみなすわけにはいかない。どんなに素敵な家も、ありふれた家の一つでしかなく、理想や、完成からは遠い、不完全なこの世の朽ち行く物質から作り出されたものに過ぎず、その家も、どこの家もそうであるように、老朽化やその他の様々な問題に悩まされ、いずれは消えて行く脆くはかないものの一つでしかない。

仮にその家が、何の秘密も持たない理想的な空間であったとしても、それでもやはり地上の朽ちて行くものが、天の朽ちないものを形成するわけではない。

結局、真理と霊によって神を礼拝する場所は、あの山や、エルサレムではない。エクレシアは、思い出の中に存在しているのでもなければ、他人の素敵な家の中にあるわけでもない。

筆者にとってのエクレシアとは、常に筆者の内に住んで下さるキリストによって、筆者と共に存在している。このことを決して忘れるわけにいかない。あの時、筆者と夫人と、また別のもう一人の夫人が、共に三人で集まり、祈ったことにより、我々の霊の交わりの中に、確かにエクレシアが存在していたのであり、他方、夫人の素敵な家は、その交わりによって照らされ、聖別されていた地上の空間に過ぎない。

不思議なことに、目の前で、思い出深い場所が、残酷に朽ちて行く光景を見せられたというのに、しかも、そこには、筆者の知らない秘密まであったと分かったにも関わらず、筆者の記憶の中では、依然として、その家も、夫人の面影も、輝いたままに残っている。

おそらく、それがエクレシアの永遠の交わりが、確かにその時に生きて存在していたことによるのだろう。そこがどんな家であったかなど、全く問題ではないのだ。

エクレシアは、主の御名の中で集まる二、三人の中にある。だから、過去を振り返ることなく、真実な心で今、生きている兄弟姉妹と手を取り合って、前に進んで行こう。
 
人間は生きている限り、絶えず変化し、前に進んでいく。人は常に新しいものを求める。人間の作った技術が年々、進歩しており、年々、物質が古くなり、朽ちて行くのと同様、かつては最善に見えたものも、時代の変化により、廃れて行く。だから、思い出を振り返り、名残惜しむことによって、何かが取り戻せるということは絶対にない。過去を振り返る時でさえ、今の基準に立って、すべてを厳しく評価しなければならない。そして、地上に存在しているものは、どんなものであろうと、満点をつけられるものはない、と言い切らねばならない。

なぜなら、私たちが求めているものは、この地上に属するものではないからだ。
 
ところで、筆者は、開かずの間のない家を理想と考えている。古いものと新しいものを一緒に残すことはできない。古い基礎構造の上に、新しい部分をかぶせて、一部だけを新しくして、すべてが新しくなったように見せようとは思わない。そういう混合は決してあってはならないものだ。

開かずの間とは人の心でもある。エレミヤ書にあるように、どんなに人の心が陰険で、罪と悪に満ち、直りようがないほど悪かったとしても、その部分は、神の光によって照らされなければならない。そうして、照らされて、新しく造り変えられる必要がある。

そのためには、その部分をまず神に対して解放して、明け渡さなければならない。廃墟であろうが、どんな状態であろうが、構わないから、そういうものが自分の心の中にあることをまず認め、扉を開けて、主をその中にお招きせねばならない。客人をお招きするにふさわしくない空間であることは百も承知だが、だからと言って、それをないもののように、鍵をかけて閉ざしてはいけない。にも関わらず、それをそのままにして、古い基礎を残したまま、その上に上層階を建れば、その弊害は必ずしばらく経って現れて来る。そのような仕方で建てた家は、長くは持たない。筆者には、そういう気がした。
 
大胆な外科手術によって、取り除くべきものがすべて取り除かれた上で、すべてが新しくされねばならないのである。基礎構造から、すべてが新しくなければならない。そういう意味において、夫人が見せてくれた家は、天の故郷である新エルサレムまで続く道の途上にある、非常に魅力的な通過点の一つであったとはいえ、それがゴールでは決してなく、そこから天の故郷までには、まだまだ遠く、はるかな距離が残っており、その通過点は、どんなにその時には満足できるもののように見えたとしても、そこで立ち止まるべきではない、甚だ不完全で中途半端な地点でしかなかったのである。

