忍者ブログ

私ではなくキリストⅢ(東洋からの風の便りII)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならない。

このところのオリーブ園の連載は、クリスチャンにとって相当に厳しい教訓を示したものである。オースチンスパークスはすべてを比喩で語っているが、筆者にはこのことが非常によく分かる。

たとえば、最新の記事を見てみよう、なぜ、主の民には、「主と共に進み続けて主が意図された全き豊かさの中に入ることに失敗した」ということが度々起きるのか。

クリスチャンはキリストの復活の命の満ち満ちた豊かさに入れられるよう定められている。それがクリスチャンの使命である。にも関わらず、なぜ主の民の多くには、神の御心ではない弱々しさ、時ならぬ死、主のためではない困難や、貧しさ、苦しみが満ち溢れているのか。

それは結局、主の民が神以下のもので妥協する(神が望んでおられる水準以下のもので妥協する)ことを繰り返したためである。肉的なもの、地的なものと妥協した結果、神の命ではない、朽ちゆく堕落した命の束縛が主の民にもたらされたのである。

別の言葉で言えば、それはどこかの時点で主の民が、十字架の死と復活の地点にとどまることに失敗し、自分の肉を優先し、自己の利益を得ようと、十字架の装甲の中から外に出てしまったことによる。

筆者自身の経験と確信に立って言えば、それはほとんどの場合、人情を優先すること、そして自分の地上の生活を守ろうとする態度から来る。

キリスト者の人間関係はすべて十字架の死に渡されていなければならないが、そこへ信者が肉的な思い、地的な思いを混ぜ込み、肉親の情愛、年功序列、親しい友人間での優遇や配慮などを公然と持ち込み、それをあたかも信仰によるクリスチャンの交わりであるかのように置き換えて行くと、交わりそのものが腐敗するということが起きる。

また、教会が脅かされ、クリスチャンが義のために立ち上がって戦わなければならない時に、自分の生活の心配を優先させて、立ち上がることを怠る。すると、悪が公認されたも同然に解禁され、教会は自由を取り上げられて、迫害され、証の言葉は取り去られ、主の民はますます貧困になり、苦しめられるようになって行く。

私たちがもし神でない何者かに承認を与えるならば、その者が私たちに対して神のように振る舞い始めるであろう。宗教指導者に権威を与えるならば、その者があなたに対して神のように振る舞うであろうし、この世の仕事を最優先にするならば、その仕事や上司や会社の規則があなたの心を支配するであろう。暴君のように凶暴な人間の脅しの言葉に屈するならば、あなたはその者の意向に従ってしか生きられなくなる。肉的な情愛を交わりの中に持ち込むならば、その肉的関係が許した範囲でしか前に進めなくなる。

クリスチャンが最優先の目的として目を注いだその対象が、その信者にとっての「神」となるのであり、もし私たちがキリストから一瞬でも目を離すならば、あなたの目を逸らさせた何かがあなたの心を支配するようになり、やがて神でないものを神としたことの厳しい報いがあなたの人生に訪れることになる。

多くの信者らが、そのように地的な思いで心を占領された結果、神の教会の中には、いばらや雑草が公然とはびこるようになり、それに対して私たちは非常に厳しい態度を取って、ちょうどレビ人が同胞を剣にかけて殺した時のように、聖絶のものを断ち切り、自分の魂の愛の対象となるものを十字架の死に渡さねばならない瞬間が訪れる。

だが、そのようにして是正が間に合うこともあまり多くはない。多くの団体は、主が望んでおられるのとは違った方向へ一旦、歩き始めると、その後、当初、目指していたものからはますます遠ざかるばかりで、その歩みを止めることも、是正することもできない。

そうなると、その腐敗に気づいた個人が、自らの意志で、神の命の息吹をほぼ完全に失った団体を出て、御言葉に従って、信じる方向へ向かうこと(エクソダス)しか選択肢はなくなる。その方向づけとなるのは、やはり、信者が聖書の御言葉への信仰に深く立ち戻り、どこまでも目に見えないただお一人の神を優先し、地的なすべての利益を後回しにしても、ただ神の御心を満足させることだけを第一に追い求めて生きる強く熱心な心の願い求めしかない。

回復されなければならないのは、信者が自分の生まれながらの命のすべてと引き換えにしてでも、神を知りたいと願う純粋で熱心な信仰の希求であり、代価を払って神の国とその義を第一優先して生きる姿勢である。

そのための道は、多くの場合、一人で歩かねばならない。あなたはちょうど人目を避けてスカルの井戸に水を汲みに来たサマリヤの女のように、人の目からは隠されている細く狭い道を一人で辿ることになろう。それでも、道から迷い出てしまったと気づいたならば、一人で細い道を歩き続けてでも、目的へ戻るべきである。

大勢の人々と連れ立って広い門を通って行ってはいけない。今日、あまりにも多くの信者らは、代価を払うことを厭い、地的な思いで心を占領され、公然と別の道へ逸れてしまい、神の御心に反するものに対して、かつては公然と異議を唱えていた人々でさえ、沈黙へ入りつつあるが、その真似をしてはいけない。なぜなら、その結果として、彼らには思いがけない貧しさと孤独と災いや悲しみが降りかかることになるからである。

クリスチャン生活における豊かさは、私たちがどれだけのものを主のために投資したかによって保証される。そのためにこそ、我々には神の武具が与えられており、これを行使して、敵を駆逐し、新たな領土を獲得することが要求されている。

その法則を知っているのに沈黙し続けている今日の信者らの状態を、筆者は非常に御心に反するものと思って憂慮しており、その沈黙の後に、彼らに訪れる時代がどんなに不自由で暗黒のものとなるのかに思いを馳せずにいられない。

私たちは、小羊の血潮と証の言葉によって、敵の虚偽の圧迫を打ち破る力が与えられているわけだから、神の武具を公然と使用して敵を打ち破り、圧迫を跳ね返し、新たな領土を獲得することをやめてはいけないのである。

だが、代価を払ってその戦いを貫徹する人々があまりにも少ないこと、そして、その道が、人の目には安全に見えても、その実、無用な貧しさと苦しみと死に至る道であることを人々が自覚していないことを憂慮する。一旦、証の言葉を宣べるのをやめて、沈黙に入ると、再び沈黙を破ることがいかに難しくなるかが分かるであろう。

そこで、よくよく心に留めていただきたい、もしあなたが霊的な敵を追い出さないならば、あなたは敵を追い出せなくなるのだと。敵を追い出さないことは、敵と協力しているのと同じなのだと。あなたに課せられた使命は、あなたの信仰が十分に強くなって、あなたが敵としている者たちを力強く追い出す権限を持っていることを十分に自覚し、その権限を実際に行使することである。ところが、それを行使せず、神の御心に反するものと妥協するならば、あなたは御国の後継者としての資格を失いかねない。

なぜなら、私たちが敵としている者は、正統な資格がないのに、神の御国の後継者を詐称して、正統な後継者を追い出そうとしている者たちだからである。彼らの目的は、あなたに御国を継がせないこと、その後継者たる資格を行使させないこと、あなたを神の命の豊かさに入らせないことである。

そのような者を、固く信仰に立って追い出す権限が、クリスチャンに与えられていることを私たちは自覚すべきであって、パウロの言葉を思い出さなければならない。

「ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、”霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。」(ガラテヤ4:28-31)

御国の後継者を詐称している者たちについては、彼らの本質を見抜き、彼らが犯している悪事を公然と主張し、これを明るみに出さなければならない。そうすれば、おそらく、それ以上に何もせずとも、これらの者は恥をこうむり、クリスチャンから手を引いて逃げ去るであろう。私たちの戦いは血肉のものではないので、私たちの武器も、この世のものではないからである。

(毒麦を引き抜く仕事は私たちの仕事ではなく、それは神がなさる仕事である。しかし、毒麦は毒麦たる本質をきちんと露わにするため、これを見抜いて指摘することは十分に可能かつ非常に有益な仕事である。主の民が無用な攻撃を受けている時に、それを見て見ぬふりをすることは、敵の悪事に加担するのと同じである。)

重要なのは、どれほど敵が優勢で勝ち誇っているように見えたとしても、キリストの十字架の勝利に立って、その事実を信仰によって地に引き下ろすまで、決して諦めることなく敵の圧迫に立ち向かうことである。
  
そのようにして敵の虚偽の圧迫に立ち向かわねばならない時に、御言葉を高く掲げて立ち向かうことをせず、人情を優先して妥協するならば、神の教会がますます弱体化することとなり、場合によっては、あなた自身が彼らによって追い出され、御国の後継者たる資格を失うことになるであろう。あなたは神と富とに兼ね仕えることはできないという御言葉の厳しい教訓を思わなければならない。

しかし、主の方を向くならば、すべての覆いは取り除かれて、失われた視力、力も回復される。私たちはどちらへ顔を向けるのか、常に思い起こして、毎日、心を奮い立たせて、勝ち取るべき成果を求めて前進を続けねばならない。前進しないことそれ自体が、後退を意味するのである。
   
オースチンスパークス著、「霊の力の回復」第三章 主と共に進み続ける (2)
 
最初に述べたように、これは主と共に進み続けて主が意図された全き豊かさの中に入ることに失敗したことによります。どこかにためらい、留保、議論、疑問があったのです。どこかで差し控えていたのです。どこかの時点で結果に伴う代価を計算して、抵抗が少ない道を取ってしまったのです。どこかで何らかのささやかな個人的利益を考慮してしまったのです。どこかで完全に滅ぼすことを主が要求されているものを容赦してしまったのです。

主が指さして「これを放棄しなければなりません」と言われたのに、それを放棄しなかったのです。主は一歩踏み出すことを要求されたのに、踏み出さなかったのです。完全に十字架に渡されるべき肉を少しばかり容赦してしまったのです。

そしてこのようなことが起きる時は常に、このように保留し、容赦し、個人的な考慮をするときは常に、失敗が続きます……これが起きる時は常に、ただちに妥協することになります。敵が有利になります。そして神の民の力は弱まって、自分たちが悪の力を解放してしまったことに気づきます。この悪の力は徐々にゆっくりと働いて優勢になり、遂には彼らは自分たちに対する神の御旨よりも劣るものの中に自分たちがいることに気づきます。


 神が意図されたのは豊かさ、絶対的状態、最終的状態、至高性、主権でした。しかし、これらの様々な理由のどれか一つか二つ以上により、彼らは御霊が導かれるように神と共に進み続けることに失敗しました。そしてこの失敗により、彼らは行き詰まっただけでなく、何らかの明確な悪に対して扉を開けてしまいました。そしてその悪が中に入って来て、彼ら自身が主の御名の中で占領すべきだった土地を占領してしまいました。

ですから、彼らはこの標準に達することなく、束縛の中に陥って、最終的に敵を追い出さなかったので最終的に敵を追い出せなくなったことに気づきました。それはこのように作用します。すなわち、それをしないなら、それができなくなるのです。主と共に進み続けないなら常にこうなります。ああ、これらの霊的事実をこのように力強く示すことにより、どうか主がこれを私たちの心にはっきりと分からせて下さいますように……

主と共に進み続けることに関して疑問を持つこと、主が「進め」と言っているのに一瞬でも立ち止まること、私たちのなすべきことを主が私たちに教えて下さっているのに、それ以外の考えが侵入して私たちに影響を及ぼすのを許すことは、極めて危険なことであることを、主が私たちに徹底的に分からせて下さいますように。
PR

御国が来ますように―天地の架け橋としてのキリストにある「新しい人」(9)

「わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(Ⅱコリント10:3-6)

オースチンスパークスのこの度の連載は、士師記をテーマとしており、士師記に重ねて、今日の聖徒らの恐るべき弱さの原因について語るところから始まっている。これからどう展開して行くのか、非常に興味深い内容である。

「霊の力の回復」第一章 十字架についての新たな理解 (3)
 
これを読むとき、私たちの霊的な強さは、神への徹底した従順の欠如から来ることが分かる。従順とは、御言葉に従うことであり、従うためには、御言葉と反するものに決して安易な妥協をしないことが必要となる。

ある人々が教会への迫害者に対する裁判に及び、裁判外で和解したところ、賠償金の支払いを約束したはずの相手が国外へ逃げてしまったという。これなども中途半端な妥協の結果としての苦い教訓であると言えよう。

真に和解できる相手ならば良いが、約束を履行するつもりがないか、履行しない可能性のある相手との和解は禁物である。

キリスト教徒は何事においても争うべきでなく、和解を目指すべきだと言う人々がいる。しかし、この世には決して和解してはならない相手、和解が不可能な相手というものが存在する。妥協することが、福音の根幹すなわち永遠の命に関わる問題へと発展する場合があるのだ。

そのように安易な妥協を繰り返し、手を結んではならない者と妥協することが、どれほど主の民から力を失わせるか、主のための証を失わせるか、士師記における主の民の敗北の積み重ねの中に見て取れると、上記の論説でも示唆されているのではないかと思う。

しかし、妥協してはならない相手とは、この世のあれやこれやの人間というよりも、とどのつまりは、サタンである。

ところが、筆者は、最近、ある信者と話をした際に、「何でもサタンのせいにするのはサタンへの責任転嫁だ」などという発言を聞いて、心から驚愕してしまった。筆者はそれとは全く逆の考え方をしているからである。

筆者の考えを述べておこう、「どんなことでもサタンのせいにしてしすぎることはない」と。

本来、サタンが負うべきはずの重荷を、人類がどれほど不当に転嫁されて苦しんでいることか。御言葉の約束を固く信じてて、これを自分に適用しさえすれば、それが自分の重荷ではなく、サタンの重荷であることにすぐに気づいて、解放される権利があるのに、それを知らずに、悪魔から不当に押しつけられた重荷を自分の力で背負おうとして苦しんでいる信者たちがどれほどいるか。

その重荷は、御言葉に基づいて、悪魔にお返しすれば良いのである。それなのに、御言葉を適用して自由になることができるのに、それに気づかず、わざわざ自分で問題解決をせねばならないと考えて苦しんでいる人は多い。不当な重荷を押しつけられているにも関わらず、まだ自分は負うべき重荷を十分に背負っていないなどと自分を責めているのである。そして、あまつさえ、サタンに責任転嫁してはならないなどと荒唐無稽な発言を大真面目にしているのである。
 
だが、そのように無知でいる兄弟姉妹を嘲笑うこともまた禁物である。以上のようなクリスチャンの弱さを見て、「これだからニッポンキリスト教界は・・・」などと言い始めれば、まさに悪魔の思う壺である。兄弟姉妹を責めるのではなく、彼らの目をくらましているサタンをこそ責めなければならない。

(KFCのように、クリスチャンの無知を高みから見下ろしては嘲笑しているグループなどは、クリスチャンを責めながら、決して悪魔を責めようとしないところに大きな罠がある。カルト被害者救済活動が、被害者の無知を責めて、加害者を無罪放免したのと同じ理屈である。確かに、クリスチャンの弱体化は嘆かわしい問題であるとはいえ、キリスト教徒の無知を責めたり、嘲笑するような人々は、それによって、聖徒らを辱めてサタンを無罪放免する側に回っていることを思い知るべきである。)
 
かつて筆者はある交わりにおいて「サタンを責める」ことの有用性を聞かされ、そこから非常に重要な教訓を学んだと考えている。サタンを責めるなどのことは、初めは筆者にも、まるで意味のないことのように思われた。しかし、その後、不当な重荷を負わされないためには、徹底的にサタンと言い争って、御言葉に固く立って、サタンから来た重荷をサタンに跳ね返すことが必要なのだと学んだ。そして、それが可能なのだと。

もう一度、我々はどんなことでもサタンのせいにしてしすぎということはない、ということを言っておかねばならない。私たちがどれくらい解放されるかは、私たちが不当に負わされている重荷にどれほど気づいて、これをサタンに跳ね返すかにもかかっていると言えよう。筆者が多くの信者に気づいてもらいたいと願わずにいられないことは、サタンだけは、どれほど責めても、責めすぎということはなく、サタンを責めても、いかなる権利侵害も発生せず、八つ当たりにも該当せず、名誉毀損も発生しないことだ。そもそも地獄で永遠の刑罰に定められている存在に対して、私たちがどれほどひどい責め言葉を発したとしても、行き過ぎということはない。サタンには永遠の恥辱がすでに与えられているのだから、今更、回復すべき名誉などあるはずもないことは明白である。