だから、私たちは生きてキリストの十字架の死と復活をさらに知るべく、主のよみがえりの命によって刷新されるべく、後ろのものを忘れ、前に向かって進んで行く。その途上で、また新たに喜びに満ちた出会いや、有益な参考材料となる学びが現れて来るだろう。


「宗教トラブル相談センター」村上密による移送申立が、横浜地方裁判所より却下される

久々に裁判に関する進捗報告を一つ。

カルト被害者を名乗る人々はよくよく見ておいて欲しい。 もしもキリスト教会であなたが何かの事件に遭遇したとして、受けた被害の相談をあなたは誰かに行いたいと考える。むろん、それを禁じる法はなく、誰かに話せば胸の内がすっきりすると思うのも当然だろう。

だが、そこで誰を相手に相談すべきかは、よくよく考えて検討することをお勧めする。特に、宗教トラブル相談センターに赴くことが妥当かどうかは、よくよく熟慮することをお勧めする。

なぜなら、相談と引き換えに、あなたは個人情報を収集され、その後、もしも相談した相手に何かの不審や疑問を感じても、いざ批判の言葉を口にすれば、たちまちネット上ですさまじい制裁を加えられるだけかも知れないからだ。

あなたは相談内容をことごとく公表されて、個人情報を暴かれ、人生の道を踏み誤り、カルト宗教の洗脳を受けた信者と呼ばれ、プライバシー権を侵害された上、そうした事件の解決を目的に、相手を調停や訴訟の場に呼び出し、公に議論しようとしても、その相手は、決して裁判所からの呼び出しに応じて速やかに出頭しようともせず、色々な理屈をつけては、逃げ回るだけかも知れないからである。

あなたは教会で遭遇したごくごく些細なトラブルをきっかけに、それとは比べものにもならないほどの巨大な重荷を背負い込まされることになるかも知れないからだ。

以下は、アッセンリーズ・オブ・ゴッド教団京都七條基督教会、宗教トラブル相談センターの村上密牧師が、当ブログ執筆者を原告として提起された訴訟の第一回口頭弁論期日について、「バングラデシュへの出張」を理由に、事件の京都の裁判所への移送を申し立て、それが裁判所により却下された通知である。

かつて被告A(杉本徳久)は、自らのブログで、被告が申し立てさえすれば、事件を被告の住所の管轄裁判所に移送できるかのように主張していたが、そのような主張が虚偽でしかないことが、この決定によっても証明された。

原告が知っている限り、一般に、原告の住所地の所轄裁判所で提起された損害賠償請求事件に、被告の希望に基づいて、移送の申立が認められるための条件は、かなり厳しい。被告が、仮に次回、別な理由を持ち出して移送を希望したとしても、同じように却下となる可能性は極めて高い。

それにしても、自分が正義の味方のように、カルトをやっつける側に回る時には、意気揚々と法廷闘争を呼びかけ、他の牧師を法廷に引きずり出すことをいとわない人間が、いざ自分が被告として法廷に呼び出されると、何かと理由をつけては出頭をしぶるというのは、感心できる態度ではない。

公に名を名乗り、TVにも出演しながら、全国をカルト被害者への支援のために飛び回っていることをアピールしている牧師ならば、誰からどんな訴えがなされたとしても、正々堂々とそれを受けて立ち、持論を展開して公の場で反駁すれば良いだけであり、自分にとって不利な訴えにも、根気強く、透明性のある形で、公に反論している姿が、信頼を呼ぶのである。それをしようとしないのは、自分にとって不都合なことには向き合うつもりがなく、そもそもやましい思いがあるから出頭したくないのだろう、などと憶測されても仕方がない。
 
しかも、海外出張という一過性の出来事を理由に、移送の申立が認められる見込みがほとんどないのは、誰にでも事前に予想できることである。そこで、この移送の申立は、自分が出頭を拒むための口実であるだけでなく、事件の解決を何とかして先延ばしにし、自分に不利な判決を先送りするための苦肉の策だと思われても仕方がないだろう。

それにしても、海外宣教師でもない牧師が、この時期にわざわざ出張というのは・・・。一般信徒から提起された訴訟に向き合うことが、そんなにも怖くて、バングラデシュまで逃亡せねばならないのか、という憶測を呼ぶのも仕方がない。