ところが、不思議なことに、キリスト教徒を名乗っている人たちのうちかなりの数が、サタンを憎むこともなく、むしろ、サタンに同情すらしている現状があることを知って、筆者はこれに非常に驚き、嘆かわしい事態だと思っている。

聖書に記されている通り、サタンは「我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者」(黙示12:10)であり、私たちクリスチャンを日夜告発する者である。サタンがどれほど執拗に、私たちにいわれのないことで責任転嫁しては、私たちに有罪を宣告しようと機会を狙っているかは、ゼカリヤ書を見ても分かる。

「 時に主は大祭司ヨシュアが、主の使の前に立ち、サタンがその右に立って、これを訴えているのをわたしに示された。 主はサタンに言われた、「サタンよ、主はあなたを責めるのだ。すなわちエルサレムを選んだ主はあなたを責めるのだ。これは火の中から取り出した燃えさしではないか」。 」(ゼカリヤ3:1-2)

悪魔は大祭司ヨシュアを訴えたように、今日も、聖徒らを訴えている。サタンがどれほど聖徒らに濡れ衣を着せようと、日夜、神の御前で執拗に聖徒らを訴えているかを考えれば、私たちは、そのいわれのない告発から身を守るために、御言葉で武装する必要を否定することはできない。

私たちには、サタンの執拗さを上回るほどの執拗さで、サタンを神に告発することが必要なのであり、そのために、私たちは自分を贖って下さった神の約束に固く立って、御言葉を防衛の盾として自分自身に適用し、証の言葉を述べなければならないのである。

兄弟たちは、小羊の血と
 自分たちの証しの言葉とで、
 彼に打ち勝った。
 彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。」(黙示12:11)

「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、”霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(エフェソ6:10-18)

このように、霊の戦いは何ら荒唐無稽な作り話でもファンタジーでもない。「悪魔の策略」というものがれっきとして存在しており、これに対抗して立つために、主の力によって強められ、神の武具によって武装することが必要なのだと御言葉ははっきり述べている。

これまで当ブログでは、霊の戦いとは、暗闇の軍勢が振りまく嘘に対して、御言葉に立って反論し、激しい論戦を繰り広げ、嘘に打ち勝つことを指すと述べて来た。霊の戦いとは神社に油をまくことでもなければ、悪霊退散の祈祷を行うことでも、訳の分からなお札を家中に張り巡らすことでもない。

私たちの戦いは、悪魔の虚偽に対して、神の御言葉に固く立って反駁し、嘘を打ち破って、人々の思いの中に働く惑わしを打ち破り、この地上において、真理を浸透させて行くことである。
 
むろん、物理的な領域における戦いというものもあるとは思うが、まずもって霊の戦いとは、真理と嘘の間で戦われる激しい攻防戦なのである。そこで、私たちも日常生活において、あらゆる不当な言いがかりや圧迫を受けるであろうが、そもそも自分に非のないことで、悪魔から不当に責任転嫁される筋合いにはないということを、はっきりと言い返さなければならない。どんな些細なことであれ、心に罪悪感をもたらす重荷をきっぱりと拒否して、罪はその真の出所(悪魔)にお返しする必要がある。

その根拠となるものが、小羊の血潮による義認である。これを持って、私たちは自分がどんな事柄においても、誰にも決して責められるべきところのない完全な人だと言えるのである。

しかし、それでもサタンはあることないこと取り上げては、私たちを非難して来るであろうから、私たちはその虚偽に対しては、神に義とされた者として断固立ち向かい、神の開いた法廷の前で、日夜、サタンと対峙して、彼の罪を訴えなければならない。

クリスチャンは望むと望まざるとに関わらず、日夜、サタンから激しい論戦を挑まれ、それに対して御言葉によって勝利することが求められているのである。

ここで注目せねばならないのは、神とサタンが言い争っているのではないということだ。法廷において、対立する陣営として向き合い、論戦を繰り広げているのは、人類(聖徒ら)と悪魔であり、神は両者の言い分に耳を傾け、判決を下す裁判官の立場にある。

神がサタンの言い分に耳を傾けるのかと驚く人があるかも知れないが、ヨブに試練が与えられた時、神は、サタンがまずヨブのような義人でも試練が与えられれば信仰を捨てるだろうと述べた言葉に耳を貸されたことを思い出したい。そして、サタンの提案した挑戦の方法では、決してヨブの信仰を取り去ることができないことを示すために、神はあえてサタンの提案を実行に移すことを許されたのである。

このように、神は今日も、悪魔と信じる者たちの言い分を比較衡量される。しかし、それはサタンに勝利を与えるためではなく、サタンのすべての策略を打ち破って、神の教会が、神の豊かではかりしれない知恵を表し、それによって神に栄光を帰するためである。サタンはあらゆる脅かしを使いさえすれば、信者はみな神への信仰を捨てるものと確信している。しかし、神はそうではないことを知っておられる。知っておられるが、サタンの挑発を跳ね返して、信仰に立ちおおせて神に栄光を帰する仕事を、あえて信者に委ねておられるのである。

神と悪魔との間では、キリストの十字架においてすでに決着が着いているが、被造物の世界において、決着をつけるのは、いわば、私たちの仕事である。

神はキリストの十字架において、私たちを奴隷にしていた罪の債務証書を無効にし、破り捨てられたが、その後、今度は、私たちがサタンへの告発状を書いて、それを携えて、神の御前に立っている。

サタンも被造物であるが、私たちも被造物として、神の創造された世界の主権が誰にあるのかを争っている。悪魔は、それが自分のものだと言う。しかし、私たちはそうでなく、神のものだと言う。私たちは、サタンは不法侵入者であって、サタンが主張している主権は、神から強奪したものでしかないから無効であると訴えている。

「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。」(ヤコブ4:7)

私たちに任されている使命は、キリストの勝利を被造物の世界においても打ち立て、御名の権威を行使して、すべてのものが膝をかがめてイエスは主と告白するよう、神の主権、力、支配をこの地に来たらせることである。そのために、私たちは、サタンによる占拠が不法であり、無効であることを訴えて、立ち退きを迫っているのである。
 
私たちが被造物の世界において、御名の主権を取り戻し、かつ行使して、サタンに立ち退きを迫る根拠となるのは、キリストが十字架において悪魔の支配を打ち破られ、私たちを奴隷として拘束していた罪の債務証書を無効とし、死の力を滅ぼされたことである。

この勝利の証文を振りかざして、私たちは日夜、神の法廷において、サタンの言いがかりに立ち向かい、事実を争っているのである。敗北すれば、サタンの領土が広がる。勝利すれば、キリストの主権による支配が広がる。創世記の冒頭で、人類が蛇に遭遇し、神に従うのか、悪魔に従うのか、決断を迫られた時のように、今日も、私たちは神の御言葉と悪魔の言い分のどちらを信じて従うのか、常に決断を迫られている。

だが、創世記と異なるのは、私たちにはすでに律法を成就されたキリストが共におられ、私たちのために知恵と力となって下さっていることである。
 
繰り返すが、神は確かにキリストの十字架において悪魔に勝利を下されたが、その勝利を行使することは、私たちの日々の生活にかかっている。その勝利をこの地に実際として引き下ろし、適用し、キリストの御名によって支配される領域を拡大することは、私たち自身に任された仕事なのである。

その中で、私たちは、私たちを不当に責めるサタンを責め返し、彼に重荷を跳ね返すことがどれほど必要であるかを知らなければいけない。

繰り返すが、サタンの罪というのは、もはや天に到達するほどにうず高く積みあがっており、その上に何を増し加えたとしても、加えたことにならないほどである。サタンはいわば無限大に罪を犯している存在であって、「サタンを責めるのはお門違い」などということは決してあり得ない。
 
人類が罪を犯して堕落したことも、根本的にはサタンのそそのかしによる。確かにキリスト教徒となり神の子供として受け入れられるには、私たち自身が、罪を悔い改め、神に立ち帰ることが必要であるが、それは一度限り永遠に効力を持つものであり、悔い改めとは、悪魔に向かって永遠に懺悔し続けることではない。

すべての罪の起源は、サタンにあり、サタンこそ責められるべき張本人であることを私たちは忘れるべきではない。それを忘れて、霊的に弱体化したクリスチャンばかりを責め続けていれば、いずれ悪魔に加担する羽目になって行くのは避けられないであろう。
 
聖徒らが弱体化したことの責任も、もとを辿ればすべてサタンにあると言えるのであって、サタンにはいかなる同情も憐憫も無用であり、サタンに責任転嫁してはならないなどと言った主張は、すべて荒唐無稽である。それは私たちに真の敵が誰であるかを忘れさせ、私たちのものではない重荷を私たちに背負い込ませようとするための虚偽の策略であると言えよう。

ところが、このような話を始めると、早速、耳を閉ざしてしまう信徒たちが現れる。彼らは悪魔とは何かしら形而上の存在であって、比喩のようなものだと考えて、それが現実の存在だとは信じておらず、悪魔に立ち向かうという話を聞くと、極端なたとえ話や、冗談のような話を聞かされていると考えて、耳を背けるのである。しかし、悪魔の存在を否定すれば、その分だけ、彼らは自分たちをそそのかし、惑わす存在があることに対して無知となり、抵抗する力がなくなって、無力となるのだと言える。

敵が存在しているにも関わらず、敵などいないと考えて防衛を怠るほどに危険なことはない。攻撃を跳ね返すためには、攻撃の源を知らなければならない。しかし、多くの場合、敵からくる攻撃は、物理的なものというよりも、思想的な攻撃である。敵の要塞というものが存在する。嘘、詭弁、屁理屈、神の知恵に逆らう高慢、思いをくらます惑わしなどの策略が存在し、それらを発する要塞となる拠点も存在する。

しかし、私たちは、その要塞をも御言葉に立脚して、神の知恵により、ことごとく論破して、破壊して行くのである。以下の言葉は、預言者エレミヤだけに述べられた言葉ではない。万民祭司の今日の時代には、クリスチャン一人一人がその役目を担わなければならない召しを告げたものに過ぎない。

いつまでも弱さの中にとどまっていてはならない。神の勇士たちよ。小羊の血潮により、贖われた者として、神の義に固く立って、悪魔の嘘に対抗し、主の偉大な力によって強くなり、敵の要塞を破壊して、すべての思いをとりこにしてキリストに従わせる神の戦士として大胆に前進し、新たな領土を勝ち取りなさい。
 
「主の言葉がわたしに臨んで言う、 「わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生れないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした」。  その時わたしは言った、「ああ、主なる神よ、わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません」。

しかし主はわたしに言われた、「あなたはただ若者にすぎないと言ってはならない。だれにでも、すべてわたしがつかわす人へ行き、あなたに命じることをみな語らなければならない。 彼らを恐れてはならない、わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである」と主は仰せられる。 そして主はみ手を伸べて、わたしの口につけ、主はわたしに言われた、「見よ、わたしの言葉をあなたの口に入れた。 見よ、わたしはきょう、あなたを万民の上と、万国の上に立て、あなたに、あるいは抜き、あるいはこわし、あるいは滅ぼし、あるいは倒し、あるいは建て、あるいは植えさせる」。 」(エレミヤ1:4-10)

私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」


御国が来ますように―天地の架け橋としてのキリストにある「新しい人」(8)

今年も冬が近づいている。このところ、筆者は特注のクリスマスケーキ作りに忙しい。もちろん、これは比喩であって、本当にクリスマスケーキを作っているわけではないのだが。

筆者は今、書類の山に埋もれ、歳末総決算となる書類を書いているところだ。

こうして文書を作ることは、どうやら筆者の生涯で、避けて通れない仕事であるらしい。おそらく、これが筆者の真の仕事なのだろう。しかし、今年はこれまでに輪をかけて大変な作業であった。ブログ記事を書くための精力も吸い取られ、文章を書く力がほとんど残らないほどだ。

しかし、今年はこれまでにない大きな収穫があったと言える。それは、これまでには、ただ筆者一人だけが、孤独の中で懸命に奮闘して、正義や真実を守るための文書を作成して来たのだが、今年は、その文書の作成を、他の人々が手助し、補ってくれたことである。

それによって、筆者はどれほど肩の荷が下りて楽になったか分からない。

筆者は今年が来るまで、真に聡明な人たちに出会って、彼らの手で、筆者のために、胸のすくような文章を書いてもらったことがなかった。もしもそういうことがあったとすれば、推薦状くらいだったであろうか。しかし、推薦状には、胸のすくような内容は一行も書かれておらず、面白い内容もない。

ところが、困難な事件に遭遇した時に、目に見えない「推薦状」を書いてくれる人たちが現れたのだ。彼らは、きっと自分たちがそんな重大な役目を果たしたとは、夢にも思っていないかも知れない。しかし、彼らは、ちょうど痒い所に手が届くように、筆者が言いたくても言えなかった言葉を代弁してくれたのだ。頼んだわけでもないのに、まさに心の中を見通したかのように、今、筆者が最も必要としていることを言い当ててくれたのだ。

こういう文章を読み聞かされるとき、生きていて良かったとでも表現するしかない、何か深い感慨が心の内側に込み上げて来る。自分によく似た人間を見つけ、理解者を得た、という感慨のようなものか。

筆者はこれまで言葉の世界に生きて来たため、常に言葉を通して、相手の人格や、心の内を確かめることに慣れている。多くの人は、外見を見て人を判断するのであろうが、筆者は、まるで目を閉じて、暗闇の中で、声だけを頼りに人を判断するように、人の発する言葉の内容を通して、その人の人柄、生き様を確かめる。

もしかすると、究極的には、初めから最後まで全く互いの姿を見ずとも、言葉さえあれば、かなり深いレベルまで、その人を理解することができるのではないかと思う。学術研究などでは、そのように時代を超えて、姿を見ることもできない人物を深くまで理解する力は助けとなる。
 
しかし、筆者の孤独は、そのような方法で、共通理解に達することのできる人がなかなかいないことであった。耳を澄ましても、賢明かつ品位ある言葉はほとんど聞くことができない。聞こえて来るのは、虐げられている人、苦しんでいる人がいても、これを踏みにじり、罵り、嘲る言葉ばかりで、彼らを救うために、必要なタイミングで、権威ある言葉が発せられるのを聞いたことがなかった。

ところが、そのような状況がどういうわけか、大きく変わって来たのである。こうして聞こえて来る解放の言葉は、筆者にとってはまるで音楽である。

筆者が自由と解放を求めて言葉を発すると、その言葉が、水面に広がる波紋のように、目に見えない形で世界に影響して行き、虚空から、こだまのように言葉が返って来る。

その言葉が、筆者の言葉と同じように、自由と解放を求める言葉であったときの感動は、表現できない。

言葉を介して、同じ考えを共有する者たちの間で、音楽が成立する。言葉と言葉が、まるでフーガのような追いかけっこをしながら、一つの調べになって行き、複数の人間が同時にそれに参加して、一つの音楽を奏で、一つのストーリーを作り上げて行く。黙示録の十四万四千人の歌は、ちょうどそんな感じではないだろうか、と思う。

それはまさに人を解放する福音の調べである。

それは、互いが必死になって自分の言いたいことばかりをしゃべって、互いに押しのけ合うような、攻撃的な言葉ではない。あるいは、自分の方が相手よりすぐれて賢明であることを思い知らせようという意図で発せられる、人を圧倒する言葉ではない。揚げ足取りでもなければ、注意や叱責や非難の言葉でもない。

それは、一つの歌なのである。筆者には考えつくこともできない、非常にすぐれて賢明な言葉が、筆者ではない他人の口から発せられる。ところが、その言葉は、まるで筆者の言葉の続きであるかのように、何の違和感もなく、筆者の言葉となじみ、一つになって行くのである。

こうして、同じ心を持つ人々が集まって、壮大な歌が作り上げられる。

そういう光景に出くわしたとき、筆者は、それまで必死に言葉を紡ぎながら、弱者を守るため、自分を守るために、神の国の権益を、信仰を守るために、文章を書いて来た仕事を、途中で投げ出したくなった。これほど優れた人たちが現れたなら、筆者のすることはもう残ってはいないと、緑の草原に仰向けに寝ころび、そのまま心地よく寝入ってしまいたい気持ちになった。