断っておけば、第一回目の口頭弁論には、被告は出頭しないこともできる。しかし、出頭しなければ、自分の口から主張を説明できないので、誤解が生じ、不利な判決が下される恐れが増し加わるだけだ。そして、二回目以降の期日には、出頭しないことはできない。

審理が長引けば長引くほど、被告として呼び出される回数が増え、答弁する苦労や、交通費が増し加わるだけのことである。それくらいなら、一度ですっきりとカタをつけるために、全力で準備した方が、よほど重荷が減るだろうに。
 
さて、被告らの答弁書が提出されたので、原告も準備書面を作成したが、村上密の答弁書は2頁、杉本徳久の答弁書は6頁と、相も変わらず、真面目に答弁しようという意気込みが全く感じられない。

原告が提起した訴状は約200頁。それに対し、この分量の反駁では、訴状の冒頭部分にさえ反駁したことにならず、自分の主張の正当性を広く世に訴えて、自分の権利を守るつもりが初めから全くない、とみなされても仕方がないことであろう。

具体的な根拠も伴わない一方的な「言いっぱなし」のスタイルが認められるのは、ネット上だけのことである。それ以外の文書では、すべての主張に具体的かつ客観性のある論拠を示すことなしには、どんな主張も正当と認められることはない。
 
神に対しても、人に対しても、原則は同じだが、自分がどのような権利を持っているのか、きちんと根拠を示して、他者に訴え、公然と自らの願いを正当なものであると主張することをしないのに、その人の言い分が認められることは、決してない。

主張しないということは、最初から、自分の権利を放棄し、自分に有利な判決をあきらめているのと同じことである。

被告らの主張には、依然として、いかなる信憑性のある具体的な根拠も示されておらず、仮に二回目、三回目の期日を開いたとしても、そこで新たな証拠等が提出されて、今以上に有意義な議論が行われる見込みがほとんどない様子は誰にでも分かる。

そこで、彼らの答弁書の分量・内容の薄さが、今後の審理の進行に甚大な影響を与えることはほぼ間違いないと予想される。



 



御霊に導かれて生きる―主を待ち望み、生ける者の地で神の恵みを見る

このところ、すべての手続きが穏やかに進行中である。

何度も書いて来たことだが、訴訟などの手続きは、そのほとんどが一般市民にも弁護士なしで十分に対応できる。必要なのは、専門知識ではなく、ひとかけらの勇気と信仰である。

これらの訴えをことごとく提出した時に、筆者はこの土地で、自分のなすべき役目がほぼ終わりかけており、主は筆者をよそへ移そうと願っておられるという気がしてならなくなった。そのことは、これまで何度か書いて来た通りであるが、まるですべての状況が、ここを出なさいと筆者に語りかけているようだ。

本当はもっと早くそうすべきだったのであり、この土地はずいぶん前から不毛だったのだが、筆者が御心を掴むのに時間がかかったので、脱出の時が遅くなった。それから、最後にひと仕事、残っていた用事があった。

筆者はかつて住居を住み替えさえすれば、生活が快適になるだろうと思っていた時期があった。その頃は、この土地が不毛だなどとは考えておらず、様々な努力で未来が開けると考えていたのである。しかし、快適な住居に住み替えても、問題は去らず、この土地ではすべての努力が無駄に終わると分かった。
 
まるで首都圏の中心部から汚水がどんどん流されて来るように、年々、すべてが悪化して行くだけである。

筆者はこの土地に思い出はあるが、未練はない。そして、この土地の人々の気質が、ソドムとゴモラのように、どんどん悪くなって行っていることをひしひしと肌で感じている。

最近、街の弁護士日記というブログに「滅びるね」という記事が載った。詳細はその記事で読んでいただければ良いが、筆者はこの内容に深く頷くものである。

街はあたかも平和で、真夏の行楽日和が続き、店はバーゲンセールでにぎわっている。筆者も、連休中、偶然に立ち寄った店で、7割引きで洋服を買い、鳥を増やし、将来的な住処を探そうという考えで、土地と家を見て回った。どこかへ引っ越さねばならないという気がしているためだ。