どう表現すれば良いのかも分からないが、この地上は、隅から隅まで悪人ばかりではなかったのだと、途方もない安堵の念が込み上げて来たのである。

もちろん、だからと言って、筆者は自分のなすべき作業を投げ出したりはしない。そしてもちろん、束の間、少しばかり助けてもらったと言って、誰かを過度に賞賛したり、人間に栄光を帰するつもりもない。

私たちの助け手は神であり、ここで筆者が言及している人々は、あれやこれやの特定の人間ではなく、神がその時、その時に送ってくれる必要な助け手に過ぎない。
 
さて、コメント投稿欄も閉鎖してかなりの月日が経つ。ブログを書いても反響はなくなり、あるのは悪意による中傷ばかりで、真剣な応答が見られなくなって久しい。

かつてあれほど真剣に神を求めて共に歩もうとしていた民は、生活の心配の中で散り散りになり、もはや言葉を交わすこともできない遠い領域にまで去って行った。

各種の抗議文やら、訴えやらは、愚かしい虚偽の中傷を撃退して、自分の権利を守るために、避けては通れない戦いであるから、真剣に書き記す必要があるが、それはあくまで自分の正当な権利を守るために書き記すものであって、それ以外に、何を目的とし、誰のために、何のために、文章を書き続けているのか、誰がそれを読んで理解し、賛同を示すのか、反響もなく、目的がほとんど分からないまでになっていた。

ところが、その作業の最中に、思いもかけないことが起き、筆者が途中まで歌って、疲れて歌いやめようとしていた歌の、続きを歌う人たちが現れたのである。その時、これまでこういう大変な作業を続けて来たことは、決して無駄ではなかったのだと心から感じた。

心理的な負担の大きい文書は、初めからイメージ通りに作れるものではない。芸術作品としての詩や小説を書くことと、論文を書くことは、全く異なる。さらに、論文を書くことと、訴状を書くことは全く異なる。同じ訴えを出すにしても、他人に起きた事件について書くことと、自分の遭遇した事件について書くことは全く種類が異なる。

人は自分にとって重大な意味を持つ出来事であればあるほど、その事件について、冷静に客観的に分析することができなくなる。文才のある人でも、おかしなくらいに、紙の上でしどろもどろに、ろれつが回らなくなる。

そのような大きな心理的負担の伴う作業をこなせるようになるまでには、何年間もの歳月が要るのだ。

その間に、いくつもの試作品を作り上げては、何度も書き直す。最後の最後になって、ようやく人前に出せるような、意味の通る文書が出来上がる。

だが、すでに書いた通り、最も大変なのは、人に認められる立派な形式の伴う文書を書き上げることではなく、心の整理をすることである。自分の遭遇した出来事を客観的に見つめ、自分に起きた事件が、自分のみならず、この社会全体にとって、どういう意味を持つのか、普遍的価値を見つけて、これを引っ張り出して来なければならない。そうして、起きた出来事に意味づけを行うことができた時に初めて、その文章が一人の人間の訴えを超える重みを持ち、万人に対する説得力を持つものとなる。

しかし、そうなるまでに心の整理が必要であり、それには歳月を要する。

かつては司法の場に信仰に関する争いを持ち出すことに反対していた筆者が、司法の場に決着を委ねようとしているのは、皮肉な巡り合わせのようにも感じる。しかし、筆者は、宗教界の中では、決してこのような事件について正しく決着をつけ、これを裁ける人もいなかったであろうと思う。

それは非常に残念なことであり、また、恥ずべき有様なのだが、それにしても、ここには、御子はまず真っ先にユダヤ人の救いのために地上に来られたのに、選民たちの心には彼を受け入れる願いがなく、パウロがユダヤ人に伝道したのに、ユダヤ人に拒絶され、異邦人伝道に回ったと同じようなパラドックスがあるように思う。

筆者は、クリスチャンであるが、ある意味では、かなり長い年月、この世に足をつけて生きて来た人間であり、宗教界で純粋培養された信者ではない。その筆者が、若い頃から様々な文書を作り続けて来た人間であることも、決して偶然ではあるまいと考える。

司法の場での争いの形を取っているが、その本質は、異端反駁であると筆者は感じている。

さて、カルト被害者救済活動は、これまでキリスト教界の争いを、先手を打って、司法の場に持ち出すことで、クリスチャンを脅かして来た。多くの人々は、訴訟で訴えられること怖さに、この運動の支持者から恫喝されると、たちまち反対して声を上げることができなくなった。

しかし、筆者は今、その恫喝の手段を、敵から奪ったのである。

やたら裁判という言葉を振りかざしては、クリスチャンを脅し、罪に定めようとして来た勢力の手から、司法という手段そのものを取り返したのだ。

すると呆れることに、かつてはあれほど裁判、裁判と叫んで、牧師たちやクリスチャンを非難していた人たちが、自分ではまともな文書一枚、書けなかったことが判明した。

何ということであろうか。一体、教界の中には、なぜこのようなこけおどしのレベルの恫喝に、毅然と立ち向かえる人が、一人もいなかったのであろうか。

筆者は今、自分が行っていることを、ハマンを訴えた王妃エステルの所業になぞらえるが、果たして、教界にはこの出来事の重さを理解している人々がいるのだろうかと思う。

人里に熊が下りてくれば、捕獲せねばならない。そうでなければ、里に住む人々の生活が脅かされる。熊が可哀想だなどと言っている場合ではない。小熊くらいなら、まだ命は助けられるかも知れないが、野生の親熊を野放しにしておくわけにはいかない。動物愛護法も、人間のために作られたものであって、人間を犠牲にしてまで、野生動物を助けることを目的とはしていない。人里において、野生の熊と人との生活は併存し得ない。

同様に、クリスチャンは、暗闇の勢力に対しては毅然と立ち向かわなければならない。そして、これを勇敢に撃退して、自分たちの生活の安全を守らなくてはならない。ところが、今やどうだろうか。人里には野生の熊が溢れ、人々はやられ放題、それどころか、人里にいる人間が、普段から戦争し、憎み合い、殺し合っている有様なので、彼らは熊を見ても、これを排除するどころか、どうやって熊をうまく利用して、嫌いな人間を始末できるかなどと考えている有様である。

彼らは、内心、自分の憎む同胞をかみ殺してくれた熊には、勲章を授けたいほどなのだが、大っぴらにそうとは言えないので、動物愛護法などを持ち出して、脅かされ、傷つけられ、殺された熊のために涙を注ぎ、塚を作っている。それでいながら、熊にかみ殺され、傷つけられた人間のためには一滴の涙も流さない。

このようなものは、「人里」の生活ではないだろう。このようなものは、人間の暮らしではない。人間が獣のレベルにまで堕ちてしまったのだ。ここまで堕落した倫理道徳を、どうやって引き上げ、回復できるのか。こんな「人里」を、そもそも「熊の脅威」から守る必要が本当にあるのか。

しかし、それでも、教会は、神がご自分の瞳のように愛される、神の聖なる花嫁なのである。ゴリアテが大暴れして、神を穢す言葉を吐いているときに、神はこの地上をあまねくご覧になって、そこに誰か一人でも、神の御名の永遠に揺るぎない権威であることを確信して、信仰によって、勇敢にゴリアテに立ち向かう人間がいないかを探し出される。そうして選び出されて来るダビデは、いつの時代にも、まだうら若い未熟者で、誰から見ても勇士と呼ばれるような偉大な存在ではない――。

今日、キリスト教界がどれほど弱体化したか、どれほど倫理を失ったか、どのような恐ろしい内紛に陥ったか、そんなことは、神がご自分の花嫁たる教会――エクレシアーーをご覧になられる際には、全く関係ない事柄なのである。

そういう腐敗堕落にばかり目を留めてはいけない。神はバアルに膝をかがめない勇者たちを、いつでもどこからでも選び出して来ることがおできになる。

私たちは、御名を掲げる主の民であるから、その中から、神の国の権益のために、主の民の権益を守るために、暗闇の勢力に対して、勇敢に立ち向かう新しい人となる必要がある。