だが、その道中、毎年、楽しんで来た夏の特製のパスタをパスタ屋さんで頼むと、それが今年には、まるで大奮発しないと買えない商品のように、値段が去年よりも随分、高くなっていた。しかし、人々の生活は潤っていない。

街はあたかも平和そうに見える。去年と似たような今年が続いているように見える。商業活動も盛んだ。だが、何かがおかしい。これは去年の続きでは決してない。商品のサイズは縮み、値段は上がり、去年できたことが、今年にはもうできなくなっている。そして、主都では、人々の頭上に刀を振り下ろすような凶悪な法案が次々と通過している。

この平和がソドムとゴモラのように映る理由を端的に言い表すのは難しい。どんなに人々の気質が悪くなり、人間が騙し合い、陥れ合い、殺し合うようになったのか、今ここで長々と説明をするつもりはない。

しかし、大量の汚泥の上に板子一枚で築き上げられたような、このうわべだけの平和が、何よりも滅びの最たる兆候である。この見せかけの平和にも、今やヒビが入り、脆いガラス細工の製品のように、人々の生活の安寧が壊れかけている。

とにかく、首都圏はもうダメなのだ。ここにはいかなる命の息吹きもなく、希望も、発展の見込みもなく、すべてが悪くなって行くだけであり、ここにいてはダメなのだ。何かがおかしいというこの予感が、具体的に何を意味するのかは知らない。巨大地震だとか、津波だとかの自然災害、もしくは戦争だとか、良からぬ出来事が迫っているという感覚なのか、それとも、理念を失った人々の生活が自滅へ向かっているために生じる感覚なのか。
 
筆者は県内にある素敵な家々を見学してみた。ところが、以前には「こんな家に住みたい」と、高嶺の花を見るように、憧れながら心躍らせて見ていた家々が、なぜか心に響いて来なかった。自分の見る目が変わったのか、それとも要求が高くなったのか、なぜそれらが魅力的に映らないのか、理由は分からなかった。しかし、どれもこれも決定打にかけるのだ。たとえただで差し上げますと言われても、筆者はそれを受け取らず、ここには住まないだろうという気がしてならなかった。
 
値段や内装がどうのといった問題ではなく、要するに、ここは筆者のための安住の地ではなく、この土地に家を構えてはならないという御霊の導きだという気がしてならない。

筆者は今、地中に深く埋蔵されたエネルギーを採掘する業者のように、収穫が深く隠されていそうな土地を探している。

あるいは、谷川の流れを慕う鹿のように、清い命の水の流れを、豊かな命の流れを備えた土地を探している。

それは間もなく見えて来るであろう。心の底から命の自由と解放を求める切なる願い求めが極限に達したときに、エクソダスが起きるのである。
 
ところで、仮の宿にいる筆者だが、生活を拡張する過程で、不思議なことがあった。

前にも書いたが、筆者は、最近、我が家の成員である小鳥たちのために、古い鳥かごをみな新調することにして、金色の鳥かごを三つ買って、そこにたくさんの色鮮やかなインコを入れてみた。
 
不思議なことに、一つ目の鳥かごは、到着してから組み立ててみると、屋根が微妙にずれて合わなかった。さらに、そこにはどういうわけかエサ入れの蓋が余計に一つ入っていた。

屋根に不具合があることを売主に書き送ると、早速、予備の屋根を二つ送ります、という返事が来た。なぜ二つも送ってくれるのだろうと不思議に思った。

その後、今度は別な鳥たちのために、同じ鳥かごをもう一つ買った。すると、到着したセットの中にあった餌入れの蓋の一つが、最初から割れていた。しかし、一つ目を注文した時に、蓋が余分に入っていたので、それを使うことが出来た。

その後、今度は別の世代の鳥たちのために、三つ目の同じ鳥かごを注文した。すると、売主から、商品は品切れ中で、取り寄せると時間がかかるが、屋根のない鳥かごなら一つある、値引きするがこれを買うかと問われた。もちろん、その屋根は、筆者に予備として送ったために欠けているのだ。