敵が手にしている武器を奪還し、敵の名の記された旗を引き下ろさなければならないのだ。

筆者は本年になってから、その手法を少しずつ学んだ。そのおかげで、今や敵軍は、自分たちの名を冠した旗を恥ずべきもののように降ろし始め、遁走態勢に入っている。

私たちは、彼らが私たちの名を奪い、私たちの存在を奪って、歴史を彼らにとってのみ都合よく書き変え、私たちの存在を地上から消し去ろうとしたことに対し、全力で抵抗し、敵のやり方を逆にして、彼らに攻撃をしかけ、彼らの名を奪い取って消し去り、彼らの武器を奪い取って我がものとし、彼らの改ざんした歴史を、我々にとっての真の歴史(His-story)に戻すために、勇敢に戦ったのである。

私たちは常に、我々人間の目から見た歴史ではなく、神がこの地上をどうご覧になるかという歴史を、追求し続けている。

神が御子の命と引き換えにしてまで贖われたのは、野生の熊ではなかった。神は悪魔と暗闇の勢力を惜しまれたがゆえに、地上に御子を送られたのではない。神は人間を惜しまれ、人間を救うために、ご自分の独り子を十字架にかけられたのである。

今日、神がご自分の民と認識しておられ、瞳のように守っておられるのは、十字架に敵対し、贖いを否定し、神を穢す言葉を吐き続けている旧創造ではない。

私たちは、自分が、神が御子の命と引き換えにしてまで贖われた民であることを自覚し、キリストの血の代価が支払われた民であることを自覚し、その価値をもっと惜しまなければならない。そして、自分が何者であるかをきちんと自覚して、その尊厳を守らなければならない。

私たちは、くつわをかけて引き回さなければ言うことを聞かない愚かな家畜や、捕獲されるべき荒々しい野獣ではなく、上品で、つつましく、教養があって、礼儀正しく、何が正義であり、真実であるかをわきまえ、御心に忠実に従うことのできる花嫁であり、御霊に導かれる民なのである。

しかし、御霊に導かれる民としての品格が、今、主の民の中にどれほど残っているであろうか?

いずれにしても、荒くれ者たちは、人里から去って行かねばならない。そうして、荒れ果てた庭は、花々が咲き、人々が行き交い、小鳥たちが歌う楽しい園が回復されなければならない。

筆者自身も、危ういところまでは行ったが、少なくとも、自分の名を敵に奪われることなく、取り返すことはできた。たとえ賛同する者が誰もおらずとも、これは神の教会を、暗闇の勢力から奪還し、キリストの花嫁としての尊厳を回復するために、なくてはならない戦いなのであり、主の民が、命をかけて戦い通さなければならない信仰の歩みの一歩なのである。

筆者は2009年に「キリストの十字架以外に救いはない!」と題する記事を書き、カルト被害者救済活動のむなしいことを訴えたが、その後、もしもその筆者が、自分の掲げていた御名の記された旗をあっさり降ろしてしまえば、筆者の証しは、本物ではなかったことになろう。

それでは、筆者の救いも、本物ではなかったことになろう。

そうなれば、筆者の名は、インターネット上だけでなく、命の書からも抹消されることであろう。人前で神を拒む人間を、神も拒まれるのだから。

そこで、筆者は、神が今日も生きて力強く働かれ、ご自分の愛する民を力強く守って下さり、ご自分の愛する子供たちを、この世の終わりまで見捨てず、共にいて下さり、助け、支えて下さることを生きて証明せねばならない。

しかし、その戦いの中で、いわゆるクリスチャンを名乗る人々ではなくて、この世の信仰を持たない人々が果たした役割のことをもきっと忘れないだろう。

だが、信仰があるかないかに関係なく、私たちは、すべてのものがひざをかがめ、キリストに服従する時が来るまで、この地上に、御名の権威を記した旗を立てるために進軍している。すべての目に見えるものが、目に見えないキリストの御名に服するときまで、十字架を貫き通すことが、私たちの戦いなのである。

その中で、私たちは、ただ自分の生存を保ち、支えるというだけではなく、主の民の霊的状態を整え、貧しく、荒廃した今日の民の状態を、回復するという役割を与えられている。

それが今日の祭司としての役目である。熊の脅威が取り除かれれば、人里の復興という課題が待ち構えている。しかし、それとて、私たち一人一人が、キリストにある新しい人として、命の御霊の路線をどう生きるかにかかっている。

キリストの花嫁たる教会の回復は、私たちの内なる尊厳の回復と密接な関係がある。落胆することはない――試練が大きければ大きいほど、その中で与えられる慰め、栄光も大きいからだ。どのような試練があろうとも、最後まで御言葉に固く立って信仰を守り通した者には、命の栄冠が待ち受けている。御霊の内なる油塗りが、私たちの心の内側に、高貴な花嫁としての人格を形造ってくれるだろう。

試練が、一人一人の信者の内側に、キリストの人格を、痛みと共に彫り刻んで行く。しかし、まさにその彫刻がなされている最中には、私たちは痛みしか感じず、それが一体、何のためであるのか、どのような実を結ぶのか、理解もできないことであろう。しかし、すべてを忍び通した後には、思いもかけない栄光が待ち受けていることと思う。それは、私たちの内側に、主の花嫁にふさわしい高貴な人格が造られることである。

外面の回復ではなく、内面の回復という新たな局面に、私たちは差しかかっている。このことについてはまた追って書いていきたい。


御国が来ますように―天地の架け橋としてのキリストにある「新しい人」(7)

オリーブ園のオースチンスパークスの記事「「私たちのすべてなるキリスト」 第九章 子たる身分の意味と価値(3)」が秀逸なので、この一連の論説を続けて読むことをお勧めする。

そこには、御子が地上にあって、どのように御父から命の供給を受け、権威と尊厳を持って生きられたか、その具体的な方法が記されている。それは、今日、私たちが地上にあって御子と同じように使用できる法則である。

私たちは御霊にあって、その命からすべてを引き出す方法を知る必要がある。これは魔法ではなく、子たる身分に基づいて、神から私たちに与えられた恵みである。

私たちは、キリストの復活の命の中から、日々の糧、人々と関わる際の知恵、この世を圧倒的に超える権威、目に見えない高い霊的な地位を供給されるのである。

キリスト者として歩むに連れて、私たちはいかなる人間関係の中においても、自分が支配的・優越的地位に立たなければならないことが分かって来るだろう。それがなければ、私たちに与えられた自由は発揮されることがないし、私たちの霊的権威が地上に及ぼされることもない。

とはいえ、私たちはこの地上において、王でもなく、支配者でも、権威者でもない。むしろ、何の肩書も持たない寄る辺のない民のように見えることであろう。

しかし、その弱く貧しい民が、キリストにあって、彼と共に、地上のすべてのものを足の下にする圧倒的な力と権威を授けられているのである。それはこの世の経済、物流、そして人間関係にももちろん適用される。

私たちが地上のものに心惹かれ、それに心を奪われてしまうと、それが人間であっても、物質であっても、その目に見えるものが私たちの心を支配することになる。しかし、正常な秩序は、それとは逆に、私たちがすべての地上のものを霊的に支配することにある。

私たちが心に抱いている永遠の望み――私たちの信じているただお一人の神、その御名が、すべての目に見えるものにまさる権威として掲げられれ、万物が、私たちの存在を通して、キリストに服従することが、神が望んでおられる正しい秩序なのである。

従って、それゆえに、内にキリストを持ち運んでいる私たちは、地上のどんなものに屈服してもならず、地上の支配よりも下に置かれてはならず、この世の経済や、人の思惑や、この地上に立てられた権威にまさる、これらを霊的に支配することのできる目に見えない霊的権威を与えられているのであって、その霊的権威を行使することによって、初めてこの地上に、御国の秩序を引き下ろすことができる。

私たちは、御子が地上におられた時にそうであられたと同様、この世のすべての物理法則、事物、人々を超越して、霊的に支配する立場に立つことができるのであり、また、そうしなければならない。

それは本当に、御子がそうであられたのと同じ、この世に渦巻く諸々の支配や思惑に巻き込まれて翻弄されることのない、この世の触れることのできない、貴い、崇高な天的な地位である。天の御座から、地上のすべてのものを統べ治める立場である。

その高い地位は、様々な試練の中で、信仰を貫き通す時に、初めてはっきりと姿を現して来る。いわば、エジプトに売られた日の幼いヨセフが、生長して、ファラオに次ぐエジプトの宰相となり、知恵と権威を持ってエジプトを治める者となって、現れて来るような具合である。