二つ返事で買いますと答えた。すると売主は本当に値引きしてくれた上、おもちゃも余分につけてくれた。商品に欠陥があるわけではないのにだ。

我が家の祝福された鳥たちである。

ここを出て行くときは、きっと民族大移動のようになることであろう。古い鳥かごを移動用キャリーに変えて、そこに鳥たちを入れ、他の動物たちもみなキャリーに入れる。まるでピクニックに行く時のように可愛らしい色の新しいキャリーだ。そして、彼らを車に乗せて、陽気な音楽をかけて、私たちは車で出発する。地上を何百キロも走って、列島を横断し、あるいは船に乗って、目的地に到達する。ちょっとしたノアの箱舟だ。その後で、車も新調することになるだろうか。むろん、その先に待っている家では、鳥たちのために一室を備えるのである。

いずれにしても、この土地にじわじわと押し寄せて来る滅びの感覚を振り払い、二つに割れた紅海を渡るようにして、筆者はここを脱出して行くだろう。だが、それはドラマの題材となるような出来事ではなく、人に知られないひそやかな歩みで、もの言わぬ我が家の成員だけが知っているひそかなピクニックだ。

どんなにこの土地に暗黒の未来が待っていようと、筆者はそれに巻き込まれて死人に数えられるつもりはなく、神にあって生きている人間として、祝福に満ちた地に達する決意と希望を失わない。

詩編には「命あるものの地で」「生ける者の地で」と訳されている言葉が登場する。私たち信者は、神にあって永遠に生きる者である。むろん、来るべき世においてだけでなく、この地上においても、生ける者なのである。

ただ生ける者であるばかりか、キリストと共に豊かな天の相続財産の共同相続人である。そこで、目には見えないが、御霊の命による我々の統治を待っている新たな地、新たな財産が存在する。私たち自身が探し求めているだけでない。その土地も、物も、財産も、人々も、私たちの現れを心から待ち焦がれて、その面影を探し求めている。だからこそ、主人の命を受けて、イサクのために使用人がリベカを探し出した時のように、求めていたものを見つけた時には、私たちは互いに必ずそれと分かるはずなのだ。

「主よ、あなたの道を示し
 平らな道に導いてください。
 わたしを陥れようとする者がいるのです。
 貪欲な敵にわたしを渡さないでください。
 偽りの証人、不法を言い広める者が
 わたしに逆らって立ちました。

 わたしは信じます
 命あるものの地で主の恵みを見ることを。
 主を待ち望め
 雄々しくあれ、心を強くせよ。
 主を待ち望め。」(詩編27:11-14)

命の御霊の法則に従って支配する―朽ちる卑しいもので蒔きながら、朽ちない高貴な収穫を刈り取る

このところ、筆者は、キリスト者の人生においては、何もかも、信者が信じた通りになるということを、あらゆる機会に確かめさせられている。そして、絶大な権威を持つ主の御名を託された神の子供たちの召しについて考えさせられている。

ほとんどの人たちは、あらゆる瞬間に、自覚せずとも、何かを信じ、何かを事実として受け入れる決定を心の中で下している。たとえば、天気が良ければ、今日は良い日になるだろうと予測するが、TVで沈鬱なニュースが流されたり、どんよりした空を見れば、それに影響されて、今日という日には何も期待できないなどと気落ちしたりする。

信者の場合は、そうした予測が単なる予測で終わらず、心に確信したことが、信仰を通じて働き、事実として成就する。そこで、信者が、どんな状況でも、御言葉に約束されている神の恵みに達するまでは、決してあきらめずに進み続けるのか、それとも、状況に翻弄されて簡単に御言葉に反する現実を抵抗せずに受け入れるのかにより、信者の人生、信者を取り巻く状況は大きく変わる。

神の約束を失わないために、信者が見張り、コントロールせねばならないのは、自分の心である。

「 力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。 」(箴言4:23)

この原則は、信者が自ら主と共に絶え間のない創造行為を行い、常に恵みを天から地に引き下ろす通り良き管となるために、まずは自分自身の心の思いをしっかりと制御しなければならないことを示している。

一言で言えば、神の絶大な祝福を受けるために、信者には口を大きく開けることが求められており、目的をまっすぐに見据え、何が起ころうとも、そこから目を離さず、目的を達するまで進み続ける姿勢が必要となる。恐れに駆られて、自分の口を自分で閉じてしまうことがないよう、自分の心を見張らねばならないのである。

これまで、信者は御霊の命の法則に従って支配する存在である、ということを述べて来た。最近のオリーブ園のオースチンスパークスの連載は、奇しくも、まさに同じテーマを扱っている。

一言で言えば、信者は主の御名により、地上のすべてのものについての決定権・支配権を握っているのであり、さらに来るべき世界においても、これを行使するために、その支配権の使い方をこの地上で学ばなければならないのである。

信者にはアダムに与えられた召しである地上のすべての被造物を管理する権限が、キリストを通して託されている。そこで、信者がキリストの身丈まで成長するとは、信者の内側での信仰の増し加わりを意味し、その増し加わりは、しばしば目に見える結果を伴う。

キリストの身丈にまで成長することは、世で考えられているように、信者がキリスト教組織を拡大するために偉大な福音伝道者となることを意味せず、信者が地上の人生を通して、地上にあるものを、いかに神の御心にかなうように管理し、それによって神の栄光を表すかという度量・力量を指す。

有名なへブル書の文章は、信仰によって、私たちが目に見えない世界から、目に見える結果を引き出すことができるとはっきりと告げている。これはまさに無から有を生み出す創造行為であり、それが信仰の力である。そして、私たちはこのような形で、無から有を果てしなく生み続け、天から相続財産を地上に引き下ろし、増やし、表していかねばならないのである。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブル11:1)

信仰とは、信じる者たちがそれぞれが自らの望みに従って、目に見えない世界で創造行為を行い、自ら望んだ事柄を、事実として実体化させることを保証するものである。

私たちが望んだ事柄が、目に見えない信仰の霊的な世界で働いて、目に見える事実として結実することを、それに先立って保証するものが信仰なのである。

このような信仰のサイクル(無から有の創造)を行うためには、信者は、まず、望む(願う)という行為を行う必要がある。次に、願ったことが、まだ目には見えないうちに、すでにそれが「事実」として自分に約束されており、その成就が約束として保証されていることを、心に固く信じることが必要である。

さらに、その信念に従って、実際に、望んだものを手にするために、これを要求し、獲得するための具体的なアクションに出る必要がある。

筆者から見て、この最後のアクションである「要求する」ということは、非常に重要である。なぜなら、望んだものが実際に成就するまでには、幾多の困難があり、その困難をすべて粉砕・打破して、心に確信した目的にたどり着くために、信者には絶え間なく御言葉の約束に立って、自らに保証されたものを要求し続ける態度が必要だからである。

望んだものにたどり着くまでに、様々な困難につき当たると、たちまち諦めて退却してしまうような姿勢ではダメなのである。

無から有を生み出す行為は、天地を造られた神のなさるわざであるが、それを私たちはキリストの御名を託されていることにより、主と共に自分自身で行う権限を持つ。

御名を託されている信者は、救われた神の子供たちであるだけでなく、神の代理人としての相続人でもある。地上のものの管理を任されているだけでなく、来るべき事柄、来るべき国の管理をも任されている。

だが、信者が未熟なうちは、多くの訓練を経なければならず、その意味で、偉大な相続人であるというよりも、神の僕と呼ばれるべきかも知れない。だが、神の御心は、私たちが僕で居続けることにはない。信者が成熟した暁に、キリストと共に、神の国の跡継ぎと呼ばれるにふさわしい神の息子・娘たちになることにある。

僕、子から成人した息子・娘たちへの成熟は、私たちが神ご自身、キリストご自身とほとんど変わらないまでに絶大な権威を持つ御国の相続人となることを意味している。

しかし、そのはかりしれない意味を理解する者は、この地上には少ないかも知れない。なぜなら、神が人にご自分とほとんど変わらないほどの絶大な権限を与えられたなどということは、人にとってはまことに信じがたい事実だからである。

そして、そのことは、決して人が神と同一になることを意味しない。この世で現人神を名乗り、自らの力で神を乗り越えようとする人々は、決まって悲惨な最期を遂げる。信者にどんなに信仰が増し加わったところで、信者が神ご自身になるわけではない。

とはいえ、それにも関わらず、神は、一人一人の信者に、実際にキリストと同じほど、御子と変わらないまでの高貴な性質を約束しておられ、それに一人一人をあずからせたいと願っておられ、そのためにこそ、惜しみなく御子を私たちにお与えになられたのである。