キリスト者が人生で遭遇するすべての出来事は、こうして本人の霊的成長に合わせて、スケールが拡大して行く。戦いのスケールも、霊的成長に合わせて拡大して行く。

その中で、私たちはこの世を超える圧倒的な権威を行使する術を学ぶようになるが、しかし、それは、霊的成長に伴う、霊的権威の増し加わりであって、必ずしも、私たちがこの世で、人々がその名を聞いてすぐにひざまずくような、何か圧倒的に偉大な権威を手にすることを意味しない。

私たちの権威は、地上の肩書、地位ではなく、御名に由来するものである。

こうして、御名の権威が私たちを通して地上に現れ出るために、この世の経済、物流、人の心、物事の有様、といったすべてのものを、私たちは、キリストにあって、私たちの意志の下に従属させ、屈服させていく方法を学ぶ必要がある。

それは激しい支配権の争奪戦の中で、十字架を貫き通すことで初めて可能となるが、このように、あらゆる試練の中で、信仰による確信を捨てずに進んで行くならば、不思議と、物事も、人々も、諸条件も、いずれ私たちの意志の下に服するようになるのである。

私たちの意志の下に、と言っても、私たちが御言葉に服従し、キリストにあって生きている以上、それは私たちの存在を通して、地上の事物が、御名の権威に服することを意味する。

こうして、キリスト者は、地上の諸原則をすべて足の下に従える方法を学ばなければならない。それができるようになって初めて、キリストにある新しい人――地上の堕落に巻き込まれ、触れられることのない、真に高貴な人としての霊的地位が現れ出て来ると言えよう。

異教のシャーマンや、修行僧も、物理法則を従える方法を熱心に研究している。しかし、私たちは、そういう修行を通して自己改造するのではなく、私たちの内側に与えられている新しい命の法則に従って自然に生きることにより、この世を超越する新しい法則の中を生きる方法を身につけるのである。

ただし、私たちは肉体的な修行の中を通りはしないが、日々の十字架は負う必要がある。この痛みに満ちた教訓なくして、決して私たちがヨセフのような崇高な地位に立つことはできない。

キリスト者は、神にあって自分に与えられたこの新しい命の力を開発し、知らなければならない。キリストの復活の命の中に、神がどれほど人を愛され、恵まれ、人に崇高で重い使命を託されたか、なぜ、どのような目的で、神は人を創造されたのか、その答えが凝縮されて込められている。

アダムが創造された時、神はアダムに地を治めるように求められたが、その使命は、今日、キリストを通して、キリストにあって生きる私たちに託されている。私たちはこの新たな法則――御国の到来を、人々に告げ知らせる者であり、その新しい法則を実際にこの地上にもたらし、霊的収穫をもたらさなければならない。そうして行くときに、その支配権が、不思議な形で、この世の事物だでなく、多くの人々の心にも及んでいる様子を見ることができるだろう。


神の国とその義を第一として生きるならば、地上の必要をはるかに超えて、願うものはすべて添えて与えられる。(2)

さて、今月の終わり頃までに、事件が一つの山場を迎えることになる。今また大量の書類に埋もれ、準備作業の最中であるが、この正念場を超えれば、事件はしかるべき経過を辿り、終結へ向かう。悪人はふさわしい裁きを待つことになる。

今年も約半分ほどが過ぎてから、様々な手続きが以前の何倍もスムーズに進むようになった。そのおかげで、今、筆者の中では、日本の男たちに対する信頼が、随分と回復している。

この事件を通して、筆者はこれまでの人生で関わったことのない様々な職業の人たちに関わり、その中で、信念を貫き通すことの価値を学んだ。かつ、信念を持って仕事をしている誠意ある人たちに出会い、大いに助けられた。

たとえば、昼食も取らずに、事件のために電話を受け続けてくれた検察官、休日出勤までして捜査している警察官、答えに窮する質問が向けられたときに、とっさに答えてくれた裁判官、何度も裁判所に足を運ぶ中で、配慮を示してくれた書記官、それから、融通をきかせてくれた民間企業の人々・・・。一つ一つは実に些細な事柄でしかないが、それらが絶妙に相合わさって、事件の進展を大いに助けている。
 
民主党政権が自壊して、安倍自民党政権に戻って以来、日本は理念においても、経済においても、落ちぶれるばかりで、世界の四流国へと沈没しつつあるように見受けられるが、それでも、その中にあって、弱い立場にある者をかばい、正義を曲げず、真実を曲げない人間が、確かに存在していることが分かった。

そのような人々の仕事ぶりは、男であれ、女であれ、すがすがしいものであると感じずにいられない。そして、彼らの仕事を見るにつけても、やはり、筆者は筆者として、自分の信念を貫かねばならないと思う。

筆者はこれまで、何事であれ、命の息吹の感じられる方向性をひたすら探し求めて進んで来た。砂漠の中で貴重なオアシスを探し出すように、真実と誠実さの感じられる、清い命の流れが見いだせる方向だけに向かって進み、人々と接する時にも、嘘や不正がなく、真実性の感じられる主張を行う人々を探し当てて来た。そして、そういう人々に、この世の重要な用事を託し、彼らと一緒に進んできた。そうして真実、公正、正義を探し求めて生きることこそ、無駄な害を受けずに平安に生きるために死活的重要性を持つものであることを今も疑わない。

だが、そうして行く中で、かつて筆者が交わりを持ちたいと望んでいたキリスト教の信仰を持つ人々は、徹底的に筆者の周りから退けられた。これは実に逆説的な現象である。

筆者は今でも、聖書に基づくキリスト教の信仰を何より第一として生きているが、その筆者を助け、支えてくれたほとんどすべての人々は、信仰とは関係のない、この世の人々だったのである。

しかし、彼らは良識ある人々で、筆者の信仰をとてもよく理解してくれた。あるいは、理解しようと努めてくれた。たとえば、筆者は、裁判が始まるまで、裁判所とは、庶民には縁遠い場所で、裁判官というものは、ただ原告と被告の主張を見比べて、どちらに分があるかを、冷徹な科学者のようにはかり、無味乾燥で機械的な判決文を書くものと思っていたが、事実は全くそうではなかった。

むろん、すべての裁判官が良心的な人間であるわけではない。しかし、裁判官の職務の基本は、法的概念に基づいて弱者を救済することにあり、人々の訴えに真摯に耳を傾け、訴えられた被害を、自分自身の内面を通過させてその重さを理解した上で、それに対してどのような補償が望ましいかを考えることにある。

従って、裁判官は、宗教や信仰を背景にした訴えであっても、その思想的背景を無視して進むわけにはいかないのだ。自分とは異なる信仰を持つ人々の世界観をも理解し、人としての理解力、洞察力、共感能力、バランスの取れたものの見方をフル活用して、事件の真相をとらえねばならない。

それは検察、警察であれ同じである。信仰がないからと言って、信仰者の訴えを無碍に扱うことはできない。むしろ、世人は、立場は違えど、信仰を持つ人々に対して、一種の尊敬のような気持ちを持っていると言えよう。そのことが、膨大な分量の書面をもって方々に働きかけているうちに、はっきりと分かって来たのである。
 
さて、この10月に筆者は170頁に上る準備書面を用意したが、これが事件の流れを大きく変える一つのきっかけであったとみなしている。そもそもこの反駁を書き上げること自体、まさに天の采配がなければできないことだったからである。

このことの大きさを理解してもらうために、ある質問を読者に向けてみよう。

仮にあなたのもとに、弁護士が大きな文字で書いた12頁の訴状や準備書面が届いたとしよう。あなたが被告として、これに応じるとすれば、この書面に反駁するのに、どのくらいの時間を要すると思うか? 本人訴訟で応じる場合を想定しての質問である。

筆者の答えは、12頁の文書に反駁するために、最低でも1週間以上の作業が必要になるというものだ。しかも、これはただ反駁の書面を準備するためだけにかかる時間を指すのであって、事実の確認や、調査の時間は含まれない。

1週間、毎日、朝から晩までパソコンに向かい、ぶっ通しで反論を書き、ようやく12頁の書面に対する相応の反駁ができ上がるのである。その分量は、軽く30頁を超え、場合によっては、50頁以上に及ぶ。なぜなら、その文書の約半分は、相手方が記した内容の単なる引用であって、あなた自身の反論ではないからである。

つまり、誰かの主張に反駁するためには、その主張の倍以上の分量の書面が必要になるということだ。しかも、送られて来るのは、紙媒体であって、電子データではない。引用部分はすべて手打ちでデータ化する必要がある。その中には、日本語の文章だけでなく、URLや、複雑な記号、図形、あるいは外国語でえさえ、含まれているかも知れない。興味のない、読みたくない文章も、飛ばすわけにいかない。どんなに下らない愚かしい主張にも、きめ細やかに目を通し、きちんと反駁せねばならない。

多くの場合、訴訟においては、次回期日までに与えられる時間は1ヶ月以内である。先送りできるとしても、せいぜい1回か2回程度だ。だが、一般市民であるあなたには、弁護士のように、朝から晩までパソコンに向かう余裕があるはずもない。従って、弁護士に依頼するだけの資金がなければ、仕事を終えて帰宅してから、眠い目をこすりつつ、自分でその作業をするしかない。

こうした環境において、仮にあなたのもとに170頁にのぼる訴状や準備書面が届いたら、それに反駁するためにかかる時間は、一体、どれほどであろうか?

筆者の答えは、何カ月かかっても、一人で反論するのは無理だというものである。これは勇気とか決意とか覚悟の問題ではない。

170頁の文書に反駁するためには、300頁以上の分量が必要となる。しかし、文系の学術論文を例に取るならば、300頁の学術論文を書き上げるためには、昼夜を問わず、半年以上、ぶっ通しで作業する必要がある。大抵は、調査のために1~2年以上の月日が投入される。博士論文の場合は、6年程度の月日をかけて完成することも稀でない。半年で書き上げられれば、天才の領域と言えるかも知れない。

訴訟は論文ではないが、命と生活がかかっており、そもそも心理的に向き合いたくない問題がテーマとなっている点で、論文とはまた違った困難さと切迫性がある。その上、公開されている裁判ならば、傍聴も許されるため、あなた自身が、被告として一般市民の前に見世物とされる可能性がある。その上、あなたの書いた書面も、いついつまでも記録として保存され、あなたの死後になっても、まだ市民に閲覧請求され、内容が知れ渡る可能性もある。

あなたがこの裁判に臨むに当たり、どんなに仕事に追われ、書面を書く暇がなく、心理的に追い詰められていたと弁明したくても、その時には、誰もそんな弁明は聞いてくれない。あなた自身の代わりに、ただ書面だけが残り、要するに、こんな愚かしい主張しか出せない人間だったのか、それなのになぜ身の程知らずな挑発行為に及んだのかと、死後になって指摘されることが、果たして望ましいことであろうか。

そのような危険をも考慮した上で、あなたは膨大な分量の資料をデータ化し、内容を把握しながら、信憑性のある反駁を練り上げて行かねばならない。さらに、自分の主張を肉付けするために、有利な証拠を新たに探して来るのも、あなたの仕事である。

多分、そういう作業には、大半の人々が耐えられないことと思う。つまり、170頁もの文書で訴えられたとき、これにきちんとした根拠を示して自分一人の力だけで反論できるような人は、一般市民の中には、ほとんどいないのだ。

それでは、大金を積んで弁護士に依頼すれば、作業が簡略化できるかと言えば、それもあまりない。そもそも弁護士は当事者でないので、事件の詳しい事情を知らず、弁護士の作る書面には、必ずどこかに穴があると言って良い。
 
弁護士は、体裁だけは反論するであろうが、事の真相を知らないため、ほとんどの場合、正義などどうでも良く、詭弁を弄してでも良いから、形式だけを整えることが主要な仕事である。そこで、弁護士が書いた内容は、格好だけはついているかも知れないが、それで本当に勝てるかどうかは全く分からない。

勝つためには、あなた自身が、相手の主張の弱点をよく理解し、それに対する有効な反論の仕方を弁護士に伝えなければならないが、それができるくらいなら、初めから弁護士になど依頼する必要がないであろう。

そういうわけで、知的・経済的に、さしたる力を持たない一般市民が、インターネットで、軽はずみな短いコメントで他者を誹謗中傷したりしていれば、膨大な証拠資料と共に訴訟で訴えられ、それだけで一貫の終わりとなる危険がある。余命ブログの事件が良い例であるが、他者のヘイトスピーチに煽られて、分不相応な思い上がりに陥り、何の落度もない知識人らに、いわれなき憎悪と攻撃を向ければ、厳しい報いが待ち受けているだけである。

世間は、スラップ訴訟とは高額訴訟のことだと思っているようだが、請求金額だけが訴訟のインパクトなのではない。文書の内容、量もまた、非常に大きな衝撃力となりうる武器なのである。

もちろん、スラップ訴訟に限らず、あらゆる訴訟において、限られた時間内に、相手方よりも圧倒的に優位に立つ力がなければ、勝ち目はない。だが、原告であれ、被告であれ、一体、どうして一般市民がそんな巨大な負担に耐えられようか?

しかし、神が味方して下さるならば、それが可能となるのである。あなたは圧倒的な優位に置かれ、ダイナマイトのような武器を手にすることになる。神は、ご自分の権益にとって真に重要な戦いが起きれば、必ず、戦いに耐えうるすべての条件を用意して下さる。

その時、あなたは自分一人ではとてもこなせないような、とてつもない作業量を遂行することができる。ただ勝利するだけでなく、「勝ち得て余りがある」と言えるだけの作業をこなせるのである。

このように、筆者の遭遇した事件では、信仰の戦いを、信念を持って戦い通していると、ある時点で、狭い通路を抜け出し、広い場所に立たされる時がやって来た。天高く引き上げられて、余計な重荷から解放されて、広々と物事全体を俯瞰できる場所に置かれたと言って良いかもしれない。

このように、激しい戦いの中をも、勇気と信念を持って進んで行くとき、追い詰められるどころか、逆に心に余裕が生まれる。そして、自分の心の決意にふさわしい協力者たちにも、巡り合うことができる。それは、自分が信じて歩んできた道にふさわしい同志たちを見つけたという満足感の伴う貴重な出会いである。

このように、良い人たちに巡り合うためには、自分自身が生長せねばならない。日々、必要な代価を払って、自分の十字架を負い、掲げている旗を降ろすことなく、勇気を持って進んで行かねばならない。

そのとき、初めて、その歩みを喜んでサポートしてくれる人たちが現れる。女性だから、自分の主張をしてはいけないとか、男性の面子を立てるために、男性だけを優位に置いて、その下で仕えねばならないなどのことは決してない。むしろ、女性であろうと、男性であろうと、信念のために自分の命のすべてをかけて勇敢に進むならば、その時、周りの人々は自然と、その主張を理解し、助けてくれるようになる。もしもあなたが女性ならば、屈強で頼もしい男性たちが周りを取り囲み、ちゃんと目的地に着けるようにガードしてくれるだろう。

このように、自分の信念にどれだけ忠実に生きるかが、人の人生の価値だけでなく、人間関係をも決めると筆者はみなしている。人が自分のしかるべき立ち位置に立つ時、初めて、価値ある協力者が得られ、人間関係がことごとく正常化されて行く。

そういうわけで、真に魅力的な人々に巡り合い、そういう人々に取り囲まれて生きたいならば、そのためにも、私たちは、高い望みを持たなければならない。何よりも、神の国とその義を第一として生きるべきである。そうすれば、物質的な必要にも、人間的な支援にも、仕事にも、人との出会いにも、物事の巡り合わせや、経済にも、何一つ欠けることなく、すべてが天から供給されて満たされるだろう。
 
その時、初めて、どんなに困難な戦いが起ころうとも、神が味方して下さることによって、勝利をおさめる秘訣が分かる。そうして多くの勝利を勝ち取った後で、世を去る時にも、胸を張って、これで良かったと言える悔いのない人生を歩めることだろう。,主の御名は誉むべきかな。

(ちなみに、フィナーレとして用意されている書面は、民事訴訟に関するものではない。もちろん、裁判資料も追加するが、それとは別に、新たに大きなお土産が用意されている。クリスマスに向けて、苺やホイップクリームをふんだんにちりばめた巨大なケーキを作り上げているところだと言って良いかも知れない。)