神は唯一であり、ご自分の栄光を決して他の者にお与えにならない方である。ところが、エステル記において、王がエステルに向かって、もし彼女が願うなら、王国の半分でも与えようと述べたように(王国の半分を与えるとは、王と共に共同統治者になることである)、神はご自分の子供たちに、ご自分と同じような、共同の統治権を与えたいと願っておられる。それほどに、人に大きな期待と権限を託されているのである。

神は、天地創造以来、この目に見える地上の世界を治める役目を、人間に託されたが、それだけでなく、その目に見える世界における支配を、やがて来るべき霊的な世界(新しい天と地―御国)における支配の土台とされようとしているのである。

私たちはこのことをよく理解する必要がある。それによって、どれほど大きな権限を神が人間に付与しようとしておられるか、理解できるからである。

マタイによる福音書の第25章14節から30節までに記されているイエスの語られた有名なタラントのたとえが何を意味するのかは、それによって理解できる。

「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。

早速、五タラントンを預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。同じように、二タラントンを預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。しかし、一タラントンを預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。

さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』

主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』

次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。:主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』

ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った、『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』

主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」

このたとえは、一言で言えば、信仰による創造行為を指している。たとえば、目に見える容姿、身体的特徴、知能などの卑しい体の性質が一人一人異なるように、一人一人の信者に、目に見える形で与えられている資質、才覚、賜物はそれぞれに異なっている。

しかし、それとは別に、それぞれの信者に、からし種一粒のような信仰が、御霊によって与えられている。そこで、この信仰を経由して、信者には今現在、自分が手にしている目に見える賜物を元手に、それを信仰によって何倍にも増やして、天の父なる神に栄光を帰することが求められているのである。

それが「霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。」(ガラテヤ6:8)の意味である。

また、「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。」(Ⅰコリント15:43)という御言葉の意味である。

後者の御言葉は、死者の復活だけに当てはまるのではなく、無から有への創造行為のすべてに当てはまる原則である(死と復活の原則)。

つまり、このことは、この目に見える世界に生きている信者らが、目に見えるごくわずかな取るに足りないものを元手として、それらを目に見えない信仰の世界を経由させることによって、自ら望んでいるものを、目に見えない世界から、目に見える形で呼び出し(生み出し)、それによって、霊的な収穫を得て、天に栄光を帰することを意味する。

タラントのたとえでは、そのような創造行為を盛んに行い、神の栄光を表すに十分な収穫を得た僕だけが、主人の心にかなう者として、よくやったと褒められるのである。

このたとえを読む限り、たとえば、「私はしょせんどこにでもいる取るに足りない人間に過ぎませんから、信仰などあっても、どうせ大それたことなどできるはずがありませんし、そんなことは初めから望んでもいません」などと言い続けている信者は、まさに、与えられた賜物を全く活用せずに地中に埋めて隠した悪い僕と同じであることが分かる。

あるいは、「私は可哀想な人間です。私はこれまで絶えず運命に翻弄されて追い詰められて来た被害者です。こんな風に絶えず傷つけられ、卑しめられている弱い人間に、一体、何ができるでしょう。私を哀れんで下さい」などと言い続けている信者も、同じである。

確かに、人間一人一人には弱さがあり、この地上の体は、有限であり、様々な制約に縛られている、朽ちる卑しい体である。また、私たちが地上で与えられているものも、ちっぽけでささいなものに過ぎないかも知れない。しかし、少年が差し出した二匹の魚と五つのパンを、イエスが祝福して、何倍にも増やされた時と同様に、私たちは、自分に任されている、朽ちる卑しい、弱くちっぽけなごくわずかなものを使って、これを何倍にも増やし、はかりしれない天の祝福を表すことを求められているのである。

たとえば、あなたが今ごくわずかなお金を手にしているとする。そのお金を、あなたは信仰を経由することなく、地上の必要に費やすこともできるが、そうすれば、そのお金はただ消費されてなくなるだけである。

しかし、あなたはそのお金を、信仰を経由して、キリストの栄光のために、地上の必要に費やすことができる。ただ飲み食いし、買い物をして、自分の必要を満たすためだけに使うのであっても、それをキリストのために、天の栄光のために行うならば、そこで費やしたものは、ただ消費されてなくなるのではなく、さらに豊かな収穫を伴って帰って来るのである。

つまり、そこで消費されたお金は決してなくならない。これは本当のことである。(しかし、そうなるためには、真に信仰によって、神の栄光になるように使わなくてはならない。)

だが、あなたがごくわずかなお金しか手に持っていないときに、この原則を試すのには、まさに勇気と信仰が要るだろう。ごくわずかなお金しか持っていない人は、通常、これを使うことをひかえる。貧しい人たちは、そのようにして、外出も、飲食さえも、最小限度にとどめ、自分が持っているごくわずかなものを消費することを何とかして避けようとする。しかし、そのような姿勢は、まさに地中に一タラントを埋めた悪い僕と同じなのである。

もしあなたに信仰があるならば、自分が持っているごくわずかなもの(それはお金だけでなく、あなたの心、体、資質、才覚、あなた自身であるかも知れない)を、恐れの心から、なくならないように自分で握りしめ、使用を制限しようとすることをやめて、大胆にそれを消費するために差し出さねばならない。

(だが、繰り返すが、それは真に信仰によってなされなければならない事柄であって、たとえば宗教指導者など他人からの命令や、他人の期待に応えるためにやってはいけない。)

この原則を試してみることをお勧めする。信仰によって、消費すれば消費するほど、それはすり減ってなくなるどころか、かえって増えるという原則をあなたは見い出すだろう。

前回、私たちが信仰によって求めるものは、主に対するつけ払いのようなものだと書いたが、私たちは、今、地上にうなるほどの財産があって、はてしない土地を所有しているから、自分は豊かだと宣言するのではない。

それらの目に見えるものが、まだ目の前にない時に、来るべき豊かな相続財産が確かに約束されていることを信じて、これを宣言し、そこへ向かって、信仰によって一歩を踏み出すのである。
 
聖書は、主の御名によって求めなさい、と教えている。私たちが何を求めて良く、何を求めてはいけないか、という具体内容は、聖書にはほとんど書かれていない。主を悲しませると明らかに事前に分かっている悪でなければ、私たちは自分に必要なものを、どんなものでも、大胆に御座に進み出て神に希う自由を与えられているのである。文字通り、どんなものでも。

しかし、目に見える保証が目の前にない時に、その望みに向かって一歩を踏み出すことは、まさに信仰のわざである。ほとんどの信者は、目に見えるちっぽけな財布、さらに、自分のちっぽけな狭い心と相談の上、受けられるはずの祝福を自分で拒否する。そして、偉大な主人の僕であって、はかりしれない御国の相続人でありながら、まるで奴隷のように行動し、あらゆる恵みを自分で拒否した挙句、「なぜ神は私には恵みを与えて下さらないのか。なぜ私の人生はこんなに惨めで不幸の連続なのか。神よ、どうして私を憐れんで下さらないのですか」などと神に問うのである。

それが、一タラントを地中に埋めた男のたとえである。しかし、彼は自分で自分の恵みを制限しているのであって、神が彼を制限したわけではない。神は私たちにそれぞれの分に応じて、十分な人間的な個性や、能力をお与え下さり、さらに財産をもお与え下さった。それが今現在、あなたの目にどんなにちっぽけで些細なものに見えたとしても、私たちは、からし種一粒ほどの信仰を経由して、それらの目に見えているものを何倍にも拡大し、神に栄光を帰するためのはかりしれない富を生み出すことが可能なのであり、その成果を現実に期待されているのである。

そこで、あなたがもし真に豊かになりたいと願うならば、自分が持っているものを、なくならないように握りしめて、誰にも触れさせないように金庫に保管するのではなく、豊かに蒔き、散らさなければならない。それは絶え間ない消費活動であって、そのサイクルの中で、初めてあなたは獲得物を増やしていくことができる。

そのようにして信者一人一人が自分に地上で任された目に見えるものを、目に見えない信仰を経由して、どのように管理するか、どのように収穫を得るのか、得られた成果に応じて、来るべき御国における信者一人一人の権限や分が決められて行くのである。
 
このような地上での訓練を通して、最終的に、御国の相続人(神の代理人)にふさわしい権威、尊厳、支配権を持つことが、父なる神が、信者一人一人に期待されている事柄なのである。